2024年09月

智恵子を主人公とする一人芝居です。

平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』

期 日 : 2024年10月10日(木)~10月14日(月)
会 場 : 雑遊 新宿区新宿3-8-8 新宿O・Tビル
時 間 : 10月10日(木)・10月11日(金) 19:00~
      10月12日(土)・10月13日(日) 14:00~/18:00~
      10月14日(月) 12:00~
料 金 : 10月10日(木)のみ3000円 他は一般 4000円 U25 3000円

〈出演〉 平体まひろ
〈スタッフ〉
演出:下平慶祐  舞台監督:齋藤美由紀  音響:丸田裕也  音響オペレーター:池田優美
照明:阪口美和  舞台美術:竹邊奈津子  当日制作:岡田珠美、渋谷真樹子
宣伝美術:平体まひろ  企画・制作:プテラノドン

 「平体まひろ 一人芝居『売り言葉』」が10月10日から14日まで東京・雑遊にて上演される。
 「売り言葉」は、野田秀樹が執筆した戯曲で、2002年に大竹しのぶの一人芝居として上演されたもの。彫刻家で詩人の高村光太郎の妻・智恵子の半生をモデルに描かれた作品だ。
 約1年弱舞台活動を休止していた平体まひろは本作に向けて「一年弱舞台活動をお休みしていました。ということを知っている方はそんなおらんだろとも思いつつ、自分にとっては覚悟を決めてのことだったので、活動再開にあたっても覚悟を決めて、ひとり芝居に挑戦することにしました。沢山の方々のお力をお借りしながら、自分に売り言葉をふっかけながら、皆様に楽しんでいただくべく励みます。ぜひお運びください!」とコメント。
 また演出を手がける下平慶祐は「高村智恵子が狂気に溺れていく戯曲、と聞くとおどろおどろしいと思うかもしれませんが、読んでみると全く違う印象を抱きました。私自身かなり『おどろ』いたのですが、この戯曲に描かれていたのは、普遍的な、とりわけ女性が、必死に人生と向き合っていく様子です。つまり、死を必することが狂っているということ?それなら自分の人生は? なんてことを考えながら、この作品を皆様に送ります」と意気込みを述べた。

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「売り言葉」、元々は大竹しのぶさんの一人芝居として野田秀樹氏が作られ、平成14年(2002)に南青山スパイラルホールさんを会場に初演されました。翌年、野田氏の『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後プロアマ問わずさまざまなところで上演されています。
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たまたま偶然でしょうが、令和元年(2019)には、当方の把握している限り6組もの異なる劇団/個人の方が上演、一昨年で2本、昨年も1本の公演がありました。

この手の脚本(ほん)の中で、光太郎ディスり度が最も高い(これでアンチ光太郎になってしまったという方もいらっしゃるようで)ものですが、それだけに生々しい人間ドラマという意味では秀逸です。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

真亀の老母逝去の由、気の毒な老年だつたと思ひますが、やむを得ません。


昭和24年(1949)10月27日 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

「真亀の老母」は智恵子の実母・セン。宮崎の妻・春子は、センの三女・ミツの子で、智恵子にとっては姪にあたり、当時の一等看護婦の資格を持っていて、南品川ゼームス坂病院に起居して智恵子の付き添いを務めました。春子が幼い頃にミツが夫のDVに耐えかねて実家に戻り、ほどなく早世したため、センは孫の春子を養女として戸籍に入れました。そこで戸籍上は光太郎のみならず宮崎の義母ということにもなり、「老母」としているわけです。
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智恵子もそうですが、センもかなり数奇な人生を送りました。家業の長沼酒造破産後は五女のセツの元に身を寄せ、千葉の九十九里浜真亀納屋で暮らし、ゼームス坂病院に入院する前、昭和9年(1934)には心を病んだ智恵子を半年余り受け入れていました。

毎年恒例、北鎌倉での展示情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11

期 日 : 2024年10月8日(火)~11月26日(火)の火・金・土・日曜日
      追記:当初予定から変更で11月19日(火)までとなりました。
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月9日(土) 15:00~
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光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示。すぐ近くに住んでいて、光太郎と深い交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏のご協力もあり、光太郎と尾崎の交流(尾崎の妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘の實子でした)を辿る展示が為されます。光太郎と尾崎それぞれの肉筆や写真、年によっては光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。

一昨年からは関連行事として光太郎と尾崎の詩をとりあげる朗読会も催されています。当方、今年は「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品物をお貸しし、その搬入と会場設営の日に当たってしまいましたので欠礼いたしますが、展示の方は会期中に拝見に伺うつもりで居ります。

皆様も是非どうぞ。朗読者も募集中だそうです。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

何を表現しても芸術そのものは健康であるべきです。

昭和24年(1949)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、造型にしても文筆にしても、病的な表現は嫌いました。若い頃には彫刻で「妖気」のようなものを表そうとしたこともありましたが、のちにそういうやり口は誤りだったと否定しました。

「山の詩人」といわれた尾崎にもそういう精神は通底していて、それだけに二人が結びついたのだと思われます。

毎年恒例、昭和13年(1938)10月5日、南品川ゼームス坂病院でレモンをがりりと噛んで亡くなった智恵子を偲ぶイベントです。

高村智恵子 レモン祭

期 日 : 2024年10月3日(木)~11月17日(日)
会 場 : 智恵子の生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

蘇る智恵子season2~生家のライトアップ~
 智恵子の命日に生家がライトアップされます。ライトアップを堪能するとともに、智恵子への哀悼の意を表しませんか?
 ■実施期間
  1.10月3日(木)~5日(土) 午後5時~午後8時
  2.11月5日(火)~17日(日) 開館時間内(生家内)
   ※生家正面ライトアップは歩道よりご鑑賞ください。

智恵子の生家 2階公開
 ■公開日
  10月5日(土)~6日(月) 12日(土)~14日(月) 19日(土)~20日(日)
  26日(土)~27日(日) 11月2日(土)~4日(月)
 ※10月26日(土)は、午前に「紙絵コンクール」表彰式実施のため、公開を一時中止する場合がございますのでご了承ください。

奇跡といわれる智恵子の「紙絵」の実物展示
 ■展示期間 10月3日(木)~20日(日)
 ■場所 智恵子記念館内

生家の未だ見ぬ見処クイズ
 ■実施日 10月3日(木)~11月17日(日)
 生家に関するクイズに正解された方には、粗品を差し上げます。

「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演
 坂本富江氏(智恵子研究者・画家・作家)による読み聞かせ
 ■上演日時 10月14日(月・祝) 午前10時30分~正午
 ■場所 智恵子の生家内
 ■問い合わせ 熊谷 TEL:090-7075-6743
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期間中、さまざまなコンテンツが用意されています。10月14日(月)の「「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演」のみは、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんの主催です。

さらにこの日は同会としての行事「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」も。

「智恵子純愛通り記念碑」は、智恵子生家/智恵子記念館駐車場に入る交差点の信号脇に佇む碑で、光太郎令甥の故・髙村規氏の揮毫によるものです。碑の前にちょっとしたスペースがあり、そこで野外集会的なことを行ったりもできるようになっています。

10時半からの「「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演」の前に、同会会員の方々や地元小中高生による光太郎詩朗読、智恵子と光太郎のことばを書いたボード設置等が行われ、紙芝居上演の後、ボード設置除幕式祝賀昼食会になだれ込むとのこと。

ちなみにボードは高村光太郎研究会会員でのあらせられる書家の菊地雪渓氏の揮毫だそうです。

ついでというと何ですが、同じ二本松でもう1件。

開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展

期 日 : 2024年10月1日(火)~11月17日(日)
会 場 : 大山忠作美術館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 800円(700円) 高校生以下 400円(300円) (  )内団体料金

 大山忠作美術館は、二本松市出身で現代日本画壇の重鎮として活躍した日本画家・大山忠作の作品を中心に収蔵・展示するとともに、大山の65年にわたる画業を永く顕彰する目的で、 2009年10月1日に開館いたしました。
 このたび、開館15周年を記念し、大本山成田山新勝寺特別協力のもと、大山が約二年の歳月をかけ完成させた、成田山新勝寺光輪閣「日輪の間」「月輪の間」襖絵《日月春秋》全二十八面を一堂に展示いたします。
 二本松の染物業を営む家に生まれた大山。描きたいものを描くという姿勢で、人物、花鳥、風景と題材は多岐にわたります。郷土をこよなく愛し、その想いを色濃く感じる作品も多く描いています。光輪閣の客殿に描かれた襖絵《日月春秋》は、日輪・月輪・瀧桜(春)・楓(秋)が構成され、春と秋の面では、ふるさと福島県の自然美が舞台となり、絢爛豪華でありながらも荘厳さに包まれた雄大な景観が描かれています。制作にあたり大山は、「大きな試練の場であり、精進の場でもありました」と述べています。画家としての一心な軌跡が凝縮された大山忠作の大作、襖絵《日月春秋》。今秋、ついに大山忠作美術館にやってきます!
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故・大山画伯、同郷の智恵子をモチーフとした絵画も複数描かれていますし、令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められた一色采子さんのお父さまでもあらせられました。
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同展運営資金の一部を調達する目的でのクラウドファンディング(おかげさまで目標額を達成しました)をご紹介する際にも書きましたが、画伯の代表作の一つである成田山新勝寺光輪閣さんの襖絵全28面が初めて外に出ます。今年4月、将棋の名人戦七番勝負の第二局会場となった光輪閣さんで、藤井聡太七冠と豊島将之九段の死闘を見守った襖絵です。
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併せて足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

亡父や智恵子が十月のいい季節に死んでゐてくれたものと思ひました。


昭和24年(1949)10月11日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎67歳

この年はちょうど智恵子の命日の10月5日に、花巻町中心部の古刹・松庵寺で智恵子と父・光雲の法要を営みました。何くれとなく光太郎の面倒を見ていた総合花巻病院長・佐藤隆房は病院の仕事が忙しかったのでしょう、欠席でした。代わりに妻の雪江が参列しました。

十月のいい季節に死んでゐてくれた」は、直後であれば何て言いぐさだ、という感じですが、10年以上も経過すると、暑くもなく寒くもなく、参列する人々にその部分で苦労をかけないという意味で、妥当な発言でしょう。

9月25日(水)、宿泊した花巻南温泉峡・大沢温泉さんを後に、レンタカーを駆って奥羽国境山脈を越え、秋田県に向かいました。目指すは仙北郡美郷町。なまはげやかまくらで有名な横手市の北に位置します。

花巻からは高速を乗り継いで概ね2時間程。こちらに「高村光雲作の銅像がある」という情報を得ておりまして、機会があれば、としばらく前から思っておりました。

像が作られた人物は坂本東嶽(文久元年=1861~大正6年=1917)。美郷の出身で本名は理一郎。秋田県議会、さらに衆議院と貴族院の議員を歴任した人物です。かの犬養毅とは慶應義塾の同窓で、莫逆の友だったとのこと。

昭和3年(1928)に刊行され、全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍があり、それによると像の原型作者が光雲となっています。
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ただ、それ以外のネット上の情報等はあいまいで、よくわかりませんでした。これはもう見に行った方が早い、と思った次第です。

現場は一丈木公園というところ。小高い丘の上に広がっていました。
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ここの一角に、目指す像。
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見た瞬間に「あまりよろしくないな」。像の出来不出来という部分ではなく、光雲のテイストが殆ど感じられない、という感覚の問題です。

その違和感、台座裏側の碑陰記的な銘板を読み、納得しました。この手の像の例外に洩れず、大正年間に作られたオリジナルは戦時中に金属供出され、現在のものは戦後にまったく別の人物によって作られたものだとのこと。ポージング等はオリジナルを元にしているようですが。
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さらにオリジナルも原型作者は光雲ではなく、佐藤泰山という人物。光雲は「製作監督」として名を連ねているだけでした。『偉人の俤』の記載が半分ガセだったわけで。ただ、「おっ」と思ったのは、光雲三男(光太郎実弟)の豊周も「製作監督」だったこと。鋳造に関しては豊周が多少なりとも関わったということでしょう。

そういう意味では残念でしたが、長い間のモヤモヤがすっきりしたという部分では良かったと思いました。

像のある一丈木公園の近くに、その坂本東嶽の屋敷が保存公開されています。せっかくですのでそちらにも。
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もともと古建築好きの当方ですし、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存に向けて一枚噛ませていただいておりますので、こちらは興味深く拝見いたしました。
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まず母屋。玄関の唐破風が実に豪勢です。
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内部。
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母屋の裏手に位置する内蔵(うちぐら)。
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件(くだん)の東嶽像とは別のミニチュアというか、邸宅用というか。服装が異なります。こちらはおそらく戦前のもののようでした。
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一丈木公園での像の除幕の様子。
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蔵の二階。
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梁(はり)が見事でした。
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内蔵と套屋の間の通路には、こんなものも。
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東北六県の貴族院議員の集合写真ですが、「ありゃま」と思ったのが青森の佐々木嘉太郎。その名は昭和27年(1952)に、十和田湖の国立公園指定15周年で当時の知事・津島文治(太宰治実兄)が光太郎に「乙女の像」制作を依頼する際に出て来ます。光太郎盟友の佐藤春夫、建築家の谷口吉郎らとともに、光太郎をモニュメント作者として推挙した一人です。ただし、時期的に合いません。たぶんこっち(写真)が先代で、「乙女の像」にからんだのは息子か何か、代々「嘉太郎」を襲名していたんだろう、と思ったのですが、帰ってから調べたところ、ビンゴでした。

来客用の離れ。
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庭園もいい感じでした。
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像に関しては残念でしたが、東嶽邸の素晴らしい空間に身を置けたのは実によかったと思いました。

この後、また花巻に戻り、レンタカーを返却、帰途に就きました。

以上、東北レポートを終わります。また来月も2度ほど東北行きの予定が入っているのですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

五日の法要に老人のご参集にあづかり又たのしい御饗応をうけまして真にありがたい事と存じました。おかげで「ハムレツト」も見る事が出来、又菊池さんのピアノもきけて愉快でした。


昭和24年(1949)10月11日 宮沢清六宛書簡より 光太郎67歳

「五日の法要」は、花巻町中心街の松庵寺さんで執り行った光雲/智恵子の法要。「老人」は清六、そして亡き賢治の父・政次郎/イチ夫妻。「ハムレツト」は映画でしょう。

「菊池さんのピアノ」云々(「でんでん」ではありません(笑))は、旧菊池家住宅西洋館でのことと思われます。ここで最初にピアノ演奏を聴いたのは、昭和21年(1946)と推定されますが、この時にも聴いていたのですね。

一昨日、9月24日(火)から1泊2日で東北に行っておりました。レポートいたします。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。また後ほどご紹介いたしますが、10月末に花巻で光太郎と宮沢賢治がらみのイベントが予定されていて、そのための打ち合わせでした。少しだけ予告しておきますと、光太郎と交流のあった照井謹二郎・登久子夫妻が主宰、光太郎もその公演を何度も見た児童劇団「花巻賢治子供の会」の関係です。光太郎が見た公演の際に出演していた方々、それから賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でいろいろ語らせていただきます。

打ち合わせの前に、東北新幹線新花巻駅からレンタカーで、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。現在、特に企画展示は行っていないのですが、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」のフライヤーを置いてもらうために立ち寄りました。
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秋の気配も漂い、赤とんぼが群れを成していました。
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隣接する高村山荘。光太郎が戦後の7年間の蟄居生活を送った山小屋が、二重の套屋(とうおく・カバーの建物)内に保存されています。
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ここに居るであろう光太郎の分霊にご挨拶。花巻を訪れる際のルーティンです。

続いて道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん方面へ。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったところ、ユニークな案山子(かかし)がずらり。車を駐めて拝見しました。
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パリ五輪の出場選手や、今年発行された新札に肖像が使われている渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎等々。

そういえば太田地区の皆さん、以前も案山子制作やってたっけな、あの時は光太郎案山子もあったけど、今年はないの? と思ったら、ありました。案山子とはちょっと違うのかも知れませんが。さらに制作者は太田小学校の児童さんたちのようで。
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「高村山荘行きねこバス」だそうで、本当にあったらいいですね(笑)。

で、道の駅。
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何と、こちらにも案山子軍団(笑)。
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そしてやはり光太郎案山子(笑)。
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大沢温泉さんからの帰りの光太郎だそうで、首には本物の大沢温泉さんのタオル(笑)。笑わせていただきました。

道の駅で当方大好物の林檎を買い込み、街に戻って上記イベント打ち合わせ。その後、当方も大沢温泉さんに。
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この日はテレビのロケが入っていました。愛知テレビさんの番組で、レポーターはアーティスティックスイミング元日本代表の青木愛さんだそうでした。
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翌日は、以前から行こうと思っていた秋田県美郷町へ。そちらは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

去る二十日に花巻行。二泊してかへりました。廿一日には宮沢賢治十七回忌記念の賢治祭あり、小生も一席漫談をやりました。


昭和24年(1949)9月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

賢治の忌日・9月21日には現在も「賢治祭」が開催されています。今年も盛大に執り行われたとのことでした。

この年の花巻文化劇場に於ける光太郎の「漫談」。地方紙『花巻新報』にその筆記録が載り、『高村光太郎全集』では第20巻に後半部分が掲載されていますが、10年ほど前に前半部分を見付けました。少し読みにくいのですがコピペします。

白熊は雪がふれば元気になるが私も冬になると元気になる
賢治さんは雨ニモマケズだが僕は子供みたいにすぐ九十度位熱が出る、賢治さんの詩は誰でも知つているが、判る人はない、一歩一歩だんだんに深く進んでもらいたい、賢治は詩人である、詩はさけられないもので、誰れでも梅の花を見ていると体中が香がしてきて始めて見たような気がするが、人一倍謳うのが詩人である、この詩精神は誰でもありこれのない者は存在そのものがつまらない、この詩精神のない政治家は政治家でなくただの事務家でいやおうなしに肩に担いでやつているだけである、詩精神のある政治家は、あふれるような生き生きしたものを持つているし、この詩精神があれば一つの世界ができて美しくなる、義務でなく本当の仕事ができるし、これは金には替えられない、これをやれば一月に幾らになると考えれば精根がつきる、詩の精神は人を救うが、本当に人を救うものは宗教である
 ◇賢治は法華経に生きた
賢治は法華経の世界で、これを読んで皆んなが無上道に入るように云つた、徹頭徹尾法華経に生きた人間であつて、僕はそれまで信仰していない、宮澤さん自身から云えば唯法華経を信じて、仏の世界に入つてくれればよく、賢治さんに向つて詩人だといつても嬉しくない、ちつとも自分の思うことをいつてくれないと思う、賢治は一行書いても詩になる、僕等はその詩に魅せられる、賢治は宗教家で詩人、この二つをもつている、賢治には五感のよさがある、中学時代啄木に影響された、その後急に詩を書き始めた、春と修羅のころから急に……一字書いても詩になり魅力がある
 おおしくは月の夜を 雪の降るらし 黒雲 乱れたり
教わつてできたものではなく、こつちが圧倒される、賢治の詩を本当に読める人は偉いものだ

「おおしくは……」は賢治の「文語詩稿一百篇」中の一篇からの引用。正確には「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし、黒雲そこにてたゞ乱れたり」です。

光太郎の賢治評、なかなか的確ですね。

光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。6月以来3ヶ月ぶりです。
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メインの目的は来月開催されるイベントの打ち合わせでした。そちらも昨日のうちに終わりまして、今日は少し足をのばし、秋田へ。

詳細は帰りましてから。

神戸から日本画の個展情報です。

山下和也個展「星尘詩(ほしくずのうた)」

期 日 : 2024年9月20日(金)~9月30日(月)
会 場 : Gallery301 神戸市中央区栄町通1丁目1‐9 東方ビル301 
時 間 : 12:00~18:00 最終日のみ17:00まで
休 館 : 9月25日(水) 9月26日(木)
料 金 : 無料

 人は宇宙(そら)をどのような思いで眺めてきたのだろうか?
 宇宙物理学など自然科学の1分野である天文学と考古学との境界領域にある古天文学。 前者は自然界の多様な現象を解明する研究、後者は人間の思想哲学を行為や記録(遺物)から読み解く研究である。 人間の知的好奇心や探求心によって、生まれてきた宇宙観や天文学は、民族や国家、時代の境界を越えて影響を与え、発展してきた。
 たとえば、古代ギリシャの数学者ピタゴラス(紀元前582-紀元前496)は天体の運行が常に音を発しており、宇宙全体が大きなハーモニーを奏でていると考えていた。「天球の音楽」として知られるその思想は、哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347)をはじめ二千年後のドイツの天文学者ケプラー(1571-1630)にも影響を与えている。
 自然(宇宙)と人間と芸術。広大な宇宙においては星の屑にも満たない様な人類の歴史やもっと些細な営み。それらを引き合わせて少しずつ手や頭を動かして継ぎ、展覧会を編む。 事物を通じて個々に現れる目には見えないもの、耳には聞こえない音楽を仮にここで詩(うた)と呼び、そのポリフォニーを傾聴しながら私も宇宙(そら)を眺めてみようと思う。
 会期はちょうど仲秋の名月を経て新たな月へと向かう頃。是非会場へ観測にお越しください。
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公式の案内文等に光太郎智恵子の名がありませんが、X(旧ツイッター)上の、見に行かれた方のポストに、以下の記述がありました。

藤原定家の「明月記」を手掛かりに、古天文学をテーマにした展覧会。具体やボイス、高村光太郎と智恵子抄、隕石などを本歌取りや岡崎和郎を想起する見立て、日本画技法を用いて芸術学的宇宙図を形成。鑑賞より観測が相応しい。9/30まで

最初の画像、満月を描いているものでしょうが、よく見るとレモンの皮のようにも見えます。「レモン」とくれば「智恵子抄」中の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。これが「智恵子抄」オマージュの作品なのでは? と思いました。違っていたらごめんなさいですが。

今年の中秋の名月は9月17日(火)でした。陰暦八月十五日の月、ということで、年によって前後します。以前にも書きましたが、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の中秋の名月は、駒込林町のアトリエ兼住居で智恵子葬儀が行われた10月8日でした。おそらく詩集『智恵子抄』のために書き下ろされ、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったようにも思えます。

閑話休題。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。

昭和24年(1949)9月2日 八森虎太郎宛書簡より 光太郎67歳

当方手持ちの書簡の一節です。おそらく熱中症でしょう。光太郎の山小屋は奥羽山脈の麓、光太郎自身が「水牢」と呼んだ非常に湿気の多いところで、そうなると気温がさほどでなくても熱中症の危険性が高まります。当方も一度、旧高村記念館内で作業中に眩暈(めまい)を起こしてぶっ倒れそうになりました。
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智恵子の故郷、福島の地方紙『福島民友』さんから。

「智恵子に親しみを」 高村夫妻結婚110周年、顕彰会が学校に絵本寄贈へ

 「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」は12月、高村夫妻の結婚110周年などを記念し、智恵子の生涯を描いた絵本を智恵子の母校油井小をはじめ同市の全23小中学校と4地区の図書館、図書室に寄贈する。代表の熊谷健一さんは「絵本が二本松の次世代を担う子どもたちに美と愛を貫いた智恵子への親しみと理解を深めるきっかけにしたい」と期待を寄せている。
 贈呈は結婚110周年のほか、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」でおなじみの光太郎の詩集「道程」出版110周年、同くらぶ発会20周年の節目を祝って実施する。
 贈呈する絵本は、同くらぶと親交のある作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が制作した紙芝居「夢を描くひとー高村智恵子」を今回の贈呈に合わせ、坂本さんが一部手直しして絵本化したもの。
 同団体は2005年に設立、智恵子講座などを通じて智恵子と光太郎の世界を研究している。贈呈式は12月15日に二本松市で開かれる「発会20年を祝うつどい」の席上、実施する。
 同団体は本年、各種記念事業として今月16日、安達太良山の“ほんとの空の下”で智恵子抄朗読大会の開催などを予定している。
 熊谷さんは「絵本を通して波瀾(はらん)万丈の生涯を生き抜いた高村夫妻の遺徳を後世に伝承するとともに、子どもたちに今後、さらに濃密、充実した人生を歩んでもらえる生きた教材として活用してほしい」と贈呈を心待ちにしている。
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絵本作者の坂本富江さん、太平洋美術会さんに所属され、絵を描かれている方です。同会に入会なさった動機の一つが智恵子もこちらに通っていたことだという筋金入りの智恵子ファンで、都内智恵子生家で個展を開かれたり、平成24年(2012)には『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』、同27年(2015)には同書の増補改訂版を刊行なさったりしました。それを元に、智恵子母校の二本松市立油井小学校さんや光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さんなどで紙芝居の御披露もなさっています。

今回の絵本、当方、校正を担当いたしました。刊行は未だ少し先のようですが、世に出ましたらまた詳しくご紹介いたします。

その前に、記事にある「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」さんのイベント「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」が10月14日(月・祝)に行われ、その中でまた坂本さんの紙芝居実演がプログラムに入っています。

これも近くなりましたら詳しく取り上げますのでよろしくお願い申し上げます。。

【折々のことば・光太郎】

今スルガさんに頼んで便所を新築してもらふ事にしてゐます。スルガさんが一切引きうけてくれました。


昭和24年(1949) 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に建っている便所のことと思われます。「スルガさん」は土地を提供してくれていた駿河重次郎です。
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左側が「小」。右側が「大」で、その壁に明かり採りのため「光」一字を刳り抜きました。
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少し先の話なのですが、ガンガン宣伝してくれと云う話ですので……。

中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ

期 日 : 2024年11月10日(日)~11月18日(月)
会 場 : なかのZERO西館美術ギャラリー2F 東京都中野区中野2丁目9-7
時 間 : 10:00~18:00 最終日のみ16:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

中野には創作活動の場であるアトリエが多くはありませんが残っています。残念ながら前回の展示会後に取り壊されてしまったものもあります。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエがありますが、ここで高村光太郎が「乙女の像」を制作しました。

アトリエという建築の魅力、活躍した人々をご紹介します。

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関連講演会
 各回定員60名 定員に達し次第締め切ります 無料
 
  ① 『連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る』
    11月10日(日) 14:30~16:30  会場:なかのZERO
     渡辺えり(劇作家・俳優・中西アトリエを保存する会代表)
     小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

  
  ② 『中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について』
    11月11日(月) 18:30~20:30 会場:なかのZERO
     内田青蔵(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)
     伊郷吉信(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)001


申込 : メール y-sogawa@tubu.jp

     申込フォーム 
     右記QRコード 

     電話 090-8056-0327(ソガワ)

というわけで、保存運動の起こっている光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展覧会です。主催は中野たてもの応援団さん。

他に三岸好太郎・節子、棟方志功、彫刻家の木下繁、同じく長谷川昂、画家の萩原英雄らのアトリエ、土日画廊という歴史的建造物などについてのパネル展示が為されます。

中西利雄アトリエは、中西本人、それから中西没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、そして光太郎についてのパネル展示。さらに特に光太郎を大きく扱って下さるとのことで、当方手持ちの史料を大量にお貸しします。真作で彫刻(ブロンズレリーフ)や書簡、『道程』などの著書、複製ですが原稿、デッサン、色紙などなど。

また、関連行事としての講演会。初日の11月10日(日)に渡辺えりさんと当方で「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」と題したトークショー。当方が水を向け、渡辺さんにいろいろと語っていただき、専門的なところは捕捉、スクリーンにスライドショーを投影しつつ行います。

翌11月11日(月)には建築専門のお二人から建築としての中西アトリエのお話。個人的にはこれが実に楽しみです。

展覧会、講演会とも無料。ぜひ足をお運び下さい。これで中西アトリエ保存運動に大きく弾みを付けたいと存じますので。

【折々のことば・光太郎】

都会の人は殊に時々登山するといいと思ひます。登山の清らかなたのしみは比較するものもないやうです。


昭和24年(1949)8月24日 髙村規宛書簡より光太郎67歳

令甥・規氏の埼玉の低山に登ったという書簡への返信の一節です。若き日の光太郎はクラシックルートを歩いて信州上高地まで上ったり、上州赤城山にも再三登ったりしました。上州といえば山間部をほぼくまなくトレッキングし、法師、草津、湯檜曾、川古、磯部、伊香保、四万、水上、宝川などの温泉を踏破しています。

昨日は上京しておりました。メインの目的は光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関連して。また詳しくご紹介いたしますが、中野たてもの応援団さんの企画に乗っかる形で、11月に中野ZEROさんにおいて企画展示を行います。その展示用備品の確認でした。

そちらの終了後、原宿へ。エンパシーギャラリーさんで開催中の彫刻家・瀬戸優氏の個展「ime Traveler」を拝見して参りました。
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今回並んでいるのほとんどの作が動物をモチーフとした具象彫刻で、目玉の一つが光太郎の父・光雲の「老猿」(明治25年)オマージュのもの。
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マルチアーティスト・井上涼氏曰くの「黙すれど語る背中」もしっかり再現。
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事前に画像を拝見して、粘土なんだろうな、と思っていましたが、焼成して着色したテラコッタとのこと。画廊オーナーの方がギャラリートーク的にいろいろとご説明下さいました。その中で「へー」と思ったのが、目の処理。

仏像の玉眼のように、裏側からガラスを嵌め込み、着色。そして瞳がどの角度から見てもこちらを向くようにしてあるというのです。秘密の技法があるようで、これには驚きました。
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他の作。
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テーマの一つが「オマージュ」だそうで(猿もそうでしたが)、他にも過去のいろいろな系統からのオマージュが。上画像の犬は古代エジプトのアヌビス神像ですし、同じエジプトのカノプス壺(ミイラ制作の際に取り出した臓物を入れる容器)も。
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西アジアから広まった祭器・リュトン。
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一見、木彫に見えますが(それを狙っているようです)これもテラコッタ。

さらに東洋の十二支。
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今年の干支、辰(ちなみに当方、年男です(笑))。

他にもライオンやら狼やら。
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硬く焼き締められたテラコッタでありながら、もふもふ感が感じられるのが不思議です。そして躍動感というか、ムーヴマンというか、まぁ、光太郎曰くの「生(ラ・ヴィ)」ですね。アカデミックなにおいのしないワイルドさが好ましいところです。

下世話な話になりますが、かなり売約済となっていました。
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「老猿」も。シールで隠れて価格が見えなかったので訊いたところ、99万円だったそうですが。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

会期は明後日まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

お便りと「パンの会」といただき、ありがたく存じました。此の本は大変立派でパンの会にふさはしいと思ひました、かういふ混雑した時代の事を後で書き分けるのは随分苦労なことと推察します。

昭和24年(1949)8月5日 野田宇太郎宛書簡より 光太郎67歳

「パンの会」は明治末に起こった芸術運動。光太郎の欧米留学中に木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らが始め、帰国した光太郎もたちまちその喧噪に巻き込まれます。連翹忌会場の日比谷松本楼さんでも大会が行われたことがありました。

評論家・野田宇太郎は文学散歩的な視点をメインに明治大正の文学史を俯瞰した書物を多く著しましたが、『パンの会』もその一つ。旧悪とまでは行きませんが、若気の至りの数々を記録に残された光太郎、苦笑しながらも懐かしんでいたのではないかと思われます。

光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山小屋に隣接する花巻高村光太郎記念館さん関連で2件。

まず、『広報はなまき』9月15日号から。同誌、1月を除き1日、15日と月2回の発行ですが、毎月15日分にはほぼ毎号「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」という記事が最終ページに載ります。主に市そのものや市内の博物館、記念館等の所蔵品を紹介するもので、今回もそうですが、光太郎関連も時々取り上げられます。

今号は先頃市に寄贈のあった中原綾子関連史料の中から「「みちのく便り」直筆原稿」。中原が主宰していた雑誌『スバル』に寄稿したもので、旧太田村時代の昭和25年(1950)から昭和26年(1951)にかけて不定期に4回掲載されました。そのうちの3回目の原稿が紹介されています。
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記事にあるとおり昭和25年(1950)に盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵展を見ての感想がメインです。一部分を抜き出しましょう。

 久しぶりに智恵子の作を見てやはり感動した。その上かうやつて一度にたくさん並べて見たのは初めてなので、膝の上で一枚づつ見るのとは違つた、その全体から来る美の話しかけに目をみはつた。一人の作が三十枚程あれば一つの雰囲気が生れる。人はその雰囲気の中で、丁度森の中をゆくやうな一種の匂はしさを感ずる。
 見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性の細かい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

ここまで的確に智恵子の紙絵を表せるのは、やはりそれが自分に向けて作られた光太郎しか居ないのでは、と思われます。

現存する智恵子の紙絵はすべて、心を病んで品川のゼームス坂病院に入院してから作られたものです。健康だった頃、駒込林町のアトリエで、尾崎喜八の幼い娘にシンメトリー式の切り絵を作ってやったという尾崎の証言がありますが、その現存は確認できていません。

のちの心理学者的な人々の考察では、この紙絵が当時の智恵子にとって、人間世界と交信する唯一のツールだったとのこと。その通りでしょう。智恵子没後10年余り経ち、改めてずらっと並んだそれを見た光太郎。その胸中はいかばかりだったのか……。

この「みちのく便り」の原稿はじめ、中原綾子関連の寄贈品、おそらく来年には花巻高村光太郎記念館さんで展示されると思われます。今から楽しみです。

同館関連でもう1点。盛岡で開催されるイベントに同館として参加、だそうです。

同人誌展示即売会 岩漫63

期 日 : 2024年9月22日(日)
会 場 : 岩手県産業会館(サンビル)7階大ホール 岩手県盛岡市大通1丁目2番1号
時 間 : 11:00~15:00
料 金 : 無料

岩漫(がんまん)とは
◆岩漫は、同人誌を中⼼とした創作物を通じて自己表現する場であり、会場に集まった仲間達との交流の場でもあります。
◆岩漫は、様々な世代の参加者が相互交流を図り、同人誌分化が継承され発展していくことを目標とします。
◆岩漫は、岩漫実行委員会が運営しています。岩漫実行委員会は、参加者の有志から構成されています。
◆岩漫は、参加者全員でつくりあげます。運営の手の足りないところへのご協力をお願いします。
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こういう系のイベントですが、記念館の指定管理者である花巻高村光太郎記念会さんも参戦なさるそうです。一昨年行われたゲームとのタイアップ企画「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が好評だったことからの決断のようです。

当日は光太郎に関するミニ展示、詩集や回想録、オリジナルのミュージアムグッズの販売などを行うとのこと。光太郎ファンの新たな拡大に繋がるならいいことですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】IMG_0004

過日那須にて建碑式遊ばされし趣おかげにて小生もかかる名所に筆のあとを残すことを愉快に存じます。


昭和24年(1949)8月4日(日) 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が旧太田村に移る直前の約1ヶ月、自宅離れに住まわせてくれたりと、様々な形で光太郎に援助を惜しまなかった総合花巻病院長・佐藤隆房。那須出身の亡父・房之助の短歌を刻んだ歌碑の建立を思い立ち、光太郎に揮毫を依頼、はれて那須町内の寺院に建立されました。

右は拓本。「かくばかりつゝじの花のさかゆるを知らぬもをしきみやこ人かな」と読みます。

しかし、この碑は同地に現存していません。無理解のため撤去されてしまいました。原本が佐藤家に残っているのが救いです。悪意があって撤去したわけではないのですが、それにしても……です。

音楽家の田中信昭氏が亡くなりました。

共同通信さん。

合唱指揮者の田中信昭さん死去 東京混声合唱団を創立[]

 東京混声合唱団(東混)の桂冠指揮者で、文化功労者の田中信昭(たなか・のぶあき)さんが12日午後9時40分、心臓死のため自宅で死去した。96歳。新潟県出身。葬儀は近親者で行う。
 1928年、新潟県生まれ。56年に東京芸術大を卒業し、東混を創立。常任指揮者に就任し、作曲家と協力して合唱音楽のレベルの向上に尽力した。
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団など数多くのオーケストラの来日公演で合唱指揮を務め、桐朋学園大客員教授や国立音楽大招聘教授などを歴任。97年、東混の桂冠指揮者となり、2016年に文化功労者に選ばれた。

NHKさん。

合唱指揮第一人者 田中信昭さん死去 96歳

 合唱指揮の第一人者として知られ「東京混声合唱団」の創立に関わるなど、長年にわたって日本の合唱界をけん引してきた指揮者で文化功労者の田中信昭さんが9月12日に亡くなりました。96歳でした。
 田中さんは新潟県の出身で中学校の音楽教師を経て東京藝術大学の声楽科に入りました。
 大学を卒業した1956年に声楽科の有志とともに「東京混声合唱団」を創立して常任指揮者に就任、日本で有数のプロの合唱団に育て上げました。
 田中さんは日本語による合唱曲の創作に力を尽くし、さまざまな作曲家に依頼して曲を作ってもらい、460曲に及ぶ合唱曲を初演しました。
 また、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演や、NHK交響楽団など数多くのオーケストラ公演で合唱の指揮を取りました。
 全国のアマチュア合唱団の指導にも積極的に取り組み、こうした功績が評価され2016年には文化功労者に選ばれています。
 関係者によりますと田中さんは9月5日、自宅で転倒して入院していましたが、退院後の12日、自宅で亡くなったということです。
 8月末、東京混声合唱団の演奏会に指揮者として出演したのが最後のステージになったということです。
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田中氏、平成元年(1989)10月6日、赤坂の草月ホールで開催された「オペラ智恵子抄」初演の際、伴奏の10人編成アンサンブルの指揮をなさって下さいました。
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脚本は山本鉱太郎氏、監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生、そして作曲は仙道作三氏。登場人物は光太郎智恵子二人だけという破格のオペラで、智恵子役は連翹忌ご常連、さらに女川光太郎祭にも欠かさずご参加下さっている本宮寛子氏が演じられました。ちなみに演出は光太郎とも交流のあった萩原朔太郎令孫・朔美氏でした。

田中氏、平成3年(1991)、日暮里サニーホールさんでの再演時にも指揮を務められました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

温泉といへば此処の太田村の寒沢川の上流に温泉が出さうだといふので村長さんが試掘願を出したりしてゐます。若し出たら夕涼みの散歩に浴泉出来るわけで万歳ですが。

昭和24年(1949)7月21日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎67歳

「寒沢川」は光太郎が蟄居していた山小屋の近くを流れる川です。数㌔先の豊沢川沿岸には大沢温泉さん(また来週お世話になります)をはじめとする花巻南温泉峡があり、確かに温泉が出てもおかしくありません。しかし、結局、事業化には至らなかったようです。コスパの問題等もあったでしょうし。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさん。最近のご活動を。

まず、市内のワンデイシェフの大食堂さんで、「こうたろうカフェ」として光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジによる昼食の提供。基本的に不定期ですが、直近で9月4日(水)に行われたとのこと。
9月ワンデイ
メニュー表 (3)
1725687629465 ふわとろ杏仁豆腐
枝豆。南蛮味噌のせご飯 白身魚のから揚げトロピカルソース
オカワカメと菊花、ゴーヤの佃煮、青トマトきゅうり
メニューは「白身魚のから揚げ トロピカルソース」「夕顔のトロトロ蟹あん」「ゴーヤの佃煮」「オカワカメと菊花の酢の物」「茄子と胡瓜の浅漬け」「バターナッツの満足スープ」「南蛮味噌ご飯」「ふわふわ杏仁豆腐」「コーヒー」だそうで。

レシピというか、食材を細かく教えていただきました。教えていただいても当方には作れませんが(笑)、以下を見て出来る方はご参考までに。

ゴーヤの佃煮 ゴーヤ、裂きイカ、醤油、三温糖、五倍酢、白ごま
バターナッツの満足スープ(カボチャのポタージュ) バターナッツカボチャ、玉ネギ、コンソメ、牛乳、生クリーム
南蛮味噌 ピーマンと麹、三温糖、青唐辛子
夕顔のトロトロ蟹あん 豪華カニ缶の餡をかける
トロピカルソース 夏野菜とパイン、桃
ふわふわ杏仁豆腐 マシュマロと牛乳で作る杏仁豆腐

続いて毎月15日、、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。こちらも光太郎がらみの献立で、やつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられています。
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内容的には「栗ご飯」「サンドイッチ」「チキン南蛮」「かぼちゃの甘煮」「きのこ炒め」「きゅうりの酢の物」「卵焼き」「フルーツ」。

栗やらきのこやら、秋らしい食材ですね。当方、栗ご飯は大好物でして、画像を見てパブロフの犬状態でした(笑)。

やつかの森LLCさん、他にも花巻市内で光太郎に関する「出前講座」をなさっています。

9月6日(金)には「シニア大学講座」とのことで、花巻市生涯学園都市会館(まなび学園)さんで。寸劇を交え、休憩時間には得意の料理もふるまわれたとのこと。
シニア大学1 シニア大学3
シニア大学2 シニア大学5
シニア大学6 シニア大学7
9月11日(水)にも、同じ会場で今度はシニアの方々に招かれての講座をなさったそうです。

わかうさ7 わかくさ2
わかくさ1 わかくさ3
わかくさ5 わかくさ6
わかくさ8 わかくさ9
地元でこういう団体さんがいらしてくださると、ありがたいところです。お一人お二人で、となると無理なのでしょうが、グループでやられることでタイトな日程にもある程度対応できると思われますし。

花巻といえば宮沢賢治。当方、よく存じませんが賢治関連ではこういうグループなりがいろいろあるのでは、と思っております。しかし光太郎がらみではやつかの森LLCさんのみ。ありがたいかぎりです。

今後とも様々な場面でのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

恐らく東京でも珍らしいであらうと思はれるカビヤのびん詰めまで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。


昭和24年(1949)7月14日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

「カビヤ」はキャビアのことですね。当時はとてつもない寒村だった花巻郊外旧太田村にいても、方々の支援者からいろいろな食料が送られてきて、なかなかに光太郎の食卓は充実していました。これも人徳ですね(笑)。

先週土曜日、TokyoFMさん他でオンエアされた「yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ」の第472話。公式サイトでバックナンバーとしての公開が為されています。

サブタイトルが「己の後悔と向き合う -【千葉県にまつわるレジェンド篇】芸術家 高村光太郎-」。この番組、特定の地域とそこにゆかりの人々の関係、というコンセプトでやられていて、千葉県編の前はフランス編でした。フランスに続いて千葉、というのが千葉県民としては何とも面はゆいところですが(笑)。

ラジオ番組ですので、通常の電波には映像が乗りませんが、公式サイトでは大正元年(1945)に光太郎智恵子が愛を確かめた銚子犬吠埼、昭和9年(1934)に心を病んだ智恵子が半年余り療養生活を送った九十九里浜の画像が出ています。
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番組内でもこの2ヶ所について触れられました。

放送作家の方の書いた「物語」を、俳優の長塚圭史さんが読まれていまして、公式サイトでは音声も聴けるようになっています。長塚さん、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも時折ナレーションを務められていますが、お父さま(長塚京三さん)ゆずりのいいお声ですね。

「物語」と書きました。全文がこれも公式サイトに出ています。何か所か、史実とは異なる(「一緒に千葉県の九十九里浜に移り住んだ」とか)、あるいはそこまでは特定できていない(「7歳か8歳の時、絶対的な存在の父から彫刻刀を3本もらった」など)一節があり、まぁ、史実を元にしたラジオドラマのようなもの、という意味で「物語」と書かせていただきました。

それでもなかなかよい出来です。ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の詩は根帯から諸家のものと相違し、藤村――白秋――朔太郎――達治――現代詩人諸家の系統とはあまり縁がないので、諸家の理解を得ることはあり得ないと考へてゐます。


昭和24年(1949)6月29日 東正巳宛書簡より 光太郎67歳

同様の発言は詩歌に関する評論などでも書いています。詩集『道程』(大正3年=1914)で我が国口語自由詩の礎を築いた光太郎ですが、あくまで自分は傍流だと。そこには一種の矜恃も含まれているように思われます。

ほぼほぼクローズドのイベントでしたので、このサイトでは事前にご紹介しませんでしたが、昨日、神奈川県逗子市のテルミンミュージアムさんにおいて開催された「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」にお邪魔しておりました。レポートいたします。
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同ミュージアム、電子楽器のテルミン奏者・大西ようこさんが運営なさっています。ミュージアムと云っても、大西さんがお持ちのアパートの一室を改装して作られたスペースです。
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内部はライブということで昨日は客席が用意されていましたが、通常は集められた古今東西のテルミン27台だかがずらりと展示されているのでしょう。それらは壁際などに寄せられていました。
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一部、修理中だそうで。
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奥の壁にはこちらを訪れられた様々な方々のサイン。
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さまぁ~ずさんとテレビ東京の田中瞳アナ。今年7月6日(土)にオンエアのあった「モヤモヤさまぁ~ず2 【逗子・葉山】一心同体!季節外れの90分弱SP」の際のものです。
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NHKさんで不定期に放映されている「フェス・アローン レギュラー番組への道」のディレクター氏。昨年2月でしたが、こちらでのロケと、大西さんはスタジオでハライチのお二人(澤部佑さん、岩井勇気さん)とご共演。
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そして箏曲奏者の元井美智子さん。

元井さん、この日の「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」で大西さんとご共演。
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元井さん、昨年、横浜のイギリス館さんで開催された「元井美智子自作自演コンサート2023」で、箏を弾かれながら「智恵子抄」中の詩を朗読なさいまして、それがご縁で今年の連翹忌の集いにご参加下さいました。そこで連翹忌ご常連の大西さんに捕まり(笑)、今回のコラボライブ。

7月には同様に連翹忌ご常連で朗読の荒井真澄さんとのコラボを花巻仙台でなさっています。以前にも書きましたが、連翹忌は光太郎を偲ぶのが趣旨ですが、こうして人の輪を繋いで行くのも大きな目的の一つでして、その意味では主催者として喜ばしい限りです。
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元井さん、御著書「八橋の虹」のプロモも。江戸時代の八橋検校を主人公とした小説仕立てですが、史料が少ないため評伝には出来ない部分を想像で補われて書かれたものです。以前に頂き、芸道の徒弟制度的な部分では、高橋鳳雲、高村東雲、そして光太郎の父・光雲へと続く木彫界の一派とも通じる部分があるな、と思って拝読しました。Amazonさん等でも扱われています。ぜひお買い求めを。
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この日は横浜で元井さんが演(や)られた「智恵子抄」をダイジェストで、「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」の語りに箏とテルミンの演奏を乗せて。

他に箏曲定番の「春の海」や、光太郎も好きだったドビュッシー、元井さんオリジナルの曲、大西さんが以前にチェロやハープとの合奏のために作曲家の方(お二人、昨日もいらしていました)に書いていただいたものをアレンジした曲など。和と洋、ある意味最先端の電子と古き良き伝統との融合、なかなか不思議な世界観でしたが、心地よいものでした。

大西さん、実に様々な方との二人三脚をこれまでもやられていて(実際に足を縛って走られているわけではありませんが(笑))、中には「ウルトラマン」のスーツアクター(中の人)や「ウルトラセブン」のアマギ隊員役だった古谷敏さんに「智恵子抄」系朗読をお願いして、という企画もありました。

切り絵作家の方の作品に描かれた古谷さんのサイン。
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ウルトラファンには垂涎の的でしょうね。といってもここで涎を垂らされても困るでしょうが(笑)。

来月、逗子で開催される大西さんが一枚噛んだイベントのフライヤー。上記の切り絵の方との連携だそうで。
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今後とも、お二人のご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

「道程」初版は「詩集」といふよりも「詩篇雑綴」といふやうなもので、その頃までの自分の詩をただ制作年代順に並列したものに過ぎません。その頃小生は詩集などといふものをれいれいしく出版する気はありませんでした。


昭和24年(1949)6月26日 檜村淑子/藤田澄枝/肥後道子宛書簡より 光太郎67歳

宛先の3人は、当時女学生の光太郎ファンでした。面識もなかった光太郎に手紙を送り、いろいろ質問をし返事を頂いたとのこと。お三方のうち、肥後さんはかつて連翹忌にもご参加下さり、この書簡の背景などについて語っていただきました。

都内で彫刻家の方の個展です。

瀬戸優個展「Time Traveler」

期 日 : 2024年9月7日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : エンパシーギャラリー 渋谷区神宮前3丁目21-21 ARISTO原宿2階
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料 

生命の息吹を宿す動物彫刻で知られる瀬戸優が、本展で新たな挑戦に挑みます。

テーマは「Time Traveler」。さまざまな時代に生きた動物たちを彫刻として再現し、時を越えて伝わるその存在感を感じていただける作品が並びます。

本展は、瀬戸優にとって今年最大規模の展覧会となり、34点の作品が出品されます。

ぜひ、この特別な機会にご来場ください。

今回の展示は、瀬戸優にとって初めての「オマージュ」に焦点を当てた試みです。耐久性の高い彫刻作品は、長い年月を経てもなお、私たちに語りかけてきます。古代エジプトの「アヌビス神像」(紀元前1500年)から、19世紀の「老猿」(1893年)まで、幅広い時代と地域の動物彫刻にインスパイアされた作品が展示されます。

前回の個展「星を数える」に続き、今回は「時間」に秘められたロマンを感じ取っていただければ幸いです。
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瀬戸氏ご本人が Instagramのテキストアプリ「Threads」上に作品画像を公開されており、光太郎の父・光雲の「老猿」オマージュの作もアップされています。
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「Threads」テキストによれば、光雲の「老猿」制作の背景もきちっと押さえた上で作られているそうです。「老猿」制作中に、光雲の数え十六歳だった長女の咲(さく)が肺炎で亡くなっています。咲は狩野派の絵師に学び、将来を嘱望される腕前でした。後の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)にそのあたりが語られています。
 総領の娘を亡くした頃のはなし
 栃の木で老猿を彫ったはなし

また、光太郎の回想「姉のことなど」(昭和16年=1941)にも。光太郎は数え十歳でした。

 明治二十五年には姉さんも十六歳になつた。絵画の技倆は驚異的に上達して来た。いよいよこれからといふ其年の九月九日に此の姉さんが死んだ。
(略)
 黙りかへつた家内中の人に囲まれて姉さんはいつものやうに臥てゐた。苦しさうであつたやうな気がしない。母が私の手を持ち添へて、枕元にある茶碗の水を細長い小さな紙に浸まして姉さんの少しあいてゐる口を塗らした事をおぼえてゐる。みんなが泣いてゐたやうだつたが私は泣いたやうに思はない。その時祖父さんがいきなり叱るやうな声で「親不孝め」と言つたので驚いた事が頭に残つてゐる。
(略)
 八月末からは臥たきりであつたやうだ。或る夕方祖父が井戸端でつるべの水を頻に浴びてゐるのを見たので暑いからだと思つてゐたが、後年それは水垢離をとつてゐたのだときかされた。これもあとで聞くと、姉さんは裏隣にあつた総持寺といふ寺の不動尊にひそかに願をかけて、父の無事息災を祈り、父の災難の身代にさせてくれと願つてゐたのださうである。その年が丁度父の厄年にあたり、しかも美術学校で父が高いところから落ちた事があつたりした。其上、父はシカゴ大博覧会へ出品する大きな木彫の猿を作りかけて、これが中々はかどらないやうな状態の時であつた。


このあたりを受けて、瀬戸氏曰く「光雲の無念さははかり知れず、何も手につかないほど落胆したが、制作を通じて気力を取り戻していったという。このエピソードを知り、老猿の迫力の秘密がわかった気がした。我々作家にとって、作品制作だけが精神を安定させ、自身を幸福に導いてくれる」。

なるほど。

他にも動物系の具象作品が多いようですが、不思議な迫力に満ちた作品群です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

油画の方でも梅原安井程度でゆきどまりではなりません。もつと大きくひらけて油画の大道に出ねばならぬと考へます。あれだけではひどく小さいです。

昭和24年(1949)6月21日 椛沢ふみ子宛書簡より光太郎67歳

自らは蟄居生活を送りながらも、美術界に対する期待は大きかったのですね。

コーラスグループ、ボニージャックスのメンバー・鹿嶌武臣さんが亡くなりました。

『日刊スポーツ』さん。

「ボニージャックス」鹿嶌武臣さん死去、90歳 家族と「じゃあまた明日ね」と会話も容体が急変

無題 日本のコーラスグループを代表する「ボニージャックス」のメンバー、歌手の鹿嶌武臣(かしま・たけおみ)さんが12日午後6時38分、脳幹出血のため、入院中だったさいたま市の病院で死去した。90歳だった。京都府舞鶴市出身。通夜および告別式は、家族の希望により家族葬として執り行う。
 男性4人のコーラスグループ「ボニージャックス」は1958年、早稲田大グリークラブ出身のメンバーで結成された。同時期に活動した慶応大学の4人グループ「ダーク・ダックス」とともに、男性コーラスグループのブームを作った。
 鹿嶌さんは初期の結成メンバーの1人で、バリトンを担当。「北帰行」(1961年)、「ちいさい秋みつけた」「琵琶湖周航の唄」(ともに1962年)、「もずが枯木で」(1963年)などのヒットを続け、1963年(昭38)年からNHK紅白歌合戦に連続出場。「一週間」(1963年)、「幸せなら手をたたこう」(1964年)「手のひらを太陽に」(1965年)などのヒット曲を披露した。
 小林旭(85)との競作となった「北帰行」では、61年の「日本レコード大賞」をフランク永井の「君恋し」と最後まで競い(8票差で次点)、「ちいさい秋みつけた」では「日本レコード大賞」童謡賞を受賞した。
 2021年にメンバーだった西脇久夫さんが亡くなった後も3人でステージをこなし、昨年の「第50回日本歌手協会歌謡祭」にも出演。鹿嶌さんは今年7月5日、「鹿嶌武臣の世界」(彩の国さいたま芸術劇場映像ホール)に出演したが、その後入院。所属する日本歌手協会によると、亡くなった当日も家族が病院に見舞った際、「じゃあまた明日ね」などと元気に会話していたが、その後に容体が急変し、帰らぬ人となったという。
 日本歌手協会では、13日午後5時56分から放送のレギュラー番組「プレイバック日本歌手協会歌謡祭」(BSテレ東)で、過去の「歌謡祭」に4人で歌唱している「ちいさい秋みつけた」を放送する予定。さらに、10月29日、30日開催(4回公演=各回出演者が異なる)の「第51回日本歌手協会歌謡祭」(江戸川区総合文化センター)の30日夕の部に、残されたメンバーの玉田元康(90)と吉田秀行(59)が鹿嶌さんをしのび、歌唱することが決定した。

2fb7f483-sコロムビアさんから平成9年(1997)にリリースされた2枚組CD「ボニージャックスの日本の唱歌」中で、光太郎作詞の戦時歌謡「歩くうた」を歌われていました。右画像、左からお二人目が鹿嶌さんです。

ボニージャックスさん、創設時のメンバーのうち大町正人さん(右端)は平成23年(2011)に、西脇久夫さん(右から2人目)は令和3年(2021)にそれぞれ亡くなっています。

大町さんが亡くなってから吉田秀行さんが加わられ、オリジナルメンバーの玉田元康さん(左端)とお二人となってしまいましたが、デュオとしてでも「ボニージャックス」のブランドを残していただきたいものです。

小ネタをもう1件。今夜のラジオ放送です。

yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

2024年9月14日(土) TokyoFM/FM軽井沢 18:00~18:30 FM大阪/FM長野 18:30~19:00

『自分にyes!と言えるのは、自分だけです』今週あなたは、自分を褒めてあげましたか? 古今東西の先人が「明日へのyes!」を勝ち取った命の闘いを知る事で、週末のひとときをプレミアムな時間に変えてください。あなたの「yes!」のために。

語り:長塚圭史 脚本:北阪 昌人 

■第472話『己(おのれ)の後悔と向き合う』 高村光太郎(彫刻家、詩人)千葉県にまつわるレジェンド②

■詩集「道程」「智恵子抄」で知られる高村光太郎。彫刻家の父・光雲との確執、智恵子との愛と死、戦争中の創作、さまざまな感情を詩集は伝えます。

■千葉県の犬吠埼や九十九里で愛する智恵子との時間をすごした彼が残した人生のyes!とは?
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通常のラジオ受信機での聴取は地域限定ですが、現代はスマホで聴取可能ですし、番組公式サイトではアーカイブとして過去の放送がアップされています。今夜の放送も来週には上がるでしょう。

ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

人体が見たくなると近くの温泉にゆきます。生きたモデルがたくさんゐます。

昭和24年(1949)6月17日 野見山朱鳥宛書簡より 光太郎67歳

人体彫刻の構想が頭に渦巻きながら、それに着手できない苦悩が垣間見えます。何の予備知識もなくこれだけ読むとただの変態ですが(笑)。

9月11日(水)、上野の東京藝術大学大学美術館さんで拝観した企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」レポート2回目です。

まず前室に展示されていた光太郎や光太郎の父・光雲らの作を堪能した後、いよいよメインの台湾人彫刻家・黄土水の作品が並ぶ奥の展示室へ。

中央にドーンと目玉作「甘露水」。
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大理石の白い石肌が何とも云えず艶やかです。ロダンの「接吻」を想起しました。大正11年(1922)に発表された作とのことですが、明治31年(1898)に大理石像が発表された(ブロンズはもっと前)「接吻」について黄が情報を得ていたかどうか、何とも云えませんが。

ただ、大理石であっても荒々しさの残るロダンとは異なり、とにかく優美な作です。そういう意味ではロダン以前のアカデミックなベルニーニあたりの影響の方が強いのかな、という感じでした。

像の足もとに配された貝など、いかにもバロック的です。
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それにしても、大理石という素材の特性をうまく生かしていると思わせる作品でした。

この時代、既に他の日本人彫刻家も大理石像を手がけており、手元にある「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)の図録などを見ると、複数の作家が大理石像を出品しています。しかし、あくまで写真を見てだけの感想ですが、「甘露水」には及ばないという感じです。中には「これを大理石で作る必要性があるの?」とか「明治の牙彫と変わらないじゃん」とかいう雰囲気のものも。作家名を挙げることは控えますが。ところでどちらにも黄の作品は出ていませんでした。

ちなみに光太郎も大正6年(1917)に大理石彫刻を手がけましたが、残念ながら作品の現存が確認できていません。

閑話休題、他の黄作品。
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ブロンズ系。つまり削って作るカービングではなく、粘土を積み重ねる塑像が原型でしょう。

ここから下は木彫です。
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カービングもモデリングも高いレベルで器用にこなしていたんだな、と思いました。それだけに「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)などに出品していないのが不思議でした。帝展等には入選歴があるのですが。
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帰りがけ、受付で簡易図録(500円)をゲット。
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全24ページの薄いもので光太郎・光雲らの出展作は網羅されていませんが、メインの黄作品は全て掲載されています。

館を出ると、コロナ禍の頃は学外の人間は立ち入り禁止だったエリアにも入れるようになっているのに気づきました。となると、ご挨拶せねば。

光太郎作の「光雲一周忌記念胸像」。
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光太郎以外によるこの手の大学功労者の像が複数並んでいますが、これが出色の出来、と思うのは贔屓しすぎでしょうか(笑)。

さて、「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」展、10月20日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。併せてすぐ近くの東京国立博物館さんの常設展「近代の美術」も。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家聯盟の展覧会がありました由いい彫刻家がせめて四五人出てくれるやうにと祈つてゐます。貴下も御精励をねがひます。世界の彫刻を日本がひきうけねばなりません。

昭和24年(1949)6月17日 西出大三宛書簡より 光太郎67歳

戦争の傷跡からも立ち直りつつあり、光太郎の期待通りいい彫刻家が出て来ます。佐藤忠良、舟越保武、柳原義達、本郷新、木内克、菊池一雄などなど。ある意味、光太郎のDNAを継ぐ者たちです。

昭和5年(1930)に満35歳で亡くなった黄なども、戦後まで生きながらえていれば……と思われますが。

上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。昨日、拝見に行って参りました。
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展示会場は3階の2室を使い、奥がメインの展示・台湾から東京美術学校に留学していた黄土水の作品群。
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手前が前座的に黄が師事した光雲や同時代ということで光太郎などの作品群でした。まずはそちらから。

いきなり最初に光雲作品が出迎えてくれます。
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作品というより、学生たちに示すための教材ですね。ラベルにも「標本」とあります。文殊菩薩像を木寄せで作る際の、いわば3D設計図のような。

同様の用途でしょう、観音像の頭部のみ。
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「聖徳太子像」は「作品」として制作されたと思われますが、ことによるとこうしたものも学生たちに手本として示されたかもしれません。
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太子、イケメンです(笑)。

さらに光雲の作が続きます。
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「鷹」。羽根の先端や俵を縛る縄など、細部まで作り込まれています。
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「蘭陵王」。以前に見た時はアタッチメントの面を装着した状態でしたが、今回は外されていて、ラッキーでした。
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「狸」。擬人化された法師の姿です。ここまでの作は、全て一度は他の機会に見たことがあるものでしたが、これは初見。その意味では最も見たかった作品でした。類例は清水三年坂美術館さんやその出開帳などで見たことがありましたが、そちらは立ち姿でした。

この「狸」は、光太郎の「蓮根」と並べてありました。父子競演です。ところでSNS上で父子を混同している投稿をよく見かけます。「高村光雲のレンコン」などと……なげかわしいところです。
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「蓮根」、令和元年(2019)に藝大さんに寄贈されたものです。翌年の「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」で展示されて以来かな、と思われます。コロナ禍もありましたし。
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光太郎作品はもう1点。卒業制作の日蓮像「獅子吼」が出ています。こちらはブロンズです。
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木を削って作るカービングと、粘土を積み上げて形にするモデリング、双方で一流の彫刻家というのも日本ではあまり多くないのでは、と、改めて思いました。光雲はカービングの人ですし、光太郎の親友だった荻原守衛にはカービングの作は無いと思われます。

その守衛の「女」。
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ブロンズは一つの型から鋳造したものが複数存在することが多いのですが、「女」も全国にどれだけあるのか当方も存じません。都内だけでも少なくとも5点は把握していますが。

こちらには「伊藤美術鋳造研究所鋳」の刻印。
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光太郎最後の大作「乙女の像」の鋳造を担当した伊藤忠雄の工房です。「おお!」と思いました。

カービングにもどると、光太郎の同級生だった水谷鉄也、光雲高弟の一人・平櫛田中など。

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冒頭の「文殊木寄」や「観音像頭部」のように、教材として使われたであろう手板がずらっと。この手のものが一時、大量に処分されてしまったという話を聞いたことがあるのですが、現存もしているのですね。いちいち作者の銘が入っていません。
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モデリングの方では、中原悌二郎、池田勇八、石井鶴三、朝倉文夫など。
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こちらはほとんど撮影禁止でしたが絵画も。津田青楓、和田英作らにまじって、彫刻科を卒(お)えてから光太郎が入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二など。
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そしていよいよ今回の目玉の黄土水ですが、長くなりましたので、また明日。

【折々のことば・光太郎】

田植の頃に花巻から賢治子供の会の皆さんがはるばる来てくださることもう三度目となりほんとに一年に一度めぐつてくるこよない幸福の日と思ひました 昨日は「雁の童子」だつたので一入感動いたしました 子供等は無邪気にやるのでせうが作の持つ美しさと深さとが自然と素直に表現せられて心にしみ入るやうでした。


昭和24年(1949)6月13日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎67歳

児童劇団「花巻賢治子供の会」の太田村公演に対する礼状の一節。そもそもは光太郎に見てもらうために旧太田村で公演を打っていました。













上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。戦前の台湾から藝大さんの前身・東京美術学校に留学し、光太郎の父・光雲に師事した黄土水(こうどすい)の作品を中心とした展示です。台湾の国宝に指定された大理石の「甘露水」ほか黄作品10点と、師・光雲、そして同時代ということで光太郎らの作品も出ています。

展示開始前日の9月5日(木)、『毎日新聞』さん夕刊で、1面トップと社会面トップで長大な関連記事が出ました。あまりに長いので全文はご紹介しませんが、非常に読み応えのあるいい記事でした。それによると、今回の目玉でフライヤーにも使われている「甘露水」は、黄が昭和5年(1930)に歿したあと台湾に運ばれましたが、その存在が忘れられていき、昭和33年(1958)には元の保管場所から移される中で行方不明となっていたそうです。それが令和3年(2021)に現存が確認され、国宝指定されました。

背景には15年戦争による日台の複雑な関係が。中国本土でもそういうことがありましたが、戦後、日本がらみのものはことごとく排斥の対象となり、そのため「甘露水」も移送途中で放棄に近い状態となるなどぞんざいな扱いを受け、このままでは処分されてしまうと危惧した芸術に理解のあった医師が秘匿していたというのです。また、汚損を修復した日本人技師の苦労話なども紹介されていました。

8月30日(金)のやはり『毎日新聞』さんには、そのあたりの細かな点は出ませんでしたが、ダイジェストというか、9月5日(木)に出る記事の予告編のような記事が。そちらは短いので引用させていただきます。

所在不明60年後、台湾彫刻の幻の傑作「発見」 東京芸大で展示へ

020 大正時代に東京美術学校(現・東京芸術大)に入学し、高村光雲に師事しつつ、自ら西洋彫刻も学んだ台湾人の天才彫刻家、黄土水(こうどすい)(1895〜1930年)。その「幻の傑作」とされた彫像「甘露水」(1919年)が新型コロナウイルス禍の2021年5月、台湾中部のプラスチック工場に置かれた木箱の中から姿を現した。
 戦後に行方不明になってから、実に60年以上の歳月が流れていた。その「発見」は台湾の美術関係者に衝撃を与えた。
 甘露水は1921年に日本の帝展に入選した作品。大理石の彫像で、裸身の女性が大きな貝がらを背に立つ姿から、「台湾のビーナス」とも称される。ただ、西洋のビーナスの姿とは異なる。西洋の方は恥ずかしそうに身をよじっているのに対し、黄の女性像は顔を上げ、堂々とした姿だ。
 黄の死後、日本から台湾に運ばれた甘露水は、台北市の台湾教育会館(現・二二八国家記念館)が所蔵していたが、戦後、この建物は台湾省臨時省議会に替わった。議会は58年に台中への移転が決まり、4月に建物内の文物が台中に運ばれた。ところが、その引っ越しの過程で甘露水は一時、台中駅に放置され、その後こつぜんと姿を消した。
 台湾美術史に重要な位置を占める甘露水を多くの美術関係者が捜し求めた。「発見」に尽力した台北教育大北師美術館創設者で総合プロデューサーの林曼麗(りんまんれい)氏は、曲折を経た約60年の間、甘露水が無事だったことは奇跡に近いと考えている。
 なぜ木箱の中にあったのか。入選から100年という節目の年に姿を現したのは単なる偶然なのか。その驚きの秘話には、台湾の激動の歴史も大きく絡んでいた。
 彫像は黄の母校、東京芸術大の大学美術館で9月6日から展示される。
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当方、本日これから拝観に行って参ります。当初あげられていなかった「出品目録」が公式サイトにアップされまして、光太郎作品は予想通り木彫の「蓮根」(昭和5年=1930頃)とブロンズの「獅子吼」(明治35年=1902)ですが、光雲の木彫が6点も出ています。これは貴重な機会です。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

例年の通りいろんなものを作つてゐますが夜の間に狐や兎が畑を掘り起こして肥料に入れたヌカや魚の骨などをたべてしまひ、苗を倒すので困つてゐます。

昭和29年(1954)6月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎67歳

令姪への微笑ましい書簡の中から。もっとも光太郎にとっては死活問題に近いのかも知れませんが(笑)。

京都府の書画骨董店・思文閣さん。代表取締役の田中大氏は、テレビ東京系「開運! なんでも鑑定団」鑑定士のお一人としてご活躍中です。

年に数回、「大入札会」と銘打ち、「下見会」として展示を行った上でのオークション形式での販売にも力を入れられています。昨年は光太郎の父・光雲の木彫「聖徳太子像」や光雲の書なども出品されました。
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当方、だいぶ以前にオークション形式でない出品物(楠公銅像の錦絵――一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。)を一度購入、それから同社刊行の書籍を3回程購入しました。平成8年(1996)に思文閣美術館さんで開催され、観に行けなかった智恵子抄展の図録、同じく平成23年(2011)に大阪の逸翁美術館さんでの「与謝野晶子と小林一三」展の図録。後者は平成30年(2018)に神奈川近代文学館さんで開催された特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」にも出品された光太郎と晶子のコラボによる屏風絵2種が載っており、亡き北川太一先生に頼まれて2冊買いました(どちらもまだ在庫があるかも知れません)。
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その程度の購入歴なのですが、思文閣さん、律儀に毎回目録を送って下さっています。オークション形式でない通常の販売品の目録も。恐縮です。

で、今月開催の大入札会の目録も。
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手元に届く前にネット上の情報で知り、仰天していたのですが、今回、光太郎の書が2点出ています。

2点とも色紙ですが、まず短歌「吾(われ)山に流れてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり」。
吾山に
もう一点は詩、というか七五調四句の今様スタイル。
観自在
「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。

どちらも「中原綾子旧蔵」のキャプション。中原綾子といえば、つい先だって、令孫から光太郎の中原宛書簡がごっそり花巻市に寄贈されました。その際に、「書は寄贈されませんでしたか」と問い合わせたところ、「それはなかった」とのことでした。なぜそんな質問をしたかというと、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に、光太郎の書が2点、口絵として使われていたためです。

1点は「不可避」と書いたもの。
灰の詩 不可避
そしてもう1点が、今回、思文閣さんで出品している「観自在こそ」です。
灰の詩 観自在
これが出て来たので、仰天した次第です。

「不可避」は思文閣さんの出品に含まれず、逆に思文閣さんで出している「吾山に」の書は中原の著書に使われていません。

ちなみに「吾山に」「観自在こそ」「不可避」、それぞれ光太郎が戦後に好んで書き、複数の揮毫が知られています。その意味では新発見ではありませんが。

さて、冒頭近くに書いた通り、下見会が昨日から開催中です。

令和6年9月 思文閣大入札会 下見会

期 日 : 2024年9月9日(月)~9月15日(日)
会 場 : ぎゃらりい思文閣 京都市東山区古門前通大和大路東入ル元町386
時 間 : 10:00~18:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

光太郎以外も逸品ぞろいで、目録を見ただけでクラクラするレベルです。

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ぜひ足をお運び下さい。

それから、先回りしておきますが、光太郎書を落札された方、死蔵にならないよう、依頼があれば快く貸し出すといった対応をしていただければと存じます。

 【折々のことば・光太郎】

其後真剣に考へてみましたが、東京へ行つてアトリエを建てる金がまづありません。アトリエが無いとしたら、東京に居ても此処に居ても同じことです。 原稿でわづかに金をとるとしても彫刻ではとても取れないでせう。従来とても彫刻では殆ど金をとつてゐなかつた次第です。

昭和24年(1949)6月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

当会の祖・心平らは、花巻郊外旧太田村での光太郎のある意味凄惨な蟄居生活を見て、何よりその身体を心配し、再三、上京を促しました。

この頃には後に光太郎が借りる中野のアトリエ(現在、保存運動を行っております)が貸し出され始めたと思われますが、そういうシステムはおそらくそれまでに無く、心平も光太郎も気づかなかったのではないでしょうか。

仙台市から演奏会情報です。

サロンコンサート《 いざなう月の琴》 vol.32 ~古典調律で楽しむ, 小さなお部屋コンサート『 ひとり シューマンと智恵子抄 』クララ・シューマンの生誕日に寄せて~

期 日 : 2024年9月13日(金)
会 場 : アクテデュース 宮城県仙台市大町1-1-15
時 間 : 19:00~
料 金 : 3,000円

出 演 : 齋藤卓子

クラシックピアノの名曲はもちろん、初めて触れるかもしれない耳馴染みない楽曲も、親しみ易く、お話を交えて御案内していきます。街中の隠れ家のような気が置けない温かな空間で、ゆったりと音楽に浸ってみませんか?興味をお寄せ頂けましたら是非お出掛け下さい。

開催の9月13日は、ドイツ・ロマン派の作曲家ロベルト・シューマン最愛の妻にしてピアニストのクララ・ヴィーク=シューマンの生誕日に当たります。それに因み、今回は高村光太郎の『智恵子抄』に寄せて選んだロベルト・シューマンの作品を、詩の朗読と共にお楽しみ頂きたいと思います。

この演目は2019年にも取り上げていますが、「文学と音楽の融合」という試みとしてだけでなく、様々な要素が思い掛けない照応を見せ、お客様方にもその化学反応を楽しんで頂けました。この度また向き合うことで私自身にも新たな発見があると胸を躍らせています。「どうして智恵子抄とシューマン???」なのかは演奏会でのお楽しみに。9月13日の晩、会場にてお待ちしております。

尚、御用意できるお席に限りがあるため御予約をお願い致します。恐れ入りますが、前もってお問合せ下さいませ。アクテデュース 022-265-5350
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ピアニスト齋藤卓子 (さいとうつなこ) さん、案内文にある通り、令和元年(2019)にも同じ会場で「高村光太郎『智恵子抄』と共に」としてサロンコンサートをなさいました。

また、平成24年(2012)にはやはり仙台市のその頃長町にあったびすた~りさんで「ピアノ演奏と朗読で綴る愛の世界 シューマンと智恵子抄 Part2.高村智恵子誕生の日に」。この際は朗読の荒井真澄さん、墨絵の一関恵美さんとのコラボでした。
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さらに平成25年(2013)の第57回連翹忌では、齋藤さんのピアノに乗せて一関さんのライブペインティングを御披露いただきました。
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今回はお一人でピアノと朗読をなさるのだと思われます。

サブタイトルに「古典調律で楽しむ」とあり、現代で一般的な平均律ではないセッティングだそうで。聴く人が聴けば明らかに違うのでしょうね。当方、聴き分ける自信は全くありませんが(笑)。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

龍星閣の活動をはじめられたる趣、大慶に存じます

昭和24年(1949)5月10日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

龍星閣」は昭和16年(1941)に初版が刊行された『智恵子抄』の版元。戦時中には他の光太郎著書も複数刊行しました。『智恵子抄』は戦時にも関わらず昭和19年(1944)の13刷まで版を重ねましたが、戦争の激化に伴い、龍星閣は休業。

この年、社主の澤田が出版業を再び始め、翌年には『智恵子抄その後』、さらに2年後には『智恵子抄』の復元版(共に赤いクロス装のもの)を刊行します。

千葉県立美術館さんでは「移動美術館」と称し、所蔵品の出開帳を毎年行っています。毎回異なるコンセプトでテーマを決めています(光太郎をメインテーマにして下さった回もありました)が、そのテーマに縛られない名品も別に展示し、その中にはほぼ毎回光太郎ブロンズも含まれます。

今回も。

多古町合併70周年記念 第48回千葉県移動美術館~田んぼの美~

期 日 : 2024年9月15日(日)~10月8日(火)
会 場 : 多古町コミュニティプラザ 千葉県香取郡多古町多古2855
時 間 : 9時~16時
休 館 : 月曜日 ※9月16日、23日は開館
料 金 : 無料

県立美術館では、より多くの方に作品鑑賞の機会を提供し、芸術に触れ親しんでいただくため、県内各地で収蔵作品を展示する「千葉県移動美術館」を昭和52年から開催しています。

48回目となる今回は、多古町合併70周年を記念し「多古町コミュニティプラザ」を会場として、「田んぼ」をテーマに開催します。地域の歴史と稲作が密接に結びついてきたこの地で、私たちの暮らしと田んぼ、そして美術の間にある深い関係性を探ります。

主な展示作品
・堀江正章《耕地整理図》1901-02年
・浅井忠《農家風俗画手塩皿》1902-07年
・津田信夫《鯰》1941-43年

ギャラリートーク
県立美術館の担当学芸員が作品の見どころなどを解説します。(事前申込不要)
 9月22日(日)11時~ 9月28日(土)13時30分~ 料金 無 料
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[]光太郎はフライヤーに名があるものの出品作品名が明記されておらず、問い合わせたところ、ブロンズの代表作「手」を出すとのことでした。

千葉県と光太郎の縁も意外と深い(銚子犬吠埼で智恵子と愛を誓ったり、九十九里浜で智恵子が療養していたり、成田三里塚の親友水野葉舟をたびたび訪ねたり)ということで、同館では光太郎ブロンズを8点(すべて没後鋳造ですが)収蔵してくださっていて、花巻高村光太郎記念館さん、信州安曇野碌山美術館さんにつぐコレクションです。同館コレクションとしても一つの目玉となっているため、そこからも選ぶというわけでしょう。

他に光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝となった豊周の師・津田信夫の鋳金作品も。
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制作年が昭和16年(1941)~同18年(1943)ということで、大正期に作られた光太郎の木彫「鯰」からのインスパイアなのでしょうか?

それからメインテーマの「田んぼの美」。ちなみに会場の多古町はブランド米「多古米」の産地で、町のゆるキャラ「ふっくらたまこ」もお米由来です。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

去年十月に理髪したきりゆかないので髪はのび放題で俊寛さまのやうな事になりました。

昭和24年(1949)6月2日 宮崎稔宛書簡より光太郎67歳

俊寛さま」は平安時代末、鹿ヶ谷で平家政権転覆を目論む会合を開いたかどで薩摩の鬼界ヶ島に流された僧侶。のちに共に流された二人は恩赦で帰京しましたが、俊寛はその対象とならず、島に残されました。「平家物語」の有名な一場面ですし、歌舞伎の演目にもなっていますね。
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右上は翌年の写真ですが、なるほど、ボサボサの頭が俊寛感を醸し出しています(笑)。

光太郎、自らの山小屋生活を「自己流謫」と名づけました。「流謫」は「流罪」と同義。公的には戦犯として訴追されることはありませんでしたが、自らを罰したわけです。その意味では俊寛にシンパシーを感じるところもあったのでしょうか。

今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエの保存のための組織です。先頃、会としてのホームページも出来、去る9月4日(水)には5度目くらいの会合を開き、今後の活動等について確認いたしました。

再来週くらいには詳細情報を出せるかと存じますが、11月には中野区内でアトリエに関する企画展示を行うことに決定しました。関連行事として建築家の方による中西利雄アトリエの歴史的価値、設計者の山口文象について等のご講演、会の代表・渡辺えりさんと当方による光太郎や中西アトリエをとりまくもろもろについてのトークショーなどが予定されております。

ホームページ上では保存に賛同して下さる方に署名をお願いしており、電子署名、紙媒体による署名と双方を用意してあります。さらにカラー版のフライヤーを兼ねた署名用紙を作って下さった会員の方がいらっしゃいまして、下に載せておきます。
フライヤー
署名用紙カラー
事業所さんや店舗さん等の場合、可能であれば裏表で印刷していただいて、カウンターなどに置いていただき、いらした方に署名をお願いしていただけると助かります。

適当なところでFAXまたはスキャンデータでお送り下さるか、さらに用紙そのものを下記あて郵送して下さっても結構です。

 〒113-0031 文京区根津2-37-4-801 曽我貢誠

さらには保存運動につき、SNS他、さまざまな形で「こんな動きがあるよ」と拡散していただければ幸いです。各種マスメディアさん等の取材も大歓迎です。

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会
Home | save-atelier-n (jimdosite.com)

どうぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

六月十一日には先日お送りした原稿にある通り裏山の展望台に立つて南方はるかに東京の空を眺めませふ。あなたの舞踊にのり移つた智恵子の事を思ひませう。帝劇で若し眼のあたりあなたの舞踊を見たら小生の眼は涙でくもつてしまふでせう。

昭和24年(1949)5月23日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

六月十一日」は、舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを行う日です。「原稿」はそのパンフレットに掲載されました。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻の花巻南高さん。光太郎と交流のあった宮沢賢治の妹にして、賢治の「永訣の朝」等に謳われたトシの母校であり、トシ自身も短期間教壇に立っていました。

そちらの文芸部さん発行の部誌『門』の第18号をいただきました。
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まず美しい表紙に驚きましたが、部員の生徒さんが和紙を染めた夾纈(きょうけち)染めだそうで。これは正倉院御物にも使われている技法です。美術部さんとコラボして染めにチャレンジされたとのことですが、よき伝統を受け継ぎ、新しいものをクリエイトしていくという姿勢には感心させられました。

昨年送っていただいた第17号でもかなりの分量で光太郎に触れていただきましたが、今号はさらにパワーアップし、2箇所に分けて「特集Ⅰ わたしたちの高村光太郎」と銘打ち、約30ページ(全体の3分の1ほど)費やして下さいました。ありがたし。
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1箇所目は座談「わたしの高村光太郎を語り合う」と題し、当地で光太郎顕彰活動に取り組まれているやつかの森LLCさんのお三方、それから戦後間もない昭和20年代から児童劇団「花巻宮沢賢治子供の会」で活動されていた熊谷光さんへの聞き書きです。

特に「食」に軸足を置いた活動をなさっているやつかの森LLCさん、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」や、市内東和地区の花巻ワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」などで、光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジなどをなさっています。そうした中で改めて見えてきた光太郎の姿などのお話は興味深く拝読させていただきました。

それから実際に生前の光太郎をご存じの熊谷さんのお話は、実に貴重な証言と存じます。「花巻宮沢賢治子供の会」は賢治の童話を劇化、花巻の中心街と、光太郎が蟄居していた旧太田村の山口分教場(のち山口小学校)で公演を行っていて、光太郎はそれを実に楽しみにしていました。熊谷さんの回想から。

私たちが行った時、先生はとても喜ばれて、帰りは山口小学校の道路の下の大きな道路まで出ていらして、私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくださいました。それが、すごく記憶に残っております。

子供たちが見えなくなるまで手を振り続けた光太郎を思い浮かべると、うるっときてしまいました。子供のいなかった当時60代後半の光太郎、「花巻宮沢賢治子供の会」の少年少女たちを本当の孫のように感じていたのかもしれません。
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上の画像では、熊谷さん、最前列一番左だそうです。今年亡くなった、賢治実弟清六令嬢の宮沢潤子さんもメンバーでした。

そもそもなぜ「花巻宮沢賢治子供の会」ができたのかについても証言が。それによると賢治の教え子だった故・照井謹二郎氏が、戦後になっても戦争ごっこをして遊んでいる子供たちを見て、これではいかん、と思ったのがきっかけの一つだそうです。なるほど、と激しく納得しました。

ところでまだ詳細情報が出ていませんが、10月27日(日)、熊谷さん他「花巻宮沢賢治子供の会」に在籍されていた方、清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でまた花巻にてトークショーを行います。詳しく決まりましたらまたご紹介いたします。

特集のうちのパートⅡは、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」のレポートがメイン。この際は文芸部の生徒さんたちも登壇し、発表や朗読をなさいました。それから家庭クラブの生徒さんと共同で「智恵子のエプロン」の再現。

昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と吉田幾世」で、当方が大正期の『婦人之友』に載った智恵子デザイン・制作のエプロンについてご紹介したところ、それを復刻、披露して下さいました。
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実際に制作に当たった家庭クラブの生徒さんの文章も掲載されています。柿渋の酒袋(おそらく智恵子が実家の長沼酒造から持ってきたか取り寄せたか)が分厚くてミシン縫製に手こずったというお話や、酒袋の規格でほとんどそのまま裁断しなくて使えたというお話など、やってみないとわからないことも。素晴らしいと思いました。

その他、詳しくご紹介する余裕がありませんが、生徒さんたちの詩歌や小説、戯曲などにも感心させられましたし、活動を支える顧問の先生の御尽力なども垣間見えました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

やさしいお手紙は山の中に一人で住む六十六歳三ヶ月の老人の心を静かに慰めてくれました。殊に新しい村の娘さんからなので尚よろこびました。


昭和24年(1949)6月3日 山本武子宛書簡より 光太郎67歳

新しい村」は正しくは「新しき村」で、『白樺』時代からの光太郎の盟友・武者小路実篤が開いた生活共同体。農耕や芸術制作を基本に据え、その意味では花巻郊外旧太田村の光太郎のライフスタイルとリンクする部分も。

現在も埼玉県毛呂山町で存続していますが、現状はかなり厳しいようです。

先例があるのかもしれませんが、面白いことを考えるものだな、と感心しました。県としての取り組みです。

東京にある福島ゆかりをめぐるスタンプラリー “ディスカバーふくしま in TOKYO”

期 日 : 2024年9月6日(金)~12月1日(日)
会 場 : 東京都内11ヶ所のラリースポット
 (1)野口英世像(上野)  (2)ウルトラマンシンボル像(祖師ヶ谷) 
 (3)巨大赤べこ(常盤橋) (4)瓜生岩子像(浅草) (5)松平定信墓(清澄白河)
 (6)三春桜(赤坂) (7)オリンピックマラソン折返点記念碑(調布)、
 (8)紺碧の空歌碑(早稲田) (9)レモン哀歌の碑(品川) (10)東京都庁(新宿) 
 (11)日本橋ふくしま館MIDETTE
料 金 : 無料

参加方法:
 スマートフォンの専用アプリをダウンロードの上、対象のラリースポットを訪問すると、GPS機能によりアプリ内でスタンプが取得できます。
 取得したスタンプ数に応じて、ふくしまの魅力ある賞品が当たります。

■賞品:参加賞、4スポット賞(250名)、7スポット賞(100名)、コンプリート賞(5名)
 ※参加賞はもれなくプレゼント、他は抽選制です。コンプリート賞はスタンプラリー限定のオリジナル赤べこ、他賞品の詳細は特設サイトをご覧ください。
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福島を代表するアイテムの「赤べこ」や「三春の滝桜」、そして都内に於ける県の拠点の一つにしてアンテナショップの「日本橋ふくしま館MIDETTE」さん、それ以外は福島出身者ゆかりのモニュメントなどですね。「ウルトラマン」が円谷英二の須賀川市、同じ須賀川から「マラソン」で円谷幸吉、「紺碧の空」は古関裕而で福島市と、ぱっと分かる方はかなりの福島通(つう)でしょうが(笑)。

ありがたいことに、二本松出身の智恵子関連で「レモン哀歌詩碑」も入れて下さいました。
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ところで、「あれ、ちょっと偏ってるな」という気もしました。福島県は最も内陸の「会津」、太平洋沿岸の「浜通り」、両者に挟まれた「中通り」の三地域に分けられますが、全地域に関わる「MIDETTE」さんを除くと、「浜通り」関連が皆無です。「浜通り」といえば、フラガールや相馬野馬追が有名ですし、さらには出身者として当会の祖・草野心平(笑)。まぁ、都内にはそれらに直接関わるモニュメントなどがないということなのでしょうか。

ちなみに賞品は以下の通り。
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奮ってご応募下さい。

それから、他の道府県、もしかすると市町村単位でも似たようなことが可能かも知れません。郷土愛を育むにはいい取り組みですので、各地の自治体の皆様、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

山ではまだ花がさきません。山々にも雪が残って居り、風は中々寒いことです。それでもゼンマイ、コゴミの類は出て来ました。ヘビも出て来ました。木が多く伐られたので小鳥が少くなつたやうです。カツコウもホトトギスもまだ来ません。ウグヒスもまだ来ません。山鳩の声は時々ききますが。


昭和24年(1949)5月5日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

」は桜です。「山々にも雪」は蟄居していた山小屋周辺というわけではなく、そこから見えるもっと高いところという意味でしょう。五月にウグイスがまだ鳴いていないというのは意外でした。

会期残りわずかですが……。

齊藤秀樹展 ― 一木(いちぼく)―

期 日 : 2024年8月28日(水)~9月9日(月)
会 場 : 新宿高島屋10階美術画廊 渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番2号
時 間 : 午前10時30分~午後7時30分 最終日のみ午後4時閉場
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

齊藤秀樹氏は、1969年東京に生まれ、1993年大阪芸術大学芸術学部美術学科彫刻コース専攻科修了。自然をテーマに掲げ、猫やトカゲ、金魚や蝶など子供の頃に触れてきた身近な生き物や植物たちを実物大の木彫にて表現し、個展・グループ展、アートフェアなど精力的に発表を続けています。 その精巧な描写、実物大にこだわり制作されていくことで、今にもそこから動き出すかのような空間を放ち、情景さえも想起させてしまうリアルな表現は、動植物の息吹やぬくもりをも感じさせると同時に、木彫だからこそ得られる「木」そのもの香りやぬくもりをも感じることができます。 今展では、大人になり忘れてしまいがちな、人々の心の中にある自然との「思い出」や「記憶」をそれぞれに喚起する最新作の一木造りの木彫達を中心に、様々な自然に生きる生物たちを一堂に展観いたします。この機会にぜひご高覧ください。

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木彫作家の齊藤氏、動物をモチーフとした作品等も手がけられ、その方面での大先達である光太郎の父・光雲作品オマージュなども作られています。

今回展示されている「矮鶏(ちゃぼ)」。氏のX(旧ツィッター)投稿から画像をお借りしました。
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同じ作品は一昨年、西武池袋本店さんで開催された「齊藤秀樹 木彫展~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~」でも展示されました。

宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の光雲木彫「矮鶏」(明治22年=1889)の雄鶏の方をモデルとなさったものです。
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光雲の「矮鶏」、当初は一般人から注文を受けて制作されたものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが観覧に来た明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その経緯や制作の苦心譚など、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。


これ以外にも「鳥獣戯画」オマージュの作品、オリジナルの愛らしい柴犬や保護猫なども展示されています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

三好達治さんが来訪されたのには驚きました。どういふわけで来訪されたのかいまだに分かりません。訪問記でも書かれるのでせうか。


昭和24年(1949)5月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村にひょっこり三好がやってきたのは前月のことでした。この時の模様を三好は「高村光太郎先生訪問記」(『文芸往来』第三巻第七号)に詳しく書きました。ただ、初めからそのつもりだったわけでもないようで、こう書いています。

 妙なことをいふやうだが、もともと私は格別な用件をもつて、こんな山間に高村さんをお訪ねしたわけではなかつた。久しぶりで一寸お目にかかりたかつた、さうして暫く雑談でも承ればもう私の望みは足りるといふほどの気持であつた。

三好と光太郎、戦前から面識はあったのでしょうが、それほど親しかったわけではなさそうです。それでも三好にすれば、この時期に会っておきたいと思わせる何かが光太郎にあったのでしょう。

あくまで想像ですが、やはり戦争の問題が背後にあるのではないかと思われます。三好も光太郎同様、戦時中には多くの翼賛詩を書いていました。

智恵子のソウルマウンテン、福島二本松の安達太良山腹で朗読会が開催されます。

安達太良山「智恵子抄」朗読会

期 日 : 2024年9月16日(月・祝)
会 場 : 薬師岳パノラマパーク 福島県二本松市永田長坂国有林
時 間 : 10:00~
料 金 : 5,000円(含ロープウェイ料金、昼食代)

ほんとの空がある安達太良山で「智恵子抄」の朗読をしてみませんか? 生涯の思い出に是非ご参加ください。

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智恵子の故郷・二本松で、智恵子顕彰事業をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの主催です。

同会の発会20周年、さらに光太郎智恵子結婚110周年、光太郎の詩集『道程』刊行110周年記念だそうです。

朗読会会場は、安達太良山の奥岳登山口から出ているロープウェイで上がっていった山頂駅付近の薬師岳パノラマパーク。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来で「この上の空がほんとの空です」と刻まれた標柱が立っています。
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同会ではたびたびこの場所での朗読会を開催してきました。平成28年(2016)の際の新聞報道がこちら

朗読会自体は10:00~の予定ですが、8:15に智恵子生家/智恵子記念館の駐車場を出発、二本松駅と岳温泉を経由して奥岳登山口まで会員の方の車で。事前に申請しておいて適当なところで乗せていただくということのようです。

終了後また車に分乗して、二本松市に隣接する大玉村の森の民話茶屋さんに移動、そこで昼食兼交流会、すべて終わったところでまた適当なところまで送っていただけるそうです。

紅葉シーズンには未だ早いかと思われますが、当日は、少し前にご紹介した「あだたらイルミネーション」期間中です。今年初めてお目見えした「「あ」のオブジェ」などもご覧頂けるかと存じます。

申込先等、フライヤー画像をご参照の上ぜひご参加ください。

【折々のことば・光太郎】

昨日は小学校の運動会があり、小生も競争に出ましたがビリでした。


昭和24年(1949)5月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

この年か翌年(日記が失われており、特定できません)の運動会の様子が、元山口小学校校長の浅沼政規の回想に綴られています。

 午後の競争が開始。年長組の《びん釣り競争》となりました。この競技へ先生の参加をお願いすると、快く出場して下さいました。競技が始まりました。
 ひときわ会場が賑やかになり、拡声器の音も、先生への応援も大きくなりました。
 一等、二等とゴールしてきます。先生は少し手間取ったようでしたが、釣れたびんを手に、大股で走ってゴールインしました。一同からすごい拍手です。
 そして、先生もみんなと一緒に会長席に向かい、会長から商品を受け取られました。
 「しばらくぶりで走ってみましたが、にわかに走ったものですから、遅れてしまいました。でも、みんなと走れて愉快でしたよ。」と、おっしゃいました。
 この時の先生の姿に接した部落の人たちは、自分たちと親しく交わって下さろうとするお気持ちに、感謝の念を深くしました。
(浅沼政規『山口と高村光太郎先生』平成7年=1995 高村記念会)

微笑ましいエピソードですが、単にそれだけではありません。戦前には「芸術家あるある」で「俗世間とは交わらない」、戦時中には一転して民衆を戦争に駆り立て、と、いびつな形でしか世の中と関わってこなかった光太郎、この花巻郊外旧太田村に住み始め、ようやく理想的な社会との関係性が構築できたようです。

主催者側発表には情報が無く、見に行かれた方のSNS等から「そうだったんだ」ということに気づく場合が時々あり、今回もそうでした。

福島ビエンナーレ2024"風月の芸術祭 in 白河―起" 

期 日 : 2024年8月24日(土)~9月15日(日)
会 場 : 福島県白河市
       白河市立図書館 りぶらん
        開館時間 10:00~20:00(土曜・日曜は9:30~18:00 休館日 月曜日)
       白河文化交流館コミネス
        開館時間 9:00~22:00(月曜は20:00まで 休館日 火曜日)
       しらかわ観光ステーション
        開館時間9:00~18:00 期間中無休
       マイタウン白河「風月の芸術祭」総合案内所
        展示時間10:30~18:30(施設は 9:00~21:00 期間中無休)
       旧脇本陣柳屋旅館蔵座敷
        開館時間 10:00~16:00(休館日 月曜日・祝日の際は火曜日)
       コミュニティ・カフェ EMANON
        営業時間 平日 15:00~20:00 土日 13:00~19:00(水曜・木曜定休日)
       翠楽苑
        開館時間 10:00~17:00(期間中無休)
       龍興寺
        展示時間 9:00~16:00
       だるまランド
        営業時間10:00~17:00
       南湖公園 芝生広場 湖畔 千世の堤 谷津田川(土橋~新橋)
料 金 : 基本的に無料、施設により要入場料

 本企画は、白河市の歴史、文化を基盤として、現代アートの創作、鑑賞、体験等の活動を展開するものです。
 「風月の芸術祭」というタイトルは、江戸時代の白河藩主、松平定信公の雅号「風月」に由来します。自然を愛で、文化を享受する心を伝えています。「風月」をテーマに、松平定信と関連する白河小峰城や南湖公園、白河関跡、奥州街道にある城下町の歴史・文化資源を活用し、多種多様なアート(絵画、彫刻、現代美術、書、文学、舞踊、演劇、映像作品、アニメーション等)の展覧会、上映や公演、講演会、シンポジウム、ワークショップを開催します。
 国際的なアーティスト等を招待し、地域住民との協働によって、雰囲気のあるまちづくり、地域を巡回して楽しめるエリア形成に取り組む中で、白河市を広くパブリック・リレーションズ( Public Relations; PR )します。

参加アーティスト
 吾子可苗/ 荒井経/ アヤ・カザリス/ 飯野和好/ 井波純/ 伊藤公象/ 伊藤有壱/
 今井トゥーンズ/ 大竹京/ 岡村桂三郎/ 金子富之/ カネコマスヲ/ 北村はるか/
 木下史青/ 黒沼令/ 鴻崎正武/ 小澤基弘/ 小松美羽/ 五味太郎/ 斎藤岩男/
 ダルライザー/ 柴﨑恭秀/ 白鳥建二/ 鈴木美樹/ ボンド・亜貴/ 関本創/ 鳥山玲/
 野沢二郎/ 灰原千晶/ 林剛人丸/ 萩原朔美/ 福井利佐/ 船井美佐/ 三沢厚彦/
 宗像利浩/ 森合音/ リチャード・ボンド/ 山田慎一/ ヤノベケンジ/ 艾沢詳子/
 与那覇大智/ 若木 るみ/ 王尽遥/ 渡邊晃一/

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「福島ビエンナーレ」。ビエンナーレですから2年に1度の開催。県内各地の自治体さんを持ち回りでメイン会場とし、今回は白河市が会場です。今回、というか、前々回、前回も白河市での開催でした。

かつて平成28年(2016)平成30年(2018)には智恵子の故郷・二本松市が会場となり、智恵子生家でも展示が行われました。平成28年(2016)には墨絵や版画などを手がけられている小松美羽氏、平成30年(2018)が切り絵作家の福井利佐氏が、それぞれ智恵子生家でのインスタレーションをなさいました。間に挟まれた平成29年(2017)には、福島ビエンナーレではない「重陽の芸術祭」で、清川あさみ氏の刺繍作品の展示も行われました。

さて今回、翠楽苑さんというところで小松氏の作品の展示が行われており、「智恵子抄」インスパイアの作品も、という情報をSNS上で見付けました。使用許可を頂きましたので、見に行かれた方の撮影された画像を転載させていただきます。
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なるほど、平成28年(2016)の智恵子生家での展示と確かによく似ています。智恵子と共に、安達ヶ原の鬼婆からのインスパイアもあるようです。

ちなみに平成30年(2018)に智恵子生家で智恵子抄オマージュの作品をを出された福井氏もご参加。作品は「マイタウン白河 ギャラリー」というところで展示されています。だるまをモチーフとした切り絵で、今回は光太郎智恵子と関わらないようです。

小松氏、福井氏、その後の令和2年(2020)と令和4年(2022)のビエンナーレにもご参加なさっていました。もしかするとその際にも「智恵子抄」がらみの展示があったのかも知れませんが、不明です。

さて、今回、他に絵本界の大御所・五味太郎氏、光太郎と交流のあった萩原朔太郎令孫の萩原朔美氏(映像作家でもあらせられたそうで、存じませんでした)、かつての重陽の芸術祭でのメインオブジェを作られたヤノベケンジ氏などもご参加。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

何よりもあせる事はよくありません。静かに着実に進むべきです。

昭和24年(1949)4月2日 鈴木政夫宛書簡より 光太郎67歳

鈴木は愛知岡崎出身の彫刻家。主に石彫を手がけていました。花巻郊外旧太田村に蟄居していた光太郎の元に押しかけ弟子を志願、それに対する返答の一節です。

若干先の話ですが、申込締め切りが近いもので……。

第2回 文(ふみ)の京(みやこ)ガイドツアー 「Bーぐる」がゆく本郷台地~須藤公園から六義園~

期 日 : 2024年9月28日(土)
会 場 : (集合)須藤公園―島薗邸―旧安田楠雄邸庭園―宮本百合子旧居跡―
      高村光太郎旧居跡―動坂遺跡―鷹匠屋敷跡―天祖神社―名主屋敷―富士神社―
      東洋文庫―六義園(解散) 全行程約2㎞
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料(六義園内庭園ガイドツアー 一般300円、各種割引等ありは自由参加)
〆 切 : 9月10日(火) 電子申請又は往復はがき
       〒112-0003 文京区春日1-16-21シビックセンター1階文京区観光インフォメーション

須藤公園を出発し、Bーぐるの路線に沿って、六義園まで区公認の観光ガイドが案内します。
※1グループ2人まで ※事前に申込フォームの「ご利用にあたってのお願い」を確認のこと
※天候等により中止の場合あり
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「「Bーぐる」って何だ?」と思って調べたところ、文京区内を循環するコミュニティバスだそうでした。「文京区(Bunkyouku)」を「ぐるぐる」で「Bーぐる」。なるほど。で、それに乗って巡るのかと思いきや、全行程徒歩だそうです。「B―ぐるの通るコースを歩く」というコンセプトだとのこと。

区公認のガイドの方が同行されて、各ポイントの説明をして下さるそうです。文京区さん、そういうシステムが整っているという時点で、素晴らしいと思います。他の市区町村さんも参考にしていただきたいところです。自分のエリア内にある文化財等に無関心な自治体の何と多いことか。

そういう意味では「自治体ガチャ」というワードが思い浮かびます。元々は国会でも取り上げられた、子育て支援等の自治体間格差を指す語ですが、文化行政などについても言えるような気がします。子育て支援等で困る場合には、隣の自治体に引っ越すとかもありでしょうが(実際、そんなこんなで人口減少に歯止めが掛からない自治体、そこからどんどん人が流入している自治体がそれぞれ自宅兼事務所近くにありまして)、建造物等の文化財はその場所から動かすことが難しいので(これも、とある件をイメージして書いています。勘の鋭い方はお判りですね(笑))。

閑話休題。今回のガイドツアー、千駄木五丁目の光太郎旧居跡も行程に含まれています。昭和20年(1945)4月の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居があった場所。
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戦後しばらくは更地で、玄関にあった大谷石の石段の残骸などは残っていたそうですが、その後、月極駐車場となっていた期間が長く、さらに現在は宅地になってしまっています。当時を偲ぶよすがは文京区さんの建てた案内板のみとなってしまいました。
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ついでにいうと、この手の案内板も、文京区では充実しています。

すぐ近くにはやはり今回の行程に入っている宮本百合子旧居跡。
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それから、こちらは今回の行程には含まれていませんが、団子坂上の「青鞜社発祥の地」。
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団子坂自体も。
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「青鞜」のそれと団子坂のそれには光太郎や智恵子の名が記されています。

このあたりもやっぱり「自治体ガチャ」ですかね(笑)。

それから、光太郎や宮本百合子の旧居跡の前には旧安田楠雄邸庭園がコースに含まれています。こちらは光太郎アトリエと指呼の距離ながら空襲の被害を免れ、健在です。
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ちなみに現在放送中のNHKさんの朝ドラ「虎に翼」のロケにも使われているそうです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

頃日御尽力の県下国宝保存の運動は大に賛成でございます。一般の協力を望んで居ります。
昭和24年(1949)3月30日 森口多里宛書簡より 光太郎67歳

森口多里は美術評論家。昭和22年(1947)に開校した岩手県立工芸美術学校の初代校長を務めました。本来の業務以外にも文化財保護に尽力し、光太郎もそれに賛同していました。こういう人物がいないと文化財保存というのは弾みが付かないのでしょう。

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