2020年08月

昨日は青森十和田湖での「第55回十和田湖湖水まつり2020」についてご紹介しましたが、同じくランタン打ち上げを伴うイベントです。 

期 日 : 2020年9月5日(土)、12日(土)、19日(土)、22日(火祝)
会 場 : あだたら高原リゾート レストハウス前 福島県二本松市奥岳温泉
時 間 : 18:00 受付開始 19:30 ランタン配布・説明 20:00 ランタンリリース
      20:30 終了予定
料 金 : スカイランタン1基 3,000円(税込)

 今回初の試みとなるこのイベントは、50万球のイルミネーションが煌めくあだたら高原の夜空に、願いを込めてたくさんのスカイランタンを浮かべる来場者参加型のイベントで、イルミネーションの輝きと相まって、ここでしか見られない幻想的な光景が広がります。
 使用するランタンは、株式会社スターリーナイトカンパニー(本社:兵庫県神戸市)が開発したもので、四角柱の和紙の中に特殊仕様の風船が入っており、さらにその中にLEDが入っています。風船に充填されたヘリウムガスで空高くまで浮かび上がりますが、糸と重りをつけており、回収できるため環境にも優しく、火を使わないことから安全性も高いランタンです。
 初秋の夜を彩る「スカイランタン」と「イルミネーション」の競演にご期待ください。

参加方法 予約制(各実施日前日までに予約申込。各日先着50名様限定)
申込先  富士急安達太良観光株式会社 TEL:0243-24-2141(9:00~17:00)

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案内にあるとおり、 8月1日(土)より開催されている「あだたらイルミネーション」とのタイアップ企画です。
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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語を冠して下さり、ありがたく存じます。

コロナ禍による鬱勃たる気分、こうしたイベント等を通して晴らしていただきたいものですね。

明日も二本松/安達太良山ネタで。


【折々のことば・光太郎】

本物を創る為には本物にとらわれてはいけない。本物にとらわれて、本物に似せようとすると、本当の造型にはならないで、おもちやになつてしまう。

講演会筆録「炉辺雑感」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

「彫刻は、蝉なら蝉を創るにしても一遍蝉から離れて、別の立場に立つて創らなければならない。そうすることによつて、はじめて蝉が模写にもおもちやにもならず、本当の蝉となることができる。」と続きます。

光太郎、万物の造型を貫く天然自然の理法、そういうものに思いを馳せなければ、彫刻は不可能だといいます。

「本物の影のようなもの、泡みたいなものを掴んでこれが彫刻だと喜んでいる人も少なくないが、僕らはそんなものは彫刻と思えない」そうで。

青森十和田湖畔で今日まで開催されている「第55回十和田湖湖水まつり2020」。例年ですと光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップや、花火の打ち上げがあったのですが、今年はコロナ禍のため代替措置として実施方法が大きく変わりました。

地元の報道から。

まずはNHKさんのローカルニュース。 

十和田湖の夜空をランタンが彩る

和紙でできたランタンの明かりをともして夜空に上げる催しが28日夜、青森県と秋田県にまたがる東北有数の観光地、十和田湖で開かれ、およそ200の光が夜の湖畔を照らしました。

十和田湖畔では毎年夏に花火が打ち上げられ大勢の観光客が楽しんでいますが、ことしは新型コロナウイルスの影響で中止となってしまいました。
そんな中、少しでも夏の十和田湖を楽しんでもらいたいと地元の観光業者などで作る団体は、事前に予約した人だけに見物客を限定し、受け付けの際に客の体温を測ることを徹底するなどの感染対策を取った上で、ランタンで夜空を彩るイベントを企画しました。
28日夜は県内外からおよそ450人の見物客が集まり、午後7時半すぎに高さ50センチ、幅35センチの和紙でできたランタン219個が一斉に夜空へと浮かび上がりました。
ランタンにはヘリウムガスが入れられていて、十和田湖畔はランタンのランプのオレンジや青の明かりで幻想的な雰囲気に包まれ、訪れた人たちは写真を撮るなどして夏の終わりのひとときを楽しんでいました。
地元の青森県十和田市から来た女性は「とてもすてきな光景で『インスタ映え』すると思います」とうれしそうに話していました。
イベントを主催した団体は天気がよければ29日と30日も夜空にランタンを浮かべることにしています。

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続いて地方紙『デーリー東北』さん。 

幻想的ランタン、コロナ終息願い/十和田湖

 十和田湖湖水まつりが28日、十和田市の休屋地区を主会場に開幕した。恒例の花火大会の代わりに、新型コロナウイルスの終息に願いを込めた約220個のスカイランタンが打ち上げられ、来場者が夏の夜空と湖面に映える幻想的な明かりに酔いしれた。
 スカイランタンとは、空に飛ばす紙製の小型熱気球。同まつりでは、光源にオレンジ色と青色の発光ダイオード(LED)を使用した。
 打ち上げには、来場者ら約470人が参加。願い事を書き込んだ短冊と一緒にスカイランタンを夜空に放った。
 家族4人で訪れたという十和田市東十二番町の会社員鳥谷部昌平さん(28)は「生まれたばかりの次女の成長を願った。思うように外出ができない夏だったが、いい思い出ができた」と笑顔。長女の結唯夏さん(7)も「ディズニー映画みたいで、とてもきれい」と夢中で空を見上げていた。
 打ち上げは29、30の両日も午後7時半から実施する。

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同じく『東奥日報』さん。 

明るい未来 願い舞う/スカイランタン 十和田湖でイベント

 湖面と夜空を彩る幻想的なあかり-。十和田湖畔休屋で28日、オレンジやブルーの「スカイランタン」を飛ばすイベントが行われた。午後7時半の合図で新型コロナウイルス収束などそれぞれの願いを込めたランタン約220個が宙に舞い、参加者や観覧者約500人が柔らかな灯を見つめた。
 十和田湖湖水まつり実行委員会(小野田金司会長)が、新型コロナウイルス感染予防のため、恒例の花火大会の代替イベントとして企画。ランタンは和紙製で発光ダイオード(LED)を内蔵し、縦横30センチ、高さ50センチで、飛び去ってしまわないよう細い糸が付いている。
 同日は波風が立たず、絶好のコンディション。太陽広場と秋田県との県境・桂ケ浜を会場に、ランタンの光が闇夜を照らした。八戸市の無職富塚榮子さん(81)は「新型コロナの沈静と医療従事者の身体の安穏を祈った。思いを込められるイベントに参加できてうれしい」と話した。
 イベントは30日まで連日行う。参加チケットと無料の同行者チケットは完売したが、会場外から見物できる一般観覧者向け無料チケットはある。問い合わせは十和田湖観光交流センターぷらっと(電話0176-75-1531、午前9時~午後5時)へ。

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ところで、ランタン。静かにブームとなっていますね。来月には智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山でも行われます。明日はそのあたりを。

しかし一方で、十和田湖でもそうですし、全国的に例年行われていた花火打ち上げが無くなり、花火師の皆さんは苦境に立たされているそうで……。 

花火の役目「人の心明るく」/コロナで苦境 十和田の業者、活路探る

009 漆黒の夜空に、色鮮やかな「光の絵の具」で大輪を描く花火職人たち。この夏は新型コロナウイルス感染症の影響で、全国的に花火大会の自粛が相次いだ。青森県十和田市の打ち上げ業者「青森花火」(芳賀克司社長)も収益が前年比で大幅に減るという苦境に立たされているが、「いつの世も花火には、人々の心を明るくする役目があるはず」との信念を持ち、活路を見いだそうと奮闘している。
 「1月のイベント『十和田湖冬物語』では、例年通りの花火を打ち上げたが、その頃から中国などの観光客来日に規制がかかり、何となくコロナの暗雲を感じていた」と同社専務の野村孝さん(39)は振り返る。
 花火打ち上げは観覧者の「3密」を引き起こしかねない-と言われ、同社が予定していた花火大会も5月の時点で大小合わせて約40件が中止になった。
 「電話が鳴る度に、またキャンセルかと恐怖を感じた。小中学校の運動会の実施を告げるノロシ(号砲)も、約200発がキャンセルに」。数十人のスタッフに、野村さんは「今年は仕事がなく申し訳ない」と頭を下げた。
 そんなさなか、全国の163業者が心を一つにして「コロナ収束、悪疫退散祈願」サプライズ花火を、6月1日午後8時ちょうど、各地で一斉に打ち上げるイベントが行われた。費用は各社の持ち出し。青森花火は十和田湖畔と八戸市の2カ所を担当し、数十万円を負担した。
 「この企画には、即答で参加を決めた。コロナとの闘いの最前線に立つ医療従事者への感謝という趣旨に賛同したし、先が見えない状況に苦しむ街の人たちを元気づけたいと思った。それに、私たち自身も打ち上げの機会を与えていただき励まされた。本当にありがたかった」と力を込める野村さん。
 これがきっかけになり、「3密」回避に留意した小規模の花火打ち上げが8月までに10回以上あったという。野村さんは「エンターテインメント性は低くても原点回帰という気がする。花火はかつて、地域の神社などで人々の祈りとともに打ち上げられた。コロナの時代に合った新しいスタイルとなるかもしれない」と話している。
(『東奥日報』 2020/8/25)

コロナ禍収束/終息への思い、花火やランタンと共に天に届いてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

相変わらず甲板に出て石鹸の泡のやうな舷側の波を飽かず眺めてくらした。波といふものはいくら見てゐても面白い。

散文「海の思出」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

明治41年(1908)、ニューヨークから大西洋を渡ってイギリスへと向かう、ホワイトスター社の豪華客船オーシャニック号での一週間の船旅の回想です。

大西洋とは比ぶべくもありませんが、十和田湖の遊覧船に乗った際のことを思い出しました。

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コロナ禍いまだ収まらぬ中、「リモート○○」や「オンライン××」、「テレ△△」が普及せざるを得ない状況でしたが、市民講座等にもそうした流れが出て来ています。

2件、ご紹介します。 

期 日 : 2020年9月3日(木)
時 間 : 13:00~16:10
講 師 : 津上英輔先生

主 催 : 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻

講義概要:
『智恵子抄』、「道程」などの詩で知られる高村光太郎は(1883-1956)は、太平洋戦争中戦争を賛美する詩を多く書いた.彼は戦後これを反省し、岩手県花巻市郊外で独居自耕の生活の7年を過ごした。戦中の彼の過ちはどこにあったのか、そして戦後の反省点はどこにあったのか。美と芸術に本質的に潜む危険性を論じたい。

申し込み:
本講義は枝川明敬研究室の特別講義として行われますが、聴講希望を受け付けています。
聴講に関するお問い合わせは以下のアドレスへお願いいたします。
edagawa(at)ms.geidai.ac.jp(枝川明敏教授)

講師の津上氏、昨年刊行された『危険な「美学」』で、「美に生きることの危険」として、光太郎の、特に戦時に於ける「美」が、利用されるだけでなく、自ら暴走を始める危ういものであることを論じていらっしゃいました。


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もう1件。 

期 日 : 第一夜 前編「心平というひと」2020年9月17日(木)001
      第二夜 後編「心平の作品世界」2020年9月18日(金)
時 間 : 19:00~20:20(約80分)
講 師 : 小野浩氏
主 催 : みのおてならい

蛙の詩人・草野心平さんをご存知ですか。まだその存在を世間に知られていない頃、宮沢賢治さんの才能を見い出し、彫刻家の高村光太郎さんとともに、その作品の紹介に力を尽くした功績はよく知られているところですが、では、草野心平さん自身はいったいどんなひとなのでしょう。身分の上下もなく、人間よりもずっと長く地球に存在し続けている蛙を謳いあげる「蛙の詩人」と呼ばれる心平さんは、破天荒なひととしても興味のつきない逸話がたくさん。職を転々としながら、ジグザグロードを進み続け、たとえば、居酒屋「火の車」ではお客よりも酒をあおって酔いつぶれる始末。一方、花を散らした食を粋に味わう、おしゃれな “口福人”であったり。草野心平さんとは、いったいどんなひとだったのでしょう。そして、作品を通して何を伝えたかったのでしょうか。
秋のはじまりのオンライン特別体験会では、福島はいわきのひと、心平さんと同郷の研究者小野浩さんによる、深い共感をこめた夜話を二夜わたって催します。東北、福島へ旅するように、お飲み物片手にゆるりとご参加ください。


準備物:
・Wi-Fiなどの通信環境
・インターネットで動画閲覧できる機器(パソコン、スマホ、タブレットなど)

参加費:各回500円 ※1回だけでもご参加いただけます。

<オンラインで参加について>
・開催にあたってはオンライン動画通信アプリZoomを使用します。
・Zoomで閲覧するだけなら、アカウント設定・登録は必要ありません。 
・入金確認後にお送りするメール記載の招待URLをクリックするか、ZoomアプリにてミーティングIDとパスワードを入力してご参加いただけます。
・Zoomのテスト配信を予定しています。接続に不安のある方はご参加ください。詳細はご希望の方に追ってご案内いたします。  

このブログにもたびたびご登場いただいている、群馬県立女子大学非常勤講師にして元いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩氏が講師を務められます。

サブタイトルがいいですね。「死んだら死んだで生きていくのだ」。こんなことが大まじめに言えてしまうのは心平かバカボンのパパくらいではないでしょうか(笑)。心平には「犬だってニンゲンだ!」という名言(迷言?)もあります(笑)。

今後、こういう形の講座等も普及していくのでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

私の気持ちはいままるで瀧がどっと流れているように思う。

談話筆記「瀧の流れと同じ気持」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村からの上京を決意したことを報じる『読売新聞』の記事に附された談話から。

太田村での生活は、単に蟄居というだけでなく、自ら天職と考えていた彫刻を封印する生活でもありました。その封印を解き、悲願でもあった智恵子像の制作にかかるというわけで、光太郎、齢七十にして「瀧の流れ」のような激情を抑えきれなかったようです。

こういう番組があること自体、存じませんでした。月一回、最終日曜(=月曜未明)に放映されているそうです。

地上波TBS 2020年8月30日(日) 25時20分~26時25分 =8月31日(月) 午前1時20分~2時25分

「東京に空は無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」『智恵子抄』より- “ほんとの空”とは何なのでしょう?番組では、進行性の病で外出できない人、東京大空襲を見た人、光を浴びてはいけない難病の女性、色覚障害の絵本作家など、様々な人の空への思いを取材し、“東京のほんとの空”を描きます。

オリンピック開催を控え、世界の注目を集める東京。最先端の技術や新たな文化・流行が生まれる場所でありながら、歴史と伝統を有する魅力あふれる街。 24 時間眠らないこの街には、およそ1300万人が暮らしています。ある人は夢に情熱を傾け、ある人は人生に苦闘し、さまざまな人生が“東京の空”の下で繰り広げられているのです。“東京”をキーワードに、毎回、この街に生きる人たちを独自の目線で取材。日本の今を見つめる1時間のドキュメンタリーです。

テーマ曲「東京の空」 小田和正

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光太郎詩「あどけない話」、全体を通すモチーフとして使われるようです。まぁ、文学史的な解説等は枕の部分だけのような気もしますが。

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メインは「様々な人の空への思い」。

東京大空襲を見た方。
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光を浴びてはいけない難病の女性。
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色覚障害の絵本作家さん。
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そうした皆さんの“東京のほんとの空”、興味深いところです。

地上波のこの手の番組、地方ですと放映があるのかないのか、あったとしてもいつなのか、わかりかねます。申し訳ありませんが、それぞれのご地域でお調べ下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本の婦人の頭脳がよくないと言はれるのは主に睡眠不足から来るやうに見えます、主婦にしても女中さんにしても毎晩最後まで起きてゐて翌朝は誰よりも先に起き出でねばならぬ状態ですから、常に不足続きで心身共に損ねて行くのに違ひありません

談話筆記「(日本の婦人の頭脳が)」全文 大正10年(1921) 光太郎39歳

当時の『読売新聞』の「お茶うけ」というコラムで、この後に「とは高村光太郎さんのお話です」と続いて全文です。

100年経ってもあまり状況は変わっていないような……。

昨日もちらっとご紹介しましたが、岩手のテレビ局・めんこいテレビさんで1時間の特番が組まれています。 

智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~

めんこいテレビ 2020年8月29日(土)  14時00分~14時55分

彫刻家で詩人の高村光太郎はなぜ岩手の山小屋で7年も独居自炊の生活を送ったのか。美の巨人が貫いた亡き妻・智恵子への愛、岩手の人と自然に対する強い思いに迫る。

日本の近代美術を代表する彫刻家の一人で、詩集「道程」や「智恵子抄」などでも知られる高村光太郎は戦争が終結した昭和20年8月15日を花巻で迎えた…。縁あって宮沢賢治の生家に疎開していた光太郎は終戦後も東京には戻らず、花巻の山小屋で暮らし始める。なぜ光太郎は人里離れた粗末な小屋を終の棲家と決め、7年も暮らしたのか…。番組をナビゲートするのは2人の女性。愛読書は「智恵子抄」、文学者では石川啄木推し!という石橋美希アナウンサー。花巻在住で、雑誌の高村光太郎のレシピ企画に携わっていた和服美人・保坂悦子さん。2人は、光太郎が暮らした花巻市の高村山荘や、智恵子のふるさと福島県二本松市などを訪ねた。“美の巨人"が貫いた亡き妻・智恵子への愛に二人は感動。岩手の自然と人に魅せられた光太郎は山小屋でいったい何を発見したのか。

出演者
 石橋美希(めんこいテレビアナウンサー)
 保坂悦子(花巻市在住・バー経営)
 中村好文(建築家)

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光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんなどでロケが行われています。

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出演者の中に建築がご専門の中村好文氏の名。氏は平成25年(2013)に『小屋から家へ』という書籍を上梓なさっています。光太郎の山小屋、光太郎と交流のあったスキー選手の猪谷六合雄が赤城山に建てた小屋、鴨長明の「方丈」など7つの特徴的な「小屋」を紹介するものです。同年と翌年、同書とリンクする展覧会「中村好文展 小屋においでよ!」が、都内金沢で開催されました。

そういうわけで光太郎の山小屋、さらに建築ということになると、山小屋に移る直前の1ヵ月ほどを過ごし、その後も街に出て来た時は定宿としていた花巻病院長・佐藤隆房邸の離れも取り上げられるそうです。

また、保坂悦子さんという方、おそらく『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの連載「光太郎レシピ」に関わられているのでしょう。山小屋での光太郎の「食」的な内容も盛り込まれているようです。

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さらに、光太郎もたびたび宿泊した大沢温泉さん。

追記 下記カット、大沢温泉さんではなく、志戸平温泉さんでした。

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おそらく後半は、智恵子にスポット。

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智恵子の故郷・福島二本松でのロケも敢行されました。

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二本松霞ヶ城。

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智恵子記念館さん。

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隣接する戸田屋商店さん。

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岩手の皆さん、ぜひご覧下さい。

しかし、岩手のみでの放映というのも勿体ない気がします。めんこいテレビさんはフジテレビさん系列のようで、地上波で、とはいいませんが、BSフジさんあたりででも全国放映していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

詩は小生にとつて生活行動と芸術衝動との安全弁の役をしてゐます。しかしこれではなぜ詩を書くかといふ問の答にはなりませんね。

アンケート「何故詩を書くか」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

彫刻を純粋造型たらしめるため――光太郎曰くの「胸中の氤氳(いんうん)」が彫刻に入り込まないようにするため――に、「胸中の氤氳」は詩として吐き出す、という、他でもよく語られている光太郎の方法論です。

『朝日新聞』さんの岩手版に以下の記事が載りました。 

岩手)光太郎の心、今も 東京で空襲、賢治の縁で疎開

000 岩手県花巻市の中心市街地から南西へ10キロ余り。旧太田村山口の雑木林の中に、彫刻家で詩人の高村光太郎が戦後の7年間を暮らした山荘がある。杉皮ぶきの屋根に板戸、畳3畳しかない粗末なこの小屋に光太郎を導いたのは、宮沢賢治との縁、そして2度の空襲だった。
 1945年4月13日の空襲で東京文京区千駄木の自宅兼アトリエを失った光太郎は翌月、花巻の宮沢家に身を寄せた。賢治の死後に全集や詩碑の建立に尽力した光太郎。それに感謝した賢治の父・政次郎の招きや賢治の主治医・佐藤隆房らを頼っての疎開だった。
003 そのわずか3カ月後、今度は花巻空襲で宮沢家を焼け出され、11月に知人らが世話をしてくれた山口の山荘に移り住んだ。
 冬は零下20度、すきま風や吹雪も舞い込む山荘で7年間も暮らした理由はよくわからない。戦時中、日本文学報国会の詩部会長を務め、多くの戦争協力詩を書いた「自責の念」からの蟄居(ちっきょ)だったとも言われる。ここで自らを省みる詩集「暗愚小伝」も書いている。
 ただ、周囲の知人には「私は静かな山の生活が好きなのです」とも話し、農耕にいそしみ、地域と深く交流もした。ホームスパンを指導し、小学校ではサンタクロースにも扮した。
001 光太郎との記憶は今も残る。農家の三男、藤原秀盛さん(93)は14歳から東京・蒲田の軍需工場で働き、大空襲の火の海の中で九死に一生を得て故郷の太田村に帰り、20歳で開拓に取り組んだ。痩せ地で大豆も実らぬ厳しい暮らし。仲間と気晴らしに郷土芸能のカセ踊りを舞っていたある夜、後ろからついてきた「乞食(こじき)じいさん」が光太郎だった。「いい笛の音色だ。十二支踊りの面をつくって郷土芸能にしよう」と語ったといい、新しい文化の灯をともそうとしてくれた心に藤原さんは思いをはせる。
 渡辺安蔵さん(87)は48年春、光太郎に招かれて山荘に遊びに行った。前年の秋、光太郎と顔見知りだった義父に「外で待っているから米けてやれ」と命じられ、一升を届けたのが出会いだった。「白いひげに法被姿。最初はホイド(乞食)かと思った」
 山荘で、光太郎は外国に行った経験や向こうの子どもの話をしてくれた。日が暮れ、「家さ帰る」と別れを告げると「胸を出してごらん」と言われた。光太郎は大きな手の指先で胸に文字を書き、「心という字だ。『シン』とも読むんだ」と言って送り出してくれた。「本当に温かく、人を引きつける人でした」
002 人と自然を愛し、地元の中学校には「心はいつでもあたらしく」の書を送った光太郎は52年、依頼された十和田湖乙女の像の制作のため、山荘を離れた。「仕事が終わったら山口に帰る」と繰り返していたという。持病の肺結核が悪化し56年、東京で帰らぬ人になった。享年73歳。
 花巻市では毎年5月、山荘で光太郎をしのぶ高村祭が続く。花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長は「戦後の苦しい時代、光太郎先生が地域に残してくれたものはかけがえがない宝。『心はいつでもあたらしく』は、生きる指針です」と話した。(溝口太郎)

今年は戦後75年という節目の年で、各種メディア、例年より戦争特集的な企画が多かったように感じました。この記事もそうした流れの一環かな、と思います。やはりあの戦争による戦後をどのように過ごしたのか、という点に於いて、岩手での光太郎の生き様は一つの指針となるのではないでしょうか。

岩手での光太郎の生き様、といいますと、岩手のローカルテレビ局・いわてめんこいテレビさんで、8月29日(土)、「智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~」という1時間の特番を放映して下さるとのこと。

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高村光太郎の山小屋暮らし7年」といいつつ、智恵子の故郷・二本松でのロケも敢行されています。そちらは明日、ご紹介します(なにぶん、ネタ不足は相変わらずなもので(笑))。


【折々のことば・光太郎】

あの詩集の内容を考えると一つの告白といつたもので文学賞をもらうようなものではなかつた。だから感想といわれても困る。それに年も年だから賞をもらつても感激するということもない。

談話筆記「賞を受けて」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

016「あの詩集」は前年刊行の『典型』、「文学賞」は第二回読売文学賞です。

『典型』は、自らの半生を顧みた連作詩「暗愚小伝」20篇を含む、生前最後の詩集(「選集」等を除いて)。光太郎の詩集というと、第一詩集『道程』(大正3年=1914)や、ベストセラー『智恵子抄』(昭和16年=1941)に注目が集まりがちですが、「到達した境地」ということを考えると、『典型』こそがその総決算であるといえます。

しかし、賞を貰うようなものではないというわけで、このような談話。さらに、当方手持ちの、親しかった詩人の川路柳虹にあてた葉書にも、「拙詩集のプリーはくだらんです。もつと若い人にやるべきだつたと思ひます。」としたためました。「プリー」は「グランプリ(Grand Prix)」などの「Prix」。「栄誉」、「賞」などを表します。

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光太郎、賞金五万円は山小屋近くの山口小学校や地元青年会などにそっくり寄付してしまいました。

8月23日(日)、安曇野市豊科近代美術館さんでの「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」を拝見後、次なる目的地へ。長野県は光太郎ゆかりの人物の記念館等が多く、これまでも何かあって長野に行った際には、ほぼ必ずメインの目的地以外にもう1カ所廻ることにしてきました。

今回は諏訪市の信州風樹文庫さん。

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基本的には図書館的な施設なのですが、「岩波茂雄記念室」が併設されています。

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岩波茂雄は岩波書店の創業者。同社と光太郎の縁は深く、昭和8年(1933)に「岩波講座世界文学」シリーズの『現代の彫刻』を書き下ろしで単独執筆し、同シリーズ中の『近代作家論』(6人による共著)ではベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの評伝を寄せています。また、昭和30年(1955)には美術史家の奥平英雄の編集で『高村光太郎詩集』が岩波文庫のラインナップに組み込まれた他、光太郎歿後、『ロダンの言葉抄』(同35年=1960)、『芸術論集 緑色の太陽』(同57年=1982)も同文庫で刊行されました。さらに、同社刊行の雑誌『図書』にも寄稿しています。

そんな縁から、昭和8年(1933)には、ミレーの「種まく人」をあしらった同社のロゴマークの制作を、岩波が光太郎に依頼しています。ところが光太郎作のものは不採用。しかし、そのあたりの経緯が不分明となっているようで、同社では光太郎作ということで通しています。

また、昭和17年(1942)には、岩波書店店歌「われら文化を」の作詞を光太郎が手がけました。作曲は「海ゆかば」などで有名な信時潔でした。各地の学校の校歌作詞を何度依頼されても、その都度かたくなに拒んだ光太郎ですが、岩波の店歌は例外だったようです。ちなみにもう一つの例外が、戦後の昭和26年(1951)に作った「初夢まりつきうた」。こちらは岩手花巻の商店街の歌的なものです。

記念室では「われら文化を」の紹介もありました。ただ、光太郎自身の筆跡ではありませんでしたが。

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ただ、抜粋でした。作詞が戦時下ということもあり、上記以外に「あめのした 宇(いへ)と為(な)す、 かのいにしへの みことのり。」「おほきみかど のりましし かの五箇条の ちかひぶみ。」といったキナ臭い文言が並んでいるのですが、そこはカットされています。

その他、記念室には岩波の遺品類、書簡類、岩波書店の資料などもいろいろ並んでおり、興味深く拝見しました。特に「おっ」と思ったのは、岩波文庫の巻末に必ず載っている「読書子に寄す」の紙型。

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紙型というより、金属活字の版というべきでしょうか、並べた活字を木枠に収めた状態で展示されていました。

000ところで、高田博厚と岩波の縁も深いものがあります。高田がまだ若造だった大正11年(1922)、岩波書店から『ミケランジエロ伝』の翻訳を上梓しました。原典著者はアスカニオ・コンディヴィ。この翻訳依頼は、はじめ光太郎にもたらされたのですが、光太郎は「ミケランジェロなら、高田という若者が詳しい」と、高田を岩波に紹介しました。もっとも、光太郎、英語や仏語と異なり、イタリア語にまでは通じていなかったためということも考えられますが。

その他にも、高田の著書が岩波書店から複数出版されています。そんなこんなで、高田は岩波の肖像も作っています。「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」でも展示されていました。

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さらにいうなら、戦後の昭和35年(1960)、岩波文庫のラインナップに入った光太郎訳の『ロダンの言葉抄』。編集は高田、それから高田同様に光太郎を敬愛していた彫刻家の菊地一雄です。いろいろ不思議な因縁があるものですね。

さて、風樹文庫さんをあとに、すぐ近くの小泉寺さんという寺院へ。

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こちらの一角に、岩波の生家があったそうで。

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建物はもはやありませんが、やはり岩波と縁の深かった安倍能成の筆になる石碑が建っていました。

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曰く「低処高思」。ワーズワースの詩集から採られた岩波の座右の銘の一つだそうです。原文は「Plain living and high thinking」、「質素なる生活、高遠なる思索」といった意味だとのこと。そういえば、光太郎にも「低きに居む」などの言葉があります。

それにしても信州のこの地域、他にも筑摩書房の古田晁臼井吉見など、光太郎と縁の深かった気骨の出版人を多く輩出しています。そういった土地柄なのでしょうかね。ちなみに当方も父方のルーツは信州ですが。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

さういふ人情をのり越えて必死のことを行ふといふのは、ただわきめもふらずに一番貴いことを行ふといふ根本の精神にばかりいきてゐる清らかな心の者だけにできることである。

散文「神風」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

岩波、そして高田博厚など、「わきめもふらずに一番貴いことを行ふといふ根本の精神にばかりいきてゐる清らかな心の者」と言えるのではなかろうかと思いました。

昨日は日帰りで信州に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

メインの目的は、安曇野市の豊科近代美術館さんで開催中の「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」拝観。高田は、早世した碌山荻原守衛を除き、ほぼ唯一、光太郎が心の底から認めていた同時代の日本人彫刻家です。

企画展は6月から始まっており、早々に招待券を戴いていたのですが、やはりコロナ禍の動向を見極めつつ、と思っておりましたところ、終幕ギリギリとなってしまいました。

朝8時過ぎ、愛車を駆って出発。梅雨明け以来、ほとんど雨が無かった南関東も、昨日はところどころでゲリラ豪雨。湾岸線を走っている頃はけっこうな雨でした。当方、稀代の雨男だった光太郎の魂を背負って移動していますので、むべなるかな、です(笑)。

途中、長野道の梓川SAで昼食を摂りました。同SAの展望台から見た上高地方面。

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大正2年(1913)の今頃、光太郎智恵子があの山上で青春を謳歌していたかと思うと、感慨深いものがありました。

到着は12時過ぎ。現地はピーカン(死語ですね(笑))でした。

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4年ぶり2回目の訪問でした。前回もオリンピックイヤーで、カーナビのテレビで水泳競技の様子を見ながら来たっけな、と思い出しました。

入館し、さて、拝見を始めたところ、当方をご存じの学芸員の方がやって来られました。当方が講師を務めた市民講座を2回、お聴き下さっていたそうで。その後は当方一人に対するギャラリートークという何とも贅沢な状態になりました(笑)。

光太郎はその無名時代から高田の才を認め、昭和6年(1931)の渡仏に際しても「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」を立ち上げ、その趣意書で広く援助を募るなどしました。そして実際に高田は国際的な彫刻家として大成。こうした点も光太郎の審美眼の正しさを証明しているのでしょう。

現物の展示はありませんでしたが、パネル(というかタペストリー)展示で、「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」の一節、さらに光太郎から在仏の高田宛の書簡二通カラーコピーの展示が為されていました。ありがたし。

高田は高田で光太郎への敬愛の念は終始持ち続けていたようです。その一つの表れが、今回の展示の目玉の一つである、パリ時代に制作されたトルソ。「カテドラル」と題され、パリ郊外ランスのノートルダム大聖堂からのインスパイアだそうです。ランスのカテドラルといえば、光太郎が敬愛していたロダンが激賞し、光太郎が訳した『ロダンの言葉』にも記述があるもので、ロダン・光太郎への高田からのオマージュと言えるのではないでしょうか。

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そしてもう一つ、昭和34年(1959)、光太郎没後の作ですが、光太郎胸像。高田は光太郎が歿した後に帰国したので、昭和6年(1931)以来、光太郎には会っていません。そこで、立体写真的に「よく似ている」というわけではありませんが、何といいますか、作品の内側から溢れ出る精神性とでもいいますか、そういったものはまさしく光太郎そのものです。

ちなみに上記画像、平成4年(1992)の開館記念に発行された図録から採らせていただきました。その図録も頂戴してしまいまして、恐縮しきりです。200ページ近い大冊で、光太郎との関わりなどについても言及されています。

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右上はおそらく新しく作られたものでしょう、A4サイズのクリアファイル。やはり光太郎像があしらわれています。こちらはちゃんと買いました(笑)。

常設展も拝見。常設でも高田作品がズラッと並んでいる他、森鷗外や高田同様光太郎と交流のあった画家・宮芳平の作品なども展示されています。

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代表作の「椿」、久しぶりに拝見して、その不思議な世界観、やはりいいなと思いました。

「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」は、8月30日(日)までです。

こちら方面へ行った際には、近隣の光太郎と縁のあった芸術家等の記念館なども訪れることにしております。昨日は帰りがけ、諏訪市の信州風樹文庫さんに立ち寄らせていただきました。こちらには岩波書店の創業者・岩波茂雄の記念室が併設されています。そちらに関しては、また明日。

【折々のことば・光太郎】

一生を棒に振る覚悟がなくては偉大な芸術は生れない。

散文「人事を越ゆ神事 日本精神の極致顕現」より
昭和19年(1944) 光太郎62歳

文章全体は、関行雄海軍大尉(戦死後二階級特進で中佐)率いる神風特別攻撃隊敷島隊所属の五名による、レイテ沖での体当たり特攻に関する内容です。

この時期、批判的なことを書けるはずもなく、仕方がないといえばそれまでかもしれませんが、「五勇士の壮挙に深い感動」「ヤンキーどもには理解できない五勇士の精神」などと、肯定的に記しています。

それにしても「特攻」と「芸術」を同列に論じるとは、何をか言わんや、という感じですが……。

ゲットしました。

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先月発売の「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」の光太郎バージョン。詩「道程」のあまりに有名な一節「僕の前に道はない 僕の後に道は出来る」が印刷されています。

よく行くスーパーにはこの商品を置いておらず、なかなかゲットできていないでいたのですが、ふと思い立ち、普段行かないスーパーに行ったらありました。その店は、先月の発売当初の頃は3月に出たシリーズが並んでいたので、そろそろ新しいシリーズに切り替わっているかな、と思って行ったところ、ビンゴでした。

自宅兼事務所に戻って「yeah!」とか叫んでいたら、ツチノコに「アホですかニャ?」という目で見られました(笑)。

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皆様もぜひお探し下さい。


【折々のことば・光太郎】

一軒の家の前が際立つて美しく清潔に掃き清められ、歩道にあたるところまで涼しげに水が打つてある。店のあとのガラス戸もきれいに磨かれてゐるし、鉢の植木が健康に青々としてゐる。たつたこれだけのことだが、これだけのことが人の心を、こんなに爽かにするするのに驚いた。

散文「街の健康さ」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

平時であれば別になんということのない風景ですが、戦時でおおかたの商店は休業、疎開で空き家となった世帯も多く、家々の窓の手すりなども金属供出で無くなっているという状況下、こういう家があることが心の救いとなっている、というのです。

さらに同じ文章の終末は「私は今出て来た自分の家の埃つぽい入口を思ひ出して恥かしくなつた」と結んでいます。非常時こそ身辺を美しく、という心がけ、たしかになかなか出来そうで出来ませんね。

明朝は当方も自宅兼事務所の周り、桜や紫陽花の落葉が散っていますので、掃き清めようと思いました(笑)。

3件ご紹介します。

まず再放送系を2件。 

日本の名峰・絶景探訪▼雪煙舞う厳冬の安達太良山 福島

BS-TBS 2020年8月25日(火)  午前7時00分~7時54分

悠久の大和の国のかたち山岳列島日本。山、そこには手付かずの原風景が雄大に横たわる。「山岳から仰ぎ見る 絶景の朝日」理屈を抜きの美しさをお届けします!

突風吹きすさぶ稜線には「モンスター」と呼ばれる樹氷など氷雪の造形物が多数見られます。白一色の雪山の中に現れる自然の芸術は、山の表情を豊かにします。安達太良山は寒く厳しいだけではありません。全国でも珍しい、火山の恵み「温泉」が湧く山小屋「くろがね小屋」が登山者たちを温かく迎えます。硫黄の匂いのする乳白色の湯は、単純酸性泉。温泉ソムリエの資格を持ち、温泉レポーターとしても活動する春馬ゆかりさんが、山腹の温泉を堪能します。

出演 女優 春馬ゆかりさん

初回放映は平成26年(2014)。

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女優の春馬ゆかりさんが、タイトル通りの厳冬の安達太良山に登られますが、その前に、「智恵子抄ゆかりの山」的な紹介も。

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また、昨年には『日本の名峰 DVD付きマガジン44 雪煙舞う厳冬の安達太良山』として出版もされています。

もう1件、再放送的な。 

BSテレ東 2020年8月27日(木)  19時55分~20時55分

<内田裕也>ロック秘宝&<勝新太郎>が20世紀最後の巨匠に作らせた豪快お宝に衝撃値■<大友康平>のスゴすぎお宝に超絶値■弥生式土器&秋川雅史の木彫に仰天!

これまで出演した述べ1300人以上のゲストの中から、もう一度見たいあの大物芸能人秘蔵の名品・珍品を一挙大公開!さらに気になるその後の様子はビデオレターでご紹介!女優・中村玉緒のお宝は夫・勝新太郎と「20世紀最後の巨匠」と謳われた画家との友情を物語る大珍品!超ビッグな親子・本木雅弘、内田裕也が持ってきた自らのルーツにまつわるお宝とは!?

出演者 MC 今田耕司 福澤朗   アシスタント 片渕茜(テレビ東京アナウンサー) 
ナレーター 銀河万丈、冨永みーな
鑑定士軍団
中島誠之助(古美術鑑定家) 北原照久(「ブリキのおもちゃ博物館」館長) 安河内眞美(「ギャラリーやすこうち」店主) 山村浩一(「永善堂画廊」代表取締役)

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初回放映はコロナ禍のため収録が不可能だった時期の今年6月、地上波テレ東さんで行われています。その際には気付きませんで、このブログで度ご紹介しませんでした。「これまで出演した述べ1300人以上のゲストの中から、もう一度見たいあの大物芸能人秘蔵の名品・珍品を一挙大公開!」というわけで、昨年放映された、歌手の秋川雅史さんが所蔵されている、光太郎の父・光雲の木彫「寿老舞」も取り上げられました。

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展覧会にも出品されたことのある名品で、鑑定金額は納得の1,200万円。

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ネタばらしですみません(笑)。

続いて、今夜のオンエアです。 

BS朝日 2020年8月22日(土)  18時00分~18時55分

ゲスト 渡辺えり(劇作家、演出家、女優、歌手) 
インタビュアー 石原正康(編集者)

23歳で劇団を立ち上げ、劇作家・演出家・女優の顔を持つ。彼女の作品には弱いものへの共感と傷つけるものへの怒りがあふれている。40年以上、演劇にかけるその半生を問う。

1955年、山形県生まれ。幼い頃は、読み聞かせてもらった物語のその後を想像し、家族に話すのが好きだった。小学校でいじめにあい、2年間ほぼ不登校になった渡辺が立ち直ったきっかけは、小2の学芸会の舞台だったという。高1で、運命を決めた舞台「ガラスの動物園」に出合う。高校卒業後に上京し、舞台芸術学院へ進学。23歳で、専門学校時代の同級生4人と劇団を旗揚げ。28歳のとき、「ゲゲゲのげ」で岸田國士戯曲賞を受賞。人気ドラマ「おしん」に出演し、渡辺の名は全国区に。勢いは止まらず、戯曲や演出、エッセイの依頼、映画出演など仕事が一気に増えた。そんな渡辺が戯曲を書く上で大切にしているのが「全員主役」。その背景とは?そして、昨年の離婚や、コロナウイルスの影響で演劇の再開が見えないとき、助けてくれた沢田研二について、20年待った舞台「女々しき力プロジェクト」を計画した理由なども語る。女性劇作家の先頭に立つ決意に迫る。


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お父様が光太郎と交流があった渡辺えりさん。光太郎を主人公とした「月にぬれた手」というお芝居も書かれています。

そのあたりのお話が出るといいのですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

美とは単に綺麗であることではない。

散文「火を噴く“神州の怒り” 往け・不退転の道
逞しき素朴美で敵撃滅」より
昭和19年(1944) 光太郎62歳

太平洋戦争末期の『朝日新聞』に載った、おそらく談話筆記でしょう。罪深い戦争賛美の内容ですが、部分的には見るべきところもありまして、無駄をそぎ落としたところに美が生じる、といった論には首肯させられます。あくまで部分的には、ですが。

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静岡は伊東で発行されている同人誌的な総合文芸誌『岩漿』の第28号を戴きました。深謝。

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主宰の小山修一氏によるエッセイ「高村光太郎と木下杢太郎」が掲載されており、興味深く拝読しました。

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木下杢太郎は本名・太田正雄。光太郎より2歳年少で、伊東の生まれ。医学博士として大学で教鞭をとりつつ、文学や美術で幅広く活躍しました。光太郎同様、その活動の出発点は雑誌『明星』でしたので、近年、明星研究会さんでは杢太郎もよく取り上げられています。さらに文芸運動「パンの会」の中心メンバーでもあり、光太郎との交流は『明星』や「パンの会」を通してのものでした。

それから、智恵子とも交流があったようで、神奈川近代文学館さんには、明治45年(1912)、智恵子が作家の田村俊子と共に開催した「あねさまとうちわ絵」展の、杢太郎に宛てた案内状が所蔵されています。ちなみに同館には光太郎から杢太郎宛の書簡も多数所蔵があります。

さて、小山氏の稿。杢太郎が、評論家で光太郎とも交流があった野田宇太郎に対して語った「高村君は戦争詩ばかり書かされているようだね。もつと本当の詩があるはずだ。それを書かせようではないか」という発言を引く所から始まります。時に太平洋戦争末期、実際、光太郎は愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っていました。昔からの心ある友人は、こうした光太郎に眉を顰めるというか、真剣に心配していたのでしょう。

しかし、そういう杢太郎自身も、光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会編の翼賛詩集である『辻詩集』(昭和18年=1943)に寄稿しています。ただ、目立った翼賛文学活動はこれだけのようですが。もっとも、既に杢太郎は文学界の第一線からは身を引き、本業の医学者としての活動の方がメインでした。

その杢太郎、終戦直後に病死しています。そこで小山氏、「真の自由への人間解放や人間の尊厳確立、古典研究による教養の獲得などによる人間愛を追求していたユマニテ思想の杢太郎と、厳格に個人主義を標榜していた光太郎。意に反する軍国主義の激動時代を生きた二人が戦後に再会していたなら互いに影響しあい、現代の文化に多大な功績を残したに違いないと思う。」と結ばれています。おそらくその通りですね。

さて、『岩漿』。上記リンクよりお求めいただけると存じます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。

散文「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」より
昭和18年(1943) 光太郎61歳

上記「愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っ」ていたうちの一篇(こうした作品こそ光太郎文学の真骨頂だ、と、涙を流して有り難がる愚物がいて困るのですが)ですが、部分的には首肯できる部分もあるにはあります。それにしてもキナ臭い匂いがしますが……。

昨日に引き続き、花巻ネタで。

地方紙『岩手日日』さんの記事から。 

「智恵子のレモンキャンディ」発売 花巻・高村記念館【岩手】

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、同館オリジナル商品「智恵子のレモンキャンディ」の販売が始まった。道の駅はなまき西南開業に合わせて開発され、同館、同駅で取り扱い中。光太郎詩・レモン哀歌にちなんだネーミングやパッケージデザインが楽しく、観光客らの人気を集めている。
 同駅は、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が花巻居住の拠点とした山小屋から、さほど遠くない立地。駅内には地元ゆかりの偉人について伝える情報発信コーナーがあり、同館や花巻高村光太郎記念会では、PRのためグッズ開発にも力を注ぐ。今春から取り組む光太郎詩「非常の時」関連手作りマスクは、多くの観光客が手にするほど人気という。
 パッケージにはレモン哀歌にちなんだ「トパアズ色の香気が立つ」の一文が添えられ、光太郎と妻・智恵子のエピソードを想起させる挿絵が目を引く。酸味は控えめで、子供にも優しい味わいに仕上がっているのも特徴的だ。
 パッケージ裏面では同館や高村山荘について紹介しており、駅利用者が、花巻と光太郎について知るきっかけづくりにもなりそう。開発に携わった同館スタッフの井形幸江さんは「駅の開業に合わせ、オリジナルで手頃、お土産になる物をみんなで考え合った。味やデザインなど細かいところまでこだわった商品なので、キャンディを通じて光太郎や記念館にも関心を持ってもらえたら」と願う。
 85グラム、約30粒入り。税込み350円。問い合わせは同館=0198(28)3012=まで。

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同館ブログによれば、「道の駅の開業に合わせて、私達も何かお土産になるものを、と昨年から考え、ついに実現したキャンディです。中身の味は勿論、デザインなど細かいところまで検討しました。あまりにも検討しすぎて、納品がギリギリでした。」だそうで。

来月には同館で開催される市民講座の講師を仰せつかっておりますので、買い込んで来たいと存じます。今月オープンした「道の駅はなまき西南」も訪れたいところですし。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

結局文部省あたりであらうが、それは局であらうと課であらうと構はないが、美術はもとより文芸にしても、一般国民生活の上の美に関する條件だとか、古社寺保存の類、名所旧跡も入るし、また芸術家の生活に就ても、それら一切を管轄するところがあつてほしい。

散文「文部省へ 美の問題の統一」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この後の部分では「現状のやうでは問題によつて色色なところへ持つて行かねばならないし、面倒で連絡もとれてゐない。一切のさういふものを、大きくても小さくても係りの者があつて、そこで凡そ美に関する問題を職掌してくれるところが分れば、僕ら国民は大変楽だと思ふ。」と続きます。

横の連携がない、いわゆる「縦割り行政」に対する批判と提言です。80年前もそうだったのですね。

昨日に引き続き、光太郎の父・光雲がらみです。

花巻高村光太郎記念館さんにおいて、以下の展示等が行われます。 

高村光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)

期 日 : 2020年9月4日(金)~9月23日(水)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体


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関連行事000

高村光太郎記念館講座 
「光太郎の父 高村光雲の彫刻に触れる」


 期 日 : 2020年9月15日(火) 
 会 場 : 花巻高村光太郎記念館
 時 間 : 10:00~12:00 
 料 金 : 受講料無料 (要観覧券)
 対 象 : 花巻市内在住・在勤者
 定 員 : 15名 (要予約・抽選)
 講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)


右は『広報はなまき』の8月15日号から。

昨年、光雲四男にして、藤岡家へ養子に入った孟彦(植物学者 明治25=1892~昭和52=1977)の子息であらせられる、横浜ご在住の藤岡貞彦氏(一橋大学名誉教授)から、光雲遺品の木彫「鈿女命」の寄贈がありました。保存状態が余り良くなく、後述しますが傑作とは言い難いものなのですが、それでも貴重な作であることに変わりはなく、ポンと寄贈なさったその心意気にはいたく感動いたしました。

当方、花巻市の担当の方と共に藤岡家に参じまして、現物を拝見。その後、いろいろと調査を進めました。

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題材は日本神話の八百万の神の一柱、天鈿女命(あめのうずめのみこと)。弟・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の暴虐に心を痛めた天照大神が、天岩戸に籠もって世界が暗闇となった時、思金神(おもいかねのかみ)の発案により、天鈿女命が岩戸の前で扇情的な踊りを披露、はやし立てる神々の歓声を不思議に思った天照大神 が岩戸の隙間から顔を覗かせたところを、力自慢の天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が引き出したという神話が残っています。

おそらく桜材の一木造りで、銘は入って居らず、細かな仕上げも為されていないため、習作あるいは制作途中の作品である可能性が高いのですが、細部の表現の仕方等、光雲木彫の特徴がよく表れています。

各種の制作のために光雲が描いた下絵類の中に、天鈿女命を描いたものが現存しますが、これまでに光雲作の天鈿女命像は他に類例が確認できておらず、貴重な作です。

製作年は詳らかに出来ませんが、箱書きは光太郎の筆跡により、昭和10年(1935)に書かれています。前年に歿した光雲の形見分けとして孟彦に伝えられ、おそらく箱書きもその時点で為されたのでしょう。光太郎が自身の木彫を納める袱紗(ふくさ)や袋、 水墨で描いた絵画等に使った印が捺されています。

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展示では像と箱、それから光雲の代表作の写真を十数葉(当方がお貸ししました)並べます。

それから関連行事として、市民講座。光雲と光太郎について、いろいろお話しさせていただこうと思っております。

コロナ禍のため、今年に入ってからのこの手の仕事はこれまですべてキャンセルとなっており(この後予定されていたものでもキャンセルになったのがありますし)、久々の講師拝命です。やはりコロナ禍のため、定員は当初予定より大幅に少なくして15名。花巻市在住・在勤の方限定です(が、個人的に当方をよくご存じの方、応相談です(笑))。

展示期間があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

新しい人達のものが満載してあるので、よむのがたのしみです。

散文「詩華集『航海』読後感」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

雑誌『詩集』第三巻第一号掲載。「読後感」といいつつ、受贈の礼状をそのまま引用したようです。光太郎、後進の若い詩人たちに対しては、常に温かいまなざしを送っていました。

詩華集『航海』は、前年に発行されたもので、池永治雄、岡田淑子、下條綾子、八百坂芳夫、佐野嶽夫、横堀真太郎の七人によるアンソロジーです。

『読売新聞』さん、8月11日(火)に「文化財の受難 破壊、略奪続く 「人類の遺産」 問われる国際協力」という記事が掲載されました。

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戦後75年に関してのもので、まずは太平洋戦争により、日本国内で破壊された文化財の紹介から。原爆投下により倒壊した当時の国宝・広島城天守と共に、空襲で焼失した芝増上寺さんの「台徳院殿霊廟」について触れられています。2代将軍秀忠を祀ったもので、後の日光東照宮の原型となったとも云われていました。
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現存していれば、都心で「世界遺産」が見られたかも知れない、という紹介が為されていました。

記事に使われていた写真は、明治43年(1910)、光太郎の父・光雲らの監修によって、東京美術学校で制作された模型。英王室に献上されていましたが、平成26年(2014)に里帰りし、現在は増上寺さんの宝物展示室に収められています。

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記事本体には記述がありませんでしたが、キャプションには光雲の名が記されていました。

さらに「文化財の受難 破壊、略奪続く」という見出しの通り、カンボジアのアンコール遺跡、アフガニスタンのバーミヤン遺跡、さらにシリアのパルミラ遺跡などについても言及されています。ついでに言うなら、かつて日本軍が破壊したアジアの文化財についても記述があれば、とは思いましたが。

戦災で、というわけではありませんが、実にばかばかしい「金属供出」によって喪われた光雲・光太郎作品も少なくありません。光雲だと「長岡護全銅像」「西村勝三像」、「坂本東嶽像」「活人剣の碑」など。光太郎作は「浅見与一右衛門銅像」「青沼彦治像」「赤星朝暉胸像」。同時代の彫刻家のさまざまな作品も、供出の憂き目にあっています。

当然、こうした「モノ」だけでなく「人」もたくさん喪われているわけで、つくづく、戦争はいかんと思います。


【折々のことば・光太郎】

私はやつぱり歩んで行かう。何処へ、何処へ。何処へと問ふのは間違つてゐる。歩む事を歩むのだ。

散文「西洋画所見 十二」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

『読売新聞』に連載された「西洋画所見」。「一」から「十一」までは筑摩書房『高村光太郎全集』第六巻に掲載されていましたが、最終回に当たる「十二」が脱漏していました。

昨今流行の「文豪」ものの新刊です。 

2020年8月20日 板野博行著 三笠書房(王様文庫) 定価780円+税

いくら天才作家だからって、ここまでやっていいものか――? 
誰もが知る文豪の「やばすぎる素顔」に迫る本。

酒も女も、挫折も借金も……全部、「小説のネタ」だった!?
「あの名作」は、こうして生まれた!

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目次
 はじめに――酒も女も、挫折も借金も……全部「小説のネタ」だった!?
 1章 「天才」って、ホントつらいんですよ……「ブッ飛んだ感性&行状」にもほどがある!
  ハチャメチャな生き方で女にもてまくり! 太宰治
  滅びの美学を表明! 「憂国」の天才作家 三島由紀夫
  ギョロ目のノーベル賞作家はちょっとロリコン
!? 川端康成
  「狂気」に飲み込まれる前に死んでしまいたい 芥川龍之介
  ケンカ上等
!! 神童、かくして悪童になる 中原中也
  知の巨人は「痴の巨人」でもあった? 森鷗外
  元祖ニート! 結婚後も親にたかりまくる 萩原朔太郎
  ソドム(背徳)の徒が仕込んだ「檸檬」爆弾 梶井基次郎
 2章 「愛欲生活」すなわち「文章修業」
!?
……先生方、それはちょっとハッチャケすぎでは
  性的倒錯のめくるめく世界へ! 谷崎潤一郎
  ストリップ劇場と私娼街に通い詰めた男 永井荷風
  あつすぎる血潮! ブッ飛んだ情熱歌人 与謝野晶子
  姦通罪で「名声ドボン!」のエキゾチック詩人 北原白秋
  女弟子の「蒲団」の残り香を涙ながらに嗅ぐ男 田山花袋
  「家族計画」ゼロ! 血縁の呪縛に懊悩した 島崎藤村
  「純愛一筋」から「火宅の人」に大豹変! 檀一雄
  ブッ飛びの「お嬢様ワールド」全開! 岡本かの子
 3章 「金の苦労」があの名作を生んだ! 
……「追い詰められる」ほどに冴えわたる才能!?
  なぞの自信で短歌連発! 天才的たかり魔 石川啄木
  金の使い道の最善は「女へやる事」と豪語 直木三十五
  「東大教授の椅子」を蹴った理由は年俸額 夏目漱石
  匹婦の腹に生まれた「ザ・苦労人」 室生犀星
  生活力なし! ヒロポン中毒の大阪人 織田作之助
  十七歳で一家の大黒柱!「薄幸の天才」 樋口一葉
  酒びたり放浪生活で「パンクな句」を連発! 種田山頭火
 4章 「ピュアすぎる」のも考えもの……どうしても“突き詰めず”にはいられない!
  ハンサムが台無し! 心中して腐乱死体で発見 有島武郎
  日本酒すら煮立てて飲む「潔癖症」 泉鏡花
  智恵子との「ピュアピュア♡」な関係 高村光太郎
  ゴッホ同様、生前まったく売れず! 宮沢賢治
  お目出たき人人すぎる「上流階級の坊っちゃん」 武者小路実篤
  「知識人の懊悩」に精通した大秀才 中島敦
  「生きよ、墜ちよ」と煽った文壇の寵児 坂口安吾
 5章 「変人たちのボス」はやっぱり変人
……「君臨する」気持ちよさって、癖になっちゃう!
  文壇のドンは日本一の食道楽 尾崎紅葉
  「文春砲」を作った男 菊池寛
  「小説の神様」は「情事も神業」 志賀直哉
  谷崎から妻を譲り受けた「門弟三千人」の男 佐藤春夫
  生きるために「猛烈に食った」男 正岡子規
  「伝説の劇団」を主宰! 言葉の錬金術師 寺山修司
 コラム 作家の子供たち/キラキラネームの元祖!?/文士と薬物
     国木田独歩と有島武郎/言文一致運動

特に目新しいことが書いてあるわけではないのですが、肩のこらない「文豪」たちの入門編としてはなかなかよくできています。

光太郎の項は、智恵子との生活が中心(戦中戦後、そして最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作にも触れられています)。

その中で、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)からエピソードが引かれています。すなわち、「裸の光太郎の背中の上に、同じく裸の智恵子が乗って、「お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた」というもの。たしかに犀星、このように書き残していますが、これが事実なのかどうか、眉唾の部分もあります。犀星は話の出所を明記していませんし、当方、寡聞にしてこれ以外にこのエピソードが書かれたものを知りません。演劇などではこのシーンを使う場合がありますが。

しかし、板野氏による「小さなアトリエの中は二人だけの世界であり、一つの宇宙だった。世間から遮断されたその生活は、貧しくとも芸術のために捧げられた美しさがあった」という指摘はその通りだと思いました。

他に光太郎と交流の深かった面々もいろいろと紹介されています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

家屋なるものは衣食住の住のみを以て能事終れりとしては居られない。只住むといふ以外に何等か求むる処がなければならぬと云ふ事が感付かれる。

散文「曽遊紀念帖」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『旅行』に載った散文で、留学で滞在したパリ市内の建築や公園などの様子が紹介されています。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第21号が届きました。

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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。今号は「梅酒とナスとキュウリの煮びたし」だそうで。

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自宅兼事務所の庭にもナスがなっています。当方は好きではないので食べませんが(笑)。

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「食べません」といえば、昨年、碌山美術館さんで種をいただいてきたソバ。昨年植えて、結構花が咲いて実がなりましたが、蕎麦を打てるほどには収穫できませんでしたので、種を取っておき、今年も植えたら咲きました。もっぱらベランダでの観賞用です。

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「ベランダでの観賞用」といえば、右上の花。近くの駐車場に生えていたのを取ってきました。可憐な水色の花がいい感じなのですが、名前が判りません。草花に詳しい方、ご教示いただければ幸いです。

閑話休題。もう一つ「マチココ」さんで紹介されている梅酒。「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「梅酒」(昭和15年=1940)が元ネタですね。

   梅酒
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 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

狂瀾怒濤の世界の叫」は、この年開戦の第二次世界大戦。昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化の様相を呈していました。

光太郎、智恵子を喪った心の空隙を埋めるように、すでに大量の空虚な翼賛詩を書き殴るようになっていました。しかし、亡き智恵子を思い起こす時(「あはれな一個の生命を正視する時」)のみ、「世界はただこれを遠巻にする」というのです。

しかし、局面打開のため、翌年には太平洋戦争へと突入。そうなると、公表される光太郎詩はそのほとんどが翼賛詩。智恵子が謳われることはありませんでした。

再び詩の中に智恵子が蘇るのは、終戦後の昭和20年(1945)の智恵子命日(10月5日)に書かれた「松庵寺」においてでした。

今号の『マチココ』さん、奥付では8月10日(月)の発行となっていますが、ちょうど終戦記念日ころ読者に届くということで、このような選択にしたのかも、などと思いました。考え過ぎかも知れませんが。

『マチココ』さん、オンラインで定期購読の手続きが可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

家庭の雑事を女の人が受持つてゐるのはたいへんなものですね。僕は自分でそれをやつてゐるからよく分ります。

座談会筆録「新女性美の創造」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

智恵子が亡くなりすでに3年、そしてこの後も約15年間、光太郎は「家庭の雑事」をほぼ自分一人でやり続けました。「業績」というには語弊がありますが、こうした点も光太郎の偉いところだと思います。

J-POPアーティスト・米津玄師さんのニューアルバム「STRAY SHEEP」を購入しました。

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ブルーレイ/DVD、アートブックなどの付録がいろいろ選べるさまざまな「○○盤」が出ていますが、CDのみの通常盤を買いました。

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米津さんご自身が、「智恵子抄」収録の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっている「Lemon」をはじめ、「カムパネルラ」、そして表題作の「迷える羊」など、近代文学の香りがプンプンします。

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念のため書いておきますが、「カムパネルラ」は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の登場人物、「迷える羊(STRAY SHEEP)」は夏目漱石の「三四郎」で、ヒロインの美禰子が口にするセリフです。さらに遡れば元ネタは「聖書」ですが。また、蛇足ながら美禰子のモデルは、智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した日本女子大学校の先輩・平塚らいてうとも言われています。

その他、ドラマやCMのタイアップソングが多いので、いつの間にか耳にしていた曲がいろいろ収録されており、コアなファンの皆さんにとっては「何を今さら」なのでしょうが、当方など、「ああ、この曲も米津さんだったか」というものが複数ありました。

 01. カムパネルラ
 02. Flamingo  ソニーワイヤレスヘッドホンCM
 03. 感電  TBS系金曜ドラマ「MIU404」主題歌
 04. PLACEBO + 野田洋次郎
 05. パプリカ
 06. 馬と鹿  TBS系日曜劇場「ノーサイド・ゲーム」主題歌
 07. 優しい人
 08. Lemon TBS系金曜ドラマ「アンナチュラル」主題歌
 09. まちがいさがし
 10. ひまわり
 11. 迷える羊  カロリーメイトCM
 12. Décolleté
 13. TEENAGE RIOT  ギャツビーCM
 14. 海の幽霊  映画「海獣の子供」主題歌
 15. カナリヤ

アルバム全体を貫く一本の芯のようなものと、それぞれ違った彩りを見せる各曲のテイストと、そのあたりのバランスが絶妙だな、と感じます。そういう意味では、優れた詩人の「詩集」にも通じるところがあるのではないでしょうか。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

このさき、どうして金をとつて勉強していゝか、初めて世の中へ抛り出されて途方に暮れながら、第五街の下宿の窓から、街路の突き当たりに、まんまろく出た満月を見て、故郷の父母弟妹のことを思ひ、止度(とめど)なく涙の出たのを忘れません。

アンケート「私が一番深く印象された月夜の思出 文芸家三十六氏の回答」より
大正11年(1922) 光太郎40歳

雑誌『主婦之友』第六巻第十二号掲載。アンケート全体の題名以外に、各回答者の回答に小題が別に付けられています。光太郎の項は「紐育の満月」。明治38年(1905)、3年半にわたる海外留学の、最初に落ち着いたニューヨークでの思い出です。

無理くりですが、米津さんの歌の歌詞になりそうなシチュエーションですね(笑)。

ハードカバーの文庫化です。今朝の『朝日新聞』さんには大きく広告も出ていました。 

2020年8月7日 伊集院静著 双葉社(双葉文庫) 定価800円+税

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郷里の山口から上京した青年・詩人美。中原中也、高村光太郎などを詩を愛する心優しい青年は、新宿・歌舞伎町で暮らす叔父の無塁のもとに身を寄せた。詩人美は叔父のもとで様々な人と出逢い、恋をしたり、勝負の厳しさを味わったり人として成長していく。伊集院静でなければ描けない極上の青春物語。

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元版は平成30年(2018)に同じ双葉社さんからハードカバーで出ていました。その時点では光太郎がらみとは存じませんで、文庫化されて初めて購入した次第です。

当方、伊集院さんの小説はこれまで読んだことがありませんで、こういう小説を書かれる方なのか、と思いました。ただ、小説ではない、古今の「書」を紹介する『文字に美はありや』(平成30年=2018 文藝春秋)という書籍は拝読しており、その軽妙かつ奥深い内容には僭越ながら感心致しておりました。

さて、双葉社さんのサイトには「極上の青春物語」とありますが、健全な青少年には薦めにくい一冊ですね。主人公の詩人美(しじみ)、18歳で上京し、破天荒な叔父の無累(むーる)の元に身を寄せつつ、競馬、麻雀、丁半博打、競輪等のさまざまなギャンブルや、風俗嬢との恋などを通して成長して行く、というストーリーです。途中、詳細は略されつつ、3年ほどアジア各地を放浪、という設定にもなっています。そういうわけで健全な青少年は決して真似をしないように(笑)、です。ただ、そうした自分では決して歩まないような山あり谷ありの人生を追体験できるというのが、小説を読む醍醐味の一つではありますので、そういう意味ではよろしいか、と。

同じくギャンブル狂の天衣無縫な叔父や周辺人物のセリフにも、人生訓が散りばめられています(かなり強引ですが(笑))。

さて、主人公が詩人美(しじみ)という名前ですので、さまざまな近代詩がモチーフとして現れます。最も多く引用されるのは、中原中也の「ポツカリ月が出ましたら/舟を浮べて出掛けませう。」の「湖上」(昭和5年=1930)。その他、萩原朔太郎や石川啄木、そして光太郎。

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お約束の(笑)「道程」(大正3年=1914)が使われています。

しかし、どうもこの1カ所だけかな、という感じです。ただ、500ページ超の分厚いもので、まだ5分の3ほどしか読了していませんので、終盤にまた出てくるようなことがあったらすみません(笑)。

とにもかくにもお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私のやうな無風流漢には趣味ある探しものなど、めつたにありません。唯年中探し求めてゐるのはよいもでるです。

散文「探してゐるもの」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

『東京朝日新聞』に載った文章の一節ですが、アンケートに近いものがあるようで、同じ題で吉野作造の文章も掲載されています。また「もでる」と平仮名表記になっているあたり、談話筆記なのかな、という気もします。

で、「もでる」は彫刻のモデルです。大正時代、まだ美術家たちはモデルを雇うのに苦労していました。竹久夢二や伊藤晴雨が使った佐々木カネヨ(お葉)のような職業的なモデルもいましたが、光太郎、そういうモデルには食指が動かなかったようです。そこでモデル募集の新聞広告を出したりもしたのですが、うまく行きませんでした。

智恵子の故郷、福島は二本松からキャンペーン情報です。 

開催期間 : 2020年8月8日(土)~2020年10月11日(日)
応募期間 : 2020年10月20日(火)まで

参加方法
 道の駅安達智恵子の里上り線 道の駅安達智恵子の里下り線 
 道の駅ふくしま東和 
道の駅さくらの郷 安達ヶ原ふるさと村 
 上記の各施設で、1会計につき500円以上のご利用でスタンプがもらえます。
 ※コンビニは除く

 スタンプラリー応募には、上記の施設のスタンプ3コ以上の押印が必要です。
 (道の駅ふくしま東和と道の駅さくらの郷は必須となります)

景品
 パーフェクト賞 170名様 スタンプ5コ/岳温泉宿泊券など
 がんばったで賞 80名様  スタンプ3コ以上/二本松市特産品など
 応募者の中から抽選により賞品をプレゼントします。
 発表は、当選通知または賞品の発送をもってかえさせていただきます。

応募方法
 スタンプが集まりましたら、応募票に必要事項を記入し、各施設窓口で確認を受けスタッフにお渡しください。各施設の確認を受けていない応募票は無効とさせていただきます。

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二本松市内4カ所の道の駅と、安達ヶ原ふるさと村さんの5カ所で500円以上の買い物をしてもらえるスタンプを、専用の用紙で集めて回るというものです。

チラシの周辺観光施設等紹介には、智恵子生家/智恵子記念館や、その裏手の鞍石山などの案内も。

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ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

この四五年、夏になるときつと繰返し読む書物が二つあります、一つは『維摩経』。鬱蒼とした此の思想の森林を縦横に歩き廻る快味は比類少なく、殊に其のてきぱきした問答からは凉風がまき起るのを感じます。

散文「維摩経、自選日記」より 大正13年(1924) 光太郎41歳

「維摩経」は全編戯曲的な構成の中に旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場から大乗仏教の「空」の思想を説いた仏典です。

「凉風がまき起る」なら読んでみようかな、という気にもなりますね。というか、この紹介の仕方が絶妙というべきですか。

もう一冊挙げているのは、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの「自選日記」。光太郎の訳が『白樺』などに掲載され、大正10年(1921)には単行書として刊行されました。ここではその原典を指しているのでしょう。

毎年夏に、青森県十和田湖畔で行われている「十和田湖湖水まつり」。コロナ禍のため今年は中止と思いきや、時期と形を変えての実施だそうです。 

期 日  : 2020年8月28日(金)~8月30日(日)
会 場  : 十和田湖畔休屋地区
問合せ : 十和田湖観光交流センターぷらっと 0176-75-1531

願いを込めた1,000個の「スカイランタン」が、十和田湖の夜空へ浮かび上がる!
自然豊かな十和田八幡平国立公園にある十和田湖休屋で、スカイランタンを打ち上げるお祭りを開催します。
打ち上げ会場は、青森県と秋田県の県境にある桂ヶ浜。湖面には、オレンジやブルーのスカイランタンの光が映し出され、幻想的な世界をお楽しみいただけます。
また、会場ではマルシェをはじめ、スカイランタンにつけられる短冊やバルーン、アイロンビーズの
ワークショップを開催します。それぞれの願いや思いを込めて、一斉に夜空へ打ち上げよう!

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短冊に願い事を書いたスカイランタンを大空へ
 スカイランタン打ち上げ(要予約)料金:3,000円(税込)
 スカイランタンにはヘリウムガスを浮力とし、LEDランプを内蔵、
 細い糸付きでリリースし、イベント終了後お持ち帰りいただけます。
 申し込み方法 プランを選択し、WEBにて決済。
 観覧入場無料(新型コロナウイルス感染予防対策のガイドラインに則り登録が必要となります)

とわだこマルシェ
 8/29(土)、30(日) ※28日は開催なし 11:00〜20:30

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例年ですと、花火の打ち上げやカヌー体験、そして光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されていましたが、今年は大幅に内容を変更し、ランタン打ち上げをメインとするとのこと。また、時期的にも7月中旬だったのが、8月末に変更になっています。

ランタンの打ち上げ、静かなブームですね。光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による仁王像のライトアップが為される信州善光寺さんの「長野灯明まつり」などでも実施されています。

コロナ感染症拡大防止にお気を付けつつ、都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

わかくて、新らしくて、水々しくて みみつちくて、アンチイムで かうなると ヴイユ・コロムビエよりもいいな

詩「カジノ・フオリイはいいな」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

004詩「カジノ・フオリイはいいな」は、筑摩書房『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)以後、唯一新たに見つかった詩です。

「カジノ・フォーリー」は、昭和4年(1929)、浅草水族館二階の余興場を本拠として設立された軽演劇団。エノケンこと榎本健一が在籍し、分派等の曲折を経て同8年(1933)まで存続し、一世を風靡しました。川端康成が小説「浅草紅団」で取り上げたことでも有名です。宣伝のための雑誌『カジノ・フオーリー』が発行され、その創刊号にこの詩が載りました。

「アンチイム」は仏語「intime」、「くつろいでいるさま、親しいさま」。「ヴイユ・コロムビエ」はパリ6区のヴィユ・コロンビエ通りに立つ劇場。フランス現代演劇の発信地でした。

全国31局のコミュニティFM局でオンエアされているラジオ番組で、「仮面女子 雪乃しほりのワクワクサワー」という番組があるそうです。

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そちらで、「智恵子抄」へのオマージュ的な「ほんとうの空・青い空」というラジオドラマが放送されるそうです。ネット局によって放送日時が異なりますが、8月17日(月)~8月23日(日)にかけてとのこと。


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画像クリックで拡大します。


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オンラインでも、ウェブサイト/スマホアプリの「ListenRadio(リスラジ)」を使えば聴取可能のようです。

ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

日本画なんか日本で威張つてゐるけれども、向ふの絵の側に持つていつて見ると、影法師で、薄つぺらで、見られやしない。さういふことがわかつて来て、それで本格的な絵ができて来る。

座談会筆録「菊池寛・尾崎士郎・高村光太郎文化鼎談」より
昭和16年(1941) 光太郎59歳

6月18日の収録です。この日に行われた大政翼賛会中央協力会議に各界代表として出席し、発言した菊地・尾崎と共に行った座談会の筆録から。

光太郎の日本画嫌いは筋金入りで、他にも同様の発言は多々見られます。実際、戦後になると、東山魁夷ら新しい日本画家は、西洋画に伍する新しい日本画の創出に腐心したわけで、その意味では光太郎の予言通りになったということになります。

昨日、8月9日(日)は、本来、宮城県女川町で第29回女川光太郎祭が開かれているはずでした。

例年であれば、県内外の方々による光太郎詩文の朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんの歌やギタリスト・宮川菊佳さんの演奏、当方の連続講演など。

過去の様子はこちら。

平成29年(2017) 平成30年(2018) 令和元年(2019)

今年は、コロナ禍のため、地元の皆さんで、朗読等も割愛し、光太郎文学碑に献花のみ、という予定で、本宮さんと当方も参列させていただく予定でしたが、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が、ということで、それも中止となってしまいました。

あの東日本大震災のあった平成23年(2011)でさえ、細々とながら途絶えさせることのなかった女川光太郎祭が、このような形で中止となったのは、非常に残念です。

ことに今年は、かつて連続講演をなさっていた当会顧問であらせられた北川太一先生がお亡くなりになった年でもありますし、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑再建のお披露目も兼ねるということでしたので、二重、三重に残念です。

元々、女川光太郎祭が開かれるようになった契機は、平成3年(1991)に、当時の女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられたこと。昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎が女川にも滞在した事を記念しての事業でした。

建立費用は大口スポンサーに頼らない「百円募金」で集め、その精神が同じ女川の「いのちの石碑」に受け継がれました。
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同じ年に碑のお披露目記念ということで、仙道作三氏作曲・北川先生監修のオペラ「智恵子抄」が女川で上演され(智恵子役は本宮さんでした)、翌年から碑の前で光太郎祭が開かれることとなったわけです。

建立当時の碑がこちら。

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しかし、先述の通り、平成23年(2011)、東日本大震災の津波で碑は倒壊、4基あったうち2基は流失し、碑の建立や光太郎祭の開催に尽力されていた、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣氏も、還らぬ人となってしまいました。しかし、奥様の英子さんがその遺志を継がれました。

残った二基の碑、震災の翌年には、まだ半分水没している状態でした。これでも干潮時です。

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平成26年(2014)、陸に引き上げられ……。

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その後、昨年まではこんな感じでした。

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メインの碑は100㌧だかあるそうで、これを起こすだけでもものすごい労力だそうで……。

それが、一帯をメモリアルゾーンとして整備する中で、すぐ近くの津波で横倒しになった旧女川交番が、今年3月に整備完了。

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それに続き、春には光太郎文学碑も引き起こされたそうです。

コミュニティーラジオ局・OnagawaFM(女川さいがいFM)さんの先月のツイートから。

今朝の女川町は湿気多めの曇り空です。
最近、公園地区がかなり出来てきました。
長い間倒れていた高村光太郎さんの詩碑もしっかり立ち上がりました。

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本来なら、昨日、第29回女川光太郎祭で、この碑に献花だったわけです。

コロナ禍収束・終息後、訪れるつもりで居ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

日本人は可愛らしい、可憐のような、愛すべきやうな即ちジヨリイの方が多くて、本当に美しい人、つまりしつかりして頼母しいやうな美しさ、即ちベルな人、フランスといふとローラン夫人、そんな風の美しさが、日本にはないのではないかと思ふ。

座談会筆録「現代女性美を語る 各専門家の見た美人の標準」より
昭和4年(1929) 光太郎47歳

朝日新聞社の主催で開催されたミスコン「女性美代表審査会」の審査員による講評座談会の一節です。審査員は光太郎以外に藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、藤懸静也(美術史家)、杉田直樹(医学博士)、西成甫(解剖学者)、村山知義(劇作家)、鏑木清方。ミスコンといっても、写真審査のみでした。

ちなみに光太郎の父・光雲は、日本初のミスコンといわれる明治41年(1908)の「令嬢美人写真募集」で審査員を務めました。親子二代で何をやってるんだか感がありますが(笑)。

「ローラン夫人」はフランス革命後の混乱時に断頭台で処刑されたジロンド派党員かと推定されます。「ジヨリイ」、「ベル」は共に仏語で、「joli=かわいい」、「belle=美しい」。現代でも女性を評するのにこうした基準で語られることが多いように感じます。昭和初期の日本には、真の意味で「belle=美しい」の女性が居ないと、光太郎は嘆きました。現代ではそんなことは無いように思われますが……。

昨日に続き、岩手県花巻市、花巻高村光太郎記念館さんにほどちかい場所にオーピンした「道の駅「はなまき西南」賢治と光太郎の郷(さと)」についてです。

岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでは、賢治・光太郎コーナーについても触れて下さいました。 

新しい道の駅に地元で人気の焼き肉店 花巻市にオープン

岩手県内では34駅目となる新しい道の駅が花巻市に8月7日オープンした。地元で30年以上愛されている焼き肉店が、この施設の中に移転し、おいしいホルモンを楽しめる。
7日オープンしたのは花巻南インターチェンジから車で約7分ほどの所に出来た道の駅「はなまき西南」。愛称は「賢治と光太郎の郷」。休憩所には花巻市にゆかりのある宮沢賢治と高村光太郎の資料が展示されている。
道の駅には3つのテナントが入っていて、産直ではその日地元でとれたばかりの新鮮な野菜が並んでいる。
買い物に来ていた女性
「うれしいですよ。地元の物も出るし盛り上げていきたい」
なかでも30年以上前から地元で愛されている焼き肉食堂「味楽苑」は移転オープンし、人気メニューの「ささまホルモン」が注目を集めている。
報告:森尾 絵美里 アナ
「ホルモン大好きなんです。いただきます。噛めば噛むほどあぶらがしっかり出てきます」
他にも近隣の高齢者へお弁当の配達をするなど「地域を支える拠点」としての役割を担っている。
産直は9時から。味楽苑は11時からオープンし、年中無休で営業する予定だという。

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他の報道は賢治・光太郎コーナーには触れられませんでしたが、一応。

岩手朝日テレビさん。 

道の駅はなまき西南 開所式

花巻市に新しい道の駅がオープンしました。
施設には県内の道の駅としては初出店となるある店舗も!花巻市轟木の県道13号沿いにオープンしたのは、道の駅「はなまき西南」です。
店が少ないこの地域の活性化につなげたいという住民の要望により整備されました。
産直には開店と同時に多くの人が訪れ地元でとれたおよそ30種類の新鮮野菜が並びます。
また、オープンを記念して、一般的に流通していないワインの搾カスをブレンドした特別なエサで育った花巻産の黒毛和牛が販売されているほか、先着でもちのお振る舞いもありました。
弁当やお惣菜を販売するこちらの店では、地域の高齢者世帯に弁当を配達するとともに、声かけや見守りをする活動にも取り組むということです。
市内の店舗で30年あまりに渡り営業してきた味楽苑が道の駅に移転しました。
県内34の道の駅で焼肉店の出店は初めてで、訪れた人たちは店自慢のホルモンをさっそく味わっていました。
地元の期待に応えオープンした道の駅「はなまき西南」。地域のにぎわいの拠点となることが期待されます。

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さらに地方紙。

『岩手日日』さん。 

地域支える拠点に 道の駅「はなまき西南開業」

014 県内34ヶ所、花巻市内4カ所目となる道の駅「はなまき西南」は7日、同市轟木にオープンし、開所式が行われた。休憩所や産直、焼き肉レストランなどを備える地域特性を生かした駅で、式後は多くの買い物客らが待望のオープンを喜び合った。
 式には上田東一市長や国交省岩手河川国道事務所の平井康幸所長、地元選出県議、地権者ら約30人が出席。上田市長が「地域の特性を生かした個性豊かな玄関口として、地域活性化に大きな効果をもたらすと期待している。地域を支える拠点として末永く愛され、利用されることを願う」と式辞を寄せた。
 神事に続いてテープカット、くす玉開きを行い営業開始。長い行列をつくった市民らが次々に入店し、産直「すぎの樹」で買い物などを楽しんでいた。レジ先着200人には記念の紅白餅が手渡され、店内に笑顔が広がっていた。
 主要地方道森岡和賀線笹間バイパス利用者の利便性向上、地域特性を生かしたにぎわいの場創出を狙った整備内容は来店者にも大好評。仕事で同道を走行する機会が多いという北上市常盤台の自営業八重樫實さん(75)は「今までの産直(すぎの樹)も利用していたが、こちらの道路沿いにある方が利用しやすい。車を運転する者にとっては休憩も出来て便利。近くに食堂がない場所なので(焼き肉などを提供する)レストランが入ったのもいい」と歓迎していた。
 道路管理者の県と花巻市による一体型整備で、敷地面積は8,219平方メートル。建物は鉄骨平屋建ての床面積951.60平方メートルで敷地内に大型12台、小型36台、身障者用1台、二輪4台の駐車場を備える。管理運営は西南地域住民や市、JAいわて花巻などが出資する「はなまき西南」で、駅長を務める同社の安藤功一さん(62)は「地元の小中学生らとも連携を深め、地域の人たちが気軽に立ち寄れる施設にしていきたい。全国から訪れる観光客の案内も上手にできるようにしなければ」と気を引き締めていた。
 道路利用者の休憩や買い物などの利便性向上のほか、弁当宅配サービスなどで地域の高齢者見守り機能を果たすのも特徴的。加工施設には地域の女性でつくる加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」が入り、地元農産物を使った弁当や総菜などを販売する。

『岩手日報』さん。 

道の駅オープン 産直や焼き肉店が入居

024 花巻市轟木の道の駅はなまき西南(安藤功一駅長)は7日、オープンした。県道盛岡和賀線沿いで交通アクセスが良く、初日から多くの人でにぎわった。産直や焼き肉店などが入居し、地域振興の拠点として役割が期待される。
 花巻農協直営の産直「すぎの樹」は、レタスやキャベツ、ズッキーニなどの野菜を通常30~40品目販売する。
 焼き肉店の味楽苑(鈴木貫(とおる)店長)では多くの家族連れらがテーブルを囲み、名物の「笹間ホルモン」を焼いたり、冷麺などを味わった。


当方自宅兼事務所のある千葉県香取市近隣、道の駅は3カ所あります。どこも他にはない特色を打ち出し、それなりに繁昌しています。

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しかし、少し離れたところにある道の駅の中には、閑散としているところも。そういうところは立地条件も確かに良くないのかもしれませんが、やはりあまり特徴らしい特徴が見えず、魅力に乏しいように思われます。

「道の駅「はなまき西南」賢治と光太郎の郷」、そうならないようになってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩とは気である 気の実である 短句揮毫 昭和16年(1941) 光太郎59歳

光太郎は「詩魂」という言葉も好んで使いました。その人間の根幹をなすものがそれで、そこから外部に出てくるものが詩なり造形芸術なりの、その人にとっての「実」なのだというわけですね。

というわけで、何度かご紹介して参りました、花巻高村光太郎記念館さんにほど近い、道の駅「はなまき西南」(愛称「賢治と光太郎の郷」)が、昨日、オープンしました。2回に分けてご紹介します。

テレビ岩手さんローカルニュースから。 

岩手県花巻市 道の駅「はなまき西南」オープン

岩手県花巻市に市内4か所目となる道の駅が7日オープンし、記念のセレモニーが行われた。セレモニーでは、関係者がくす玉とテープカットで新しい道の駅のオープンを祝った。花巻市内としては18年振り、4か所目の整備となった道の駅『はなまき西南』は、延べ床面積約950平方メートルで、地元の朝採れ野菜が並ぶ産直コーナーのほか、道の駅には珍しい焼肉店がある。こちらの店は地元で30年以上営業していた人気店だが、今回の道の駅オープンに合わせて運営会社から依頼を受け、地域のためになるならと移転を決めたという。県道13号線沿いに整備された道の駅『はなまき西南』は、地域の賑わいの場としても期待されている。

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続いてIBC岩手放送さん。ちなみにキャスターは先日の「わが町バンザイ」でレポーターをルロメられた奥村奈穂美アナでした。 

県内34か所目の道の駅「道の駅はなまき西南」オープン/岩手・花巻市

岩手県内34か所目となる道の駅が花巻市に誕生し、開所式が行われました。地域の食を支える拠点として、地元住民から大きな期待が寄せられています。
花巻市轟木に新たにオープンしたのは「道の駅はなまき西南」で、7日は開所式が行われ関係者がテープカットでオープンを祝いました。道の駅はなまき西南は総事業費およそ8億4000万円で整備され、鉄骨平屋建の施設は産直コーナー、惣菜コーナー、焼肉店、休憩所の4つのコーナーに分かれています。
オープン前には200人を超える人たちが、行列を作るほどの盛況ぶり。オープンとともに地元で採れた新鮮な野菜や、果物などを買い求めていました。道の駅はなまき西南は土産品も充実していて、地域の人たちと観光客の交流の場として貢献しそうです。

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愛称が「賢治と光太郎の郷」ということですが、そのあたりに触れられて居らず、残念でした。

愛称のとおり、2人の紹介コーナーも設けられています。花巻高村光太郎記念会さんのブログサイト「森のたより」から画像を拝借。


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説明板、地元の方が書かれたものですが、原稿がこちらに廻って参りまして、憚りながら校訂、加筆させていただきました。


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グッズコーナーも。

地域活性化に大きな効果をもたらすことが期待されます。その拠点として末永く愛されてほしいものです。

明日もこの項続けます。


【折々のことば・光太郎】

自国の国民性を自覚する事は、自己の血を洗ふ事である。自国の国民性を知る事は、自己の天然を知る事である。此の意味に於てのみ、自国々民性の考察が私に強い執着を持つて来る。

翻訳「日本の国民性に就いて考ふ」前書きより
 大正4年(1915) 光太郎33歳

中国に滞在していた親友の陶芸家バーナード・リーチからの長い手紙を翻訳し、雑誌『智仁勇』に発表、その前書きの部分からの抜粋です。

幼稚なネトウヨのように、いたずらに自国の国民性の優越を誇るのではなく、自己のアイデンティティーの特性をとらえるために、自国の国民性を考えるべきとの言です。

光太郎智恵子の名は出て来ないかもしれませんが、ゆかりの地などを扱うテレビ番組、放映日時順に3件ご紹介します。 NHK Eテレ 2020年8月9日(日) 9時00分~9時45分 再放送8月16日(日) 20時00分~20時45分

700点を超える戦没画学生の遺作を所蔵する『無言館』。館長窪島誠一郎(78)が収集をはじめたのは、戦争の記憶の風化が叫ばれた戦後50年1995年のことだった。半世紀の時を越え、若き画家たちの作品と出会った瞬間の衝撃。そこには50年の歳月の重みがあった。絵の中に込められた“熱き思い”と半世紀という時間の中で確実に劣化していく絵の運命。そのリアルを伝えるか。修復家山領まりと窪島誠一郎の戦いを見つめる。

出演 作家/美術館館主…窪島誠一郎 絵画修復家…山領まり
司会 小野正嗣 柴田祐規子

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戦後75年の節目の年らしく、長野県上田市の無言館さんが取り上げられます。こちらは太平洋戦争で亡くなった戦没画学生の遺作・遺品等が展示されています。

作品が展示されている戦没画学生の多くは東京美術学校西洋画科の出身でした。光太郎も留学前の一時期、彫刻科を卒業してから西洋画科に入り直していますので、その意味では光太郎の後輩達です。また、西洋画科以外でも、もろ光太郎の後輩となる彫刻科、さらに光太郎実弟の豊周が教授を務めていた鋳金科出身の人々の作品も展示されていました。中には光太郎の書いた翼賛詩文を読んで奮い立った学生や、ことによると出征前に光太郎のアトリエに挨拶に来たなどという学生もいたかも知れません(無事復員できましたが、画家・深沢省三/紅子夫妻の子息で彫刻科出身の故・深沢竜一氏もそうでした)。

 

なりゆき街道旅【九十九里で夏の海を満喫! 豪華浜焼き&高級魚釣り!癒やしの温泉】

フジテレビ 2020年8月9日(日)  12時00分~14時00分

今週は、個性派女優久保田磨希&ロッチ中岡創一と夏を満喫、九十九里を旅! 中岡の運転でビーチラインをドライブ! 旬のハマグリ、特大岩牡蠣、伊勢海老、アワビと超豪華浜焼き!徳川家ゆかりのパワースポット日吉神社を参拝! 超お得な農業体験スポットでジャンボにんにく&もぎたてトマト…夏野菜収穫! 手ぶらで海釣りが楽しめる関東最大の海の釣り堀で、高級魚ヒラマサが爆釣! さらに白子温泉のしょっぱい湯で体の芯まで癒やされる!

出演者 澤部佑(ハライチ)  豪華ゲスト 他

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昭和9年(1934)、智恵子が半年あまり療養していた九十九里浜が取り上げられます。

この番組、7月5日(日)放映分に、当会会友・渡辺えりさんがご出演。この時期はリモート収録でしたが、上野が取り上げられ、国立西洋美術館のからみでロダン、そしてお父様がロダンを敬愛していた光太郎と交流があったということで、ちらっとそのお話をなさってくださいました。

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当方、その部分は見逃しました。階下で愚妻が「渡辺えりさんが光太郎の話をしているよ!」と教えてくれたのですが、急いで居間に降りていったところ、すでにその話は終わっていました。その後のえりさんの暴走ぶりはしっかり拝見しましたが(笑)。

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もう1件。 

秘湯ロマン

テレビ朝日 2020年8月9日(日)27時00分~27時30分=8月10日(月)午前3時00分~3時30分

日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は栃木県、塩の湯温泉「柏屋旅館」・馬頭温泉郷「元湯 東家」。

◇出演者 旅人 吉山りさ  ナレーション 丸山未沙希

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柏屋旅館さんは、昭和8年(1933)、心の病が昂進した智恵子を連れて、東北/北関東の温泉廻りを約1ヵ月した際、最後に逗留したところです。公式サイトにも光太郎智恵子の名を出して下さっていますので、期待したいところです。岳温泉の回では、光太郎智恵子の名を出して下さいましたし。

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それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

美の深さは測り知れない人間必須の深さである。

散文「飛行機の美」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

雑誌『飛行日本』に載った比較的長い散文からの抜粋です。戦闘機や爆撃機の無駄をそぎ落としたフォルムの美しさを、茶室との対比で語っています。

曰く、「美が物体から遊離してゐるものでなくて、物体そのものの機構が即ち美しいのだといふ原理をよく示してゐる点で、飛行機の美は茶室の美と似てゐる。一方は動の極、一方は静の極でありながら、どちらむ無駄をあくまで除ききつて、其上、その性能を最大限に発揮するやうに工夫されてゐる。かういふ角度から追求された造型物は、欲せずしても美に到達せずにはゐない。

言わんとする所は「用の美」なのですが、戦闘機や爆撃機が殺戮のための兵器であるという視点がすっぽり抜け落ちています……。

昨日に引き続き、地方紙『福島民友』さんに載った、当会の祖・草野心平顕彰の記事を。 

ふくしま物語のステージ 【草野心平の詩(中)】平伏沼「月夜」 水辺に実る『奇妙な果実』

003  森を甘く見ていた。平伏(へぶす)沼は、県道から林道へそれ10キロ弱先の山奥にあった。車で進めど進めど森の中である。日暮れが近い。焦り始めた頃ようやく着いた。
 草野心平が川内村の南西部にある平伏沼を初めて訪れたのは1953(昭和28)年9月2日。
 そもそも心平が川内村を初めて訪れた目的は、平伏沼探訪だった。きっかけは、49年2月1日付読売新聞に掲載された心平の随筆「背戸峨廊」。その中で心平は「カエルの詩人」らしく、モリアオガエルを見る機会がない―と記し、これに対し、川内村・長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルがすむ沼が村にあるので来てほしいと手紙を出したのだった。
 それから4年後、心平は53年8月29日から9月3日まで川内村に滞在し、平伏沼へは村をたつ前日訪れたらしい。車が少ない時代、心平は森をかき分け進んだのだろう。

深い森...奥に沼
 現在、森は変わらず深いが、道は舗装され、沼の手前には駐車場もある。沼は、モリアオガエルの生息地として国の天然記念物に指定された名所で、自然観察会も開かれるという。しかし今年はコロナ禍で観察会は軒並み中止だそうだ。梅雨時はモリアオガエルの産卵期と重なるため、例年は見学者も多そうだが、今は人けがない。
 駐車場から沼へ約120メートル、静かな森の中を歩く。小雨が降り始めたが、頭上を木々が厚く覆っているため、雨音はしても、体は雨粒を感じない。ささやかな幸運を感謝していると、行く手にぽっかり空間が開けた。
 平伏沼の周りは、なんとも不思議な雰囲気が漂う。
 雨で少しけぶった沼は、そう大きくはない。枝を広げた広葉樹が水際を覆い、中央だけが、ほんのり明るい。聴こえるのは、かすかな雨音と、時折遠くで鳴くウグイスの声だけ。水面に広がる同心円に見とれた。
 ふと視線を上げると、沼にせり出した枝から下がる灰色の物体に気付いた。モリアオガエルが産み付けた卵塊だ。想像以上に大きい。大きめのメロンほどか。まさに奇妙な果実。よく見ると、方々にぶら下がっている。
 この世の光景ではない。何というか...神話の世界である。
 しかしカエルの姿は、目を凝らしても見つからなかった。
 辺りが暗くなり、慌てて山を下りた。そんな調子だから、後から気付いたのだが、沼のほとりには心平の歌碑がある。刻まれている歌は
 〈うまわるや森の蛙は阿武隈の平伏の沼べ水楢のかげ〉
 「うまわる」は「生まれて、増える」の意。情景を切り取りつつ、葉裏にひそむ森の蛙(かえる)たちの、たくましい生命力をたたえている。豊穣(ほうじょう)を意味する古い言葉からは「古事記」的な世界を連想する。やはり心平も、沼べで神話の舞台を見たのかな、などと我田引水し悦に入る。
 ただ、気になるのは、平伏沼について書いた心平の作品が、この歌以外に見当たらないことだ。なぜだろうと考えていると、一つ思い当たった。天山文庫の「十三夜の池」である。

光景写した庭
 天山文庫は、建物も庭も村を挙げての勤労奉仕で建設された。このうち庭造りでは「心平先生が、庭の真ん中の石に腰掛け『それはここに植えっか』など、人々が持ち寄った草木の移植場所などを指示していた」と川内村の副村長、猪狩貢(みつぎ)さん(70)は振り返る。
 こうして整えられた庭の中で、十三夜の池は建物の真正面に配置された。そして「木々が大きくなっても、先生は伐採せず自然のままで置きたいと考えていた」と猪狩さんが話すように現在、池の周りは草木が生い茂り、森のようになっている。
 つまり心平は、平伏沼の光景を写し庭を造り、これで十分と、平伏沼の詩は詠まなかったのではないか...。まあ、それは強引だが、森の沼の光景が彼と共鳴したのは確かなことだろう。
 心平の詩「月夜」。〈空と沼と。/十日の月は二つ浮び。/そのセロファンの水底の。/もやもやの藻も透いてみえる。(後略)〉(表記はハルキ文庫「草野心平詩集」による)。平伏沼訪問前の作で、心平の中には以前から、月夜の沼のイメージがあったことが分かる。
 彼は、川内村を訪れ自身の心象風景と出合ってしまったのかなと思う。

高校野球を応援、気さくな人柄
 川内村副村長の猪狩貢さんが、草野心平と出会ったのは、猪狩さんが村役場に就職した1968(昭和43)年。天山文庫の庭造りが行われていた。「庭に植える木は、心平先生が村民に呼び掛けて、山から持ってきてもらっていた。われわれ村の職員も、ヤマツツジを持って行ったりした。そんな(自分で直接人に頼む)ところが、先生の人柄でした」
 心平の野球好きを伝える逸話も多い。「村に滞在中の7、8月は高校野球の県大会を見に、いわきや郡山、福島に出掛けていた。多分母校の磐城高を応援してたのでしょう」
 村恒例の盆野球大会でも心平は必ず始球式に出て、試合も熱心に観戦したという。役場チームで投手だった猪狩さんは「私は左投げなので、先生から『ぎっちょ(左利き)頑張れ』と声を掛けられた」と振り返る。
 心平は川内のどこに引かれたのだろう。そう聞くと猪狩さんは「村民の人柄と自然だったと思います。村民は訪れた人に最初は遠慮します。しかし天山祭りや野球を通じ知った先生の人柄がとても気さくで、村民も近づきやすかった。それで互いに打ち解けたのでしょうね」と話していた。
          ◇
平伏沼 川内村上川内の平伏山頂(842メートル)にある楕円(だえん)形の沼。面積12アール。自然のたまり水で水量は一定していない。6月下旬から7月上旬、モリアオガエルが沼べの樹上に多数の泡状の卵塊を懸け繁殖する。卵塊は昔「延命小袋」と称し珍重された。現在は平伏沼が、モリアオガエル繁殖地として国の天然記念物に指定されている。
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002アクセス 平伏沼へは、県道36号(小野富岡線)の子安川バス停から林道に入り10キロ弱。または同県道の平伏沼口バス停から林道に入り約6キロ。通行止めに注意。
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モリアオガエル 森にすみ、樹上で集団産卵する。体色が周囲の木の葉と同じ緑色のため、識別が難しい。指の先端に吸盤があり、木の枝や葉に張り付き産卵する。
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天山文庫 草野心平が川内村に贈った書籍類を収める施設。設立に際しては川端康成ら多くの文学者が発起人となり、詩人や作家、出版社も本を寄贈した。現在約3000冊を収蔵。本館の近くには酒樽(さかだる)を使い作った「第2文庫」「第3文庫」が立つ。名称は、心平が故郷の小川に開いた貸本屋と同じ名を付けた。月曜休館。問い合わせはかわうち草野心平記念館(電話0240・38・2076)へ。

中編では、心平と川内村との縁を取り持ったモリアオガエル繁殖地の平伏沼(へぶすぬま)、それから昨日もご紹介した天山文庫がメインです。

平伏沼には当方、平成25年(2013)に訪れました。当時はシャコタンにしたスポーツタイプの旧車でしたので、記事に有るようにたどり着くまでが大変でした。天山文庫の庭に作られた池(十三夜の池)が、平伏沼を模したものかもしれないという説、なるほどね、と思いました。

心平と野球についてはこちら。心平母校の磐城高校さん、今春開催予定だったセンバツ甲子園に出場予定でしたが大会はコロナ禍で中止。残念に思っておりましたが、夏の甲子園も中止となり、センバツの代替として、交流試合が開催されることになり、8月15日(土)に国士舘高校さん(東京)との対戦が決まりました。奇しくもお盆。川内村の「盆野球」を思い起こしました。


さて、今秋月曜掲載の後編も。 

ふくしま物語のステージ 【草野心平の詩(下)】噛む・少年思慕調 悪童を詩人にした...故郷

006 川内村から山越えの県道を南へ車で走る。いわき市に入り約30キロ。夏井川渓谷沿いの県道を下っていくと、左右の視界が開けた辺りに、詩人草野心平の故郷、いわき市小川町がある。

とがった行動
 小川では確かめたいことがあった。心平は人生の後半、川内の人と自然を愛した。一方、故郷との関係は、足を運んだ回数から見て淡泊に思える。この差は何だろう。思いつく理由は、故郷への愛憎入り交じった感情だ。心平の友人、中原中也も詩「帰郷」で「ああ おまえはなにをして来たのだと......吹き来る風が私に云う」と詠んだ、あの苦い思いである。
 山に囲まれた田園の一隅に、心平の生家がある。厳密には生家跡に復元された木造平屋の建物。そんな昔ながらの民家で1903(明治36)年、心平は地主の家の次男として生まれた。
 家族は祖父母と両親、兄と姉。しかし、4年後の妹が生まれた年、両親と3人のきょうだいは上京し、心平だけが生家で祖父母に育てられた。ここだけ見ると線の細い少年像が思い浮かぶが、彼の年譜などを読むと、それが見当外れだと分かる。
 まず、祖父母に溺愛され、わがままのし放題。癇(かん)も強く、誰彼となくかみついたり、小学校では授業中に鉛筆や教科書の縁をかみちぎったり...。
 当時の鬱屈(うっくつ)を振り返った心平の詩が「噛(か)む 少年思慕調」だ。
〈阿武隈山脈はなだらかだった。/(1行あき)だのに自分は。/よく噛んだ。/鉛筆の軸も。/鉛色の芯も。/(1行あき)阿武隈の天は青く。/雲は悠悠ながれてゐた。(後略)〉
 旧制磐城中に入学すると、文学とはほぼ無縁で、女学校の生徒に片思いするが、教室では教師をいびり、応援団長になった双葉中との野球の試合では大げんか。立派な悪童ぶりで4年生の秋、同校を中退、16歳で故郷を飛び出すように上京した。
 心平の「とがった」行動の背景には、家族の病気と死もあった。心平が小学6年の冬から中学1年の夏、東京の兄民平(16歳)、小川で療養中だった母トメヨ(46歳)が結核で死去し、姉綾子(22歳)も療養先で腸チフスのため亡くなった。
 故郷を飛び出した心平に、地元の人々も冷淡だったようだ。心平生家でボランティアをしているKさん(72)とYさん(71)は「『あの(心平の)家は、働かない(田畑に出ない)ので没落した』とか大人たちが言っていた。『すごい』となったのは、心平さんが文化勲章を受章してから。小川にはあまり来なかったのでは」と言う。
 散々な言われように、心平も足が向かなかったのかなと思いつつ、生家内を見学するとパネルに書かれた詩が目に留まった。詩「上小川村」は〈ブリキ屋のとなりは下駄屋。〉など、心平が記憶の中の故郷の情景をつづった一編。鬱屈を振り払うように飛び出た故郷への思慕が、なんだか切ない。

愛着強かった
 しかし、次に訪れたいわき市立草野心平記念文学館では、そんなセンチメンタルな思い込みは一蹴された。
 同館の馬目聖子学芸員いわく。まず、心平は最初の詩集「廃園の喇叭(らっぱ)」を帰郷し小川小で印刷した。仕事のない24歳の時は小川に戻り農業をしようとした。戦後、中国から引き揚げて来たのも小川で、この時、地元の名勝に「背戸峨廊」と命名した。そして晩年、川内村で倒れた時、運ばれたのも、いわき市の病院だった―など。心平さん、実は度々故郷を頼り里帰りしていたのだ。
 「心平にとって故郷は、戻りたくない場所ではなかったと思う。むしろ愛着は強かった。川内は理想の田舎で、小川は自分を知っている人が多すぎて居づらかったのだろう、と話す人もいます」
 馬目さんによると、心平は戦後、自分が「天」という言葉を多用していることに気付いたという。詩「噛む」にもあった。
〈(前略)その二箭山(フタツヤサン)のガギガギザラザラが。/少年の頃の自分だった。/(1行あき)阿武隈の天は青く。/雲は悠悠流れてゐたのに。〉
 二箭山は小川から見える山。屈託を抱えた少年を詩人にしたのは、故郷の空だったのだろう。(岩波文庫版「草野心平詩集」、「草野心平 わが青春の記」など参考)

007草野心平記念文学館 常設展示で心平の生涯と作品を紹介するほか、心平やゆかりの文学者などの企画展を開催している=写真。ガラス張りの壁面からは、心平が詩にも詠んだ二ツ箭山(約710メートル)が一望できる。月曜と年末年始休館。(電話)0246・83・0005
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草野心平生家 戦後の草野家の居宅を基に復元された。心平の詩や写真、朗読(音声ガイド)などで心平と故郷のかかわりを紹介している。敷地の蔵跡には、心平の弟で詩人の草野天平の詩碑が立つ。月曜と年末年始休館。観覧無料。(電話)0246・83・2901
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小川郷駅 心平も旧制磐城中への通学で利用した磐越東線の駅。当時運行本数が少なく心平は2年生ぐらいまで徒歩で登校した。心平と二ツ箭山に登ったことのある作家串田孫一が、心平に「前から読んでも後ろから読んでも同じ駅名は」「答えはOGAWAGO」だと教えた―との逸話がある。
          ◇
アクセス いわき市小川町は、常磐線いわき駅から車で約20分。常磐道いわき中央インターチェンジ(IC)からは約20分。磐越東線小川郷駅前からは、文学館、生家とも車で約5分。タクシーは要予約。

当方何度もお邪魔しているいわき市の草野心平記念文学館さん、そこからほど近い心平生家などが取り上げられました。

串田孫一が、心平に「前から読んでも後ろから読んでも同じ駅名は」「答えはOGAWAGO」だと教えた―との逸話」。郷土愛に溢れていますね(笑)。おそらく串田の用意していた正解は、特にローマ字とは言わなかったとすれば「田端(たばた)」、ローマ字を想定していたのなら「赤坂(AKASAKA)」ではないかと思うのですが(それぞれけっこう有名なので)。

さて、平伏沼、心平記念館さん、心平生家などなど、コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

「少しでも得な道を歩こう」「一代のうちに安楽な道を選ぼう」……これでは駄目です。自分は、どうなってもいいから……最善をつくしてですね……子孫のことを思うようにならなければ……将来のことを。

講演会筆録「高村光太郎講演会」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

最近また依頼がありまして、今年1月に亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼文を書いています。復員後、「後半生」というにはあまりに長い時間を、光太郎の書き残したものや、周辺人物の証言など、「資料」の収集に当たられたその業績は、まさに「子孫」=「次の世代」を思ってのお仕事だったのだな、と改めて感じています。

光太郎晩年や没後、心平も北川先生ともどもそうした仕事にあたっていました。重ねて感謝の意を表したいと存じます。

当会の祖・草野心平に関し、出身地・福島の地方紙『福島民友』さんで、先月から一昨日にかけ、3回にわたって大きく取り上げて下さっています。2回に分けてご紹介します。 

ふくしま物語のステージ 【草野心平の詩(上)】天山文庫「誕生祭」 命あふれる森を愛して

 自然豊かな福島県では昔から、叙情に富んだ多彩な物語が紡がれてきた。表現の形も、詩歌や芸能、映画や音楽、アニメなどと多様化し、フィールドを広げている。今、世の中では『新しい生活様式』が求められ、時代は大きな曲がり角にある。しかし、どんな時代にも古びることのないドラマが、私たちの身近に息づいている。福島県の魅力に満ちた物語の舞台を訪ねる。

 草野心平という詩人は、とらえどころがない、と思う。
 カエルを詠(うた)った詩が多く、「カエルの詩人」と呼ばれる。出身地いわきの人々に言わせれば、詩「上小川村」(詩集『牡丹園』)などで故郷を詠った叙情の人であるかもしれない。
 個人的には、男声合唱組曲となった詩集「富士山」の印象が強烈だ。叙情の中で、硬くドライな言葉がきらめく。
 いずれにせよ、草野心平とその詩には親しみはあるが、実はあまり知らない。そんなことを考えながら阿武隈山地の東端にある山里、川内村へ向かった。

005木炭が100俵?
 川内村は、心平が人生の後半で深く関わった土地だ。
 心平の年譜では、彼が村を初めて訪れたのは1953(昭和28)年、50歳の年。モリアオガエルのすむ沼がある―という、村の僧侶からの手紙がきっかけだった。それから数年、心平が度々訪れ、村と詩人の仲は深まっていったらしい。そして63歳から85歳で亡くなる直前まで、毎年のように村を訪れ滞在した。この頻繁な来訪の契機となり、彼が村での住み家としたのが「天山文庫」だった。
 なんだか詩人の草庵のようだが、どんな山奥にあるのだろう。そう思っていたら、村の中心部、農協が立つ交差点の近くで「かわうち草野心平記念館 天山文庫」の看板を見つけた。
 向山という小山の緑の中に天山文庫はあった。その手前の草野心平資料館で、天山文庫管理人の志賀風夏さんに話を聞いた。志賀さんは地元出身の25歳。管理人3年目だが、母校の川内一小、川内中では心平作詞の校歌を歌い、天山文庫には遠足で来ていた。その地元っ子に「そもそも天山文庫って何ですか」とおずおずと尋ねた。
 天山文庫は、心平から寄贈された書籍類を収蔵する図書施設「心平文庫」として村が計画し66年、現在地に完成した。その発端の逸話が愉快だ。
 心平作詞の小学校歌が発表された60年、川内村は心平に名誉村民の称号を贈ることを決め、本人も「本当は断るが『名誉村民』は面白い」と承諾した。その翌年1月、村は1年目の褒賞として、村で焼いた木炭を東京・新宿の心平宅にトラックで届けた。心平も返礼に自宅に山積みにしていた蔵書の一部を贈り、木炭を積んできたトラックが本を載せ村へ帰った。
 ただ、木炭は100俵あった。燃料の大量保管には法的規制があり、それ以前に置く場所がない。「心平さんは木炭を学校など方々に配ったり、大変だったらしく『もう木炭はやめてくれ』となりました。それで村も一生分の木炭を贈る経費で、本を収める仮称『心平文庫』の建設を決めたんです」と志賀さん。
 村も心平も、少し滑稽だが粋だ。何より楽しそうだ。そう言うと志賀さんも「だから心平さんも、村に居着いたんでしょうね」と笑った。

酒宴引き継ぐ
 資料館から坂道を上って行くと、青ガエルが足元を横切った。森にあふれる命を感じる。途中、酒樽(さかだる)を改造した二つの書庫を見学し、少し行くと木立の間に、かやぶき屋根が現れた。
 天山文庫のそう大きくない建物は結構モダンだ。60年近く前の木造建築とは思えない清明さがある。玄関を入るとすぐに小さな図書室。2階には6畳の寝室があり、ふすまに「い、ろ、は」と書いた心平の筆字が残る。
 1階の広々した居間からは、庭と森、山里の風景も見える。磨き込まれた板張りの床は、秋には紅葉を映すという。片隅の囲炉裏(いろり)と鉄瓶も気になる。志賀さんが「心平さんと村の人たちは、一緒にお酒を飲むことが多かったようです。地元のどぶろくや魚、山菜を持ち寄って」と話していた。この居間で心平は詩を書き、板画家の棟方志功ら友人らと語り合ったというが、当然酒盛りになったのだろう。
 彼らの酒宴は、毎年7月16日の文庫の落成記念日前後に開かれる「天山祭り」によって引き継がれたようだ。心平没後も、池のある文庫の庭で村内外の人々が杯を酌み交わすという。その光景を想像すると、心平の詩「誕生祭」の一節と結び付いた。生命があふれ歓喜する光景だ。
〈飲めや歌へだ。ともうじやぼじやぼじやぼじやぼのひかりの渦。/泥鰌(どぢやう)はきらつとはねあがり。/無数無数の蛍はながれもつれあふ。〉(表記は岩波文庫版「草野心平詩集」による)
 今年の天山祭りは、コロナ禍で中止になった。こんな時、心平なら、どんな詩を詠んだだろう。

川内村 浜通り中部に位置し、人口約2600人。平均標高456メートルで大部分を山林が占める。モリアオガエルの生息地平伏(へぶす)沼、サラサドウダンが咲く高塚高原、イワナの生息地千翁川などの名所が知られる。特産品はそば、凍(し)み餅、乾燥シイタケなど。イワナ料理などが楽しめる「いわなの郷」、温泉施設「かわうちの湯」がある。詳しくは川内村公式ホームページか同村観光協会(電話0240・38・2346)へ。
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004アクセス 川内村へは車なら磐越道・小野インターチェンジ(IC)か船引三春ICから約40分、常磐道・常磐富岡ICから約20分。JR利用の場合は磐越東線の船引、夏井、小野新町、神俣各駅、常磐線・富岡駅それぞれの近くから川内方面への路線バスが出ている。
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草野心平 1903(明治36)年、石城郡上小川村(現いわき市小川町)で誕生。磐城中を4年で中退後、上京。18歳で中国・広州の嶺南大に入学し、在学中詩作を始める。戦前から昭和末期まで「第百階級」「定本 蛙」「マンモスの牙」、年1冊刊行した年次詩集など多数の詩集を残し、中原中也らと創刊した「歴程」など多くの同人誌を刊行した。84年いわき市名誉市民、87年文化勲章。88年没。
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かわうち草野心平記念館 天山文庫と草野心平資料館(阿武隈民芸館)の総称。観覧料は一般300円、学生250円、小中学生150円。月曜休館。問い合わせは同記念館(電話0240・38・2076)へ。


当方も何度か訪れさせていただいた、川内村での心平別邸・天山文庫が取り上げられています。生前の心平が愛し、現在は心平を偲ぶよすがとなっている「天山祭」会場ともなっています。設立準備委員には16名の錚々たる顔ぶれが名を連ねました。井上靖、金子光晴、唐木順三、河上徹太郎、川端康成、小林勇、武田泰淳、谷川徹三、中野重治、西脇順三郎、古田晁、松方三郎、武者小路実篤、村野四郎、山本健吉、そして光太郎実弟の豊周。

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喧噪とは無縁の、とてもいい場所です。コロナ禍収束・終息後、ぜひ足をお運び下さい。

第2回、3回の中編・後編は明日紹介します。

その前に、テレビ番組で川内村が取り上げられますので、そのご紹介を。 

東北推し!ココに福あり fMAP「#18 ふくしま“美し水”巡り」

NHK BS1 2020年8月6日(木)24時27分~24時55分=8月7日(金)0時27分~0時55分

豊かな水をたたえる福島。そこには、水を生かす暮らしがある。食べ物をおいしくする湧き水や開拓者によって守られてきた疎水、清流の里の幻の魚など福島の水の恵みを描く。

無数に流れる川に大きな湖や沼、そして豊富な雪解け水。福島は、水をたたえる地だ。そこには、水の恵みを生かす人々の暮らしがある。磐梯山麓の懐、数千年枯れたことがない湧水は食べ物をおいしくするという。また、郡山にはふるさとを築いた“命の水”を守り続ける開拓者の末えいたちがいる。そして、清流の里・川内村には、原発事故からふるさとのシンボルを守ろうと奮闘する男性がいた。福島の人々の水にまつわる物語を紡ぐ。

出演 語り・池津祥子 秋山美和さん(磐梯町) 渡辺秀朗さん(川内村) 武田幸夫さん(郡山市)


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NHKさんの福島放送局制作の番組で(以前に智恵子の故郷・二本松の岳温泉も取り上げられました)、県内では既に7月17日(金)に放映されたとのこと。それによれば「ふるさとのシンボル」というのは、イワナだそうです。そう言えば、天山祭りの際に饗されるお昼の弁当には必ず付いています。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

どんな愉しみがあるかとの御質問ですが、あまりいろいろあつて返事に困ります。畑の栽培でも第一に挙げませう。天候や蟲や病気とたたかひながらいろんな蔬菜類を育て、研究するのがなんとも言へずたのしみです。毎日自然に足が畑の方へ出ます。あとは読書、山野の跋渉でもあげませう。

アンケート「近頃の私の愉しみ 葉書回答」全文
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活です。

普段は都内で生活していた心平も、天山文庫を訪れた際には同じようなことを考えたのではないでしょうか。

ゆかりの文学館、二館でのミニ展示をご紹介します。007

まず、花巻高村光太郎記念館さん。「光太郎とスプリング・エフェメラル~春を彩るはかない花たち~」だそうで、同館スタッフの方々が撮られた、高村山荘(記念館に隣接する終戦後の7年間、光太郎が暮らした山小屋)周辺の写真が展示されています。

以下、同館のブログサイト「森のたより」、7月末の投稿から。したがってまだ梅雨明け前の内容です。

みなさんこんにちは。
高村光太郎記念館です。
今日で7月が終わります。
コロナウイルスや雨の日が多く日照不足でパッとしない日々が続きます。008
皆さんの地区はいかがでしょうか?
いろいろ規制がある中で、来館してくださる方々に少しでも楽しんでいただけたらと、、企画展示室で記念館周辺の写真の展示をしております。
春の景色やお花に絞っての展示です。
職員が3年間撮りためた写真がたくさんあります。
四季折々の景色や花々もぜひ体験していただきたいのですが、気になる方には写真集も作りましたのでお求めいただけたら、と思います。009
「山の贈り物」という写真集です。
余計な字は一切ありませんのでより身近にこの風景を楽しんでいただけると思います。
A4判、オールカラー143ページの写真集です。
価格は2800円(消費税込み)1冊360円の送料でお送りいたします。
お申し込みはメール、又はFAXで
✉ kotaroucafe30@gmail.com
FAX 0198283012
までご連絡ください。数量が多くありませんので、お早めに!



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スプリング・エフェメラル」は、「春先に花をつけ、夏まで葉をつけると、あとは地下で過ごす一連の草花の総称。春植物(はるしょくぶつ)ともいう。直訳すると「 春のはかないもの」「春の短い命」というような意味で、「春の妖精」とも呼ばれる。」(フリー百科事典・ウィキペディア)だそうです。具体的には、あのあたりにはカタクリなどが咲いていたっけな、と思いあたりました。それから、画像で見る限り、ショウジョウバカマかな、と思われるものも。

ショウジョウバカマは光太郎、スケッチにも残しています。

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また、四季の木々や草花などの写真集も新たに作られたそうで、それらをことのほか愛した光太郎も泉下で喜んでいるのではないでしょうか。

もう1件、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館さん。こちらは地方紙『福島民友』さんの記事をまず引用させていただきます。 

【いわき】草野心平と古関裕而、交流紹介 日記の複製や写真展示

006 いわき市草野心平記念文学館は1日、同館で展示「草野心平と古関裕而」を始めた。詩と作曲で本県を代表する2人の関わりを紹介している。30日まで。

 同館によると、2人は1973(昭和48)年に冬季大会「第29回国体猪苗代大会」の大会賛歌を共同で制作した縁で知り合い、以後県内の小、中学校の校歌を手掛けたという。草野の日記の複製や2人が写った写真など14点を展示している。

 日記には、草野が古関から郷土料理の紅葉漬けをもらい返礼のはがきを書いたことなど、人間味ある交流が書かれている。時間は午前9時~午後5時。問い合わせは同館(電話0246・83・0005)へ。

NHKさんで放映中の(現在はコロナ禍のため撮影中断があって再放送中ですが)連続テレビ小説「エール」の主人公、窪田正孝さん演じる古関裕而(ドラマでは「古山裕一」)。光太郎とは直接の関わりは確認できていませんが、心平とは縁があったのですね。存じませんでした。まあ、同じ福島県出身で、同年配(古関は心平の3歳下)ですので、あり得る話でした。

ところが、今日現在、同館のサイトを見ても、この展示に関しては記述がありませんでした。開催中のメインの企画展は「没後90年 童謡詩人金子みすゞ展」ですし。急遽決まったミニ展示なのかな、という気がします。

何はともあれ、両館ともにぜひ足をお運び下さい……というのも、コロナ禍収まらぬ現在、なかなか申し上げにくいのですが、感染防止に充分ご配慮の上、よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

大変立派な詩集『葡萄の房』をいただき、山の小屋に異彩を放ち、美しく眺めました。詩は幾重にも鍛鋏されたものである事を感じ珍重の思をいたしました。
散文「葡萄の房に寄せて」全文 昭和23年(1948) 光太郎66歳

『葡萄の房』は、不二書房より刊行された大阪出身の詩人・藤村雅光の詩集です。おそらくその受贈礼状の全文、または抜粋。同じ不二書房の雑誌『詩文化』に掲載されました。

「鍛鋏」は「たんきょう」と読むのでしょう。当方愛用の1,400ページ超の漢和中辞典にも載っていない語でした。おそらく鍛冶屋さんが鉄を鍛えて不純物を取り除いたり、植木屋さんがハサミで余計な枝葉を刈り取ったりといったところからの連想かと思います。「鍛錬」であれば「詩句を練り直す」という意味があり、類義といえるかも知れません。

『毎日新聞』さんに月1回のペースで連載されている、詩人の和合亮一さんの「詩の橋を渡って」。5月に「智恵子抄」の「あどけない話」を引用下さいましたが、7月の掲載分にも光太郎詩を引き合いに出して下さいました。 

詩の橋を渡って 一瞬で消えてしまう発想

 あなたは真っすぐな視線を

 僕に向けて

 どう生きたらいいのでしょうか?

 と、突然

 「五十年ぶりに詩を書いてみました」との小さなお便りが挟まれていて、興味が湧いて矢澤準二の『チョロス』(思潮社)を読み始めた。「あなたは真っすぐな視線を/僕に向けて/どう生きたらいいのでしょうか?/と、突然」「檸檬(れもん)を切るみたいに/そんなこと急に訊(き)かないでほしい/金色の靄(もや)がたちこめて」。かんきつ類を切った後にたちこめる香気を思い浮かべて新鮮さを感じた。高村光太郎の詩「レモン哀歌」を連想させる詩句である。
 詩の発想は一瞬にして現れてすっと香りが引くように消えてしまうものである。例えば私は毎日のように詩を考えたり書いたりしてきて三十数年程なのだが、一向にその瞬きを捕まえるコツがつかめず悔しい限りだ。「今まで生きてきた中で/一番うれしかったのは/中学一年のころ/母が/狭い家の六畳間を/半分カーテンでしきって/僕の部屋を作ってくれたこと」。なるほど、記憶の引き出しを開けて探すことも一つの方法かもしれない。 書き手の気持ちを貫く<一瞬>の何か。予測など出来るものではない。しかし無意識にキャッチ出来た時、そこにふだんのイメージを裏返してしまうかのような新発見が生まれてくることがある。その偶然の瞬きを信じて日々を見つめる。詩人は五十年の間、気づかないうちにもそれを集めて、再び書き始めたのかもしれない。詩作とはそのような不意の出会いを待ち続けるようにして、長い人生をかけて書き留めていくことなのかもしれない。 宙に浮いている不思議な詩。「地平線まで砂の海で/太陽の落ちるあたりに/小さくシルエットがあって//目を凝らしてみると/それは夕陽(ゆうひ)の中の/ピラミッドの影/つまりそこはお墓で//そうか/そういうことかと」。イメージ遊びの印象だが読後にひらめきの感触がある。何への「そうか」なのか、 はっきりしなくて正しく空に飛ばされた感覚にもさせられるが、しだいにとらえがたい生死の深い実感がユニークに伝わってくる気がした。 末尾の詩にも独特の面白さがある。自分や飼い犬の死をめぐる作品。「自分の終期と犬の終期を/ゆるーく認識して共に生きるというのは/(いい加減じゃなく)/いい湯加減みたいで/いいんじゃないか」。言葉遊びによる無作為な発見が、全体に妙な味わいをもたらしている。思いがけない詩の<一瞬>を求めながらも、暮らしの中で見つけてきた心の「加減」のようなもので、 人生をありのままにとらえていこうとする姿がある。
 杉本真維子の散文集『三日間の石』(響文社)。実力派の書き手の詩に通ずる研ぎ澄まされた言葉が並ぶ。そして随所にユーモアの妙味も。菓子袋などを歯でかじって開ける家族の習慣があるが、家の外でも何度かやってしまい、周囲に驚かれたという話にひかれた。「人を慌てさせるような『野蛮』の出現。そのイビツさのなかに、いまは思い出のなかにしかいない、私の家族が棲(す)んでいる」。日常に顔出す「野蛮」。そこに詩の歯応えがある。  

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紹介されている矢澤準二氏『チョロス』はこちら。「「チョロス」って何?」と思ったのですが、「「チョロスではなくチュロスよ」という妻の声を背に、人生の七十年分を、とぼけた足どりで描く。飄々と、淡々と。」だそうで(笑)。自分も最近、「「ラン・ド・グシャ」ではなく「ラング・ド・シャ」」と娘に指摘されて恥ずかしい思いをしましたが(笑)。まぁ、「竜雷太さん」を「雷竜太さん」と思い込んでいた人よりましかも、と思いますが(笑)。

閑話休題、もう一冊の杉本真維子さん『三日間の石』はこちら

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それぞれご興味のある方、どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此処の分教場には生徒が三十八人ばかり居り、皆逞しい、いい少年達です。人に会ふと「左様なら」と挨拶します。

散文「若鮎短評」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

雑誌『水脈』第一巻第一号に掲載されました。『若鮎』は祝算之介による散文集。おそらく受贈の礼状がそのまま(あるいは抜粋で)「短評」として載せられたようです。祝は本名・堀越正雄。『水脈』の編集に当たっていました。

人に会ふと「左様なら」と挨拶します。」、和合さん曰くの「詩の発想」「 書き手の気持ちを貫く<一瞬>の何か。予測など出来るものではない。しかし無意識にキャッチ出来た時、そこにふだんのイメージを裏返してしまうかのような新発見」に通じるのではないでしょうか。または、分教場の少年達が長じてから「「左様なら」と挨拶」し、そういう習慣のない人に怪訝な顔をされた時、杉本さんの「菓子袋などを歯でかじって開ける家族の習慣があるが、家の外でも何度かやってしまい、周囲に驚かれた」時と似たような感覚になったのでは、とも思います。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。今年の女川光太郎祭は、残念ながらコロナ禍の影響で中止となりましたが、町立の女川つながる図書館さんで、光太郎に関する展示をなさって下さいます

詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~

期 日 : 2020年8月7日(金)~8月13日(木)
会 場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
時 間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

女川町とゆかりの深い詩人・彫刻家・歌人・画家であった高村光太郎氏とお互いに影響を受けあった宮沢賢治氏を取り上げ、光太郎と賢治の詩作や生き方を通して、心のふれあいを中心に展示いたします。

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同館では、昨年は「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」と題し、同様の展示をなさって下さいました。レポートはこちら

大々的なものではないようですが、こうした地道な工夫が必要なのだと存じます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

もう東京へ帰る気持はありません。却つて東京の友人達をこつちに呼んで、大いに新しい地方文化の建設をやりたいと思つてゐますよ。

談話筆記「高村光太郎氏の疎開生活」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

雑誌『雄鶏通信』に載ったもので、花巻郊外旧太田村の山小屋での、もっとも早い時期のレポートの一つです。この時期には帰京するつもりは無かったのですね。

コロナ禍で、東京一極集中の弊害がまた炙り出されていますが、文化方面であれば地方分散もそう難しくないように思われます。ただ、受け入れ先の地方に、それなりの「底力」がなければ不可能なのでしょうが……。

J-POPアーティスト米津玄師さんのニューアルバムが発売されます。 

2020年8月5日(水) ソニーミュージック

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通常盤 CD only ¥3,000+税  おまもり盤 初回限定CD+ボックス+キーホルダー ¥4,500+税
アートブック盤 初回限定CD+Blu-ray or DVD+アートブック ¥6,800+税


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CD
 01. カムパネルラ
 02. Flamingo  ソニーワイヤレスヘッドホンCM
 03. 感電  TBS系金曜ドラマ「MIU404」主題歌
 04. PLACEBO + 野田洋次郎
 05. パプリカ
 06. 馬と鹿  TBS系日曜劇場「ノーサイド・ゲーム」主題歌
 07. 優しい人
 08. Lemon TBS系金曜ドラマ「アンナチュラル」主題歌
 09. まちがいさがし
 10. ひまわり
 11. 迷える羊  カロリーメイトCM
 12. Décolleté
 13. TEENAGE RIOT  ギャツビーCM
 14. 海の幽霊  映画「海獣の子供」主題歌
 15. カナリヤ

Blu-ray・DVD(「アートブック盤」のみに収録)
 LIVE VIDEO 米津玄師 2019 TOUR / 脊椎がオパールになる頃
  01. Flamingo / 02. LOSER / 03. 砂の惑星 / 04. 飛燕 / 05. かいじゅうのマーチ /
  06. アイネクライネ / 07. 春雷 / 08. Moonlight / 09. fogbound / 10. amen / 11. Paper Flower /
  12. Undercover / 13. 爱丽丝 / 14. ピースサイン / 15. TEENAGE RIOT / 16. Nighthawks /
  17. orion / 18. Lemon / EN1. ごめんね / EN2. クランベリーとパンケーキ / EN3. 灰色と青

MUSIC VIDEO
 01. Lemon / 02. Flamingo / 03. TEENAGE RIOT / 04. 海の幽霊 / 05. パプリカ / 06. 馬と鹿


問題は(って、問題があるわけではないのですが(笑))、「Lemon」。米津さんご自身、「智恵子抄」収録の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)からのインスパイアもあるかもしれないとおっしゃっています。


ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

唯のほほんとした明るさでは困るが内に確かな覚悟を持つた上、百難を踏み越える心の明るさをほのぼのといつも身につけてゐることは、今日のやうな時代には殊に望ましい。その明るさはおのれ自身を好ましいものにさせると同時に、その周囲にゐるものをまで何となく心ゆたかにさせる。真の明るさは無敵である。

散文「『職場の光』詩選評 十二」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「今日のような時代」は戦時中という意味ですが、コロナ禍の現在にも通じるような気がします。

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