2023年02月

10日前に始まっていました。光太郎の父・光雲作の木彫観音像が出品されています。

身延山霊宝展

期 日 : 2023年2月18日(土)~4月25日(火)
会 場 : 身延山久遠寺宝物館 山梨県南巨摩郡身延町身延3567
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 木曜日 
料 金 : 一般300円 大・高200円 中・小100円(20名以上で団体割引)
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今回の展示では身延文庫に収蔵される日蓮宗寺院にて信仰される菩薩や守護神の絵画や仏像を中心に紹介しています。

主な展示作品
・聖観音菩薩像 高村光雲 作  ・鬼子母神画像 伝 加藤清正 筆  ・観音鷹図 宮崎重政 筆
・観音図 萩尾九皐 筆  ・開運妙力大善神像  ・仁王尊像 林如水 作 等
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右の御手は観世音菩薩の定印の一つにして、光太郎がブロンズの「手」、さらに生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」で表した「施無畏印」となっていますね。

お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

フイレンツェほど美しき町は世に少かるべし。僕は今フイレンツェにあり。数年以前より書物に見、写真にて見たるフイレンツェにあり。夢の如し。


明治42年3月31日 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行。ヴェネツィアからパドヴァを経由してフィレンツェに入りました。

まず、『夕刊フジ』さん。2月14日(火)掲載の「週末、山へ行こう 「ほんとの空」求め福島の名峰へ 安達太良山 標高1700メートル」という記事の続編で、2月21日(火)の掲載でした。

週末、山へ行こう 雪原の先に「ほんとの空」求めて再び登山口へ 初心者でもチャレンジできるといわれている雪山 安達太良山 標高1700メートル

 2月の初め、再び安達太良山(あだたらやま)の奥岳登山口に立っていた。
 天気予報をいくつも確認し、一番天気が良さそうな日を選び、日帰りで歩くことにしたのだ。前回登れなかったのが悔しかったわけじゃない。単純に、智恵子さんの「ほんとの空」…「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に毎日出てゐる青い空」を見てみたいと思ったのだ。
 青空が広がっているけれど、思ったより風が強いなと思いながら歩き始めた。やわらかな日差しで体がじわじわと温まっていく。勢至平にたどり着き、前方を見ると山のあるところに白い雲が広がっているのが気にかかる。しかし雪原を歩くのは気持ちいい。
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 前回お世話になったくろがね小屋を過ぎ、山頂への登りにとりかかる。だいぶ雲が多めになってきたけれど、前回よりずっと視界はよいし、先行者の踏み跡もついている。山頂直下、峰ノ辻に到着すると山頂の山並みが間近に見渡せる…が、うっすらガスに覆われている。目印の竹竿(ざお)や、方向を確認しながら慎重に進む。稜線(りょうせん)に出ると一気に風が強くなった。ゆっくりと進み、最後に岩の塊を登ると、小さな石の祠(ほこら)と、風情ある山名の看板が転がっていた。
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 快晴なら360度の展望が楽しめるそうだが、今日は全方向乳白色。風もだいぶ強いので、写真を撮ってそそくさと退散。再び峰ノ辻に下り立って振り返ると、山頂付近は厚い雲に覆われ、ときどき日が差して幻想的だった。一方、下る方向を眺めると青空が広がり、眼下に町並みも見渡せた。
 雪山初心者にもチャレンジできる山…とはいわれているけれど、山頂直下はなかなか手ごわかった。雪山における「初心者向け」はホントに「条件がそろっている」ことが前提なんだなあ。ひとつでもそろわなければ初心者向けではないのだと実感する。
 青空だけどだいぶ風が強く、寒くなってきたな…と思いながら来た道を下り、奥岳登山口へ到着。登山口の日帰り入浴施設で温まった。
 智恵子さんの言う「ほんとの空」には今回も出合えなかった。…いや違うな、前回と今回、安達太良山を歩きながら見た空が「ほんとの空」だったのか。青い空はまた来たときに見ればいい。
* * *
 登山にあたっては登山道の状況、バスの運行状況などを最新のデータでご確認ください。山行中は、歩行時に他の登山者との間隔をあけるなど新型コロナウイルス感染予防を心がけましょう。
■安達太良山(冬)おすすめルート 奥岳登山口…くろがね小屋…峰ノ辻…安達太良山…往路を戻る…奥岳登山口 歩行時間 約7時間/難易度★★★★(最高難易度★★★★★)
■コースガイド あだたら高原スキー場のある奥岳登山口から勢至平、くろがね小屋を経由して山頂へ。勢至平はのびやかな斜面で、安達太良山の頂上付近が眺められる。峰ノ辻から先は風が強く地面が露出しているところもある。山頂からは来た道を戻る。※くろがね小屋は改装工事のため2023年3月までの営業。
■おすすめシーズン 雪山登山が楽しめるのは12月からゴールデンウイーク頃まで。アイゼンやピッケル、スノーシューなど雪山専用の装備が必要。
■西野淑子(にしの・としこ)広く山歩きを楽しむライター。日本山岳ガイド協会認定登山ガイド。著書に「東京近郊ゆる登山」(実業之日本社)、『関東周辺 美味し愛しの下山メシ』(山と溪谷社)など。NHK文化センター「東京近郊ゆる登山講座」講師。

1枚目の画像、十分に「ほんとの空」だと思いますが……。

続いて『神戸新聞』さん。一面コラムでやはり「ほんとの空」。2月24日(金)の掲載分です。

正平調

昨年秋、知人に誘われて大阪に避難するウクライナ人家族の部屋を訪れた。支援物資を運び、近況を聞く。通訳はスマホのアプリ。手土産に洋菓子を持参した◆両親と長女の3人と一緒にテーブルを囲むと、誰も座っていない席にもコーヒーと菓子が並べられた。祖国に残った30代の息子らの無事を祈り、毎日食事やお茶を用意するそう◆日本にも「陰膳」という風習があります。心配ですね。そう告げると母親が大きくうなずく。そして青空を背に家族5人がそろって写る写真を見ながら、そっと口にした。「来年には帰りたい」◆ロシアのウクライナ侵攻から1年。あの家族のように、戦火を逃れて欧州の各国へ北米へ、アジアへと渡った人たちにとって、とても長く感じられた1年だっただろう。帰りたい、帰れない、でも帰りたい◆〈智恵子は東京に空が無いという/(中略)阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出ている青い空が/智恵子のほんとの空だという〉(高村光太郎)。麦畑が広がる大地と青空の国で生まれ育ち、働き、家族と暮らし、老いていくはずだった人たち。ほんとの空を見られる日が一日も早く訪れますように◆昨年春、本紙に掲載された川柳より。〈ロシアにもウクライナにも春よ来い〉。西の空へ願い、祈る。

1日も早く、ウクライナの皆さんにも「ほんとの空」を取り戻してほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

ヹニスのゴンドラに乗りて遊び居り候。サンマルコ寺院の美しさ、この水の街の面白さ、帰るを忘れ申し候。


明治42年(1909)3月29日 与謝野寛宛(推定)書簡より 光太郎27歳

水の都、ヴェネツィア。いいですねぇ(笑)。

詩人の若松英輔氏が講師を務められる、zoomによるオンライン講座です。

若松ゼミ◆詩とは「気」を描こうとする試みである――『高村光太郎詩集』

 高村光太郎は、彫刻家であり、同時に詩人でもありました。彼は、自分の根本感覚は「触覚」であると述べています。この世界の手ざわり、言葉の手ざわり、さらには関係の手ざわりをどのように言葉にし得るか。この特異の詩人から学んでみたいと思います。
 光太郎の詩は、真似すれば誤るという独創的なものです。しかし、その底を流れているものは、これから本格的に詩を書こうとする者に豊かな学びになると思います。 (講師:若松英輔)
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【最低催行人数】10名
【時間数】1時間40分(内休憩10分)
【受講料】4,400円(税込)
【書くワーク】あり(+1,650円)・なしが選べます
【テキスト】『高村光太郎詩集』(岩波文庫)
【申込み期限】講座の前営業日9:00まで(コンビニ決済の方は、期限までにお支払いまでお済ませ下さい)
※「読むと書く」会員様のみご参加頂けます。 会員証をお持ちでない方は、事前にアンケート・課題などがございますので、4営業日前までに初めての方はこちらよりお申し込み下さい。

【日程】
■第1回 2023年2月28日(火)19:20-21:00 ☆あとから聴ける復習用音声付!
■第2回 2023年3月28日(火)19:20-21:00
■第3回(最終回) 2023年4月18日(火)19:20-21:00

☆あとから聴ける復習用音声付!の講座は、終了後、講座録音音声をお送りします。復習やご都合があわなくなった際にも安心です。(講座後一週間以内に配信、配信より二週間聴けます。録音状況により聞きづらい箇所がある場合や配信ができなくなる場合もございます。あらかじめご了承下さい。)

<<音声講座もあります!>>
ご都合があわない方は、1ヶ月間お聴きいただける後日配信の音声講座をご利用下さい。→こちら

同講座、昨年は「言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む。」がありましたし、若松氏、これまでもラジオ講座で光太郎を取り上げて下さったり、複数のご著書で光太郎に触れて下さったりしています。

今回の講座には、各回とも「書くワーク(課題)付き」「書くワークなし」があるそうですし、アーカイヴ配信もあるようです。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

急に思ひ立つて今夜「アルプス」の方へ行つて来る。金の都合で事によつたら伊太利へ廻るかも知れない。廻らないかも知れない。廻らなくはないかも知れない。廻らなくはなくはないかも知れない。


明治42年(1909)3月19日 畑正吉宛書簡より 光太郎27歳

結局、スイス経由でイタリアに入り、ヴェネツィア、パドヴァ、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどを約1ヶ月かけて廻りました。

地方局IBC岩手放送さんのローカルニュース番組から。

まずは花巻市の萬鉄五郎記念美術館さんで明日まで開催される「歌人 小田島孤舟」展に関して。ただ、光太郎から小田島宛の書簡等も展示されていますが、それには触れられていませんでした。

「岩手歌壇の父」小田島孤舟の足跡をたどる ふるさとの花巻市で企画展

 数多くの短歌を作り「岩手歌壇の父」とも称される歌人、小田島孤舟の足跡を紹介する企画展が、岩手県花巻市で行われています。
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 1884年に花巻市東和町に生まれた小田島孤舟、本名・理平治は、画家の萬鉄五郎の同級生です。国語の教師の傍ら歌人としても活躍しました。3800を超える短歌を制作し、石川啄木との交流を始め岩手と中央文壇を結ぶ重要な役割を果たしました。
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 花巻市東和町の萬鉄五郎記念美術館で行われている企画展では、孤舟の足跡をたどる関係資料114点が展示されています。
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 中でも萬が描いた孤舟の肖像画や2人の手紙のやり取り、それに歌集の冊子絵などは、萬と孤舟との生涯にわたる友人関係を分かりやすく伝えています。
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 この企画展は2月26日まで開かれています。
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閉幕間際の紹介ですが、このニュースを見て「そんなのやってるんだ」と初めて知った方が今日明日で行かれるということも有りえますね。

もう1件、これも光太郎とは直接関わりませんが、過日亡くなった松本零士氏と花巻のつながりについて。

漫画家の松本零士さん死去 「銀河鉄道」が縁で交流があった岩手・花巻市でも悼む声

 マンガ家の松本零士さんが急性心不全で13日に亡くなりました。85歳でした。松本さんはかつて、代表作「銀河鉄道999」のヒントになった童話「銀河鉄道の夜」を書いた宮沢賢治のふるさと岩手県花巻市を訪れ、子どもたちと交流していました。
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(松本零士さん)
「未来は無限大。無限大の夢が皆さんにはある。どうか、どうか若い人は頑張ってください」
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 松本さんは2012年、「宇宙」をテーマに子どもたちが体験活動を行う、公益財団法人日本宇宙少年団の花巻分団が花巻市に設立されるにあたり、プレイベントとして開かれた交流会を訪れました。「銀河鉄道の夜」を生んだ宮沢賢治のふるさと、花巻市の訪問をとても喜んでいたといいます。
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  松本さんを招待した佐々木和彦さんはこう振り返ります。

(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「タクシーに乗って走りながら景色を見て、『こういう景色がああいう発想を生むんだな』とおっしゃったんですね。つまり(宮沢)賢治の銀河鉄道というイメージが、こういう環境から出るんだなということをおっしゃったのを覚えています」
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 松本さんが初めて「銀河鉄道の夜」に触れたのはスライドの上映だったそうです。
(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「どうしてこういう発想ができるのか、というのがわからなかったと。こういう素晴らしい世界があるのか、という気持ちを持ったというんですね」
 佐々木さんは天上に向かう銀河鉄道に亡くなった松本さんを重ねて冥福を祈りました。
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(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「松本先生も自ら銀河鉄道に乗って、これから楽しい旅をつづけるんだろうなと思っていました。悲しくなりますけど、先生にとっては楽しいんじゃないかなと思います」

松本氏、平成28年(2016)の『サライ』6月号に「銀河鉄道の夜」関連の寄稿をなさっていました。
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改めまして、ご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今日は巴里は大層な濃霧で町が夢の様に見えます。今朝丁度ノオトルダム寺院の南塔の鐘を見に行つて高い上から四方を見た時の心持ちたらありませんでした。それにあのゴオゴイス。どうしても中世期頃の魂がどこかあの建築の中に活きて居て僕らをおびやかして居る様でした。尖塔の尖がつたさきについて居る鉄の鶏が今にも鳴きはせぬかと思はれました。塔のテツペンから下を見て居ると何だか飛び下りて見たくなつて思はずぞツとしました。


明治42年(1909)3月11日 南薫造宛書簡より 光太郎27歳

後の長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)にも通じる内容ですね。「ゴオゴイス」は「Gargouille」、ノートルダム大聖堂を飾る伝説の竜で、現在は「ガルグイユ」と表記されることが多く、「雨にうたるる……」でも「ガルグイユ」となっています。

この書簡と似たような「塔のてっぺんから宙を歩けそうだと思った」的な話を、パリ在住の留学生仲間にも語り、彼らは「高村の神懸かり」と、心配したり揶揄したりしたそうです。

昨日も都内に出ておりました。行く先は初台の東京オペラシティさん。こちらのリサイタルホールにて、テノール歌手紀野洋孝氏のテノール・リサイタルを拝聴。
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ご本人がコロナ感染のため、昨年12月に予定されていながら延期となったもの。こういうと何ですが、逆に延期になったため日程の都合がつきまして、伺った次第です。ネットでチケットの予約をさせていただき、受付で当日精算しようとしたところ、「ご招待」扱いになっていて恐縮してしまいました。

前半はイタリアのトスティ、そして山田耕筰。
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久々にテノールの方の独唱を拝聴しましたが、やはり生で聴く演奏はいいですね。会場も大ホールではなく、さりとてこぢんまりというわけでもなく、適度な広さで、お一人で歌われるには丁度良いと思われました。あまりに狭い会場だと声や伴奏だけがストレートに飛んできますが、適正な広さのホールですと、しっかり残響がありますし、何というか、空間全体がある種の楽器のような感じがします。もちろん、紀野氏の確かな歌唱力あってのことですが。

後半が故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄(改訂新版)」全9曲。
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楽譜を以前に入手、それを見ながらCDでは拝聴したことがありましたが、生演奏で聴くのは初めてで、興味深く感じました。

今回の演奏会パンフレットに引用されていた別宮氏の言葉によれば「高村光太郎のこの詩集は私の青春の愛読書のひとつ、いつかは作曲したいと思っていたのだが、周知のように、各篇長大で詩句も長く、扱いかねていた。しかしオペラ作曲の経験をへて、なんとかできるのではないかとおもうにいたり、一九八二年夏、三ヶ月ばかりかけて作った」とのこと。なるほど、確かにオペラ的要素が色濃く感じられました。

それはまず構成の妙。第1曲「人に」(「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」で始まる「智恵子抄」巻頭の詩、大正元年(1912)の作)から第4曲「晩餐」までは、光太郎智恵子恋愛時代の詩。いわばまだ幸福だった時代。第5曲「あどけない話」(「智恵子は東京に空が無いといふ」のフレーズで有名な昭和3年(1928)の作)がターニングポイントとなって、後半は心を病んだ智恵子と、その死が謳われます。まぁ、この点は「組曲」として作曲されている多くの方々が同じようなことを考えられてはいるのでしょうが、中には後から後からどんどん曲を追加、というスタイルでやられている方もいらっしゃるもので……。

それから、昨年リリースされた紀野氏のCDのライナーノートに「オペラ作曲で得た、能の謡などを応用して日本語と西洋音楽を融合させる技術を用いた」とあり、なるほど、確かに「和」のテイストもふんだんに盛られているな、と感じました。

そういったもろもろを、紀野氏があますところなく表現され、聴いている方としては、至福の時間でした。

終演後のMCで、紀野氏、「日本人として日本語の歌曲をしっかり歌えるようでありたい」的なお話をなさいました。実は外国語の方が歌いやすかったりするもので、子音が立たず、アクセント等も平板な日本語はドラマチックな表現には不向きです。そこで昨今のJ-POP系の皆さんは、あえてそうしているのでしょう、鼻濁音という美しい日本語の伝統を捨て、がっつりと濁音の「ガギグゲゴ」。まぁ、これは音楽に限らずで、テレビ等、アナウンサー諸氏までもで、憂うべき事態だと思っています。もっとも、広い日本国内には鼻濁音というものがほぼ存在しない地域もあるそうですが……。

さて、紀野氏のリサイタル、3月6日(月)には紀野氏の故郷、大分での公演もあるそうです。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

多分四月頃スペインへ参りませう。グレコとヹラスケスとゴヤを見に参るのです。和蘭太や白耳義や独乙へは多分参りますまい。伊太利へも参れますまい。希朧も同様、埃及もポチポチ。

明治42年(1909)1月26日 南薫造宛書簡より 光太郎27歳

ロンドンで一緒だった留学仲間・南薫造にあてたパリからの書簡の一節。光太郎、スペイン旅行を企てていたことが記されています。しかし、これは実現せず、逆に「参れますまい」と書いているイタリアへ約1ヶ月の旅行に出、ルネサンス期の逸品の数々を眼にします。

埃及(エジプト)は、おそらく親友・荻原守衛が盛んにそのプリミティブな美を褒めそやしていた影響で興味を持ったものと思われます。光太郎、晩年には平凡社刊行の『世界美術全集』のエジプトの巻で実に的確かつ詳細な解説を書いています。

新刊、400ページ超の労作です。

日本人美術家のパリ 1878-1942

2023年2月8日 和田博文著 平凡社 定価5,000円+税

19世紀後半から20世紀前半にかけ、黒田清輝や藤田嗣治など多くの日本人美術家がパリを訪れた。彼らの活動の記録から、当時の美術界の動向や異国の地での葛藤を明らかにする。

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目次

プロローグ 「芸術の都」パリへ
Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会
 1 洋画の曙――黒田清輝と久米桂一郎
 2 ラファエル・コラン――印象派の陰に隠れた外光派
 3 天真道場から東京美術学校西洋画科・白馬会へ
 4 日清戦争後の帝国意識と、美術に要請された競争力
 5 一九〇〇年パリ万国博覧会が開幕する
 6 鏡としてのナショナル・ギャラリー――和田英作の「素人」意識
 7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術
 8 オテル・スフローのパンテオン会、グレの巴会
 9 カンパーニュ・プルミエール街、マダム・ルロワの下宿
 10 模写で行う名画展覧会、裏返される裸体画
 11 ルノワールと山下新太郎、ロダンと荻原守衛
 12 イタリアの教会芸術、イギリスの水彩画
Ⅱ ポスト・インプレッショニスムと第一次世界大戦
 1 パリの白樺派と、幻に終わったロダン展覧会
 2 ルノワールとポスト・インプレッショニスム
 3 マティス、セザンヌ、ゴッホ、モネと、アヴァンギャルドの擡頭
 4 アカデミーからアトリエへ――満谷国四郎と安井曾太郎
 5 クローズリー・デ・リラ、シテ・ファルギエール、テアトル街
 6 ルーヴル美術館の採光、カモンド・コレクションの開場式
 7 ブルターニュで追体験するゴーギャン、ヴェトイユで想起するモネ
 8 ヨーロッパの美術館――イタリア、イギリス、スペイン
 9 東京の美術館建設問題と裸体画問題
 10 第一次世界大戦勃発とパリからの避難者
 11 戦時ヨーロッパからの通信――黒田重太郎・長谷川昇・寺崎武男
 12 リヨンで模写した青山熊治、赤十字に志願した川島理一郎
Ⅲ 「黄金の二〇年代」と日本人のコレクション
 1 第一次世界大戦後のパリと、日本人美術家数の増加
 2 公文書が語る美術家数の変化、クラマールの中山巍と小島善太郎
 3 サロン・ドートンヌで日本部が開設される
 4 カモンド・コレクションの印象派、ペルラン・コレクションのセザンヌ
 5 模写で探る画家の秘密、模写が可能にした展覧会
 6 オテル・ドルーオの競売、松方幸次郎のコレクション
 7 児島虎次郎が蒐集した大原美術館の収蔵品
 8 遠ざかる印象派と、晩年のモネを訪ねた正宗得三郎・黒田清
 9 フォービズムの波と、マティスの深い色彩
 10 佐伯祐三、愛娘と共にフランスに死す
 11 石黒敬七が日本語新聞を創刊する――『巴里週報』『巴里新報』Ⅰ
Ⅳ エコール・ド・パリ、モンパルナスの狂騒、日本人社会
 1 エコール・ド・パリと、その周縁の美術家たち
 2 モンマルトルからモンパルナスへ――「芸術の都」の中心地
 3 単独者への道――パリの美術家・美術学生七万人の中で
 4 ルーヴル美術館が藤田嗣治の作品を所蔵する
 5 日本人美術家数の増加と、日本人同士の交流
 6 在巴日本美術家展覧会――『巴里週報』『巴里週報』Ⅱ
 7 ツーリズムの季節と、日本イメージ――『巴里週報』『巴里新報』Ⅲ
 8 福島コレクションのピカソ、ドラン、マティス
 9 内紛と分裂――巴里日本美術協会(福島派)と仏蘭西日本美術家協会(薩摩派)
 10 ブルターニュの長谷川路可、プロヴァンスの林倭衛
 11 ヴェネツィアとフィレンツェ――中世のルネサンス美術
Ⅴ 世界恐慌から一九三〇年代へ
 1 恐慌前夜――好景気と   絵画価格の高騰
 2 ロマン・ロランの胸像を制作した高田博厚、ドランと画架を並べた佐分真
 3 システィーナ礼拝堂で大の字になった佐伯祐三、列車に乗り遅れた岡田三郎助
 4 モンパルナスから日本人美術家の姿が消えた
 5 異郷の日本人の光と闇――貧困と客死
 6 ローマとベルリンの日本美術展覧会――横山大観・速水御舟・平福百穂
 7 パリの日本現代版画展――ジャポニスム脱却の試み
 8 ルオーがパリの福島繁太郎宅で、自作に筆を入れる
 9 フランスの個人コレクション、日本の個人コレクション
 10 美術館問題、西洋近代絵画展覧会、模写の活用
 11 日本の美術界の衝撃――エポック・メーキングな福島コレクション展
 12 シュールレアリスム、巴里・東京新興美術同盟、巴里新興美術展覧会
Ⅵ 戦争の跫音とパリ脱出
 1 スペイン内戦、ドイツ軍の無差別爆撃、ピカソの「ゲルニカ」
 2 武者小路実篤の絵行脚、伊原宇三郎のゴッホ所縁のイーゼル
 3 欧州旅行の発着点ナポリ、有島生馬が見た日伊文化交流
 4 一九三〇年代末の巴里日本美術家展覧会と長期滞在者
 5 ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリア
 6 第二次世界大戦勃発と、ルーヴル美術館の美術品避難
 7 パリ陥落と日本人の脱出、パリに留まった日本人
エピローグ 二〇一二年のパリから
パリ在留日本人数と日本人美術家等数(1907~1940年)
関連年表
主要参考文献
人名索引

Ⅰ 世紀末のパリ、東京美術学校西洋画科、パリ万国博覧会」中に「7 高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術」という項がある他、随所で光太郎に言及されています。

また、光太郎と同時期に留学していた面々や、日本で光太郎と交流の深かった美術家たちにも触れられています。

パリというトポスにおける編年体的な俯瞰の方法で、流れがつかめますし、流れの中での光太郎の位置づけという意味では、眼からウロコの部分もありました。一人の作家を「点」で捉えるのではなく、その作家を含む「線」を意識することの重要さを改めて感じています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

さて僕がLondonからParisに来て既に半年はたつた。仏蘭西といふ国の真価が外見よりも遙かに大なのににも驚いたし、一般の国民が他国に比して確かに一歩進んだ地盤に立つて居るのにも感心した。仏蘭西に斯かる文芸の出来るのも不思議は更に無い。よく人が仏蘭西の美術も漸く衰へて、此から遠からず世界の美術の中心が亜米利加の方へ移るだらうなどゝいふが、其の言の誤つて居るのは来てみると直ぐに解る。仏蘭西の美術は漸く衰へる所では無い。此れから益々発展しやうとして居るのだ。


明治42年(1909)1月(推定) 水野葉舟書簡より 光太郎27歳

光太郎のフランス、パリへの認識がよく表されています。

昨日開幕の企画展示です。光太郎の書簡が複数展示されています。

第67回企画展「いわての芸術家の手紙」

期 日 : 2023年2月21日(火)~6月12日(月)
会 場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
時 間 : 午前9時から午後6時 まで
休 館 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 一般200円(160円) 高校生100円(80円) 中学生以下無料
      ( )内20人以上団体料金

 芸術家の手紙は、彼らが創り出した作品とは違った魅力を持っています。 制作の苦労や喜びがつづられた手紙は、 作品への理解を深める手がかりになります。 また、 芸術家の人となりを知ることのできるユーモラスな内容の手紙や、送り手への気遣いを感じる手紙もあります。

 本展では彫刻家の高村光太郎が県立美術工芸学校校長の森口多里に送った手紙をはじめ、深沢紅子、舟越保武といった岩手ゆかりの芸術家の手紙を通して、その業績や作品を紹介します。
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ギャラリートーク
開催日  令和5年3月21日(火曜日) 、令和5年5月23日(火曜日)
開催時間 午後2時から午後2時45分まで
対象   どなたでも
開催場所 盛岡てがみ館 展示室
内容   当館館長と学芸員が展示解説をします。
申し込み 必要
 令和5年3月21日(火曜日)は令和5年3月11日(土曜日)、令和5年5月23日(火曜日)は令和5年5月10日(水曜日)のいずれも午前10時から、電話(019-604-3302)で先着順に受け付けます。
費用   必要 上記企画展と同じ
定員   8人(新型コロナウイルス感染症の状況に応じて変更する場合あり)

同館、『高村光太郎全集』にもれていた光太郎書簡(同館の御厚意により当方編集の「光太郎遺珠」には所収)、多数所蔵されており、これまでもたびたび展示して下さっています。

盛岡てがみ館、第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」。
東北レポートその4(盛岡編①)。
盛岡てがみ館 第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」。

また、光太郎詩稿も。

盛岡てがみ館 第51回企画展「文豪たちの原稿展」/花巻高村光太郎記念館図録『光太郎 1883―1956』。

今回は石川啄木顕彰に功績のあった吉田孤羊、岩手県立美術工芸学校長だった森口多里に宛てた書簡など。いずれもペン書きの気負わない書体ですが、それだけに光太郎の普段着の人柄がにじみ出るようなものです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

外国に参りてより既に三年。しかも業得る所の多くは埃に似たる末技のみ。自らかへりみて深く之を恥ぢ申候。唯以前よりは稍自らを知り得る様になりたるかと存じ、以て心を慰め居る事に御座候。


明治42年(1909)1月25日 平櫛田中宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学も終盤、この年6月には帰国の途に就きます。「業得る所の多くは埃に似たる末技のみ」、謙遜ではなく、実際それに近い感覚だったと思われます。上っ面だけ学んで全てを会得した気になる軽薄な輩と異なり、自分に厳しい光太郎の一面も、大きな魅力の一つです。

昨日、漫画家の松本零士氏の訃報が出ました。

共同通信さんの配信記事。

漫画家の松本零士さんが死去 「銀河鉄道999」「ヤマト」

 013「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト」で知られる漫画家の松本零士(まつもと・れいじ、本名晟=あきら)さんが13日午前11時、急性心不全のため東京都の病院で死去した。85歳。福岡県出身。告別式は近親者で行った。喪主は妻の漫画家牧美也子さん。お別れの会を後日開催予定。
 スケールの大きなSF、戦争漫画を数多く手がけた。戦闘機などの詳細で独特な描写は海外のSF映画にも影響を与えたとされる。
 1954年、高校在学中に「蜜蜂の冒険」でデビュー。上京後、少女漫画などを描いた。71年に雑誌で連載を始めた「男おいどん」で、東京の若者の貧しい下宿生活を描いて人気を得た。同作品も含む「大四畳半シリーズ」は、ユニークなキャラクターが広く親しまれた。
 74年からテレビで放送されたアニメ「宇宙戦艦ヤマト」シリーズの企画に参加、漫画版を手がけ、その後のアニメブームのきっかけをつくった。宇宙への旅を叙情的に描いた代表作「銀河鉄道999」や「宇宙海賊キャプテンハーロック」もアニメ化され、さまざまな社会現象を起こした。
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わずかながら、光太郎智恵子とのかかわりも。

かつて、氏が名誉館長を務められていた福島県郡山市の郡山市ふれあい科学館さんで開催されていた「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」審査員を務められました。こちらは光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を用い、「“ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えて下さい。」と要項に記されていました。

第4回の入選作品集(平成28年=2016)から。
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こんな短い文章にも、氏の理念がよく表されていますね。

個人的なことを申し上げれば、氏の作品の数々、少年時代によく読みました。ひねくれ者の当方ですので、代表作といわれる作品群よりマイナーなものに惹かれました。SF系だと「ワダチ」、「大純情くん」、「ミライザーバン」など。

それから、「戦場まんがシリーズ」。第二次大戦中の日本軍やドイツ軍などの名も無き兵士たちを主人公とした短編連作で、陸軍パイロットだった氏のお父さまのご体験等が反映されています。お父さまは氏に「あんな戦争はやってはいけない」と口癖のように語られていたそうで。そこで、散華する兵士たちを「英霊」「英雄」と讃美せず、どちらかというと愚かな戦争の犠牲者として捉えていました。印象的だったのは、日本軍による特攻を受け、撃沈される米軍空母の艦長が沈没直前に広島への原爆投下を打電で知り「おれたちも、バカか。敵も味方も、みんな大バカだ」と呟いたシーン。他にも、末端の兵士たちそれぞれにさまざまな人間ドラマがあったことがリアルに描かれていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

And yet, I feel happy in the bottom of my heart ; such affairs and bad health gave me deeper lessons than ever. I heard such a marvellous harmony in what I heard only a confused discord befor. I have become <to be> able to look more dearly at the face of Nature. I think I have stepped a little further in understanding the relation between Nature and myself, of course only the relation, not Nature itself.

明治42年(1909)1月4日 バーナード ・リーチ宛書簡より 光太郎27歳

『高村光太郎全集』での訳は以下の通り。

しかし、僕は心の底では喜んでいる――こんな事件があったり、具合が悪かったりしたために、かえって今までに無い深い教訓を得た。これまでは不協和音としか聞こえなかったものの中に、非常に不思議なハーモニイを聞いたのだ。僕は自然の姿を前よりもいとおしく眺めることができるようになった。自然と自分との相互関係の理解に、ささやかな一歩を進め得たと思う。勿論、自然そのものではなくて、それとの関係にしかすぎないけれど……。

こんな事件」は、故国日本で従兄弟が事故死したことを指し、「具合が悪かったり」は、歯の治療で歯医者通いをしていることを指します。

自然」云々、のちの詩「道程」にも通じるような気がします。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんへ。お世話になっている書家の菊地雪渓氏が出品なさっていた「東京書作展 選抜作家展2023」を拝見に。
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いろいろバタバタしていまして、最終日の観覧となってしまいました。
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菊地氏、たびたび光太郎詩を題材にされた作品を書かれ、各種展覧会で内閣総理大臣賞等を獲得なさったりしています。


今回の作は光太郎ではなく、漢詩。蘇軾の「漁父」だそうで。
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相変わらずお見事でした。

直接存じ上げない方ですが、「智恵子抄」所収の光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)を書かれて出品なさった方も。
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ありがたし。

続いて、品川区大井町へ。

平成30年(2018)に開催された、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」に際し、光太郎が彼の地にいた頃のジオラマ制作をお願いした石井彰英氏がミュージシャンでもあらせられ、お仲間の方々とご自宅でコンサートを開かれるということで参上しました。

ジオラマは花巻高村光太郎記念館さんで現在も展示中。
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氏のご自宅に伺う前、寄り道を。

大井町といえば、智恵子終焉の地、ゼームス坂病院があった場所。跡地には「レモン哀歌」(昭和14年=1939)詩碑が建っています。当方、何度も訪れた場所ですが、久しぶりに行ってみました。
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大井町駅方面からゼームス坂を下り、下りきる少し前を左に。
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ゼームス坂の由来を記した碑。

そしてその向かいに「レモン哀歌」詩碑。23区内では唯一の光太郎詩碑です。
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いつもレモンが供えられています。多謝。
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この碑、智恵子の推定身長と同じ高さ(150㌢ほど)だそうで。
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右上は、過日発見した光太郎智恵子の立ち姿写真です。智恵子が小柄だったことがよくわかります。

その後、石井氏邸に向かう道すがら、「お江戸鎧せんべい岩本米菓」さんへ。こちらでは智恵子にちなみ、「品川浪漫 レモン愛菓」というおかきを製造販売して下さっていますので、それをゲットしようと思いまして。
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しかし、残念ながら日曜定休でした。
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いずれリベンジを、と心に誓いました(笑)。

ちなみにすぐ近くでは、早咲きの桜もちらほら。
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つい4日前、マイナス9℃の世界にいたのが嘘のようで(笑)。

そして石井氏邸に到着、コンサートを拝聴。
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石井氏が制作された「高村光太郎ジオラマDVD」で、音楽やナレーションを担当なさった方々も多数ご出演。
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石井氏、人脈の広い方で、かの長嶋茂雄氏やファイティング原田氏などともご昵懇ですし、この日聴きにいらした方々も、一流レストランのシェフ氏、国民的アイドルのお母さま、「モンスター」と称されているボクシング選手の関係者の方などなど、実に多士済々でした。

最初の書道展の件を含め、皆様方の今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

About what you write in your leter on life, I understand quite clealy. Yes, one must conquer oneself first, as you say. But after conquered, one must put oneself at large. Like water, and like wind, free yet not disordered, ruled yet spontaneous, one must be. One must learn everything in life or in Art., and must forget everything. One must go up to the top of the mountain, and must go down again, One must see the sky when one look at the sea.


明治41年(1908)7月20日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎26歳

ロンドンで知り合い、この後、来日して陶芸家となるバーナード・リーチ宛書簡から。

『高村光太郎全集』でのこの部分の翻訳は以下の通りです。

人生について君が手紙に書いていることは、僕にもよくわかる。そう、君の言う通り人はまず自分に勝たなければならない。でもその後で自分を解放することが必要です。水のように、風のように、自由でしかし乱れず、理法の支配は受けるが、しかし自然でなければなりません。あらゆることを人生において、芸術を学び、そしてすべてを忘れること。頂に登り詰めたら、またもう一度山を下るのです。海をながめるときには、空も見なければならないのです。僕はそう信じます。

英文の方は、歌詞にでもできそうな一節ですね。

『夕刊フジ』さん、2月14日(火)掲載の記事です。

週末、山へ行こう 「ほんとの空」求め福島の名峰へ 安達太良山 標高1700メートル

 日本百名山に数えられる、福島を代表する山のひとつ、安達太良山。古くは万葉集に詠われた山であり、麓から見える山姿も美しい。
  1年を通じて多くの登山者でにぎわう人気の山だ。中腹には温泉のある山小屋「くろがね小屋」が建ち、小屋泊まりで山行を楽しめるのも魅力。冬もスキー場のロープウエーが運行していることもあり、雪山登山を楽しむ人が多い。
 安達太良山の名前を知ったのは、高村光太郎の詩集『智恵子抄』だ。光太郎の妻、智恵子が「ほんとの空」がある場所と言ったのが、阿多多羅山(あたたらやま)の山の上。美しく切ない詩とともに「あだたらやま」の名前が心に刻まれた。いつか登ってみたい、ほんとの空を見てみたいと思っていた。
 1月、安達太良山に行く機会を得た。天気のよさそうな日を選んで、くろがね小屋泊まりの1泊2日。今年3月までで改装のため休業となる人気の山小屋だが、運よく予約ができたのだ。ワクワクしながら電車とバスを乗り継ぎ、奥岳登山口に到着した。うっすら曇り空、雪を踏みしめながらゆっくりと歩く。ほとんど人とすれ違うこともなく、くろがね小屋に到着。天気がよければ山頂を往復しようと思ったが、風も強く視界もいまひとつ。小屋で何度も温泉につかってのんびり過ごす。まろやかな肌触り、ほんのり匂う濁り湯でよく温まる。
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 「明日も天気はよくなさそうです」と小屋番さんが申し訳なさそうに言う。登れないくらい天気が悪ければ、無理せずここから下ればいい。くろがね小屋に泊まれただけでもよしとしよう。温泉は本当に心地よいし、夕食のカレーもおいしかった。「山頂に行かず、ここに泊まりにくるためだけに登ってくる人もいるんですよ」という小屋番さんの言葉に納得する。
 翌朝、小屋番さんの予告どおりの強風とガス。前日の夕方の悪天候よりは多少ましかもしれないと歩いてみたが、前夜の強風と雪で踏み跡はなく、視界も悪い。1時間歩いて撤収!
 来た道を戻っていくと、山麓は恨めしいほどの青空。しかし振り返ると山は真っ白い雲に覆われていた。また登りに来なさいと山に誘われているのだろう。そう思うことにして登山口に向かった。(続く)
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 登山にあたっては登山道の状況、バスの運行状況などを最新のデータでご確認ください。山行中は、歩行時に他の登山者との間隔をあけるなど新型コロナウイルス感染予防を心がけましょう。
■安達太良山(冬)おすすめルート 奥岳登山口…くろがね小屋…峰ノ辻…安達太良山…往路を戻る…奥岳登山口 歩行時間 約7時間/難易度★★★★(最高難易度★★★★★)
■コースガイド あだたら高原スキー場のある奥岳登山口から勢至平、くろがね小屋を経由して山頂へ。勢至平はのびやかな斜面で、安達太良山の頂上付近が眺められる。峰ノ辻から先は風が強く地面が露出しているところもある。山頂からは来た道を戻る。※くろがね小屋は改装工事のため2023年3月までの営業。
■おすすめシーズン 雪山登山が楽しめるのは12月からゴールデンウイーク頃まで。アイゼンやピッケル、スノーシューなど雪山専用の装備が必要。
■西野淑子(にしの・としこ) 広く山歩きを楽しむライター。日本山岳ガイド協会認定登山ガイド。著書に「東京近郊ゆる登山」(実業之日本社)、『関東周辺 美味し愛しの下山メシ』(山と溪谷社)など。NHK文化センター「東京近郊ゆる登山講座」講師。

光太郎智恵子、『智恵子抄』と、ご紹介下さりありがたく存じます。

2月10日(金)、NHKさんで放映された「ドキュメント72時間」では、くろがね小屋でのさまざまな人間模様が紹介されましたが、残念ながら光太郎智恵子関連の話にはなりませんでした。

テレビ放映といえば、年に数回再放送されているものですが、明日、やはり安達太良山、智恵子抄、光太郎智恵子がらみがあります。

おかしな刑事8 「居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査!東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」

地上波テレビ朝日 2023年2月20日(月) 13:54〜15:48

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…

◇出演者
伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか
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事件関係者の一人が、智恵子の故郷・二本松出身という設定で、安達太良山、岳温泉、智恵子生家などでのロケが敢行されました。

ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨夕六時半無事巴里着、「ホテル、スフロー」に一泊して、今日より兎も角も畑正吉君に同宿致す事と致し 今日此処に引移り申候。気候も倫敦と大差無之候。

明治41年(1908)6月12日 高村光雲宛書簡より 光太郎26歳

およそ1年を過ごしたロンドンを後に、留学の最終目的地、パリに。この後のパリでの1年間は、光太郎の芸術的方向性を決定づけることになっていきます。

花巻レポートの最終回となります。

2月15日(水)、花巻高村光太郎記念館さんを後に、萬鉄五郎記念美術館さんへと向かう道すがら、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ立ち寄りました。
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インフォメーションスペースに新しいパンフレットが置いてありましたので、ゲットして参りました。
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この日はたまたま15日。月に一度、テナントのミレットキッチン花(フラワー)さんで「光太郎ランチ」が販売される日です。
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夏場ですと千葉の自宅兼事務所まで持って帰るには傷みが心配ですが、この時期なら大丈夫だろうと、この日の夕食用に妻と2人前購入するつもりで参上したところ、メニュー立案等に協力なさっているやつかの森LLCの方がいらして、無料で頂いてしまいました。多謝。

というわけで、妻と二人でいただきました。妻には「わざわざ買ってきたんだぞ」(笑)。
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この日のメニューは、五目御飯に、
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小麦粉焼きパン、
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メインのおかずは鮫のしょうゆ麹竜田揚げ。
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毎月定番の塩麹入り卵焼きも。

さらに、ごぼうの煮付け、切り干し大根の酢の物、白菜の松前和え、たくあん漬け。
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デザート的には干し柿と、光太郎も絶賛した岩手銘菓の豆銀糖。
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妻曰く、「いろいろ入っていて楽しい」「五目御飯がGOOD」「鮫って珍しいね」「干し柿はすごく甘い」「また買ってきて」。

ところで、スマホで撮影しながら食べていると、隙を見て悪い奴が「鮫のしょうゆ麹竜田揚げ」をかっさらって逃亡。「くをらぁ!」と、すぐに奪い返しましたが、いわゆる「イカ耳」状態で「ニャゴニャゴ、ニャー(ずるいぞ、よこせ)」とうるさいので、しかたなく豆粒ほどのひとかけらだけ(笑)。
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結局、二人と一匹でおいしくいただきました(笑)。

その他、道の駅では、当方大好物の林檎を箱買いして自宅兼事務所に発送。こちらは翌日届き、やはりおいしくいただきました。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

先週巴里へ一寸参り、セザンの妙味をはじめて知り申し候。


明治40年(1907)11月13日 雑誌『方寸』宛書簡より 光太郎25歳

ロンドン在住中、碌山荻原守衛の誘いでパリへ小旅行。守衛とは前年にニューヨークで知り合っていましたし、先にパリに移っていた守衛がロンドンの光太郎を訪ねてきたこともありました。

この際、守衛の習作「坑夫」を見せられた光太郎、「これは凄い、ぜひ石膏に取って日本に持ち帰るように」と進言、守衛もそれに従い、そのおかげでこの作品が世に残ることとなりました。
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セザン」は「セザンヌ」。いずこかの美術館か画廊で初めてその作品を見たのでしょう。

花巻レポートの2回目です。

2月15日(水)、宿泊していた大沢温泉さんをあとに、レンタカーを駆って花巻高村光太郎記念館さんへ。この日も天気は上々でした。
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さっそく館内へ。

市立の博物館等5館が統一テーマの元に行う共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」、こちらでは『高村光太郎の「開拓に寄す」』という題で、1月22日(日)まででしたが、パネル等まだ撤去されず、端に寄せられて残っていました。
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宮沢賢治の親友でもあり、戦前から光太郎と交流のあった藤原嘉藤治が、戦後、開拓関連の仕事に従事していたため、光太郎もそれを助け、開拓者を讃える詩を執筆しました。その関連を中心にした構成です。
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当方執筆の説明パネル。
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当方撮影の写真。
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昨年12月、雫石町まで足を伸ばして撮影したものです。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は正規の日程で開催中。
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当方出演の展示解説動画、まだYouTube上で公開中です。

記念館さんを出て、隣接する(100メートルほど離れていますが)高村山荘へ。
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ピークは過ぎたようですが、まだまだ雪深い状態です。
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絵に描いたような氷柱(つらら)。

二重の套屋(カバーの建物)の中に、光太郎が独居自炊の生活を送った粗末な山小屋が保存されています。こんなところで7年間も……と、特にこの季節は胸が締めつけられる思いがします。

大沢温泉さんの駐車場にもありましたが、やはりキツネの足跡。かつて光太郎が見たキツネたちの子孫でしょうか。
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詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)をブロンズパネルにした詩碑。

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まさにこの季節にぴったりの詩です。全文はこちら。詩碑自体は昭和33年(1958)、光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周がブロンズパネルに鋳造して作られ、地下には光太郎の遺髯が納められています。コロナ禍前は、毎年5月15日(疎開のため光太郎が東京を発った日)に、この碑の前で花巻高村祭が開催されていました。

再びレンタカーを駆り、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。その辺りは明日レポートします。

その後、花巻市東部の土沢地区へ。こちらにはやはり市立の萬鉄五郎記念美術館さんがあり、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として「歌人 小田島孤舟」展が開催中です。
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当初、この日は光太郎の足跡の残る釜石方面へ行こうかと考えていたのですが、「歌人 小田島孤舟」展で、光太郎にちらっと触れているという情報があり、急遽、こちらにうかがいました。
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この地出身の萬鉄五郎は、大正元年(1912)に結成されたヒユウザン会(のち「フユウザン会」)で光太郎と共にメンバーだった画家、ここからほど近い旧小山田村生まれの小田島孤舟は石川啄木との関係から『明星』とも関わった歌人で、戦後には光太郎とも交流がありました。この二人、小学校(同館が現在立つ位置)で同級生。長じてからもつながりが続き、小田島が萬に自著の装幀をしてもらったりしていました(そのあたりは存じませんでした)。また、画家になることをめざしていた小田島は、親しい萬の才能に打ちひしがれ、志望を変更したそうです。

光太郎と萬は同じヒユウザン会のメンバーでしたが、あまり仲良くはなかったようです。昭和11年(1936)の回想「ヒウザン会とパンの会」から。

 琅玕洞を本拠として、多士済々、大体三つのグルウプに分れ、中でも一番勢力のあつたのは岸田劉生及その友人門下生の一団であつて、私も大体に於て岸田のグルウプであつた。その他、川上凉花、真田久吉、萬鉄五郎を中心とする一派、斎藤与里を中心とする一派等に分れてゐた。
(略)
 翌年、第二回を開いたが、間もなく仲間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は新たに生活社を起した。この系統が彼の草土社となつたのである。


小田島は戦後、光太郎に自著『孤舟歌碑』の序文を依頼し、光太郎もそれに応えています。そのあたりを踏まえ、当方、花巻高村光太郎記念館さん内の常設展示説明パネルには小田島についても言及しました。
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萬鉄五郎記念美術館さんの展示でも、『孤舟歌碑』の序文関係が。
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盛岡市先人記念館さん所蔵の、光太郎から小田島宛の葉書2通(ともに昭和22年=1947)。かつて同館の御厚意により、当方編集の「光太郎遺珠」で紹介させていただきました。
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さらに『孤舟歌碑』序文の原稿。全文は『高村光太郎全集』第8巻に収録されていて、写しでしたが、初めて拝見。「ほほぉ」という感じでした。
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「歌人 小田島孤舟」展、2月26日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

レンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

新花巻駅待合室には、大沢温泉さん同様、おひな様。鹿踊りバージョンも。
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明日は、途中、すっ飛ばした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん関連を。

【折々のことば・光太郎】

昨夕引越し申候。 ポリテクニツクの直ぐ側に候へば学校の御帰りがけにても御寄り披下度候。


明治40年(1907)10月19日(推定) 南薫造宛書簡より 光太郎25歳

6月にニューヨークからロンドンに渡った光太郎ですが、ロンドンの中でも転居しています。

ポリテクニツク」は、美術学校ではなく、一般人が通う技芸学校。当初はザ・ロンドン・スクール・オブ・アートという美術学校でデッサン等を学んでいました(ここで陶芸家となるバーナード・リーチと親しくなりました)が、あまり学ぶものがないと考え、ポリテクニックに移りました。

父・光雲の奔走で、農商務省海外実業練習生の資格を得、毎月60円の給与が出るようになった代わりに、家具や室内装飾などの応用美術の調査報告が義務づけられたことも関わるかも知れません。

宛先の南薫造は留学仲間の画家です。
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昨日まで1泊2日で、光太郎の第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

2月14日(火)、東北新幹線新花巻駅に降り立ち、例によってレンタカーを借りて花巻市街へ。晴れていましたし、覚悟していたより雪が少なく、ラッキーでした。この日は宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏令孫の宮沢和樹氏(林風舎代表取締役)との公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でした。主催は光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻市太田地区振興会さん。地元の皆さんも、光太郎と賢治のつながり等、あまり詳しくないので、ぜひそのあたりを知りたい、ということで実現しました。

会場はJR東北本線花巻駅近くのなはんプラザさん。
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もと、「銀河鉄道の夜」のモデルの一つとされる岩手軽便鉄道の駅があったあたりです。

目の前は「いとうや」さん。かつての光太郎御用達の食堂。建物は建て替わっていますが。
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ロビーでは、ご協力下さったやつかの森LLCさんによる出店。
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講師控え室の窓から。始まる頃には雪がちらつき始めました。
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会場内。
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平日ということで、入りを心配していたのですが、ほぼ満席。ありがたし。
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約1時間半、和樹氏と対談。
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和樹氏、これまでもあちこちでご講演をなさっています(当方も一度拝聴しました)ので、手慣れたものです。当方も今回はパワーポイントの操作等もなく、一人でしゃべりっぱではないので楽でした。また、昨年12月、打ち合わせ的に、和樹氏と主催の太田地区振興会の方々、そして当方で「こんな話をしたらいいんじゃないの」という意見調整をしておきましたので、それが功を奏しました。

内容的には賢治と光太郎、お互いの評価や影響、唯一二人が出会った大正15年(1926)12月の話、賢治没後の光太郎や当会の祖・草野心平らによる賢治顕彰の始まり、詩人・永瀬清子も関わる「雨ニモマケズ」の発見、賢治の父にして和樹氏令曾祖父・政次郎の骨折りによる戦時中の光太郎花巻疎開、和樹氏令祖父・清六氏と光太郎の交流、昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲の際のエピソード、戦後の光太郎の旧太田村への移住などなど。

ただ、太田村での話は今回あまり触れないようにという主催者側の要望でした(そのあたりはまた次の機会に、と考えられているとのこと)ので、おおむね戦時中までの話に終始しました。

最後に質問の時間を取りましたが、仕込み無しで多くの方から質問が寄せられ、並々ならぬ興味を持って聴かれていたんだなというのがよくわかりました。深謝。

のちほど動画配信等もあるようです。詳しくは連絡を受けてからご紹介します。

その後、一旦、宿泊先の大沢温泉自炊部さんに行き、チェックイン。
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途中、車を駐めて撮影した夕日。
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昨年12月は満室で泊まれなかったのですが、今回は早めに予約を入れたので大丈夫でした。

チェックインをし、荷物を置いてまたすぐ市街へ出て、慰労会。楽しいひとときでした。

宿に帰って一風呂浴びて就寝。部屋はこんな感じでした。
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翌朝。晴れていたので助かりましたが、外気温は-9℃。温暖な房総に暮らしている身にはこたえました(笑)。
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かつて定宿としていた江戸時代竣工の菊水館さん。現在は宿泊棟としては休業中です。
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フロント隣の休憩スペース的な座敷。桃の節句が近いので、ひな飾り。いい感じですね。
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朝風呂を堪能し、チェックアウト、駐車場へ。

おそらくキツネの足跡でしょう。
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夜の間に軽く降雪。こうなることを見越してワイパーを立てておきました。
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この時期、北国のレンタカーにはブラシが常備されていますのでこの程度の積雪は恐るるに足らず(笑)。

まず花巻高村光太郎記念館さん、そして隣接する高村山荘へ。その辺りは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小生先月上旬英国倫敦に移住仕り相変らず頑健に罷在候間乍憚御休神被下度候。


明治40年(1907)8月9日 加藤景雲宛書簡より 光太郎25歳

1年4ヶ月過ごしたアメリカを後に、ロンドンに移りました。

大西洋を渡る際には、のちにかのタイタニックを就航させるイギリスの船会社、ホワイトスターラインの豪華客船オーシャニックに乗ったことを、10年ほど前に突き止めました。

こちらは昨年入手した令和元年(2019)刊行の洋書です。
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光太郎第二の故郷、岩手県花巻市に来て、現在、光太郎も愛した大沢温泉さんにおります。

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昨日は花巻市街で、宮沢賢治実弟の故・清六氏令孫にあたる宮沢和樹氏と公開対談でした。

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今日は光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんなどを訪れるつもりです。

詳しくは帰りましてから。

コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、感染対策を施した上で4年ぶりに下記の通り開催致します。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄等までご連絡下さい。郵送いたします。コメント非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。

                                     
                                        
日 時  令和5年4月2日(日) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
            JR山手線・京浜東北線 有楽町駅 地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅下車

松本楼地図
会 費  11,000円(含食事代金)

御参加申し込みについて

 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
 基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

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 ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。
 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 ご送金後、急な御都合でご欠席の場合、3月30日(木)までにご連絡下さい。
 後日、返金致します。
 当日、会場でも参加受付を致しますが、座席等確保のため、事前のお申し込みをお願い致します。
 当日お申し込みの場合も、名簿等作成の都合上、事前に連絡いただきたく存じます。
 事前連絡があれば会費納入は当日に現金でも結構です。
  
 複数名の方で御参加の場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、参加なさる方のご氏名をあらかじめお知らせ頂ければ幸いです。


配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配布をご希望の方は、150部ほどご用意頂き、3月31日(金)必着にて下記までご送付下さい。当日、皆様に配布致します。残部は当日欠席の関係各位に送付いたします。特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構ですが、公序良俗に反するもの、配付する価値を認めがたいもの等はお断りいたします。当日、御持参頂く場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。

 〒100-0012東京都千代田区日比谷公園1-2日比谷松本楼 連翹忌宛 (必ず明記) tel 03-3503-1451

当日、お時間に余裕のある方には配付資料袋詰め等をして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場に入って居ります。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

また、中止としておりました間、当会顧問であらせられた北川太一先生御夫妻をはじめ、多くの関係の方々の訃報が相次ぎました。それらの方々の追悼も兼ねた催しとさせていただきます。

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

前にボーグラム先生より今年の成績の賞として、七十五弗をもらひ候間、旅費は早速出来候。


明治40年(1907)5月(推定) 東京美術学校校友会宛書簡より
光太郎25歳

昨日のこの項でご紹介しましたが、ニューヨークの美術学校「アート・ステューデント・リーグ」で翌年度の授業料免除の特待生に選ばれた光太郎。しかし、次なる目的地、ロンドンへ渡ることにしており、授業料免除の特典が無駄に。すると、同校で教鞭を執り、かつて光太郎を助手に雇ってくれた彫刻家・ガッツオン・ボーグラムが、免除分を現金で支給するという配慮をしてくれました。そのため大西洋を渡る船賃が出来、渡英することとなります。

昨日は茨城県県央部に行っておりました。

そもそもは、草花好きで御朱印マニアの妻が「水戸偕楽園の梅が見たい」「近くの常盤神社さんの御朱印が欲しい」と言い出したためでしたが、「そういえば笠間で波山展をまだやってたっけな」と思い、「じゃあ行くか」、でした。

「笠間」は茨城県陶芸美術館さん。「波山展」は、「生誕150年記念 板谷波山の陶芸」展。昨秋、六本木の泉屋博古館東京館さんでの巡回を拝見したのですが、光雲・光太郎の彫刻も出ていますし、もう一度見ておくか、と思った次第です。

道々、カーナビのテレビでNHK Eテレさんの「日曜美術館」を拝見。たまたまですが、昨日の放映は「完璧なやきものを求めて 板谷波山の挑戦」。妻に予習をさせました(笑)。ちらっと光雲にも触れて下さっていました。再放送が2月19日(日)、20時からです。ご覧下さい。
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さて、まずは妻のリクエストに応え、水戸の偕楽園さんに。水戸藩ゆかりの庭園で、梅園が有名です。事前にネットで調べていったところ「三分咲き」ということでしたが、品種によっては満開に近いものも。
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ただ、全体としては、まだ蕾を固く閉じているものが多く、これが全部満開になったらものすごいだろうな、という感じでした。そうなると人でも倍増でしょうし、その意味ではよかったかもしれません。

隣接する常盤神社さん、さらにそう遠くないところにある常陸国三の宮の吉田神社さんをまわって御朱印をゲットし、笠間市へ。
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サブタイトルが「帝室のマエストロによる至高のわざ」。以前の巡回先でのそれと異なっていましたが、出品作はほぼ同一、光雲の「瓜生岩子像」、「三猿置物」、光太郎の「手」もちゃんと出ていました。また、それらが東京展の際より近い距離で見られ、ラッキーでした。
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そして何より、波山作品の数々。以前にも書きましたが、焼き物そのものにはあまり興味はないものの、波山作品、特に波山独特の葆光(ほこう)彩磁は別物で、いつまでも見ていられます。

こちらの会期は2月26日(日)までで、これで昨年から続いていた巡回はすべて終了です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜学校にゆきたる処、先週製作中の試験にて特待生となりたる事を知り候へば、一寸書き入れ候。此は「スカラアシツプ」と申すものにて、明年度の一年間は無月謝にて入校を許すもの、日本の特待生と畧同一に候。但し米国の此学校にては、此特待生、二等賞にて、一等賞は現金七十五弗を与へる規則に候。一等賞は小生の友達が取り、小生は二等賞にて特待生を取つた訳に候。 どうも、眼色毛色のちがつた外国人が突然入学して、一年間位にては、一等を取る事はむづかしき様に候。併し公平の不公平のといふ事は、馬鹿々々しき言ひ草なれば、何うでもよろしく候。但し七十五弗取れたら、早速船賃が出来たものをと思はれ候、特待生では、来年紐育に居らぬ身には、何にもならず。

明治40年(1907)4月(推定) 東京美術学校校友会宛書簡より
光太郎25歳

「学校」は、「アート・ステューデント・リーグ」。一等賞が取れなかったことを、自分の技倆不足ではないと確信しているあたり、ものすごい自信ですね。

国民的アニメ「サザエさん」で、サザエさんの長男・タラちゃんの役をなさっていた貴家堂子さんが亡くなりました。

『朝日新聞』さん。

タラちゃん役53年、声優の貴家堂子さん死去 月内は出演、後任未定

014 フジテレビのアニメ「サザエさん」で1969年の放送開始からフグ田タラオ役を演じてきた、声優の貴家堂子(さすが・たかこ、本名堀内堂子〈ほりうち・たかこ〉)さんが5日死去した。87歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は夫堀内博周(ひろかね)さん。
 「サザエさん」放送開始から53年間、「タラちゃん」ことサザエの息子のタラオを演じ、2019年には「最も長くテレビアニメシリーズにおいて同じ役を演じ続ける声優」として、サザエ役加藤みどりさんとともにギネス世界記録に認定された。
 他にも、「天才バカボン」のハジメちゃん、「ハクション大魔王」のアクビ、「リボンの騎士」のチンクなどを演じた。
 フジテレビによると、貴家さんの「サザエさん」出演は2月26日の放送回まで。タラオ役の後任は検討中という。

『デイリースポーツ』さん。

永遠の3歳 タラちゃんを53年間ありがとう 声優・貴家堂子さん死去 87歳

013 声優の貴家堂子(さすが・たかこ、本名堀内堂子=ほりうち・たかこ)さんが5日午後に死去していたことが10日、分かった。87歳。東京都出身。フジテレビ系の国民的テレビアニメ「サザエさん」(フジテレビ系、日曜、後6・30)でフグ田タラオ(タラちゃん)の声を1969年の放送開始から務め、親しまれていた。葬儀は近親者で行った。喪主は夫の堀内博周(ほりうち・ひろかね)氏。
 あまりにも突然の別れだった。
 放送開始から53年もの間、3歳のタラちゃんを演じてきた貴家さん。母サザエさん役の声優・加藤みどり(83)は、初回放送から伴走してきた最後の共演者を失い、「『サザエさん』の初回放送から50年以上、ずっと一緒に家族として歩んできた貴家ちゃん。“貴家ちゃんがいるうちは私も頑張らなきゃ”と思っていたので貴家ちゃんがいなくなって本当に寂しく、悲しい気持ちです」と別れを惜しんだ。
 関係者によると、貴家さんが最後となった「サザエさん」の収録に臨んだのは今月2日。その時はいつもと変わった様子はなく、病気で療養などもしていなかったという。関係者も「驚いています」と絶句した。
 貴家さんは2019年10月6日、タラちゃん役を演じたキャリアが50年と1日を記録し、「テレビアニメシリーズにおいて最も長く同じ役を演じた声優」として、加藤とともにギネス世界記録に認定された。
 また、「天才バカボン」のハジメちゃん、「ハクション大魔王」のアクビ、「リボンの騎士」のチンクなどのかわいい声で、多くのファンを魅了した。
 貴家さんが最後に出演した「サザエさん」は、今月26日放送の「サザエさん ひな祭り1時間SP」となる。後任について、フジテレビでは「検討中です」としている。
 ◆ファミリー悼む
 マスオ役・田中秀幸「大切な宝物を失った悲しみで一杯です。貴家さん。穏やかな語り口、優しいお言葉、素敵な笑顔…しっかり胸に刻んでおきます。ありがとうタラちゃん」
 波平役・茶風林「突然の訃報に言葉がありません。いつもおしゃれでニコニコと優しい笑顔を振りまいてくださいました。ずっとずっとご一緒できると思っていたのに残念でなりません」
 フネ役・寺内よりえ「貴家さんには折あるごとに温かく見守りお声がけ頂き感謝しております。一つの役を長く演じてこられた大先輩のお言葉・お姿を胸に刻み、励んで参ります。貴家さん、そして愛らしいタラちゃん、お疲れ様でした」
 カツオ役・冨永みーな「スタジオでいつもいつも優しくしていただきました。そしてキュートでいらっしゃった貴家さん。突然の訃報にとても驚いています。寂しいです。心よりご冥福をお祈り致します」
 ワカメ役・津村まこと「貴家さんはお茶目でタラちゃんそのままのような本当にかわいらしい優しい方でした。全く実感はないのに脱力感がすごいです。あのタラちゃんのかわいらしい声が聞けなくなるなんて寂しいです、残念です」

1月29日(日)放映分に「カツオの行く道」という回がありました。カツオ君が、学校の課題なのでしょうか、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を暗誦しなければいけない、しかしなかなか覚えられないという話で……。カツオ君曰く「道路工事のおじさんの詩だと思った」。
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そこで磯野家では、「道程」がちょっとしたブームに。
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最後は3歳のタラちゃんも覚えてしまいました。
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それを道路工事のおじさんたちの前で披露。
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しかし「道路工事のおじさんの詩です」と言う前に、サザエさんが現れ……
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貴家さん、53年間、お疲れさまでした。そしてほぼ最後に、素敵な「道程」をありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生は六月頃渡英のつもり。米国の研究の始末をつけるので大多忙、


明治40年(1907)4月30日 大澤三之助宛書簡より 光太郎25歳

前年2月にニューヨークに着いた光太郎、1年余りで次なる目的地、ロンドンを目指します。東京美術学校の先輩、白瀧幾之介らが既にロンドンに居り、また、何と言っても大英博物館がありますので。

イベント等が少なくネタ不足の状態ですので、昨日から、逆にネタが多すぎて書く余裕が無かった昨秋のレポートをまとめています。

今日は昨年11月10日(木)、中央区日本橋の三越さん本店内にある三越劇場さんで、一色采子さん、松村雄基さん主演の「朗読劇 智恵子抄」を拝見した前後。周辺の光太郎・光雲ゆかりの場所についてです。

千葉の田舎にある自宅兼事務所から都心までは、高速バスで行くことが多いのですが、本数も限られていますし、時折、高速道路の渋滞に巻き込まれ、遅延が生じます。そこで余裕を持って出て、早く着いたら着いたで目的地周辺で時間を潰すというのが習い性となっています。

この日はまず、小網町方面へ。八重洲地下街のバスターミナルからてくてく歩き、10分少々。日本橋川にかかる鎧橋に到達。
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橋のすぐ近く、現在の小網町安田ビルさんのある場所が、かつて「メイゾン鴻乃巣」というカフェでした。光太郎も主要メンバーだった芸術至上主義運動「パンの会」の集いがたびたび開かれた店です。ただ、「パンの会」は広く招待状を発送し、大々的に行う「大会」と、中心メンバーのみが集う「例会」があり、こちらでは「大会」はなかったようです。
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ビルの前に説明板。光太郎の名も記されています。
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以前にもこの場所を訪れたことがありましたが、やはり感慨深いものがあります。

ちなみに智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』のメンバーだった尾竹紅吉は、ここでカクテル「五色の酒」をあおり、それを『青鞜』誌上にレポートしたところ、「女だてらに!」と、今で言う「炎上」状態。そういう時代でした。

近くには、都心にもかかわらず、空襲の被害を免れたと思われる建物もちらほら。
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その後、三越本店さんへ。三越さんも関東大震災後の昭和2年(1927)建築の部分が残っており、現役の百貨店でありながら重要文化財に認定されています。以前にも書きましたが、当方、学生時代の4年間、三越さんで配送のアルバイトをしていましたので、親しみを感じます。

「朗読劇 智恵子抄」開演までまだ時間がありましたので、屋上へ。こちらには喫煙コーナーがあるので、煙草吸いには貴重なスポットです(笑)。

どうも知る人ぞ知る、のようですが、屋上には庭園も。
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そしてその一角に、三井家ゆかりの三囲(みめぐり)神社さん。
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通常、非公開でこの日も見ることは叶いませんでしたが、光雲作の「活動大黒天」が安置されています。
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戦時中に建立された石碑には光雲の名が。
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「活動大黒天」、いつかはこの目で見たいものです。

この後、館内の三越劇場さんで「朗読劇 智恵子抄」を拝見しました。その際のレポートがこちら

帰りがけ、中央ホールも廻りました。こちらには佐藤玄々作の木彫「天女(まごころ)像」。佐藤は光雲の高弟・山崎朝雲に師事していましたので光雲の孫弟子にあたり、光太郎とも交流がありましたが、師の元を離れ、「朝山」の号を「玄々」と改めました。
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毀誉褒貶いろいろある像ですが、ど迫力、という意味では他の追随を許さないと思います。

というわけで、都心での光太郎・光雲ゆかりの地廻り。皆様もお時間のあるときにぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

I am sorry i cannot write you in full pages; but you may write me in the same way again; it is as you said, very good idea for studying English. Now, I hope you will be strong, energetic, faithful and noble every day, Your Brother Mitsutaro.


明治39年(1906)12月24日 高村豊周宛書簡より 光太郎24歳

留学先のニューヨークから、実弟にして当時旧制中学校生だった豊周にあてた書簡から。

英語のよい勉強になるから、お互いに英文で手紙をやりとりしようというわけで、いい兄貴ですね。「 I hope you will be strong, energetic, faithful and noble」、自分自身に言い聞かせているようにも感じられます。














どうもこの時期は関連するイベント等が少なく、ネタ不足です。まぁ10年以上このブログを続けていますと、この時期そうなることはわかっていますので、そうなった場合に備えてストックしておいたネタを、今日明日で使います。

今日は光太郎の父・光雲ゆかりの千葉県市川市の中山法華経寺さんを訪れたレポート。訪れたのは昨年10月、同じ市川市の市川市文学ミュージアムさんで開催されていた「月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>」を拝観した後でした。その季節は逆に紹介すべきネタが多すぎて、特に速報性の必要ないネタはネタ不足になった際に使おうと、ストックしていたわけです。

こちらには、光雲原型の日蓮上人銅像が平成25年(2013)に奉納されており、そちらを拝見しようと伺いました。ちなみに同型の像は鎌倉の長勝寺さん、石川県の実相寺さんにも納められていまして、探せばさらに他にもありそうです。

中山法華経寺さんには自家用車で参りまして、駐車場は境内裏手でした。三門(山門)脇に目指す日蓮上人像が見えたのですが、それを横目に通り過ぎ、駐車場へ。裏から参拝するというのも何ですが、仕方がありません。

「中山」といえば「中山競馬場」。指呼の距離なので、このあたり一帯、もっとごみごみしているのかなと想像していたのですが、あにはからんや静謐な一角でした。
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国指定重要文化財の五重塔などを見つつ、広い境内を進みました。

本堂にあたる祖師堂は改修工事中でした。
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境内に茶店などが軒を連ねており、いずれかのお店で飼われているのでしょうか、丸々としたにゃんこ(笑)。
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やけに友好的でしたので、なでてあげました(笑)。

さて、裏から三門をくぐり、改めて正面から撮影。大正15年(1926)の建築だそうで、それほど古いわけではありませんが実に立派です。
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そのかたわらに、目指す日蓮上人像。なかなかの迫力です。
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台座正面のプレートには「光雲原作」の文字。「高村」の文字が無いのが何だかなぁという感じでした。裏手の碑陰記的なプレートにも「高村」の文字は入っていません。そのあたり、権利関係などどうなっているのかなと思いました。

再び三門をくぐり、祖師堂に参拝して帰りました。

銅像フェチの方、古刹マニアの方、光雲ファンの方、日蓮信奉者の方、その他、ぜひ足をお運び下さい。

明日は、急ぎ紹介すべき事項がなければ、都内中央区日本橋付近のレポートを。

【折々のことば・光太郎】

君は「ホームシツク」を起しちやいけないと言ふけれど、いけないと言つても起つて来れば仕方がないが人間の弱みですよ。何ぼ僕でもメソメソしてゐるのでは無いが、時々シンから底からぼんやりして、何事も思はず、時間と空間とを忘れて、東京にゐて僕の家にゐて、親や兄弟の声の聞える自分の室にゐて、君なんかと話をしたり、油土をいぢつたりした事を、想ひ出すのではない、其の時になつて仕舞ふ事があります。恁ういふ時が又何とも言はれない程楽しいので、言はば眼の覚めてゐる夢ですね、確に父や母の声が聞えますし、面影が眼に浮んで来て、丁度其時の衣服の縞柄、色工合まで間違つてゐないと思はれる。こんな心の状態は僕は今まで知らなかつた。


明治39年(1906) 月日不明 水野葉舟宛書簡より 光太郎24歳

留学先のニューヨークから、日本にいた親友の水野葉舟に送った書簡の一節です。明治末期には既に「ホームシック」という言葉、概念があったのですね。

昨年10月末、『日刊スポーツ』さんに載った記事です。光太郎の父・光雲に言及されています。「何だかなぁ……」という内容ですので、これまで紹介してこなかったのですが、このところネタ不足なもので……。

「政治家と銅像」 森元首相、菅前首相の建立計画に微妙な違和感…なぜ?

 この秋、森喜朗元首相(85)と菅義偉前首相(73)の銅像の建立計画が相次いで明らかになりました。森氏は「スポーツ界における偉大な功績を顕彰しよう」と政財界、スポーツ界の15人が発起人となって募金活動が行われ、菅氏は600件、2100万円の寄付が集まり、胸像と台座は完成。来春、除幕式が行われる予定です。2人が健在のためでしょうか。銅像となることに微妙に違和感があります。政治家と銅像について考えてみました。

 東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件が拡大し、組織委員会会長だった森氏も参考人として任意の聴取を受ける事態となっているためか、森氏の胸像建立計画の詳細は明かされていません。一口5000円の募金活動は5月にスタートし、案内状は「先生が残された多くの功績、そのお教えは、スポーツ界のみにとどまりません。多くの方々から尊敬され慕われている先生の顕彰事業を行うため」とうたっています。

 菅氏の銅像は、郷里の秋田県湯沢市の有志が進め、既に高さ1・2メートルの胸像、同じく1・2メートルの台座が完成しています。湯沢高校の同級生で事務局長を務める伊藤陽悦さん(元市議会議長)は「普通は実物の1・2〜1・3倍くらいの大きさにするそうですが、小柄な方(165センチ)なので1・5倍にしました」と、大きな胸像にした理由を明かします。この秋に台座を設置し、胸像は来年4月に菅氏を招いて行う除幕式でお披露目となる予定です。「胸像だけで800万円。台座と整地費用など合わせ、1500万円です」と伊藤さんは打ち明けます。

 銅像は、その功績をたたえ、後世に伝えるため、建立されます。失言は数知れず、組織委員会会長もその発言により辞任した森氏と、わずか1年で退陣に追い込まれた菅氏。違和感を覚えるのは、2人が健在で、記憶がまだ生々しいからでしょうか。「銅像には、死後、つくられる遺像と、生前につくられる寿像があります。顕彰を目的とした銅像の建立が行われるようになった明治時代から寿像はつくられており、別におかしくはありません」と話すのは「銅像時代 もうひとつの日本彫刻史」の著者・木下直之静岡県立美術館館長(東大名誉教授=日本美術史)です。

 伊藤博文、大隈重信、板垣退助ら寿像は多く、板垣は夫妻で除幕式に参列しています。近年でも田中角栄元首相、渡辺美智雄元蔵相、原健三郎元衆院議長らの銅像は寿像です。政治家に限らず、渋谷の忠犬ハチ公像も初代は寿像で、ハチは除幕式に参列しました。
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 では、もやもやとした違和感の正体は何なのでしょうか。全国の個人顕彰銅像のデータベース化を目指している「日本の銅像探偵団」の遠藤寛之団長によると、政治家の銅像は少なくなっているそうです。歴代首相では1980年代までの首相は中曽根康弘氏を除き、就任早々の女性スキャンダルで参院選に大敗し、69日で退陣した宇野宗佑氏を含めて銅像になっています。しかし、90年代以降は在職中に病に倒れ、宿願の沖縄サミットを前に死去した小渕恵三氏だけです。
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 国会議員は在職が50年を超えると、特別表彰され、引退時または死亡時に名誉議員の称号が贈られ、国会内に胸像が設置されるのが慣例とされてきました。88年に死去した三木武夫氏の胸像は慣例通り90年に衆院正面玄関ホールに建てられましたが、その後、有資格者となった桜内義雄氏(00年引退、03年死去)原健三郎氏(00年引退、04年死去)中曽根康弘氏(03年引退、19年死去)の胸像はつくられていません。衆院事務局は「機運があれば、議院運営委員会で協議することになるが、今のところ、ありません」と話します。国会改革の一環として2000万円かかるとされる胸像の制作には異論が出るようになり、与野党合意が得られなくなったためです。
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 個人顕彰の銅像の減少と、日本経済の「失われた20年」は重なっているようです。「バブル期までは寿像を自分の会社の中に建てる社長がいましたが、少なくなりました。銅像制作会社から個人の銅像の受注は減っていると聞いています。増えているのは町おこしのキャラクター銅像で、個人顕彰から町おこしにシフトしている。偉人像でも握手ができる坂本龍馬とか、町おこしにつながるつくりが多くなっています」(遠藤団長)。

 木下館長は「昔と一番違うのは場所です。昔は駅前や公園に建てることが許されましたが、今は公有地、公的な空間に建てることに批判が起こる。政治家の評価の問題も絡み、一番難しい問題です。アニメや漫画のキャラクターは、公共空間の中に立って、まだ多くの国民に共有されますが、個人の銅像は居場所がなくなっている。銅像は除幕式のときに一番光が当たり、後は基本的に放置される存在です。そんな物を建てる必要性はどんどん小さくなっている。今どき個人を顕彰するのに、銅像という形を取ることはひどく時代遅れで、銅像の時代はもう終わっているんじゃないかと思います」と話します。

 菅氏の胸像は当初、湯沢駅前の公園に設置する計画でしたが、「公的な場所は難しい」(伊藤さん)として、公園に隣接する私有地16平方メートルを購入しました。森氏の胸像はどこに建立されるか明かされていませんが、うわさに上る新秩父宮ラグビー場など公的な空間の場合、反対の声が広がりそうです。

◆中最も身近な銅像といえば、二宮金次郎です。二宮尊徳を祭る報徳二宮神社によると、金次郎像は今、少子化による小学校の統廃合で、再びピンチを迎えているそうです。勉強熱心で、手伝いをいとわない金次郎は小学生が目指すべき人物として、1924年(大13)から小学校に建つようになりました。しかし、戦争で供出され、残ったのは2体だけ(報徳二宮神社と明星学苑)という悲しい歴史があります。わが母校も来年4月、統合されます。電話したところ、「経年劣化しており、撤去することになりました」と言っていました。
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■伊藤博文、台座だけの像も
 首相経験者ではトップの伊藤博文(10体)には、ほかに台座だけが残る受難の像もあります。1904年(明37)、神戸・湊川神社に建立された銅像で、05年、日露戦争で日本が勝ったにもかかわらず、講和条約で賠償金が得られないことが判明すると、民衆の不満が爆発。「女遊びが好きな伊藤には(遊郭がある)福原がふさわしい」と、像を引き倒し、福原まで引きずり回して小便をかけるという事件が起こりました。伊藤は「神戸には2度と行かない」と激怒したといいます。09年に伊藤が暗殺されると、同情の声が高まり、11年に神戸・大倉山公園に再建されました。しかし、戦争で物資が窮乏した43年、金属供出で銅像は姿を消しました。9・15メートル四方、高さ5・7メートルの巨大な台座だけが残っています。
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■1位は坂本龍馬
 「日本の銅像探偵団」の調べでは、二宮金次郎、空海、日蓮の銅像は集計し切れないほど多く、全国に1000体以上あると推定されています。このため、探偵団では、この3人は「殿堂入り」とし、「銅像建立数ランキング」の1位は銅像33体、FRP(繊維強化プラスチック)像9体、計42体の坂本龍馬としています。2位の松尾芭蕉は銅像37体、FRP像1体で、銅像に限定すると、芭蕉が上回ります。龍馬は2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送前後に制作されたFRP像が多く、芭蕉を超えました。探偵団では高知・桂浜の龍馬像、仙台城跡の伊達政宗像、東京・上野の西郷隆盛像、東京・渋谷のハチ公像、札幌・羊ケ丘のクラーク像を「日本5大銅像」(銅像ファイブ)と名付けています。
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■「サザエさん」「こち亀」は富山・高岡製
 銅像はかつて高村光雲、朝倉文夫、北村西望ら近代日本を代表する彫刻家も手掛けましたが、現在はほとんど銅像会社の制作です。特に富山県高岡市が盛んで、9割は高岡製といわれています。菅氏の胸像も高岡で創業したメーカーの制作です。高岡は前田利長が1609年(慶長14)に鋳物師を移住させて以降、鋳造が盛んで、明治時代に入ると、銅像制作が始まりました。屋外銅像第1号の金沢・兼六園の日本武尊像(1880年建立)も高岡製です。鳥取県境港市の水木しげるロード、東京・桜新町のサザエさん一家、亀有の「こち亀」ファミリー、四つ木の「キャプテン翼」、鳥取県北栄町のコナン通り、新潟市の水島新司まんがストリート、熊本県の「ワンピース」麦わらの一味など、高岡生まれです。
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詩人の皆さんには申し訳ありませんが、「ポエム」という語が「脳内お花畑」とほぼ同義に使われるようになってしまったのと同様に、「銅像」という存在が「ヒヒオヤジの自己顕示欲、ないしは取り巻きのゴマスリの象徴」という意味に近くなってしまっているようで、嘆かわしい限りです。

かつては光太郎や光雲、海外ではロダンなどが、造形的にも優れたあまたの像を制作したのも、「今は昔」という感がありますね。現代でもまだ芸術的良心、対象へのリスペクトのこもったすばらしい銅像も無くはないのですが……。

【折々のことば・光太郎】

亜米利加といふ国は一大怪物なりとか申候へど、美術上より考へても一の大きな?に候。この蕨の手が広がつたらどうなる事やら。


明治39年(1906)7月9日 川崎安宛(推定)書簡より 光太郎24歳

アンディ・ウォーホルら、いわゆるアメリカンアートの旗手が世界を席巻するのは半世紀以上後。当時のアメリカはまだまだ芸術的には後進国でした。それでも旧態依然の日本よりはだいぶ進んでいたようですが。官費留学でないものの常として、まずアメリカで経済的にめどを付けてから欧州へ、というのがお決まりのコースで、光太郎もそれに倣いましたが、次第にアメリカにいる意味に疑問を感じてきたようです。

ご本人がコロナ感染のため、昨年12月に予定されていながら延期となった演奏会、仕切り直して行われます。

紀野洋孝テノール・リサイタル 延期公演

東京公演
 期 日 : 2023年2月23日(木・祝)
 会 場 : 東京オペラシティ リサイタルホール 東京都新宿区西新宿3-20-2
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

大分公演
 期 日 : 2023年3月6日(月)
 会 場 : iichiko音の泉ホール 大分県大分市高砂町2番33号 
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

出 演 : 紀野洋孝(テノール) 森裕子(ピアノ)
曲 目 : 
 F.P.トスティ:〈薔薇〉〈祈り〉〈理想の人〉
 山田耕筰:〈この道〉〈かやの木山の〉〈六騎〉〈城ヶ島の雨〉〈みぞれに寄する愛のうた〉
 別宮貞雄:歌曲集《智惠子抄(改訂新版)》

2022年12月18日、23日に開催予定でした、紀野洋孝 テノール・リサイタルの延期公演!
パワーアップして望む予定です!! みなさま、どうぞよろしくお願い致します! 今度こそは!!!!!!!!!! 応援のほどよろしくお願い致します!!
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博士号取得とCD“別宮貞雄作品集「Be」”の発売を記念して」ということだそうです。「CD“別宮貞雄作品集「Be」”」についてはこちら

政府によるコロナ感染症5類への引き下げ云々の可否はまた別として、たしかにコロナ禍、だいぶ落ち着いてきたようではありますね。まだ予断を許さない状況とは思われますが。そのため、このように延期となった公演等のリトライが行われています。また近くなりましたら詳しくご紹介しますが、昨年11月に開催予定だった、大阪大槻能楽堂さんでの「至高の華 ~舞と語り~」も、改めて3月に振り替え公演があるそうです。

こちらも近々告知いたしますが、当会主催の連翹忌の集い(4月2日(日))も、3年間の中止を経て、4年ぶりに開催する予定です。よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

何にせよ、生れて二十余年、日毎にあたらしき経験の妙味と、苦味とを嘗め居り、人間としての修養上にも、此上なき好機会と、ひそかに喜び居り候次第に候。

明治39年(1906)5月15日 東京美術学校校友会宛書簡より 光太郎24歳

海外留学に出て3ヶ月あまり、まさに「日毎にあたらしき経験」の連続だったのでしょう。「苦味」は人種差別の洗礼を受けたことなどを指すと思われます。光太郎もがっつりやり返しましたが(笑)。

テレビ放映情報を2件。光太郎智恵子に触れられるかどうか、微妙ですが……。

ドキュメント72時間「福島 真冬の山小屋にて」

地上波NHK総合 2023年2月10日(金) 22:45~23:15

福島・安達太良山の標高1350m地点にある築60年の山小屋。山頂を目指す登山者たちが、体を休め、緊張から解放されるひとときを過ごす。山小屋には温泉があり、宿泊も可能。休憩がてら装備を整え、登頂を目指す4人組。ふもとから食材を持ち込み自炊を楽しむ男性。毎年、ここで忘年会を開くグループもいる。2022年の暮れ。あえて厳しい雪山を登り、ここを訪れる人たち。その胸のうちに3日間、耳を傾ける。

【語り】田畑智子
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定点観測的にロケの場所を決め、そこで丸3日間、72時間の取材を行って、そこを訪れる人々の人間模様を描くというコンセプトの番組です。松崎ナオさんによるテーマソング「川べりの家」が染みます。


今回の舞台は、智恵子が「ほんとの空」があると言った、福島二本松の安達太良山。その山頂に近い山小屋・くろがね小屋です。「ほんとの空」「智恵子抄」「光太郎智恵子」といった話が少しでも出てくるとよいのですが……。

もう1件。

宮川一朗太のおっ!さんぽ #42

BSJapanext(無料) 2023年2月13日(月) 19:58〜21:00

俳優・宮川一朗太が、おっさんの嗅覚をいかして北海道・東北地方の知られざる魅力を掘り起こします!その地でしか味わえない極上グルメに、息を飲む絶景など、旅気分をゆったり楽しめる60分!
俳優・宮川一朗太が岩手・花巻市をお散歩!
▼花巻名物・10段ソフトクリーム!
▼銀河鉄道のハンカチ?職人の技を見学!
▼宮沢賢治が愛した湯治屋「大沢温泉」

出演者 宮川一朗太
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光太郎第二の故郷・岩手花巻が舞台。マルカン大食堂の10段巻きソフトクリームが紹介されます。また、当方も定宿にしている(来週の「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」の際にも泊まります)大沢温泉さん。「宮沢賢治が愛した湯治屋」ということで、賢治には触れられるようですが、光太郎もたびたび訪れたことに触れていただきたいものです。ただ、光太郎は通常の温泉旅館的な山水閣さん、現在は宿泊棟としては休業中の菊水館さんに宿泊したことは確認できていますが、自炊部(湯治屋)さんがメインとなるとどうかな、という気はしますが……。

ちなみにこの番組、昨年には智恵子の故郷・二本松を取り上げ、岳温泉さんなどが紹介されましたが、光太郎智恵子の名は出てきませんでした。

とりあえず、ぜひそれぞれ、ご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

If you will not take me, I must greatly disapoint myself. I must have no work, no study, no hope, no pleasure. My coming to this country must end by all in vain.


明治39年(1906)4月(推定) ガットソン・ボーグラム宛書簡より
 光太郎24歳

留学に際し、東京美術学校教授・岩村透に書いてもらった複数のアメリカの彫刻家への紹介状を携えていった光太郎ですが、彼らは歓待はするものの、雇うとは言ってくれませんでした。

そこで光太郎、メトリポリタン美術館でその作品を目にし、「ほう」と思ったボーグラムへ体当たり的に雇ってくれと書簡を送りました。ボーグラムはこれ以前に光太郎の先輩に当たる彫刻家・本保義太郎を助手として雇っていたことがあって、光太郎もそれを知っていました。同じ書簡には本保の名も書かれています。

上記の必死の訴えが功を奏し、光太郎は週給6ドルで採用されましたが、「弟子」という位置づけではありませんでした。そのためか、4ヶ月ほどでやめています。ただ、10月から通い始めたアート・ステューデント・リーグではボーグラムが教鞭を執っていまして、喧嘩別れ的な感じではなかったと思われます。

クラシック系の演奏会情報です。横浜、広島それぞれで、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」がプログラムに入っています。

藤木大地&みなとみらいクインテット マチネ(昼公演)

期 日 : 2023年2月16日(木)
会 場 : 横浜みなとみらいホール 小ホール 神奈川県横浜市西区みなとみらい2-3-6
時 間 : 13:30開場 14:00開演
料 金 : 単独券 3,500円 夜公演との通し券 6,000円

昼と夜でメンバーチェンジ! 歌手藤木大地のもとに豪華なソリストが集い妙技を競う白熱のコンサート

男性がファルセット(裏声)によって女性の声域を歌う。それが、カウンターテナーです。世界を代表するカウンターテナー藤木大地と名手ぞろいのピアノ五重奏による室内楽コンサート。ソリストたちの輝く音色が藤木の柔らかな声と響き合う極上の1時間をお届けします。昼と夜のコンサートでは曲目も出演者も入れ替わります。ぜひ、2公演通してお楽しみください。

横浜みなとみらいホールという音響の優れた室内空間を活かし、濃密なソロリサイタルのような瞬間も、合奏の響きとともに透き通るようなうたが染み渡る瞬間も楽しめる魅力的な編成です。

出演者
 カウンターテナー 藤木大地  ヴァイオリン 成田達輝 周防亮介  ヴィオラ 川本嘉子
 チェロ 中木健二  ピアノ 松本和将

予定曲目
 シューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op. 44より 第3楽章
 シューベルト:魔王 D 328
 マーラー:私はこの世に忘れられた
 ラフマニノフ:ヴォカリーズ Op. 34 No. 14
 J. S. バッハ:主よ、人の望みの喜びよ
 ヴュータン:アメリカの思い出《ヤンキー・ドゥードゥル》Op.17
 加藤昌則:レモン哀歌
 木下牧子:鴎
 モリコーネ:ネッラ・ファンタジア
 平井夏美:瑠璃色の地球
 村松崇継:いのちの歌
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昼夜2公演だそうですが、夜公演は編成も曲目も異なり、「レモン哀歌」は曲目に入っていません。

昼の部と同じ編成、ほぼ同じ曲目で、広島県三原市での公演も。

藤木大地&みなとみらいクインテット 「藤木大地&みなとみらいクインテット」ネットワーク・プロジェクト

期 日 : 2023年2月18日(土)
会 場 : 三原市芸術文化センター ポポロ 広島県三原市宮浦2丁目1-1
時 間 : 13:15開場 14:00開演
料 金 : 一般 3,800円(ポポロクラブ会員3,300円)  ペア(2枚)7,000円
      25歳以下 1,000円

出演者
 カウンターテナー 藤木大地  ヴァイオリン 成田達輝 周防亮介  ヴィオラ 川本嘉子
 チェロ 中木健二  ピアノ 松本和将

予定曲目
 シューマン/ピアノ五重奏曲 第3楽章
 シューベルト/魔王
 マーラー/私はこの世に忘れられた
 ラフマニノフ/ヴォカリーズ
 バッハ/主よ人の望みの喜びよ
 ブラームス/聖なる子守唄
 木下牧子/鴎
 モリコーネ/ネッラ・ファンタジア
 平井夏美/瑠璃色の地球
 村松崇継/いのちの歌
 神ともにいまして(讃美歌)
 加藤昌則/レモン哀歌  他
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ちなみに5/3新潟県新潟市、5/21奈良県大和高田市、8/6神奈川県横須賀市での公演も予定されているとのこと。「レモン哀歌」がプログラムにはいるかどうか、不明ですが。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「子供連へ」みんな達者で勉強してゐるだらうね。日本国は此から万歳で、進歩する許りだ。みんなも盛んにやる可し。御父さんや御母さんに世話を焼かせてはいけない。 僕も勉強して今にみんなを驚かせるよ。待つておいで。

明治39年(1906)4月13日 高村光雲様一同宛書簡より 光太郎24歳

欧米留学最初の目的地、ニューヨークからの書簡。「光雲様一同」となっていますが、弟妹に宛てた内容です。この後、世界最先端の芸術に触れる中で、日本の芸術的後進性を嫌と云うほど思い知らされ、日本人であることを恥じ入るようになりますが、未だその境地には至っておらず、「日本国は此から万歳で、進歩する許り」などと書いています。

智恵子の故郷・福島二本松に、現在の二本松工業高校さんと安達東高校さんが統合して今春開校する二本松実業高校さん。

昨年十二月には新しい校歌の歌詞等が発表され、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空に」の語が4番まですべての結句に使われることになりました。現在の二本松工業高校さん、安達東高校さん両校の生徒さんから校歌に入れてほしい言葉を募り、両校の先生方で作る校歌制作委員会が作詞されたとのことです。作曲は、福島ともゆかりの大友良英氏。神奈川ご出身の同氏ですが、10代の頃、福島市で過ごされ、福島県立福島高等学校さんを卒業されているそうです。
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先月末、4月の開校式で披露するため、大友氏御指導のもと、校歌のレコーディングが為されたことが報道されました。

地元紙『福島民友』さん。なぜか2件の記事が出ていました。全県版と中通り版というところでしょうか。残念ながらどちらにも「ほんとの空」の語は入っていませんでしたが。

大友良英さんが指導、新校歌を録音 4月開校の二本松実高

 二本松工高、安達東高の両校生徒らは31日、二本松市で、2校が統合して4月に開校する二本松実業高の校歌を録音した。
 録音には生徒34人と、作曲した福島市ゆかりの音楽家大友良英さん、大友さんの楽曲の録音を担当しているエンジニア中村茂樹さんが参加。生徒は大友さんの指導を受けながら力強い歌声を響かせた。
 参加した安達東3年の結城南海さんは「歌詞に学校の近くの名所や通学路が入っているので、後輩たちに情景を思い浮かべながら歌ってほしい」と話した。録音した校歌は4月の開校式で披露される。
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心に残る歌詞と曲調 新設二本松実高の校歌、生徒34人録音に参加

 1月31日に二本松市民会館で行われた二本松実高の校歌の録音では、統合する二本松工と安達東の両校生徒が一緒に新校歌を歌い交流した。
 歌詞は生徒から取り入れてほしい言葉を募り、両校の教員でつくる校歌制作委員会が作った。「光」や「創ろう」など前向きな言葉が登場し、未来に向けた明るい内容に仕上げた。作曲は福島市ゆかりの音楽家大友良英さんが手がけ、歌詞に合わせた明るいポップスのような曲調で、親しみやすく、歌いやすいメロディーにした。大友さんは「卒業後も心に残るメロディーだと思う」と話した。
 録音では、生徒34人が大友さんの指導の下、何度も大きな声で歌い上げた。参加した安達東1年の渡辺拓実さんは「安達東の校歌を歌えなくなるのは寂しいが、それ以上に新しい校歌を歌えることにわくわくする」と話し、二本松工2年の藤井まなかさんは「ずっと残る校歌の録音に参加できてうれしい。統合して新しい友達ができるのが楽しみ」と笑顔を見せた。
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愛される校歌として歌い継がれてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

出発の歳は御見送り被下難有存じ候。 太平洋の嵐と「ロツキー」山の雪を見て二月廿七日に無事紐育へ着きました。其日早速美術館へ参り聊か驚きました。

明治39年(1906)3月5日 川崎安宛書簡より 光太郎24歳

3年半にわたる海外留学、最初の目的地であるニューヨーク到着を知らせる手紙です。「美術館」はメトロポリタン美術館でしょうか。

プロ野球のキャンプが始まり、「球春」到来といった感があります。一昨日の『日刊スポーツ』さんから。

【ソフトバンク】王貞治会長「今年は3倍返し」リベンジへ誰よりも燃える男、待ちに待った2・1

000 球春を告げる2・1キャンプイン。グラウンドに響く打球音に心が高鳴って来る。3年ぶりのV奪回を目指すソフトバンクで、最も「この日」を心待ちにしていたのは、王球団会長ではなかったか。ジャージー姿に球団帽をかぶり、手にはバットを持ってアイビースタジアムのグラウンドに元気な姿を見せた。
 宮崎入りした前日(1月31日)の全体ミーティングでは約15分間の訓示。「10日間で野球がやれる状態になること」と訴え、実戦的なメニューとなる第3クールからは「勝負ということを常に意識して取り組んで欲しい」と言った。この投手に勝つには、この打者を抑えるには…。「練習」ではなく、とにかく徹底して「勝負」を意識しろ、と繰り返した。
 あの悔しさは、王会長の野球人生でも初体験だった。昨年は優勝マジックを「1」としながら、最終戦で敗戦。同率で並んだオリックスにペナントを奪われた。現役時代はV9も達成した王会長だが、予想もしなかった幕切れに悔しさを拭いさることはできなかった。
 言葉は熱を帯びた。「勝負というのは表か裏なんだよ。勝負、勝負、勝負に勝つ! そのことだけを考えてほしいんだよ」。藤本監督以下、A組、B組の全選手、コーチ、スタッフも息をのんで王会長の訓示に聞き入った。昨秋のキャンプ。やはり前日ミーティングで王会長は熱く語った。約25分ものスピーチ。だが、翌日に新型コロナに罹患(りかん)し、リスタートへ向けたキャンプを見守ることはできなかった。
 有終の秋へ向け、長いシーズンが始まる。キャンプはその序章だが、戦う前から戦いは始まっている―。そう王会長はチームに言いたかったはずだ。詩人・高村光太郎の「道程(どうてい)」の一節も持ち出し「誰かが言ったけど『自分の前に道はない。自分の歩いた後に道はできる』とね。誰でもない自分の道。自分で開拓して切り開かないと」。最後は「今年は(3年ぶりVで)3倍返ししような!」と締めくくった。

確かにソフトバンクさんにしてみれば、昨シーズンのパ・リーグタイトルはオリックスさんにかっさらわれたという感覚でしょうね。東北楽天ファンの当方としては、CS出場権を西武さんにかっさらわれたことの方がショックでしたが(笑)。4月、5月はウハウハだったのに、です。
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それにしても王会長、「誰か」ではなく「高村光太郎」ですのでよろしく(笑)。

さて、今年のペナントはどうなることやら、ですね。

【折々のことば・光太郎】

此度は数ならぬ小生の渡航につき御餞別を贈られ候御芳志の段ありがたくあつく御礼申上候


明治39年(1906)2月2日 平櫛田中宛書簡より 光太郎24歳

この書簡の書かれた翌日(117年前の昨日ですね)、光太郎は横浜港からカナダ太平洋汽船の貨客船・アゼニアン号に乗って太平洋を渡ります。3年半にわたる海外留学の始まりでした。

御餞別」は禅宗の教義書『無門関』。光太郎生涯の愛読書となりました。

一昨日の『福島民報』さんから。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を使って下さいました。

心地よい光探る 光の在り方の研究拠点完成 福島県二本松市 照明デザイナー東海林さん建設

 福島県二本松市の安達太良高原に、人の心を優しく包む光の在り方を研究する拠点が完成した。福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん(64)=東京都=が自然の光を存分に取り入れられる景観にほれ込んで建てた。太陽や月、星が照らし出す自然の移り変わりを体感し、データ化して分析する。2025年の大阪・関西万博の照明デザインを手がける東海林さん。古里の「ほんとの空」から本当に心地よい光を見つけ出し、世界に伝える。
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安達太良高原に完成した光の観測拠点と東海林さん

 新型コロナウイルス感染拡大の影響でリモートワークを進めていた2020(令和2)年、母が暮らしている県内に仕事の拠点を作ろうと考えた。子どものころに福島市でホタルを追った記憶、ほの暗いかやぶき建築の風景などを胸に、「空」をキーワードに適地を探した。伸びやかな空が広がり、自然光にあふれる安達太良高原に決めた。魅力的な温泉にも引かれた。
 完成した施設は鉄筋コンクリート造りの高床式平屋で延べ床面積は37平方㍍。二本松市岳東町の標高585㍍の地点にある。縦2・4㍍、横3・2㍍の大きなガラス窓からは安達太良の山並みが一幅の絵画のように見える。室内の浴槽には月の光を映すことができ、まきストーブを置いて炎のゆらぎも人の心に響く光として捉える。
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安達太良高原の自然光の移り変わりを体感できる室内

 外壁の東西南北と空の計5方向に向けて照度の計測装置を取り付けた。明るさの推移を自動で記録する仕組みだ。さらに小型カメラのライブ映像をオンラインで確認できる。人の心や身体に癒やしや勇気を与える光について、感覚だけでなく、こうしたデータを積み上げながら科学的にも研究する。
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観測拠点付近から見た安達太良山。早朝、昇る太陽に赤く照らされる

 東海林さんは福島高、工学院大工学部卒、同大学院修了。2000(平成12)年に都内に照明デザイン会社LIGHTDESIGNを設立し、社長を務める。大阪・関西万博では会場デザインプロデューサー補佐・照明デザインディレクターを担う。
 新たな拠点には各分野の専門家や幅広い友人らを招き、社員らとともに創造的な討論の場としても活用する。「人にとって心地よい明かりを古里の空で考えていく。この素晴らしい景観の中に身を置くことで、さまざまな気付きを得たい」と語った。
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観測拠点付近から望む昼の安達太良山。雪の山並みの上に真っ青な冬空が広がる

照明デザインという概念、近年、注目度が増していますね。「人の心に響く光」「人の心や身体に癒やしや勇気を与える光」、いいですね。

【折々のことば・光太郎】

黒檜大沼の山水をおもへば身の都門にあるを忘れ果て候


明治38年(1905)7月13日 猪谷千代宛書簡より 光太郎23歳

猪谷千代は、光太郎がたびたび訪れた上州赤城山の猪谷旅館の女将。その弟がスキー選手・猪谷六合雄で、さらに六合雄の子息が日本人初の冬季五輪メダリスト・猪谷千春氏です。

「黒檜」は赤城山系の最高峰、「大沼」は「沼」というより「湖」、カルデラ湖です。このほとりに猪谷旅館がありました。
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光太郎は、『明星』の面々(与謝野鉄幹、水野葉舟、伊上凡骨ら)、後には当会の祖・草野心平や彫刻家の高田博厚などを案内して訪れています。

智恵子にとってのソウルマウンテンが安達太良山だったのに対し、赤城山が光太郎のソウルマウンテンだったのでしょう。

キーワード「智恵子抄」で検索していてヒットしました。

まずJAZZ系のライヴだそうで。

Summer Time Valentine Live 

期 日 : 2023年2月11日(祝・土)
会 場 : ライブ居酒屋キンのツボ 東京都世田谷区用賀2-36-13
時 間 : 19:00~ 3ステージ
料 金 : ライブチャージ:3,000円

出 演 : ジャズ<Summer Time> Nalmi (vo)  奥吉聡子 (pf)  多田和弘 (b)  戸村幹 (ds)

用賀 キンのツボにてサマータイムのLiveです♪ 毎回、文Jazzの新作を披露させて頂いておりまして、この度は、あたためている、智恵子抄を…と思っております。バレンタインLiveなので、愛する気持ちをテーマに演奏できたらと思っております。
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ヴォーカルのNalmiさんを中心に、「文JAZZ」と称し「文学作品とジャズとを融合させて、朗読と歌と生演奏で表現。」だそうです。これまでにも宮澤賢治作品等を取り上げられたとのこと。

光太郎とジャズ、意外と面白い化学反応が起こりそうな気がします。「歌物語」でたびたび「智恵子抄」を取り上げて下さっている潮見佳世乃さんも、バックボーンはジャズの方ですし。

もう1件、打って変わって市民講座です。

高村光太郎 智恵子抄を中心に

期 日 : 2023年2月18日(土)
会 場 : 御国野公民館 兵庫県姫路市御国野町御着1142-8
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
講 師 : 森本穫先生(元賢明女子学院短期大学教授 生涯学習大学講師 文学博士)

作者が妻智恵子への愛をつづった詩集『智恵子抄』。テレビドラマや映画化もされた有名な作品です。定員:25人(公民館窓口・お電話にて受付中)。マスク着用でお越しください。 
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姫路というと、光太郎智恵子とはゆかりの薄い土地(光太郎の父・光雲とは多少のゆかりが)ですが、こうして「智恵子抄」がらみの講座を開催してくださるとはありがたいところです。

今日ご紹介した2つのイベントの間に挟まる日程で、クラシック系のコンサートもあるのですが、また改めて取り上げさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

調べ始め候処中々大仕事にて迚も一寸とはまゐらず此の夏の休暇頃出来得べくは又来りたしと存ずる程に候。


明治38年(1905)5月11日 高村光雲宛書簡より 光太郎23歳

旅行先の奈良から実家に送った書簡より。この際には興福寺の諸仏を熱心に見せてもらいました。光太郎、飛鳥時代や奈良時代の仏像にはかなり心酔し、のちの自作にもそのテイストを盛り込んだようです。

ところで、この項、少し前から書簡から抜き出していますが、膨大な光太郎書簡、あちこちに掲載されているためまだ慣れず、時系列が多少前後しています。すみません。


手前味噌で恐縮ですが……。

高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか

期 日 : 2023年2月14日(火)
会 場 : なはんプラザ COMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(先着200名限定)

高村光太郎が花巻に来て、78年。光太郎生誕140年。そして、「道の駅はなまき西南」が愛称「賢治と光太郎の郷」としてオープンしたこと等をきっかけに、改めて、果たしてなぜ光太郎は花巻に来たのか? 大きな理由は宮沢賢治の育った土地であるから? そのことだけなのか?一体どのような誘引力が働いたのか? おおまかな話は知っているつもりだが、真相は? もう少し掘り下げたイキサツを探ってみたいという地域の皆さん方の素朴な疑問を解明するべく、対談を企画したところです。

講 師 : 宮沢和樹氏 株式会社林風舎代表取締役 宮沢家当主
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
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宮沢家と光太郎のつながりを軸に、賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏と当方で対談を行います。

昨年、事前打ち合わせを行いまして、その後主催の太田地区振興会さんから「こんな項目で」と提示されているのが以下のような感じです。

・賢治と光太郎、そもそもの接点 ・お互いのお互いへの評 ・光太郎の北方志向
・光太郎の「三陸廻り」 ・宮沢政次郎/宮沢清六から見た光太郎
・佐藤隆房/草野心平/黄瀛の役割 ・大正15年、賢治と光太郎最初で最後の会見


細かくシナリオを決めているわけではないので、これらからさらに話があちこちに飛ぶこともあろうかと思われますが、こんな流れです。

現地は雪深い時期、さらに平日ではありますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫塑室と其中に候ひし小生の書斎昨暁全焼いたし、書類は固より筆一本紙一枚も残らず焼け失せ申し候。……父上のも小生のも製作品皆灰燼、未だ初雪も無之内から、ちと大きなる焚火にて候ひき、その夜の凄さ、之も材料に候、

明治35年(1902)12月22日『明星』掲載の書簡より 光太郎20歳

光太郎がまだ実家に居た頃、祖父の隠居所を改装してアトリエとして使っていましたが、木彫制作で出たおが屑や木っ端に、不始末だったストーブの火が燃え移って火事になってしまいました。

この季節、皆様も火の要心を。

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