昨日の『東京新聞』さん。新宿中村屋サロン美術館さん所蔵の、光太郎油彩画「自画像」(大正2年=1913)をメインに取り上げて下さいました。
西洋と日本、前近代と近代の狭間でもがく若き日の光太郎を、「自画像」の鋭い眼差しにからめて的確に紹介して下っています。ありがとうございます。
ただ、共に手を取り合って、日本の彫刻界を牽引していこうと目論んでいた碌山荻原守衛が、明治43年(1910)、数え32歳の若さで逝ってしまい、光太郎が孤軍奮闘を強いられることになった件についても触れていただければなおよかったのですが。
記事にあるとおり、光太郎の自画像、中村屋サロン美術館さんで現在開催中のコレクション展に展示中ですし、同館の目玉収蔵品の一つということで、概ね常時展示されています。
コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
<カジュアル美術館>自画像 高村光太郎 中村屋サロン美術館
近くで見ると、筆致を大胆に残し、頬の部分には肌色や白、黄色系の色が何重にも塗られているのが分かる。キャンバスに激しく筆をたたきつけて描く光太郎の姿を想像してしまう。欧米に留学してロダンら近代彫刻の巨人の傑作に触れ、帰国後に華々しく彫刻家デビューするはずが、このころの光太郎は彫刻界に背を向け、油絵を熱心に描いていた。「彫刻を作っても発表する場がない」と。
一八八三(明治十六)年に木彫作家・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、九八年に東京美術学校彫刻科に進学。そして一九〇四年、雑誌に掲載されたロダン作「考える人」の写真を目にして衝撃を受ける。「生きもののような気がした」という感激ぶりだった。
〇六年から三年間の洋行を終え、帰国した光太郎は、旧態依然とした日本の彫刻界に失望する。伝統彫刻は前時代からの木彫が幅を利かせ、洋風彫刻も表面ばかりが「洋風」な重鎮が君臨していた。光太郎は「卑屈な事大主義」「けち臭い」などと舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判。「自画像」にはそのころの、とんがった内面がにじみ出ている。
光太郎は遊学先で荻原守衛(おぎはらもりえ)(碌山(ろくざん))と出会う。信州・安曇野出身の荻原は画家を志したが、パリのサロンで「考える人」を見て魂を揺さぶられ、彫刻家志望に転向した。ロダンに人生を変えられた者同士、意気投合して親交を深めた。 帰国した二人は東京・新宿で再会する。荻原は同郷の相馬愛蔵が開くパン・和菓子類の製造販売店「中村屋」に出入りし、光太郎も誘われた。芸術文化に理解のある愛蔵を慕い、多くの若い芸術家が集って語り合い、高め合う「中村屋サロン」だ。
荻原は文部省美術展覧会(文展)に仏留学時代の「坑夫」を出品。光太郎が「ロダンの影響がまざまざと見える」として、石こうにとって日本に持ち帰るよう勧めた作品だった。表面の肉付けの凹凸は、「自画像」の筆致のように、荻原の手の動きを跡付けたように波打って躍動している。だが審査員からは未完成とみなされ落選する。
「表面は人の手が加わってないように滑らかであることが求められた。それは彫刻が家具や建築物、銅像のようなモニュメントと同一視されていたから。彫刻を芸術として認められるために何とかしたいと闘っていた。その気持ちが『自画像』の目力に表れている」と中村屋サロン美術館の太田美喜子学芸員。
「自画像」発表の年、光太郎は智恵子と婚約する。翌年には「僕の後ろに道は出来る」とうたった詩「道程」を発表し、一人で近代彫刻の道を切り開くことを宣言。次第に彫刻に専念し、ロダンを意識した作品を続々と発表する。
◆みる 中村屋サロン美術館(東京都新宿区)はJR新宿駅東口から徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線新宿駅A6出口直結。新宿中村屋ビル3階。問い合わせは同美術館=電03(5362)7508=へ。「自画像」「坑夫」は「コレクション展示」で展示中。2月13日まで。開館は午前10時半〜午後6時(5時40分最終入館)。火曜休館。入館料300円、高校生以下無料。
西洋と日本、前近代と近代の狭間でもがく若き日の光太郎を、「自画像」の鋭い眼差しにからめて的確に紹介して下っています。ありがとうございます。
ただ、共に手を取り合って、日本の彫刻界を牽引していこうと目論んでいた碌山荻原守衛が、明治43年(1910)、数え32歳の若さで逝ってしまい、光太郎が孤軍奮闘を強いられることになった件についても触れていただければなおよかったのですが。
記事にあるとおり、光太郎の自画像、中村屋サロン美術館さんで現在開催中のコレクション展に展示中ですし、同館の目玉収蔵品の一つということで、概ね常時展示されています。
コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
朝東京より太田和子さんといふ女性たづねてくる、朝飯を一緒にとり、九時過の電車、太田さんは小屋を見にゆき、余は花巻行、
昭和26年(1951)12月24日の日記より 光太郎69歳
前日から一泊した大沢温泉菊水館での話。
太田和子は、光太郎も寄稿した雑誌『いづみ』の記者です。翌年の光太郎帰京後は、足繁く中野のアトリエを訪ねています。
太田和子は、光太郎も寄稿した雑誌『いづみ』の記者です。翌年の光太郎帰京後は、足繁く中野のアトリエを訪ねています。