2023年07月

紹介すべき事項が多すぎて、もう始まってしまっていますが、智恵子の故郷・福島二本松からのイベント情報です。

プレスリリースから。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/29(土)開幕! インスタ映えメニューが多数登場!

 富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2023年7月29日(土)~9月18日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。
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 今年で12年目を迎える本イベントは、光の天の川を中心に花や動物などをモチーフにしたイルミネーションが光り輝くあだたら高原リゾートの夏の風物詩です。今年の見どころは、ゲレンデに広がる光の天の川に、昨年好評だった「夏の大三角形」「カシオペア座」などに加え、「てんびん座」「さそり座」「いて座」といった夏の星座が新たに加わりスケールアップした星座のイルミネーションです。そのほか、「ADATARA LOVE」をテーマにした「ハートのオブジェ」や「光のひまわり回廊」など、夜の安達太良山を美しく彩ります。

また、期間中の特定日には、安達太良山の夜空に願いを込めてたくさんのスカイランタンを浮かべる参加型イベント「LEDスカイランタンフェスティバル」も開催。イルミネーションの輝きと相まって、世界でここだけの幻想的な光景が広がります。

 さらに、食堂「富士急レストハウス」では夏ならではのメニューが多数登場いたします。昼には、暑い日にぴったりのピリッと辛い「冷やし担々麺」や、かき氷がたっぷりのった「かき氷そば」、雪のようなふわふわ食感のあだたらスノーアイス」など、ひんやり冷たいメニューが充実。また、おやつにおすすめなのが「岳」の文字型をした「岳チュロス」。その新シリーズとして、今夏「空チュロス」が登場いたします。夜には、暗闇に光るかき氷や光るドリンクなど、イルミネーションを鑑賞しながらスイーツを味わえます。

 この夏は、標高1,700mと夏でも涼しく、日本百名山の一つに数えられる安達太良山の絶景と幻想的なイルミネーションの世界を楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

「あだたらイルミネーション」概要
 ・開催期間 2023年7月29日(土)~9月18日(月祝)  
  ※8月28日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
 ・営業時間 19:00~21:00  
  ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
 ・料金  入場料:中学生以上700円、小学生以下500円
  入場料とロープウェイ乗車料のセット:中学生以上1,500円、小学生以下1,000円
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■LEDスカイランタン【ほんとの空に願いをこめて】
 今年で3年目を迎える「LEDスカイランタンフェスティバル」がこの夏も皆様の期待にお応えし開催いたします。オレンジ、ピンク、グリーン、ブルー、レッドの5色のランタンが夜空に浮かび、ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。

・開催日 8月12日(土)、15日(火)、19日(土)、26日(土)、9月2日(土)、
     9日(土)、16日(土)、17日(日)
・時間 18:00受付開始、20:00ランタンリリース予定
・料金 4,000円(ランタン1基、イルミネーション入場料1名分含む)
・参加方法 各開催日前日までの予約申込み ※各日先着80名様限定
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■夏の爽やかメニューが多数登場!
 富士急レストハウスでは、暑い夏にぴったりのメニューを多数販売いたします。ピリッと辛い「冷やし担々麺」や、かき氷がたっぷりのった「かき氷そば」、雪のようなふわふわ食感の「あだたらスノーアイス」、「あだたらかき氷ソフト」、「あだたらソーダ」もご賞味いただけます。
 さらに、今春に販売開始した人気の文字型チュロス「岳チュロス」に、新たに「空チュロス」も仲間入り。青空や緑の木々をバックに撮影すれば、インスタ映えすること間違いなしです!
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■ロープウェイからの絶景、薬師岳パノラマパークからの雄大な景色を一望
 「日本百名山」の一つに数えられる安達太良山は、標高1,700mで夏でも涼しい環境で大自然を満喫できます。あだたら山ロープウェイに乗って約10分の空中散歩を楽しんだ後、山頂駅からは阿武隈山系や福島市街地を一望。さらに、散策道を10分程歩いたところにある「薬師岳パノラマパーク」では、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる、青く澄みきった空と絶景の大パノラマが楽しめるほか、山肌にはハートの形を発見することができ、見どころいっぱいです。
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■絶景露天風呂「あだたら山奥岳の湯」でリフレッシュ!
 標高約950mに位置する「あだたら山奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。

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個人的には「空チュロス」が非常に気になります(笑)。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子は追々よろしくなりましたが此頃お目にかかりたいやうに申して居ります。まだ頭が疲れて居る様子で外出が出来ませんので母上に勝手ながら一二泊のおつもりでおいで願へれば幸に存じます、


昭和8年(1933)5月11日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

前年の睡眠薬アダリン大量摂取による自殺未遂から身体的には恢復し、心の病の方も小康状態でした。智恵子の実家、二本松の長沼酒造は既に破産、一家はちりぢりになっており、母のセンはこの頃、世田谷に逼塞していました。「ほんとの空」を見ることが叶わなくなったのが、心の病の大きな要因の一つだったと思われます。

昨日は午後から横浜市に行っておりました。

メインの目的は「元井美智子自作自演コンサート2023」。港の見える丘公園内のイギリス館さんでの開催でした。
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そちらは18:30開演で、一旦、会場を通り過ぎ、当初予定通りすぐ近くでよく足を運ぶ神奈川近代文学館さんにまず行きました。
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ただし、展示室の方ではなく閲覧室に(だいたいいつもそうですが)。
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側溝に猫が二匹。最初「死んでるのか?」と思ったのですが、どうやらあまりの暑さに涼をとっているだけのようでした(笑)。
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国会図書館さんのデジタルデータリニューアル
でいろいろ新情報を得ましたが、同データの「館内限定閲覧」扱いのもののうち、何点かはこちらにも所蔵があるので、閲覧。さらにそれとは別個の光太郎について書かれた部分がある現代の書籍で、必要な箇所をコピーして参りました。

閲覧室の利用が17:00までで、その後、早めの夕食を摂りに中華街へ歩きました。考えてみると、コロナ禍が始まって以後、初めてでした。

再び港の見える丘公園へ歩いて戻り、イギリス館さんへ。まだ時間がありましたので、館内を拝観。
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外観の模型。こちらの建物、昭和12年(1937)の竣工だそうで、元は英国総領事の公邸でした。そのあたり、いかにも、という造作です。
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壁や天井など、お約束のコテコテ装飾等は施されていませんで、古建築好きとしてはちょっと物足りないなと思いつつも、却って質素な感じには好感が持てました。

さて、開演時間が迫り、一階ホールへ(ホールといっても、元は大広間)。
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何とまあ、観客は当方一人でした。

元々、あまり大々的に宣伝をなさっていたわけでもなく、また、申し込みがあったものの、この暑さで体調を崩されキャンセル、という方が複数いらしたそうで。

というわけで、なんとも贅沢な一人だけのコンサート(笑)。すぐ目の前で弾いて下さいましたし、至福のひとときとなりました。ただ、配信のための動画撮影はなさっていたので、純粋に当方だけのためというわけではありませんでしたが(笑)。
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まず、「智恵子抄より」。

オリジナルの曲にのせ、元井さんご自身が詩の朗読。「あどけない話」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」。あくまで「朗読」で、故・米川敏子氏作曲の歌として歌われる「千鳥と遊ぶ智恵子」や、故・小山清茂氏による節回しがつく語りという形式の「樹下の二人」などとは異なっていました。それがかえって自然な感じで良かったと思いました。

ちなみに琴で朗読、というと、故・清水脩氏が昭和34年(1959)に作曲、レコード化されています。しかし、こちらは朗読が主で琴は伴奏、という感じでした。レコードでは故・竹脇無我さんと栗原小巻さんが朗読をなさっていました。
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その点、元井さんのそれは、朗読と琴の一体感、不即不離感という意味では、実に良かったと思いました。

聴きながら、二本松の智恵子生家には智恵子が少女時代に使っていた琴があったっけな、と思い出しました。
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ただ、あまり熱心ではなかったようで、琴に関するこれといったエピソードは残っていませんが。

その後、「茶摘み」「夏は来ぬ」をオリジナルの編曲で。さらに、完全オリジナルの「青女」。「青女」とは、中国の古典に出て来る霜・雪を降らすという女神で、俳句の季語にも使われる語です。「季節外れですけど、猛暑の毎日なので、これを聴いて少しでも涼んでいただきたい」とのことでした。
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アルペジオの部分など、たしかに舞い散る粉雪のような感じ。なるほど、と思いました。

コンサートの前後、途中でもいろいろお話をさせていただきました。何しろ当方一人でしたので(笑)。琴に関する豆知識や、光太郎智恵子についても。元井さん、花巻郊外旧太田村の高村山荘、光太郎記念館にも行かれたそうで、「記念館の解説板を書いた者です」というと、目を丸くなされていました。ぜひ二本松の智恵子生家にも行って下さい的なお話(智恵子の琴の件は言い忘れてしまいましたが)、それから例によって連翹忌の御案内。来年の第68回連翹忌の集いにはいらしていただけるようです。

というわけで、以上、横浜レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

皆さまがおよろこび下さつたので私もこれほどうれしい事はないと思ひました、今度の制作であなたからうけた御親切は到底忘れる事が出来ません、


昭和8年(1933)4月23日 仁科節子宛書簡より 光太郎51歳

021今度の制作」は「成瀬仁蔵胸像」。智恵子の母校・日本女子大学校から制作依頼があったのが大正8年(1919)でした。その後、造っては毀しの繰り返しで、完成までに何と14年。そりゃまぁ「あなたからうけた御親切は到底忘れる事が出来ません」となりますね。

同像は現在も日本女子大学さんの成瀬記念講堂ステージ上に鎮座ましましています。昨日、横浜へ向かう途中、カーナビのテレビでNHK Eテレさんの「宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる (4)あまねく「いのち」を見つめて」が再放送されていて、拝見しながら行ったのですが、賢治の早世した妹・トシも同校卒業生ということで、この像がちらっと映りました。

テレビ放映情報2件ご紹介します。

まず、7月31日(月)の朝。

にほんごであそぼ「空」

地上波NHK Eテレ 2023年7月31日(月) 08:35~08:45 再放送 8月5日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご・漢字アニメ/空、偉人とダンス/この空は私たちの真上にある 究極のアートギャラリーなのである。(ラルフ・ワルド・エマーソン)、こどもスタジオ/空前絶後、朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎、文楽/山のあなたの・・・、童謡「りすりす小りす」

【出演】南野巴那,高杉真宙,竹本織太夫,鶴澤清介,三世 桐竹勘十郎,青柳美扇,おおたか静流,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)が取り上げられます。

ただ、番組説明欄の区切れ目がどこかよく分からない書き方です。おそらく「朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎」で、俳優の高杉真宙さんによる朗読ではないかと思うのですが……。もしかすると「「あどけない話」高村光太郎、文楽」かもしれません。というのも、今回も出演なさる人間国宝の桐竹勘十郎さんによる「あどけない話」も、以前に複数回ありましたので……。

もう1件、同日昼の放映。故・内田康夫氏原作の『「首の女」殺人事件』が原作です。

ドラマ・浅見光彦〜最終章〜▼第9話 草津・軽井沢編

BS-TBS 2023年7月31日(月) 12:59〜13:55

ベストセラー作家・内田康夫の大人気サスペンス小説「浅見光彦シリーズ」。光彦の2人の幼馴染・野沢光子(星野真里)と宮田治夫(吹越満)と久しぶりの再会を経て楽しい気分でいる頃、光子の父が殺害された…。

【出演】沢村一樹、風間杜夫、原沙知絵、黒田知永子、佐久間良子、
    星野真里、吹越満、 天野ひろゆき(キャイ〜ン)、鶴田忍、清水綋治

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平成21年(2009)に地上波TBSさんで連ドラの枠として放映された「浅見光彦〜最終章〜」の最終回。したがって2時間ドラマではありません。

何が「最終章」かというと、平成12年(2000)から2時間ドラマで浅見光彦役を演じられてきた沢村一樹さんの卒業、というコンセプトだったようです。ことによるとTBSさんでの「浅見光彦シリーズ」自体、これで満了、という予定だったのかもしれません。

しかし沢村さん、この後も平成23年(2011)から翌年にかけ、同じく地上波TBSさんの3本の2時間ドラマで浅見光彦役を演じられ、結局、何が「最終章」だったのかよくわかりません(笑)。さらにこの後、TBSさんの浅見光彦役は速水もこみちさんにバトンタッチされました。いろいろ大人の事情があったのでしょう。

で、「草津・軽井沢編」。光太郎彫刻の贋作にまつわる連続殺人事件を描いた『「首の女」殺人事件』を原作としています。
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途中には光太郎の人となり、詩の紹介も。
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同じ『「首の女」殺人事件』を映像化したフジテレビさん版(中村俊介さん主演)は、かなり原作に近く作られていたのですが、こちらでは大胆に変更。原作では事件の舞台は安達太良山、それから島根県でしたが、こちらでは草津と軽井沢が現場となり、ストーリーや登場人物の設定等も大幅に変えられています。

「浅見光彦〜最終章〜」として、平成22年(2010)にDVDボックスが発売されています。
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ちなみに第1話は「恐山・十和田湖・弘前編」。本編では映りませんでしたが、付録のメイキング映像には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が。
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本編でも取り上げていただきたかったのですが(笑)。

さて、それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

貴著詩集「瀧」及御てがみ忝くおうけとりしました。丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました為めお礼のてがみさへ遅れて失礼しました。詩集はもつとよく落ちついてから精読したいと思つてをりますから、その上何か申上げたいと存じます。

昭和7年(1932)11月 岡本弥太宛書簡より 光太郎50歳

岡本弥太は高知出身の詩人。戦後、光太郎が岡本の詩「白牡丹図」を揮毫した石碑が建立されました。

寸暇無き家事の状態」は心を病んだ智恵子の自殺未遂を指します。

この書簡、『高村光太郎全集』には『瀧批評集』という書籍からの転載で収録されていますが、同書の刊行年が「昭和一八年」と誤記されています。正しくは「昭和八年」です。

昨日開幕でした。

特別企画展 草野心平生誕120年「草野心平と中原中也」

期 日 : 2023年7月27日(木)~10月1日(日)
会 場 : 中原中也記念館 山口県山口市湯田温泉一丁目11-21
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日(8/14、9/18は開館) 8月29日(火) 9月19日(火) 9月26日(火)
料 金 : 【一般】 330円 【大学・高校専門学校の学生】220円 
      18歳以下、70歳以上無料

「蛙」をモチーフとした詩で知られ、2023年に生誕120年を迎えた詩人・草野心平。

1934年、詩人・草野心平と中原中也は、同人誌「歴程」の朗読会で出会い、以後交友を結びます。中也は心平らが発行した「歴程」の同人となり、また中也が詩集『山羊の歌』の装幀を高村光太郎に依頼する際、仲介したのが心平でした。中也にとって心平は個人的につきあいのある数少ない詩人の一人であり、また互いの詩を高く評価し合う、良き理解者でもありました。

本展では、いわき市立草野心平記念文学館協力のもと、二人の深い交友の軌跡と、心平の詩の魅力について紹介します。
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当会の祖・草野心平と中原中也。詩風から風貌まで(笑)、かなりタイプの違う感じも受けますが、それぞれに通底する詩魂といったものには、やはり共通する何かがあるようにも思えます。牽強付会のそしりを覚悟で云えば、光太郎から受け継いだDNA的な。

光太郎の中也評から。

 中原中也君の思ひがけない夭折を実になごり惜しく思ふ。私としては又たのもしい知己の一人を失つたわけだ。中原君とは生前数へる程しか会つてゐず、その多くはあわただしい酒席の間であつてしみじみ二人で話し交した事もなかつたが、その談笑のうちにも不思議に心は触れ合つた。中原君が突然「山羊の歌」の装幀をしてくれと申入れて来た時も、何だか約束事のやうな感じがして安心して引きうけた。(「夭折を惜しむ――中原中也のこと――」 昭和14年=1939 『歴程』第6号)

全文はこちら

ここでも触れられている『山羊の歌』の装幀は、心平が仲介したとのことで、そのあたりにまつわる展示もなされているのでしょう。

野々上慶一著『文圃堂こぼれ話 中原中也のことども』によれば、心平や光太郎が編集にあたり、やはり光太郎が装幀した『宮沢賢治全集』を見た中也が、ぜひ『山羊の歌』の装幀も光太郎に、と熱望したそうです。
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たしかにレイアウトや書体、赤と黒の効果的な使い方など、似ているといえば似ていますね。

それから、中也と心平といえば、この二人がタッグを組んで、太宰治・壇一雄のコンビと居酒屋で大乱闘を演じた事件も有名です。まるでスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組のような(笑)。

壇の『小説太宰治』から。

 「チェッ、だからおめえは」と中原の声が、肝に顫ふやうだつた。
 そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合つたのか、その発端のいきさつが、全くわからない。
 少なくとも私は、太宰の救援に立つて、中原の抑制に努めただらう。気がついてみると、私は草野心平氏の蓬髪を握つて掴みあってゐた。それから、ドウと倒れた。
 「おかめ」のガラス戸が、粉微塵に四散した事を覚えてゐる。いつの間にか太宰の姿は見えなかつた。私は「おかめ」から少し手前の路地の中で、大きな丸太を一本、手に持つてゐて、かまへてゐた。中原と心平氏が、やつてきたなら、一撃の下に脳天を割る。

きっかけは、酔った中原が太宰に執拗にからんだ、というだけの話なのですが(笑)。光太郎、この場に居合わせなかったのは幸いでした(笑)。

閑話休題、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】022

今夏は猛烈な厚さだつた上、ちゑ子が七月上旬から急病にかかつて一時危篤状態にまでなり、入院騒ぎをやつて、二ヶ月間まるで看病その他で仕事も出来ず、いろいろ遅れてしまひました、まだ今月一ぱいは極めて安静を要するので訪客には失敬してゐます、 除幕式を十一月にしていただき度たいのですが如何、鋳金出来、台がまだです。


昭和7年(1932)9月13日
 白瀧幾之助宛書簡より 光太郎50歳

急病」とありますが、実際には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂でした。

除幕式」云々は、現在、東京国立博物館黒田記念館さんに据えられている「黒田清輝胸像」関連です。

訃報を2件、亡くなった順に、ともに共同通信さんの配信記事から。

まずは僧侶にして教育評論家の無着成恭氏。

「山びこ学校」無着成恭さん死去 僧侶で教育評論家、96歳

000 中学生たちの生活記録集でベストセラーとなった「山びこ学校」の編者で、僧侶、教育評論家の無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが21日午前8時58分、敗血症性ショックのため死去した。96歳。山形市出身。自宅は千葉県多古町一鍬田292の福泉寺。葬儀・告別式は27日午前11時から福泉寺で。喪主は長男成融(せいゆう)氏。
 1948年に教師として赴任した山形県内の中学校で、生徒に生活の「なぜ」を考えさせる「生活つづり方運動」に取り組み、クラス文集をまとめた「山びこ学校」を51年に出版。大きな反響を呼び、映画化もされた。
 その後上京し、明星学園で教諭や教頭を務めた。64年からは、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者として長年出演。大分県国東市の泉福寺の住職も務めた。

無着氏,昭和57年(1982)に、明星学園さんの教壇に立たれていた頃の授業実践をまとめた『無着成恭の詩の授業』という書籍を刊行なさいました。
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ちなみに当方所蔵の同書、無着氏の署名本です。8章から成り、近現代の詩歌を扱った授業の実践記録で、8章のうちのひとつが「奪われた自由 高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥」。
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中学1年生に当たる「7年生」の授業で、生徒さんたちの発言や授業後に書いた感想文が、実に的を得ています。大学などの偉いセンセイたちがノルマに追われて「紀要」等に発表する「論文」などよりも(笑)。まぁ、無着氏の巧みな誘導があってのことではありますが。
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その他、実践記録は附されていませんが、巻末の「わたしの愛唱詩抄――この六年間に授業で扱った詩・作品」という項に、「冬が来た」「道程」。

国語教育に携わる人には、ぜひ読んでいただきたい書籍です。

訃報、もう1件。

作家の森村誠一さん死去、90歳 「人間の証明」「悪魔の飽食」

001 映画化されたベストセラー小説「人間の証明」や、ノンフィクション「悪魔の飽食」などで知られる作家の森村誠一(もりむら・せいいち)さんが24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。90歳。埼玉県出身。葬儀は家族葬で行う。後日お別れの会を開く予定。
 青山学院大を卒業後、大阪や東京のホテルに勤務する傍ら小説を書き、1969年に「高層の死角」で江戸川乱歩賞を受賞、本格的な作家活動に入った。73年に「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受け地歩を固めた。
 都心のホテルで起きた殺人事件を題材に人と人との絆を描いた代表作「人間の証明」(76年)が翌年映画化された。「野性の証明」(77年)も高倉健さん、薬師丸ひろ子さんの共演で大ヒット。映画と小説の相乗効果で一躍人気作家になった。「棟居刑事」シリーズ、「牛尾刑事・事件簿」シリーズなどテレビドラマ化された作品も多い。
 旧日本軍の「731部隊」を通して細菌兵器など戦争の暗部に迫ったノンフィクション「悪魔の飽食」も話題になった。

森村氏にも光太郎がらみのご著書があります。やはり昭和57年(1982)刊行の『新・人間の証明』。当方手持ちのものは昭和60年(1985)発行の角川文庫版です。
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昭和51年(1976)刊行で角川映画にもなった『人間の証明』で謎解き役だった棟居刑事が再登場、以後、「棟居刑事シリーズ」となっていく、いわば第2作です。ただし、内容が内容だけに「大人の事情」でしょう、映画化もテレビドラマ化もなされていません。

昭和56年(1981)に刊行されたノンフィクション『悪魔の飽食』を下敷きにし、旧日本軍の731部隊元隊員や家族などの関係者が次々と殺害され……という話です。

詳しいネタバレは避けますが、タクシー内で変死した(実は毒殺)最初の事件の被害者である中国人女性がレモンを持っていたという設定で、『智恵子抄』の「レモン哀歌」がらみの展開に。

やはり被害者の一人は実在の人物をモデルにしています。明治の末に智恵子が保養に訪れた福島県の原釜海岸で知り合い、その後姉弟のような文通をしていた鈴木謙二郎という当時の旧制米沢中学生です。小説では奥山謹二郎いう名ですが、原釜での智恵子とのエピソードなどはほとんどそのまま使われています。ここからは森村氏の創作で、奥山はその後、自分の娘を「智恵子」と名付けたり、物語の舞台となった1980年代には千駄木の光太郎智恵子旧居近くに一人住まいをしていたりと、初恋の相手であった智恵子の幻影を老人になっても抱き続けている、というわけです。

しかしその奥山老人は元731部隊員で、戦時中には旧満州でいろいろと……ということが明らかになり……。

『人間の証明』では、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?」という西条八十の「ぼくの帽子」が効果的に使われていましたが(ジョー山中さんが唄った角川映画のテーマソングはその英訳で「Mama, Do you remember…」)、『新……』では「レモン哀歌」。ただしレモンは731部隊でも意外な使われ方をしていて、美しいだけのモチーフではありません。そこで、現在も版を重ねているハルキ文庫版では、表紙にメスが刺さった無気味なレモンがあしらわれています。
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さて、『無着成恭の詩の授業』、森村氏の『新・人間の証明』、それぞれ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

目下妻の病気入院等にて寸暇無き次第です、


昭和7年(1932)7月25日 万造寺斉宛書簡より 光太郎50歳

智恵子、「病気入院」としていますが、実は睡眠薬アダリンを大量服用しての自殺未遂でした。7月15日朝に、智恵子が起きてこないことを不審に思った光太郎が発見しました。光太郎が気づくのが早かったため、一命はとりとめた智恵子ですが、この後、心の病は一進一退をくり返しつつ、しかしどんどん昂進していくことになります。

コロナ禍の最中にはそういうこともほとんどありませんでしたが、のんきにイベントに出かけ、さらにそのレポートを書いているうちに、書くべき事柄がたまってしまう、と、コロナ禍以前の状態が戻ってきています。

今週末のイベント等、2件、ご紹介します。

まずは邦楽系のコンサート。

元井美智子自作自演コンサート2023

期 日 : 2023年7月29日(土)
会 場 : 横浜市イギリス館 神奈川県横浜市中区山手町115-3
時 間 : 18:30~
料 金 : 2,500円

出 演 : 元井美智子(箏)
曲 目 : 智恵子抄より 青女 夏は来ぬ など

自作曲とアレンジ曲のプログラムでソロコンサートを開催します。あまりの暑さで外出をためらってしまう気候ですが、ぜひお越し下さい。よろしくお願いします。
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元井美智子さん。存じ上げない方ですが、通常の箏、十七絃、三味線などの演奏活動とレッスンをなさっている方だそうで。

プログラムに「智恵子抄より」とあります。SNSを拝見しましたところ、インスパイアを受けるため、今回のコンサートに先立ち花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんにも行かれたそうで、ありがたいことです。

会場が港の見える丘公園内のイギリス館さん。すぐ近くには神奈川近代文学館さんがあり、閲覧室はよく利用させていただいております。今回もそちらでの調べものを兼ねて、行ってこようと思っております。

もう1件。同日開始で映画の上演情報です。

生誕110年記念 映画監督・中村登――女性讃歌の映画たち

期 日 : 2023年7月29日(土)~9月1日(金)
会 場 : 神保町シアター 東京都千代田区神田神保町1-23
料 金 : 一般 ¥1,300 シニア ¥1,100 学生 ¥900 U29ペア割引 ¥2,200
      毎週水曜ファン感謝デー どなた様も1000円均一
      毎月1日映画サービスデー どなた様も1000円均一

■中村登(なかむら・のぼる)略歴■
 1913年東京・下谷に生まれ、36年東京帝国大学文学部英文科を卒業後、松竹大船撮影所に助監督として入社。41年に文化映画『生活とリズム』の後、同年『結婚の理想』で劇映画の監督デビューを果たす。51年のオールスター映画『我が家は楽し』が評判になると、スター女優が主演した文芸作品を数多く手掛けるようになり、63年の川端康成原作『古都』や66年の有吉佐和子原作『紀ノ川』などが高く評価され、松竹の屋台骨を支える巨匠として活躍した。79年、紫綬褒章受章。81年、日中合作映画『未完の対局』を準備中に闘病生活に入り、死去。
 生誕100年を記念して、2013年『夜の片鱗』がヴェネチア国際映画祭で上映、翌年のベルリン国際映画祭では『我が家は楽し』『土砂降り』『夜の片鱗』が上映され、今なお再評価の熱が高まる映画監督のひとりである。

上演作品 全作品ともに監督:中村登
 1.『智恵子抄』 昭和42年 カラー 
   出演:岩下志麻、丹波哲郎、平幹二朗、岡田英次、南田洋子、中山仁
 2.『春を待つ人々』 昭和34年 カラー 
   出演:佐田啓二、有馬稲子、岡田茉莉子、高橋貞二、桑野みゆき、佐分利信
 3.『鏡の中の裸像』 昭和38年 カラー
   出演:桑野みゆき、倍賞千恵子、池部良、神山繁、川津祐介、山本圭
 4.『爽春』 昭和43年 カラー
   出演:岩下志麻、竹脇無我、生田悦子、森光子、山形勲、市川好郎
 5.『明日への盛装』 昭和34年 白黒
   出演:高千穂ひづる、大木実、石浜朗、芳村真理、杉田弘子、杉浦直樹
 6.『恋人』 昭和35年 カラー
   出演:桑野みゆき、山本豊三、岡田茉莉子、南原宏治、桂小金治、大泉滉
 7.『紀ノ川』 昭和41年 カラー
   出演:岩下志麻、司葉子、田村高廣、丹波哲郎、有川由紀、沢村貞子
 8.『わが恋わが歌』 昭和44年 カラー
   出演:中村勘三郎、岩下志麻、竹脇無我、八千草薫、中村賀津雄(嘉葎雄)、緒形拳
 9.『我が家は楽し』 〈英語字幕付き〉 昭和26年 白黒
   出演:山田五十鈴、高峰秀子、笠智衆、岸恵子、桜むつ子、佐田啓二
 10.『河口』 昭和36年 カラー
   出演:岡田茉莉子、滝沢修、杉浦直樹、田村高廣、東野英治郎、山村聰
 11.『結婚式・結婚式』 昭和38年 カラー
   出演:岡田茉莉子、岩下志麻、田中絹代、伊志井寛、榊ひろみ、川津祐介、佐田啓二
 12.『二十一歳の父』 昭和39年 カラー
   出演:山本圭、倍賞千恵子、勝呂誉、山形勲、鰐淵晴子、高橋幸治
 13.『女の橋』 昭和36年 カラー
   出演:瑳峨三智子、田村高廣、藤山寛美、山本豊三、柳永二郎、佐藤慶
 14.『夜の片鱗』 昭和39年 カラー
   出演:桑野みゆき、平幹二朗、園井啓介、木村功、千石規子、菅原文太
 15.『暖春』 昭和40年 カラー
   出演:森光子、岩下志麻、山形勲、太田博之、乙羽信子、倍賞千恵子、桑野みゆき
 16.『日も月も』 昭和44年 カラー
   出演:岩下志麻、久我美子、大空真弓、中山仁、石坂浩二、笠智衆
 17.『土砂降り』 〈英語字幕付き〉 昭和32年
   白黒 出演:佐田啓二、岡田茉莉子、桑野みゆき、沢村貞子、山村聰、日守新一
 18.『斑女』 昭和36年 カラー
   出演:岡田茉莉子、芳村真理、倍賞千恵子、佐々木功、沢村貞子、山村聰
 19.『ぜったい多数』 昭和40年 カラー
   出演:桑野みゆき、田村正和、伊藤孝雄、吉村実子、石立鉄男、早川保、倍賞千恵子
 20.『辻が花』 昭和47年 カラー
   出演:岩下志麻、佐野守、中村玉緒、山口崇、岡田英次、松坂慶子、笠智衆

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昭和42年(1967)公開、岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」がラインナップに入っています。7月29日(土)~8月4日(金)までの第1タームです。

5月にはラピュタ阿佐ヶ谷さんでの上映もありましたが、あまり取り上げられる機会の多くない作品です。重いテーマで、岩下さんの鬼気迫る演技が一つの見どころとなっています。

それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

雑誌“いづかし”拝受、大層頁数の多い立派な雑誌なので驚きました、これだけ編輯なさるのは一通りではなからうと思ひました、よき発展をいのります、 小生は九月まで海の旅に出かけます故しばらく失礼いたします、


昭和6年(1931)7月29日 中原綾子宛書簡より 光太郎49歳

『いづかし』は歌人・中原綾子主宰の雑誌。のちに昭和10年(1935)、心を病んだ智恵子を謳った初めての詩「人生遠視」も同誌に掲載されました。

海の旅」は『時事新報』に依頼されて紀行文「三陸廻り」を書くためのもの。8月9日に東京を発ち、石巻、女川、気仙沼、釜石、そして宮古までを1ヶ月かけてほぼ船で移動しました。おそらく東京-三陸間の行き帰りも、月に一度航行されていた直行便の船を使ったのではないかと思われます。この旅の間に、智恵子の心の病が誰の目にも明らかになるほど顕在化しました。

東京を発った8月9日を記念し、女川町ではこの日に「女川光太郎祭」が行われています。今年は令和元年(2019)以来、4年ぶりにコロナ禍前の規模で開催とのこと。詳細はまたのちほどご紹介します。

7月23日(日)、安曇野市の碌山美術館さんをあとに、愛車を南に向けました。目指すは松本市。

甲信方面はなぜか光太郎と交流のあった人物の記念館や、それらの人物の作品を収めた美術館等が多く、碌山美術館さんに行った際にはもう一つ、ハシゴして帰るのが昔からのルーティーンです。

今回訪れたのは、松本市のはずれ、のどかな田園地帯の一角にあるにある窪田空穂記念館さん。窪田空穂の生家のかたわらに建てられています。
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窪田は光太郎より6歳年上の明治10年(1877)生まれ。初期の『明星』に参加した歌人で、その頃から光太郎と交流がありました。そして光太郎がらみで最も多く取り上げられるのが、大正2年(1913)夏、上高地の清水屋旅館でたまたま同宿となったこと。この際には智恵子も後から光太郎を追いかけて上高地に現れ(しめしあわせていたのですが)、ここで二人は結婚の約束をしました。

窪田が下山するのと入れ違いに智恵子が登ってきて、窪田は智恵子を迎えに途中の岩魚止までやってきた光太郎と智恵子を目撃、帰京後、『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を匿名で寄稿した他、複数の回想でこの夏の上高地の様子や、その前後の『明星』時代の光太郎について書き残しています。

まずは生家。
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玄関には式台があり、なかなかの格式です。名家だったことがよくわかります。
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衝立の裏側は、何やら洋画風の絵。
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座敷の感じや、むき出しの梁(はり)など、古建築好きにはたまりません。
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縁側にはちょっと変わった七夕飾り。おそらくこの辺りは旧暦で実施するのでしょう。
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庭からの外観。
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戦時中、窪田が疎開的に帰って来て暮らしていたという離れ。
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道をはさんで反対側の記念館。
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撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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大正2年(1913)、光太郎と同宿だった上高地関連。光太郎の名も。
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右は昭和9年(1934)刊行の『日本アルプスへ・日本アルプス縦走記』に載った挿画。画家の茨木猪之吉が描いたもので、光太郎を含む、大正2年(1913)夏に同宿だった面々のカリカチュアです。
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馬面だった光太郎の特徴をよく捉えてはいますが、若干の悪意を感じますね(笑)。

展示はされていなかったのですが、こちらには上高地で光太郎が描いたスケッチが収蔵されているとのことです。ただし、「写真」とあるので複製と思われます。
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なかなかいい絵ですね。しかし、光太郎筆に間違いはなさそうですが、元ネタがよくわかりません。上高地からの下山後、10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で、岸田劉生らと開催した「生活社主催油絵展覧会」に出品されたペン画3点のうちの一つかとも思われますが。光太郎、この際には他に彫刻1点、上高地での油絵21点も出品しました。

拝見し終わって帰途に就きました。まだ午前中でしたが、日曜でしたので夕方近くになると中央道が大渋滞になるだろうと予測。それを避けるためです。それでも韮崎付近で工事プラス事故で渋滞、小仏トンネル入り口あたりでも自然渋滞。さほどではなかったので途中で昼食を摂っても4時間少しで帰り着きました。

以上、信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あなたのてがみを病院でよみました、面疔が急に出来て、診察してもらひにいつたら即刻無理に入院させられてしまひ重態扱ひなので一時閉口しましたが早い手当てがきいて間も無く快方に赴き、もう退院しました。

昭和6年(1931)7月7日 高田博厚宛書簡より 光太郎49歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中にも面疔を発症しています。

書簡はパリに渡った高田に宛てたもの。現在確認できている高田宛書簡二通のうちの一通です。現物は高田の作品を多数展示している安曇野市の豊科近代美術館さんで所蔵しています。

2回に分けて信州レポートをお届けします。

7月22日(土)夜、千葉の自宅兼事務所から愛車を西に向け、出発。電車ですと7時間くらいかかるのですが、車なら渋滞がなければ4時間ちょっと。どうしても車で渋滞を避けて行くのを選択してしまいます。ただ、夜間にも拘わらず新宿近辺で渋滞が発生しており、少し難儀しました。

日付が変わった頃、塩尻市の健康ランドに到着。以前にも利用したことがありまして、今回もここで仮眠を取って夜を明かしました。

翌朝。前夜に岡谷の辺りで土砂降りだったのですが、晴れました。
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一路、安曇野市の碌山美術館さんへ。4月の碌山忌以来です。
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こちらでは夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』が開催中です。

会場は数棟あるうちの2棟。まず、第2展示等。
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同館所蔵の光太郎ブロンズ10点、すべて展示されています。普段はお隣の第1展示棟で入れ替えながら常設展示されていますが、10点全てが並ぶのは初めてでしょう。平成28年(2016)の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際には、まだ同館で所蔵しておらず、借り受けだったものもありましたので。
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ほぼ制作順に見ていくと、「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)。
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「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「腕」(大正7年=1918)。
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「手」(大正7年=1918)、「老人の首」(大正14年=1925)。
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「腕」と「手」の前後関係ははっきりしないのですが、最近見つけた「手紙」と題する光太郎の文章(大正8年=1919)を読むと、「手」の方が先で、その後、類作的に「腕」、「ピアノを弾く手」「足」などの人体パーツの作品を作っていったのではないかと思われます。

「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、間が開きますが「乙女の像(小型試作)」(昭和27年=1952)。
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この間には心を病んだ智恵子の看病、そして死、戦時下での物資不足による彫刻不能の状態、せっかく作ったものは金属供出、そして戦後の蟄居生活の中で自らに課した彫刻封印などがあり、大作は残されていません。

「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)、そして絶作にして未完の「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。
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その他、古写真のパネル。
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現存が確認できていない「黄瀛の首」(大正15年=1926)、土門拳の撮影です。
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髙村家からの借り受けで、直筆の詩稿現物。複製ではありません。

詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)。同館に立つ光太郎詩碑に刻まれているものです。
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『智恵子抄』中の絶唱、「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。戦後の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)中の「美に生きる」。
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これらの現物、久々に見ました。「美に生きる」は初見かも知れません。

スケッチも、複製でなく現物。
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詩稿やスケッチなどは一般のお客さんにとっては現物でも複製でもあまり関係ないのかな、という気はしないでもないのですが、当方にしてみれば、アゲアゲでした(笑)。

光太郎著書類。同館所蔵の『道程』(大正3年=1914)。
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あとは当方がお貸ししたもの。

光太郎の「黒歴史」である、戦時中の翼賛詩集三冊。『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)。
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戦後の詩集から2冊。『典型』(昭和25年=1950)と、『猛獣篇』(昭和37年=1962)。
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『典型』の題字は光太郎の自刻木版。『猛獣篇』は当会の祖・草野心平による鉄筆ガリ版刷りです。この2冊がこうして並ぶのも、心平と光太郎の関わりを顧みれば、感慨深いところです。

光太郎のペン画が口絵に使われた書籍2冊。ともに大正9年(1920)の刊行の『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。
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「手」と「裸婦坐像」がそれぞれ描かれており、彫刻そのものと共に展示されるのは初めてではないでしょうか。彫刻そのものと見比べていただきたいと思い、当方の判断で展示に加えていただきました。

続いて杜江館。こちらは智恵子関連です。
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神戸文化ホールさんの巨大壁画の原画となった「あじさい」他、智恵子紙絵の現物5点。「あじさい」は褪色が進んでしまっているのが残念でしたが……。
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『青鞜』(当方蔵)と『智恵子抄』(同館蔵)。
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さらに本館ともいうべき碌山館を拝見、旧知の武井学芸員とお話しさせていただき、今回のポスターを頂きました。ありがたし。
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受付後ろのミュージアムショップには、新製品である純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種。
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というわけで、碌山美術館特別企画『生誕140周年高村光太郎展』、9月10日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変あたたかになり、ちゑ子が又土いぢりを始めました。いろんな植木がもう芽を出しました。白文鳥の雛は三羽かへりましたが、育たずに終わりました、

昭和6年(1931)3月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎49歳

土いぢり」は一瞬、粘土による彫塑かとも思ったのですが(作品の現存は確認できていないものの、智恵子も彫刻制作に取り組んだ時期がありました)、植物の話が出ているので、園芸的な方面でしょう。

白文鳥」は、この頃光太郎が制作した木彫の関係で飼っていたものと思われます。
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光太郎智恵子の姿にも重なるような「白文鳥」のつがい。孵った雛は育たなかったそうで、子どもができなかった(作らなかった?)光太郎智恵子にオーバーラップします。

約半年後には智恵子の心の病が顕在化しますが、こんなことも一つのトリガーだったかもしれません。

昨夜、自家用車で千葉の自宅兼事務所を出まして、塩尻の健康ランドで一泊、安曇野市の碌山美術館さん、松本市の窪田空穂記念館さんとハシゴしております。
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詳しくは帰りましてから。

まず、山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」について、『山形新聞』さんから。

出身の評論家・今泉篤男の視点で味わう 米沢・上杉博物館で企画展

000  米沢市出身の美術評論家今泉篤男(1902~84年)の評論を通し、国内外の名品を味わう企画展「今泉篤男と美術」が、同市上杉博物館で開かれている。今泉と作家たちとの深い交流や、生涯持ち続けた美術への情熱を感じ取ることができる。
 今泉は織物工場を営む家に生まれた。東京帝国大(現東京大)で美学を学び、同世代の画家らに依頼されて批評の道に入る。東京国立近代美術館の初代次長、京都国立近代美術館初代館長を務め、画期的な展覧会を企画した他、日本の近代絵画を巡る問題提起が「今泉旋風」として議論を巻き起こすなど、美術界の底上げのための活動に力を尽くした。
 企画展では福王寺法林(米沢市出身)、小松均(大石田町出身)、ルノワール、高村光太郎、棟方志功らの作品約50点を今泉の評論とともに紹介している。
 アトリエを訪ねたり、旅に同行したりするなど、作家の人となりを知った上で批評を展開するのが今泉のスタイル。「接していて茫洋(ぼうよう)とした風貌のうちに温かさがあった」「この画家くらい知恵深い人は稀(まれ)だ」などの言葉もあり、名作を新たな視点で楽しむことができる。
 遠藤友紀主任学芸員は「美術界全体に足跡が残る今泉の仕事を多くの人に知ってほしい」と話す。8月20日まで。

他に『米沢日報』さんでも記事が出ましたが、光太郎の名が無いので割愛します。

続いて『信濃毎日新聞』さん。安曇野市の碌山美術館さんで今日開幕の夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』について。

代表作の「手」も 高村光太郎の作品展 安曇野市

 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(本名守衛(もりえ)、1879~1910年)の作品を展示する同市の碌山美術館は22日から、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の作品を集めた「高村光太郎展」を開く。荻原と親交があった高村の生誕140周年を記念。彫刻や詩の原稿など計32点を展示する。
 彫刻は10点。代表作の一つ「手」は、仏像の手の形から着想を得たとされ、しなやかな曲線で指を表現している。青森県の十和田湖畔に立つ裸婦像「乙女の像」の試作品も展示している。「荻原守衛」と題した詩の直筆原稿や詩集の原書、妻の智恵子が病床で紙を切り貼りして作った「紙絵」も並ぶ。
 碌山美術館学芸員の浜田卓二さん(39)は「詩的かつ彫刻的な感性で生まれた唯一無二の作品ばかり」と強調。荻原が自身の代表作「女」を壊そうとした際に、高村がやめるよう説得するなど「2人は互いの芸術を尊重し合っていた」と説明する。
 9月10日までの午前9時~午後5時10分。入館料は900円(高校生300円、小中学生150円)。
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ちなみに同館では、今週、中学生の職場体験学習を受け入れたそうで、展示作業の取り付けを手伝って下さった生徒さんもいらっしゃるとのこと。ありがたいことです。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

当方、本日深夜に千葉を出て、安曇野に向かいます。途中の健康ランドで夜を明かす予定です。

【折々のことば・光太郎】

昨夜馬鈴薯一俵落手、こんなに沢山送つて下さつてまことにすみません。当分食ふものに事欠きません。籠城が出来ます、北海道のは種がちがふのかまつたくよいと思ひます。

昭和5年(1930)5月30日 更科源蔵宛書簡より 光太郎48歳

更科は北海道弟子屈在住だった詩人です。ジャガイモ「一俵」とは豪快ですね(笑)。

光太郎と親交のあった、岡山県豊田村(現・赤磐市)出身の詩人・永瀬清子の伝記漫画です。

マンガふるさとの偉人 詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ

2023年3月24日 シナリオ 和田静夫 マンガ 藤井敬士 赤磐市教育委員会発行

 この度、第2期岡山県赤磐市の“マンガふるさとの偉人「詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ」”が、岡山県出身在住のマンガ家藤井敬士さんにより完成しました。
 永瀬清子(ながせ きよこ)は、明治39年(1906年)岡山県豊田村(現:岡山県赤磐市)の旧家に生まれ、高等女学校に通う頃から短歌や詩を投稿し、家庭を持った後も家事や育児をしながら詩を書き続け、昭和5年(1930年)24歳で初めて出版した詩集で注目を浴び、平成7年(1995年)に89歳で亡くなるまで詩や随筆・絵本を書き、後進の育成にも努めた「ふるさとの偉人」です。
 完成したマンガは、市内小学校で郷土学習の授業に活用されるほか、一般を対象とした永瀬清子展示室での企画展開催、図書館でのマンガ原画展開催などが計画されています。
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だいぶ前に赤磐市教育委員会さんからいただいていたのですが、市のホームページで取り上げられたら紹介しよう、と思っていたところ、なかなか情報がアップされません。

そうこうしているうちに、制作の助成に入って下さったB&G財団さんのサイトに紹介が出(ちなみにB&Gさん、広くこの「マンガふるさとの偉人」シリーズの助成を行っていて、花巻出身で親族が光太郎と関わりがあった佐藤昌介もラインナップに入っています)、さらに地元紙『山陽新聞』さんで記事になりました。

永瀬清子さん生涯を漫画に 赤磐 市教委が刊行 詩人志した逸話、功績紹介

001 赤磐市教委は市出身の詩人永瀬清子さん(1906~95年)の生涯を描いた漫画「詩人 永瀬清子物語」を刊行した。「現代詩の母」と称された創作活動とともに、女性の社会進出や後進の育成に尽力した功績を伝える。
 永瀬さんは佐藤惣之助に師事し、詩集「グレンデルの母親」「諸国の天女」などを発刊。県内では女性詩人が立ち上げた詩誌「黄薔薇(ばら)」を主宰した。
 漫画は少女期から晩年まで時代ごとに10章で構成している。投稿した短歌が入選したり、詩集を取り寄せ感銘を受けたりし、詩の道を志した少女時代の逸話を紹介。宮沢賢治を慕い、東京で高村光太郎や萩原朔太郎らと交流を深め、詩人として成長する姿を記した。
 45年に岡山に戻った後も、農作業をしながら詩作に励んだことや、詩の添削に熱心に取り組んだエピソードも取り上げた。
 B6判、104ページ。岡山市のイラストレーター藤井敬士さんが作画を担当した。B&G財団(東京)の助成を受け3千部作製。県内の図書館や学校などに配り、赤磐市内の図書館で貸し出している。
 編集に携わった市教委の白根直子学芸員は「子どもたちに将来の夢をかなえる参考になればと思い、少女時代を丁寧に描いた。漫画を通じて、永瀬さんの詩への思いを知ってほしい」と話している。


というわけで、光太郎も登場。

まずは宮沢賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)2月16日、当会の祖・草野心平がお膳立てをし、光太郎や永瀬も出席して新宿モナミで開催され、「雨ニモマケズ」が「発見」されたという宮沢賢治追悼会のシーン。
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さらに、詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)への序文執筆を頼むため、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れてのシーン。
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駒込林町アトリエにて3 昭和16年(1941) 光太郎59歳このシーンでは光太郎、着物の上に白い上着を羽織っていますが、彫刻制作用のブルーズ(作業着)です。昨年でしたか、このころの光太郎やアトリエ兼住居の写真を参考のために提供して欲しいという依頼があり、右の画像(昭和16年=1941)をお送りしたのでそれが反映されたようです。残念ながらアトリエ兼住居については詳細は描かれていませんでしたが。

また、こちらも描かれませんでしたが、永瀬と光太郎との交流は光太郎最晩年まで続きました。

戦後に故郷の豊田村に戻って農業のかたわら詩作を続けた永瀬に、花巻郊外太田村で同じく農作業に従事していた光太郎から励ましの書簡が送られました。詩集『美しい国』(昭和23年=1948)の受贈礼状に曰く「松木村といふところではたらいて居られるあなたの姿まで目に見えるやうに思はれ、よんで心が慰められます 働き過ぎてからだをこはさぬやう切にいのります」。

そして光太郎が亡くなる前年の昭和30年(1955)、インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨の「アジア諸国民会議」に、永瀬が婦人団体代表として参加する際には、「裏の山へ植林に行くようなお気持で行つてらつしやい。」という歓送の辞を贈りました。

かつて自らが留学のために洋行してから約半世紀。その頃と比べものにならないほど近くなった「外国」。そういった感覚が「裏の山へ……」という一言に表されているようです。

その他、錚々たるメンバーが登場。与謝野晶子、上田敏、宮本百合子、ご存命のところで谷川俊太郎氏などなど。

さて、奥付画像を貼っておきます。必要な方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

「道」無しには人は生きられません。自己の当然を信ずれば信ずる程その当然の中にいかなる道があるかを知らねばなりません。


昭和5年(1930)3月21日 真壁仁宛書簡より 光太郎48歳

「道」は詩「道程」(大正3年=1914)などの頃から光太郎が追い求めていたテーマの一つですが、昭和初期、この書簡にもある「当然」も生涯のキーワードとしてよく使われるようになっていきました。

ただ、翌年には満州事変が起こり、いわゆる十五年戦争の時代に突入します。すると、その流れも「当然」と捉えられるようになり、さらに智恵子の心の病も顕在化、光太郎にとっての最大の暗黒の時代へと入って行くことになります。

テレビ番組の再放送情報です。

興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心

NHKBSプレミアム 2023年7月23日(日) 13:30~14:30

平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像

奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎たたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る

【出演】
 興福寺貫首 森谷英俊 奈良国立博物館学芸部主任研究員 山口隆介
 東京大学大学院工学系研究科准教授 海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬

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BS8Kさんで今年2月に放映された番組で、2KのBSプレミアムさんでも3月に放映されました。で、今回、再放送。

前後編60分ずつで、前編は明日放映ですが、日曜日放映の後編の方で光太郎に触れられています。

天平彫刻と、鎌倉期の康慶・運慶父子の彫刻作品との比較の中で。
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光太郎の担当は天平彫刻、釈迦十大弟子の一人、富楼那(ふるな)像の映像と共に。
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昭和17年(1942)の『婦人公論』に6回にわたって連載された評論「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)から言葉を引用。
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ただし、引用部分はこの像だけに対する評ではなく、広く天平彫刻全般についてのものです。平安期の神護寺薬師如来像を語る中で、それ以前の天平期はこうだった、という文脈です。光太郎には「十大弟子像」そのものを論じた詩文もあるのですが、それらからの引用ではありませんでした。ついでにいうと、テロップに「随筆」とあるのもちょっとなぁ……という感じなのですが、いたしかたありますまい。これに限らず、光太郎の評論は無機質な評論の枠を超えた名文ですので。

その他、番組内容説明にもある通り、興福寺さんの魅力が様々な角度から取り上げられます。ご覧になっていない方(ご覧になった方も(笑))ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】001

おたづねの団扇は左図のやうなものですが果して今日も存在するや否や、頑古にして風雅、風流にして実用的。


昭和4年(1929)4月25日 原静枝宛書簡より
 光太郎47歳

時折ある絵入りの書簡の一つ。原という人物からの往信がどんなものだったのか不明なのですが、うちわについての問い合わせに対する返答です。

本日開幕です。

CHIBA ハートフルアート展 ―「千葉市障害者作品展」出展者による作品展―

期 日 : 2023年7月19日(水)~8月20日(日)
会 場 : ちばぎんひまわりギャラリー
       東京都中央区日本橋室町一丁目 5 番 5 号 [コレド室町 3] 4 階
時 間 : 午前 10 時~午後 6 時  最終日は午後 4 時まで
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

本展は、障がい者が自らの障がいを乗り越え制作した作品を公開することで、社会に多様性の意義や価値を伝えるとともに、障がいを持つ方に自信と希望を持っていただきたいとの想いで開催するものです。多くの皆さまにご覧いただくことで、ダイバーシティーへのご理解と共生社会を実現し、作者のさらなる創作意欲向上の一助となることを希望しています。本企画展では、約 30 点の作品を一堂に展観しますので、この機会にご覧くださいますようご案内申し上げます。

おかげさまで、当ギャラリーは 2014 年 3 月のオープン以来、10 万人を超えるお客さまにご来場いただきました。今後も、多くの方々の心安らぐ空間となり、地域における文化・芸術活動の発展にお役に立てれば幸いです。
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いわゆる「パラアート」の展覧会。過去の「千葉市障害者作品展」出展作等が再び並ぶ、というコンセプトだそうです。

フライヤー裏面に、書の作品で「高村光太郎“樹下の二人”より」。
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一昨年開催された第27回展で千葉市議会議長賞に輝いた作品だそうです。その際にはそういう展覧会があり、この作品が入賞していたというのには気がつきませんでした。
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こうした作品をその時限りの展示で終わりにするのではなく、また改めて、さらに地元を出て都内での展示というところに、主催者の方々などの熱意が感じられます。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

「ロダンの言葉」別封で送ります。持つて参上したいと思つてゐたのですが、まだ仕事が片づかないので出られません。表紙をあのデツサンにしたので昔を思ひ出します。実に遠い昔のやうな気がします。


昭和4年(1929)3月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎47歳

「ロダンの言葉」は、この年、叢文閣から出版されたペーパーバックの普及版(元版は大正5年=1916、阿蘭陀書房)。この後、版を重ね、舟越保武、佐藤忠良等、次世代の彫刻家達がバイブルのように身辺に置いた書籍です。
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表紙画は、ロダンの裸婦デッサンです。光太郎、同一のデッサンを明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使おうとしました。ところが同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁処分とされてしまいました。

そこで「表紙をあのデツサンにしたので昔を思ひ出します。実に遠い昔のやうな気がします」。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示です。

夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』

期 日 : 2023年7月21日(金)~9月10日(日)
会 場 : 碌山美術館第二展示棟 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00~17:10
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
      ※障がい者手帳をお持ちの方は半額
      20名様以上団体料金 大人800円/高校生250円/小中生100円

高村光太郎の当館が所蔵する彫刻を10点、詩直筆原稿4点・彫刻10点 高村智恵子の紙絵10点(会期中入れ替えあり)を展示します。
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同館では光太郎ブロンズ彫刻を10点所蔵しており、その全てが並びます。通常、常設展示として第一展示棟にそれらを入れ替えながら展示して下さっているのですが、10点全てを出すのはこういう機会でもないと、というところです。
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10点の内訳は、

「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)
「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)
「裸婦坐像」(大正6年=1917)
「腕」(大正7年)
「手」( 〃 )
「老人の首」(大正14年=1925)
「光雲一周忌記念胸像」
(昭和10年=1935)
「乙女の像(小型試作)」
(昭和27年=1952)
「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)
「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)

です。すべて光太郎歿後の鋳造と思われますが、光太郎作品の鋳造を多く手がけた齋藤明氏(光太郎実弟・髙村豊周の弟子筋)のそれも含まれ、いい「抜き」になっています。

ただ、残念ながら光太郎木彫は同館に所蔵が無く、貸し出しも受けないそうです。

他に、髙村家からの借り受けで、智恵子紙絵の実物と、光太郎詩稿。さらに当方が関連書籍6冊お貸ししました。戦時中の翼賛詩集三冊、戦後の詩集『典型』(昭和25年=1950)、光太郎没後に草野心平が鉄筆を執りガリ版刷りで刊行された『猛獣篇』(昭和37年=1962)、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』(明治45年=1912)。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は、同館が所蔵しているものが並ぶようですのでお貸ししませんでした。

お送りするのに使った箱が少し大きめだったので、自作ブロンズ彫刻を描いた光太郎ペン画が口絵として使われている書籍も2冊同梱しましたところ、そちらも展示して下さるそうです。『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。ともに大正9年(1920)の刊行です。
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口絵のページを開いてこんな感じで並べてくれ、とお願いしておきました。

当方、7月23日(日)に伺う予定で居ります。皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

少しのんきな位になつてたのしく此世を暮してゆかれるといいがなあとよく思ひます。 それには「自然」に眼を向ける事、毎朝太陽を見る事、深呼吸、雨の音をきく事、 星の知識を学ぶ事、 草木をいぢくる事、 鳥獣の友達となる事、 うたをうたふ事、 そんな事をしてゐるうちに心が自然とのびやかになる事だらうと思ひます。


昭和3年(1928)10月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

その通りだなぁ、という気がしますね。

毎月15日に、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん内の「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。今月分がこちら。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像を送りいただきました。
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メニューは「さやえんどう入り炒飯」「味噌焼おにぎり」「マグロ焼き魚」「じゃが玉ねぎ煮込み」「さやいんげんの油炒め」「トウモロコシ焼」「キュウリの酢の物」「こかぶ漬け」「塩麹入り卵焼き」「番茶寒天」だそうです。かつて光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で作っていた野菜類がふんだんに盛り込まれています。

メニュー考案にあたられているやつかの森LLCさん、今月27日、花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご出店の予定。
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そちらのメニュー、「白身魚のムニエル~バジルソース~」「ズッキーニのソテー」など。光太郎が好きだったバター、あんこなどをたっぷり使うそうで。茄子やキュウリなど夏野菜は、光太郎が暮らしていた花巻太田産を使われるとのことです。

花巻ついでにもう1件。今月15日発行の『広報はなまき』。
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市内の博物館・記念館等の文化施設などで所蔵している逸品を紹介する「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」というコーナーがあり、花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』で展示されている光太郎のスケッチが紹介されています。ただし、こちらは複製だったような気がするのですが……。

27日、「ワンデイシェフの大食堂」さんの「こうたろうカフェ」、それからテーマ展『山のスケッチ』、それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京の夏にはまつたく年々愛想がつきます。とてもやりきれません。此は私の個人的生理に基づく事です。それでますます北緯五十度の方へ牽かれます。 北海道で自分の生活と仕事とを大成したい念願が強まるばかりです。山へヒツコムのでは無くて前進するのです。人生への一つの道を開墾するのです。そこを根拠にして一つの生活と空気とを創りたい気がします。


昭和3年(1928)9月25日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

夏の暑さに弱かった光太郎、明治末にほとんど無計画で北海道移住を企てましたがすごすごと1ヶ月程で退散したにも拘わらず、またぞろこの時期に北への憧れを募らせていました。

結局、この時期にもそれは果たせず、意外な形で実現するのは、戦後の花巻郊外旧太田村移住においてでした。

実施期日的にはまだ先ですが、〆切りが間近でして……。

高村光太郎記念館夏休みワークショップ「紙絵をつくろう!」

期 日 : 2023年8月1日(火)~8月3日(木)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 10:00~12:00
料 金 : 500円程度(材料費)

高村光太郎の妻・智恵子は、数々の紙絵作品を世に残しました。智恵子の紙絵をお手本に自由なテーマで紙絵をつくってみましょう。3日間で一つの作品を制作するワークショップとなります。

対 象 : 花巻市内の小学生
締 切 : 7月18日(火曜)

定員をこえる場合は抽選となります。定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。次のいずれかの方法でお申し込みください。
 ・花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
 ・専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。
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智恵子の故郷、福島県二本松市では毎年「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を実施しており、今年で28回目。作品募集の対象が「福島県内および岩手県花巻市の各小学校に在学中の児童」ということで、このワークショップで作った作品をそちらに応募、ということも考えているそうです。
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なるほど。

こういう活動も通じて、自治体さん間の交流がさらに活発となれば、という気もします。ゆくゆくは光太郎智恵子がらみの自治体さんなどから担当者の方などに集まっていただいて、「光太郎智恵子サミット」的なものもあるといいか思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

私も習つてゐます。そのうち「東方」へも「エスペラント」で文章を書く気でゐます。

昭和3年(1928)7月2日 更科源蔵宛書簡より 光太郎46歳

エスペラントは19世紀末に考案された人工の言語。世界共通語として普及させようという動きがたびたびありました。日本でも知識階級を中心にエスペラントを学ぶ機運が高まり、宮沢賢治などもその一人。「イーハトーヴ」などの造語はエスペラントを意識して作られたとする説があります。光太郎のエスペラントによる作品の発表は幻と終わりましたが……。

下の画像は「樹下の二人」(大正12年=1923)のエスペラント語訳。
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平成25年(2013)、日本エスペラント協会さんが刊行した『Japana Literatura Juvero』に掲載されています。近現代詩50篇ほどの訳を集めた書籍です。

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まずは7月8日(土)に行われた、川内村さんの第58回天山祭りについて。

『福島民報』さん。当方の名も出して下さいました。

福島県いわき市出身の詩人草野心平さんしのび献花や朗読 川内村で天山祭り 児童生徒が自作の詩披露

 福島県いわき市出身で、川内村名誉村民の詩人草野心平さんをしのぶ第58回天山祭りは8日、村内の村民体育センターで開かれ、村民やファン、現代詩誌「歴程」の同人らが心平さんに思いをはせた。
 実行員会の主催。村、村観光協会などの共催。福島民報社などの後援。村内外から100人以上が参加した。井出茂実行委員長、遠藤雄幸村長があいさつした後、歴程同人の斎藤貢さんと渡辺一夫村議会議長が祝辞を述べた。
 献花に続き、心平さん自身が朗読する「富士山 作品第肆」と「青イ花」のCDが流れた。川内小中学園6、7年生が歴程同人から指導を受けてつくった詩を披露した。歴程同人による朗読では、参加者が心平さんの詩の世界に浸った。
 心平さんの生誕120周年を記念し、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して講演した。アトラクションでは、村に伝わる西郷獅子や紙芝居が披露された。
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同じ件で『福島民友』さん。

草野心平しのび詩朗読 生誕120周年、川内で天山祭り

 福島県川内村の名誉村民で「カエルの詩人」として知られる草野心平(いわき市出身)を顕彰する「天山祭り」が8日、同村で開かれた。今年は心平の生誕120周年に当たることから、関係者が詩の朗読などを通じて心平をしのんだ。
 雨模様だったため、会場を心平の蔵書を収めた「天山文庫」から、村民体育センターに移して開催した。会場には村民に加え、心平らが創刊した同人詩誌「歴程」の同人が集まり、実行委員会の井出茂委員長らが心平の写真に献花した。
 祭りでは、川内小中学園6、7年生による連詩「川内村の未来を創る」が朗読された。「か」から「る」までの文字を最初の一文字に、児童生徒14人が作詩したもので、川内での生活をみずみずしい言葉で詠み上げた。
 このほか、伝統芸能の西郷獅子や紙芝居なども披露された。
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続いて、『福島民報』さんの連載「福島県 今日は何の日」。

7月9日 1991年(平成3年)7月9日 智恵子の生家修復 仮オープン

001 二本松市の高村智恵子の生家が修復され仮オープンした。
 旧国道4号沿いにある智恵子の生家は造り酒屋で、1883(明治16)年に建てられた。木造2階建て延べ300平方㍍。智恵子は1886年に生まれ、女学校に進むまでこの家で生活した。
 しかし、智恵子の生家の長沼家は大正末期に没落し建物は人手に渡っていた。前年、ふるさと事業の一環として建物の永久保存を決定。建物を買い取るなどし修復していた。
 外観は全面的に化粧直しされ、醸造していた清酒「花霞」の大看板を設け、新酒のできたことを知らせる直径70㌢の杉の玉「酒林」も軒下に下げた。

ただし、民報さん、ネットに出た記事の見出しで1年間違えています。「1991年」は合っているのですが、カッコして「平成2年」。1991年は正しくは平成3年です。
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カッコの位置も変ですし、担当された記者? の方、かなりテンパッていたようですね(笑)。

調べてみましたところ、翌月の8月14日、当方、初めて智恵子生家を訪れていました。
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翌年4月には生家裏手に智恵子記念館がオープン。

まだ二本松市と合併する前の旧安達町の時代で、一連の事業には当時の竹下内閣の「ふるさと創成事業」で全国各市町村に配られた1億円が使われました。平成7年(1995)には、旧建設省が主催し、その1億円の使い方がナイスだったという自治体などに贈られた「手づくり郷土(ふるさと)賞」が安達町に授与されてもいます。
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バブル景気真っ盛りとはいえ、1億円をドブに捨てるような(死語ですかね(笑))使い方をした自治体も少なくない中、旧安達町の英断には頭が下がりました。それまで長沼家に関しては、初代の次助が流れ者だったこと、智恵子を含めた一家の悲惨な末路等もあり、この地域ではタブー扱いされていた面がありましたし……。

川内村さんの心平顕彰を含め、今後とも、継続して行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

用事でちゑ子の帰京が二十日頃迠のびたため友の会の小旅行が月末まで出来なくなりました。 残念ながら此事ご報告まで。


昭和3年(1928)6月7日 今井武夫宛書簡より 光太郎46歳
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智恵子実家の長沼酒造は智恵子の弟・啓助があとを嗣いでいましたが、経営がどんどん傾き、この年にはどうしようもない状態になっていました。「智恵子は東京に空がないといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」の「あどけない話」が書かれたのが5月11日ですが、長沼酒造は不動産登記簿によれば、前日の5月10日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさとを失います。

友の会」は「ロマンロラン友の会」。「東方」の文字は、この年刊行された「友の会」メンバーによる雑誌『東方』の題字と同一の木版です。「あどけない話」も『東方』に掲載されました。

都内の画廊で開催中、及び明日からの展示を2件。

まずは地方紙『福島民報』さんの記事から。

安達太良高原の自然生かした作品注目集める 15日まで都内で作品展 福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん

 福島県の安達太良高原の自然光や風景、音をアートにした作品展「MIND LIGHTNESS」が東京・銀座のギャラリー「巷房」で開かれ、注目を集めている。福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん(65)=東京・LIGHTDESIGN社長=が二本松市に建設した光の研究観測施設「あだたらキャビン」からライブ配信される映像のインスタレーション(空間芸術)と、東海林さんが現地で受けた印象を描いたクレヨン画50点を展示している。15日まで。
 ライブ映像にはあだたらキャビンから見える安達太良山の空の変化が映し出され、風や森のざわめき、野鳥のさえずりや虫の音が響く。作品名を「ほんとの空/Watch inside yourself」と名付けた。画面を薄い紙で覆い、幻想的な効果を演出する一方、鮮明な自然の音で想像力を刺激。都会と本県の雄大な自然を結び、来場者を魅了している。
 クレヨン画はさまざまな色の空や山、街の明かりなどを「光のかけら」として10センチ角のキャンバスに抽象的に表現した。世界各地を旅して浴びた光の印象を描いた作品もある。
 東海林さんは「東京で感じ、発信する安達太良山の力は一層大きく感じる」と語る。2025年大阪・関西万博の会場デザインプロデューサー補佐・照明デザインディレクターを務めており、あだたらキャビンで得られた光と照明の研究成果を生かす考えだ。
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照明デザイナー・東海林弘靖氏。やはり『福島民報』さんで今年2月、「ほんとの空」がらみで紹介されていました。

で、東海林氏の個展。

東海林弘靖展 MIND LIGHTNESS  REAL NATURE - SUPER NATURE

期 日 : 2023年7月3日(月)~7月15日(土)
会 場 : 巷房 東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル3F+B1F
時 間 : 12:00 - 19:00 / final day 17:00
料 金 : 無料

 コロナ禍で人々が孤立し、自然豊かな場所に回帰していく流れに、東海林はこれからの光の在り方を問いました。そして、太陽が生み出す豊かなフルスペクトルの波長と、赤外域のあたたかさが、人間の心を包む光の原点ではないかと考えるに至りました。
 東海林は、人工的な照明によって自然光を模倣するのを嫌い、むしろ、その場を訪れた人が自らの内にある、記憶の中の光景をみつけに行くためのトリガーとして、光の要素をデザインしていくことで、自然光、人工光を問わず人間の心を包む光に到達できないだろうかと考えています。
 本展覧会では、照明デザイナーである東海林弘靖が光をデザインする立場から離れ、光と人との新しい関係を考えるインスタレーションを行います。
 人間の五官の情報能力のうち、視覚が87%、聴覚が7%とされています。約9割を占める視覚は、光の刺激を受けることで生じる感覚です。
 3階巷房では、視覚にはやや曖昧な情報、聴覚にはクリアで臨場感溢れる情報、感覚比率の逆転した実験を提示します。地下1階では、東海林が採取した光の断片を展示します。この時、人は目から入る情報を補うために、時に聴覚情報を頼りに記憶の中の光を探しにいくのか?
 多くの皆様に体験いただけますと幸いです。
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もう1件。東京藝術大学さんの院生、学部生の皆さんによる絵画の展示。

『うたの心—絵筆に託す—展』Vol.2

期 日 : 2023年7月14日(金)~7月20日(木)
会 場 : 東京九段耀画廊 東京都千代田区三番町7-1-105 (朝日三番町プラザ1F)
時 間 : 12:00〜19:00 (最終日 〜17:00) ※会期中無休
料 金 : 無料

 人にはそれぞれ大切にしている歌があります。悲しい時ふと思い出す歌、嬉しい時つい口ずさむ歌、そして愛する人を思い出したい時の歌などいろいろとあります。
 本展の『うたの心』展では、第一回と同様に参加の作家の皆さんが大切にしている歌を思い出して、「うたの心」を想い音符ではなく絵筆で表出して頂く展示であります。

出品作家
東京藝術大学大学院:原澤亨輔(二年)、陳天逸(二年)
東京藝術大学:四年生:今野沙知子、三年生:伊勢菜々美、中川理裟、中原玲奈
       二年生:伊東彩那、金井玲、竹石楓、新沼緑、日野樹来
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日本画を詩歌からのインスパイアで、ということなのでしょう。

「出品作家」欄に名のある竹石楓さんという方がツイッターに「高村光太郎の詩から2篇選んで制作しました。🌙🐕 是非お越しください!」と投稿していらっしゃいました。ありがたし。

「東海林弘靖展 MIND LIGHTNESS  REAL NATURE - SUPER NATURE」の方は、気づくのが遅れ、明日までとなってしまっていますが、それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

瀧波さんに彫つてもらつた印を捺す為に色紙など書いたら皆画きそこないました。さういふ事を考へてかかるとやつぱりいけません。


昭和3年(1928)3月13日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎46歳

瀧波さん」は瀧波善雅、篆刻家です。「彫つてもらつた印」は、おそらく左下画像のもの。この年刊行された評伝『ロダン』のペーパーバック普及版奥付の検印紙です。同じ『ロダン』でも前年に出たオリジナルのハードカバーの検印紙(右下)に捺されていたのは何だか三文判のような……。
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新しい印を捺したいばかりに色紙に何か描いたところ、そんな不埒な考えで描くとやっぱりだめだったと云うわけで、笑えますね。

ちなみに後に愛用するようになる斉白石制作の印も、宮崎を通じて作ってもらっています。

本日開幕です。

一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉

期 日 : 2023年7月13日(木)~10月1日(日)
会 場 : 瑞巌寺宝物館 宮城県宮城郡松島町松島字町内九十一番地
時 間 : 8:30~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 大人700円 小中学生400円

墨画は水と墨と紙から生まれる無限の濃淡と、滲みと調和から表現される作品です。この度瑞巌寺宝物館では、仙台在住で墨画家として活動されている一関恵美氏の墨画展を開催いたします。皆さまの心に恵風が吹き渡りますように。関連企画として墨色七夕の展示・制作実演・墨画体験ワークショップなどもございます。(瑞巌寺さんサイトより)

伊達政宗公の菩提寺 国宝 瑞巌寺にて 松島湾から青龍山をつなぐ杉の参道 禅寺の静寂 神秘的な風吹く松島の地 墨画の世界 心をこめて墨を磨り 濃淡やあわいにじみで表現した墨画を展示致します。 瑞巌寺の夏から秋にかけて 季節のうつろい 木々や花々の変化も愛でながら 「千貫乃風」ご高覧頂きたくご案内申し上げます。(一関さんサイトより)
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墨画家の一関恵美さん。光太郎作品の朗読にも取り組んで下さった朗読家の荒井真澄さん、光太郎がらみのコンサートを開かれたピアニスト・斎藤卓子さんとともに「シューマンと智恵子抄」(平成24年=2012)、「楽園の月」(平成25年=2013)等に作品を寄せられた方です。日比谷松本楼さんでの第57回連翹忌の集いでは、斎藤さんのピアノにのせてアクションペインティングをご披露下さいました。

昨夜、荒井さんから画像が届きまして、それがこちら。今日現在、こちらのフライヤーの画像がネット上に見つけられませんで、そのまま載せます。
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左上が一関さんが描かれた聖観音像。光太郎の父・光雲作の大きな像で、瑞巌寺さんの庫裡に納められているものです。こちらの絵も展示されるということでしょう。ありがたし。

10月1日(日)までと、会期が長いのもありがたいところです。今年は4年ぶりに女川光太郎祭が元の規模で開催されますので、その帰りに立ち寄ってみようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

君の葉書にある通り晴朗こそ欲しい。しかし其は言葉で書かれた晴朗では役に立たない。晴朗が言葉にあらはれたのでなければ意味を持たず、又人を決して打たない。内なる世界が晴朗である時のみ晴朗なものが生きてあらはれる。僕も晴朗を自分に望んでゐるが、まだ中々晴朗なものは及びもつかない。ウソの晴朗を書いて死んだものを作るよりは、むしろ自己のなりのままをさらけ出して人に訴へるものを書く気でゐる。さうして心を鍛へてゆけばおのづから晴朗な内奥の自己に到達すると信じてゐる。


昭和3年(1928)2月25日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

ポジティブですね。しかし、そのポジティブさが脳天気なそれではないところが、光太郎の光太郎たる所以の一つです。

邦楽と西洋音楽のコラボです。

第二回 掬月会

期 日 : 2023年7月15日(土)
会 場 : 宝生能楽堂 東京都文京区本郷1丁目5-9
時 間 : 14:00開演 
料 金 : S席 8,000円 A席 7,000円 B席 6,000円 C席 5,000円 自由席 3,000円

ご挨拶 水上優
 第二回掬月会では様々な「うた」をテーマにお届けします。
 私は宮中の「歌合」が題材の能「草紙洗」を舞わせて頂きます。
 また、田崎隆三師に「通小町」を連吟で謡って頂き、長男達は大伴黒主が志賀明神となる舞囃子「志賀」、次男嘉は亡霊となった平忠度が、和歌の師である藤原俊成の元を訪ねる仕舞「俊成忠度」をそれぞれ勤めます。
 今回声楽家の紀野洋孝氏に「声楽作品と能」についてのお話と独唱を生田流箏曲家福田恭子様の伴奏で演奏して頂きます。
 和歌、謡曲、歌曲、古代から現代、東洋と西洋、様々な「うた」をお楽しみいただければ幸いです。

 お話と演奏 声楽作品と能 紀野洋孝
 演奏 テノール 紀野洋孝、伴奏(箏)福田恭子
  別宮貞雄作曲歌曲集《智恵子抄》より「晩餐」 平井康三郎作曲「平城山」
 舞囃子「志賀」 水上達 安福光雄 小寺真佐人 曽和伊喜夫 藤田貴寛
 仕舞「俊成忠度クセ」 水上嘉 
 連吟「通小町」 田崎甫 田崎隆三 小倉健太郎 辰巳和麿
 狂言「鬼瓦」 山本則孝 山本泰太郎
 能「草紙洗」 水上優 野口能弘 山本凜太朗 宝生和英 田崎隆三 他
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テノールの紀野洋孝氏。別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」を複数の演奏会で積極的に演目に入れられたり、CDをリリースされたりなさっています。今回は、通常、ピアノでの伴奏を箏曲で。ご本人、ツイッターで「めちゃくちゃいい感じです!!!」とつぶやかれていました。別宮氏の「智恵子抄」が、日本語のフレーズを大切にした作曲なため可能なのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

私はまだ多くの迷を持つ。まだ多くの燃えはじまらない炎のくすぶりを持つ。そのけむりは時として自分をさへ窒息させかねない。しかし息をとめてゐる事は私を殺さないで却て私の肺臓を容量多くするといふ事にも気がついた。 私は今猛烈に勉強してゐる。一方は自分を棄てる事に。一方は自分を獲る事に。棄ててから獲るのでない所に中世的の夢から一歩出てゐると信ずる。

昭和3年(1928)1月27日 中野秀人宛書簡より 光太郎46歳

何だか詩のような手紙ですね(笑)。悪い意味での「ポエム」ではなく。

7月7日(金)、都内で「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」、「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」をハシゴして拝聴、拝見後、最終の高速バスで千葉の自宅兼事務所へ(都心から2時間近くかかる田舎です)。

入浴、仮眠後、明けて7月8日(土)、午前4時半過ぎに起床、猫と自分との朝食を作って一緒に食べ(笑)、5時半には愛車を北に向けて出発。目指すは福島県川内村です。

この日は当会の祖にして、生前の光太郎と最も親しかった草野心平を顕彰する第58回天山祭りで、光太郎と心平の交流についてべしゃくれ、ということで、行って参りました。
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遅れてはいけないと思い、早く出たら早く着きまして、まず、川内村での心平の別荘・天山文庫に。以前も書きましたが、ここの建設委員には、光太郎実弟にして心平と親しかった髙村豊周も名を連ねました。
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本来、こちらの広場的なスペースが天山祭り会場なのですが、途中でスマホにメールが入り、天候が怪しいのでこちらではなく、村民体育センターで、ということで、そちらに移動。
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当方、天山祭り参加は6回目くらいですが、結局、天山文庫では2回だけ、あとはやはり雨天時会場での開催でした。
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ステージ前の祭壇的な。心平のこよなく愛した酒がたくさん供えられていました。

開会に先立ち、アトラクション的に音楽演奏。
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そして開会。
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実行委員長・井出茂氏や遠藤雄幸村長らのご挨拶等。コロナ禍もあったため、お二人にお会いするのも実に久々でした。
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献花。
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小中一貫となった川内小中学園の子供たちによる自作詩の朗読。
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かつて心平が主宰していた『歴程』同人の伊武トーマ氏による心平詩の朗読。
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氏とも超久しぶりで、今回はとにかく懐かしい面々にお会いでき、嬉しゅうございました。ただ、同じく『歴程』同人で、天山祭りご常連だった新藤凉子氏が昨年亡くなったのは残念でしたが……。

ここで休憩を挟んで、当方の講演。「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題し、二人のつながり等を30分程でお話しさせていただきました。
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今年、光太郎は生誕140周年(ちょっと半端ですが(笑))、ちょうど20歳年下の心平は生誕120周年。お互いに師匠・先輩←→弟子・後輩ではなく、年上の友人←→年下の友人として長いつきあいをし、さらに光太郎歿後は最晩年まで光太郎顕彰に力を注いでくれた心平について、ご紹介いたしました。
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レジュメには、最近、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルで見つけた、当方もそれまで知らなかった心平の光太郎回想から抜粋で筆写しておきました。いずれも昭和戦前の出来事で、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で東北に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったことなど。まったく心平は豪快です(笑)。

その後、地元の子供たちなどによる、伝統芸能「西郷獅子」演舞。
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やはり地元の子供たちらによる心平モチーフの紙芝居披露。
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うるっと来てしまいました。

閉会後、井出氏のご自宅、小松屋旅館さんへ。
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コロナ禍もほぼ落ち着いたということで、11月には心平を偲ぶ「かえる忌」の集いを復活させたいということで、その打ち合わせ。
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さらにその後、村内下川内牛渕地区に新たにオープンした古民家カフェ的な秋風舎さんで昼食。
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古民家・古建築好きの当方としては、アゲアゲでした(笑)。
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店内には心平の書も。
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さらに書庫があり、当方のべしゃくりでも触れた、光太郎が題字を揮毫した心平詩集。
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さらにアガりました(笑)。

先述の通り、また秋にはお邪魔いたしますが、川内村、実にいい所です。皆様もぜひ足をお運び下さい。

以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あの詩集の原稿はまだドラ社に廻つてゐません。 紛雑なノオトの中から集めるので、時間の少いため遅れてゐるのです。原稿さへまとまれば、印刷はぢき出来るさうです。 既に御払込の由、御気の毒に思ひますが、決して無責任な事はしません。此事一寸、

昭和2年(1927)10月31日 堀久松宛書簡より 光太郎45歳

07fe8679あの詩集」は、『猛獣篇』。人口に膾炙した「ぼろぼろな駝鳥」などを含む連作詩です。早くから心平の手で出版される計画があったのですが、結局、光太郎生前にはそれが実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで発行されました。

心平はその刊行に際し、ハードカバーのきちんとした書籍として、と云ったことも考えましたが、いやまてよ、ここは初期の『銅鑼』などの精神で、一周回ってガリ版刷りだ、と決めました。

ガリ版刷りの手製ですが(制作には当会顧問であらせられた北川太一先生もご協力)、現在、1万数千円くらいで市場に出ています。

光太郎の書いた心平詩集『蛙』や『天』などの題字もほれぼれしますが、この『猛獣篇』の心平筆跡にも心を奪われますね。

ちなみに葉書は当方手持ちのもの。絵葉書で、写真面はノートルダム大聖堂のエクステ彫刻です。
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7月7日(金)、座・高円寺さんでの「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」拝聴後、高円寺駅前で牛丼を掻き込み(笑)、高田馬場経由で西武新宿線野方駅へ。概ね同じ方角でしたので助かりました。公演のハシゴで、「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」会場のBook Trade Cafe どうひんさんに。
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こちらはカフェ兼古書店。古書店と云っても、ちょっと変わったシステムで「ハードカバーの書籍をお持ち下されば、書棚にあるお好きな書籍と交換させていただきます」だそうで。

その書棚がこちら。
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画像右の方に、室町時代の雪村周継筆「呂洞賓図(りょどうひんず)」。店名の由来でしょう。中国の仙人・呂洞賓が瓶から小さな竜を呼び出し成長させるさまが描かれており、お客さんが持ちよった書籍が次へと広がり……という、このお店のコンセプトを表しているようです。人の多い都内だと、こんなシステムも成り立つのですね。

その書棚をそのまま大道具として使い、今回の二本立ての演劇公演が行われました。
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第一部、『カラノアトリエ』、差異等たかひ子さんという方の作。こちらは短く、20分程でした。サブタイトル的にに「ポエトリーリーディング」と題され、中原中也の詩などが使われました。

光太郎智恵子とは直接関わらないものでしたが「アトリエには作家志望の男がひとり 理想の少女に「君が知りたい」と問い掛ける 少女は答える 「わからない」「だって、貴方が書いてくれないから」 アトリエにまだ産声は響かない ノートは未だに白いまま 煙草の煙で薄汚れて行く」ということで、ある意味、光太郎智恵子の関係性にも通じるなと思いました。

『智恵子抄』収録の多くの詩篇は、元々、一冊の詩集としてまとめられることを意図したものではなく、光太郎も特に智恵子の姿を書きとどめておこう、というつもりもそれほどありませんでした。智恵子が心を病んでからの「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(同13年=1938)あたりにはそういった意図も見え隠れしますが。

逆に智恵子の姿を残そう、と考えたのは、彫刻で。作品の現存が確認できませんが(おそらく空襲で焼失)、複数の「智恵子の首」が作られました。
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また、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、智恵子の俤をとどめるものです。
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こうした作を通し、光太郎が智恵子の姿を表現し尽くせたかどうか、などと考えさせられました。

休憩を挟んで、『トパアズ』。こちらは完全に光太郎智恵子の世界をモチーフにしたものでした。約60分の長丁場。
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西瓜すいかさんという方の脚本で、ありがたいことに、コピーを希望者に無料配付というので、いただいて帰りました。
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智恵子の心の病については、百家争鳴、実に様々な要因が指摘されていますが、今回の舞台では、ある意味、智恵子自身が自分に「かくあるべし」という枷を嵌めて自らを追い込んだ的な要素が濃い、という描き方だったように思われました。実家の長沼酒造の窮状などを光太郎にひた隠しにしようとする姿などが強調され、光太郎を世事に巻き込みたくない、そういった部分で光太郎に頼りたくない、という智恵子の意図が、過大な緊張や心労を呼んだというような……。

過去には「無言の圧」で光太郎がそうさせた一種のモラハラ、という解釈で書かれたものも存在しますし、芸術至上の脳天気な光太郎が智恵子の苦悩を見くびっていた、という描き方になっていたものもありました。しかし、今回の舞台は、光太郎がかなり心配して手を差しのべようとしながらも、智恵子の方でそれを拒絶し……的な設定と思われ(違っていたらすみません)、なるほど、そういう事態も充分考えられるな、と思いました。

そうした脚本のもと、末永全さん、三枝ゆきのさん、光太郎智恵子を熱演され、本当にこんなやりとりがあったんじゃないか、という気がしました。お二人はこの舞台に向け、智恵子の故郷・福島二本松や染井霊園の髙村家墓所なども訪問なさり、インスピレーションを受けられたそうで、それがかなり生かされているように感じました。

また、キャパ20ほどの狭い空間での公演ということで、大劇場にはない一体感といいますか、臨場感といいますか、そういったものも感じられました(第一部、第二部ともに)。これが大きなステージでのそれだと、絵空事感が感じられてしまうような……。

関係の皆様の、今後とものご活躍、ついでにいうなら再演なども祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

夏の暑さに閉口してゐます。訪問客と話するのも苦痛に思ひます。もすこし涼しくなつてからおめにかかりたいと思ひます。


昭和2年(1927)8月26日 山本稚彦宛書簡より 光太郎45歳

とにかく夏の暑さを苦手としていた光太郎。夏場には執筆された原稿の数もやはり少ないようです。

まだ梅雨明けとはなりませんが、連日蒸し暑く、自宅兼事務所のも、このブログを書いているたった今、背後の廊下でのびています(笑)。
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一昨日、昨日と、あちこち吹っ飛び廻っておりました。3回に分けてレポートいたします。

まず7月7日(金)、座・高円寺さんへ。
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渡辺えりさん作の「天使猫」「月にぬれた手」拝見以来、11年ぶりでした。

こちらでは「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~」が開催され、昼公演、夜公演と内容の異なる二本立てでしたが、夜公演の方で光太郎の「智恵子抄」取り上げられるということでお邪魔しました。
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朗読系の公演を聴くといつも感じるのですが、絶対量はともかく、普段の読書の幅が狭い当方としては、実に新鮮でした。光太郎智恵子らに関わらない書籍はあまり読む余裕がありません。公共交通機関を使って移動する際には頭を使わないで済む歴史小説、時代小説、推理小説等は読みますが、それ以外はとんと御無沙汰です。そこで、普段読まないジャンルのものを聴けて、新鮮、というわけです。

また、数十年前に読んだものも、細かな内容等は忘れていて「ああ、そういう話だったっけ」的なことも。今回で云えば「星の王子様」や太宰の短編など。

それぞれに聴きやすい、レベルの高い方々で、いい感じでした。

さて、大トリが「智恵子抄」から。今回のグループの主宰者的な葉月のりこさんという方と、大物ゲスト的な扱いなのでしょう、唐ひづるさんという方。

はじめに「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)をお二人で分担しつつ。お二人の声が一瞬重なり、奇しくもハモったところもあり、ゾクッときました。

その後、プログラムでは「僕等」(大正2年=1913)「おそれ」(大正元年=1911)となっていましたが、掛け合いのように二つの詩を少しずつ交互に朗読されるというスタイルで、斬新だな、と思いました。

どこで区切ったかまでは細かく憶えていないのですが、こんな感じでした。

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価(あたひ)を量らなければいけない
僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌としたはじめにかへる
すべての差別見は僕等の間に価値を失ふ
あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則すなはち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
僕等にとつては凡すべてが絶対だ
そこには世にいふ男女の戦がない
信仰と敬虔けいけんと恋愛と自由とがある
そして大変な力と権威とがある
人間の一端と他端との融合だ
僕は丁度自然を信じ切る心安さで
僕等のいのちを信じてゐる
そして世間といふものを蹂躪してゐる
頑固な俗情に打ち勝つてゐる
二人ははるかに其処をのり超えてゐる
それでいい、それでいい
その夢を現(うつつ)にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない
僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる
僕は自分のこころよさがあなたのこころよさである事を感じる
自分を恃たのむやうにあなたをたのむ
自分が伸びてゆくのはあなたが育つてゆく事だとおもつてゐる
僕はいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ 安心してゐる
僕が活力にみちてる様に
あなたは若若しさにかがやいてゐる
私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命いのちであり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱じようらんを惹き起すのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか
あなたは火だ
あなたは僕に古くなればなるほど新しさを感じさせる
僕にとつてあなたは新奇の無尽蔵だ
凡ての枝葉を取り去つた現実のかたまりだ
あなたのせつぷんは僕にうるほひを与へ
あなたの抱擁は僕に極甚(ごくじん)の滋味を与へる
いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起す波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたの冷たい手足
あなたの重たく まろいからだ
あなたの燐光のやうな皮膚
その四肢胴体をつらぬく生きものの力
此等はみな僕の最良のいのちの糧かてとなるものだ
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければならない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない
あなたは僕をたのみ
あなたは僕に生きる
それがすべてあなた自身を生かす事だ
御覧なさい
煤烟と油じみの停車場も
今は此の月と少し暑くるしい靄との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤とのシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる
僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
――何といふ光だ 何といふ喜だ
いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない

もうちょっと短いスパンで交代していたような気もしましたが、こんな感じでした。

「おそれ」は光太郎がまだ智恵子と恋愛関係となる前、これから先、経済的に苦労するに決まっている自分の生活に智恵子を巻き込みたくない、しかし、自分自身も智恵子に惹かれてしまう思いが抑え難い、という苦悩を謳ったもの。

それに対し「僕等」は、「おそれ」の1年4ヶ月後に書かれ、もはや腹を決めて智恵子と二人、手を取り合って苦楽を分かち合っていこう、愛があれば何とかなるさ! という決意の表明。

それを交互に読み合うことで、二つの心の間で揺れ動く光太郎、的なことが表されていました。面白い取り組みだと思いました。

詩の朗読は、ただ単純に詩を羅列していくだけでは、なかなか山あり谷ありの小説等のそれとは異なり、平板になってしまいがちです。山なしオチなし意味なし、ただ単に雰囲気だけ味わってもらえれば……みたいな。そうならないように、と云う工夫の意味もあったのでしょう。

終演後の出演者の皆さん。
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今後ともご活躍されることを祈念いたしております。

その後、中野区野方に移動。「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」を拝見しました。そちらは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

草津に四五日居て今別所に来ました、繭のにほひが温泉のけむりにまじつて古風です、僕につきものの雨が今も降つてゐます。雨を聴きながら湯に入るのは価千両。

昭和2年(1927)7月7日 水野葉舟宛書簡より 光太郎45歳

草津」は群馬県の草津温泉、「別所」は現・長野県上田市の別所温泉。別所の麓の塩田平に当方の亡くなった父親の実家があり、子供の頃から別所温泉にはたびたび参りました。ここ十年程の間にも何度か。

昨日は都内に出て、「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」及び「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」と、ハシゴして参りました。レポートしたいところですが、本日は福島県川内村にて「第58回天山祭り」があり、もう出かけねばなりません。

それぞれのレポートは明日以降ゆっくり書くこととし、本日はサクッと書けるところで地方紙記事系のネタを2本。

まずは『岩手日報』さん。花巻高村光太郎記念館さんでのテーマ展『山のスケッチ』について報じて下さいました。

高村光太郎が見た自然美体感 花巻・記念館でテーマ展

 花巻市太田の高村光太郎記念館でテーマ展「山のスケッチ」が開かれている。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が花巻疎開の際に目にした花や山菜のスケッチ複製のほか、詩の直筆原稿も初公開。展示品を通して、光太郎が目にした自然の美しさを感じることができる。
 直筆原稿と水彩画、スケッチの精密複製など計11点と写真パネルを展示。スケッチは、散文「山の春」に登場する草花が中心で、ショウジョウバカマなど柔らかなタッチの作品だ。ゼンマイは繊細な筆遣いで、創作活動に生かすための精緻さが見て取れる。
 8月31日まで。午前8時半から午後4時半。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは0198・28・3012へ。
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もう1件、『福島民報』さんから。

論説 【トクヨと智恵子】顕彰・交流の広がりを

  「日本女子体育の母」と呼ばれる二階堂トクヨは若いころに本県で学び、教え、二本松市出身の洋画家高村智恵子の少女時代に師弟の絆を結んだ。トクヨが創立した日本女子体育大学は今年10月、100周年の記念式典を催す。出身地の宮城県大崎市では顕彰する取り組みが進んでいる。改めて2人の歩みに光を当て、交流拡大につなげたい。
 トクヨは1880(明治13)年に生まれ、福島民報社初代社長の小笠原貞信の養女となって本県尋常師範学校(現福島大)で勉学に励んだ。卒業後、油井小の教員を務め、在籍していた6歳下の智恵子と親交を深めた。後年、トクヨが英国留学に旅立つ際、智恵子は夫となる高村光太郎と港で見送り、留学中の恩師に着物を送ったという。
 英国で女性の健康と体育の重要性を深く学び、日本の女子体育の道を切り開いていく。1922(大正11)年、東京に二階堂体操塾を創設し、女性の体育指導者の育成に努める。門下から陸上女子800メートルで日本女性初の五輪メダリストとなった人見絹枝が羽ばたいた。塾は専門学校、短大を経て日本女子体育大学となり、著名な選手と多くの指導者を輩出している。
 故郷の大崎市三本木地区で2016(平成28)年、有志らが「日本女子体育の母 二階堂トクヨ先生を顕彰する会」を発足させた。収集資料や研究成果を会報などで紹介し、生家のあった場所に案内板を設置した。地元の小学校で「二階堂トクヨ杯」のなわとび大会を開くなどして、功績を伝えている。
 本県でも智恵子との絆を入り口に、時代の先駆者となった生き方や思いを広く知ってほしい。二本松市智恵子記念館には智恵子が福島高等女学校(現橘高)時代に書いた手紙が展示されている。達筆の文面に「小笠原先生」としてトクヨが登場する。若き智恵子のユーモアと親しみがにじみ、ほほえましい。
 二本松市の「智恵子のまち夢くらぶ」をはじめ、郷土の偉人に熱い思いを寄せる人々がそれぞれの地元にいる。今年は高村光太郎の生誕140年にも当たり、関連する企画が各地で催されている。トクヨと智恵子への関心が高まり、ゆかりの地の顕彰・交流や相互研究がさらに深まるよう期待したい。

旧安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校で智恵子の恩師だった、二階堂トクヨの顕彰活動が起こっているそうで。

トクヨと智恵子についてはこちら。
福島民報あぶくま抄「女子体育の母」。
大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」第二章。

ゆかりの地の顕彰・交流や相互研究がさらに深まるよう期待したい」。まさにそのとおりですね。

【折々のことば・光太郎】

いつぞやわざわざあなたが来て下さつて御話をきいてゐるうちに自然とその気になつて御承諾いたし、承諾した以上はどうしてもやらうと存じ、あれから一度「大調和」主催の講演会といふものに試みに出てみましたが、十分間位話すのがやつとの事にて、それも意味が本当には伝はらず、思ふ事と口から出る言葉とが甚だしく齟齬し、結局小生はとても講演は出来ない人間と思ひきめてしまひました。幸ひ今の処演説する必要の無い仕事を職業としてゐるわけで、此点大いに安心してゐる次第なのです。


昭和2年(1927)6月9日 石井鶴三宛書簡より 光太郎45歳

石井鶴三は彫刻家。光太郎と親しかった画家の石井柏亭の実弟です。この頃、自由学園さんで美術教師を務めていました。そこで、同校で光太郎に講演をしてくれるよう依頼、光太郎も一旦は引き受けたものの、結局、断っています。

当方も、あちこちで講演や市民講座講師等をする機会が多く(今日もこれから川内村で講演ですが)、いつも「意味が本当には伝はらず、思ふ事と口から出る言葉とが甚だしく齟齬」しているな、と感じています。人前でしゃべるのに抵抗はありませんが、自信もない、という感じです。光太郎もそうだったのではないかと思われます。

ただ、それが戦時中になると一転、かなり積極的に講演に取り組むようになっていきます。

明日開幕の企画展等、2件。いずれも東北地方での開催です。

今泉篤男と美術 ひたすらに己の眼と言葉を信じ 美術評論家・美術館人として歩んだ生涯

期 日 : 2023年7月8日(土)~8月20日(日)
会 場 : 米沢市上杉博物館 山形県米沢市丸の内一丁目2番1号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日 (月曜日が休日の場合はその直後の平日)
料 金 : 一般490(390)円 高大生340(270)円 小中生240(190)円
      ※( )内は20名以上の団体

今泉篤男(いまいずみあつお 1902~1984 米沢市出身)は、戦前から評論活動をスタートし、国内外の美術工芸に関する幅広い分野を対象とした美術評論家です。一方で、東京国立近代美術館初代次長、京都国立近代美術館初代館長を勤めた美術館人でもありました。国立美術館の仕事のほか、資生堂ギャラリーをはじめとする多くの美術館運営に関わり、評論家としては1950年代に日本の「近代絵画」をめぐる問題提起が「今泉旋風」を巻き起こすなど、今日でも美術界全体に今泉の足跡をみることが出来ます。本展では、今泉篤男の遺した多彩な仕事を、ゆかりの作家の作品と今泉の言葉を通して紹介します。

展示構成
第一章 生い立ち 米沢・山形での学生時代 第二章 東京帝国大学~留学 初期の評論活動
第三章 美術批評家 今泉篤男の誕生    第四章 美術館人として 美術評論家として
第五章 工芸への情熱           第六章 ゆかりの作家たちと郷里へのまなざしと

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今泉は光太郎とも親しく、光太郎は戦時中の昭和19年(1944)には雑誌『美術』に載った「回想録」を今泉に口述したりしています(掲載は翌年)。

そこで、光太郎の木彫「鯰」のうち、竹橋の国立近代美術館さん所蔵のもの(大正15年=1926)が出張。
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他に濱田庄司、椿貞雄、梅原龍三郎、安井曾太郎、平櫛田中、バーナード・リーチら、光太郎と関わりのあった面々の作も。さらにルノワールや加守田章二(高村光太郎受賞者)なども。

もう1件。同日開幕で、光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

皇室の名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~

期 日 : 前期 2023年7月8日(土)~8月2日(水)
      後期 2023年8月5日(土)~9月3日(日)
会 場 : 秋田県立近代美術館 秋田県横手市赤坂字富ヶ沢62-46
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 8月3日(木)、8月4日(金)
料 金 : 一般 ¥1200 (1000) 高・大学生 ¥1000(800)  中学生以下無料
      ※( )内は前売り、20名以上の団体

本展では、伊藤若冲や琳派を中心とした江戸時代の絵画や近代絵画の名品など、皇室ゆかりの名宝をご覧いただくとともに、秋田県出身の平福百穗が結成した「金鈴社」のメンバーの作品など、秋田県ゆかりの絵画や美術工芸品(明治時代の七宝や彫刻、金工品)を展示します。あわせて、明治天皇や秩父宮雍仁親王による秋田県訪問の様子を納めた写真をパネル展示し、皇室と秋田県のつながりをご覧いただきます。
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皇居内の三の丸尚蔵館さんが改修中のため、出開帳的な。これまでも各地で行われてきていますし、今年はこの後も、光雲作品が出るそれが岡山と石川でも予定されています。

秋田で出品される光雲木彫は「文使」(明治33年=1900)。ただし前期(7/8~8/2)のみです。

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当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し逓信省から献上されたもので、台座部分には螺鈿と蒔絵の装飾も施されているなど、入魂の作です。

光太郎、光雲共に木彫作品を直に見られる機会はそう多くありません。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彫刻界の対人関係などにあまり頭を使はない方がいいかと思ひます。さういふ事は皆一場の喜劇に過ぎません。


昭和2年(1927)5月6日 山本稚彦宛書簡より 光太郎45歳

山本の父・瑞雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。稚彦自身も彫刻家となりました。光太郎同様、二代目的な部分でいろいろあったのでしょうか。

テレビ番組の再放送系、2件ご紹介します。

日曜美術館「クォ・ヴァディス」の秘密〜シュルレアリスム画家北脇昇の戦争

地上波NHK総合 2023年7月9日(日) 20:00~20:45

ゴーギャンと並んで教科書にも登場した「クォ・ヴァディス」。題は聖書の引用「何処へ行くのか?」。前衛画家の終戦直後の作だが作者の意図は謎だった。今意外な真実が明らかに。

シュルレアリスム画家・北脇昇が終戦後、死の直前に残した「クォ・ヴァディス」。画家の意図は謎に包まれてきた。後姿の復員兵らしき男は何処へ行こうとしているのか? シュルレアリスムが日本にもたらされたのは戦時下。画家たちは抑圧の中で絵を描き終戦を迎えた。その心情の反映なのか?過去の評論家は行き暮れた男の姿に作者の挫折を重ね、戦争でシュルレアリスムが結実しなかったことを嘆いた。だが、近年の研究で意外な秘密が。

出演者
【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾
【キャスター】小野正嗣 柴田祐規子


シュルレアリスム画家・北脇昇を中心に取り上げたもので、本放送は7月2日(日)でした。
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同番組、光太郎智恵子や光太郎の父・光雲らと関わらないと思われる作家を取り上げる際などは、拝見しないことがあります。今回がそうでした。ところが、放映終了後、お仲間の一人からメールで「光太郎が紹介されたよ」。「ありゃま」と思い、見逃し配信のNHKプラスさんで拝見。

すると、戦時中や終戦直後、当時の芸術家等が戦争や敗戦とどう向き合ったのか、という中で光太郎が紹介されていました。
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他に金子光晴など。例によって金子に関しては、光太郎同様戦時中にコテコテの翼賛詩も書いていたことには触れられず、「反戦の詩人」と云った扱いでしたが。金子に対してはもはやそういう評価がほぼ定着してしまっていますね。別に金子をディスるつもりもありませんが、翼賛詩は書かなかったことにしてしまおう、という本人あるいは取り巻きの策謀が功を奏しているようです。

閑話休題、もう1件。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2023年7月11日(火) 17:58~19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

楽曲1
「東京アンナ」大津美子  「ダイナ」ディック・ミネ  「ダイアナ」鈴木ヤスシ
「硝子のジョニー」谷龍介  「傷だらけのローラ」高道(狩人)  
「シェリー」九重佑三子、田辺靖雄  「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス
「メリー・ジェーン」つのだ☆ひろ
楽曲2
「サチコ」ニック・ニューサ  「ひとみちゃん」神戸一郎
「そんな夕子にほれました」増位山太志郎  「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「お吉物語」天津羽衣  「おーい中村君」若原一郎
「ハチのムサシは死んだのさ」セルスターズ  「姿三四郎」姿憲子  「与三さん」照菊

<司会>合田道人
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物故者を含め、過去の歌唱映像の再編で構成されている番組。令和2年(2020)に亡くなった二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)も流れます。亡くなって以来、何度かこの手の番組で取り上げられ続けています。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「大調和」が予想にたがはず、内容豊富で、又体裁も奇麗なので喜びました。あなたの労苦も思ひやられました。お金も思ひがけなく沢山もらつて大よろこびです。早速出しにゆきます。講演会のお礼には本当に恐縮しました。

昭和2年(1927)3月23日 笹本寅宛書簡より 光太郎45歳

この年創刊された「大調和」は武者小路実篤主宰の雑誌。笹本はその編集者で、後に小説家としても名を馳せます。

3月17日にはその「創刊記念文芸講演会」が催され、光太郎も登壇、「五分間」と題して講演をしました。また、創刊号には光太郎の評論「ホヰツトマンの事」も載りました。そのあたりのもろもろで振り込みがあったようで、「沢山もらつて大よろこび」「早速出しにゆきます」(笑)。

新刊です。

自称詞〈僕〉の歴史

2023年6月30日 友田健太郎著 河出書房新社(河出新書) 定価980円+税

なぜ〈僕〉という一人称は明治以降、急速に広がり、ほぼ男性だけに定着したのか。古代から現代までの〈僕〉の変遷を詳細に追い、現代の日本社会が抱える問題まで浮き彫りにする画期的な書。

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目次
はじめに
第1章 〈僕〉という問題
 WBCを席捲した〈僕〉
 野球スター今昔――〈ワイ〉から〈僕〉へ
 スポーツ界で一般化する〈僕〉
 EXILEには〈僕〉を使うルールがある?
 女性にも広がる〈僕〉
 〈僕〉が登場する記事が三〇倍に
 「主体」を出す表現が増えてきている?
 〈僕〉が選ばれる割合が増加
 〈僕〉は戦後世代の自称詞に
 〈僕〉が増えた理由は?
 主な自称詞の由来や性質
 男性が最も一般的に使うのは〈俺〉
 自称詞とは?
 すり減っていく「敬意」
  自称詞が徐々に「偉そう」に
 〈僕〉が平等を促進?
第2章 〈僕〉の来歴――古代から江戸時代後期まで
 日本最古の〈僕〉
 「古事記」の世界観を表現
 「日本書紀」の〈僕〉
 中国から来た〈僕〉
 〈僕〉の二つの意味合い
 中世の欠落
 〈僕〉が使われ始めた元禄時代
 初期の用例
 唐代の「師道論」
 元禄時代の〈僕〉は師道論へのオマージュ
 身分制度の性格を離れた友情を表す〈僕〉
 広がる〈僕〉使用
 渡辺崋山の〈僕〉
第3章 〈僕〉、連帯を呼びかける――吉田松陰の自称詞と志士活動
 吉田松陰という人
 長州の学問の伝統
 松陰の人間関係
 松陰の書簡の分類
 〈僕〉の使用が少ない家族宛書簡
 「友人宛」で〈僕〉を多く使用
 弟子宛書簡にも多い〈僕〉
 親友でもあった兄・梅太郎
 秀才の初めての挫折
 秀才の初めての非行
 黒船が来て政治に目覚める
 黒船に乗り込み、完全にコースを外れる
 兄との激論
 熊皮の敷物に込めた思い
 松陰の出獄と松下村塾の始まり
 政治活動の激化
 感情の揺れと〈僕〉
 同志に贈る書簡の〈僕〉
 領分関係者への〈僕〉
 〈僕〉に込めた「対等性」
第4章 〈僕〉たちの明治維新――松陰の弟子たちの友情と死
 弟子たちの重要性
 貴公子・高杉晋作
 藩医の家の孤児・久坂玄瑞
 武家社会の末端・入江杉蔵
 松陰との出会い
 松陰と杉蔵兄弟の入獄
 杉蔵に死を迫った松陰
 杉蔵の反発と松陰の謝罪
 家庭事情を打ち明ける晋作
 玄瑞に友情を求める晋作
 晋作と松陰
 松陰の死
 玄瑞と杉蔵の友情
 杉蔵の志士活動の挫折
 過激化する晋作と玄瑞
 杉蔵の志士活動の本格化
 杉蔵と玄瑞の最期
 その後の晋作
 身分社会の崩壊と〈僕〉
第5章 〈僕〉の変貌――「エリートの自称詞」から「自由な個人」へ
 下級武士が中心となった革命
 明治時代の教育の普及
 『安愚楽鍋』の〈僕〉
 河竹黙阿弥の歌舞伎台本
 黙阿弥作品の〈僕〉――教育との関わり
 黙阿弥作品の〈僕〉――金と権力
 明治の「立身出世」と〈僕〉
 江戸文人の〈僕〉
 黙阿弥の引退作に使われた〈僕〉
 泥棒から権力者へ
 黙阿弥自身の遺した〈僕〉
 教育の普及
 近代日本文学は「〈僕〉たちの文学」
 文豪・漱石の〈僕〉〈君〉
 明治時代の庶民と〈僕〉
 大杉栄の〈僕〉
 高村光太郎の〈僕〉
 戦没学生の〈僕〉の分析
 女性への呼びかけとしての〈僕〉
 軍隊と〈僕〉
 『戦没農民兵士の手紙』との比較
 戦後の大学進学率の上昇と〈僕〉の普及
 連続殺人鬼・大久保清の〈ぼく〉
 「男はつらいよ」諏訪家三代の〈僕〉
 三田誠広の『僕って何』
 村上春樹の〈僕〉
 社会へのコミットメントを深める村上春樹
 〈僕〉の可能性は
終章 女性と〈僕〉――自由を求めて
 これまでのまとめ
 ストーリーの欠落としての女性
 江戸時代、女性は〈僕〉を使わなかった?
 「男性化」への拒否感
 『女性は女性らしく』
 河竹黙阿弥が描いた女書生の〈僕〉
 繁=お繁の自称詞使い分け
 『当世書生気質』の中の女性の〈僕〉
 『浮雲』の中の女性の〈僕〉
 〈僕〉が映す学生文化への憧れ
 田辺聖子『藪の鶯』
 天才少女の小説『婦女の鑑』
 翻訳小説に登場した〈僕〉
 樋口一葉の登場
 一葉の使った〈僕〉
 男女の人生の違いを浮き彫りに
 与謝野晶子の苦痛
 「男装の麗人」水の江滝子の〈僕〉
 宝塚の〈僕〉
 綿々と続く男装文化
 奇人・本荘幽蘭の〈僕〉
  川島芳子の〈僕〉
 男装の影の「素顔」
 川島芳子は生きていた?
 戦中の「礼法要項」に定められた男女の別
 戦後の〈僕〉の光景――林芙美子の『浮雲』
 戦後の教室での自称詞
 『リボンの騎士』と『ベルサイユのばら』
 その後の少女マンガの〈僕〉
 性的マイノリティにとっても〈僕〉
 〈僕ら〉と〈わたしたち〉
 詩人・最果タヒの〈ぼく〉
 人々の思いを映し、日本語の「現在」を示す〈僕〉
おわりに

「自称詞」というあまり聞き慣れない語がタイトルに使われています。英語圏などの「代名詞」との性格の違いを考慮してのことだそうです。

他言語との比較で云えば、確かに日本語の一人称は「私(わたし)」「私(わたくし)」「俺」「某(それがし)」「小生」「余」「朕」「儂(わし)」、そして「僕」など(実際に使うか使わないかは別として)、さらに方言まで含めればいったいどれだけあるんだ、ですね。そしてそれぞれに微妙なニュアンスの違いがあるわけで。

よく使われる例えですが「吾輩は猫である」。英訳してみれば「I am a cat」。「吾輩」という偉そうな響きはまったく影を潜めてしまいますし、「である」という断定口調(「です」ともまた異なる)も表せません。だから日本語の方が優れている、と云うつもりは全くありませんが。

そして本書で取り上げられている「僕」。たしかに不思議な言葉ですね。一般に、女性は使いません。また、男性であってもオールマイティーにどんな場面でも、というわけではありません。実際に当方、学校を出てからこのかた「僕」を使った覚えはありません。というか、既に学生時代にはオフィシャルな場面では「自分」と云っていた記憶がありますし、現在でも「自分」です。

当方の中では「僕」は割と年配の男性が使うというイメージがありました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生は常に「僕」でしたし、亡くなった父親も対外的にはよく「僕」と云っていました。

ところが、最近、「僕」が世の中を席捲している、という例から本書は始まります。確かに大谷翔平選手らスポーツ界、それから著者の友田氏は芸能界でEXILEさんを例に挙げていますが、インタビュー等で彼らは「僕」を多用し、それが爽やかさや謙虚さ、親しみやすさの表明にも繋がっている、と、いうわけです。

そして古今の「僕」の使われ方を帰納的に分析。すると、元禄の頃から使用例が増え、幕末には吉田松陰らをはじめ、当時の知識階級などが連帯感を示すものとして広く用いるようになり、さらに維新後の教育のあり方などとも結びついて、一般化していったという論。うなずけました。

そんな中で、「高村光太郎の〈僕〉」という項も設けられ、詩「道程」(大正3年=1914)などでの「僕」が論じられています。ちなみに光太郎は詩の中では「僕」以外にも「俺」「おれ」「私」「わたし」「わたくし」「われら」(戦時中)などを使い分けていました(友田氏、ちゃんとそこもカバーしています)し、日記では「我」(明治期)「余」(戦後)なども使っていました。おそらく学部生の卒論などでもこういう内容はあったことでしょう。

本書の場合、特定の人物に偏らず、かなり広範囲にその使用例を求め、それぞれの人物がどういう背景の下に「僕」を使っていたのかを、世相や社会状況、おのおのが置かれていた立場などとからめて論じている点が優れているところです。さらに昨今のジェンダーフリー的な部分への言及も為されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩を書かないでいると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。


昭和2年(1927)2月24日 正富汪洋宛書簡より 光太郎45歳

正富が編集に当たっていた雑誌『新進詩人』のアンケート「詩界に就て」の回答として送られた返信用往復葉書から。そこで『高村光太郎全集』には、書簡の巻とアンケート回答の載った巻と、2箇所に掲載されています。

どきりとさせられますが、詩に限らず、芸術等の全ての分野に云えることではないでしょうか。

嬉しい悲鳴ですが、またぞろ取り上げるべき事項が目白押しとなってきましたので、新刊の雑誌系、3冊まとめてご紹介します。

まず、新刊書店さんで平積みになっています、月刊の『文藝春秋』さん7月号。
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「総力特集 一〇〇年の恋の物語 一つの恋が時代を変えることもある」。
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まず新聞広告で知りました。かつてはこの手の特集を組んだ雑誌や、こうした内容をメインにした書籍等で光太郎智恵子が取り上げられることが多かったので、今回も光太郎智恵子の項はあるかな、と思ったのですが、項目としてはありませんでした。

しかしまだ諦めきれず(笑)、書店で立ち読みもしたのですが、光太郎智恵子の名は見つからず。

ところが、今年の第67回連翹忌にご参加下さった詩人の方からメールが来て、「光太郎智恵子が取り上げられてますよ」。

何とまぁ、冒頭の総論的な田原総一郎氏と下重暁子氏の対談「恋のない人生なんて!」の中で、ちらりとですが確かに触れられていました。一部分、載せます。
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立ち読みした際にここはスルーしていました。考えてみれば、下重氏、今年3月の『週刊朝日』さんでもちらりと光太郎を引き合いに出して下さっていましたので、「怪しい」と思うべきでした。

続いて同人誌。

やはり第67回連翹忌にご参加下さった詩人の谷口ちかえ氏がご送付下さいました、詩誌『ここから』16号。
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「テーマエッセイ 記憶に残る詩の一行」という項で、存じ上げない方ですが、斉藤なつみ氏という方が光太郎詩「冬の言葉」(昭和2年=1927)の最終行「一生を棒にふつて人生に関与せよと」を紹介して下さいました。多謝。

「冬の言葉」全文はこちら。

    冬の言葉
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 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が洗ひ出すのは万物の木地。

 天はやつぱり高く遠く
 樹木は思ひきつて潔らかだ。

 虫は生殖を終へて平気で死に、
 霜がおりれば草が枯れる。

 この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
 冬はいきなり蹂躪する。

 冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
 人間手製の価値をすてよと。

 金銭はむかし貴族を滅却した。002
 君達は更に金銭を泥土に委せよと。

 君等のいぢらしい誇りをすてよ、
 君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。

 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が求めるのは万物の木地。

 冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、
 一生を棒にふつて人生に関与せよと。

ちなみにこの詩の直前に書かれた「或る墓碑銘」という詩も、最終行が「一生を棒に振りし男此処に眠る」となっており、呼応している感があります。

奥付的な部分の画像を載せておきますので、ご入用の方、そちらまで。
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最後に一般には流通していない雑誌ですが……。

地銀の千葉銀行さんが展開するシニア世代向け会員制サービス「ひまわり倶楽部」の会報的な『ひまわり倶楽部』2023年6月号。年2回の発行だそうで。
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表紙が当会会友・渡辺えりさん。特集記事がえりさんによる「さんぶの里紀行」。千葉県の九十九里浜を含む一帯が「山武」といわれる地域で、そちらのレポートです。ちなみに九十九里町も属する「山武郡」は「さんぶぐん」なのですが、旧山武郡山武町、同蓮沼村などが合併してできた「山武市」は「さんむし」と、「武」の字の読み方が異なります。元々「さんむ」だったものが、いつの間にか「さんぶ」と読まれるようになり、合併の際には本来の読み方である「さんむ」に戻そう、ということで「さんむし」となりましたが、合併に入らなかった九十九里町などは「さんぶぐん」で通しています。複雑ですね。

で、えりさんの旅レポ(ご執筆はライターの方)は13ページにもわたり、全体の半分以上です。元々の企画では、山武地域中の山武市と東金市とを廻るというもので、そのように予告もされていたようですが、そこはえりさん、強引に「九十九里町も入れてちょうだい」(笑)。九十九里町は昭和9年(1934)に半年あまり、心を病んだ智恵子が療養し、光太郎がほぼ毎週見舞いに訪れた地です。詳しくはこちら。山形ご在住だったえりさんの亡きお父さまが生前の光太郎と交流があり、いつか九十九里町を訪ねたいとおっしゃっていたのが果たせず、えりさんご自身も行かれたことがなかったそうで。

3月半ばのことでした。自宅兼事務所でPCのキーボードを打っていると、突然、スマホにえりさんから電話。

「九十九里浜の智恵子が療養していたあたりに行きたいんだけど。光太郎の石碑とかあるのよね」
「そうっすね。そんならうちから1時間ちょっとのとこなんで、ご案内しますよ。で、いつごろですか?」
「いやいや、もう近くまで来てるのよ、千葉の銀行の雑誌の取材で」
「えっ?」
「でも智恵子が居たところの詳しい場所が分からないから」
「って、今、どちらにいらっしゃるんすか? 市町村の区分で云うと」
「えーと、山武市」
「ああ、だったらそこよりちょい南下したあたりです。九十九里町ってとこに「サンライズ九十九里」つう保養施設があるので、そこのフロントで訊いて下さい。石碑とか智恵子が居た家の跡とかはそこのすぐ近くです」
「「サンライズ九十九里」ね。わかった」
「そこの2階のエレベータホールに光太郎智恵子の銅像のミニチュアがありますから、そちらもご覧下さい」
「了解、ありがと」

とまぁ、こんなようなやりとりがありました。

その後、えりさんのフェイスブックに上がった画像。
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その後、こちらで拾ったハマグリの貝殻を、お父さまのご仏前に供えられたそうで。

そして『ひまわり倶楽部』さんの該当箇所。
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また数日前にえりさんからメールで「銀行の雑誌、出たよ」。で、当方、裏ルートで入手した次第です(笑)。

この手の情報ご提供、ありがたいかぎりです。お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

ロダン翁の事についてはおたづねいたし度き事まだまだ沢山有之 又折を見て推参拝聴いたし度事に存居候へば何卒よろしく願上候 余寒きびしき折柄御自愛専一に可被遊 尚ほ御家中皆々様にもよろしく被下処願上候 あなた様の居らるゝ為め岐阜といふ町までなつかしき心地いたされ 又参上いたす時をたのしみに致し居候


昭和2年(1927)2月10日 太田花子宛書簡より 光太郎45歳

太田花子は女優。確認できている限り、ロダンのモデルを務めた唯一の日本人です。光太郎はこの年刊行される予定の評伝『ロダン』執筆のため、引退して岐阜に隠棲していた花子を訪ね、ロダンとの思い出をインタビューしました。その礼状です。
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もう一度岐阜に行って話を聞きたい、とのことでしたが、それは果たせませんでした。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第58回天山祭り

期 日 : 2023年7月8日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~12時40分
料 金 : 500円

故草野心平先生の遺徳をしのび、7月の第2土曜日に毎年開催されています。詩の朗読や伝統芸能の披露など文化的なお祭りとなってます。これを機に、川内村の伝統にふれてみてはいかがでしょう。

今年は草野心平生誕120周年ということもあり、村の子どもたちによる発表なども予定されておりますので、ぜひお越しください。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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まぁ、ほんのおまけのような扱いなのでしょう、要項等に記述がありませんが、当方の講演も予定されています。題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。
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以前にも似たような話をあちこちでさせていただいておりますので、その焼き直しのような……。

同祭、何度か参加させていただきました。最後はコロナ禍前の第54回(令和元年=2019)。コロナ禍中の第55回(令和2年=2020)は例によって中止となり、一昨年の第56回は福島県内在住者に限っての参加で実施、昨年の第57回から再び広く参加を呼びかけるようになりました。ただ、今年もそうですが、以前のように名物のイワナ付きお弁当が饗されるところまでは旧に復していないようです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

東京は四十年来といふ寒さで、此間零下八度六分。彫刻の粘土を凍らせないやうにするので厄介です。ロンドンは割に暖かなのでせう。霧はどうですか。

昭和2年(1927)1月27日 中野秀人宛書簡より 光太郎45歳

中野秀人は編集者・詩人。この頃ロンドンに居ました。

零下八度六分」は間違いでも誇張でもなく、この年1月24日に東京地方で記録され、気象台開設以来の寒波として記録に残っています。

これで思い出されるのが、『智恵子抄』所収の詩「金」。前年の大正15年(1926)に書かれたものです。
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 工場の泥を凍らせてはいけない。
 智恵子よ、
 夕方の台所が如何に淋しからうとも、
 石炭は焚かうね。
 寝部屋の毛布が薄ければ、
 上に坐蒲団をのせようとも、
 夜明けの寒さに、
 工場の泥を凍らせてはいけない。
 私は冬の寝ずの番、
 水銀柱の斥候(ものみ)を放つて、
 あの北風に逆襲しよう。
 少しばかり正月が淋しからうとも、
 智恵子よ、
 石炭は焚かうね。

「工場」は「こうじょう」ではなく「こうば」。アトリエのことです。「泥」は彫刻用の粘土ですね。

こういうところが、『智恵子抄』が「智恵子不在」とか「モラハラ野郎」とか云われる所以なのでしょうが……。

岩手より帰って参りました。レポートいたします。

6月30日(金)、盛岡駅で花巻市役所の方々などの乗られる車に拾っていただき、盛岡スコーレ高等学校さんへ。
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同校は、光太郎と親しかった羽仁吉一・もと子夫妻が戦前に創立した都下東久留米市の自由学園さんの流れを汲み、その関係もあって光太郎との交流が生まれました。

同校サイトに載った沿革史から。
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創立者・吉田幾世は、昭和7年(1932)に郷里に帰ってから、羽仁夫妻の創刊で光太郎が数多くの寄稿をし、智恵子も取材を受けた雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部の仕事なども行い、その流れの中で昭和8年(1933)、「盛岡友の会生活学校」を開校させました(そこから数えて今年で創立90周年だそうで)。戦後に各種学校の認可を受け、さらに新制高校へと変わって行きます。
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そうした中で、羽仁夫妻の指示もあったのだと思いますが、吉田が花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の元を訪ね、交流が始まりました。光太郎は同校の「生活即教育」という理念のもと、いろいろと物づくりに取り組む姿勢に共鳴し、ホームスパン制作などを推奨し、それが現在も続いています。
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光太郎、盛岡を訪れた際には同校にも足を運び、同校からも遠足を兼ねて当時の生徒さんたちが光太郎の山小屋を慰問に訪れるなどしました。

戦後の光太郎、日本の将来を創っていく若い世代にかける期待は大きかったようで、山小屋近くの山口小学校や太田中学校、盛岡では県立美術工芸学校(現・岩手大学さん)、少年刑務所さん、そしてスコーレさん(当時は盛岡生活学校)などに積極的に関わりました。

さて、今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、吉田と光太郎の関わりを中心とした企画展が行われ、当方にも協力要請があって、お借りするものの下見などを含め、お邪魔した次第です。

同校や関係者に贈られた光太郎直筆の書。
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光太郎の山小屋を生徒さんたちが訪問した際の写真パネル。
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現代の生徒さんたちが文化祭の展示として作った光太郎との交流史。
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羽仁夫妻、自由学園さん、『婦人之友』などにも触れつつ、これから展示構成を花巻市さんと詰めていこうと存じます。

その後、例によって花巻南温泉峡、大沢温泉さん自炊部に宿泊。
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翌7月1日(土)、旧太田村へ。

光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)。
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こちらの套屋の内部に、やはりスコーレさんで撮影された写真も。
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光太郎が着ているのはホームスパンの猟人服ですね。
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隣接する花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』を拝見。
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パネル等の壁面展示のみでした。
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光太郎散文「山の春」(昭和26年=1951 ちなみにこれも『婦人之友』に寄稿されました)を元に、当時の写真、光太郎画集『山のスケツチ』(没後の昭和41年=1966、中央公論美術出版)から精密複製、そして描かれている植物を最近撮った写真。

以前にも書きましたが、牧野富太郎をモデルとしたNHKさんの「らんまん」で植物が静かなブームですので、タイムリーな企画ではないでしょうか。

関連資料として詩「山菜ミヅ」原稿(昭和22年=1947)、一点だけ実物の光太郎スケッチ(太田村風景)、「花は何とて」詩稿。
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このうち、「花は何とて」は、戦時中の昭和20年(1945)、花巻町の宮沢家に疎開していた折の作と推定されます。この頃構想していた翼賛詩ではない詩集『花と実』の序詩として書かれました。結局、詩集は未完に終わり、この詩も生前に発表されることはありませんでした。

展示されているのは、花巻病院長だった佐藤隆房に贈ったもの。光太郎が手元に残した手控えの詩稿と、若干の表記の相違が認められます。
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こちらのテーマ展示は8月31日(木)まで。是非足をお運び下さい。

さらに、4月から5月にかけて開催された企画展「山口山の木工展」で展示された、奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏の作品の一部が、ロビーに展示されています。宮沢賢治や光太郎の世界観があたたかく表現されていて、ほっこり。
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併せてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

友の会の例会を左の通り催したいと存じます故どうぞ、 ○今月十五日午後二時より ○拙宅にて ○会費三十銭

昭和2年(1927)1月8日 今井武夫宛書簡より 光太郎45歳

「友の会」は「ロマンロラン友の会」。片山敏彦、高田博厚、尾崎喜八なども会員でした。
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昨日から岩手県に来ております。

昨日は戦後の昭和二十年代に光太郎が訪れたり、当時の生徒さんたちが花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を訪問したりという交流があった、盛岡スコーレ高等学校さんにお邪魔致しました。
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今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、同校創設者の吉田幾世と光太郎の関わりを中心とした企画展が行われ、協力要請があったため、花巻市役所の方々などとともに、ご挨拶的な。

お借りする予定の品などを拝見。
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その後、公用車で送っていただき、花巻南温泉峡、大沢温泉さんに宿泊。
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今日はこれから花巻高村光太郎記念館さんに伺い、開催中のテーマ展『山のスケッチ』拝観の予定です。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

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