このところ上京する機会が多いのですが、今週末も。
まずは六本木の国立新美術館さんで6月26日(水)に開幕した「日本教育書道芸術院 第43回同人書作展」を拝見しました。お世話になっている書家の菊地雪渓氏から「ぜひ足をお運びください」というご案内を頂きまして。
菊地氏の出展作。杜甫の漢詩ですね。
その菊地氏、師に当たられる方が光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)を書かれたとのことで、見に来てくれというお話。そういえば昨年、氏を通して「詩の文言はこれでいいのか?」的なレファレンス依頼があったことを思い出しました。「ああ、あの時の……」というわけで。
で、こちらが当該作。
力強い光太郎詩そのままに雄渾な筆遣いの堂々たる大作でした。
他にも光太郎詩を書いて下さった方が複数。ありがたし。
「葱」(大正15年=1926)。
光太郎詩の中ではマイナーな作なので、少し解説しますと、立川農事試験場の場長・佐藤信哉から贈られた葱の美しさを題材にした詩です。
佐藤の妻、すみ子(スミ 旧姓・旗野)は、智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在し、スキーや水泳に興じたりました。
「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。
かなりの長詩ですので抜粋ですね。
詩集『道程』収録作「なまけもの」(明治44年=1911)。
智恵子と知り合う半年程前、浅草雷門前のカフェよか楼の女給・お梅に入れあげ、通い詰めていた頃の日常が描かれています。
そして云わずと知れた「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。
古いものでは明治末から、もっとも新しいものでもこの「レモン哀歌」。100年前後経っています。1世紀を経てもまだ光太郎詩が現代人の琴線に触れていると思うと、嬉しい限りです。
7月7日(日)迄の会期です。ぜひ足をお運びください。
明日は阿佐谷の「名曲喫茶ヴィオロン」さんでの「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」の模様をレポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
お茶たくさんと和紙、きざみなどいろいろ細かいお心づくしのもの忝く、たのしくいただきました。和紙は昔の雅邦紙のやうに見えるもの、どんな工合のものか、今度筆を染めるのがたのしみです。純粋な半紙も珍重です。
光太郎自身もこの時期、彫刻封印の代わりといっては何ですが、書に強い関心を持ち、数々の優品を生み出しました。
戦後2年半ほど経ち、そろそろ物資不足も解消しつつあったようで、それなりの紙が贈られてきました。「雅邦紙」はその名の通り、画家の橋本雅邦(光太郎の父・光雲と東京美術学校で同僚でした)が愛用した種類の紙です。
戦後間もない頃には揮毫を頼まれてもちゃんとした紙が無く、粗悪なボール紙のようなものを色紙代わりにしていたこともありました。
まずは六本木の国立新美術館さんで6月26日(水)に開幕した「日本教育書道芸術院 第43回同人書作展」を拝見しました。お世話になっている書家の菊地雪渓氏から「ぜひ足をお運びください」というご案内を頂きまして。

その菊地氏、師に当たられる方が光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)を書かれたとのことで、見に来てくれというお話。そういえば昨年、氏を通して「詩の文言はこれでいいのか?」的なレファレンス依頼があったことを思い出しました。「ああ、あの時の……」というわけで。
で、こちらが当該作。
力強い光太郎詩そのままに雄渾な筆遣いの堂々たる大作でした。
他にも光太郎詩を書いて下さった方が複数。ありがたし。
「葱」(大正15年=1926)。
光太郎詩の中ではマイナーな作なので、少し解説しますと、立川農事試験場の場長・佐藤信哉から贈られた葱の美しさを題材にした詩です。
佐藤の妻、すみ子(スミ 旧姓・旗野)は、智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在し、スキーや水泳に興じたりました。
「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。
かなりの長詩ですので抜粋ですね。
詩集『道程』収録作「なまけもの」(明治44年=1911)。
智恵子と知り合う半年程前、浅草雷門前のカフェよか楼の女給・お梅に入れあげ、通い詰めていた頃の日常が描かれています。
そして云わずと知れた「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。
古いものでは明治末から、もっとも新しいものでもこの「レモン哀歌」。100年前後経っています。1世紀を経てもまだ光太郎詩が現代人の琴線に触れていると思うと、嬉しい限りです。
7月7日(日)迄の会期です。ぜひ足をお運びください。
明日は阿佐谷の「名曲喫茶ヴィオロン」さんでの「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」の模様をレポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
お茶たくさんと和紙、きざみなどいろいろ細かいお心づくしのもの忝く、たのしくいただきました。和紙は昔の雅邦紙のやうに見えるもの、どんな工合のものか、今度筆を染めるのがたのしみです。純粋な半紙も珍重です。
昭和23年(1948)3月6日 多田政介宛書簡より 光太郎66歳
光太郎自身もこの時期、彫刻封印の代わりといっては何ですが、書に強い関心を持ち、数々の優品を生み出しました。
戦後2年半ほど経ち、そろそろ物資不足も解消しつつあったようで、それなりの紙が贈られてきました。「雅邦紙」はその名の通り、画家の橋本雅邦(光太郎の父・光雲と東京美術学校で同僚でした)が愛用した種類の紙です。
戦後間もない頃には揮毫を頼まれてもちゃんとした紙が無く、粗悪なボール紙のようなものを色紙代わりにしていたこともありました。


































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東日本大震災後、光太郎ゆかりの地、




![PXL_20240615_115456436[1]](https://livedoor.blogimg.jp/koyama287/imgs/e/5/e5101620-s.jpg)







































































































花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、同市大通りのなはんプラザで「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)に関する地元の小学校、高校の取り組みなどを共有し、地域を愛した偉人の顕彰を誓った。


































































































明治末からの光太郎短歌を集めた歌集『白斧』に関わります。光太郎姻族となった宮崎稔が、光太郎短歌を集めて出版することを提案、光太郎は拒否しましたが、宮崎は上梓を強行しました。そこで光太郎は、あくまで自分とは関わりのないところでの出版である旨を明記せよ、と書き送りました。


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