2021年01月

facebookを開いていたところ、気になる広告が。
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地図柄ケースが続々登場! 全国1000都市からあなたの街を探してみよう!」だそうで。

展開しているのはクロスフィールドデザインさんという会社で、商品名は「Crossfield(クロスフィールド)」。

普段は情報ツールとして接している「地図」。そこには暮らす人や旅した人の様々な思い出が交差して詰まっています。人それぞれ、好きな街や懐かしい街への思いを身近なグッズとして近くに感じてほしい。そんな気持ちからクロスフィールドはラインアップを広げていきます。」ということで、日本全国の主要都市約1,000の地図をあしらったスマホケースだそうです。
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光太郎智恵子ゆかりの地について、探してみたところ、ありました、ありました(笑)。
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光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市。それから智恵子のふるさと、福島県二本松市

花巻疎開前に光太郎のアトリエ兼住居があった文京区千駄木。23区内はかなり細かい区割りになっています。
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それから古地図も(右上)。1860年の江戸だそうで、安政7年、途中で改元があって万延元年です。光太郎の父・光雲は嘉永5年(1852)の生まれですから、その頃ですね。

千葉県では、大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼を含む銚子市。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養した九十九里
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光太郎最後の大作「十和田湖湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖はないかと思って探しましたが、残念ながら十和田は市街のみが印刷されていて、郊外の十和田湖までは範囲に入っていませんでした。

ぜひご自分の街、気になる街をお探し下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后畑仕事。 ジヤガイモ六うねばかりいける。紅丸。人糞をほどこしたものの上へわらや木の葉まじりの土をかぶせその上へ中くらいのイモは丸のまま、大なるは半切にして置き、土をかぶせる。灰を少しかけて置く。

昭和21年(1946)4月28日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活、いよいよ本格的に農作業の始まりです。

1月22日(金)の『日本経済新聞』さん。光太郎と交流のあった道具鍛冶・千代鶴是秀(ちよづる・これひで)を取り上げて下さっています 

大工道具、芸術の域へと高めた名工を追って 千代鶴是秀、常識覆すデザインの足跡 土田昇

 大工や職人が使うノミやカンナ、ノコギリなどの木工道具にも、名工とされる作り手がいた。研ぐと刃がすれていく消耗品なので、使い心地のよい名品はあまり残されない運命にある。
 東京・三軒茶屋の大工道具店3代目の私は、父を継いで古い木工手道具数千点を集め、道具を芸術の域へ高めたとされる千代鶴是秀(ちよづるこれひで)(1874~1957)ら名工の仕事や生涯を調べてきた。
 父、土田一郎が東京・目黒の是秀を訪ねたのは1939年だった。刃物や金具を作る鍛冶として名高かったが、戦争が迫って細々と仕事をしていたそうだ。職人には珍しく道具の歴史や技術に精通し、12歳の少年の父を客として遇してくれた。父は週2~3回、外回りの合間などで入りびたるようになった。
 私は是秀の没後に生まれ、高校を出た80年、刃物の販売・整備を営む家業の土田刃物店に入った。職人気質の父のもとで摩耗したノコギリの目立て、ノミやカンナの研ぎを身につけた。しかし熟練大工がいなくても木造住宅が建つ時代になり、この業界の先行きは危ぶまれていた。
 仕入れ先で跡継ぎのいない高齢の道具職人らは皆、優しかった。世間話ついでに惜しみなく技術やノウハウを教えてくれた。名品や名工に話が及ぶこともあり、数々の破天荒な逸話が面白くて仕方ない。自然と父が是秀から口伝えられた知識の値打ちが分かってきた。
 刃物にかかわる人の中に、是秀は不世出の工人という評価や神話めいた信奉もあるが、私には幻想と思われる。人間の力量に大した差があるわけではなく、精進すればおそらく誰でも名工になれるはずだ。しかし実際、是秀に肩を並べる鍛冶屋を探すと見当たらない。
 およそ2万点を是秀は制作したとされるが、私は約300点を研いだことがある。直角ひとつとってもきわめて精度が高く、刃は研ぎやすく、とても扱いやすかった。使い手のことを考え、一切手を抜かずに作ったことが分かるのだ。
 是秀は祖父が米沢藩上杉家のお抱え刀工だった鍛冶の名家に生まれた。しかし世の中の変化で刀の仕事はなく、大工道具や小刀に活路を見いだした。20代半ばになった明治中期、政府高官の西郷家の出入り大工の棟梁に認められ、道具鍛冶として名が売れた。
 東洋のロダンと呼ばれた彫刻家、朝倉文夫らと親交ができた大正期に作風が変わる。機能美に加え、持ち手を魚のようにするなどデザイン性も高い小刀を作り、富裕層にも愛用者が広がった。
 ただ是秀は、新たに開発された研磨機などの機械を使わず、手仕事を守り続けた。晩年には1本のノミを3年がかりで作るなど時間をかけている。ひとつひとつの作品は幾分高く売れたのだが、量産できずに貧しさから抜け出せず、弟子も育たなかった。こうした研究成果は折に触れて本にまとめてきた。
 自らも鍛冶を手がけたくなり、約20年前に山梨に作業場を設け、毎月のように通い続けている。あくまで趣味だが、手作業で鋼をたたいて鍛えると、さまざまな感覚が磨かれてくる。研磨機では5分の作業でも、自ら作った刃物を半日がかりで研ぐと、鋼の硬さやもろさ、粘りなどの性質を深く理解できる。
 もちろん便利な機械を使うのを否定しようというわけではない。しかし利便性や経済性を優先すると失うものがあることには自覚的になったほうがいいと思う。
 鍛冶としての目標は是秀だが、なかなか及びそうもない。
(つちだ・のぼる=大工道具店経営)
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名工・千代鶴是秀が晩年に作ったノミ

今回の記事を書かれた土田氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。同書で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏取りをした牛越誠夫が是秀の娘婿と知りました。是秀自身も光太郎と戦前(または戦時中)から交流があり、「乙女の像」制作中の光太郎を、中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。光太郎は遡って終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。ただ、それが実現したかどうかは不明です。また、これも確認できていないのですが、是秀作の彫刻刀類を光太郎が使っていた可能性もあります。

追記 やはりありました!

是秀については、下記のリンクもご覧下さい。
信親、正次、是秀。
『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』書評/「美の巨人たち 平櫛田中 鏡獅子」。
台東区立朝倉彫塑館 特別展「彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学」。
都内レポート 太平洋美術会研究所/台東区立朝倉彫塑館。

ちなみに、平成30年(2018)放映のテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」に、是秀作の鉋が出品され、120万円の鑑定額でした。担当した鑑定士は土田氏。
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これ以後、「是秀作」と称するニセモノがかなり出回るようになったとか……。なげかわしいことです。

たまたまこの回は拝見していましたが、調べてみましたところ、平成26年(2014)にも是秀の作が出ていました。長谷川幸三郎の玄翁とセットで200万。切り出しだけだと150万だそうで……。
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光太郎と是秀の交流について、詳しいところがまだ不明です。何とかして調べようとは思っているのですが……。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

鴬しきりに啼いてゐる
昭和21年(1946)4月22日の日記より 光太郎64歳

少し前に蛙の合唱の件を書きましたが、ウグイスも田舎あるあるです。温暖な当地(千葉県)でも、今年はまだ聞こえていませんが。

地方紙『いわき民報』さんの、おそらく一面コラムなのでしょう。ネットで見つけました 

片隅抄

詩人草野天平の顕彰活動を紹介したスポット展に足を運んだ。中でも目を引いたのは、高村光太郎賞のブロンズ賞牌(はい)。天平は没後、昭和34年に詩部門を受賞している▼同賞はわずか10年で終えるが、概要や背景を調べる中で彫刻部門に日本を代表する偉大な具象彫刻家、佐藤忠良と舟越保武を見つけ心を躍らせた。両名とも数々の門弟を輩出。本市を代表する北郷悟氏も2人に師事したことは、多くが知るところだ▼小川にアトリエを置き、国内外で活動する湯川隆氏も舟越に師事したひとり。東京五輪を前に、都内のJOC会館にクーベルタン男爵銅像を置くなど年々活躍の舞台を広げている▼豊間に開設する木村眼科クリニックの研修センター「兎渡路(とどろ)の家」では30日、舟越と湯川氏をはじめ国内外の作家たちのグループ展が始まる。それも実際に手で触れていいという貴重な展示。コロナで人数を限るため事前連絡が必要だが、これを機に足を運んでみては。観覧無料。

草野天平の顕彰活動を紹介したスポット展」は、いわき市立草野心平記念文学館さんで開催中です。

011草野天平は、当会の祖・草野心平の実弟。明治43年(1910)生まれで、心平とは7歳、光太郎とは27歳差です。昭和27年(1952)、42歳の若さで病没しています。右は天平と、妻の梅乃。夫婦ともども光太郎と交流がありました。

そして記事にある通り、没後の昭和34年(1959)、『定本草野天平詩集』で第2回高村光太郎賞を受賞しました。同賞は、筑摩書房さんから刊行された第一次『高村光太郎全集』の印税を、光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和33年(1958)から同42年(1967)まで、10年間限定で実施されました。光太郎が彫刻、そして詩、二つの面で大きな足跡を残したことから、同賞も造形と詩二部門で受賞者を選定することになりました。その第二回の詩部門受賞者が天平だったわけです。ちなみに同じ年の造型部門は、一昨年亡くなった彫刻家の豊福知徳氏でした。

天平のスポット展示が行われているの情報は耳に入っていましたが、光太郎賞の賞牌が展示されているのは存じませんでした。というか、賞牌が同館に所蔵されていたというのも初耳でした。以前にも天平に関するスポット展示がありましたが、その際には賞牌の展示はありませんでした。

こちらが賞牌。
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光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」という短句を刻んだ木皿を原型に、豊周がブロンズに鋳造したものです。

第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞した詩人の田中冬二が授かった賞牌が、山梨県立文学館さんに寄贈されており、閲覧も可能ですが、こちらにもあったのか、という感じでした。探せば他にも公共施設等での所蔵があるのでしょう。逆に、売りに出ていたのをネットで見たことがあり、残念な思いも抱きましたが……。

歴代受賞者は、造形が『いわき民報』さんに記述があった佐藤忠良、舟越保武をはじめ、柳原義達、黒川紀章、建畠覚造、加守田章二、そして先述の豊福知徳など。詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一、金井直、中桐雅夫ら、錚々たる顔ぶれでした。審査員も高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

さて、いわき市立草野心平記念文学館さんでのスポット展示「草野天平」、3月28日(日)までです。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后分教場行。郵便とけとり。勝治さん今日盛岡にゆかれし由。奥さんに日をきく。廿一日、日曜といふ事はつきりする。

昭和21年(1946)4月21日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活、昭和24年(1949)まで電気をひいておらず、ラジオも聴けなかった生活で、時折、日付や曜日の感覚がおかしくなっていたようです。しかし、日付や曜日に追い立てられない生活というのも、一興かも知れません。「勝治さん」は、光太郎を太田村に招いた分教場の教師です。

とけとり」は「うけとり」の誤記と思われます。光太郎の日記には誤字脱字が散見されます。

出版されていたことに気付かず、1ヶ月以上経ってしまいましたが……

続 宮沢賢治の食卓

2020年12月14日 魚乃目三太著 少年画報社 定価690円+税

注文の多い料理店などおなじみ誰もが知っている宮沢賢治の作品と共に紡がれるエピソードを食べ物と共にお届けします。魚乃目三太の人情味ある描写で描かれる伝記グルメ浪漫堂々完結!
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 壱品目  梅干しのおむすび
 弐品目  トマトのスープ
 参品目  干しいも
 四品目  塩鮭
 五品目  茄子の漬物
 六品目  ライスカレー
 七品目  ひっつみと明日葉
 八品目  お粥
 九品目  かけそば
 十品目  キャラメル
 十一品目 塩むすび


平成29年(2017)に刊行された『宮沢賢治の食卓』の続編です。その際には鈴木亮平さん主演でドラマ化もされました。

正編は大正10年(1921)から同15年(1926)、賢治の花巻農学校教師時代を中心に、妹・トシの死、『春と修羅』や『注文の多い料理店』の刊行なども描かれました。「思い出食堂コミックス」というシリーズの一環ですので、正続とも各話で何らかの料理がモチーフとして扱われています。

正編刊行時、賢治が光太郎と出会う直前で終わっていたので、ぜひ続編を、と思っていたところ刊行されたので、嬉しく存じました。

しかも、ちゃんと光太郎が登場! 大正15年(1926)12月、二人の最初で最後の会見の場面。
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当会の祖・草野心平も。
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巻末のおまけ的な部分でも。
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笑えますが、史実です(笑)。

続編は、大正15年(1926)、羅須地人協会の立ち上げから、賢治の死までが描かれています。「雨ニモマケズ」も。
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物語の始まりは、プロローグ的に、賢治没後の昭和9年(1934)、光太郎や心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の場面でした。
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名前は挙げられませんでしたが、「あら、手帳が…」と言った女性は、詩人の永瀬清子です。

この場で光太郎も手帳に書かれた「雨ニモマケズ」を読んだはずなのですが、コミックでは後日、賢治実弟の清六が光太郎にだけ見せる、という形になっていました。
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その他、光太郎の親友・水野葉舟の娘で、やはり光太郎を敬愛していた詩人の尾崎喜八と結婚した實子、終戦後の一時期、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた総合花巻病院長・佐藤隆房、そして昭和20年(1945)の空襲で東京を焼け出された光太郎を疎開させてくれた賢治の両親・政次郎とイチ、直木賞作家の森荘已池、賢治の親友だった藤原嘉藤治など、光太郎と交流のあった人々が多数登場します。
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これら多くの人々に愛され、そして愛した賢治の人間像がしっかりと描かれた力作です。また、当方、それほど賢治に詳しいわけではないので何ともいえませんが、以外と最近わかってきた事柄なのではないのかな、と思われるようなエピソードも散りばめられているようです。ほのかな恋の顛末など。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午後小屋の直前の水田一枚のひろさを実測してみる。八間余に八間あり。二畝ほどある事を確かむ。60坪余なり。ここに稗を撒かんと思ふ。今水田になり居れど、水を乾かして畠として使はんと思ふ。

昭和21年(1946)4月12日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)前の畑、元は水田だったのですね。
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結核性の肋間神経痛がひどかった昭和26年(1951)を除き、野菜類はほぼ自給できていました。穀類は配給に頼らざるを得ませんでしたが。

時代や取り組み始めた年齢は異なりますが、農学校を退職し、耕作を始めた賢治ともかぶるような気がします。

昨日ご紹介した日記の一節と順序が逆ですが、紹介しようと思っていてうっかり飛ばしてしまいましたので、戻りました。

『朝日新聞』さん。2面に連載されている「ひと」というコラムがあるのですが、昨日の同欄でフルート奏者の吉川久子さんが取り上げられました

(ひと)吉川久子さん 47都道府県の子守歌を動画配信したフルート奏者

004 子守歌には、その土地の気候や音、方言、風俗といった独特の文化が息づいている。その魅力をフルートの音色に乗せて、お母さんやおなかにいる赤ちゃんに届けたい。こんな思いから、2017年に全国ツアーを始めた。
   三重、千葉、秋田、山梨など10県を回ったところで、コロナ禍により中断を余儀なくされた。そこで、47都道府県に伝わる子守歌を演奏した動画の配信を始めた。曲の歴史を調べると、各地の多様な文化に驚かされた。
 「寝ない子には人さらいがくるよ」。そんな内容の子守歌を祖母や母親が歌ってくれたというおぼろげな記憶が、ライフワークとなるきっかけになった。
 東京都世田谷区生まれ。小学生のころは鳥のさえずりや人の笑い声、救急車のサイレンまでリコーダーでまねた。卒業祝いに買ってもらったのがフルートだった。
 音楽大学で学び、プロへの夢を抱きつつレコード会社で働いていたころから、マタニティーコンサートを続けてきた。それから35年、演奏会は1500回を超えた。娘連れの母親から「この子がおなかにいる時も聴きに来ました」と声をかけられる。
 癒やされるのは親子ばかりではない。「中国地方の子守歌」を演奏したとき、初老の男性がむせび泣いた。子守歌を聴いて童心に戻ってくれたらと願っている。

吉川さん、かつて「智恵子抄」からのインスパイア的な曲も作られ、コンサートで披露なさいました。平成25年(2013)には「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」。平成27年(2015)には「作曲:野村朗・フルート:吉川久子 智恵子抄の世界を遊ぶ ~その愛と死と~」。さらに同年、「智恵子抄」限定でなく、宮沢賢治系や東日本大震災復興応援ソング「花は咲く」などを含め、東北全般への思いを込めた「こころに残る美しい日本のうた 東北、その豊穣の大地に遊ぶ」。また、平成26年(2014)の第58回連翹忌で演奏をお願いしました。

昨年からはコロナ禍でコンサート開催が減ったことで、動画配信に力を入れられ、記事にもあるとおり47都道府県の「子守歌」にチャレンジなさっています。当方、Facebookで繋がっており、新しい配信があるたび通知が入り、ヘッドホンでBGMとして聴きながらこのブログを書いたりしております。

最新の配信がこちら。「おしんの子守歌」だそうで。


「中国地方の子守歌」を演奏したとき、初老の男性がむせび泣いた」。やはり音楽には人の心を揺さぶり、癒やす力が厳然としてあるのだと思います。こんな時だからこそ、それがさらに増幅するのかもしれません。

吉川さん、今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

朝は日がさしたれど、朝食中に雪となる。やや大きめの雪さかんに降り、木々につもる。

昭和21年(1946)4月15日の日記より 光太郎64歳

4月中旬なのに、ですね。

新刊情報です

わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」

2021年1月31日 宮沢和樹著 ソレイユ出版 定価1,400円+税

賢治のことを誰よりもよく知り、誰よりも理解し深く愛した弟・清六。その清六は生涯をかけて、兄・賢治の作品を世に出すために尽力した。その孫である筆者は、イギリス留学から帰国後、「林風舎」を立ち上げ、祖父の後継者として活動を始める。賢治はどのような思いを作品や言葉に込めたのか、筆者が祖父から語り聞かされた事実の数々は必読の価値あり!

出版社から
賢治の弟の清六さんは、賢治の作品が世に出る大きなきっかけを作った方です。筆者・宮沢和樹さんは、その清六さんのお孫さん、子どもの頃より清六さんから、賢治のことについてたくさんの話を語り聞かされながら育ったそうです。祖父の影響を強く受ける中でイギリス留学から戻り、和樹さんはあたかも清六さんの後継者のように「林風舎」という会社を立ち上げ、賢治の作品の保存や管理の事業につかれます。
筆者が賢治を「賢治さん」と呼ぶ理由はなぜか。また、「雨ニモマケズ」の詩の真の読み方と、頻繁に出てくる「行ッテ」の真意、そして賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸せはあり得ない」(農民芸術概論綱要)が、「世界ぜんたいが」でなく「世界がぜんたい」である賢治の本意など、清六さんが孫の筆者に熱く語ったことは私たちも絶対に聞き逃してはならない内容に思えます。大伯父・賢治と祖父・清六さんへの深い敬愛と、敬虔な語り部としての気持ちが伝わってきて胸が熱くなる一冊です。
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目次
はじめに
 伝え、残したいこと
 含羞の人々
第一章 「宮沢賢治」mの実弟の孫010
 大伯父は「賢治さん」
 イギリスとの深い縁
 イギリスびいき
 一族の一員という立場
 縄文人の末
第二章 賢治作品の守り人たち
 曽祖父・政次郎
 最大の理解者、祖父・清六
 炎天下の「イギリス海岸」で
 祖父と山に登る
 高村光太郎さんと祖父
 志を受け継ぐ人々
第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方
 願望としての「雨ニモマケズ」
 「ヒドリ」論争
 「賢治ブーム」のなかで
 「行ッテ」のもつ深い意味
 「行」の人
第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく
 大伯父がつなぐ縁
 親子を超えた曽祖父の慈愛
 詩と音楽の協演
 私が好きな作品
 ファンタジーではなくSF
 「ほんとうの幸せ」とは
 ライフワークとしての講演会
宮沢賢治略年譜
「わたしの宮沢賢治」シリーズ刊行に寄せて


昨日届きまして、まだ光太郎に関わる部分をはじめ、半分程しか読んでいないのですが、随所で賢治顕彰に先鞭を付けた光太郎を讃えて下さっており、ありがたく存じます。

上記説明欄にあるとおり、著者の宮沢和樹氏は、賢治の実弟・清六の令孫。当方、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで和樹氏のご講演を拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。そうした講演を各地でなさっている和樹氏、講演で話すような内容を一冊にまとめて欲しいとの要望に応えての出版ということだそうです。

016中心に語られているのは賢治より、その実弟・清六。清六は賢治から遺稿を託され、その出版に尽力しました。

清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれましたし、亡き兄・賢治に代わって光太郎を兄のように慕っていたともいえるような気がします(21歳の年齢差がありましたが)。光太郎もよく清六と連れだって映画を観に行ったりしました。また、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』を二人で編集しました。光太郎は各冊の装幀、装画、題字揮毫を行い、「おぼえ書」を寄稿しています。

さて、和樹氏のご著書、随所に光太郎の名が出て来ますが、早速、「はじめに」の中に。

 以来、二〇年にわたって皆さんの前で語りつづけてきたのは、祖父・清六が言っていたこと、やってきたこと。
 子どものころから兄、賢治さんを身近に見てきて、
「この人はほかの人とは違う、何か特別なものをもっている」
「それだけに危ういところもあるから、とてもほうってはおけない」
と、曽祖父母・政次郎、イチなどとともに、懸命に支えてきた祖父の姿なのです。
 その力が、高村光太郎さんや草野心平さんなど、名だたる人たちを動かし、世に「宮沢賢治」を知らしめた。

高村光太郎さんと祖父」という項も設けて下さっています。主に述べられているのは、賢治歿後の昭和9年(1934)、光太郎や当会の祖・草野心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」された件。

やはりその場にいた詩人の永瀬清子の回想、以前にも書きましたが、コピペします。

 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。

和樹氏、この展開を、清六が「演出」したのではないかと推測されています。

 もともと商人だったので、祖父は毎日帳簿をつけていたほど几帳面(きちょうめん)でした。まして、賢治さんというのはどういう人物なのかを知ってもらうために披露する原稿や書き物のたぐいです。いろいろな方の前でトランクを開く前に、祖父がポケットのなかの手帳を認識していなかったはずはないと私は思います。
 これはあくまでも私の想像ですが、いま考えてみると、祖父は「この手帳にはこうした詩もあります」と自分からは言わないで、そこにいるほかの誰かに見つけてほしかったのではないかと思うのです。そうした「反応」が欲しかったのだろうと。
 つまり、自分があらかじめ「こんなものがあります」と見せるよりも、光太郎さんなどに手帳を見つけてもらって、「何だろう、この詩は」と言ってもらいたかったのでしょう。そのほうが、立ち会って下さった方々の印象に強く残り、より効果的だと考えたのかも知れません。
 そうすることによって、この「雨ニモマケズ」の一文も、いずれ賢治さんの本を作る際には「入れなくてはだめだ」と思ってもらうようにしたかったのではないかと考えるのです。


一昨年の春、林風舎さんを訪ね、和樹氏とお話しする機会がありましたが、その際にも氏は同様のことをおっしゃっていました。なるほど、あり得ない話ではありません。

この「雨ニモマケズ」の「発見」の件は、また近いうちに触れるつもりですのでよろしく。

それから、光太郎が昭和20年(1945)に宮沢家に疎開していた頃のエピソード、終戦後、旧太田村に移住してからの話、遡って昭和11年(1936)、光太郎が「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫をしたことなども紹介されています。それらを通底するのは、やはり光太郎への感謝。恐縮です。

また、特に興味深く拝読したのは「「ヒドリ」論争」という項。

現在、多くの活字本で「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」となっている部分、元々の手帳では、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と書かれていました。この「ヒデリ」「ヒドリ」については、百家争鳴、喧々囂々、侃々諤々の感があります。さる高名な宗教学者の方は、この改変を光太郎の仕業だと断定し、繰り返し色々なところで書いたりしゃべったりしています。その根拠は光太郎が昭和11年(1936)に光太郎がこの一節を含む「雨ニモマケズ」後半部分を揮毫し、詩碑が建てられたこと。しかし光太郎は花巻から送られてきた原稿通りに書いただけですし、詩碑の建立以前から「ヒデリノトキハ」の形で活字になっていたことが確認されており、まったくの妄言としか言いようがありません。

ちなみに「ヒドリ」は「日取り」、花巻で、日給をもらって働く人のことをそう呼んだ言葉があるから原文通り「ヒドリ」でいいのだ、と、賢治の教え子の故・照井謹二郎氏が提唱したのが始まりらしいそうです。

和樹氏、この改変は、清六によるものだろうと推測されています。根拠としては、賢治が時折、「デ」と「ド」を間違えることがあったこと、この部分の文脈が天候のことを言っているので「日照り」の誤りであろうと考えたことなどをあげられています。

そして……

 みんなが熱くなり、教科書やパンフレットなどを「ヒドリ」に直さなければ、いやいや「ヒデリ」のまちがいなのだから、そのままでよい……などと、議論は一段と白熱していました。
 このように二派に分かれて論争していくと、自分の意見を言うだけではなく、「ぜったいに自分が正しい」と主張する人も出てきます。
 そんなとき、当の祖父は、案外ゆったりかまえていました。
「それは、どっちでもいいよ。最後は読む人が決めればいい。
 いちばんよくないのは、『どちらかでなければいけない』とがんばる人だな。
 自分は『ヒドリ』だと確信しているからといって、人にみずからの意見を押しつけるのがいちばんダメだ」
ということでした。


和樹氏ご自身も、

 私自身は、祖父が言ったようにどちらでもよいと思います。いちばんよくないのは、どちらかを「絶対」として論争し、自分の意見が正しいのだと押しつけることだとの祖父の言葉に、いまでも共感しています。
 だから、私自身は、そのような論争に加わることはよくないと考え、静観することにしています。


だそうで。

当方も、この改変、光太郎が行ったという濡れ衣さえなければ、どちらでもいいと思います。

その他、和樹氏は「雨ニモマケズ」は、あくまで賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と、自らのために書いたものであって、それをみんなで実践しよう、的な風潮には警句を発していらっしゃいます。特に東日本大震災の後、「雨ニモマケズ」が再び注目されて起こった、「人間、こうでなくてはいけない」、「みんなで賢治イズムを」的な論調に対して、です。

たしかにそうですね。この点は光太郎の「道程」(大正3年=1914)などにも言えることでしょう。みんながみんな、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と頑張る必要はないわけで……。

ところで、老婆心ながら、事実関係の誤りを指摘します。まず、光太郎と賢治は一度も会っていない、という記述がありますが、二人は一度だけ、大正15年(1926)の12月に会っています。また、細かい話ですが、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が焼失したのが昭和20年(1945)3月としていますが、正しくは4月です。

こうした点は差っ引いても、賢治、清六、そして光太郎の関わりを知るには好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

食後二階の畳敷の部屋にて坐って座談会じみて話す。先生方男性も女性も来り二三十人。

昭和21年(1946)4月10日の日記より 光太郎64歳

場所は、近くにあった山口分教場の本校である太田小学校です。この後、分教場などで光太郎が講演とまでいかない講話、もしくは座談会などを行うことがたびたびありましたが、その最初のもの。かつて若い頃は「芸術家あるある」で、「俗世間の馬鹿どもとは関わりたくない」的な部分もあった光太郎にとっては、革命的な転身だったようにも思えます。

まず地方紙『東奥日報』さんの記事から

巨大ステンドグラス 制作大詰め/2月下旬、青森空港に設置 原画・森本さん(三沢出身)出来栄え絶賛

  青森県三沢市出身のアートディレクター森本千絵さん(44)=東京都=が原画・監修を担当した大型ステンドグラス「青の森へ」が来月、青森空港に設置される。制作が大詰めを迎えた19日、森本さんは静岡県熱海市のクレアーレ熱海ゆがわら工房を訪れ、出来栄えを確認した。取材に対し「すごくきれい。想像を超えるクオリティー」と絶賛した。
 ステンドグラスは縦2.4メートル、横11.4メートル。森本さんは、切り絵の原画に、青森ねぶた祭のねぶたやハネト、太陽のように赤いリンゴ、十和田湖や奥入瀬、白神山地といった青森県の風景を描いた。
 原画を基に工房の職人6人が昨年5月、制作に着手。使用したガラスは約3200ピースにも及び、色は85種類を使い分け、中でもこだわった青系統は25種類を使用した。
 森本さんはこの日、十和田湖畔にある高村光太郎制作の「乙女の像」を描いた部分を自然光で確認し、形を整えるなどした。「毎年、青森に行っているが、昨年はねぶた祭りに行けず悔しい思いをした。作品は青森の方へのラブレターのつもり。この絵を通し新たなつながりが生まれたらうれしい」と話した。
 ステンドグラスは青森空港の公共スペースに2月下旬に設置される予定。今回の設置は、パブリックアート普及や、地元に縁のある作家の作品による地域活性化を目指し、全国の公共施設にアート作品を設置する日本交通文化協会(東京)の事業の一環。森本さんは第4回東奥文化選奨受賞者。
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010当方、森本さんが表紙を描かれた書籍を一冊持っております。平成27年(2015)刊行の『少女は本を読んで大人になる』(クラブヒルサイド・スティルウォーター編・現代企画室刊)。東京・代官山クラブヒルサイドさんにて、平成25年(2013)から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

光太郎と交流のあった彫刻家舟越保武のご息女・末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」が掲載されており、そのお話そのものも拝聴に伺いました。

森本さんも同じ講座の別の回で「赤毛のアン」を担当され、その筆録も収録されています。

調べてみましたところ、昨年11月にも『東奥日報』さんに今回のステンドグラス「青の森へ」制作の予告的な記事が出ていましたが、その折には「乙女の像」の語が含まれていなかったため、当方の検索網には引っかかりませんでした。

「青の森へ」、パブリックアート制作集団「クレアーレ熱海ゆがわら工房」さんのお仕事だそうです。公益法人日本交通文化協会さんのサイトで、「青の森へ」についての詳細な情報を発見しました

青森空港に大型パブリックアート作品設置 青森出身のアートディレクター森本千絵氏 原画・監修 ステンドグラス「青の森へ」 2021年2月完成予定

 当協会と青森空港ビル株式会社(青森県青森市、代表取締役社長:林哲夫)は、一般財団法人日本宝くじ協会の「社会貢献広報事業」の助成を受け、青森空港旅客ターミナルビル1階チケットロビーに大型ステンドグラス「青の森へ」を設置することが決定しました。2021年2月に完成を予定しています。
 青森空港は、毎年夏に開催される青森ねぶた祭や、青森県立美術館や十和田市現代美術館などへのアート鑑賞、世界遺産の白神山地をはじめとした自然などを目的に国内外から訪れる多くの観光客や、青森県民にとって重要な玄関口となっています。昨年旅客ターミナルビルの大規模リニューアル工事が完了し新しく生まれ変わった青森空港に本パブリックアート作品を設置し、訪れる人々を幻想的な青の光でお迎えします。
 この作品の原画・監修を務めるのは、青森県三沢市出身で、アートディレクターとして企業の広告制作やミュージシャンのアートワークを手掛けるなど多方面で活躍している森本千絵氏。青森県が誇る青森ねぶた祭のねぶたや跳人(ハネト)と呼ばれる踊り手、太陽のような赤いりんご、十和田湖や奥入瀬や白神山地など、人々を魅了してやまない青森の風物風景が表現されています。そして、森本氏が青森空港のために特別に制作した切り絵をもとに、「クレアーレ熱海ゆがわら工房」(静岡県熱海市)で6人のステンドグラス職人が製作します。
 本作品を空港利用者の大半が利用する場所に設置することで、多くの利用者に青森の風情を鮮烈に印象づけ、より一層の賑わいや心地よさをご提供できると考えています。設置後には、青森空港にて完成披露除幕式を行う予定です。

※このパブリックアートは、一般財団法人日本宝くじ協会の「社会貢献広報事業」の助成を受けて整備されています。

○当事業の目的
①アートディレクター・森本 千絵氏の切り絵をもとにしたステンドグラス作品により、パブリックアートの普及を促進
②パブリックアートを通じて気軽に芸術に慣れ親しむことで、人々の心を和ませ、元気づける空間を創出
③青森県に縁のある作家の作品によって地域の活性化、観光開発に貢献

○題名 「青の森へ」
○原画・監修 森本 千絵氏
○設置場所 青森空港旅客ターミナルビル1階チケットロビー
○規模と仕様 縦2.4m×横11.4m
○ステンドグラス製作
クレアーレ熱海ゆがわら工房(静岡県熱海市泉230-1)
建築家・隈研吾氏の設計によるクレアーレ熱海ゆがわら工房はステンドグラススタジオ、釉薬研究施設、焼成サンプル室、ショールームなども完備され、数多くのアーティストとのコラボレーションが展開される第一級のパブリックアートの創造拠点です。
○作家プロフィール 森本 千絵(もりもと・ちえ)
アートディレクター・コミュニケーションディレクター・武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科客員教授
1976年青森県三沢市で生まれ、東京で育つ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科を経て博報堂入社。2007年、もっとイノチに近いデザインもしていきたいと考え「出会いを発見する。夢をカタチにし、人をつなげる」をモットーに株式会社goen°(ゴエン)を設立。現在、広告の企画、演出、商品開発、ミュージシャンのアートワーク、本の装丁、映画・舞台の美術や、動物園や保育園の空間ディレクションを手がけるなど活動は多岐にわたる。ニューヨークADC賞、東京ADC賞グランプリ、伊丹十三賞、日本建築学会賞など多数受賞。

「青の森へ」の原画も掲載されていました。
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上記『東奥日報』さん記事ではよく判らなかったのですが、かなり横長の作品なのですね。そしてほぼ中央に「乙女の像」。ありがたいことです。

当方、青森へも時々足を運びますが、いつも新幹線です。今度はこれを観るために空路を使ってみようかな、などと思いました。ただ、あまり飛行機に搭乗するのは好きではありませんで……(笑)。「あんな重たいものが空を飛ぶはずがない」などと非科学的なことは言いませんが、着陸態勢に入った際のツンツンツンと少しずつ高度を下げていくあの感覚が気持ち悪いのです。20年以上前になりますが、北海道に飛んだ際、濃霧のため新千歳空港になかなか着陸出来ず、1時間程も上空を旋回したことがあり、その際は酔いそうでした(笑)。

さて、続報に注意していたいと思います。

【折々のことば・光太郎】

〈(前の水田で蛙がしきりに啼く。美しき声なり。)〉〈夕方蝙蝠一匹軒をとぶ〉

昭和21年(1946)4月9日の日記より 光太郎64歳

田舎あるあるですね(笑)。当方も、以前、古い友人から夏の夜に電話がかかってきた際、受話器を通しても友人の耳には蛙の声が凄かったそうで「お前、どんな所に住んでるんだ?」と言われました。こちらは蛙の合唱など、慣れてしまってまったく気にならなかったのですが(笑)。

ついでに言うなら、コウモリも時折見かけます(笑)。

『朝日新聞』さんの投稿短歌欄。全国での入選作は、毎週日曜日に「朝日歌壇」として、俳句の「朝日俳壇」とともに掲載されています。かつては石川啄木、窪田空穂、島木赤彦、佐佐木信綱、斎藤茂吉らもその選に当たっていた、伝統あるコーナーです。

全国の選に漏れたものなのか、それとも別口で募集しているのか、寡聞にして存じませんが、地方版にも「歌壇」欄が掲載されています。

少し前ですが、1月15日(金)、当方自宅兼事務所のある千葉県版のもの。
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智恵子の名を詠み込んだ歌が一首。曰く

 福島の旅に見上げるあかね雲智恵子の愛でし空に続くか

いい歌ですね。

「福島の旅」ということですが、智恵子の故郷・二本松で詠まれたものではないのでしょう。二本松での詠歌であれば、そこに広がる空が「智恵子の愛でし空」そのものです。少し離れた場所、しかし同じ福島県内ということで、「智恵子の愛でし空に続くか」とされているのだと思われます。

それを言ったら、空は地球上、何処へでも繋がっていますが、そうすると「続く」とはならないわけで、そのあたりが巧いと思う所以です。

言わずもがなかも知れませんが、『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」へのオマージュですね。

ところで、欄外に編集部よりの「おことわり」の文言。

「歌壇」「俳壇」は、新型コロナウイルス対応の緊急事態宣言に伴う編集作業の都合により、しばらく休載します。投稿の受付も休みます。再開の時期については改めて紙面でお伝えします。

とのこと。「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いましたが、考えてみればさもありなん、です。

例年11月頃、当会として、皆様からお送りいただいた郵便物に貼られていた切手を切り取り、JOCS日本キリスト教海外医療協力会さんに送っていたのですが、昨年はやはりコロナ禍のため、切手等を整理するボランティアさんの活動を休止せざるを得なくなり、現在、受付を停止中とのこと。似たような例ですね。

また、短歌ということになると、これも例年1月に開催されていた「宮中歌会始」。こちらもコロナ禍のため延期だそうで、「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いました。

歌会始といえば、平成25年(2013)の歌会始では、福島郡山の方が詠んだ下記の歌が入選しました。

 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む

上記「朝日歌壇」の歌同様、『智恵子抄』からのインスパイアが入っているという作です。

光太郎が「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」と謳ったことが、人々の記憶から無くなってしまうと、特に「朝日歌壇」の歌などは成立しなくなってしまいます。「智恵子って誰?」、「何で空を愛でるの?」ということになってしまいます。
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そうならないためにも、光太郎智恵子の顕彰活動、心して続けていかねばと思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

昨日の川鍋東策氏よりのテガミにより、草野心平君の消息わかり、又黄瀛の生きてゐた事もわかる。
昭和21年(1946)4月6日の日記より 光太郎64歳

心平は戦時中、中華民国中央政府(汪兆銘政権)顧問として中国に居り、この年3月末に帰還。黄瀛は対立する国民政府軍の将校でした。交流の深かった二人の健在を知って、安堵したのでしょう。ただし、黄瀛はのちの文化大革命で投獄。生前、光太郎と再び相まみえることは叶いませんでした。

1月4日(月)のこのブログでご紹介しました岩手県としての「いわてモー!モー!プロジェクト2021」。その時点ではまだだった詳細が、1月7日(木)に発表されていました

「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」について 

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令和3年(2021 年)の丑年に合わせ、「うし」で岩手を盛り上げながら各種事業を総合的に展開する「いわてモー!モー!プロジェクト 2021」のプロジェクト全体概要やPRキャラクターについて、お知らせします。 

1 プロジェクト全体概要
 モー!っと育てよう/産地支援プロジェクト
  本県畜産業の産地力強化に向けた取組を支援します。
   ゲノム評価に優れる県有種雄牛の造成
   県有種雄牛の魅力を全国の生産者へPR
   全国和牛能力共進会鹿児島大会に向けた生産者の取組支援
 モー!っと食べよう/消費拡大プロジェクト
  トップセールスや、いわて牛・いわて短角牛、乳製品などの消費拡大イベント等を実施し
  ます。
   民間企業との連携による、全国的な乳製品イベント開催
   トップセールスや有名シェフとの連携等によるPRの実施
   民間企業との協働による、いわて牛商品開発や販売支援
   いわて牛取扱推奨店との協働によるフェア開催
   県内小中学校を対象とした「いわて牛・いわて短角牛学校給食の日」実施
 モー!っと楽しもう/体験・交流プロジェクト
  観光等との連携による牛と親しむ体験・交流事業等を促進します。
   東北DC※を契機とした、体験型産地ツアー等開催
   旅行会社との連携による、牛関連施設を巡るコース提案(くずまき高原牧場、小岩井農
    場、牛の博物館など)
   「塩の道」「闘牛大会」等との連携によるフードツーリズムの促進
   ※東北デスティネーションキャンペーン(2021.4.1~9.30)
 モー!っと伝えよう/ブランド強化プロジェクト
  県産牛や乳製品の美味しさや、プロジェクトの取組等の情報を国内外へ発信します。
   アジア・北米・豪州等に向けた、いわて牛PR
   県内外百貨店におけるいわて牛や県産品のPR
   県内スポーツプロチームとの協働による、いわて牛等のPRや牛肉・乳製品販売
   公式サイトの開設
   応援ソング制作・配信、オリジナルピンバッチ等PRグッズ制作

 ※ 県が中心となって、JA全農いわて等の関係団体や民間企業との連携により実施します。
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2 PRキャラクター 
 チャンプくんとそばっち
[説明]
・ 「チャンプくん」は、第 7 回全国和牛能力共進会のPRキャラクターとして平成 9 年に誕生し、以来、いわて牛普及推進協議会のPRキャラクターとして活躍
・ 今回、岩手県イメージキャラクター「そばっち」との異色のコンビとして起用
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やはり今回も光太郎がらみで発表がありました。ありがたく存じます。
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1月7日(木)の達増岩手県知事の定例記者会見で、事業の詳細が発表され、その中でも光太郎について触れて下さいました(9分03秒くらいから)。
曰く、

そして、やはり今年はうし年ということから話を始めたいと思います。岩手ゆかりの詩人、高村光太郎さんが「岩手の人」という詩を書いています。岩手の人は牛の如しということで、いろいろ慎重に歩んで、ついに成すべきを成すというふうに結ばれています。新型コロナウイルス対策もあります、慎重に歩みを進めて、しかしやるべきことはやると、ついに成すべきを成すというような、そういう年にしたいと思います。

なるほど。

今後も光太郎がらみで推進していただければ、と存じます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

〈朝山鳩の声をきく〉〈(雪解水の流れる音が一面にきこえる。)〉


昭和21年4月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、ようやく遅い春がやって来た、という感じですね。

3件ほど。

まず、当会会友・渡辺えりさんご出演の番組

ハートネットTV リハビリ・介護を生きる「心を届けたい 渡辺えり」

NHK Eテレ 2021年1月27日(水)  20時00分~20時30分

劇作家・演出家・女優として活躍する渡辺えりさん。山形の両親が認知症で、月に1回は地元に帰り、会うようにしてきた。自分を励まし続けてくれた両親への思いをうかがう。

番組内容
渡辺えりさんを招く。山形に暮らす母に異変が起きたのは15年ほど前。その後、父も認知症と診断された。今では二人とも施設にいるが、どんなに忙しくても月に1回は山形に帰り、会うようにしてきた。幼いころ、母が話す昔話や、父が読んでくれる宮沢賢治の童話が好きで、それが演劇人生の原点になったという。自分の舞台を楽しみにして、励まし続けてくれた両親への思いと、新型コロナにより思うように会えない苦労について語る。

出演者 ゲスト 渡辺えり 松島トモ子
司会  中野淳
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お父さまの渡辺正治氏は、戦時中、中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場に勤務していらっしゃいました。昭和20年(1945)3月13日の東京大空襲の後、光太郎に心酔していた先輩の頼みで、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が無事かどうか確認にいかれたとのこと。幸い、3月の空襲では光太郎アトリエは無事で(4月の空襲で全焼)、光太郎にも会えたそうです。

さらにご自身の工場が空襲の危機にさらされた時は、光太郎詩「必死の時」(昭和16年=1941)を口ずさんで恐怖を紛らわせたとのこと。

戦後、山形に帰られた正治氏、光太郎が山形で講演をするというので、入院なさっていたえりさんのお母さま・京子さんを無理くり連れ出して、講演会場に。光太郎と再会を果たしました。昭和25年(1950)のことです。

その後、えりさんがご誕生。幼い頃から光太郎詩や、同じく東北出身の宮沢賢治の童話などを聞かされて育ったそうで、そのあたりはこれまでもたびたび語られています。

お父さまが戦時中に光太郎から直接貰った署名本(『詩集道程再訂版』昭和20年=1945)、戦後に光太郎から送られた葉書は、えりさんを通じて花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されています。

現在はご両親共々施設に入所されているそうですが、コロナ禍のため面会もできないそうで、えりさん、先月放映されたNHK短歌で、そうしたお話をなさっていました。また、先週の『朝日新聞』さんでも、「他県からの来県者は14日間現地に滞在し、検査を受けて陰性と判定されなければ面会出来ない」状況だと語られていました。これはつらいですね。

今回もそういったお話が出るのでしょう。ぜひ光太郎とお父さまのエピソードもご紹介いただきたいところですが。

ちなみにえりさん、2本同時収録だったようで、前日(1月26日(火))の同じ「ハートネットTV」にもご出演されますが、予告に依れば、この日の放映は松島トモ子さんのお話がメインのようです。

続いては、光太郎と交流のあった宮沢賢治がらみで

映像詩 宮沢賢治 銀河への旅~慟哭の愛と祈り~

NHKBSプレミアム 2021年1月23日(土)
前編 23時52分~25時22分
後編 25時22分~26時53分(=1/24午前1時22分~2時53分)

「宮沢賢治には、恋焦がれるように慕った同い年の男性がいた」。「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの代表作誕生の背景に、一人の男性との深い交流が明らかになる。残された賢治の手紙、ノート、資料を改めて読み解き、新たな宮沢賢治像を浮き彫りにする意欲的なドキュメンタリー作品。案内役に俳優・向井理を迎え、賢治の思索の行程を追体験する。岩手の美しい景色やドラマを織り交ぜ、賢治の心の風景に迫った。

【ナビゲーター】向井 理        
【出演】中川光男 鹿野宗健 太田いず帆 岩崎鬼剣舞保存会        
【語り】斉藤茂一                               
【朗読】松下由樹  
【音楽】加古 隆 
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平成30年(2018)12月、NHK BS4K開局記念に制作された番組が、通常のBS放送で放映されます。

恋焦がれるように慕った同い年の男性」は、山梨出身の保阪嘉内。賢治と盛岡高等農林学校時代の同級生で、文芸同人誌『アザリア』の仲間でもあり、賢治と保阪は、賢治童話の代表作の一つ「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラに比定されたりもしています。

賢治から保阪宛の書簡は、山梨県立文学館さんに所蔵されており、平成28年(2016)には「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」が同館で開催されました。その際の関連行事の一つが、えりさんの講演でした。お父さまに光太郎の様子を見てきてくれと頼んだ同僚の方が、保阪と同じ山梨ご出身だったそうで。

えりさんのお父さま同様、光太郎を敬愛していた賢治ですが、そのあたりの話が出るかどうか……といったところです。

最後に、1月14日(木)に初回放映のあった「にほんごであそぼ」の再放送

にほんごであそぼ「日本全国いいとこコンサート 新潟・村上(4)」

NHK Eテレ 2021年1月28日(木)  6時35分~6時45分  再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。
今週は、日本全国いいとこコンサート 新潟・村上!曲「ドゥーララ」作詞:千晴 作曲:千晴・木下航志・三浦大知、「汽車」作曲:大和田愛羅、「ベベンの冬が来た」詩:高村光太郎 作曲:うなりやべベン、「たまげた駒下駄東下駄」作詞・作曲:国本武春


出演 神田山陽(三代目),おおたか静流,ラッキィ池田,中尾隆聖 ほか

うなりやベベンこと、故・国本武春さんによる「ベベンの冬が来た」。音楽は昔のものの使い回しでしたが、映像は新たなテイクのようでした。
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それから、光太郎の姉貴分・与謝野晶子が登場。やけに可愛らしい晶子でした(笑)。それも3人(笑)。
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新潟で詠まれた晶子の短歌などが紹介されました。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる過ぎ雪かき。附近の雪からあらはれた田の畔などを見てあるきたるに蕗の薹を発見五、六個とり来る。一個試みに刻みて一寸塩もみして醤油かけてたべてみる。香気芳烈、味にがみ強けれどよろし。

昭和21年(1946)3月25日の日記より 光太郎64歳

初めて自分でフキノトウを収穫。この後、フキノトウは光太郎の好物の一つとなっていきます。岩手の山中では3月末なのですね。当方自宅兼事務所のあるあたりでは、そろそろ出てくるかな、という感じですが。

『静岡新聞』さん。先週15日(金)の掲載でした

「女伊達直人」から図書カード 磐田市に1万円分 昨年に続き

 磐田市は14日、漫画「タイガーマスク」の主人公にちなんだとみられる「女 伊達直人」を名乗る差出人から渡部修市長宛てに、図書カード計1万円分が届いたと発表した。
 封筒には5千円分の図書カード2枚と、詩人高村光太郎の詩「牛」の一節と共に「厳しい年になりましたが、頑張っている母子の家庭に少しの光を」などと書かれた手紙が入っていた。
 具体的な使い道は今後検討する。渡部市長は「新型コロナウイルスに対して多くの市民が不安を抱いているなか、善意の輪が広がっていることに感謝申し上げます」とコメントした。
 磐田市には昨年1月上旬にも「女 伊達直人」から図書カードが届いていて、筆跡などから同一人物とみられるという。
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寄贈された図書カードと共に、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の一節だそうで、おそらく差出人の「女伊達直人」さんが、「牛」に感じるところが何かあったのでしょう。あるいはもともと光太郎ファンの方なのか。

さて、一定以上の年代の方には解説不要でしょうが、「タイガーマスク」、「伊達直人」について。

漫画「タイガーマスク」は、梶原一騎原作、辻なおき作画で、昭和44年(1969)に『週刊ぼくらマガジン』で連載が始まり、同誌の廃刊後『週刊少年マガジン』に掲載誌を移し、同46年(1971)まで続いた人気漫画でした。連載とほぼ並行してテレビアニメ化され、テーマソングはアニソン史上の傑作の一つとの呼び声が高いものですね。
「伊達直人」は、主人公。漫画でもアニメでも詳細は語られませんでしたが、おそらく太平洋戦争に伴う戦災孤児です。自らが育った孤児院の解散にともなって日本を出、スカウトされた悪役プロレスラー専門の養成機関「虎の穴」に入り、素性を隠して「タイガーマスク」としてデビュー。全米を恐怖の渦に陥れます。

伊達は突如来日。孤児院が「ちびっこハウス」として再建されたものの、慢性的な経営難に陥っていることを知り、その援助のためでした。そこで「虎の穴」へ納めなければならない上納金を流用し、結果、「虎の穴」が送り込む刺客と死闘を繰り広げることになります。

アニメ版では、最後の刺客との試合中にマスクが外れて素性がばれ、日本を去るという終わり方でしたが、原作の漫画版では、「虎の穴」を壊滅させた後……
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ショッキングな結末です。

平成22年(2010)、群馬県前橋市の児童養護施設に「伊達直人」名義でランドセルが贈られ、それをきっかけに、全国の施設で寄付行為が連鎖、その流れが今も続いているわけですね。

戦後、光太郎もこうした寄付行為を行っていました。ただ、匿名ではありませんでしたが。昭和26年(1951)、詩集『典型』が第二回読売文学賞に選ばれると、その賞金をそっくり、蟄居生活を送っていた山小屋近くの山口小学校や地区の青年会などに寄付してしまいました。小学校ではそれで舞台用の幔幕を新注しました。
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その後も、ことあるごとに小学校へ楽器や幻灯機、書籍などを寄贈しています。その流れを受け、山口小学校が統合された太田小学校さんでは、毎年5月15日(昨年はコロナ禍で中止)の花卷高村祭で、児童さんたちが楽器演奏を披露してくれています。もちろん現在は光太郎から寄贈された楽器ではありませんが、同祭の始まった昭和30年代には、光太郎から送られた楽器が使用されていました。
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逆に光太郎が「女伊達直人」的な人の世話になったことも。

まったく面識もなかった、紀尾井町の料亭福田家(ふくだや)の女将・福田マチが、光太郎の蟄居生活を報道で知り、さまざまな食料などを送ってくれました。当会の祖・草野心平ら知り合いが食料等を贈ることはあっても、未知の人からの援助は珍しい例でした。

昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎、たまたま雑誌の対談企画で会場となった福田家を初めて訪れました。その際、山にいた頃に食料を贈ってくれたのはこの店の女将だったのでは? と問うと、果たしてその通りだったため、その場にいた一堂が奇縁に驚いたというエピソードが残っています。

「女伊達直人」。こうした心温まるニュースが、もっと増えて欲しいものです。同じ「寄付」でも「賄賂」では困りますが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午後テガミ書き、詩稿を送り来りて天分の有無を問合わせくる青年が時々あるには閉口。詩とはかかるものにあらざる旨を書きおくる。弟子に置れといふテガミも少からず、事情を書いて断る。

昭和21年(1946)3月24日の日記より 光太郎64歳

逆にあつかましい依頼の例ですね。「弟子に置れ」は原文の通りで「弟子として置いてくれ」といった意味でしょう。

演劇公演の情報です 

チエコ

期 日 : 2021年1月28日(木)~2月1日(月) 1月31日(日)は生配信
会 場 : 両国・エアースタジオ   墨田区両国2丁目18-7ハイツ両国駅前地下1階
時 間 : 1/28 18:00~ 1/29 15:00~ 18:00~ 1/30~2/1 13:00~ 15:00~ 18:00~
料 金 : 公演チケット¥3,000 配信チケット¥2,500 
出 演 : 坂口実成夢 雛衣 山端零 宇木達哉 霧嶋あさと 砂浜みまれ 林田葵 阿部優華
      神野祥 二木将 早川真矢 楓明堂ふみたろう 三上夏生 渡辺広大
脚 本 : 野口麻衣子
演 出 : 野地伸吾
主 催 : 劇団空感エンジン
協 力 : RMP アミティープロモーション WESSAP オムニア
      サンミュージックアカデミー 
ゆーりんプロ

詩人・高村光太郎とその妻智恵子の愛の物語。智恵子の死後、智恵子抄を作ろうと、友人の草野心平と中原綾子を呼び、智恵子の思い出を振り返る。
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同じ脚本の公演が平成25年(2013)平成30年(2018)にも同じ会場であり、それぞれ拝見して参りました。奇を衒わない正統派の脚本で、非常にわかりやすい舞台でした。

登場人物は7人。光太郎、智恵子、光太郎実弟の豊周、智恵子を看取った姪の春子、当会の祖・草野心平、光太郎に心酔していた歌人の中原綾子、智恵子の親友・田村俊子。それぞれがそれぞれの立場で喜怒哀楽し、結局、ハッピーエンドにはならないのですが、さりとてお涙頂戴の安っぽいメロドラマでもなく、ある意味爽やかな印象でした。

主催者側で対策は講じているようですが、移動中も含め、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。また、1月31日(日)には生配信もあるそうで、そちらもどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

鼻緒をつくつてゐる。布をさきて三ツあみにして芯をつくり、新聞紙で巻き、之に色の布をかぶせて縫ひ、下駄にすげる。

昭和21年(1946)3月21日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活では、こんなものも自作していたのですね。

少し前の記事ですが、『毎日新聞』さんで先月24日の掲載。詩人の和合亮一さんの連載(月イチ)です

詩の橋を渡って 寒さに研ぎ澄まされる心=和合亮一(詩人)

12月000
わたしはといえばあの頃
心の闇にちいさな灯をともすために
詩を書きはじめたけれど

 師走の候。激しい寒波が押し寄せた。氷点下の雪道を進む大変さを感じつつも、白く化粧が施されたかのような、見慣れた野山の景色に見とれる。「冬よ/僕に来い、僕に来い」と呼びかけている詩句が浮かぶ。寒気を疎むのではなくむしろ好ましく思って描き続けた「冬の詩人」と称される高村光太郎の詩のいくつかを思い浮かべた。凍(しば)れる風の中で研ぎ澄まされていくような心の先を光太郎は詩にとらえていったのだろう。

 鈴木ユリイカ「群青くんと自転車に乗った白い花」(書肆侃侃房)。「オラ家捨てたっぺ。そいからよ。青空とお天道さまがオラのともだちよ。」。ある浮浪者の女性の声がある。「犬はきれえだな。オラ見ると吠(ほ)えあがる。こどしの冬はきつかったな。」。厳しい寒さで仲間が何人も亡くなってしまったことも続けて語る。春にほっとする人々の姿がここでは描かれている。「ゆらゆら揺れる歯の中で歯のないその花は笑う」。しかしまた冬が来た。
 他にも行き場のない街の若者や、病に苦しむ家族、認知症の友人、津波でさらわれてしまった子どもなど、誰かに寄り添うようにして記されてある。 エピソードだけに終わらない何かが一つひとつに宿る。過ぎゆく歳月の実感とまなざしの強さが芯のようになって残る。二十九年ぶりの新詩集だが、長い時の間にもこつこつと詩を作って心をいつも磨き続けるようにして、かき消えてしまいそうな命の生々しさと向き合ってきたのではあるまいか。
 「長いこと海の様子を眺めてから/おにぎりを一個ぽーんと投げてよこした/ぼくは海のなかで母さんにおはようと言う」。来年で震災から十年を迎えるのであるが、こんなふうに書きついでいくべきことが、年月が過ぎたからこそたくさんあるのだということを教えられた気がする。 私たちが受けたあの日からの心の傷と記憶とをたどり直して、丹念に育てていくようにして綴(つづ)っている筆先に、祈りが込められている。
 詩と共に生きてきた人生を振り返っているフレーズが随所にある。「わたしはといえばあの頃/心の闇にちいさな灯をともすために/詩を書きはじめたけれど」。昨今の詩人たちはインターネットなど活動の幅を広げ、層も増えているように感ずる。こんなふうに創作にまつわる話を、あらためて熱心にするべきなのではあるまいか。「いまでは詩の光が照らすことのできるものと/てらすことのできないものについて悩んではいるけれど」. 「蝶(ちょう)をおぼえている雪 が/ふる」。

 柏木麻里「蝶」(思潮社)は空間に書き手の心がそのままあるようにして簡潔な言葉が頁(ページ)に置かれている。余白の白さが目に飛び込んでくる。凜( りん)とした空気に包まれながら何かが舞い降りる瞬間を味わう。詩集であり美術作品でもある一冊。「雪のうえに蝶のおもいで」。しずかな純白に包まれていく感触。コロナ禍による苦境の一年だった。新しい雪に祈りを。「 まだいない春を/蝶たちは/抱きしめている」


紹介されている『詩集 群青くんと自転車に乗った白い花』の詳細情報はこちら。『蝶』に関してはこちら
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和合氏、この連載では枕の部分などでよく光太郎を取り上げて下さっており、ありがたく存じます。昨年の5月分7月分でもそうでした。ご自身も詩集『QQQ』で、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)からインスパイアされた作品なども発表なさっていますし、感謝です。

【折々のことば・光太郎】

午前ひげそり、洗顔、湯を沸す事が一度に多く出来ぬため、幾度にもやるので面倒なり。ずゐぶん頭や顔が汚れてゐる。


昭和21年(1946)3月20日の日記より 光太郎64歳

確かに山小屋の囲炉裏では、大量の湯を沸かすのは大変ですね。そんなわけで、この頃の光太郎写真は無精ヒゲが目立ちます。

無精ヒゲと言えば、当方、幼稚園児の頃、「無精ヒゲ」を「武将ヒゲ」と思いこみ、戦国武将のような立派なヒゲと勘違いしていました。しかし、「無精ヒゲ」はマイナスイメージに使われる語で、おかしいな、と思っていました(笑)。
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ついでに言うなら、「東名高速道路」は「透明高速道路」だと思いこみ、そのころ東京多摩地区に住んでいたのですが、都心では手塚治虫の漫画にでてくる未来都市のように、ガラスのチューブみたいな道路が走っているのだ、人類の叡智は素晴らしい!と信じていました(笑)。
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昨日は、大学入試共通テストについて書きましたが、先月5日には、一般の方対象に、花巻観光協会さん主催のご当地検定「はなまき通検定」が行われました。その際に出題された問題が、同会のサイト上で公開されましたのでご紹介します。

問題は全50問で、そのうち、直接光太郎に関わる問題が3問含まれていました。このブログをいつも読んで下さっている皆さんには、お茶の子さいさい(死語ですね(笑))の設問でしょう。

【問題35】
昭和16年(1941 年)に出版された、高村光太郎が夫人智恵子に対する思慕や二人の生き方の希望などを表現した作品集のタイトルは次のうちどれか。
1 智恵子抄
2 智恵子抄その後
3 案内
4 道程

【問題36】
高村光太郎が高村山荘で生活するなかで、唯一彫刻刀を使い便所の明り取りとしてくり抜いたといわれる文字は次のうちどれか。
1 道
2 智
3 高
4 光

【問題37】
高村光太郎記念館の近くにある「雪白く積めり」の詩碑を鋳金した人間国宝の鋳金家、高村豊周と高村光太郎の関係として正しいものは次のうちどれか。
1 高村光太郎の弟
2 高村光太郎の甥
3 高村光太郎の息子
4 血縁関係はない

念のため、正解を記しておきますと、【問題35】は「1 智恵子抄」、【問題36】が「4 光」、そして【問題37】で「1 高村光太郎の弟」ですね。
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3枚目の画像、左から光太郎の父・光雲、豊周、そして光太郎です。

また、「光太郎」の語は含まれていませんが、こんな問題も。

【問題 6】
令和2年8月7日にオープンした花巻市内にある「道の駅」は次のうちどれか。
1 道の駅とうわ
2 道の駅石鳥谷
3 道の駅はなまき西南
4 道の駅はやちね

正解は「道の駅はなまき西南」。愛称が「賢治と光太郎の郷」ですね。
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この「はなまき通検定」、6年ぶり4回目の実施だそうです。初回は平成24年(2012)、この際は68人が受検し、合格者わずか1人という超難関。翌年の2回目では難易度を見直したところ、89人受検で59人合格。第3回は平成27年(2015)に実施され、56分の7の合格だったとのこと。そして今回は、42名の方がチャレンジし、合格は22名だったそうです。全50問(1問2点、100点満点)で、合格基準は80点以上とのことでしたが、やはりそう簡単ではなかったようですね。

ちなみに当方、光太郎に関わる問題以外は、宮沢賢治関連、温泉関連などはほぼほぼ大丈夫でしたが、次のような問題はお手上げでした(笑)。

【問題17】
毎年2月11日に花巻市で開催されている「わんこそば全日本大会」の横綱歴代最高杯数は次のうちどれか。
1 158杯
2 208杯
3 258杯
4 408杯

ちなみに正解は「3 258杯」だそうで(笑)。

こうした取り組みもいわゆる「町おこし」に有効でしょう。全国自治体等の社会教育等担当の方、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】003

ツマゴをはいてゆく。雪相当につもりてツマゴを没す。あるきにくし。

昭和21年3月11日の日記より 光太郎64歳

「ツマゴ」は藁で編んだ雪靴。光太郎が暮らした花巻郊外旧太田村山口地区でも、現在では作れる人があまりいなくなってしまった由、聞いたような記憶があります。

画像は翌年、令甥の髙村規氏に送ったはがき。ツマゴが描かれています。

昨日、それから今日と、2021年度大学入学共通テストが行われています。昨日行われた社会科の「倫理」の問題で、光太郎が取り上げられました。

第2問 Ⅲ 下の会話は、近現代を担当した3班の高校生Eと先生が、大正期に描かれた次のポスターについて交わしたものである。

021先生:このポスターのテーマは「今日もまた流會(りゅうかい 流会)か」です。決められた時間に人が集まらず、会議が開けない当時の状況を風刺したものです。
 E:風刺したということは、時計の時間を守って行動することが近代になって奨励されたのに、そうしない人たちもいたってことですね。
先生:現代では、時計によって計測される時間は、誰にとっても同じ速さで直線的に進んでいくもの、と考えられています。ただ、こうした時間意識とは異なる時間の考え方は、今回1班がまとめた、中世の道元の場合のように、他の時代にも存在します。
 E:時計の時間を生活の基準にしようとする近代以降の社会のあり方が、当たり前ではないということですね。
先生:当時の生活文化が垣間(かいま)見えるこのポスターからも、近代以降の時間意識を考えることがかのなのです。皆さんが当たり前だと思っている
時間理解を改めて考え直すことで、現代に生きる私たちの生活のあり方をといなおすこともできるのではないでしょうか。

問8 下線部ⓓに関連して、次の文章は、詩人の高村光太郎が芸術作品の永遠性について論じたものである。その内容の説明として最も適当なものを下の①~④のうちから一つ選べ。

 芸術城でわれわれが常に思考する永遠という観念は何であろう。……或(あ)る一つの芸術作品が永遠性を持つというのは、既に作られたものが、或る個人的観念を離れてしまって、まるで無始の太元(たいげん)*から存在していて今後無限に存在するとしか思えないような特質を持っている事を意味する。夢殿**の観世音菩薩像は誰かが作ったという感じを失ってしまって、まるで天地と共に既に在ったような感じがする……真に独自の大きさを持つ芸術作品は……いつの間にか人心の内部にしみ渡る。真に大なるものは一個人的の領域から脱出して殆(ほとん)ど無所属的公共物となる。有りがたさが有りがたくなくなるほど万人のものとなる。
 * 無始の太元:いくら遡(さかのぼ)ってもその始点を知り得ない根源
** 夢殿:法隆寺東院の本堂のこと

① 芸術作品の永遠性は、作品を無始の太元からあったものであるかのように感じさせる一方で、その作者の存在を強く意識させる。
② 芸術作品の永遠性は、作品を無始の太元からあったものであるかのように感じさせる一方で、その作品もいずれは消滅するものであることを予感させる。
③ 永遠性を有する芸術作品は、誰かの創作物であるという性質を失うとともに、人々の心の中に浸透していくこともない。
④ 永遠性を有する芸術作品は、誰かの創作物であるという性質を失うとともに、限りない過去から悠久の未来にわたって存在すると感じさせる。
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正解は④ですね。
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①だと、「その作者の存在を強く意識させる。」が誤り。②は、「その作品もいずれは消滅するものであることを予感させる。」という記述がありません。③では「人々の心の中に浸透していくこともない。」が誤りですね。

正解の④「永遠性を有する芸術作品は、誰かの創作物であるという性質を失うとともに、限りない過去から悠久の未来にわたって存在すると感じさせる。」から、当方は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を連想します。下の画像は昔のテレホンカードです。
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この像は、まだ光太郎作という意識が根強く残っていますが、問題文に使われた光太郎の「永遠の感覚」(昭和16年=1941)にある「既に作られたものが、或る個人的観念を離れてしまって、まるで無始の太元(たいげん)から存在していて今後無限に存在するとしか思えないような特質」を持ち、「一個人的の領域から脱出して殆(ほとん)ど無所属的公共物とな」って、「有りがたさが有りがたくなくなるほど万人のもの」となったといっていい例ではないかと思われます。

そういう意味では、光太郎の父・光雲が主任となって制作された「楠木正成像」や「西郷隆盛像」なども。ただ、これらより、「まるで天地と共に既に在ったような感じがする」自然との一体感という意味では「乙女の像」の方が、より強く「永遠性」を具現しているように思われます。
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おそらく光太郎自身、「乙女の像」制作に当たっては、「或る個人的観念を離れてしまって、まるで無始の太元(たいげん)から存在していて今後無限に存在するとしか思えないような特質」を持つ「まるで天地と共に既に在ったような感じがする」ものを作ろう、と意識したのではないかと思われます。そしてそれはかなりの程度、成功したのではないでしょうか。どうも光太郎びいきの当方には、そうとしか思えません(笑)。

さて、大学入学共通テスト。コロナ禍の中での実施ということで、受験生の皆さんにとっては二重に大変だったと思います。また、コロナ禍のため、追試験に廻らざるを得ないという受験生もいるのでしょう。皆さんに、望ましい春が来ることを祈ります。

【折々のことば・光太郎】016

午前十一時頃か、日本読書組合常務理事野口正章氏といふ人来訪。一時過ぎまで談話、昨日宮沢氏実家を訪問せられし由にて清六氏の手紙持参。全集について十字屋の全集出版を十分尊敬して組合にては唯それをうけつぐ程度にする事に賛成、十分信用を重んじて行動するやうに告げる、無断にて新聞広告を出しぬけに出すやうな事の非を告げる。


昭和21年3月4日の日記より 光太郎64歳

賢治の実弟・清六と光太郎が編集し、装幀・題字も光太郎が手がけた日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治全集』に関してです。

まず地方紙『岩手日報』さんの記事から

光太郎ランチ弁当を開発した「ミレットキッチン花(フラワー)」の代表 本舘博子さん

002 彫刻家で詩人の高村光太郎の日記を基に、地元の食材をふんだんに用いる光太郎ランチ弁当を開発。花巻市轟木の道の駅はなまき西南で毎月15日に限定販売している。「人が集まり、にぎわう地区にするため食からサポートしたい」と意気込む。
 同市轟木出身。子どもの頃は自宅裏山で竹スキーをしたり、ゴム跳びをして遊んだ。「ジャンパースカート」に憧れ、当時女子高だった花巻南高に進学。友達の推薦で応援団リーダーになり、華やかな校風ながら「あえてビリッと厳しい態度を取っていた」と笑う。
 盛岡市の盛岡中央職業訓練校の事務科で和文タイプライターや簿記、珠算を学び、花巻商工会議所に就職。結婚を機に退職し、旧笹間、花巻農協で金融関係の業務に長く携わった。
 農協女性部の活動で雑穀料理のレパートリーを広げる活動や幼児の食育に取り組んだ。「地域の人と接する機会が増え、人生が豊かになった」と振り返る。
 かごや花器に自由に花を飾るフラワーアレンジメントが趣味。「花を見ていると心が安らぐ」と自宅には生花を絶やさない。花巻市北笹間で夫、次男夫婦と4人暮らし。

光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋近くに昨年オープンした、道の駅はなまき西南さんのテナントで、記事にある通り毎月15日に限定販売の「光太郎ランチ」産みの親の方です。高齢者向けに弁当の宅配などの事業もなさっているそうで、頭が下がります。

さて、今月の「光太郎ランチ」。下記のメニューだったそうです。
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さらに画像も花巻光太郎記念会の女性スタッフの方から送っていただきました。
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美味しそうですね。

実際に召し上がっての感想は、特に大根とソーセージのケチャップ炒め、イカとキャベツの酢味噌和えが特に美味しかったとのこと。

フルーツは、キウイを煮たものとミカンだそうです。また、メニューにありませんが、塩こうじ入り玉子焼きもリクエストして入れてもらい、ボリューム満点だったそうで。これで定価は800円。十分に元は取れそうですね(笑)。

ちなみにボストンビーンズは、光太郎が明治末の海外留学中に作り方を覚え、現地でもよく食していたものです。その他も、記事にある通り、光太郎の日記などから着想を得てのメニューで、こじつけではありません。
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そういう意味では、なかなかメニューを考えるのも制約があって大変だと思いますが、「光太郎ランチ」、末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる食、ソバ粉をスルメをつけてある汁にてとき、飯盒中皿に入れてむす。一種のパンとなる。味淡泊にてあしからず。バタでくふ。 こいか漬けを仕込む。大根千六本、刻みスルメ、せん切コブ、それに伊藤光富久氏よりもらつたアラレ(焼米と黒豆)をも入れる。唐辛子。醤油を補充す。


昭和21年3月3日の日記より 光太郎64歳

ついでですので、この項も食事内容で。昭和21年(1946)から翌年の春ぐらいまでは、細かに作ったメニューを記録しています。この日もこれ以外に朝食、夕食の品目をすべて書き残しました。

そば粉パン、光太郎の得意料理の一つとなりました。「大根千六本(せろっぽう/せんろっぽん)」は、マッチ棒ほどの太さに刻んだもので、味噌汁の具などに使いますね。これも光太郎の好物の一つでした。

明治美術学会さん発行の雑誌『近代画説』。雑誌といってもハードカバーに近い上製で、パラフィン紙がかけられた立派なものです。先月発行された第29号、執筆者のお一人である小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内祐司氏からいただきました。多謝。

氏の玉稿は「今戸精司――趣味人としての彫刻家」。光太郎と東京美術学校彫刻科で同級生だった今戸精司(明治14年=1881~大正8年=1919)に関する労作です。明治期の光太郎の日記にはその名が頻出します。また、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派の作家と親しく、光太郎と武者を引き合わせた人物でもあるそうです。
9784908287336 000
近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?」という特集の中の一篇で、題名の通り、今戸の彫刻は現存が確認できていないそうです。年譜を読むと、確かに数え39歳の短い生涯でしたが、各種展覧会に出品したり、作品の頒布会が行われたりもしていましたし、文芸誌『明星』や『スバル』に作品の写真が載ったり、短歌を寄稿したりもしています。それでも作品の現存が確認出来ていないのは、主に関西を拠点に活動していたことが大きいのでしょう。やはり昔からこうした部分でも東京偏重の風潮がありました。

加えて、今戸が目指した方向性が「生活空間にあった小品」とでもいうような彫刻で(そのため氏の玉稿、副題に「趣味人としての彫刻家」とあるわけです)、その流行が長く続かなかったこと、弟子という弟子が居なかったことなどで、その存在が忘れられていったということのようです。

決して技倆が劣っていたわけではないことは、残された作品の写真からもわかります。
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左は明治34年(1901)、美校在学中の作で「世捨人」。光太郎も出品した第2回彫塑会展出品作です。右は晩年の「貧婦」(大正7年=1918)、再興第5回院展に出品されたものです。

これほどの腕を持った彫刻家の作品の現存が確認できていないというのは、実に惜しいところです。ただ、迫内氏も指摘していますが、一般の収集家の元などにあることも考えられますし、情報をお持ちの方はご一報いただければ幸いです。ちなみに今戸は「蝸牛」と号していたこともあり、その名での作品もあったでしょう。

昭和12年(1937)、大阪で今戸の遺作展が開催され、光太郎はそれを観ることは叶いませんでしたが、今戸を偲ぶ短歌三首を送っています。いずれも『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。

わが友の今戸精司はしらぶれぬ物の一義をたゞ追ひしため
わが友の今戸精司は捨石となるをよろこび世を果てしかな
わが友の今戸精司は色しろくまなこつぶらに骨太かりき

しらぶれぬ」は古語で「調子に乗らない」といった意味です。

昨年亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生、今戸の追悼文集『追遠』(これも稀覯書です)を元に、「今戸精司略伝」を書かれ、『光太郎資料』第4号(昭和36年=1961)に発表されました(迫内氏、これをだいぶ参照されたそうです)。しかし、北川先生、『追遠』刊行後に寄せられた上記短歌三首はご存じなかったようです。

ちなみに北川先生一周忌となりましたが、この一年間に、こうした『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎作品等が、大量に見つかりました。それらを先生にお見せしたかった、という思いと、泉下の先生のお導きでそれらを見つけることが出来たのではないかという思いと、相半ばです。

さて、『近代画説』第29号、目次は以下の通り。迫内氏玉稿以外にも、忘れられかけた作家が多数取り上げられ、こうした作家の業績なりを伝えてゆくことの重要性、そして同時に謎の作家に光を当てることがいかに困難であるかも感じられ、頭の下がる思いでした。

[巻頭論攷]
・山本鼎の生いたち 付論 国柱会との関わり(金子一夫)
[特集 近代日本美術史は、作品の現存しない作家をいかに扱うことができるか?]
・特集解題 近代日本美術史は、作品の現存しない作家を
いかに扱うことができるか?(大谷省吾)
・国安稲香─京都の近代「彫塑」を育てた彫刻家(田中修二)
・今戸精司─趣味人としての彫刻家(迫内祐司)
・自己に忠実に生きようとした画家─船越三枝子(コウオジェイ マグダレナ)
・「近代日本美術史」は「女性人形作家」を扱うことができるのか?
─上村露子を例に(吉良智子)
[公募論文]
・公募論文の査読結果について(塩谷純)
・大阪博物場と同美術館─書を起点として─(前川知里)
・「民衆藝術家」矢崎千代二のパステル表現─「色の速写」と作品の値段─(横田香世)
・荒城季夫の昭和期美術批評─忘れられた〈良心〉(渡邊実希)
[研究発表〈要約〉]
・戦時下の東京美術学校─工芸技術講習所の活動と意義─(浅井ふたば)
・太田喜二郎研究─京都帝国大学関係者との交流を中心に─(植田彩芳子)
・矢崎千代二とパステル画会─「洋画の民衆化」を目指して─(横田香世)
・萬鐵五郎の雲と自画像─禅を視点とする解釈(澤田佳三)
・文展における美人画の隆盛と女性画家について─松園を中心に─(児島薫)
・山本鼎の生いたち─新資料による解明、そして国柱会のこと─(金子一夫)
・戦時下の書と空海(志邨匠子)
・前衛書家上田桑鳩に見る書のモダニズム
─「日本近代美術」を周縁から問い直す(向井晃子)
・太平洋画会日誌にみる研究所争議と太平洋美術学校の開校
─洪原会、NOVA美術協会の活動にもふれて(江川佳秀)
編集後記(児島薫)
明治美術学会 会員業績録(2019年4月1日~2020年3月31日)

各種オンライン書店等で購入可(定価3,000円+税)です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后、木の枝の写生ペン画。「北方風物」へやるもの。葉書よりやや小にかく。

昭和21年(1946)3月2日の日記より 光太郎64歳

光太郎、7年間の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。「北方風物」は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。

前月に鉛筆で描いたものをペンで清書。そこで日付は2月15日となっています。

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作家の半藤一利氏が亡くなりました。共同通信さんの配信記事から。

作家の半藤一利さんが死去 昭和史研究で著書多数、90歳

017 「日本のいちばん長い日」などの著作で知られる作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが12日午後、東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。関係者への取材で分かった。90歳。東京都出身。
 東京大を卒業して文芸春秋に入社。「週刊文春」「文芸春秋」編集長を歴任、1994年から著述に専念した。
 編集者として坂口安吾らを担当し、歴史研究に開眼。終戦時の軍部関係者らを集めた座談会「日本のいちばん長い日」は、雑誌「文芸春秋」の記事となった後に単行本化され、映画化された。
 憲法9条と平和の大切さを次世代に説き続け、2015年に菊池寛賞を受けた。

御著書の中で、光太郎智恵子に関わる項も設けて下さっていました。

平成18年(2006)刊行の文春新書『恋の手紙 愛の手紙』(文藝春秋)。
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日本史上の有名人30名ほどの「手紙」から見える様々なドラマを紹介するものです。「第三章 家族を想う」中の「「智恵さん、智恵さん」の高村光太郎」という項で、光太郎から智恵子への手紙が二通、取り上げられています。

一通は結婚前の大正2年(1913)1月、新潟出身の友人・旗野スミ(「すみ」「澄」あるいは「澄子」とも表記)の実家に滞在していた智恵子に宛てた、長文の手紙。全文はこちら。画像はこちら。結婚前に智恵子に宛てた手紙で、唯一現存が確認出来ているものであるため、この手の書籍でたびたび取り上げられています。もう一通は、心を病んだ智恵子が療養していた千葉九十九里浜の妹の家に送った葉書。全文、画像はこちら。章題の「智恵さん、智恵さん」は、この葉書の一節です。

無題 (復元済み)手紙の紹介だけでなく、光太郎智恵子の人となり、『智恵子抄』についても簡略にまとめられています。

もう一冊。平成27年(2015)、ポプラ社さん刊行のエッセイ集『老骨の悠々閑々』。「茶碗のかけらの様な日本人」という項で、光太郎詩「根付の国」(明治44年=1911)を取り上げ、そこから夏目漱石、樋口一葉、芥川龍之介らにからめた日本人論を展開されていました。

探せばもっと光太郎智恵子に言及された御著書が出版されているかも知れませんが、当方手持ちの氏の御著書は以上2冊でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

雪かきのつづきをやり、又山の南面傾斜の松の根方の雪なきところに休みて日光をあび、烟草一本。日光浴数分。日ざしはあたたかなり。

昭和21年(1946)3月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村でも、さすがに3月となると、春の息吹が感じられたのですね。

コロナ禍のためでしょう、いわゆるカルチャースクールの講座等にもオンライン化が進んでいるようです。よみうりカルチャーさん、北千住校の発信です。

【オンライン】大正モダンの詩をよむ 008

期 日 : 2021年1月16日 2月6日 2月20日 
       3月6日 3月20日 
(第一・第三土曜)
時 間 : 15:30~16:40
講 師 : 詩人 評論家 吉川(きっかわ)睦彦氏
料 金 : 3か月 5回 12,650円
      (うち消費税額1,150円)

 大正ロマン・大正モダニズムなど、大正期の文化が見直されています。萩原朔太郎・高村光太郎・山村暮鳥・中原中也など、大正から昭和初期にかけて活躍した詩人たちの名作を、朗読し味わいます。 詩を通してより豊かな生活を送れるよう、これから詩作に挑戦してみたい方には過去の名作を通じてアドバイスもします。

【注意事項】
・ホームページからのお申し込みは、受講日の3日前までとなります。
・お申込後に講座視聴URLとパスワードをメールでお知らせいたします。メールが届かない場合は03-3642-4301(オンライン担当)か online@ync.ne.jp までご連絡ください。
・受講者のお名前や映像・音声(※ミュートも可能)などがクラス内で共有されます。予めご了承ください。受講者の映像は表示でご参加ください。承認の際にお名前を確認しますので本名でご登録ください。
・当日は講座時間の15分前から入室できます。
・Zoomのソフトウェアを必ず最新版にアップデートの上ご覧ください。
・ネット環境による切断やその他アプリの障害が起きた場合には、当社は責任を負いかねます。 主催・講師側のやむを得ない事情により実施できなかった場合は、受講料の全額をお返しいたします。
・第三者との講座URLの共有や貸与、SNSを含む他の媒体への転載、また、講座で配布した教材を受講目的以外で使用することは著作権の侵害になりますので、固くお断りします。
事前にZOOMをダウンロードし、接続テストを済ませてください。
受講する前に準備すること【Zoom編】https://www.ync.ne.jp/zoom-way.phpご不明な点は online@ync.ne.jp か03-3642-4301へ
・当日の参加人数によって講座時間の短縮、延長の場合があります。
・希望や状況によっては、よみうりカルチャー北千住で座学の場合があります

講師の吉川氏、以前もよみうりカルチャー北千住さんで講座を持たれ(その際はコロナ禍前で通常の開催方式でした)、このブログでご紹介したところ、ご丁寧にコメントをお寄せ下さいました。

ところで、当方も講師をしたことがありますが、カルチャースクールというと、受講生に年配の方が多く、となるとZoomなどへの対応はどうなのだろうと、他人事ながら心配してしまうのですが……。

かく言う当方もZoom等への対応はしておらず、今後、そういう形で講師依頼等が来た場合、どうするかと悩みの種です。といって、まだ対面式の講座は難しい状況でしょうし……。

結局昨年の当方講師の講座(対面式)は、一時、感染状況が落ち着いた秋に2回行っただけでした。協力していた大きな展覧会も中止となり、参っています。

愚痴はさておき、上記講座、ご興味があって環境が整う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

進駐軍より「ポラーノの広場」を二部至急送れといふテガミ届く。

昭和21年(1946)2月28日の日記より 光太郎64歳

「ポラーノの広場」は、光太郎を太田村に招いた分教場教師・佐藤勝治が中心になって編んでいた手作りの宮沢賢治研究誌で、光太郎も寄稿していました。

「進駐軍」云々は、検閲のため。戦後しばらく、国内の刊行物はGHQへの提出が義務づけられていました。田舎の教員が手作りで出していたものにまで徹底して検閲が行われていたというのが驚きです。

こうして集められた刊行物は、検閲終了後、GHQの戦史室長であったゴードン・ウィリアム・プランゲ博士が、その歴史的価値に注目し、米国機関で一括所蔵・保存することに努め、現在は博士の希望通りメリーランド大学さんに寄贈されています。日本の国会図書館さんでも「プランゲ文庫」として閲覧可。ここにしかない、という光太郎作品も多く含まれています。ただ、こちらもまだその全貌が掴めていません。少しずつは進めているのですが……。

テレビ放映情報です

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2020年1月14日(木) 17時58分~18時50分

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!今回は感謝を込めて、貴重な想い出シーンをお届けします!

「こんにちは赤ちゃん」梓みちよ 「いつもの小道で」梓みちよ・田辺靖雄 「モンパリ」真帆志ぶき 「ガード下の靴みがき」宮城まり子 「幸せは樹のように」宮城まり子 「悪魔がにくい」セルスターズ 「秋葉の火祭り」野澤一馬 「山の人気者」ウイリー沖山 「子供ぢゃないの」弘田三枝子 「人形の家」弘田三枝子 「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ 「東京のバスガール」初代&二代目コロムビア・ローズ 「僕は泣いちっち」守屋浩 「しらけ鳥音頭」小松政夫 「親父の名字で生きてます」小松政夫

おそらく、1月1日(金)に放映された「日本歌手協会新春12時間歌謡祭」のダイジェスト版ではないかと思われます。

梓みちよさん、宮城まり子さん、弘田三枝子さん、守屋浩さん、小松政夫さん、皆さん、昨年亡くなった方々ですね。そして二代目コロムビアローズさんも。

元日の12時間歌謡祭では、ご生前の映像。ナレーションは追悼的なもので、新しいテイクでした。
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さらに初代ローズさんとの競演の映像、そして初代ローズさんが二代目ローズさんを悼むインタビュー。
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005二代目ローズさん、享年78歳。いつまで生きれば「早い」と言われないのか、正解はないのでしょうが、初代ローズさんは昭和8年(1933)1月4日のお生まれで、88歳。10歳年下の二代目に先立たれ、お力落としのご様子が伝わってくるインタビューでした。

「智恵子抄」、二代目ローズさんの追悼的な意味合いもあったのでしょうか、1月6日(水)にはラジオ福島さんの「スマイル」という番組で、翌7日(木)にはNHKラジオ第一さんの「武内陶子のごごカフェ3時台 カフェトーク/ごごカフェご当地紅白歌合戦」で、それぞれ流れました。東日本大震災からもうすぐ10年ということもあり、「復興の願いをこめて」という意味合いもあったようです。
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「智恵子抄」、末永く愛され続けてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

土間の北側に雪吹き入る。壁などに点々と雪がつく。椽の下より雪吹き上げる。


昭和21年(1946)2月4日の日記より 光太郎64歳

「椽」は「たるき」、一般には「垂木」と書きます。光太郎の小屋には天井板は張られておらず、杉皮の屋根が内側からもむき出しでした。「壁などに点々と雪」、外壁ではなく、屋内です……。
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岐阜県から展覧会情報です

第82回企画展「どうぶつ集合!」

期 日 : 2021年1月7日(木)~3月14日(日)
会 場 : 大垣市守屋多々志美術館 岐阜県大垣市郭町2丁目12番地
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週火曜日(2月23日(祝)は開館)、1月13日(水)、2月12日(金)、2月24日(水)
料 金 : 一般 300円(団体20人以上 半額150円) 18歳未満 無料

 市の栄誉市民であり、文化勲章受章者として郷土が誇る日本画家守屋多々志は、歴史画の第一人者として活躍しました。大垣市守屋多々志美術館は、守屋画伯の作品や資料を紹介する美術館として、平成13年7月28日に開館しました。
 この美術館は、守屋家と株式会社大垣共立銀行の協力によって、同銀行郭町ビルの改修後、市が無償で借り受け暫定的に整備したものです。
 作品保存の難しい日本画作品のため、常設展示は行っておりませんが、3,300点の作品と資料を整理しつつ、2ヶ月ごとに入れ替えて展示し、多くの作品をご覧いただけるように企画展や特別展でご紹介しています。
 美術館は、大垣駅南口から徒歩10分の市の中心地にあります。多くの皆様に守屋多々志の作品を鑑賞していただき、美術に親しんでいただければ幸いです。

「馬を描くことは誰にも負けぬ」と守屋が自負したとおり勇壮でいきいきとした駆ける馬、異国に嫁ぐ王女を背に誇らしげな《繭の傳説》のラクダ、《萩の宿》の夜の静寂を表す猫、《桃太郎》のお供に加わり得意顔の猿や忠心の犬など、名脇役となった動物が描かれた作品を集め展示します。
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日本画家の守屋多々志(大正元年=1912~平成15年=2003)。当方、寡聞にして存じませんでした。調べてみましたところ、東京美術学校卒ですので、科は違えど光太郎の後輩に当たります。日本美術院に属し、法隆寺の金堂壁画、高松塚古墳の壁画模写などにも加わっています。平成13年(2001)には文化勲章も授与されていました。

で、今回の展覧会の出品作に「智恵子と光太郎」と題した絵が含まれています。
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昭和9年(1934)、千葉県九十九里浜での光太郎と智恵子ですね。なぜ「どうぶつ集合!」に光太郎智恵子? と思ったところ、主な展示品解説のページに答えがありました。

《智恵子と光太郎》(1993年、大垣市蔵)
 こちらは1993年、守屋が81歳の時に描いた《智恵子と光太郎》という作品です。日本近代詩の礎を築いた高村光太郎と、その妻で画家の高村智恵子を描いています。
 智恵子は大学を卒業後、女性洋画家として活躍する中で光太郎と出会い、創作活動にますます打ち込むようになります。しかし、昭和6~7年ごろに酒造業を営む実家が破産し、家族が散り散りになってしまいました。その頃、智恵子自身も画家としてスランプに陥るなど、精神的に弱り切ってしまったことから健康を害してしまい、その後の闘病も虚しく昭和13年に亡くなりました。智恵子の死後、光太郎はふさぎこんだ生活を送りますが、昭和16年に妻に関する詩集『智恵子抄』を刊行します。
 この作品の場面は、智恵子が昭和9年5月から12月にかけ療養した九十九里浜の真亀海岸だといいます。この地で「千鳥と遊ぶ智恵子」、「風に乗る智恵子」などが詠まれました。初夏の日差しが、やわらかい色調で二人を包んで降り注いでいます。精神を病んだ智恵子はまるで幼女のように無邪気な様子で描かれています。光太郎も足元の小さな蟹を見つめ、智恵子と過ごす時間を穏やかに見守っているようです。

「足元の小さな蟹」だそうで。また、よく見ると左上の方には千鳥の足跡らしき点々も。

守屋は歴史画を得意としたということで、智恵子の九十九里浜療養も、ある意味、歴史の一コマといえるかも知れませんね。ちなみにこの作、平成5年(1993)に開催された第48回春の院展出品作だそうです。

近くでの開催でしたら飛んでいく所ですが……。お近くの方、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

勝治さんの話では昨朝は零下20度なりし由。今朝は零下十度との事。

昭和21年(1946)1月31日の日記より 光太郎64歳

「勝治さん」は、光太郎を花巻郊外太田村に招いた、分教場の教師です。

何気に書いてありますが、「零下20度」……トホホです(笑)。

地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から、掲載順に2本

まずは元日の紙面から。

困難の中でも希望見いだして 若い人たちへの手紙

 文学者や芸術家、政治家らが後輩に宛てた手紙、若い日をつづった手紙…。明治以降の盛岡ゆかりの著名人の書簡、原稿などを収集する盛岡てがみ館(及川政己館長、盛岡市中ノ橋通)の資料から、コロナ禍を乗り越えようとしている中高生ら若い世代に触れてもらいたい手紙を紹介する。先人たちの自筆の手紙には、それぞれの時代の息遣いとともに、困難の中から見いだした希望も感じさせる。

高村光太郎【「岩手山の肩」の原稿 昭和22(1947)年作、同23年発表】
 「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ。あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
 終戦後に花巻市に疎開し、農民のような暮らしをしながら、多くの作品を生んだ詩人・彫刻家の高村光太郎(1883-1956)。「岩手山の肩」は、稗貫郡太田村(現花巻市)で過ごした7年間のうち、2度目の冬を迎えた1947(昭和22)年の12月に書き上げられた。岩手山をのぞむ、岩手人への力強いメッセージとして、翌48年1月1日付けの「新岩手日報」に発表された。
 20年4月の空襲で東京のアトリエを焼失した高村は、花巻の宮沢家に疎開。同年11月から「山口」という集落の山小屋をすまいとし、山口小学校(当初山口分教場)に自ら寄贈した幻灯機で幻灯会を開くなど、子供たちとも積極的に交流した。同小において、盛岡市にあった県立美術工芸学校の生徒に講話をしたり、同校の卒業式に祝辞を寄せたりと、岩手の教育にも心を傾けていた。
 「岩手山の肩」について、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんは「戦後の復興の意味も込めて書かれた詩と思われるが、『も一度天地に立て』と、コロナ禍のいまも響くものがある」と話す。
 光太郎は十和田湖畔のモニュメント制作のため岩手を離れてからも、1955年までは太田村に住民票を残した。「制作が終わったら山口に帰るつもりでいた。岩手に強いシンパシーを感じていたのだろう」と語った。
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この後、金田一京助、田子一民、舟越保武・道子夫妻、そして石川啄木が紹介されていますが、そちらは割愛します。

当方のコメントが載っていますが、先月はじめに盛岡に行った際に取材を受けました。詩「岩手山の肩」の原稿は、盛岡てがみ館さんで常設展示されており、盛岡にお立ち寄りの際には是非ご覧頂きたく存じます。

続いてもう1件、1月7日(木)掲載の記事。

「高村光太郎と共に」自費出版 盛岡市小杉山の加藤千晴さん 24歳時の肖像など紹介 哲学の視点交え生き方つづる

000 盛岡市小杉山の加藤千晴さん(72)は、本県ゆかりの彫刻家・詩人の高村光太郎(1883―1956)の生き方、父・高村光雲や縁のある人々について、哲学の視点を交えてつづった「高村光太郎と共に」(B6判、41㌻)を自費出版した。光太郎が米国ニューヨークに留学中、幼なじみである加藤さんの祖母・金谷ふゆ(60年に82歳で逝去)に送った24歳のポートレートなどを紹介し、青年期の心についても解説。「驚きは芸術の始まり。若い人たちに光太郎の心意気も知ってもらいたい」と話す。
 加藤さんは、ふゆの娘の照さん(104)=樺太・豊原生まれ、旧姓金谷=の長男。静岡大学大学院を修了し、東京芝浦電気の半導体プロセス開発に従事。定年退職後に盛岡市に帰郷し、照さんの話や光太郎に関する資料を少しずつまとめた。
 「あまり知られていない光太郎さんの姿を知ってもらいたい」と、金谷家の女性たちやゆかりの人々についてつづった「光太郎と女神たち」(花巻高村光太郎記念会発行)を2017年に発行。併せて、県立盛岡短大(現県立大盛岡短期大学部)教授などを務めた父の故・千代司さんの残した講義ノートなどを通じて、哲学にも関心を持つようになった。
 本書は「光太郎と女神たち」の姉妹版ともいえ、Facebook(フェイスブック)に投稿した光太郎の話題を再編集。彫刻家の父・光雲が師事した高村東雲のエピソードや光太郎の言葉から考える「美の力」、戦後に花巻に疎開した光太郎と照さんとの交流などについて、書簡などの資料も合わせて紹介した。
 加藤さんが「若い人たちに伝えたい」と取り上げたのが、「紐育(ニューヨーク)の光太郎」のエピソード。
 1906(明治39)年、留学先のニューヨークで撮影したと思われる若き光太郎の肖像を「若さのエネルギー、ここには夢があります」と紹介する。
 一方で、世界を見て帰国した光太郎は日本の芸術界に受け入れられず、アイデンティティー崩壊の危機にあったと解説。「認められない寂しさのはけ口の一つが詩で、後にそれらをまとめたのが『道程』」と話す。
 同詩集は、後に芸術院賞受賞。自己崩壊の危機から救い出してくれたのが(後に妻となる)智恵子だったと光太郎が回想録に記していることにも触れた。
 「アイデンティティーの崩壊という青年期に直面する問題から、どのようにして自分を救っていくのか、光太郎の姿からも見ることもできる。若い人たちの勇気にもなるといい」と願う。

光太郎の従妹(いとこ)に当たる加藤照さんの子息・千晴氏による『高村光太郎と共に』が11月に自費出版され、その紹介です。

照さんには平成28年(2016)に一度お会いしましたが、104歳になられ、まだお元気のようで、何よりです。

「岩手山の肩」、そして光太郎自身の生き様、そういったものが若い人たちの生きる指針と成るようでしたら、望外の喜びですね。

【折々のことば・光太郎】

風もなし。湯のたぎる音しづかなり。


昭和21年(1946)1月30日の日記より 光太郎64歳

雪に覆われた太田村の山小屋、おとなう人もない時には、まさしく静寂に包まれていたのでしょう。

今年に入ってから、「牛」(大正2年=1913)、「冬が来た」(同)、「冬の詩」(大正3年=1914)が、各地の地方紙等の一面コラムに取り上げられていますが、『岩手日報』さんでも一面コラムで「冬の言葉」(昭和2年=1927)、「冬」(昭和15年=1940)を引用して下さいました。掲載は1月5日(火)でした

風土計

〈冬が又来て天と地を清楚にする。/冬が洗ひだすのは万物の木地。〉。高村光太郎の「冬の言葉」は、そう始まる。詩人にとって冬は、天と地のあらゆるものを浄化してくれる季節らしい▼だから新年を愛した。〈新年が冬来るのはいい。〉〈ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。〉(「冬」)。きりりと冷たい風が汚れを洗ってくれるのが新年だという。「冬の詩人」と称されるゆえんだろう▼冬の寒さが万物を清浄にするものならば、迎えた2021年ほどその霊力を請い願う年はない。しんしんとした寒空が続いた新年、仕事始めの日に大きな動きがあった。今週にも首都圏に緊急事態宣言が出される▼医療を崩壊させられない、との苦渋の判断だろう。冬によって地上が清められる祈りとは逆に、感染の広がりはとどまるところを知らない。それにしても、再び最後の切り札を出す前に、打つ手はなかったか▼きょうは小寒、長い寒の季節に入る。きのう首相はワクチン接種を2月下旬に始めたいと語った。すると光が見え始めるのは、とうに寒も明けた啓蟄(けいちつ)か、春分の頃か▼〈雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう。〉。滅菌された風が吹くのを今は待つほかない。胸いっぱいに吸い込める日を。

引用されている「冬の言葉」(昭和2年=1927)、「冬」(昭和15年=1940)の全文は以下の通りです。
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それぞれ「冬の詩人」の面目躍如の詩で、こうなってくると、歳時記の冬の季語として「高村光太郎」という単語が登録されてもおかしくないかもしれませんね(笑)。
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冗談はさておき、まさに「天と地を清楚」に、そして「雪と霙と氷と霜と、かかる極寒の一族に滅菌され」という状態になってほしいものです。そのためには、「この世の少しばかりの擬勢とおめかし」のような「人間手製の価値をすて」ること、「精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、一切をアルカリ性の昨日に投げこむ」ことが必要なのかもしれません。

ところで、最近になって気がついたのですが、青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラムでも、元日掲載分で「牛」を取り上げて下さっていました

天地人

1年前には予想しなかったコロナ禍の中での年明けだ。例年なら初詣や宴会といった行事が目白押しで、あちこち出歩いたりするのも楽しみだった。残念ながら今年は、手放しで正月を満喫できない。それでも感染予防に留意して工夫を凝らせば、家族や友人らと新年の喜びを分かち合うことができるはずだ。▼干支(えと)は子(ね)(ネズミ)から丑(ウシ)に。すばしっこいイメージのネズミに対して、ウシは「牛歩」という言葉もあるように、おっとりしているとされる。ただし、それが欠点であるとは限らない。▼<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>。「牛」と題した高村光太郎の詩の冒頭である。「のろのろと」でも、<ふみ出す足は必然だ/うはの空の事ではない/是でも非でも/出さないではゐられない足を出す>のだ。▼一斉休校を突然要請したり、布マスク配布が不評を買ったり、菅義偉首相が旗振り役の「Go To トラベル」が一時停止を余儀なくされたり…。ちくはぐな政府のコロナ対応は、しっかりとした牛の足取りと対照的に見える。▼「牛の歩みも千里」ということわざがある。怠らず努力すれば、大きな成果を上げることができることのたとえだ。急がず落ち着いて、コロナに負けない安心できる暮らしを取り戻す道筋を見いだす新年としたい。

年明けから1週間程で、すでに全国の地方紙一面コラムに光太郎が5件ほども大きく取り上げられていまして、こんな年は記憶にありません。「丑年」と、「冬の詩人」とが重なっているというのもあるのでしょうが、やはりコロナ禍の今、光太郎のポジティブで力強い詩句に、人々の心の琴線へ訴えかけるものがある、ということなのだと思います。ありがたいことです。

ちなみに『千葉日報』さんでも、元日の一面コラム「忙人寸語」に光太郎の名を出して下さいましたが、「高村光太郎、宮沢賢治、田村隆一に石垣りん。感銘を受けた詩人は数え切れないが、昭和初期に活動した中原中也は別格だ。」ということなので割愛します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

名古屋の石田岳堂氏より大国主命を作つてくれとのテガミあり。檜材は木曽に近きところ故入手出来る筈と思ひ、返事の中に檜が入手出来たら彫刻の希望の大きさの檜材を小包で送つてくれれば大に助かると書く。


昭和21年(1946)1月23日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での生活の中で、後には手すさび程度のものを除いて、完全に「作品」としての彫刻制作を封印する光太郎ですが、山暮らしを始めた当初はまだ作品制作の意志があったようです。

昨日まで、さまざまな場面で取り上げられた詩「牛」(大正2年=1913)について書きましたが、今日は別の詩で。1月4日(月)、『神奈川新聞』さんがやはり一面コラムで光太郎詩「冬が来た」を取り上げて下さいました

照明灯 厳しい冬 1月4日(月)

きりきりともみ込むような冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た〉。この季節を愛し、好んで題材に選んだ高村光太郎は冬 の詩人とも呼ばれる▽凜(りん)としてすがすがしい「冬が来た」という詩はこう続く。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。自らを、そして人を鼓舞する言葉の連なり。苦難に立ち向かう力強い意志の力が一句一句にみなぎっている
 ▼光と気温の季節変化は冬至を過ぎて逆行が始まっている。太陽はすでに春に向かってUターン中だ。ただ、気温はなお冬の道を歩み続ける。あすは小寒。寒さがより深まっていく
 ▼〈こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね〉。「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。いやがられる冬ではあるが、草木や虫も、厳しい寒さが春への目覚めのスイッチになっていることはよく知られる
 ▼センター試験に代わる大学入学共通テストがまもなく始まる。今年の受験生は新テストとコロナ禍の両方に神経を使わねばならない。万全の体調で努力を結実させてほしい。冬の詩人の詩に、こんな一節がある。〈冬は未来を包み、未来をはぐくむ〉。厳しい冬は、すでに春を内包しているのだ。

なるほど、コロナ禍の中、光太郎詩が人々へのエールとなるなら、実に嬉しい限りです。

最初に引用されている「冬が来た」の全文は下記の通り。短い詩です。

  冬が来た
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きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た

光太郎詩の中ではよく知られている方で、この詩もいろいろな場面で取り上げられますが、驚くべきことに、初出発表誌が「牛」と同じ『我等』創刊号(大正3年1月1日発行)でした。ついでに言うなら、昨日ご紹介した「狂奔する牛」(大正14年=1925)同様、『智恵子抄』に収められた「僕等」(「僕はあなたをおもふたびに/一ばんぢかに永遠を感じる」で始まる、これも有名な作品です)も、同時に発表されています。少し後の3月5日には「道程」の初出発表形(102行もある長大なもの)も発表されており、ある意味、光太郎詩業の一つのピークがこの時期だったといえるでしょう。

『神奈川新聞』さん、最後に引いている〈冬は未来を包み、未来をはぐくむ〉は、「冬の詩」から。やはり大正3年(1914)3月1日、雑誌『創作』に発表されました。

さて、「冬が来た」に戻りますが、NHK Eテレさんで放映されている「にほんごであそぼ」。来週の放映で「冬が来た」が取り上げられます

にほんごであそぼ「日本全国いいとこコンサート 新潟・村上(4)」

NHK Eテレ 2021年1月14日(木)  6時35分~6時45分  再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。
今週は、日本全国いいとこコンサート 新潟・村上!曲「ドゥーララ」作詞:千晴 作曲:千晴・木下航志・三浦大知、「汽車」作曲:大和田愛羅、「ベベンの冬が来た」詩:高村光太郎 作曲:うなりやべベン、「たまげた駒下駄東下駄」作詞・作曲:国本武春


出演 神田山陽(三代目),おおたか静流,ラッキィ池田,中尾隆聖 ほか

「うなりやベベン」はこの番組のキャラクターのお一人で、その実体は平成27年(2015)に亡くなった浪曲師の国本武春さん。番組ではその功績を讃える意味でも、ビデオ出演が続いています。

新潟でのコンサートで、亡くなった方がどうご出演? と思って調べてみましたところ、公式サイトに以下の文言。

日本全国いいとこコンサート、今回は新潟の魅力をたっぷりとお伝えします! 残念ながら新潟でコンサートを開催することはできませんでしたが、村上市のお友達が「新潟のいいところ」を送ってくれました。ゲストに太鼓の田代誠さんをお迎えし、元気いっぱいにお届けします。

おそらくやはり過去の映像でのご出演なのでしょう。

追記・音楽は過去のものでしたが、背景の映像は新たなテイクのようでした。
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「冬が来た」、子供たちにも親しんでほしい詩ですので、どんどん取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

万年筆使用中に凍りてインキ出なくなる。息をかけると出る。


昭和21年(1946)1月11日の日記より

室内でインクが凍る生活……「自虐」に近いような気もします……。

このブログでこれまでもご紹介しました通り、丑年となり、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)が、さまざまな場面で取り上げられています。

まだご紹介していない件を。

まず、学校さん。『神戸新聞』さんから。

気持ち新たにきょうから3学期 兵庫県内の小中学校で始業式

000 兵庫県内の多くの公立小中学校で6日、冬休みが明け、3学期の始業式があった。新型コロナウイルスの感染拡大による長期休校の影響で、多くの学校が冬休み期間を短縮。元気な姿で登校した子どもたちは新年の目標を決め、気持ちを新たにした。
  神戸市西区の市立美賀多台小学校では、例年のような全校児童による始業式ではなく、校内放送を通じて各教室で実施。藤坂裕子校長(60)は高村光太郎の詩「牛」を紹介し、「この詩の牛のように、一度決めたら目標に向けてしっかり歩いて行きましょう」と呼び掛けた。5年を代表して児童2人が「積極的に発表したい」「国語と算数を頑張りたい」など目標を述べた。
 式の後、6年の教室では児童それぞれが今年の目標を二つ決めて、紙に書き上げた。「友達にかける言葉を選ぶ」と書いた女児(12)は「冬休みはコロナがはやっていて、おじいちゃんとおばあちゃんの家にいけなくて残念だった。健康に気を付けて、元気に毎日学校に通いたい」と話していた。

報道はなされなくとも、全国の学校さんで同じような「訓話」があったのではないかと察せられます。実際、いろいろな学校さんのブログサイトなどでやはり「牛」が引かれた記述をあちこちに見かけました。

地方自治体さんの広報誌でも。佐賀県玄海町さんの『広報玄海』。教育長さんによる連載のようです。

牛のように  ゆっくりと力強く  教育長 中島安行

 明けましておめでとうございます。新しい年、令和 3 年(2021年)を迎えました 。
昨年はコロナで始まり、コロナで終わった1年でした。「不要不急の外出はやめよう」「三密を避けよう」と言われ、一方では「GoToトラベル」「GoToイート」とさかんに旅行や外食を勧められ、まるでブレーキを踏みながらアクセルを踏むような、納得のいかない気持ちをいだきながら過ごした1年でした。毎日知らされる県内や全国の感染者数と死亡数に一喜一憂し、出口の見合えないトンネルに入ってしまったかのような不安な日々を過ごした1年でした。
 今年の干支(えと)は丑(うし)。そこで牛年にちなんで、高村光太郎(たかむらこうたろう)の「牛」という詩を紹介します。
 ほんとうは115行もある大変長い詩ですが、一部だけ抜粋して掲載します。

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも001
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味わって行く

がちり、がちりと自然につつ込み食い込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く

牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く

 作者の高村光太郎は日本を代表する詩人・彫刻家・画家。『道程』『智恵子抄』などの詩が有名で、教科書にも多くの作品が掲載されています。
  115行におよぶ詩の中に、何度も「牛はのろのろと歩く」や「がちり、がちり」が繰り返し出てきます。まさに牛がゆったりと力強く歩んでいる様子がよく表れている詩です。
 一歩一歩あゆみは遅くとも着実に前に進んでゆく牛の姿に、作者自身の生き方の理想を重ねているようにも思います。
 また、優しさとたくましさのある一語一語からは、作者の人柄をも感じることができます。
 さて、牛年の今年はどんな年になるのでしょうか? まだまだコロナウイルスの猛威は収まりそうにありませんが、モ~コロナは、けっこう‼ 令和3年が牛の歩みのようにゆっくりと、しかし確実に明るい希望に向かうことを願っています。
 「遅れても、先になっても、自分の道を自分で行く」。この詩に登場する「牛」のように私も、急がず、人に振り回されず、自分が決めた道をのろのろと力強く歩んでいきたいと思います。

ありがとうございます。

ところで、昨日は「牛」以外にも、牛をモチーフとした詩ということで、戦後の「鈍牛の言葉」をご紹介しましたが、もう一篇、牛がらみの詩を。詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)にも収められた作品です。

  狂奔する牛
005
ああ、あなたがそんなにおびえるのは
今のあれを見たのですね。
まるで通り魔のやうに、
この深山のまきの林をとどろかして、
この深い寂寞の境にあんな雪崩をまき起して、
今はもうどこかへ往つてしまつた
あの狂奔する牛の群を。

今日はもう止しませう、
画きかけてゐたあの穂高の三角の屋根に
もうテル ヴエルトの雲が出ました。
槍の氷を溶かして来る
あのセルリヤンの梓川に
もう山山がかぶさりました。
谷の白楊(はくやう)が遠く風になびいてゐます。
今日はもう画くのを止して
この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
又好きな焚火をしませう。
天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に
あなたもしづかにおすわりなさい。

あなたがそんなにおびえるのは
どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
ものおそろしくも息せき切つた、
血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう。
もつと多くの事をこの身に知つて、
いつかは静かな愛にほほゑみながら――

「牛」が書かれた大正2年(1913)、光太郎は智恵子と一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしましたが、その際の想い出を大正14年(1925)になってつづった詩です。

二人が訪れた頃の上高地では牛の放牧なども行われており、発情した牡牛が雌牛を追いかけている光景を「露骨な獣性」と表しています。おそらく、やはり光太郎自身の姿がそこに仮託されているのでしょう。光太郎はかなり性欲も強かったようで……。
004
詩の右の画像は、古い話で恐縮ですが、平成27年(2015)の山岳雑誌『岳人』さんで「高村光太郎と智恵子の上高地」という記事を書かせていただいた時、「この詩全文を載せておいて下さい」とお願いして載せてもらったページから。上の画像は、編集の方が「こんなものを見つけました」ということで載せて下さった上高地の古絵葉書です。

ところで、この詩の書かれた大正14年(1925)がやはり丑年。ちなみに昨年亡くなった、当会顧問であらせられた故・北川太一先生がお生まれになった年です。またのちほど詳しくご紹介しますが、今年の仕事始めは、今年出版される予定の北川先生の遺稿の校正でした。赤ペンを握りつつ、「あ、そういえば北川先生、丑年だったっけ」と思い出しました。ご存命なら今年3月の御誕生日で満96歳、8回目の年男だったわけですね。

ついでに言えば「牛」が書かれた大正2年(1913)、昨日ご紹介した「鈍牛の言葉」の書かれた昭和24年(1949)も丑年でした。偶然なのでしょうか?

【折々のことば・光太郎】

おだやかなよい日和となる。雪の上にさす日かげうつくし。樹々の影横さまに青く白雪の上に落つ。


昭和21年(1946)1月8日の日記より 光太郎64歳

温暖な房総半島に住んでいる身には、ほとんど縁のない光景です。画像は花巻高村光太郎記念館さんのサイトから拝借しました。光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺です。
007

『朝日新聞』さんの北海道版で、大晦日にご紹介した札幌南高校書道部さんの作品について報じて下さっています

「一歩ずつ前へ」丑の書に思い込め チ・カ・ホで展示

【北海道】コロナ禍でも明るく新年を迎えてもらおうと、札幌駅前地下歩行空間「チ・カ・ホ」で、今年の干支(えと)「丑(うし)」にちなんだ書道作品と門松が展示された。
 中央を飾ったのは、札幌南高校書道部の作品。高村光太郎の詩の一節「牛は大地をふみしめて歩く」を引用し、今年1年を一歩ずつ前へ進んでいこうという思いを込めた。
 昨年12月28日から始まった展示は3日が最終日。札幌市の女性(40)は通りがかりに作品が目にとまり、家族4人で記念撮影をした。「今年はコロナが終息して、家族が笑顔で健康に過ごせる1年にしたい」
000
展示が1月3日(日)までということで、ちょっと短かったのが残念ですが、光太郎詩によって北海道の皆さんが元気づけられたとすれば、喜ばしいことです。

このところ、詩「牛」(大正2年=1913)がらみをいろいろとご紹介していますが、光太郎には「鈍牛の言葉」という詩(昭和24年=1949)もあります。「牛」同様、自らを牛に仮託して作った詩です。
001
  鈍牛の言葉

二重底の内生活はなくなつた。
思索のつきあたりにいつでも頑として
一隅におれを閉ぢこめてゐたあの壁が
今度こそ崩壊した。
その壁のかけらはまだ
思ひもかけず足にひつかかつる事もあるが、
結局かけらは蹴とばすだけだ。
物心ついて以来のおれの世界の開闢で
どうやら胸がせいせいしてきた。
おれはのろのろのろいから
手をかへすやうにてきぱきと、
眼に立つやうな華やかな飛び上つた
さういふ切りかへは出来ないが、
おれの思索の向ふところ
東西南北あけつぱなしだ。
天命のやうにあらがひ難い
思惟以前の邪魔は消えた。
今こそ自己の責任に於いて考へるのみだ。
随分高い代価だつたが、003
今は一切を失つて一切を得た。
裸で孤独で営養不良で年とつたが、
おれは今までになく心ゆたかで、
おれと同じ下積みの連中と同格で、
痩せさらばへても二本の角がまだあるし、
余命いくばくもないのがおれを緊張させる。
おれの一刻は一年にあたり、
時間の密度はプラチナだ。
おれはもともと楽天家だから
どんな時にもめそめそしない。
いま民族は一つの條件の下にあるから
勝手な歩みの許されないのは当前だ。
思索と批評と反省とは
天上天下誰がはばまう。
日本産のおれは日本産の声を出す。
それが世界共通の声なのだ。
おれはのろまな牛(べこ)こだが
じりじりまつすぐにやるばかりだ。
一九五〇年といふ年に
こんな事を言はねばならない牛こがゐる。

戦時中のコテコテの翼賛思想からの脱却、といったことが語られています。

二重底の内生活」は、戦時中でもロマン・ロランらの人道思想に共鳴しつつ、しかし一方では「鬼畜米英覆滅すべし」と語らざるを得なかった矛盾を指すのでしょう。少し前に書かれた自らの半生を省みる連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」という詩には、そのあたりに具体的に触れられています。

「牛」同様、この「鈍牛の言葉」もいい詩ですので、ぜひ広めていただきたいものです。

明日も「のろのろと」(笑)、「牛」ネタで。

【折々のことば・光太郎】

細かい雪が風なく静かに降つてゐる。樹々の枝につもりて花咲ける如し。

昭和21年(1946)1月7日の日記より 光太郎64歳

『古今和歌集』にでも出て来そうな、「雪」→「花」の見立てのようにも読めますね。

下の画像は花巻高村光太郎記念館さんで販売しているポストカードですが、なるほど、左手前の木々など、まさに花が咲いているようです。

002

このところブログの訪問者数が1日300件を超え、このブログとしてはバズっている方の部類です。どうも、あちこちで光太郎詩「牛」(大正2年=1913)や、「岩手の人」(昭和24年=1949)が取り上げられ、その余波のようです。

1月3日(日)の『中日新聞』さんの一面コラム(系列の『東京新聞』さんも同一)でも「牛」

筆洗

<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>。新年はウシ年。高村光太郎の有名な「牛」を連れてくるとする▼<牛は急ぐ事をしない><ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はつて行く>。この牛は急がないが、着実に前へと進んでいく。<遅れても、先になつても/自分の道を自分で行く>である。<ひとをうらやましいとも思はない/牛は自分の孤独をちやんと知つている>。力強くまわりにも振り回されず、道を行く牛が生きる上でのお手本のように思えてくる▼光太郎の詩に子どもの時に教わった牛の話を思い出す。牛が十二支に選ばれたいきさつである。競走で決めるというが、足の遅い牛は間に合わないので前の晩から出発することにした。それを牛小屋で見たネズミ。ちゃっかり牛の背に飛び乗った▼牛は夜通し歩き続けた。背中ではネズミが眠っている。ゴールの直前にネズミは牛から飛び降りて一着入賞。結果、干支(えと)は子(ね)、丑(うし)の順となった▼憎らしいネズミだが、光太郎の詩や、牛の優しい顔を思えば、牛は気にせず、ただ自分の歩みに満足したかもしれぬと勝手な想像をしたくなる▼ウイルスとの闘いは今年も続く。日常を取り戻すための歩みは遅くとも焦らず、牛のがまん強さで一歩ずつ前に進むしかあるまい。<見よ/牛の眼は叡智(えいち)にかがやく>−。

さらに昨日の『神戸新聞』さんも一面コラムで

正平調

食べてすぐ寝ると、牛になる。親から子へと伝えられてきた行儀作法の戒めにある。自宅で過ごす時間が長くなったこの三が日は、牛になった人間の最多記録を更新したかもしれない◆〈牛飼(うしかい)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる〉。世は明治のころ、歌の作者である伊藤左千夫は牛乳搾取業を営んでいた。自分のような庶民でさえ歌を詠む時代になったのだ、と高らかに宣言している◆今はインターネットの世界がさまざまな創作発表の舞台として万人に開かれ、流行はたいていここから火が付く。今年は何がはやるだろう。下火になった時分に追いつく牛後となれど、頑張ってついていきたい◆高村光太郎に「牛」という長い詩があった。〈牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く〉。しかも〈牛は為(し)たくなつて為た事に後悔をしない〉そうだ◆あたふた急ぐ者には目もくれず、ゆうゆうとわが道を歩き、粘り強く、悔いることなく、争いを好まず、優しくて洞察力のある目を持つ-。何とすてきな牛賛歌だろう。読めばいっぺんに牛のことが好きになる◆さあ、丑(うし)年である。多難の時代ゆえか、これも何かの巡り合わせに違いない。「ゆっくり行け」と牛が言う。

以前にも「牛」全文をご紹介しましたが、この際ですので(笑)もう一度掲載します。

   牛

牛はのろのろと歩く004
牛は野でも山でも道でも川でも
自分のきたいところへは
まつすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切つて
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない005
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも
十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。

画像は昭和14年(1939)になって光太郎自身が「牛」全文をしたためた書です。本来なら、昨年、富山県水墨美術館さんにおいて開催予定で、当方も協力していた「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品予定だったのですが、コロナ禍で中止。仕切り直して開催の方向で検討して下さっているというお話は聞きましたが、どうなりますやら……。

2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

さて、詩「牛」。新聞一面コラム以外でもいろいろ取り上げられており、ありがたいかぎりです。意外と皆さん、この詩をご存じだったんだな、という感じで、もっと知られていない詩なのかなと思っていたため、想定外でした。

他の紹介例についてはまた明日以降、このブログで書かせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

鼠天井に巣をつくる様子なり。天井板なき屋根うらの何処に巣をつくる場所あるか不思議なり。此家たのむべしと思へるか。

昭和21年(1946)1月5日の日記より 光太郎64歳

「牛」ならぬ、『中日新聞』さんで取り上げられていたネズミに関してです。ネズミは冬眠しないのですね(笑)。

光太郎、かわいそうと思いつつも毒をしかけたりして退治しようとしますが、敵もさる者(笑)、なかなか絶滅には至らず、しばらく奇妙な同居人(人ではありませんが(笑))として、時に短歌に詠まれたりもしています。

わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり(昭和22年=1947)




状況をわかりやすくするために、昨年12月27日(日)の『岩手日報』さんから

うし年 モーっと岩手元気に 2021年、県が新事業

 うし年の主役は岩手だ―。県は2021年、牛で地域を盛り上げる事業「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を実施する。牛にまつわる資源や文化が根付く本県の魅力を「モー」っと高め、新型コロナウイルス感染症の影響を受ける県民を元気づける取り組みとして展開する。

 高村光太郎は詩「岩手の人」で「岩手の人 沈深牛の如(ごと)し」とし、牛の粘り強さや前進の姿勢が県民の気質に通ずるとした。本県は全国有数の産地で、南部牛追唄、小岩井農場など歴史や文化、観光面でも牛との関わりは深い。

 「うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!」をキャッチコピーに1年間、牛肉・乳製品などの消費拡大策や観光、国内外への情報発信などを展開。県農林水産部を中心に全庁的に取り組み、農業団体や民間企業とも連携する。
003
県のサイトで確認したところ、12月25日(金)、達増拓也知事の定例記者会見のページにたどり着きました。しかし、「詳細はまた改めて」ということでした。ただ、「記者席配付資料」にはある程度詳しい内容が

丑年に合わせたプロジェクトの実施について

令和3年は丑年であり、本県には「うし」にまつわる資源や文化が数多くあります。そこで、「うし年は岩手の年!」とし、「うし」で岩手を盛り上げるプロジェクトを実施することとしましたので、お知らせします。 

1 プロジェクトを実施する理由
▮ 県民気質に通ずる
 牛は粘り強さと誠実さ、そして、前進の象徴、努力型の岩手県民の気質に通ずる
 高村光太郎の詩「いわての人」岩手の人 沈深 牛の如し/地を往きて走らず/企てて草卒ならず/つひにその成すべきを成す
▮ 畜産県・岩手の象徴である
 岩手県は全国有数の産地、「いわて牛」の品質の高さ、オンリーワンの「いわて短角牛」
 ▶ 全国上位の飼養頭数:黒毛和種8位/日本短角種1位/ホルスタイン種4位
▮ 岩手のソフトパワーの源の一つである
 歴史・文化・観光で深いつながり
 ▶ 南部牛追い歌、南部牛、塩の道、玉山金山の金のべごっこ、小岩井農場 など
2 プロジェクト名称
 いわてモー!モー!プロジェクト 2021
  [説明] 丑年に合わせたプロジェクトをわかりやすく表現
3 キャッチコピー
 うし年は岩手の年! 岩手から、みんなを元気に!
  [説明]「うし=岩手」を宣言し、県民の皆様と一緒に、元気よく盛り上げていこうとするもの
4 ロゴマーク 001
 [説明]
 ・ 牛のイラストは、堂々とした風格と前に進む姿勢を描き、角
   や輪郭の赤色で内に秘める強い意志を表現
 ・ プロジェクト名称の文字は、伝統を醸し出す勢いある字体と
   赤色で強調
 ・ 背景の黄金色は、岩手県のシンボル色 
000
ただ、具体的な内容はまだ書かれていません。

さらに調べてみましたところ、12年前の丑年、平成21年(2009)にも、「“黄金の國、いわて。”MOW MOW(モーモー)プロジェクト」が実施されていました。その際には、「3つの視点〔UC―1~3(うしさん)〕による産業振興戦略」というわけで、「UC-1 う四天王プロジェクト~新たな商品づくりによるブランド価値の創造(Creation) ~ ①新商品の開発・名物の発掘、②マーケティングの強化、③地産地消運動との連携、④食育の推進、⑤運動のPR」、それから「UC-2 ウシコンバレープロジェクト~ クリーン(Cleanness)な大地、環境王国いわてを発信 ~ ① 脱CO2クリーンエネルギーの活用、②耕畜連携によるブランディング、③牛がつなぐ環境保全の展開」、そして「UC-3 諸国漫牛の旅プロジェクト~ 牛の魅力を広く伝える(Communication)~ ① 新たな旅モデルの企画開発、② 観光・文化(情報)の発信、③ 体験型うし修学旅行、グリーン・ツーリズムの推進」と謳われていました。今回も共通する部分があるのではないかと思われます。

要するに、「岩手から、みんなを元気に!」。そのために光太郎も一役買うことになるようで、泉下の光太郎も苦笑しつつ承諾していることでしょう(笑)。

ちなみに、達増知事の「年頭メッセージ」でも、光太郎に触れて下さっています

年頭メッセージ

 新年、明けましておめでとうございます。
 昨年は、新型コロナウイルスの流行が日本にも広がり、岩手県は7月の終わりまで感染の判明がなく、夏から秋にかけての感染者数も全国で最も少ないほうでしたが、11月から12月にかけて多くのクラスターが発生し、感染者数が一気に増えました。
 この間、県民の皆さんには基本的な感染対策や、場面ごとの感染対策を行っていただき、あらためて感謝申し上げます。感染した方々やその関係の皆様には、大変な思いをされていること、お見舞いを申し上げます。また、医療や検査、福祉や教育、生活を支えるサービス業など、ご苦労をされている皆様に、深く感謝申し上げます。岩手は、全国の中では依然として感染者数が少ないほうですが、県は苦労されている方々、困窮されている方々への支援を強化して参りますし、お互いに力を合わせ、助け合っていくことができるよう、思いやりの気持ちを感染対策の基本に据えて、今年も取り組んで参りましょう。
 今年の3月11日には、東日本大震災津波から10年となります。十年間の復興の成果と課題を確かめ、必要な事業は継続し、伝承と発信にも力を入れて参りたいと思います。
 今年は丑年ですが、高村光太郎の『岩手の人』という詩に、「岩手の人…牛の如し」とあります。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す。」ということであり、「丑年は岩手の年」と言って良いでしょう。
 昨年中、新型コロナウイルスの流行の下でも、農林水産業、工業、サービス業、それぞれに進展があり、文化、スポーツでも多くの成果がありました。今年、牛のような着実さと、いざという時のパワーで、「お互いの幸福を守り育てる岩手県」を進めていきましょう。
 皆様のご健康、ご多幸をお祈りいたします。

「いわてモー! モー! プロジェクト2021」、具体的な取り組みなど、また分かりましたらお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

風のかたまりが林を渡つてゆく時のごうごうたる音は物凄きばかりなり。

昭和21年(1946)1月4日の日記より 光太郎64歳

「風のかたまり」という表現が凄いと思います。描かれている季節は違いますが、宮沢賢治の「風の又三郎」に出てくる「どっどど どどうど どどうど どどう」を思い起こしました。


光太郎智恵子ゆかりの地を紹介するテレビ放映情報です。ただ、番組内で二人の名が出るかどうか……ですが。

まず、明日放映の番組から。「ほんとの空」のある福島安達太良山です。

にっぽん百名山 安達太良山~湯煙あがる錦の峰~

NHKBSプレミアム 2021年1月4日(月)  19時30分~20時00分

福島の安達太良山(1700m)、みちのくの火山に紅葉のクライマックスを満喫する山旅!中腹に湧き出す温泉は、平安時代から続く源泉かけ流しの秘湯。人気の山を徹底紹介。

東北でも屈指の紅葉の山を行く1泊2日の山旅!名瀑が連続する遊歩道を歩き、草紅葉の溶岩台地・勢至平を巡り、錦に輝く紅葉のトンネルを抜け、温泉のある“くろがね小屋”に宿泊。翌朝、荒々しい鉄山を染める紅葉を眺めながら登り稜線へ、直径1km以上もある巨大な火口・沼ノ平を望む。牛の背と呼ばれる火口の淵をたどり、“乳首山”とも呼ばれる山頂をめざす。案内は、麓の岳温泉で和菓子店を営む異色のガイド・渡辺茂雄さん。

出演 渡辺茂雄  語り 鈴木麻里子
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この番組では、過去3回、安達太良山が取り上げられました。それぞれ初回放映が平成27年(2015)2月(有料のCS放送チャンネル銀河さんで1/5の午前4:30~の放映があります)、平成28年(2016)7月、そして平成30年(2018)4月でした。今回で4作目となるわけですが、これまでの3作中2作で光太郎智恵子に触れて下さっていますので、現在2勝1敗(笑)。3勝目なるか、というところです(笑)。

もう1本。こちらは千葉県。大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼です。同年に発表された光太郎詩「犬吠の太郎」の舞台でもあります。

新美の巨人たち 『犬吠埼灯台』×シシド・カフカ 太平洋を照らす美しき白亜の塔

地上波テレビ東京 2021年1月9日(土) 22:30~23:00
BSテレ東      2021年1月16日(土)  23:00~23:30

初めて灯った日から146年。千葉県銚子市の岬の先端で太平洋を照らし続ける、美しき白亜の塔『犬吠埼灯台』は高さ31.3mの洋式灯台。その光はまさに文明開化の象徴。英国人技師、リチャード・ブラントンが、その能力を駆使して、日本に近代化の光を灯しました。その一方で、使用されたレンガには日本人の誇りが…。さらに灯台のレンズの驚異のメカニズムも明らかに!“灯台の美”を巡る旅をシシド・カフカさんがお届けします。

<Art Traveler>シシド・カフカ  <ナレーター>渡辺いっけい
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昨年、犬吠埼灯台が重要文化財指定を受けたことが、取り上げられる機運の一つとなったのでしょう。この灯台を光太郎智恵子も見上げたわけです。

001ただ、くどいようですが、どちらの番組も番組説明欄に光太郎智恵子の名がないので、二人と同地を巡るエピソードの紹介があるかどうか……です。しかし、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリ縁にて揮毫。昨日の代りに今日試筆、「天下和順」「日月清明」を二枚づつ半紙に書く。


昭和21年1月3日の日記より 光太郎64歳

「試筆」は書き初めの意。古来、書き初めは1月2日に行う習慣ですので「昨日の代りに」とあるわけです。前日は来訪者があり、出来なかったとしています。

「半紙」はいわゆる半紙ではなく、「半切」(約 348 × 1350 mm)でしょう。右がこの日記にある書。書けそうで書けない字ですね。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、自宅兼事務所から車で1時間程の、九十九里浜片貝海岸に行きました。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養し、ほぼ毎週、光太郎が見舞いに来ていた場所です。

昨年まで、愛犬をお供に連れて行っていましたが、17歳になった愛犬、もう歩くのがだいぶしんどそうで、最近は自宅兼事務所の敷地内だけ歩かせている状況ですので、今年はお留守番。下は先月撮った画像ですが、日中も殆どワンモナイトになっています。
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日の出時刻は午前6時45分過ぎ。
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この時期、西高東低の冬型の気圧配置なので、東の洋上には雲が必ずかかっています。そこで、水平線から昇る朝日とは行きません。一昨年、昨年は、雲が日本本土に近いところまで来ていて、あまり綺麗な日の出は拝めませんでした。ところが、昨日は洋上の雲もだいぶ遠く、絶好の初日の出日和。こんな好条件は平成30年(2018)以来でした。
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人々の歓声と共に、初日の出。コロナ禍終息を願わずにいられませんでした。集まった皆さんも同じだったと思います。
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光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ詩碑。昭和36年(1961)の建立です。除幕の際には、昨年亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生も駆けつけられました。もう60年前なのですね。

こんな希望の朝日が差すような1年であって欲しい、と切に願います。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリに木屑を焚き、コンロと併用炊事。例の通りなり。ヰロリの火ふしぎにたのし。

昭和21年(1946)1月2日の日記より 光太郎64歳

雪ですっぽり覆われた花巻郊外旧太田村の山小屋、唯一の暖房がこの囲炉裏でした。

火を見ていると何だか楽しくなる、「あるある」ですね。当方も昨日、日の出を待つ間、流木を集めて焚き火をしておりました。
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新しい年がやって参りました。昨年の今頃は、昨年があんな年になるとは予想だにしていませんでしたが、今年は果たしてどんな年になるのやら、です。

願わくは、コロナ禍も終息し、世界中にまた笑顔が戻る年であってほしいものだと、切に願います。

本年も変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

画像は当会よりお送りした年賀状です。昭和12年(1937)、丑年生まれの山形の銀行家・長谷川吉三郎の求めに応じて光太郎が描いた牛の絵をあしらいました。何で間違えたか、昭和13年(1938)と書いてしまいましたが、その前年でした(笑)。

【折々のことば・光太郎】

飯盒にて朝食を用意はじめたる時、分教場の佐藤勝治さん来る。小豆餅重箱にひとつ。大根のつけもの二本、キヤベツの煮びたし一壺持参さる。食前に届けんとせられし由。雑煮の代りにそれをいただかんとす。勝治さんと年賀交換、生れてはじめての新年也。


昭和21年(1946)1月1日の日記より 光太郎64歳

「佐藤勝治さん」は、光太郎に太田村移住を勧めた、山口分教場の教師です。

「生れてはじめての新年」。雪深い山小屋で自らの戦争責任と向かい合う生活の中で、初めて迎える新年ということで、「新生」光太郎の初めての新年、ということでしょうか。

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