2023年05月

グルメ系で2件。それぞれかつて光太郎が自分で調理したりしたメニューを元に、現代風の料理にアレンジしての取り組みです。

まずは富山県高岡市から。

地元を中心に演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子氏が、ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっていますが、今月(5月)から花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に、「光太郎ランチ」の日も設定なさっています。

今月(5月)は1回のみの実施でしたが、ご好評だったということでしょう、来月(6月)は3回に増えました。
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一昨年、やつかの森LLCさんで刊行された「光太郎の食卓カレンダー」のうちの1食分を参考に作られるそうです。

それから岩手。本家のやつかの森LLCさんの活動です。

花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのお店で、こちらも今月(5月)からやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」という名で参入なさっています。
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6月は15日(木)に「こうたろうカフェ」。
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山菜の「ミズ」の語が2回。旬なのでしょう。正式には「ウワバミソウ」という名です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎詩「山菜ミヅ」(昭和22年=1947)。
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    山菜ミヅ

 奥山の渓流に霧がこもつて
 岩の間にミヅが生える。山菜づくし
 ウハバミとまではゆかないが
 大きなシマヘビがぬらぬら居る。
 岩手の人はこの不思議な山菜を
 暗いうちから一日がかりで採つてくる。
 山の匂が岩手の町にただよつて
 ミヅは吸物となり煮びたしとなり001
 なんだかしらないどろどろな
 白緑いろのソースとなる。
 岩手の人は夏がくると
 何よりさきにミヅを思ひ出す。
 ぬめりがあつてしやきしやきして
 どこかひいやり涼しくて
 風雅なやうで精気絶倫。
 配給などとけちは言はず
 山の奥にはウハバミサウが
 ぬるぬるざわざわ生えてゐる。

カラー画像は昭和21年(1946)、光太郎が描いたスケッチ、モノクロ画像はそれを元に描かれ翌年の雑誌『婦人公論』第31巻第6号に詩「山菜ミヅ」と共に載ったものです。下の方は鶴首南瓜です。

さて、富山光太郎ランチ、花巻こうたろうカフェ、お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あなたの本を昨日うれしくおうけとりしました あれは雑誌に出たときも愛読したものです 世間でも認めてゐるやうですがあれは全く今の文学壇には珍らしいものです 事件でなしに生活が書かれて居ます あれをよむものは必ずあなたのこころのひゞきをうけとります そしてそのひゞきは人を脅かすものでなくて人をあたためるもの清めるものです 私は此をよみながらいくど微笑しいくど遠くを望み見たかしれません 私のやうに悪の分子の多いものにとつて斯ういふものは実に貴いものに思はれます 実際此をよんであなたを敬愛せずに居られる人が此世にあるだらうかと思はれます あなたに対する私の愛をどうか心からうけとつて下さい


大正9年(1920)3月30日 室生犀星宛書簡より 光太郎38歳

あなたの本」はこの月、新潮社から刊行された犀星の小説『結婚者の手記 あるひは「宇宙の一部」』。何だかほめ殺しに近いような手放しの賛辞ですね。

犀星と光太郎の関係は、なかなかに複雑です。犀星、昭和4年(1929)には光太郎をして「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。」(『天馬の脚』)と書いていたのに、光太郎歿後には「高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。」(『我が愛する詩人の伝記』)。

残された書簡によれば、互いの母親が亡くなった際にはそれぞれ衷心からのお悔やみ、励ましなど交わしていたようなのですが……。

大正元年(1912)夏、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼のある千葉県銚子市。

昨年から市のサイト上で「銚子市デジタルアーカイブ」の運用が始まっています。

銚子市デジタルアーカイブについて

化石、土器、民俗資料など銚子の文化財や標本をネット上で公開する「銚子市デジタルアーカイブ」の運用を4月1日から開始しました。博物館がない、展示スペースや学芸員が足りないなどの理由からなかなか公開できなかった貴重な資料が、いつでもだれでも閲覧できるようになります。

銚子ジオパークミュージアムの目玉資料でもある「千葉県指定天然記念物犬吠埼産出のアンモナイト」。デジタルアーカイブでは、自分でカーソルを操作して360度見ることができます。

開始日時  令和4年4月1日(金曜日)
公開資料数 約1万点

デジタルアーカイブはこちらから
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違っていたらごめんなさい、ですが、その後、閲覧できるデータを増やしているようで、先頃、ネット全体をキーワード「高村光太郎」で新着情報の調査中に、このアーカイブに辿り着きました。

調べてみて仰天しました。銚子出身の詩人で、光太郎と交流の深かった宮崎丈二関連の資料がごっそり(なんと1,239件)市に寄贈されていたためです。

大半は宮崎が手元に残した原稿(コピー機のなかった時代、出版社等に送るのと別に自分で手控え用に残したのでしょう。光太郎も同じように詩稿を遺しています)、それから画家としても名を成した宮崎ですので、絵画でした。それ以外に、光太郎を含むビッグネームからの来翰も。

ただ、光太郎からのものは、担当者の方が題名を誤っていまして、「高村光太郎が宮崎丈二に宛てた書簡」とすべきところを逆に「宮崎丈二が高村光太郎に宛た書簡」としてしまっています。ついでに言うなら「宛てた」が「宛た」。まぁ、あまりに膨大な点数なのでデータ入力も半端ないでしょうから、いたしかたありますまい。
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光太郎書簡は3通。封書は封筒と便箋を別にカウントしています。全て『高村光太郎全集』に既収で、以前には同市にあった青少年文化会館というホールのロビーに設けられていた郷土の偉人コーナー的なスペースに展示されていて、現物を拝見したこともあるものでした。

それから、宮崎が光太郎について書いた様々な原稿など。光太郎の原稿(「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」 雑誌『河』第6年第59号 昭和7年掲載)というのもありますが、これも宮崎が手元に残した手控えらしく、光太郎の筆跡ではありませんでした。
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これ以外にも、題名に「光太郎」と入っていませんが、やはり宮崎の光太郎に触れた詩文原稿が複数ありました。

光太郎以外のビッグネームからの宮崎宛来翰、送り主は、室生犀星、梅原龍三郎、武者小路実篤、木村荘八、岸田劉生、長与義郎、佐藤惣之助ら錚々たる面々。さらにはパリから高田博厚。これには驚きました。

また、宮崎関連資料でないところでは、光太郎智恵子が大正元年(1912)に宿泊した暁鶏館犬吠埼灯台等の古写真、「まちなかの文化遺産」ということで「犬吠の太郎」こと阿部清助の墓の画像なども見られます。

この手のデジタルアーカイブ、国立国会図書館さんをはじめ、図書館さん等で手持ちの貴重資料等のそれを公開している例は少なくないようですが(台東区立図書館さんなど)、市町村としてやられている例は珍しいのではないでしょうか。今後、こういった取り組みがさらに広がってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

長らくの間ちゑさんをおねがひいたし お蔭さまにて大層健康を取り返し 此度帰京の運びと相成候事まことにうれしき事とよろこび居申候 御たんせいの段ありがたく存上候 ちゑさんより皆々様目下無事の事承りよろこび候 小生つねづね御無沙汰のみいたし居り申訳無之 せめてこの五月にはちゑ子ともども参上いたし度き事に存居候 ちゑさんもなほ当分は静かに生活いたして再び健康をそこねぬやうにと用心いたし居候間 此段御安心被下度候


大正9年(1920)3月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

前年に湿性肋膜炎(おそらく結核性)を発症した智恵子は東京で入院後、8月頃郷里二本松に帰り、この年3月まで実家の長沼家に滞在していました。そこで長々と智恵子を預かってもらった礼状です。

五月にはちゑ子ともども参上」は智恵子の父・今朝吉の三回忌法要にあわせて実現し、この際の体験が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で謳われることになります。

一昨日のSBS静岡放送さんローカルニュースから。

梅酒づくりのシーズン到来。気をつけないと酒税法違反の可能性も

 もうすぐ梅の実の収穫シーズンです。肉厚で種が小さい品種「八房梅(やつふさうめ)」の栽培が盛んな静岡県島田市伊太地区の梅の畑では収穫を間近に控えた実がたわわに実っています。
 梅の生産から加工販売までを手掛ける「梅工房おおいし」の大石富佐子さんは「天候にも恵まれて、生育は順調。4トン程度の収穫を見込みたい」と話しています。
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 またスーパーやホームセンターには、梅酒づくりに使うビンや氷砂糖などが並び始めました。7月の季語でもある梅酒。アルコールの血行促進効果とクエン酸成分などが日々の疲れを取ってくれることから、日本では古くから多くの家庭で梅酒づくりが行われています。
古くは「薬」として利用されていた梅
あれも、これも法律違反に?
 「友人・知人に好評の自慢の梅酒。美味しさの秘密はホワイトリカー(甲類焼酎)でなく、日本酒とみりんで漬け込む特別なレシピ。あまりに評判がいいので、小分けにしてビン代程度のお金をもらっておすそわけするようになりました」。一見、なんの問題もなさそうな「梅酒の風景」ですが、実はその全てが酒税法に違反しています。手軽に作ることができる梅酒ですが、作り方から飲み方まで、法律で厳しく定められているのです。

あくまで「個人で飲むのであれば」
 本来どのような形であれアルコール度数1度以上の「お酒」を作るには酒税法に則って許可を取り、酒税を納めることが義務付けられています。しかし、梅酒づくりは1697(元禄10)年の『本朝食鑑』にも記されているほど日本人の生活に根を下ろした風習です。酒税法も「自分と家族が飲むのであれば」という条件付きで梅酒作りを例外としています。ですから友人・知人に評判になるほど広く振る舞うのはNGです。以前、関西のテレビ番組内で作った梅酒をゲストに振る舞う場面を放送してしまい、その局は後日謝罪放送をしました。

アルコール度数は20度以上が条件
 日本酒やみりんはホワイトリカーより旨味を多く含みます。しかし、法律では梅酒に使用する酒類はアルコール分20%であることと定めています。アルコール度数が低いと混入した野生酵母により発酵が進み、使ったお酒の本来のアルコール度数を上げてしまいますが、これも禁止行為。法律では酵母が働かなくなる20度以上のアルコールを使うように指示しています。毎日の料理を紹介する長寿テレビ番組ではみりんで作る梅酒を紹介し、後日内容を修正して放送したこともあるようです。
梅酒用の酒はどれも35度以上です
自家製梅酒の販売は厳禁
 もちろん無許可の販売は禁止されています。戦後の混乱期は各地で「カストリ」「どぶろく」など無許可の酒が横行し、当時の新聞にも税務署による大掛かりな取締の様子が記録されています。一方で家庭での梅酒づくりは続けられていたのでこの矛盾を解消するため1962年の酒税法改正で「家庭内での消費に限って梅酒づくりは合法」となりました。
 旅先の旅館の食前酒として手作りの梅酒が出されることがありますが、これは税務署への届け出をして①旅館内で作り、消費する、②量の上限を守る③土産として販売しない、といった条件の下、認められているそうです。

注文で作り、その場で飲めばOK
 それでは、バーなどで、複数の酒を混ぜて作るカクテルは「酒造り」に該当しないのでしょうか。法律では「酒類に水以外の物品を混和した場合において混和後のものが酒類であるときは、新たな酒類を製造したものとみなす(酒税法第43条)」としています。例えば「スクリュー・ドライバー」を作るためにウォッカにオレンジジュースを混ぜると酒類の製造とみなされ、取得に厳しい要件が義務付けられている酒類製造免許が必要になってしまいます。
しかしバーは免許を持たずカクテルを提供しています。これを可能にしているのが、「酒税法43条10項」です。この規定は「お客が飲む直前に混ぜるならいいです」としているため、店で客の注文を受けてから混ぜて、その場で飲ませることは酒類製造にあたりません。
 しかし、作り置きには問題があります。自家製の梅酒などアルコール20%以上の酒に酒以外のものを混ぜて漬け込み、客の注文に合わせて提供したい場合、事前に税務署への申告が必要です。また、アルコール度数20度以下のワインや日本酒に何かを漬け込んで作り置いた酒は、製造免許なしには提供できません。事前に果物をワインに漬けて用意しておくサングリアなどは「作り置き」「アルコール度数20度以下」なので、厳密に言えば法律に違反している、といえそうです。
注文を受けてから作り、その場で消費するのが条件です
梅酒は自分の楽しみのために
 「厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さをわたしはしづかにしづかに味はふ」。詩集『智恵子抄』の中で、高村光太郎は先立ってしまった最愛の妻、智恵子が残していった梅酒を愛おしそうに口にします。自分と、ごく親しい人に見守られて熟成を重ねるのが梅酒です。飲み頃を迎える半年後を心待ちに、ルールを守ってお気に入りの一ビンを仕込んでみませんか。
漬けてから半年すると飲み頃になります
最後に光太郎詩「梅酒」を取り上げて下さいました。
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    梅酒
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

光太郎手控えの詩稿によれば、昭和15年(1940)3月31日の執筆。智恵子が亡くなっておよそ1年半、という時期です。

社会との関わりを極力避け、智恵子と二人で芸術精進の日々を送ろうとしていたかつての生活態度が智恵子を追い詰めたという反省、そうした生活を続けていては自分も精神の危機に見舞われるかも、というおそれもあったのでしょう。この時期の光太郎は180度方向性を変え、自ら積極的に世の中と関わろうとします。

しかし、光太郎にとっての悲劇は、その社会の方がおかしな方向に進んでいたこと。智恵子が亡くなる前年の昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化、その膠着状態を打開しようと、翌昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入することになります。

元々の『道程』時代からの一種の精神主義、かつて留学中のアメリカで受けた人種差別への苦い記憶、さらに遡れば幼い頃に祖父・兼松や父・光雲から叩き込まれた忠孝の精神などが頭をもたげ、大量の翼賛詩文を書き殴るようになってしまいました。世間もそうした光太郎を歓迎し、光太郎は一躍、時代の寵児となっていくわけです。

それでも亡き智恵子を偲ぶとき、そうした時代の寵児的な部分は影を潜めると、「梅酒」では謳われています。曰く「狂瀾怒濤の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」。

ところが、「あはれな一個の生命を正視する」こと自体が減っていきます。智恵子に関する詩は、翌年、おそらく『智恵子抄』出版に際して書きおろされたと推定される「荒涼たる帰宅」を最後に、戦後まで作られることはありませんでした。

昭和20年(1945)4月13日、智恵子と過ごした思い出深い本郷区駒込林町の住居兼アトリエは空襲により灰燼に帰しました。智恵子の遺した梅酒は、それまでに飲みきっていたのかどうか。もしまだ残っていたとしても、戦火に失われたことでしょう。一ヶ月後、宮沢賢治の父・政次郎らの勧めで、光太郎は花巻町の宮沢家に疎開します。その宮沢家も終戦5日前の空襲で全焼。ある意味、地獄ですね。

そして戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に移った光太郎は、7年間を送ることになります。当初は山中に芸術村を作る、的な無邪気ともいえる夢想を抱いていましたが、雪に閉ざされた日々は深い自省を迫り、光太郎は自らの山小屋生活を「自己流謫」(自分で自分を島流しにする)と位置づけました。高祖保松木喜之七ら、かつて交流の深かった人々の戦死の報なども影響したでしょう。

その太田村生活末期の昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が録音されました。さらに自作詩の朗読も。その中に「梅酒」のそれも含まれていました。作品の選択は局の意向だったのか、光太郎の自選なのか、そのあたりは不明ですが、この時点で「梅酒」を朗読した光太郎の胸中は、いかばかりだったでしょうか。

NHKさんにはその際の音源が残されており、平成8年(1996)以後、二度ほどCD化もされました。ただ、もう流通していないようで、覆刻が待たれます。

【折々のことば・光太郎】

今日では百円以下ではとてもおわかちできないものです。 原型をお見せしませう。こんな風なものですが 高さは一尺弱で奥行五寸ほどのものです。出来るだけ近い鋳金の機会を以て完成してお送りしますが 今年中にといふ事にはお約束出来ないのを残念に存じます。 新年のあなたの机上に飾れたら私もうれしかった思ひますが むつかしいやうに思ひます。

大正8年(1919)12月11日 野田守雄宛書簡より 光太郎37歳

野田は滋賀県の銀行家。大正6年(1917)に入会者を募った「高村光太郎彫刻会」を通じて光太郎に彫刻を注文しましたが、ようやくその完成のめどが立ったという内容です。

送られた彫刻はブロンズの「裸婦坐像」。この書簡には粗いスケッチが描かれていました。
Rafuzazou

テレビ放映情報、2件です。

じゅん散歩 「千駄木」

地上波テレビ朝日 2023年5月30日(火) 09:55~10:25

「一歩歩けば、そこにひとつの出会いが生まれる…」
三代目散歩人・高田純次が“一歩一会(いっぽいちえ)”をテーマに自由気ままに街を歩きます!

三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽指人形でけん玉!?職人が手がける圧巻人形劇▽写真映え!ドライフラワーカフェの花パフェ▽文人ゆかりの街の老舗せんべい店

【出演】高田純次  【通販コーナー】新山千春、愛華みれ

◇音楽
◆テーマ曲:斉藤和義 『純風』  ◆エンディング曲:アルステイク 『わんちゃん』
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「千駄木」ということで、光太郎自宅兼アトリエのあった、旧本郷区駒込林町です。光太郎自宅兼アトリエのあった保健所通りも歩かれ、光太郎自宅兼アトリエ跡も紹介されるようです。というのも、1ヶ月以上前ですが、廻り巡ってテレ朝さんだか制作会社さんだかから、光太郎自宅兼アトリエの古写真画像を使いたいが、どうすれば……という問い合わせがありまして……。

こういう場合に使える写真を所蔵していらっしゃる、尾崎喜八関係の方をご紹介したのですが、その後、連絡が取れたのかどうか等は不明ですが。

また、番組説明にある「文人ゆかりの街の老舗せんべい店」は、団子坂下の菊見せんべいさんですね。光太郎、実家の駒込林町155番地から東京美術学校に通学していた頃の思い出として、「私の青銅時代」(昭和29年=1954)という散文で、菊見せんべいさんについて記述しています。

 塩せんべい屋は店先でせんべいを押し、刷毛で醤油を付けながら焼く。そこの娘がちゃんとしたきりっとした娘で、子供の時から店に出ていて私も知っていたが、美術学校に行く途中でその煎餅屋の前に来ると、私は顔が赤くなる。それが自分で分かる。何故か分からぬがそうなる。はじめは気がつかなかったけれど、毎日毎日そうなるので何だか恥ずかしくなってきた。店の処まで歩いてくると胸がどきどきして顔がほてって困った。しまいにはどうしてもその通りが通れなくなった。だから根津の方を遠回りして学校に行ったけれども、後で考えると、その娘に思し召しがあって、娘の顔を見ると顔がほてったのだと知った。むこうでも真っ赤になっていた。あれがむかしの純情な子供の気持ちなんだろう。

「思し召しがあって」というのは、「何か気になるところがあって」といった意味でしょう。何とも微笑ましい、光太郎初恋の思い出です。問題の娘さんは、先代の奥様のいとこだったそうで、たまたま偶然なのですが「智恵子」という名前だったそうです。

「菊見」は、かつて団子坂で菊人形が催されていたことに由来するのでしょう。下は当方手持ちの古写真です。
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夏目漱石の「三四郎」などにも描かれています。そのあたりも紹介されるのかどうか、というところですね。

ちなみにこの番組、5月22日(月)と23日(火)の2回にわたり、渡辺えりさんがゲスト出演なさり、高田さんとご一緒に池袋を歩かれていまして、23日放映分では、えりさん、光太郎の名も出して下さいました。ありがとうございました。
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編集の関係か、今一つ脈絡が分かりにくかったと思うのですが、えりさんが高校を卒業されて上京なさった際、お母さまが買って下さった強力な目覚まし時計を、光太郎と交流のあったお父さまが、昭和61年(1986)4月2日、パリのカフェで開かれた第30回連翹忌の集いにご参加の際、フランスまで持って行かれた、というお話です。

「じゅん散歩」、明日以降のラインナップは以下の通り。

5月29日(月) 三代目散歩人・高田純次が「田端」を散策▽4年ぶりの再会…パン職人が絵本作家に▽山手線&新幹線が一望できる絶景鉄道カフェ▽形も音も様々!自転車ベルの世界

5月30日(火) 三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽指人形でけん玉!?職人が手がける圧巻人形劇▽写真映え!ドライフラワーカフェの花パフェ▽文人ゆかりの街の老舗せんべい店

5月31日(水) 三代目散歩人・高田純次が「駒込」を散策▽北島康介や寺川綾が学んだ名門スイミングセンター▽マスターズ日本記録を10個もつ女性スイマー▽生徒も作る!製菓学校のケーキ店

6月1日(木) 三代目散歩人・高田純次が「駒込」を散策▽看板ネコが鎮座!呉服店のアイデア小物入れ▽蒸して焼いて揚げて…変わり種シュウマイ▽中国にも無い「水シュウマイ」とは?

6月2日(金) 三代目散歩人・高田純次が「西日暮里」を散策▽紅茶専門店で味わう世界三大銘茶▽アートな壁画が目印!街の名物酒店▽線路沿いで発見!壁を登る人々


高田さん、千駄木とその周辺を歩き回られるようです。

もう1件。

新美の巨人たち レトロ建築in日比谷公園×杏子(バービーボーイズ)

地上波テレビ東京 2023年6月3日(土) 22:00~22:30

東京・千代田区「日比谷公園」は、今年で120周年。園内にはレトロな建物たちが感動的な美しさを今に伝えている。音楽の聖地「野音」も今年で100年、そんなレトロの美こそ「100年浪漫」。

日本初の近代西洋風公園には、各時代の建造物(「市政会館・日比谷公会堂」「日比谷松本楼」「日比谷図書文化館」「日比谷公園大音楽堂」など)が建ち並んでいます。威厳に満ちた「時計塔」、「日本のカーネギーホール」と呼ばれた音楽の殿堂…さらに「野音」のたくましき存在感。そんな「100年浪漫」の美の世界へ。

出演者 アートトラベラー:杏子(バービーボーイズ)  ナレーション:渡辺いっけい

音楽 【オープニング&エンディングテーマ】 作曲・編曲 亀田誠治
   オープニング曲「カミーユ」 エンディング曲「雨のカフェテラス」
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かつて光太郎智恵子が「氷菓」を食し、また光太郎も中心メンバーの一人だった芸術至上主義運動「パンの会」会場としても使われ、そして現代、光太郎偲ぶ連翹忌の集い会場とさせていただいてる日比谷松本楼さんも取り上げられます。
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現在の松本楼さんの建物自体は新しいものですが、かつての姿など、古写真等で紹介されるのでしょう。また、日比谷公会堂も光太郎所縁の建物。戦後には各種コンサートに何度も足を運びましたし、戦時中には光太郎が詩部会長を務めた日本文学報国会の発会式も行われました。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先週十四日は誕生日だつたので 心ばかりの野の花を写真に供へて其日を祝福しました。

大正8年(1919)11月17日 一志茂樹宛書簡より 光太郎37歳

「誕生日」はロダンの誕生日です。ただ、正確にはロダンの誕生日は11月12日、14日は洗礼の日です。ロダンは前年に没し、光太郎は翌年には叢文閣から『続ロダンの言葉』を上梓、そういった時期ですので、感慨一入だったようです。

今月1日、詩人の平田好輝氏が亡くなったそうで、奥様から訃報のお葉書を戴きました。おん年87歳であらせられたそうです。ご葬儀は3日、近親の方々で済まされたとのこと。
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氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌の集いにも昭和50年代から平成の初めまで、8回ご参加いただいていました。

『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』、智恵子との関係性に軸を置いた光太郎評伝で、当方、大学の卒論執筆時にはかなり参考にさせていただきました。

同書の「あとがき」。

 昭和三十一年四月一日のことである。時ならぬ雪が、激しく降りだした。万愚節のことでもあり、まるで嘘のように思われたが、雪は激しく降り積んだ。
 そのころ、わたしは二十歳で、国文科の学生であり、なによりも詩を書くことに夢中になっていた。第一詩集に収めた作品のうちのいくつかを、このころに書いていた。
 まるで嘘のように降る激しい雪を見ながら、一体、何事が起こったのだろうと思った。わたしが生れた二日後に突如として首都を震撼させた二・二六事件の話は、成長するにつれて、折にふれ聞かされ、二・二六を思うと必ず雪のイメージがひろがったが、その二・二六を思わせるような、何か只事ならざるものに、その雪は思われた。
 激しい雪は四月一日から二日の早朝にかけて降り、東京一帯を真白の雪景色に包んだ。わたしの家の近所には、ゆるやかなスロープがあり、そこに俄かにスキーヤーたちが群がり、若い女や男のほかに、白髪まじりの人まで加わって、真面目にスキーを楽しみ始めたのであった。
 一体、何がどうなったのだろう。桜が満開の筈の時に、首都圏の中でスキーが始まっているとは。
 何か余程の異変があったものと思われた。思いついて、ラジオのスイッチをひねってみた。
 すると不意に、高村光太郎の死が、伝わってきたのだ。三月の中旬頃から、光太郎の容態がよくないことは、かすかに聞き知っていた。しかし、ラジオを通して、光太郎の死を知ったときに、じつに不意打の感じと、『ああ、やっぱりそうだったのか』という感じとが、同時に襲ってきた。光太郎が雪を降らせていたのだ。なァんだ、光太郎のせいだったんだ、と思い、むしろ心の奥深いところで哄笑したいような気持があった。窓から見えるスロープで、スキーを楽しんでいる大人たち、きみたちはなぜ今ごろ、そこでスキー靴を履いて滑っているのか、分っているか。これはみんな、光太郎が降らせた雪なんだよ。わたしは飛び出して行って、大声でふれてまわりたい気持だった。
 昭和三十一年、四月二日未明、高村光太郎、ついに逝く。雪激しく降り、真白に積る。光太郎、七十四歳。
 岩手の山小屋に一人で暮らしていたときには、小屋の中に雪が吹きこみ、光太郎は手帚を持って寝ていたという。ときどき気がついたときに、顔のまわりの雪を掃いてから、また眠るのである。六十代の高齢でありながら、なおも光太郎は山小屋に一人で住み、零下二十度にもなる所で、凜冽の冬を愛しながら暮らしていたのである。そんなにまで、冬や雪を愛し、冬や雪のことを歌った詩人は、ほかにない。
 その光太郎が東京で亡くなるにあたって、東京一帯が時ならぬ雪に見舞われたのは、光太郎にとっての当然であり、それこそ「自然」であった。雪激しく降り、光太郎はその雪に包まれながら死んだ。不思議であるけれども、不思議ではない。詩に夢中になっていた二十歳のわたしにとって、高村光太郎の死にざまは、なにかわたしの奥底を揺るがし、鼓舞してくれているような気がした。「天然の素中」という彼の言葉が、不意に分ったような気がした。わたしが一度も会いに行けないうちに、光太郎は、「天然の素中」に帰って行ってしまったのだ。どうすることもできない。いくら会いたいと思っても、もう会うことはできない。だが、それにも拘らず、わたしには、その四月二日が、正直いって、非常にうれしかった。激しく雪を降らせ、そして彼は死んでいったのである。何も知らないでスキーを持ち出して無心に滑っている大人たちの光景が、わたしの窓から見え、そんな人々に対しても、なにかほのぼのと心の底から親しみを感じたのである。
 いつか必ず、光太郎智恵子のことを書かねばならないと、そのとき思った。その後の十数年に、断片的には書いてきたが、自分の創作にかまけて、一冊に書きおろしてみたい気持を、気持だけのままおしやりながら、年月を過ごしてきた。
 ただ、光太郎智恵子のさまざまなイメージは、この年月の間にも繰り返しあたためてきたつもりである。
 そして、はからずも今度、東宣出版の慫慂を得て、この一本をまとめることが出来た。とくに、田辺辰俊氏と星野正三氏の励ましに深くお礼を申し上げたい。


蓋し、名文ですね。ついつい全文を引いてしまいました。

平田氏、詩人としても現役を続けられていました。当方がいろいろお世話になっている詩人の宮尾壽里子氏が送ってくださる文芸同人誌『青い花』(第四次)の同人であらせられ、枯淡の妙ともいえるような詩を発表なさっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夜見えた相ですね。僕はとうと例の風邪にかかつたやうです。医者に見てもらつてねてゐます。夜は四十度以上になるやうです。食事がいけないのでつかれました。しかし気持は元気でゐます。 智恵子は亡父の一周忌で今国へ帰つてゐます。 此手紙はすぐすてて下さい。うつるといけないから


大正8年(1919)5月4日 田村松魚宛書簡より 光太郎37歳

「例の風邪」はこの年猛威をふるったスペイン風邪。しかし、実はそうではなく腸チフスだったことがのちにわかり、入院します。「とうと」は「とうとう」の誤記ですね。

昨日の『奄美新聞』さん記事から。

「日本復帰学習会」スタート 語り部招き、町内全小開催へ

【徳之島】奄美群島日本復帰70周年にちなんだ伊仙町教育委員会の「奄美群島日本復帰学習会」が23日、伊仙小学校(佐々木久志校長)の5、6年生65人を皮切りに始まった。戦前戦中生まれの語り部2氏を派遣。児童たちは、同校(当時国民学校)の元教頭で校歌作詞者でもある「奄美日本復帰の父」泉芳朗氏=同町面縄出身=の人柄や功績、祖国分離下の厳しい生活などの体験談に触れた。
 復帰70周年を記念して1時限(45分間)ずつ設定した。群島民20万人余の署名活動や断食祈願による無血民族運動など、諸先輩らの思いを次世代につなぐ持続可能な社会とまちづくり、さらに、郷土教育の充実による「郷土に誇り、愛する豊かな心の育成」が目的。各校区の語り部を中心に、町立全小学校(8校)に派遣開催する。
 伊仙小での語り部には、卒業生で同校にも通算10年間勤務した元教職員で現在、町文化財保護審議会会長の義岡明雄さん(85)=伊仙=と、同じく元教職員で現在塾講師の福清千美子さん(78)=面縄=の2人が協力。
 義岡さんは、太平洋戦争末期(小学生当時)に沖縄戦での米軍艦砲射撃の爆発音や空振も感じた恐怖、若者ら特攻隊の出撃の背景、終戦・祖国分離下でサツマイモを主食としたつらい体験談の数々も語った。
 大先輩(伊仙尋常小高等科卒)でもある泉氏については、東京で高村光太郎らと詩人として活躍中に体調を崩し失意の中に帰郷し、母校伊仙小の代用教員に就いた1年後、秀逸ぶりから教頭に抜てきされたことや、神之嶺小校長、県視学を経て奄美群島日本復帰協議会議長として先頭に立った断食祈願(5日間)の敢行なども分かりやすく解説。
 その上で、児童たちには「芳朗先生は貧しい中で一生懸命に勉強をした。芳朗先生のように人に優しく平和を愛する人になってほしい」ともアピールした。
 福清さんも終戦・祖国分離下だった幼少期の思い出などを自作の絵巻物で紹介しつつ、「ロシアとウクライナの戦争が続いているが、奄美群島の日本復帰運動では血を流した人は1人もいない。人に優しく、自分の考えをしっかりと伝え実行する人に」と呼び掛けた。
 児童の宝永友樹愛さん(6年生)は「自分たちが〝日本人〟に戻れたのは泉芳朗先生のおかげと思った。今の自分たちは恵まれていることも分かった。偉大な先人に学び、人に感謝して人を愛し、優しくすることを心掛けたい」と話した。
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奄美群島の日本本土復帰は昭和28年(1953)12月25日。今年はちょうど70周年だそうで、「奄美群島日本復帰70周年記念式典及び記念祝賀会」なども計画されているようです。それに先立ち、徳之島の大島郡伊仙町の小学校で歴史的背景を学ぶ取り組みが為されたとのこと。同町出身で、初代名瀬市長も務め、本土復帰に骨折った泉芳朗の事績なども取り上げられたそうです。

泉については、このブログで昨年にも取り上げましたが、その時点では、当方、泉と光太郎の関わりをあまり存じませんでした。筑摩書房『高村光太郎全集』には、泉の名は一度しか出てこないためで、それも昭和27年12月14日の光太郎日記に「田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長」とあるだけだったためです。「俺美」は「奄美」の誤記です。

ところが、よくよく調べてみると、かなり深い関わりがあったことが分かりまして、汗顔の至りでした。

002きっかけは、過日、千葉県立東部図書館さんに行った折、たまたま眼にした『新装版 泉芳朗詩集』(平成25年=2013 紀伊國屋書店)。ぱらぱらめくってみると、見なれた光太郎の筆跡が眼に飛び込んできました。泉が主宰していた雑誌『自由』の表紙画像です。右は同誌の昭和29年(1954)新年号。春秋社さんから刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)から採りました。

この題字が光太郎の筆になるものであることは存じていましたが、この雑誌が泉の主宰だったことは存じませんでした。『高村光太郎 造型』の解題を見ますと、ちゃんと泉の名が記され、先の日記にあった昭和27年(1952)12月14日の訪問が、この題字揮毫に関わるであろうということも記述されていました。


そこでいろいろ調べたところ、遡って昭和13年(1938)には光太郎も出席した座談会で、泉が司会を務めていたことも見落としていたのにも気付きました。

雑誌『詩生活』(これも泉の主宰でした)の第6巻第1号に掲載された「詩と文学・戦時座談会」という長い座談会で、会場は都内大塚の山海楼、光太郎、泉以外の出席者は昇曙夢(泉と同郷のロシア文学者)、川路柳虹、宇野浩二でした。昭和47年(1972)、文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第三集に全文が掲載されています(筑摩書房『高村光太郎全集』は、これに限らず座談会は総て割愛)。

前年には日中戦争も始まっており、かなり時局に即した内容です。途中途中につけられた小見出しをいくつか拾うと、以下の通り。「事変が生んだ作品について」「戦争文学のありかたについて」「戦争文学のカテゴリー」「体験と戦争文学」「素材を如何に取り上げるか」「外国の戦争文学・詩」「火野葦平と「兵隊」物」「国民文学と世界文学」「事変と日本文学の新動向」「文学の世界的交流」「若き世代の人々に望むもの」……。

言い訳をさせていただけるなら(言い訳していいわけないだろ、とか突っ込まないで下さい(笑))、泉、戦前には本名の「泉芳朗」ではなく、「泉与史朗」と名乗っていた時期もあり、この座談の際のクレジットも「泉与史朗」でした。

泉と親しかった詩人の田村昌由(『詩生活』の編集に携わっていて、おそらく座談の筆録に当たったと思われます)が、のちにこの座談会について語っています。出典は日本詩人クラブ発行の『詩界』121号(昭和48年=1973)。明らかな誤字は正して引用します。

 この座談会は、実は高村先生のあとあとによからぬ結果をもたらすきっかけをつくった、と私はずうっと思っているのですが。といいますのは先生は当時、智恵子夫人の病中であることと、もうひとつはあたまをもちあげてきた戦争亡霊がいやで、どこの座談会へも出られなかった。みんなことわっておられたのです。ところが「詩生活」の座談会へ出られた。雑誌が出ると早速「中央公論」から「かねがねお願いしてあったわけですが……どうかこんどは……」といった具合で、せめたてられて、ことわりきれず、こまってしまった、とあとで先生からおききしました。先生の戦時社会詩文学活動〈このんでされたのではない、私たちは先生の応接間にうかがっているとき、たずねてきた人の注文をことわられるのに何度かぶつかった〉はこの座談会がきっかけで十四年の春頃から、だんだんとのめりこんでいくのです。
(略)
 十月十八日が座談会ですが、智恵子夫人がなくなられたのは十月五日です。雑誌には口絵写真がのっていて若い私たちはうしろの方にかしこまっていますが、私は、夫人がなくなられてまもないのに座談会へ出られた、そのことをいまでも申訳なく思っています。


なるほど、この後、同様の座談会に光太郎が引っぱり出されることが多くなります。翌昭和14年(1939)には雑誌『知性』で「芸術と生活を語る」と題し、岸田国士、豊島与志雄と。この際がおそらく岸田と初対面でしたが、岸田は翌昭和15年(1940)、大政翼賛会が発足すると文化部長に就任し、光太郎を翼賛会の中央協力会議議員に強く推薦し、光太郎もそれを引き受けます。

まぁ、それ以前から翼賛詩的なものを書いていた光太郎ですが、この座談を契機に戦争協力へとなだれ込むことになったと言っても過言ではありませんね。その際の司会をしていたのが泉であった、というわけです。

また、「泉与史朗」名義で調べてみると、昭和16年(1941)刊行の海野秋芳の詩集『北の村落』には、光太郎と泉、両名の「序」が並べられていたり、同年の『現代日本年刊詩集 昭和十六年版』にも光太郎と泉の翼賛詩が共に掲載されていたりしました。そして戦後の『自由』。泉と光太郎の結びつき、かなり深かったわけですね。

そうこうしているところに、昨日の『奄美新聞』さんの記事。驚きました。

戦後、光太郎は戦争協力を恥じて花巻郊外旧太田村のボロ屋に7年間の蟄居生活を送り、泉は郷里・奄美群島の本土復帰に尽力。立場や事績は異なれど、共通する魂があったのではないかと思われます。

以前も書きましたが、奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

とにかく書いたから約束のやうに送ります 背の文字は少し書きいぢけたから 別にかいた方のを入れていたゞきたい 裏は画も考へたけれどそれよりはとおもつてシイルを考案した 扉其他の字のまづいのは素より君が覚悟の上だから為方がない 今いそぐ為め用事のみ


大正8年(1919)4月27日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎37歳

内藤は光太郎第一詩集『道程』版元の抒情詩社社主。内容的に書籍の装幀にかかわるものと推測されますが、この時期に該当する光太郎装幀の書籍が見あたりません。ボツになったのか、当該書籍の出版が頓挫したのか、それとも未だ知られざるこの時期の光太郎装幀の書籍が存在するのか……。謎です。

兵庫県から演奏会の案内です。

初夏にうたう ~日本歌曲の夕べ~

期 日 : 2023年6月3日(土)
会 場 : 兵庫県立芸術文化センター 兵庫県西宮市高松町2-22
時 間 : 14:00~
料 金 : 全席自由 2,500円

出演(50音順)・主な曲目
 歌唱
  新井俊稀  あどけない話(野村朗「智恵子抄」より)
  石津雅恵  思い出すために(信長貴富)
  門林裕佳子 しあわせよカタツムリにのって(信長貴富)
  喜多美幸  はっか草(千原英喜)
  鈴木萌   六月の歌(前田佳世子)
  辰田由紀子 はなやぐ朝(中田喜直)
  長太優子  赤いかんざし(貴志康一)
  速海ちひろ すずらんの祭(高田三郎)
  藤井友子  サルビア(中田喜直)
  藤島一子  夢みたものは……(木下牧子)
  松浦優   花の春告鳥(小林秀雄)
  吉村ひろ子 澄月集(山田耕筰)
 ピアノ 
  石田瑞枝 前川裕介

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名古屋ご在住の野村朗氏が作曲された「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」から、第2曲「あどけない話」がプログラムに入っています。

歌唱担当は新井俊稀氏。平成29年(2017)には「連作歌曲「智恵子抄」~その愛と死と~」全曲を含むCD「日本の抒情歌 赤い花 白い花」をリリースされていますし、同じ年にドイツのハイデルベルグで同曲のコンサート「liederabend mit schauspiel 智恵子抄 Für CHIEKO」もなさった方です。他に都内でも

その他、個人的には自分が以前に合唱で歌ったことのある信長貴富氏作曲「思い出すために」(寺山修司作詞)、木下牧子氏作曲「夢みたものは……」(立原道造作詞)が入っていて、「独唱版もあるんだ」という感じでした。もっとも、独唱版が先で後から合唱に編曲されたのかも知れません。そのあたりは詳しくありませんで……。

閑話休題、お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日新聞で広岡浅子刀自のなくなられた事を知り非常に感動を受けました 先達て頂戴した一週一信をよんで はじめて刀自の真生活を知つたばかりの時 此の訃音に接して残り惜しい心に堪へません


大正8年(1919)1月16日 小橋三四子宛書簡より 光太郎37歳

広岡浅子は、智恵子の母校・日本女子大学校の設立にも協力した女性実業家。平成27年(2015)に放映された朝ドラ「あさが来た」(今週月曜までBSトゥエルビさんで再放送が為されていました)の主人公のモデルですね。

智恵子と浅子は面識がありました。智恵子卒業後の明治43年(1910)、同窓会である桜楓会総会中の分科会・社会部大会で智恵子が自らの絵画修行について発表し、その智恵子の発表の前に浅子が講話をしていました。
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また、遡って明治40年(1907)の智恵子卒業時の集合写真には、浅子も写っています。
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「一週一信」は、大正7年(1918)に刊行された浅子の随筆集。日本女子大学校同窓会の仕事もしていた小橋の編集です。
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千葉県北東部、九十九里浜北端付近の旭市にある県立東部図書館さんでのミニ展示です。すでに先月から始まっているのですが、公式サイトに案内が出ましたのでこのタイミングでのご紹介です。

資料展示「高村光太郎 生誕140周年」

期 日 : 2023年4月23日(日)~6月30日(金)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 平日 午前9時から午後7時 土・日・祝休日 午前9時から午後5時
休 館 : 月曜日 第3金曜日
料 金 : 無料

 日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。 十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。
 東部図書館では、光太郎のあゆみや作品、妻・智恵子を初めとする周辺人物について知ることのできる資料を展示します。光太郎が翻訳・執筆した大正時代の出版物も並びます。この機会にぜひお手に取ってご覧ください。

展示資料リストは こちら(1MB)

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案内にある通り、千葉県には光太郎、そして智恵子の足跡も残っています。特に人生の節目節目にそれらを残しているというのも特徴です。

大正元年(1912)には、銚子犬吠埼で結婚前の二人が愛を誓い合いました。しかし、二人の共棲生活は智恵子の心の病で破綻、智恵子は昭和9年(1934)に九十九里浜で約半年の療養生活を送ります。また、成田三里塚には光太郎詩「春駒」詩碑。関東大震災の後に作られた詩で、この頃から光太郎詩は「猛獣篇」時代に入ります。

で、まだ公式発表になっていませんが、来月24日(土)、同館で開催されるそのあたりに関する市民講座の講師をすることになりまして、その関係もあってこの展示が為されています。

今月初めに、調べ物もありましたし、打ち合わせを兼ねて同館にお邪魔し、展示を拝見して参りました。その際に撮影した画像。
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同館のみならず他館からも借りうけたりし、なかなか賑やかな感じにレイアウトされていました。中には古い雑誌でちょっと珍しいもの、地元で少部数の自費出版が為されたものなども。さらにバックヤードにも入れていただき、「この本でも光太郎が大きく取り上げられていますよ」というのを何冊か推薦し、増えています。

当方の講座の方は、また詳細が発表されたらご紹介します。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスのおよろこびを私達からもお受け下さい。 あなたの清い心と同朋を思ふ熱い情とにますます祝福のある様にといのります。


大正7年(1908)12月24日 小橋三四子宛書簡より 光太郎36歳

光太郎、洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教の考え方に対する興味関心は少なからず持っていました。少し後にはイエスを題材とした詩「クリスマスの夜」(大正11年=1922)「触知」(昭和3年=1928)なども書いています。

この葉書は珍しい光太郎智恵子連名のものの一つです。そこで、「私達」です。
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一昨日は智恵子の故郷、福島二本松に聳え、「智恵子抄」にも謳われている安達太良山の山開きでした。報道をご紹介します。

まずFTV福島テレビさんのローカルニュース。

「いい思い出に」日本百名山・安達太良山で4年ぶり山開き 約4000人が登山を楽しむ

 日本百名山の一つの安達太良山は、毎年5月の第3日曜日に山開きをしている。山開きをした21日は、約4000人の登山客が訪れた。山頂では関係者が、山の事故が無いように今シーズンの安全を祈願した。
 通常どおりに山開きが開かれたのは4年ぶりで、登山客は山頂からの美しい眺望を楽しんでいた。登山客は「とても良い登山でした。孫たちも途中疲れたって言っていたんですけど、最後まで頂上まで登れて楽しかったみたいです。良い思い出になりました」と話した。
 福島県警察本部によると、2023年に入り県内では19件の山岳遭難が発生していて、入山する際には登山届の提出や十分な食料や水分などを備えるよう注意を呼びかけている。
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同じくTUFテレビユー福島さん。

安達太良山で4年ぶり山開き 観光大使なすびさんも参加

 本格的な夏山シーズンがやってきます。21日、福島県の安達太良山で山開きが行われ、大勢の登山客が山頂を目指しました。
  岳温泉観光協会・二瓶明子会長「多くの方々が安達太良山を目的に遠いところから来ているので、コロナの事は気にせずに思う存分安達太良山を楽しんでもらえるのかなと思う」
 今年は4年ぶりに通常の山開きとなった安達太良山。登山のスタートとなる「あだたら高原スキー場」のロープウェイ乗り場には、朝から多くの登山客が訪れました。
 21日の福島県内は晴れて登山日和となり、登山客は、残雪や安達太良山の自然を楽しみながらそれぞれのペースで山頂を目指していました。
 山頂では、先着順に山開きを記念したペナントが配られたほか、県内出身のタレントで、安達太良山の観光大使のなすびさんも登山に参加し、山頂を訪れた登山客と写真を撮るなどして交流しました。
 登山客「すごい天気も良くて気持ちよく登れた」
 登山客の子ども「(登るのが)辛いけど、高さがそんなに無かったからこれは楽だった」
 23日は尾瀬で、5月28日には磐梯山で山開きが行われることになっていて、福島県内はこれから本格的な夏山登山シーズンを迎えます。
 岳温泉観光協会・二瓶明子会長「安心安全に登れる山ではありますが、事故も時々起こるので、安全に次の目的地にたどり着くまで気を緩めることなく安達太良山を楽しんでもらいたい」
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続いて新聞系。まずは『福島民友』さん。

爽やかな薫風...4000人が山頂目指す 安達太良山で山開き

 福島県二本松市などにまたがる日本百名山の一つ、安達太良山(1700メートル)の山開きが21日、同山頂付近で行われ、約4000人の登山者が爽やかな薫風を受けながら山頂を目指した。山頂では安全祈願祭に加え、記念ペナントの配布や「ミズあだたらコンテスト」など山頂行事全てが4年ぶりに通常開催された。
 登山者は山頂に達すると「やったー」と叫び、壮大な眺めを写真に収めるなどした。東京都内から家族で訪れた根本結衣さん(10)は「岩登りが楽しかった。まだ疲れていない」と余裕の表情を浮かべた。親戚と登頂した田村市の会社員大河原循子さん(58)は「登山者同士であいさつして、気持ちよく登れた」と笑顔で話した。
 安全祈願祭には観光関係者や登山者に加え、安達太良山観光大使でタレントのなすびさん(福島市出身)も出席し、無事故を願った。
 ミズあだたらコンテストには49人が参加し、登山に適した格好かどうかを競った。2度目のミズに輝いた桑折町の公務員平野恵梨華さん(30)は「選ばれてびっくり」と話し、準ミズの本宮市の中村嶺那さん(9)=岩根小4年=は「安達太良山は校歌にも登場する好きな山」と喜んだ。
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『福島民報』さん。

日本百名山の安達太良山で新緑満喫 4年ぶりに通常規模の山開き 福島県内外から4000人

 日本百名山の一つ、安達太良山(1700メートル)は21日、山開きした。福島県内外からの登山者約4千人が新緑を満喫し、山頂付近の残雪を踏みしめながら山頂を目指した。山頂付近での記念ペナント配布とミズあだたらコンテストが復活し、4年ぶりの通常開催となった。
 山頂で神事を執り行い、安達太良連盟会長の三保恵一二本松市長らが登山者の安全を祈願した。先着3千人に記念ペナントを配布した。奥岳登山口では限定50個の缶バッジを販売した。
 山頂に着いた登山者は仲間と記念撮影をするなどして雄大な景色を満喫していた。福島市出身のタレントで安達太良山観光大使のなすびさんも大使として初めて山開きに参加した。
 安達太良山の中腹にある山小屋「くろがね小屋」が建て替えのため休業していることを受け、岳温泉の安達太良自然センターは、くろがね小屋前に試験的に1日限定で携帯トイレを設けた。
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さらに仙台に本社を置く『河北新報』さんも。

青空広く、山頂で達成感 安達太良山で山開き

 日本百名山の一つとして知られ、二本松市などにまたがる安達太良山(1700メートル)で21日、山開きがあった。晴天に恵まれ、県内外の登山愛好家らでにぎわった。
 登山者はロープウエーで山頂駅に向かい、汗を拭いながら約1時間半かけて尾根などを歩いた。周囲から突き出ていることから「乳首(ちちくび)山」とも呼ばれる山頂に着くと、美しい風景を写真に収めた。
 山頂付近では先着3000人に記念ペナントが配布され、安全祈願祭が開かれた。登山に適した格好を審査基準とするコンテストもあった。新型コロナウイルス禍の影響で中止や規模縮小していた山頂イベントの通常開催は2019年以来、4年ぶりとなった。
 姉2人と山頂からの眺望を楽しんだ仙台市宮城野区の会社員大内みな子さん(68)は「遠くに磐梯山がうっすらと見えて良かった。疲れもあるが、達成感が上回る」と満足そうに話した。
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最後に、二本松市長・三保恵一氏のツイート。「智恵子抄」「ほんとの空」の語を使って下さっています。ありがとうございました。
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当方も登ったコロナ禍前の令和元年(2019)には約9,000人の人出でしたが、この日は約4,000人だそうで、半減してしまいましたが、来年以降またじわじわと増え続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

暖炉には薪が音を立てゝ燃えてゐます 外はまつくらですが クリスマスにふさはしい霙がふつてゐます やがて雪になるでせう 明日の朝世界が真白な景色につゝまれてゐるかも知れないと思ふと子供のやうなうれしさを感じます 私は雪が犬の子のやうに好きですから 雪がつもるとすぐ外へ出て歩き廻ります

大正7年(1918)12月25日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

30年近く後、花巻郊外旧太田村で1年の3分の1は雪に包まれる生活を送ることになろうとは、この時点ではまったく考えていなかったでしょう。

昨日は智恵子の故郷・福島二本松に行っておりました。

智恵子生家/智恵子記念館さんを会場に、市の主催として昨日まで「高村智恵子生誕祭」が約1ヶ月間開催されており、さらに昨日は地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶさん主催による「智恵子を偲ぶ鎮魂の集い」も行われるということで、参上した次第です。

千葉の自宅兼事務所から愛車を駆って、片道3時間ちょっと。9時過ぎに到着しました。
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光太郎令甥の故・髙村規氏揮毫の「智恵子純愛通り」碑前で、「智恵子を偲ぶ鎮魂の集い」開会式。智恵子生家/智恵子記念館とさらに周辺の智恵子ゆかりの場所等を巡り、さらに光太郎詩碑の前で参加者が朗読をする、という内容です。似たような内容では以前も行われていましたが、今年から「智恵子を偲ぶ鎮魂の集い」と名付けたとのこと。参加者十数名でした。
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さっそく、碑のすぐ近くの智恵子生家、智恵子記念館へ。
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平常は非公開にしている生家二階部分の公開、昨日が最終日でした(また秋には実施されるはずですが)。
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何度も訪れているので、「また来ましたよ」と胸の内で智恵子の御霊にごあいさつ。
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一階部分では、これも昨日最終日だった「上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験」コーナー。
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道の駅「安達」智恵子の里内の二本松和紙伝承館さんの方がインストラクターで、和紙を切り貼りしてうちわを作れるそうで。こちらのうちわ一本、お土産に戴いてしまいました。

その後、車両3台に分乗して、附近のゆかりの場所巡り。

智恵子の母校、油井小学校さん。
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樹木のうち何本かは智恵子在学中(明治26年=1893~明治34年=1901)当時からあったそうで。

ちなみに以前に見つけて購入した明治末~大正初めの様式の古絵葉書。写っている松が上の画像の松です。
油井小学校
JR東北本線安達駅。一昨年除幕された、故・橋本堅太郎氏遺作の智恵子像「今 ここから」。
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一帯は現在、大規模区画整理中で、それが終わると像の正面、視線の先に安達太良山が望めるように設計されているそうです。

智恵子の実家・長沼家の菩提寺である満福寺さん内の長沼家墓所。
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酒造業を興した智恵子の祖父母、さらに発展させた両親、長沼酒造を嗣いで、しかし破産に導いてしまった弟・啓助、そして福島高等女学校在学中に夭折した末妹・チヨの墓石が並んでいます。花立てのうちの一基には「高村ちゑ」の名。智恵子の寄進です。
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ゆかりの地としてラストに生家裏手の鞍石山。光太郎詩「樹下の二人」詩碑が建っています。この詩碑も建立40周年だそうで。どうも元々光太郎の生誕100周年記念という意味合いもあって建てられたのではないでしょうか。

その詩碑の前で、参加なさった皆さんによる光太郎詩の朗読。
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さらに去る4月2日(日)の連翹忌の日に、二本松の「さつき山公園」というところであったイベントで光太郎智恵子がらみの「本当の空を忘れないで」という歌を披露されたユニット風信子(ヒヤシンス)さんのヴォーカリスト・村上有理香氏は、朗読に加えて「本当の空を忘れないで」をア・カペラで歌って下さいました。素晴らしい!
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ちなみにこの場所から見えた安達太良山頂とほんとの空。まだ雪が残っていました。昨日は山開きでしたが、麓から山頂が見えるということは、まずまずの天候だったようです。

最後は生家近くのかねすい智恵子の湯さんで昼食をいただき散会。その後、当方は引き続き現地調査を行い(国立国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い「むむむっ」という情報を得まして――ただし、ガセネタで、空振りでしたが(笑))、帰途に就きました。

地元紙『福島民報』さん、『福島民友』さんともに取材に来られていまして、いずれ報道が為されると存じます。ネットで拝読できる状況になれば、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】003

今年は世界の一隅に行はれてゐた殺戮がとにかく中止となつただけでも本当に心安らかな気持でゆかれるやうになりました どうかしても少し人間同士が了解し合ひ相愛し合つて 汚い私我を棄てゝ大きな宇宙の一つの精神に奉仕しつゝ生活してゆけるやうになりたいものと考へてゐます 少しでも其の為めになるやうに微少の自分も力を尽してゆきたいと念じてゐます 光りかゞやくものを人間の間に生みたいものとおもひます


大正7年(1918)12月25日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

世界の一隅に行はれてゐた殺戮」は、第一次世界大戦です。「も少し人間同士が了解し合ひ相愛し合つて 汚い私我を棄てゝ大きな宇宙の一つの精神に奉仕しつゝ生活してゆけるやうになりたい」、昨日、帰りがけの車中でウクライナ大統領ゼレンスキー氏の広島訪問の中継を見つつ、同じようなことを考えました。

しかしこう言っていた光太郎、約20年後の第二次世界大戦の際には、がっつり戦争に加担することになります。「光りかゞやくものを人間の間に生みたい」じゃなかったのか! です。

新刊です。

おとなのスケッチ塗り絵 花と叙情の詩文集

2023年5月21日 絵・名司生 エムディエヌコーポレーション発行 定価1,200円+税

スケッチするように塗り絵を楽しむ「おとなのスケッチ塗り絵」。最新作の『花と叙情の詩文集』は、日本文学をテーマにしました。

美しい日本語で紡がれた日本文学。シリーズ24作目は名作として長く読み継がれている文学作品をテーマにしました。「植物」「動物」が登場する一編を取り上げ、その情景をイメージして図案化。物語のワンシーンを切り取ったような叙情的で美しいイラストが特徴です。金子みすゞ、高村光太郎、海達公子、宮沢賢治、萩原朔太郎といった日本を代表する作家たちの作品から選出。一度は読んだことがある名作ばかりなので、読書をした当時の記憶や気持ちを思い出しながら塗り絵が楽しめるでしょう。

塗り絵の対向ページには、作家や作品の紹介と参考にした一編を掲載しています。塗り絵は、自律神経を整えたり認知機能を高めたりするのに有効なアイテム。手を動かすことで脳に刺激をあたえますが、とくに「昔の思い出などを想像しながら塗る」という行為が、脳の働きを活性化するそうです。

011イラストは同シリーズで人気の『おとなのスケッチ塗り絵 万葉の花』を担当したイラストレーターの名司生さん。本のイメージを大切にオリジナルの世界観で描きました。イラストにはかわいい妖精たちも登場するので注目してください!

目次
 準備するもの
 塗り方のテクニック[基本]
 塗り方のテクニック[応用]
 [花と叙情の詩文集 塗り絵集]
  01 チューリップ(三好達治)
  02 芙蓉の花(野口雨情)
  03 金雀枝(野口雨情)
  04 学校(室生犀星)
  05 月草(室生犀星)
  06 藤の花(海達貴文)014
  07 ばら(海達公子)
  08 秋の朝(海達公子)
  09 水ヒアシンス(北原白秋)
  10 曼珠沙華(北原白秋)
  11 どんぐりと山猫(宮沢賢治)
  12 冬が来た(高村光太郎)
  13 六月の雨(中原中也)
  14 春と赤ン坊(中原中也)
  15 梅(八木重吉)
  16 星とたんぽぽ(金子みすゞ)
  17 げんげの葉の唄
(金子みすゞ)
  18 こころ(萩原朔太郎)
  19 桜の森の満開の下
(坂口安吾)

この手の書籍、最近流行りですね。こちらも「シリーズ24作目」だそうで。

認知症予防などにも使われているようで、一昨年亡くなった義母も、ディサービスの施設でこの手の塗り絵をやっていました。

前半が手本のページ。オールカラーです。書籍自体が大判なので(25.0㌢×25.0㌢)、スキャンできませんでした。右ページが光太郎「冬が来た」のページです。左は宮沢賢治「どんぐりと山猫」。
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後半ページがワークシート的な。切り取って手本ページを見ながら塗れるように、キリトリ線が印刷してあります。簡略な作品解説も。
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手本ページの美しい絵を見ているだけで心が和まされます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

又あの愛らしいみち子さんの方は 初め木炭でいろいろ素描を試み今早朝の時間を以て八号のカムバスへ油画に致して居ります あの無邪気な晴朗とした面影を捉へたいと念じて居ります


大正7年(1918)8月23日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。「みち子さん」はこの年4月、3歳で早世した渡辺の娘。光太郎が写真を元に肖像画を描きました。
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親としては涙無しには見られなかったのではないかと思われます。

昨日は都内に出ておりました。レポートいたします。

まずは上野の森美術館さんで昨日始まった「第4回日本木彫刻協会展」。
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仏師の関侊雲氏が会長を務められている一般社団法人「日本木彫刻協会」さんの主催です。
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受付でいただいたフライヤーに、「事業内容」の一つとして、こんな記述。
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なるほど、大切なことですね。

そこで、積極的に入門者等を募集されているようです。
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木彫のみでなく、仏画も。
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素晴らしい!

さて、展示作品を拝見。
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こじんまりした会場で、さほど展示点数も多くなく、ちょうどいい感じです。大規模な公募展等で「これでもか、これでもか、いやいや、まだまだぁ!」というスタイルだと、申し訳ありませんが食傷気味になってしまいますので。
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関氏、それから高弟とおぼしき方の作品。
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こういう作を前にすると、同じ日本人として誇らしくなりますね。

それから、名誉会員のテノール歌手・秋川雅史氏の作。光太郎の父・光雲が主任となって皇居前広場に据えられた「楠木正成銅像」の模刻。申し訳ありませんが、高村光太郎連翹忌運営委員会代表として、こちらを拝見するのがメインの目的でした。
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外連も衒いも韜晦もなく、実に真摯に作られているのがよく分かります。こちらが出品された一昨年の二科展、昨年の秋川氏個展ともに見逃していましたので、ようやく拝見できて満足でした。

同じく秋川氏、昨年の二科展入選作。
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さらに金剛力士像。群馬県前橋市の天明寺さんに納められる予定の像の下絵だそうで。
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秋川氏、いつのまにかテノール歌手としてではなく、彫刻家としてのオフィシャルサイトも立ち上げられていました。かなり本気ですね。今後ともそれぞれの分野でご活躍されることを祈念いたします。

ところでこんな展示も。
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関氏、今年の大河ドラマ「どうする家康」のお仕事もされているそうで。

当方、同番組は拝見していませんので存じませんでしたが、毎週書かさず見ている妻にこの画像を見せたところ、「ああ、これ!」。かなり重要なモチーフのようでした。

会場の上野の森美術館さんを後に、すぐそばの、やはり光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」にご挨拶。
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その後、永田町の国会図書館さんへ。
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昨年12月のデジタルデータリニューアルに伴い、自宅兼事務所のPCで閲覧できるデータ数が飛躍的に増大。その結果、『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品などが続々見つかっています。ただ、大人の事情で自宅兼事務所のPCで閲覧できず、館内限定閲覧可のデータも多く、そちらを調べに行った次第です。

集中力が保てませんので2時間ちょっと、明治末から昭和初めまでのデータを調べ、やはり『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品を見つけてきました。散文と、書簡(雑誌に転載されたもの)のそれぞれ複数です。高村光太郎研究会さんから来春発行予定の年刊誌『高村光太郎研究』中の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。それから本日誕生日の智恵子がらみでも実に面白い婦人雑誌記事を見つけました。大正末のものですが、いずれこのブログで紹介します。

しかし、まだまだ調べるべきデータが山のようにあり、これから何度も通うことになりそうです。「浜の真砂は尽きるとも世に光太郎智恵子の種は尽きまじ」という感じです(笑)。

さて、「第4回日本木彫刻協会展」。会期が短く5月23日(火)までですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

此間お話の御尊父の肖像製作の事は大変たのしみに思つて居ります それに佐渡ははじめての処故秋の風景などいろいろ想像してみて居ます


大正7年(1918)6月13日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。のちに光太郎はその歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀、装画を手がけます。

「御尊父の肖像製作」は結局実現せず、代わりに、というわけでもないのでしょうが、木彫の「蟬」が贈られましたし、湖畔の愛娘で夭折した道子の肖像画を描きました。また、この年の10月に佐渡島を訪れた際には、書幅も残しました。

4年ぶりに大規模開催です。

ほんとの空がここにある。 第69回安達太良山山開き

2023年5月21日(日)

山頂イベント
 ➀山開き記念ペナント配布【午前10時】
  先着3,000枚を配布します。(無くなり次第、終了です)
  ※雨天の際は、午前8時から奥岳登山口(安達太良高原スキー場)で配布します。

 ➁安全祈願祭【午前11時】
  登山をされた皆さんと一緒に祈願します。
  ※雨天の際は、午前10時から奥岳登山口(安達太良高原スキー場ランデブー内)で実施。

 ➂Ms.あだたらコンテスト【午前11時20分】
  (未婚・既婚、年齢は問いません。午前10時30分より受付。)
  先着で応募された方(50名)の中から「Ms.あだたら1名」と「準Ms.あだたら1名」
  その他入賞者数名を審査により選出します。
  審査基準は登山に適した格好かどうかで判断します。
  また、選ばれた方には記念品を贈呈します。
  ※雨天の際は中止となります。
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これまで3年間はコロナ禍のため規模を縮小して行われており、山頂でのイベントはありませんでした。それが今年は復活です。関係者の皆様の喜びは一入(ひとしお)でしょう。

令和2年(2020) 令和3年(2021) 令和4年(2022)

また、関連コンテンツも。

第69回安達太良山山開きInstagramキャンペーン

募集テーマ 山開き当日の素敵な風景や楽しそうな写真

応募条件
 ①応募規約に同意
 ②安達太良連盟公式Instagramアカウント(@adatarayama_yamabiraki)をフォロー
 ③募集テーマにあった写真を撮影
 ➃Instagramから#第69回安達太良山山開きを付けて投稿
  ※写真のタイトルをキャプションに記載してください。
  ※写真は1アカウントにつき2枚までとなります。

▣応募期間 2023年5月21日(日)~5月27日(土)

▣審査方法 応募条件をクリアしているか確認後、安達太良連盟全会員により審査。

▣結果 上位7名の受賞者に賞品をお送りします。(賞品の発送をもって賞品授与)
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二本松駅、岳温泉、登山口を結ぶシャトルバスも出ます。
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当方、コロナ禍前の令和元年(2019)に登りました。全国ネットのテレビ取材も入りましたし、あの頃はその後3年間がとんでもないことになるなど、誰一人思っていなかったことでしょう。

今年、4年ぶりにまた登ろうかと思ったのですが、当日、二本松で智恵子顕彰に当たられている智恵子のまち夢くらぶさん主催のイベント「智恵子を偲ぶ鎮魂の集い」に参加することに致しましたので、来年以降の楽しみに取っておきます。ただ、寄る年波で、年々きつくなっていくと思うのですが(笑)。

ロープウェイを使えば、登山口から往復4時間ほどの比較的楽な行程です(雪融け水の状況にもよりますが)。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彫刻が裸体では御差支がある様でしたら、一寸其事を知らせて置いて下さい。御注意のない時は自然裸体のものになるかも知れませんから。御差支の時は何か外のものを御送りします。


大正7年(1918)1月20日 野田守雄宛書簡より 光太郎36歳

昨日のこの項でご紹介した「高村光太郎彫刻会」に関わります。野田守雄は滋賀県の銀行家。結局かなり先になりますが、光太郎は「裸婦坐像」を送ります。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に協力され、毎月15日、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。かつて光太郎が自分で作ったりした料理を現代風にアレンジしたメニューが含まれるものです。今月分の画像等送っていただきましたのでご紹介します。
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今月のメニューは、「筍御飯」「若布御飯のおにぎり」「ほっけ焼き」「独活(うど)の天ぷら」「ほうれん草のおひたし」「豚肉とうるいの炒め」「切り干し大根酢醤油」「煮小豆」「塩麹卵焼き」だそうです。筍やら山菜やら、季節柄、という感じですね。

同じくやつかの森LLCさん、地元季刊誌『花巻散歩マチココ』さんで、同様に「光太郎レシピ」という連載を創刊以来続けてこられましたが、3月発行の第34号で最終回となり、代わって新しい取り組みを。

花巻市東和地区にある「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご参加を始められました。こちらは「一般の主婦(主夫)、学生、OL、プロ等が日替わりでシェフになってランチを提供するレストラン」だそうで、月イチで「こうたろうカフェ」を出店されるとのことです。
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この日(5月16日)のメニューは「ホロホロご飯」「生ハムと彩り野菜のガレットロール」「春キャベツの肉巻きソテー」「ボストンビーンズ」「長芋の夏みかん皮のせ」「ワラビの和え物」「ふわとろ玉子スープ」「スフレフロマージュ」「カフェドシトロン」。やはり光太郎ゆかりのメニューだそうです。
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こじゃれた感じですね。

平日の昼間だったにもかかわらず、開店してまもなく用意した28人分が完売だそうで、驚きました。

さらに店内に展示もなさったようです。
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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)附近の風景等でしょう。

それから、先述の『花巻散歩マチココ』さん。
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5年間、34回の連載が終わってしまったのは残念ですが、新たなる「こうたろうカフェ」の船出にエールを送りたいと存じます。

さて、こうした活動が遠く富山県にも飛び火しています。『花巻散歩マチココ』さんの「光太郎レシピ」を元にした「光太郎の食卓カレンダー」が、一昨年、やつかの森LLCさんから発売され、お買い求め下さった茶山千恵子氏(富山県ご在住、彼の地で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている方)が、ここに載っているレシピを元に「光太郎ランチ」。

茶山氏、大学の家政科で食物栄養を専攻されたそうで、料理の腕前もプロフェッショナル。ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっています。その一巻として、本家のやつかの森LLCさんから許可を取られ、5月14日(日)に第一回を開催されたとのこと。
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下記が元ネタの「光太郎の食卓カレンダー」当該ページ。
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来月以降も月イチで継続して下さるそうですし、光太郎に関するレクチャーや、さらに今後、朗読もなさりつつ、といった御計画のようで、ありがたいかぎりです。

こうした輪がさらに広まって行くことを願って已(や)みません。

【折々のことば・光太郎】

無題例の彫刻会の趣意書漸く出来いたし候間 別封にて御覧に入れ申候 かやうな事の勝手わからぬ為め閉口いたし居候 何卒よろしく御声援被下候様お願申上候 自分の思ふまゝなる製作に没頭しながら 相当の生活の資を得る事如何に困難なる今日かと常に歎じ居候 今度の会に若し或る端緒を得ば むしろ異常の幸福とおもはねばなるまじく それすら甚だ覚束なき心地いたし居候


大正6年(1917)11月11日 与謝野寛宛書簡より 光太郎35歳

例の彫刻会」は「高村光太郎彫刻会」。スポンサーを募り、彫刻を頒布する会です。これで資金を得、アメリカで個展を開くという計画がありましたが、結局入会者が少なく頓挫してしまいます。

それでもこれを契機にブロンズの「手」、「裸婦坐像」、「腕」などの秀作が産み出されました。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野の碌山美術館さん。守衛作品を純錫製のミニチュアにしたもの5種を発売なさいました。

純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種

新しいミュージアムグッズ 錫製品に荻原守衛彫刻シリーズが、ついに登場。作品を3Dスキャンし、3Dプリンターで出力した像の修整を経て型取りした、精巧なミニチュアです。木台座、桐箱付、各4,600円。 別途送料とお振込手数料がかかります。 ※ご注文頂いてからの製造につき、お手元届くまで半月ほどお時間をいただくことがございます。ご了承くださいませ。
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《女》高さ 約6.5cm 《坑夫》高さ 約5cm 
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《宮内氏像》高さ 約5cm 《文覚》高さ 約5cm 《女の胴》高さ 約5.5cm

いい感じですね。

5点中、守衛絶作の「女」と留学中の作品「坑夫」は、光太郎がその保存に関わったものです。
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「女」は、令和2年(2020)にトーハクさんと藝大さんの協力の下、ブロンズで像高25㌢ほどの縮小模刻が発売されましたが、今回のものはさらに小さいサイズで価格もお手頃です。しかも小さいからといって侮る勿れ、ちゃんと3Dスキャンによる制作です。

光太郎作品もこんな感じでのミニチュア化があってもいいように感じました。ブロンズの「手」とか、木彫の「蟬」「鯰」「白文鳥」など。ただ、大人の事情で難しいでしょうね。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、地元の土産物店などで昔からミニチュアが作られていますが、しょせんお土産品ですので……。

ちなみに光太郎の父・光雲の「老猿」は、平成27年(2015)にポリストーン(石粉、合成樹脂混合)製のレプリカ(像高20㌢)がトーハクさんから出ていますし、「西郷隆盛像」も3D彫刻複製といううたい文句で販売されています(像高37㌢)。

閑話休題、碌山美術館さんのシリーズ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子への御葉書は直ぐ転送いたします ちゑ子は医者の言葉によつて今年は海へ行く事にして 福島県相馬郡原釜 金波館に滞在して居ります いつでもあなたからのお便りを大変うれしがつて居りますから 時々御葉書をやつて下さい

大正6年(1917)8月9日 旗野すみ子宛書簡より 光太郎35歳

旗野すみ子(スミ)は、日本女子大学校での智恵子の後輩。新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島に住んでいました。スミの姉・ヤヱがやはり日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在しました。スミは後に結婚して再上京、立川の農事試験場付近に住み、光太郎智恵子夫婦と交流が続きます。
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こちらは大正2年(1913)の『読売新聞』。

さらに大正5年(1916)、旗野家で撮られた写真。左端が智恵子、後列中央がスミです。
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福島県相馬郡原釜 金波館」は、結婚前の少女時代から智恵子が家族共々何度も訪れていた定宿。現在の南相馬市原釜尾花海水浴場です。

対面式およびオンラインでの講演会です。

春の特別展関連講演会「関東大震災と武者小路実篤」

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 13:00~15:00 
料 金 : 無料

大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、10万人以上の犠牲を出した国内最悪の自然災害と言われます。巨大地震を体験した里見弴、高村光太郎、地震の知らせを聞いて東京へ駆けつけた志賀直哉、そして武者小路実篤。白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。

講師
石井正己氏(日本文学研究者・東京学芸大学名誉教授)
東京学芸大学名誉教授。著書に「文豪たちの関東大震災体験記」(小学館)、「感染症文学論序説」(河出書房新社)、「震災は語り継げるか」(三弥井書店)などがある。

申し込み
往復はがきの往信面に、講座名・応募者全員(1枚につき2名まで)の氏名(ふりがな)・年代・郵便番号・住所・電話番号を、返信面にご自身の宛先を明記し、5月9日(火曜日)必着で実篤記念館まで。

注意事項
応募者多数の場合は抽選を行います。
はがき締切後、定員に余裕がある場合は5月10日(水曜日)午前9時から5月19日(金曜日)午後5時まで先着順で電話受付。詳細は実篤記念館までお問い合わせください。
はがきの到着に時間がかかることがあります。余裕をもってご投函ください。
都合により、内容が変更される場合がございます。最新の情報は当館ホームページやツイッターをご覧いただくか、お電話でお問い合わせください。

配信視聴
会場参加に加え、オンライン配信も行います(ライブのみ)。
5月12日(金曜日)午後5時までオンライン配信専用の申込みフォームを開設します。
講座の詳しい内容や対面での応募方法については次のリンクをご確認ください。

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同館で開催中の特別展「武者小路実篤の1923年」の関連行事という位置づけです。
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大正12年(1923)9月1日の関東大震災からちょうど100年という節目の年ですので、このような企画になっているのでしょう。

南関東ではどこも甚大な被害だったわけで、個々の芸術家かどういう状況になったかまでは当方もそれほど存じません。武者にしても。同展の案内文に依れば、武者自身は地震発生当時、宮崎の新しき村に居たそうですが「東京の実家に住む母と甥らが被災し、一時は安否が分かりませんでした。家族は無事だったものの、実篤が生まれ育った家は全焼しました。」ということだったそうで、それは初めて知りました。ありゃま、という感じですね。

光太郎は、というと、駒込林町の住居兼アトリエは大きな損傷もなく、光太郎や近くに住んでいた父・光雲らに怪我もありませんでした。智恵子も二本松の実家に帰っていたため無事。しかし27畳のアトリエは被害の大きかった下町からの避難者に開放し、光太郎自身は何ヶ月かを四畳半の和室で過ごすこととなりました。その間、智恵子の実家の長沼酒造から酒を取り寄せ、引札も自作し、にわか酒屋を始めています。

今回の講演では、「白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。」とのことで、では、光太郎はどんな文章を書いていたか、調べてみました。

すると、震災に関わるものとして公表されたものは、11月に雑誌『女性』に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同じく『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」がありました。

「アメリカ……」の方は短いので全文を引き写してみます。

 大東京の築造については、自分が六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」の中の意見と今でも大体に於て同じ意見を持してゐます。何よりも日本の東京にしたいものです。アメリカ趣味の流入を殊に出来るだけ防ぎたいものです。質素で確かで優美な都が造りたい。末梢は後にせよ。市民にとつて、また殊に建築家にとつて、何といふ天啓に満ちた時機でせう。
 鉄腕ある者よ、出てくれ。


六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」」は、国会議事堂の建築(現在の議事堂は昭和11年(1936)の竣工ですが、それ以前に大正7年(1918)にコンペが行われました)についての内容を根幹としつつ、都市計画を論じた長い連載でした。一部、抜粋します。

 芸術の中で人間の心に一番影響を与へるものは建築であると思ふ。一番直接といふよりは一番手近と言ふ方がいいかも知れない。建築が恐ろしく因縁の深い感化を人間に与へるのは、建築が幼年少年の生活を支配して、外の芸術よりも早く人間の精神肉体に影響を及ぼすからである。

 国民の性格を天日の下に麗々と暴露してゐるのは建築である。倫敦、巴里、紐育其他いづこの市街乃至村落に足を踏み入れたとしても、いきなり観察者の心に襲ひかかつて来るのは其家屋の列の持つ不可言の気魄である。何の説明を聞くまでもなく、ははあ、と思ふ。

 建築の事を世人は今余り考へなさ過ぎる。自分たちの住んでゐる市町の街路に聳え立つ怪しげな建築にも眉を寄せず、喜ぶ可き建物にも感謝しない。そして其が次の時代を形づくる自分たちの子孫にどんな関係を持つかといふ事を心配しない。何をされても平気で、善いものも悪いものも無差別に受取つてゐる。東京の市街は今建築の百鬼夜行である。


明治末の欧米留学中に都市計画にも興味を持ち、ニューヨークではセントラルパークについてかなり研究した光太郎ならではの言ですね。ちなみに駒込林町の住居兼アトリエは光太郎自身の設計です。

さらに「美の立場から」。こちらも長い連載でしたので、一部抜粋。

 人は帝都の復興といふ。けれどもどんなものを復興しようといふのか。焼けて無くなつたものを取りかへして、其上この機会に多年の宿望であつた都市計画を遂行しようといふ。けれども其は一体どんな種類の都市を予想しての事であるか。都市の品格、傾向、風貌等に就てどんな好みを以ての事であるか。どんな性格の都市を実現させようと「欲」するのであるか。どんな統一をその都市性格の上におかうとするのであるか。ただ聯絡ある市街の集団であるに止まらせて満足しようとするのか。それとも是非ともミヤコを築造しようとすののであるか。この最初の覚悟によつて、今後の当事者と市民との責任も負担も忍耐も根本的の相違を来たすであらう。この覚悟を一定せしめておかなければ諸人の計画に対する態度、心構へに異同が出来て、無駄な水掛論が百出するに違ひない。

 東京は救はれなければならない。東京は健康な、正直な、清朗な、大丈夫な都にならなければならない。見かけ倒しと、無定見と、紛雑と、悪趣味と、お先走りとはもう沢山である。もうこりごりである。そしてあの無作法に四方に這ひ出す市街の集合に過ぎないものを其のまま復活される事は心苦しい。是非ともミヤコにした。日本の性格を立派に左右する「築造」されたミヤコにしたい。幾十年かかつても。幾遍壊されても。


これが100年前の文章なわけですが、100年経って、光太郎の至極まっとうな提言は果たして実現しているのでしょうか。そうでないと言わざるを得ないような気もしますが……。

ところで、散文以外に、震災直後の書簡等も調べてみました。すると、光太郎に智恵子を紹介してくれた画家の柳敬助夫人・八重に送った書簡が目に留まりました。やはり一部抜粋します。

 今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。
 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。
 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。
 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。


柳は震災前の5月16日(まさに100年前の今日)に急逝。そしてその遺作展が日本橋三越で始まったのがまさしく震災当日の9月1日で、集められた柳の遺作絵画38点、さらに光太郎のそれ(具体的な作品名は不明ですが 追記:人体を描いたデッサンでした)を含む賛助出品された友人たちの作品64点すべてが焼失してしまいました。

八重にとっては5月に夫を亡くし、さらにその遺作の多くも9月に失うという、踏んだり蹴ったりだったわけで、その心痛はいかばかりか、というところですね。

ちなみに無事だった柳の作品、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで「没後100年 柳敬助展」ということで多数展示中です。

さて、講演会「関東大震災と武者小路実篤」。オンラインでの聴講も可能です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例の大理石はあれから毎日仕事に掛り居り既に職人の手を離れて小生自ら鑿を取つて居ります

大正6年(1917)4月28日 図師尚武宛書簡より 光太郎35歳

図師尚武は実業家・図師民嘉の子息。「仕事」は図師に依頼された石彫です。「職人の手を離れて」は、元の石材から大まかな形を切り出すまでを石工にやってもらったということでしょう。

003この作品、仮題が「婦人像」。現存が確認できて居らず、写真だけ残っています。それから最晩年に光太郎が語った制作の経緯。

大正五、六年頃か、落合にいた実業家の息子が、美人の、西洋人の写真を持って来てね、それをどうしても大理石で作ってくれっていううんだな。その写真がぼやっとした芸術写真でね。僕は面白くって作りかけたけれど、どうしても出来上らない。随分重いものだったけれど、それを欲しくて仕方がなくて、出来上らないうちに自動車で来て持っていってしまった。はじめに金を貰っていたんだけれど、出来上らなかったんだから、といってあとでその家にお金を返しに行った。そしたらちょうど息子さんが居なくてね。お母さんが出て来た。ところがお母さんは知らないんだね、そんなことでお金を使っていたってことを。それは何か映画女優か何かの写真だったらしいんだが、それであとで散々叱られた、とその息子が書いてきたことがあった。
(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)

どこかにひっそりと現存していてほしいものですが……。

都内から邦楽系の演奏会情報です。

東京インターアーツ目黒 第20回記念公演 和草(にこぐさ)コンサート

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 中目黒GTプラザホール 東京都目黒区上目黒2-1-3
時 間 : 14:00~ 17:00~
料 金 : 一般 4,000円 学生(小中高校生)1,000円 親子ペア券(一般+小中高校生)4,500円

邦楽と洋楽のコラボレーションコンサート。朗読付き作品やミニレクチャーコーナーもあります。

曲目
 三宅一徳:祝宴 組曲「竹取物語」より  F.シューベルト: アヴェ・マリア
 宮城道雄:春の海  平岡吟舟:猩々   琴古流本曲:巣鶴鈴慕
 中島はる:智恵子抄 人に 樹下の二人 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌
 間・かけ声・所作:魅力の宝庫 邦楽囃子の世界 ゲスト島村聖香さんを迎えて
 宮田耕八:豊年太鼓

出演
牧原くみ子(箏)、寺井奈美(箏)、富緒清律(箏・三絃)、大江美恵(箏・17絃)
武松洋子(朗読)、芦垣皋盟(尺八)、野村浩子(ソプラノ)、金井由里子(ピアノ)
高橋章子(フルート) 【ゲスト】島村聖香(邦楽囃子)
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故・中島はる氏作曲の、ピアノと箏、尺八の伴奏による独唱歌曲「智恵子抄」全4曲がプログラムに入っています。

同曲、平成4年(1992)に初演が為されています。歌唱はテノールの森田澄夫氏、ピアノが渡辺一史氏、箏で砂崎知子氏、尺八に山本邦山氏というラインナップでした。当日のパンフレットには、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のお言葉。
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作曲者、中島氏のお言葉も。
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当方、これは聴いたことがなく(上記パンフレットは北川先生から頂きました)、楽譜も未見です。どんな感じかぜひ聴いてみたいもので、日程的に都合がつけば拝聴に伺いたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今までこんなに全体の抱和した芸術を日本でみたことのない気がします、私はまだ詩について何事も公けに言はない時に居ますが後に詩の事について書く時、この集が実に重要なものである事を感じます。


大正6年(1917)3月(推定)『感情』第2年第4号所収書簡より 光太郎35歳

この集」は、萩原朔太郎の『月に吠える』。我が国の口語自由詩の確立における功績という意味では、光太郎の『道程』(大正3年=1914)と双璧を為すものですね。

そしてどちらかというと「述志」の詩篇で成り立つ『道程』、白秋系の芸術至上的な色合いの『月に吠える』と、ベクトルが異なる二つの巨峰がこの時期に相次いで上梓されたことは、非常に興味深いところです。

現代の仏師の方々などの作品展です。

第4回日本木彫刻協会展

期 日 : 2023年5月19日(金)~5月23日(火)
会 場 : 上野の森美術館 東京都台東区上野公園 1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

展示物 現代仏師・木彫刻作家による仏像・パネル・置物などの木彫刻 約30点
出展者 協会会員、準会員を中心とした、プロ及びプロを目指す木彫刻作家数名
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画像に使われている作品は、テノール歌手にして同会準会員の秋川雅史氏の作。一昨年の第105回二科展入選作です。

秋川氏、同会会長の関侊雲氏に師事なさり、木彫に取り組まれています。元々は光太郎の父・光雲の木彫に魅せられてのことだそうで、上記作品も光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻です。
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同作、先述の第105回二科展の他、昨年開催された秋川氏の個展にも出品されました。一昨年には『毎日新聞』さんで同作について語られています。

また、令和元年(2019)には、光雲作の木彫「寿老舞」を引っ提げて、テレビ東京さん系の「開運! なんでも鑑定団」にご出演。1,200万円という高額鑑定となりました。その後、同作は平塚市美術館さん他を巡回した「リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」展に貸し出されました。また、同展の図録には秋川氏と現代の作家さんたちの対談も収録されています。

会期が短いのが残念ですが、日程的に都合がつけば拝見に伺おうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

大理石購入の為めこんな所迄来ました。二三日で帰るでせう

大正6年(1917)3月18日 水野葉舟宛書簡より 光太郎35歳

「こんな所」は福島・いわき。大理石は石灰岩の一種で、関東や福島の山地でも産出します。注文のあった石彫の制作のため、大理石を入手する目的での旅でした。光太郎、生涯に何点か石彫作品も制作しています。

光太郎の父・光雲の「老猿」が出品されている、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。アート系テレビ番組でも随分取り上げられたり、新聞各紙の文化面等にも紹介記事がたくさん載ったりするなど、かなり注目度が高かったようです。SNS上にも観覧された方々の「高村光雲の「老猿」すげぇ」といった投稿が相次いでいます(光雲と光太郎を混同する人も多く、「高村光太郎の「老猿」すげぇ」的な投稿も目立ちますが……)。

『読売新聞』さん、4月12日(水)の記事。

重文が語る 近代美術評価の変遷 東京国立近代美術館で51点展示

 全出品作が重要文化財という豪華な展覧会「重要文化財の秘密」が、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開かれている。ただの名品展ではなく、日本近代美術の評価の変遷に迫る内容だ。
 明治以降の絵画、彫刻、工芸で重文指定を受けた作品は68件。そのうち高橋由一の「鮭(さけ)」、岸田劉生が愛(まな)娘を描いた「麗子微笑」など51点を会場に集めた。
 本展のうたい文句は「『問題作』が『傑作』になるまで」。それを象徴する作品の一つが、萬(よろず)鉄五郎の「裸体美人」だ。悠然と草原に横たわる裸婦は、アカデミズムの写実的な美女とは言いがたい。それ故、東京美術学校の卒業制作だった本作は発表当時、19人中16番目と低評価だった。しかし、近代絵画のポスト印象派やフォービスム(野獣派)の造形表現をいち早く吸収した先駆的な作品として、後に評価が覆り、2000年に重文になった。
 会場にある重文の指定年表も興味深い。1983~98年の16年間、近代の美術工芸品の重文指定は皆無なのだ。本展担当の大谷省吾副館長は「西洋美術の潮流をいかに巧みに取り込んだかが重視された。それに見合った作品が出そろったとみなされたのではないか」と推測する。 その中断期に国内で近代美術館の開館が相次ぎ、学会が設立されると、近代美術の研究が進み、西洋の尺度がよりどころだった評価方法が多様化していった。日本的な主題と西洋画の技法の融合を試みた黒田清輝の「湖畔」(99年指定)、迫真性という西洋彫刻の概念と伝統的な木彫の性格を併せ持った高村光雲の「老猿」(同)が好例だろう。
 岸田や日本画家の速見御舟は重文指定作があるが、同年代で「エコール・ド・パリ」を代表する画家、藤田嗣治はない。本展に不在の未指定作品や作家にも目を向けると、日本の近代美術の価値観は現在進行形で変化する、より生々しいものだと感じられる。
 5月14日まで。展示替えあり。

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4月25日(火)、『朝日新聞』さん。

なぜ重要文化財に? たどってみたら 東京国立近代美術館に51点集結 

 「『問題作』が『傑作』になるまで」「史上初、ぜんぶ重要文化財」。こんな惹句(じゃっく)を掲げる東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密」展がにぎわっている。明治以降の重文68件中51点を紹介する展覧会は、多くの観客動員を期しつつ、美術品評価の不思議に迫ろうとする試みでもある。
評価基準の揺れ動きに注目
 高橋由一の「鮭(さけ)」(1877年ごろ)に、高村光雲の「老猿」(93年)、黒田清輝の「湖畔」(97年)、岸田劉生「麗子微笑」(1921年)。展示替えが多く一度に見られる点数は40点程度だが、教科書でもおなじみの作品が次々に現れ、目が吸い寄せられる。
 主催関係者の話し合いで重要文化財(重文)だけの展覧会の案が出たとき、同館の大谷省吾・副館長は懐疑的だったという。開館70周年を記念し、開館2年前の1950年施行の文化財保護法に基づく重文の展覧会という企画だが、そもそも貴重な重文作品を貸してもらえるのか、のんきな名品展になってしまわないのか、という思いだった。
 しかし出品50点以上のめどが立ち、文献を読み、どの作品がいつ重文に指定されたかの年表を作ったことで、「文化財指定の歴史を俯瞰(ふかん)することで、違う景色が見える」と意義を見いだせるようになった。「重文だから素晴らしいのではなく、なぜ重文に指定されたのかという視点です」
第1弾は日本画
 確かに、会場に掲示されている年表は興味深い。近代美術が最初に重文に指定されたのは、保護法施行5年後の55年の4件で、56年は2件。狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草の日本画が2点ずつで、明治期に流入した西洋画に対抗する表現を模索した表現者たちだ。
 しばらく間を置き、67年~72年に一挙に約20点が指定されたが、これは68年の明治100年を記念した面がありそうだという。ここで「鮭」「麗子微笑」が指定される一方、超有名な「湖畔」や「老猿」はない。
 大谷さんは「西洋美術的な価値観が優先されたのではないか」と指摘する。洋画なら伝統的な西洋絵画や印象派、彫刻ならロダンに学んだような表現であり、和風の「湖畔」や仏像彫刻の伝統をひき、置物とも連なるような「老猿」は避けられたのだろう。
美術館増で急増
 そして83年から98年には近代美術が一件も指定されない長き空白が訪れる。大谷さんは「当初の評価基準では、まずはこれぐらいと考えたのか」と推測。一方、99年から指定が急に増えるのは、各地で近代美術館が整備され、美術館制度を巡る論考などが充実したことで評価の基準が変わっていった可能性があるという。
 こうして「湖畔」と「老猿」は99年に、フォービスムを思わせる萬(よろず)鉄五郎「裸体美人」(1912年)が2000年に、工芸では初代宮川香山「褐釉蟹(かつゆうかに)貼付台付鉢」(1881年)が02年に指定されている。
 評価基準という意味では「永仁の壺(つぼ)事件」も忘れがたい。鎌倉時代の古瀬戸の傑作として1959年に重文に指定された壺が、実はもっと新しいとされ、61年に指定が解除された事件だ。美術品の評価について考えさせる例だが、今展では触れられていない。
 黒田清輝「舞妓(まいこ)」(1893年)など、借りられなかった重要作もあるが、展覧会のもう一つの狙いを、大谷さんはこう語った。「今は近世以前の美術や現代美術に人気があり、日本の近代美術への関心が薄くなっている。これを機にその魅力を知ってもらえれば」
▽5月14日まで、東京・竹橋の東京国立近代美術館。

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今回の展覧会を通し、両紙とも指摘していますが、重文に指定の評価基準がどうだったかという点が見直されたのは大きかったと思います。

会場内に展示されている「年表」はこんな感じです。
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「老猿」は、昭和42年(1967)に指定候補に挙がりながら、「保留」。その年には荻原守衛の絶作「女」(明治43年)が指定されました。やはりその後の日本近代彫刻の大きな潮流であるロダニズムを色濃く持つ「女」の指定は妥当ですが、「そうでない」という理由で「老猿」の指定が見送られたのは興味深いところです。

評価基準ということを問題にすれば、もう1点。大谷省吾副館長は立場上、明言できないと思うのですが、現在指定されている68件の内訳ということも問題視されるべきかと存じます。はっきり言えば「絵画偏重」。68件中、工芸は9点のみ、彫刻にいたってはわずか6点しか指定されていません。残り53件が絵画です。

彫刻に関しては、「老猿」のような木彫は別ですが、ブロンズに鋳造されている作品だと、同じ作品が複数存在し、指定しにくいという面はあるでしょう。そこで、「女」や、同じ守衛の「北条虎吉像」は石膏原型が指定されています。版画が一件も指定されていないのも同じ理由なのでしょうか。棟方志功やら川瀬巴水やらの作品は他の指定作と比較しても決して遜色はないように感じるのですが。

それにしても、8割方絵画が占めているという現状はいかがなものかと思われます。苦言を呈せば「なぜこれが重文?」、もっと言えば「誰? この作者」という絵画も指定されています。あくまで当方の主観ですが。

言ってしまえば「美術」というカテゴリーの中に、肉筆絵画が上位に位置し、版画や彫刻、工芸を下とするヒエラルキーというか、カーストというか、そういうものの存在を感じずには居られません。

今後の議論を待ちたいところです。

ちなみに平成11年(1999)、「老猿」が指定された際の新聞記事のスクラップが出てきましたので載せておきます。
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ここでも「湖畔」が先で画像入り、「老猿」は後ですね。

さて、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。最初に書きました通り、明日までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

私は一体ナマハンジヤクな微笑が大嫌ひです。微笑は大ていの場合ゴマカシを意味してゐます。現今社会の老人株の微笑は到底たまらないものです。(惚れた同士の微笑と非常な大人物の微笑とを除いては。)


大正5年(1916)8月8日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

交流のあった作家・田村松魚が日暮里に骨董店を開き、その屋号が「微笑堂」。そこでその開店通知に対しての返信でしょう。

田村の妻・俊子は智恵子の親友でしたが、この時期に松魚と別れ、2年後に新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ってしまいます。

刊行物3件ご紹介します。いずれも当方がからんでいるもので、どうもこの手のものの紹介はなかなか気が引け、ついつい後回しにしていました。

まず、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(44)』。4月2日(日)発行です。
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「光太郎遺珠」ということで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』完結後に見つかり続けている光太郎文筆作品を紹介する連載をさせていただいています。

この1年間で見つけたものが以下の通り。

散文
 芸術家としての女優 『大正演芸』第1巻第3号(大正2年=1913 3月1日 大正演芸社)
 書斎の構造 『建築之日本』第1巻第5号(大正5年=1916 10月7日 建築之日本社)
 「みちのく」に刻んだ亡き夫人への追慕 高村翁・長夜の歓談
 『岩手日報』昭和28年=1953 12月7日
アンケート
 諸家の感想 『製本業報』10月号(昭和2年=1927 10月1日 製本業報社)
短評
 大村正次詩集『春を呼ぶ朝』 林一郎詩集『原始から出た』 共に昭和4年(1929)
雑纂
 芸術家名鑑 『人間』第4巻第1号(大正11年=1922 1月1日 人間社出版部)
 永住を決意して最高の文化建設 高村光太郎氏 岩手で原始生活
 『毎日新聞』昭和20年=1945 11月1日
書簡
 新納忠之介宛 大正12年(1923)1月5日
 木村荘五宛  大正13年(1924)8月4日
 関川常雄宛  大正15年(1926)6月20日
 尾崎喜八宛  昭和21年(1946)6月12日
 硲真次郎宛  昭和30年(1955)11月28日

多くは国立国会図書館さんのデジタルデータ閲覧システムのリニューアルによって見つけました。しかしそれ以外にも都内岩手で足で稼いで掘り起こしたものも。

また、「高村光太郎没後年譜」ということで、昨年1年間の主なイベント、出版物等を紹介しています。

頒価1,000円。奥付を載せておきますのでご入用の方はそちらまで。
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続いて『光太郎資料59』。もともと当会顧問であらせられた故・北川太一先生が出されていた冊子の名跡を受け継ぎ、当会として年2回発行しています。こちらも4月2日(日)、連翹忌の集いご参加の方には無料で配付し、その後、関係の方々等にはお送りしました。

今号は

 「光太郎遺珠」から 第23回 「婦人」(その三)
 光太郎回想・訪問記 高村光太郎との邂逅 常井英晶
 光雲談話筆記集成 西郷隆盛銅像について
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第23回  大洗(茨城県)
 音楽・レコードに見る光太郎  第23回  建てましよ吾等の児童会館 坂本良隆
 高村光太郎初出索引 
 編集後記

です。

送料込み200円でお分けします。コメント欄(非表示可)、当方SNS等からお申し込み下さい。また、10,000円にて37集からのバックナンバーを含め、今後永続的にお送りします。

もう1件。日本詩人クラブさんの会報的な『詩界通信』。
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「12月例会報告」の中に、昨年12月10日に開催された同クラブ12月例会のレポートと、当方の講演「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」の梗概が載っています。

こちらも奥付を載せておきます。
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というわけで、どうも手前味噌で恐縮でした。

【折々のことば・光太郎】

雑誌を只頂いては余りすみません(或る大きな団体等から送られる雑誌に対してはさういふ気もいたしませんが) 私も経済で苦しんで居ます 誰でもさうだらうと思つて居ます それで兎も角一箇年と定めてあるだけお送りいたします 此事はどうか悪い様にとらないで下さい


大正5年(1916)10月7日 中川一政宛書簡より 光太郎34歳

中川一政は画家。一昨年、中川、光太郎、そして熊谷守一の書を中心とした展覧会「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が富山県水墨美術館さんで開催されました。

この書簡は中川が出していた雑誌『貧しき者』の受贈礼状。それまで自分で書店から買っていたのを送ってくれるようになり、代金を前払いするけれど悪しからず、的な。

光太郎、自分の文筆に関しては商業資本の有名雑誌より、こうした同人誌的なものに喜んで寄稿していました(それだけに未だ埋もれている作品が多く存在するわけで)し、購読もそうだったようです。

4月24日(月)、『毎日新聞』さんの滋賀県版に載った記事。

<名品手鑑Ⅱ(めいひんてかがみ2)> 滋賀の博物館・美術館探訪/62 醒井木彫美術館 森大造の多彩な作品群 今にも跳ねそうな「卯」 仏像、干支にちなむ動物信楽焼のレリーフまで/滋賀

 醒井木彫(さめがいもくちょう)美術館のそもそもの発端は、木彫の里出身の森大造(もりたいぞう)(1900~88)の遺作を里帰りして故郷に納める倉庫を探していたことに始まりました。木彫の里は醒井から3キロさかのぼった川筋に、田畑もなく山にかかわる暮らしをした、江戸末期より宮大工に始まる木彫が今日にも伝わるところです。たまたま醒井在住の岩嵜家が、倉庫ではなく木彫の里の現役・物故作家の作品も一緒に森大造の遺作と一般公開する美術館に、という展開が現実になりました。美術館正面の扉は、木彫の里現役作家による天女のレリーフ像でにぎわいます。
  世界の彫刻史はギリシャの代理石像と近世記念碑に見るブロンズ像の流れが主流で、木彫は天災人災で保存が難しく、幸い日本には仏像の形で寺院に多く残されました。木彫の里では、寺院建築の内外を飾る彫刻と仏壇の内陣に見る精緻な伝承の紋様を彫り続け、高村光雲(たかむらこううん)や平櫛田中(ひらくしでんちゅう)に見る人形師系列のリアルな作風を踏襲しています。
 森大造はその流れをくみつつ創意を重ね、個性豊かな一刀彫りの表現による、多彩なモチーフの作品を制作しました。大別すると、祈りの造形である仏像、必ずしも古仏の再現ではなく図象学に基礎を置く昭和の仏像を、微笑薬師やにっこり地蔵など親しい仏像を心がけました。また日本独特の文化を探り、俳句に見る人間模様の造形、芭蕉(ばしょう)、一茶(いっさ)、蕪村(ぶそん)、特に奥の細道と題した美術館にある馬上の芭蕉像は定評の作品でした。一方で究極の動と静を窮めた能彫を、竹生島・小鍛冶・石橋・松風など極彩色のものも多く制作しました。
 最後に木彫を超えて、素材は多岐にわたり、展覧会制作による空間構成を意図した造形です。美術館裏にあるセメントの「楯(たて)」は、戦争中の制作で醒井小学校の国旗掲揚塔に設置されたものでした。なお、彦根城内金亀公園には井伊直弼(いいなおすけ)像、彦根駅前には初代藩主の井伊直政(いいなおまさ)の馬上像、また米原市役所の屋外に見る壁面には信楽焼の陶によるレリーフの家族像が残ります。他に、醒井駅前には霊山三蔵(りょうせんさんぞう)像と居醒(いさめ)の清水には日本武尊(やまとたけるのみこと)の像も。木彫だけでなく造形家の顔も見ることができる作品群です。
 ここでは生活の場にみる動物、今年は干支(えと)の卯(う)年にあたり兎(うさぎ)を掲載しました。ただの兎ですが単純なものほど想をねる作業の繰り返しで、ふくよかでうずくまったポーズの次の瞬間はどこに跳ぶのか、静かな中に動きのある親しい作品です。来年の辰(たつ)は、唯一実在の動物ではなく雲から湧き上がった形になりました。
  森大造発想の原点は日常生活にあり、夜寝ている時と健康を害して臥(ふ)せている時以外は彫刻が頭から離れず、正に彫刻することしか能のない、大は屋外に見る銅像から小は白檀(びゃくだん)の切れ端で女性と子供の装身具までと、一貫した彫刻人生でした。材木屋さんが建築材にならず誰も使わない木材を運び込むと、その中に何かを発想して彫り出すことを楽しみました。神代檜(じんだいひのき)というボソボソの木材で霊山三蔵を、美術館にもレリーフ状の彫刻が二、三収まりました。
 動きも音もなく、昨今のテレビや動画にみるにぎやかで騒々しい趣向から遠く離れて、清流のほとりにある静謐(せいひつ)を極めたたたずまい。そこに、名もなくお金もなくひたすら木を彫り続けた大造さんの作品に囲まれて、こよない平和な時を過ごすことができる空間になりました。

一度行ってみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいるのですが、滋賀県米原市にある「醒井木彫美術館」さん。東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に教えを受け、光太郎とも関わりのあった森大造の作品が多く納められています。
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森と光太郎の関わり、その一。

昭和15年(1940)1月に、数え58歳だった光太郎を講師に招き、東京美術学校倶楽部において座談会が催されまして、その際の司会役が森でした。主催は森がリーダーだった九元社、他の出席者は明治33年(1900)生まれの森と同世代の彫刻家たちなど。この模様は雑誌『九元』第2巻第1号(昭和15年=1940 3月20日)に全文が掲載されています。
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こうした出席者多数の座談会筆録は、元々『高村光太郎全集』には採録されて居らず、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』第6巻(昭和52年=1977)に集成されていますが、この座談はそちらにも洩れていたため、当方編集の「光太郎遺珠⑨」(雑誌『高村光太郎研究(35)』平成26年=2014)に全文を掲載しました。国会図書館さん、日本近代文学館さん等で閲覧可です。

森と光太郎の関わり、その二。

光太郎最晩年の昭和30年(1955)、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺に、木彫の観音像を作って納めて欲しいという依頼がありました。地元では光太郎が承諾する前から趣意書的なものを作成しています。
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しかしもはや光太郎にそんな余力は残って居らず、結局、森が光太郎の代わりに観音像を制作しました。想像ですが、光太郎実弟の豊周あたりを通じて、森に依頼が行ったのだと思われます。

当方、問題の観音像を平成27年(2015)に拝見。この際は堂の扉を開けていただいて拝ませていただきました。

それから、先月、花巻に行った際にも、「『毎日』さんに森の名が出たっけな」というわけで、久しぶりに拝観に行ってみました。

昌観寺さん、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)と同じ太田地区ですが、歩いて行くにはちょっと遠いかな、という場所です。
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境内左手の森の中に観音堂。
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扉の格子の隙間から観音像が拝めます。
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かたわらには、これも森の手になる木彫。観音像寄進の発願主・八重樫甚作という人物を彫ったものだそうです。

どちらもいいお顔をしていますね。

ちなみに『毎日新聞』さんに紹介されていた兎の木彫はこちら。
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面の取り方など、光太郎テイストも感じられます。

というわけで、醒井木彫美術館さん、ますます行ってみたくなりました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夏には一体弱いのですが、今年は尚更暑さにまけて中夏以後殆と半分病人の様な状態で毎日仕事にかかつて居ますので人に会ふのが大変苦しいのです。見た処さうでも無いのですが暑さを堪へて居る辛さが想像以上なのです。仕事をするのでやツと持ちこたへて居ます。そのうち夜にでも参上します。早く涼しくなればいい。


大正5年(1916)8月25日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

夏の暑さを大の苦手としていたのは若い頃からだったのですね。

映画の上映情報です。

昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻 智恵子抄

期 日 : 2023年5月14日(日) 5月18日(木)~5月23日(火)
会 場 : ラピュタ阿佐ヶ谷 東京都杉並区阿佐谷北2-12-21 ラピュタビル
時 間 : 朝10時30分より1回のみ上映 
料 金 : 一般 1,300円 / シニア・学生 1,100円 / 会員 900円
      水曜サービスデー 1,100円均一
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智恵子抄 1967年(S42)/松竹/カラー/125分
 監督・脚本:中村登  原作:高村光太郎、佐藤春夫  脚本:広瀬襄
 撮影:竹村博     美術:浜田辰雄        音楽:佐藤勝
 出演:丹波哲郎、平幹二朗、中山仁、南田洋子、岡田英次、佐々木孝丸

原作は高村光太郎の詩集『智恵子抄』と佐藤春夫の『小説智恵子抄』。岩下志麻が光太郎の妻・智恵子に扮し、出逢いから結婚、発狂から死までを中村登監督の叙情的演出に包まれ好演、代表作の一つとした。
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昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」。光太郎役が故・丹波哲郎さん、智恵子は岩下志麻さんが演じられました。

やはり映画版は、東宝さんで昭和32年(1957)に故・原節子さんと故・山村聰さんで制作され、そちらはVHSビデオが販売、この手の上映会にかかる回数も松竹版より多くあります。
東宝映画智恵子抄
その点、この松竹版は市販の映像ソフト化がされておらず、上映される回数もそう多くありません。ご覧になったことのない方(ある方も)、この機会をお見逃しなく。

ちなみに「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻」自体は先月から始まっており、既に上映が終了したものを含め、ラインナップは以下の通りとなっています。

わが恋の旅路 / 山の讃歌 燃ゆる若者たち / 100万人の娘たち / あねといもうと / 素敵な今晩わ / 暖流 / 智恵子抄 / あかね雲 / 女の一生 / 日も月も / 婉という女 / 心中天網島

【折々のことば・光太郎】

荻原君の胸像は僕が同君に対する敬愛のしるしとして是非とも(御依頼の有無に拘らず)作る意志を持つて居て先年来種々研究いたして居るのですが最近になつて どうもまだ今の僕の想像力の強さでは十分に頭の中にある荻原君を構成する事が出来兼ねるといふ事を確実に知りました


大正5年(1916)2月20日 山本安曇宛書簡より 光太郎34歳

「荻原君」は明治43年(1910)に亡くなった親友・荻原守衛、山本安曇は守衛と同郷の鋳金家で、光太郎実弟の豊周とともに、守衛絶作の「女」の鋳造を手がけました。

この年は守衛七回忌に当たり、浅草橋で帽子商を営んでいた守衛実兄の本十から、光太郎に守衛胸像の制作が依頼されていました。しかし光太郎、今の自分の実力では、モチーフがモチーフだけに不可能、というわけです。謙虚といえば謙虚ですが……。

結局この後も、光太郎による守衛胸像の制作は実現しませんでした。残念です。

時代小説作家・山田風太郎の名著を漫画化したものです。

追読 人間臨終図巻 芸術家編

2023年4月30日 山田風太郎原作 サメマチオ画 徳間書店 定価1,750円+税

著名人923名の死に際を切り取った稀代の名著、『人間臨終図巻』をまさかの漫画化! 第三弾は古今東西の芸術家の「死」を網羅。

山田風太郎の不朽の名著、『人間臨終図巻』から古今東西の芸術家125名を選り抜き、その死にざまを漫画化! 芸術家ならでは? それとも意外と庶民的? いずれにしても驚きに満ちた彼らの「死」に何を思う。

芸術家の死に際の言葉
葛飾北斎「せめてあと五年の命があったなら、ほんとうの絵師になれるのだが」
ルノワール「くそっ、なんてこの世は美しいんだ!」
岸田劉生「マチスのバカヤロー!」
ドストエフスキー「ずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
山下清「人間、死んだら何もできなくなるもんな、やっぱり」
カフカ「僕の遺稿の全部、中身を読まずに焼却してくれたまえ」
高村光太郎「僕は智恵子とふたりでいつも話しあっている」
セザンヌ「私は絵を描きながら死にたいんだ」
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目次
 はじめに
 第1部 ざっくり700年代~1700年代生まれの人
  第1話 白楽天 ミケランジェロ ラファエロ 千利休 モンテーニュ
  第2話 セルヴァンテス 本阿弥光悦 レンブラント 尾形光琳 デフォー
  第3話 尾形乾山 スウィフト 蕪村 池大雅 カザノヴァ
  第4話 上田秋成 サド侯爵 ゴヤ 司馬江漢 ゲーテ
  第5話 喜多川歌麿 鶴屋南北 良寛 葛飾北斎 山東京伝
  第6話 小林一茶 十返舎一九 滝沢馬琴 スタンダール グリム・兄
  第7話 グリム・弟 バイロン 梁川星厳 為永春水 安藤広重
  第8話 ハイネ ドラクロワ プーシュキン バルザック ユゴー
 第2部 ざっくり1800年代前半生まれの人
  第9話 デュマ アンデルセン ドーミエ ポー ミレー
  第10話 ツルゲーネフ ボードレール フローベール ドストエフスキー 狩野芳崖
  第11話 イプセン トルストイ マネ ドガ 橋本雅邦
  第12話 マーク・トゥエイン 富岡鉄齋 マゾッホ セザンヌ ロダン 
  第13話 ゾラ ルノワール ヴェルレーヌ アナトール・フランス ゴーギャン
 第3部 ざっくり1800年代中盤生まれの人
  第14話 ストリンドベリ モーパッサン スティヴンソン ゴッホ フェノロサ
  第15話 コナン・ドイル 岡倉天心 ハウプトマン ムンク ロートレック
  第16話 マチス H・G・ウェルズ ロマン・ロラン ライト 横山大観
  第17話 ゴーリキー ジイド プルースト 平櫛田中 菱田春草
 第4部 ざっくり1800年代後半~1900年代生まれの人
  第18話 サマセット・モーム リルケ フットレル トーマス・マン ヘルマン・ヘッセ
  第19話 熊谷守一 ピカソ ツヴァイク 会津八一 青木繁
  第20話 坂本繁二郎 ジョイス ユトリロ 高村光太郎 小林古径
  第21話 カフカ モディリアニ 竹久夢二 ローレンス 藤田嗣治
  第22話 リーチ 安井曾太郎 梅原龍三郎 チャンドラー 高見沢遠治
  第23話 アガサ・クリスティ 岸田劉生 木村荘八 速水御舟 佐伯祐三
  第24話 村山槐多 林武 東郷青児 ヘミングウェイ サン=テグジュペリ
  第25話 岩田専太郎 棟方志功 近藤日出造 谷内六郎 山下清
 おわりに

日本の美術家、海外の文豪と美術家が集められています。配列は生年順、各人1頁です。
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我らが光太郎も含まれ、帯文にも名を挙げて下さっています。「僕は智恵子とふたりでいつも話しあっている」は、晩年に親しかった美術史家の奥平英雄に語った言葉から。
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また、光太郎と親交のあったバーナード・リーチ村山槐多の項で光太郎の名が出ている他、光太郎と交流のあった人々も多数。ロダン岡倉天心平櫛田中藤田嗣治、安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生木村荘八など。ところが、光太郎の父・光雲や、親友・荻原守衛の名があってもいいところですがありません。元々、山田風太郎の原作でも扱われていません。ちょっと不思議な気がします。

それから、日本の文豪系(宮沢賢治や与謝野晶子、森鷗外に北原白秋といった面々)も他の巻で扱われているようで、この巻には載っていません。

ちなみに山田の原作で取り上げられているのは全923人。死亡時の年齢順に上下2分冊で徳間書店さんから昭和61年(1986)、62年(1987)に刊行されました。漫画版は徳間さんのPR誌『読楽』に連載中のようです。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の眼は未だにいけません その為め仕事をまるで休んでゐます。少し無理をして仕事するとたちまち眼にひゞいて来るので閉口して毎日医者に通つてゐる始末です 水野君の『砂』の挿画もそのためかけないで居ます。


大正5年(1916)5月17日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎34歳

体格もよく頑健だった光太郎ですが、意外なところで医者通いをすることもありました。留学中は歯の治療、この頃は角膜炎でした。翌年にも眼疾で手術を受けています。

水野君の『砂』」は、親友、水野葉舟のローマ字詩集です。確かに挿画は入っていません。ただ、表紙には木版風の絵。光太郎の手になるものと思われますが、記述がないため確証がありません。
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まずは地方紙『福島民友』さん、昨日の一面コラム。

編集日記 智恵子の生誕祭

「我(わ)が長沼智恵子などは、男をも凌(しの)ぐ新しさを持って、花のやうな未来を楽しんでゐる」。油井村(現二本松市)出身の画家高村智恵子は独身時代の1912年、大手新聞で「最も新しい女画家」と紹介された▼この評判に、夫の芸術家高村光太郎は後年、妻は無口で非社交的だったと「智恵子回想」で当惑気味に記した。ただ、この年26歳の智恵子は女性雑誌「青鞜(せいとう)」の表紙を描き、東京・上野の絵画展に出展するなど、充実した活動を送っていたのは確かだ▼その後、彼女は貧しい結婚生活の中で病を重くし、画家として世に出ることはなかった。今も広く知られるのは詩集「智恵子抄」のヒロイン、詩集を著した光太郎の妻として。そう考えるとやるせない▼智恵子の誕生日5月20日に合わせ二本松市の智恵子の生家と記念館で「生誕祭」が開かれている。そこで26歳の智恵子と出会える。青鞜の新年会の集合写真の真ん中で、彼女は編集長の平塚らいてうらを従えるように存在感を発揮している▼今や「女流」の言葉は消え、県内でも若手アーティストたちが個性を発揮する。そんな「花のような未来」を切り開いた一人が智恵子だった。写真の彼女を見ると、その思いが強くなる。

「大手新聞」は『読売新聞』。明治45年6月5日に連載「新しい女」の第17回として、以下の文章が載りました。
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△最も新しい女画家 日本の洋画界は日に日に新しい方へ新しい方へと進んで行く、印象派、後期印象派――未来派はまだ現はれないが、ホイツスラアはもうズツト古くなつて、ゴオホやゴオガンが、そこらこゝらに大胆な色彩と運筆とを競つてゐる。然し、それは男だけで、女には吉田ふじを、吉田ゆき子など油を溶くもののあるはあるが、皆忠実な『写す人』に過ぎない、この中にあつて我が長沼智恵子などは、男をも凌ぐ新しさを持つて、花のやうな未来を楽しんでゐる
△郊外の新屋 府下高田村雑司ヶ谷七百十九、鬼子母神境内の墓地を過(よぎ)つて埃の白い街道を左へ郊外の閒(しづ)かさを飽迄も吸つた新築の家、夫(それ)は六畳と四畳半と丈の、小さくて明くて、サツパリとしてそれ自らが画室の様だ、こゝに妹と二人で住んでゐる、室の一隅には露西亜更紗の三尺四方ばかりの上にプリミチブな泥人形やハリコ人形などが赤く青く白く黒く黄いろく散らかしてあり、床の間には古い印度瓶へ自分でエヂプト風の図案(デツサン)を描き、それに挿した芍薬の花が、もう萎れている、その傍にはやゝ大きな額縁が二つ、自由な意匠の小さな壺が三つ四つ、窓の前の卓子(テーブル)にはグラス函入の絹鞠が光り、その下の机には巻紙に何やら細かく書きかけてある、絵の具箱、カンバス――このほかには箪笥もなく鏡台も見えない、かうした周囲を背景にして、素袷の襟を搔きあはせつゝ赤白の碁盤縞の布をかけたチヤブ台の前に坐つた二十四歳の、新しい女の芸術家を、まづ想像して見たまへ
△女子大学出 女史の故郷は岩代国二本松、家は酒商、同胞(きようだい)は八人、三十六年に上京し女子大学校附属の高等女学校を卒業後すぐ同大学の家政科に進んだ、コクメイな家政科の学課が気分に合はなかつかことは言ふまでもないが、父は父として愛する娘を『女』にすることを誤まるまいとした。然し金はありあまるほどなので、四十二年に卒業して後は好きな画を描いて過すことを拒みはしなかつた。それで太平洋画会へ入つたが、辺り近所でモデルと首つ曳きでコツコツとやつてゐるのを見るとバカらしくてたまらない、四五十人の間にあつて女史のカンバスにだけはいつも自分の『心もち』が表はれた、然しその自由な形、自由な筆は、決して近ごろの流行に始まつたのではない、子どもの時、好んで土蔵の壁や石板へ『へのへのもへじ』や『てんぐ』を書いたものだが、其罪のないプリミチブな処こそ今もなほ尊く思はれるといふ
△ケチな芸術に非ず 『好きなのは、やはりゴオガンのです』話す時、その声は消えるやうに低くなる、『この頃描きましたのは――』と立つて壁によせかけた小さな板を裏返して『ぢきこの近くなのです』、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といひ草の葉といひ、女とは思はれぬほどつよくそして快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思ひだしたので、そのことをいふと『えゝセザンヌもほんとにようございますわね』と子どもらしく口を開いて目をほそめた、好んで行くのは浅草の池の辺(ほとり)あの活動写真の小舎(こや)などの毒毒しい色彩がたまらないさうな、けれども売らなければ食へないといふのではない、そんなケチな芸術ではない、また世の中に知られようとも思はない、自分の芸術は自分のための芸術なのである、それで展覧会へも出品したことはなかつた、この春はじめて太平洋画会へ出品したが、『紙雛』の一枚は、すぐ売れてしまつた、美術界には盲はゐない、然し自分では『ホンノ小さな板ツぺらなのですの、』と嬉しいとも何んとも思はないらしかつた、やがて手づから台所へ行つて運んだ茶盆の上には赤と青との太い線を引いた茶碗と土瓶とが午後の光に浮かぶやうにのせられてあつた


全体のトーンとしては、好意的ですね。『青鞜』の面々に対しては非難囂々だったこの当時、珍しい評です。ところどころ史実と異なるところがあるのですが。

また、『福島民友』さんにある「青鞜の新年会の集合写真」はこちら。
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場所は大森の富士川という料亭。中央が智恵子、右から小磯俊子、平塚らいてう、保持研、左端が荒木郁子。なるほど、『福島民友』さんにあるように「真ん中で、彼女は編集長の平塚らいてうらを従えるように存在感を発揮してい」ますね(笑)。当方の考えとしては、こうした会合に智恵子が顔を出すことが稀だったので、そのため特別待遇で最前列中央に据えられたのではないかと思うのですが。

この写真、『青鞜』の明治45年1月号に掲載されました。同じ号には新年会のレポートも載りました。智恵子に関わる部分はこちらに抜粋してあります。

ところで最近、この時代の智恵子評で、これまでの光太郎智恵子関連書籍に載っていなかったと思われるものを見つけました。上記写真右端の小磯俊子が書いたものと思われます。智恵子だけでなく、らいてう、荒木郁子、尾竹紅吉らについても述べられていて、「青鞜の女」という題にまとめられています。掲載誌は『女子文壇』第8巻第10号、大正元年(1912)10月号です。
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智恵子に関する部分はこの通り。

 夢から出て夢を通り夢に入る。さう云つた様な永沼さんといふ人。
 永沼智恵子――かう書いて私は永から手を出さうか智から手をつけて見様(みやう)か迷つて仕舞ふ様なまぼろしの女、其の人の話をじつと聞いて居ると、何処からどう声が出てどう通つてどう耳に流れ込むのか判然しない様な調子で話されてぶつつり、かと思ふとぼうつと尾が切れて仕舞ふ。暗い時に、人の居ない処で、かう云ふ声でかう云ふ調子で話しかけられたら、気の弱い女はふるへ上るかもしれない。
 綿をまるめてぶつつけたやうに、フワリとぶつかつて後(のち)は、ヒトダマの消える様に消える永沼さんと云ふ人は、すべての人をうつゝにおびき出す魔女の様だ。
 無気味で手の出しにくひ小さい目と、植木鉢をさかさまにして、その上に石をのせたのをかぶつて居る様な髪の後形(うしろかたち)とが、自身の性格の、いつはりなきあらはれぢやあるまいか。
 夏の真昼になまぬるいサイダーを歯の奥でかみしめる時、其の目とその髪型とを思ひ出さずには居られない。


語尾がはっきりしないしゃべり方だったけれど、それが不思議な魅力でもあったという智恵子の特徴がよく表されていますね。

既にお気づきと思いますが、智恵子の旧姓「長沼」が「永沼」と誤記されています。そのため、これまでに刊行された光太郎智恵子関連書籍に洩れていたのではないかと思われます。もっとも、よくよく探せば何処かには引用されていたかもしれません。どうも当方、この世界に入って最初の頃に読んだ文献は細かいところまで覚えていないきらいがありまして……。「これ、この本のここに載ってるよ」というのがありましたら御教示いただけると幸いです。

ところでこの文章、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、発見しました。正攻法ではなく搦め手からの発見です。ひねこびた性格の当方ですので、「昔から誤記や誤植はあったはず」と、光太郎智恵子の名、考えられる誤植のパターンで検索をかけた中で、「永沼智恵子」と入れてみたら見事にこれがヒットしたのです。

実は他にもありまして、「高村智恵子」ではなく「高村智慧子」で検索してみたところ、驚くべき発見もありました。大正12年(1923)6月1日発行の『女性日本人』第4巻第6号です。
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この号には「女性の好む男と男性の好む女のタイプ」というアンケートが掲載され、生田花世ら12名が回答を寄せていますが、智恵子のこの文章はそれに回答できなかった詫びで、巻末の「おたより」欄に別途掲載されています。たったこれだけの短いものですが、智恵子の遺した文章は絶対数が少ないので、これだけでも大きな発見といえます。

ちなみに智恵子は前年11月の同誌第3巻第9号に「哀憐な美しさを見ます」「芝居好きの婦人と読書好きの婦人と」の2本のアンケート回答を寄せていて、そちらは既刊の光太郎智恵子文献に掲載されています。ただ、これも当該号の目次欄では片方が「高村智慧子」と誤植されていました。

過日もお伝えしましたが、これまで広く紹介されていなかった智恵子写真や智恵子装幀の書籍などを見つけることもでき、ここにきて新たな智恵子の姿がまた見えてきたような気がします。

さて、「智恵子生誕祭」、さまざまなコンテンツが用意されています。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

「アルス」昨夜拝見。大変きれいに出来ました。お喜びを申上げます。「ランスの本寺」の訳文の文章の拙いのに心を痛めてゐます。ロダンに済まない気がしてなりません。どうかして其の償ひをしたい気がしてゐます。あゝ済まない、済まない。あの美しい文章がこんなになるとは何といふ事だらう。 あんまり字句に忠実すぎて却て堅くなり過ぎました。自分の馬鹿。


大正4年(1915)4月5日 北原白秋宛書簡より 光太郎33歳

アルス」は白秋が出していた雑誌で、この月に創刊されました。光太郎はロダンの翻訳「ランスの本寺」を寄稿していますが、それが納得行かなかったようで……。

その後の『アルス』に載せ続けた訳などを集成し、翌年には訳書『ロダンの言葉』が刊行されます。

先月2日、3回連続でコロナ禍により中止していた光太郎忌日・連翹忌の集いを4年ぶりに執り行いました。初めてご参加下さった方も多く、また少し輪を広げることができたかな、と感じました。

そうした中で、集まった方々の光太郎智恵子愛に啓発というか、触発というか、そんな感じで新たにいろいろなさった方の活動をご紹介します。

まず詩人の吹木文音氏(連翹忌にはご本名でご参加)。玉稿の載った同人誌をご送付下さいました。福島の「北方詩の会」さんで刊行されている『北方』。季刊のようで、今年1月の190号と4月の191号をお送り下さいました。
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002光太郎智恵子がらみですと、191号に「憧憬 智恵子の彩り」という散文。連翹忌の集いの様子にも触れて下さった上で、簡にして要を得た智恵子評伝。曰く「容姿、造作、衣服に止(とど)まらない、人間性から輝き出す真の彩り。憧れの智恵子に倣って、私も磨いてゆきたいと思う」。

また、190号に載った「白河の関に寄せて」という散文でも「高村光太郎の「智恵子抄」で「ほんとの空」と謳われた安達太良山の向こうの青空を求めて旅する人は、今も後を絶ちません」のひと言。ちなみに吹木氏ご自身は栃木県にお住まいですが。

奥付画像を貼っておきます。ご入用の方はご参考までに。

吹木氏、智恵子を主人公とした小説なども書いてみたい、的なこともおっしゃっています。期待大ですね。

もうお一方、茶山千恵子氏。富山県ご在住、彼の地で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている方です。大学が家政科食物栄養専攻だそうで、料理の腕前もプロフェッショナル。ご自宅を開放して、ランチやらスイーツやらを予約の方々に振る舞われる活動もなさっています。

で、今月14日から、月に一度、「光太郎ランチ」だそうで。
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元ネタが、岩手花巻で光太郎の顕彰活動をいろいろやられているやつかの森LLCさんで一昨年発行された「光太郎の食卓カレンダー」。かつて『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載されていた「光太郎レシピ」をカレンダーにしたものです。

発行当時、これをごっそり戴いたので、SNSで「ご入用の方、送料のみでお頒けします」的な書き込みをしたところ、茶山氏も食いついてこられ(笑)お買い求め下さいました。で、今年の連翹忌でやつかの森LLCの方々とお会いになって許可を取り、再現なさるそうです。ただ、今月分は既に予約がいっぱいだとのことですが。

これを饗しながら、光太郎智恵子についてもレクチャーをして下さるようで、有り難いかぎりです。茶山氏のレポート等が届きましたらまたご紹介します。

以前も連翹忌の集いを通してお知り合いになった方々がタッグを組んで新たな活動を始められたりということが多々ありました。遠く昭和の世にもそういうことがあり、埼玉県東松山市に光太郎胸像を含む高田博厚の作品群を並べた「彫刻プロムナード」が出来たのも、同市教育長であらせられた故・田口弘氏が連翹忌の席上で高田と意気投合したのがそもそもの始まりと聞いています。そうした例はたくさんあったのでしょう。

そして今後もそうした例がふえることを願って已みません。やはり人々が直接顔を合わせ、その上で共鳴し合ったり、新たな出会いを通して新たな方向性が見えてきたりといったことがあるはずです。そういうきっかけを作れる場としての連翹忌の集いでありたいと思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

「道程」をみてくれた相で恐縮した 本来なら贈るのだがどうもあんまり不満足な作ばかりなのでつひ止して居た 「道程」はまだ駄目だ ただ此からやつと行ける道が見えただけだ まだ道程にも上つて居ない事が解つた あれを出した為めに自由になつた気がするだけはよかつた

大正3年(1914)12月27日 柳敬助宛書簡より 光太郎32歳

この月22日に行われた智恵子との結婚披露宴出席の礼状を兼ねた書簡から。10月に刊行した詩集『道程』に触れています。

智恵子との結婚も果たし、まさしく「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という心境だったのでしょう。しかし、それはある意味、「茨の道」でもあったのですが……。

昨日全国公開開始の映画「銀河鉄道の父」。早速拝見して参りました。宮沢賢治の父にして、光太郎と親交の深かった政次郎を主人公とするものです。
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原作は門井慶喜氏の直木賞受賞作。平成29年(2017)にハードカバーで講談社さんから刊行され、令和2年(2020)には文庫化も為されています。

原作では、光太郎は名前がちらっと挙げられている程度で、大正15年(1926)12月の賢治と光太郎の出会いは省略、賢治が没した直後で物語が終わるので、その後の政次郎ら一家と光太郎の交流も描かれていません。映画でも光太郎は登場しませんでした。「家族のドラマ」に焦点を当てていますので、賢治の交友関係などは元々あまり描かない方針だったようです。他の賢治もので必ずといっていいほど触れられる保阪嘉内藤原嘉藤治なども登場しません。

ただ、光太郎と親しく交わった宮沢家の面々の物語ということで、興味深く拝見しました。
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この中で、賢治の妹・トシと祖父・喜助は光太郎と面識はありませんでした。
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この写真では、左端が政次郎、一人置いて光太郎、その後の中腰が清六、右から二人目がイチです。トシよりさらに下の妹のクニとシゲ(どちらも映画にちらっと登場)も写っています。

光太郎の右のチョビ髭は、賢治主治医でのちに光太郎が花巻郊外旧太田村に移る直前に1ヶ月厄介になった佐藤隆房。映画では益岡徹さんが演じられていました。
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公式パンフレット(880円)も購入。賢治の『春と修羅』をモチーフにしたデザインです。
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この中に「宮沢家ゆかりの花巻マップ」というページがあり、「雨ニモマケズ」詩碑は光太郎の揮毫である旨の記述。
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光太郎揮毫といえば、賢治没後を描いた映画のラスト近く、光太郎が装丁した文圃堂版『宮沢賢治全集』が政次郎の元に届き、それを手にとって読むシーンがありましたが、背の文字、光太郎の筆跡に似せて作られていました。
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花巻といえば、花巻でも当然ロケが行われています。
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しかし、宮沢家の店舗や住居、花巻の街並みなど多くのシーンは、岐阜県恵那市の岩村地区で撮影されていました。
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こちらは旧中山道の宿場町で、当方の住む千葉県香取市佐原地区同様、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

当方、一度、こちらの街並みを歩きました。このブログを始める前の平成21年(2009)でしたので、ブログ内にレポートは存在しませんが。街並みが尽きて、岩村城に上がっていく山の麓の辺りに、「浅見与一右衛門銅像」が現存します。現在あるものは、戦時中の金属供出を経ての二代目で、この辺り出身の彫刻家の作。しかし、供出された初代の像は大正7年(1918)、光雲の代作として光太郎が作ったものでした。初代の台座は現在も残っています。二代目の像も初代の像を模して作られたようです。

岩村でのロケが行われたということは公式サイトで事前に知っておりましたので、なるほどねと思いつつ拝見しました。

それにしても、原作の小説もそうでしたが、役所広司さん演じる政次郎の親バカぶりが何ともすごいものでした。また、菅田将暉さんの賢治の駄目息子ぶりも。原作でも賢治最晩年の東北採石工場勤務の件はカットされていましたが、映画では花巻農学校の教壇に立っていたこともスルー(羅須地人協会で農民に講義をしているシーンはありましたが)。まぁ、2時間ほどの尺の中でまとめなければなりませんし、ニートとして描いた方が賢治の駄目っぷりが強調されるような気はしました。しかし、コアな賢治ファン、中に少なからず存在するであろう神格化に近い賢治信奉者の人々にからは批判が起こるような気もします。

何はともあれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

この間はお忙がしい中をおいで下さつて恐入りました それに又美しいブーケ迄頂戴して本当にうれしくおもひました まだあの蘭がにほつて居ます 長沼さんはあなたにはじめて紹介されたのが知り合ひの初めなので何だか特別にあなたにお礼を申さねばならない様な気がします


大正3年(1914)12月27日 柳八重宛書簡より 光太郎32歳

柳八重は光太郎の親友の画家・柳敬助の妻にして、日本女子大学校での智恵子の先輩。明治44年(1911)、智恵子に光太郎を紹介する労を執ってくれました。

この間」は12月22日、上野精養軒で開催された光太郎智恵子の結婚披露宴です。この日は真冬の関東にしては珍しく、豪雨でした。これから始まる二人の結婚生活(それ以前から同棲はしていたようですが)の行く末を暗示している、などと書くと恣意的な解釈をするな、と言われそうですが。

地方紙2氏から、冊子の刊行に関する報道を2本。

まずは『岩手日日』さん。過日ご紹介した、花巻市さん刊行のThe Onsen of Hanamaki 花巻温泉』について。

温泉郷の記憶、英語で発信=岩手県花巻市

 岩手県花巻市は、彫刻家・詩人の高村光太郎が市内の温泉に滞在した際の思い出を語った「花巻温泉」を英訳し、A5判52ページの冊子を作った。簡易な板で仕切られた“混浴”で起きるドタバタなど、1945年から52年にかけて花巻で暮らした光太郎が体験した情景が描写されている。
 地元の旅館関係者らによると、外国人客の多くは花巻に宿泊しても、すぐに他市町村の有名な観光スポットに流れてしまうのが悩みの種。ガイドブックには今の情報しか書かれていないのが一般的だが、過去に目を向け、在り続けるものと消え去ったものに気付いてもらうのはどうかと考えた。制作を企画した地域おこし協力隊の森川沙紀さん(36)は「光太郎が暮らした頃から今へと、時間の旅を楽しむガイドになれば」と話している。
 日本語の原文を併記。100部を制作し、学校や旅館などに配布する。
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花巻市さんのサイトにも紹介が出ています。ご覧下さい。

ただ、普通に販売しても十分に売れると思われるクオリティなのですが、商売っ気があまりないようで、PDFファイルで全文の公開なども為されています。しかし、英訳なさった森川氏からのメールに依れば、好評なら増刷ということだそうで、ぜひそうあってほしいものです。

続いて信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん。

碌山館の変遷 小冊子に 初代は新宿中村屋敷地内

 安曇野市穂高出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の功績を伝える碌山美術館(安曇野市穂高)は開館記念日(4月22日)に合わせ、小冊子『三つの碌山館-荻原守衛顕彰110年のあゆみ-』を刊行した。開館65周年の節目に合わせ、日本近代彫刻の先覚者、碌山の作品資料を保存・展示してきた「碌山館」の歴史を振り返った。
 没後、大正6(1917)年まで、新宿中村屋の敷地内に開設された碌山館、その後郷里へ移された作品資料を昭和33(1958)年まで公開した生家一角の碌山館、そして、昭和33年に開館し赤れんがの外観で愛される現在の3代目の碌山館の変遷を紹介した。
 武井敏学芸員(49)が執筆。資料を読み解く中で新たな見解も見いだした。これまで明治44年とみられてきた新宿中村屋への生前のアトリエを移築した時期について「遅くとも明治43年9月3日までには移築されていたと考えられる」と認識を改めた。武井学芸員は「碌山館とは、美術を欲求する学生らが飢えをしのぐ刺激を得た場であり、美術教育の代替えの場であった」とし「没後直後から今日まで途切れることなく、碌山の作品が公開され続けてきた成果は大きい」と考察する。
 B6判87ページ、税込み400円。問い合わせは碌山美術館(電話0263・82・2094)へ。
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『三つの碌山館』、4月22日(土)の第113回碌山忌の折に戴いて参りました。何か所かで光太郎にも触れられています。
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碌山美術館さんから取り寄せることも可能でしょう。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

却て近い友達にはあらたまつて話しにくいものだ 君は今雑誌の事で多忙だらうとおもふが三四日うちに牛鍋でも一緒にたべたいとおもつて居る 水野君もびつくりして居た 併し僕はこの事については考へるだけのことを考へたつもりでゐる


大正3年(1914)12月26日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎32歳

「この事」は智恵子との結婚です。

3件ご紹介します。

まず再放送。初回放映が先月15日でした。

アートフルワールド 〜たぶん、すばらしき芸術の世界〜 #47 いま会いに行ける銅像

BSフジ 2023年5月6日(土) 13:30~13:55

「世界はアートに満ちている。」をテーマに、アートの世界を様々な視点から紹介し、その多種多様な楽しみ方も合わせてお伝えする。

 街を歩いていると、ふと出会い、注目をして歩くと実にさまざまな場所にいる「銅像」。身近にあるけど、よく知らない、知るほどに謎が深まる「銅像」の世界を紐解いていく。
 今回、アートの冒険に出かけるのは女優の坂東希。長年、銅像を研究しているスペシャリストと共に、皇居外苑にある東京三大銅像と言われている銅像や、日本彫刻界の重鎮が制作した銅像など都内にある様々な銅像を巡る。
 さらに、当時の彫刻家たちに多大な影響を与えた「考える人」で有名なオーギュスト・ロダンなどについても話を伺う。

出演者 坂東希 平瀬礼太(愛知県美術館副館長) 山枡あおい(国立西洋美術館研究員)
ナレーション 松本穂香
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光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校として請け負った、皇居前広場の「楠木正成像」が大きく取り上げられた他、番組後半では日本に於けるロダン受容の歴史等についてで、光太郎の名も。
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もう1件、再放送系で。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2023年5月8日(月) 17:58~19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

楽曲1
「大江戸出世小唄」合田道人 「東京音頭」香西かおり 「東京ラプソディ」大川栄策
「九段の母」塩まさる 「東京ブルース」淡谷のり子 「夢淡き東京」ボニージャックス
「東京の屋根の下」貴津章 「東京ブギウギ」森サカエ
楽曲2
「君の名は」青山和子 「東京ティティナ」生田恵子 「東京だより」三船浩
「東京のバスガール」初代コロムビアローズ 「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「東京ドドンパ娘」渡辺マリ 「東京五輪音頭」福田こうへい 「あゝ上野駅」松原健之
「新宿そだち」津山洋子、高樹一郎

<司会>合田道人

物故者を含め、過去の歌唱映像の再編で構成されている番組。令和2年(2020)に亡くなった二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)も流れます。亡くなって以来、何度かこの手の番組で取り上げられ続けています。
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「智恵子抄」、智恵子の故郷・福島二本松を舞台とした一種のご当地ソングですが、その二本松がらみの番組も。

明日をまもるナビ(81)未来へ しあわせ運べるように〜福島・子ども合唱団

地上波NHK総合 2023年5月7日(日) 10:05~10:50

「福島しあわせ運べるように合唱団」。東日本大震災のあと、歌を通じて人々を勇気づけ、復興を後押しする福島二本松市の子供たちの姿を10年にわたり密着取材。

阪神・淡路大震災のあと神戸で誕生した合唱曲「しあわせ運べるように」を受け継いだ福島の子ども合唱団。原発事故で故郷に帰れなくなった人たちに歌を届けてきました。指導する佐藤敬子先生が目指すのは、歌を歌うだけでなく、実際に被災地を訪れ人に出会い、子どもたち自身が考え言葉にしてみんなで話し合い、生きる力を育むこと。合唱団は、大震災で心の傷を負った子どもたちをケアする役割も果たしました。

【司会】塚原愛 【語り】富田望生

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二本松ということで、「ほんとの空」的な紹介があるといいのですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

かねて御手がみがあつてからも既に数ヶ月を経ましたが、漸く貴下の為めにと思つて始めた画が出来ました。日光の山の絵です。すでに紅葉は散り去り、すべて枯葉色の少雨の山の画で、これならばお送りしてもいいと思つて居ります。

大正3年(1914)11月11日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎32歳

渡辺湖畔は新潟・佐渡島の素封家にして、与謝野鉄幹・晶子の新詩社で活躍した歌人。

この時期、詩集『道程』の自費出版やら、智恵子との結婚披露やらで物入りだった光太郎、自信を持っていた油絵で勝負をかけます。
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渡辺の他にも、福島の伊藤隆三郎、滋賀の野田守雄などが光太郎の絵を画会から申し込みました。また、「連翹忌」名付け親の佐藤春夫もこの時期、自身の肖像画を光太郎に依頼、以後、光太郎が没するまで親交が続きます。しかし、自分の制作にこだわりの強い光太郎、なかなか描画がはかどらず、あまり多くの注文に応えることは出来ませんでした。

ちなみに渡辺に送った日光の絵、永らく所在不明でしたが、平成12年(2000)にひょっこり出て来、その後、平塚市美術館さんなどを巡回した「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」に出展されました。
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どうでもいいことではありますが、このブログ、12年目に突入しました。昨日まで11年間、1日も休まずに更新しています。どこまで続くか自分でも楽しみです(笑)。

閑話休題。智恵子の故郷、福島県二本松市での智恵子生誕祭。さまざまなコンテンツの総称です。

『広報にほんまつ』さんの今月号から。
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先陣を切って始まった、紙絵の実物展示に関し、地元紙『福島民友』さんが報じています。

智恵子の紙絵実物を展示 二本松、記念館で生誕祭

005  二本松市の智恵子の生家・智恵子記念館は27日、同市出身の美術家高村智恵子の誕生日の5月20日にちなんだ恒例イベント「生誕祭」を始めた。5月21日まで、紙絵の実物展示や智恵子の居室特別公開など多彩に繰り広げている。
 実物展示は年2回行われ、今回は「菊」「白い小鉢」「花パターン」など10点を5月7日まで公開している。また女流画家を目指すなど自分を貫く生き方をした智恵子のエピソードを紹介、来館者にメッセージを書いてもらう企画も行っている。
 生家では29日からの大型連休中と土、日曜日に、普段公開していない智恵子の居室を特別公開する。5月13、14、20、21日には同市の伝統工芸「上川崎和紙」を使い、しおりなどを作る制作体験も行われる。
 開館時間は午前9時~午後4時半(最終入館は同4時)。水曜日休館(3日は開館)。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

もう1件、若干先の話ですが、やはり『広報にほんまつ』さんから。

智恵子のまち夢くらぶ主催 高村智恵子生誕祭 智恵子を偲ぶ鎮魂の集い

期 日 : 2023年5月21日(日)
会 場 : 智恵子純愛通り記念碑前(雨天時は智恵子の生家前)
時 間 : 9:00~14:00
料 金 : 一般 2,000円 中高生1、000円(昼食、入館料、保険含む)

内 容 
 第1章 智恵子ゆかりの地を巡る
 第2章 「樹下の二人」詩碑建立40年記念朗読会 参加者による一人一作品の朗読
 第3章 高村光太郎生誕140年記念「智恵子と光太郎を語る昼食会」 かねすい智恵子の湯

問い合わせ 智恵子のまち夢くらぶ 0243-23-6743

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こちらのイベントは市の主催ではなく、地元で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さん。

ふるってご参加下さい。

【折々のことば・光太郎】

Please acept my little book which has just been published. These are poems ; not so-colled poems. I simply hope that I live and breathe in them.


大正3年(1914)10月20日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎32歳

邦訳は以下の通り。

今度公刊された僕の小さな本を受け取って下さい。これらは僕の詩です。世に言う詩ではない。僕はこれらの中に生き、呼吸したいと願う。

「僕の小さな本」は、光太郎第一詩集『道程』です。奥付では25日発行となっていますが。
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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がらみで3件。

まずは『八戸経済新聞』さん。

十和田湖遊覧船が今期の運航開始 船からしか見られないスポットも

 春の行楽シーズンに合わせ、十和田八幡平国立公園に指定される十和田湖の見どころを船で巡る「十和田湖遊覧船」の今期の運航が4月28日、始まる。
 運航は十和田観光電鉄。奥入瀬渓流側の子ノ口(ねのくち)と乙女の像や飲食店などが並ぶ休屋(やすみや)を結ぶAコースと、休屋を発着点とするBコースを運航する。
 遊覧船は、青森ねぶた祭や八戸三社大祭の山車の題材にも使われる南祖坊(なんそぼう)と八ノ太郎(はちのたろう)の「十和田湖伝説」や、田沢湖(秋田県)・支笏湖(北海道)に次いで全国で3番目に水深が深いことなど、十和田湖にまつわる物語や豆知識の解説を交えながら名所を巡る。ゴールデンウイークの4月下旬~5月上旬ごろは新緑を目前に控えた淡い色合いの景色が広がり、5月中旬~6月上旬ごろは鮮やかな新緑が楽しめる。
 同社によると、中山半島の先端付近で傘のように枝を広げる「見返りの松」や、3キロにわたって断崖が広がる御倉半島の「千丈幕(せんじょうまく)」、火山噴火の影響で形成された赤い岩肌が見られる「五色(ごしき)岩」などは、「船で行かないと見られない名所」だという。
 同社では、マイカーで十和田湖を訪れる場合は有料駐車場のある休屋発着のBコース、観光バスなどで訪れる団体客にはAコースの利用を勧めている。
 料金は、大人=1,650円、小学生=880円。3階に用意するグリーン席の追加料金は、大人=550円、小学生=330円。今期の運航は11月6日まで。
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何度か載せていただきましたが、湖上から見る風景はまた違ったものですし、海とは違い波もほとんど無くおだやかなクルーズです。北国の春を楽しむにはもってこいでしょう。

同じく船の関係で、ローカルテレビ局RAB青森放送さんのニュースから。

八戸港 4年ぶりクルーズ船

 八戸港に4年ぶりに大型客船が寄港しました。
 ことしは初めて外国客船の寄港も予定されるなど、県内観光の盛り上がりが期待されます。
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 けさ八戸港に入港したのは大型客船「飛鳥Ⅱ」5万142トンです。
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 2019年5月以来およそ4年ぶりとなる大型客船の寄港。
 埠頭では地元の観光関係者が大漁旗を振って歓迎しました。
 「飛鳥Ⅱ」は横浜港を23日に出て常陸那珂や大船渡を巡る6日間の船旅です。
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 あいにくの雨模様とはなりましたが、およそ140人の乗客たちはさっそく貸し切りバスに乗り込み十和田湖・奥入瀬渓流や蕪島・種差海岸などに向かいました。
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★神奈川から
Q.どうですか船旅は?
「楽しいです」
「いろいろなところを見て歩きます 乙女の像にも行ってきます」
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★京都から
「きょうだけねちょっと雨が残念ですけれど 奥入瀬初めてなのでものすごく楽しみにしていたんです」
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★VISITはちのへ 阿部寿一 専務理事
「本格的な観光の始まりというのを実感しています おもてなしの心を大切にしてお出迎えに対応していきたいと思っています」

 八戸港にはことし大型客船4回の寄港が予定されています。
 このなかにははじめて外国客船も含まれていて、県内観光の盛り上がりが期待されます。

「コロナ禍」という単語が使われていませんでしたが、「4年ぶり」とくればそういうことなのでしょう。この手のクルーズ船、ただ海上を周遊するだけでなく、寄港地でバスに乗り込み、周辺の観光が為されます。そこで八戸港から十和田方面へも。ありがたいところです。

最後に、再び『八戸経済新聞』さんから。「乙女の像」の語は出てこないのですが……。

青森・黒石の作家が「青森だいすきシール南部版」制作 青森愛をシールで表現

 青森県黒石市でイラストを手がける「青森のあやちか」さんが八戸を中心とする青森県南部地方の名所や名物のイラストを集めた「青森だいすきシール南部版」を制作し、4月16日に販売を始めた。
 はがきサイズほどのシートに、「八戸三社大祭」の山車、「八戸えんぶり」の烏帽子(えぼし)、郷土玩具「八幡馬」、国宝「合掌土偶」、郷土菓子「南部せんべい」、横浜町の菜の花畑や十和田市の奥入瀬渓流の風景など、南部地方の名所や名物をちりばめた。イラストはタブレット端末とタッチペンで描き、手描き風に仕上げた。
 青森のあやちかさんは青森市出身。県外で創作活動をしながら社会人生活を送っていたが、コロナ禍を受け黒石市に移住。久しぶりに住んだ青森県で「何となく描いたのがリンゴだった」といい、これをきっかけに青森県を題材にしたイラストを描き始めた。SNSに投稿したイラストを見た人からは「かわいい」「とても良い」などの反応があり、「シールにすれば、いろいろな人に喜んでもらえる」と考えたと言う。
 昨年11月、「ねぶた」「ねぷた」の山車や、「青森りんご」「大間のマグロ」などの特産物・海産物、「岩木山」「弘前の桜」など津軽地方の名物・風景を描いたイラストを1枚のシートに集めた「青森だいすきシール」を制作し、「松の湯交流館」(黒石市中町)・青森県観光物産館アスパム(青森市安方)の「青森県地場産セレクト」などで販売。シールを見た人から「南部や下北のイラストも描いてほしい」などのメッセージが複数寄せられ、「南部版」の制作を始めた。
 SNSに寄せられたメッセージや図書館で読んだ資料などを参考にイラストを制作。これまで縁がなかった旧南部領の祭り、文化、観光スポットなどを描くことで「自分の中の『青森』は津軽地方が中心だったと感じた」と話し、南部版の完成によって「自分が知らない青森の物がまだあると気づいた」と振り返る。「青森の文化や歴史を調べると、とても面白い。古くからあるものを今でも取り入れて生活できている青森を、面白くいとおしく感じる」とも話し、現在は下北版の制作に向けて準備を進める。
 完成した南部版について「メモ帳や土産品など、いろいろなところにペタペタと貼って楽しんでほしい」と呼びかける。
 価格は500円。カネイリのミュージアムショップ(八戸市三日町)・番町店(番町)・イオンモール下田店(おいらせ町中野平)・さくら野弘前店(弘前市城東北3)、青森県地場産セレクト、松の湯交流館で扱う。
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「青森だいすきシール南部版」、右下に「乙女の像」がきっちり描き込まれています。

昨年末でしたか今年はじめくらいでしたか、イラストを描かれた「青森のあやちか」さんから当方のツイッターアカウントに「乙女の像」をイラスト化して使っていいものかどうかというご相談がありまして、「全く問題ありません」的な返答を致しました。公共空間に設置された彫刻ですし、実際、いろいろイラスト化なども為されています。

十和田市ご当地ナンバー。
ハローキティ十和田湖限定乙女の像バージョン。
十和田湖ひめます認証店ロゴ。
青森空港巨大ステンドグラス「青の森へ」完成披露除幕式。

漫画家の能町みね子さんにいたっては、「乙女の像」を主人公にした漫画まで描かれています。

というわけで、「乙女の像」、こういった形でも愛され続けてほしいものです。

ところで、昨日、現物が届きました。
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黒石市の有限会社小野商会さんがフェイスブックでシールを紹介されていて、「送付していただけますか」とメッセージを送ったところ、送料120円で送って下さいました。多謝。

ただ、現在のところ、大々的にオンラインでの販売を為さっているサイト等が見あたりません。今後に期待します。

【折々のことば・光太郎】

それつぱかりの金がないのかなあと君は思ふだらうと考へるが事実ないんですよ 文展なんかで子供だましの絵でも平気でふだん画いてる人にとつてははした金にも足りない位の金でせうがそれの出来ない僕には中々はした金ではないんです しかし金はかりたくない 自分でやつぱり作つてからにします

大正3年(1914)3月4日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎32歳

」は詩集『道程』の出版費用です。内藤は版元の抒情詩社社主でした。

大正元年(1911)のヒユウザン会展では、油絵を寺田寅彦が購入してくれましたが、そうした例は他にほとんどなく、収入といえば僅かな原稿料と、父・光雲の下職としてのもののみ。これではいかん、と、この後、油絵の頒布会を始めますが、当の光太郎自身が遅筆でした。

結局、『道程』の出版は10月。費用は光雲に出して貰っています。

自費出版的な、というかほぼ手作りの本です。

2022年潜在意識を探る旅(二本松・桑名)

2023年4月 たむら来夢著 うこわや制作 定価750円(税込)

読み始めてすぐ、旅一番の目的がだめになるのに困惑したり、高村智恵子の性格にびっくりさせられたり。相変わらず、ハラハラドキドキが連続の旅本です。そしてタイトルの意味は?!

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ハンドメイドの刺繍布小物作家・たむら来夢氏による、智恵子の故郷・福島二本松周辺と、三重県桑名市への旅のレポートです。

二本松編は当方も訪れた場所がたくさん取り上げられており、「そうそう」という感じで読み進めました。最初は東京方面から見ると二本松の手前にある本宮市。「カナリヤ映画祭」がらみで一度お邪魔したことのある本宮映画劇場さん、安達太良神社さんなど。その後、旧安達町地区で、安達駅前の智恵子像「今 ここから」、そして智恵子生家/智恵子記念館

ちなみに、たむら氏のお知り合いである雑貨店主氏のご実家が智恵子生家のすぐそばだそうで、ぜひ足を運ぶようにということだったそうです。その雑貨店主氏曰く「家族の話では、智恵子は生意気な娘だった」とのことで、さもありなん、です(笑)。さらに市街に戻り、二本松霞ヶ城。智恵子生家の庭にあったという藤棚などが紹介されています。そして1泊2日の旅だそうで、2日目は安達太良山登山。登りは強風でロープウェイが運行中止だったとのことで、奥岳登山口から歩いて山頂まで登られたそうです。すごいバイタリティーですね。
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途中途中に駅弁やら居酒屋での夕食やらの食レポも。ただ、単なる旅日記ではありませんでした。たむら氏、ライフワーク的に太平洋戦争を考える的なことをなさっているようで、そこに昨年クローズアップされた旧統一協会の問題などをらめたりもなさっています。この旅もその一環だそうで。あとがき的な項の終末部分。「私は、国のためには死にたくない。自分の一生は自分が決めたい。たった一度きりしかない生涯だから。」智恵子ファンには言わずもがなでしょうが、光太郎とも親しかった画家の津田青楓が書き残した智恵子の発言を下敷きにしています。

さて、同書、現在西荻窪のギャラリー的なニヒル牛さんで開催中の「旅の本展」で販売されています。当方、過日、花巻に行った帰り、東京駅から中央線に乗り換え、行って参りまして購入してきました。
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オンラインでの注文も出来るようです。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】00248748

時事新報記者の名文によつて、僕の作つた松方老侯の銀像が老侯の為め倉庫の中に幽閉されたといふ様な事が噂されてから、方々で此について同情やら憐愍やらを浴びせかけられるのに閉口してゐます。僕は親爺の助手として老侯の銀像の下職をやつたことをおぼえてゐますが、僕自身の製作をしたおぼえはありません。間違つて信じ込まれるのも厭ですから訂正して置きたいと思ひます。あとで其を幽閉しても結構ですから、僕自身に銀像でも作らせてくれる豪い人は無いものかしら、と思つてゐます。


大正3年(1914)2月1日 
『美術週報』宛書簡より 光太郎32歳

「老侯」は、明治の元勲・松方正義。光太郎の父・光雲に銅像ならぬ銀像の制作を依頼しました。肖像彫刻を得意としなかった光雲、こうした場合の常として、光太郎に塑像で原型を作らせ、それを見ながら木彫を作るというスタイルで制作されました。まぁ、そうすることで光太郎にも助手としての給料を支払ってやるわけですが。

ところが松方、出来上がった銀像に不満だったようで、倉庫に幽閉。それに対し、光太郎は「俺のせいじゃないよ」と言いたげですね。光雲が木に写す際、光太郎原型にあったロダン風の荒々しさは影を潜めるので、もはやこれは自分の作ではない、ということです。

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