2020年09月

直接的には光太郎に関わりませんが……

高田博厚展2020

期 日 : 2020年10月7日(水)~11月3日(火・祝)
会 場 : 東松山市総合会館 埼玉県東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

本年は、高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る彫刻の作者・高田博厚の生誕120年にあたります。
本展では、高田のご遺族から寄贈された貴重な彫刻やデッサンなどの作品を展示し、精力的に創作し続けた彼の功績を紹介します。彫刻作品のほか、デッサンや絵画、フランスから持ち帰った書簡等を展示します。また、アトリエ再現コーナーや視聴覚コーナーなどを設け、高田と高坂彫刻プロムナードのエピソードを紹介します。
また、関連企画として、高田と親交のあった元NHKアナウンサー室町澄子さんによる特別講演会を開催します。(要予約)

彫刻家 高田博厚 1900-1987
石川県生まれ。日本を代表する彫刻家・思想家・随筆家。18歳で上京し、彫刻家で詩人の高村光太郎と親交を深め、21歳の時に高村から借り受けた彫刻台で彫刻制作を始める。30歳で渡仏し、文豪ロマン・ロランや哲学者アランなどヨーロッパの知識人と交流しながら活動し、第二次世界大戦中もフランスに留まる。57歳で帰国した後も精力的に創作活動を続け、86歳でその生涯を閉じた。

高田博厚と高坂彫刻プロムナード
高村光太郎と親交のあった元東松山市教育長の田口弘が、1965年に高村光太郎を偲ぶ連翹忌で高田博厚に会う。その後、東松山市で彫刻展や講演会を開催するなど親交を深めるようになった。そのころ東松山市では、高坂駅西口土地区画整理事業を実施しており、事業の完了に際し、田口が「一人の一流作家の作品で飾る彫刻通りが実現できれば、全国に誇れる彫刻通りになる」と提言し、高田はそれに応じた。1986年に2体、1987年に14体、1989年に11体、そして1994年に5体を設置し現在の高坂彫刻プロムナードの形になった。

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関連行事

特別講演会
高田と親交があり、彫刻作品のモデルになった元NHKアナウンサーの室町澄子さんに、高田が室町さんの彫刻に込めた思いなどを語っていただきます。
 日時 10月25日(日曜日)午後1時30分開場、午後2時開演
 会場 東松山市総合会館4階  多目的ホール
 定員 80人(申込順)
 申込 電話又は東松山市サイトから申込

東松山市で毎年行われている「高田博厚展」、今年も始まります。

当初予定では、まず恵比寿の日仏会館さんで展示が行われ、その後、東松山に巡回のはずでしたが、コロナ禍のため、恵比寿の方は中止、東松山のみでの開催となりました。

また、10月2日(金)には、恵比寿での関連行事としてのシンポジウムが予定されていまして、当方もパネリストを仰せつかっておりましたが、中止(涙)。
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10月25日(日)の室町澄子さんの講演会は申し込みまして、参加が許可されましたので拝聴して参ります。ちなみに室町さんを作った高田の彫刻は、先月、豊科近代美術館さんで開催されていた「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」の際に拝見して参りました。
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また、東松山市には、上記の通り、高田作品をずらっと並べた高坂彫刻プロムナード(ブロンズ通り)が整備されており、光太郎胸像も含まれています。

さらに市立図書館さんには、元教育長の故・田口弘氏旧蔵の光太郎関連資料が田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として、無料で公開されています。

併せてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

茅の屋根については、僕はそのゆかしさを慕いますね。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一六」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

アメリカは一般庶民の生活レベルがかなり高くなっており、ヨーロッパには深い芸術の伝統がある、という話の流れから、しかし日本には日本のいいところもある、というわけで。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示です

高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-

期 日 : 2020年10月5日(月)~11月23日(月・祝)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体

「ホームスパン」 とは、 「家」 と 「紡ぐ」 の英単語からなる言葉で、日本では、羊毛を手紡ぎ ・ 手織りした織物がホームスパンと呼ばれています。
太平洋戦争で花巻へ疎開した高村光太郎の日記や手紙には 「ホームスパン」 という言葉が散見されます。また、山口集落でホームスパン作りの手伝いをした際に「ホームスパンは手の先で始まり、最後の仕上げまで手先でやるのが特徴だ、染色も化学染料でなく天然産のものを用いるがよい」 と、語った逸話も残されています。
平成28年11月、高村光太郎の遺品の中から、色鮮やかなホームスパンの毛布が見つかりました。近年の調査で英国の著名な染織家であるエセル ・ メレの毛布と分かり、これを機に高村光太郎とホームスパンの物語も少しずつ分かってきました。
高村光太郎記念館では、見つかった毛布とともに、これまで注目されなかった光太郎とホームスパンにスポットを当てた企画展を行います。高村光太郎とホームスパンの優しくて温かい物語をご覧ください。

1 光太郎と智恵子とホームスパン
高村が生きた時代とともに、バーナード・リーチとの交友関係、智恵子と織物などのエピソードを紹介します。

2 山口での試み
戦後、太田村山口に移り住んだ高村は「日本最高文化の集落」を10年計画で太田村山口に作ろうとし、「青年たちには陶芸作りをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料、手紬、手織りの本格的なホームスパンを作らせる」と語ります。高村が山口に見た夢と試みについて、ホームスパンを中心に紹介します。

3 夢の行方
高村が愛用した猟人服の製作に関する物語や盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)との関わりなど、試みのその後について紹介します。
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メインは、光太郎遺品の中にあった毛布。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認されました。

現物は昨秋、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示され、拝見して参りました。まぁ、それ以前にも光太郎記念館さんで手にとって見せていただいたりしていたのですが。

また、光太郎記念館さんの別館的な「森のギャラリー」では、紙に印刷した複製を展示したりもしていました。

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大正末か昭和初め、メレの作品展(バーナード・リーチらとの共同展)が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたという証言が残っています。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。東京では、事前に布団類は防空壕に入れておいたとのことで、その中にこれも含まれていたのでしょう。

昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村の山小屋から再上京した光太郎ですが、この毛布も持って行くか、送るかしまして、中野の貸しアトリエで撮られた写真に写っています。
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光太郎歿後、他の遺品の一部と共に、花巻光太郎記念会に寄贈され、長い間倉庫に眠っていたのが、平成28年(2016)になって、日の目を見たというわけです。

光太郎とも交流のあった柳宗悦によって提唱された民芸運動の一環として、岩手では元々、ホームスパン制作が盛んで、現代にもその伝統が継承されています。その作家で、やはり光太郎と交流のあった及川全三やその弟子筋、さらに光太郎記念館で常設展示されているホームスパンによる光太郎の猟人服などについても展示が為されるそうです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

岩手の人はおっとりしています。気長ですが、お終いには必ずやってのけます。岩手からきっといいのがでるように思います。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一五」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

頼んだホームスパンの制作がなかなか出来なかったことなどを念頭に置いての発言でしょう。しかし、待たされて待たされて、やっと出来上がったその出来栄えは予想していた以上に素晴らしいということで、「お終いには必ずやってのけます」と言ったわけです。

北海道から書道展情報です

ミュージアム・コレクション秋~冬 鷗亭と賢治・光太郎

期 日 : 2020年10月3日(土)~2021年1月31日(日)
会 場 : 北海道立函館美術館 北海道函館市五稜郭町37-6
時 間 : 午前9時30分~午後5時00分
休 館 : 月曜日 祝日等の場合は翌火曜日 11月30日(月)~12月4日(金)
      12月28日(月)~2021年1月4日(月)
料 金 : 一般260(210)円 高大生150(110)円 ( )内団体料金

宮沢賢治と高村光太郎。生前に一度だけ出会ったふたりの詩が、金子鷗亭の書により、一堂に会します。
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金子鷗亭、明治39年(1906)、北海道松前出身の書家です。近代詩を書いた作品(近代詩文書)が多く、光太郎詩も取り上げていて、平成26年(2014)に佐賀唐津で開催された「比田井天来門下四書家の足跡を辿る 四神の書-上田桑鳩・手島右卿・金子鴎亭・桑原翠邦」でも光太郎詩を扱った作品が展示されました。おそらく、細かな出品目録等が出なかった展覧会で、当方の検索網に引っかからなかったこうした例はもっとあったと思われます。

ちなみに令孫・金子大蔵氏も光太郎詩を題材にされた作品を多数書かれています。

数年前、光太郎詩が書かれた鷗亭の作品集的な書籍を入手しました。平成15年(2003)刊行の『教本・鷗亭詩文書名品選8 高村光太郎「冬の言葉」「金秤」』。
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「冬の言葉」は昭和3年(1928)、「金秤」は明治44年(1911)に、それぞれ発表された詩です。
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「冬の言葉」は長い詩なので、上記画像は冒頭部分だけです。

同じシリーズの第11巻には、やはり光太郎詩「葱」(大正15年=1926)を書いた作品が載っているはずなのですが、そちらは未入手です。

それから賢治の詩も書かれているそうで、それらの集成とのこと。首都圏であれば見に行くところですが……。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ありったけの力で最善を尽くせばいいのです。自分を捨ててかかればいいのです。僕はお金も名誉も望みません。世の中の役に立てばいいのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一四」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村に蟄居中、近くの山口小学校で開かれたPTA主催講演会の冒頭に語った言葉です。

膨大な翼賛詩文を書いていた戦時中も、考え方の根本はこうだったと思われます。ただ、そのベクトルが誤った方向だったわけで……。

都内から展覧会情報です

藝大コレクション展 2020――藝大年代記(クロニクル)

期 日 : 2020年9月26日(土)~10月25日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前10時 - 午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般440円(330円) 大学生110円(60円) 高校生以下及び18歳未満は無料
       ( )は20名以上の団体料金
東京美術学校(美校)開学から現在の東京藝術大学まで、130年以上にわたって引き継がれている本学の美術・教育資料の集積である「藝大コレクション」。2020年の展示では、美校・藝大に残された多様な美術作品によって、学史を「年代記」のように辿ります。
第1部では、上村松園の《序の舞》、狩野芳崖の《悲母観音》など、名品群を紹介します。
第2部では、藝大を象徴するコレクションと言える自画像群を特集します。黒田清輝を中心とする西洋画科の卒業課題としてはじまり、現在まで続くコレクションで、その総数は現在6000件を超えます。これらの自画像を、日本近代美術・美術教育史の流れを示す「歴史資料」として扱い、100件以上の自画像を一堂に並べ、美校・藝大の流れを「年表」のようにご覧いただきます。
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藝大さんのサイトやフライヤー(チラシ)に記述がないのですが、光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年頃=1930頃)が出ているとのことです。関係の方からご案内、招待券を頂き、それで知りました。
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写真は光太郎令甥で写真家の故・髙村規氏の撮影によるものです。

光太郎木彫、常時見られる館は無く、貴重な機会です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

人は誰でも「美しいなあ」と感じがしたとき、なにかに表現してみたくなります。そこがやはり人らしい芸術の芽生えです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一三」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎自身もレンコンを見て、「美しいなあ」と感じたのでしょう。そしてレンコンをそのまま再現するのではなく、いろいろ考えて彫っていると思います。

以下、あくまで推測ですが、どうも「白銀比」を使っているように思われます。「白銀比」は、古来、わが国で建築や美術作品に使われてきた、日本版「黄金比」。1:√2(1.414)です。A判、B判の用紙はタテヨコこの比率ですね。日本人が美しいと感じる比率だそうで。
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本当に昔から経験則的に使われており、建築では法隆寺、三十三間堂などでの使用例が有名です。
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絵画でも。
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左は雪舟、右は菱川師宣。

さらに現代。
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そして光太郎。
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まぁ、この「蓮根」に関しては、「だいたい」ですけれど……。

それぞれの作者、1:1.414という数式を意識してわざわざこうしたわけではなく、経験則から最も美しい比率と感じた結果だというのが面白いところです。第一、光太郎は数学を大の苦手としていました。数学教師が「ある他の数が……」と言うのを「アルタの数って何だ?」と聞いていたそうで(笑)。そうなると平方根あたりはもうお手上げだったのではないでしょうか(笑)。

光太郎彫刻、絵画には、他にも「白銀比」使用例がありそうです。暇な時に(笑)探してみます。

テレビ再放送の情報です

先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」

NHK Eテレ 2020年9月29日(火) 12時00分~12時45分

明治・大正・昭和の日本で、先駆的な活躍をした女性を2週にわたって紹介。今回は平塚らいてう。男に支配されない、新しい女の生き方を世に問い、闘い続けた知恵と勇気とは。

「元始、女性は太陽であった」と宣言した女性解放運動の先駆者、平塚らいてう。自由な恋愛、結婚、男に支配されない“新しい女”の生き方を世に問い、「国家は母親を保護しその生活を保障すべき」と訴えた。これに与謝野晶子が「経済的に自立していない女は子どもを産むな」と反論。現代にも通じる「母性保護論争」を繰り広げ、性差を考える大きなきっかけとなった。挫折を乗り越え、闘い続けた平塚らいてうの知恵と勇気に学ぶ。

出演 働き方改革コンサルティング企業代表・小室淑恵
   熊谷真実
   日本女子大学非常勤講師・差波亜紀子
司会 新井秀和

本放送が9月22日(火)にあり、拝見しました。
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ご出演は、働き方改革コンサルティング企業代表・小室淑恵さん、女優の熊谷真実さん、日本女子大学非常勤講師・差波亜紀子さん、ビデオ出演ではNPO法人・平塚らいてうの会代表の米田佐代子さん。
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平塚らいてうを中心に据えていましたので、まず、らいてうの生涯が簡略に。
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日本女子大学校を卒業後、森田草平との心中未遂事件を経て、『青鞜』創刊。創刊号の表紙絵は智恵子に依頼しましたが、残念ながら番組では智恵子の名が出て来ませんでした。
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『青鞜』誌上でさまざまな女性問題を取り上げる中で、らいてう自身も母となり、さらに様々な困難に直面します。そうした折りにスウェーデンの社旗学者エレン・ケイの思想に共感し、社会保障的に国家が母親を支援すべしと表明。それに真っ向から異を唱えたのが、光太郎の姉貴分・与謝野晶子でした。
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らいてうも黙ってはいません。そしていわゆる「母性保護論争」が勃発。
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さらに山川菊栄も加わり……。
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このあたり、非常にわかりやすくまとめられていました。
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その後、らいてうは新婦人協会を設立。
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やがて、女性にも普通選挙権が認められ、まがりなりにも男女雇用機会均等法などが成立するわけですが、しかしいまだに女性が女性であるゆえの苦労は尽きないわけで……。

出演者の皆さん、そのあたりについても、本音トーク。
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黒一点(笑)、司会の新井秀和アナも、これにはたじたじでした(笑)。

もう1件。

こちらは9/18にあった本放送を見逃したのですが、やはりNHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」

にほんごであそぼ「道程」

NHK Eテレ 2020年10月2日(金)  6時35分~6時45分/17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今日は…「道程」、文楽/小謡~浄瑠璃風~「釣女」より、童謡「村祭」、はんじえ/すずめ→だいこん、名文を言ってみよう!/寿限無、うた「シェイクスピアのうた」

出演
美輪明宏 竹本織太夫 鶴澤清介 三世桐竹勘十郎 おおたか静流 池田鉄洋 中尾隆聖ほか

この回以外にも、9月23日(水)の「過ちて…」の回でも「道程」が取り上げられていまして、こちらも再放送があるかと思いますが、詳細日程が出ましたらまたお伝えします。

それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

英語もラジオ放送の小川さんは、新しいものをやっているのでたいへんいいです。僕も復習のつもりできいています。語学は使わないでいるとだめになります。きくと思い出します。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一二」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に光太郎が蟄居していた頃は、まだテレビ放送は始まっていませんで、しかし、光太郎、ラジオ放送はよく聴いていたようです。まあ、それも村人の厚意で小屋に電気が通るようになった昭和24年(1949)以降のことですが。

「小川さん」は小川芳男。当時、東京外国語大学助教授で、ラジオの「基礎英語」を担当していました。

マザータングの日本語プラス、英仏二語もペラペラのトライリンガルだった光太郎ですが、やはり日常的に耳にしたりしゃべったりしないと忘れてしまうということで、「基礎英語」を聴いていたのですね。素晴らしいと思います。

千葉は成田から展覧会情報です

第44回千葉県移動美術館~近代日本を代表する作家から成田市ゆかりの作家まで~

期 日 : 2020年9月29日(火)~10月11日(日)
会 場 : 成田市文化芸術センタースカイタウンギャラリーA, B, C, D, E
      千葉県成田市花崎町828−11
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

  千葉県立美術館は、昭和49年に開館して以来、千葉県ゆかりの作家や作品をはじめ、国内外の優れた作品の収集・活用(展示)・保存に努めてまいりました。現在、日本画・洋画・彫刻・工芸・版画・書の各分野の作品約2800点を所蔵しています。
  千葉県移動美術館は、千葉県立美術館の所蔵作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村の文化施設を会場として開催する展覧会です。
  成田市文化芸術センターでは、平成28年に続き、2回目の開催となります。今回は、「日本近代を代表する作家から成田市ゆかりの作家まで」と題して、洋画では浅井忠、クールベ、ドービニー、梅原龍三郎などに加え、明治・大正期の水彩画家の名作、地元作家である篠崎輝夫の特集展示などをご覧いただけます。日本画では東山魁夷、石井林響、横尾芳月、地元作家の小幡春生などの作品を、彫刻では高村光太郎、新海竹太郎、地元作家の島田勝吾などの作品を、工芸では、香取秀真、津田信夫などの金工作品や、宮之原謙、河村蜻山、地元作家の土肥刀泉などの陶芸作品を、書では浅見喜舟、石井雙石の篆刻作品など50点余りにおよぶ名作をお楽しみください。
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関連事業など
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
①10月4日(日) 午後2時~ ②10月10日(土) 午後2時~ 
事前申込不要。当日、直接ギャラリーCDにお集まりください。各回先着15名までとさせていただきます。
※当日の午後1時からギャラリーCD入口にて受付開始します。事前の受付はいたしませんのでご注意ください。 

成田市特集展示 篠崎輝夫コーナー
成田市ゆかりの画家、篠崎輝夫の作品11点をギャラリーEに展示します。
千葉県移動美術館 特設コーナー
展覧会期間中に、展示作品に関する書籍を紹介します。
会場:成田市立図書館(成田市赤坂1-1-3)TEL:0476-27-4646

千葉県立美術館さん所蔵の優品を、県内各地で出張展示する「移動美術館」。第44回ということで、かなり歴史を刻んでいますね。

同館では光太郎ブロンズ彫刻、代表作の「手」(大正7年=1918)をはじめ、8点の光太郎ブロンズ彫刻を所蔵しており、同館所蔵品の目玉の一つ的な位置づけです。そこでこのところ、移動美術館の際には光太郎彫刻がラインナップに入ることが多く、ありがたいかぎりです。ここ数年では第39回(勝浦市)第40回(成田市)第42回(茂原市)で光太郎彫刻が出ています。

今回は、「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎円熟期の逸品の一つです。ただし、鋳造は新しいもののようですが。
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光太郎と交流の深かった詩人・真壁仁の回想から。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。この彫刻は七つほどブロンズにしたということだから方々にのこっっている筈である。(昭和27年『高村光太郎選集』月報4 中央公論社)

「七つほどブロンズにした」ということから、光太郎自身、お気に入りの彫刻だったのではないかと思われます。それを裏付けるように、大正9年(1920)に刊行された『明星』歌人の渡辺湖畔の歌集『若き日の祈祷』に、口絵として、この像の素描を寄せています。
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妙な言い方になりますが、裸婦でありながらまったく嫌らしさを感じない、ある意味、仏像のようにも見えます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

嘘をついても、結局わかるし、またひとつ嘘をいうと、次々と嘘が積まれていきます。世の中は嘘によって暗くなり、正直によって明るくなります。

談話筆記「高村光太郎先生説話 十一」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外太田村の山小屋に蟄居中、近くの山口小学校の卒業式・修業式に呼ばれて語った来賓挨拶の一節で、したがって、子供たちに贈った言葉です。

「嘘をついても、結局わかるし、またひとつ嘘をいうと、次々と嘘が積まれていきます。」その通りですね、前○○さん、それから「忖度」まみれの取り巻きの皆さん(笑)。

今日の朝刊に、元歌手の守屋浩さんの訃報が出ていました

守屋浩さん死去 「僕は泣いちっち」

 守屋浩さん(もりや・ひろし、本名邦彦〈くにひこ〉=歌手)19日、前立腺がんで死去、81歳。葬儀は近親者で営んだ。
 59年発売の「僕は泣いちっち」が大ヒットし、60年から4年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。ホリプロ(当時は堀プロダクション)の第1号タレントで、76年に引退した後は、同社(当時はホリプロダクション)の取締役宣伝部長に就いた。2年前に前立腺がんであることがわかり、静岡県伊東市
の施設で療養していた。
朝日新聞 2020/09/24


芸能関係者は一般紙よりスポーツ紙の方が詳しく出ますので、調べてみると
、『日刊スポーツ』さんがかなり詳しく報じていました

ホリプロ第1号タレント守屋浩さんが死去 81歳

017 1959年発売「僕は泣いちっち」などのヒット曲で知られ、歌手として活躍した守屋浩(もりや・ひろし)さんが19日に前立腺がんで亡くなっていたことが23日、分かった。81歳だった。
 守屋さんは57年にウエスタンバンド「スイング・ウエスト」にバンドボーイとして加入。58年に同バンドのリーダーだった堀威夫氏(87)からボーカルに抜てきされた。初ステージで一躍女性ファンの注目を浴びて人気メンバーとなった。
 59年に「泣かないで帰ろう」でソロデビューし、同年「僕は泣いちっち」が大ヒットしたことで、60年に同曲で紅白歌合戦に初出場。そこから4年連続で出場を果たした。映画にも20作以上出演した。
 大手芸能事務所ホリプロの第1号タレントでもあった。60年に堀氏が立ち上げた「堀プロダクション」(現・ホリプロ)に所属。76年に引退後はホリプロ社員に転身し、宣伝部長などを歴任。榊原郁恵(61)深田恭子(37)綾瀬はるか(35)石原さとみ(33)らを発掘した、現在にも続く同社の柱事業「ホリプロタレントスカウトキャラバン」の立ち上げに携わり、第1回実行委員長を務めた。
 ホリプロによると、2年前に前立腺がんが発覚。自宅のある静岡県伊東市内の施設で療養していたが、19日午後6時30分に亡くなったという。22日に近親者のみで家族葬を執り行った。

◆守屋浩(もりや・ひろし)1938年(昭13)9月20日生まれ。1959年「泣かないで帰ろう」でデビュー。ホリプロ第1号タレント。76年に引退し、ホリプロ社員に転身した。

守屋さん、昭和39年(1964)に、クラウンレコードから「磐梯山の智恵子」という曲をリリースなさいました。モチーフは「わたしもうぢき駄目になる」のリフレインが印象的な光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)です。
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B面は苅田千賀子さんという方の「智恵子」。こちらは「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)からのインスパイア。
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作詞は坂口紀さん、作曲は瓜生田和孝さん。ともに当時、東大生だったそうです。残念ながらそれほどヒットしなかったようで、YouTubeなどには見あたりませんでした。

昭和39年(1964)というと、二本松市民のソウルソング、二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲)も同じ年です。たまたま同じような企画がかち合ってしまったらしいのですが、その件について当時の『週刊朝日』が報じています。

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ちなみにこの号、表紙は水泳の故・木原光知子さん。裏表紙はこの年開催の東京オリンピックを見据えてカラーテレビの広告でした。時代を感じますね(笑)。
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それにしても守屋さん、引退後にスカウト系の方に行かれていたというのは存じませんでした。それから、離婚されたということで訃報に記述がありませんが、佐藤春夫作詞による、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を題材にした「湖畔の乙女」を歌われた本間千代子さんは元の奥様だったとのこと。奇縁を感じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢賢治さんはノーベル賞を受けられてもいいほどの人です。日本から文学方面のノーベル賞候補者をあげようという場合、宮沢さんを推薦しようと考えています。
談話筆記「高村光太郎先生説話 十」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

9月21日(月)は、賢治の命日ということで、本来であれば花巻で賢治祭が開催されているはずでしたが、例によってコロナ禍で中止だそうで……。

ノーベル賞、故人には贈られないという規定がありますが、光太郎、それを知らなかったのか、あるいはその規定が出来たのはこの後だったのか、そのあたりは判然としませんが……。

昨日の『沖縄タイムス』さんの記事から

沖縄の実力派アイドルら舞台躍動 魅力オンラインでの生配信、笑顔届ける

 「GFO(GiRLS FES OKiNAWA)」が12日、那覇市のOutput(アウトプット)であった。無観客、オンラインでの生配信ライブで県内女性アイドルグループや歌手、ダンスクルーら4組が画面越しのファンに笑顔とクオリティーの高いパフォーマンスを届けた。(学芸部・西里大輝)
 
 「RYUKYU IDOL」のまいちゆう(26)、こうあ(17)、まり(22)、はるぱん(18)、しゅり(19)の5人はスマイル満開で、オリジナル曲「ミライ」など計9曲を40分間ノンストップで歌い、ステージを躍動。沖縄発アイドルの実力を見せつける。
 続くMATSURI(18)は透明感のある歌声と確かな歌唱力で存在感を示す。詩人・高村光太郎の詩をアレンジしたオリジナル曲「最低にして最高の道」は切ない語り口で心を揺さぶった。
 静かな余韻は、hanaとmionの激しいダンスで一転する。レゲエや洋楽、K・POPの曲を息の合ったキレのある動きでエモーショナルに踊りきり、ライブに熱気をもたらす。
 最後は「Lollipop(ロリポップ)」の比嘉琉那(17)と花城奈央(15)が「Alright」「Let’s」などノリノリのダンスチューンでステージを彩る。笛を吹き、タオルを回してのコール&レスポンス。爽やかさな笑顔でファンの声援に応えた。
 GFOはテレビ番組のディレクターでイベントプロデューサーの金城光生(てるみち)によるプロジェクト。県内で活躍するガールズユニットや女性シンガーらのライブを定期的開催し、魅力を発信してきた。金城プロデューサーは「みんな実力が高く、金の取れるパフォーマンスをしている。そのことを知ってほしい」とし、今後も若いアイドルのステージを提供していきたいと力を込めた。
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017MATSURIさんという方が、光太郎詩「最低にして最高の道」(昭和15年=1940)に曲を付けた歌を歌われたそうです。

この詩、光太郎詩の中ではそれほど有名な作品ではありませんが、クラシック系の歌曲にもなっていたり、朗読CD(小林稔侍さん森田成一さんなど)にも収められたりしています。また、今年はコロナ禍のため中止となりましたが、毎年5月の花巻高村祭でも、花巻高等看護学校の生徒さんが、やはりこの詩に曲を付けた歌を斉唱なさったりもして下さっています。

さて、MATSURIさんの「最低にして最高の道」。動画投稿サイトYouTubeにアップされていました。最初、『沖縄タイムス』さんの記事を読んだ時、サムネイルの画像がグループアイドル系さんが歌って踊って的な(一番上の画像)だったので、「最低にして……」もシャカシャカ系かと思っておりましたが、さにあらず。しっとり系のバラードでした。記事にも「切ない語り口で心を揺さぶった」とありましたね。

動画ありのバージョン。
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動画無しのバージョンもあり、カバー動画を募集しているそうです。



作曲されたKAITOさんという方が歌われているバージョンも。



詩としての「最低にして……」は、挙国一致体制を支持し、聖戦完遂、神国日本に勝利をもたらそう、手を貸してくれと、そういうきな臭い背景のある翼賛詩なのですが、そういう背景を抜きにして読めばそれなりにいい詩です。

逆に言うと、「八紘一宇」だ、「大東亜共栄」だ、「進め一億火の玉だ」といった言葉を使わなくともそういう意図を表してしまえる光太郎の詩才に舌を巻かされますが……。

残念ながらCDにはなっていないようで、CD化を希望します。

【折々のことば・光太郎】

木彫のものはオノでわって、ストーブにくべてしまいました。石膏などであったら、一撃を加えて跡形もなくなってしまいます。そんなものでしたから、いまに残っている作品は少ないのです。これは僕のひとつの病気とでもいうものだったんでしょう。
談話筆記「高村光太郎先生説話 九」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

気に入らない制作はどんどん壊す。芸術家あるある、ですね(笑)。クオリティーを保つためには必要なことなのかも知れません。

さらに言うなら、昭和20年(1945)の空襲で、残っていた作品のほとんども焼けてしまいました。

新刊情報です

散策&観賞 岩手(南部地域)編 ~修学旅行に行く前に読む本~

2020年10月1日 ユニプラン編集部編 株式会社ユニプラン 定価510円+税

歴史と雄大な自然に包まれた岩手県から、花巻・遠野・奥州・平泉といった南部地域にある約20件の観光・学習施設を掲載。

中尊寺をはじめとした魅力的な定番スポットを豊富な写真ともに紹介しています。
さらに、岩手県にまつわるコラムも充実。
歴史や文化(平泉文化/遠野物語など)、ゆかりの人物たち(宮沢賢治/高村光太郎/石川啄木)のコラム8件を掲載しており、地域への理解を深めて頂こうとしています。
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目次
 序
 岩手県の風土 岩手県全図 中尊寺境内図 平泉・奥州詳細図
 一関・平泉
  厳美渓  猊鼻渓  達谷窟毘沙門堂  平泉文化史館  中尊寺
  毛越寺  高館義経堂  平泉文化センター  岩手サファリパーク
  平泉文化(奥州藤原氏のおこり/平泉文化の特徴/藤原三代の文化遺産)
 奥州
  高野長英記念館  奥州市伝統産業会館  後藤心平記念館
 花巻
  宮沢賢治記念館  高村光太郎記念館・高村山荘
  宮沢賢治(宮沢賢治のプロフィール/賢治の作品)  光太郎の軌跡
 遠野
  遠野市立博物館  とおの物語の館  伝承園
  遠野物語  東北の民間信仰  石川啄木
 陸中海岸南部
  碁石海岸  東日本大震災津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」
  リアス海岸の形成  プレートテクトニクス
 問合わせ先


ユニプランさんというのは、修学旅行の班別自主研修教材・地図・しおり等を多く手がけていらっしゃる京都の出版社です。

コロナ禍の影響で、じわりと東北、特に岩手への修学旅行が増えているそうで、県内の学校さんで花巻温泉さんを拠点にするところが増えているという報道がありましたが、県外からもあるそうです。先日、花巻高村光太郎記念館さんで伺ったところ、山形の中学校さんが100名ほどでいらしたそうで。

そういう流れを受けての岩手県南部ガイドです。同社刊行の東北編としての栄えある第1弾のようです。

花巻高村光太郎記念館さん、隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)も取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。上記表紙にも写真が載っています。
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さらに花巻と光太郎との関わりについても書いて下さっていて、理解が深められるようになっています。戦時の翼賛活動を恥じての蟄居、という記述がないのが残念ですが。
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岩手県、さすがにコロナ感染ゼロはとぎれましたが、それでも感染リスクの少ない地域であることは変わりなく、さらに感染ゼロがとぎれたために、かえって神経質にならなくとも、というところでしょうか。

それから、上記目次を見ると、この地域、あらためてこんなにも見どころが多いかという感じもしました。といっても、やはりクラスターが起こらないようにしていただきたいものですし、むずかしいところですね。


【折々のことば・光太郎】

ほんとうだと思っていても、それが間違いのときは、すぐに改めればいいのです。嘘が得だとか、ほんとうのことが得だとか、ということなしに従うのがいいのです。
談話筆記「高村光太郎先生説話 八」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

修学旅行ではありませんが、光太郎の住む花巻郊外太田村山口地区へ、校外学習的にやってきた新制花巻高等学校(昭和28年に花巻北高・南高に分離)の生徒たちに語った講話の一節です。会場は山小屋近くの山口小学校でした。

戦時中の翼賛活動を念頭に置いての発言でしょう。ある意味「君子は豹変す」を地で行っています。しかし、ただ単に間違いは改めるべき、だけでなく、「ほんとうのことが得」、つまり「改めた方が得」、という考えではなしに、と付け足しているところがすごいと思います。当時の高校生たち、何を感じ取ったでしょうか。

修学旅行なり、校外学習なり、校内にいてはわからないさまざまな見聞を広めるいい機会です。花巻では、生前の光太郎をご存じの方々もまだご存命。そこで、「光太郎はこんな人だった」というお話を、修学旅行なりで若い世代に伝えるような取り組みがあってもいいのかな、という気がします。

「事件」です。

『毎日新聞』さんの大阪版から

御堂筋、花の怪 銅像に謎の「飾り」出現

 大阪市のメインストリート・御堂筋に並ぶブロンズ彫刻群に6月以降、色とりどりの花飾りが付けられている。誰が、何のためにやったのか分からず、管理する大阪市は撤去に乗り出した。飾りはそれぞれデザインが異なり、花が枯れると交換されるなど手が込んでおり、地元ではその遊び心を歓迎する声も。2011年には、彫刻群が突然、何者かによって赤い服を着せられた「事件」もあり、9年ぶりのミステリーに関係者は首をひねっている。

 「御堂筋彫刻ストリート」と呼ばれる南北約2キロのエリアで、御堂筋の両側にある歩道に計29体の人物像が並ぶ。ロダンや高村光太郎など著名作家の作品もあり、地元企業の寄付などで09年までに設置された。

  大阪市都市計画課によると、花飾りは6月上旬、市民からの連絡で初めて確認された。像の破損などはなく、全部で何体に付けられたかは不明という。 毎日新聞の記者が8~9月に確認したところ、大阪メトロ淀屋橋駅から本町駅までの区間にある10 体に付けられていた。一部の飾りは花が古くなると、数日後に新しい花に替えられていた。

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記事にあるとおり、大阪のメインストリート・御堂筋には「御堂筋彫刻ストリート」ということで、内外の彫刻作品が多数設置されています。「市民や国内外からの来訪者に親しまれるアメニティ豊かな芸術・文化軸として整備していくため、沿道企業等からの寄付により、世界的にも一級品である彫刻を設置」というコンセプトだそうです。

大阪名所の一つで、これまでもたびたび新聞等で取り上げられ、このブログでご紹介しています。
まちあるき「御堂筋は名彫刻の宝庫だ(東側コース)~グレコも高村光太郎も~」。
「(勝手に関西遺産)ほんまもん 29体どうぞぅ」。
光太郎智恵子関連新聞記事等。
乙女の像。
「御堂筋の彫刻の奥ゆかしさ」。
新聞各紙から。
新聞各紙から。

光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像の為の中型試作」も「みちのく」というタイトルで設置されています。その名の通り、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の約2分の1スケールの試作です。試作ですが、十和田湖に設置された完成作、これより小さい小型試作を含めた3種類のうち、最も智恵子の顔に近いと言われています。当方、2度、拝見してきました

その「みちのく」も「被害」に。
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しかしこれらの花輪、実に手が込んでいますね(笑)。像の黒とリンドウの紫の対比が実に美しい(笑)。

これも記事にありますが、平成23年(2011)にも、これらの像に赤い服が着せられるという「事件」が起き、やはり「みちのく」もやられました。
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この時は、地元の皆さん、現代アートのインスタレーション的なイベントの一環かと思ったとのことでした。

ちなみに本家十和田湖の「乙女の像」は、掲げた左手に、智恵子が愛したレモンが持たされたということがあったそうです。

これらを「作者に対する冒涜」ととらえるか、「オマージュ」や「リスペクト」の表出と解釈するか、あるいは「おもろいからええんちゃう?」と見るか、皆さんはいかがでしょうか?


【折々のことば・光太郎】

十月になると、もう涼しくなりますし、空もよくなりますね。いまは日中、まだ暑いですからね。
談話筆記「高村光太郎先生説話 七」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋近くの山口小学校の職員室で、9月末に語った雑談の一節です。

夏の暑さにことのほか弱かった光太郎、秋の到来を待ちわびていたようです。

新聞記事等2件ご紹介します。

まず『岩手日報』さん。昨日掲載分で、花巻高村光太郎記念館さんでの光雲作「鈿女命」像展示について

高村親子の作品花巻に 光雲の木彫像を展示 孫が寄贈、特徴色濃く 光太郎記念館

009 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は23日まで、彫刻家で詩人の光太郎の父で、日本近代彫刻界の礎を築いた光雲(1852~1934年)の木彫像「鈿女命(うずめのみこと)」を展示している。1月に光雲の孫で一橋大名誉教授の藤岡貞彦さん(85)=横浜市=が寄贈。光太郎が疎開した地に、日本を代表する彫刻家親子の作品が初めてそろった。
 題材は日本神話の天鈿女命。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸にこもり世界が暗闇になったが、天鈿女命が踊りを披露して天照大神が岩戸の隙間から顔をのぞかせた逸話がモチーフとなっている。
 木彫像は桜材の一木造りで高さ33㌢。作品には光雲の銘がなく、緻密な仕上げも施されていないことから、習作や制作途中だった可能性が高い。しかし、躍動感のある身のこなしや着物の細やかな意匠など光雲の木彫像の特徴が色濃く表れている。
 木彫像を入れる箱には光太郎の自筆で「男 光太郎 識」と書かれており、間違いなく光雲の作品であることが示されている。1935(昭和10)年前後に光太郎が使っていた「光」の文字が彫られたはんこも押されている。
 藤岡さんは、光太郎の弟に当たる父から遺産として木彫像を相続。「記念館は光太郎さんが移り住んでいた場所にあり、作品を譲るのに最もふさわしい」と寄贈を決めた。
 同館は午前8時半~午後4時半で、会期中は無休。入場料は一般350円、高校・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。


他紙等で既報の記事は以下の通り。『朝日新聞』さん『岩手日日さん』と『河北新報』さんIBC岩手放送さんNHKさん

展示は23日(水)までです。


まったく別件ですが、『読売新聞』さんの夕刊1面コラムに光太郎の名が。9月16日(水)掲載分です

よみうり寸評

「牛」という詩の冒頭で高村光太郎はその特徴を挙げた。〈のろのろと歩く〉と。だが意志は強い。〈牛は後(あと)へはかへらない/足が地面へめり込んでもかへらない〉◆政界でまず連想されるのは鈍牛と呼ばれた大平正芳元首相だが、この人の経歴も牛の歩みに重なろう。午後の国会で首相に指名される運びの菅義偉氏である。47歳で国政に進出するまでの半生はすっかり知れ渡った◆牛は力も強い。詩人はいう〈弾機(ばね)ではない/ねぢだ/坂に車を引き上げるねぢの力だ〉。バネが跳ね上げるようだった前政権の手並みを思う。アベノミクスで景気を一気に回復軌道に乗せたが、近頃はバネの伸びも案じられた◆先の連想から菅氏の身上はネジの力にあるとも考えられよう。地方創生、財政再建等々、粘り強さを生かすにはあつらえ向きの中長期的課題が待ち受ける。ただしコロナ禍という眼前の関門を越すにはバネの力が欠かせない◆新政権の本領はネジかバネか。その船出にあたり、両方の力を併せ持つに違いないと願望を記す。

さすがに前政権のおぼえめでたかった同紙だけある論調ですね。

引用されている詩「牛」全文はこちら


【折々のことば・光太郎】

新しい時代感覚を持たなければ、世の中の指導者になる資格がありません。時代という流れは大きな力を持っています。

談話筆記「高村光太郎先生説話 六」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳
だ、そうです、新総理。

昨日まで3日間、岩手花巻レポートを書きましたが、新着情報紹介に戻ります。のんきにレポートを書いている間に、いろいろと溜まっています(笑)。

今日はテレビ放映情報を。

まずは光太郎

にほんごであそぼ「過ちて…」

NHK Eテレ 2020年9月23日(水) 6時35分~6時45分/17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今日は…野村萬斎/過ちて改めざる これを過ちという「論語」、名台詞かるた・ひつじのメェ~台詞/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、あいだのじいさん「車のサイドミラーのあいだ」、うた「たのしやかぶき~夏祭~」

出演
美輪明宏 野村萬斎 中村勘九郎 中村勘太郎 中村いてう 中村仲助 池田鉄洋 万作の会
中尾隆聖 ほか

「道程」はこの番組で、これまでにも何パターンかで取り上げて下さいましたが、また新たなバージョンなのでしょうか。

ところで、昨日の放映も「道程」でした。ところが光太郎の名が番組説明欄に無かったので、検索に引っかかりませんで、見逃しました(涙)。


続いて再放送ですが、ロダン系

プレミアムシアター マシュー・ボーンの「白鳥の湖」&・バレエ「ロダン」ほか

NHKBSプレミアム 2020年9月20日(日)  23時20分~27時42分

マシュー・ボーンの「白鳥の湖」▽白鳥を男性が演じ斬新な解釈で世界に衝撃を与えた初演から今年で25年。今回は2018年改訂版を。王子を魅了する白鳥と謎の男を演じるのはウィル・ボジアー▽1:35~エイフマン・バレエ「ロダン」▽彫刻家ロダンの生涯を描いた話題作。数々の彫刻を再現する肉体美は必見▽3:08~「Closed」▽トルルス・モルクが弾くコダーイのチェロ・ソナタにのせて描かれる男女の人間関係の機微

出演
ウィル・ボジアー リアム・ムアー ニコル・カベラ カトリーナ・リンドン グレン・グラハム ニュー・アドベンチャーズ ニュー・アドベンチャーズ管弦楽団 ブレット・モリス
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「ロダン」は、昨年7月、東京文化会館さんで上演された、ロシアのバレエ団、エイフマン・バレエの公演(振付・演出はボリス・ヤコヴレヴィチ・エイフマン)の録画です。テレビ放映は昨年9月に為されました。

主要登場人物は3人。
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その他大勢がロダンやカミーユの彫刻作品を演じたり、主要人物の内面を表したりします。
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初回放映、ロダンを終生敬愛し続けた光太郎にぜひ見せたかったと思いながら拝見しました。

音楽はロダンとほぼほぼ同時代のフランス音楽。ラヴェルやらドビュッシーやらサティやら。当方、そのあたりも大好きですので嬉しく存じました。
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ロダン系再放送、もう1件

びじゅチューン!「ランチは地獄の門の奥に」

NHK Eテレ 2020年9月23日(水)19時50分~19時55分 

世界の有名な美術作品をユニークに解釈、うたとアニメーション(by井上涼)で贈る「びじゅチューン!」。今回はロダンの彫刻『地獄の門』が発想の源。門に群がる人々は、悲しそうだったり苦しそうだったり…何があったのかな?…お昼ごはんが買えなかったのかな?…と想像をふくらませた井上。『地獄の門』の扉の向こうにあるスーパーに群がる群像劇を、作品のテーマになったダンテの言葉もおりこみながら曲にした。

出演 井上涼  声 ジョリー・ラジャーズ

平成27年(2015)に初回放映。何度か再放送されています。
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こちらは、ロダンを終生敬愛し続けた光太郎には見せたくない系ですが(笑)。

周辺人物ということで、もう一件。こちらは新作です。

先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」

NHK Eテレ 2020年9月22日(火)  22時00分~22時45分

明治・大正・昭和の日本で、先駆的な活躍をした女性を2週にわたって紹介。今回は平塚らいてう。男に支配されない、新しい女の生き方を世に問い、闘い続けた知恵と勇気とは。

「元始、女性は太陽であった」と宣言した女性解放運動の先駆者、平塚らいてう。自由な恋愛、結婚、男に支配されない“新しい女”の生き方を世に問い、「国家は母親を保護しその生活を保障すべき」と訴えた。これに与謝野晶子が「経済的に自立していない女は子どもを産むな」と反論。現代にも通じる「母性保護論争」を繰り広げ、性差を考える大きなきっかけとなった。挫折を乗り越え、闘い続けた平塚らいてうの知恵と勇気に学ぶ。


出演 働き方改革コンサルティング企業代表・小室淑恵
   熊谷真実
   日本女子大学非常勤講師・差波亜紀子
司会 新井秀和
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日本女子大学校での智恵子の1年先輩で、智恵子に『青鞜』創刊号表紙絵を依頼した平塚らいてう。光太郎の文学活動の本格的な出発点となった『明星』の与謝野晶子。こちらも面白そうです。

それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人がどんなふうに生きるのが一番いいのか、一概に正否を判断できないものです。
談話筆記「高村光太郎先生説話 五」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

「人はこんなふうに生きるのが一番いいんだ」と、したり顔に若い人に説教をかます「老害」垂れ流し人間のいかに多いことか……。

花巻レポートの最終回です。

9月14日(月)から1泊させていただいた花巻南温泉峡の大沢温泉さん。かつて光太郎もたびたび宿泊した温泉地です。
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こちらはゴージャスめの温泉旅館「山水閣」、南部藩のお殿様も泊まった(光太郎もですが)築170年近い萱葺きの別館「菊水館」、そして湯治客用の「自炊部(湯治屋)」の三棟に分かれています。経営はグループで同一です。

当方、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、一昨年の台風により、そちらに通じる道が被災したため宿泊棟としては休業中です。

そこで、このところ自炊部さんにお世話になることがほとんどとなっています。
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窓を開けると豊沢川の清流、その対岸に菊水館。
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菊水館の建物は無事でしたし、自炊部からは曲がり橋という橋で歩いていけますので、昨年からは「昔ギャラリー茅(ちがや)」として活用されています。やはり人が出入りしないと建物は死んでしまいますから、いい取り組みだと思います。当方、昨秋以来2度目の訪問となりました。
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まず目にとまったのは、昨秋は無かったと記憶していますが、元のロビーだったところに、大型テレビを縦に置いた液晶ディスプレイ。東北新幹線の新花巻駅待合室にも同じような機器がセットされていましたが、当節、流行なのでしょうか。
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現在の展示内容についての動画などが流れ、さらに「古き良き花巻 昭和35年観光映像」ということで、昭和35年(1960)撮影の映像も。
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ディスプレイ下部は固定で「馬面電車」といわれた花巻電鉄。2系統あったうちの一つが、かつて花巻中心街から南温泉峡の鉛温泉まで通じていて、大沢温泉さんにも駅があり、その画像です。

さて、動画部分。当時としては画期的だったと思われるカラー映像です。
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タイトルの後は東北本線花巻駅ですね。
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ナレーションは花巻ご出身の故・高橋圭三さん。
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こちらでも花巻電鉄。

花巻といえば宮沢賢治。そういえば高橋圭三さん、賢治とは遠縁だそうです。
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市街桜町の賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫しました。
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当時は普通に見られたイギリス海岸(現在は水面が上がり、通常は水底です)。

そして、光太郎。
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まだ記念館は建てられていませんでしたが、光太郎の暮らした山小屋には套屋がかぶせられ、高村山荘として整備されていました。
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「雪白く積めり」詩碑も既に建っていました。

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山荘裏手の高台には智恵子展望台。ここで夜な夜な光太郎が「チエコーッ」と叫んでいたという証言から名付けられました。
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現在はウッドデッキが整備され、きれいになっています。

その他、市内各所の見どころや、年中行事など。なかなか見応えのあるものでした。

その他の展示。昨秋と同じだったところもあれば、変わっていたスペースもありました。
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こんなコーナーも。
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先ほどの映像のナレーター、花巻ご出身の故・高橋圭三さん。
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作家の夢枕獏さん。
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故・西城秀樹さん、そして渡辺えりさん。
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渡辺さんのものは、平成25年(2013)5月、高村祭などでご講演いただいた際のものです。その時は渡辺さんは山水閣さんの牡丹の間、当方は菊水館に泊まりました。一緒ではありませんでしたので、念のため(笑)。

さて、菊水館。こうした利用方法も一つの手ではありますが、やはりまた宿泊棟として復活して欲しいものです。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

古老の天気に関する考えを記録に取ることもあります。これは科学的な予報ではないのですが、長い間の体験から生まれでる感じによって、当たることがあります。人よりも動物のほうが天候や天気に対する感覚が強いと考えられるくらいですから、あながち、でたらめなことでもないと思います。

談話筆記「高村光太郎先生説話 四」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。自然と一体化して暮らすという、光太郎にとっては若い頃からの理想の実現という意味もありました。

花巻レポートの2回目です。

9月14日(月)、「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」さんをあとに、レンタカーを花巻高村光太郎記念館さんに向けました。ものの10分ほどで到着(これから彼の地を訪れる皆さん、ぜひセットでお立ち寄り下さい)。
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翌日行われる市民講座「光太郎の父 高村光雲の彫刻に触れる」で講師を仰せつかっており、市の担当者の方との打ち合わせです。

と、その前に展示を拝見。何度もご紹介していますが、光太郎の父・高村光雲作の木彫「鈿女命」が、光雲四男の故・藤岡孟彦氏子息の貞彦氏から寄贈され、展示されています。

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像高33㌢、小さなものではありませんが、さりとて大きい、というわけでもありません。
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寄贈というお話があって、昨年の12月に横浜の藤岡氏のお宅に参上し、拝見して以来でした。

衣の襞や帯の緒、髪の生え際などの処理の仕方が、他の光雲彫刻とよく似た特徴を表しています。しかし、細かな仕上げが為されて居らず、やはり習作か制作途中かという感じです(銘も入っていませんし、台座は荒彫りのただの円盤です)。

今回、像の向かって左から見て、さらにその感が強くなりました。言い方が悪いかも知れませんが、ある意味、逃げています。問題は像の右手。

010光雲作の天鈿女命像は他に類例が確認できていませんが、光雲の残した下絵帖の中にはその姿が描かれています。その下絵と実際の像を見比べると、決定的な違いがあります。

下絵は左手を掲げ、像は逆に右手、という違いもあるのですが、そこは問題ではなく、掲げた方の手がどうなっているか、です。

下絵では掲げた手が体から離れています。で、この通りに彫るとなると、手に持った細い榊の枝を360度全方向から彫らねばなりません。これはきつい作業です。ちょっとでも力加減を誤れば、ポキッといってしまいます。ところが、光雲の技倆をもってすれば、やってやれないことではありません。実際、観音像などで、手に持った細かな持物(じもつ)を体から離し、360度全方向から彫った作は実在します。

しかし、体にくっつけてしまった方が断然楽ですね。見えている面だけ彫ればいいし、ポキッと行ってしまう危険性も格段に低くなります。

で、今回の像は下絵と異なり、榊が頭にくっついています。さらには下絵では両手に榊の枝を持っていますが、像は右手だけ。左手は手ぶらです。そこで、「逃げている」と言えるわけです。

そうは言っても、全体的にはなまなかの者には不可能な精緻な彫りが施されていることは間違いありませんが。

そう考えると「習作」というより、弟子達に示した「お手本」なのかもしれません。技倆がそれほどでもない弟子でも作れるように、あえて難易度を下げているのかも、というわけです。おそらくそうした目的で作られたであろう木彫も現存しています。

ただし、当方、彫刻は専門ではありませんので、専門家の(特に実技家の)方のご意見を伺いたいものです。

さて、展示ですが、像以外に光太郎の署名による箱書きが為された箱、さらに当方がお貸しした光雲作の木彫の写真(光雲令孫の故・髙村規氏撮影)も並んでいます。
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本来なら、こういった彫刻の実物をお借りして展示できればなお良いのでしょうが……。写真のキャプション、さらに展示の説明パネルは当方が執筆させていただきました。
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展示を拝見後、市の担当の方と打ち合わせ、さらにプロジェクタでパワーポイントのスライドショーを試写したりもしました。

それも無事終わり、隣接する高村山荘へ。光太郎が戦後の七年間、蟄居生活を送った山小屋です。
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二重の套屋(とうおく)の中に、ボロボロの山小屋。もう何十回目かの訪問ですが、何十度来ても、そのたび胸に迫るものがあります。

この日はこれで撤収し、宿泊先の大沢温泉さんへ。大沢温泉さん編は明日のこのブログでレポートします。

翌日、8時半過ぎに再び記念館さんへ。会場設営後、10時から講座でした。講座の会場は第一展示室。光太郎のブロンズ彫刻がずらっと並んでいるスペースです。
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お聴き下さったのは20名ほど。浅沼隆さんはじめ、生前の光太郎をご存じの地元の方々や、以前の講座にもご参加下さった皆さんもいらっしゃり、心強い限りでした。

内容的には光雲の人となり、彫刻の代表作などの紹介、さらに同じ彫刻の道に進んだ光太郎との比較、光雲の弟子達などについてお話しさせていただきました。特に光太郎との比較の部分では、漠然とは分かっていたつもりでしたが、改めて発表用にいろいろ考えてみると、今まで見えなかった部分も見え、自分でも勉強になりました。こういう場合の通例ですが。

11月に都内で高村光太郎研究会が予定されており、そちらで発表をすることになりまして、ある意味手抜きですが、今回の講座の内容を元に発表しようと考えております(スライドショーやレジュメがほぼほぼそのまま使えますし(笑))。そこで、発表内容の詳細はそちらが終わりましたらまたこのブログにて記述いたします。

スライドショーを使ってのお話終了後、ギャラリートーク的に、実際に「鈿女命」を見ながら解説。
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その後、NHKさんのインタビュー。翌朝のローカルニュースで、講座の件ではなく展示の方が取り上げられました 

高村光太郎の父 光雲の木彫

戦中から戦後にかけて7年間を花巻で過ごした、詩人で彫刻家の高村光太郎の父で、明治を代表する彫刻家の高村光雲が制作したとされる木彫が花巻市に寄贈され、初めて展示されています。
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花巻市の高村光太郎記念館で展示されているのは光太郎の父、高村光雲が制作したとされる木彫「鈿女命像」です。光雲の孫が花巻市に寄贈し、初めて公開されました。木彫はサクラの木を一木造りしたもので、日本の神話に出てくる「天鈿女命」をモチーフにしたものです。高さは30センチあまりで、「天鈿女命」が「天岩戸」に隠れた天照大御神を誘い出すため、踊りを披露している様子が表現されています。
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72歳の女性は「静かなようで躍動感があり、力を感じます」と話していました。
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高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表は、「光雲は近代を代表する彫刻家で、長男の光太郎が目指した方向性との違いを明らかにしていくうえで価値の高い作品である」と話していました。
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この木彫は今月23日まで高村光太郎記念館で展示されています。
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というわけで、展示は来週23日(水)まで。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

子供は伸び伸び育てるのがいいのです。無理に型に押しこめては縮んでしまうでしょう。
談話筆記「高村光太郎先生説話 三」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

山小屋近くの山口小学校の職員室で教員相手に語った雑談の一部です。浅沼校長(上記浅沼隆さんのお父様)、こんな雑談も筆録していました。

結局、父の跡継ぎ、二代目光雲となることを拒否し、家督相続も放棄した光太郎。そしてそれを許した光雲は、「無理に型に押しこめ」ず、「縮んでしまう」ことを避けたという意味で、本当に素晴らしい父だったと思います。

一昨日・昨日と1泊2日で、市民講座講師のため岩手花巻に行っておりました。3回にわけてレポート致します。

花巻到着後、まず向かったのは、先月オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。
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あいにくの雨模様でした。

さらに平日の日中でしたが、そこそこお客さんが入っており、胸をなで下ろしました。オープン早々閑古鳥が鳴いていては先行きが心配ですし。

向かって左が産直コーナー的な物産館「すぎの樹」さん。
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地元の農産物、お弁当、加工食品などが並んでいます。

壁には花巻郊外旧太田村時代の光太郎を描いた絵。ここにこういう絵があったことに気がつきませんで、後で花巻高村光太郎記念館さんの方に、「こういう絵があったでしょう」と言われ、「?」。そこでスマホの画像を見てみると、ちゃんと写っていました(笑)。拡大すると……。
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愛称が「賢治と光太郎の郷」ということで、賢治グッズ/光太郎グッズのコーナーも。
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こちらのオープンに合わせて開発された新商品「智恵子のレモンキャンディー」、当方が訪れる頃には売り切れ必至だろうと、今月初めに送って下さったのですが、まだ残っていました。
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当方大好物のリンゴも売られていまして、買わないという選択肢はありませんでした(笑)。購入したのは小さめの品種でしたが4つで230円と激安。少し前には当方地元・千葉のスーパーで1個200円くらいでしたので、嬉しい価格でした。
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産直コーナーの隣は焼き肉レストラン「味楽苑」さん。この日は既に新幹線車内で昼食(駅弁)を済ませていたのでパスしましたが、いずれこちらで食べさせていただこうと思いました。

さらにその奥がコミュニティスペース的になっており、テーブルと椅子。
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壁面には賢治と光太郎に関する説明パネル。地元の方のご執筆ですが、こちらにも原稿が回ってきまして、校閲、加筆させていただきました。
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空いている壁面もありますし、まだまだ工夫の余地はありそうです。市内の賢治/光太郎マップとか、それぞれのスポットの紹介とか。さらに映像機器等を置く構想もあるやに聞いています。

建物の外には海鮮系の移動販売車。
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草花のコーナーも。リンドウが綺麗でした。いかにも、秋。
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全体としては、まだオープンしたばかりなので、まだまだこれからどう発展していくか、という感じですね(同じ敷地内にコンビニも建設中でした)。

今後はここを拠点にいろいろな活動等が展開していくことを望みます。当方地元の道の駅では、地元ラジオ局とのタイアップでコンサートが開かれたり(かつては「翼の折れたエンジェル」の中村あゆみさんなどもいらっしゃいまして拝聴しました)、日曜日、今回の花巻行きのための手土産を買いに行ったら、フリーマーケットが行われていたりしました(いずれ出店しようかな、などとも思いました(笑))。地元の皆さんで、どんどん良いアイディアを出して行っていただきたく存じます。

みなさまもぜひ花巻にお越しの際はお立ち寄りを。


【折々のことば・光太郎】

子供は先生のいうことはよくききます。しかし、親子で教えることはできません。教えるというのではなくて空気です。耳や目からでなくて、いつとはなしに体で覚えます。いつのまにか染みこみます。染みこんだものはなかなか取れません。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた山小屋近くにあった山口小学校の保護者懇談会での発言です。

明日、レポートいたしますが、市民講座で光雲・光太郎親子の彫刻の系譜的なお話しをさせていただきました。それぞれに傑出した彫刻家であった二人、しかし目指す方向性は異なり、いろいろな問題を孕んでいるのだな、と、改めて感じました。

昨日から岩手花巻に来ております。
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先月オープンした「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」を訪れ、さらに花巻高村光太郎記念館さんに。
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開催中の企画展示「光太郎の父高村光雲の鈿女命」を拝見。今日はそちらの関連行事の市民講座で講師を務めます。
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宿泊は大沢温泉♨さん。

詳細は帰ったらレポートいたします。

コロナ禍ということで、アートの世界にもリモートやらテレやらの流れが取り入れられています。

そんな中、東京都としての、「アートにエールを!東京プロジェクト」という芸術文化活動支援事業が展開されています。「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に伴い、活動を自粛せざるを得ないプロのアーティストやスタッフ等が制作した作品をWeb上に掲載・発信する機会を設けることにより、アーティスト等の活動を支援するとともに、在宅でも都民が芸術文化に触れられる機会を提供するものです。」だそうで。
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Web上に掲載・発信を希望する人は、専用サイトから登録を行い、動画等を投稿、何でもかんでもアップされるわけではなく、審査に通れば配信されるというシステムのようです。「個人型」と「ステージ型」があり、「個人型」は自主制作した動画を応募、出演料が支払われるそうです。「ステージ型」は劇場・ホール等を利用した無観客や入場制限のある公演等の制作及び配信の支援だとのこと。

で、「個人型」の方で、光太郎のエッセイ「人の首」(昭和2年=1927)からインスパイアされた作品が配信されています

Rising Tiptoe出演者有志 人の首

今作は高村光太郎のエッセイ「人の首」を題材としています。
「見る」をテーマに、現代の社会情勢を風刺した新しい作品として仕上げました。
コロナ禍にありこれまで以上に人を「見る」ようになった私たちも実は常に人から「見られ」続けているという不条理作品となっています。
通常は舞台での会話劇として上演しますが、今回は客席にてそれぞれがソーシャルディスタンスを守りながら現代社会を反映した作品に挑戦します。

Rising Tiptoe出演者有志
 出演 : おおばゆか 岡庭菜穂 小田切沙織 中島多朗
 撮影・舞台監督 : 服部寛隆
【協力】脚本提供 : 宇吹萌(Rising Tiptoe)



出演されている方のブログがこちら

光太郎の「人の首」は青空文庫さんで読めます。傑出した彫刻家としての見方というのはこういうものなのか、と感心させられる文章です。

このブログでは、基本、個人の方がご自分のサイトに上げたり、動画投稿サイトなどにアップしたりした動画等はご紹介しませんが、今後、こうしたリモート○○、テレ××の世界、一つのジャンルとして定着して行くのかも知れませんね。

余談ですが、今日から1泊2日で岩手花巻に行って参ります。花巻高村光太郎記念館さんで4日から開催されている展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」の関連行事としての市民講座で、講師を務めて参ります。今年度に入って、コロナ禍のためこの手の仕事は軒並み中止や延期で、実に久しぶりです。

【折々のことば・光太郎】

人は満ちたりたと思ったときには進歩がありません。環境のよいところでは、なかなか進歩しません。むしろ少々困るときや恵まれないときに勤勉になるし、そこからよい考えもよい方法も工夫されていきます。環境の悪いところにいながら、たゆまず努めて、よいものを作りだしていく。そこに大きな力が生まれます。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一」より
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995)からの転載です。故・浅沼氏は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口分教場が小学校に昇格した際、校長として赴任してきました。当時同校の児童だった子息の隆氏は今も光太郎の語り部としてご活躍されています。

浅沼校長は折に触れ、光太郎の語った言葉を筆録し、長短併せてその数30数編に及びます。「一」は山口小学校のPTA結成会での光太郎のスピーチ的なもの。

何だか今のコロナ禍を予言しているようにも読めますが、戦時中の耐乏生活、戦後の太田村の山小屋での厳しい生活を念頭に置いての発言でしょう。

智恵子の故郷・福島は二本松がらみです。

まず、彼の地で智恵子顕彰に取り組んでいらっしゃる智恵子の里レモン会さんから会報が届きました。
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表紙の集合写真を含め、昨年10月の智恵子を偲ぶ第25回レモン忌のレポートが中心です。

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今年はコロナ禍のため中止だそうで、実に残念です。4月の連翹忌の集いも中止にいたしまして、その頃はレモン忌では皆さんに会えるだろう、と思っていたのですが……。

来年以降に期待します!

ついでといっては何ですが、地方紙『福島民友』さんの記事をご紹介します。光太郎智恵子には直接関わりませんけれど

魅力的オリジナル商品 道の駅安達「智恵子の里」・二階堂貴子さん

004【二本松】特産物や名所など訪問先の魅力と出合える道の駅。その中で上下線ともに施設があるのは珍しい。上り線に紙すきが体験できる和紙伝承館、下り線に広い芝生広場などがあり、それぞれ異なる楽しみ方もできる。

 「行きたいと思う魅力にしたい」。オリジナル商品の開発に取り組み、年に5、6品を送り出す。

 今月には2商品を発売した。その一つが「野菜チップス」。7種の野菜を素揚げし、純米大吟醸の酒かすで作った「酒塩」で味を調えた。売れ行きは好調。「人に贈りたいと思ってもらえるよう味にこだわる。ぜひ食べてみて」。

 市内には安達とふくしま東和、さくらの郷と道の駅が三つある。これらを巡るスタンプラリーも開催中。「施設ごとに地域の特色があり、その魅力を確かめてほしい」とアピールした。

8月30日(日)の掲載でした。智恵子生家/智恵子記念館にほど近い道の駅安達「智恵子の里」の近況ですね。先月のこのブログでご紹介した「コロナに負けず! 地域元気回復! 豪華景品が当たる!にほんまつグルッと一周スタンプラリー」の件にも触れられています。


さらについでといっては何ですが、もう1件、その前日のやはり同紙から

伝統の「上川崎和紙」で自分の卒業証書 安達中3年生が紙すき

003 安達中3年生は26日、二本松市・道の駅安達「智恵子の里」内の市和紙伝承館で、千年以上の歴史を持つ地元の工芸品「上川崎和紙」で卒業証書を作る手すき体験に取り組んだ。

 同校は地元の伝統技術に親しむことを目的に毎年、3年生が自分の卒業証書を制作する。本年度は109人で、このうち3年2組の27人は、市和紙伝承館の地域おこし協力隊の菅野公幸さんの指導で、紙すきに挑戦。

 砕いたコウゾが入れられた水槽ですき桁を揺すり和紙をすいた。紙に厚みを出すため生徒たちは紙を3度すいて1枚の卒業証書の紙に仕上げた。

 上川崎地区から通う生徒(14)は「一生の思い出になる卒業証書なので緊張して最初は失敗したけど、最後は上手にできた」と笑顔を見せた。その上で「多くの人に紙すきを体験し、上川崎和紙を知ってほしい」とアピールした。

上川崎和紙を使っての卒業証書づくり、地域の伝統工芸の伝承にもつながるわけで、いい取り組みですね。

11月には彼の地で市民講座の講師を仰せつかっており、久しぶりに行って来る予定です。今後、新たにパンデミック的な事態にならぬことを心から祈念いたしております。


【折々のことば・光太郎】

世界はうつくし   短句揮毫 昭和22年(1947) 光太郎65歳

005埼玉県東松山市の教育長を務められていた故・田口弘氏旧蔵(現在は同市に寄贈)の色紙から。

昭和22年8月23日、花巻郊外旧太田村の山小屋で揮毫されたもの。田口氏はこれに先立つ同19年(1944)、南方への出征に際して駒込のアトリエを訪問、同じ句と「うつくしきもの満つ」の揮毫を貰い、さらに 日章旗へ署名をしてもらったそうです。しかし、南方戦線で氏の乗った輸送船が撃沈され、三点の書は海の藻屑となってしまいました。戦後、無事復員された氏が太田村の山小屋を訪ね、再度揮毫をして貰ったうちの一点です。
 詩の題名としては「美」を漢字で書いた「世界は美し」という詩(昭和16年=1941)があるのですが、ひらがなで「うつくし」と書いたものは他に類例を確認できていませんので、短句として登録しました。
 戦時中と、戦後になってから、それぞれの時点で光太郎がどういう思いで「世界はうつくし」と書いたのか、実に興味深いところです。

たまたまネットで検索中に見つけた情報です 

大正から昭和を生きた画家・高村智恵子と、夫で彫刻家の高村光太郎を主人公にすえた10分の短編映画の助演を探しております。

監督・脚本はカンヌ短編映画祭・ベネチア映画祭・ロシアのアムール秋映画祭・武蔵野市後援映画・埼玉県主催絵映画を担当してきた高村狐堂。今作も、国内外の映画祭に応募予定です。また、現在月に1本短編映画を作っており、継続的に座付き役者として活動できる方を特に望んでおります。

【あらすじ】
 明治から昭和を生きた、画家・高村智恵子と彫刻家・高村光太郎(二人とも実在の人物)。大恋愛のすえに結婚した二人は幸福な人生を送るかに見えた。将来を嘱望された智恵子と光太郎の未来は明るいはずで、お互いの個展も決まっていた。
 しかし……。結婚してすぐ、暗雲が垂れ込めていく。家に光太郎の友人たちが訪ねてくる。自分で酒や料理を用意しようという光太郎だったが、「そんなものは奥さんに任せておけ」「なんのために結婚したんだ」と言うばかり。光太郎は「僕は、彼女を幸せにしたくて、彼女の絵が好きだから結婚したんだから、僕の酒ごときで煩わせたくない」と反論するが、時代と世間はそれを許さなかった。光太郎は、智恵子のサポートもあり次々と個展を成功させる。一方で家事炊事全般をやらされた智恵子は創作に手がつかなくなり、創作欲をもてあまして心を病むようになっていった。
 智恵子には大河ドラマ『いだてん』でも有名になった二階堂トクヨという親友がいた。その親友からは「実家に帰りなさい」「ひとり身になって絵を描き続けなさい」と助言される。智恵子は帰郷しようとするが、実家は破産・一家離散してしまう。智恵子の精神は限界に達し、精神病院に入院することになる。
 光太郎は病院に通うが、ついに智恵子は死んでしまう。光太郎はその臨終の席で、智恵子に檸檬を渡すのだった。光太郎はその時の記憶を『レモン哀歌』にしたため、世間からも好評をうける。一番喜んでほしかった智恵子は、もうそばにいないけれども。
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【募集内容】
・光太郎の友人・師匠役
・募集年齢:18歳~50歳頃
・報酬:軽食支給
・撮影日程:9月15日(火)19時~21時
・撮影場所:馬込駅徒歩10分の古民家

【応募方法】
・件名:『高村光太郎映画(仮)』/友人役応募/(応募者のお名前)
①年齢、身長、特技、趣味、出演経歴
②バストアップと全身写真
③ご自宅最寄り駅
④FACEBOOK・ツイッター・インスタ・TIKTOK・17ライブ・ショールーム・CHECKなどのURL。
⑤(あれば)映画および映像作品の、WEB上の映像リンク 
⑥オーディション方法
 ライン通話かZOOMで15分ほど。あるいは山手線の駅・会議室にて審査。
 日程は別途連絡いたします。
⑦エキストラ(台詞あり・なし)(役名あり・なし)での出演可能か。
 脚本上の別役対応可能か。

応募先:kodo0918@yahoo.co.jp

まずはご応募いただければ幸いです。
みなさまからのご応募、心よりお待ちしております。

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 スタッフ経歴
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脚本 - 高村 狐堂 Kodo Takamura
監督、脚本家。
・2019年イルミナシオン映画祭最終選考(別名義)脚本
・NHK創作ドラマ賞佳作(別名義)脚本
・カンヌ短編映画祭『FALL』脚本
・(上記とは別監督)カンヌ短編映画祭『茶色い水』脚本
・沖縄県主催映画『光の跡地』特別賞受賞 脚本監督(NHKにて5回放映)
・ロシアのアムール秋映画祭『歪な体温』脚本
・実在のバンドと手を組んだ音楽長編映画『かさぶた』脚本・助監督
・東北映画祭『311の娘たち』脚本・監督
・クロアチア映画祭長編映画『311の子どもたち』脚本監督
・茨城県自治体との共催中編映画『真夏の通り雨』脚本(2020年撮影)
・埼玉県内の全自治体との共催映画『うたたね』脚本(2020年撮影)
・青森県自治体との共催長編映画『セブンズドア』脚本(2021年撮影)

こういう募集もあるのですね。高村狐堂さんという方、当方は存じませんでした。高村姓ですが、光太郎血縁ではなく、おそらくペンネームなのではないでしょうか。

光太郎には、彫刻の上では師匠という師匠は居ませんでした(少年期であれば父・光雲やその高弟たちがそれにあたるかもしれませんが)し、二階堂トクヨは智恵子の親友ではなく恩師、さらに光太郎が開いた個展は生前には一度きり、それも最晩年になのですが、まぁ、そのあたりは演出上の脚色ということなのでしょうか。

そうした点はともかく、「自分で酒や料理を用意しようという光太郎だったが、「そんなものは奥さんに任せておけ」「なんのために結婚したんだ」と言うばかり。光太郎は「僕は、彼女を幸せにしたくて、彼女の絵が好きだから結婚したんだから、僕の酒ごときで煩わせたくない」と反論するが、時代と世間はそれを許さなかった。」という切り口、これまでも為されてきてはいますが、やはりあまり状況は変わっていない現代においても、十分に訴えかける部分があると思います。

我こそは、という方、ぜひご応募を。


【折々のことば・光太郎】

本当は技巧がよければ良い程いゝんですがね。所がそれが本当の技巧にならない時もあるし……然し又技巧を全く止して考へてみることも出来ないから一寸解らない、僕は非常に技巧が練達したと言はれて居る人のを見て拙く感ずる。
座談会筆録「第二回研究部座談会」より
昭和15年(1940) 光太郎58歳

彫刻に関して、光太郎は小手先の技巧を駆使するやり方を認めていませんでした。といっても、技巧全般を無視するというわけではなく、最低限の技巧はベースとしてあるべきで、その後の処理ですね。技巧を見せることに終始しては本末転倒、内側から溢れ出る生命感みたいなものが、技巧を超えて表現されていなければならない、というわけでしょう。

花巻高村光太郎記念館さんで4日から開催されている展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」について、地方紙二紙の報道をご紹介します。

まず『岩手日日』さん、9月7日(月) 

日本神話の場面 精巧に 光太郎記念館 光雲作「鈿女命像」

007 高村光太郎の父で彫刻家の光雲(1852~1934年)が制作したとされる木彫「鈿女命(うずめのみこと)像」が、花巻市太田の高村光太郎記念館で展示されている。
 光雲の孫にあたる藤岡貞彦さん(85)=横浜市=が花巻市に寄贈したもので、光雲の作品は同館で初公開となる。23日まで。
 像を保管していた藤岡さんが今年1月、光太郎と縁の深い土地で展示してほしいと寄贈した。
 像は高さ33㌢で制作年代は不明。サクラの木を材料とし、一本の木から作品を掘り出す一木(いちぼく)造りとみられる。
 日本神話の中から、天岩戸(あまのいわと)に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すため、踊りを披露した天鈿女命(あめのうずめのみこと)をモチーフにしている。
 衣服のなびく様子や指先の動きなどが細かく彫られ、天照大神を
引き出そうとする緊張感が読み取れる。父の作であることを示す光太郎直筆の木箱もある。
 同館の佐々木正晴館長は「細かな意匠が張り巡らされているので、光雲の技巧を堪能してほしい」と話している。
 展示時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料350円で観賞できる。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

続いて、仙台に本社を置く『河北新報』さん 

花巻・高村光太郎記念館 父・光雲の木彫り初公開

 詩人で彫刻家の高村光太郎の父で、近代日本を代表する彫刻家高村光雲(1852~1934年)の木彫り「鈿女命(うずめのみこと)」の展示会が4日、花巻市の高村光太郎記念館で始まった。今年1月に花巻市に寄贈された作品で、初めての公開となる。23日まで。
 「鈿女命」は桜材を使用したとみられる一木造りで高さ33㌢。日本神話で天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸にこもった際、踊りで誘い出した天鈿女命(あめのうずめのみこと)を題材としている。
 保管していた光雲の孫の一橋大学名誉教授藤岡貞彦氏(85)=横浜市=が花巻市に寄贈した。専門家の鑑定の結果、光運の銘がなく、緻密な仕上げが施されていないことから、習作か制作途中の作品とみられる。
 佐々木正晴館長は「衣の細かい彫りや手足の先まで緊張感の漂う出来は、光雲の特徴を表している。これまでに光雲作の天鈿女命像は確認されておらず、非常に貴重な作品だ」と話す。
 会期中無休。入場料は大人350円、高校・大学生250円、小・中学生150円、小学生未満無料。連絡先は記念館0198(28)3012。


これまでに『朝日新聞』さん、IBC岩手放送さんの報道を紹介しましたし、近々『岩手日報』さんも報じて下さるはずです(電話取材を受けました)。のちほどご紹介します。

来週9月15日(火)には、関連行事としての当方の市民講座「高村光雲の彫刻に触れる」が開催されます。「触れる」といっても触れられませんが(笑)。

展示は23日までと短めですが、連休がありますので、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一十六歳 高村小父
雑纂「高祖保宛『をぢさんの詩』献辞」より 
昭和18年(1943) 光太郎61歳

『をぢさんの詩』は、光太郎唯一の年少者向け詩集です。内容的には戦時中ということで「痛い」ものが多く、「これこそ光太郎詩の真骨頂」と涙を流してありがたがっている愚か者がいるのですが、その気が知れません。

それはともかく、編集に当たってくれた詩人の高祖保にあてた献呈本が最近出て来まして、その見返しに書かれた献辞から採りました。出版時に数え61歳だった光太郎が、年少者向けということで1の位と10の位を入れ替え、「一十六歳」と洒落を効かせています。


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岡山県から展覧会情報です。 

期 日 : 2020年9月9日(水)~9月21日(月)
会 場 : 丸善岡山シンフォニービル店ギャラリー 岡山市北区表町1-5-1 
時 間 : 10:00~20:00

9月9日(水)より「高田博厚とパリの仲間たち展」を開催いたします。日本を代表する彫刻家、高田博厚の彫刻・パステル画などの作品を、高村光太郎・浜口陽三・シャガール・ビュッフェ・ミュシャなど同時代を生きた国内外の作家の作品と共に展示販売いたします。9月21日(月)までです。
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基本、高田博厚がメインの展示即売会です。早世した碌山荻原守衛を除き、ほぼ唯一光太郎が親しく交わり激賞した同時代の彫刻家で、今年生誕120年。各地で回顧展等が開催されていますし、今後も予定されています。

ところがこちらは高田作品のみならず、光太郎のそれも出品されているとのこと。問い合わせてみましたところ、彫刻ではなく書と版画が出ているそうです。
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書は色紙で、「書はわたしの安全辨」と書かれたものだとのことです。大正12年(1923)の詩「とげとげなエピグラム」中に、「詩はおれの安全辨」の一節があり、それが元ネタです。純粋造型たるべき彫刻に物語性や自己の喜怒哀楽が入り込むのを嫌った光太郎が、そういったものは文筆作品(特に詩)で表現し、彫刻の純粋性を護ろうとした意図を表す語です。

右画像は10数年前に市場に出ていた揮毫ですが、これそのものなのか、同じ句が書かれた別物なのかなどは不明です。

版画は木版で、明治43年(1910)、鉄幹与謝野寛の歌集『相聞』の挿画として制作されたもの。同書の後記に光太郎から鉄幹宛の書簡が引用されています。
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木版の方は、恥かしながら『幼き QLAUAPATRAT』と申したく候。『クラウアパトラ』は通称クレオパトラの本名に候。女王の位につきたるが十七歳の時。此は其よりづつと以前、アントニイが始めて会ひたる幼年の頃のつもりに候。

光太郎の木版は、明治44年(1911)に自宅兼アトリエ竣工通知に送った葉書、大正12年(1923)の関東大震災後に智恵子の実家・長沼酒造の清酒「花霞」を取り寄せて、にわか酒屋を始めた際に作ったラベルや引札、昭和24年(1949)刊行の詩集『典型』題字など、他にも存在しますが、それらは文字中心で、絵画の木版で確認できているものはこれだけです。ただし、書籍の表紙画で、もしかすると木版かも、というものはありますが。

画像はモノクロですが、現物は赤と青の二色刷とのこと。しかし、だいぶ褪色しているそうです。

ちなみに『相聞』にはもう一枚、おそらく鉛筆での素描「埃及彫刻」も載っています。「埃及」は「エジプト」。光太郎によるエジプト風の絵はこの時期、他にも見られます。前述の碌山荻原守衛がエジプト彫刻にかなり魅せられていましたので、その影響もあるかも知れません。

近くなら見に行くところですが、このコロナ禍の時期でもありますし、ちと難しいところです。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

一般大衆の常識向上無くしては一切の事望み難し。

アンケート「昭和二十二年に望む事」より
昭和22年(1947) 光太郎65歳

実質的に次期首相を決めるための自民党総裁選挙が告示されました。何だか相変わらずの派閥の論理やらで決まりそうな気配にげんなりです。大本命というか、既に出来レースで決まっているであろう官房長官は、現政権の方向性を継続、などとのたまっていますが、令和二年の我々一般大衆は、立憲主義、国民主権、三権分立、平和主義、そして国民の政治への期待や信頼を破壊するような動きには断固としてNOを突きつけなければいけないと思います。

テレビ番組再放送の情報です BS-TBS 2020年9月11日(金)  午前7時00分~7時54分

悠久の大和の国のかたち山岳列島日本。山、そこには手付かずの原風景が雄大に横たわる。「山岳から仰ぎ見る 絶景の朝日」理屈を抜きの美しさをお届けします!

古くは「万葉集」に歌われ、高村光太郎の詩で「智恵子のほんとうの空」として広く日本人の心に響いた山、郷愁を誘う山となったのが安達太良山です。今回安達太良山を登るのは女優の春馬ゆかりさん。昨冬の雪山登山に続いて2度目の安達太良登山です。前回は吹雪の中、白銀の頂を目指しましたが、今回は、錦絵のような見事な紅葉の安達太良山と出会います。

出演 女優・春馬ゆかりさん
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初回放映は平成26年(2014)10月。この番組で安達太良山が取り上げられたのは2回目で、最初は同じ年の1月に「#32 雪煙舞う厳冬の安達太良山」が放映されました。そちらは先月に再放送されています。

ちなみにどちらもDeAGOSTINIさんからDVDブック化されて販売もされています。
『日本の名峰 DVD付きマガジン44 雪煙舞う厳冬の安達太良山』。
『日本の名峰 DVD付きマガジン64紅葉色めく湯の山 安達太良山』。
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ご出演はともに女優の春馬ゆかりさん。「雪煙舞う……」の方では、本格的な冬山が初めてだったという春馬さん、かなり苦労されていましたが、今回は気候的に穏やかな時期でしたので、錦秋の安達太良山を満喫されていました。
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ただし、基本、登山系の番組ですのでロープウェイ等は使わず、ご自分の足で1泊2日の行程。
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くろがね小屋では温泉もご堪能。
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空撮も入り、安達太良山の魅力があますところなく紹介されます。
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2日目の朝、山頂でのご来光。
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西には昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子が「わたしもうぢきだめになる」と呟いた磐梯山。
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そして「ほんとの空」。
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ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

小生等は結婚前にあまり知人間を騒がせたので結婚後は新婚旅行にも出かけず、おとなしくしてゐました。よつて満足な御返事が出来ません。

アンケート「新婚旅行通知状(葉書回答)」全文
昭和11年(1936) 光太郎54歳

「結婚前にあまり知人間を騒がせた」は、大正2年(1913)、信州上高地で一夏を二人で過ごし、新聞のゴシップ記事にすっぱ抜かれたりしたことを指します。

『毎日新聞』さん、今月2日の夕刊文化面に掲載された記事です。 

大岡信と戦後日本/28 折々のうた 詩歌の喜びと驚きを示す

003 大岡信のコラム「折々のうた」は、1979年1月から2007年3月まで朝日新聞に連載された。古今の短歌、俳句、詩や歌謡の一節を掲げ、鑑賞を180字の短文でつづるという前例のない企画だった。何度かの休載期間を挟みながら足かけ29年、休刊日を除く毎日続き、計6762回に及んだ(『新 折々のうた9』07年)。
 「折々のうた」といえば朝刊1面のイメージだが、スタート時は最終面に載っていた。同紙創刊100周年の79年1月25日朝刊から曽野綾子氏の連載小説「神の汚れた手」が始まるが、「折々のうた」はその左横の小さなスペースに置かれた。「現代の万葉集」とも呼ばれた大アンソロジーの出発はささやかだった。
  第1回は高村光太郎(1883~1956年)の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。解説する大岡の文章の一部を引く。
 <美校生だった彼が、明治三十九年二月、 彫刻修業のため渡米したとき、船中で作ったもの。(中略)高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える>
  美校は東京美術学校(現・東京芸術大)。詩集『道程』『智恵子抄』で名高い詩人の、 わざわざ若き日の短歌を初回に出したところに並々ならぬ意欲がうかがえる。翌日以降は江戸中期の俳人、加舎白雄(かやしらお)の俳句、上田秋成(江戸中期の文人)の短歌、白居易(唐代の詩人)の漢詩と続く。時代もジャンルも実に多様だ。
 当時の同紙編集幹部が最終面の扱いを「もったいない」と考え、3カ月余り後の5月から1面に移す。これで話題となり、翌80年に菊池寛賞を受賞する。また1年分を加筆・修正してまとめ、岩波新書で刊行する形を取ったことも読者を広げた(総索引を含めシリーズ計21冊)。
 ところで、「折々のうた」が始まった時、記者は高校2年。その頃同紙を読んでいたが、存在を意識したのは1面に移った3年の時だった。 詩の魅力が、わずか2行の引用で表現されているのに目を見張った。
 例えば宮沢賢治(1896~1933年)の「海だべがど おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」(「高原」)。大岡は、「ホウ/髪毛(かみけ)風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」と続くことを紹介したうえで、こう記す。<詩全体は、海かなと思ったが、やっぱり光る山だったぞ、風が吹けば、鹿踊りにかぶる面の髪みたいに、髪が踊るぞ、という意味だろう。(中略)この方言詩は生きている>(新書版『折々のうた』)。
 詩のリズム感とともに、凝縮された解説文から読者は「生きている」詩の脈動を感じ取ることができる。同様に、このコラムを窓として詩の世界の豊かさを見た人々は多くいただろう。 詩人の蜂飼耳さん(46)は小学生の頃、既にあったこの欄に、自然になじんでいたという。「『折々のうた』は、ジャンルの垣根を取り払い、時代や言語を超えて詩歌の『喜び』と『驚き』が併存することを可能にした方法そのものだった」。確かに欧米その他の翻訳詩も取り上げられた。
 大岡自身は出発時点の思いを「『日本詩歌の常識づくり』。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫」と述べていた(同書あとがき)。それが長く人々を引き付けたのは、彼が「硬直しない感受性の持ち主」で「言葉と詩の関係を、先入観なく根本から考えることのできる人」(蜂飼さん)だったからだろう。
 連載が終わった後、作家の丸谷才一(25~12年)は毎日新聞に、新書シリーズ全巻を対象とする書評を寄せ、「コラムの成功」を勅撰(ちょくせん) 和歌集になぞらえた。「共同体が詞華集(アンソロジー)によって詩情を教える風習は、明治維新によって残念ながら断絶された。大岡信の『折々のうた』は(中略)長きにわたるわが短詩形文学の富を誇っている」(07年12月2日朝刊)
 その「成功」は新聞界に広く影響を及ぼし、 ヒントにした欄が各紙に登場した。では、「折々のうた」はどんな時代に、いかなる問題意識によって取り組まれたのか。

同紙では昨年から月イチ005の連載で「大岡信と戦後日本」が掲載されており、その第28回。氏の業績の一つ、『朝日新聞』さんに連載された伝説のコラム「折々のうた」が取り上げられています。他紙のコラムについてその意義を実に好意的に評していて、『毎日』さんの懐の深さといいますが、そういうものを感じますね。

その「折々のうた」、記念すべき第一回で大岡氏が取り上げたのが、光太郎短歌「海にして……」。この歌、光太郎短歌の中では代表作の一つといっていい詠です。

それが大岡氏の没後、単に「高村光太郎の代表的短歌」というだけでなく、「大岡信氏が「折々のうた」連載の第一回で取り上げた歌」という新たな評が付け加わったような感もあります。

今後とも、大岡氏の業績と共に、語り継がれていって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

口語歌は既に成り立つてゐると思ふ。在来の歌と両立してゆくのに何の不思議も無い。生活内容と感じ方とモチヴとが互に相違してゐるだけの事で、どちらが抹殺せられる事も出来ない時代に僕たちは生きてゐる。

アンケート「口語歌をどう見るか(批判)」全文
大正14年(1925) 光太郎43歳

明治39年(1906)詠の「海にして……」はまだ文語歌ですが、大正に入ると光太郎も口語歌を量産するようになります。ほとんどは雑誌『明星』(第二次)に寄せたものでした。

このブログの平成28年(2016)の1年間、大岡氏の「折々のうた」のパクリで【折々の歌と句・光太郎】と題し、366(閏年でしたので)の光太郎短歌・俳句・川柳などの定型作品を毎日1つずつ紹介しました。暇な時にでもお目通し下さい。

新着情報紹介に戻ります。本日は岩手県からのニュースを2件。

まずは花巻高村光太郎記念館さんで先週はじまった展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」について、IBC岩手放送さんがローカルニュースで報じて下さっています。  

高村光太郎の父・光雲の木像 初公開/岩手・花巻市

 岩手ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎の父・光雲が手掛けた作品が、花巻市の高村光太郎記念館で初めて公開されました。
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こちらが高村光太郎の父で、仏師であり近代彫刻の巨匠と言われる高村光雲の作品「鈿女命」です。
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高さは33センチ、サクラの木を材料とし、今から80年以上前に制作したとみられています。
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この木像は、光雲の孫で、光太郎の甥にあたる横浜市在住の藤岡貞彦さんが所有していたもので、今年1月に花巻市に寄贈されました。木像は日本神話の中で天照大神が天の岩戸に隠れた際、その前で踊って大神を誘い出した神が題材で、微笑みながら優雅に舞っている様子が表現されています。
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(高村光太郎記念館・佐々木正晴館長)
「光雲の木彫りの特徴が随所に色濃く出ている細かい衣装とかをご覧いただきたい」
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このほか、木像が父・光雲の作品であることを証明する光太郎直筆のサインが書かれた木箱も一緒に展示されていて、高村親子の作品に対する思いを身近に感じることができます。
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展示会は今月23日まで開かれています。
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ついでに同じ件で、地方紙『岩手日日』さんに先月載った記事。
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関連行事としての当方の講座についてもご紹介いただきました。多謝。

別件で、やはり花巻からのニュース。地方紙『岩手日報』さんの記事です。 

花巻温泉、修学旅行受け入れ本格化 県内小中の予約大幅増

 新型コロナウイルスの影響で修学旅行の「県内志向」が強まる中、花巻市の花巻温泉(安藤昭社長)で県内小中学校の受け入れが本格化してきた。

 2日は第1陣となる岩泉町の小川小が宿泊。予約は19校(同日現在)と昨年度の3校から大幅に増加した。感染リスクが比較的低い県内で、宮沢賢治や高村光太郎ら偉人ゆかりの地としてクローズアップされている。

 小川小は当初、公共交通機関を使って仙台方面を計画していたが、感染リスクを考慮し貸し切りバスで移動できる県内に変更。6年生12人が国語の授業で学んでいる賢治ゆかりの地を巡った。

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だるまみたいな(笑)着ぐるみは、花巻温泉さんの公式キャラクター「フクロー」だそうです。

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賢治の一族が創業に関与し、桜並木や花壇の設計は賢治が行って、さらに光太郎もたびたび宿泊した花巻温泉さん、近代的なホテルが建ち並び、こうした需要にはうってつけのように思われます。

子供たちに郷土の魅力について理解を深めてもらうというコンセプトもいいと思います。コロナ禍収束/終息後も続けて欲しいものですね。そしてできれば全国から受け入れていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は絵画の立体化ではない。その胚胎からして別種である。彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の触覚、此れを深くしては心の触覚。此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。
散文「彫刻について」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「心の触覚」、いい言葉ですね。

最近手に入れた古いものシリーズです。

講談社さんで2000年代はじめまで発行されていた雑誌というかムックというか、『きものと着つけ』。「'96」となっていますが、平成7年(1995)の発行です。どうも年刊だったようですね。

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女優の故・池内淳子さん監修ということで、「「智恵子抄」の詩を加賀友禅に」というコーナーが11ページにわたって掲載されています。加賀友禅の作家さん6名が、「智恵子抄」所収の詩からインスパイアされた着物を制作、池内さんがそれを見て回るというコンセプトです。

作家さん6名が2点ずつ、うち1点は共通課題で詩「人に」をお題に「いのち」と題する作品、そして6名それぞれが別々の詩をテーマに制作。特にコンテストとかいうわけではありませんが、ある意味、競演ですね。

柿本市郎氏で「ゆき(「深夜の雪」より)、浅野富治男氏は「裾野(「山麓の二人」より)。
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中町博志氏が「桜若葉(「あどけない話」より)」、白坂幸蔵氏の「松風(樹下の二人)より」。
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由水煌人氏作「やすらぎ(「郊外の人に」より)、毎田健治氏による「千鳥(「風にのる智恵子」より)」。
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画像は省略しますが、それぞれの詩も載せて下さっています。

華やかな中にも漂う気品、凛々しさ、清楚な感じ、優美さ、しかしどことなく感じられる哀愁、透明感、清澄さ……すみません、ボキャブラリーが貧弱でうまく表現できません(笑)。

同じようなコンセプトで行われたであろう展覧会と思われるものの図録も持っています。こちらは数年前に入手しました。題して「智恵子のきもの」。

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こちらは京友禅の作家さんたちのグループ「彩遊」さん8名によるもので、会場は高島屋百貨店。ただ、奥付が無く、いつのものかわかりません。写真(光太郎令甥の写真家、故・髙村規氏撮影)の感じから、やはり80から90年代のように思われますが。また、高島屋さんも何処の店舗だったのか不明です。ネットで調べても情報が出て来ませんでした。

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特定の詩をイメージしたものではなく、「智恵子抄」全体へのオマージュ、ということのようです。智恵子の紙絵ふうのデザインが採られている作品もあります。図録には作家で『智恵子飛ぶ』という小説も書かれている津村節子さんによる解説文[「智恵子の紙絵」も掲載されています。

こちらの作も、それぞれにあでやかに、たおやかに、そしてきりりと上品な風合いがエレガント、さらには天真爛漫な感じも受けますし、京友禅ということで雅やかとも言えるような気がします。

この手の二次創作、最近はあまり見かけないように思われ、残念です。まぁ、景気の動向等にも左右されましょうし、今後の日本経済の動向にも期待したいところですね。

【折々のことば・光太郎】

日本固有の服装と、西洋服との両方があれば、それで二重の喜びになる。西洋婦人の持たない喜びになる。

散文「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」より
 明治43年(1910) 光太郎28歳

雑誌『婦人くらぶ』に掲載された文章の一節です。明治末、ようやく婦人たちが洋装をはじめた頃のもので、和装を捨て去る必要はないし、逆に和装にこだわるべきでもなく、併用しましょうという提言です。

和装が廃れつつある現代、「二重の喜び」「西洋婦人の持たない喜び」、多くの皆さんに味わってほしいものです。といっても、なかなか和装はハードルが高くなってしまった感は否めませんが……。当方もしばらく着物に袖を通していません。

新着情報系、無くはないのですが、一旦休止しまして、2~3日、「最近手に入れた古いもの」をご紹介します。

本日は、昭和43年(1968)発行のソノシート。

発端は、当会会友にして劇作家・女優の渡辺えりさんがご出演なさったテレビ番組「ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~ 渡辺えり×石原正康」。8月22日(土)、BS朝日さんでオンエアされました。

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渡辺さん、お父様が光太郎と交流があり、幼い頃から光太郎の詩を聞かされて育ったとのことです。そしてご実家に飾られていた光太郎の肖像写真を、実のおじい様だと思いこんでいたそうで(笑)。ご自身も光太郎を主役とした演劇「月にぬれた手」を作られたり、連翹にも足繁くご参加下さったりしています。

そのお父様の件が話題になるかな、と思って拝見していましたところ、案の定でした。

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渡辺さん、お父様と光太郎の件は、これまでもさまざまなメディア等で語られていました。

ところが、今回の番組では、それに加えてまったく別の文脈から光太郎の名。それは……

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小学生の頃から、沢田研二さんの大ファンだったそうで……

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「あれする」というのは、「応募券的なものを集めて送る」という意味のようです。

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「ソノシート」とか「ちっちゃいプレーヤー」とか、1960年代「あるある」ですが、若い人はおわかりになるかどうか(笑)。

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「声」は、沢田さんの声です。

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するとここで、光太郎。

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なるほど。

この話は初めて伺いまして、気になって調べてみました。

すると、「某製菓」は「明治製菓」さん。昭和43年(1968)頃にザ・タイガースさんのソノシートがもらえるというキャンペーンを展開していたそうです。ソノシートは5種類、ザ・タイガースさんのメンバーが5人でしたので(岸部一徳さんがリーダーでしたね)、それぞれが「主役」のもの1種類ずつだったようです。

沢田さんは「あなたにささやくジュリー」。音声が動画サイトYouTubeにアップされていました。



光太郎の件は、0:42あたりから。

さて、そうなると、このソノシート自体も手に入れたいと思い、探してみましたら、意外にあっさり見つかりました。

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B面が「お部屋でおしゃべりタイガース」。5人のメンバー総出演です。おそらく5種類共通なのでしょう。こちらも聴いてみましたが、残念ながら誰が誰だか分かりません(笑)。渡辺さんなら、「あ、これがジュリーよ!」とすぐわかるのでしょうが(笑)。さらにおそらく当時の明治製菓さんのCMソングも入っていました。

そしてA面が「あなたにささやくジュリー」。

いやー、レトロです(笑)。

それにしても、タイガースさんより少し後の、西城秀樹さん野口五郎さんなどにも光太郎がらみのお仕事がありましたが、昔の歌手の皆さんはそうだったのですね。まあ、昔に限らず、そういうテイストが桑田佳祐さん米津玄師さんあたりに受け継がれているのかも知れませんが。

明日も「最近手に入れた古いもの」シリーズで行かせていただきます。


【折々のことば・光太郎】

人が見てゐなければどんな事でもする。法律に触れなければどんな不都合でもはたらく。露見しないうちはどんな賄賂でもとる。此の一聯の卑屈な、被圧迫民的、劣等感所有者的、素町人的な非倫理的根性が国民の間に瀰漫してゐるうちは、文化について云々する事すら馬鹿げてゐると思ふほどやり切れない気持に時々襲はれる。

散文「倫理の確立」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

現代においても状況は殆ど変わっていないような……。いや、「法律に触れなければ」でなくて「法律に触れようが」だったり、「法律に触れるなら法律の方を変えて」だったりする分、悪質化しているのかも知れません。

花巻高村光太郎記念館さんから荷物が届きました。開けてみると、同館オリジナル商品「智恵子のレモンキャンディ」など。先月の「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」オープンに合わせて開発された新商品です。

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今月中旬にはあちらに参りますので、その際に購入しようと思っていたのですが、何とまあ、それまでに売り切れ必至、増産の発注をかけたものの間に合わないだろう、とのことで、わざわざ送って下さいました。

懐かしの「サクマ式ドロップス」のような(というかまったく同一?)缶入りです。ちなみに
サクマ式ドロップス、健在です。


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アニメ映画「火垂るの墓」を想起される方も多いのではないでしょうか。

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さて、マイナスドライバーを使って蓋を開け……。

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「酸っぱいだろうな」と覚悟しつつ(といっても当方、柑橘系の酸っぱさは大丈夫です。梅干し系、酢の物系の酸っぱさは苦手ですが)、パクリ。

ところが、予想していたほどには酸っぱくありませんでした。食べる前は、やはり昔懐かしのロッテさんの「小夏」を思い描いていました。ところが「小夏」に比べれば酸っぱさはたいしたことがありません。というか、甘さの方が勝っているような。これなら小さいお子さんでも食べられるな、と思いました。それでもレモン果汁はちゃんと使われています。配合にはかなりこだわったそうで、こういう味が出来上がったのでしょう。

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ちなみに「小夏」はロッテさんのラインナップから外れているようです。姉貴分の「小梅」は健在ですが。ただ、キャラクターとしての「小夏」(「小梅」の従姉妹だそうで(笑))は同社のサイトに紹介されています。集英社文庫の『レモン哀歌 高村光太郎詩集』の表紙も手がけられたイラストレーター、林静一氏のデザインです。

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「智恵子のレモンキャンディ」のラベル画は、以前から花巻高村光太郎記念館さんで、ポストカード等に使われていたもの。これはこれで今風な感じがいいように思われます。

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さて、同館からはもう一つ、先月末にいわてめんこいテレビさんで放映された「智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~」を録画したDVDも入っていました。

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なかなかよくまとまっていましたし、様々な切り口がなされていて、その点には感心いたしました(突っ込みどころも多いのですが)。深夜でも、または系列のBS放送などででも、とにかく全国放映を期待しております。

さて、「智恵子のレモンキャンディー」、しばらく品薄が続きそうですが、ぜひお買い求め下さい!


【折々のことば・光太郎】

美しい細い絹の絲を使つて、花や、葉や、実や様々な模様が編み出されたアイリツシユレースは精巧なものになると、実に立派なものであります。洋服の胸飾、帽子の装飾などに、その一部分を応用しても随分美しいではありませんか。

散文「帽子に応用したアイリツシユレース」より
大正13年(1924) 光太郎42歳


雑誌『婦人之友』に、写真入りで掲載されました。光太郎、造型作家として、アパレル系にも一家言持っていたようです。

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花巻高村光太郎記念館さんで明日からはじまる展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」について、『朝日新聞』さんが岩手版で報じて下さっています。 

岩手)高村光雲の木彫が花巻市に 光太郎記念館で初公開

 彫刻家高村光太郎の父で、近代彫刻の巨匠、高村光雲(1852~1934)の作とみられる木彫像が、光雲の孫から花巻市に寄贈された。4日から同市の高村光太郎記念館で初公開される。
 作品「鈿女命(うずめのみこと)」は高さ33センチの一木造りの彫像。日本神話で天照大神が天岩戸にこもってこの世が暗闇となった時、岩戸の前で踊って大神を誘い出したとされる天鈿女命(あまのうずめのみこと)が題材だ。
 光雲の四男で植物学者の藤岡孟彦さん(1892~1977)が形見分けとして受け継いだものといい、昨年11月、孟彦さんの次男で一橋大学名誉教授の教育学者、藤岡貞彦さん(85)=横浜市=が「光太郎ゆかりの地で保管・展示してほしい」と花巻市に寄贈を申し出た。
 同12月、花巻市の依頼を受けた光太郎研究の第一人者である小山弘明さん(55)=千葉県香取市=が、箱にある「高村光雲作 木彫 昭和十年 男光太郎識」の墨書が光太郎の直筆であることや、作品の意匠、伝来などから「光雲作」と確認した。
 伝統仏師で西洋美術を学んだ光雲は、東京・上野公園の西郷隆盛像や国重要文化財「老猿」の作者でも知られる近代彫刻家。小山さんによると、「下絵」は残されているが、光雲作の天鈿女命の像はこれまで確認されていないという。
 小山さんは「おそらく試作品だが、彫刻史的にも大変貴重だ」。寄贈した藤岡さんは「今まで世に知られていない作品だが、あるべきところに保管されて良かった」と話した。 5月に公開予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い延期されていた。展示は23日まで。(溝口太郎)

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関連行事として、9月15日(火)に「光太郎の父 高村光雲の彫刻に触れる」と題して、市民講座講師を仰せつかっており、パワーポイントでスライドショーを制作中です。

そこで、光雲の人となり、光太郎との彫刻観の相違など、改めて調べ直してみて、「こういうことだったか」と、自分でも勉強させていただいております。

記事にあるとおり、展示は明日から9月23日(水)まで。あまり期間が長くないのですが、コロナウィルス感染防止にお気を付けた上で、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】002

それは無論出来の悪い為ではなく当時の審査官の固持せる美の標準からは醜悪極まる物に見えたのであつた。其の證拠には三年後のサロンで同じ物が立派に通過した。

談話筆記「ロダン翁病篤し」より 
大正6年(1917) 光太郎35歳


ロダン初期の作、「鼻の潰れた男」に関してです。『東京日日新聞』2月2日の掲載です。

前年、軽い脳溢血を起こしたロダンは、以後、健康に不安を訴え、同じく病気がちだった内妻ローズ・ブーレと入籍を果たしました。しかしそれもむなしく、ローズは2月に歿し、ロダンも後を追うように11月に亡くなりました。

神奈川県鎌倉市にある川喜多映画記念館での特別展情報です。 

期 日 : 2020年9月11日(金)~12月13日(日)
会 場 : 鎌倉市川喜多映画記念館 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目2番地12号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が休日の場合は開館、翌平日を休館日とします
料 金 : 一般400円(280円) 小・中学生200円(140円)( )内は20名以上の団体料金

 2020年は、伝説的な存在として人々の記憶に留まり続ける二人の女優─原節子(1920年6月17日~2015年9月5日)と山口淑子(1920年2月12日~2014年9月7日)─の生誕100年にあたります。
 デビューから間もない1936年に日独合作映画のヒロインに抜擢され、一躍スターとなった原節子は、戦時中は国策映画、戦後は一転して民主主義映画のシンボルとして、国民的な人気を誇りました。そして、小津安二郎をはじめ巨匠たちと組んで大女優としての地位を確立したのち、若くして表舞台を去り、スクリーンにその輝きを残したまま、鎌倉の地で静かに余生を送りました。
 一方の山口淑子は、満州事変から日中戦争へと続く植民地支配下の中国に生まれ育ち、1938年に日本の国策映画会社・満映から《李香蘭》の名でデビュー、歌手として女優として、東アジアの大スターの座に君臨しました。終戦後、日中両国の間に挟まれ命からがら日本に戻った彼女は、国際派女優として、その後は司会者や政治家として、常に世界を見据えた視点で幅広い活躍を続けました。
 その生き方も、女優としてのイメージも大きく異なる二人ですが、本展では、同じ年に生まれ、ともに激動の時代を生き抜いた二人の女優の姿を、貴重な資料を通して振り返ります。

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関連行事

植木金矢作品展 映画女優・原節子を描く

10月8日(木)~11日(日)003
10:00/11:00/13:00/14:00/15:00
昭和28年、チャンバラ時代活劇「風雲鞍馬秘帖」で子供たちの心を虜にして以降、生涯にわたって多くのファンを魅了し続けた鎌倉在住の劇画家・植木金矢さん(享年97)。一周忌にあたる10月11日にあわせて作品展を開催します。植木さんは晩年、女優の中では「原節子」を最も多く描きました。植木さんが作品に込めた思いをぜひご覧ください。


トークイベント「李香蘭と川喜多長政を繋いだ“中華電影”」
10月17日(土) 『萬世流芳』上映後  ゲスト:刈間文俊さん(東京大学名誉教授)
満州に設立された映画会社「満映」からデビューした李香蘭と、上海に誕生した「中華電影」の最高責任者だった川喜多長政。同じ時代に中国の異なる土地で映画作りに携わっていた2人を結び付けたのは、両映画会社が共同製作した『萬世流芳』(1942 年)でした。トークイベントでは、長年にわたり中国映画の研究に従事されている刈間文俊さんに、当時の歴史的背景と中国の映画事情、李香蘭と川喜多長政の関わりについてお話しいただきます。
料金:(『萬世流芳』鑑賞料金含む)一般1,600円、小・中学生800円


トークイベント「晩年の李香蘭、山口淑子」
10月18日(日)『私の鶯』上映後   ゲスト:高橋政陽さん(テレビ朝日前記者)
奉天での幼少期、中国人として過ごした北京時代、思いがけない女優デビューとスターへの階段、敗戦と引揚げの混乱、戦後日本映画界での活躍、結婚と別れ、女優引退と外交官の妻としての日々、やがて司会者としてのテレビ復帰と政治家としての活躍…。文字通り激動の時代を生きた山口淑子さんの実人生の歩みとその人柄を、親交のあったジャーナリストである高橋政陽さんにお話しいただきます。
料金:(『
私の鶯』鑑賞料金含む)一般1,600円、小・中学生800円

トークイベント「原節子と『新しき土』」
10月31日(土)14:00~  ゲスト:石井妙子さん(ノンフィクション作家)
経済的な理由から女優になり、まだ間もない原節子にとって、スター女優への 道を決定づけた作品『新しき土』。日独の政治的な思惑が絡み合った本作において、原節子はどのような役割を果たしたのでしょうか。また、映画の宣伝のため半年にわたった欧米旅行は、彼女にどのような影響をもたらしたでしょうか。トークイベントでは、評伝「原節子の真実」で新潮ドキュメント賞を受賞し、最近では「女帝 小池百合子」の著者としても大きな話題を呼んだ石井妙子さんに、若き原節子と『新しき土』の関わりを紐解いていただきます。
料金:一般1,200円、小・中学生600円 チケット発売日:9月19日(土)

映画上映
東京物語(1953年/135分/松竹/白黒/DCP) 
 9/15(火)・17(木)・19(土) 10:30  9/16(水)・18(金)・20(日) 14:00
麦秋(1951年/124分/松竹/白黒/DCP)
 9/16(水)・18(金)・20(日) 10:30  9/15(火)・17(木)・19(土) 14:00
新しき土(1937年/日本=ドイツ/白黒/106分/ブルーレイ)
 10/27(火)・31(土) 10:30       10/28(水)・30(金)・11/1(日) 14:00
智恵子抄(1957年/東宝/白黒/97分/35mm)
 10/28(水)・29(木)・30(金)・11/1(日) 10:30 10/27(火)・29(木) 14:00
醜聞〈スキャンダル〉(1950年/松竹/白黒/104分/35㎜)
 11/23(月・祝)26(木)・28(土) 10:30 10/25(水)・27(金)・29(日) 14:00
白痴(1951年/松竹/カラー/166分/35㎜)
 11/25(水)・27(金)・29(日) 10:00  
 10/23(月・祝)・26(木)・28(土) 14:00
私の鶯(1944年/99分/東宝+満映/白黒/35mm)
 10月15日(木)14:00、16日(金)10:30 18日(日) 14:00
萬世流芳(1942年/151分/中華聯合製片+中華電影+満映/白黒/ブルーレイ)
 10月16日(金)14:00、17日(土)13:00
青い山脈/続・青い山脈【特別上映】
 (1949年/93分・84分/東宝=藤本プロ/白黒/35mm)
 11月10日(火)10:00、11日(水)14:00、12日(木)10:00、13日(金)14:00、
 14日(土)10:00、15日(日) 14:00
暁の脱走(1950年/116分/新東宝/白黒/35mm)
 11月10日(火)14:00、11日(水)10:30、12日(木)14:00、13日(金)10:30、
 14日(土)14:00、15日(日)10:30

《展示解説》/《上映解説》
展示の見どころと上映作品の解説を、学芸員が映像資料室内で実施します。(要特別展観覧料)
《展示解説》9/12(土)・10/24(土)・11/21(土)各日14:00~(約40分)
《上映解説》9/20(日)・10/4(日)・11/27(金)・12/4(金)各日午後の上映終了後(約30分)


昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」で智恵子役を演じられ、平成27年(2015)に亡くなった原節子さん、そして光太郎が入居する前の終焉の地・中野の貸しアトリエを借りていた彫刻家、イサム・ノグチの妻であった山口淑子さん(平成26年=2014没)。お二人を顕彰する展示/イベントです。

同館では、原さんに関しては、亡くなった翌年の平成28年(2016)にも「特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子」を開催し、当方、拝見して参りました。「智恵子抄」の立看ポスターなどが展示されていましたし、その際にも「智恵子抄」の上映がありました。

それにしてもお二人が同年(大正9年=1920)の生まれで、今年が生誕100年とは存じませんでした。上記の通り亡くなったのは比較的最近ですので、お二人ともご長寿だったわけですね。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

お互いに日本を彫刻国として立派に作り上げる事に努力せねばなりません 日本は其に値する資格が十分にあると存じます

雑纂「(私信より)」全文 昭和15年(1940) 光太郎58歳

光太郎、日本人の「美」に対する意識や、古代から作り上げられてきた彫刻作品のレベルの高さなどは世界的に見ても遜色がないと考えていました。実際、それは否定できないでしょう。

ただ、そうした優位性に対する意識が翼賛思想に結びついてしまったのは残念なことですが……。

まずは昨日に続き、智恵子の故郷・福島二本松・安達太良山ネタです。

今月号の『広報にほんまつ』、表紙が安達太良山系の薬師岳パノラマパーク。

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ロープウェーの山頂駅に近く、「この上の空がほんとの空です」という木標が建っています(画像では中央やや左)。

続いて「“菊”と“日本酒”と“温泉”と… にほんまつの観光DMO ~ともに磨く「にほんまつ」ブランド~」という記事が4ページ。

「DMO」とは、「Destination Management Organisation」の略だそうで、「観光戦略を練って交流人口拡大を目指していく組織」といった意味だそうです。一般社団法人として平成30年(2018)に設立されたとのこと。

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最近、役所まかせではないこうした動きが広がっているように感じます。

こちらでは「にほんまつブランド」ということで、「日本酒」、「ワイン」、「和菓子」、「安達太良山」、そして「岳温泉」の5つを特に推しているそうで、広報でもそうした動きが取り上げられていました。

その中で、「安達太良山」。「智恵子抄」由来の「ほんとの空」の語を使って下さっています。

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「ADATARAリトリート」だそうです。「リトリート」は、「日々の忙しい生活から離れて、 自分の時間やリラックスタイムで疲れを癒すこと」。岳温泉さんのホテルなどと提携し、各種プランが設定されています。

当方、11月に彼の地で市民講座の講師を仰せつかっており、現地で調査すべきこともあって、久々に一泊で行ってこようと思っております。ただ、例年、10月に行われている菊人形、それから智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集い、今年はやはり中止だそうですが、コロナ禍収束/終息後、また新たに活況を呈してほしいものです。

続いて光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻の『広報はなまき』。表紙で先月の「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」オープンについて紹介されています。

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006こちらは今月、やはり市民講座の講師でお邪魔しますので、その際に行って参ります。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

体格よき婦人を求む 当方彫刻家 午前在宅

雑纂「モデル」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

彫刻制作において、モデルの手配には常に苦労していました。依頼を受けての肖像彫刻であればその本人をモデルにすればよいのですが、そうでなければ友人知己や行商に来る老人などを拝み倒してモデルになってもらったり、このように新聞広告を出して募集したりもしました。

しかし、応募者はたくさんあったものの、よい体格の者がおらず、逆に「めいめいに窮迫した身上話などを長々と述べ立てて、是非使つてくれといふやうに要請されるので、これを断るのに骨が折れ、おまけにその日一日分の日当を払はなければ、気の毒でかへせなかつた。」(「モデルいろいろ-アトリエにて6・7-」昭和30年=1955)ということでした。

そこでのちには智恵子をモデルにいくつか彫刻を作ったりもしています。ただ、それらはおそらく戦災ですべて失われ、現存が確認できていません。

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