2021年07月

山口県から企画展情報です。

特別企画展「書物の在る処――中也詩集とブックデザイン」

期 日 : 2021年7月29日(木)~9月26日(日)
会 場 : 中原中也記念館 山口県山口市湯田温泉一丁目11-21
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日(祝祭日の場合は翌日) 毎月最終火曜日
料 金 : 【一般】 330円 【大学・高校専門学校の学生】220円 
      18歳以下、70歳以上無料

詩集には美しくデザインされた本が数多くあります。詩人たちは詩集を通じて自らの作品世界を表現するために、装幀にさまざまな工夫を凝らしてきました。
中原中也の詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』、3冊のランボー翻訳詩集もまた、高村光太郎、青山二郎、秋朱之介(あきしゅのすけ)らといった、個性豊かな装幀家、出版人の手によってかたちづくられました。それらの佇まいには中也と装幀家それぞれの思いが映し出されています。
本展では、中也と装幀家たちとの関わりや彼らの美意識、そして大正から昭和初期にかけて出版された詩集のブックデザインを紹介します。
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関連行事等

特別コーナー「中也の詩集をいま作るなら……」
昭和初期に出版された中原中也の2冊の詩集『山羊の歌』と『在りし日の歌』。これらが現代に出版されるなら、どのような装幀の詩集になるでしょうか?現代に生きる装幀家、詩人、アーティストが中也の詩の世界を新たな視点で捉え、今なお色あせることのないその魅力と現代性を、“詩集”という形によって表現し、その作品を展示します。
【参加メンバー】岡本啓(詩人)、カニエ・ナハ(詩人、ブックデザイナー)、佐野裕哉(グラフィックデザイナー)、ゾエ・シェレンバウム(アーティスト)、鈴木啓二朗(アーティスト)、秦博志(資料修復家)[50音順、敬称略]

オンライン座談会「中也詩集を装幀して」
8月7日(土)13:30~15:30
「中也の詩集をいま作るなら……」の参加メンバーのうち4名が、中也の詩集を装幀してみて感じたことや制作の裏話、ブックデザインについて思うことなどを語ります。要予約

オンラインワークショップ「青山二郎の装幀術にまなんでみる」
8月22日(日)13:30~15:30(予定)
講師 カニエ・ナハ(詩人、ブックデザイナー)
定員 15名程度(要申込・先着順)
対象年齢 小学生以上(低学年は保護者等にサポートがあると好ましい)
用意するもの ハサミ、糊、ペン(筆ペン)等
開催方法 Zoomを利用してオンラインで開催


元々、昨年開催されるはずだったようですが、あはりコロナ禍で延期となったとのこと。

自著をはじめ、生涯にかなりの数の装幀を手がけた光太郎。中也の『山羊の歌』(昭和9年=1934)のそれも光太郎です。
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もちろん題字の揮毫も光太郎。美しい、という感じの書体ではありませんが、光太郎にしか書けない味わい深い文字です。

そこで、キャプションにあるように、中也は「高村さんのような字が好きなんだ、あれはいい字だよ」と語ったとのこと。当方に言わせれば、中也は中也で、実に「いい字」を書いていたのですが……。
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『山羊の歌』をはじめ、中也著書の装幀に的を絞った企画展。関連行事等も充実しています。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

富蔵さんが、余のアトリエ建築につき骨折りたい意見ある由をきかせる。木材なども今買つた方が後よりもやすからんといふ。考へて置く事にする。大体は今とりかかる気の無き旨答へておく。


昭和23年(1948)6月15日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋。村人たちや花巻町の人々が、再三、光太郎にアトリエを建ててあげようとしました。しかし、当の光太郎は、なかなか乗り気になりません。やはり戦時中の翼賛活動を恥じての「自己流謫」中、ということで、きちんとした彫刻制作は封印する、という厳罰を自らに課していたためです。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松からの情報です。

プレスリリースから。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/31(土)開幕! 今年で開催10周年!カラフルなインスタ映えメニューも多数登場!

 富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2021年7月31日(土)~9月20日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。

 今年で10年目を迎える本イベントは、光の天の川を中心に花や動物などをモチーフにした様々なイルミネーションが楽しめる夏の風物詩です。60万球にパワーアップした今年は、「光の天の川」が過去最多の8色になって光り輝くほか、虹色の「光のアーチ」やたくさんのひまわりが壁に飾り付けられた「光のサンフラワー」などフォトジェニックなスポットが新たに登場し、安達太良山の斜面を彩ります。また、暗闇に光るかき氷や、光る氷ドリンクといった光るメニューも登場し、イベントを盛り上げます。

 さらに、期間中の特定日には、あだたら高原の夜空に願いを込めてたくさんのスカイランタンを浮かべる参加型のイベント「LEDスカイランタンフェスティバル」も開催。イルミネーションの輝きと相まって、ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。

 また、夜だけではなく昼から来ても楽しめる「あだたら高原リゾート」では、夏限定の爽やかなメニューが多数登場。梅の酸味がアクセントの「梅とチキンのさっぱり冷やしうどん」や岳温泉名物の温泉たまご「とろんたま」と納豆、オクラ、みょうががトッピングされた「とろんたま入り 冷やしネバトロうどん・そば」のほか、高村光太郎の『智恵子抄』で謳われた「ほんとの空」をイメージした「あだたらソーダ」や「あだたらかき氷ソフト」はインスタ映え間違いなしです。
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 あだたら高原リゾートでは、ご来場いただく全てのお客様に安心してお楽しみいただけるよう、感染症対策を徹底しております。この夏は、阿武隈の山々を見渡す絶景の大パノラマと幻想的なイルミネーションの世界を楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

【「あだたらイルミネーション」概要】
・開催期間
 2021年7月31日(土)~9月20日(月祝)
 ※8月30日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
・営業時間
 19:00~21:00
 ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
・料金
 入場料:中学生以上500円、小学生以下300円
 入場料とロープウェイ乗車料のセット:中学生以上1,300円、小学生以下800円
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■ LEDスカイランタンフェスティバル開催!
 昨年初開催し大好評をいただいたイベント「LEDスカイランタンフェスティバル」が今年の夏パワーアップして開催。オレンジ、ピンク、グリーン、ブルー、レッドの5色のランタンが登場。ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。
・開催日
 8月7日(土)、14日(土)、21日(土)、28日(土)、
 9月4日(土)、11日(土)、18日(土)、19日(日)
・時間
 18:00受付開始、20:00ランタンリリース予定
・料金
 3,500円(ランタン1基、イルミネーション入場料1名分含む)
・参加方法
 各開催日前日までの予約申込み
 ※各日先着100名様限定
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というわけで、盛りだくさんの内容となっています。

スカイランタンフェスティバル、昨年は秋口に行われましたが、好評につき、回数が倍増しました。こちらは「ほんとの空に願いをこめて」のサブタイトルが付いています。

「ほんとの空」をイメージした「あだたらソーダ」や「あだたらかき氷ソフト」、この季節、毎日でも賞味したいものです(笑)。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

キヤベツにたかる蟲にD・D・T・をまく。

昭和23年(1948)6月10日の日記より 光太郎66歳

「DDT」は「ジクロロジフェニルトリクロロエタン」、日本では現在使用禁止となっている強力な殺虫剤です。

当方の年代ですと、かつてそういうものが使われていた、という知識はありますが、現物は見たことがありません。若い世代の皆さんには、「何のことやら?」でしょう。

農薬以外に、シラミ等の駆除にも用いられ、終戦直後などは、子供たちが頭からぶっかけられた、などということもあったようです。

『福島民報』さんの記事で、智恵子の故郷、福島二本松からの情報です。

周遊観光タクシーが20日から半額 来年2月末まで 福島県二本松市

 夏の観光シーズンに合わせ、福島県二本松市内の名所を巡る「にほんまつ周遊観光タクシー」が20日から通常の半額で利用できる。二本松地区ハイヤータクシー経営者協議会の企画で来年2月末まで。
 JR二本松駅と岳温泉発着で市内を巡る15コースを想定している。4人乗りの小型の場合、二本松駅発着で霞ケ城公園、智恵子の生家、市内各蔵元を巡る「ほろ酔いコース」は、通常1万円が5000円に、岳温泉発二本松駅着で東北サファリパーク、霞ケ城公園、安達ケ原などを巡るルートは通常1万2000円が6000円になる。
 問い合わせ、予約はタクシーを運行する昭和タクシーか、丸やタクシーへ。

二本松市さんのサイトに、パンフレットが出ています。
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昨年も同様のキャンペーンを打っていましたが、好評につき、今年も実施、というところでしょうか。現地では、路線バスも無くはないのですが、やはり玄関横付けで廻れるタクシーの方が楽でしょう。

公共交通機関を利用してあちら方面に行かれる際には、ぜひご利用下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる前藤島宇内氏の「谷間より」といふ題簽を二枚書き封書にする。


昭和23年(1948)6月8日の日記より 光太郎66歳

藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』に拠った詩人です。『歴程』同人の中では、戦後、いち早く光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れています。

その後も、昭和27年(1952)になって、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の際には、青森県とのパイプ役の一人となり、さらに光太郎上京後には、中野のアトリエに足繁く通い、身の回りの世話等をしてくれました。
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情報を得るのが遅れまして、始まっていますが……。

皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―

期 日 : 2021年7月20日(火)~8月29日(日)
会 場 : 九州国立博物館 福岡県太宰府市石坂4 - 7 - 2
時 間 : 9時30分〜17時00分
休 館 : 月曜日  ただし8月9日(月)8月16日(月)は開館。8月10日(火)は休館
料 金 : 一般 2,000円 高大生1,200円 小中生800円

 天皇陛下の御即位にともない、新たな時代を迎えました。新たな御代(みよ)をことほぎ、新元号「令和」ゆかりの地、太宰府において、皇室の名宝をご紹介する展覧会を開催いたします。

 本展は、宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する皇室のコレクションの中から、皇室の御慶事(ごけいじ)に際して九州各地から献上された品々や、各時代の日本美術の名品をとおして、皇室の文化継承、皇室と九州の深いつながりをご紹介します。時代を越えて皇室が守り伝えてきた貴重なコレクションが、九州の地でまとまって公開される初めての機会です。
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関連行事

①記念対談「やきもの王国・九州と近代の皇室」(終了)
日時:令和3年7月24日(土)13時30分〜15時30分
出演:沈壽官 氏(沈壽官窯十五代・陶芸家)、岡本隆志 氏(宮内庁三の丸尚蔵館・主任研究官)

②記念講演会「美を伝えゆく―《動植綵絵》と《春日権現験記絵》の修理をとおして」
日時:令和3年8月8日(日)13時30分〜15時00分
講師:太田彩 氏(宮内庁三の丸尚蔵館・首席研究官)

③特別展リレー講座
日時:令和3年8月1日(日) 会場:九州国立博物館1階ミュージアムホール
[13時30分〜14時10分]「九州と帝室技芸員」
  望月規史(九州国立博物館主任研究員)
[14時20分〜15時00分]「皇室と九州・沖縄をむすぶ美」
  原田あゆみ(九州国立博物館文化財課長)
定員:140名(*変更する場合があります)
*聴講無料、ただし本展観覧券もしくはQRチケット画面の提示が必要
[申込み方法]往復はがき、もしくは下記サイトで受付。
ご希望のイベント名、郵便番号、住所、希望者全員の氏名(ふりがな)、電話番号、人数(1通につき最大2名まで受付可)を明記の上、下記宛にお申し込みください。

④公開イベント 「さかなクンと一緒にむかしの海を探検だ!」(終了)
日時:令和3年7月25日(日)第1回 11時00分~11時45分・ 第2回 14時00分~14時45分
出演:さかなクン



光太郎の父、光雲の手になる作が2点、出ています。

まず、宮内庁三の丸尚蔵館さん所収の大きな木彫「松樹鷹置物」(大正13年=1924)。
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そしてブロンズの「萬歳楽置物」(大正5年=1916)。こちらは木彫原型が、光雲と、その高弟の山崎朝雲の作、螺鈿の施された台座部分の制作者は、由木尾雪雄という蒔絵師です。大礼(即位式)に際して貴族院から大正天皇に献上されました。

それぞれ拝見したことがありますが、共に逸品です。

その他、奈良時代から昭和までの、まさしく「名宝」がずらり。出品目録はこちらです。特に、今月、国の文化審議会から国宝指定の答申があった、「蒙古襲来絵詞」(13世紀)、伊藤若冲の「動植綵絵」など、タイムリーな作も出品されています。
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011ちなみに同時に答申された、高階隆兼の「絹本著色春日権現験記絵」、小野道風の「屏風土代 保延六年十月廿二日藤原定信奥書」も、今回の九州国立博物館さんで展示されています。

これまで、こうした皇室所蔵の作は、慣例的に、文化財指定の対象外とされてきたところがありましたが、今回の答申から、そのタブーが取り払われました。

そうなると、光雲の「松樹鷹」なども、やがては、国宝とまではいかなくとも、重要文化財指定くらいは受けてもおかしくありません。

ただ、三の丸尚蔵館さんの収蔵品は1万点近くを数え、そのうち国宝や重要文化財級は約2,500点といわれていますので、少しずつ、ということになるのでしょう。

さて、コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝佐藤弘さん、配給の作業衣を届けてくれる。新製品にて大きさよろしく、品もわろくなし。250円にては安価也。


昭和23年(1948)6月3日の日記より 光太郎66歳

「佐藤弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入植していた青年です。当時、開拓者には配給が多く、しかし、配給といっても無料ではありませんでした。そこで佐藤は買いきれないものを光太郎に廻していたようです。

当該の「作業衣」、これかな、と。
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6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」を放映して下さっている、地上波日本テレビ系「心に刻む風景」。第5回の放映が明日夜です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子⑤ 栃木県塩原温泉…最後の旅 泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する

地上波日本テレビ 2021年7月28日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#5 舞台(栃木 塩原温泉)
昭和8年、統合失調症を患った智恵子のために柏屋旅館に滞在。
智恵子を少しでも癒そうと自然の中に連れ出し、優しく寄り添う。
しかしこれが2人にとって最後の旅になってしまう。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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昭和8年(1933)8月24日から、9月初旬にかけての、光太郎智恵子最後の二人旅。

8月23日、光太郎は心を病んだ智恵子と初めて正式に結婚。その届けを本郷区役所に提出しました。この時光太郎、数え51歳、智恵子は同じく48歳。光太郎にしてみれば、万が一、自分の方が先に逝くことになってしまったら(実際、光太郎も既に結核に罹患していました)、事実婚だった智恵子は何も相続できないので、その関係です。

24日に東京を発ち、翌25日には、福島二本松の智恵子実家の菩提寺・満福寺さんで墓参、その足で裏磐梯川上温泉に向かいました。
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その裏磐梯での思い出を、約5年後、詩にしたのが、「山麓の二人」。

  山麓の二人那須

 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡いて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたくしは黙つて妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたくしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。

この詩の一節が、明日の放映のキーセンテンスとして使われます。

二人はその後、宮城蔵王の青根温泉を経て、9月1日には再び福島に戻り、土湯温泉の旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。この旅館は平成25年(2013)に火災焼失、現在は焼け残った露天風呂を使い、日帰り入浴施設として再オープンしています。

そして、9月4日、この旅最後の宿泊地、塩原温泉。右上の画像は、二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたもので、現存が確認できている智恵子最後の写真(その後、翌年に九十九里で撮った写真もあったらしいのですが、当方、未見)です。

番組では、塩原の映像を中心に、この光太郎智恵子最後の旅をふりかえるとのこと。全6回の構成の中で、最も悲しい回となりそうです。

先週、7月21日(水)の放映は、真逆の内容で「幸せのひととき」。光太郎智恵子がお気に入りだった、日比谷松本楼さんが舞台でした。
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記録に残っている、光太郎智恵子の日比谷松本楼さん来店は、明治45年(1912)の7月。先々週放映の犬吠埼篇より前でしたが、その後も訪れただろう、ということで。
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引用されたのは、詩「人類の泉」(大正2年=1913)の一節。
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毎年4月2日、連翹忌の集いの会場として使わせていただいている日比谷松本楼さん。昨年と今年は、コロナ禍のため中止と致しましたが、ワクチン接種もそれなりに進んでいますので、来春には、またここで皆様にお目にかかれると信じております。

さて、明日の塩原温泉篇、オリンピック中継の合間に(笑)ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヨタカの声しきりにきこえる。


昭和23年(1948)5月28日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、ヨタカも生息していたのですね。そういえば、やはり花巻の宮沢賢治の童話に「よだかの星」(大正10年=1921頃)がありますね。


当方、見たことも、啼き声を聞いたことも無いように思います。

ちなみに賢治が没したのは、光太郎智恵子が塩原から東京に帰ってすぐの9月21日。光太郎は智恵子を置いて駆けつけることも出来ず、当会の祖・草野心平に金を握らせ、派遣しました。

昨日は、千葉県印西市に行っておりました。お世話になっています、書家の菊地雪渓氏が、書道塾を開設なさったということで、そのお祝い的な。

菊地氏、たびたび光太郎詩を題材にされた作品を書かれ、各種展覧会で入賞なさったりしています。

第38回日本教育書道藝術院同人書作展
第40回東京書作展
第42回東京書作展

また、そうした作品を、連翹忌レモン忌にお持ち下さったり、書家の眼から見た光太郎書について高村光太郎研究会で発表されたりなさっています。その発表は活字にもなさいましたが、慧眼、と唸らされるものでした。

菊地氏、築80数年という古民家を借りられ、書道塾を始められたということで、これは行かざぁなるめい、と、参上した次第です。HPはこちら

印西市も意外と広く、都心に近い千葉ニュータウンなどがある区域ではなく、北部の利根川に近い木下(きおろし)方面で、江戸時代には利根川水運の木下河岸(きおろしがし)が栄えた地域。したがって、後で紹介しますが、レトロな建物も多く残っています。
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元は医院だったという建物だそうですが、実にいい感じです。

部屋の間仕切りの戸は、障子紙でなく磨りガラス。昭和初期としてはモダンです。桟に施された地紋も手が込んでいます。

伝統的な「麻の葉」が多い感じでした。
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菱紋や、工字紋、井桁紋の変形的な紋様も。
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古建築好きにはたまりません(笑)。

ちなみにこの手の地紋は、光太郎も少年時代から木彫の修業の一環で、毎日のように木の板に彫っていました。光太郎曰く、声楽家の発声練習のようなもの、だそうで。昭和17年(1947)刊行の評論集『造型美論』中の「木彫地紋の意義」には、実際に光太郎が彫った地紋の拓本が図版として掲載されています。
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ダミーのマントルピース。当方の祖父(職業軍人でした)宅にもありました。これもモダンな邸宅のお約束です。
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教室として使われている部屋は、こんな感じ。
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内閣総理大臣賞に輝かれた作品が展示されていました。
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菊地氏と、あれこれお話をさせていただきました。

その際に頂いた、書道塾のパンフレット等。
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京扇子の白竹堂さんと組まれて、扇面揮毫の販売もされているそうです。智恵子の遺した言葉「世の中の習慣なんて……」を書かれたものもラインナップに。残念ながら、昨日の段階では品切れということでゲットできませんでしたが(笑)。
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菊地氏、今後も光太郎詩文に取り組まれるそうで、さらなるご健筆を祈念いたしつつ、帰途に就きました。

ところで、書道塾さんに伺う前、約束の時間に遅れちゃ行けないと思って、少し早めに自宅兼事務所を出たところ、早く着きすぎてしまったので、ほど近い場所の古建築を見て廻りました。

現役の蕎麦屋、「柏屋」さん。
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現在は単に車庫として使われているらしい建物。
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昔は医院だった建物。いかにもです。
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醸造業の蔵元的な。
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KIMG5252国指定天然記念物の「木下貝層」を切り出して作った石灯籠。約12万年前、このあたりが内海だった頃の名残です。

その他、開館日ではなかったので割愛しましたが、蔵を改装して作られた「吉岡まちかど博物館」さん、古民家カフェの「町家カフェむさしや改めShimiya」さんなど、古建築好き必見のスポットも数多く遺っています。

印西書道塾さんと併せ、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに書道塾さんでは、7月31日(土)に以下のイベントを企画されているそうです。

【 題目 書に触れる 】
日時:7/31(土)
対象:大人(高校生以上)10:00~12:00
   児童(中学生以下)14:00~16:00
会費:無料
予約:要(電話にてご予約ください)
電話:0476-33-6382
人数:先着8名様
道具:不要(こちらでご用意します)
内容:主に漢字について、その発祥から現在にいたるまでの流れに従って、気楽に座談会形式でお話しします。最後に実際に筆を持って中国の故事や日本の俳句などお好きなものを書いてみましょう。書道に触れる良い機会と思います。どうぞお気軽にご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

武者小路さんに返事、新しき村展覧会への出品はどうか分からぬ旨。


昭和23年(1948)5月26日の日記より 光太郎66歳

この葉書が、調布市武者小路実篤記念館さんに現存しています。

おてがみいただきました。あの変な詩を快くうけ入れて下さつた事を感謝してゐます。雑誌からもらつた金は大いに助かりました。
新しい村三十年記念展覧会に出品の事まだ何ともお答へ出来ません。穣さん御承知の通りの光線メチヤメチヤな小屋なのでまだ本格的な彫刻は始めません。やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎないので、東京の展覧会に送るのはどうかと思つてゐますが、いづれ来月□手紙で申上げる事にいたします。今日は茄子の移植をやります。

あの変な詩」は、この年、武者小路が主幹となって発刊された雑誌『心』に掲載された「人体飢餓」と思われます。「□手紙」の「」は染みのため判読不能でした。

メインは、この年秋に神田共立講堂で開催された「新しき村三十周年を祝う会」に関する内容です。「穣さん」は武者小路の三女・辰子の夫で後に和光大学名誉教授を務めた武者小路穣(みのる)。この当時、日本読書購買利用組合(のち日本読書組合と改称)に勤務、光太郎が編集に当たった『宮澤賢治文庫』の出版に携わっていました。

やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事」に関しては、そうして作られたものの現存は確認できていません。

同じ日の日記に「阿部さんの魚板彫刻は南部の鮭にきめたり」とありますが、前後に関連する記述が無く、「阿部さん」も誰だか分かりません。おそらく、親しかった林檎農家の阿部博かな、という気もするのですが。

情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

新刊です。といっても、2ヶ月ほど経ってしまいましたが。

博覧男爵

2021年5月20日 志川節子著 祥伝社 定価1,800円+税

日本に始めて博物館を創り、知の文明開化を成し遂げた挑戦者!

幕末の巴里(パリ)万博で欧米文化の底力を痛感し、武力に頼らないに日本の未来を開拓する男がいた!

日(ひ)の本(もと)にも博物館や動物園のような知の蓄積を揃えたい!

黒船の圧力おびただしい幕末。信州飯田で生まれ育った田中芳男は、巴里(パリ)で行なわれる万国博覧会に幕府の一員として参加する機会を得た。その衝撃は大きく、諸外国に比して近代文化での著しい遅れを痛感する。軍事や産業を中心に明治維新が進む中、日の本が真の文明国になるためには、フランス随一の植物園ジャルダン・デ・プラントのような知の蓄積を創りたい。「己れに与えられた場で、為すべきことをまっとうする」ことを信条とする芳男は、同じ志を持つ町田久成や大久保利通らと挑戦し続け、現代の東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いていく……。
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田中芳男(天保9年=1838~大正5年=1916)は、元々、信州飯田の医師の家に生まれ、本草学を修めました。その後、興味の対象が広がる中で、幕府の蕃書調所に出仕、博物学者として名を成します。

慶応3年(1867)のパリ万博に出張し、彼の地の文化施設、物産等を実地に見て、日本を文化先進国とする大望を抱いて帰国。幕府の瓦解や戊辰戦争、西南戦争など、様々な苦難を乗り越え、日本でも各種の博覧会を開催、そして東京帝室博物館(現・東京国立博物館)などを造り上げました。「政治や軍事、産業の面ばかりに目が向きがちだが、文化面での開化なくして真の文明国とはいえない」という信念が、そこにありました。

その功績が認められ、晩年の大正4年(19815)、男爵位に列せられたため、タイトルが「博覧男爵」となっています。

物語の終盤近く、明治10年(1877)、第一回内国勧業博覧会が上野で開催されるという場面で、出品者を募る中、田中が光太郎の父・光雲の師匠であった高村東雲の工房を訪れるシーンがあります。

「博覧会」と言われても、東雲はじめ、何のことだか分からないという人が殆どでした。そこで田中は、「何も特別なものではなく、普段作っているようなものを出品してくれればいい」と、東雲に告げます。すると東雲、「それでは弟子の光雲に作らせましょう」。田中が「それは困る」と言うと、東雲は「いや、この者の技倆は保証します」。

このあたりのやりとりは、作者・志川さんの創作かな、という気がしますが、いずれにせよ、光雲は東雲の名で白衣観音像を制作し、出品。見事、一等龍門賞に輝きました。

ところで、慶応3年(1867)のパリ万博といえば、かの渋沢栄一(当時・篤太夫)も、徳川慶喜の実弟・徳川昭武の随員として参加しています。そこで、本書でも、ちらっと渋沢が登場しています。

また、渋沢を主人公とするNHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」、7月11日(日)の放映がまさにパリ万博の模様でした。
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キャストとして、田中の名はクレジットされていませんでしたが、上の画像の武士団の一人が田中、という感じですかね。

それにしても、現在、双子パンダの誕生に湧く上野動物園さんや、光太郎の母校・東京美術学校(現・東京藝術大学さん)などを含めた上野一帯の各文化施設が、どういう経緯で整備されていったのかなど、非常に興味深く拝読いたしました。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時学校増築上棟式に列席。つついて校庭にて宴会。拡声器など使つて唄つたり踊つたり。歌のうまき人数人あり。五時頃けへる。折詰やお祝の餅をもちかへる。

昭和23年(1948)5月24日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても500メートルほど離れていますが)の、山口小学校。この年4月、分教場から小学校に昇格しました。

それにしても、のどかですね(笑)。しかし、光太郎が帰った後、「会計に関する事のもつれ」で、村の顔役同士の乱闘騒ぎが起きたそうで(笑)。

今月16日、今年度の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定の答申がありました。

「共同通信」さん。

人間国宝に新たに4人、琉球舞踊初認定 文楽勘十郎さんも

 文化審議会は16日、重要無形文化財保持者(人間国宝)に、琉球舞踊立方の宮城幸子さん(87)=那覇市=と志田房子さん(84)=東京都練馬区=ら4人を認定するよう萩生田光一文部科学相に答申した。琉球舞踊の分野からの人間国宝は初めて。
 他の2人は人形浄瑠璃文楽の人形遣いの桐竹勘十郎さん(68)=大阪市=と茶の湯釜の角谷勇圭さん(78)=大阪府東大阪市。政府は秋にも答申通り告示し、人間国宝は計114人となる。
 琉球舞踊は2009年に国の重要無形文化財に指定されたが、その技術を体得した個人を認定する人間国宝はいなかった。今回踊り手の「立方」2人が選ばれた。
 勘十郎さんの父は人間国宝の故宮永豊さん。勘十郎の名は父から継いだ。同じく人間国宝で女形遣いとして定評があった吉田簑助さんに師事し、立役(男役)が得意な父からも学んだことで役柄を広げた。伝統工芸の茶の湯釜は、保持者の死去で09年に解除されて以来となる。角谷さんは父も茶の湯釜の人間国宝だった。
 文化審はこのほか、指定済みの重要無形文化財の保持者団体構成員として、一中節保存会(東京・港)の1人の追加認定も求めた。一中節は三味線音楽の一種。

今回、認定のための答申があった4名の方のうち、文楽の桐竹勘十郎さん。NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」に準レギュラーとして時折出演され、文学作品の一節等を人形を遣いながら演じられています。

光太郎詩も、複数回。『智恵子抄』から、「人に」(大正元年=1912)と「あどけない話」(昭和3年=1928)。
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『日本経済新聞』さん。

「常に新しいことを」文楽・桐竹勘十郎さん人間国宝に

 「師匠からは電話で『おめでとう』と5回。大変うれしかった」人形浄瑠璃文楽の人形遣い桐竹勘十郎さんは認定を受けた喜びとともに、今年4月に引退した人間国宝の師匠吉田簑助さんへの思い、感謝の言葉を繰り返した。「その後、師匠の奥様から『現役の時に一緒になりたかったな』とおっしゃっていたとうかがいました」
 1953年、大阪生まれ。父は立役を中心に遣い豪快な芸風で鳴らした、二代目勘十郎さん。14歳の時、人形遣いになりたいと話すと父は屈指の女形遣いである弟弟子、簑助さんへの入門を指示した。父と師匠、2人の人間国宝の芸を継ぎ、立役、女形問わず命を吹き込む表現力、チャリ(笑いを誘う滑稽な演技)も我が物とする芸域の広さが高く評価される。
 54年間、芸を磨いてきた日々を「役、人形、文楽自体を好きになることが上達への一番の近道だった」と振り返る。「若い人たちにもそう伝えている。これからは後進の指導・育成を第一に。もっともっと力を入れていきたい」。次代への継承を担う責任と覚悟も新たにする。
 若い頃から他ジャンルとの交流や子供向けテレビ番組への出演、文楽では珍しい新作の執筆など魅力発信にも積極的に取り組んできた。今後も「文楽の未来のために(多くの人に)見に来て、喜んでいただける新作は必要だと思う」。「常に何か新しいことをやりたい。もうこれは性分。そのために健康で長く続けたい」とさらなる活躍を誓う。
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関西テレビさん。

人形浄瑠璃 文楽 桐竹勘十郎さん人間国宝に認定へ

 人形浄瑠璃文楽の桐竹勘十郎さんが国の重要無形文化財「人間国宝」に認定されることになりました。
 桐竹勘十郎さん(68)は、女方・立役を問わず抜きん出た表現力を持つ人形遣いで文楽の上演に欠かせない存在です。
 後進の育成にも尽力するなど業績が評価され秋にも「人間国宝」に認定されることになりました。
【桐竹勘十郎さん】
「日に日に身が引き締まるといいますか、これはえらいことになったなという感じです」
 師匠で人間国宝の吉田簑助さんは今年4月に引退したばかりでした。
【桐竹勘十郎さん】
 「おめでとうおめでとうおめでとう、ずっとおめでとうを言ってくれはったんです。それがものすごく嬉しかったんです」
 勘十郎さんは8月3日まで大阪の国立文楽劇場の公演に出演しています。
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今後とも、さらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

朝のみそ汁にハウレン草、山東菜を入れる。山東菜相当に育ち、間引にして汁に丁度よし。
昭和23年(1948)5月16日の日記より 光太郎66歳

「山東菜」は、白菜の仲間だそうです。育ちすぎるのを間引いて、汁の実にする、かしこいですね。

7月18日(日)の『東京新聞』さん。現代教育行政研究会代表・前川喜平氏によるコラムで、光太郎の父・光雲と、光太郎について触れられていました。

本音のコラム 楠木正成の亡霊

 二〇二一年防衛白書が公表された。台湾情勢の安定が日本の安全保障にとって重要との記述が盛り込まれたが、このような記述は専守防衛の原則を逸脱している。 
 だが、僕がまず違和感を持ったのは、その表紙が皇居外苑の楠木正成像を描いた墨絵だったことだ。高村光雲と弟子が造ったこの銅像は確かに傑作だが、なぜそれが防衛白書の表紙なのか。 戦前の皇国史観において、楠木正成は天皇に忠義を尽くした忠臣と称(たた)えられた。七生滅賊(七回生き返って朝敵を滅ぼす)は正成が残した言葉だ。
 高村光太郎が敗戦後に書いた「楠公銅像」という詩がある。楠木像の木型を天皇にご覧に入れたとき剱(つるぎ)の楔(くさび)を一本打ち忘れたため、風が吹くたび劔が揺れた。「もしそれが落ちたら切腹と父は決心していたとあとできいた」「 父は命をささげていたのだ。 人知れず私はあとで涙を流した」この詩は父光雲の忠義を賛美しているのではない。それに感動した自分を深く反省しているのだ。
 光太郎は「典型」という詩で自らを「三代を貫く特殊国の特殊の倫理に鍛えられ」た「愚劣の典型」と呼んだ。 楠木正成に象徴される忠君愛国の倫理を捨て、その倫理に染まっていた愚劣な自己と決別したのである。私たちは光太郎の精神的転回を追体験すべきだ。 楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。 

001右が問題の『防衛白書』表紙です。前川氏のコラムを読む前に、この表紙を目にしましたが、やはり当方も強烈な違和感を感じました。最初に見たのはツィッターででした。ネトウヨが「素晴らしい! 七生報国の精神の顕現だ!」と大絶賛していたのです。

前川氏もおっしゃる通り、光雲が主任となって造られた楠木正成像、この時代の銅像としての出来は群を抜いています。また、楠木正成という人物が、ある種の「英傑」であったであろうことを肯んずるにも吝かではありません。また、西元祐貴氏による雄渾な墨絵も確かに素晴らしいと思います。

しかし、なぜ、『防衛白書』に楠木正成なのか、ですね。どうも、本当は東郷平八郎なり、山本五十六なりを持ってきたかったものの、そうもいかないので、仕方がないから楠木正成、というふうに感じられます。深読みしすぎでしょうか?

さて、前川氏が引かれている光太郎詩「楠公銅像」(昭和22年=1947)、以下の通りです。

    楠公銅像002


 ――まづ無事にすんだ。――
 父はさういつたきりだつた。
 楠公銅像の木型(きがた)を見せよといふ
 陛下の御言葉が伝へられて、
 美術学校は大騒ぎした。
 万端の支度をととのへて
 木型はほぐされ運搬され、
 二重橋内に組み立てられた。
 父はその主任である。
 陛下はつかつかと庭に出られ、
 木型のまはりをまはられた。
 かぶとの鍬形の剣の楔が一本、
 打ち忘れられてゐた為に、
 風のふくたび剣がゆれる。000
 もしそれが落ちたら切腹と
 父は決心してゐたとあとできいた。
 茶の間の火鉢の前でなんとなく
 多きを語らなかつた父の顔に、
 安心の喜びばかりでない
 浮かないもののあつたのは、
 その九死一生の思が残つてゐたのだ。
 父は命をささげてゐるのだ。
 人知れず私はあとで涙を流した。

光太郎が、戦時中の翼賛活動を推進したことを恥じ、戦後になって蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれました。自らの半生を振り返って書かれた20篇から成る連作詩「暗愚小伝」中の1篇です。

「暗愚小伝」全体は、翼賛活動の積極的推進に関わった自らの「暗愚」を表出するものですが、「楠公銅像」を含む幼少年期を振り返った「家」の項7篇は、そうした意識は薄いと思います。のちに「天皇あやふし」と思うに到った愚劣な自己が、どのように形成されたのか、――吉本隆明の指摘する「骨がらみ」の問題――という自己分析の側面が強いと思われます。

いずれにせよ、前川氏の箴言どおり、「楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。」ですね。

【折々のことば・光太郎】

朝のみそ汁にアイコを入れる。この山菜美味。


昭和23年(1948)5月15日の日記より 光太郎66歳

「アイコ」は俗称で、正式には「ミヤマイラクサ」。光太郎が蟄居していた岩手のお隣、秋田では「山菜の女王」と呼ばれ、珍重されているそうです。






当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の書評が、『毎日新聞』さん及び系列の地方紙に掲載されました。

『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』=北川太一・著、小山弘明ほか監修 (文治堂書店・1650円)

000 北川太一は1925年生まれ。長く高校の定時制教員を務める傍ら、高村光太郎(1883~1956年)の全集編纂(へんさん)、研究、顕彰に努めた。旧制東京府立化学工業学校で同学年だった吉本隆明が評論『高村光太郎』(決定版、66年)で北川への信頼、畏敬(いけい)を記すなど、知る人ぞ知る存在である。2020年1月に94歳で没した。死の前年に書かれた遺稿に親交のあった人々の文章を加え、「追悼/回想文集」を兼ねる。
 遺稿の表題は、宮沢賢治(1896~1933年)の「雨ニモマケズ」中にある「デクノボー(木偶の坊)」と、光太郎が戦後に書いた詩「暗愚小伝」の「暗愚」を指す。どちらも複雑な自己規定を語る言葉だが、北川はこれらをキーワードとして両者の関わりを掘り下げている。
 光太郎が早くから賢治を高く評価したことは知られているが、著者は、ほぼすれ違いに終わった二人の交渉、戦後の光太郎が賢治とのゆかりで岩手県花巻近郊に送った流謫(るたく)の過程を丹念にたどる。その上で「雨ニモマケズ」の「反語」性という大胆な仮説を提示しつつ、デクノボーから暗愚への一筋の連なりを見いだす。生の意味を問う魂の軌跡。


「監修」を頼まれ、まぁ、結局、集まった原稿(原稿の選定は版元の文治堂書店さん)に、おかしなところはないかのチェックをし、手直し。さらに30ページほどで解説のような文章「「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一」を書かせていただきました。

最も悩んだのは、タイトルの「デクノバウ」。

元々、賢治が昭和6年(1931)、手帳に記した段階では「デクノボー」となっていました。
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ではなぜ、北川先生が「デクノバウ」としたのかというと、光太郎が、賢治没後の昭和13年(1938)に、雑誌『婦人之友』に発表した散文「宮沢賢治の詩」で、「デクノバウ」と表記しているためです。

光太郎は、

此の詩人の死後、小さな古い手帖の中に書き残された言葉があつた。その人となりを知るに最も好適なので此処に採録して置く。

とし、この後、「雨ニモマケズ」全文を記しています。その中で、該当箇所が「デクノバウ」となっているのです。光太郎、この時、手帳そのものを見ながら筆写したわけではなく、既に活字になっていたものから引き写したと思われます。ちなみに歴史的仮名遣いでは「木偶の坊」は確かに「デクノバウ」となります。おそらく賢治は「木偶の坊」という漢字表記を思い浮かべることなく、発音通りに「デクノボー」と書いたのではないでしょうか。

そして北川先生も、光太郎の「宮沢賢治の詩」を最初に引いていらして、そのため、「デクノバウ」とされているのです。

そこで、賢治が書いた通りに「デクノボー」と直すか、正しい表記の「デクノバウ」で行くか悩んだのですが、結局は「デクノバウ」のままとしました。

まだそう言う声は聞こえてこないのですが、もし、「賢治は「デクノボー」と書いてるぞ、「デクノバウ」とはなんだ、けしからぁん」的なご意見がありましたら、そういう経緯で「デクノバウ」としていますので、よろしくお願いします。はっきり言うと、コアな賢治ファンの中には、狂信的ともいえる人が少なくなく、すみませんが、辟易することがあります。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、ぜひお買い求め下さい。また、他の書評欄等でもぜひ紹介していただきたいものだと存じます。

【折々のことば・光太郎】

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳新らし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。


昭和23年(1948)5月11日の日記より 光太郎66歳

この時期、たてつづけに三回、花巻南温泉峡・鉛温泉さんに宿泊しています。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、4㌔㍍ほど歩いて、当時走っていた花巻電鉄の二ツ堰駅まで行けば、意外と楽に行けたことも大きかったでしょう。

三十一号室」は現存し、当方も一度、泊めていただきました。

都内からコンサート情報です。

林光ソングをうたい継ぐ(5)~ほんとうの空へ(1990年代)

期 日 : 2021年7月24日(土)
会 場 : トッパンホール 東京都文京区水道1-3-3
時 間 : 開場 14:00 開演 14:30
料 金 : 前売4,000円(全席指定) 当日4,500円

出 演 : 竹田恵子(歌) 井口真由子(pf)

曲 目 : 林 光(詩:宮沢賢治):序詞《注文の多い料理店》より
      林 光(詩:宮沢賢治):すきとおるものが一列
      林 光(詩:与謝野晶子):初夏
      林 光(詩:まどみちお):ハコベのはな
      林 光(詩:林 光):月の船の歌《万葉集》による
      林 光(詩:佐藤 信):ほんとうの空へ
       他

今回のコンサートの副題は、「ほんとうの空へ」。「フェイクの時代」だからこそ、「ほんとう」が気になります。それはどこからやって来るのでしょうか。「正しさ」をめぐる言葉のバトルとは違って、もっと底の底にある感情の出どころ。そこには「ほんとうのたべもの」の賢治がいます。まど・みちおや与謝野晶子、そして万葉集やこどもたち。
感染予防の対策には万全を期すつもりです。2回のワクチン接種もコンサート前に終える予定でいます。今回はYouTubeの配信もありませんので、ぜひ会場に足をお運びいただければ幸いです。
落ち着かない日々が続きますが、どうぞご自愛の上、当日お目にかかれることを心より願っています。
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竹田恵子さんという方、故・林光氏の歌曲を歌い継がれることも、活動の柱となさっているようで、その一環としてのコンサートです。

副題が「ほんとうの空へ」ということですが、同名の曲がプログラムに入っています。これは、平成7年(1955)に福島県で開催された、第50回国民体育大会(国体)の際に「ふくしま国体讃歌」として作曲され、開会式で、福島県内の高校生による合唱、福島県警察音楽隊によって演奏された曲です。


上の動画で、6:35頃から、バックに流れているのがそうでしょう。林氏というと、ちょっと難解な現代音楽、というイメージが当方にはあるのですが、こちらはこういう機会での音楽だけあって、素直なメロディーラインのようです。

国体自体のキャッチフレーズも「友よ ほんとうの空に とべ!」でした。

言わずもがなではありますが「ほんとうの空」の語は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイア。本来「ほんとの空」ですが、時折、「う」の入った形で二次使用されています。特に東日本大震災、それに伴う福島第一原発の事故後、福島の復興の合い言葉として、一人歩きを始めた感がありますが、福島国体は平成7年(1995)。こうした例の最も早いものの一つではないかと思われます。

コンサートでは、他に、光太郎と交流のあった宮沢賢治や与謝野晶子の作品に曲を付けたものも演奏されるそうです。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午後一時より横湯橋渡初式に出かける。三時頃に漸く式はじまる。それまで草原で休みゐたり。
昭和23年(1948)5月22日の日記より 光太郎66歳

「横湯橋」は「おうゆばし」と読み、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から南に1㌔あまりの、現在は県道37号線(花巻平泉線)の寒沢川にかかる橋です。

地上波日本テレビさん系で放映されている5分間番組「心に刻む風景」。6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」が放映されていますが、明日、第4回の放映があります。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子④ 東京都千代田区…幸せのひととき あなたは本当に私の半身(はんしん)です 私を全部に解(かい)してくれるのはただあなたです

地上波日本テレビ 2021年7月21日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#4 舞台(日比谷松本楼)
松本楼は智恵子と光太郎のお気に入りの店。彫刻家・詩人・画家として活動をしていた光太郎だったが
まだ世間に認められておらず、生活は豊ではなかった時代。
当時は贅沢だったこの店で、大好きなアイスクリームを食べるのが二人の幸せなひとときだった。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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光太郎の命日である毎年4月2日(昨年と今年はコロナ禍のため中止)、連翹忌の集いを開催させていただいている日比谷松本楼さんでのロケがメインです。

先週、7月14日(水)の放映は「千葉県犬吠埼…運命の再会」でした。
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光太郎智恵子が連れ立って歩いた、君ヶ浜から見る犬吠埼灯台
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まず、光太郎が宿泊し、のちに智恵子が追ってきて泊まった、暁鶏館(現・ぎょうけい館)。
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当初、「智恵子には親の決めた婚約者がいた。しかし、智恵子はその結婚を断り光太郎の元にやってくる。」というニュアンスの一節が入っていましたが、カットしてもらいました。最近の研究で、「智恵子の縁談の相手」とされていた二本松の寺田医師は、既に結婚して子供までいたことがわかっています。

しかし、智恵子が光太郎に「縁談が持ち上がっている」と言ったことは確実なようです。そこで、「いやなんです あなたのいつてしまふのが」。
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寺田医師以外の男性との縁談があったかも知れませんし、もしかすると、煮え切らない光太郎に対し、智恵子がありもしない縁談をでっちあげて、その気持ちを確かめようとしたのかも知れません。真相は闇の中です。

いずれにしても、この犬吠埼での再会を機に、
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というわけで。

明日の放映は、先述の通り、日比谷松本楼さんがメインです。光太郎智恵子が犬吠埼で再会したのは、大正元年(1912)の8月末か9月の頭ですが、その前、大正改元直前の7月に、日比谷松本楼さんで、「氷菓」を二人で食べています。その際の様子は、9月に発表された詩「涙」に描かれています。

したがって、それだけ取り出せば、犬吠埼での再会と時間軸が逆転しますが、その後も日比谷松本楼さんを二人で訪れたことがあっただろう、というコンセプトで、第4回に持ってきたようです。

視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

花巻行にきめ、焼パンをリユツクに入れて出かける。 サンマータイム十一寺四十三分電車にのる。

昭和23年(1948)5月10日の日記より 光太郎66歳

夏期に時計の針を1時間進める「サマータイム」。EU加盟国では今年限りで廃止、という報道が為されていましたが、その後、どうなったのでしょうか。

日本でも、昭和23年(1948)から導入されましたが、結局、定着することなく4年間で廃止となりました。そうかと思うと、平成30年(2018)頃には、今回の東京五輪に向けて、再び日本でもサマータイムを、という声が上がりました。あっという間にポシャりましたね(笑)。

7月17日(土)の『朝日新聞』さんの読書面。劇作家・平田オリザ氏による連載「古典百名山+plus 平田オリザが読む」で、光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。

古典百名山+plus 平田オリザが読む:105 高村光太郎『智恵子抄』 妻亡き後の絶望と諦念

006 晩年の代表作『典型』の名の通り、高村光太郎は、まさに近代日本のある種の典型のような人物だった。
 上野の西郷像を作った高村光雲を父にもち、若くから将来を嘱望され一九○六年、二三歳で渡米、三年間を米国、欧州で過ごす。帰国後は日本社会や日本の美術界の閉鎖性に反感を持ち、放蕩(ほうとう)の生活を送る。しかし三一歳で長沼智恵子と結婚、これを機に生活も健全なものとなり、同年、詩集『道程』を発表して一躍文壇に名前をはせた。その後の二十数年は、本業の彫塑(ちょうそ)を中心に活動する。
 智恵子の死の三年後の一九四一年『智恵子抄』を刊行、ベストセラーとなる。一方、心の空白を埋めるかのように国粋主義、戦争賛美の詩を書き始めた。さらに戦後は、敬愛した宮沢賢治の故郷花巻に蟄居(ちっきょ)し、悔恨と反省の詩を書き続ける。
007 二一世紀を生きる私たちが、高村の変遷を「西洋かぶれが急にネトウヨになった」と笑うことはたやすい。しかし彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのままではないか。あるいは、近代日本文学の変遷そのままと言っても過言ではない。
 若くして海外を見た高村にとって、西洋は巨大な壁であった。パリのノートルダム大聖堂の荘厳さと、自分の小ささを描いた長編詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのは、帰国から十年以上経った一九二一年。第一次世界大戦が終わり、日本全体が大国の仲間入りをしたと浮かれていた時代である。
 「智恵子は見えないものを見、聞(きこ)えないものを聞く」(「値〈あ〉ひがたき智恵子」より)
 高村は、あくまで理性の人であった。彼は自分が宮沢賢治にはなれないことを自覚していたし、まして精神を病んだ智恵子のようになれないことも分かっていた。『智恵子抄』が美しいのは、その絶望が全編を貫いているからだ。しかしその絶望と諦念(ていねん)は半面、彼を戦争詩へと向かわせた。人間はかくも弱い。

平田氏、光太郎を主人公とした演劇「暗愚小伝」(昭和59年=1984)を書かれ、最近ですと平成26年(2014)から翌年にかけ、再演されました。また、平成30年(2018)に上演された「日本文学盛衰史」にも光太郎を登場させています。

氏の御祖父は、詩人の平田内蔵吉(明治34年=1901~昭和20年=1945)。光太郎とも面識はあったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』に、内蔵吉の名は一度だけ出て来ます。昭和20年(1945)7月16日、疎開先の花巻宮沢邸から、やはり詩人の小森盛に送った葉書に、「倉橋さんの轢死とか、照井さんの爆死とか、平田内蔵吉さんの玉砕とか、さういふ事が平時の事となつて来ました」とあります。

倉橋さん」は詩人の倉橋弥一。昭和20年(1945)6月、酒に酔って電車に轢かれて亡くなりました。「照井さん」は照井瓔三(栄三)。声楽家・朗読家で、ラジオで光太郎詩の朗読にもあたりました。やはり昭和20年(1945)、5月の空襲により、東京で亡くなっています。そして「平田内蔵吉さんの玉砕」。内蔵吉は沖縄戦線に投入されていました。

光太郎も4月に駒込林町のアトリエ兼住居を焼かれ、命の危険にさらされました。友人知己が次々と不慮の死を遂げる中で、花巻とても安全ではなく、実際、翌月には花巻空襲で宮沢家も全焼。光太郎、再び命からがらの目に遭います。

そうした光太郎の、『智恵子抄』をめぐる精神史。「まさに近代日本のある種の典型のような人物」、「彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのまま」というオリザ氏の評。うなずけますね。明治末には、西洋近代思潮の洗礼を受け、大正末から昭和初期にはプロレタリア文学やアナーキズムに近い位置に身を置き、しかし、戦時には一転して日本回帰。戦後はそれに対する悔恨と反省……。多くの日本人の辿った途を、極端に体現したのが光太郎、というわけです。

その背景に、愛妻・智恵子。智恵子と共に手を携え、芸術三昧の道を歩こうとしたものの、その智恵子は志半ばで心を病み、逝ってしまいました。その空虚感にするりと入り込んだ翼賛思想。あるいは、自らの芸術精進の姿勢が、智恵子を追い詰めたという認識から、積極的に真逆の道を歩ませたのかもしれません。

人間はかくも弱い」。刺さる一言ですね。

【折々のことば・光太郎】

午后三時頃開墾の方より前の畑を斜に横切りて、狐らしきもの黒き餌を口にくはへて山の方へ走りゆくを見る。金茶色、尾長くひく。セッター位の大きさにて甚だ派手なり。


昭和23年(1948)5月7日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、現代でも、キツネが闊歩しているそうです。

4月に『読売新聞』さんが報じて下さいました、「「智恵子抄」総選挙」の件。7月10日(土)に『福島民報』さんにも記事が出ましたのでご紹介します。

詩集「智恵子抄」で一番好きな作品は? 福島・二本松市で総選挙

 詩集「智恵子抄」の出版80周年を記念して、心に響く一番好きな作品を選んで投票する「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」が行われている。主催する福島県二本松市の智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一代表は「智恵子抄を改めて、じっくり味わってほしい」と参加を呼び掛けている。
 「智恵子抄」は1941(昭和16)年に出版された。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子への愛をうたった。智恵子の故郷二本松の情景が浮かぶ「樹下の二人」「あどけない話」をはじめ、かけがえのない存在を慈しむ思いに満ちた作品の数々は、今も多くの人の心を打つ。
 智恵子のまち夢くらぶは80周年に当たり「東日本大震災から10年、コロナ禍の今こそ、二人の純愛の意味を問いたい」と総選挙を企画した。投票候補は「智恵子抄」と、1950年に出版された詩集「智恵子抄その後」に収録された36作品。
 投票ははがきに(1)一番好きな作品名(2)その理由(100文字以内)(3)氏名(4)住所(5)電話番号(6)年齢―を書いて郵便番号969―1404 二本松市油井字漆原町36 智恵子の生家記念館宛てに郵送する。抽選で80人に記念品を贈る。JR二本松駅近くの市民交流センターには専用の用紙と投票箱があり、直接投票できる。
 投票期間は10月31日まで、1人1回。結果は11月21日に市内で開く第2回全国「智恵子抄」朗読大会で発表する予定。問い合わせは智恵子のまち夢くらぶの熊谷代表 電話090(7075)6743へ。
 投票候補は次の通り。
 「人に」「或る夜のこころ」「おそれ」「或る宵」「郊外の人に」「冬の朝のめざめ」「深夜の雪」「人類の泉」「僕等」「愛の嘆美」「晩餐」「樹下の二人」「狂奔する牛」「鯰」「夜の二人」「あなたはだんだんきれいになる」「あどけない話」「同棲同類」「美の監禁に手渡す者」「人生遠視」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「値いがたき智恵子」「山麓の二人」「或る日の記」「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」「亡き人に」「梅酒」「うた六首」「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」
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美術館さんや文学館さん等での企画展示などもそうですが、始まったところで報道していただいて人寄せになり、しばらく間を置いてまた報道が出ると、一旦落ち込んだ人出が回復するということがよくあります。そうした意味では、この時期に地元紙で報道して下さるのも有り難いことです。

その詩を選ぶ理由を100字以内、というのが少し面倒だと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、ぜひ、投票、よろしくお願い申し上げます。〆切りは10月31日(日)だそうです。

【折々のことば・光太郎】

午后、部落の保健婦の人来りてビタミンBの注射をしてくれる。一日二本位づつつづけてするといいとの事。明日より学校へ行くついでに開拓団事務所(学校前)に立寄る事にする。そこに毎日出張して居らるる由。

昭和23年(1948)5月1日の日記より 光太郎66歳

光太郎、のちには自ら注射を打つようになり、愛用の注射器は遺品として、花巻高村光太郎記念館さんに展示されています。

ビタミン注射、現代でも疲労回復、滋養強壮などの目的で行われているのですね。存じませんでした。

テレビ放映情報です。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2021年7月18日(日) 24:30~24:55 =7月19日(月) 0:30~0:55

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一 ナレーター:服部潤
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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)が取り上げられます。

グルメ的な部分では、十和田バラ焼き、ヒメマスの塩焼きなどが紹介されるとのこと。

もう1件、今日の放映ですし、光太郎などに関わらないかも知れませんが、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町を舞台とした番組です。

いのちは末来を憶えてる 〜震災10年の、あくる日から〜

BSフジ 2021年7月17日(土) 15:00〜15:55

東日本大震災から10年。新たな歩みを始めた被災地の復興から“復幸”へと進もうとする姿を紹介する。番組から誕生した鎮魂と未来への歌を、宮城県女川町で平原綾香が歌唱。今年3月、東京・渋谷のスタジオで平原綾香が新曲のレコーディングに臨んだ。曲名は「いのちは未来を憶えてる」。時制に矛盾があるようにも思えるこの曲、作詞は大物・松井五郎、プロデュースは平原を高校生時代に見出した新田和長、作曲はデビュー曲「Jupiter」でプロデュースと編曲を担当した坂本昌之。

工業デザイナーとして名を上げていた中川聰(さとし)は、東日本大震災が起きるとすぐに東京から被災地へと向かった。ユニバーサルデザインを手がける中で知り合った多くの視覚障がい者たちが気になったためだ。しかし、実際に足を運んで心配になったのは、被災した子供たちのことだった。気持ちがどんどん内に入り込んでいることを直感したため、美術教師の経験を生かし、絵や短い文章で外に吐き出してもらうことにした。避難所や学校で対話しながら集めた作品は、震災2ヶ月後にはニューヨークで展示され、世界に向けてのメッセージ発信を始めた。この活動は「Hug Japan」と命名された。震災10年を迎えた今年、その時の子供たちに彼が会いたくなったのは、単なる懐かしみからだけではない。つらい過去があったからこそ、前向きに未来へと向かえている面があるのではないか、実際に会って確かめてみたい、そう考えたのである。

フリーアナウンサー笠井信輔にとって、今年はリベンジの年でもあった。震災直後に被災地入りし、以来、毎年欠かさなかった取材に、昨年は自らが生死の境をさまよう大病を患って出向けなかったからだ。命の重さをより深く知った彼の耳に飛び込んで来たのは、「Hug Japan」の10年ぶり再起動への誘いだった。番組では、笠井ばかりでなく、平原も「Hug Japan」参加者を訪ねる旅に出る。中川も懐かしい再会を果たす。

旅の途中、笠井がこの10年間の取材を通じて交流を深めた人たちと、ばったり出会うシーンも見ものだ。そして、それぞれに被災者の過去と未来を共有した3人は、女川町での公開収録の場で地元の方々を前にその思いを語り合う。

<出演者>笠井信輔 平原綾香 中川聰 <ナレーション>近藤サト
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女川で光太郎、といえば、このブログでもたびたび取り上げている、「いのちの石碑」。震災後に、当時の中学生たちが中心となって、津波からの避難の際に目印となるランドマークとして、女川町内に建て続けられている石碑です。

昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額は寄付で集められました。

先だっては、天皇陛下自らが、オンラインで開かれた「第5回国連水と災害に関する特別会合」中の講演で、「いのちの石碑」についても触れられています。

それから、有料のCS放送で、その「いのちの石碑」が取り上げられます。通常、このブログではCS放送はご紹介していないのですが、今回は特別に。

旅チャンネル「のんが行く!東北ふれあい旅」#4 宮城 女川

CS旅チャンネル 2021年7月24日(土) 21:00~21:30(以後、繰り返し放映)

旅チャンネルでは、東日本大震災における被災地域の復旧・復興に繋がるよう、2011年より東北地方の各地域を紹介する旅番組を制作、放送し続けることで東北地方を観光の面で応援してまいりました。
東日本大震災から丸十年経った2021年。東北地方に縁のある女優・のんが、東北地方の被災地を訪ね、現地で街の復興に取り組む同世代の女性たちの案内で各地を巡る模様を全4話シリーズで特別番組として放送。

この度の最後にのんが訪れたのは、宮城県女川。女川で生まれ育った二児のママでもある案内役とまず向かったのは、案内役が震災当時勤務していた病院。病院から自宅が流されるのを間近に見たという当時の話などを聞く。そしていのちの石碑や元女川交番などの震災遺構に触れた後、新しくできた街の中心施設に向かいます。旅の最後は地元の子供たちとの触れ合いを楽しみます。東北の未来に思いを馳せます。
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光太郎文学碑のかたわらにある、震災遺構旧女川交番も取り上げられます。

契約されている方は、ぜひご覧下さい。契約していなくとも、現時点での予定では、8月末までに12回ほど繰り返し放映されるようで、うまくいけば無料放送の日にあたるかな、と思っております。

【折々のことば・光太郎】

午前盛岡美術工芸学校開校式への祝辞を書く。


昭和23年(1948)4月29日の日記より 光太郎66歳

盛岡美術工芸学校」は、変遷を経て、現。・岩手大学。光太郎と縁の深い深沢省三・紅子夫妻、舟越保武らが教壇に立ち、光太郎もたびたび同校を訪れました。光太郎を名誉教授に、という話もありましたが、光太郎は固辞したそうです。

この日に書いた祝辞は、『高村光太郎全集』第11巻に収録されていますが、同校教授だった佐々木一郎著の『岩手の美術と共に歩んで』(昭和62年=1987)には、直筆原稿の画像が収められています。
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オンラインでのイベントです。

第23回比較文学研究会

期 日 : 2021年7月17日(土)
時 間 : 14:30~17:00
料 金 : 無料

今回の比較文学研究会を以下のようにオンライン(Zoom)で開催致します。
会員のみなさまはもちろん、会員外の一般の方々のご参加もお待ち申し上げております。

[開 会 の 辞] 東北支部長 森田直子
[研究発表]14:35〜15:15
 茂木謙之介氏(東北大学)  雑誌『幻想文学』における須永朝彦

[特別企画]15:20~
高村光太郎『智恵子抄』仏訳(TAKAMURA Kôtarô, Poèmes à Chieko)の刊行をめぐって
 報告者 中里まき子氏(岩手大学)
 報告者 エリック・ブノワ氏(ボルドー・モンテーニュ大学)
 コーディネーター 森田直子氏(東北大学)
今年(2021年)、高村光太郎『智恵子抄』の本邦初となる仏訳が、中里まき子氏の翻訳によりフランス・ボルドー大学出版会より刊行されました。中里氏は福島のご出身で、2011年から10年かけてご訳業を完成されました。この機会に中里氏をゲストにお招きし、刊行までの経緯や翻訳作業において苦心なさった点などについて、お話を伺う(オンラインの)場を設けることにしました。仏訳協力者のエリック・ブノワ氏もご参加くださる予定です(ブノワ氏のお話については中里氏による通訳あり)。企画発案者の森田からのコメントのあとは、フロアもまじえての意見交換、質疑応答の時間といたします。

[参加について]
今回の研究会は、オンライン会議用ソフトZoomを使用しての開催となります。参加を希望される方は、別記事「オンライン参加用登録フォーム」より申し込みをお願いいたします。参加URLや資料については、研究会の前日までにお知らせいたします。
また、研究会の中継会場を東北大学に設ける予定です。会場での参加をご希望の方は、7月12日(月)までに事務局・仁平(masato.nihei.d6☆tohoku.ac.jp(※アドレス内の☆を@に変換してお使いください))までメールにてご連絡ください。
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仏訳『智恵子抄』。案内にあるとおり、『Poèmes à Chieko』の題で、今年4月に刊行されました。紀伊國屋書店さんのサイトでヒットするのですが、「ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません」だそうで、入手できずにいます。

追記:紀伊國屋さん、取り寄せを始めて下さいました。
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「本邦初となる仏訳」だそうで、そう言われてみれば、『智恵子抄』として、まとめての仏訳はたしかに無かったように思われます。

日本の名詩、的なもので、光太郎もラインナップに入り、その中に『智恵子抄』の詩篇も取り上げられている、というものはこれまでもありましたが。

004有名なところでは、光太郎生前の昭和14年(1939)、光太郎と交流のあった仏文学者・松尾邦之助による『Anthologie des Poètes japonais contemporains』(メルキュール・ド・フランス社)。この中に「あどけない話」(昭和3年=1928)、「同棲同類」(同)が含まれています。仏訳題は、それぞれ「Histoire innocente」、「Ceux qui se ressemblent vivent ensemble」。他には『智恵子抄』には含まれませんが、「触知」(同)、「火星が出てゐる」(昭和2年=1927)、「街上比興」(昭和3年=1928)、「花下仙人に遇ふ」(昭和2年=1927)。

当方、仏語はほぼほぼお手上げでして、英語に似た単語などを見つけ、そこからこの詩だろう、と推定したり、翻訳ソフトで題名を訳してみたりして突き止めました。しかし、翻訳ソフトもまだまだですね。奇抜な翻訳をしてくれちゃいます(笑)。

「Histoire innocente」→「無邪気な歴史」(あどけない話) 
「Ceux qui se ressemblent vivent ensemble」→「似ている人は一緒に住んでいます」(同棲同類)
「Connaissance par le toucher」→「タッチで知識」(触知)
「Mars est là, dans le ciel !」→「火星は、空に、ここにあります !」(火星が出てゐる)
「Divertissements dans les rues」→「ストリートエンターテイメント」(街上比興)
「Sous les fleurs, je rencontrais un ermite」→「花の下で、私はヤシに会った」(花下仙人に遇ふ)

ちなみに、英訳『智恵子抄』は、当方、二種類持っています。
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左は『CHIEKO'S SKY』。昭和53年(1978)、講談社インターナショナルさんの発行で、古田草一氏の訳です。右が『THE CHIEKO POEMS』。平成19年(2007)、Green Integer Books社さん、訳者はJohn G. Peters氏。それぞれamazonさんなどで入手可能です。

他に、部分的に『智恵子抄』英訳が含まれるものも、複数存在します。

さて、「第23回比較文学研究会」。オンラインでの開催ですが、参加できる環境にある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。


昭和23年(1948)4月26日の日記より 光太郎66歳

前日から宿泊していた、花巻南温泉峡・鉛温泉さんです。「深い共同風呂」は、岩を刳り抜いて自噴している、「白猿の湯」。
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この後も、何度かこの湯を堪能しています。

7月12日(月)、宿泊させていただいた大沢温泉さんを後に、レンタカーで下山、旧太田村の高村光太郎記念館さん及び隣接する高村山荘(光太郎が暮らした山小屋)に向かいました。
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明日、7月16日(金)から、企画展「光太郎の三陸廻(めぐ)り」が始まるということで、展示の準備等、進んでいるかな、と思って行ったのですが、まだ展示用のパネル等が届いたところという状況で、箱に入ったままでした。

ただ、チラシは頂いて参りました。
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それから、昨夜、メールの添付ファイルで、会場内の様子の画像を送っていただきました。
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昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に全10回で掲載された、光太郎の紀行文「三陸廻り」。パネルで全文と、関連する画像等を展示しています。当方がお貸しした古絵葉書も使っていただいたようで。
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光太郎が訪れた昭和6年(1931)の宮城県石巻の地図。複製だそうですが。
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上半分は、こちらも当方がお貸ししたもので、光太郎が「三陸廻り」の旅で利用した三陸汽船の航路を描いた鳥瞰図。金子常光の手になるもので、大正15年(1926)発行です。下半分は、女川あたりでしょうか、現在の様子を撮影したもののようです。
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右の方に写っているのが、光太郎のエッセイ「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」(昭和21年=1946)直筆原稿。

三陸沿岸を含め、甚大な被害をもたらした東日本大震災から10年が経ち、また、三陸を舞台とするNHKさんの朝ドラ「おかえりモネ」が放映されるなどしていますので、タイムリーな企画といえるのではないでしょうか。

「おかえりモネ」。坂口健太郎さん演じる医師の名が「菅波光太朗」。どこかで本家・光太郎(笑)とリンクするシーンがほしいものです。
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ちなみに、ドラマの中で主人公・永浦百音(清原果耶さん)の実家があるという設定の「亀島」は、実際に気仙沼の湾に浮かぶ「大島」がモデルとされています。

光太郎、「三陸廻り」の旅では、大島には上陸しませんでしたが、三陸汽船の船で、島をかすめて航行、紀行文にも「大島」の語が。
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十一時半、船が気仙沼湾の大島の瀬戸をぬけて御崎(おさき)を出はずれ、漁火(いさりび)のきらめく広田湾を左に見て外洋の波に乗る頃、むつとする動物的空気の塊に肌が触れる。殆ど無風。何かが来たと思ふまもなく船は二、三秒でガスに呑まれる。まだ頂天の星の光はおぼろに見えるが、四辺は唯この青くさい不透明な軟かい物質の充満だ。

この濃霧を、光太郎は短歌でも謳いました。上記企画展チラシに引用されています。

黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧(さぎり)を立てて船にせまれり

これを刻んだ碑が、大島の東側、南北に垂れ下がる唐桑半島の突端に建てられています。

他に、記念館さんでは、最近入手したという、昭和25年(1950)、光太郎が盛岡で講演を行った際の資料等(写真、チラシ、参会者の書いた感想帖など。展示はされていません)を拝見し、必要な部分のコピーをいただいて参りました。

いただいて、といえば、記念館女性職員の方が写真撮影されて作られたフォトブック『山からの贈り物 山口山の四季』。記念館/山荘附近の自然を写したものです。多謝。
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その後、隣接する高村山荘へ。
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コロナ禍のため、訪れる方が減少。すると、逆に、熊の出没が増えているそうです。つい最近も一頭、罠にかかったそうですが、他の個体もいるらしいとのこと。

当方が訪れた前日、山荘套屋の腰板がベリッとはがされたそうで……。
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はがされた部分、裏手に置いてあったのですが、この時だけ元の位置に持ってきて撮影しました。

そんなわけで、裏山の智恵子展望台、奥の旧記念館(現・別館的な森のギャラリー)方面へは、立ち入り禁止となっていました。
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記念館、山荘を後に、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんへ。
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光太郎の食卓カレンダー」などが販売されている光太郎グッズコーナー、それからMLBで活躍中の大谷翔平選手、菊池雄星選手の母校である花巻東高校さんのコーナーも。
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光太郎グッズコーナーでは、上記『山からの贈り物 山口山の四季』の姉妹編とも言うべきフォトブック『光太郎の風景2020・秋』を購入しました。こちらも素晴らしいものです。
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光太郎、賢治についてのパネル展示が為されているインフォメーションスペース。
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地元の書家の方が書かれた、光太郎詩「おそれ」(大正元年=1911)の一節。
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いい感じですね。

この後、「光太郎の食卓カレンダー」などを手がけられた、やつかの森LLCの皆さんと昼食。実に有り難いことに、当方の歓迎の意味もあって、BBQ。当方、肉食系男子ですので、実にありがたし(笑)。
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恐縮しつつも遠慮無くがっつりいただきました(笑)。

さて、高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎の三陸廻(めぐ)り」、明日から8月30日(月)までの会期です。コロナ感染及び熊の出没には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。また、道の駅も比較的近くですので、こちらにもお立ち寄りいただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

二時頃より円万寺神楽なるもの神楽堂にあり、群衆多く集まる。各部落より一群つつ仮装などして参詣に来り、歌舞す。


昭和23年(1948)4月25日の日記より 光太郎66歳

僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務めていた、花巻郊外旧湯口村(光太郎の居た太田村の隣村)の円万寺観音堂での一コマです。

多田は京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。

円万寺神楽は現在も受け継がれ、国指定の無形民俗文化財に登録されています。

7月11日(日)、花巻市博物館さんで「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」を拝観後、レンタカーを市街地に向けました。次なる目的地は、市中心部御田屋町にある旧菊池捍(まもる)邸。先月末からの土・日限定で、内部の公開と、音楽/朗読イベントが開催されています。
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何度か、レンタカーでこの前を通ったことがあるのですが、その存在に気づいていませんでした。歩いていたら見逃さなかったのでしょうが。
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KIMG5223大正15年(1926)の竣工。当時の花巻では珍しい洋館です。ただ、完全な洋館でもなく、奥の方は畳敷きの和室もあり、和洋折衷。この家の持ち主だった菊池捍が、札幌農学校出身ということで、北海道の建築スタイルと、元々の武家屋敷の様式をうまく融合させて設計を依頼したようです。右画像の窓などは、上下にスライドさせて開ける形になっており、北海道の建築によく見られるタイプだそうで。

ただ、内部の造作では、洋館建築のお約束の装飾パーツ(アカンサスやデンティルなど)が見当たらず、そういう技術を持った左官屋さんなどが、当時の花巻近辺には居なかったのかな、などと思いました。

菊池家は元々、南部藩の砲術方だったそうで、この場所には江戸時代から屋敷があったということですが、近隣からのもらい火でその屋敷は燃え、大正時代に新しくこの家を建てたとのこと。

昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王がここに泊まったそうです。また、宮沢賢治の寓話(以前、「童話」と書きましたが、「寓話」というべきだそうで)「黒ぶだう」の舞台「ベチュラ公爵の別荘」に比定されている他、童話「銀河鉄道の夜」に出てくるカムパネルラ宅も、この家からのインスパイアではないかという説があるそうです。

そして、光太郎。

光太郎の日記には、この家を訪れた記述が見当たりませんが、捍の息女である故・聡子さんの回想が残っていました。
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ピアノ講師を永らく務めていた聡子さん、賢治実弟の清六と共に訪れた光太郎に、ピアノ演奏を披露したとのこと。
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義姉の故・初枝さんがこの家にいらしたのは、昭和23年(1948)の3月頃までだそうですので、それまでの間、ということになります。

その間の光太郎の日記は、昭和21年(1946)5月16日~7月16日と、9月21日~10月9日、いずれも太田村から花巻町に出かけていた時期の分が欠けており、この間なのでは、と推測できます。

追記・昭和24年(1949)にもここを訪れてピアノ演奏を聴いていたという記述を日記中に見つけました。

もう少し、建物の外観等を。
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下は別棟というか、離れというか。菊池捍の娘婿だった画家、寺島貞志が使っていたアトリエです。
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さらに、昔ながらの蔵も。
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午後4時から、音楽/朗読イベント。
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奥の和室で開催されました。
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「智恵子抄」の中から、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の朗読もしていただき、ありがたい限りでした。

今後、この建物の活用方をいろいろ考えていかれるそうで、いいことだと思います。有効に使われてほしいものです。

また、今週末の7月17日(土)、18日(日)にも、とりあえず最後の内部公開があるそうですので、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

この後、当方は定宿としております大沢温泉さんへ。
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続きは、明日。

【折々のことば・光太郎】

光太郎赤ちゃんお誕生に書く言葉をきめる。「日輪光光」。


昭和23年(1948)4月21日の日記より 光太郎66歳

「光太郎赤ちゃん」は、茨城取手在住だった詩人の宮崎稔と、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子夫妻の長男。光太郎を敬愛する二人が、我が子を「光太郎」と名付けました。

昨日まで一泊二日で、花巻に行っておりました。3回に分けてレポート致します。

東北新幹線を新花巻駅で下車、予約しておいたレンタカーを借り、まずは新花巻駅近くの花巻市博物館さんへ。こちらでは、テーマ展「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」が開催中です。
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近代の花巻における鉄道開発や、それに関わった人物等を紹介し現代へと繋がる交通の拠点都市として発展した花巻の近代鉄道史を紐解く、というコンセプトで、「序章 舟運から鉄道へ」、「第1章 花巻近代鉄道史の夜明け~東北本線~」、「第2章 内陸から沿岸へ~岩手軽便鉄道~」、「第3章 温泉へ行こう~花巻電鉄と新温泉~」、「終章 賑わうまちと新花巻駅開業」の五部構成でした。

図録は発行されていませんで、代わりに、『花巻市博物館だより』№63というリーフレットから。
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展示品目録。こまごまとした出品物が大半で、点数は非常に多くなっていました。
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空襲での東京駒込林町のアトリエ焼失に伴い、昭和20年(1945)5月、宮沢賢治実家に疎開、同年秋から昭和27年(1952)まで郊外旧太田村での山居生活、そして翌年初冬には短期間の太田村「帰省」(後述のブリヂストン美術館さん制作の映画はこの際に撮影)を果たした光太郎。その間に重要な「足」となった花巻電鉄について、特に興味深く拝見しました。

平成30年(2018)には、花巻高村光太郎記念館さんで、「光太郎と花巻電鉄」という企画展も開催されました。その際に当方がお貸しした古絵葉書など、かぶる展示もありましたが、そうでないものも多数。逆に、「光太郎と花巻電鉄」の際に出たものが、こちらには並んでいないというケースも。同じ花巻市の施設なので、もう少し連携するなりすれば、と思いましたが、そのあたりは縦割り行政的なものの弊害なのでしょう。

例えば、昭和29年(1954)、ブリヂストン美術館さん制作の美術映画「高村光太郎」。もちろん光太郎が中心の映画ですが、東北本線の列車や、花巻電鉄が走行しているところの遠景、それから光太郎が花巻電鉄に乗車しているシーンなどが含まれています。その部分だけでも取り出して放映したり、それが無理でも静止画でパネル展示にしたりといったことは不可能ではないはず。
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それから、ジオラマ作家・石井彰英氏作製のジオラマ。こちらは「光太郎と花巻電鉄」の際に作っていただいたものですが、現在も花巻高村光太郎記念館さんで展示中です。
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これを、期間内だけでもこちらに運ぶことも不可能ではないはず。

また、花巻高村光太郎記念館さんの物販コーナーでは、石井氏がご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」も販売中。それをこちらに持ってきて放映したり売ったりすることも出来なくはないでしょう。

いろいろ権利の問題などで、面倒な手続きが必要かもしれませんが、そもそもそういう発想自体が欠けているのでは、と思うことがしばしばあります。

閑話休題。花巻電鉄といえば、今回の展示に合わせ、ほぼ実寸大の模型が製作され、ロビーに置かれています。「馬面電車」、「ハーモニカ電車」などと称された、デハ3型です。
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これなども、今後、何かの機会に活用していただきたいものです。

それから、お子さん向けに、車輌のペーパークラフト。こちらは無料で配付されているようです。
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自由にカラーリング出来るようになっており、コンテストのような企画が行われています。「花巻市博物館長賞」に輝くと、「商品」がもらえるそうで。「賞品」ではないのかな、と思うのですが(笑)。

さて、同展、8月29日(日)までだそうです。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前十時半学校にゆく。今年はじめてなり。箱を持ちゆき郵便物を入れ置くやうたのむ。子供達持参は中止のやうのべる。余が二三日おきにゆく事。


昭和23年(1948)4月19日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった、太田小学校山口分教場(のち、山口小学校に昇格)。「今年」は「今年度」という意味でしょう。

郵便はその分教場までしか届けてもらえず、光太郎が自分で取りに行ったり(同時に差し出し分を預かってもらいました)、教師や児童が届けてくれたりしていました。

中には、光太郎がお駄賃にと、雑誌や食べ物をくれるので、それを目当てに、という子供もいたようで、光太郎、そういう気配を感じ取ったようです。

昨日から一泊二日で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。

花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」、続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」を拝見。
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宿泊は例によって、大沢温泉さんにお世話になっております。
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このあと、高村光太郎記念館さん、道の駅花巻西南(愛称・賢治と光太郎の郷)などを回って帰ります。

詳しくは帰りましてから。

次の火曜日あたりにご紹介しようかと思っていたテレビ放映情報ですが、その頃は花巻レポートを書いているはずですので、少し早めに。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子③ 千葉県犬吠埼…運命の再会 いやなんです あなたのいってしまふのが よその男のこころのままになるなんて

地上波日本テレビ 2021年7月14日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#3 舞台(犬吠埼)
写生旅行のために光太郎は犬吠埼を訪れていた。
この時、光太郎にとって智恵子は気になる存在であったが
智恵子には縁談が。
しかし、智恵子は光太郎の元にやってくる。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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全6回(毎週水曜夜)中の3回目となります。

大正元年(1912)夏、光太郎が写生旅行に来ていた千葉銚子・犬吠埼に、智恵子が追いかけてきて、愛を確かめ合うこととなった件が紹介されます。

7月7日(水)放映の第2回は、フランス・パリ。明治41年(1908)から翌年にかけて滞在した光太郎が、芸術上の開眼を果たした、という内容でした。

まずはサント・シャペル教会
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セーヌ川からのエッフェル塔遠景。
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続いて、コンコルド広場。
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光太郎が敬愛したロダン作「考える人」。
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サンミッシェルの噴水。
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フランスの偉人たちを祀る霊廟、パンテオン。
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サント・シャペル教会やサンミッシェルの噴水、パンテオンは、帰国後の明治45年(1912)に発行された雑誌『旅行』に寄せた「曽遊紀念帖」という文章に、光太郎の旅レポとして、写真入りで紹介されています。

ラストは凱旋門の遠景。
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犬吠篇も楽しみです。

もう1件。

開運!なんでも鑑定団【アノ有名女優が巨匠の彫刻に!?&お宝探し旅で超絶値】

BSテレ東 2021年7月15日(木) 19:49〜20:49

本人登場…アノ<有名女優>が20代で<巨匠彫刻家>のモデル!?衝撃鑑定額■特別企画<今田&福澤のお宝探し旅>…超絶値お宝が続出■超貴重<宇宙秘宝>に驚き値

知人から「会社を畳むのでもらってほしい」と頼まれた木彫りの裸婦像。あまりの美しさにひと目で気に入り、タダでもらうのも心苦しく100万円で購入した。実は、ある有名女優が若手時代にモデルを務めた作品だというのだが、似ているような似てないような…。スタジオにはまさかの女優本人登場でお宝とご対面。鑑定結果に一同驚愕!

出演者
【MC】今田耕司、福澤朗
【ゲスト】加藤綾菜
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】今田&福澤の北海道小樽・お宝見つけ隊!
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

系列の地上波テレビ東京さんで、4月20日(火)に放映された回です。

「巨匠彫刻家」は、光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏。
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番組では、氏の紹介の部分、非常に見応えがありました。
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氏の父君で、二本松出身の橋本高昇についても。
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で、鑑定依頼品。
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というわけで、高畑さんご本人もご出演。
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モデルを務められた際の思い出等が語られました。

ネタバレですみませんが、鑑定金額は……。
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鑑定士の日大芸術学部・大熊敏之氏も大絶賛の逸品でした。
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その他のコーナー、北海道似鳥美術館さんの紹介の中で、光雲の木彫もちらっと取り上げられます。
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それぞれ、視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる過学校の子供三人郵便物届けにくる。何かやると子供等の間によからぬ事起りさうに見える。

昭和23年(1948)4月17日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった、太田小学校山口分教場(のち、山口小学校に昇格)。郵便はその分教場までしか届けてもらえず、光太郎が自分で取りに行ったり(同時に差し出し分を預かってもらいました)、教師や児童が届けてくれたりしていました。

中には、光太郎がお駄賃にと、雑誌や食べ物をくれるので、それを目当てに、という子供もいたようで、光太郎、そういう気配を感じ取ったようです。

過日ご紹介した、花巻でのイベントの報道が出ていますので、ご紹介。

まずは、花巻市博物館さんで開催中の「鉄道と花巻—近代のクロスロード—」。『岩手日日』さんの記事です。

発展支えた“大動脈” 郷土の近代鉄道史に焦点 花巻市博物館テーマ展

 東北本線開通から新花巻駅開業までの花巻の近代鉄道史に焦点を当てた、花巻市博物館(高橋信雄館長)の2021年度テーマ展「鉄道と花巻―近代のクロスロード―」は、同市高松の同館で開かれている。鉄道の発展に伴い栄えるまちの様子、発展に携わった人物なども関連資料を通して紹介し、現在の充実した交通網に至るまでの歩みを振り返っている。8月29日まで。
  花巻に鉄道が延伸したのは、1890(明治23)年。東北本線開通(上野―盛岡間)や花巻駅開業に始まり、同駅を起点とした岩手軽便鉄道、花巻電鉄が誕生し、交通網が発達。本県初のターミナルへと成長した。
 今展は「花巻近代鉄道史の夜明け~東北本線~」「内陸から沿岸へ~岩手軽便鉄道~」「温泉へ行こう~花巻電鉄と新温泉~」など5章構成。写真や絵、図、絵はがき、切符など多様な資料176点が並ぶ。
 このうち「花巻近代鉄道史―」では、同館所蔵の「花巻駅長舎之図」(明治22、23年)や「花巻駅停車場図面」(明治30年代)のほか、個人所蔵の東北本線時刻表(明治時代)などを公開。同駅舎や停車場の設計を手掛けた宮澤猪太朗(1848~1912年)についても伝えている。
 序章では、鉄道が導入される前に物資の主要な輸送手段だった「舟運」の歴史にも触れている。
 テーマ展に合わせて同館では、同市の材木町公園に保存、展示されている花巻電鉄の車両「デハ3」の一部を、ほぼ実物大に再現した模型を設置。市内の児童(10)は「花巻電鉄については、4年生の時に社会科で習った。模型は本物みたい。幾多の苦労や困難があって今の鉄道まで発展したのだと知ることができた」と、興味深げに見入っていた。
 同館学芸員の小田島智恵さんは「現在は当たり前のように交通の便が良い花巻だが、その歴史まで理解している人は少ないのではないか。花巻は実はすごい所なのだと知ってもらいたい」と来館を呼び掛ける。
 関連行事として、17日午後1時30分から講演会が行われる予定で、釜石市世界遺産課の森一欽課長補佐が「釜石鐵の鉄道~内陸から海へつなぐ鉄路~」と題して話す。31日には、小田島さんによる講座「岩手軽便鉄道と花巻」も開催する。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館=0198(32)1030=へ。
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光太郎も、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から、花巻町中心街や大沢温泉などの温泉郷への足として使っていた花巻電鉄。画像にあるデハ3型車輌の模型は、ぜひ今後も活用していただきたいと存じます。

ちなみにこちらが、現役当時のおそらくデハ3型。当方手持ちの古絵葉書です。ぜひ乗ってみたかったと思いました。
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続いて、「旧菊池捍邸内覧会とゆかりの人々展」。『岩手日報』さんから。

池捍邸を26日から一般公開 花巻、宮沢賢治作品の舞台モデル

 宮沢賢治作品の舞台とされ、大正ロマンを象徴する建築の花巻市御田屋町の「菊池捍(まもる)邸」は26日から一般公開される。市民有志による保存・活用委員会(木村清且(きよかつ)会長)が、菊池捍(1870~1944年)や、市ゆかりの人物を顕彰する場とした。公開は1カ月間だが、将来的にはまち中心部に活気を呼び込む常設の施設を目指す。
 26日のオープニングセレモニー後は、7月18日まで毎週土日に開館。午前10時~午後4時。入館料(協力金)は500円。問い合わせは同委員会事務局の北山公路さん(090・2884・0466)へ。
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さらに、IBC岩手放送さんのローカルニュース的な……。

池捍(まもる)さんのお家…!

 花巻市御田屋町・上町商店街の東側にある「菊池捍邸」におじゃましました(#^^#) 菊池捍さんは、花巻出身。国内外で農業技術の発展に従事した方です!
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 7年かけてじっくり建てられた家で、まもなく築100年!
 「花巻瓦」の屋根が美しい洋館… 加えて、館内には武家屋敷の構造が見られるという、後世に残したい貴重な建物です。
 この通りは数えきれないほど来ていますが… 知りませんでした<(_ _)>
 先週末から、来月18日までの土日に開館しています。今日は特別に館内から中継しました!
 「菊池捍邸 保存・活用委員会」会長 木村清且さん(写真左)にご紹介いただきました(^^)
 邸宅を毎日綺麗に管理している 佐藤吉雄さん(写真右)は、本日見守り隊です(#^^#)
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 宮沢賢治の物語が読み取れ、かつ様々な先人が訪れた邸宅… ワクワクします!
 そして、ここを守ろうとたくさんの方が活動を続けていることも、素敵ですね( ˘ω˘ )
 応援していきたいです(^^)/
 襖の柄もオシャレ…!
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 土日の日中は、委員会の皆さんに様々お話が聞けますし、じっくり見学ももちろん可能!
 夕方には、朗読会・観劇会・音楽鑑賞会などが開催されています(^^♪
 入場料(運営協力金) 500円(小学生以下は無料)
 お問い合わせ 090-2884-0466
 ありがとうございました\(^o^)/
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当方、明日から1泊で、それぞれを拝見に行って参ります。帰りましたらレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

駒込のアトリエ焼失の日。


昭和23年(1948)4月13日の日記より 光太郎66歳

さすがに、この日付は忘れがたいものだったのでしょう。昭和20年(1945)、3月10日の東京大空襲では難を逃れたものの、その後も断続的に空襲が続き、4月13日の空襲で、智恵子と暮らした思いで深いアトリエ兼住居は、灰燼に帰しました。
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日記では、この日、北海道弟子屈から詩人の更科源蔵、また、それとは別に盛岡から岩手県立美術工芸学校の佐々木一郎、森口多里が訪ねてきたことが記されています。おそらくアトリエ焼失の際の話題にもなったのではないでしょうか。

しかし、アトリエの焼失がなければ、花巻に行くこともなかったわけで、人の縁というのはつくづく不思議なものですね。

京都からコレクション展情報です。

モダンクラフトクロニクル―京都国立近代美術館コレクションより―

期 日 : 2021年7月9日(金)~8月22日(日)
会 場 : 京都国立近代美術館 京都市左京区岡崎円勝寺町26-1
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日、8月10日(火)*ただし8月9日(月・休)は開館
料 金 : 一般:1,200円(1,000円) 大学生:500円(400円)
      ( )内は20名以上の団体および夜間割引(金曜、土曜 午後5時以降)
       高校生以下・18歳未満は無料

1963年に開館した京都国立近代美術館は活動の柱の一つに工芸を置いており、国内有数の工芸コレクションを形成してきました。加えて、当館は「現代国際陶芸展」、「現代の陶芸―アメリカ・カナダ・メキシコと日本」、「今日の造形〈織〉-ヨーロッパと日本―」、「現代ガラスの美―ヨーロッパと日本―」など、折に触れて日本との比較の中で海外の工芸表現を紹介し、日本の美術・工芸界に大きな刺激を与えてきました。本展では、当館の工芸コレクションを用いて、これまでの当館の展覧会活動の一端を振り返るとともに、近代工芸の展開をご紹介いたします。

第1章 世界と出会う 起点としての京都国立近代美術館
第2章 四耕会、走泥社からクレイワーク、ファイバー・ワークへ
第3章 「美術」としての工芸 第 8回帝展前後から現在まで
第4章 古典の発見と伝統の創出
第5章 新興工芸の萌芽 自己表現としての工芸
第6章 図案の近代化 浅井忠と神坂雪佳を中心に
第7章 手わざの行方

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光太郎の父・光雲、それから実弟で鋳金分野の人間国宝だった髙村豊周の作品が出品されます。

まず、光雲。とういうか、旭玉山、石川光明、大谷光利、香川勝廣、加納鐡哉、加納夏雄、柴田是真との合作で「福禄封侯図飾棚」。光太郎が生まれた明治16年(1883)の作となっています。
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おそらく、上部の木彫部分を光雲が手がけているのでしょう。下の扉、鹿の部分は白いので、象牙。牙彫師の旭玉山によるものと思われます。

豊周の作はこちら。
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「蝋型朧銀筒形花生」。昭和38年(1963)の作です。

他に、光雲、光太郎等と交流の深かった人物の作品も多数。バーナード・リーチ、藤井達吉、津田青楓、山本安曇など。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝太田中学校の生徒等箒作りに大挙してくる。中学の教師二人立寄られ、一時間ほど談話。青年教師は東京に二十年もゐた由。又女教師さんは福島須賀川の人 東京にゐて今度岩手にはじめて来られし由。


昭和23年(1948)4月9日の日記より 光太郎66歳

新年度早々、山で箒(ほうき)作りというのが笑えます。先生はともかく、生徒さんの中にはまだご存命の方も多いような気もします。

まだチラシ等も出来ていないとのことで、不十分な情報ですが……。

企画展「光太郎の三陸廻り」

期 日 : 2021年7月16日(金)~8月30日(月)
 追記 コロナ禍のため花巻市関連施設利用制限「レベル4」となり、9月23日(木)まで休館
    その後12月まで開催 
会 場 : 花巻市高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体
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昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、宮城から岩手の三陸一帯を約1ヵ月、光太郎は主に船を使って旅しました。光太郎がこの旅に出ている間に、智恵子の心の病が顕在化した、とも言われています。

『時事新報』に「三陸廻り」が載ったのは、その年10月3日から27日まで。断続的に全10回での掲載でした。
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当会顧問であらせられた、故・北川太一先生による『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)に掲載された行程図がこちら。
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紀行文に記された寄港地は、石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古です。

館からの連絡では、掲載回毎のパネルを作成し、それに光太郎のスケッチと現在の各地の様子(漁港や海岸の写真が中心)を添えて展示、とのこと。光太郎の足跡を辿りながら、震災から復興しつつある沿岸の各地の現在を写真で紹介する主旨で、これに光太郎が訪れた昭和6年(1931)の石巻鳥瞰図(複製)を補足資料として加えるとも書かれていました。また、随筆「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」(昭和21年=1946)直筆原稿を参考資料として展示するそうです。

その他、当方手持ちの資料の中から、古絵葉書など、使えそうなものをお送りしました。使っていただけるかどうか未定ですが。

「光太郎のスケッチ」は、こちら。全10回の「三陸廻り」、各回に掲載されました。
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このうち、「女川のしみ」(しみ=鮪)、「船尾におかれた綱の団塊」の2点は、平成3年(1991)に竣工した女川の光太郎文学碑に使われました。

文学碑といえば、この旅での寄港地のうち、気仙沼、そして釜石にも、この旅で光太郎が訪れたことを記念する文学碑が建立されています。釜石の碑は、平成7年(1995)の建立。その頃見に行ったきりで、震災後、どうなっているのかわかりませんが、健在ではあるようです。

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さて、企画展「光太郎の三陸廻り」。チラシ等が廻ってきましたら、またご紹介しますが、コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる近くワタルさん来訪。龍角散うけとり。


昭和23年4月8日の日記より 光太郎66歳

「ゴホン!といえば龍角散」というコピーがすぐに浮かぶのは、一定以上の年代の方ですね(笑)。江戸時代には秋田藩佐竹家の藩薬として、すでに存在していたそうです。

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昨日は、昭和9年(1934)、智恵子が半年あまり療養生活を送っていた、旧片貝町(現・九十九里町)方面に行きました。

もともとそのつもりではなく、調べ物のため、自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市にある、県の東部図書館さんに行ったのですが、調査終了後、足を伸ばしました。旭市は九十九里浜の北端で、旧片貝町辺りは浜のほぼ中央部。旭まで行けば、そこからは車で30分ほどです。毎年の初日の出拝観をはじめ、よく行く場所ですが、気になる情報を新たに得たので、行ってみました。
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一般の方のfacebook投稿で、永らく草木に覆われ埋もれていた光太郎歌碑が、周囲の草刈りが為されて再び見られるようになった、という情報で、今年5月の投稿でした。

歌碑はそう古いものではなく、平成10年(1998)の建立です。下は、その頃撮った写真。
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『智恵子抄』に収められた、光太郎短歌三首が刻まれています。

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

最初の「いちめんに……」の歌は、この地で詠まれたものです。

昭和9年(1934)に、智恵子が療養していた家は、所有者の名を取って「田村別荘」と呼ばれていましたが、空き家となったあと、昭和47年(1972)に、元の場所から500㍍ほど離れた、大網白里町に移築され、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。下は、平成のはじめ頃に撮った写真です。
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ところが、元々があまり立派な家屋でもなく、さらに無人の状態だったため、中に入り込んで悪さをする馬鹿者もいたりで、内部にゴミ等が散乱していた時期もありました。

平成6年(1994)頃には、元の位置に近い所に戻す、という計画もあったのですが、いつの間にかうやむやに。
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そこで、平成10年(1998)、観光資源としての活用を図ろうと、地元有志による保存修復の動きが出、実際、きれいになりました。その際、建物の傍らに、歌碑が建てられたのです。
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ところが、田村別荘、翌平成11年(1999)に、管理を巡る感情的な行き違いから、突如、解体されてしまいました。

歌碑は残されたのですが、その後、敷地全体は草木が繁茂するままとなり、ここ数年は、元の位置もどこだかわからなくなっていました。

それが、先述の通り、今年5月に草刈りが行われ、碑が見えるようになったという情報。そこで、見に行ってみたわけです。

ところが、やはりよくわかりません。ようやく、周囲より草木の少なめの場所を見つけ、「ここか?」と思って、踏み込んでみると、ありました。県道から20㍍ほど、海側に入ったところです。
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5月に草刈をしたはずなのですが、2ヶ月でもうこの状態です。雑草、恐るべし。

足で草をかき分け、撮影。
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ちなみに県道沿いの、入り口に当たる部分はこんな感じです。このままだと、遠からずまた、碑に近づくことも出来なくなりそうだと思いました。
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歌碑自体はきれいに残っているので、どこか適当な場所に移すことは出来ないのでしょうか……。

その後、ちょうど昼時でしたので、川を渡ってすぐの国民宿舎サンライズ九十九里さんへ。
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レストランのある2階のエレベーターホールには、光太郎智恵子像。制作は日展作家の久保田俶通氏。こちらの像はミニチュアで、本体は、東金九十九里有料道路の今泉PAにあります。

ついでだ、と思い、そちらにも足を伸ばしました。
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なぜか、以前はなかったお賽銭が、それも、かなり。
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別に、ご利益は無いように思うのですが(笑)。

ここまで来たら、さらについでだ、と思い、田村別荘が元々建っていた場所にも。サンライズ九十九里さんのすぐ近くのテニスコート付近です。
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以前は、右の木の下に木製の標柱が建っていたのですが、それも無くなっており、ここと知らなければ通り過ぎてしまう所です。

さらにサンライズ九十九里さん裏手の方の、「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。
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昭和36年(1961)の建立で、この場所は砂浜だったのですが、碑と海の間に有料道路が造られてしまいました。
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上は、昭和46年(1971)の新聞記事です。「千鳥と遊べぬ智恵子」うまい見出しですね。

さらに現在、有料道路の海側に、巨大防潮堤も建設中。
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波打ち際は、智恵子が千鳥と遊んだ昔のままなのでしょうが……。
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各場所の細かな位置は、最初の画像をご覧下さい。文学散歩的な取り組みで、ガイドが必要、というような場合にはお声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩「人体飢餓」書きかけ。 十時頃ねる。


昭和23年(1948)4月6日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では、戦争責任へ自ら与えた罰として、「天職」とまで考えていた彫刻を封印する日々でした。

手すさびに、送られてきた彫刻材で蝉を彫ったり、粗悪な畑土で塑像――ともいえない程度のもの――を作ったりということはありましたが、きちんとした「作品」と呼べるものは、太田村時代の7年間で一つも遺しませんでした。

転機となったのは、青森県から十和田湖畔に国立公園指定功労者顕彰のためのモニュメント制作を依頼された昭和27年(1952)。これが「乙女の像」として昇華してゆきますが、それもまだ先の話です。

「彫刻封印」というあまりに過酷な罰は、光太郎をして、雪女の姿を雪で作るという夢想さえ見せしめました。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。


「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

地上波日本テレビさん系で放映されている5分間番組「心に刻む風景」。先週、6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」の放映が始まりました。当方、ちょっとだけお手伝いさせていただいております。

まず明日の放映分の予告から。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子 #2 フランス・パリ…パリの芸術を求めて

地上波日本テレビ 2021年7月7日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#2 舞台(フランス・パリ)
110年ほど前に、パリの街にやってきた光太郎。
パリの芸術を見て、衝撃を受ける。
帰国後は彫刻家・詩人としても斬新な作品を発表し続ける

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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先週放映の#1は、「福島・二本松 智恵子抄のはじまり」でした。
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JR東北本線二本松駅前にたたずむ智恵子像「ほんとの空」。今年1月に亡くなった、故橋本堅太郎氏の作品です。
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福島二本松の、智恵子生家。まずは一階の帳場や座敷など。
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続いて二階の智恵子の居室(通常、非公開)。
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再び階下。座敷から望む庭。
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光太郎の留学仲間でもあった画家・津田青楓に語ったされる、智恵子の言葉から。
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生家裏山、光太郎と智恵子が歩いた「愛の小径」。
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振り返ると、智恵子生家。
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CMを除くと、実質、2分ちょっとですが、いい感じです。

明日のパリ編も、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后ズボン下右膝の破れを修繕、布をウラに二枚あてる。


昭和23年(1948)4月3日の日記より 光太郎66歳

光太郎、裁縫は不得手でしたが、そうそうやってくれる人もいないので、仕方なく自分で縫うしかありませんでした。

松尾芭蕉の『奥のほそみち』の冒頭部分にある「股引のやぶれをつづり」を思い出します。ただ、そちらは芭蕉がみちのくへの旅に出る支度の一環でしたが、光太郎は、まだこの後4年半、花巻郊外旧太田村の山小屋にこもり続けます。

当会の祖・草野心平の関連です。

まず、7月3日(土)、『福島民友』さんの一面コラム。

編集日記 かわうちワイナリー

 詩人草野心平は酒をこよなく愛した。自らは、味よりも酔いを好む方だからと「学生飲み」を自称していた。酒にまつわる逸話にも、事欠かなかったようだ
 ▼経営していた居酒屋「火の車」では、酒のつまみ作りに腕を振るい、文豪や文化人らでにぎわった。心平が好きだったものの一つにイワナがある。創作の場だった川内村でも、釣れたばかりのイワナのワタを串に刺して焼き、いろりばたで味わっていた(「酒味酒菜」中公文庫)
 ▼村はいま、ワイン用のブドウの産地づくりを進めている。山あいに広がるブドウ畑には7品種、約1万1000本が栽培され、醸造施設「かわうちワイナリー」も先月下旬に開所した
 ▼秋の収穫を待ち、来春には待望の村産ワインが誕生する見通しだ。村の特産品を活用し、ワインに合う料理の開発にも知恵を絞っていこうとしている。心平がほれ込んだイワナも、村自慢の産品の一つだ
 ▼心平は焼酎をベースにしたブドウ酒を造ったことがある。ある名産地のブドウ酒試飲会に誘われたとき新しいヒントが得られるのではないか―と思ったものの、つい行きそびれてしまい未練が残った話も書いている。村のワインを飲んだら、どんな感想を漏らすだろう。

双葉郡川内村は、モリアオガエルの生息地・平伏(へぶす)沼を抱え、その縁で、隣接するいわき出身の「蛙の詩人」・心平が同村にたびたび滞在、村民と深く交流を持ちました。そこで、同村では心平を名誉村民に認定して下さいました。

その川内村で、ワイナリー。元は、東日本大震災による福島第一原発の事故の被害からの復興、ということで構想されました。ブドウは放射線に強いそうで。

『福島民報』さん、先月末の記事。

「かわうちワイナリー」開所式 福島県川内村 年間1万本以上生産目指す

 福島県川内村のワイン醸造施設「かわうちワイナリー」は26日、村内上川内の高田島ヴィンヤード内に完成し、開所式が行われた。関係者が東京電力福島第一原発事故からの農業再生の柱になる施設の完成を祝った。今秋に収穫するブドウから醸造を始め、年間1万本以上を生産予定。「かわうちワイン」の販売を通して国内外に村の魅力を発信する。
 開所式には約60人が出席した。遠藤雄幸村長が「川内村の元気な姿を広く見せていきたい」とあいさつ。ワイナリーを運営する、かわうちワイン社長の猪狩貢副村長が開所までの経緯を紹介した。
 内堀雅雄知事が「村の魅力が高まり、交流人口の拡大につながることを期待している」とあいさつし、横山信一復興副大臣、葉梨康弘農林水産副大臣、江島潔経済産業副大臣兼原子力災害現地対策本部長らが祝辞を述べた。遠藤村長らがテープカットし、開所を祝った。
 施設は鉄骨造りで建築面積は561平方メートル。醸造用のタンクのあるタンク室や貯蔵庫、ブドウを搾る機械などを備える。一般向けに不定期で見学会を開くほか、将来的にはワインの試飲や販売も行い、交流やにぎわいの拠点にする。
 高田島ヴィンヤードは阿武隈高地の最高峰・大滝根山を望む標高約700メートルにある。約3ヘクタールの畑で1万1000本のブドウを栽培。昨年秋には初収穫を行い、初のワインが完成した。
 昨年末に村に移住し、ブドウ栽培の責任者を務めている同社の安達貴さん(34)が醸造も担当する。出席者にタンク室などを案内した安達さんは「ブドウはおおむね順調に育っている。魅力的で特徴のあるワインを造りたい」と決意を語った。
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仙台に本社を置く『河北新報』さん。

川内村にワイナリー 地元でブドウ栽培、避難解除5年、産業化目指す

 東京電力福島第1原発事故で一時全村避難を強いられた福島県川内村に26日、ワイン醸造所「かわうちワイナリー」が開所した。村内で収穫したブドウを原料にしたワイン開発事業に、官民一体で約6年前から取り組んでいて、村は「かわうちワイン」を核とした新たなまちづくりを進める。
 現地であった記念式典には関係者ら55人が出席し、完成を祝った。ワイナリーは村北部の小高い丘の大平地区に建設され、栽培や醸造、瓶詰めを一貫して行う。750ミリリットル換算で1万9000本の生産が可能で、今秋収穫分から醸造を始める。
 標高約750メートルの周囲には約3アールのブドウ畑があり、シャルドネなど数種類のブドウの木約1万1000本が植えられている。ワインの味を左右するとされる土壌にはミネラル分を含む花こう岩の成分が含まれているため、良質なブドウが育つという。今年3月には昨秋に収穫されたブドウを山梨の工場に委託醸造した「シャルドネ2020」が披露された。
 2015年からワイン造りの構想が練られ、翌年に地元住民らによるブドウ栽培が始まった。17年には村も出資する醸造会社「かわうちワイン」が設立された。同社はレストランや宿泊施設などの経営も検討している。栽培・醸造責任者の安達貴さんは「まだ準備ができた段階。選ばれ続けるワインを造りたい」と話す。
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確かに心平に飲ませたかったところですね(笑)。

その川内村で、2年ぶりに、心平をたたえる「天山祭り」が今週末に開催されます。

第56回 天山祭り開催のお知らせ

今年度の天山祭りは、新型コロナウイルス感染拡大予防のため、参加者を福島県在住の方100名程度に限らせて開催いたします。また、会場での飲食物の提供及び飲食も控えさせていただきます。

日 時 令和3年7月10日(土) 午前10時から正午まで
場 所 天山文庫前庭(雨天時は川内村村民体育センター)
参加者 福島県在住の方 100名程度
参加費 1人500円
※ 来場者にはお土産を配付させていただきます。

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当方、4回ほど参加させていただきました。生前の心平が愛し、心平没後は心平を偲ぶ意味合いを持たせ、さらに東日本大震災後は、村の復興祈願も兼ねたイベントとなりました。

会場の天山文庫(上記画像イラスト)は、心平の別荘的な建物で、心平から寄贈された書籍が所狭しと置かれているため「文庫」の名が冠されています。建設委員には光太郎実弟にして心平と親しかった、髙村豊周も名を連ねました。

例年ですと、かつて心平が主宰した『歴程』同人の皆さんなどによる、心平詩の朗読等が盛り込まれていましたが、今年は規模を縮小しての開催のようで、どうなりますことやら。

福島ご在住の方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「光太郎詩集」再版のため検印紙一〇〇〇枚捺印。


昭和23年(1948)3月26日の日記より 光太郎66歳

「光太郎詩集」は、鎌倉書房版『高村光太郎詩集』。前年7月に初版が出た、光太郎初の単独選詩集で、『道程』時代の明治末から、『智恵子抄』所収の「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)まで、70篇余の詩が収められています。編集・装幀・跋文は心平でした。

跋文から。

現代日本最高の詩人が岩手の山奥の藁と泥とがたぴしの板とでできた小さな小屋で独り貧寒の自炊をしながら、むしろ伝説的な精進に昼と夜とを過ごしてゐることを一応私は報告しておきたい。
私の家の竹藪ではもう鶯もなきはじめたが、あの掘立小屋の界隈は陣陣さむく、まだまだレントゲン色の吹雪もやつてくるだらう。超人的な貪婪な、六十五歳の美のかたまりがそこにゐる。


「検印紙」は、奥付に貼る紙片。印税を計算するためのもので、著者が捺印することになっていました。現在は廃止されています。

千葉県の地上波ローカルテレビ局、チバテレさん。今年5月から、第2放送として「チバミライチャンネル」の放映が始まりました。

コロナ禍により、子ども達が学校へ通えない時期がありました。
チバテレではそんな子ども達のために、第2チャンネルを利用し、学校の授業番組を放送いたしました。
学校の先生と共に1から手作りで制作した番組でしたが、対象外の市町村の方からもご好評をいただき、チバテレにとって放送電波の活用について考えるきっかけとなりました。
2021年5月、チバテレは開局50周年を迎えます。
これを機に第2チャンネルを『チバテレミライチャンネル』と変更し、子ども達を中心とした様々な方へ向けた「未来のため」のチャンネルへと進化いたします。

だ、そうで。

終日放映しているわけではなく、朝夕に1時間半、午後に1時間ほどの枠で、千葉県内の高校生が制作した番組や、全国11のローカルテレビ局との共同制作になる「なんとなく歴史が学べる」というゆるい番組「戦国鍋」などが放映されています。

さらに、「ちば見聞録」という番組も。こちらは、平成26年(2014)から同28年(2016)までに、計78本が制作された30分番組で、千葉県各地の歴史紀行的な内容。昭和48年(1973)から平成16年(2004)にかけて制作された「房総プロムナード」の後継番組です。
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一昨日の放映が「#045 九十九里紀行」でした。初回放映は平成27年(2015)8月とのこと。
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九十九里浜を、北限の旭市太東岬から南下しつつ、沿岸の名所旧跡、歴史的背景等を紹介していました。

九十九里町の、光太郎詩碑も取り上げられました。
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画面では正しく「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑となっていましたが、ナレーションでは「「智恵子抄」の一節、「九十九里の初夏」を記した詩碑」と言っていたのには閉口しましたが……。「九十九里浜の初夏」は、『智恵子抄』刊行直前の昭和16年7月、雑誌『新若人』に発表された散文です。

九十九里町より南、一宮町の部分では、芥川龍之介関連。
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光太郎と芥川は、面識はあったものの、親しかったわけではなかったようで、『高村光太郎全集』に、芥川の名は1回しか出て来ません。昭和2年(1927)作の詩「北東の風、雨」を、翼賛詩集『記録』(昭和19年=1944)に収めた際に付した前書き中に「芥川龍之介全集の刊行が着手せられたのも此年である」とあるのみです。ただ、芥川が光太郎の書を高く評価し、入手したというエピソードがありますが。

さて、「ちば見聞録」。全78作が、YouTube上にアップされています。「九十九里紀行」はこちら。


光太郎に関しては、14:43頃から、芥川は16:12頃からです。

その他、全78回中、光太郎智恵子ゆかりの場所である、銚子犬吠埼や成田三里塚なども扱われていますが、残念ながら、光太郎智恵子には触れられていないようです。

ただ、「#061 手賀沼物語」では、光太郎も写っている写真が使われています。
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光太郎は後列右端。雑誌『白樺』10周年の会、大正8年(1919)の撮影です。

我孫子市の手賀沼周辺に、柳宗悦、バーナード・リーチ、志賀直哉、武者小路実篤ら、白樺派の面々が移り住み、その紹介の部分です。

全78回、こちらから選んで視聴できます。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ひげそり。久しくそらざりし為め、ひげひどくのび、そるのに一仕事。


昭和23年(1948)3月24日の日記より 光太郎66歳

そいうえば、この時期、無精ヒゲの伸びた写真が多く残されています。
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頼んでおいた新刊が届きました。

1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄

2021年6月30日 岡本勝人著 左右社 定価2,400円+税

関東大震災に揺られる日本の〈世紀末〉を文学者たちはどう生きたのか?

やがて来る時局に絡められつつある高村光太郎、モダニズムの隘路に囚われゆく横光利一、原日本を求め危うい道を行く堀辰雄――。

モダニズムからダダイズム、シュルレアリスムまでヨーロッパ文化が怒涛のようにもたらされ、渦巻いた1920年代。
高村光太郎・横光利一・堀辰雄・中原中也・小林秀雄・西脇順三郎・瀧口修造・中川一政・古賀春江・芥川龍之介・谷崎潤一郎・萩原朔太郎・宮沢賢治ら、あまたの作家たち、詩人たちがそれぞれの青春を生きていた帝都東京を、1923年9月1日、関東大震災が襲う──。転換する時代と文学者の運命を描く力作。
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目次
はじめに
Ⅰ 一九二〇年代とはいかなる時代か
 1大正の大震災 2モダニズムのあけぼの 3四季』と新しい文学運動 
 4中原中也と小林秀雄
Ⅱ 大震災と改元
 1関東大震災 2中川一政と古賀春江 3大正文学考 4震災からの復興
 5「昭和」への改元 6大正から昭和へ続くもの 7堀辰雄と軽井沢
 8一九二〇年代東京 
Ⅲ 芥川龍之介と谷崎潤一郎の震災余燼

 1「パンの会」と一九二〇年代 2谷崎潤一郎の文体
 3「パンの会」と谷崎、そして佐藤春夫
 4佐藤春夫の『我が一九二二年 詩文集』、「秋刀魚(さんま)の歌」
 5近代詩の成熟 6一九二〇年代の地方出身者と東京 7草野心平と高橋信吉 
Ⅳ 高村光太郎の造形芸術
 1新帰朝者としての光太郎 2
一九二〇年代の光太郎 3光太郎と智恵子
 4光太郎の戦後へ
 5高村光太郎の芸術の総体 6戦後の「典型」
Ⅴ 横光利一のモダニズム
 1横光利一とその出発 2上海 3横光利一の詩と散文 4横光利一と北川冬彦、宮沢賢治 
 5横光利一の悲劇とその解読
Ⅵ 堀辰雄の文学空間
 1一九二〇年代の堀辰雄 2
軽井沢「美しい村・風立ちぬ」と堀辰雄 
 3堀辰雄の『幼年時代』と下町 4カロッサとリルケ 5再び堀辰雄の下町
 6堀辰雄をめぐる文学風景 7堀辰雄の
フローラ 8日本的深化と大和路の旅
 9堀辰雄の表現主義
Ⅶ 萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向
 1一九二〇年代と現在 2萩原朔太郎の彼方へ 3朔太郎の移動
 4宮沢賢治の移動の時代とオノマトペ 5自然災害と仏教思想
 6朔太郎と賢治、ふたりの「世紀末」 7「有」の詩人と「
」の詩人 
 8「垂直性」と「水平性」
Ⅷ 一九二〇年代という世紀末
 1混沌とする文化状況のなかで 2歴史と文学 3パウンドとフェノロサ
 4一九二〇年代という世紀末
おわりに

著者の岡本勝人氏は、『週刊読書人』さんで40年間書評を担当なさっていたそうで、そうしたご経験に基づく幅広い視点から論が展開されているように思われました。

「世紀末」とありますが、19世紀、20世紀といった括りでの「世紀末」では当然なく、明治から十五年戦争へと移りゆく過渡期としての「世紀末」という設定です。

一九二〇年代に端を発するヨーロッパ・モダニズムや社会主義思想の受け入れには、同時代的な受容もあれば、時間的な遅延を伴う受容もあり、日本的偏差を踏まえた選択的受容もあったであろう。加えて日本では、関東大震災という文明史的な歴史の断層があった。(略)一九三〇年代から四〇年代については、日本ファシズムに収斂していく政治と文学の暗い狭間の光景として、比較的多くの人によって語られてきた。あまり語られることのなかった一九二〇年代は、明治憲法下という限界を蔵しながらも、大正期に発生した自由な文化の萌芽の一面を見事なまでに垣間見せてくれる。百年後の今日からみたとき、この時代がどのような絵像を結ぶか、本書で検証してみたい。(はじめに)

一九三〇年代という時代は、かつて十五年戦争といわれた戦時期に直接的につながり、全体として、反省的に論ぜられることが多かった。しかし一九二〇年代は、未熟ではあるが、大正と昭和期にまたがる生成の途上の時代として、現代がもう一度その歴史から学びなおすことのできる問題点と経験知を内蔵する時代である。(萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向)

取り上げられている各文学者の「一九二〇年代」を中心に、それまでの過程、そこかで培われたものがその後にどういう影響を及ぼしたかなどが、幅広く論じられています。

光太郎についても、同様です。光太郎にとっての「一九二〇年代」は、智恵子との同棲生活が比較的安定し、関東大震災を契機に再び始めた木彫が世に受け入れられ、詩の分野でも、「雨にうたるるカテドラル」などの力強い作品を発表していた時期でした。そこに到るまでの明治末の欧米留学や、帰朝後のパンの会、フユウザン会などでの活動や智恵子との邂逅、一九三〇年代以降の翼賛活動や、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活等までを俯瞰しています。太田村で書かれた、自らの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の詩篇が効果的に引用され、章全体で、簡略な光太郎評伝とも成っています。

また、目次からも類推できると存じますが、他の作家の項にも、たびたび光太郎が登場しますし、光太郎と交流の深かった面々についても興味深く拝読しました。

ただ、蛇足ながら、光太郎の書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)を「翻訳」とするなどの事実誤認や、誤字(上記帯文の「絡め」も「搦め」ですね)等が多いのが残念です。また「参考文献」の項が一切無いのですが、どうも『高村光太郎全集』も、全21巻+別巻1の増補改訂版でなく、全18巻の旧版を使われているようで……。

そうした点は目をつぶるとして、労作、好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

朝はれる。 十時頃までねてゐる。 セキまだ出る。 冬三ヶ月間の温泉泊りをしきりに考へる。

昭和23年(1948)3月17日の日記より 光太郎66歳

セキ」は宿痾の肺結核によるもので、前後には血痰に関する記述もあります。「冬三ヶ月間の温泉泊り」は、これも前後の記述から、大沢温泉さんの湯治部や、花巻温泉さんに当時あった、コテージ的な貸別荘などを想定していたことがわかります。確かに農閑期でもある厳冬には、電線も引かれていない山小屋にこだわる必要性もあまりなかったわけで、弱気になることもありました。しかし、結局は、この山小屋で丸7年を過ごすことになります。

智恵子の故郷・福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』2021年7月号から。

まず三保恵一市長による連載「市民が主役。~市長からの手紙」。光太郎智恵子に触れて下さいました。
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「散歩やウォーキングに出かけてみませんか?」というサブタイトルで、「智恵子の杜公園は、智恵子と光太郎が歩いたという『愛の小径』があり……」。二本松市レベルになると、「彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956)」ではなく「光太郎」、「光太郎の妻で二本松出身の智恵子」でもなく「智恵子」で通じてしまうのですね。

5月16日(日)、コロナ禍のため関係者限定で行われた、安達太良山の山開きの様子でも。
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曰く「これからの夏山シーズンには、安達太良山では、「ほんとの空」が登山客を出迎えます」。

「ほんとの空」といえば、下記の画像は、日本テレビさんで6月30日(水)に放映された「心に刻む風景 高村光太郎・智恵子 #1 福島・二本松」から。
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この番組については、またのちほど詳述します(ネタは小出しにせよ、というわけで(笑))。

ところで、同じ『広報にほんまつ』の先月号。6月17日(木)、NHK Eテレさんで放映された「ふるカフェ系 ハルさんの休日 福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」で取り上げられた、古民家カフェ「8月カフェ」さんについての記述がありました。
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「手厚い補助金」とありますが……
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だ、そうで。

価値あるものを残す取り組み、大切ですね。

【折々のことば・光太郎】

食事支度中、湯本村元村長杉村松三郎氏、湯本小学校長金子昌一氏同道にて、ワタルさん案内にて来訪。校歌の事なり。断り、その理由をよく説明す。

昭和23年(1948)3月5日の日記より 光太郎66歳

校歌の作詞依頼は山のようにあったのですが、結局、生涯に一篇も作詞しませんでした。自由に作れないというのもあったでしょうし、戦時中の翼賛活動への悔恨から蟄居生活を送っている最中ということで、遠慮したというのもあったように思われます。

ただ、校歌ではない団体歌的なものは、2篇だけ作っています。

まず、昭和17年(1942)、岩波書店の「店歌」として、「われら文化を」。作曲は信時潔でした。もう1曲は、「初夢まりつきうた」(昭和25年=1950)。こちらは正式な団体歌というわけではありませんし、詳しい経緯が不詳なのですが、おそらく花巻商工会議所などからの依頼で作った、いわば「商店街の歌」的なものです。邦楽奏者・杵屋正邦により作曲されています。

それぞれ団体歌といっても、「
〽嗚呼、岩波~」とか「♪ はぁなまーきー、しょーこーかーい」といった歌詞にはなっていません。

まずは『日刊ゲンダイ』さんのデジタル版。紙面にも載ったのでしょうか、未確認ですが。

佐高信「この国の会社」 中村屋のカリーは「恋と革命の味」 そこに込められた“辛い意味”

002 元気がなくなると、新宿の中村屋に行ってカレーならぬカリーライスを食べる。「恋と革命の味」といわれるカリーである。
 中村屋は最初、本郷の東大正門前にあった。1901年に相馬愛蔵、黒光夫妻がそこでパン屋を開いた。クリームパンのヒットをきっかけに新宿に移ったが、相馬夫妻の下、彫刻家の荻原碌山や詩人の高村光太郎らが集まるようになり、文化的サロンの場となった。単なるパン屋ではないということである。
 また、夫妻はインド独立運動の闘士、ラース・ビハーリー・ボースを匿(かくま)う。
 そのボースが伝えたのが純インド式カリーである。ボースは匿われている間に相馬夫妻の娘の俊子と親しくなり、結婚して、哲子が生まれた。しかし、まもなく俊子が亡くなるという悲運に見舞われる。
 それで、「恋と革命の味」と呼ばれるのだが、そこにはかなり辛い意味がこめられている。
  悲願のインド独立を果たすため、ボースはイギリスと戦う日本の軍隊に希望を託し、ナチス・ドイツとの連携を訴えるようにもなった。日本のファシスト、大川周明と親しくなって、全国各地を講演して歩いてもいる。
 中村屋では、日本で初めて、水ようかんの缶詰をつくった。和菓子が夏には売れないので、和菓子職人として有名だった荒井公平を招き、水ようかんの缶詰を開発させたのである。これは現在でも人気商品となっている。
「故(ふる)きのれんに」と始まる現在の社歌ではない旧社歌は1930年に制定された。
 蒼茫かすむ 武蔵野に 見よ朝ぼらけ 紅の
 強き光りに 輝きて 礎ふかく ゆるぎなき
 黒き甍(いらか)の 重く摩す 是ぞ我等が 中村屋
 作詞が阿里信で、作曲がマルクラスだが、阿里は社員の萱場有信のペンネームで、マルクラスはロシア革命で祖国を追われたウクライナ出身のピアニストである。ここにもインターナショナルな中村屋の雰囲気が出ている。

相馬愛蔵。信州穂高(現・安曇野市)生まれの実業家です。妻・黒光ともども、メセナの嚆矢として、光太郎の親友だった同郷の碌山荻原守衛をはじめ、多くの芸術家を援助し、彼等によって「中村屋サロン」が形成されました。その流れから、中村屋サロン美術館さんが開設されました。

光太郎は海外留学からの帰朝後、ほぼ中村屋に起居していた守衛のもとをしばしば訪れたので、上記に名が上がっていますが、明治43年(1910)の守衛の急逝後は、足が遠のいたようです。

サロン美術館さんが3階に入っている「新宿中村屋ビル」の8階がレストラン「Granna」さん、または時期によるようですが、チェーン展開の「新宿中村屋オリーブハウス」さんの浦和店/蒲田店/北千住店/新宿高島屋店/国分寺店/吉祥寺店、それから池袋東武百貨店内の「洋食レストラン新宿中村屋」さんで、記事にある「カリー」がいただけます。
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当方も一度、「Granna」さんでのコース料理として食しましたが、なるほど、「カレー」ではなく「カリー」でした(笑)。ちなみにレトルトの通販も行われているそうです。

中村屋さんといえば、智恵子も訪れています。昭和4年(1929)に開催された「旧青鞜同人のあつまり」という女子会の会場が、新宿中村屋さんでした。
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写真では、野上弥生子の陰に隠れて、顔がよく写っていませんが……。

もう1件、中村屋さんネタで。

相馬愛蔵の妻・黒光の生涯を描いた、故・葉室麟氏の小説『蝶のゆくへ』が文庫化されました。

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2021年6月18日 葉室麟著 集英社(集英社文庫)
定価836円(税込)


ガールズ、ビー・アンビシャス! 新しい生き方を希求した明治の女性たち──。葉室麟が遺した、今を生きるあなたへのラストメッセージ。

明治28年、旧仙台藩に生まれた星りょうは、自分らしく生きたいと願い、18歳で上京し、明治女学校へ入学する。その利発さから「アンビシャスガール」と呼ばれていたりょうは、新しい生き方を希求する明治の女性たち──校長の妻で『小公子』翻訳家・若松賤子、勝海舟の義娘クララ、作家・樋口一葉らと心を通わせていく。新時代への希望と挫折、喜びと葛藤が胸に迫る、著者からのラストメッセージ。

紛らわしい書き方になっていますが、「明治28年」は、黒光の生年ではなく上京の年です。

光太郎もちらっと登場します。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

<朝ねてゐる時小鼠天井の梁より落つ>


昭和23年(1948) 3月1日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、退治しても退治しても絶滅しない鼠たち、奇妙な「同居人」(「人」ではありませんが(笑))でした。

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