三重県の紀北民俗研究会さん発行の雑誌『奥熊野の民俗』第16号。

『毎日新聞』さんの三重版で紹介されており、その中で光太郎の名が出ていました。ネットで記事全文が読めない状況でして、「紀北町の元学校職員で、趣味でカメラや俳句に親しんだ故東正佳さんが72年ごろ発行した句集に、詩人で彫刻家の高村光太郎と47年に交わした往復書簡が ...」とのこと。

『高村光太郎全集』には「東正佳」の名は出て来ません。ただ、三重県在住で「東正巳」という人物は、日記の巻に名がある他、書簡を収めた第21巻に「東正巳」宛て書簡が29通(昭和18年=1943~昭和26年=1951のもの)収録されています。三重で同人誌的な雑誌と思われる『海原』を発行し、自身でも詩歌の創作をしていた人物のようでした。そこで「東正佳」じゃなくて「東正巳」の間違いなんじゃないの? またはよく似た名前の別人? などと思いつつ、取り寄せました。

『毎日新聞』さんの記事は読めませんでしたが、『紀北町ニュース』の記事が読めまして、そちらに入用の際の連絡先が載っていました。こちらには光太郎の名は出て来ませんでしたが。

「奥熊野の民俗16号」発刊

 東紀州地域の元教員らでつくる紀北民俗研究会(田中稔昭会長)は、12年ぶりに機関誌「奥熊野(おくまの)の民俗16号」をこのほど発刊した。B5判98㌻。
 今回は17人が地域の歴史や文化、随想、民話などを寄稿。150部を作製し、会員や執筆者、県内外の図書館などに配分し、残り約70部を希望者に実費(700円+送料250円)で販売している。
 同研究会は、元紀北町教育長の故小倉肇氏が創設し、年1回発刊していたが、2010年から12月の15号から中断していた。
 購入申し込みは同研究会事務局の海山郷土資料館(紀北町中里 ☎0597-36-1948)で受け付けている。

で、届いたのがこちら。フライヤー的なものも同封されていました。
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頁を繰ってみると、「詩人 東正佳さんを知る」という記事がありました。太田豊治氏という元中学校の校長先生のご執筆です。

早速、拝読。1ページめで疑問が氷解しました。「東正佳」はペンネーム、本名が「東正巳」だというのです。さらに本業は公立学校の事務職員だったそうで、それも存じませんでした。

その他、東の人となり、業績等がいろいろ紹介されていました。中央の雑誌や新聞に句歌を投稿し、たびたび入選していたこと、単独で自身の句歌集も出版したこと、カメラも趣味で『アサヒグラフ』に写真が掲載されたことなど。

そして、光太郎との交流についても。

これまでに見つかっている光太郎から東宛の書簡では、東へ花巻郊外旧太田村の山小屋にクマゼミを送ってくれるよう依頼していたり、それ以外にも東から生活物資、書籍などが送られていたりといったことは分かっていました。特に興味深かったのは、「ヤギ」という珊瑚の一種を東から贈られ、それを使って蟬を彫ろうとしていたという書簡。ただし、その蟬の現物は確認できていません。

太田氏の玉稿を拝読し、驚いたのは、東の句歌集『海虹集』に光太郎からの書簡が三通転載されていたというくだり。調べてみましたところ、すべて既知のものでしたが。

光太郎から東宛の書簡は、散逸してしまっています。『高村光太郎全集』掲載のもののうち、東が発行していた『海原』に載ったものからの転載が9通、それを含め、平成21年(2009)には21通がまとめて市場に出ました。
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令和3年(2021)には、おそらくそのまま明治古典会七夕古書大入札会2021に出品。
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その際にはどうやら業者さんが買い取ったようで、その業者さんはネットオークションで1通ずつ小出しにして分売。

まぁ、内容さえ分かっていれば、売れてしまうのは仕方がないと思っております。怖いのは、未知のものがわけのわからない人などに買われて結局死蔵になってしまうことですが。

太田氏の玉稿に依れば、東は生涯独身。現在、住んでいた家は草深い空き家となり、表札の字はかすかに読み取れる、という状況だそうです。

東の句歌集『海虹集』。国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、昭和47年(1972)の刊行でした。そのものは見つかりませんでしたが、『紀伊長島町史』という書籍に書影が掲載されていました。

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こちらに載ったという書簡はすべて既知のものでしたが、こういう形で光太郎の未知の書簡が見つかることも結構あり、今後もそれらの発見に努めます。

【折々のことば・光太郎】

だしぬけにあなたから「秋の瞳」といふ詩集をもらつたのはうれしかつた。丁度房州へゆく時なので、ふところへ入れて、方々歩きながら、海だの、林だの、旅舎の二階だのでよみました。あなたの心を細かに感じられたやうでうれしかつた。純粋な感情の吐息はどこにでも生きてゐて、詩と自分の感じとがぴつたりあふ時はうれしかつた。御礼まで。

大正14年(1925)8月28日 八木重吉宛書簡より 光太郎43歳

確認できている限り唯一の八木宛書簡です。

先程の新発見の東宛書簡からも感じられますが、光太郎、どうも活字中毒に近かったのではないかと思われます。当方もそうなので、わかるなぁ、という感じなのですが。