2022年10月

昨年上演されたものの、芸術祭参加作品としてパワーアップしての再演だそうです。

朗読劇『智恵子抄』

東京公演
 期 日 : 2022年11月10日(木)
 会 場 : 三越劇場 東京都中央区日本橋室町1-4-1
 時 間 : 14:30~ / 17:00~
 料 金 : 4,000円(全席指定)

福島公演
 期 日 : 2022年11月13日(日) 
 会 場 : 二本松市安達文化ホール 福島県二本松市油井字濡石1-2
 時 間 : 14:30~
 料 金 : 3,000円(全席指定)
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原作 : 高村光太郎の詩集「智恵子抄」
脚本 : 北條秀司  
構成・演出 : 成瀬芳一
 
配役 : 高村光太郎 松村雄基  高村智恵子 一色采子  柳敬助・草野心平 二反田雅澄
     柳八重 小川絵莉
 
<ヴァイオリン>桐山なぎさ   <チェロ>阿部雅士

【ストーリー】
 長沼智恵子は、福島県二本松の近在の酒造りの家の長女として生れ、土地の高等女学校を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、洋画に興味を持ち始め、卒業後東京に留まり油絵を学んだ。そして同級生の柳八重の紹介で高村光太郎を知り、激しい恋心を抱くようになった。一方光太郎は、明治の名工高村光雲の長男として生れ、父の伝統を受けて彫刻家となったが、新進詩人としても華やかな存在だった。彼は放蕩無頼の芸術家達と交わり、自堕落な生活を送っていたが、智恵子を知ってからは、彼女の清らかな美しさに洗い清められ、以前の退廃生活から救い出されていた。
 智恵子の愛によって清められた光太郎は美の世界にとびこみ、彫刻の道に骨身をけずり、妻に迎えた智恵子との愛の歓喜を歌った詩がほとばしるように生まれた。
 その後智恵子の実家は凋落し、家屋敷が人手に渡った。芸術的精神と物資に恵まれない家庭生活との板挟みとなるような月日が二人に重くのしかかっていた。智恵子は訪ねて来た八重に、画を捨てて世話女房になって高村をたすける事を告げたが、同時に幻聴が襲って来る悩みも打ち明けた。
 その後無残にも智恵子は精神分裂症になりはてていた。
 静養のため九十九里浜に転地した智恵子の症状はややもち直したが、その後南品川のゼームズ坂病院に入院した智恵子の病状は悪化していった。昭和13年光太郎の献身的な介抱むなしく、智恵子の肉体は遂にこの世を去った。
 昭和20年、戦争で東京の住居を焼かれ、心に智恵子を抱きながら光太郎は、岩手花巻の山中に山小屋を作り、一人で生活していた……。

智恵子役は昨年に引き続き、一色采子さん。お父さまの故・大山忠作画伯が智恵子と同郷の二本松ご出身で、智恵子をモチーフにした絵を複数残されています。

昨年の公演についてはこちら。
 「朗読劇 智恵子抄」。
 「朗読劇 智恵子抄」稽古拝見。
 「朗読劇 智恵子抄」銀座公演。
 「朗読劇 智恵子抄」関連。
 「朗読劇 智恵子抄」二本松公演報道。

一色さん以外のキャストは昨年と一新、さらに今年は劇伴を生演奏で行うと云うことで、ヴァイオリンとチェロの方が加わられるそうです。

一色さんからご案内を頂いております。
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コピーだとは存じますが、こう云われてしまうと参上せざるを得ないかな、というわけで(笑)、東京公演の方で申し込みました。

二本松公演に関しては、地元紙『福島民友』さんが報じています。

夫婦愛をドラマチックに 二本松、11月に朗読劇「智恵子抄」上演

004 詩人、彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」を舞台にした朗読劇「智恵子抄」の二本松公演は11月13日午後2時30分から、高村智恵子の古里・二本松市の安達文化ホールで開かれる。
 朗読劇は、劇作家の北條秀司(1902~96年)が智恵子抄を基にまとめた戯曲が原作。構成・演出の成瀬芳一さんが「樹下の二人」や「あどけない話」など数編を織り交ぜ、光太郎と智恵子の夫婦愛を描いた。
 智恵子役は同市ゆかりの俳優一色采子さんが演じ、光太郎役を松村雄基さん、智恵子の同級生柳八重役を小川絵莉さん、いわき市出身の詩人草野心平役などを二反田雅澄さんが務める。
 二本松公演は、智恵子抄出版80年を記念した昨年に続き2度目。今年は、一色さんを除きキャストを一新したほか、劇伴にバイオリンとチェロの生演奏を採用した。一色さんは「光太郎が松村さんになり、昨年とは異なる智恵子を演じられると思う。新しい仕掛けもあり、よりドラマチックな舞台になる」とPRする。
 チケットは全席指定で3千円。市文化課や安達公民館、市民交流センターで取り扱う。問い合わせは主催・製作の新派アトリエの会(電話090・1617・3675)へ。

都内、二本松、いずれかに皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

〈(五月中旬来外出せず)〉

昭和29年(1954)8月29日の日記より 光太郎72歳

何気に書かれた一言ですが、宿痾の肺結核のため、もう三ヶ月以上、ほぼ臥床している毎日。この後もしばらくは起居していた中野の貸しアトリエから一歩も踏み出さない生活が続きます。ただ、翌年になると少し回復し、近所の散歩程度は出来るようになりました。

昨日は智恵子の故郷、福島二本松に行っておりました。二本松の秋の風物詩・菊人形と、智恵子生家で期間限定公開中の智恵子の花嫁衣装などを拝見して参りました。

花嫁衣装が既に出ているものだと勘違いしており、今月初めにも行きまして、着いてから誤りに気づいたという間抜けぶりでしたが(笑)、その際は、大山忠作美術館さん、JR東北本線安達駅に昨年除幕された智恵子像「今 ここから」などを拝見し、また、8月に亡くなった智恵子顕彰団体・智恵子の里レモン会長であらせられた故・渡辺秀雄氏の墓参なども行いましたので、それはそれで有意義でしたが。

途中の東北自動車道安達太良SAにて。
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前回訪問時はどんよりした天気だったため見られなかった「ほんとの空」、今回も「雲一つない快晴」とはいきませんでしたが、それなりに。
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続いて二本松市街の霞ヶ城へ。こちらが菊人形会場です。
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「ほんとの空」をバックにした紅葉もいい感じでした。

菊人形はコロナ禍のため一昨年は中止、昨年は規模を大幅に縮小しての開催、今年は3年ぶりに通常に戻った感じでした。今年のテーマは「竹取物語」。
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人形を拝見しつつ、何だか、智恵子は光太郎のもとにやってきたかぐや姫のような存在だったのでは……と思ってしまいました。無理くりですが(笑)。

人形以外に近郷近在の団体、個人が部門別に競う作品展的な展示等も例年行われています。
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その中で、当方にタダ券をくださった、元・智恵子の里レモン会の方の作品も、見事入賞されていました。素晴らしい。
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その他、大河ドラマ便乗(笑)。
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ドラマで野添義弘さんが演じていらした安達盛長は、奥州藤原氏攻めの後、陸奥国安達郡を所領としましたので、それもありかな、と。

会場すぐ裏手には、「智恵子の藤棚」。もと、智恵子生家の庭にあったものだそうです。
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さらに上っていけば光太郎詩碑もあるのですが割愛し、菊人形会場をあとに、旧安達町の智恵子生家/智恵子記念館さんへ。
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生家一階の座敷で、早速、お目当ての花嫁衣装を拝見。特別公開中で、二階のみならず一階も歩いて廻れます。
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何とも色鮮やかな打掛です。縁起物の鶴亀や松竹梅の模様は金糸銀糸などをふんだんに使った刺繍。
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雑誌に載った写真や、テレビで流れた映像では見たことがありますが、初めて実物を拝見し、眼福でした。智恵子実家の長沼酒造倒産後、金目の物は散逸し、廻り廻って現在は地元の呉服店さんが所有しているとのこと。以前は「これは何処に行っちゃったんだろう」と思っていましたが、こうして現存していたのは喜ばしい限りです。

ただし、キャプションは問題があります。以前にも書きましたが、智恵子と地元医師との縁談があったのはどうも明治45年(1912)ではないようで、その時点では問題の地元医師は既に妻帯、子まで為していました。この打掛が間違いなく明治45年(1912)に仕立てられたものだとすれば、縁談の相手は別の人物と云うことになると思われます。

「明治45年(1912)、地元医師との縁談」というのは、以前に書かれた光太郎や智恵子の評伝類で定説のようになってしまっており、一度そうなるとなかなか訂正されないという一つの類例ですね。

ところで、現在、生家の庭に据えられている灯籠のうちの一つも、一度人手に渡ったものが平成29年(2017)に二本松市に寄贈という形で戻ってきたりもしていますし、さらに遡れば、平成4年(1992)に生家が修復整備された際に戻ってきた品々(一階座敷の仏壇に納められた仏像など)もあり、まだ近隣には長沼家ゆかりの品が残っているのかも知れません。

それを言い出すと、以前から生家で展示されている智恵子愛用の機織り機や蓄音機、琴、鳥籠など、どういう経緯でここに納められているのか、それぞれにドラマがあったことと思われ、改めて関係の皆さんのご苦労が偲ばれました。
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さらに特別公開の二階へ。二階は智恵子や、おそらく妹たちの居室、さらに光太郎が訪れた際に泊まった部屋です。
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小さな畳は掘りごたつの炉の跡。

智恵子居室の電灯には、陶器製のローゼット。
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当時としては高級品、これが使われていたのはこの部屋だけだそうで。当方、何度もこの部屋を訪れていますが、いつもこれを撮影するのを忘れていて、初めて撮りました(笑)。

二階部分(というか一階も)への立ち入り、花嫁衣装の公開、ともに11月8日(火)までです。同じ敷地内の智恵子記念館での、智恵子紙絵実物展示は11月13日(日)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夕方小雨、雷雨あり、落雷と見えて二三強し それ以後停電、十時現在まだ電灯つかず、

昭和29年(1954)8月29日の日記より 光太郎72歳

最近はほとんど無くなったように思われますが、昔は落雷による停電が頻繁にありましたね。

ちなみに光太郎、世の中で最も恐ろしいと思っていたものの一つが雷でした。昭和15年(1940)には、ずばり「雷ぎらひ」というエッセイまで書いています。

そちらに曰く「私は生来の雷ぎらひである。どういふわけといふ理由も何もないが、あの比例外れな、途方もない、不合理極まる大音響が第一困る。これはまるで前世紀の遺物ではないか。イグアノドン、マストドンの夢ではないか」。そして落雷が近づくと、自分で電気のブレーカーを落とし、足袋のコハゼをはじめ、一切の金属を身体から遠ざけ、脚に滑り止めのゴムをはめた籐椅子に座り、難しい書物を読んで意識をそちらに向けて恐怖を紛らわしたそうです(笑)。

数え72歳だったこの頃はどうだったのでしょうか。

直接は光太郎らに関わらないのではないかと思われますが……。

令和4年度めぐろ歴史資料館特別展 「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」

期 日 : 2022年11月3日(木・祝)~12月11日(日)
会 場 : めぐろ歴史資料館 東京都目黒区中目黒三丁目6番10号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

大正から昭和前期にかけての目黒地域は、目黒川沿いを中心に工場地帯を形成していて、当時は、ものづくりの音の響く街でした。工業化が進む中でも伝統的な技術を継承し、ひたむきにその姿勢を貫き、現在でも名工として語り継がれている技術者もいました。本展では、目黒の2人の名工「千代鶴是秀(大工道具鍛冶)」と「小宮又兵衛(蒔絵筆製作)」に再注目してその業績を紹介します。また併せて、平成30年に国の「選定保存技術」保持者に認定された高山一之氏を現在の目黒区内で活躍中の名工として紹介します。

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関連行事 特別展「目黒の名工千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」記念講演会
現在、目黒区内の活躍中の名工で、国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」に認定されている高山一之氏、千代鶴是秀研究の第一人者である土田昇氏(土田刃物店店主)のお二人をお迎えして、令和4年度めぐろ歴史資料館特別展の記念講演会を開催します。また、当館蔵の小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について当館学芸員が解説いたします。

 開催日 令和4年11月26日(土曜日)
 時 間 午後1時から
 場 所 めぐろ学校サポートセンター第1研修室(めぐろ歴史資料館と同じ建物です)
 講 師
  高山一之(国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」)
  土田昇(有限会社土田刃物店 店主 「千代鶴是秀研究の第一人者」)
  当館学芸員(当館蔵 小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について)
 定 員 40名(応募多数の場合は抽選)
 申 込 ハガキ・ファックス・電子申請のいずれかでお申し込みください。
     令和4年9月30日(金曜日)から11月3日(木曜日・祝日)まで(必着)

取り上げられる三人のうち、千代鶴是秀は、伝説的道具鍛冶。光太郎と直接の交流があり、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展では、光太郎が使っていた是秀作の彫刻刀が展示されました。他に平櫛田中や朝倉文夫などが是秀の作品を愛用していました。

また、是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を石膏に取っています。

関連行事の講演会講師に名を連ねられている土田昇氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

腫、猛暑、36.3 今年最高といふ、 来訪者なし、


昭和29年(1954)8月23日の日記より 光太郎72歳

地球温暖化が進行した現今、真夏の36℃ちょっとは当たり前になってしまいましたが……。

都内での演奏会情報2件、ご紹介します。

開催順に、まずクラシック系で、銀座。

えつ子とまき子のコンサート 2022秋

期 日 : 2022年11月6日(日)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演
料 金 : 全自由席 一般¥4,500(当日¥5,000)

出 演 : 前澤悦子(ソプラノ) 朝岡真木子(作曲家・ピアノ)
ゲスト : 清水邦子(メゾソプラノ)、加賀清孝(バリトン)

演奏予定曲:
 朝岡真木子歌曲より
  歩こうよ(詩・戸張みち子)  ガラスのオルゴール(詩・今村佳枝)
  追憶の風(詩・木下宣子)   風といっしょに〔二重唱〕(詩・高木あきこ)
  黒豆のなっとう〔二重唱〕(詩・中野惠子)  組曲「あなたへ」(詩・星乃ミミナ)
  「智惠子抄」より あどけない話・レモン哀歌(詩・高村光太郎)
 〈初演〉ソプラノとバリトンのための「薔薇の園」(詩・岡崎カズヱ)
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作曲家・朝岡真木子さんによる歌曲のコンサートです。

先月24日、旧東京音楽学校奏楽堂さんにおいて行われた「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で演奏された「組曲 智恵子抄」から抜粋で「あどけない話」と「レモン哀歌」が演奏されます。歌唱は同じく清水邦子さん、ピアノは朝岡さんご本人です。

今回は、メインの歌い手さんは前澤悦子さんという方で、さらにバリトンの方も参加なさり、さまざまな朝岡さんの作品が演奏されます。

もう1件、原宿からシャンソン系で。

新・智恵子抄 智恵子飛ぶ

期 日 : 2022年11月7日(月) 11月8日(火)
会 場 : アコスタディオ 東京都渋谷区神宮前1丁目23-27 赤星ビル
時 間 : 11/7 19:00~  11/8 15:00~  19:00~
料 金 : 前売り4,000円 当日4,500円

出 演 : モンデンモモ(歌・舞踊) 田中知子(ピアノ) 伊藤耕司(チェロ)

本当に自分として 『これがわたしです!』という作品ができましたので、ぜひみなさまにご高覧頂きたくご案内を出させていただきました!!

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「智恵子抄」をはじめとした様々な光太郎詩に、ご自分でオリジナルの曲をつけて歌われているシャンソン系歌手のモンデンモモさん。他にミュージカルの監督的なこともやられたりなさっていて、そのあたりがお忙しかったのでしょう、ひさびさに智恵子抄系に特化したコンサートです。今回は舞踊系の要素も取り入れつつ、だそうで。


それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后山口村の田頭さん奥さんと難波田さん夫人とくる、レモンスカツシ風にソーダ水をつくりて進ずる、


昭和29年(1954)8月22日の日記より 光太郎72歳

山口村」は誤りで正しくは「太田村」、光太郎が昭和20年(1945)から同27年(1952)まで蟄居生活を送っていた岩手の寒村です。「田頭(たがしら)さん」は屋号で、当主は高橋雅郎元太田村長。「奥さん」はアサヨといい、夫妻で何くれとなく光太郎の世話を焼いてくれていました。息女の故・愛子さんは最近まで光太郎の語り部を務められていました。

難波田さん」は洋画家の難波田龍起。かつてあった駒込林町の光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住んでいました。その夫人と高橋アサヨがどういう伝手(つて)で知り合ったのかは不明です。たまたま同時刻に光太郎が起居していた貸しアトリエを訪れただけかも知れませんが。

レモンスカッシ風にソーダ水」、遠く大正初めの智恵子との結婚直後、既に光太郎がこれと同じか、似たようなものを作って来客をもてなしていたことが、詩人・歌人の上田静栄の回想に語られています。

10月23日(日)、『東京新聞』さんの埼玉版から。

「浦和画家」近藤洋二に脚光 遺族所有4作品、うらわ美術館に収蔵 川越の藤井さん「魅力、再び伝えたい」

002 昭和の初め、芸術の都パリに憧れて、妻子を連れて日本を飛び出した埼玉の画家がいた−。川越出身で「浦和画家」としても名が残る近藤洋二(一八九八〜一九六四年)。地元の縁で画家を知った川越市の女性が「こんな面白い人生があったとは」と関係者を訪ね歩き、長年遺族が所有していた四作品が、うらわ美術館(さいたま市浦和区)に収蔵されることになった。
  「お金もないのに、妻と生後十一カ月の長男を連れて上海行きの船に乗り込んだ。金が尽きると絵を描いて稼ぎ、さらに先へ進んだ。それでパリまで行っちゃったんですよ」。そう語るのは、川越市の町雑誌「小江戸ものがたり」編集発行人の藤井美登利さんだ。
 藤井さんは、地元で「旧制川越中学を卒業した絵描きがいた」という話を聞いて興味を持ち、調べ始めた。資料を読み込む過程で、長男の近藤乃耶(のや)さん(故人)が書いた評伝「『偉い人』にならなかった絵描きの生涯」(東宣出版、現在は絶版)を手にした。画家の魅力的な逸話や数多くの著名人との交流が記され、ぐいぐいと引き込まれた。
 明治生まれの近藤洋二は、医大に進むはずだったが父が急死し、家計を助けるために働きながら画家を目指すように。パリで絵を描きたいと二八年、上海までの片道切符を手に親子三人で船に乗り込んだ。詩人の金子光晴夫妻とも一時同道。近藤一家の姿は、金子の「どくろ杯」という小説に登場する。上海からインド、イタリアなどを経て翌年、フランスへ到着した。
   当時のパリ画壇ではピカソや藤田嗣治らが活躍していた。だが、近藤は生活が厳しく美術学校に入れず、毎月三十枚以上、ひたすら絵を描き続けた。ついに滞在費が尽きて帰国する船で、日本郵船の船長が三等船室だった親子を貴賓室に移してくれた。「当時の外国航路の船長は高給取りで、大勢の若い画家を援助していた」と藤井さん。このとき同じ船に乗っていたのが、作家宮本百合子の実家、中条家の人々だった。その縁で、近藤一家は帰国後、都内の屋敷町にある中条家の離れに住んだ。戦時中、百合子の夫顕治は刑務所に拘留されていた。向かいは詩人の高村光太郎宅。高村は警防団長で、兜(かぶと)をかぶって棒を振り回し、空襲の火を「消せ!消せ!」と怒鳴っていた−と本には書かれている。
 藤井さんは「画家の情熱と、おおらかな時代の空気に魅了された。生前は人気があったが、埋もれてしまったその魅力を、再び伝えたいと思った」と語る。多作だった近藤は、穏やかな風景画を数多く描き、今回収蔵した作品にも、雪に埋もれる集落や、欧州の道を自転車が走るのどかな光景が描かれる。六十六歳の時、散歩中にバイクにはねられて急逝した。「ただ死ぬまで毎日毎日、次々に楽しそうに描いて描いて描きまくっていて、それが父の生きがいであり、喜びであった。およそ賞だとか名誉だとかに無関心だった」と乃耶さんは記す。
 うらわ美術館では、一般公開に向けて修復や調査を進めている。近藤の甥(おい)で川越市在住の近藤繁さん(85)は「いつもパイプをくゆらせ、もの静かな人だった」と生前を振り返り「生きていたころの記憶がある人はどんどんいなくなる。作品が収蔵され、これからも見てくださる方がいると思うと、うれしいです」と話している。
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近藤洋二という画家、『高村光太郎全集』の二箇所に名前が出て来ます。

まず、「式場莞爾詩集「海の星座」序」(昭和30年=1955)。

 昔の隣組仲間の近藤洋二画伯のむすこさんは立派な海員になつて今休暇で東京にきている。そのむすこさんの友達だという式場さんは海員組合の仕事をしている海洋詩人だとの事だ。この三人の人にあつて海員生活の話をしているうちに、海の好きな私は、いつのまにか、式場さんの海の詩集に序文をかくようなきつかけを持つようになつてしまつた。一面識もなかつた人の詩集なんだが、それが海員の助け合い運動の何かになるというだけきいても多分気持ちのよい詩集だろうと思えた。何にもいう事がないので今から丁度五十年前に私が太平洋のまん中でアゼニヤンという船にいて作つた歌を二つ書いておく。

  海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと
  地を去りて七日十二支六宮のあいだに物の威をおもい居り


もう一箇所は、昭和30年(1955)12月9日の日記。

 近藤洋二氏他二人くる、

どちらも同じ年なので、「他二人」が近藤の子息と式場なのでしょう。この日の出来事が『海の星座』序文に書かれていると見て間違い有りますまい。

それにしても、近藤洋二という画家の詳細については、東方、寡聞にして存じませんでした。子息が書かれ、光太郎にも言及されているという『『偉い人』にならなかった絵描きの生涯』も存じませんでした。調べてみましたところ、国会図書館さんに所蔵がありますので、いずれ見てみます。

ちなみに「浦和画家」は、関東大震災後、浦和に居住する画家が多かったことから彼らの総称として生まれた語です。有名どころでは、倉田白羊、須田剋太、瑛九など。「うらわ美術館」さんは、さいたま市立だそうで、こうした地元作家の作品等の収集にも力を入れているようです。大事なことですね。近藤作品、公開されたら観に行ってみようと思いました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平さんくる、 三時辞去後風呂に入る、三月ぶりの入浴、


昭和29年(1954)8月21日の日記より 光太郎72歳

5月頃からだいぶ体調を崩し、外出もままならなくなって、一日ベッドで過ごす日もありましたので、入浴もしていませんでした。もっとも、昭和20年(1945)から7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中も、村人らの好意で鉄砲風呂を贈られたものの、薪を大量に使わねばならず、そのため入浴をほとんどしませんでした。その分、温泉に足を運ぶ機会が多かったのですが、上京後は近くに温泉もなく、また、銭湯に行ったという記述も見当たりません。当然、タオルで身体を拭いたりはしていたとは思うのですが……。

光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ鋳金家で人間国宝の豊周の作品が出ます。

教材としての芸術資料 ー金沢美術工芸大学所蔵の工芸優品選ー 新キャンパス移転プロモーション展

期 日 : 2022年10月27日(木)~11月1日(火)
会 場 : 金沢市文化ホ-ル展示ギャラリー 石川県金沢市高岡町15番1号
時 間 : 10:00~17:00 最終日は13:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 金沢美術工芸大学は、令和 5 年(2023)10 月 1 日より、更なる飛躍を期して新キャンパスでの歩みを始めます。地域に開かれた大学をめざす新キャンパスでは、市民のみなさまをはじめ学外の方々が気軽に訪れることのできる展示施設を整備し、絵画・彫刻・工芸・デザイン・その他の分野にわたる貴重な芸術資料の公開の拡充を予定しています。
 本学は、昭和 21 年(1946)の開学以来、教育研究用の資料として、また、優れた芸術に接する機会を市民に提供するために、世界的に著名な芸術家の作品を含む約 6,700 点の芸術資料を収集してきました。この展覧会は、キャンパス移転に先立ち、日々の〝教材〟として活用してきた芸術資料を身近に感じていただくために、学内ではなく、まちなかで開催する〝出開帳〟です。
 第三弾である今回は、所蔵品の中から工芸の優品を中心に展示いたします。芸術資料の鑑賞を通して、本学の教育研究に関するご理解を深めていただければ幸いです。
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豊周は東京美術学校鋳金科を卒業し、母校の教授を務めていましたが、戦時中に退官。戦後になって昭和24年(1949)、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)教授に就任しました。のち、教壇から下り名誉教授となりましたが、その肩書きは昭和47年(1972)に歿するまで継続していたと思われます。

そんな関係で、同校には豊周作品が現存、富本憲吉ら他の工芸家の作品ともども「教材としての芸術資料」という扱いで、今回展示されるわけです。
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豊周作品は「朧銀花入 雨」。正確な制作年代は不明のようですが、いずれ戦後のものでしょう。「朧銀」は銅と銀の比率を3:1とした合金で、豊周も好んで使った材の一つでした。

意外と豊周作品を見られる機会は多くありません。会期が短いのが残念ですが、ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

むしあつく、しう雨あり、今日は殊に暑気を感ず、 ビール一本、夕、オムレツ等、 〈ヘチマに肥料〉


昭和29年(1954)8月16日の日記より 光太郎72歳

終戦の年から7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋では、野菜類は畑でほぼ自給していた光太郎。終の棲家となった中野の貸しアトリエでも、ヘチマ程度は栽培していたようです。

ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画、現在、光太郎がらみでは花巻市で「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が10月30日(日)まで開催されています。Twitterの投稿などでは、若い方々が花巻高村光太郎記念館さんを訪れ、「いいところだ」的なつぶやきをなさっていて、ありがたく存じます。

来月からは福岡で、光太郎の朋友・北原白秋がメインですが。

北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~

期 日 : 2022年11月1日(火)~2023年3月31日(木)
会 場 : 北原白秋生家・記念館 福岡県柳川市沖端町55-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 12月29日(木)~2023年1月3日(火)
料 金 : 大人 600円 高・大生 450円 小・中生 250円

北原白秋生家・記念館では、柳河出身の詩人・北原白秋没後80年を記念して、DMM GAMESより配信中のオンラインゲーム『文豪とアルケミスト』とタイアップした企画展を開催いたします。本展時では白秋の青春時代にスポットを当て、白秋を中心とした文士や芸術家たちが芸術と自由と享楽の権利を謳歌した文藝運動や交流などを①新詩社『明星』時代、②「パンの会」時代、③「朱欒」時代と3つの時代に分けて紹介。また、今回初公開となる「室生犀星宛白秋書簡2通」や、白秋を取り巻く若き文士たちのキャラクターパネルの展示、グッズの販売も併せておこないます。

期間中、来館者限定オリジナル栞(非売品)を差し上げます。※なくなり次第終了いたします。

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「白秋を取り巻く若き文士たち」が、萩原朔太郎、室生犀星、吉井勇、そして我らが光太郎。

朔太郎といえば、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で共催の「萩原朔太郎大全2022」が開催中ですが、こちらの企画はそれには含まれていません。しかし、「同時開催」として「特別展示 白秋と朔太郎の世界~朱欒から朱欒へ」も行われるそうです。こちらは来年1月10日(火)までです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻の菅原女史玄関まで、豆銀糖をもらふ、

昭和29年(1954)8月8日の日記より 光太郎72歳

「菅原女史」は光太郎が終戦後、昭和27年(1952)まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で小学校教諭をしていた女性です。

「豆銀糖」は岩手の銘菓。といっても高級なものではなく、大豆と水飴、きな粉を使った庶民的なお菓子です。光太郎は昭和24年(1949)のラジオ放送用の対談で、豆銀糖と南部煎餅を激賞していました。

昨日は都内に出、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」に行っておりました。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されているということで、拝見に伺った次第です。

東京メトロ千代田線の千駄木駅で下車、団子坂を上がりきると同館ですが、一旦通り過ぎ、そのまま歩きました。本郷通りにぶつかって左折すると、当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生の菩提寺である浄心寺さんがあります。
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浄心寺さんには4月の連翹忌の日にも伺いましたが、その後、8月に奥様の節子様(やはり生前の光太郎をご存じでした)がお亡くなりになったので、墓参させていただきました。墓石側面には、北川先生と奥様の名が並んで刻まれ、それを見て改めてもうお二人ともこの世にいらっしゃらないのだなぁと、しみじみさせられました。

さて、改めて鷗外記念館さんで展示を拝見しました。
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光太郎から鷗外宛の書簡、一昨日に図録の一部をtwitterでご紹介されていた方がいらっしゃり、そういう関係というのは存じていましたが、実際に全文を読んで驚きました。「軍服着せれば鷗外だ事件」に関する長いものだったからです。

大正6年(1917)、光太郎数えで35歳、鷗外は同じく56歳。光太郎がかつて美校生時代の恩師であり文壇の重鎮だった鷗外をこき下ろしたというのです。後に昭和になってから光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)

立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売。まぁ、まっとうな職業ではないという例です。他にも最晩年の高見順との対談でも、同様の発言をしています。

この中の「手紙であやまったり」の「手紙」が、新たに発見され、展示されているのです。

同展図録に画像と全文が引用されています。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧になったうえでこちらもお買い求め下さい。
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書簡は便箋に2枚、びっちりと、これこれこういうことを自分が言っていると噂が立っているようだが、それはまったくのデタラメだし、自分は鷗外先生を心から敬愛しているので、そんなことを考えたこともありません、といった、まさに平身低頭(笑)。これが大正6年(1917)の10月7日付けでした。

噂が立っている、というのは、10月1日発行と奥付にある雑誌『帝国文学』に載った鷗外の「観潮楼閑話」というエッセイ中の次の一節によります。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。簡単で明白で痛快を極めてゐる。

今回の光太郎書簡の中に、「今度出た『帝国文学』にこんなことが書かれているぞ」と、劇作家の小山内薫が教えてくれ、早速取り寄せて読んだとありました。「げっ!」と思った光太郎、急ぎ鷗外に弁明の手紙を送ったのでしょう。

これに対し、翌日の10月8日付で鷗外は以下の返信を送りました。

御書状拝見仕候 帝国文学談話中ノ貴君ノ言ハイツドコデ見タカ知ラズ候ヘ共アマリ奇抜ニ面白ク覚エシユヱ記憶シ居リフト口上ニ上シモノニ有之候 ソレ以上御書中御示被下候貴君ノ心事ニ付テハ長クノミナリテ詳悉シ難ク面談ナラバ小生ノ意中モ申上グルヿ(こと)出来可申カト存候 シカシ貴君ニ於テハ御聞ナサレ候モ無益ト御考へナサレ候哉モ不知候 果シテ然ラバソレマデノ事ニ可有之候 万一御聞被下候トナラバイツデモ可申上候 丁巳十月八日 森林太郎 高村光太郎様

漢文調で若干わかりにくいかと存じますが、先述の北川太一先生、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』(平成21年=2009 北斗会出版部)中で、一言で要約されています。「いつでも会って話は聞くよ、君が聞いても仕方がないというのならそれはそれまでだけど」。ナイスな翻訳です(笑)。

この手紙を受け取った光太郎、自宅兼アトリエから指呼の距離にあった鷗外邸(観潮楼、現在、記念館の建つ場所)に走りました(たぶん(笑))。
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そして手紙にしたためたのと同様の弁明をしたようです。その件は翌年1月の「観潮楼閑話」に載りました。

 閑話は今一つ奇なる事件を生じた。それは高村光太郎さんが閑話中に引かれたことを人に聞いてわたくしに書をよせた事である。閑話に引いた高村光太郎氏の語は自ら記したものではなく、多分新聞記者の聞書などであつただらうと云ふことである。高村さんは又書中自分とわたくしとの間に多少の誤解があるらしく思ふと云ふ事をわたくしに告げたのである。わたくしは高村氏に答へて、何時にても面会して、こちらの思ふところを告げようと云つた。とうとうわたくしは一夜高村氏を引見して語つた。高村氏は初対面の人ではない。只今久しく打絶えてゐただけの事である。
 高村氏はかう云ふ。自分は君を先輩として尊敬してゐる。唯君と自分とは芸術上行道を異にしてゐるだけだと云ふ。わたくしは答へた。果して芸術上行道を異にしてゐるなら、よしや先輩と云ふとも、それがよそよそしい関係になるであらう。わたくしの思ふには、君とわたくしとは行道を異にしてはをらぬやうである。
(略)
 高村氏は私の言を聞いてこれに反対すべきものをも見出さなかつた。そして高村氏とわたくしとの間には、将来に於て接近し得べき端緒が開かれた。是は帝国文学が閑話を采録してくれた賜である。

どうやらこれで一件落着(笑)。

それにしても、今回の光太郎書簡には笑いました。これまで確認出来ていた光太郎から鷗外宛書簡5通は、どれも葉書一枚の簡略なもの、中には偉そうに「森林太郎殿」と表書きにしたためたものさえあったのに、一転してへいこらしている内容だったためです。

一つ残念だったのは、亡くなった北川太一先生に、この書状をご覧になっていただきたかったということ。先述の『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』中に次の一節があります。

釈明の手紙がただちに認(したた)められ、その手紙は現存しませんが、鷗外はこれもまたすぐ光太郎に、私なんかが見ると実に愛情深い返事を出していて、光太郎はその返事をもらった翌日に、すぐここ観潮楼を訪ねるのです。

その手紙が現存したわけですから。

ところで、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』刊行の際に、北川先生から、全ての原因となった「「新潮」か何かのゴシツプ欄」の記事を探せ、という宿題を出されましたが、果たせませんでしたし、その後も見つかっていません。今度はそれを見つけて先生の墓前に報告させていただきたいものです。

さて、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。他にも夏目漱石、夏目鏡子(漱石の妻)、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、坪内逍遙、高浜虚子、中村不折、藤島武二、永井荷風ら、錚々たるメンバーから鷗外宛の新発見書簡等が出ています。また、これも新発見の鷗外直筆原稿の数々も。ぜひ足をお運び下さい。

展示を拝見後、関連行事的に行われました「朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ」を拝聴しました。
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北原さんは、昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をないました(講話は当方が担当させていただきました)。

驚いたことに、「朗読」といいつつ、それなりに長い「高瀬舟」を、暗誦なさったこと。素晴らしい!

同展、来年1月29日(土)と長い会期ですし、今後も関連行事が続きます。また、近くの旧安田楠雄邸では、過日もご紹介しましたが、「となりの髙村さん展 第3弾「髙村光雲の仕事場」」も予定されています(11月2日(水)~11月6日(日))。あわせてぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后日活の人くる、智恵子抄映画化のこと、断る、音楽映画の人四人くる、八田氏、早川氏其他、映画化のこと、断る、


昭和29年(1954)8月5日の日記より 光太郎72歳

『智恵子抄』の映画化。実現したのは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、熊谷久虎監督、原節子さん、山村聰さん主演による東宝映画でしたが、光太郎生前から映画化の話はたびたびありました。

この日の「日活」と「音楽映画」はそれぞれ別口で依頼に訪れています。「音楽映画」は新東宝で、前月末にも光太郎の許を訪れていました。いずれも実現しませんでしたが。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、市民文化センターさんで開催中の「彫刻家 高田博厚展2022」の拝観。さらに昨日は関連行事として、同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さんのご講演があり、どうせ行くならこの日に合わせようと思った次第です。

いつも書いていますが、高田博厚は光太郎の影響で彫刻家を志し、光太郎はいち早くその才を認めて高田のフランス留学を支援しました。光太郎歿後、帰国した高田は光太郎顕彰に協力し、その縁でやはり生前の光太郎をご存じだった同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏と親しくなりました。そして同市で高田の個展や講演会を開催するなどし、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて、東武東上線高坂駅前から伸びる道路に「高坂彫刻プロムナード」が整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品が野外展示されています。

昨日の絵子猫さんのお話、それから展示自体も彫刻プロムナードに関係しますので、まず、彫刻プロムナードに立ち寄りました。

当方、初めてプロムナードを歩いたのは平成25年(2013)。その後、光太郎像だけは、今年1月にもすぐ近くのレストランで食事をした際に拝見しましたが、昨日は久々に全作品を見つつ歩きました。
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まずは光太郎像。
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これがクリソツかというと、そうではありません。それもそのはず、高田がこれを制作したのは光太郎歿後、しかも昭和6年(1931)に日本を離れて以来、光太郎には会っておらず、記憶の中の光太郎と、晩年の写真とを頼りに作られたものだからです。それでも、この像から立ち上るオーラは、まぎれもなく光太郎のものです。

その他、全作品は撮りませんでしたが、光太郎とも交流のあった人々を作ったもの。

詩人の高橋元吉。
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さらに宮沢賢治。
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どうも当方、この賢治の顔が、お世話になっている某美術館さんのキュレーター氏に似ていると感じる、というか「ああ、××さん!」と呼び掛けたくなります(笑)。どなたのことか、関係の方はご想像下さい(笑)。

その後、昼食を摂って、市民文化センターさんへ。
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高田の彫刻群。
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一昨年の同展で、やはり関連行事のご講演をなさった元NHKアナウンサー・室町澄子氏の像。
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そして、昨日、ご講演なさった絵子猫さんとのコラボ。
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ブロンズ彫刻がずらっと並んでいると、それはそれで迫力があってよいのですが、いかんせん色彩がありません。その点、今年は実に色鮮やかでした。

同時開催で、「探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~」。光太郎を含む、彫刻プロムナードでモデルとなった人物たちを題材にした紙芝居を、地元の小中高生の皆さんが制作、元になった彫刻の写真と共に展示されていました。
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光太郎。
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制作は東京農大三高美術部の皆さん。ありがとうございます!
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高橋元吉。
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宮沢賢治。
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そして、彫刻は無いものの、プロムナード整備の功労者、故・田口弘氏についても。これは意外でした。
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光太郎との交流から始まり、戦時中の九死に一生を得られた体験、戦後の高田との交流。
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うるっときてしまいました(笑)。

さて、時間となり、絵子猫さんの講演会。
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冒頭、森田市長のご挨拶。
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この後は、絵子猫さんご自身の希望により、講演というより、インタビュー形式で。インタビュアーは市職員の方でした。

いかにして独自のイラストレーションの世界が作られたか、これまでの歩み的なお話。
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そして、彫刻プロムナード。お近くにお住まいだそうで。
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美大時代、裸婦デッサンがお好きだったという絵子猫さん、最近は個人でモデルを雇うわけにも行かず、しばらくそちらから離れていたところ、ある日、「あ、これも裸婦じゃん」と、高田の裸婦像を描くことを思いつかれたそうです。なるほど。

そうして生まれたのが、こちら。
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デジタルとアナログの融合的な手法で描かれているとのこと。

お土産はこちらのポストカード、さらにモノクロ版A4サイズ。塗り絵になりそうです。
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光太郎像は描かれていないようですが、マハトマ・ガンディーはありました。絵子猫さん曰く、「初めてオジサンを描きました」(笑)。
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何だかガンディー、「スターウォーズ」のヨーダみたいです(笑)。

閑話休題、こういう形で地域の人材を活用するのは非常に理想的ですね。他の市町村の関係の皆さん、ご参考までに。

というわけで、「彫刻家 高田博厚展2022」。11月10日(木)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

平熱、セキもタンもさっぱり出ず、 午后奥平さんくる、ビール、余もビール少〻のむ、岡本先生くる、診察だけ、容態よき由、 夜食に玉ずしをとる、

昭和29年(1954)7月30日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核、病状は一進一退でした。

都内からのイベント情報です。

となりの髙村さん展 第3弾 「髙村光雲の仕事場」

期 日 : 2022年11月2日(水)~11月6日(日)
会 場 : 旧安田楠雄邸 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般700円 中高生400円

2009年、2017年に続く「となりの髙村さん展」第3弾は、「髙村光雲の仕事場」をとりあげます。 明治25年12月、駒込林町に越して来た木彫家・髙村光雲は、この地で「老猿」等、数々の作品を生み出しました。 曾孫髙村達さん(写真家)の協力を得て、光雲の仕事をご紹介します。
東京文化財ウィーク2022企画事業。
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「となりの」というのは、会場の旧安田楠雄邸庭園さんが、光太郎の実家である光雲邸跡に隣接するところからのネーミングです。髙村家は、家督相続を放棄した長男・光太郎に代わって、三男にして鋳金家だった豊周が嗣ぎ、その子息の写真家の故・規氏、そしてそのまた子息にして同じく写真家の達氏が住まい続けていらっしゃいます。建物は改築されていますが。

隣接する安田邸では、平成21年(2009)に、故・規氏の写真展「となりの髙村さん展」、平成29年(2017)で「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」、そして翌平成30年(2018)には「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されました。

また、昨年には「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」ということで、朗読家の北原久仁香さんと当方のコラボイベントの会場としても使わせていただきました。

今回はどんな感じの展示になるのか、詳細は訊いておりませんが、光雲の遺品的な彫刻道具類なども並ぶのかもしれません。

当方、11月3日(木・祝)に伺う予定で居ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平氏くる、岩波文庫の話、大体承諾の返事


昭和29年(1954)7月16日の日記より 光太郎72歳

「奥平氏」は、美術史家の奥平英雄。「岩波文庫」は、光太郎生前最後の選詩集となった岩波文庫版『高村光太郎詩集』を指します。編集には奥平があたり、光太郎は「はしがき」を寄せました。刊行は翌年3月のことでした。こちらは現在も版を重ねているようです。

大阪から書道展の情報です。

第28回游心会書道展-智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界

期 日 : 2022年10月25日(火)~10月30日(日)
会 場 : 日本民家集落博物館 大阪府豊中市服部緑地1-2
時 間 : 9:30 ~ 17:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 博物館としての入館料 大人500円 高校生300円 小・中学生200円

恒例の書道作品を中心とした展覧会。今年のテーマは「智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」。
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会場の日本民家集落博物館さんは、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示するために昭和31年(1956)に、日本で最初に設置された野外博物館だそうです。
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この中の4棟を使って、地元の書道会・游心会さんの方々の作品展で、軸装を中心に約50点だそうです。代表の畑中弄石氏は、毎日書道展審査会員を務められているとのこと。

各人、てんでバラバラに書題を選ぶのでなく、会として「智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」だそうで、なるほど、そういうやり方もあるんだな、と感心しました。同会、過去には宮沢賢治や石川啄木の詩歌文などで同様の試みをやられているそうです。

古民家を会場にというのもいいですね。

是非足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

終日ベッド上、 近所の電気屋さん来てベッドと中西さん宅とに呼鈴をつける、

昭和29年(1954)7月13日の日記より 光太郎72歳

「中西さん」は、光太郎終の棲家となった中野の貸しアトリエと同じ敷地内の大家(おおや)さんです。今で言うナースコールのようなものでしょう。

現在、京都府の泉屋博古館さんで開催中で、来月初めから同館の東京館に巡回される特別展「生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-」の図録が届きました。2,500円也。
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当方、いわゆる骨董としての焼き物にはあまり興味がありませんが、波山の作品は別です。表紙にもある淡いパステルカラーのような葆光(ほこう)彩磁の色合いは非常に好きです。実作も何度か拝見しましたが、図録で見ても見飽きることがありませんね。

さて、それよりも購入の目的は、「参考出品」ということで出ている、光太郎の父・光雲の木彫2点。波山は東京美術学校卒業で、光雲に木彫の手ほどきを受けています。陶芸と彫刻、一見、あまり関連はなさそうですが、やはり立体造形という点で共通点がありますし、図柄の構成などにも洗練された美意識が必要ですから、美校での教えは後の波山芸術に大きく影響しているのだろうと思います。

下記は図録にあった美校彫刻科の写真。右端に映っているのが波山だそうです。
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そんなわけで、師・光雲の作品も出しているのだろうと思いまして、実際、「三猿置物」という光雲作品は、美校時代の波山の木彫と共に展示され、これが波山の師匠の作品だよ、という意味での参考出品のようでした。
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「三猿置物」、昭和6年(1931)の作で、稲荷山光明院さんという川崎市にある寺院の所蔵だそうですが、当方、寡聞にしてこういう作品があったことは存じませんでした。面白いなと思ったのは、日光東照宮の三猿や、各地で石仏としての庚申塔などに刻まれている三猿は、それぞれが対等の感じで配されているのに対し、三匹を親子猿にしている点。さすが光雲、一筋縄ではいかないな、という感じです。

ちなみに下記は、自宅兼事務所から徒歩30秒の場所にある江戸時代の庚申塔。今、撮ってきました(笑)。
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下の三猿、ちょっとわかりにくいかもしれませんが。

同じく光雲の「瓜生岩子像」(明治32年=1899)。こちらも存じませんでした。
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波山が光雲に頼んで作って貰ったものだそうです。

図録に曰く

 波山の妻・まるは、福島県喜多方市出身の社会慈善家・瓜生岩子の内弟子だった。その縁により、波山との結婚の際には瓜生が媒酌人をつとめている。波山夫妻は瓜生の生き方を敬慕し、1897(明治30)年に瓜生が亡くなって、その三回忌を迎えた際に、恩師であった高村光雲に「瓜生岩子像」(参考作品3)の制作を依頼した。慈善事業に尽力した瓜生の人柄が伝わる光雲の佳作であり、波山夫妻は本作を座右に置いて日々の励みにしたという。

なるほど。

光雲、人物肖像の木彫はやや苦手としており、後の大倉喜八郎夫妻像や法隆寺の管長・佐伯定胤の像などは、光太郎に粘土で原型を作らせ、それを木に写すという手法で作られました。しかし、この瓜生岩子像には光太郎の手は入っていないようです。というか、明治32年(1899)では、光太郎はまだ数え17歳の美校生でしたし。


003その光太郎のブロンズ代表作「手」も参考出品ということで展示され、図録にも載っています。が、過日も指摘しましたが、やはり誤記。制作年が大正7年(1918)であるところ、明治35年(1902)となっています。

「個人蔵」だそうで、もしかすると高村家のものかな、と思っていたのですが、台座の形を見る限り、光太郎歿後の新しい鋳造のようです。それで価値が大幅に下がるわけではありませんが。

さて、先述の通り、京都展(10月23日(日)まで)が終わると、東京展(11月3日(木・祝)から12月18日(日)、泉屋博古館東京館さん)。当方、拝見に伺う予定で居ります。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草野君くる、 すすめられて電気冷蔵器を草野君に一任、筑摩書房の金で買ふとの事、

昭和29年(1954)7月11日の日記より 光太郎72歳

「冷蔵器」は冷蔵庫のことですね。白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

以下、心平著『わが光太郎』(昭和44年=1969)より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
こういう交渉には押しの強い心平はうってつけです(笑)。

この冷蔵庫をモチーフに、詩人の平田俊子氏が「アストラル」という詩を書かれています。また、最近、心平の別荘だった福島県川内村の天山文庫に、どうやらこの冷蔵庫が保存されているらしいという話を知りました。次に訪れる際に確かめてみたいと思います。

一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに入っているテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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今月のメニューは、新米御飯、石垣団子、チキンソテーきのこソース、鱈と牛蒡の煮込み、りんごと胡桃のサラダ、葡萄ジュース寒天、シュークルート、塩麹入り卵焼き。「収穫の秋」ですので、新米や、りんごなども採れたてのものを使われているのでしょう。

思えば「光太郎ランチ」、お披露目会が行われたのが一昨年の10月でしたので、まる二年となったわけですね。メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、これ以外にも『花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さんで連載中の「光太郎レシピ」も担当されていて、なかなかに大変だと存じます。どちらも末永く続いてほしいものです。

ところで、まだ詳細が発表されていませんが、来月末から開催される花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示で、次回は光太郎の食、特に「おやつ」系に絞ったものが計画されています。以前には「食」全体についての企画展示が為されましたが、次回は「おやつ」だそうで、実際にお菓子作りの講座等も企画されています。

当方も資料作成等、協力させていただいているところです。詳細が公表されましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】000

新潮の佐野英夫氏くる、ブドウ、桃もらふ、「天上の炎」文庫本のこと


昭和29年(1954)7月9日の日記より 光太郎72歳

佐野英夫氏」は、新潮社の編集者。『天上の炎』は、光太郎が敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳の元版は大正14年(1925)に新しき村出版部から刊行されました。その後、昭和26年(1951)には白玉書房から復刊。さらに昭和27年(1952)には、創元文庫のラインナップに入りました。そして新潮文庫。こちらは翌昭和30年(1955)に出ました。解説は創元文庫と同一の、金子光晴によるものでした。

明日開幕、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の作品展示ですが、光太郎も関連します。

彫刻家 高田博厚展2022

期 日 : 2022年10月19日(水)~11月10日(木)
会 場 : 東松山市民文化センター 埼玉県東松山市六軒町5-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 無休
料 金 : 無料

東松山市では高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品やデッサン等を、2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は高田作品の展示に加え、市内在住の人気イラストレーター絵子猫さんと高坂彫刻プロムナードのコラボ企画をご用意しました。ぜひこの機会に「東松山市の芸術の秋」をご堪能ください。

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過去の同展の様子はこちら。

  平成30年(2018)  令和2年(2020)  

関連行事等

同時開催 探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~

高坂彫刻プロムナードに立つ、高田博厚ゆかりの著名人たちのエピソードをもとに市内中学生、高校生が紙芝居を制作しました。この紙芝居をご覧いただき、その後、その銅像をスケッチをしました。描いていただいた絵は、東松山市民文化センターで展示します。
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高坂彫刻プロムナード」は、高田の作品群が屋外展示されている、東武東上線高坂駅前から延びる通りです。同市の元教育長であらせられ、生前の光太郎と交流のおありだったた故・田口弘氏が、昭和40年(1965)に、当会主催の連翹忌の集いで高田と意気投合。以後、高田の個展や講演会を同市で開催するなど親交を深め、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品から成ります。

その「高坂彫刻プロムナード」を市民の皆さんが描くというイベントが9月24日(土)に開催され、作品の展示が行われます。光太郎胸像を描いたものもあるんじゃないかな、と思い、拝見に伺うことにしました。

もう1件。

特別講演会「絵子猫さんと高坂彫刻プロムナード」

イラストレーターとして第一線で活躍する絵子猫さんに、幼少時代のお話や幻想的で夢のような作品はどうやって生まれるのかなどを伺います。また、身近なアートの楽しみ方についても教えていただきます。
日時:令和4年10月22日(土曜日)午後2時から午後3時30分まで
会場:市民文化センター 大会議室
対象:小学生以上(小学生は保護者同伴)市内外問わず
定員:80名
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同市ご在住のイラストレーター・絵子猫(エコネコ)さんの講演会。こちらも「高坂彫刻プロムナード」がらみです。

どうせ東松山まで行くならこの日に合わせようと思い、講演会に申し込みました。定員80名、抽選だそうで、外れたとしても裏技で伝手(つて)を頼れば(当方、毎年、同市で市民講座の講師を務めさせていただいたりしておりますので)関係者枠で入れてくれるだろうと思っておりました。ズルですが(笑)。で、昨日、当選の通知、というか「当講演会は定員80人に達しなかったため、抽選は実施しませんでした。そのため、お申込みいただきました皆さまは当選となります。」とのこと。裏口入学ならぬ裏口入場をしなくて済みました(笑)。さらに「なお、講演会には空きがまだございますので、お近くにご興味がある方がいましたら、お声がけいただければ幸いです。」だそうですでので、この場を借りてご紹介いたします。お申し込みはこちら

案内に使われている絵子猫さんのイラスト、「高坂彫刻プロムナード」の高田彫刻をお描きになったものです。
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共に女性像ですからそんなでもありませんが、ブロンズ彫刻にはどうしても「武骨さ」が伴います。しかし、こうしてキラキラのイラストになると、なんともイメージが変わりますね。

このタッチで光太郎胸像をお描きになったとしたらどうなるんだろう、と興味深いものがあります。既に描かれているのかも知れませんが。
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となると、光太郎彫刻の数々も、ぜひ描いていただきたいものです。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などはいい感じになりそうですし、同じくブロンズの「裸婦坐像」や木彫の「白文鳥」なども面白く出来そうです。しかし、光太郎の父・光雲の「老猿」や「仁王像」などだとどうなってしまうのだろうなどとも思いました。

というわけで、東松山市高田博厚展2022、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方大川先生くる、ストマイ注射、脈高し、 夜に入りて高熱出らしく、せきもつよく、呼吸困難、悪寒手足のふるへくる、クロロマイセチン3錠、ネオフイリン2のみ、ややおさまる、


昭和29年(1954)7月7日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核は、確実に光太郎の命を削っています。ただし、この後、かなり持ち直しては行きますが。

こんな状態で日記を書いてる場合じゃないだろ、と突っ込みたくなりますが、亡くなる3日前の昭和31年(1956)3月30日まで、日記は続けられます。よほど具合の悪かった日は書かなかったようですが、それでも小康状態になると、遡って書いています。この日の分もそうかもしれません。

大川」は誤記で、正しくは「大気」。「チーム光太郎医師団」の一人、大気(おおき)寿郎医師のことですが、名前を誤記したり「高熱出たらしく」の「た」が脱字になったり、痛ましさを感じます。

昨日は北鎌倉にある、光太郎ご親族経営のカフェ兼ギャラリー・笛さんにお邪魔しておりました。こちらでご所蔵の資料等を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9」が開催中、さらに昨日は関連イベントとしての朗読会がありまして。
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こちらに伺う時は、たいがい自家用車なのですが、駐車スペースはぎりぎり一台分しかなく、昨日はイベントで人が多いだろうと予想し、電車で参りました。

北鎌倉駅から徒歩10数分。明月院さんの裏手です。
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途中には、鎌倉時代のものと思われる「やぐら」(横穴墓)も。あまり観光客も訪れない一角ですので、閑静な感じです。
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昨日は若干蒸し暑く、結構長い坂を歩いて上って汗だくになってしまい、まずはアイスコーヒーを美味しく頂きました。

その後、展示を拝見。こちらに伝わる光太郎関係の品々と、すぐ近くにお住まいの尾崎喜八(光太郎と交流の深かった詩人)令孫のお宅のものと、所狭しと並んでいます。
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ほぼ毎年出して下さっていますが、目玉は光太郎ブロンズの「聖母子像」。
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ミケランジェロ作品の模刻で、大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもの。石膏原型は既に失われ、鋳造されたものもこれ1点しか確認できていません。尾崎は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子と結婚しました。像の背後の写真は、昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』でこの像が紹介された際の實子です。

尾崎がこの像と共に写っている写真もありました。こちらは当方、初見でした。
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その他の展示。
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駒込林町の光太郎アトリエ兼住居で。後の白いブルーズ姿が光太郎、前列左から尾崎夫妻の長女の故・榮子さん、尾崎、そして實子。当方、榮子さんとは笛さんと、連翹忌の集いの会場とでお会いしましたが、まだ健康だった頃の智恵子に抱っこしてもらったお話などをお聞かせいただきました。

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複製ではない光太郎直筆や、生写真なども。
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福島二本松の智恵子実家・長沼酒造の銘酒の名「花霞」を受け継ぐ地酒(その辺の権利関係、どうなっているのかよく分からないのですが)。のちほど、朗読会のあとにご参集の皆さんに饗されました。

さて、午後3時。この場で朗読会です。
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はじめにおしどり夫婦の店主御夫妻のごあいさつ。奥様は光太郎のすぐ下の妹・しづの令孫にあたられ、お祖母様の思い出等も語られて、興味深く拝聴いたしました。

朗読は、主にお近くにお住まいの常連客的な皆さんだったのでしょう、店主御夫妻を含め、9人の方が光太郎、尾崎の詩を朗読なさいました。最高齢の方は何と、おん年91歳だそうで。

尾崎令孫の石黒敦彦氏(サイエンス・アート研究者)も。
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おおむね1時間弱で終わり、その後、参会の皆さんとしばし歓談させていただきました。また、石黒氏から、杉並区で開催される尾崎喜八展的なものへの協力要請。そんなこんなで夕刻となり、鎌倉をあとにしました。

朗読会は今回初めての試みということでしたが、来年以降も継続してやっていこう、ということだそうです。今回いらっしゃれなかった方、来年以降、ぜひどうぞ。また、展示の方は11月8日(火)までの火・金・土・日曜日にご覧いただけます。こちらもぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃牛越さん七尺像を運送し来る、支払スル、2500運送、1000別に


昭和29年(1954)7月5日の日記より 光太郎72歳

七尺像」は、前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は東京藝術大学さんに寄贈されていますが、光太郎の手元にあったのですね。

「牛越さん」は牛越誠夫。石膏取り職人で、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿です。

新刊というか、ニューリリースというか、CDブックです。

心とカラダを整える おとなのための1分音読CDブック

2022年10月11日 自由国民社 定価1,800円+税

 おうち時間が増え、人との会話や声を出す時間が減ってしまった、という方も多いのではないでしょうか。
 文章を声に出して読む「音読」は、「気持ちが落ち着く」「やる気が出る」「ストレスが解消し、抵抗力がアップする」「脳が活性化する」「誤嚥性肺炎の予防に役立つ」といった健康効果があるといわれています。
 累計28万部突破の1分音読シリーズが「CD付ブック」になって登場!声の出演は平田満さん&宮崎美子さん。
 累計28万部突破の「おとなのための1分音読」シリーズは、おなじみの名作の中から1分程度で音読できる名文を多数収録。
 本作では、俳優の平田満さん、宮崎美子さんが音読するCDと冊子がセットになって発売されます。「手袋を買いに」「走れメロス」「ごんぎつね」ほか、気軽に楽しく読める44作品を収録しています。
 CDを真似して読んでみるのもよし、自分なりに工夫して読むのもよし。毎日の健康のために、音読を習慣にしてみませんか?

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CDには、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の朗読も含まれています。

担当されているのは俳優の平田満さん。
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平田さんと言えば、平成29年(2017)にWOWOWプライムさんで放映された「連続ドラマW 宮沢賢治の食卓」で、賢治の父にして、戦禍に遭った光太郎を花巻の自邸に疎開させてくれた政次郎役を好演なさっていました。

その賢治の代表作の一つであり、没後、光太郎が石碑の碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」も、宮崎美子さんの朗読で収録されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃モデルさん玄関まで、結婚せし由、品川の方にゐるとの事、


昭和29年(1954)7月4日の日記より 光太郎72歳

「モデルさん」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めた藤井照子。「プール・ヴーモデル紹介所」(現在も存続しています)に所属していましたが、結婚を機にモデル業はやめたようです。
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まだご存命なのかも知れませんが、その後の消息が分かりません。情報をお持ちの方はコメント欄等から御教示いただけると幸いです。

光太郎旧居址にほど近い、文京区千駄木は団子坂上の区立森鷗外記念館さんでの企画展示です。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されます。

特別展 鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡

期 日 : 2022年10月22日(土)~2023年1月29日(土)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 10月25日(火) 11月22日(火) 12月27日(火)~1月4日(水)
      1月23日(月) 24日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料

  文学、美術、演劇…森鴎外(1862~1922)は、陸軍軍医をつとめながら学芸においてジャンルを超えて活躍した知の巨人です。
 文京区立森鴎外記念館(2012~)では、前身の鴎外記念本郷図書館、本郷図書館鴎外記念室と受け継いできた、原稿や書簡、愛用品、初版本など文学的にも歴史的にも貴重な“鴎外遺産”を収集・保存してきました。
 開館10周年を迎えた本年、鴎外文学最高峰とも称される『渋江抽斎(その四十九、その五十)』の直筆原稿が“鴎外遺産”に加わりました。本展では、この『渋江抽斎』をはじめとする貴重な鴎外直筆原稿を紹介するとともに、近年発見され、森鴎外記念館(津和野)に寄託された鴎外宛書簡の一部を初公開いたします。
 直筆原稿には推敲の跡も残り、出版された作品からは知り得ない創作過程を見ることができ、執筆時の鴎外を目撃しているような感動につつまれます。鴎外宛書簡では、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎など文学や美術などの分野で活躍した著名人の書簡を紹介します。各人の筆跡や文面からは、その人となりや鴎外との関係性が読み取れ、思いがけず親近感が湧いてきます。
 書き癖や文字の勢いなど手書きだからこそ視覚に訴える心情や、活字では見ることができない躍動――直筆資料が伝える心の軌跡をぜひご体感ください。
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関連行事等

「森鴎外~ゆかりの地文学フォーラム」
 基調講演:須田喜代次氏(大妻女子大学名誉教授、森鴎外記念会副会長)
 鼎談:須田喜代次氏、今川英子氏(北九州市立文学館館長)、
    山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:11月26日(土)14時~16時
 会場:文京シビックセンター26階 スカイホール
 定員:90名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:無料(参加票が必要)

「渋江抽斎の魅力~直筆原稿と作品と」
 講師:山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:12月18日(日)14時~15時30分
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:(参加票と本展の観覧券(半券可)が必要)003

朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ
 朗読:北原久仁香氏
 日時:10月23日(日) 14:00~15:30
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(定員を超えた場合は抽選)
 参加費用:1000円

最後の朗読会のみ申込期限を過ぎており、満席だそうです。当方も申し込みまして、当選しましました。すみません(笑)。昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をなさった北原久仁香さんがご出演なさいます。余談ですが、「語りと講話……」の講話は当方が担当させていただきました。

ちなみに旧安田楠雄邸では、来月初めから写真展「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催されます。もう少し近くなりましたら詳細をご紹介します。

展示の話に戻りますが、光太郎からの書簡、非常に気になっております。これまでに鷗外に宛てた光太郎書簡は5通しか確認出来ておらず、どれも簡略なものでした。『高村光太郎全集』に収録されているものは4通、明治42年(1909)とその翌年のものです。すべて鷗外が自宅(現在、記念館のある場所)で主宰していた観潮楼歌会への欠席連絡。どうも意図的に逃げ回っていたようです(笑)。光太郎、東京美術学校時代に同校非常勤講師だった鷗外の講義を受けましたが、その権威的な授業態度に親しめず、その後も敬して遠ざける感じでした。また、鷗外の陰口をたたき、それを知った鷗外に呼び出されてネチネチと叱責されたことも(笑)。

もう1通は島根の森鷗外記念館さん所蔵のもので、明治44年(1911)の年賀状。「賀正」一言と「光」のサインのみです。同一の意匠の年賀状は、この年、方々に出されたようで、その後、続々見つかりました。左上が鷗外宛、右上は木下杢太郎宛、左下で佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の元ネタを提供した人物)。
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右下は、川崎安宛。『高村光太郎全集』では大正4年(1915)となっていますが、全く同じデザインなので、これもおそらく明治44年(1911)でしょう。全集編集に当たられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生、多分、消印から年代を判断されたのでしょうが、その消印が不鮮明だったのだと思われます。

最初は木版かと思ったのですが、そうではなく「籠書き」という白黒反転の特殊な筆法で書いたものですね。光太郎、この技を得意とし、与謝野夫妻の新詩社歌会で短冊に短歌をしたためる際や、自著の題字などにも使いました。

ところで、この年賀状、表の宛名は「森林太郎殿」。普通、目下から上の者に「殿」は使いませんね。また、歌会への欠席連絡の葉書に書かれた宛名にも「森林太郎様侍史」となっているものがあり、何だかなぁという感じです。「侍史」は秘書やお付きの人のことで、「身分の高い人に直接手紙を出すのは失礼なので、秘書やお付きの方にお渡しする」という意味になります。「直接出してるだろ」と突っ込みたくなります(笑)。また、「森林太郎先生」となっているものも、文字通りの「先生」ではなく、軽薄に「センセ」のように感じるのは考えすぎでしょうか。

こんな感じですので、今回見つかった書簡、どういう内容、表書きなのか、非常に興味深いところです。

閑話休題。鷗外記念館さん特別展、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜七時過ブリツヂストンより映画班くる、映画映写、


昭和29年(1954)7月3日の日記より 光太郎72歳

映画」はブリヂストン美術館制作の「美術映画 高村光太郎」。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作風景や、前年に花巻郊外旧太田村へ一時的に帰った光太郎を撮ったものです。他に彫刻作品の映像をまじえ、光太郎の生涯を紹介しています。
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結核が進行し、外出もままならなくなりつつあった光太郎のため、終の棲家となった貸しアトリエで、光太郎一人のために上映会が行われたというわけです。

昨日は千葉県市川市の市川市文学ミュージアムさんに行っておりました。自宅兼事務所からは、同じ千葉県内ですので車で1時間弱。
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こちらでは以下の企画展が開催中です。

月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>

期 日 : 2022年10月8日(土)~12月11日(日)
会 場 : 市川市文学ミュージアム 千葉県市川市鬼高1丁目1番4号
時 間 : 平日 10:00~19:30 土日祝 10:00~18:00
休 館 : 月曜日 10月28日(金) 11月30日(水)
料 金 : 一般 500(400)円 65歳以上 400(300)円 高大生 250(200)円
      中学生以下無料 ( )内は25名以上の団体料金

『月に吠えらんねえ』は□(詩歌句)街で暮らす主人公【朔くん】をはじめ、近代日本の様々な文学作品から造形された人物たちが織りなす、人間模様の機微や狂気、幻想が混じり合う世界を描いた作品です。本展では、登場人物に関する作品やエピソード、萩原朔太郎と文士の交流にスポットをあててご紹介いたします。また、市川市ゆかりの文士の作品からイメージされたキャラクターたちが登場する清家雪子氏による描き下ろし漫画も展示いたします。
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「月に吠えらんねえ」は、平成25年(2013)、講談社さんの『月刊アフタヌーン』で連載が始まった清家雪子さんの漫画。単行本化され、令和元年(2019)に完結しました。

近代の文豪たちの作品からイメージされたキャラクターを登場人物とし(文豪たちそのものというわけではなく)、不思議な世界観で彩られています。主人公は萩原朔太郎由来の「朔」ですが、光太郎作品から擬人化された「コタローくん」、コタローくんが作ったロボットの「チエコさん」が第1巻から登場します。
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さらに第4巻では、コタローくんの回想として、生前の「チエコさん」も登場します。

さて、今回の展示。「月に吠えらんねえ」のキャラクターのうち、主人公の「朔」の元となった萩原朔太郎以外にも、市川市に在住したことがある文豪から創出された登場人物、その元となった4人の文豪を大きく取り上げています。「白さん」で北原白秋、「ぐうるさん」の草野心平(当会の祖)、「ヨッシー」は吉井勇、「カフー先生」が永井荷風。くどいようですが、文豪たちそのものというわけではなく、彼らの作品からイメージされたキャラクターということですが。

で、元になった文豪たちの資料が多数。
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その他、室生犀星、与謝野晶子、芥川龍之介、若山牧水なども。その合間合間に、光太郎の名が各種キャプション等に。光太郎が装幀・序文を担った書籍が展示されていたり、光太郎も写っている写真がパネルになったりもしていました。朔太郎年譜の最後にも「1942(昭和17) 5月11日 肺炎のため死去(享年55) 犀星・高村光太郎・谷崎潤一郎らに見送られる」との記述(光太郎、死に目に会ったわけではありませんが)。さらに「月に吠えらんねえ」の漫画そのものがパネルに拡大して展示されていましたが、その中にも「コタローくん」や「チエコさん」の姿。

こちらは図録(500円也)。同展監修の栗原飛宇馬氏らの考察が「鋭い」と思いました。
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今回の展示のために書き下ろされたスピンオフ「イチカワで吠えらんねえ」も掲載されています(会場内にもパネルで展示)。「朔」以外に上記の市川市に在住したことのある文豪由来のキャラクターたちのイチカワ散策記的な。残念ながらこちらには「コタローくん」と「チエコさん」は登場しませんが。

上記フライヤーとは別の、年間予定、開館カレンダーを兼ねたフライヤー。
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ここだけ写真撮影可の、企画展示室入り口。
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ミュージアムショップでゲットした缶バッヂ。「チエコさん」もいます(笑)。
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ところで、今回の展示、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で共催の「萩原朔太郎大全2022」の一環です。

過日、お世話になっておるいわき市立草野心平記念文学館さんから、やはり「萩原朔太郎大全2022」参加の企画展「詩の岬」の招待状、ポスター、フライヤーが届きました。同館のような個人を顕彰する文学館では、その文豪と朔太郎との交流など、市川市文学ミュージアムさんのようなところでは、その地域と朔太郎とのからみといった切り口で、また他にも色々なアイディアで企画されているようです。「月に吠えらんねえ」にスポットを当てているのは市川のみのようですが。うらやましいかぎりです。ぜひ「高村光太郎大全」も企画していただきたいと存じます。

さて、それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

神田の関院長さんくる、ストレプトマイシンの注射第1回、尻の筋肉注射、


昭和29年(1954)6月6日の日記より 光太郎72歳

戦前には不治の死病に近かった結核も、戦後には抗生物質の普及でその脅威は減退しました。ほぼ同時に罹患した智恵子が早々に亡くなったのに対し、光太郎がその後も生きながらえたのは、光太郎自身が頑健だったこともあるでしょうが、薬学の進展が大きかったように思われます。














詩人の新藤凉子氏が亡くなりました。

「時事通信」さん。

詩人の新藤凉子さん死去003

 新藤凉子さん(しんどう・りょうこ=詩人、詩誌「歴程」編集発行人、本名古屋涼子=ふるや・りょうこ)7日、間質性肺炎のため死去、90歳。鹿児島県出身。葬儀は家族で行った。歴程が後日、お別れの会を開く。喪主は長女美可(みか)さん。
 衣装研究室や文壇バー経営を経て「歴程」に参加。詩集「薔薇ふみ」で高見順賞。「連詩 悪母島の魔術師」(河津聖恵さん、三角みづ紀さんとの共著)で藤村記念歴程賞を受賞。日本現代詩人会の会長も務めた。

『読売新聞』さん。

「歴程」編集発行人で詩人の新藤凉子さん死去、90歳…詩集「薔薇ふみ」で高見順賞000

 詩誌「歴程」編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子(しんどう・りょうこ、本名・古屋涼子=ふるや・りょうこ)さんが7日、間質性肺炎で死去した。90歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、美可さん。
 鹿児島県生まれ。歴程の編集発行人を務めた。詩集「薔薇(ばら)ふみ」で高見順賞、詩集「薔薇色のカモメ」で丸山薫賞、河津聖恵、三角みづ紀さんとの連詩集「連詩 悪母島の魔術師」で藤村記念歴程賞を受賞した。

新藤氏、記事に有る通り、詩誌『歴程』の編集権発行人を務められていました。同誌は当会の祖・草野心平が創刊し、光太郎や宮沢賢治なども同人に名を連ねていたものです。

その『歴程』、心平追悼号(平成2年=1990)に氏が寄せられた「心平さんの思い出」から。

 心平さんは歴程を大切にされたが、歴程とは、そもそも何であったのだろうか。私にとっては、青春、そのものであったような気がする。昭和三十七年から今日まで、思えば肉親と同居するよりも、その付き合いは長い。それは偏に、心平さんの自在な人柄によるものだったと、今にしてつくづく思う。
 「伝統だよ、伝統……」と、歴程がいつまでも続くことを念願としておられたが、何よりも「先生」と呼ばれることを嫌われた。「若い人の方が未来がたくさんあるのだから、僕は若い人が先生だと思うよ」とのことである。誰もがシンペイさんと、親しみを込めてお呼びするのが、習わしだった。


当方、心平を祀る福島県川内村での「天山祭り」の際に、何度かお会いしました。氏は『歴程』を受け継がれたお立場でのスピーチや、心平作品の朗読等をなさいました。

『歴程』といえば、今朝の『朝日新聞』さんには、やはり一時『歴程』に依られた安水稔和氏の訃報も出ており、「えー」と言う感じでした。新藤氏と二日連続でしたし。

安水稔和さん死去004

 安水稔和さん(やすみず・としかず=詩人、元神戸松蔭女子学院大教授)8月16日に死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。
 神戸市生まれ。「歴程」同人などをへて、84年に詩誌「火曜日」を創刊(15年終刊)。89年、詩集「記憶めくり」で地球賞。95年の阪神・淡路大震災で自宅が半壊し、1週間後に詩「神戸 五十年目の戦争」を書いた。以降、震災について積極的に執筆し続け、詩集「生きているということ」は99年に晩翠賞を受けた。詩集「椿崎や見なんとて」で01年に詩歌文学館賞、詩集「蟹場まで」などで05年に藤村記念歴程賞。

謹んでご冥福をお祈り申し上げますと同時に、今後の『歴程』さん、心平や光太郎、賢治などから連綿と続くDNAを絶やさぬよう、そしてますますのご発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后草野心平、佐野英夫氏くる、一緒に神田の病院にゆき関先生に見てもらふ、レントゲン検査、心臓肥大ある由、


昭和29年(1954)5月26日の日記より 光太郎72歳

めっきり衰えた光太郎を案じ、心平と、新潮社の編集者・佐野英夫が、神田の出版健康保険組合診療所に光太郎を連れて行きました。「関先生」は関覚二郎。同所勤務の医師で、これ以前に美術史家の奥平英雄が光太郎に紹介した岡本圭三医師らと共に、いわば「チーム光太郎」として診療に当たりました。

情報を得るのが遅れまして、会期あとわずかですが……。

特別展 生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-

期 日 : 2022年9月3日(土)~10月23日(日)
会 場 : 泉屋博古館 京都市左京区鹿ケ谷下宮ノ前町24
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般1,000円 高大生800円 中学生以下無料

 陶芸家 板谷波山は、明治5年(1872)茨城県下館町(現・筑西市)に生まれ、昭和28年(1953)には陶芸家として初の文化勲章を受章し、昭和29年(1954)には日本画の横山大観とともに茨城県名誉県民の第一号となりました。
 波山は、理想の作品づくりのためには一切の妥協を許さないという強い信念により、端正で格調高い作品を数多く手がけました。その一方で、波山は、故郷のまちと人々をこよなく愛し、共に信頼し、共感し合いながら、生きていくことを大切にした人物でもありました。
 令和4年(2022)3月3日、我が国の至宝である板谷波山は、生誕150年を迎えました。この記念すべき年に、住友コレクションはじめ波山の選りすぐりの名作を一堂に集め展覧します。あわせて、波山が生まれ愛した故郷への思いや人となりを示す貴重な資料、そして試行錯誤の末に破却された陶片の数々を通して、「陶聖」と謳われる波山の様々な姿を紹介いたします。
 波山の作品に表現された美と祈りの世界に癒され、そして、波山の優しさとユーモアにあふれた人生に触れるひと時をお楽しみください。
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陶芸家・板谷波山。東京美術学校彫刻科卒という、ちょっと変わった経歴です。したがって、光太郎の父・光雲に彫刻の手ほどきを受けており、光太郎の先輩でもあります。

そこで、「参考作品」ということで、光雲の木彫二点と、光太郎の「手」も出品されていました。波山展をやってるなぁ、というのは存じておりましたが、光雲・光太郎の作品が出ているとは気づきませんでした。
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光雲の木彫二点は、「瓜生岩子像」(明治32年=1899)と、「三猿置物」(昭和6年=1936)だそうですが、当方、二点とも拝見したことがありません。

光太郎の「手」は、ブロンズの代表作「手」と思われますが、出品目録には「明治35年 1902」と書かれています。代表作の「手」は大正7年(1918)作ですので、誤植なのだろうと思うのですが、もしかすると全く違う「手」なのでしょうか? オンラインショップで図録が購入可能でしたので、早速註文しました。届き次第見てみます。

ところで同展、全国巡回でした。これまでにも波山の故郷・茨城県筑西市のしもだて美術館さん、廣澤美術館さん、板谷波山記念館さん3館合同の同時開催で4~6月に、石川県立美術館さんでは6~7月で。

さらに来月から泉屋博古館さんの東京館でも開催されます。当方、こちらを拝見に行こうと存じます。また、来年1月2日(日)~2月26日(土)には茨城県近代美術館さんにも巡回だそうです。

東京展の情報を。

特別展 生誕150年記念 板谷波山の陶芸-近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯-

期 日 : 2022年11月3日(木)・祝~12月18日(日)
会 場 : 泉屋博古館東京 東京都港区六本木1丁目5番地1号 
時 間 : 11:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般1,200円(1,000円)、高大生800円(700円)、中学生以下無料

京都展は10月23日(日)まで。その後の東京、茨城と、お近くの会場にぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前長谷川仁夫妻玄関まで、藤島武二先生の写真うけとり、預る、

昭和29年(1954)5月18日の日記より 光太郎72歳

長谷川仁」は、ジャーナリスト。この頃、戦時中に亡くなった洋画家・藤島武二の胸像制作の話があり、光太郎に制作依頼がありました。光太郎は欧米留学前の明治38年(1905)、西洋美術を学び直そうと、東京美術学校の西洋画科に再入学(結局、留学のため中退)しましたが、その際に藤島は同科の教授でした。そこで、「先生」の文字。

光太郎、体調が回復すれば、この頃手がけていた「倉田雲平胸像」を完成させ、さらに藤島像の依頼も受けたかったようですが、それは幻に終わりました。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森県十和田湖からの情報です。

状況をわかりやすくするために、まずABA青森朝日放送さんのローカルニュースから。ただし、先月のもので、「17日」は9月17日(土)です。

「十和田湖ひめます」を味わって! 17日からキャンペーン開催

地域団体商標に登録されている「十和田湖ひめます」の、認知度向上を図るキャンペーンが17日から始まります。
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12日は、「十和田湖ひめますブランド推進協議会」の佐々木千佳子会長たちがキャンペーンをPRしました。期間中、十和田市や秋田県小坂町にある27の認証店舗が提供するヒメマス料理を食べて応募すると、抽選で50人に2千円相当の特産品が当たります。
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こちらは、十和田食堂の「十和田湖ひめますづけ丼定食」です。
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【「十和田湖ひめますブランド推進協議会」 佐々木千佳子会長】
「(ヒメマスは)甘い、とにかく身が軟らかくて甘い、そして奇麗なピンク色というのはなかなか目にすることはないと思うのですよ」
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キャンペーンは、17日から11月6日まで行われます。
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というわけで、詳細は以下。

十和田湖ひめますを食べようキャンペーン

”十和田湖ひめます”の魅力を広く皆さんに伝えるため、十和田湖ひめます認証店によるキャンペーンを開催します。食べ比べをするなど、十和田湖ひめます料理の美味しさをご堪能ください。

また、期間中に十和田湖ひめます料理を食べて応募した方から、抽選で50名様に十和田市または小坂町の「特産品」をプレゼントいたします。

応募用紙は各店舗に備え付けてあります。

開催期間 9月17日(土)~11月6日(日)

参加店(全27店舗

参加方法
十和田湖ひめます認証店にて、十和田湖ひめますメニューを食べると、応募用紙がもらえます。アンケート、必要事項を記入の上、認証店に設置してある応募箱に投函し、応募してください。

主催 十和田湖ひめますブランド推進協議会(事務局:とわだ産品販売戦略課内) 0176-51-6743
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上記マップのPDFファイル中に「乙女の像」の語があって、当方の検索網に引っかかった次第です。ヒメマスに舌鼓を打たれたあとは、ぜひ「乙女の像」にも足をお運びください。十和田湖周辺は、今夏の大雨被害が大変でした。その復興支援にもなりますので、是非よろしくお願いいたします。また、これから紅葉シーズンですし。

ちなみに認証店のロゴは、「乙女の像」もモチーフとしているそうです。多少の無理くり感が否めませんが(笑)。
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「乙女の像」といえば、テレビ番組の再放送。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2022年10月17日(月) 01:05〜01:33

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一  ナレーター:服部潤
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初回放映は昨年7月。さらにその後、繰り返し再放送されていますが、ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。こちらでもヒメマス料理が紹介されますし。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平さんとお医者さん岡本氏とくる、診察してもらふ、尚毎月一度みてもらふつもり、

昭和29年(1954)5月16日の日記より 光太郎72歳

かなり前から結核の自覚症状があったにもかかわらず、「肺の毛細血管が弱いので……」などと、頑として認めなかった光太郎。しかし、もはや彫刻制作不可能となった体調に、とうとう白旗を揚げました。

奥平さん」は、美術評論家の奥平英雄。「お医者さん岡本氏」は、岡本圭三医師。この後で加わる他の医師ともども、その死まで光太郎の主治医として診察、治療に当たってくれました。

昨日は、智恵子の故郷である福島県二本松市に行っておりました。コロナ禍前には年に数回お邪魔していたのですが、イベント等もあまり行われなくなって足が遠のいておりました。そこで一昨年の11月以来、およそ2年ぶりでした。レポートいたします。

愛車を駆って午前10時過ぎには二本松市到着。まずJR東北線二本松駅前の市民交流センターさんへ。3階の大山忠作美術館さんで、コレクション展的な「心惹かれた人を描く」が開催中です。
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女優・一色采子さんのお父さまでもあらせられた文化勲章受章者の故・大山忠作画伯。二本松ご出身ということで、同郷の智恵子をモチーフに描かれた作品も複数有ります。そのうちの一枚「智恵子に扮する有馬稲子像」がフライヤーの表(おもて)面。それ以外に智恵子そのものを描いた「霧〈高村智恵子〉」、幼き日の一色采子さんがモデルの「童女」(フライヤー裏面右上)なども出ていました。

同じ交流センター3階の逆サイドでは、「第27回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」の入賞作品展も開催されていました。
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智恵子を題材にした作品も。ありがたし。
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続いて、すぐ目の前の二本松駅へ。

昭和51年(1976)設置の光太郎詩碑。「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節が刻まれています。
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曰く「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」。よく晴れた日には傾斜のついたこの碑面に青空が映るのですが、残念ながら昨日はどんよりと曇り(笑)。

すぐそばの智恵子像「ほんとの空」。昨年亡くなった彫刻家・橋本堅太郎氏の平成21年(2009)の作です。
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その後、車で一つ先の安達駅に。こちらには同じ橋本氏の遺作となった智恵子像「今 ここから」が昨年、除幕されました。先述の通り、しばらく二本松に足を運んでいなかったもので、当方、初見でした。
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二本松駅前では洋装だった智恵子、こちらでは単衣(ひとえ)の着物姿です。袷(あわせ)ではボテッとしてしまう、と、生前の橋本氏が語られたそうで。

駅構内には、智恵子生家の大きな写真。以前に来た時にはなかったような……。
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さらに「駅ピアノ」。時間もありませんでしたし、暗譜ですらすら弾ける腕前でもないので(笑)、写真を撮るにとどめました。
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来た道を少し戻って、智恵子生家/智恵子記念館さんへ。こちらで智恵子の里レモン会の方と待ち合わせ。
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当方、てっきり智恵子の花嫁衣装の展示と、二階部分の特別公開が始まっていると思いこんでいましたが、そちらは10月27日(木)からでした。自分でブログに紹介しておきながら勘違いしていました。アホですね(笑)。

それでも、生家裏手の記念館さんでの紙絵実物公開は始まっており、拝見しました。
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また、記念館開館30周年記念の缶バッヂ(先着順)もゲット。
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花嫁衣装を見るため、月末にもう一度訪れようと思いましたが、その時までこれが残っていないかもしれないので、ラッキーでした。

記念館の展示を見てから、生家内部へ。
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PXL_20221009_022331779意外と来館者が多くいらしていました。バスツアーの団体さんという感じでもなく、御家族連れ的な方々が数組。ありがたいことです。

その後、レモン会の方に案内していただき、8月に亡くなられたレモン会会長であらせられた故・渡辺秀雄氏のお墓参りに。智恵子生家/智恵子記念館と同じ旧安達町にある、安達太良山円東寺さんにお墓がありました(「安達太良山」が山号です)。

同行して下さったレモン会の方によると、氏はクリスチャンであらせられたそうですが、仏教寺院にお墓。ちゃんと戒名も刻まれていましたが、それでもやはりクリスチャン風にちょっと変わったものでした。香華を手向け、手を合わせ、在りし日の氏を偲ばせていただきました。

レモン会の方と別れ、二本松市街へ。二本松城で開催されている菊人形の無料券をいただきましたが、駐車場がかなりの混雑で、申し訳ありませんがパスしました。そのまま市外を通り過ぎ、安達太良山中腹の岳温泉さんへ。
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一昨年泊めていただいた「あだたらの宿扇や」さんへ。こちらのフロントには、オーナーの方が入手された光太郎の書、智恵子の紙絵(複製ではなく真作)などが展示されているのですが、女将さんから、「新たに光太郎先生の写真なんかも増やしましたので、ぜひご覧ください」と連絡を頂いていたので、伺った次第です。

ところが折悪しく、女将さんは不在。それでも展示は拝見出来ました。
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なるほど、光太郎の写真が増えていました。戦後の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)でのショットです。このネガもこちらで入手されているので、そこからプリントなさったのでしょう。
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さらに、智恵子の紙絵真作も一点増えていました。
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下記は一昨年にも展示されていたのですが。
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これらが常設で見られるというのはいいですね。

扇やさんをあとに、素泊まりで滞在する際に必ず行く食堂で昼食。そこも3年半ぶりくらいでした。

食べ終わると、猛烈な眠気。歳をとるごとに長距離の運転も負担に成りつつあります(笑)。思い切って駐めた車中で1時間ほど仮眠しました。日帰り温泉にでもつかろうかとも考えていたのですが、ここで温泉に入ったら、バタンキュー(死語ですね(笑))帰れなくなってしまいますので断念し、帰途に就きました。

そんなこんなの二本松。上記の通り、花嫁衣装の拝見のため、月末にもう一度行ってこようと思っております。
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皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

中西夫人に此頃は買物を頼む、 夜在宅、 〈相当いたむ〉


昭和29年(1954)5月9日の日記より 光太郎72歳

相当いたむ」のは、結核性の肋間神経痛。そのため、日々の買い物も、起居していた貸しアトリエの大家(おおや)の「中西夫人」に頼むようになりました。

そのためのメモが中西家に大量に現存しています。

最新号ではないのですが……。

『財界ふくしま』2022年9月号

2022年8月4日 ㈱財界21発行 定価682円+税

■シリーズ第3弾 板倉病院の〝負の連鎖〟が止まらない
■2022首長選レポート 中島村長選情報
■特別インタビュー 近内幸雄いしかわ医研代表/長谷川祐一県薬剤師会長
           橋本克也須賀川市長/小野利廣県経営者協会連合会長
           志賀博之福島さくら農業協同組合代表理事組合長
           舟見敬成県理学療法士会長
           原喜代志会津よつば農業協同組合代表理事組合長
■2022インタビュー 本多洋八いわき信用組合理事長
          石川俊石川建設工業(株)代表取締役社長
■編集長インタビュー/管野啓二JA福島五連会長
■連載⑪/ふくしまから地球文明の未来を
 時代の最先端を走り抜いた福島県出身の偉大な女性たち、そして現在日本の看護を支える
 「令和の瓜生岩子」―新島八重、高村智恵子、田部井淳子、そして福井トシ子―
 森田実 政治評論家・ 東日本国際大学名誉学長
■連載/県内大学リレー寄稿「フクシマの未来像」瀬川洋(学)晴川学舎奥羽大学歯学部長
■連載/世界のフクシマ県人会 ワペンスキー英子北加福島日系人会長
■連載/森林(もり)とともに85年―福島・日本の未来へのメッセージ―
 國井常夫元全国森林組合連合会会長(現・西白河地方森林組合組合長)
■連載④/一千年の時を刻む薬師如来―仏都会津の慧日寺御本尊を復元―
 五十嵐源市元磐梯町長
■特別座談会/「再生可能エネルギーが築く未来社会」
 足立淳星のや竹富島ファシリティマネージャー
 柴幸秀ゼネラルヒートポンプ工業(株)専務取締役
 白石昇央(株)エナジア代表取締役
■首長メッセージ/大玉村、平田村、湯川村、会津坂下町、柳津町
■特集/2022参院選
■ざいかい短信 新地町長選
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東日本国際大学名誉学長・森田実氏による連載「ふくしまから地球文明の未来を」。近現代の「時代の最先端を走り抜いた福島県出身の偉大な女性たち」を紹介なさっています。その中で、智恵子も取り上げて下さいました。

最初の部分。
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特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、こういう風に取り上げられるとついつい購入してしまうかなしい性(さが)の当方です(笑)。

他に「八重の桜」の新島八重、登山家の故・田部井淳子さん、そして日本看護協会会長・福井トシ子さん。たしかに「時代の最先端を走り抜いた福島県出身の偉大な女性たち」と言えましょう。そういう土壌が福島には何かあるのでしょうか。当方の存じ上げる福島の女性の皆さんも、皆、素敵な方々です(ヨイショ(笑))。

さて、今日はその福島に行って参ります。二本松の智恵子生家/智恵子記念館を中心に(智恵子の花嫁衣装も観て参ります)、8月22日に亡くなられた智恵子の里レモン会長であらせられた渡辺秀雄氏の墓参など。時間が許せば岳温泉や安達太良山も(登りはしませんが)と考えております。

追・花嫁衣裳の特別公開、と思っていましたが、公開はまだでした。自分でブログに紹介しておきながら日程を勘違いしていました(笑)。

【折々のことば・光太郎】

久しぶりにタバコ一服、メマヒす、


昭和29年(1954)5月6日の日記より 光太郎72歳

肺結核による肋間神経痛は数年前からでしたし、さらにこの時期は息切れ等で苦しんでいたのですが……。

神奈川県鎌倉市から展示及びイベント情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9

期 日 : 2022年10月9日(日)~11月8日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 10月16日(日) 15:00~
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会場の笛ギャラリーさん。光太郎のすぐ下の妹・しづのお孫さんにあたられる山端御夫妻が経営なさっている、カフェ兼ギャラリーです。

すぐお近くに、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫もお住まいで、両家に伝わる光太郎・喜八関係のさまざまな資料等を展示なさいます。昨年の様子はこちら

笛ギャラリーさんといえば、今年5月、NHKさんで放映された「鶴瓶の家族に乾杯 市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」で、笑福亭鶴瓶さんがお店をご訪問。
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本当にアポ無しだそうで。まずはご主人。
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そこへ奥様も。
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そりゃ、いきなり鶴瓶さんがいらしたら驚きますわな(笑)。
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お世辞でなく、ここのコーヒーは本当に美味です(笑)。

近所の小学生が来店。
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子供たちが帰ったあと、御夫妻のなれそめ的なお話になり、その中で光太郎も。
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照れるご主人がとてもかわらいしく(笑)。
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これは存じませんでした。素敵ですね。

別の日の映像。先ほどの小学生も。
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こうした流れで、今回初めて、光太郎と喜八の詩の朗読会をやってみようということになったそうです。上記の通り、10月16日(日)です。4日前の時点で既に7名の出演申し込みがあったそうで。当日は当方、拝聴に参ります。
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まさにその通り。足を踏み入れるだけでほっこりさせられる空間です。

というわけで、ぜひ足をお運びください。北鎌倉・明月院さんから徒歩365歩です。
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【折々のことば・光太郎】

NHK録音班3人と秋山ちゑ子さんくる、録音、


昭和29年(1954)5月4日の日記より 光太郎72歳

平成28年(2016)に亡くなった、伝説的ラジオパーソナリティーの秋山ちえ子さん。この当時はNHKラジオで「私の見たこと、聞いたこと」という番組を担当なさっていました。どんな話題が出たのか、残念ながら録音が残っていないようで不明です。秋山さんの回想などにこの件が触れられていれば、と思うのですが……。

当会で会報的に発行している冊子『光太郎資料』の第58集が完成し、関係先には発送が終わりました。

元々は当会顧問・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として第36集まで不定期に発行されていて、その後休刊状態だったもの。平成24年(2012)の第37集からその名跡を譲り受けました。題字は北川先生作の木版から採っています。4月の連翹忌、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。

B5判ホチキス留め、49ページ。今号の内容は以下の通りです。

・ 「光太郎遺珠」から 第二十二回 「婦人」(その二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめています。前号から婦人雑誌に載った光太郎作品、「婦人」をテーマに書かれた光太郎作品を載せました。

 座談 新女性美の創造 昭和16年(1941)1月20日~2月14日の『読売新聞』婦人欄に断続的に15回にわたって掲載された座談会筆記録です。
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光太郎以外の出席者は、西田正秋(東京美術学校助教授)、吉田章信(体育研究所技師、文部省体育官、医学博士)、豊島与志雄(フランス文学研究家、作家)、竹内茂代(医学博士)、宮本百合子(作家)でした。

太平洋戦争開戦の年の1月、日中戦争は膠着状態に陥っていた時期でしたので、翼賛的な発言も目立ちますが、女性も旧時代の旧弊に囚われず、健康的な美を身につけるべし、といった内容になっています。

散文 新しい女性美 昭和18年=1943 1月1日発行『青年』第28巻第1号 女子版新年号から。上記「新女性美の創造」ともかぶる(やはり翼賛的な内容も含む)女性美創出への提言です。

少し引用しますと、

 ふるい俗悪な社会意識の滓(かす)は完全に取り去られねばなりません。何でも見た眼に一寸きれいに見えるものを飾り立てて美だと思ふやうな低級な気持ちは棄(す)てねばなりません。流行を追ひ、流行に左右せられて、(つまり営利資本に左右せられて)結局無駄(むだ)な苦心をして天下の資材を空費するやうな愚かな事は止めねばなりません。美が生ずる根源は必要にあります。必要によく適つたものからは必ず美が生まれます。
(略)
 女性の服装や化粧にしても、「必要にして十分」なものが一番美しいのであつて、不必要な無駄なものをたくさん身につけたものは醜なのであります。それゆゑ職場のきりりとした仕事着は見る眼もすがすがしい美であり、野良で働く時の野良着(のらぎ)はこれ亦比類もない美であります。その事に十分自信を持つべきです。遊惰(いうだ)の象徴のやうなぴらぴらした長い袖や、酒樽(さかだる)の箍(たが)のやうな厚い重い帯は決して美ではありません。少くとも眉をひそめさせる類の美であります。それを立派な美だと思つてゐた時代もあつたのはその時代が病的であつたからに過ぎません。
 
なるほど。

縄田林蔵詩集『日本の母』序 昭和18年8月執筆。縄田は岡山県出身の詩人です。詩集『日本の母』は、春陽堂から刊行された『日本の母』(昭和18年=1943 日本文学報国会編)――軍人援護会の49府県支部から推薦された「日本の母」を、光太郎を含む49人の文学者が訪問して書かれたもの――の内容を縄田が叙事詩にしたものですが、結局未完に終わったようです。

・ 光太郎回想・訪問記 桐後亭日録より「高村光太郎の罹災」(抄)野田宇太郎
詩人・評論家・編集者の野田宇太郎が自身の過去の日記を引用し、その前後の様子を捕捉した『桐後亭日録 灰の季節と混沌の季節』(昭和53年=1978 ぺりかん社)から、昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれ、近くにあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎を訪問した際の部分です。その後、光太郎は宮沢家の誘いで花巻に疎開することとなります。

・ 光雲談話筆記集成 たゞ仕事に没頭
光太郎の父・光雲が残した談話筆記は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣書房)などにまとめられていますが、それに収められなかった談話筆記がさまざまな書籍・雑誌等にも載っており、それらを拾い集めています。今号では昭和3年(1928)文海書院発行、田中正雄著『回春長寿生の喜び』より。同書は長寿を実現するための健康法等の紹介が中心ですが、巻末附録「不老長寿実験談」に、この時点で古稀を過ぎていた光雲を含む各界著名人の体験談等が掲載されています。他に渋沢栄一、高橋是清など。

他のものもそうですが、光雲の談話はとにかく落語のようで面白いものです。特にこれは、暴飲暴食をやめて健康になった話や、自身のいびきがひどい話など、笑えます。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第二十二回  川治温泉(栃木県)
見つけるとついつい購入してしまう(最近はこの項を書くため積極的に探していますが)、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書。それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今号は川治温泉。
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記録に残る光太郎の川治温泉訪問は、昭和13年(1938)の11月。前月には最愛の妻・智恵子が南品川ゼームス坂病院において、粟粒性肺結核のため数え53歳でその生涯を閉じています。智恵子の付き添いを務め、ゼームス坂病院で共に起居していたのは、当時の「一等看護婦」の資格を持っていた智恵子の姪・春子。その労苦の慰安を目的に、春子を連れて川治を訪れたことが、春子の回想に書かれています。

005・音楽・レコードに見る光太郎  第二十二回  ぼろぼろな駝鳥 弘田龍太郎
光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)に、弘田龍太郎が曲を付け、昭和18年(1943)にレコード化された歌曲について。弘田は「靴が鳴る」「雀の学校」「春よ来い」などの童謡作品が有名です。弘田の「ぼろぼろな駝鳥」は、正確な作曲年が不明で、公刊された楽譜も見あたらないのですが、情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

2024.6追記 昭和34年(1959)、音楽之友社刊行の『弘田竜太郎作品集 第3巻』に楽譜の掲載を確認しました。

・高村光太郎初出索引(年代順)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では大正10年(1921)から同12年(1923)までに初出があったものを掲載しました。

006ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

午前机の前にてメマヒをつよく感じる、空気の為らしく、窓を明け、ガラス戸をあけたら直る、

昭和29年(1954)5月2日の日記より 光太郎72歳

「メマヒ」は眩暈(めまい)です。いよいよ光太郎の体調が深刻になりつつあります。

一昨日ご紹介しました『平櫛田中回顧談』(中央公論新社)。『産経新聞』さんに書評が出ました。

芸術の理解に自伝、評伝 平櫛田中回顧談

000 芸術家の人生や時代背景を知ることは、作品を理解する助けとなる。芸術と読書の秋、アートを巡る自伝、評伝を手に取ってみた。
 東京・国立劇場にある名作「鏡獅子」で知られる近代彫刻の巨匠、平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)(1872~1979年)。その生誕150周年を記念して『平櫛田中回顧談』(小平市平櫛田中彫刻美術館編、中央公論新社・2420円)が刊行された。
 昭和40年、93歳の年に、美術評論家の本間正義を聞き手に自らの来し方を語ったこの筆録は、さまざまな事情でお蔵入りとなっていた。没後40年以上を経て出版され、田中の飾らない人柄をいきいきと伝えてくれる。
 大阪の人形師に木彫の手ほどきを受けた後、上京し高村光雲の門下生となった若き日々、師の岡倉天心や臨済宗の高僧、西山禾山(かさん)から受けた多大な影響などが、驚くべき記憶力をもって語られる。仏教説話や中国の故事を題材にした精神性の高い作品、田中らしい写実に優れた肖像彫刻は、こうした修業時代が素地になっているのだろう。
 日本画家、狩野芳崖(かのう・ほうがい)の絶作「悲母観音」を巡る秘話など、当時の美術界に身を置いた田中ならではの証言も。「鏡獅子」のモデルである六代目尾上菊五郎との交流をはじめ、制作エピソードが興味深いのはもちろん、自分が作った観音像が知らぬ間に海外で古仏に化けていたという落語のような話も挟まれ、最後まで飽きさせない。
 田中は現在の岡山県井原市に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した。百寿を超えてなお現役で制作したという。田中の旧宅を生かした小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都)では今、特別展「生誕150年 平櫛田中展」(11月27日まで、火曜休館)が開かれており、実作の鑑賞も合わせて楽しみたい。

その他、美術史家・矢代幸雄の評伝、建築家・安藤忠雄の自伝も紹介されていますが割愛します。

さらに、紹介されている小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの特別展についてはこちら。

特別展「生誕150年 平櫛田中展」

期 日 : 2022年9月17日(土)~11月27日(日)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 午前10時~午後4時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般 1000円(800円) 小・中学生 500円(400円)( )内は団20人以上

今年は、平櫛田中(1872-1979)の生誕150年です。それを記念して、全国各地の美術館や博物館に所蔵されている田中の作品を一堂に会し、明治から昭和にかけて長きに渡る創作人生の中で生み出された珠玉の作品をご紹介します。

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そちらを紹介する『東京新聞』さんの記事。

平櫛田中彫刻美術館 生誕150年展 小平市

 近代日本を代表する彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(一八七二〜一九七九年)の生誕百五十年を記念する特別展が東京都小平市学園西町の平櫛田中彫刻美術館で開かれている。十一月二十七日まで。
◆120年ぶり公開
 同展では、個人所蔵を含め全国の美術館など十六カ所からえりすぐりの作品約六十点を集め、一堂に紹介している。目玉は、約百二十年ぶりの公開となった「樵夫(しょうふ)」(個人蔵)。木樵(きこり)の顔に刻まれた深いしわや着ている服のひだなど細部まで克明に再現された作品。一八九九年、田中が展覧会に出品してから長年行方不明だったもので、最近、美術館に鑑定依頼で持ち込まれた。
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◆モデルは長男
 代表作の一つ、「幼児狗張子(いぬはりこ)」(一九一一年、岡山県井原市立田中美術館蔵)も見どころだ。モデルは田中の長男で、ふっくらとした頬やすべすべした肌など幼児の生き生きとした表情を群を抜く写実力で表現している。
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 同館の松本郁(ふみ)学芸員は「普段は見ることができない遠方の美術館や個人所蔵の作品を一堂に集めた。田中の創作活動は長期にわたり、時期ごとの作風の変化が見て取れて興味深い展示になっています」と話す。火曜休館。入場料は一般千円、小・中学生五百円。問い合わせは同館=電042(341)0098=へ。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

くもり、雨、温 胸像少し、
 
   昭和29年(1954)4月29日の日記より
光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。倉田はツチヤ地下足袋(現・ムーンスターさん)の初代社長。嘉永4年(1851)生まれですので、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、ということで、光太郎実弟で鋳金家の豊周が仕事をとってきました。

2月から制作を始めましたが、体調が思わしくなく、また生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の際とは異なり、助手を雇わなかったため、少しずつしか制作が進みませんでした。

この日を境に日記に胸像制作の記述がなく(粘土に水を掛けたという記述はありますが)、この日で制作が途絶したようです。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。

今日10月5日(水)はレモンの日。昭和13年(1938)の今日、智恵子が南品川ゼームス坂病院で、いまわの際に光太郎が持参したレモンをがりりと噛んだことに由来します。

かつて数々の女優さんが演じてきたそのシーン。

昭和32年(1957)、東宝映画「智恵子抄」で、原節子さん。
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その10年後、昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」では、岩下志麻さん。
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テレビでは、平成3年(1991)、NHKさんで放映されたスペシャルドラマ「智恵子と光太郎 極北の愛」で、佐久間良子さん。
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テレ東さんでも、平成6年(1994)に「日本名作ドラマ 智恵子抄」。南果歩さんが演じられました。
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それから、ドラマではありませんがNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」(平成27年=2015)。再現Vのパートで前田亜希さん。
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智恵子役といえば、平成21年(2009)、日テレさん系の深夜ドラマ「妄想姉妹~文學という名のもとに~」 での紺野まひるさんが、個人的には非常にいいと思ったのですが、ドラマの演出上、レモンを噛む智恵子臨終のシーンはありませんでした。
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さて、真面目な話も(ここまでが不真面目だったわけではありませんが(笑))。

最近、こんな絵葉書を入手しました。

明治40年(1907)、智恵子の母校・日本女子大学校の同窓会(イベントとしての同窓会ではなく、組織としての)である桜楓会発行のもので、エンボス加工(レリーフのように図柄を盛り上げた印刷)が為されており、カラーですし、当時としては高級なもののようです。
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「Souvenir Post Card. The Ofukai Bazar 1907-」「桜楓会バザー記念」の文字。このバザーというのが、日本女子大学校の名物行事の一つでした。その際に来場者にお土産として配付されたものでしょうか。

平成2年(1990)、二本松市教育委員会刊行の『アルバム高村智恵子-その愛と美の軌跡-』(当会顧問であらせられた北川太一先生編)所収の智恵子年譜に拠れば「当時のバザー、学芸会の装飾、背景などは、智恵子によるものが少なくない」とのこと。すると、この絵葉書も原画は智恵子が描いたものなのかもしれません。

傍証は、図柄。書籍が描かれていますが、背の部分に「三つの」という金文字が見えます。どうやらこの書籍は『三つの泉』ではないかと推定出来ます。

『三つの泉』は、明治39年(1906)、日本女子大学校で、皇族等を招いて大々的に開催された「秋期文芸会」(今で言う学園祭的な行事)を記念して、翌年(上記絵葉書と同じ年です)に、やはり桜楓会から刊行されたものです。
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こちらはその表紙、中のカット(右上、写真の周りの縁取り)を智恵子が描いたことが既にわかっています。

となると、上記絵葉書もやはり智恵子が原画を描いたと考えるのが妥当なような気がします。花の描き方も、『三つの泉』のカットと共通するような……。

作者のサインがありませんので断言できないのですが……。

これが智恵子の手になるものだということが証明出来る、光太郎智恵子、あるいは周辺人物の回想文や書簡などが出て来ることを望みます。

さて、今日は「レモンの日」。皆様方には、ぜひ智恵子という鮮烈な生き方をした人物を、それぞれの場で偲んでいただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房の人くる、全集用の写真をかし又色紙一枚かく、「いろはにほへと」とかく、

昭和29年(1954)4月23日の日記より 光太郎72歳

全集」は『現代日本文学全集』。第24巻が「高村光太郎 萩原朔太郎 宮沢賢治集」でした。「いろはにほへと」の書は、光太郎の部の最初に印刷されています。
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新刊です。

平櫛田中回顧談

2022年9月10日 平櫛田中著 聞き手:本間正義 小平市平櫛田中彫刻美術館編
中央公論新社刊 定価2,200円+税


自らの来し方を語った貴重な聞き書き記録。魅力溢れる自伝・芸談であるのみならず、交流した芸術家や芸術界に関する貴重な証言満載。平櫛田中作品の気韻生動、神韻縹渺の秘密が明かされる。
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目次
 刊行にあたって 平櫛弘子002
 1 生いたち
 2 大阪と中谷一家
 3 奈良と森川杜園
 4 東京に出る
 5 禾山和尚
 6 長安時の生活
 7 茶屋町の生活
 8 米原雲海と山崎朝雲
 9 岡倉天心と日本彫刻会
 10 岡倉天心の思い出
 11 日本美術院の再興
 12 上野桜木町の家とその頃の諸作
 13 二児を失う
 14 色々の天心像
 15 素材と用具と伝統技法の復活
 16 帝展参加と“霊亀随”
 17 肖像彫刻
 18 鏡獅子の制作
 19 六代目の手紙
 20 第二次鏡獅子の制作と弟子達
 21 美術学校に勤めた頃
 解説
掲載作品一覧
年譜

光太郎の父・光雲の高弟の一人である彫刻家・平櫛田中の回顧談です。

当方、てっきり過去に刊行されていたものの復刊と思いこんでいましたが、さにあらず。諸般の事情でお蔵入りとなっていたものが、平櫛の生誕150年記念として、初めて公刊されたのものでした。

平櫛は明治5年(1872)岡山県後月郡西江原村(現・井原市)の生まれ。光雲に師事する前、臨時教員や商家の店員なども務め、その後、大阪の人形師・中谷省古の元で彫刻の基礎を学んだ上で上京し、光雲門下に入りました。そのため、生粋の門人とは異なり「雲」の字を号に入れていません。

内容的には、岡山での幼少時代の話にはじまり、修業時代、彫刻家として独立後の話など。平櫛は満107歳の昭和54年(1979)まで存命でしたが、最後は昭和30年代半ばで終わっています。元々、中央公論美術出版で昭和40年代に出版予定だったものが計画が立ち消えとなったため、そこで終わっているわけです。

光雲や、山崎朝雲、米原雲海といった兄弟子たち、さらに光太郎にも随所で触れられています。

そのうち、米原雲海を高く評価していたのを興味深く感じました。米原は大正8年(1919)、光雲と共に信濃善光寺さんの仁王像を手がけましたが、木彫の腕が門下一だったと平櫛は評しています。そして、光太郎と米原の関わり。『高村光太郎全集』第7巻の月報に載った「高村さんのこと」という談話筆記でも触れていますが、光太郎は主に米原から木彫の手ほどきを受けた、としています。

 米原さんはラグーザの弟子の小倉惣次郎と懇意で長沼守敬の弟子に教わり、それから高村先生のところに入った。入ってすぐに高村名義ですばらしい《おうむ》を作って銀賞を得ている。また高村先生のところに住み込んでいた時には夜中にこっそり起きて、一時間位毎晩仕事をしたそうである。とにかく人以上にやらねば駄目だという気構えであった。
 『光雲懐古談』の中に、何十人の弟子を扱ったが、米原みたいなものは一人もいないと記されている。一子、光太郎君を、学校から帰ると、絵を川端玉章のところに、木彫を米原さんのところへ習わせにやったのも、米原さんの腕を高く買っておられたからである。光太郎君の刀は従って米原さんから出ているものと言える。米原さんのおとむらいの時に、光太郎君は我々のところに座らず、弟子のところに座って、弟子としての礼をとっていたのが目についた。


平櫛自身も、米原や山崎からの教えが大きかったとしており、こうした点を、解説(小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)では、「当時の美術教育が師から弟子という上から下の方向のみならず、兄弟子から弟弟子という斜め上の交流が極めて重要な働きをしていた」としています。

その他、光太郎に関しては、平櫛の展覧会出品作をディスられ、しかしその評ももっともだと思ったことや、美術学校教授就任を推薦したものの、けんもほろろに断られたことなども記されています。

また、当然ながら、平櫛自身のさまざまな苦労譚、代表作と目される「鏡獅子」などもろもろの彫刻(図版も多数)の制作過程や裏話、岡倉天心や横山大観らとの関わりなど、非常に興味深いものです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる過ぎ「流行」の女記者、と新居格の娘といふ好子といふ人と同道、談話、30分ばかり、

昭和29年(1954)4月21日の日記より 光太郎72歳

「新居格(にいいたる)」は、評論家。杉並区長も務めました。光太郎は昭和2年(1927)、雑誌『随筆』の行ったアンケート「現時活躍せる論客に対する一人一評録」に対し、新居を紹介しています。

 一人を名指せといはれると困るけれど、人物が好きだといふ点で新居格氏をお答にしませう。個人的に面識は有るやうな無いやうな関係しか持つて居ませんが、書かれるものの正直さと根性の奇麗さに心を引かれます。
 所論そのものに就いては必ずしも同意すると言へませんが。


新居は光太郎帰京前の昭和26年(1951)に歿しました。

流行」は当時あった雑誌の名ではないかと思うのですが、不分明です。駒場の日本近代文学館さんに光太郎歿後の昭和32年(1957)創刊(誤って「明治32年」と一部のデータに記されていますが)の『流行』という雑誌が所蔵されていますが、時期が合いません。また、白木屋百貨店が戦前に出していたPR誌も『流行』でしたが、この時期まで刊行が続いていたのかどうか……。

2日後の日記には「「流行」の新居さんくる、筆記原稿を見る」とあり、光太郎談話、あるいは新居好子との対談が活字になったと思われますが、発見出来ていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

宮城県から生涯教育系講座の情報です。

現代の詩と詩人

期 日 : 2022年10月8日(土) 11月12日(土) 12月10日(土)
      宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 仙台ターミナルビル5F(エスパル本館)
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 3カ月3回8,580円(入会金別)
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄氏

茨木のり子は川崎洋と詩誌『櫂』を創刊し、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘らと戦後詩の新しい流れを作りました。この講座では茨木のり子を中心に、茨木が『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)や『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で論じた金子光晴、山之口貘、石垣りん、高村光太郎、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋らを取り上げます。戦争、貧乏、酒、恋愛などに翻弄される詩人たち。その哀歓を詩と逸話によって語ります。
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内容的には7月から9月まで行われていたものが再度開催されるようです。それだけ人気が高かった講座なのでしょう。

詩人・茨木のり子を中心に、茨木が評論等で取り上げた金子光晴山之口貘、石垣りん、与謝野晶子、黒田三郎、川崎洋、そしてわれらが光太郎についても触れて下さるそうです。

ところで、探し方が悪いからなのかもしれませんが、以前はもっとたくさん各地で行われていたこの手のカルチャー講座が少なくなったように感じます。コロナ禍も影響しているのかもしれません。教室閉鎖といった記述も見られますし……。

それだけに貴重な機会です。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方細田明子さん婚約者(医師)と同道くる、五月廿五日披露会によばれる、諾、

昭和29年(1954)4月18日の日記より 光太郎72歳

細田明子さん」は、光太郎が戦前から行きつけにしていた荒川区三河島のトンカツ屋「東方亭」の息女です。光太郎は彼女が幼い頃から娘のようにかわいがり、詩「少女に」(昭和16年=1941)、「女医になった少女」(昭和24年=1949)などの詩のモデルとしました。
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詩の題名通り女医となった明子さん、この年、結婚なさり、光太郎披露宴に招待しました。光太郎、一度は承諾したものの、結局、体調がすぐれず欠席することとし、6月8日には記念帖を進呈しました。
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曰く

心臓をわるくしてゐてお祝に出られなかつた お二人は殊に心臓がおつよいといふ事だし それにあやかりたかつたが是非もなかつた たゞ新郎が心臓専門なのは心づよい 光太郎

元プロレスラー・国会議員のアントニオ猪木氏が亡くなりました。

「共同通信」さん。

アントニオ猪木さんが死去 プロレスブームをけん引

007 「燃える闘魂」のキャッチフレーズで昭和、平成のプロレスブームをけん引し、参院議員も務めたアントニオ猪木(本名猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日午前7時40分、心不全のため自宅で死去した。79歳。横浜市出身。マネジメント会社が明らかにした。
 中学の時にブラジルに移住。遠征した力道山の目に留まり、17歳の時に日本プロレス入団。力道山の死後、ジャイアント馬場とのコンビでプロレス人気を復活させた。
 89年にスポーツ平和党(当時)から出馬し参院選に当選。2013年の参院選では日本維新の会から立候補して国政へ復帰した。20年に心臓の病気を患っていることを公表した。

猪木さんといえば、今年5月にこのブログサイトで猪木さんについてご紹介させていただきました。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖にほど近い蔦温泉に「猪木家の墓」を建てられ、奥様の納骨をなさったという件。

各種訃報の中にも、その件に触れられたものが。

ABA青森朝日放送さん。

アントニオ猪木氏死去 青森・蔦温泉に猪木家の墓 「ゆかりの地」で死を悼む

 元プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなりました。79歳でした。
 アントニオ猪木さんは、力道山にスカウトされてプロレスの道に入り、1972年に「新日本プロレス」を設立、プロレス全盛時代を築きます。1989年の参議院選挙で初当選し、国会議員となりました。
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【藤原祐輝アナウンサー】
 「十和田市、蔦温泉旅館のすぐ近くに猪木家のお墓があります。猪木さんご夫婦は生前、この蔦温泉を訪れ夫婦水入らずの時間を過ごしていたということです」
 「道」と力強く刻まれた猪木家の墓。2019年に亡くなった妻・田鶴子さんの納骨が5月に行われました。猪木さんの訃報を受け、お墓に手を合わせる人の姿も。
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【墓を訪れた男性】
 「いつも元気いっぱいで、私も元気もらっていましたね。私も随分力をもらったので、天国でも安らかに眠っていただきたいと思います」
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 蔦温泉旅館には猪木さん直筆の詩が飾られています。5月に訪れた際には、明るい人柄で周囲を笑わせていたそうです。その数カ月後の訃報…。
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【蔦温泉旅館・新山耕生支配人】
 「本当にびっくりですね。蔦温泉を見守っていただければなと思います」
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『日刊スポーツ』さん。

【猪木さん死去】妻田鶴子さんと通っていた青森・蔦温泉近くに墓建てていた 墓石に「道」足下に詩

 1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんは、青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てていた。
 蔦温泉旅館は猪木さんと妻田鶴子さんが生前通っていたゆかりの地。猪木さんは今年5月22日に建立式を開き、19年に亡くなった田鶴子さんの納骨の儀を行っていた。墓の高さは猪木さんの現役時代の身長と同じ190センチ。墓石には「アントニオ猪木家」。詩集も出している猪木さんがよく口にした詩の題名「道」の文字が大きく刻まれ、足下には詩も記されている。
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 蔦温泉旅館は田鶴子さんについてホームページで「全身全霊でアントニオ猪木様に人生をささげてきた方。魅力あふれる女性でした」とし、旅館でのひと時を「良い思い出ばかりです」とつづっている。
 旅館は宿を愛した作家大町桂月の墓をおよそ100年に渡り管理している。猪木さんは旅館の墓の管理方法に信頼を置き、蔦温泉旅館を墓の場所に選んだという。墓は八甲田連峰内の旅館近くにある。

十和田湖の景勝美を広く世に紹介した明治の文豪・大町桂月にも触れられています。猪木家の墓は桂月の墓の並びに建てられました。ちなみに光太郎の「乙女の像」、元々は桂月ら、周辺の国立公園指定の礎を築いた「十和田の三恩人」を顕彰するというコンセプトで建てられたものでした。他の二人は元県知事の武田千代三郎、元法奥沢村長・小笠原耕一です。

仙台に本社を置く『河北新報』さん。

猪木さん、東北にも縁 仙台のおでん屋行きつけ、十和田に墓建立

 1日に死去したアントニオ猪木さんは東北にたびたび足を運び、各地で親交を結んできた。今年5月には青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てており、先年亡くなった最愛の妻田鶴子さんと共に葬られる見通しだ。
 「あまりにも突然のことでびっくりした」。行きつけだった仙台市青葉区一番町の「おでん三吉」の2代目、田村忠嗣さん(78)は驚きを隠せない様子だ。
 猪木さんの元妻、俳優倍賞美津子さんの父と田村さんの父が戦友だったのが縁で、交流が続いてきた。猪木さんは興行で仙台を訪れるたび、他の選手を連れて来店した。
 今年は墓の建立式に向かう途中で店に寄った。プロレス中継の実況で一世を風靡(ふうび)したフリーアナウンサーの古舘伊知郎さんと、定番の大根やイイダコなどのおでんをつまみながら、数年ぶりという酒を楽しんだ。
 車いすでの来店だったが、田村さんは「思っていたよりも元気だった」と回想する。同い年で「(えとの)ヒツジは高尚な動物なんだ」と2人で笑い合った思い出を語り「気さくな方だった」と冥福を祈った。
 「アントニオ猪木家の墓」は蔦温泉旅館から歩いて3分ほどの八甲田山麓に、ひっそりとたたずむ。「迷わず行けよ 行けば分かるさ」。墓石には猪木さんが引退試合のスピーチで残した名フレーズが刻まれている。
 蔦温泉は、猪木さんが最愛の妻・田鶴子さんと蔦温泉を繰り返し訪れていた思い出の地。墓を管理する城ケ倉観光(青森市)によると、猪木さんは墓を建てた理由を「ご縁というか、必然というか…」と話していたという。
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青森県の地方紙『デーリー東北』さん。

八戸の定宿に思い出の品々 十和田・蔦温泉には墓建立/アントニオ猪木さん死去

 アントニオ猪木さんはレスラー時代から晩年に至るまで、北奥羽地方ともゆかりが深かった。巡業で八戸市を訪れた際の定宿は、同市寺横町の老舗「柏木旅館」。旅館には、宿泊時の写真や新日本プロレスの創立10周年を記念して贈られた感謝状など思い出の品々が今も残る。
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 滞在時は2代目おかみの故柏木マツヱさん、3代目のまゆみさん(91)と仲良く茶の間で話していたという猪木さん。
 まゆみさんの娘、七穂さん(61)は「気さくでおおらかで優しい人だった。お酒はほとんど飲まず、茶の間で自分の家のようにくつろいでいた」と振り返る。
 市内でサバの塩焼きを購入していたことや、当時からプロテインを飲んで体づくりをしていたことも印象深いという。
 坂口征二さんやストロング小林さんらといった往年のスター選手と、旅館でマージャンを楽しんでいたエピソードも。七穂さんは「(体が大きいので)牌が小さく見えて面白かった」と懐かしむ。
 近年は疎遠になっていたが、闘病を知り、陰ながら応援していた。「亡くなったと聞いて驚いた。何とか治ってくれればと思っていたが」としのんだ。
011 猪木さんは晩年、十和田市の名湯・蔦温泉のコマーシャルにも出演していたほか、温泉近くに「アントニオ猪木家の墓」も建立。温泉ホームページによると5月に、猪木さんの亡妻・田鶴子さんを納骨しているという。
 訃報が届いた1日、墓には多くのファンが足を運んだ。正面に力強く「道」と刻まれた墓石。訪れた人たちは静かに手を合わせたり花を供えたりして、冥福を祈った。
 十和田市の男性会社員(37)は、「自分と知人が猪木さんの大ファン。今日はその知人の分もと思い、花を手向けに来た。病気療養中と聞いていたので、あまり長くないのかもしれないと覚悟はしていたが、残念です」と話した。

ただ、気になるニュースも。『東京スポーツ』さん。

アントニオ猪木さんのお墓は横浜市内の菩提寺に 愛妻が眠る場所とは別なワケ

 〝燃える闘魂〟のお墓はどうなるのか。1日朝に心不全で亡くなったプロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(享年79)は、故郷の神奈川・横浜市鶴見区内にある猪木家の菩提寺に葬られる方向で、調整されていることがわかった。
 横浜市鶴見区出身の猪木さんは、13歳でブラジルに移住するまで同市内で育った。複数の関係者によると、猪木さんの生前から故郷・鶴見にある猪木家の墓に納骨すると取り決められており、その遺志に沿って調整されているという。
 猪木さんは、今年5月に故・田鶴子夫人とゆかりのある青森・十和田市内に「アントニオ猪木家の墓」を建立。自身も青森を訪れ、その様子をユーチューブチャンネルで公開していた。
 ただ、青森の墓は「アントニオ猪木家の墓」であり、猪木さんは本名の「猪木寛至」として葬られることを望んでいたようだ。

いずれにせよ、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」、プロレスファンの聖地となるような気がします。同じ並びに墓のある大町桂月ら「十和田の三恩人」や「乙女の像」にもまたスポットが当たってほしいものです。

ちなみに当方、猪木さんの試合等は生で拝見したことはありませんが、お会いしたというか、お見かけしたというか、そういう経験はあります。

バブル前夜の学生時代、大学の合唱団に所属しており、団としてテレビの仕事も何度かさせていただいたりしまして、そのうち、昭和61年(1986)の大晦日、新高輪プリンスホテルさん飛天の間で公開生中継が行われた、当時あった歌番組「夜のヒットスタジオ」。この日は「世界紅白歌合戦」と銘打って、衛星生中継でロッド・スチュワートさんなどもご出演。当方らは谷村新司さん「昴」のバックコーラスをやりました。その頃の同番組司会が古舘伊知郎さん。古舘さんといえば、猪木さんの試合の実況でも有名でした。その関係でしょうか、客席に(ディナーショー形式でした)猪木さんがいらっしゃっていて、番組の合間に「猪木さんもいらしてます」的な紹介がありました。第一印象は「とにかくデカい」(上記、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」の高さが190㌢で、現役時代の猪木さんの身長だそうです)。

体格だけでなく、人間的にも大きな人だった猪木さん。平成2年(1990)の湾岸戦争では、イラクに連行されたクウェート在留邦人41人の解放にご尽力されたり、「スポーツ外交」ということで、北朝鮮とのパイプを何とか繋げようと33回も渡航されたりなさいました。

対北朝鮮では、確かに目に見える大きな成果は上げられなかったかもしれません。「渡航制限のある国に行くのはいかがなものか」と苦言を呈したのは、当時の外務大臣。ちなみにその人物は先月、呼ばれもしていない英女王の国葬に「参列見送り」を表明して失笑を買いましたし、その後の「弔問外交」とやらでも何らかの成果があったということが報じられていません。そんな輩が何をか言わんや、ですね。

閑話休題。猪木さんのご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃上條憲太郎氏、岡茂雄氏、笹村氏くる、酒一升もらふ、談話30分、「坑夫」の揮毫を笹村氏に渡す、

昭和29年(1954)4月11日の日記より 光太郎72歳

上條憲太郎氏」は、元長野県教育長。「岡茂雄氏」は長野県出身の出版人。「笹村氏」は彫刻家の笹村草家人です。昭和33年(1958)に開館する碌山美術館さんに関する相談と思われます。

坑夫」は、荻原守衛滞仏中の彫刻で、光太郎が石膏にとって日本に持ち帰るように勧めました。「揮毫」は、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに翌年除幕された「坑夫」の題字です。
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一昨日のこのブログサイトで、智恵子の故郷・福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館のイベント情報(紙絵の実物公開/生家二階部分の特別公開等)についてご紹介しましたが、追加情報です。

昨日になって、二本松市さんのサイトに以下の告知が出ました。『広報にほんまつ』さんにはその情報が出ていませんでした。

智恵子記念館開館30周年記念事業のご案内 「智恵子“幻”の花嫁衣裳」特別展示

今年度は智恵子記念館開館30周年を迎えるにあたり、高村智恵子ゆかりの品として、初公開となる「智恵子“幻”の花嫁衣裳」を展示いたします。

智恵子が纏うはずであった花嫁衣裳を、夫・高村光太郎が著した「智恵子抄」の詩などと共にご覧ください。

展示期間・時間
 10月27日(木曜日)~11月8日(火曜日)
 午前9時00分から午後4時00分
 ※10月30日(日曜日)は智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール表彰式が実施されるため、午前12時30分から午後4時00分のみ公開となります。
 展示場所 智恵子の生家内
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市のサイトには、現物の画像は出されていません。「是非デザインをご想像の上お越し下さい」だそうで。

当方も現物は見たことがありません。しかし「初公開」とありますが、開館当初の一時期、公開されていたことがあったのではないかと思われます。平成6年(1994)、講談社さん発行の女性誌『SOPHIA』1994年3月号に載った「ソフィア・スペシャル 高村智恵子の結婚の條件〈シリーズ=時代を道づれにした女〉」という16ページある記事に、生家座敷で撮影されたカラーの大きな画像が出ていますし、同10年(1998)に日テレさん系で放映された「知ってるつもり!?」の智恵子の回で同様の映像が使われました。
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まぁ、二本松市さんが「是非デザインをご想像の上お越し下さい」とおっしゃってますので、画像は出しませんが(笑)、実に豪華な作りの目にもあでやかな着物です。他の智恵子愛用品(琴や機織り台、蓄音機など)は寄贈されて常設展示されていますが、この着物は所有権が市に移っていないのか、あるいは市の所蔵にはなっているものの、常設で出すと染色の劣化が進むので通常は展示していないのか、そんなところだろうと思います。画像があまり世に出ていないことを考えると、可能性が高いのは前者の方でしょうか。

ところで、智恵子の結婚話。

以前に書かれた光太郎や智恵子の評伝類では、明治45年(1912)頃、智恵子に二本松の医師・寺田三郎との縁談が持ち上がり、光太郎はそれを受けて詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳い、それを読んだ智恵子が、実家に帰ってすったもんだの末に縁談の破棄を認めさせ、光太郎の元に走った(光太郎が滞在していた犬吠埼まで追いかけていった)とされています。

ところが最近、この年には寺田は既に妻帯しており、子まで為していたということが明らかになりました。どうも関係者の記憶違いがあったようです。おそらく、寺田との縁談は確かにあったのでしょうが、もっと前。しかし光太郎が「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳ったのは、間違いなくこの年ですので、他の縁談があったのか、それとももしかすると、煮え切らない光太郎に対して智恵子が「嫁に行く」と嘘をついたのかも知れません。そうだとすると、光太郎、まんまと智恵子の手練手管にはまったわけですね(笑)。しかし、今となっては真相は闇の中です。

というわけで、智恵子生家/智恵子記念館、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

NHKの録音班三人くる、30分第一回分を吹込、これは20日の事、

昭和29年(1954)4月10日の日記より 光太郎72歳

ラジオ連続講座「美の世界」の収録です。2回に分けての放送で、初回が「破壊と美」、第2回が「都市美について」の副題でした。残念ながらこの録音はNHKさんに残っていないようです。

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