2024年03月

都内から個展の情報です。

ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日

期 日 : 2024年4月5日(金)~7日(日)、4月12日(金)~14日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

墨画、水彩画などの絵で活動し、たくさんの人に絵画を教えるASAKOさんは今回が初個展。高村光太郎や中原中也の詩を元に作品集を作りました。

ASAKOさんメッセージ
中原中也、高村光太郎、芥川龍之介の詩に、絵を添えた作品集と原画を準備致しました。在廊しております。桜、お花見のついでにお寄りくださいませ。
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今月、「レモン哀歌」もモチーフとして使われた「星センセイと一郎くんと珈琲」展を開催して下さった、ギャラリー装丁夜話さんで、またしても光太郎インスパイアの作品が出ます。おそらくたまたまなのでしょうが、それだけ現代の作家さんの中にも光太郎オマージュの精神が浸透しているということなのかなと存じ、ありがたいかぎりです。

ASAKO氏、ご本名と思われる「井出朝子」クレジットで『琥珀糖』という画集も出される由、その出版記念的な要素もある個展なのでしょうか。
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おそらく会場で販売されるのではないでしょうか。

当方、昨日ご紹介した「旧平櫛田中邸 de タコダンス」と併せてお伺いする予定です。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】001

今日は三月十三日、いかにも誕生日らしく、連日の雪がはれて今朝は朝日が雪の上にまばゆく輝き三尺もある軒のツララが日にとけて落ちる音がしてゐます。

昭和22年(1947)3月13日
椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

満65歳となった日の書簡です。便箋代わりに原稿用紙を使っていますが、その上部余白には氷柱の絵。ほんとうに天性の芸術家だったんだな、と改めて思わせられます。

最近、光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に一枚かませていただいており、芸術家ゆかりの建造物の保存活用などについていろいろ調べています。なかなか一筋縄ではいかない問題です。ケースバイケースですし。

そんな中で保存活用がうまくいっている例として、台東区上野桜木に現存する「平櫛田中邸」があります。光太郎の父、光雲の高弟・平櫛田中が使っていたアトリエ兼住居で、大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。

小平にも移転後の旧居が保存されていて、隣接する小平市平櫛田中彫刻美術館さんと併せて何度か足を運びましたが、上野の方は未踏です。令和元年(2019)にはジャズシンガー・潮見佳世乃さんの「歌物語コンサート 智恵子抄」公演がここであって、ご案内も頂いたのですが、智恵子故郷福島二本松に行く用があって欠礼しました。

さて、その平櫛田中邸でダンスパフォーマンスの公演があります。

旧平櫛田中邸 de タコダンス

期 日 : 2024年4月5日(金)~4月7日(日)
会 場 : 平櫛田中邸 東京都台東区上野桜木2-20-3
時 間 : 4月5日 19:30〜 4月6日 13:00〜 / 18:00〜 4月7日 18:00〜
料 金 : 一般 3000円 U-25 2000円 当日 3500円

作・出演/木原萌花

ダンサー・表現者であり、演出も行う木原萌花さんが、『他者から見た自己』をテーマにソロパフォーマンス〝タコダンス〟を披露するイベントが開催されます。

舞台は彫刻家・平櫛田中の元住居兼アトリエ「旧平櫛田中邸」。3日間で4公演での開催となります。

“タコダンス”とは、踊りを軸にパフォーマンスやプロデュースを展開する表現者、木原萌花(きはらももか)さんが、クラシックバレエを習い始めた幼少時代に独自に踊っていたタコのようなダンスのこと。

タコ=他己(たこ)という意味も掛け合わせており、他人から見た自分を主題に置いたダンス表現だそうです。

『他者や自然とのつながりに意識を向け、自分が外の世界と繋がっていると感じられる時、人は固く閉じていた「自己」の鎧から解放され、少し軽くなった自分を発見できるのではないか?』そんな仮定から「自分に集中しない」ダンスを魅せます。
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平櫛邸の様子も見てみたいところですし、また建築保存の関係の方もいらっしゃるようならそのあたりのお話も伺いたいと思っておりますので、行って参ります。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

何しろ花といふものは画や彫刻と違つて自然そのものを取つて来てそれに人間が手を加へるものなので恐ろしいやうでもあり、又よく自然の心にきく事が出来た時は人間の思量以上のものが現前するものと思へます。自然の美は中々人間並でない超常識のものですから、之を相手にする者は一通りでない智慧と情熱と力とがいるわけです。


昭和22年(1947)3月9日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

華道について述べた一節です。

稀覯詩集の覆刻です。

黄瀛 詩集『瑞枝』復刻版

2024年3月5日 黄瀛著 あるきみ屋刊 定価990円(税込み)

 1906(明治39)年、重慶にて、中国人の父と日本人の母の間に生まれ、3歳で父を亡くすと中国各地を転々とした後、日本に渡り、両国の間で育った詩人・黄瀛。
 青島日本人中学時代には「日本詩人」で彼の詩が第一席に選ばれ、大正の日本詩壇で一躍注目を浴びます。再来日し、文化学院や陸軍士官学校で学ぶ一方で、宮沢賢治、高村光太郎、草野心平、井伏鱒二らと交流をもち、昭和9年『瑞枝』(ボン書店)を上梓し、評価が高まります。
 中国に帰国後、魯迅とも交流しますが、日中戦争が勃発すると将校として活動し、戦後は解放軍に転じ、文化大革命中は捕虜となり11年以上勾留されたため、消息不明となり、幻の詩人と呼ばれたことも。
 62歳から重慶市の四川外語学院日本語学科教授として日本文学を教え、1984年以降、複数回に渡り来日を果たし、2005年98歳で没しました。

 本書は、黄瀛の若き日の詩集で、昭和57(1982)年に復刻された「瑞枝」を底本に復刻された文庫版で、70以上の詩と、当時の肖像写真と高村光太郎による頭部の彫刻の写真を収録しています。
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光太郎の周辺にいた詩人の一人、黄瀛(こうえい)。大正14年(1925)8月には、当会の祖・草野心平を光太郎に引き合わせました。また、昭和4年(1929)には花巻を訪れ、宮沢賢治とも会っています。光太郎周辺詩人の中で、実際に賢治と会ったことがあるのは光太郎本人、尾崎喜八、そして黄瀛くらいではないかと思われます。心平は結局、生前の賢治に会えずじまいでした。

『瑞枝』は黄瀛の第二詩集で、元版は昭和9年(1934)の刊行。光太郎が序文を書いています。原題は「黄秀才」でした。
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これまでも何度か覆刻されてきましたが、その覆刻すらあまり見かけない稀覯本です。

版元のあるきみ屋さん、北海道釧路の書肆ですが、これまでもやはり光太郎と交流のあった石川善助の詩集『亜寒帯』の復刻版などを出されています。なかなか商業ベースでは難しいと思うのですが、頭が下がりますね。

今回のものに光太郎の序文も掲載されているかは不明ですが、「高村光太郎による頭部の彫刻の写真を収録」となっています。

問題の彫刻は大正15年(1926)作の塑像「黄瀛の首」です。残念ながら彫刻そのものの現存は確認できていません。おそらく戦災で焼失したと思われます。
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心平が主宰し、黄瀛や光太郎も同人だった詩誌『歴程』の表紙にも使われました。スペースが余るので載せますが、右下は黄瀛の肖像写真です。
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というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

悩むといふ事は結局情熱の一つの形であり、若さの特権とさへ思はれますから、必ずしも悪い事ではありません。しかもそれを通過したあとの爽やかさは全く雨過天青の気持に違ひありません。人は幾度かさういふところを通り越さねばならぬものと思はれます。


昭和22年(1947)3月9日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

その生涯で何度もけつまずいては転び、また起き上がり、しかしやっぱり転倒しを繰り返してきた光太郎の言だけに、説得力がありますね。

光太郎智恵子、光雲に掠(かす)った小説を2冊、ご紹介します。

火口に立つ。

2024年2月3日 松本薫 著 小説「生田長江」を出版する会 刊 定価1,800円+税

たぎる時代を果敢に生きた生田長江と一人の女性の物語。

主人公・律の目を通して描かれる、日野町出身の文学者・生田長江と彼を取り巻く人々。『青鞜』の創刊、大正デモクラシー、関東大震災――沸騰し、揺れる時代の中、誰もが火口に立っていた。

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目次
 一章 坂の上の家    明治四十四年(一九一一)春――
 二章 『青鞜』の女たち 明治四十四年(一九一一)春――大正元年(一九一二)冬
 三章 デモクラシーの旗 大正二年(一九一三)春――大正四年(一九一五)春
 四章 自立という名の嵐 大正四年(一九一五)夏――大正六年(一九一七)夏
 五章 デモクラシーの波 大正七年(一九一八)夏――大正八年(一九一九)夏
 六章 資本と労働    大正八年(一九一九)夏――大正九年(一九一〇)夏
 七章 揺らぐ大地    大正十二年(一九二三)夏――大正十四年(一九二五)冬
 八章 ここを超えて   昭和三年(一九二八)春――昭和十二年(一九三七)夏
 終章          昭和三十三年(一九五八)秋

評論家・翻訳家の生田長江の家に女中(コンプライアンス的に問題のある表現ですが当時の用語をそのまま使わせていただきます)として勤めていた南原律という架空の人物を主人公にした小説です。

高等教育も受けていなかった律が、長江やその周辺の人物らの感化・薫陶を受けて社会運動に強い関心を持ち、大それたことはできないものの、自分なりに社会変革に取り組んでいくというストーリー。

生田長江は光太郎より一つ年上で明治15年(1882)、鳥取県の生まれ。智恵子がその創刊号の表紙を描いた『青鞜』の名付け親です。青鞜社主催の講演会で共に壇上に立ったり、与謝野家での歌会に同席したりと、光太郎とも面識がありました。小説ではそのあたりのシーンが描かれておらず、残念ながら光太郎の名は全編通して出て来ませんでした。智恵子は表紙絵の関係で3回ほど触れられましたが登場はしませんでした。

ただ、『青鞜』主宰の平塚らいてうをはじめ、光太郎智恵子と交流のあった人々がたくさん登場します。与謝野夫妻、佐藤春夫、生田春月、馬場孤蝶、森鷗外、尾竹紅吉、有島武郎、中村武羅夫、足助素一、そして映画「風よ あらしよ」などで再び脚光を浴びている大杉栄と伊藤野枝などなど。

目次を見ると、長江がどの時期にどういった活動に取り組んでいたかが概観できますね。長江は大杉らほどの過激な主張はしませんでしたが、社会変革に対する意識は高く持ち続けました。また、ハンセン病に罹患していたこともあり、その方面での差別等との闘いも、本書の大きな流れを形作っています。

作者の松本薫氏は鳥取ご出身で、地域密着の小説等を書かれている方。版元は「小説「生田長江」を出版する会」さん。長江の地元・鳥取県日野郡日野町で長江の顕彰に当たられている団体のようです。素晴らしい取り組みだと思いました。

もう一冊。

時ひらく

2024年2月10日 辻村深月/伊坂幸太郎/阿川佐和子/恩田陸/柚木麻子/東野圭吾 著
文藝春秋(文春文庫) 定価700円+税

創業350年の老舗デパート『三越』をめぐる物語

楽しいときも、悲しいときも いつでも、むかえてくれる場所
物語の名手たちが奏でる6つのデパートアンソロジー 文庫オリジナル!

制服の採寸に訪れて感じたある予感。ライオンに跨る必勝祈願の言い伝えを試して見えたもの。老いた継母の買い物に付き合ってはぐれてしまった娘。命を宿した物たちが始めた会話。友達とプレゼントを買いに訪れて繋がった時間。亡くなった男が最後に買った土産。歴史あるデパートを舞台に、人気作家6人が紡ぐ心揺さぶる物語。
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目次
 「思い出エレベーター」 辻村深月
   階下を見下ろしている泣きそうな顔の子どもがもし、いたら。
 「Have a nice day!」 伊坂幸太郎
   三越のライオン、知ってる? あれに跨ると夢が叶うんだって。
 「雨あがりに」 阿川佐和子
   三越でしか買い物をしないなんて、どこかのお嬢様のすることだ。
 「アニバーサリー」 恩田陸
   ざわざわするというか、ウキウキするというか。
 「七階から愛をこめて」 柚木麻子
   私の本当の願いはね。これから先の未来を見ることなの。
 「重命(かさな)る」 東野圭吾
   草薙は思わず声をあげて笑った。「いいねえ、湯川教授の人生相談か」

昨年から今年にかけての、雑誌『オール読物』さんでのリレー連載でした。

キーワードはずばり「三越」。前身の越後屋呉服店創業から数えて350年ということでの記念企画の一環です。そこで表紙も三越さんの包装紙がモチーフ。素晴らしいと思いました。「この手があったか」とも。書店で平積みになっていると、ひときわ目立ちます。
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ちなみにこの包装紙、デザインは新制作派の画家で光太郎とも交流のあった猪熊弦一郎。ちゃんと「華ひらく」というタイトルがついた作品です。モチーフは大正元年(1912)、光太郎智恵子が訪れ、愛を確かめ合った千葉銚子犬吠埼海岸付近の石だそうです。
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そして「mitsukoshi」のロゴは故・やなせたかし氏の筆跡。氏はメジャーになる以前、三越さんに勤務されていました。

さて、『時ひらく』。心温まる小説あり、ハラハラドキドキのスペクタクルあり、ファンタジーあり、推理小説(東野圭吾氏の「ガリレオ」シリーズ最新作)あり、ウクライナ問題への言及ありの6篇です。

6篇すべてに三越さんが登場。4篇は日本橋本店さん、1篇は仙台店さんが物語の主要な舞台です。1篇だけは日本橋本店さんのデパ地下がちらっと舞台に。日本橋本店さんでは、もはや「アイコン」ともいうべき店内のさまざまな名物が描かれます。光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄玄(朝山)作の巨大彫刻「天女( まごころ)像」、その足下にいくつも見られる大理石中のアンモナイト化石、同じく中央ホールのパイプオルガン、さらに三越劇場、そして三越さんのシンボル・ライオン像……。なんと1篇はそれらのアイコンたちが主人公(笑)。それぞれが見つめてきた歴史などが語られます。

日本橋本店さんのアイコンといえば、屋上・三囲神社さんに鎮座まします光雲作の「活動大黒天」も外せないような気がします。そこで、それも登場するかと期待しつつ頁を繰りましたが、残念ながら出て来ませんでした。まぁ、通常非公開の像なので、仕方がありませんか……。

以前も書きましたが、当方、学生時代、毎年お歳暮の時期に三越さんの配送で長期のアルバイトをしておりました。店舗の方ではなく江東区木場の再送品センターが主な勤務地でしたが。バブル前夜でかなりの日給でした。そこで三越さんには特別な思い入れがあり、ついつい熱く語ってしまいました(笑)。

さて、『火口に立つ。』/『時ひらく』、それぞれぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

スケツチは何かお送り出来るかと思ひます。色彩が印刷でよく出るかどうか疑はれますから、極く淡くか又は黒と白とだけで描くべきでせう。


昭和22年(1947)3月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

この年、更科によって北海道で発刊された雑誌『至上律』への執筆等依頼への返信の一節です。「スケツチ」は11月の第2輯にカラー印刷で掲載されました。奇跡的に現物が残っており、花巻郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。
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智恵子の故郷・二本松系の情報を。

まず、二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』。同市では毎月末に来月号をサイト上にアップしていまして、4月号です。

ここ数年、「桜の街」を謳っている同市ですので、毎年4月号は市内の桜関係の情報が満載。表紙も二本松城(霞ヶ城)の桜です。
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令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズ「ほんとの空にさくら舞う」が使われ続けています。
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市内の銘木紹介。智恵子生家/智恵子記念館を含む智恵子の杜公園の桜が紹介された年もあったのですが、今年はありません。
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桜がらみのイベント情報。

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臨時バス情報。こちらは智恵子生家/智恵子記念館も行程に入っている「二本松春さがし号」にも触れられています。
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ただし、思いのほか開花が遅れたということで、3月29日(金)~4月7日(日)だった当初運行予定が変更となり、1週間先送りで4月5日(金)~4月14日(日)となったそうです。広報では訂正が間に合わなかったようです。
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過日ご紹介した周遊観光タクシーともどもご利用をご検討下さい。

二本松系でもう1件、テレビ番組の放映情報です。

秘湯ロマン

地上波テレビ朝日 2024年3月30日(土) 03:00~03:30

日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は福島県、岳温泉「奥岳の湯」「花かんざし」、宮城県、鬼首温泉「ホテルオニコウベ」、温湯温泉「佐藤旅館」。

【旅人】秦瑞穂 【ナレーション】丸山未沙希
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安達太良山の登山口にある奥岳の湯さん、中腹の花かんざしさん。

奥岳の湯さんはこの番組で平成30年(2018)にもが取り上げられ、光太郎智恵子の名を出して下さいましたが、使い回しの映像なのか、新作なのか、というところです。花かんざしさんは初の登場です。

ちなみに令和2年(2020)8月放映の那須塩原温泉・塩の湯柏屋旅館さんが取り上げられた回では、光太郎智恵子が泊まった宿というご紹介をして下さいました。
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今回、「ほんとの空」「智恵子抄」といったワードが出てくるかどうか微妙なところですが……。

というわけで、二本松、岳温泉、ぜひ足をお運びいただき、桜と温泉をご堪能ください。

【折々のことば・光太郎】013

写真たくさん届きました。みんなにあつたやうな気がしました。中々よくとれてるのもあります。笑つて居るのはみんないいです。ありがと。ツマゴといふのは雪の中を歩くワラグツです。小生のは特大です。


昭和22年(1947)3月3日
 髙村規宛書簡より 光太郎65歳

令甥の故・髙村規氏宛の絵手紙です。後に写真家となられた規氏、このころはまだ高校生でしたが、既に趣味的に写真撮影に取り組まれていました。おそらく御家族(父君は光太郎実弟・豊周)の写真を光太郎に送ったのでしょう。戦争末期、豊周一家は光太郎の花巻疎開より前に長野に疎開していたため、2年以上会っていませんでした。

このブログサイトでたびたび取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」。避難の際の目印となるようにと、東日本大震災時の津波到達地点より高い場所、全21箇所に設置されたものです。中学生たちが、同じ女川町の光太郎文学碑を参考に、「100円募金」で建てました。

過日、そのプロジェクトの中心メンバーのうちお三方が、母校の後輩たちに特別授業を行った件が地方紙『石巻日日新聞』さんで報じられましたが、同じ件をミヤギテレビさんでも大きく取り上げていました。

女川中の中学生が建てた「いのちの石碑」卒業生が後輩に伝えたことは

 東日本大震災から13年を迎えた今月11日。3人の卒業生が母校を訪れた。
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 海を臨む高台に4年前に開校した女川小中学校。震災当時小学6年生だった3人は後輩たちに向けてあの日の体験を話した。
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卒業生・阿部由季さん
「震災当日は食料もない、寒い。みんなで大きいペットボトルを回し飲みしたり。 先生が小学校からカーテンを持ってきてくれて。 3月11日は雪が降ってすごく寒い。みんなでカーテンにくるまって過ごしました」
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続いて伝えたのは中学生ながらに考えた町の復興について。

卒業生・鈴木美亜さん
「当時はまだ復興していなくて茶色い土。いまからどういう町にしたいかっていうのを中学生ながらに考えて、それを模型にして女川町長に実際プレゼンをしてこういう町にしたいと考えた」
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当時、生徒たちが取り組んだことは…

  鈴木美亜さん(当時中学生)
「千年後の命を守るために津波の最高到達地点に石碑を建てようと考えていて子ども募金よろしくお願いします」
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津波の記憶と避難の教訓を後世に残そうと女川町のそれぞれの浜の津波より高い場所に避難の目印となる「いのちの石碑」を建てた。
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 中学校卒業もみんなで集まり子どもたちに防災の教訓を伝える「いのちの教科書」作りなどを続けてきた。
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 いまの中学生は震災の記憶がほとんどない世代だ。

 女川中の2年生
「難しい質問になると思うが避難所とか今もそうだと思うんですが人の心を温められることはどんなことだと思いますか?」
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卒業生・伊藤唯さん
「難しい質問ですけど私個人の話なんですけど、東京でダンスの仕事しているんですけど、ダンサーって仕事ね、震災前からやっていて。震災前からの夢ではあったが震災後、笑顔が失われみんな暗い表情をしている中で、中学3年生の時かな女川のサンマ収穫祭、いまもあるよね?サンマ収穫祭でステージに立たせてもらった時に友達とか知らないおじいちゃん おばあちゃんが拍手してくれたのが嬉しくて、この夢絶対かなえて『人の心に寄り添える人になろう』と思って、 いまこの仕事につけているのですごく幸せなんだけど。たぶん人の心を温めることって 難しいけど、だれにでも出来ること。」
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女川中の生徒たちは防災への意識を新たに―

  女川中の生徒会長
「多分、その時、自分が被災してやろうとなったら、やりたいとは思うけど、いざ行動に移してみるのは難しいと思うので、行動に移し途中で途絶えもせず 続けている先輩方は本当に素晴らしい活動をしてると思いました。」
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 13年前、がれきとなってしまった故郷を目の当たりにしながらも未来の命を救いたいと考えた当時の中学生たちの思いはしっかり、伝わっていた。
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彼らの取り組み、単なる「美談」として終わらせるのではなく、この国全体に「防災」の意識を高める契機となればと存じます。

【折々のことば・光太郎】

映画も見ました。「うたかたの恋」といふ変な日本名のフランス物でしたが、久しぶりにボワイエやダリユーのフランス語をきき、なつかしく思ひました。言葉の妙味は尽きません。


昭和22年(1947)2月22日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から久しぶりに花巻町中心街に出て、宮沢賢治実弟の清六らとともに映画鑑賞。「うたかたの恋」は原題「Mayerling」(オーストリアの地名)、昭和11年(1936)の作品です。「ボワイエ」は『ガス燈』で有名なシャルル・ボワイエ、「ダリユー」はのちに『チャタレイ夫人の恋』に出演するダニエル・ダリュー。
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昭和32年(1957)になってアメリカでテレビ映画としてリメイクされ、その際のヒロインはオードリー・ヘップバーンでした。

俳優の寺田農さんが亡くなりました。

『朝日新聞』さんから。

俳優の寺田農さん死去 映画・ドラマで渋い脇役、「ムスカ大佐」も

 渋い脇役として映画やドラマで長く活躍した俳優の寺田農(てらだ・みのり)さんが14日、肺がんで死去した。81歳だった。所属事務所が23日、公式サイトで公表した。葬儀は近親者で営んだ。
 1942年、東京都出身。父は洋画家の寺田政明。文学座付属演劇研究所を経て、テレビドラマ「青春とはなんだ」で注目を集める。68年、岡本喜八監督の映画「肉弾」で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。「セーラー服と機関銃」「ラブホテル」など相米(そうまい)慎二監督や実相寺昭雄監督らの作品、NHK連続テレビ小説「澪(みお)つくし」といったテレビドラマや特撮作品「ウルトラマン」シリーズに出演。主に渋い脇役として長く活躍し、2021年には映画「信虎」で36年ぶりの主役を務めた。
 ナレーターや声優としても活動し、アニメ映画「天空の城ラピュタ」の悪役ムスカ大佐の声で知られた。
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寺田さんが光太郎詩の朗読をなさったソフトが2種類、販売されています。

まず平成6年(1994)にクレオハウスさんという会社の出したVHSビデオ「日本文学紀行 名作の風景 智恵子抄」。ナレーションも寺田さんでした。
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最近も、令和元年(2019)、株式会社トゥーヴァージンズさんから出たCD13枚組「【近代文學の泉】朗読で味わう文豪の名作」で光太郎詩35篇を担当。
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令和3年(2021)には同一音源を使った普及版として「朗読で味わう文豪の名作4(CD3枚組)太宰治・島崎藤村・高村光太郎」も発売されました。
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また、遡って昭和42年(1967)、岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」にもご出演。まだ若手の頃で、公式パンフ等にはクレジットがありませんでしたが、美に取り憑かれ、心を病んで自殺してしまう画学生の役でした。
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さらに昭和48年(1973)には、NHKさんの「生きて愛して」。平日午後10時から15分ずつ放映されていた「銀河テレビ小説」という帯ドラの一つで、光太郎智恵子を描いたものでした。光太郎は片岡仁左衛門さん、智恵子が大空真弓さん。寺田さんは光太郎の親友・荻原守衛の役で、全30話中の第2話から第5話にご出演なさいました。

そのご縁で、一昨年、守衛の個人美術館・碌山美術館さんでクラウドファンディングを行った際、寺田さんも応援メッセージを寄せられました。
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最初、「守衛(もりえ)」でなく「守衛(しゅえい)」の役だと勘違いなさったというエピソードには笑わせていただきました。

お父さまは智恵子も通っていた太平洋画会に所属されていた画家ということなので、美術とは浅からぬご縁がおありだったのですね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今は何を措いても国民が気を揃へて物を生み出す事に懸命になる外ありません。何しろあの無理を押し切つての戦争のあとですから今日のやうな状態はどちらにしても必ず来るにきまつてゐた事です。相互扶助の精神こそ今日最も要求せられるものと存ぜられます。


昭和22年(1947)2月10日 鏑慎二郎宛書簡より 光太郎65歳

終戦からおよそ1年半。空襲やなどによる命の危険は去ったものの、食料をはじめとする物資不足などの国民生活の混乱はまだまだ続いていました。

昨日も上京しておりました。目的地は台東区上野の落語協会さん。
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こちらで開催された「彌生・初演の会」拝聴のためです。
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「初演の会」は毎月開かれているようで、「初演」ですから古典ではなく創作落語。昨日は鈴々舎馬桜師匠による「高村光雲」が初演されました。
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光太郎の父・光雲の談話筆記になる『光雲懐古談』を読まれた馬桜師匠が、その落語的面白さや光雲の江戸っ子的テイストなどを創作落語に出来ないか? と考えられての試みでした。

前半は『光雲懐古談』にある、光雲少年時代(まだ幕末)、ひょんなことから当代一の仏師・高村東雲の元に弟子入りすることになったくだり、修業時代に端材で彫った鼠の木彫が高僧の目にとまり、思いがけず買い上げて貰ったエピソードなど。

後半は上野ということで、光雲が主任となって東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像について。『光雲懐古談』には西郷像の話は出て来ませんので、他の資料をベースに、馬桜師匠が「こんなこともあったんじゃないか」という想像です。岡倉天心、勝海舟、伊藤博文、岩崎久弥、果ては明治天皇まで登場し、歴史好きにはたまらないでしょう。

ちなみに『光雲懐古談』では西郷像の件は語られていませんが大正12年(1923)に刊行された『南洲手抄言志録解』(馬場禄郎編・一指園)、昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に光雲の苦心談が語られています。共に当会発行・当方編集の『光太郎資料』第59集に載せておきました。

他の演目は、以下の通り。

やはり馬桜師匠による「宿題三題噺」。毎月の「初演の会」で、その時のお客さんから「題」を預かり、翌月までに一つの噺にまとめて披露するというもの。お題は「①大谷翔平」「②金持ち喧嘩せず」「③花見酒」。当初予定では他の噺家さんの担当だったそうですが、急遽、馬桜師匠が代役を務められました。来月分の「題」もこの日のお客さんから募り、当方以外は皆常連さんやご同業の方だったようで、いろいろ無茶振りが提案されていました(笑)。

林家たたみさんによる上方古典落語「花筏」。まだ前座の方だそうでしたが、かえってその初々しい感じに好感が持てました。

桂右團治さんで「心眼」。右團治さん、現代の落語界に詳しくない当方、そのお名前から当然男性だろうと勝手に思い込んでいましたが、囃子とともに出ていらしたのが女性だったので驚きました。落語芸術協会さんで初の女性真打だそうでした。「心眼」は光雲が(息子の光太郎も)ファンだった三遊亭圓朝が明治期に作ったものだそうで、奇縁に驚きました。

さて、馬桜師匠の「高村光雲」。来月、また高座にかかります。

山野楽器落語の一日 第二部 熱血・若手落語会

期 日 : 2024年4月5日(金)
会 場 : ヤマノミュージックサロン池袋 東京都豊島区南池袋1-19-5
時 間 : 15:00~17:00
料 金 : 2,000円

番組
 |、牛ほめ     台所おさん
 |、高村光雲    鈴々舎馬桜
 |、饅頭怖い    林家たこ蔵
 |、百年目     鈴々舎馬るこ

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

予定の彫刻はまづ潺湲楼の額を彫り、次に椿材で帯留を一ツ彫り、これは院長さんの夫人に献ずるつもり。それから小木彫と粘土の裸像、これは智恵子観音の原型。

昭和22年(1947)2月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、まだこの頃は戦争協力を恥じ、自らに罰を与える彫刻封印という考えには至っていなかったようです。

「潺湲楼」は山小屋に移る前に厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房邸離れ。光太郎が命名し、佐藤が「ではその文字を彫って下さい」と板を用意し、制作を始めましたました。しかし、結局途中で放棄してしまいます。
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「帯留」も佐藤家には見あたらないとのこと。ところが昨年、宮沢賢治実弟の清六夫人に送られていたことが判明し、仰天しました。しかし、戦後のドサクサで現物は残っていないということでした。

「智恵子観音」は形を変え、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として昭和28年(1953)に結実します。

3件ご紹介します。

まず地方紙『福島民報』さん連載から。

福島県 今日は何の日 3月19日 1957(昭和32)年3月19日 二本松市で映画「智恵子抄」のロケ始まる004

 東宝映画「智恵子抄」の二本松ロケが、高村智恵子の生家があった安達村油井(現二本松市油井)の旧長沼家で始まった。
 旧長沼家のロケは熊谷久虎監督のメガホンで、地元のエキストラ数十人が総出演。華やかだった当時の旧長沼家の造り酒屋「花霞」の面影を再現した。約2000人の見物人が訪れた。

智恵子役が原節子さん、光太郎を山村聰さんが演じられた東宝映画「智恵子抄」。昭和恐慌のあおりで破産、一家は離散し既に人手に渡っていた智恵子生家でのロケも敢行されました。昭和32年1957)の時点ではまだ明治期の面影がかなり残っていたようです。
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ここに映っている人々は、ほぼ現地で募集されたエキストラ。おそらくご存命の方も多いのではないでしょうか。
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平成28年(2016)、二本松で開催された「高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」の際、当時のこの手の新聞記事や、当方がお貸ししたポスター、パンフ、スチール写真などが展示されました。

智恵子生家がらみでもう1件。二本松市さんのサイトから。

「二本松周遊観光タクシー」でお得に観光名所を巡りませんか?

観光誘客PR及び観光客数の増加を図るため、市内の観光名所を巡る観光タクシーが期間限定で通常料金の半額で利用できます。

対象期間 令和6年4月1日から令和7年1月31日まで
※対象期間中でも予算上限に達し次第通常料金の半額での利用は終了となります。

利用方法
 対象タクシー会社に事前に連絡し、利用日時、コース名、人数をお伝えください。また、対象期間中でも予算に達し次第通常料金の半額での利用が終了となりますので、通常料金の半額での利用が可能かご確認ください。

対象タクシー会社
 昭和タクシー(株) TEL:0243-22-1155 住所:二本松市成田町一丁目753番地3
 丸やタクシー(有) TEL:0243-22-2744 住所:二本松市金色久保226番地15

対象コース及び利用料金
 ※利用料金については、助成適用後の金額を記載しています。
 ※乗車可能人数は普通車が4人、特大車(ジャンボタクシー)が9人です。

注意事項
 交通事情や当日の天候により所要時間は異なります。
 料金についてはタクシーの運行料金のみ含まれております。
 入館料・入園料等は別途支払いが必要です。
酒蔵見学は利用される方自身で申し込みください。
 ※詳細についてご質問がある際は、対象タクシー会社にご質問ください。

実施主体
 二本松地区ハイヤータクシー経営者協議会
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令和3年(2021)から一昨年(2022)にかけても同様の試みが行われていました。その際は全15コースだったのが、今回は21コースに増えています。21コース中、智恵子生家/智恵子記念館を含むプランにつき、上記画像で赤枠で囲んでおきました。

路線バスや電車等の公共交通機関では回りにくく、さりとて自家用車で現地までとか現地でレンタカーとかも厳しい、という方々にはありがたいのではないでしょうか。

ついでというと何ですが、もう1件。こうした旅のお供に……ということで。

まっぷる'25 最新版 福島

2024年3/15 昭文社 定価1,050円+税

さまざまな魅力があふれる福島の今、行きたいおすすめの旅をお届け!  レトロ感あふれる会津若松、蔵とラーメンの街・喜多方、円盤ぎょうざが人気の福島タウン、自然の絶景が楽しめる磐梯高原・猪苗代、日本最大級のボディスライダー「ビックアロハ」があるスパリゾートハワイアンズなどの人気観光地&スポットを詳しく紹介。大判付録は街歩きに便利な「会津若松街歩きMAP」と旅の計画に役立つ「福島プランニングMAP」

【注目1】七日町通り&野口英世青春通りレトロさんぽ
 歴史的な街並み 伝統の技を感じるおしゃれ雑貨 食べ歩きが楽しいスイーツ おすすめみやげ
【注目2】会津若松ふるさとグルメ
 伝統が生きる郷土料理 人気爆発!会津ソースかつ丼
 清冽な水と新鮮な地元産の粉で打つ会津そば 地酒がおいしい居酒屋
【注目3】喜多方ラーメン頂上決戦
 世代交代も進むご当地ラーメンの雄・喜多方ラーメンのおすすめ店舗を一挙紹介
【注目4】エリア別特集
 福島タウン 必食!ふくしま円盤餃子
 いわき スパリゾートハワイアンズ/環境水族館アクアマリンふくしま
収録エリア
 会津若松/磐梯高原・猪苗代/喜多方/大内宿/福島タウン/郡山・白河/いわき
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おそらく昨年版などと較べても、それほど大きく内容が変わっているわけでもないのでしょうが、今回の版では『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語が多用され、そのため当方の検索網に引っかかってしまい(笑)、ついつい購入してしまいました。

福島市を中心とした中通りの「福島エリア」中に、安達太良山や智恵子生家などが取り上げられています。
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そのメインのページでは正しく「詩集「智恵子抄」に出てくる「ほんとの空」……」とあるのですが、目次ページのすぐ後、サムネイル的な箇所で、昭文社さん、やらかしちゃっています(笑)。
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詩人・智恵子抄が、この山の上には「ほんとの空」があると詠った……」(笑)。

ま、これもご愛敬ということで(笑)、ぜひお買い求めの上、二本松に足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

水野君は小生と同年、小生が三月生れ、水野君が四月生れです。初期「明星」の頃水野蝶郎といつて若々しい歌を書いてゐた時分からの友達です。いろいろな時代を経て、最後まで親友であり得た事がせめてもの慰めですが、小生が七十歳頃からそろそろ始める本当の仕事をつひに見てもらへなくなつたのが残念です。

昭和22年(1947)2月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

親友・水野葉舟の死に際し、葬儀の代参に行ってもらった姻戚・宮崎宛の書簡から。無二の友を失った喪失感がよく伝わってきます。そう思える友を持てたことは幸せだったのでしょうが。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、日記などを元に光太郎が作ったメニューを現代風にアレンジし、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さんから今月分の画像を送っていただきました。
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今月のメニューは「白六穀米ご飯」「じゃがいもピラフ」「豚肉と大豆のトマト煮込み」「鮭の昆布巻き」「ほうれん草とベーコンの炒め」「大根煮」「塩麹卵焼き」「お新香」「みかん」だそうで。

もう1件、こちらは来週、3月26日(火)です。花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さん。日替わりで一般の方々が調理を担当されるというレストランですが、「光太郎ランチ」のメニュー考案に当たられている「やつかの森LLC」さんが「こうたろうカフェ」として出店なさいます。昨年11月以来4ヶ月ぶりです。

メニューが既に公示されています。「生ハムのガレットロール」「白身魚の黒酢あんかけ」「ふきのとうとチーズの茶碗蒸し」「紅菜苔のおひたし」「お新香」「りんごの甘酒」「バッケ味噌ご飯」「春野菜の鶏団子スープ」「ベリーベリーベリーアイス」「カフェドシトロン」だそうで。「バッケ」は現地の言葉でふきのとう。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺にいくらでも生え、光太郎が愛した食材です。
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この充実のメニューで1,000円とのこと。都市部では考えられませんね。

いつも書いていますが、「食」からの偉人の生き様へのアプローチも大いに意義のあることと存じます。末永く続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

電報いくども読みかへしましたが水野君亡くなられたとどうしても読めます。まさかと思ひますが、結局やつぱりさうなんでせう。今何もいふこと出て来ません。

昭和22年(1947)2月5日 水野葉舟家中宛書簡より 光太郎65歳

明治後期の第一期『明星』以来、光太郎の一番の親友だった葉舟水野盈太郎が歿しました。大正12年(1923)の関東大震災以後は東京を離れ、千葉の遠山村(現・成田市)で半農生活に入り、その意味では光太郎の大先輩でした。

光太郎の落胆、いかばかりだったことでしょう。

昨日は都内に出ておりました。メインの目的は銀座王子ホールさんで開催された「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」

そちらが午後2時開演でしたので、その前に駒場の日本近代文学館さんで調べもの。
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国立国会図書館さんのデジタルコレクションリニューアルに伴い、自宅兼事務所に居ながらにして、未知の光太郎作品等の発見が相次ぎました。ただ、新たに公開されたデータの数が膨大なので、未だ調査中です。しかも自宅兼事務所のPCでは見られない「国会図書館内限定」というデータも多く、同館に出向いての閲覧も行っていますが、昨日は祝日で同館が休館。そこで、目星を付けておいた資料のうち、日本近代文学館さんにも所蔵があるものを閲覧させていただこうというわけです。

しかし、ほとんどは空振りでした。

たとえば国会図書館さんのデジコレ検索画面でこういう情報が。
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雑誌『少年倶楽部』。同誌に載った既知のものは大正15年(1926)の詩「路ばた」しかありません。そこへ来てこういう情報が出て来ると、それ以前の大正8年(1919)に「我美術界の将来」と題する文章が掲載されているかも、と思うわけです。当方作成の光太郎文筆作品等リストに「我美術界の将来」という作品はありません。期待が高まります。

ところが、実際に『少年倶楽部』の当該ページを見ると、同じ講談社発行の雑誌『雄弁』の広告。では『雄弁』に「我美術界の将来」という文章が掲載されているかというと、当該号に載っているのは「戦後の我が芸術界」。既知の作品です。広告と実際のものとで題名が変わっているわけです。よくある話ではあります。ちなみに「戦後」は「第一次世界大戦後」の意です。

それからこんなケース。
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これは当初から広告だろうとわかりましたが、「高村光太郎氏曰く」とあるので、その後に光太郎の文章が続いているはず。たしかに以下の通り、光太郎の文章がありました。
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この手の広告に載った短評で、未知のものの発見が昨年相次ぎましたので、「よっしゃ!」と思ったのもつかの間、これは雑誌『詩神』に載った既知の「田中清一詩集『永遠への思慕』読後感」からの転載でした。

こんな感じばかりでしたが、こんなことでめげていられません。今後も鋭意調査を継続します。

さて、その後、銀座王子ホールさんに移動。
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メインの目的、「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」を拝聴。
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光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の作品集が演奏されるコンサートで、ピアノは朝岡氏ご自身です。

今回は、昨秋開催された「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」で初演された「冬が来た」が、バリトンの馬場眞二氏の歌唱で演奏されました。女声による演奏もいいのですが、硬質な「冬」を謳い上げた詩ですので、男声の響きが非常にマッチしていた感じでした。

   冬が来た
 
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た

その他、現代詩人の皆さんの作品に曲を付けられた作品など。かつて「組曲 智惠子抄」をリサイタルで取り上げられたり、CD化なさったりした清水邦子氏もご登場。毎回そうですが、その詩人の皆さんの何人かもご来場なさっていました。

終演後のホワイエ。

朝岡氏。
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清水氏、馬場氏。
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今後とも皆様がご活躍されることをを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

人から貰つた青竹の火吹竹を割つて茶杓をつくるつもりです。畳目十三本の長さにして火だめにしませう。銘を「火ふき」とつけます。火ふきは火吹きでもあり、又火噴きでもあります。光太郎好みの形にします。


昭和22年(1947)2月4日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での7年間の蟄居生活中、作品として発表した彫刻は1点も作りませんでしたが、こうした身の回りのものは自作していたようです。

そろそろ桜便りも届き始めていますね。それに合わせて全国各地で夜間ライトアップ等が催されます。光雲、光太郎ゆかりの場所でのそれをご紹介します。

まず京都。光太郎の父・光雲が主任となって原型を制作した鋳銅の聖観音像(露座)もライトアップされます。

春のライトアップ2024

期 間 : 2024年3月23日(土)~4月3日(水)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ) 大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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大鐘楼(重要文化財)
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『一心に専(もっぱ)ら』~開宗850年への思い~
手の正しい合わせ方が分からない。仏教の話は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。正座じゃなくて大丈夫です。椅子席もありますよ! お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験の時間があります。日常を忘れ、心静かなひとときを味わってみませんか?
開始時間:18:00~ 18:45~ 19:30~ 20:15~(各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
知恩院七不思議のひとつ「忘れ傘」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!(無くなり次第終了)
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月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:毎夜開催
 開始時間:17:45~/19:30~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。
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ライトアップ同時開催企画展示
 「鬼より強い守り神」 3月23日(土) ~ 3月27日(水)
  吉田瑞希・陶芸家
  「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、屋根に佇む魔除けの神様。
  友禅苑 茶室「白寿庵」(23日(土)・24日(日)のみ)、茶室「華麓庵」
 「千代紙の色とデザイン」 3月29日(金) ~ 3月31日(日)
  REKAO 桜柄の千代紙の屏風や、14枚の型で染め上げられた椿柄の屏風等を展示。
  友禅苑 茶室「華麓庵」
  REKAOの千代紙を使った御朱印帳を御朱印所にて販売します。
  販売日:3月23日(土)、24日(日)、29日(金)、30日(土)、31日(日)
 「花明 Ceramic × Scissors Vol.2」 3月29日(金) ~ 3月31日(日)
  林侑子・陶芸家
  土をハサミで切る、新しい装飾技法から生まれる土鋏作品を展示します。
  友禅苑 茶室「白寿庵」
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関連行事等も充実していますね。

もう1件、光雲、光太郎、そして智恵子らが眠る髙村家墓所のある、駒込染井霊園です。

染井霊園ライトアップ

期 日 : 2024年3月23日(土)~4月7日(日)
会 場 : 都立染井霊園 東京都豊島区駒込5-5-1
時 間 : 17:30~20:00
料 金 : 無料

園内には約100万本ものソメイヨシノが植えられ、高村光太郎、智恵子をはじめ、岡倉天心、二葉亭四迷など多くの偉人が眠っています。開花の時期には園内が一部ライトアップされ幻想的な夜桜を楽しめます。
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このブログでご紹介するのは今年が初めてですが、「染井よしの桜まつり」の一環としてかなり前から行われていたようです。今年は案内に「高村光太郎、智恵子」とあったのでこちらの検索網に引っかかりました。

夜の霊園で、というとちょっと怖いかなと思われる向きもいらっしゃるかもしれませんが、染井霊園、きれいに整備され、いわゆる「墓場」という感じではありません。

そして何と言ってもこの辺り一帯、ソメイヨシノの発祥の地です。そう思って見ると、また格別なのではないでしょうか。

それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

入口の戸は夜になると凍りついて中々開きません。急須の蓋も凍りついて、湯を上からかけないととれません。


昭和22年(1947)2月3日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋、前年の冬よりは寒くなかったそうですが、それでもこういうありさまでした。

福島から市民講座の情報です。

澤正宏先生の春の講座「与謝野晶子と高村光太郎」

期 日 : 2024年3月25日(月)000
会 場 : NHKカルチャー郡山教室 
      福島県郡山市麓山1-5-21 NHK郡山放送会館内
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 会員 2,519円 一般(入会不要) 2,860円

講 師 : 澤正宏 福島大学名誉教授 

歌人であり詩人でもあった二人は、晶子の新詩社を通してつながりがあった。二人の人間や社会や自然などの見方には対照的な特色があるので、詩歌を読みながらそれらの特色を詳しく見て行きたいと考えます。


澤氏、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰に当たられている智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。

最近ですと、昨年刊行された『草野心平研究資料集』(クロスカルチャー出版)の編集に当たられたりもなさっています。

今回は、光太郎の本格的文学活動の出発点たる雑誌『明星』主宰の与謝野鉄幹夫人・晶子との関わり。晶子は光太郎の5歳年上で、よき姉貴分でした。
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右上は雑誌『スバル』第2年第2号(明治43年=1910)の裏表紙を飾った光太郎の絵。口から蛇を吹き出すエジプトの女神ですが、モデルは晶子です。このシリーズで光太郎は森鷗外、北原白秋なども茶化して描いています。まぁ、親しみの表れですね。

他に、晶子の著書に挿画や序文を寄せたことも複数回ありましたし、晶子の有名な「百首屏風」と同じようなコンセプト(鉄幹の渡航費用捻出のための販売用)で光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も現存します。そうした交流は晶子が亡くなる昭和17年(1942)まで、断続的、不即不離に続きました。

そういった話プラス、作品面での2人の対比といったお話になるようです。興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨日にひきかへて今日は午后猛烈な風が吹き出し、ザラメ雪を交へてすごい吹雪風景となりました。風が積雪を吹き上げて煙のやうに空にまひ上げ、一望ただ白く、向うの森も見えなくなります。

昭和22年(1947)1月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「地吹雪」というやつですね。

この書簡には、イラストも附けてありました。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の雪上に見られる狐と兎と鼠の足跡です。
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地方紙2紙の記事から。

まずは長野県松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん。少し前の記事で、今月初めのものです。

笑顔と涙の巣立ちの日 高校卒業式

 松本市内の多くの高校で1日、卒業式が開かれた。本年度は新型コロナウイルスの5類移行に伴って制限がほとんどなくなり、会場にはマスクを外した笑顔と歌声が広がった。卒業生は友達や恩師との思い出を胸に、晴れ晴れとした表情で学びやを巣立った。
 松本美須々ケ丘高校は、近くのキッセイ文化ホールで式典を行った。4年ぶりに吹奏楽部の生演奏で卒業生276人が入場し、保護者や在校生の温かい拍手で迎えられた。久保村智校長は式辞で高村光太郎の詩「当然事」を紹介し、日常への感謝を忘れないよう呼びかけ「皆さんのかけがえのない人生が心身ともに健康であり、自分、他者、社会のために大いに活躍することを願っている」とはなむけの言葉を送った。
 卒業生が企画・運営する「第2部」では友達や恩師、後輩、家族に感謝の思いを伝えた。全校生徒の合唱では会場中に澄んだ歌声が響き、多くの卒業生の目に涙が光っていた。前生徒会長の3年・松山葉南さん(18)は「多くの人に支えられた3年間だった。高校での経験を生かして自分らしく頑張りたい」と決意を新たにしていた。
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光太郎詩「当然事」、少し長いのですが全文は以下の通り。
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  当然事

 あたりまへな事だから
 あたりまへな事をするのだ。
 空を見るとせいせいするから
 崖を出て空を見るのだ。
 太陽を見るとうれしくなるから
 盥のやうなまっかな日輪を林中に見るのだ。
 山へ行くと清潔になるから
 山や谷の木魂(こだま)と口をきくのだ。
 海へ出ると永遠をまのあたり見るから
 船の上では巨大な星座に驚くのだ。
 河のながれは悠悠としてゐるから
 岸辺に立つていつまでも見てゐるのだ。
 雷は途方もない脅迫だから
 雷が鳴ると小さくなるのだ。
 嵐がはれるといい匂だから
 雫を浴びて青葉の下を逍遥するのだ。
 鳥が鳴くのはおのれ以上のおのれの声のやうだから
 桜の枝の頬白の高鳴きにきき惚れるのだ。
 死んだ母が恋しいから
 母のまぼろしを真昼の街にもよろこぶのだ。
 女は花よりもうるはしく温暖だから
 どんな女にも心を開いて傾倒するのだ。
 人間のからだはさんぜんとして魂を奪ふから
 裸という裸をむさぼつて惑溺するのだ。
 人をあやめるのがいやだから
 人殺しに手をかさないのだ。
 わたくし事はけちくさいから
 一生を棒にふつて道に向かふのだ。
 みんなと合図をしたいから
 手をあげるのだ。
 五臓六腑のどさくさとあこがれとが訴へたいから
 中身だけつまんで出せる詩を書くのだ。
 詩が生きた言葉を求めるから
 文(あや)ある借衣(かりぎ)を敬遠するのだ。
 愛はぢみな熱情だから
 ただ空気のやうに身に満てよと思ふのだ。
 正しさ、美しさに引かれるから
 磁石の針に化身するのだ。
 あたりまへな事だから
 平気でやる事をやらうとするのだ。

初出は昭和3年(1928)、仲間うちで出していた雑誌『東方』の創刊号でした。翌年には新潮社から刊行の『現代詩人全集』に収められ、その際に若干の改訂が施されています。

光太郎詩としてはあまり有名なものではないのですが、ちりばめられたひと言ひと言にこの頃の光太郎の人生観等がよく表されていますね。そして万人にも共通するような部分も多いと思います。

式辞で取り上げて下さった校長先生、グッジョブです(笑)。

もう1件、宮城県の『石巻日日新聞』さんから。過日も取り上げさせていただいた、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」がらみです。

続けることで原動力に  「いのちの石碑」建立メンバー 母校の女川中で講演

 自然災害や津波から1千年先の命を守るため、女川町内に21基の「いのちの石碑」を建立した東日本大震災当時の中学生。そのメンバーが11日、女川中学校で震災を考える講演を開き、1―2年生70人が受講した。震災の記憶を風化させることなく、後世につないでいく大切さを学んだ。
 石碑建立は、発災直後、女川一中(今の女川中)の1年生(現在24―25歳)が取り組んだ伝承活動。町内21カ所の浜の津波到達地点より高い場所に石碑を建て「有事はこの石碑より高台に逃げてもらう」ことで未来の命を救う狙いがある。
   令和3年までに全て建立し、碑には津波から命を守るために生徒が考えた3つの対策①互いに絆を深める②高台へ避難できるまちづくり③記録に残す―と記されている。
 講演したのはメンバーの阿部由季さん、伊藤唯さん、鈴木美亜さんの3人。震災を知らない後輩に向け、阿部さんは発災直後の心境を「今の自分にできることは何と考える毎日だった」と回顧。「友人と一緒に卒業式で歌うはずの歌を避難所で歌い、皆さんが喜んでくれた。小さなことでも続けることで誰かの原動力になる」と訴えた。
 「町を襲う津波を思い出し、今も眠れない日がある」と打ち明けた伊藤さんは「伝承活動も最初は嫌々参加したが、今は充実感や幸せを感じる。一緒に活動してきた仲間のおかげ」と感謝した。
   「防潮堤を作らない女川の復興まちづくりをどう思うか」という中学生の問いに、鈴木さんは「高い防潮堤を作ってもそれだけでは不十分。津波から命を守るなら高台避難が大事」と強調。「女川は海と共存してきた。身近に海を感じられる今の女川が私は好き」と話した。
 聴講した生徒会長で2年生の高橋莉生さんは「講演を通じて普段から友人や家族、地域と絆を深めることが大事と学んだ。ありがとう、おはよう、おやすみなどのあいさつからしっかりと交わしたい」と語っていた。
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発災当時の出来事などを語った(左から)阿部さん、伊藤さん、鈴木さ

大震災の教訓など、「次世代に伝えるべきこと」の大切さが感じられます。

当方としては、光太郎智恵子、光雲らの事績、その精神を「次世代に伝えるべきこと」として伝えていこうと、改めて思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

堀辰雄氏の「風立ちぬ」雪の中のこの小屋で落手、どんなによろこんだかしれません。

昭和22年(1947)1月11日 角川書店宛書簡より 光太郎65歳

堀辰雄の代表作『風立ちぬ』。光太郎も読んだのですね。どちらかというと若い人向けのというイメージがありますが、数え65歳でこれを楽しめる感性、見習いたいものです。

新刊です。

えんぴつで心ときめく名作詩

2024年3月11日 書 大迫閑歩 イラスト イオクサツキ ポプラ社刊 定価1,400円+税

1日10分であなたの毎日をリフレッシュ! 珠玉の名作詩をなぞって朗読することで、心を整えてみませんか。

金子みすゞ、宮澤賢治、高村光太郎など、名作詩30篇をセレクト。書家による書き下ろしで、美文字レッスンの習慣を。えんぴつの柔らかな書き心地で、心を整え脳活効果も! 作品の背景、作家の生涯など、プチ文学講座として。
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【目次】
はじめに
1章 恋する思い
 島崎藤村「初恋」 立原道造「夢みたものは……」  竹久夢二「宵待ち草」 
 北原白秋「初恋」 横光利一「愛」 中原中也「湖上」      
2章 旅にあこがれて
 山村暮鳥「雲」  石川啄木「飛行機」  丸山薫「汽車に乗って」 村山槐多「二月」
 島崎藤村「小諸なる古城のほとり」 北原白秋「落葉松」 萩原朔太郎 「旅上」
3章 自然のなかで
 山村暮鳥「風景 純銀もざいく」 三好達治「雪」 萩原朔太郎「竹」
 木下杢太郎「梟」 佐藤惣之助「犯罪地帯」 田中冬二「青い夜道」 八木重吉「太陽」
4章 いのちの喜び
 金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」 千家元麿「秘密」 立原道造「眠りの誘ひ」
 堀辰雄「帆前船」 八木重吉「皎皎とのぼつてゆきたい」
5章 生を慈しむ
 中原中也「汚れっちまった悲しみに」 室生犀星「小景異情(その二)」
 高村光太郎「あどけない話」 宮澤賢治「永訣の朝」 
 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
おわりに
参考文献

【著者略歴】
大迫閑歩(おおさこ・かんぽ)
1960年鹿児島県生まれ。本名・大迫正一。筑波大学芸術専門学群卒業。同大学院修士課程修了。九州女子大学共通教育機構准教授を経て、現在安田女子大学文学部書道学科教授。漢字の古い書体を中心にした研究、作品制作を続け、後進の指導にあたっている。
著書に『えんぴつで奥の細道』『えんぴつで方丈記』『えんぴつで論語』などがある。

001B5のやや大きめの判、よくある「なぞって書こう」的な。類書として昨年ご紹介した『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』(コスミック出版)など。

なぞられるべき薄く印刷されている詩句が活字ではなく、書家の大迫閑歩氏が書かれているというところが一つのポイントです。

近代詩30篇が取り上げられ、光太郎詩は『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)を入れて下さいました。ありがたし。他に島崎藤村、北原白秋、八木重吉、中原中也、山村暮鳥、立原道造は2篇ずつ。村山槐多が入っていたのには「へー」でした。

キーボードやスマホ画面等でなく、やはり自分の手で文字を書くことによって、詩句が脳内に入って来るプロセスがより鮮烈となる気がします。そういう意味では電子書籍では成り立たない出版ですね。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のは真宗の和讃の中の文句「清浄光明」と「平等施一切」とを書きました。当地の農家は皆熱心な真宗の信者なのです。あとは半切に「牛はのろのろと歩く」、「満目蕭條」と書きました。


昭和22年(1947)1月15日 宮崎丈二宛宛書簡より 光太郎65歳

この年1月2日に行った書き初めに関わります。書いたものは世話になっている土地の人々にあげたりすることが多かったようです。

このうち「平等施一切」と「満目蕭條」の書は現存が確認出来ています。
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本日は栃木県で発行されている同人詩誌のご紹介。

詩誌 馴鹿 第80号記念号

2024年2月29日 頒価500円

目次
 特集Ⅰ・ゲスト作品
  かぎりないもの 菊地雪渓氏
  詩の宿題 久保田奈々子氏
  詩は間違った表現なのだ 小久保吉雄氏
  わたしの夢 杉本真維子氏
  短歌 磯笛 野上れい氏
  ボロ 深津朝雄氏
 同人作品
  公孫樹 吹木文音
  あはれちちのみの父よ、あはれははのそはの母よ 丕内七武
  橋 小太刀きみこ
  座ってる 矢口志津江
  黒部 三森弘之
  遊園地にて 大野敏
 特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」
  矢口志津江 吹木文音 小森谷章 三森弘之 小太刀きみこ 和氣勇雄 大野敏
 後記

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「特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」」の中で、連翹忌の集い等にもご参加下さっている同誌同人・吹木文音氏が光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)から象徴的なリフレイン『わたしもうぢき駄目になる』について書かれています。本冊、氏から頂きました。多謝。

   山麓の二人
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 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡なびいて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたくしは黙つて妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたくしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。

抜粋しますと「私が、この哀切極まりないフレーズに惹かれる理由は、絶望の向こうに広がる景色を望むから。そして、人の営みを超越するおおいなる自然に同化し、ちっぽけな自分を恕(ゆる)す心持ちになれるから。」なるほど。

詩の背景を少し説明いたします。

まず、描かれているのは、昭和8年(1933)8月末の出来事。前年に睡眠薬アダリンの大量摂取で自殺未遂を起こした智恵子の心の病を少しでも快方に向かわせようと、光太郎は智恵子を連れて東北、北関東の温泉巡りに出ました(右上画像はその一環としての那須塩原温泉でのショット)。その直前にはそれまで無視してきた入籍を果たします。万が一、自分が先に逝くことになってしまったら、「内縁の妻」では智恵子に遺産相続の権利がないと考えてのことでした。

智恵子実家・長沼家からの除籍の手続きも必要だったのでしょうか、智恵子故郷の福島県安達郡油井村(現・二本松市)にも立ち寄ります。その足で向かった最初の湯治先が裏磐梯川上温泉。この詩は檜原湖、五色沼などが広がる裏磐梯高原での一コマを謳っています。

詩の執筆は約5年後の昭和13年(1938)6月。このタイムラグの意味するところは、当方、戦争との関わりだろうとふんでいます。

終末部分の「わたくしの心」と「一つになつた」という「二人をつつむこの天地」がどうなっていたかというと、智恵子の心の病が誰の目にも顕在化した昭和6年(1931)には満州事変が勃発、智恵子が自殺未遂を起こした翌7年(1932)には五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、光太郎が智恵子を入籍し、裏磐梯をはじめとする湯治の旅に出た同8年(1933)に日本は国際連盟脱退、ドイツではヒトラー政権樹立、智恵子がゼームス坂病院に入院していた同11年(1936)で二・二六事件。そして翌12年(1937)には遂に日中戦争開戦。さらにこの詩が書かれた13年(1938)は国家総動員法が施行されています。

急坂を転げ落ちるように悪化していった智恵子の病状と軌を一にするように、日本も泥沼の戦時体制へと突き進んでいきました。

そして光太郎も。「芸術家あるある」の俗世間とは極力交渉を絶つ生活が、智恵子を追い詰めたという反省もあって、光太郎は自ら積極的に社会と関わる方に180度方向転換します。その社会の方が、先に見たようにおかしな方向に進んでいたのが光太郎にとっての悲劇でした。この頃から、翼賛詩の乱発が始まります。「山麓の二人」が書かれた昭和13年(1938)6月の前月、5月には「地理の書」という詩を書きました。日本列島の美しさを讃える内容で直接的に「聖戦完遂」などとは謳っていませんが、のちのちまで各種アンソロジー等に収録され続け、もてはやされた作品です。
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さらに8月には同じ趣旨の「日本の秋」、9月には「吾が同胞」、12月には「東亜のあけぼの」(後に「その時朝は来る」と改題)、「群長訓練」、「新しき御慶」……。

一方では「山麓の二人」や「レモン哀歌」(昭和14年=1939)など『智恵子抄』所収の珠玉の詩篇も書き続けています。まさに「わたくしの心はこの時二つに裂けて」だったわけで、光太郎もそれを自覚していたのだと思います。

智恵子が言った「わたしもうぢき駄目になる」。それまである意味一心同体のように歩みを共にしてきた二人のうちの一方が「駄目になる」ことは、もう一方も「駄目になる」ことにつながりはしないでしょうか。智恵子にとっての「駄目になる」は「夢幻界の住人になる」ことでしたが、光太郎も「大東亜共栄圏の建設」などという「夢幻」に踊らされた、否、積極的に加担してしまったという意味では、「駄目にな」ってしまったと云わざるを得ません。吹木氏のおっしゃる通り「哀切極まりないフレーズ」と、つくづく思います。

吹木氏の稿、こう結ばれています。

人間の愛や生を言葉で刻み、誇らかに命を謳い上げる「詩の力」にもまた、魂を揺さぶられるのだ。

同感です。

ところで『馴鹿』。目次に目を通して「ありゃま」でした。巻頭の「特集Ⅰ・ゲスト作品」で知った顔ぶれがずらりと並んでいまして。

001まず菊地雪渓氏。令和元年(2019)の第41回東京書作展で内閣総理大臣賞に輝かれた書家の方ですが、自作の詩を寄稿なさっています。そういえば詩も作る方だったっけ、でした。

続いて久保田奈々子氏。「詩」で「奈々子」と云えば、勘の鋭い方はそれだけでお判りですね、詩人の故・吉野弘氏のご息女にして吉野氏の詩「奈々子に」のモデルです。

さらに杉本真維子氏。昨年、詩集『皆神山』で萩原朔太郎賞を受賞なさいました。思潮社さんから刊行されている『現代詩手帖』の今月号は杉本氏の特集が組まれています。

菊地氏はコロナ禍前からでしたが、久保田氏と杉本氏は昨年から、当会主催の連翹忌の集いにご参加いただいております。先述の吹木氏も。そんな関係で当方も知る面々の玉稿が集結したというわけです。

光太郎を一つの機縁に、このように人々の輪が広がって行くこと、望外の喜びです。

さて、『馴鹿』、奥付画像を貼っておきます。ご興味おありの方、そちらまで。
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【折々のことば・光太郎】

この山の中にゐても外の事は何も不便を感じませんが古美術などに接する機会の無い事だけがもの足りません。花巻あたりに小美術館でもあるといいのですが。
昭和22年(1947)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の「美」への渇仰は、もはや「業(ごう)」のようなものだったのかな、という気がします。

「東京都同情塔」で第170回芥川賞に選ばれた九段理江氏の小説です。「東京都同情塔」より前に書かれたものですが、ある意味芥川賞受賞の尻馬に乗った感と言うと失礼かも知れませんが、単行本化されました。

しをかくうま

2024年3月10日 九段理江著 文藝春秋 定価1,500円+税

第45回野間文芸新人賞受賞作。
疾走する想像力で注目を集める新芥川賞作家が描く、馬と人類の壮大な歴史をめぐる物語。
太古の時代。「乗れ!」という声に導かれて人が初めて馬に乗った日から、驚異の物語は始まる。この出逢いによって人は限りなく遠くまで移動できるようになった――人間を“今のような人間”にしたのは馬なのだ。
そこから人馬一体の歴史は現代まで脈々と続き、しかしいつしか人は己だけが賢い動物であるとの妄想に囚われてしまった。
現代で競馬実況を生業とする、馬を愛する「わたし」は、人類と馬との関係を取り戻すため、そして愛する牝馬<しをかくうま>号に近づくため、両者に起こったあらゆる歴史を学ぼうと「これまで存在したすべての牡馬」たる男を訪ねるのだった――。

担当編集者より
2021年に小説家デビューするや、発表するすべての小説で文学賞を受賞してきた新芥川賞作家の、真骨頂とも呼べる、圧倒的想像力の爆発した一作です。
野間文芸新人賞選考会では、小説の放つあまりの疾走感から、この作品自体が“暴れ馬”に見立てられ、“暴れ馬”から“振り落とされた”と述懐する選考委員もいらしたほどです。
詩情豊かにギャロップする物語は、批評的射程も広く備えていて、優生思想や純血主義、アニマルライツ、果ては人類の知そのものに対する問いまでをも孕んでいます。
いま最注目の才能が送る、試みと企みに満ちた必読の書。
また、小説内には、実在の名馬名や名実況セリフもちりばめられており、競馬ファンにもおすすめいたします。
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それほど厚い本ではないので、ほぼほぼ一気読みしました。2時間弱でしょうか。

主人公の一人は、現代のテレビ局勤務のアナウンサー「わたし」。主人公といえば、数万年前に出会ったネアンデルタール人とホモ・サピエンスの二人組、さらに終末部分では「ニューブレイン」を埋め込まれた近未来の人類も登場し、彼らも主人公の一人と言えるでしょう。

タイトルの通り、「馬」が重要なモチーフ。「わたし」は情報番組のキャスター、そして競馬の実況中継を担当しています。太古の二人組は、おそらく人類史上初めて馬に乗った(高速の移動手段を手にした)という設定。近未来の部分には馬は描登場しませんが、「ニューブレイン」をoffにした状態での「オールドブレイン」による幻想の中には馬が現れます。

また、もう一つのモチーフは「詩」。ただ、ここでいう「詩」は、通常の意味の「詩」より広範な意味で使われていますが。

そこで、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が引用されています。しかも最終形の9行バージョンではなく、詩集『道程』上梓前に雑誌『美の廃墟』に載った102行の初出発表形。ただし、あまりに長いので冒頭部分だけですが。それ以外にも「道程」という単語は複数回使われ、その背後には光太郎の「道程」がちらつきます。

九段氏と言えば、作品執筆にに生成AIを活用したという点がクローズアップされていますね。本作でもおそらくそうなんじゃないかと思われる箇所が散見されます。例えば、およそ2ページにわたり、カタカナ10文字の人名が99名分羅列されている箇所があります。こうした作業は生成AIお手のものでしょう。ちなみに99名のほとんどは古今東西のうちの「西」。日本人は含まれません(後の部分で「タニカワシュンタロウ」が出てきますが)。「ウォルトホイットマン」や「アルチュールランボー」「レオナルドダヴィンチ」など、光太郎に影響を与えた人物も少なからず。そうかと思うと「フレディマーキュリー」や「マークザッカーバーグ」まで。個人的には「アーネストフェノロサ」「フランシスプーランク」や「ミッシェルポルナレフ」が欲しいところでしたが(笑)。「タカムラコウタロウ」は惜しくも9文字ですね(笑)。

それにしても本作、一昔前なら荒唐無稽な「SF」の範疇に入れられていたかも知れません。それほど情報技術等の進化(進化と言えるかどうかは別として)は、急ピッチです。常々思っているのですが、まるでy=ax²のグラフのx≧0の部分のように。x軸が時間、y軸が情報技術等の進化です。
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閑話休題、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

彫刻の構図もいろいろ作ります。智恵子観音の原型雛形もそのうち試みるつもりです。

昭和22年(1947)1月6日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として「智恵子観音」の構想が結実するのは、さらに約6年後です。

新刊です。

日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術

2024年3月7日 稲賀繁美著 末木文美士/中島隆博責任編集 東京大学出版会 定価5,400円+税

ヨーロッパの基準で日本文化を判断し、そこにいかなる「美」の存在、むしろ不在を認定するか、あるいはいかなる「藝術」の発見を認知するか、それとも否認するか、その闘争の場として「日本の近代思想」における「美/藝術」は「読みなお」しを迫られている。本書はその視角から美/藝術を活写する。
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目次
総論 「近代日本」の「美」と「藝術」の「思想的」「問い直し」――本書の前提と限界
 一 学術分野と担い手の問題
 二 実践者と研究者と
 三 輸入概念としての「美」「藝術」
 四 内と外との鬩ぎ合い
 五 海外発信の使命と蹉跌と
 六 「日本」固有の「美の本質」探求とその自己矛盾
 七 国際的評価基準と「美」や「藝術」の位相
 八 先行業績の瞥見と再評価
 九 「脱近代後」から回顧する「日本近代の美/藝術」
 一〇 本書の前提と限界
Ⅰ 「藝術」の「制度」と「近代」
 一 渡邊崋山「崋山尺牘」
 二 『國華』第一巻 第一号 序文
 三 九鬼隆一「序」『稿本帝国日本美術略史』
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea(一九〇六)
 五 高村光雲『高村光雲古譚』
Ⅰ 資料編
 一 坂崎坦「崋山椿山の学画問答」
 二 『国華』第一巻第一号序文/"Introduction to the New English Edition"
 三 九鬼隆一 序『稿本帝国日本美術略史』"Préface",Historie de l'art du japan
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea
 五 高村光雲『高村光雲懐古譚』
Ⅱ 東洋美学の模索
 一 橋本関雪『南畫への道程』
 二 園頼三『藝術創作の心理』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅱ 資料編
 一 橋本関雪『南画雑考』
 二 園頼三『感情移入より気韻生動へ』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良「結語」『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅲ 外からのまなざし、外への視線――内外の交差にみる日本の「美」と「藝術」
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô, Heinemann, 1913
 三 大西克禮『幽玄とあはれ』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe?”
「予は日本の建築を如何に観るか」岸田日出刀(訳)
 五 今村太平「日本藝術と映画」『映画藝術の性格』
Ⅲ 資料編
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」 高村光太郎「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô
 三  大西克禮『幽玄論』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe
ブルーノ・タウト「予は日本の建築を如何に観るか」(岸田日出刀譯)
 五 今村太平「日本藝術と映画」
Ⅳ 「日本美」の彼方への思索――伝統と創造との綻び目
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」『面とペルソナ』
 二 柳宗悦 “The Responsibility of the Craftsman”
Sōetsu Yanagi,Bernard Leach(ed.), The Unknown Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」『水墨画』
 四 丹下健三「日本建築における伝統と創造│桂」『桂:日本建築における伝統と創造』
 五 Taro Okamoto, L’esthétique et le sacré, Seghers, 1976,«L’énigme d’Inoukshouk», 
«le jeu de berceau »「イヌクシュックの神秘」、「宇宙を彩る」『美の呪力』
Ⅳ 資料編
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」
 二 柳宗悦「日本人の工藝に対する見方」 The Responsibility of the Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」
 四 丹下健三「桂にいたる伝統」 The Tradition leadung up to Katsura
 五 岡本太郎「イヌクシュックの神秘」 L’énigme d’Inoukshouk
   岡本太郎「宇宙を彩る――綾とり・組紐文の呪術」 le jeu de berceau
おわりに

日本の近代思想を読みなおす」という全15巻のシリーズ中の3巻目です。幕末から昭和の岡本太郎あたりまでの、いわばその時点でのエポックメーキング的な書籍、論文その他をピックアップし、その美術史的位置づけや背景、その後に与えた影響などをつぶさに検証しています。原文の抄録も「資料編」として掲載。非常に読み応えがあり、なるほどと目を開かれる部分が少なくありませんでした。

上記目次で色を変えておきましたが、第Ⅰ章で光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣)、第Ⅲ章で光太郎の『印象主義の思想と芸術』(大正4年=1915 天弦堂書房)から「ポール セザンヌ」、評論「触覚の世界」(昭和3年=1928 『時事新報』)が取り上げられています。

ただ、残念なのがありえないほどの誤植の多さ。目次からして『光雲懐古談』が『光雲古譚』とか『光雲懐古譚』になっています。そうかと思うと本文では正しく『光雲懐古談』となっている箇所もあったりします。また、光太郎の『印象主義の思想と芸術』は全ての箇所で『印象の思想と芸術』と誤記。「ポール・セザンヌ」と書かれている題名も正しくは「・」なしの「ポール セザンヌ」です。さらに本文中にやはり光太郎の評論集『造美論』(昭和17年=1942 筑摩書房)が紹介されていますが、これも『造美論』……。どうすればこうやって取り上げる書籍等の題名を誤記できるのかと呆れてしまいました。せっかくの労作なのにもったいないというか……。そうなると、当方の詳しくない他の作家の部分でも同様の誤記が少なからずあるのではないかと勘ぐってしまいます。当方も時々やらかすのであまり大きなことは言えませんが……。

ついでにいうなら、いちいち気になって仕方がなかったのが、旧字と新字の混交。なぜか「芸」の字、旧字の「藝」と新字の「芸」が混ざっています。何かこだわりがあるのかも知れませんが、使い分けている基準や意図が全く不明です。きちんと校正者の校正を経ていないのでしょうか(経ていれば『光雲懐古談』『光雲古譚』『光雲懐古譚』、「藝」「芸」が共存していることは有りえませんね)……。そういった部分では版元の姿勢も問われます。

まぁ、そういう点を差っ引いても日本近代の美術思想史を概観する上では良書といえます。誤植の多さには目をつぶってあげて、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

ミカンはまことに珍重、早速夕食後にコタツでいただきました。昔一晩に一箱たべてしまつたやうな時代のあつた事を思ひ出しました。


昭和22年(1947)1月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

昭和2年(1927)の『婦人公論』に載ったアンケート「名士と食物」に「果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。」と回答していました。それにしても「一晩に一箱」(笑)。ミカンに含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

最近ではミカンも貴重品のような気がします。一度に2つも食べると罪悪感に責めさいなまれます(笑)。

落語の公演情報です。

彌生・初演の会 =お楽しみ宿題三題噺=

期 日 : 2024年3月23日(土)
会 場 : 一般社団法人落語協会 東京都台東区上野1-9-5
時 間 : 開場 17:10 開演 17:30
料 金 : 1,500円

番組
|、宿題三題噺 林家たま平
|、名人傳   鈴々舎馬桜
|、相撲風景  林家たま平
|、心眼    桂右團治

馬桜:名人傳は、創作落語になるか?「浜野矩髄」に成ります。

@終演後、反省会を兼ねた懇親会が有ります。参加費:3000円前後 村役場です。

宿題三題は、2月24日の初演の会で題を頂きます。

メール予約:baorin@reireisha.com

鈴々舎馬桜師匠の「名人傳」が、光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)からのインスパイアだそうです。

『光雲懐古談』、真面目な話が根幹ですが、ユーモア溢れる話も多く、そうした意味では落語のネタとして格好の素材です。

平成27年(2015)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」。当時のプロデューサー氏が『光雲懐古談』を読み、その落語的面白さに惹かれて制作されました。ナレーションに俳優の石橋蓮司さんを起用し、落語っぽい語りが挿入され、いい感じでした。

元々、光雲は語り上手で知られていました。『光雲懐古談』中にまるまる一節が使われているところが複数箇所ありますが、「国華倶楽部」「国醇会」などで講話をする機会も多く、宴席などではその話芸があまりに巧みで、芸者衆などが光雲の周りにばかり集まり、美術学校の同僚たちが「高村さんとはもう飲みに行かない」とやっかんだというエピソードも伝わっています。

また、『光雲懐古談』以外に、同じ昭和4年(1929)に刊行された『漫談 江戸は過ぎる』(河野桐谷編 万里閣)などにも光雲による実に面白い談話が多数掲載されており、当方編集当会刊行の『光太郎資料』にて少しずつご紹介しています。

000今回は『光雲懐古談』中のエピソードを使っての新作落語。馬桜師匠のフェイスブック投稿から。

今日の一句
|、春深し面白すぎの懐古談
*はるふかしおもしろすぎのかいこだん

夕飯迄の時間を読書に当てる、拾い読みしていたものを始めからじっくり読む。
『高村光雲懐古談』面白い。そして為になる。
改めて感心する。幕末から明治維新の頃の浅草の様子が良く解る。
そして、仏師の修業過程が良く解ります。
噺の裏付けできちんと読み直そうと思ったのですが、違う題材でも一席出来そうな・・・。
初演の会で『高村光雲』と云う噺にこさえてますが・・・
皆さんのその目と耳で確かめて下さい!!
ご予約メール待ってます。

初演の会の準備。
高村光雲が作った上野恩賜公園の西郷隆盛の銅像を造る裏話を・・・
落語家から観たその騒動?を 探ってます。
ただ その裏付けとして、明治の歴史を改めて勉強のし直しです。
憲法発布で西郷が罪一等を減じられて、「維新の功績」を見直されて銅像を!
声が上がり、日本全国から募金をつのり出来上がった様です。
『高村光雲懐古談』を読み直しましたが・・・江戸っ子なんですね。
寄席に行って講釈や落語も聴いた。と云う前提で噺が出来上がりつつあります。

実際、光雲は(息子の光太郎もですが)三遊亭圓朝のファンでした。そこで、少なからず影響を受けていたのではないかと思われます。

ちなみにオリジナルの昭和4年(1929)版『光雲懐古談』には、「ふどう売りもの――落語になる話――」という、まさに落語を意識した項もあったりします。戦後の復刻版ではカットされていますが。

当方、予約いたしました。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も元気で新年を迎へました。現実の世情は目で見る通りですが、本来大いに好季節に向はねばならぬ次第、あとは国民一人一人の叡智如何による事です。

昭和22年(1947)1月5日 小盛盛宛書簡より 光太郎65歳

昭和22年(1947)となりました。この稿、慣例により年齢は数え年で表記していますので、年明けとともに光太郎65歳です。

001実は(実はと言うほどでもありませんが(笑))、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕141年となりました。

誕生日と言えば、光雲の誕生日。フェイスブックやX(旧ツィッター)上では、3月8日に「今日誕生日の偉人」的な書き込みで光雲の名が書き込まれていて閉口しております。実際には2月18日ですので。ではなぜそういうズレが生じているかというと、光雲の生まれた嘉永5年(黒船来航の前年です)は当然、旧暦だったわけで、それを新暦に換算すると2月18日は現在の3月8日になるとのこと。こういう換算はいかがなものかと思います。

たとえば「忠臣蔵」。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄15年(1702)12月14日。そこで現代でも12月14日前後にテレビ等で「忠臣蔵」関連の放映が為されていますが、これを新暦に換算すると1703年1月30日になります。そこで、1月30日前後に「忠臣蔵」特集を組んだとしたら「はぁ?」ですよね。

あくまで光雲の誕生日は2月18日でお願いしたいところです。

展示系の情報を2件、始まってしまっているものと、もうすぐ開幕のものと。

まず始まってしまっているのが、書道の作品展。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2024年2月23日(金)~3月17日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 午前9時から午後7時
料 金 : 無料

岩手ゆかりの近代詩文を題材とした書道作品の公募展です。併せて、岩手にゆかりのある書道家の作品も展示します。


先月、地上波IBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられていました。

啄木、賢治の作品やオリジナルの歌を書に 岩手ゆかりの近代詩文書作品展始まる 盛岡市

  岩手にゆかりのある短歌や詩を書道作品で表現した展示会が、盛岡市で開かれています。
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 もりおか町家物語館で23日始まったのは、「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」です。会場には、盛岡市と石川啄木記念館が所蔵するものと、一般公募で集められた書道作品合わせて36点が展示されています。
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 作品の多くが歌人・石川啄木の歌や詩人で童話作家の宮沢賢治の詩が個性豊かに書かれたものですが、滝沢市に住む書家・戸島魯休さんは自ら詠んだ歌を書にしたためたものを出品しています。造り酒屋の跡地に整備されたもりおか町家物語館を訪れた際、蔵の造りと資料展示を見て感じたイメージが筆で力強く表現されています。

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 この企画展は3月17日まで開かれています。
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「岩手ゆかり」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、花巻町と郊外旧太田村とに足かけ8年暮らした光太郎の詩句も。
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昭和4年(1929)の詩「人生」の一節。ただし「重いものを」の「を」が抜けていますが。

ところでこのフレーズ、フェイスブックやX(旧ツィッター)上で、光太郎の名言としてよく引用されています。それはそれで有り難いのですが、しかし「棄てると」が「捨てると」と誤記されているケースがほとんどでして、閉口しております。

他に啄木や賢治の詩句等を書いたものがずらっと。「女啄木」と称された西塔幸子の短歌もあって、「ほう」と思いました。幸子の実弟・大村次信は盛岡で「オームラ洋裁学校」を創設し、光太郎とも交流のあった人物です。

続いて今週末から始まる展示。福島は郡山です。

第7回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト作品展

期 日 : 2024年3月16日(土)~5月26日(日)
会 場 : 郡山市ふれあい科学館スペースパーク 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
時 間 : 平日 10:00~16:15 金曜 10:00~19:45 土・日・祝 10:00~17:45
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

コンテスト選出作品40点を展示いたします。 "ほんとの空"のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。
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昨秋、約3年ぶりに作品募集のあった「第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト」。審査結果が先月発表され、入選作が展示されます。フライヤー等に大きく出ているのが大賞に輝いた「蕎麦畑に白虹」。埼玉県の方が会津の下郷町で撮影されたものだそうです。日光が霧に当たって出来る「白虹」、当方、見たことがありません。一度見てみたいものですが。

その他、PDFで入選作が見られますが、サムネイル的な小さな画像でも、力作ぞろいというのがよくわかります。残念ながら智恵子の愛した安達太良山の風景はなかったようです。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

屋根の雪は一度学校の先生がおろしてくれました。寒さは雪の割にゆるく、まだ零下十度にもなりません。去年は〇下二十度になりましたが。


昭和21年(1946)12月30日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入って二度目の冬。このシーズンは雪が多かったそうですが、気温的にはそれほど冷え込まなかったようで、年明けには摂氏9℃とかになって驚いたとのこと。それにしても土壁一枚のあばら屋でしたから……。

今年もまた3.11がやって参りました。あの日から13年です。

昭和6年(1931)8月から9月にかけての約1ヶ月、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は宮城県石巻から岩手県宮古までの三陸海岸を主に船で旅しました。その行程に含まれていた宮城県女川町の海岸公園に、四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)。地元ご在住の画家・貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年8月9日(昭和6年に光太郎が三陸に向けて東京を発った日)、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。以来、毎年8月9日に貝(佐々木)氏を中心に女川光太郎祭が開催され続けていました。

そして平成23年(2011)3月11日。東日本大震災に伴う大津波が女川の町を呑み込みました。
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貝(佐々木)氏も還らぬ人となってしまいました。
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氏の奔走で建立された光太郎文学碑も被災。4基中の2基は海底に沈み、失われました。建立当時に日本一の大きさと言われたメインの碑は倒壊、何とか陸上に引き上げられたものの、その後長らくそのままでした。
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令和2年(2020)に、碑は再建。コロナ禍のため中止を余儀なくされていた女川光太郎祭も、昨年復活しました。

震災後の女川町での大きな動きの一つとして、「いのちの石碑」の建立が挙げられます。町内21箇所の津波到達地点より高い場所に避難の目印となるよう建てられたもので、震災の年に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちが発案しました。
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建立資金の1,000万円は、光太郎文学碑に倣い、募金で集められました。
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令和3年(2021)には予定の全21基が設置完了しました。
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今年3月6日(水)の『読売新聞』さん。全国の「自然災害伝承碑」を取り上げた記事の中で、「いのちの石碑」についてもご紹介下さいました。長大な記事ですので、抜粋で。

全国に2000基超…「伝承碑」から学ぶ大災害の教訓

 東日本大震災から間もなく13年になる。元日には能登半島地震があり、最近は千葉県東方沖でも地震が続いている。寒波の後に初夏のような陽気になり、大雪に大雨、雪崩も起きる。異常気象や災害の激甚化を肌で感じることが増えているように思えてならない。
 日本は昔から自然災害が多かった。われわれの先祖は災害を忘れないよう、その教訓を後世に残そうとしてきた。過去に災害が起きた場所の地名にも先人の教訓が込められていることは、過去にこのコラムでも取り上げたが、もっとわかりやすく災害の教訓を今に伝える遺産がある。全国各地に建つ、過去の風水害や地震を伝える伝承碑(自然災害伝承碑)だ。

きっかけは西日本豪雨で撮られた1枚の写真
  国土地理院は5年前から、新たな地図記号を制定して、自治体などに呼びかけて、伝承碑を地図に掲載する取り組みを続けている。登録された伝承碑は今年2月末で全国598市区町村の2085基に達した。
  どこに、どんな伝承碑があるのかは、誰でも見ることができる。
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地理院地図とともに全国の自然災害伝承碑を見る
  国土地理院がこの取り組みを始めたきっかけは、2018年の西日本豪雨の際、広島県坂町で撮影された1枚の写真だった。土砂に押しつぶされた家で災害救助活動を行う大阪府警の警察官を見下ろすように建っていたのは、高さ3メートルの伝承碑。明治40年(1907年)7月15日、旧坂村を土石流が襲い、「人々不暇逃避(人々は逃げる暇もなく)」46人の命が奪われたことを伝えていた。
 西日本豪雨では、碑が建つ坂町の小屋浦地区に避難勧告が出されたにもかかわらず、地区の住民の避難率は、坂町全体の半分程度にとどまった。多くの住民は石碑の存在は知っていたが、漢文で記された内容を把握していた人は少なかったという。
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 国土地理院で地図掲載の取り組みを進めている環境地理情報企画官の吉武勝宏さんは、「地元の伝承碑の存在を知ることは、身近な災害の危険を知る助けになる。ハザードマップなどと合わせて地図を見ることにより、さらに理解が深まる」と話す。地図を見ていくと、それぞれの伝承碑に込められた先人の警告や、われわれがそれを生かしているかどうかも垣間見ることができる。とても2000基は紹介できないが、伝承碑から何がわかるかを北から見ていこう。
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 繰り返し津波被害にあった東北地方太平洋沿岸には多くの伝承碑が建ち、岩手県田野畑村のように、明治29年(1896年)の明治三陸地震と昭和8年(1933年)の昭和三陸地震、そして東日本大震災の伝承碑が並び建つところもある。
 明治、昭和の三陸地震で2度とも集落が全滅した岩手県宮古市重茂姉吉地区の住民は、大津波記念碑に記された「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、 此処ここ より下に家を建てるな」という教訓を守ってきたため、東日本大震災では家屋に被害が出なかった。
 東日本大震災関連では、東北地方の太平洋沿岸を中心に128基の伝承碑が建てられている。高さ14.8メートルの津波に襲われた女川町では、女川第一中学校(現・女川中)の生徒らが地域住民の協力を得て、町内で確認できた津波到達点21か所に「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓を記した「女川いのちの石碑」を建てた。
  全国の伝承碑で最も新しい災害に関する伝承碑は宮城県丸森町などにある令和元年の東日本台風に関するものだ。今後は地球温暖化の影響で、これまでは少なかった東北での豪雨・台風災害にも警戒が必要になるだろう。
(略)
 全国の伝承碑に込められた共通の思いは、過去の記録を継承していくことは防災意識を高め、忘れたころにやってくる天災への備えになる、ということだ。あなたの身の回りにも、まだまだ草むらに埋もれた伝承碑があるかもしれない。

ただ、逆に「「災禍を思い出したくない」「地価が下がってしまう」といった住民の声に配慮して、登録を見送っている自治体もある」とのこと。

難しい問題ですね。

難しい問題といえば、震災後の女川町での大きな動きのもう一つ、女川原発の再稼働。『朝日新聞』さん、今朝の「天声人語」。

(天声人語)311への手紙

宮城県女川町を見下ろす丘の上で、これを書いています。いかがお過ごしですか? あの日と同じように、さっきまで小雪が風に舞っていました。あなたたちを忘れぬようにという空からのメッセージでしょう▼東日本大震災の1カ月後に、ここから見た光景を思い出します。視界いっぱいのがれき。3階建てのビルの屋上に自動車が場違いに転がっています。あなたをさらった津波が残したのでしょう。街全体が沈み、道は海の中へ続いているかのようです。女川原発は、最悪の事態をなんとか免れました▼原発に重大事故が起きたら車で避難を。車のない人は、県や自治体が用意したバスなどが来るまで待って――。震災後につくられた各地の避難計画はそう言います。国も内容を了承しました▼計画を発動しなければならない時、どんな光景が目の前に広がっているか。そうした対応が可能か。自治体も、国も、裁判所も、知らないはずがありません。たった13年前のことです。能登半島でも道が崩れ、救援が立ち往生するさまを見ました▼なぜでしょう。あなたたちの命の代わりに学んだはずのことが、なぜこんなふうになってしまうのでしょう。女川原発は秋にも再稼働するそうです。復興の街を風がただ吹きぬけてゆきます▼いや問うべき相手はあなたでなく、遺(のこ)された私たち自身でしたね。震災後の社会をつくったのは私たちなのですから。それでは、またお便りします。この丘からならば、きっと届くと信じています。

またお便りします」の文面が、最悪の内容にならないよう、祈らずには居られません。

【折々のことば・光太郎】

二日には書初めをやりませう。廿九日には畠山さんに進呈するため半切大の紙に「天地寿」と書きました。


昭和21年(1946)12月31日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「畠山さん」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村在住の日本画家・畑山崇山。子息の崇一は光太郎の影響で詩作にも取り組みました。
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3.11の今日、「天地寿」と本当に言える日が来ることを願って已みません。

まず都内から演奏会情報です。

朝岡真木子歌曲コンサート 第7回

期 日 : 2024年3月20日(水・祝)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演(13:30開場)
料 金 : 一般 4,500円 学生券2,000円(全席自由)

曲 目 
 「さくらの はなびら」 詩:まど・みちお 
 「風のこころ」 詩:大竹典子
 「影」「夢のわかれ」 詩:西岡光秋
 「冬が来た」 詩:高村光太郎
 「雪 詩」 詩:野原ゆき
 「わらううた」 詩:渡部千津子
 組曲「万葉の愛」 万葉集より
 組曲「きらめきの中へ」 詩:星乃ミミナ
 ソプラノとバリトンのための「薔薇の園」 詩:岡崎カズヱ
 他

出 演
 木内弘子(ソプラノ) 黒川京子(ソプラノ) 竹下裕来(ソプラノ)
 前澤悦子(ソプラノ) 清水邦子(メゾ・ソプラノ) 川出康平(テノール)
 馬場眞二(バリトン) 朝岡真木子(作曲・ピアノ)
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光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の作品集が演奏されるコンサートです。ピアノは朝岡氏ご自身。昨年の第6回もお邪魔しました。

今回は、昨秋開催された「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」で初演された「冬が来た」がプログラムに入っています。歌唱はバリトンの馬場眞二氏だそうです。

もう1件。こちらはサブタイトルに光太郎詩「あどけない話」由来の「ほんとうの空」の語を冠してくださっています。以前にも書きましたが、東日本大震災後、「ほんとうの空」の語が使われるようになりました。

第17回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会 - 感動の歌声 響け、ほんとうの空に -

期 日 : 2024年3月21日(木)~3月24日(日)
      3月21日(木) 中学校部門 
      3月22日(金) 高等学校部門
      3月23日(土) 小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月24日(日) 各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1
時 間 : 各日、開場9:30 開演10:00
料 金 : 各部門予選  前売り 2,000円 当日 2,500円 
      本選     前売り 2,500円 当日 3,000円
      4日間通し券 前売りのみ 8,000円

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第17回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。
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ただ、苦言を呈させていただければ、毎年そうなのでもうしょうがないのかも知れませんが、出演団体は事前に公表されるものの、演奏曲目が公表されません。それを出すとまずいということもないと思いますし、「あの曲が演奏されるなら聴きに行こう」と考える向きもいらっしゃらないとは限りません。ぜひこの点、改善していただきたいところなのですが……。

ちなみに出演団体といえば、今年は智恵子の母校・福島高等女学校の後身である県立橘高校さんが出演なさいます。かつてこの大会や全日本合唱コンクール等でご常連でしたが、最近あまり聞かないな、と思っていたのですが。

それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は大晦日でございますが此辺は旧暦の為め村の人も見えず、ひどく静かで、ただ雪が霏々と降つて居ります。小屋の周囲は三尺近くつもり、殆ど交通杜絶で郵便も自然遅れます。


昭和21年(1946)12月31日 三輪吉次郎宛書簡より 光太郎64歳

終戦直後の山村ではまだ旧暦でいろいろやっていたようですね。もっとも、現代でも年中行事等は旧暦で、というケースはまだ多いかも知れません。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の第一回連翹忌会場となった、中野の貸しアトリエ保存に向けての関係者会合でした。

そちらが夕方からということで、その前にギャラリー2軒をハシゴ。

まずは銀座のギャラリーせいほうさん。
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こちらでは「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」が開催中です。
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メインは光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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戸板に手をかける福の神と、扇形の地板の外に追いやられた邪鬼と。それぞれの部分での刀技の冴え、陽刻と陰刻のバランス、余白の取り方など、まさしく超絶技巧ですね。

他に光雲高弟の面々の作。

山崎朝雲。
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米原雲海。
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平櫛田中。
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孫弟子にあたる佐藤玄々。
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孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇。
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これは存じませんでしたが、高昇は光雲の高弟・山本瑞雲の系譜に連なるそうで、実の血縁と師弟の系譜と、かなり錯綜しています。息子の堅太郎氏が孫弟子、父親の高昇は曾孫弟子、逆転していますね。
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孫弟子までは概ね頭に入っていましたが、曾孫弟子となると誰が誰に師事したか存じませんで、こういう系図になるか、と、新鮮でした。ここに挙げられていない枝葉も多く存在するわけで、そうした部分での光雲の功績というものを実感させられました。弟子や孫弟子、さらにその次と、伝統的な技法をしっかり受け継いだ上でそれぞれの独自性を出し、そうやって袋小路に入らずに発展していくんだな、と。

続いて、原宿に。次なる目的地はデザイン&ギャラリー装丁夜話さん。こちらでは二人展というか三人展というか、「星センセイと一郎くんと珈琲」が開催中です。
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こちらはマンションの一室をギャラリー兼カフェとして使っており、なるほど、そういうのもありかと思いました。

香川県ご在住の山口一郎氏のドローイングが2種類。いずれも光太郎詩「レモン哀歌」オマージュです。ありがたし。

まずは「レモン」。
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アクリル絵の具で描かれたものだそうですが、ズラッと並ぶとものすごいインパクトでした。

それからずばり「レモン哀歌」。
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詩「レモン哀歌」が18行あるということで、その1行ずつが描かれています。面白い発想ですね。

今回の展示のサムネイル的に使われているこの絵もその中の1枚で、智恵子でした。詩句としては「ぱつとあなたの意識を正常にした」。
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画像は18枚を一冊にまとめて印刷したポストカードブックの表紙です。
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一冊2,200円也。デザイン&ギャラリー装丁夜話さんサイトでオンライン販売が始まりました。ぜひお買い求め下さい。

今回の展示、メインは山口氏の師・星信郎氏のデッサン。こちらはサマセット・モームからのインスパイアだそうで。
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こちらもいい感じでした。

ギャラリー2軒ハシゴの後、新宿へ。メインの目的、中野アトリエ保存に向けての関係者会合です。会場は新宿村CENTRALさん。
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PXL_20240308_070935608意外といえば意外な会場なのですが、会合メンバーのお一人、渡辺えりさんが、4月6日(土)開幕の舞台「さるすべり」の稽古でこちらを使われていて、稽古終了後にそのまま稽古場を使わせていただいたわけです。

ちなみに会合には参加されず、稽古終了後にお帰りになりましたが、「さるすべり」で渡辺さんとW主演の高畑淳子さんもいらっしゃいました。

高畑さんといえば、令和3年(2021)、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」にご出演。何と、高畑さんがモデルを務められた彫刻の鑑定でした。作者は先述の橋本高昇の子息にして、光雲孫弟子にあたる故・橋本堅太郎氏。高昇は智恵子と同郷の二本松出身、堅太郎氏は智恵子像を2点(二本松駅前安達駅前)作られました。意外なところでいろいろつながっているものですね。
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ちなみに鑑定額は700万円でした。さもありなんです。

高畑さん、公式プロフィールでは新潮163㌢だそうで、なるほど、シュッとした感じでした。別に渡辺さんがずんぐりむっくりなどとは申しませんが(笑)。

会合の方は、現状報告と今後の運営方針の確認や意見交換、情報交換。まだ具体的に皆様に「こうこうこうだよ」と提示できる段階ではありませんで、いずれこのブログにて詳細をご紹介いたします。

戻りますが、「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」は3月16日(土)、「星センセイと一郎くんと珈琲」は明日まで。それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

春子さん千葉真亀にゆかれたよし、真亀ときくとあの苦しかつた昭和九年頃の真亀訪問を思ひだします。一週間に一度づつ菓子や果物を持つて智恵子を訪れ、追ひすがる智恵子をすかしなだめて、後ろ髪を引かれる思で帰つて来た頃がまざまざと思ひ出されます。東京へ帰ると大学病院に入院してゐる父をたづね、まつたく寧日無かつた明け暮れでした。


昭和21年(1946)12月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「春子さん」は宮崎の妻にして智恵子の姪。さらに智恵子の最期を看取った元看護師でもありました。「真亀」は現在の九十九里町真亀。昭和9年(1934)に智恵子が半年あまりここで療養生活を送りました。その年には光雲が死去。たしかに光太郎にとっては実に大変な一年でした。

都内から朗読公演情報です。

天野まり単独公演 ソレを、私は恋と呼ぶ。/智恵子抄

期 日 : 2024年3月17日(日)
会 場 : 秋葉原コンシールシアター 東京都台東区台東3-5-10
時 間 : 14:00〜15:00 オンラインライブ配信公演、アーカイブ配信公演あり
料 金 : 会場生観劇チケット料金¥5,000 オンライン料金¥3,000

出 演 : 天野まり

劇団コンシールの専用イベントスペース「秋葉原コンシールシアター」での特別公演「天野まり単独公演」を開催致します。
・ソレを、私は恋と呼ぶ。
・智恵子抄

※演目は変更の可能性があります。

会場に足を運べないお客様の為のライブ配信公演と、公演期間が終わっても観劇できるアーカイブ公演もアリ!!
※演目は変更の可能性があります。
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詳細が今一つよく分からないのですが、とりあえず。

【折々のことば・光太郎】

食餌衛生を努めて合理的にやつて居り、七十歳以後の製作精力の涵養に心懸けて居ります。七十代こそ小生の製作最盛期と信じて居ります。


昭和21年(1946)11月23日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

実際、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を、中野の貸しアトリエで制作し始めたのは数え70歳の昭和27年(1952)でした。しかし、「最盛期」というにはほど遠く、蠟燭が消える前の一瞬の煌めきのような感じでした。

今日はまた、その中野の貸しアトリエ保存のための会合で上京して参ります。ついでというと何ですが、原宿で「星センセイと一郎くんと珈琲」、銀座で「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」を拝観して参ります。

都内から古書即売会の情報です。

この手の即売会、規模の大小はいろいろあって、以前よりぐっと減ったものの小規模なものまで含めれば常にどこかしらで開催されてはいる感じですが、今回ご紹介するのはそれなりに大規模、ネット上でも積極的に宣伝が為されています。ちなみに「ABAJ」というのは「日本古書籍商協会」さんだそうで。

ABAJ 国際 2024稀覯本フェア

期 日 : 2024年3月15日(金)~3月17日(日)
会 場 : 東京交通会館展示会場 カトレアサロンA・B 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 3月15日(金)12時〜19時 /16日(土)10時〜18時 /17日(日)10時〜16時
料 金 : 無料

 向春の候、皆様には益々のご健勝の事とお慶び申し上げます。いつも私共ABAJ(日本古典籍商協会)並びに会員各位に対して格別のご支援とお引き立てを賜り誠に有難うございます。
 今日、激動の国際情勢と変化を求められる世情の中で、書物の価値は益々高くなるものと確信いたしております。この度のフェアでは内外の有力書店28社の協力により精選された稀覯本を展示して皆様のご来場をお待ち申し上げます。
 2024年が皆様にとりまして大躍進の年となります様、心より祈念致します。

2024年2月吉日
ABAJ 会長(日本古書籍商協会)北澤一郎
ABAJ国際稀覯本フェア実行委員会一同
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出品目録に依れば日本の古典籍と洋書が中心ですが、日本近代ものもちらほら。

その中で、札幌の弘南堂書店さん(30年程前に一度お伺いしました)で、光太郎のそれを含む萩原朔太郎追悼文の直筆原稿25人分。
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昭和17年(1942)8月の雑誌『四季』第67号で、この年5月に没した朔太郎の追悼特集を組み、それに寄せられた原稿です。光太郎の稿は「希代の純粋詩人-萩原朔太郎追悼-」という題でした。下画像の右端です。
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一括で残っていたんだ、という感じでした。

さらに弘南堂さん、光太郎第一詩集『道程』もご出品。
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カバー欠ですが、識語署名入り。識語は聖書の一節です。

ご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それで「開闡郷土」の揮毫も思の外すらすら書けました。

昭和21年(1946)11月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「開闡(かいせん)」は「開き広める」の意。茨城取手の素封家だった宮崎の父・仁十郎らに依頼され、取手の長禅寺に郷土の開拓発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑を建てることになり、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。ところがこの時書いた揮毫を宮崎が列車の網棚に置き忘れ、のちに再度揮毫することになります。

碑は長禅寺参道石段右側に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。
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都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2024年3月20日(水)~4月6日(土)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

今年ももうすぐ3.11、あの日から13年ですね。

智恵子の故郷、福島二本松の南、郡山でのイベントです。

光太郎智恵子に直接関わるものではないようですが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を冠して下さっていますので、ご紹介します。

3.11ふくしま集会 原発事故は終わっていない

期 日 : 2024年3月10日(日)
会 場 : 郡山市労働福祉会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 13:30~
料 金 : 無料

2024年3月11日(月)、「3.11ふくしま集会 原発事故は終わっていない」を開催します。ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

講演 「福島原発事故は人々に何をもたらしたのか」
 講師  関礼子さん(立数大学社会学部教授)

パネルディスカッション 「原発事故から13年を語る」
 コーディネーター 関礼子さん
 パネラー 
  ふるさとを返せ津島原発所訟原告団、子ども脱被ばく裁判原告団、福島原発被害井護団

女川原発差し止め訴訟からの報告

福島の取り組みからの報告
 福島原発事故被害から暮らしと健康を守る会
 市民立法「チェルノブイリ法日本版」をつくる郡山の会
 小児甲状腺がん支援グループ あじさいの会
 請戸テントひろば
 汚染水の海洋投棄を止める運動連絡会

お問い合わせ
 3.11原発いらない福島実行委員会 080-6220-0996(藤井)
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13年が経ちますが、いまだに複数町村で「帰還困難区域」が存在する現状。これで「原発事故はもう終わった話」とは言わせないぞ、と思います。
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また、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町の原発再稼働に関しても議題に。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

遠くから見てゐると東京では随分無駄な動きに人々が喘いでゐるやうです。


昭和21年(1946)10月28日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住してからまる一年、花巻町疎開から数えれば約1年半。すっかり地方からの視点になっています。

先週、埼玉県越生(おごせ)町に行って参りました。県中央部やや西寄り、秩父山塊の麓です。

基本、光太郎とは関係なく、日頃さんざん世話になっている妻に女房孝行と申しますか、ご機嫌取りと申しますか、でした(笑)。

メインの目的地は、それなりに花好きの妻のために、越生梅林さん。梅といえば昨年は水戸偕楽園さんに行ったのですが、若干盛りには早く三分咲きといったところでしたので、リベンジの意味も兼ねて(笑)。

今回の越生梅林さんでは、ほぼ満開でした。
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やけに風の強い日でしたが、それだけに快晴、青空をバックにした梅花がいい感じでした。

それから温泉好きの妻のために(当方もですが)、日帰り温泉へ。さらに妻は御朱印マニアですので、寺社めぐりも。

事前にネットで調べたところ、大慈山正法寺さんという鎌倉時代開山の古刹に、複製ながら、光太郎の父・光雲作の大黒天像がおわすという情報を得まして、そちらに。

町の中心街から少し山に入ったところで、落ちついたたたずまいでした。
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よくある「七福神巡り」の一箇所で、御本尊は聖観音菩薩ですが、大正期の職人による大黒天像も鎮座ましましています。
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閻魔様もいらっしゃり、いつもそうしていますが、「後々お世話になりに行きますのでよろしくお願い申し上げます」と念じて参りました(笑)。

お寺の方にお話を伺うと、光雲原型の大黒天像、てっきり大きめの露座と思い込んでいましたが、そうではなく、像高一尺ほど、庫裡的な一角に納められているということで、わざわざ式台まで運んできて下さいました。七福神巡り大黒天のお寺ということで、寄進されたものでしょう。
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やさしいお顔をなさっていました。

御朱印もゲット。
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越生梅林さん、昨夕、NHKさんの関東甲信越ローカルニュースでも「見頃を迎えています」的な紹介が為されていました。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

空の美しさ、殊に夜の星空のうつくしさは言語を絶してゐます。夜明け未明の東の空に北上連山が暗碧に浮き出して来る刻々の変化には思はず見とれて朝の食事の事を忘れるほどです。


昭和21年(1946)10月25日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、光害などとは無縁の地で、明け方の空の美しさはまさに絶景だったことでしょう。

先月封切りの映画「風よ あらしよ 劇場版」に関し、新聞に載った評をご紹介します。

『北海道新聞』さん。

映画「風よ あらしよ」柳川監督 声上げる大切さ今も■女性の自由と自立 命懸けた伊藤野枝

005 大正期の女性解放運動家・伊藤野枝を描いた村山由佳の評伝小説が原作の「風よ あらしよ」が札幌・シアターキノで上映されている。2022年に放送されたNHKドラマの劇場版で、わずか28年の生涯を激しく生き抜いた野枝を演じるのは吉高由里子。吉高が主演した連続テレビ小説「花子とアン」でディレクターを務めた柳川強が演出を手がけた。
 家を支えるためだけの結婚を蹴り上京した野枝は、平塚らいてう(松下奈緒)の言葉に感銘を受け、青鞜社に入る。女学校時代の教員・辻潤(稲垣吾郎)と結婚するも、やがて関係は破綻。無政府主義者大杉栄(永山瑛太)と出会い、生涯のパートナーとして関係を深めていく。
 大杉の妻や愛人との四角関係など〝自由奔放〟な側面が強調されがちだが、原作では野枝が、困ったときに助け合う「共助」の思想を掲げていたことが描かれる。柳川は「彼女の思想は、新自由主義の台頭によって社会の分断が進み、人とのつながりが持ちづらくなっている現代社会にリンクする。映画でもこの点を大切にしたいと思った」と語る。
 大学時代に、宮本研による戯曲「ブルーストッキングの女たち」を見て以来、野枝にひかれ続けていたという。女性が声を上げることが今以上に難しかった時代に臆することなく貧困や男女不平等など社会矛盾に異を唱え、個としての自由や自立を訴えた野枝。彼女を演じるのは「吉高さんしか思い浮かばなかった」と明かす。かれんでキュートなイメージが強いが、「野枝を激情型の人物像にするのは簡単なんだけど、それは彼女の一面でしかない。人との距離感をすっと縮めることができる人という野枝のイメージが吉高さんに重なりました」。
 1923年(大正12年)の関東大震災直後の混乱に乗じて多くの朝鮮人や、社会主義者、アナキストらが虐殺された。大杉と野枝も、大杉のおいで当時6歳だった橘宗一とともに憲兵の甘粕大尉(音尾琢真)らに殺され、遺体は井戸に投げ込まれた。
 映画は井戸の底から空を見上げるシーンで始まり、終わる。柳川は「100年前の出来事だけれど、当時の空気感は今とそんなに違わない。個人の自由が権力や集団に阻害されるとき、個人として声を上げるのは確かに難しい。でも、そうありたいと思い続けることはできる。そのきっかけになればうれしい」と話す。
 2023年、2時間7分。脚本は矢島弘一。シネマアイリス(函館)、シネマ・トーラス(苫小牧)、大黒座(浦河)でも上映予定。
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『東京新聞』さん。

映画「風よ あらしよ 劇場版」 伊藤野枝の生涯描くNHKドラマを再編集 時代が野枝に追いついてきた

006 100年前の日本で女性解放運動の第一線に立ち、近年、再評価が進む伊藤野枝(のえ)(1895~1923年)。波乱の生涯を描くNHKドラマを再編集した映画「風よ あらしよ 劇場版」が公開中だ。
 手掛けたのは柳川強。沖縄返還やアイヌ民族といった骨太の題材をドラマにしてきた演出家は、野枝の魅力をこう語る。「今よりよっぽど男尊女卑の考え方が強かった時代に、世間の目をものともせず声を上げる。その奔放さに引かれた」
 野枝(吉高由里子)は福岡県の貧しい家に生まれた。「元始、女性は太陽であった」と男社会に疑問を突きつけた青鞜社の平塚らいてうに憧れ、親の決めた嫁ぎ先を飛び出す。無政府主義者・大杉栄(永山瑛太)のパートナーとなった末に、28歳の若さで憲兵に殺害されてしまう。
 映画はその歴史を追いつつ子育てや料理、掃除といった日常も丁寧にすくい上げる。「主義主張よりも、生活の中にこそ、にじむものがある」と柳川。「主義者」につきまとう先鋭的なイメージではなく、根底にある素朴な「助け合いの精神」に光を当てる。
 柳川と吉高は、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で組んだ。原作は村山由佳の同名小説。柳川は言う。「#MeToo運動など、『声を上げる』という動きは今とリンクしている。時代が野枝に追いついてきたのかもしれない」 

映画では村山由佳氏の原作にある光太郎智恵子登場シーンは残念ながら割愛されていますが、智恵子が表紙を描いた『青鞜』創刊号がモチーフとして随所に使われ、光太郎智恵子と交流のあった人々が多数登場、なかなかの見応えです。

公開終了してしまった上映館も多いのですが、これからというところもあります。まだという方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生は胎教を信ずる者です。もし赤さんが出来たのなら日常の精神と行ひとをつとめて清浄に、敬虔な日を送るべきです。


昭和21年(1946)10月24日 宮崎春子宛書簡より 光太郎64歳

春子は智恵子の姪にして、その最期を看取った元看護師です。前年に光太郎の仲介で、詩人の宮崎稔と結婚しました。翌年には男の子が無事誕生。宮崎夫妻は何と「光太郎」と命名してしまいました。

3月となり、そろそろ受験シーズンも終わりに近づきつつありますね。

そんな中、先月25・26日に行われた国公立大学の2次試験のうち、京都大学さんの前期日程文系国語の問題に光太郎の文章が出題されました。

昭和15年(1940)11月に書かれ、翌年元日発行の雑誌『知性』第4巻第1号に発表された「永遠の感覚」の全文です。
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小問が5問設定され、全て記述式。字数制限はありませんが、解答欄のスペースから適度な長さで書け、ということですね。

大手予備校河合塾さんによる解答例。

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同じく代々木ゼミナールさん。
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駿台予備校さん。
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来年度以降の受験生向けでしょうか、「問題分析」も。

駿台予備校さん。
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河合塾さん。
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ちなみにこの問題、随筆扱いで、文学的文章としての出題でした。筑摩書房さん『高村光太郎全集』では第5巻、すなわち美術評論の巻、それから光太郎生前にはやはり評論集的な位置づけの『美について』(昭和16年=1941、道統社)に収められているのですが。しかし同じくこの文章を収めた『高村光太郎選集 第Ⅴ巻』(昭和26年=1951)は副題が「随想 上」で、まぁ、どちらとも取れるかなというところです。

それにしても、泉下の光太郎、このような形で自分が書いた文章が俎上に乗せられていることに苦笑しているかもしれません(笑)。

【折々のことば・光太郎】

何か揮毫する事はいつでもしますが、紙が乏しいです。和紙が不自由ですから紙さへお送りあれば書きます。


昭和21年(1946)10月18日 寺神戸誠一宛書簡より 光太郎64歳

自身では書家を名乗ったことはありませんが、特に戦後になって花巻郊外旧太田村に移ってから、頼まれて書を揮毫する機会が大幅に増えました。そして書けば書くほど、その腕前が上がっていったようです。

しかし戦後の物資不足が解消していなかったこの時期、やはりきちんとした紙は不足していまして、時に粗悪なボール紙や障子紙に揮毫することもありました。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。
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■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

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