2021年08月

地方紙『宇部日報』さん、先週の記事です。山口市の中原中也記念館さんの企画展「書物の在る処――中也詩集とブックデザイン」について。

中原中也記念館で企画展「中也詩集とブックデザイン」 装丁家や出版の背景などを紹介

 中原中也(1907~37年)の詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」と3冊の翻訳詩集を中心に、装丁家や出版の背景などを紹介する企画展「書物の在る処―中也詩集とブックデザイン」が、山口市湯田温泉1丁目の中原中也記念館で開かれている。9月26日まで。
 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が装丁した「山羊の歌」の校正刷りや紙型、大正~昭和初期に刊行された個性豊かな詩集のブックデザインなど約100点が展示されている。
 中也の第2詩集「在りし日の歌」のブックデザインは、中也の友人で美術評論家、装丁家の青山二郎(1901~79年)が手掛けた。柳のカットと手書きの文字を生かした大胆なデザインが特徴で、青山の装丁作品の中でも傑作とされている。会場には、色彩豊かな額縁文様、愛らしい木彫りのはんこを使ったパターンなど独特の手法を用いて生み出された青山の装丁作品が多数飾られているほか、青山の日記や中也が青山に贈った詩を通じて2人の交流を紹介している。
 特別コーナーには、現代に生きる詩人やアーティストが中也の2冊の詩集をそれぞれの視点で捉えてデザインした詩集が展示されている。
 学芸員の菅原真由美さんは「電子書籍が普及する中、本の持つ存在感やたたずまいを感じてもらい、デザインを楽しむ中で詩への興味を広げてもらえたら」と話していた。
 時間は午前9時~午後6時。月曜休館。一般330円、学生220円、70歳以上、18歳以下無料。
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ところが、この記事が出た直後、コロナ禍のため9月13日(月)までの休館が発表されました。ただ、同展、会期は9月26日(日)までの予定ですので、再開後も観覧可能でしょう。

似たような件ですが、岩手花巻の高村光太郎記念館さん、8月14日(土)から休館となり、当初予定では今日までのはずでしたが、休館期間が9月12日(日)まで延長、と発表されています。休館前に開催されていた企画展「光太郎の三陸廻り」は、最初の計画では昨日までの予定でしたが、そのまま終了なのか、期間を延長するのか、未定のようです。

本当に、早いところコロナ禍の収束・終息することを願わずにはいられません。

【折々のことば・光太郎】

弘さんはマヒタケを昨日とり、それを町に売りにゆきたるものといふ。百匁30円の割でうれりとの事。一個一貫目のマヒタケあり。300円になりしといふ。

昭和23年(1948)10月2日の日記より 光太郎66歳

「弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に住んでいた青年です。

「一貫目」といえば、約4㎏。そんな巨大な舞茸が採れていたとは、うらやましい限りです(笑)。

平成30年(2018)、ドラマ「アンナチュラル」のテーマ曲「Lemon」が大ヒットし、その後も精力的な活動を続けられているJ-POPアーティスト米津玄師さん。

インタビューの中で「Lemon」は、光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアがあるかも知れない、と、御自身でおっしゃっています。

その米津さんが、インテリアグッズを展開する「REISSUE FURNITURE」(リイシュー ファニチャー)を立ち上げられたとのこと。

第1弾アイテムとして、「Lemon」をはじめ、これまで発表してきた楽曲「Flamingo」「海の幽霊」「馬と鹿」「Pale Blue」をイメージしたフレグランス「Room Perfume」(ルーム パルファム=部屋用香水)の発売を発表なさいました。

Room Perfume - Lemon REISSUE FURNITUREシリーズ#1

楽曲「Lemon」をイメージしたルームパルファム。

「米津玄師 2018 LIVE / Flamingo」「米津玄師 2019 TOUR / 脊椎がオパールになる頃」の演出で使用した香りで、レモンの爽やかさとほろ苦さが、部屋をやさしく包み込んでゆきます。クリスタルの形をしたガラスボトルは、光によって表情を変え、エレガントなひと時を演出します。

ボトルカラー Lemon Yellow Designed by Kenshi Yonezu ¥5,830(税込)
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米津さんのコメント。

非日常が日常へと変化しそうになっているこの頃、自宅で過ごす時間の重要性を見直さなければならないと感じています。ライブツアーがおいそれと組めなくなって以来、何か新しい軸を一つ作りたいと思い、今回REISSUE FURNITUREを始めることにしました。
部屋は自分の精神とシンメトリーな部分があると思います。部屋がほんの少し豊かになることで、健やかに日々を生きる一助になることを願います。

ボトルは米津さん御自身のデザインだそうで、そういえば、米津さん、御自身のアルバムのジャケット等もデザインされています。

ご興味のある方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる前に余は揮毫。桶屋さん(大橋大人)の為に「木竹諧和」と書き宮崎鯉軒翁喜寿のために「天地寿」と書く。


昭和23年(1948)10月1日の日記より 光太郎66歳

「大橋大人(たいじん)」は大橋喜助。花巻一の桶作りの職人で、宮沢賢治の父・政次郎、花巻病院長・佐藤隆房、そして蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の村人達の厚意で光太郎に贈られた風呂桶を制作しました。「諧和」は「やわらいで親しみあうこと」の意。木や竹などの材料を「諧和」させる見事な匠の技へのオマージュですね。

「宮崎鯉軒」は宮崎仁十郎。茨城取手の素封家で、智恵子の最期を看取った姪の春子と結婚した宮崎稔の父親です。戦前から光太郎と交流がありました。
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さらにこの後、完成した風呂場を「無可有殿」と名付け、横書きにした書も書きました。「無可有」は中国の古典「荘子」が出典で、「自然のままで何も作為がないこと。また、そのような状態や境地」といった意味です。いかにも光太郎が好みそうな言葉だと思います。
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画像はその際の書を木の板に写したものです。

古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん。2021年9月号に光雲の作品が紹介されていました。
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古美術研究家・加瀬礼二氏という方のご執筆で「高村光雲 聖徳太子像」。全4ページです。
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紹介されているのは、上野の東京国立博物館さん所蔵の聖徳太子像。大正元年(1912)、鋳銅の作品です。

前年に制作された木彫の原型は、同じく上野の東京藝術大学大学美術館さんの所蔵。ここから型を取って、鋳金家の安部胤齋により61体が鋳造され、光雲の帝室技芸員任命記念として配付されたそうです。

木彫原型については、光雲の談話筆記「聖徳太子御像に就いて」(大正10年=1921、雑誌『建築図案工芸』第七巻第五号所収)に、次の一節があります。

 聖徳太子の御像の話としては、いま国華倶楽部の本尊たる太子像に就いて物語るのが一番に相応しい気がします、作家としての私にとつては。
 明治四十一二年頃に国華倶楽部でとまれ一つの本尊を建立する議案が出て、それが聖徳太子御像と定められたのでしたが、自分が彫刻家であり、また倶楽部の理事でもある関係上、総べてに出しやばるやう想はれてもと思ひまして、種々と差控へてをりましたら、また他に適当な木彫家の方を推してもおきましたが、どうしても遣らねばならぬやうな羽目になりましたので、断然製作する決心をしたのでした、丁度その時は六十一歳に相当しましたので、その御礼にもと想ひまして、太子様の御像を一つ建立する事に依つて、せめても今日まで報恩の一部だに尽すことが出来たならと思ひまして、その紀念に歓びを献ずる意りで寄附する事を約しまして、六十歳の時に懸りまして六十一歳で製作を了り自分の気持ちを献しました、それは聖霊殿の木像の形でした、

美術家の社交団体であった国華倶楽部の主催で、明治末から「聖徳太子祭」が行われていました。その際に太子像がなければ盛り上がりに欠ける、みたいな感じだったのでしょう。光雲に白羽の矢が立ち、みんなで拝むための太子像を作れ、ということになったようです。

そこで光雲、法隆寺聖霊殿所蔵の太子像を手本に、坐像を制作しました。おそらくこれが太子像をきちんと制作した最初なのではないかと思われます。この後、法隆寺や橘寺所蔵の他の太子像をモデルにしたり、新たな図案を取り入れたりしながら、光雲は複数の太子像を制作しました。昭和2年(1927)には、国華倶楽部の像とよく似た図題の「聖徳太子摂政像」を制作、法隆寺に納めています。

光雲の太子像諸作については、下記をご参照下さい。
京都大覚寺光雲作木彫。
京都・大阪レポート その1。「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展。
東北レポートその2(仙台編)。
第587回毎日オークション 絵画・版画・彫刻。
テレビ放映情報。

ところで、談話筆記「聖徳太子御像に就いて」。当会で会報的に刊行を続けている『光太郎資料』中の「光雲談話筆記集成」、次回発行分(10月5日予定)に載せるつもりで文字起こしをしているところでした。そこで『小さな蕾』さんにこの記事が出たので、驚いている次第です。

さて、『小さな蕾』さん9月号。実は最新号は10月号ですが、9月号もオンライン等で入手可能。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方五時過村長さん宅より子供等迎へにくる。一緒にゆく。晩餐に六七人集まる。酒肴。馬喰茸の煮つけをめづらしくくふ。小豆餅、クルミ餅。十時半辞去。サダミさんがアセチリン燈を持ちて小屋まで送つてくれる。


昭和23年(1948)9月29日の日記より 光太郎66歳

「村長さん」は高橋雅郎、光太郎が援助を惜しまなかった山口小学校近くに住まいがありました。お嬢さんの故・愛子さんは光太郎の語り部として永らく活動された方です。

「アセチリン燈」。通常、「アセチレン」と表記しますが、炭化カルシウム(カルシウムカーバイド) と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるもの。昔は寺社の縁日の夜店などで見かけたものです。

『東京新聞』さんの記事から。

103歳 絵に託す希望 横浜の画家・井上寛子さん 北区の母校に新作寄贈「未完成な自分 高めたい」

002 ことし百三歳を迎える現役の女性画家がいる。横浜市に住む井上寛子(ひろこ)さん。新型コロナウイルス禍の世界の「希望」を描いた新作が先月、東京都北区中里にある母校の女子聖学院に寄贈された。井上さんは「これからも人として未完成な自分を少しでも高めていきたい」と話す。
 昇りゆく太陽が日食のように大きく欠け、小枝に止まる一羽の小鳥が向き合う−。作品は「朝陽はまた昇る」と題した油彩画だ。
 寛子さんは自宅二階にあるアトリエの窓に立ちながら「日光浴がてら太陽を肉眼で見ていたら、ぐらっと黒くなった瞬間があったの」と制作の動機を語る。
 「若い絵描きをはじめ、みんな苦しんでいるでしょ。先が見えないけど、希望は持ちたいと思ってね」
 小鳥は小さな人間、緑の葉っぱは生命の源のシンボルという。この新作を世田谷区内のギャラリーで四月に開いた個展「満103歳の挑戦」に出品すると、思わぬ展開をたどる。
 寛子さんは一九一八(大正七)年十二月生まれ。北区西ケ原で育ち、文京区本駒込にあった理化学研究所のマネジャーだった父の勧めで女子聖学院に入学。〇五(明治三十八)年に創立されたプロテスタント系の女子中高一貫校だ。
 病院で見た西欧の中世画に絵心を抱き、高卒後は女性では珍しい画家の道へ。印象派を学び、四一年、文部省美術展に初入選。四三年、彫刻家で詩人の高村光太郎を本郷の私邸に訪ねると、「日本の藍の色を研究したら」と励まされた。
 同年、彫刻家の井上信道氏と結婚。四五年五月の横浜大空襲で夫は大やけどを負い、疎開先の伊豆・湯ケ島で長女の静子さんを出産し終戦を迎えた。いまも米軍機の焼夷(しょうい)弾の痕跡が残る木造住宅で現代アート作家の静子さん夫婦と暮らす。
 寛子さんは二〇一九年、母校の同窓会報「翠耀(すいよう)」に寄稿した。それが縁となり母親が同窓生だった鈴木貴子さん(54)が個展での新作に感動し、亡き母の遺志として寄贈を申し出た。
 寄贈の集いは七月二十日。寛子さんは卒業から八十六年ぶりに母校を訪れ、山口博校長や翠耀会の大塚明子会長らが出迎えた。
 鈴木さんは「コロナ禍で学校生活もままならない。そんな生徒の心に寄り添い、明るい未来へのメッセージを感じます」と作品を紹介。寛子さんは「再び誰もが立ち上がることのできる広々とした明るい前途があることでしょう」と掲額へのお礼を述べた。
 実は、太陽の黒は高村光太郎が助言した「藍」の到達点とも言える。十七世紀のオランダの巨匠レンブラントの「無限の黒(闇)」を意識し、藍に近い多くの暗い色を重ねて、あの重厚な漆黒を創作したのだ。
 再び自宅アトリエ。寛子さんに次回作を尋ねると、照れ隠しか文字にしたためた。「存在するものをかきます」。古代ギリシャの哲学者アリストテレスを口にして、百四歳を見据える。
 さらにいまの心境を伺うと「倖(しあわ)せに気づきました」。戦火の時代を生き抜いたつらい日々の記憶は年を重ねて鮮明になるらしい。平和のありがたさに感謝して一日一日を生きる。
◆井上さんの1日 しっかり食べ 家事・体操も
   「朝陽は〜」を制作中の2月24日の「103歳の1日」の記録によると−。
 5時半、起床。朝焼けを眺めキャンバスに向かう。8時、朝食は牛乳を泡立てたカプチーノ、野菜と001果物のスムージー、パン、ハム、チーズ。同40分、キャンバスへ。10時15分、仮眠。正午、昼食はダッチオーブンで焼いたサツマイモ。13時、絵を描く。14時半、横浜駅地下街の画材屋にバスで出かける。アサリのつくだ煮と煮豆を買う。15時半、帰宅。煮豆を食べる。
 16時、夏ミカンのマーマレードを煮込む。18時、夕食はごはん、ブイヤベース、豪州産牛肉。肉が大好き。19時、テレビニュースを見る。20時、就寝。
 毎日、娘夫婦と一緒に食事し、掃除や洗濯の家事をこなす。制作に集中するときは5時間近く描く。天野式リトミック体操を行う。
 静子さんは「絵に向かわないときも常に何かやっている。耳は遠いが自立して行動しています」と話す。

井上さん、平成27年(2015)、97歳の折に開いた個展の報道(『朝日新聞』さん神奈川版)でも、光太郎とのご縁が紹介されており、「ああ、あの井上さんか。まだお元気だったんだ」と、嬉しくなりました。

まだまだお元気で、画業に邁進されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

午后雑用、畑少々、 「噴霧的な夢」といふ一枚ばかりの詩を書く。「女性線」へ送るつもり。

昭和23年(1948)9月21日の日記より 光太郎66歳

「噴霧的な夢」は、前年に発表された連作詩「暗愚小伝」以来、久しぶりに智恵子を謳った詩です。「女性線」は、その掲載紙。

現代では「荒唐無稽」「恣意的」と退けられている「精神分析」の分野の人々が、喜びいさんで勝手な解釈を加えたがった作品でした(笑)。

  噴霧的な夢

 あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
 ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
 夢といふものは香料のやうに微粒的で
 智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
 ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
 ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。
 その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
 お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
 お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
 智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
 ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
 智恵子はほのぼのと美しく清浄で
 しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
 あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
 私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
 そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
 昨日までの私の全存在の異和感が消えて
 午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。
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オンラインでの朗読。ただし、オンラインと言っても、インターネット系ではなく、電話で、だそうです。

でんわde名作劇場(2021年9月)

期 日 : 2021年9月3日(金)~9月6日(月)
時 間 : ①11:00、②13:00、③15:00、④17:00
料 金 : 一般:1,500円、SPACの会 会員:1,200円

SPAC俳優と生電話!昨年実施し、ご好評いただいた本企画を期間限定で開催します。ご自宅にいながら電話で、SPAC俳優のライブ朗読をお楽しみいただけます。
日時・俳優・演目をお選びいただき、実施日の前日までにお申込みください。SPAC俳優からお客様のお電話番号におかけして、朗読をいたします。朗読と合わせて40分以内なら、なにげない雑談もOK!

ご希望の日時・俳優・演目を実施日の前日までにチケットセンターへご予約ください。
SPACチケットセンター:054-202-3399(受付時間 10:00~18:00)

出演俳優☆赤松直美、池田真紀子、たきいみき(※受付終了)、本多麻紀
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赤松直美
 ◉小川未明 作
 『海のかなた』(約30分) 『眠い町』(約20分) 007
 『月夜とめがね』(約20分) 『びんの中の世界』(約20分)
 
『黒い塔』(約20分) 黒い人と赤いそり』(約15分)
 『野ばら』(約15分) 『とうげの茶屋』(約25分)
 
『赤い蝋燭と人魚』(約40分) 『小さい針の音』(約20分)
 
金の輪』(約10分)※時間内であれば、短編2本の組合わせもOK!
 ◉宮沢賢治 作『どんぐりと山猫』(約30分)
 ◉有島武郎 作『一房のぶどう』(約30分)008

池田真紀子
 ◉武石園子 作『ねこのゆめ』(12分)
 ◉芥川龍之介 作『魔術』(20分)
 ◉横光利一 作『蠅』(12分)
 ◉萩原朔太郎 作『青猫』より数編(6分)
 ◉高村光太郎 作『智恵子抄』より数編(5~15分)
 ※時間内であれば、複数作品でもOK!009

たきいみき(受け付け終了)
 ◉三好十郎 作『殺意~ストリップショー』
 ◉谷崎潤一郎 作『盲目物語』
 ◉泉鏡花 作『伯爵の釵(かんざし)』

本多麻紀
 ◉岡本綺堂 作『怪談一夜草紙』010
 ◉寺田寅彦 作『茶わんの湯』
 ◉小川未明 作『月夜とめがね』
 ◉佐藤春夫 作『あじさい』
 ◉フィオナ・マクラウド 作(松村みね子 訳)『女王スカァの笑い』

SPAC」というのは、静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performing Arts Center)の略だそうです。舞台芸術を創造・上演するための専門家集団を擁し、静岡芸術劇場などを拠点にした演劇等の公演の他、海外を含め、各地に出張公演も行っているとのこと。

そちらを拠点とする「劇団SPAC」さんが、今回の主宰です。同団、平成27年(2015)には「『智恵子抄』リーディング」という企画、それから一昨年には「SPAC出張劇場『星の時間 〜高村光太郎「智恵子抄」より〜』」という公演もなさって下さっています。

当節、オンラインが流行りですが、電話を使う、というのもある意味、斬新ですね。考えてみれば、携帯電話等が普及した現代だからこそ、逆にありなのかな、という気がします。

ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

浅沼校長が居たので、包んで置いた5,000円包を(村立山口小学校宛、幻灯機のため)として寄附、お手渡しする。


昭和23年(1948)9月19日の日記より 光太郎66歳

折に触れ、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった山口小学校へ、いろいろと援助をしていた光太郎。この時は、幻灯機の購入資金でした。

「幻灯機」といって、今の若い皆さんに通じるかどうか(笑)。そういえば、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、当方手持ちのプロジェクタを「幻灯機」とおっしゃっていたのを懐かしく思い出しました。

001当会顧問であらせられた、故・北川太一先生が、かつて都立高校教諭をなさっていた頃に教え子だった皆さんの会・北斗会さんの会長を永らく務められた、都内ご在住の小川義夫さんが亡くなりました。

小川さん、新潟の旧山古志村のご出身。北川先生の一回り下の丑年とおっしゃっていましたので、今年、誕生日を迎えられていたとすれば満84歳ということになります。

北斗会さんとして、北川先生の御著書や、北川先生を顕彰する書籍の編集、刊行の中心にいらっしゃり、当方も大変お世話になりました。右画像は、北斗会さん編集の『北川太一とその仲間達』(平成23年=2011)。小川さんもご執筆なさり、さらに小川さんも御出席された北川先生を囲んでの座談会の様子も収録されています。

毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌の集い(昨年・今年はコロナ禍のため中止)、そして8月には、女川光太郎祭(こちらも昨年・今年はコロナ禍のため中止)にもよく参加されていました。
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こちらは東日本大震災の翌年(平成24年=2012)、当時まだ遺されていた、女川港近くの横倒しになったビルを御覧になっている北川先生ご夫妻、そして右は小川さんの後ろ姿です。

また、1月には北川先生ご夫妻を囲む新年会を企画され、当方も参加させていただいておりました。こちらは平成28年(2016)の新年会、開会の挨拶をされている小川さんです。
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さらに、昨年1月の、北川先生ご葬儀では、葬儀委員長を務められたりもなさいました。その折が、当方、小川さんにお会いした最後となってしまいました……。

さて、小川さん。ご本業は、印刷会社の社長さんでしたが、演歌歌手としても活動されていました。70歳を過ぎてから、心臓病の予後のリハビリのためお医者様の勧めでカラオケに取り組み、大会などに出場するうちに、あれよあれよという間にプロデビューとなったそうです。
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BS放送の歌謡番組にもご出演され、当方、「ぶっちゃけ、ギャラとかって、どんなもんなんですか?」などと失礼ながらお訊きしたところ、「いや、こっちがプロモーションさせて貰う立場なので、逆にこっちから「出演料」を払うんだよ。いわゆる大御所でもそうなんだ」などと教えていただきました。そんなことも、今となっては懐かしい思い出です……。
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今頃は、空の上で、北川先生と久闊を叙されているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

食事中、東京角川書店主角川源義氏来訪。小山書店の高村昭氏と知合の由。濃茶、チーズ等もらふ。いろいろの談話。出版会の消息等もきく。


昭和23年(1948)9月7日の日記より 光太郎66歳

角川源義は昭和20年(1945)創業の角川書店の創業者。後発の出版社のため、岩波書店や新潮社などに追いつき追い越せ、と、随分努力をしました。源義自ら太田村の光太郎の小屋を訪れること、少なくとも3度。光太郎帰京後も、中野のアトリエに通っていました。その意気やよし、ということで、光太郎は角川文庫や『昭和文学全集』に作品を提供します。

002保守系のオピニオン誌『月刊日本』さん2021年9月号。「さよならだけが人生だ」という、いわゆる偉人的な人々の簡略な評伝である連載があり、今号は光太郎が取り上げられています。

当初、WEBの検索に引っかかった際、「さよならだけが人生だ 高村光太郎」とのみあって、「はてな?」と思いました。「さよならだけが人生だ」は、井伏鱒二が漢詩の翻訳に当て、その後、広く一般に使われるようになったフレーズだからです。実際に購入してみて、疑問は氷解。連載の題名でした。

2ページの短い評伝ですが、押さえるべきところはきちんと押さえられています。文末に(南丘)とクレジットがあり、同誌の奥付に「発行人」としてお名前が掲載されている、南丘喜八郎という方によるご執筆のようです。

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保守系の雑誌らしく、「大東亜戦争」の語が使われています。しかし、全体としては、光太郎が翼賛活動に走ったことを、肯定もせず非難もせず、紹介しています。ただ、どちらかというと、「やらかした」的な紹介の仕方になっています。

『智恵子抄』で「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」と詠んだ詩人が、大東亜戦争開戦と同時に、強烈な「愛国者」に変身した。何故か?

その命題に対しては、

光太郎は心の空白を埋めるかのように戦争賛美の詩を書き始めたのだ。

としています。

ことはそう単純ではなく、様々な要因が絡み合って、光太郎の「転身」があったのですが、2ページの短い評伝では、当時の複雑な光太郎の精神史を詳述する紙幅がなかったと解釈したいところです。

そして、戦後の花巻郊外旧太田村での生活を「隠遁生活」とし、光太郎の次の言葉を引用されています。

私は戦時中戦争に協力しました。戦争に協力した人は追放になっています。私には追放の指令が来ませんが、自分自ら追放、その考えでこう引込んでいるのです

そして、光太郎を「真摯な『求道者』」として下さっています。

太田村での7年間を、「反省などしていなかった」ととらえる人がいるようです。ところが、光太郎は自らの来し方を「暗愚」と位置づけ、繰り返し自らの過ちを詩文に書き記し、肉声でも語っています。その真摯な吐露を信用できないとするのでしょうか。

確かに、徹底的な反省をしたのであれば、『麦と兵隊』などで戦時中にもてはやされた火野葦平のように、自裁するのが本当かも知れません(まぁ、火野が自ら命を絶ったのも、そう単純な話ではないのでしょうが)。「暗愚」という自己評価も、「甘い」「言い訳がましい」とする向きもあるようです。

しかし、光太郎が自らの戦争責任に、真摯に向き合おうとした、その姿勢そのものは、決して否定されるべきものではないと思います。

ちなみに、この件に関して議論するつもりはありませんので、頓珍漢なコメント等はお断りいたします。

ところで『月刊日本』さん。保守系の雑誌でありながら、現政権批判的な論調の記事が多いのが意外でした。「東京五輪が深めた「国民の分断」」、「権力者による、権力者のための東京五輪」、「安倍前首相「不起訴不当」議決の意味」、「菅なきあとの日本」、「「まさか」の菅退陣政局」など(逆に、これぞネトウヨ、というような、まるでカルト宗教の如き論、尻に火が付いているのに余裕こいている某老害者の寄稿なども載っていますが(笑))。まぁ、「保守」=「自民党支持」というわけではないと、そういうことなのでしょう。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮沢さんから送られた風呂桶の組み立てぬもの既に学校に届き居る事を知る。校長先生がその係りにて余に風呂場をつくつてくれるといふ村人の好意をきく。

昭和23年(1948)9月2日の日記より 光太郎66歳

この風呂桶は現存し、平成29年(2017)、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。
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ただ、薪を大量に燃やさなければならず、結局、あまり使われることはなったそうです。

001アート系雑誌の『美術の窓』さん、今月号。巻頭特集が「コロナ禍でもやっぱりアートが好き」ということで、昨年から続く、各種展覧会などの中止等やさまざまな問題を取り上げて、横尾忠則さんら作家さんやキュレーターの方々へのインタビュー、コロナ禍と美術界の動向についてまとめた年表などで構成されています。

ちなみに表紙がなぜ「モナ・リザ」なのかというと、横尾さんの作品であるということと、ダ・ヴィンチが生きた時代は欧州でペストが猛威を振るい、ダ・ヴィンチが「感染症流行の原因は都市環境にあり」と、理想の都市環境アイディアを作成したりしたことにちなみます。

その特集の中で、コロナとは直接関わりませんが、今年1月に亡くなった、彫刻家の橋本堅太郎氏の追悼記事的なものも4ページ。ご執筆は、当方もいろいろお世話になっている、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏でした。また近くなりましたら詳細を御紹介しますが、同館では9月17日(金)から「橋本堅太郎展―無分別」を開催予定とのことで、その「番宣」ならぬ「展宣」を兼ねています。
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氏の遺作にして、今年3月、JR東北本線安達駅前に除幕された智恵子像「今 ここから」が大きく取り上げられています。
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藤井氏曰く、

故郷の安達太良山の方角に蝶のように重ねた両手を向けて立つこの像は、絶望の状況下にも希望を失わず、52年の生涯を生き抜いた智恵子のイメージが投影されている。そこには、東日本大震災で大きな被害を受けた故郷に対する橋本の強い思いが込められているが、同時に彼も想像しえなかった、今日の状況を生きる全ての者に対する強いメッセージにもなっているのではないだろうか。

なるほど。

ちなみに、関東地方限定と思われますが、8月29日(日)の午後、地上波テレビ東京さんの「開運!なんでも鑑定団」再放送で、橋本氏の作品が出品されます。

開運!なんでも鑑定団【アノ有名女優が巨匠の彫刻に!?&お宝探し旅で超絶値】

テレビ東京 2021年8月29日(日) 12:5414:00

本人登場…アノ<有名女優>が20代で<巨匠彫刻家>のモデル!?衝撃鑑定額■特別企画<今田&福澤のお宝探し旅>…超絶値お宝が続出■超貴重<宇宙秘宝>に驚き値

知人から「会社を畳むのでもらってほしい」と頼まれた木彫りの裸婦像。あまりの美しさにひと目で気に入り、タダでもらうのも心苦しく100万円で購入した。実は、ある有名女優が若手時代にモデルを務めた作品だというのだが、似ているような似てないような…。スタジオにはまさかの女優本人登場でお宝とご対面。鑑定結果に一同驚愕!

出演者
【MC】今田耕司、福澤朗
【ゲスト】加藤綾菜
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】今田&福澤の北海道小樽・お宝見つけ隊!
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

本放送は、4月20日(火)に放映された回です。その後、系列のBSテレ東さんでは、7月15日(木)に放映がありました。

「アノ有名女優」は、高畑淳子さん。無名時代にアルバイト的にモデルを務められたそうで、ご本人もご出演。
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ついでというと何ですが、もう1件、やはり二本松系テレビ番組の再放送を御紹介します。

土曜劇場 おかしな刑事〜居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査 「東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」

BS朝日 8月28日(土) 21:00〜22:54

テレビ朝日系列で2011年に放送された第8シリーズ。ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…。

出演者
伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 (他)

智恵子の故郷・二本松が事件に関わる舞台の一つという設定で、智恵子生家や安達太良山でロケが行われました。
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それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

山口山はまだ緑濃けれど田面は一面に黄いろ。山口山うつくし。


昭和23年(1948)9月18日の日記より 光太郎66歳

「山口山」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の裏山。小屋から見える田は黄色く色づいて、美しい風景が広がっていました。

当方自宅兼事務所のある千葉県北東部は、早場米の産地ですので、もう稲刈りが始まっていますし、まだの田も黄色く色づいています。岩手とは1ヵ月以上ずれているかな、という感じです。
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まず先月の話ですが、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』7月15日号。「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」という連載で、光太郎の書が取り上げられました。
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常設展示資料『非常の時』の書 医療への尽力を讃(たた)えた詩

 彫刻家で詩人の高村光太郎。昭和20(1945)年の東京大空襲により、生前から親交のあった宮沢賢治の実家を頼り花巻に疎開しましたが、同年8月10日の花巻空襲で再び焼き出されます。
 同年8月15日、終戦の玉音放送を聞いた光太郎は『一億の号泣』という詩を発表。同年9月5日に花巻病院(現・総合花巻病院)職員および付属看護婦学校生徒の花巻空襲救護活動に対する表彰式では、『非常の時』を祝辞に代えて次のように朗読しました。

非常の時 人安きをすてて人を救ふは難いかな
非常の時 人危きを冒して人を護るは貴いかな
非常の時 身の安きと危きと両つながら忘じて
ただ為すべきを為すは美しいかな007
(中略)
この時従容として血と肉と骨とを運び
この時自若として病める者を護るは
神にあらざるわれらが隣人
場を守つて動ぜざる職員の諸士なり
神にあらずして神に近きは
職責人をしておのれを忘れしむるなり
われこれをきいて襟を正し
人間時に清く
弱きもの亦時に限りなく
強きを思ひ
うちにかくれたるものの高きを
凝然としてただ仰ぎ見るなり

 困難な医療への尽力を讃える内容は、現在の新型コロナウイルス感染症に取り組む医療関係者へも時代を超えて送られたメッセージであるともいえるでしょう。

問い合わせ 高村光太郎記念館 ☎28-3012

花巻高村光太郎記念館さん所蔵で、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった花巻の医療関係者を讃え、その表彰式で贈られた詩「非常の時」の書を紹介して下さっています。

昨年、地方紙『岩手日報』さんが「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」という記事を載せて下さいました。その前後、あちら方面では「非常の時」が「コロナ禍と闘う医療従事者の姿に重なる」と話題になり、各種メディアで取り上げられました。


コロナ禍の方は、ここへ来て感染爆発の様相を呈してきました。そこに立ち向かう「神にあらざる」医療従事者の皆さんの奮闘ぶりには、まさに頭が下がります。

もう少しの辛抱だ、と、願いたいものです。

もう1件。

北海道で開催されていた書展「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。――ここから」。『毎日新聞』さんの全国版文化面、書道コーナーで8月12日に、他の書道展と共に紹介されました。

書の世界

 「第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。―ここから」(15日まで、北海道深川市アートホール東洲館)は、創作へのやみがたい衝動が放射する構成。土井さんは81年、同浦臼町生まれ。辻井さんに師事。私立北海高校勤務。毎日書道展会員。
 「正直な涎を持った……」(高村光太郎)▽「悪口ひとつも……」(中島みゆき)▽「悪口ってやつはな……」(倉本聰)など、さまざまな出典や書体、文字数の作品から広大な書の世界に挑む書人の決意が伝わる。

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光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の一節を書かれた書がサムネイルに。

今年は丑年と云うことで、この詩も多方面で注目されました。

「良い年願い「丑」揮毫 札南高生、28日からオンライン配信」。
牛はのろのろと歩く 『中日新聞』・『神戸新聞』。
さまざまな場面で「牛」。
「冬の言葉」/「冬」/「牛」。


長大な詩ですが、「牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く」、「牛は力一ぱいに地面を頼って行く/自分を載せている自然の力を信じきって行く/ひと足、ひと足、牛は自分の力を味わって行く」といった内容です。

コロナ対応も、牛のように、たとえのろくとも一歩一歩確実に、進んで行ってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

夜中秋名月。月さえ渡る。夜半に一度曇りて村雨がふる。


昭和23年(1948)9月17日の日記より 光太郎66歳

中秋(仲秋)の名月は、旧暦8月15日。旧暦と新暦は年によって1ヵ月から1ヵ月半くらいズレが生じますが、この年はこの日だったのですね。ちなみに今年は9月21日(火)だそうです。

さらにちなみに、最愛の妻・智恵子が亡くなった昭和13年(1938)は、智恵子の葬儀が行われた10月8日だったとのことで、その日の様子を謳った詩「荒涼たる帰宅」は、「私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。/外は名月といふ月夜らしい。」と結ばれます。

一昨日・8月20日(金)は、光太郎詩集『智恵子抄』が刊行されて80年の節目でした。
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その関係で、智恵子の故郷・福島二本松で、智恵子顕彰活動に当たられている「智恵子のまち夢くらぶ」さんが、様々なイベントを計画していましたが、やはりコロナ禍収束せずということで、そのうちの2つを中止するという連絡が届きました。

中止となったのは、10月に予定されていた「「智恵子抄」安達太良キャンプ」、11月の「第2回全国「智恵子抄」朗読大会」。このうち、前者では、当方、パネルディスカッションのパネラーをを頼まれておりました。
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残念ですが、致し方ありますまい。

同時に企画されていた、「「智恵子抄」総選挙」については、予定通り実施するとのことでした。

その辺にもからめた記事が、8月17日(火)の地方紙『福島民友』さんに大きく出まして、そのコピーも同封されていました。WEB上にアップされていない記事でしたので、存じませんでした。

美求める同志 生きた証し 高村光太郎「智恵子抄」 読み継がれ80年

 詩人、彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」が出版され、20日で80年になる。詩集の主題となった妻智恵子の地元二本松市では、詩集から「推し」作品を募るなど記念事業が進行中だ。時の試練を経て今もなお人々を魅了する詩集は、現代に何を語りかけるのか。節目にひもといてみたい。
 「智恵子抄」は1941(昭和16)年8月20日、龍星閣から出版された。智恵子が精神を病んだ末に亡くなったのは38年10月5日。光太郎は当初刊行に乗り気ではなかったが、版元の澤田伊四郎が説得。光太郎自ら智恵子との恋や生活、病と死、その後も募る思いを歌った詩を抄出し配列、構成したとされる。
 「二人が知り合ってからの全生涯を貫く、これは稀有(けう)な愛の詩集である」。光太郎と親交のあった詩人草野心平が新潮文庫版(56年)に寄せた一文だ。妻をいちずに切々と歌い上げた詩集は夫婦の「純愛」というイメージで語られ、映画やドラマの題材、結婚祝いの品となるなど広く親しまれた。

「純愛」に異議
 一方、この詩集を手放しに“美しき相聞歌”とする理解には、光太郎の資質だけでなく、性の問題や二人が生きた近代という時代など、さまざまな観点から異議が唱えられた。評論家の吉本隆明は光太郎による智恵子の美化、無機質化を指摘。肝心の「愛」に至っては「高村の一人角力(ずもう)」と辛口だ(「高村光太郎」)。
 文学批評の中でも、特に70年代ごろから盛んになったフェミニズム批評は女性を巡る表現や歴史的状況に着目。詩集の解釈に新たな側面を切り開いた。封建的価値観が息づく一方、自我の目覚めを促した近代。当時の女性教育の最高学府・日本女子大を卒業、画家を志した智恵子は時代の最先端を行く「新しい女」と目された。女性解放運動の先駆けとなる雑誌「青鞜(せいとう)」創刊号の表紙絵を手掛けたことでも知られる。
 論者は、光太郎という強烈な個性との出会い、芸術に懸ける生活と現実の隔たり、実家の没落、既成の抑圧的な男女関係の構造など、智恵子がその精神を破綻させる道筋を跡付けた。「光太郎は、その痛ましい智恵子の悲劇から眼(め)をそらさず、真正面から受けとめた。『智恵子抄』はその証し」とする理解(駒尺喜美「高村光太郎のフェミニズム」)はそうした成果の一つだ。
 加えて、智恵子を「無垢(むく)の象徴」とし「男女の性愛を崇高な愛の型に変える思想操作」を読み取る解釈(水田宗子「ヒロインからヒーローへ」)、詩集を理想化「精霊化」された智恵子の「殉教」の書とする刺激的な論も出された(黒沢亜里子「逆行の智恵子抄」)。

「破綻は運命」
 記念事業に取り組む「智恵子のまち夢くらぶ」代表の熊谷健一さん(70)が詩集と出合ったのは高校1年の時。「偽らざる第一印象」は「こんな純粋な愛が世の中にあるはずがない」。「作品が美しすぎて信じられなかった。反抗期だったのかな」と笑う。88年の智恵子没後50年事業に携わったのを機に再び詩集と向き合い、いまやライフワークとなった。
 熊谷さんは、光太郎と智恵子の関係を「男女というより同志。互いに美を求めた求道者」と捉える。「二人は理想を現実の修羅場で実現しようとした。生活は目的ではなく手段で、破綻は運命」と熊谷さん。それでも「授かった命を燃焼させ、矛盾や葛藤の中、懸命に生き抜く人間の姿を詩集は示している」と語る。
 光太郎は「智恵子抄その後」のあとがきに「『智恵子抄』は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた」と記した。摩擦に生きる苦しみか、同志を亡くした喪失感か。その意味を光太郎は書いていない。だが、光太郎が人々の心をつかむ詩を残し、病床の智恵子は美しい紙絵を残した。二人が芸術に命を燃やしたのは確かだ。

一番好きな作品「総選挙」 二本松で記念事業
 「智恵子のまち夢くらぶ」は「智恵子抄」出版80年記念事業として、龍星閣出版の「智恵子抄」「智恵子抄その後」収載の36作品から「心に響く一番好きな作品」を投票してもらう「総選挙」を実施中だ。
 投票方法は、はがきに作品名と選んだ理由(100字以内)、住所、氏名、年齢、電話番号を記し、智恵子記念館(郵便番号969-1404、二本松市油井字漆原36)へ郵送する。締め切りは10月31日。二本松市市民交流センターにある専用投票用紙、投票箱でも受け付けている。
 開票結果の発表は、11月21日開催予定の大2回全国「智恵子抄」朗読大会の席上で行う。投票者の中から抽選で80人に記念品を贈る。問い合わせは代表の熊谷健一さん(電話090・7075・6742)へ。


「総選挙」、まだ応募が少ないとのことでした。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜銀河明瞭に見えはじめたり。夜明けは冷える。蚊帳の中にて毛布を重ねる。

昭和23年(1948)8月31日の日記より 光太郎66歳

「銀河」は天の川でしょう。「光害」などとは無縁だった、花巻郊外旧太田村の初秋の夜、美しく見えたはずです。

テレビ放映情報です。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2021年8月23日(月)  17:58〜18:54

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「東京のバスガール」初代コロムビア・ローズ&二代目コロムビア・ローズ
「ガード下の靴みがき」大石まどか
「アルペン・ミルクマン(山の人気者)」関大八
「巴里の空の下 セーヌは流れる」かいやま由起
「枯葉」美川憲一040
「個人授業」晃(フィンガー5)
「可愛い真珠」西崎緑
「黒ネコのタンゴ」皆川おさむ
「おんなの出船」松原のぶえ
「男の港」鳥羽一郎
「女の港」大月みやこ
「舟唄」八代亜紀

<司会>合田道人/伍代夏子

昨年亡くなった、二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(丘灯至夫作詞 戸塚三博作曲)がラインナップに入っています。

不定期に放映されている番組のようで、過去の日本歌手協会歌謡祭のアーカイブ映像を再編集したものです。

今年1月の放映は、昨年亡くなった歌手の皆さんのそれを特集したもので、やはり二代目ローズさんの映像が使われました。
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ローズさんの映像は、昭和57年(1982)の第5回歌謡祭から。
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再びこの回の映像が使われるのか、他の年のものなのか、不明ですが。

ちなみに、8月27日(金)放映分では、今月14日に亡くなったジェリー藤尾さんの歌唱映像が流れるそうです。ジェリーさん、一昨年には『智恵子抄』もモチーフとして使われたドラマ「やすらぎの刻~道 テレビ朝日開局60周年」にご出演されていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

テレビ放映ということで、もう1件、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」。来週には、今年6月に放映された、光太郎詩「道程」を扱った回が再放送される予定でしたが、高校野球の雨天順延が続き、無くなってしまいました。残念です。

【折々のことば・光太郎】

朝食後ハガキ書、及(花巻新報)といふ文字を揮毫。


昭和23年(1948)8月25日の日記より 光太郎66歳

『花巻新報』は、『岩手自由新聞』『岩手大衆新聞』『読む岩手』を統合して誕生した地方紙ですが、戦前にあった『花巻新報』の名を踏襲しました。

その題字の揮毫を光太郎が依頼されたというわけです。光太郎筆の題字、昭和35年(1960)の終刊号まで使われました。

創刊号(復刊号)のコラム「伯楽茸」でこの題字に言及されています。

◆本紙の題字は高村光太郎先生の筆だが、先生は本職の木彫のほか詩文、書画にも最高境地を示す日本文化界のえがたい宝だ◆稗貫郡太田村山口部落の山中に農民の飾りない敬いと親しみをうけて手作りの小家で天地草鳥を見つめ世界の大勢を案じている姿には大芸術誕生の脈動を感ずる◆所が世間はガサツなもので「私は遠方の者ですが、今度この辺へ用字があつて来たので一寸ツイデに寄りました」ナドと、寸暇をおしんで芸術に精進する老先生の大切な時間をムダにさせる文化人があるなどは、同じ「文化人」でも原子爆弾と竹ヤリほどのちがい

「用字」は「用事」の誤植ですね。

同じ号には光太郎の「希望 親切な案内役を」という談話筆記も掲載されました。
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昨年から引き続き、コロナ禍による毎年恒例のイベント等の中止が相次いでいます。そうなると、こちらで勝手に「今年も中止だろう」と思い込んでいたものの、実は開催されていた、というケースもありまして、こちらがそうでした。

年に一度の、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、神田神保町の東京古書会館さんを会場に行われています。

昨年は中止だったのですが、今年は規模を縮小して開催されていました。下見展観が7月2日(金)・3日(土)、入札が4日(日)でした。
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終わってから気づき、目録を送付していただきました。届いてびっくり、例年の半分程の厚さで、それだけ出品点数が少なかったというのがそれだけで分かりました。光太郎に関しても、複数の出品がありましたが、特に目新しいものは無く、下見展観に行く必要はありませんで、その意味では助かりました。

一応、こんなものが出品されていたということで、御紹介します。

まず、詩集『道程』初版本(大正3年)。
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カバーは無く、背に少し痛みが見られます。入札最低価格が10万円。まぁ、妥当なところです。

あとは肉筆もの。出品番号順に紹介します。

昭和19年(1943)に書かれた、臼井喜之介詩集『望南記』の序文。少し前に東京都古書籍商業協同組合のサイト「日本の古本屋」に出ていたような気がします。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第8巻に所収されています。
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詩「突端に立つ」(昭和17年=1942)他四篇の詩稿。昭和19年(1944)に刊行された『歴程詩集2604』のための浄書稿で、他に「或る講演会で読んだ言葉」(同)、「朋あり遠方に之く」(昭和16年=1941)、「三十年」(昭和17年=1942)の四篇です。一昨年も出品されていました。
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光太郎の父・光雲の高弟だった加藤景雲宛の書簡(明治33年=1900)。こちらは現在も「日本の古本屋」に出品されています。

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最後に、これだけは「おっ」と思ったのですが、三重在住だった詩人・編集者(?)の東正巳にあてたハガキがごっそり21通。
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これも以前にまとめて売りに出た経緯があります。そこで、東宛の書簡は戦後の花巻郊外旧太田村時代のものが『高村光太郎全集』に29通掲載されていますし、『全集』完結後に発見し、当方編集の「光太郎遺珠」に載せたものが4通あります。画像から判別できるものは、ほぼすべてこれらに含まれていました。ただし、可能性は低いのですが、一枚一枚精査すれば、全集等に洩れているものも絶対にないとは言えない、という気もしました。

ちなみについ最近も、ネットオークションで東宛の光太郎葉書が1枚、出ていました。これも『全集』収録済みのものでしたが。

東は和歌山で『海原』という文芸同人誌的なものを主宰しており、光太郎は「早春の山の花」(昭和23年=1948)という散文を寄稿しました。他に、光太郎から東宛の書簡も誌面に何度も掲載されています。

そういう意味では既知のものではありますが、内容的には興味深い記述を含む書簡群です。旧太田村で蟄居生活を送っていた当時の光太郎は、きちんとした「作品」として彫刻を発表することはありませんでしたが、手すさびというか、腕を鈍らせないための鍛錬というか、そんな感じで小品を制作していたらしいことが、東宛の書簡群から垣間見えるのです。

東は光太郎に、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものを贈り、その礼が書かれていますし、光太郎は東に、標本というか、死骸というか、ともかくクマゼミを送ってくれるよう依頼し、東もそれに応えて送っています。そして光太郎、「これを彫るのが楽しみです」的なことを礼状に書いています。

残念ながら、そうして彫られた蝉は現存が確認できていませんが、詩人の竹内てるよや、地元ご在住で光太郎の山小屋によく行っていた浅沼隆氏は、山小屋で蝉を見た、という証言をされていますし、光太郎の短歌にも「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」(昭和21年=1946)というものがあり、あながちフィクションではなさそうです。

どこからか、戦後の蝉がぽろっと出て来ないものかと、期待してはいるのですが……。

【折々のことば・光太郎】

午后郁文集(写真アルバム)を熟覧。中々興味あり。文化人の顔面、概してせせこまし。写真といふものの美の限界をおもふ。


昭和23年(1948)8月24日の日記より 光太郎66歳

『郁文集』は、写真家の吉川富三が撮った各界有名人のポートレート集。正式な出版は昭和37年(1962)でしたが、この頃には原型が出来上がっていたらしく、吉川は光太郎に写真を撮らせてくれるようお願いしがてら、これを見本として送っていました。

光太郎の写真嫌いは比較的有名ですが、翌月には、山小屋を訪れた吉川の撮影に応じています。

若干、先の話ですが、コロナ禍による中止/延期、又は無観客開催などの発表があるやもしれませんので、その前に。

東京混声合唱団特別演奏会~田中信昭と共に~東混オールスターズ

期 日 : 2021年8月31日(火)
会 場 : 東京芸術劇場 東京都豊島区西池袋1-8-1
時 間 : 19:00 開演(開場18:00)
料 金 : 一般:4,500円 学生:1,500円

【プログラム】
パレストリーナ:『教皇マルチェルスのミサ』より「サンクトゥス」
西村朗:混声合唱とピアノのための組曲『レモン哀歌』より「レモン哀歌」
上田真樹:混声合唱とピアノのための組曲『夢の意味』より「夢の意味」「夢の名残」
野平一郎:混声合唱のための幻想編曲集『日本のうた』より「ずいずいずっころばし」
小山清茂:「誕生祭」
ブラームス:「祝祭と格言」
シェーファー:「ガムラン」「ミニワンカ」
ラフマニノフ:『晩禱』より 第2曲、第9曲
三善晃:混声合唱曲『小さな目』より

【指揮】:田中信昭 / 山田和樹 / キハラ良尚 / 松原千振 / 大谷研二 / 水戸博之
     山田茂 / 髙谷光信
【ピアノ】:中嶋香 / 萩原麻未
【合唱】: 東京混声合唱団

WEBサービス『カーテンコール』にて公演のLIVE配信を行います!
価格 1,500円(税込み) 購入・視聴はこちら 
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田中信昭氏は、指揮者にして東京混声合唱団の創設者。おん年93歳です。平成元年(1989)、赤坂草月ホールで開催された仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」初演の際、伴奏の10人編成アンサンブルの指揮をして下さったりもしました。

今回、田中氏の指揮で、西村朗氏作曲の「レモン哀歌」(平成21年=2009)がプログラムに入っています。この曲は、全3曲から成る「混声合唱とピアノのための組曲『レモン哀歌』」の最終曲。当方の把握しているところでは、全日本合唱連盟さん主催の「平成30年度(第71回)全日本合唱コンクール」の高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場なさった九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが、この曲を自由曲に選ばれていました。

そちらを御紹介した時には気づかなかったのですが、YouTube上に、この曲がアップされていました。ただ、あまりバランスのいい演奏ではありませんが、楽譜を見ながら曲の感じを掴むのにはいいのかな、という動画です。


「混声合唱とピアノのための組曲」ですから、ピアノは単なる伴奏ではなく、ウェイトがかなり大きいと、ここしばらくの流行ですね。ただ、上記の動画ではピアノが大きすぎて歌詞がよく聴き取れません。

東混さんのコンサートでは、絶妙のバランスでの演奏が聴けることと存じます。

ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、足をお運び下さい。また、WEBでのLIVE配信も用意されているとのことですので、ご活用下さい。

【折々のことば・光太郎】

二三日前の夜関上場の娘さん寒沢川にはまつて死んだ由、狐のわざといふ。


昭和23年(1948)8月17日の日記より 光太郎66歳

「関上場」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の地区名です。狐の件、光太郎は無論のこと信じなかったでしょうが、村人の中には、まことしやかにそう噂する人がいたようで、戦後になってもそうだったのだなぁと思いました。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第27号が届きました。

特集は「菊池捍邸誌上内覧会」。花巻で6月から7月にかけて行われた、「菊池捍生誕150周年記念 旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」のプレイバックです。
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当方、7月11日(日)に行って参りました。レポートはこちら

光太郎が訪れ、ピアノ演奏を聴いたという部屋。
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連載「光太郎レシピ」。光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされたものです。今号は「石垣だんご」と「くるみ味噌だれ」。
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美味しそうですね。

メニューを考え、調理を担当されている「やつかのもりLLC」さんが、やはりメニュー作成に関わられている「光太郎ランチ」。昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日だけの限定販売です。

今月販売分がこちら。
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これで税込み800円。奉仕価格ですね。

先月分を御紹介しませんでしたので、ついでに。
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じゃがバターピラフ、タカキビ入りパンケーキ杏ジャム添え、カツオの竜田揚げ、ミズの小女子煮、いんげんの胡麻和え、花豆の甘煮、塩麴入り卵焼き、キュウリの糠漬け、いなきび入りコーヒーカン、だそうで。

メニューを考えるのも一苦労ではないかと存じますが、こちらも末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日雨ふりしきる。むす。 終日何もせず。妙にねむ気あり、時々横になる。

昭和23年(1948)8月13日の日記より 光太郎66歳

そういう日もあったでしょうね(笑)。

書道関係のシンポジウム、オンラインでの開催です。

近代書壇の誕生―東アジア三地域の比較から―

期 日 : 2021年8月21日(土)
時 間 : 10時~16時30分 Zoomによるオンライン開催
料 金 : 無料
問 合 : 筑波大学芸術系 菅野智明研究室 TEL/FAX 029-853-2715

この度、近代東アジア書壇研究プロジェクト(代表者 菅野智明)では、下記の要領にて国際シンポジウム「近代書壇の誕生―東アジア三地域の比較から―」を開催いたします。
奮ってご参加ください。

書壇と称される書家たちのつながりは、それぞれの書家たちが結成・所属した種々の組織・団体を基盤とするところがあります。近代になると、書家たちは多岐にわたる組織・団体を活発に設立させますが、その動向は日本のみならず朝鮮や中国にも顕著で、地域によって独自色がうかがわれます。

このシンポジウムは、2018年に開催いたしましたシンポジウム「近代東アジアの書壇」の続弾として企画したもので、国立故宮博物院(台北市)の陳建志氏、国立中央博物館(ソウル市)の金昇翼氏の基調講演に加え、プロジェクトメンバー5名の研究発表と討議で構成いたしました。

今回は、前回のシンポジウムを踏まえつつ、近代に誕生した書壇そのものの研究に加え、それを生み出す背景にも留意しつつ、日本・朝鮮・中国の三地域における書壇形成のあり方を眺望しようと思います。

発表には日本語・韓国語・中国語それぞれの通訳があります。

プログラム:
研究発表 10時~12時
① 清末民初における書画社団の規約について 髙橋佑太(筑波大学准教授)
② 近代日本人書家の朝鮮書芸との邂逅 金貴粉(津田塾大学研究員)
③ 大阪市立美術館蔵「天発神讖碑」の一考察 下田章平(相模女子大学准教授)
④ 大字仮名表現における安東聖空と正筆会の役割 髙橋利郎(大東文化大学教授)
⑤ 中村不折と高村光太郎に見る六朝書道 矢野千載(盛岡大学教授)

基調講演 13時~15時
① 曾熙と向燊(1905-1929) 陳建志 氏(国立故宮博物院助理研究員)
② 韓国近代書画壇の形成と書画家たちの実相 金昇翼 氏(国立中央博物館学芸研究士)

討議 15時15分~16時30分
司会 菅野智明(筑波大学教授) 
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主催は筑波大学内の「近代東アジア書壇研究プロジェクト」さん。以前は同大の東京キャンパスにて、対面式での開催でした。

「中村不折と高村光太郎に見る六朝書道」を発表される盛岡大学の矢野氏は、ご自身も書家であらせられ、いつも達筆のお手紙を頂戴し、悪筆で鳴らす当方としては常に恐縮しております。

矢野氏、以前にも同会主催のシンポジウムで、光太郎書についての発表をなさいました。平成27年(2015)の国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」では「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」、平成30年(2018)にはシンポジウム「近代東アジアの書壇」で「高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―」。後者は、当方、拝聴に伺いました

今回は、「中村不折と高村光太郎に見る六朝書道」。矢野氏、今年4月、高村光太郎研究会発行の『高村光太郎研究』第42号に「高村光太郎と中村不折の書道観―明治・大正の六朝書道を中心として―」という論文を発表されており、興味深く拝読致しました。

「六朝書道」は、中国の六朝時代(3世紀~6世紀)の、主に石碑に彫られた楷書を範とするもので、日本では飛鳥時代に伝来し、一時、影響があった後、明治になって再び脚光を浴びた書体です。

日下部鳴鶴、巖谷一六らの書家がまずこの魅力に飛びつき、少し遅れて中村不折。不折は慶応2年(1866)、江戸に生まれた画家です。幼少期に維新の混乱を避けるため信州に移住、明治21年(1888)、23歳で再上京、小山正太郎の不同舎に入門します。後輩には光太郎の親友・荻原守衛がいました。その後、正岡子規と出会い、子規の紹介で新聞の挿絵を描いたり、子規と共に日清戦争に従軍し、森鷗外と知遇を得たりしています。ちなみに守衛や鷗外の墓碑銘、守衛のパトロンだった新宿中村屋さんのロゴなども、不折の書(やはり六朝風)です。

その後、島崎藤村『若菜集』、夏目漱石『吾輩は猫である』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀、挿画に腕を揮いました。前後してフランスに留学(明治34年=1901)、光太郎も学んだアカデミー・ジュリアンに通ったり、ロダンを訪問し署名入りのデッサンをもらったり、荻原守衛と行き来したりしています。帰国は同38年(1905)で、翌年から欧米留学に出る光太郎とはすれ違いでした。
 
帰国した年から太平洋画会会員、講師格となり、日本女子大学校を卒業して同40年(1907)頃に同会へ通い始めた智恵子の指導にも当たりました。その際、比較的有名なエピソードがあります。人体を描くのにエメラルドグリーンの絵の具を多用していた智恵子に、中村が「不健康色は慎むように」と言ったというのです。しかし智恵子は中村に反発するように、さらにエメラルドグリーンの量を増していったとのこと。ただ、当時のエメラルドグリーンは非常に毒性の強い成分が含まれ、そのために不折は智恵子を諫めたのではないかとする説もあります。

さて、光太郎。不折と直接の面識があったかどうか、当方は存じません。ただ、自身も書をたしなんだ光太郎、不折らの「六朝書」には眉を顰めていたようです。

世上では六朝書が大いに説かれ出して、私も井上霊山とかいふ人の六朝書に関する本を案内にして神田の古本屋で碑碣拓本の複製本を買つたりした。六朝書の主唱者中村不折や碧梧桐の書にはさつぱり感心せず、守田宝丹に類する俗字と思つてゐた。不折はあの千篇一律の字を看板や、書物の背や、幅や、雲盤や、屏風や、到るところに書き散らしたので、鼻についてうんざりした。
(「書についての漫談」昭和30年=1955)


井上霊山」は書家、「碧梧桐」は俳人の河東碧梧桐、「守田宝丹」は現在も続く薬舗・守田治兵衛商店の創業者にして書画もよくした人物(「宝丹」は主力商品の名にも用いられています)。

 漢魏六朝の碑碣の美はまことに深淵のように怖ろしく、又実にゆたかに意匠の妙を尽してゐる。しかし其は筆跡の忠実な翻刻といふよりも、筆と刀との合作と見るべきものがなかなか多く、当時の石工の技能はよほど進んでゐたものと見え、石工も亦立派な書家の一部であり、丁度日本の浮世絵に於ける木版師のやうな位置を持つてゐたものであらう。それゆゑ、古拓をただ徒に肉筆で模し、殊に其の欠磨のあとの感じまで、ぶるぶる書きに書くやうになつては却て俗臭堪へがたいものになる。今日所謂六朝風の書家の多くの書が看板字だけの気品しか持たないのは、もともと模すべからざるものを模し、毛筆の自性を殺してひたすら効果ばかりをねらふ態度の卑さから来るのである。さういふ書を書くものの書などを見ると、ばかばかしい程無神経な俗書であるのが常である。最も高雅なものから最も低俗なものが生れるのは、仏の側に生臭坊主がゐるのと同じ通理だ。かかる古碑碣の美はただ眼福として朝夕之に親しみ、書の淵源を探る途として之を究めるのがいいのである。
(「書について」昭和14年=1939)

古拓をただ徒に肉筆で模し、殊に其の欠磨のあとの感じまで、ぶるぶる書きに書く」というのが、矢野氏に拠れば、不折の書を指しているのではないかとのことでした。おそらく、今回の発表でもこうしたお話が、作例などと共に紹介されるのではないかと思われます。

ところで、今回のシンポジウム、「近くなったら紹介しよう」と思っておりましたところ、8月14日(土)が申し込み締め切りでした。申し訳ありません。ただ、どうしても、という方、上記の問い合わせ先までご連絡してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

伊藤昭氏又帰つて来て切符を紛失、学校に落ちてゐぬかと探し居るとの事。金持たぬ様子なので切符代300円持つていつてもらふ。


昭和23年(1948)8月5日の日記より 光太郎66歳

昨日のこの項でご紹介した、福島二本松で「智恵子の里レモン会」を立ち上げた故・伊藤昭氏。やっちまいました(笑)。安達駅から往復で買った乗車券の復路分を失くしたそうで、泊めて貰った山口小学校でも結局見つからず、光太郎に借金して帰ったそうです。福島に戻ってからすぐに為替を送って返済したとのこと。当方も気をつけようと思いました(笑)。

今年刊行され、このブログでご紹介した書籍の書評で、新聞各紙に載ったもののうち、光太郎、光雲の名を出して下さったものをご紹介します。

まず、手前味噌で恐縮ですが、『読売新聞』さんから。

[記者が選ぶ]7月25日 遺稿「デクノバウ」と「暗愚」・追悼/回想文集 北川太一著、小山弘明・監修、曽我貢誠・構成

001 昨年1月に死去した、高村光太郎研究の第一人者である著者の遺稿が中心の本。著者は、光太郎が宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」に遭遇してから、一連の詩「暗愚小伝」を生み出すに至るまでのエピソードを紹介した上で、前者について、「反語詩」として読むべきではないかという大胆な解釈を述べる。また、前者後者ともに対象は自身ではなく、人間そのものだったという見解も示す。
 70年にわたり、光太郎と賢治を詳細に調べてきた著者の思いが伝わる。著者ゆかりの人々の追悼、回想文も収められている。(文治堂書店、1650円)

当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』

『毎日新聞』さん及び系列の地方紙さんで、いち早く
書評を出して頂きましたが、『読売』さんでもご紹介下さいました。

続いて、『産経新聞』さん。筑摩書房さん刊行の『日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇』について。

『日本回帰と文化人 昭和戦前期の理想と悲劇』長山靖生著 「危険思想」に至る必然性

002 自国に愛着をもつのは当たり前のことではない。改正教育基本法に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とわざわざ書き込まれたのも、放っておいても涵養(かんよう)されるものではないからだ。この自国への愛着のもち方について、若い世代や学校教育に物足りなさを感じる読者も少なくないだろう。
 けれども、愛着のような穏やかで自足的な肯定感情は、豊かで平和な時代にのみ訪れる僥倖(ぎょうこう)なのかもしれない。本書を読むと、国がまだ貧しく欧米列強の脅威と人種差別に対峙(たいじ)していた明治から昭和戦前期にかけて、自国への想(おも)いはもっと複雑に屈折した「痛み」に近い感情に支えられていたことが分かる。
 封建遺制を切り捨てて西洋文化を貪欲に摂取することで近代化を実現した日本にとって、アイデンティティー不安は宿痾(しゅくあ)だった。その症状は、高等教育まで受けて輸入文物で教養を身に付けた文化人に深刻かつ多種多様な形であらわれる。日本回帰とは症候群の名称である。
 日本回帰は明治からさまざまに反復されてきたが、昭和期の戦時体制に棹(さお)さす役割を果たしたことから、思想的に危険な落とし穴とみなされるようになった。しかしそれを一方的に断罪するだけでは、近代日本の宿痾は放置されたままだ。著者は文化人の日本回帰を「私たちの問題」として引き受ける。
 日本浪曼(ろうまん)派の保田与重郎が体現した根源的な敗北の美学にも、新感覚派の横光利一や中河与一が時代との思想的格闘の末にたどり着いた日本主義にも、それぞれに「痛み」をともなう必然性があった。さらに北原白秋や萩原朔太郎、三好達治、高村光太郎らが戦争賛美の詩を量産したのも、共感力が異常に高い詩人が国民とともにあろうとした必然的な帰結なのだ。
 筆者は文学表現としての日本回帰を受け入れたうえで「政治的社会的判断を曇らせない賢明さ」を持つべきだという。この賢明さは政治指導者には不可欠だろう。昭和の戦争が経済的・軍事的な合理性を逸脱した文学的な戦争だったとしても、その責任は文学にはない。現代の政治も合理性のなさを文学表現で糊塗(こと)してはいないか。これもまた「私たちの問題」だ。(筑摩選書・1870円)

同紙に掲載されたにしては、それほど偏っていない論調です。光太郎の時代の「日本回帰」が「必然的な帰結」とするのを肯んずるには吝かではありませんが、「なのだ」ではなく「なのだった」であるべきですね。現代に於いての、歪んだ「日本回帰」を許してはいけないと思います。

さらに『東京新聞』さん。祥伝社さん刊行の小説『博覧男爵』が扱われていました。

博覧男爵 志川節子著 ◆世界目指した「博物館の父」 [評]和田博文(東京女子大副学長)

000 ペリーの黒船が浦賀に来航したのは一八五三年。上野の動物園の開園は八二年。幕末から明治初期の三十年間は、激動の時代だった。修好通商条約、尊王攘夷(じょうい)、明治維新、戊辰戦争、西南戦争などの政治史や外交史は、本書では後景に退けられる。その代わりに前景化されるのは、「博物館の父」と呼ばれた田中芳男の歩みである。
 飯田城下近くの村の、ゆかりある屋敷の天井に掲げられていた五大州・五大洋の世界地図は、田中が目指すべき場所という、象徴的な意味を担っていた。名古屋に赴いて伊藤圭介門下となり蘭学や本草学と向き合う。江戸では蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕するが、時代は蘭語から英語に移ろうとしていた。身体の移動は、田中をより広い世界へ誘っていく。
 六七年のパリ万博で出品するため、田中は伊豆などで虫捕りをした。それは単なる昆虫採集ではない。洋書から知識を得るだけの一方通行が、異文化間の交流へと変化する。大河ドラマの主人公、渋沢栄一が加わった使節団の一員として渡仏。航路の寄港地では、植民地の現実を目の当たりにした。都市改造中のパリで、田中は驚愕(きょうがく)する。展観本館は鉄骨とガラスを使用し、エレベーターまで備えていた。
 田中が最も関心を抱いたのは、ジャルダン・デ・プラント(パリ植物園)である。国立自然史博物館や動物園や植物園が、広い敷地内に併設されていた。博物という言葉は、広く物を知るという意味を含んでいる。大政奉還の翌日に帰国した田中は、博物学を基礎とする総合施設を作りたいと願う。大英博物館やサウスケンジントン博物館を目標にする、町田久成や佐野常民の考え方と、その思いは少しずつ共振していく。
 田中の伝記はすでに刊行されている。美術博物館が田中芳男展を催したこともある。しかし時代の激動を背景に、人を配置し動かすことで成立する臨場感は、小説でなければ味わえないだろう。満六歳でアメリカに留学した津田梅子や、若き日の高村光雲(光太郎の父)も、さりげなく登場する。近代誕生のドラマを実感させてくれる一冊である。
(祥伝社・1980円)

以前にも書きましたが、やはり「若き日の」渋沢栄一も、さりげなく登場しています。NHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」を併せてご覧下さい。

最後に『中日新聞』さん。こちらは左右社さんから出た『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』について。

大波小波 明るさは滅びの姿

 百年前の一九二〇年代に何があったのか。和暦では大正九年から昭和四年。一八年に第一次世界大戦が終わり一転恐慌を迎えた。二三年関東大震災、二八年には関東軍による張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件、左翼への弾圧も強まる。民本主義や抒情的な大正ロマンも、昭和の幕開けと同時に暗い時代へと転換する。表面的には震災復興と近代的都市として変貌する東京、都市生活を背景とした前衛的な文化やエログロナンセンスが跋扈(ばっこ)し、文学では既成を排した前衛的なモダニズムが登場。だがその後の軍靴が確実に聞こえる時勢でもあった。
 岡本勝人(かつひと)『1920年代の東京』(左右社)が先般出た。高村光太郎、横光利一、堀辰雄らの二〇年代を照射した労作だ。コミットメントとは翼賛や異論を唱えるだけではない。意識的な無頓着という関わり方もあることを同書は示唆する。
 明から暗への転換は現代に酷似する。五輪開催強行で陽気な時代を装ってはいるが、長引くコロナの陰で庶民は泣く。三〇年代を経て戦禍の最中の四三年に出た太宰治『右大臣実朝』には、「明るさは滅びの姿であろうか」と有名な言葉が書かれる。コミットの形式を問わず、いま時代を感受する文学はどこにあるのか。二〇二一年八月に思う。

それぞれの書籍、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方七時頃になつてから福島油井村の伊藤昭氏来訪。


昭和23年(1948)8月4日の日記より 光太郎66歳

故・伊藤昭氏は昭和3年(1928)、智恵子生家にほど近い、福島県安達郡油井村(現・二本松市)の生まれ。のちに智恵子の顕彰団体「智恵子の里レモン会」を立ち上げ、初代会長を務められました。

この頃は油井村青年会の文化部長で、光太郎にぜひ油井村で講演をお願いしたい、ということで花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れました。

氏の回想から。

 高村山荘に着いたのは午後七時ころ、「君もこんな所まで、無茶な」と先生からあきれられたような言葉をいただきました。
 先生は前日の無理な作業がたたりコップに半分ほどの喀血があり、其の上面疔ができて体調をくずされており「今夜は長話ができないので明日改めて来てほしい。その後の油井村の話をぜひ聞きたい」といわれた。その夜は分教場の高橋先生のお世話になり泊めて頂き、翌日うかがうと「今日はだいぶ気分がよい」と話を切り出された。講師依頼の件は「喀血後でもあるし、ヤミ屋が乗る列車には乗りたくない」ということで達せられなかったが、長沼家没落にまつわる話、鞍石山の「樹下の二人」のエピソード、はては私達青年会への指針なども話して頂いた。
 「芸術や音楽は特定の人のものでない大衆のものである」当時始まったラジオでの教養番組のことや売り出し中だった、岡本太郎さんのことまで熱心に話されたのを今でも覚えている。


岡本太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校の西洋画科で、藤田嗣治、望月桂らとともに、同級生でした。

先月16日に始まった、花巻高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎の三陸廻り」について、8月12日(木)の地方紙『岩手日日』さんが報じて下さいました。

浮かぶ往時の情景 高村記念館 光太郎三陸紀行を紹介

000 花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、三陸沿岸各地を旅して執筆した紀行文「三陸廻(めぐ)り」にまつわる資料を紹介する企画展が、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。
 一旅行者として、各地の自然や様子、旅で感じたことなどをありのままにつづった文章をパネル展示しているほか、関連資料も並べ、光太郎の多才さや当時の三陸の姿を知ることができる。30日まで。
 「三陸廻り」は、かつて存在した日刊紙「時事新報」から光太郎が依頼を受け、1931(昭和6)年8月上旬から約1ヵ月かけ宮城県石巻市から岩手県宮古市までを船旅し、執筆。同年10月3~27日に、同市に全10回掲載された。文量は1回原稿4~5枚ほどで、挿絵も光太郎が描いた。
 会場では、各回の文章と挿絵(複製)を、現在の各地の様子を撮影した写真とともに紹介。補足資料として、石巻市街全図(1931年)や三陸沿岸市街絵はがき、三陸汽船航路図絵(1940年)、初公開となる「汽車ぎらい宿屋ぎらい」(1946年)の直筆原稿もある。
 第1回「石巻」では、「日和山(ひよりやま)は河口を扼(やく)する昔からの物見台である。松と桜とに装われた此小丘陵の突端に立つと、眼下にひろく、さすがに争われない北上川の人工的河口が甚だ怪奇なガニ股をひろげている」などと記され、どの回も風景が浮かび上がってくるように表現されている。
 第3回「金華山」では、父光雲(1852~1934年)と金華山とのつながりにも触れている。
 花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐企画担当は「光太郎が花巻に疎開するより前に岩手に来ていたことはあまり知られていない。旅行記には趣深い表現や鋭い視点での感想も残され、光太郎の才能の豊かさを感じ取っていただけるのではないか」と来館を呼びかけている。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入場料は一般350円、高校・学生250円、小学生150円。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

この記事が出たのが3日前。ところが、昨日、記事にもある高橋氏から連絡があり、「今日から今月いっぱい臨時休館」とのこと。

「はぁ?」と思い、市のHPで確認してみたところ、以下の通りでした。

新型コロナウイルス感染拡大による市関連施設の利用制限ガイドライン 岩手緊急事態宣言の発令に伴い、8月14日から8月31日まで、市関連施設の利用制限を「レベル4」で運用します(8月13日更新)

 本ガイドラインでは、感染拡大状況に応じた市関連施設の利用制限を示しています。(8月13日掲載)
 県では、県内における新型コロナウイルス感染症が拡大していることに鑑み、新たな感染を強力に抑え込むため、8月12日に「岩手緊急事態宣言」を発令しました。
 市では、同宣言の発令に伴い、8月14日から8月31日まで、市関連施設の利用制限を「レベル4」で運用することとしましたのでお知らせします。
 なお、今後の感染状況によっては、期間の延長、ガイドラインの変更や、施設によってはガイドラインと異なる利用制限をすることもありますのでご了承願います。

レベル1 市内・県内の感染者は無い状況が続いた場合
 レベル1へ移行す目安としては、市内・県内の感染者は0が続き、首都圏等で感染が少ない場合)

レベル2 市内・県内の感染者は減少している場合
 レベル2へ移行する目安としては、市内の感染者は0が続き、県内の感染者は一ケタ以下が続き、首都圏等で感染が減少している場合

レベル3 市内で感染拡大の恐れがある場合 県内で感染拡大の恐れがある場合 市内において感染が若干あり、県内において感染が減少していない、または二ケタ以上の感染者がある場合
 県内または隣接県において感染が拡大し、市内においても感染が拡大する可能性が高いと判断される場合には、スポーツ施設について、岩手県内規模での開催に限ること、または大会の中止を依頼することもある

 レベル4【現在適用しているレベル】
 緊急事態宣言が岩手県に発令された場合 県内・市内で感染が拡大している場合 市内で感染者が連続して発生している場合
 詳しくは、添付ファイルをご覧ください。

で、「レベル4」が発令され、花巻高村光太郎記念館、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、宮沢賢治童話村など、すべて31日(火)まで休館だそうです。
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元々、企画展「光太郎の三陸廻り」は30日(月)までの予定でしたが、休館回復後、会期を延長するのか、それともこのまま終了とするのか、そのあたりは未定とのことでした。

あちら方面へお出かけの予定のある方、ご注意下さい。

まだ始まって一ヶ月足らずですので、休館回復後の会期延長を希望しますが、どうなりますことやら……。第一、31日(火)で「レベル4」が解除されるかどうかも不透明ですし……。

これだけ感染拡大が続く中、花巻市の決定は、ある意味、「英断」と言えるのかも知れませんが、それにしても、「いつまでこの状態が続くんだ」と思わざるを得ませんね……。

【折々のことば・光太郎】

右鼻孔に出来た腫物面疔になる虞あり、ズルフアミン剤が欲しと思ふ。


昭和23年(1948)8月3日の日記より 光太郎66歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で、進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。

この後、光太郎、大事には至りませんでしたが、10日ほど腫れが引かず、閉口したようです。

智恵子の生家にほど近い、福島県二本松市の道の駅安達「智恵子の里」さん上り線物産コーナーにて、「レモンコーナー」が設置されているそうです。

twitterの投稿から。

上り線物産コーナーではレモンコーナー展開中🍋🍋

当駅の愛称「智恵子の里」の由来となっている高村智恵子の夫高村光太郎が詠んだ『智恵子抄』(「レモン哀歌」)にちなんだオリジナル商品を販売してますが、特にレモンは暑い夏にピッタリですよ\(*ˊᗜˋ*)/
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オリジナル商品」について調べました。

まず、『レモンライスの素』🍋540円(税込み).。
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ベーコンのコクと玉ねぎの甘さに、レモンの爽やかさがプラスされてサッパリしたお味に✨ 人気酒造さんの日本酒 桜福姫の酒粕を使用した酒塩入りなので旨味も増してます!(※お酒の味はしません)
炊きたてご飯(3合用)に混ぜるだけで簡単調理♪ ピラフのような味わいです。上下線のお土産屋さん(物産コーナー&銘産コーナー)で販売しています。

だそうです。

地方紙『福島民報』さんにも紹介されました。
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続いて、『れもん餡まん』110円(税込み)🍋。
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二本松市内の菓子処 勝田屋さんにお願いして作っていただきました。バターの風味のふんわり生地と爽やかれもん餡の相性がいいんです! 爽やかなれもん餡は暑い夏でも美味しくいだけます。ぜひお試し下さい。上下線のお土産屋さんで販売しています。

とのことでした。

その他、一番上の画像には、以前にご紹介した「安達ハチミツと有機レモンのドレッシング」が写っています。さらに「レモンあまざけ」「塩レモンとザーサイ」「レモン冷やし中華」なども。

あちら方面にお住まいの方、行かれる方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

オクステールにゑん豆とササギとを入れ葱とニンニクとにて味をつけ、塩、コシヨーでつくる。味が十分といへず。予期よりも脂肪少し。まづくはなし。

昭和23年(1948)8月1日の日記より 光太郎66歳

前日に貰った牛の尾を煮込み、その他の具材を入れて味付け。思ったよりうまく出来なかったようですが、山中のあの小屋でオックステールスープを作ろうとする熱意には脱帽です。
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昨日お伝えした、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」新設の件、後追いでの報道と、当方が見落としていた報道がありましたので、ご紹介します。

ローカルTV局・ミヤギテレビさん。

宮城 女川いのちの石碑20基完成

 津波から避難する目印にと、女川町の当時の中学生が各浜の高台に建てたいのちの石碑。今月20基目までの石碑が完成し披露式が行われました。
 女川町の小乗地区と横浦地区では、今月8日地元住民や女川中学校の卒業生が参加し披露式が行われました。
 いのちの石碑は、当時の中学生が震災の悲しみを繰り返さないために、女川町の21の浜の津波到達地点より高い場所に避難の目印となる石碑を建てる取り組みです。設置の費用1000万円は募金で集め、今回で20基目まで完成しました。
 最後となる21基目の石碑は今年11月に女川小・中学校の近くの高台に設置する予定です。
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続いて地方紙『石巻日日新聞』さん。

千年後の命を守るために 女川の石碑 20基目除幕 11月に残る1基披露

 多くの被害をもたらした東日本大震災の津波の教訓を後世に伝え、千年先の命を守ろうと、女川町立女川中学校の卒業生が設置に取り組んできた「女川いのちの石碑」は8日、19、20基目が除幕された。町内に21ある浜全てに建立する計画。残る1基は小学校併設の新しい中学校敷地内に建て、11月21日に披露する予定。
 19基目は小乗浜、20基目は横浦に建立。いずれも新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、地域への披露式が1年延期されていた。このうち横浦は高台の防災集団移転団地に建立。地域住民や須田善明町長のほか、卒業生のうち4人が海の見える団地内の公園に集まり、石碑を覆った白い布を下ろした。
 4人のうち伊藤唯さん(23)は「町や地元の人に支えられて20基目まで来た」と10年を振り返り、阿部由季さん(23)は「震災を伝えていくのに役立ってほしい」と期待。残り1基となる中、鈴木智博さん(22)は「建てて終わりではなくこれからがスタート」と見据え、山下脩さん(22)も「仕事の合間を縫って語り継ぐことをしてけたら」と話した。
 取り組みを進めたのは、震災翌月に女川第一中(後に女川中)に入学した1年生。社会科の授業をきっかけに津波被害を最小限にする3つの対策(①互いに絆を深める②高台に避難できる町づくり③記録に残す)を考え、その一つとして津波が到達した地点よりも高い場所に石碑を建てることにした。
 2年生の3学期に募金を開始し、半年余りで1千万円が集まり、その年の11月に最初の2基が完成した。石碑は統一した形で台座を含めた高さは2メートル、幅1メートル、重さ2トン。碑文に3つの対策を刻み、津波が来た時の避難や笑顔あふれる未来の町への願いを記してある。
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最後に、やはり地方紙『石巻かほく』さん。

「いのちの石碑」19、20基目 小乗、横浦地区に完成 女川

 東日本大震災の教訓を後世に伝えるため、女川町女川中の卒業生らが町内21カ所に建立を進めている「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗、横浦の両地区に完成した。披露式が8日、現地で行われた。
 小乗地区では、卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約20人が参加した。メンバーが碑文に込めた思いや、各浜で津波到達点より高い場所に建てたことなどを説明した。参加者は石碑を前に震災当時やこれまでの生活を振り返った。
 石碑は高さ約2・3メートル、幅約1・2メートル。「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などのメッセージや「黒津波 女川の景色 消しさった」といった当時の生徒が考えた俳句が石碑ごとに刻まれている。
 小乗地区の阿部求行政区長(73)は「若者が地域の未来を思って行動してくれている。石碑の意味をしっかり理解し、住民同士で支え合いたい」と話した。
 横浦地区にはメッセージの他に「今ここに 生きててくれた ありがとう」と俳句が記されている。区長の木村初雄さん(72)は「震災を経験した私たちが風化させないように協力しなければいけない」と気持ちを新たにした。
 石碑の建立は2013年に始まり、19、20基目は19年11月に完成した。翌年に披露式を行う予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期していた。
 「いのちを守る会」の阿部由季会長(23)は「石碑を建て終えてからがスタートだと思っている。教科書の作成や講演会の実施など発信に力を入れていく」と抱負を語った。
 21基目は、昨夏新設された女川小中に建てられ、11月21日に披露式を行う予定。各石碑には住民が感じた震災の教訓などを見られるようにしたQRコードを刻むことも検討されている。
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最後に書いてあるQRコードの件。実現して欲しいものです。石碑類、建てて建てっぱなしになることが少なからずあるのですが、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーの皆さんは、定期的に碑の清掃等にも取り組まれていますし、さらにQRコードの追刻も活動を進化・深化させる上で効果的と存じます。

まったく、頭の下がる思いです。

【折々のことば・光太郎】

牛尾をオツクステールにする。


昭和23年(1948)7月31日の日記より 光太郎66歳

「オツクステール」はスープです。現代では高級なメニューとしてもてはやされていますが、当時の日本では牛の尾は捨てるもの、というのが常識でした。欧米留学の経験もあった光太郎は、捨てられる牛の尾があると、貰って、自家製のスープにしていました。

この日入手したのは、分娩の際、死んでしまったという牛の尾。近くの開拓地に住む青年が届けてくれました。

昨日ご紹介した、宮城県女川町の光太郎文学碑に倣い、費用を募金でまかなった「いのちの石碑」。東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、建立が進んでいます。

全21基中の19・20基目が除幕されたということで、報道されました。

テレビ局のローカルニュースから。まず、OX仙台放送さん。

“強い地震が来たら石碑より上へ逃げて”女川町「いのちの石碑」 中学卒業生が震災の教訓を刻む

 女川町では震災の教訓を石碑に刻んで後世に伝える、「女川いのちの石碑」が新たに2つ完成し8日、除幕式が開かれました。
 この活動は2011年に入学した女川中学校の卒業生たちが、震災の教訓を後世に残そうと町内21の浜に石碑を建てているものです。
 女川町小乗地区で行われた8日の除幕式には、女川中学校の5人の卒業生などおよそ20人が集まり、19基目の石碑が披露されました。
石碑には「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などとメッセージが刻まれています。
 小乗地区住民「地域の方々が仲良く支え合って歩んでいただければと」
 また午後からは、女川町横浦地区で20基目の石碑が披露されました。
 女川中学校卒業生 山下脩さん「最終的には夢としては千年後まで語り継いでいければなと思っています」
 「いのちの石碑」最後の21基目は、11月に女川小・中学校に建てられる予定です。
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続いてtbc東北放送さん。

 「いのちの石碑」最後1つを残し完成 宮城・女川町

 宮城県女川町出身の若者たちが震災の教訓を語り継ごうと町内21の浜に建立を進めている石碑が20基まで完成しました。
 女川町の小乗地区では、石碑の披露式が行われ、建立した若者たちや住民が参加しました。この石碑は、女川中学校の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」が建立を続けているものです。町内21の浜の津波到達地点よりも高い場所に石碑を建てる計画で、8日は、19基目の小乗地区と20基目の横浦地区の2つがお披露目されました。会では、最後となる21基目の石碑を女川小中学校に建立し、今年11月21日に披露する予定です。
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さらに、NHKさん。

女川町いのちの石碑 20基目が完成

 東日本大震災の教訓を伝えようと当時、中学生だった人たちの呼びかけで、女川町の沿岸の地区に建てられることになった石碑のうち20基目が完成し、披露されました。
 女川町では、震災当時、中学生だった人たちが、津波の教訓を後世に伝えようと「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、沿岸にある21の地区に石碑をつくる活動を続けています。
大きな被害を受けた横浦地区では、震災後、新たに造成された高台の住宅地に20基目となる石碑が建てられました。
 8日は、大学生や社会人になったメンバー4人と地元の人たちが集まって、全員で石碑の幕を引きました。
 石碑は高さおよそ2メートル、幅およそ1メートルで、「今ここに生きてくれててありがとう」といったことばが刻まれています。
 そして、メンバーの1人の伊藤唯さんが「大きな地震が来たら石碑よりも高い場所に逃げて、家に戻ろうとする人がいたら引き止めてください」と呼びかけました。
 残る1基の石碑は、ことし11月に完成する予定です。
 「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さんは、「21基の石碑を建てて終わりではなく、震災の教訓を伝え続けたい」と話していました。
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それから、KHB東日本放送さん。

東日本大震災の教訓を後世に いのちの石碑 19・20基目 宮城・女川町で披露

 震災の教訓を後世に伝えようと宮城県女川町で、当時の中学生が設置した石碑の披露式が行われました。
 この石碑は、女川中学校の卒業生が、津波で被災した町内21カ所に建設を目指しているもので、8日は19基目と20基目がお披露目されました。
 新型コロナの影響で、1年遅れての公開となりましたが、今年11月には、最後の1基が女川小中学校に設置されます。
 女川1000年後のいのちを守る会・鈴木智博さん
「これを建てて終わりじゃなくて、伝えていくのがこれからの使命なのかなと考えています」
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新聞でも報道されています。仙台に本社を置く『河北新報』さん。

女川中生の思いつないで20基目 避難誘導の「いのちの石碑」

 東日本大震災の教訓を未来に伝え残そうと、宮城県女川町女川中の卒業生らが町内に建立している「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗(このり)、横浦両地区にそれぞれ完成し、8日に現地で披露式があった。
 卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約30人が参加した。石碑を除幕した後、メンバーが碑文に込めた思いを説明。住民らは、震災当日の出来事を振り返りながらメンバーと語り合った。
 小乗地区行政区長の阿部求さん(73)は「当時の子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、本当に頑張った。石碑を見て地域で支え合って歩みたい」と話した。
 2基の披露式は新型コロナウイルスの影響で1年延期して開いた。月1回の伝承活動も昨春以降、自粛が続く。守る会の伊藤唯さん(23)は「石碑を建てて終わりではなく、これがスタートだと思って活動したい」と意欲を語った。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒らが企画。「地震が来たらこの碑より上へ逃げて」と避難を促すため、町内各浜の津波到達地点より高い場所に建てている。建立は13年11月に始まり、最後の21基目は昨夏新設された女川小中学校に建て、11月21日に披露式を開く予定。
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この活動、今年6月には、オンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、一昨年にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。

今秋には最後の碑が、新たに開校した女川小・中学校に建てられるそうで、今後とも、この活動を見守っていきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉貸別荘の儀は訪問者殺到を恐れて中止にせんかと相談す。


昭和23年(1948)7月24日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、マイナス20度にもなり、メートル単位で雪が積もる厳冬期だけでも、花巻温泉に新設された貸別荘を借りてはどうか、という話があり、光太郎もその気になりかけたのですが、結局、そうすると、交通の便が悪くないため訪問客が多くなりそうだと危惧し、取りやめにしました。

8月9日(月)、地元の皆さん限定で行われた第30回女川光太郎祭について、仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さいました。

「三陸廻り」90年に敬意 高村光太郎文学碑に献花

 戦前に宮城県女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのび、町内の「女川光太郎の会」が9日、町海岸広場内の文学碑に献花した。碑は東日本大震災で被災して昨夏に再建を果たし、会員らが建立からの30年間に思いを巡らせた。
 光太郎は1931年に石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古までを旅し、紀行文「三陸廻(めぐ)り」を著した。光太郎が石巻に向かって東京を出発した日から今月9日で丸90年を迎え、町民5人が光太郎の詩や紀行文を刻んだ文学碑に花を手向けた。
 碑は震災の津波で亡くなった町内の画家貝広さん=当時(64)=が中心となって91年に3基を建てた。1口100円の募金活動で建設費を募り、約10年がかりで完成させた。
 女川港の水揚げ場を詠んだ「よしきり鮫(ざめ)」を記した詩碑が震災の津波で流出。主碑が倒れ、詩碑1基が残った。貝さんの思いを継いだ会員らが残った2基の再建を町に要望。町が護岸工事を終えた海岸広場に昨年8月ごろ、設置した。
 毎年8月9日に光太郎の詩を朗読する「光太郎祭」は、新型コロナウイルスの影響で昨年から献花のみ実施している。92年に始まり、今年で30回目を迎えた。
 光太郎の会の須田勘太郎会長(81)は「多くの方の支えで碑を再建できた。貝さんら先人の思いをつなぎ、これからも祭りを続けたい」と語った。
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昨年に引き続き、今年も一般の方の参加はなく、女川光太郎の会の皆さんによる、光太郎文学碑への献花のみ行われました。来年こそは、旧に復してほしいものです。

明日も女川系のネタを。

【折々のことば・光太郎】

夜蚊帳つり今夏はじめて


昭和23年(1948)7月22日の日記より 光太郎66歳

「蚊帳(かや)」。風流といえば風流ですね。

6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」を放映して下さっている、地上波日本テレビ系「心に刻む風景」。オリンピック中継のため1週延期となりましたが、最終回の放映が明日夜です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子⑥ 岩手県花巻市…「智恵子は死んでよみがへりわたくしの肉に宿ってここに生き  かくの如き山川草木(さんせんそうもく)にまみれてよろこぶ」。

地上波日本テレビ 2021年8月11日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#6 舞台(高村山荘)

昭和20年、ここで光太郎は自給自足の生活を始める。智恵子抄発表後、しばらくは智恵子を詩に書くこともなく過ごしたがこの場所に来てから、智恵子に関する詩を再び書き始めた(智恵子抄その後)。智恵子との思い出を胸に、ここで新たな創作を生み出す。


ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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#5は7月28日(水)、「栃木県塩原温泉」でした。
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塩原温泉の柏屋旅館さん。
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この宿に入る前、福島二本松の智恵子実家の菩提寺・満福寺さんで智恵子祖父母らの墓に参り、その足で裏磐梯川上温泉に向かい、以後、宮城蔵王の青根温泉を経て、再び福島に戻り、土湯温泉の旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。いったいに、どこの温泉地でも中心街から離れた静かな宿を選んでいます。

そして湯治旅行の最後が塩原だったわけです。
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下の画像は二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたもので、現存が確認できている智恵子最後の写真(その後、翌年に九十九里で撮った写真もあったらしいのですが、当方、未見)です。
那須
番組では、ほぼこの写真が撮られた地点でロケ。
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いいですね。

そして、明日の放映が光太郎智恵子篇最終回、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)がメインです。視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

入れちがひに鈴木喜緑なりとて青年来訪、埼玉杉戸から来訪。詩の事や其他談話。詩稿を見る事は断る。来訪しても無駄といふハガキを出したもの届かぬうちに来たの也。

昭和23年(1948)7月18日の日記より 光太郎66歳

鈴木喜緑は大正14年(1925)、東京生まれ。のちに吉本隆明等と共に「荒地」同人となる詩人でしたが、この時点ではまったくの無名でした。

一昨日、昨日と、みちのくの光太郎智恵子ゆかりの地、十和田湖と安達太良山でランタン打ち上げイベントが行われました。その報道をご紹介します。

まず十和田湖。「第56回十和田湖湖水まつり」の一環としての「スカイランタン」。『東奥日報』さん。

夜空にランタン、幻想の輝き/十和田湖

 十和田湖畔休屋で7日夜、湖水まつり(同実行委主催)が開かれた。オレンジや青の光がともったスカイランタン1130個が浮かび上がり、来場者が幻想的な輝きに見入った。イベントは昨年に続き2回目。ランタンは縦約60センチ、横約35センチで、発光ダイオード(LED)を内蔵。「AOMORIバルーン集団ねじりんご」と共同で製作した。
 来場者は会場内の各所にそれぞれ陣取り、ランタンが飛び去らないように取り付けた20メートルのひもを使って、思い思いの高さでランタンを夜空に浮かべた。フィナーレには約5分間、花火が上がり、花火とスカイランタンの光が夜空を彩った。
 家族と会場を訪れた青森県十和田市の美容師・佐々木美由紀さん(27)は「ランタンには家族が健康でいてほしいという願いを込めた。子どもたちも『きれい』と言って楽しんでくれた」と話した。
 会場にはフードコートが設けられ、かき氷などを食べながらゆったりと過ごす人も見られた。遊覧船による約50分のナイトクルーズも行われた。
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『デーリー東北』さん。

夜空に浮かぶ明かりに願い込め 十和田湖湖水まつり開幕

 十和田湖湖水まつりが7日、十和田市の休屋地区で開幕した。夜には市民の願いが書き込まれた1131個のスカイランタンが打ち上げられ、参加者が夜空に広がるオレンジとブルーの柔らかな明かりに、新型コロナウイルスの早期収束などの願いを込めた。
 ランタンの打ち上げは、昨年から実施しており、今年は新たに湖上から眺める遊覧船ナイトクルーズや花火のショーも行った。
 この日は、参加者が、午後8時半の合図で一斉にランタンを夜空に放った。
 十和田市東二番町の主婦福田麻衣さん(39)は「家族が仲良く元気に暮らせることを願った」、長女の莉子ちゃん(5)も「映画みたいできれい。また見たい」と満足げな様子だった。
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『北鹿新聞』さん。

湖上彩る花火とランタン 十和田湖 湖水まつり 「コロナ収束」の願いも

 小坂町と青森県十和田市にまたがる十和田湖畔で7、8日の両日、十和田湖湖水まつり(実行委主催)が開かれた。観光客らはスカイランタンと花火の共演を楽しんでいた。
 夏の十和田湖の活性化を目的に行われており、今年で56回目。新型コロナウイルス感染症対策で入場者を制限し開催した。
 7日夜、参加者はヘリウムガスを浮力とし、発光ダイオード(LED)ランプを内蔵した「スカイランタン」を購入。ランタンに願い事を書き、ひもをつけて午後8時30分に一斉に空に上げた。
 オレンジ色や青色の1131個のランタンが夜空に輝く中、200発の花火が音楽に合わせて打ち上げられた。入場した観光客、約2400人は幻想的に漂うランタンと十和田湖の水面に反射して輝く花火に「きれい」などと歓声を上げて楽しんでいた。
 同時刻に行われた「十和田湖遊覧船ナイトクルーズ」では観光客が湖上から花火を楽しんでいた。
 このほか、午後5時から同9時まで焼きそばなど5店の飲食店ブースが出店した。
 親子で訪れた青森県南部町の30代の女性は「ランタンにコロナ収束の願いを書いて飛ばした。今年初めての素晴らしい花火だった」と笑顔で話した。
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続いて、安達太良山。『福島民報』さん。

福島・二本松の夜空にランタン舞う 願い事託しフェス

 ランタンに願い事を託して夜空に放つ「LEDスカイランタンフェスティバル」は7日、福島県二本松市のあだたら高原リゾートで始まった。9月19日まで計8回実施する。
 赤、青、緑、ピンク、オレンジの5色の発光ダイオード(LED)を入れたランタンに、参加者が願い事を書いた短冊を結んで空に放した。開催中の「あだたらイルミネーション」と合わせて幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 今後は14、21、28、9月4、11、18、19の各日に催す。午後6時に受け付けを開始し、同8時にランタンを空に放つ予定。参加料は3500円(税込み)。前日までに要予約。問い合わせは富士急安達太良観光へ。
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記事にあるとおり、安達太良山では来月中旬までの土曜日と、9月19日(日)に開催されます。コロナ感染にはお気を付けつつ、コロナ収束の願いを込め、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太の除幕式は今日午後の由。

昭和23年(1948)7月17日の日記より 光太郎66歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられた詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。
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千葉県で、「ちばアート祭2021」というアートフェスティバルが開催されています。
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現代アートのインスタレーションと、一般の方々から公募した「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」がメインです。

このうち、「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」は、平成30年(2018)に選定された111件の「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」をテーマとした絵画・写真・Instagramの作品を募集したものです。

111件中には、「高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台」というキャッチフレーズで、「九十九里浜の景観」も選定されましたし、光太郎智恵子の名は説明に使われませんでしたが、銚子犬吠埼などのゆかりの地が他にも含まれています。

ちなみにインスタレーションの方も、ちば文化資産インスパイアということになっているようです。

千葉県立美術館さんでは、8月3日(火)~15日(日)の日程で、絵画・写真応募作品の原則全てが展示されています(Instagram部門は受賞作品のみの展示)。ちなみに同館で同時開催中の「名品3 ―巨匠の眼と手―」では、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ているようです。

美術館にほど近い千葉ポートタワーさんでは、8月16日(月)~9月5日(日)に、応募作品のうち、受賞作品24点を展示とのこと。また、オンラインでも開催されています。
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ぜひ御覧頂き、千葉県の魅力に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

畑の事いろいろやつてゐる、さかんにブヨにくはれる。ひどくはれる。


昭和23年(1948)7月15日の日記より 光太郎66歳

「ブヨ」。標準語だと思っていましたが、どうも関東方言のようで、学術的には「ブユ」と言うのが正しいようです。蚊と同じく、吸血のために刺すそうですが、問答無用で襲来してくるという感じですね(笑)。当方も、かつていきなり刺されてひどい目に遭いました。

北海道から書道展の情報です。

『毎日新聞』さん北海道版の記事。

書家土井さん初個展 深川で15日まで大作並ぶ /北海道

 毎日書道展で活動する若手書家、土井伸盈(しんえい)さん(39)の初めての個展「挑戦。―ここから」が、深川市1の9の「アートホール東洲館」で開かれている。15日まで。
 土井さんは浦臼町出身。 道教育大札幌校で故・辻井京雲さんから書を学び、毎日書道展会員、創玄書道会二科審査会員。 将来を期待される若手書家の1人で、札幌市の北海高で書道を指導している。
 会場には、原民喜の詩「原爆小景より」の2連作、高村光太郎の詩「牛」のほか、歌手の中島みゆきさんの「異国」の歌詞の一部を書いた大作など、漢字と近代詩文書を織り交ぜた迫力ある作品が並んだ。
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展覧会詳細は以下の通り。

第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。――ここから

期 日 : 2021年8月3日(火)~15日(日)
会 場 : アートホール東洲館 北海道深川市1条9番19号 深川市経済センター2階
時 間 : 10:00~18:00 最終日は16:00まで
休 館 : 8月10日(火)
料 金 : 無料
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お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

食事の時八時過取手町の石材商藤巻佐平さんといふ人の名刺を持つてその娘さん来訪。昨夜花巻にとまりし由。いつぞや書いた中村氏の墓の文字を石材の都合で、縮小して書いてくれといふ。紙持参。食事を終りて直ちに書く。故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓と二行に並べて書く。九時過辞去。

昭和23年(1948)7月3日の日記より 光太郎66歳
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永らくこの墓石の所在地が不明でしたが、今年2月、偶然に見つけました

書もよくした光太郎に、墓石の文字揮毫が依頼された例は他にも複数あります。

昭和26年(1951)に亡くなった、山形出身の詩人・森英介の墓石。こちらは米沢市相生町の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいます。正面に「森英介之墓」、向かって左側面に「智応院正行日重居士」(戒名)と刻まれた文字の揮毫が光太郎です。

昭和25年(1950)には、郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートの中に以下の記述があります。
佐野悌一氏へ墓の文字封入テカミ(「佐野修三墓」二枚)

この年の日記は失われており、名前の出てくる二人の素性、どういった事情なのか、墓の所在地など、一切不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

追記:花巻市内で発見しました。

ハードカバーの文庫化です。

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2021年8月1日 末盛千枝子著 新潮社(新潮文庫) 定価825円(税込)

それでも、人生は生きるに値する。彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、高村光太郎に「千枝子」と名付けられる。大学を卒業後、絵本の編集者となり、皇后美智子様の講演録『橋をかける』を出版。だが、華々しい成功の陰には、幾多の悲しみがあった。夫の突然死、息子の難病と障害、そして移住した岩手での震災……。どんな困難に遭っても、運命から逃げずに歩み続ける、強くしなやかな自伝エッセイ。

目次000
 人生は生きるに値する――まえがきにかえて
 千枝子という名前
 卒業五十年
 父の葉書
 母、その師その友、そして家族
 IBBYと私
 私たちの幸せ――皇后美智子様のこと
 最初の夫、末盛憲彦のこと
 絵本のこと、ブックフェアのこと
 再婚しないはずだったのに
 逝きし君ら
 出会いの痕跡
 文庫版あとがき
 解説 山根基世

元版は、平成28年(2016)に同社からハードカバーで刊行されています。さらに遡れば、同社のPR誌『波』での連載(平成26年=2014)が最初でした。

著者の末盛さん、光太郎に私淑した彫刻家・舟越保武のご息女で、案内文にある通り、光太郎によって「千枝子」と名付けられました。舟越が命名を依頼したところ、光太郎は「女の子の名前は「ちえこ」しか思い浮かばないが、智恵子のように悲しい人生では困るから、字を替えましょう」と言ったとのことで。

その辺りの経緯や、名付け親である光太郎との盛岡での再会、平成27年(2015)に、盛岡の少年刑務所さんで開催された「高村光太郎祭」でご講演をなさった話などが、光太郎に関わる部分です。

それ以外に、絵本編集者としての日々、当時の皇后美智子さまとの交流、ご家族とのドラマ、そして東日本大震災についてなど、さまざまな方向に筆が進んでいます。

ハードカバー刊行直後、PR誌『波』に、中江有里さんによる書評が載りました。題して「朝ドラのヒロインのような人生」。それが共感を呼んだようで、過日の新聞広告でもそうしたキャッチコピーが使われていました。
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当方、中江さんより早く「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」とこのブログに書きました(笑)。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃学校にて児童給食の粉ミルクをとかした牛乳の御馳走になる。脱脂粉乳の由なるが、味よろし。


昭和23年(1948)7月2日の日記より 光太郎66歳

脱脂粉乳。GHQの支援により、日本の学校給食に供されるようになって、地方によっては1970年代前半まで出されていたそうですが、当方、その頃入学した都内の小学校では既に瓶の牛乳でしたので、飲んだことがありません。

現在製造されているものは品質も向上、味や匂い等向上しているそうですが、この時代のそれは、不味いものの代名詞とまで言われていたものだったそうです。しかし、光太郎は「味よろし」とのコメントを残しています。

新刊、といっても3ヶ月経ってしまいましたが……。

日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇

2021年4月15日 長山靖生著 筑摩書房(ちくま選書) 定価1,700円+税

西洋文化を旺盛に摂取しつつ繁栄を遂げてきた近代日本は、昭和期に入ると急速に「日本回帰」へと旋回する。そのうねりのなかで文学者や思想家たちもまた、ときにそうした運動の主導者となっていった。和辻による日本古典美の称揚、保田らの「日本浪曼派」、北原白秋や斎藤茂吉の戦争詩歌、そして三木の東亜協同体論や京都学派の「世界史の哲学」―。戦後タブー視されがちであったこれらの作品を、当時の時代状況や彼らの内的論理に注目しつつ読み解き、「日本的なもの」の核心に迫る意欲作。
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目次
 はじめに――危機の時代における心理と思考002
 第一章 西洋憧憬と日本への思慕
  欧化への抵抗――佐田介石の内外対比論
  政教社の国粋主義
  陸羯南──日本主義と国民の自由
  岡倉天心──「アジアは一つ」の真意
  新渡戸稲造──『武士道』の日本人
  国家社会主義という第三の道
  水戸学、ファシズム、皇国史観──錯綜する国家観
 第二章 文学者たちの「日本回帰」
  プロレタリア文学から文芸復興へ
  保田与重郎と「日本浪曼派」──敗北の美学
  永井荷風──無関心という抵抗
  谷崎潤一郎──政府に睨まれた日本礼賛
  堀辰雄──柔和で毅然とした抵抗精神
  横光利一──反転する西洋憧憬
  太宰治──アイロニーが世界を包むとき
  坂口安吾──日本文化称揚の欺瞞性
 第三章 戦意高揚する詩人たち
  近代詩歌と軍歌──日本軍歌の哀調
  日清戦争──与謝野鉄幹、正岡子規
  日露戦争の記憶──夏目漱石、森鷗外、与謝野夫妻
  北原白秋──南蛮趣味から戦争礼賛へ003
  萩原朔太郎──故郷との和解を夢見て
  三好達治──死にゆく同胞への供物
  高村光太郎──軍神を讃えねばならぬ
  折口信夫、斎藤茂吉──国亡ぶを歌う
 第四章 日本文化観の模索
  国策としての「国民精神文化」
  和辻哲郎──世界文化史への架橋
  大川周明──アジア主義のジレンマ
  中河与一──モダニズムから第三世界共闘ロマンへ
  九鬼周造──「いき」という諦念
  阿部次郎──人格主義から見た日本文化
 第五章 日本精神と変質する科学主義
  イデオロギーとしての日本精神
  進化論と優生思想──加藤弘之、丘浅次郎、永井潜
  愛国化する「科学」──中山忠直の日本学
  生気説への接近──小酒井光次と哲学者たち
  有機体としての国家──西田幾多郎の「安心」
 第六章 大東亜戦争は王道楽土の夢を見るか
  西田幾多郎──修正案としての「世界新秩序の原理」
  田辺元──飛躍的想像力と国家構想
  三木清──回避努力と妥協的協力
  京都学派──「近代の超克」と「世界史的立場」
 終章 それぞれの戦後
  死んだ者、生き残った者
  三木清の戦後獄中死
  占領期検閲と横光利一
  東京裁判を免訴された大川周明
  「日本の悲劇」を課題化した和辻哲郎
  亀井勝一郎が戦後改稿に込めた思い
  保田与重郎の孤独、中河与一の硬直
  「近代の超克」の清算としての『本居宣長』
 あとがき
 主要参考文献
 人名索引

著者の長山氏、「なぜ日本は、幕末維新の危機を乗り越えて曲がりなりにも近代化を成功させたにもかかわらず、昭和十六(一九四一)年に無謀な戦争へと突入していったのか」という命題を解決するべく、当時の文化人達の様相を列伝体的に展開していきます。

従って、光太郎に直接触れている部分はあまり多くない(上記目次の色を変えた部分)のですが、幕末から明治、大正を経て、十五年戦争という「流れ」の中で捉えることによって、その立ち位置がより明瞭にされている部分があるかな、という感じでした。

そして「以前から日本国内に積みあがっていた近代的発展の矛盾の飽和の現れ」として、太平洋戦争を定義し、「閉塞状況に置かれた人間は変化を希求」、「国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚される」というわけで、文学者達は「それぞれに自分が得意とする手法で、時代の要請に合った物語を、自己のアイデンティティを投影しながら描いてみせた」としています。

光太郎に関しては、まず、「第三章 戦意高揚する詩人たち」で、戦時中の翼賛詩を引きつつ、次のように評しています。

痛ましいばかりの体制協力ぶりだが、それでも高村光太郎は品性を重んじ、詩文の美を湛えている。彼の目には死地に赴く人々の決意、虜囚の辱めを受けずに自決して果てる人々の姿勢は、とても高潔なものと映っていたのだろう。おそらくそれは正直な感慨だったのだと思う。戦地に赴いて死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるだろうか。讃えねばならぬ。彼等の尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。

当方の手元に、光太郎のそれを含む、多数の詩人達による翼賛詩を集めたアンソロジーが30冊ばかりあります。それらを繙くと、確かに相対的評価として、光太郎詩は他の詩人の作と較べて「詩文の美を湛えている」部分が多く見受けられます。しかし、やはり相対的に、光太郎自身が他の時期に書いた詩と比較した場合、一度は捨てた文語に戻り(それも虚仮威し的な漢文訓読調)、結局は異口同音の繰り返しに堕しているなど、高い評価は与えられません。この時期の詩こそ光太郎詩の真髄だと、涙を流してありがたがる愚物が居て閉口しているのですが……。

戦地に赴いて死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるだろうか。讃えねばならぬ。彼等の尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。」という考え、それはそれで正しいのかも知れません。ですが、前途有為な多くの若者を死地に送り出す状況を作りだした軍部や政府、そしてそれを肯んじる国全体の風潮への批判が無くなれば、危険な思想と言わざるを得ないと思います。

000さらに、「終章 それぞれの戦後」中の「死んだ者、生き残った者」という項で、昭和22年(1947)の連作詩「暗愚小伝」構想中に生まれ、結局、自らボツにした「わが詩をよみて人死に就けり」が紹介されています。

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

長山氏、「そうした後悔慚愧の想いもまた、詩になってしまうのが詩人の業というものだった」と評しています。言い得て妙、ですね。

それにしても、この章では、他の文学者達の「戦後」についていろいろ紹介されていますが、とんでもない輩がずいぶんいたのがよく分かります。終戦と共に突然「民主主義者」に180度ころっと変わった者、変わる事を良しとせず、しかし頑なに翼賛思想に拘り続けた者、そして何も出来ずにポンコツになった者……。そう考えると、岩手の山村に7年間もの蟄居生活を自らに強いた光太郎、やはり偉かったと言わざるを得ないような気がするのですが、身贔屓が過ぎるでしょうか。

ところで、残念ながら、事実誤認もありました。谷崎潤一郎や堀辰雄を「戦時下でも翼賛活動をしなかった」としている点です。

谷崎は、昭和17年(1942)に開催された「大東亜文学者大会」で、がっつり「閉会の辞」を述べていますし、堀も同年に展開された「愛国百人一首」運動で、揮毫の筆をふるっています。まぁ、確かに両者とも、光太郎ほどには積極的な翼賛協力はしなかったのでしょうが……。

明日は広島原爆投下の日、9日は同じく長崎、そして15日は終戦記念日。戦後76年ですね。「国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚される」ことのないよう、歴史に学びたいと存じます。

【折々のことば・光太郎】001

朝九時過池田克己氏、八森虎太郎氏同道、再び来訪。一昨夜大沢温泉に一泊、昨夜は花巻に宿泊の由。昨日宮沢家にゆかれし由。 中食を此処でくふ。余も飯盒飯ののこり。 午后ライカによる撮影いろいろ。室内やら畑でやら。

昭和23年(1948)6月30日の日記より
 光太郎66歳

池田克己は、この年、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼しています。

「ライカ」云々は、翌年の『小説新潮』グラビアに載った、池田撮影の光太郎ポートレートに関わると思われます。

その後、池田は昭和28年(1953)、数え42歳で急逝。光太郎は弔電に「ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト」(我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと)の短歌をしたためました。

光太郎生涯最後の大作「乙女の像」の立つ、青森県十和田湖畔でのイベント情報です。

第56回十和田湖湖水まつり

期 日  : 2021年8月7日(土) 8日(日)
会 場  : 十和田湖畔休屋地区
問合せ  : 十和田湖観光交流センターぷらっと 0176-75-1531

①願い事を書いたスカイランタンを大空へ (Sold out)
願いを込めた2,000個の「スカイランタン」が、十和田湖の夜空へ浮かび上がる!
参加費 ¥3,000/個
1個につき2名まで入場可能。未就学児は入場無料。
スカイランタンはヘリウムガスを浮力とし、LEDランプを内蔵、細い糸付きでリリースし、イベント終了後お持ち帰りいただけます。

②十和田湖遊覧船ナイトクルーズ
大人¥2,000/人  小学生¥1,000/人 小学生未満は無料。(Sold out)
桟橋より出発し、幻想的なスカイランタンと花火を湖から望むことが
できる50分のナイトクルーズ。キラキラ光る氷のドリンク付き。
スカイランタンの打ち上げはできません。遊覧のみ。

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17:00受付開始!
入場受付にて、検温・手指消毒・マスク着用をお願いします。ご協力頂いたお客様には チェック済みシールをお渡しします。マスクにお貼りください。WEBチケットまたは紙チケットをご提示ください!

スカイランタンチケットをご購入のお客様へは『スカイランタン引換券』を、ナイトクルーズご乗船のお客様へは『キラキラドリンク引換券』をお渡しします。太陽広場には出店が登場します。屋台フードでお祭りムードを味わいましょう!夕焼けの十和田湖を眺めたり湖畔の散策もおすすめです。

スカイランタンチケットをご購入のお客様は、「十和田湖観光交流センターぷらっと」にて スカイランタンの引換が出来ます。是非スカイランタンには願い事を書いてみてください。ペンをご用意しています!

19:30スカイランタン引換終了
スカイランタンチケットをご購入のお客様は、17:00~19:30までの間に引換をお願いします。

19:40乗船開始
ナイトクルーズご乗船のお客様へは20:00までにご乗船ください。20:10出航~21:00着岸です。 スカイランタンが湖面に映る様子や、花火を湖から眺める事の出来る50分間のクルーズです。船内ではキラキラ光るドリンクを1杯プレゼント! お食事のご用意は ございませんのでご注意下さい。

20:30スカイランタンリリース
皆さまの願いがこもったスカイランタンが夜空と湖面を彩ります。幻想的な世界をお楽しみ下さい。

20:50フィナーレの花火打上
音楽に合わせて約4分間の打上花火がフィナーレを飾ります。

21:00終了
お気をつけてお帰りください。

一昨年の第54回までは、花火大会がメインで、「乙女の像」ライトアップもなされていたのですが、コロナ禍の影響もあり、昨年の第55回から実施方法が、チケット制でランタン打ち上げをメインとする方法に変更となりました。昨年の様子はこちら

また、昨年は無くなった花火の打ち上げが、今年はフィナーレの4分間限定ですが、復活するそうです。

既にチケットは完売だそうですが、キャンセル等あるかもしれません。公式サイトよりご確認下さい。

【折々のことば・光太郎】

尚坂上の地所村の基本財産たる地面を今処分してゐるので希望せずやとの事。村人に分配中、一坪三円程度との事。一緒に行つてみる。坂上の平坦部が欲しい旨のべる。金の都合がつけばそれだけ申し込むつもり。後の余の美術館をつくるつもりのところ。

昭和23年(1948)6月27日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山林が売りに出たそうで……。興味深いのは、「余の美術館をつくるつもり」という構想があったこと。結局、土地の購入も、個人美術館建設も実現しませんでしたが。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。宮城県の女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは光太郎が三陸に向けて東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。

女川光太郎祭は、残念ながら、昨年に引き続きコロナ禍で中止となりましたが、町立の女川つながる図書館さんで、光太郎に関する展示をなさって下さいます
期 日 : 2021年8月7日(土)~8月13日(金)
会 場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
時 間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

光太郎と啄木の短歌・詩・評論を通して、作品に流れる人間観や人生観を知っていただくような展示を行います。
◇図書館の館内を巡りながら、特別展の展示を楽しみつつ観ることができます!!
◇高村光太郎と石川啄木を、わかりやすく知ることができます。
◇入館者に手作りの記念品を差し上げます。
※新型コロナ感染症予防のため、マスクの着用・こまめな消毒、三密の回避のご注意をお願いいたします。
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この手の展示で光太郎に触れて下さるのが、毎年この時期の恒例となっていて、今年で3回目です。
女川つながる図書館特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」。
宮城レポート その2 女川町内各所。
女川つながる図書館特別展「詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~」。


初回の一昨年は光太郎がピンで、昨年は光太郎と交流のあった、同じくみちのくゆかりの宮沢賢治とからめての企画でした。そして今年は、やはりみちのく出身で、光太郎と交流のあった石川啄木とのタイアップです。

会場が特設される訳ではなく、図書館内の書架の上だったり、カウンターの前のちょっとしたスペースだったりを使ってのミニ展示ですが、こういう取り組みを行うことも、大切なことだと思います。

来年以降も継続していただきたいものですし、来年こそは女川光太郎祭の復活も切に祈念する次第です。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃石井鶴三、笹村草家人、有賀剛、千葉金右衛門、旭谷正治郎の五氏来訪。炉辺に招ず。昨夜花巻クルミ旅館泊の由。鶴三氏とは四五年ぶりの面会。他の人は皆初対面。


昭和23年(1948)6月20日の日記より 光太郎66歳

石井鶴三は彫刻家。光太郎と明治期から親しかった画家・石井柏亭の実弟です。笹村草家人も彫刻家で、この後、信州安曇野の碌山美術館建設に奔走、光太郎にも協力を要請しました。

001有賀剛は笹村の友人で、神田小川町の汁粉屋主人。光太郎は2日後には有賀のために複数の書を揮毫しています。そのうち1枚は「悠ゝ無一物満喫荒涼美」。前年に作った連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」の一節、「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」を漢文風にアレンジしたものです。

千葉金右衛門は秋田扇田町(現・比内町扇田)の酒造家。旭谷正治郎は同じく秋田横手出身の画商です。平成27年(2015)には、旭谷宛の光太郎書簡などが展示された「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」が、横手市の雄物川郷土資料館さんで開催されました。

都内から演劇公演の情報です。

第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭 青鞜の女たち

期 日 : 2021年8月7日(土)
会 場 : たましんRISURUホール(立川市市民会館)小ホール
       東京都立川市錦町3-3-20
時 間 : 13:00開演 / 16:00開演
料 金 : (全席自由)1,000円

「元始 女性は太陽であった。」明治44年、日本初の女性の手による女性のための雑誌「青鞜」が発刊された。中心となった人物は、フェミニスト 平塚雷鳥。雑誌は与謝野晶子、松井須磨子、田村俊子らを巻き込み華々しく創刊するが...。欧米ではフェミニズムが叫ばれていた時代、日本ではいまだ良妻賢母の道しかなかった。そんな時代に彼女たちは何を感じ、何を考え立ち上がったのか。社会の風に逆らいながらも強く光り輝く女性たちの物語。

町田市文化事業の一環として町田市こども創造キャンパス「ひなた村」で17年間に亘り開催された演劇教室(講師:高垣葵氏)の卒業生を中心に結成されている市民劇団です。小学生から70代の幅広い年齢の役者が所属しています。劇団員募集中!!
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多摩地区の劇団7団体による「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」の一環です。

初演は今年4月。当方、拝見して参りましたが、『青鞜』に集った多士済々の女性たちを軸に、それぞれの女性に関わった男性たちをからめ、総勢20数名のキャストで、様々な愛憎劇が展開されました。主人公の平塚らいてうと「若いツバメ」奥村博史、与謝野鉄幹・晶子に山川登美子の三角関係、松井須磨子には島村抱月、岡本かの子&一平、神近市子及び伊藤野枝と大杉栄のこちらも三角関係、そしてわれらが光太郎智恵子……。
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コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

猫二匹此頃小屋の近くに出没。魚の骨のすてたのをねらふらし。尚畑仕事中、小屋の中に一匹入り居たり。鼠退治によからんか。


昭和23年(1948)6月17日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋付近。熊や狐などの珍しめの動物も現れましたが、野良猫もやって来たそうで(笑)。

ちなみに下記はわが家の猫です(笑)。
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都内からコレクション展情報です。光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

藝大コレクション展 2021 I 期 雅楽特集を中心に

期 日 : 2021年7月22日(木)~8月22日(日)
会 場 : 東京藝術大学 大学美術館 台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日、8月10日(火) ※ただし、8月9日(月)は開館
料 金 : 一般440円(330円) 大学生110円(60円) 高校生以下及び18歳未満は無料
       ( )は20名以上の団体料金

今年の藝大コレクション展では、竹内久一《伎芸天》、《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》、小倉遊亀《径》をはじめとする名品を紹介するとともに、特集として本学が所蔵する「雅楽に関連する作品」にも焦点を当てます。
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昨年4月から5月にかけて開催予定で、コロナ禍のため中止となった「御即位記念特別展 雅楽の美」展の流れを汲む展示かと思われます。

光雲作品は、木彫の「蘭陵王」(明治37年=1904)。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
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「蘭陵王」は雅楽の演目の一つで、中国北斉(6世紀)の蘭陵王・高長恭の故事にちなみます。長恭は、出陣に当たって、常に自らの美しい顔を勇壮な面で隠して兵を率い、連戦連勝を誇ったとのこと。そこで、この作品も、面が外れるように作ってあります。残念ながら、掲げた右手の先が欠けているなど、保存状態が芳しくないのですが、それにしても見事な作といえましょう。像高30㌢ほどです。

当方、平成14年(2002)に茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際に拝見しましたが、その後、見ていません。

他に、竹内久一の彩色木彫「伎芸天」、小倉遊亀の代表作の一つ「径」などが展示されている「あの名品に会える!」も同時開催。
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コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

外の板を外し、小マヰの張紙をとる。鼠が巣をつくり居り、中から蛇が出てくる。横にしまのある蛇。名を知らず。


昭和23年(1948)6月16日の日記より 光太郎66歳

光太郎、日記の余白にサラサラッと蛇の姿をスケッチしていました。
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蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、奥羽山脈の麓で、湿気が多く、蛇には天国でした。

ちなみに当方自宅兼事務所も低山の麓。やはり近辺で蛇をよく見かけます。3日ほど前に、裏山へ登る坂道で撮った画像。子供の蛇でした。
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