2020年07月

宮城県からバスツアーの情報です。 

3.11を忘れない 石巻 大川小学校・女川 いのちの石碑

3密を避けた新しい形態で旅行に行きませんか? 東日本大震災時の様子や復興の様子、被災地に今必要なことなどについてお話させて頂く「現地語り部ガイド」2ヶ所付き。

全校児童108人の7割に当たる74人、教職員10人が死亡・行方不明となった石巻市の旧大川小学校跡地で「大川小学校伝承の会」の方から当時の状況などの説明をして頂きます。

東日本大震災で最も高い死亡率となった女川町は、被災地域の中でも唯一「防潮堤を造らない」町として、あくまでも「減災」を意識した町づくりに取り組み、当時の様子や今後の展望など詳しく解説頂きます。

石巻・女川での買い物で復興支援も!

[旅行日]  8月10日(月祝)  
[旅行代金] 9,500円  6,500円 Go To トラベルキャンペーン対象となります!
[行程]
仙台駅東口【8:30】=大川小学校(語り部案内付き)=いしのまき元気いちば(買い物)=シーパルピア女川(昼食)=女川・いのちの石碑など(語り部案内付き)=シーパルピア女川(買い物)=仙台駅東口【17:00】
[旅行条件]
 ・朝食おにぎりとお茶付き  ・昼食付き
 ・最少催行人員10名 ・添乗員同行
 ・バスガイド付き!
 ・ 利用バス会社:仙台バス㈱、仙南交通㈱または、㈱仙塩交通 
  [ご案内・注意]
 ※道路状況などにより帰着が前後する場合がございます。

受付締切  4日前まで
日程変更  予約日時まで
キャンセル 予約日時の11日前まで

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昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。

平成23年(2011)の東日本大震災では甚大な被害が発生、その教訓から、当時の女川第一中学校の生徒の皆さんの発案で、町内の各浜に津波の際の避難の目安となるランドマークとして「いのちの石碑」が設置され続けています。最初の企画の段階で、かつて光太郎文学碑が募金で費用をまかなって建てられたことに倣い、「いのちの石碑」も募金活動で資金を集めるということになりました。そう言う意味では、光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。全21基の予定で、今春には18基目の設置が為されたそうです。

で、その「いのちの石碑」も行程に入っているツアーというわけで、ご紹介させていただきました。

実施日は8月10日(月・祝)。その前日には、例年であれば女川光太郎祭開催の予定でしたが、残念ながら、コロナ禍のため今年は中止だそうです。これまでは光太郎詩文の朗読や当方の連続講演などが行われていましたが、今年は規模を縮小し、光太郎文学碑(再建されたそうで、この件はまた改めてご紹介します)への献花のみとするはずだったところ、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が……ということでそれも無くなりました。致し方ありますまい……。

代わりに、といっては何ですが、こちらのツアー、ご都合の付く方、コロナ対策を充分になさった上で、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩の中心は愛の熱情である。

散文「『職場の光』詩選評 十一」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

おそらく2年前に編んだ『智恵子抄』を念頭に置いた発言だと思われます。

『智恵子抄』所収の散文「智恵子の半生」には、「美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。」と書かれています。

こちらの選評は、引用部分の後にこう続きます。「肉親への愛、友への愛、人への愛、物への愛、自然への愛、祖国への愛、神への敬愛、さうして、畏多くも 大君をみ親と慕ひたてまつる臣子の愛念。詩はさういふところからこんこんと湧いて尽きない。」似ていますね。

ある意味、「大君の愛」、「大君をみ親と慕ひたてまつる臣子の愛念」を、「一人の女性の底ぬけの純愛」や「肉親への愛、友への愛、人への愛、物への愛、自然への愛」とほぼ同列に扱うあたり、不敬のそしりを免れないようにも思われます。しかし、戦時中であっても、ぎりぎりの線でこう書いていた光太郎を改めて尊敬します。

都内からコンサート情報です。 

期 日 : 2020年8月10日(月・祝)
会 場 : 浜離宮朝日ホール 東京都中央区築地5-3-2
時 間 : 14:00~16:00 開場13:30
料 金 : 一般5,500円 学生席2,700円 全席指定

出 演 : 小林沙羅(Sp)  河野紘子 (Pf)  見澤太基 (尺八)  澤村祐司 (箏)

曲 目 :
 武満徹 : 小さな空 (詩:武満徹)
 山田耕筰 : この道 (詩:北原白秋)
 山田耕筰 : 赤とんぼ (詩:三木露風)
 山田耕筰 : ペチカ (詩:北原白秋)
 中田章 : 早春賦 (詩:吉丸一昌)
 越谷達之助 : 初恋 (詩:石川啄木)
 武満徹 : 死んだ男の残したものは (詩:谷川俊太郎)
 中村裕美 : 「智恵子抄」より (詩:高村光太郎)
          或る夜のこころ  あなたはだんだんきれいになる  亡き人に
 早坂文雄 : うぐひす (詩:佐藤春夫)
 瀧廉太郎 : 荒城の月 (詩:土井晩翠)
 宮城道雄 : せきれい (詩:北原白秋)
 宮城道雄 : 浜木綿 (詩:宮城道雄)
 井上武士 : うみ (詩:林柳波)
 橋本国彦 : お六娘 (詩:林柳波)
 橋本国彦 : 舞 (詩:深尾須磨子)
 小林沙羅 : ひとりから (詩:谷川俊太郎)

CDアルバム「日本の詩」制作のきっかけとなったのは、2018年8月浜離宮朝日ホールでのランチタイムコンサートでした。私にとって、そして日本語を母国語とする私たちにとって、日本の歌は魂に結びついたとても大切なものなのだということを、強く感じたのでした。今回、アルバム「日本の詩」発売記念リサイタルを、浜離宮朝日ホールで開催できる日を、心から楽しみに思っています。 3月に開催予定だったこのリサイタルが延期となり、演奏会のない毎日を過ごす中で、どれだけ音楽が、歌が、私にとって大切なものであったか、生で演奏会を開き、お客様と一緒に時間と空間を共有する事がどれだけ掛け替えのない事であったのかを、改めて感じます。8月10日に演奏会を開催する事ができ、お客様皆さまとお会いできる事を心から願っています。 皆さまどうぞご自愛ください。そしてコンサート会場でお会いしましょう!8月10日のコンサートが、祈りと感謝と喜びに満ちたコンサートになりますように。

本公演は2020年3月12日(木)に予定されておりました公演の振替となります。当初、中止となった公演のチケットをお持ちの方はそのままご入場いただけますとご案内いたしましたが、ソーシャル・ディスタンスの観点により、お座席の間隔を空けての実施となりましたので、3月の公演チケットではご入場いただけません。3月のチケットをお持ちの方は払戻手続きの上、新たに本公演のチケットをお買い求め下さい。

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上記説明にある通り、昨秋リリースされた3rdアルバム「日本の詩(うた)」のリリース記念として、3月に開催予定だった公演が新型コロナの影響で延期となったものです。光太郎詩に曲をつけられたものも、「或る夜のこころ」はCDにも入り、福島県棚倉町でのNHKさんの「クラシック倶楽部 小林沙羅&山本耕平 デュオ・リサイタル」公開収録でも演奏されましたが、それ以外に「あなたはだんだんきれいになる」と「亡き人に」もラインナップに入っています。作曲は中村裕美さんという方です。



ご都合の付く方、コロナ対策を充分になさった上で、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

愛こそは詩を生む母胎である。感情に甘えてはいけないが―。

散文「『職場の光』詩選評 十」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

小林さんの演奏された「或る夜のこころ」。『智恵子抄』所収の詩篇が元ですが、大正元年(1912)、智恵子への揺れ動く「こころ」を謳った詩です。光太郎数え30歳、遅まきながら初めての真摯な恋愛「感情」に「甘え」ることなく、必死で抑えようとして抑えられない、そういった苦悶も見て取れます。

一昨日の『福島民友新聞』さんから。 

【二本松】 観光タクシー料金半額へ コロナ禍需要掘り起こす

 二本松市は早ければ8月中旬にも、同市の観光名所を巡る観光タクシーが通常料金の半額で利用できるサービスを始める。新型コロナウイルス感染症の影響を受ける同市の観光需要を掘り起こし、地域経済の活性化につなげる。

 観光タクシーは昭和タクシーと丸や交通が運行する。市内や会津、磐梯吾妻スカイラインなどを巡る多彩なコースがあり、料金は通常の運賃よりも割安に設定されている。
 市は、2社でつくる市ハイヤータクシー経営者協議会に助成することで、料金半額を進める。
 半額サービスは市内を巡る通年利用の10コースを想定。小型(4人乗り)の場合、霞ケ城公園や智恵子の生家記念館などを巡るJR二本松駅発着の「智恵子抄探訪」は5000円、両施設に加え、二本松万古焼や二本松少年隊の墓所がある大隣寺といった名所を回る岳温泉発着の「安達太良浪漫街道A―2」が1万円などで利用できる。
 感染症に伴う観光関連の緊急経済対策で市はこのほか、同市で教育旅行や合宿を行う小、中学、高校、大学などに対し、バス運賃を助成する。助成額はいずれも上限額で、県外の団体が宿泊の場合に6万円、日帰り3万円、県内団体が宿泊で3万円、日帰り1万5000円。

調べてみましたところ、記事にある昭和タクシーさんのサイトに案内が出ていました。

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画像では10,000円となっていますが、ここに助成が入って半額の5,000円となるそうです。

「智恵子抄探訪コース」に限らず、記事にある小型タクシー以外にも、ジャンボタクシー、マイクロバスもチャーターできるとのこと。そちらにもおそらく助成金が出て、安くなるのでしょう。

いずれも鉄道で現地まで行って、そのあと、という感じの利用になるかと思われます。

ジャンボタクシーというと、花巻の「どんぐりとやまねこ号」に近いのかな、という気がします。ぜひ定着させて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩といふものは書かれてゐる表面は小さくても、その小さな表面は、言はばその奥をのぞくことのできる窓のやうなもので、書く人は無意識でも、読む人の心には、その小さな隙間から、その詩の奥にひろがる生活や情念や気分や思想の傾向や為人までが直感せられる。

散文「『職場の光』詩選評 七」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

そういうわけで、詩には余計な説明は不要、という話の流れです。

だからといって「説明」をせず、それでいて「小さな隙間から、その詩の奥にひろがる生活や情念や気分や思想の傾向や為人までが直感」できないような「現代詩」とかいうものの、何と多いことか……となげかわしく思います。

富士急行株式会社さんの出したプレスリリース(報道機関に向けた、情報の提供・告知・発表)です。 

ロープウェイから望む光の天の川「あだたらイルミネーション」 8月1日(土)より開催

 あだたら高原リゾート(福島県二本松市)では、2020年8月1日(土)~9月22日(火祝)の期間、毎夏恒例のイルミネーションイベント「あだたらイルミネーション」を開催致します。
 この「あだたらイルミネーション」は、暗く静まり返ったスキー場の斜面に5色50万球ものイルミネーションが約240メートルに渡って輝く“光の天の川”を中心に、花や動物たちをモチーフにした様々なイルミネーションオブジェが光り輝くイベントで、満天の星空と相まって、夏の夜の森に幻想的な光景が広がります。また、開催期間中はロープウェイも運行するため、車窓から眼下に広がるまばゆいイルミネーションを眺めつつ、福島市から郡山市にかけての見事な夜景を一望することもできます。
 また、今年初の試みとして、期間中ロープウェイの往復乗車券をご購入いただいた方先着1,000名に、『光る切符』をプレゼントいたします。安達太良山とロープウェイ、イルミネーションがデザインされたこの『光る切符』は、蓄光塗料を使って印刷されており、暗い場所に持っていくと、イラストが白く浮かび上がります。
 夏の夜を彩る「あだたらイルミネーション」にご期待ください。

【あだたらイルミネーション開催概要】
■開催期間  2020年8月1日(土)~9月22日(火祝)
        ※8月31日(月)以降は、金・土・日曜日・祝日のみの営業となります。
■開催場所  あだたら高原リゾート
■営業時間  19:00~21:00 
        ※強風・雷など、天候状況により休業する場合があります。
■乗車料金  大人(中学生以上)  往復乗車券 1,300円
        小人(4歳~小学生)  往復乗車券  800円
        ※ロープウェイ所要時間約10分、定員6名。
■標  高  山麓駅950m、山頂駅1,350m
■お問合せ  富士急安達太良観光株式会社 TEL:0243-24-2141

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【『光る切符』について】

初の試みとなる1,000枚限定の特別往復乗車券です。
■販売数量 先着1,000枚限定
■価  格 1,300円
■販売場所 あだたら山ロープウェイ山麓駅
■サ  イ  ズ 100mm×148mm(はがきサイズ)

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大好評、絶景の露天風呂 「あだたら山 奥岳の湯」も営業中!

 標高約950mに位置する「あだたら山 奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と詠ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんで頂くことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。

【施設概要】
所 在 地:福島県二本松市奥岳温泉
営 業 日:年中無休 ※メンテナンス休業あり
営業時間:10時00分~18時00分
施設内容:収容可能人数80人(男女各40人)
内湯(9㎡)、露天風呂(20㎡) ※男女別
利用料金:大人 650円 /小人(4才~小学生)450円
p H 値:2.5(強酸性)  
泉  質:単純酸性温泉
適 応 症:神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性消化器病・冷え性・疲労回復
健康増進・慢性皮膚病

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あだたらイルミネーション」。おおむね毎年この時期に催されています。コロナ禍で各種イベント等の中止や延期が相次いでいますが、こちらは実施。もちろん感染対策等は徹底して、ということなのでしょうが。


ちなみにこの時期、例年行われていた年中行事的なもので、今年は中止となったものは、以下。

福島川内村 天山祭り  当会の祖・草野心平を顕彰する祭典でした。
青森十和田湖畔 湖水まつり 光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップがなされていました。
  追記 時期と形を変えて実施だそうです。8月28日(金)~8月30日(日)です。

宮城女川町 女川光太郎祭  光太郎詩文の朗読や当方の連続講演などが行われていましたが、今年は規模を縮小し、光太郎文学碑(再建されたそうで、この件はまた改めてご紹介します)への献花のみとするはずだったところ、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が……ということでそれも無くなりました。
山形大学第13回高校生朗読コンクール  毎年、東北ゆかりの作家の作品が課題に選ばれており、平成27年(2015)の第8回に続き、今年は光太郎の「智恵子抄」が課題でしたが、どうやらこれも中止のようです。同大のサイトに詳細情報が出ませんので。
・第73回全日本合唱コンクール  ほぼ毎年のように、光太郎詩に曲をつけた作品を演奏する団体がありました。

いつも書いていますが、早期のコロナ禍収束・終息を切に望みます。このまま秋以降の各種イベントもどんどん無くなるようでは、本当に困りますので……。


【折々のことば・光太郎】

人間はけつして一様なものでないから、正直にその感じを出したら、ずゐぶん千差万別のおもしろいものが見られる筈なのである。

散文「『職場の光』詩選評 六」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

一般読者の投稿詩に対する苦言です。ステレオタイプの型にはまりすぎている、ということで。「活きた眼を働かせ、生きた心を動かして、初めて物を見るやうな気持で毎日の生活をそれぞれの角度から味つたら、きつと机上では得られないやうな貴重な詩的記録が書けることと思ふ。出来るだけ詩人かぶれをしないやうに、直接の表現を心がけるといい。」とも書いています。

光太郎や、その親友だった碌山荻原守衛らに多大な影響を与えた、オーギュスト・ロダン(1840~1917)関連。少し長いのですが、代表作の一つ「カレーの市民」が取り上げられている、今月中旬に『聖教新聞』さんに掲載された記事です 

〈世界の名画との語らい〉ロダン《カレーの市民》 先入観を打ち破る新たな英雄像 人間の可能性ひらいた「近代彫刻の父」。

001 1959年に開館した東京・上野の国立西洋美術館は、西洋の美術作品を専門とした美術館です。所蔵品の基礎を成している“松方コレクション”は、第1次世界大戦中に造船業で巨万の富を築いた松方幸次郎によって収集されました。番外編として、絵画ではなく、近代彫刻の父、オーギュスト・ロダンの傑作<カレーの市民>を紹介します。(サダブラティまや記者)

語り継がれる6人の物語
 フランス北部、英仏海峡沿いの港町であるカレー市は、同市を救った英雄、ウスタッシュ・ド・サン=ピエールをたたえる記念碑の計画を立てていた。不思議な縁に手繰り寄せられて、その依頼が彫刻家オーギュスト・ロダンのもとに舞い込んで来たのは、1884年のこと。
 ウスタッシュは、どんな人物だったのか。史実によると、英仏の百年戦争時代(1337年~1453年)、カレー市はイングランド王エドワード3世の侵略を受け、包囲された。兵糧攻めが1年以上も続き、極限に達したある日、王は要求する。市を解放する代わりに、6人の人質を差し出すこと。帽子を取り、裸足となり、首に縄を巻いて、市の鍵を手にして処刑台に向かえ、と。
 市民はたじろぎ、怒り、嘆いた。“いっそ戦おう!”“華々しく散ろう!”と、ある者は叫んだ。不気味な沈黙が場を包んだ時、一人、決然と立ち上がったのがウスタッシュだった。“私が人質になろう”。彼の姿に鼓舞され、一人、また一人と、後に続いた。
 この年代記を読んだロダンの心は、感動で打ち震えた。“ウスタッシュの示した勇気の行動は、今もなお欧州の人々の間で語り草となっている。その記念碑に携われるとは、なんと栄誉なことだろう”。ロダンは、自らが金銭的な負担を背負ってもいいとの覚悟で、制作費も高額なものは請求せず、喜んでこれに応じた。
 どのように表現するか。それがロダンにとって究極の挑戦だった。伝統的に記念碑とは、一人の人物を中心に制作される。「しかし、ロダンは初めから、一人だけを輝かせるのではなく、市民を守った6人を組み合わせて彫刻を作ることに強い意志を示していました。この事件の重みを全員で受け止められるよう、均等にポーズを取らせたことは非常に斬新です」と話すのは、国立西洋美術館の馬渕明子館長。
 前例がないロダンの発想は、“もっと英雄らしい気高い姿を描写するべきだ”と非難を浴びた。ロダンは自身の心情を次のように語っている。「私の示そうとしたものは、あの時代の自分たちの名前も出さないで犠牲に身を投じたような市民だったのです」(高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』岩波文庫)

000紆余曲折を経て日本へ
 ロダンは、1840年、パリの下町に、庶民の子として生まれた。父は、パリ警視庁の下級官吏だった。6歳の時、キリスト教の学校で初等教育を受け始めるが、近視のためか、成績は芳しくなかった。
 息子の将来を案じた父親は、絵を描くのが好きだったロダンを帝国素描・算数専門学校に通わせる。当時のフランスで、芸術家の登竜門とされていた国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に対して、通称“小校”と呼ばれていたこの学校は、装飾美術の職人を養成する目的で創られた。
 この小校で、古い規則にとらわれない斬新な美術教育を受けられたことは、後年、“戦う芸術家ロダン”を育む上で、重要な役割を果たした。
 彫刻でプロの道を目指したロダンは、1857年から毎年、国立美術学校を受験するも、3年連続で不合格。自信のあった彫刻の分野で認められなかったショックは、大きかった。
 生活のために、装飾仕事に従事しつつ、人気があった彫刻家のカリエ=ベルーズに師事し、石膏取りや建築装飾など、どんな下請けも引き受けた。自作に師匠のサインが入る屈辱にも耐えながら、20年がたった頃、彼の人生に光が差し始める。
 1880年、ロダンの出世作である<青銅時代>が政府に買い上げられたのだ。さらに同年、<地獄の門>の発注も受けた。<カレーの市民>の依頼も、その延長線上にあった。
 現在、国立西洋美術館の前庭に設置されている<カレーの市民>が松方幸次郎により発注されたのは、1918年。松方はこの時期、日本に美術館を造ろうと、フランスで芸術品の収集に奔走していた。
 だが、<カレーの市民>が日本に送られて来たのは、それから40年以上も経過した1959年のこと。この間、もともと松方が注文した彫刻は、アメリカのコレクターに売却。それを補うために造られた次の作品も、第2次世界大戦中にナチスが買い上げてしまった。
 戦後、パリのロダン美術館に返還されたものの、フランス側の強い要請でそのまま本国にとどまることに。ようやく1950年代に入り、フランスに没収されていた数々の松方コレクションの寄贈・返還交渉が開始された際、国立西洋美術館のために新しく鋳造(金属を鋳型に流し込んで作る方法)されたのが本作だった。

真実の勇者の証しとは
 馬渕館長はロダン芸術の魅力について、こう語る。
 「ロダンの彫刻は、ものすごく人間くさいんです。彼は、人間の持つ可能性をくまなく研究しました。人体の構造に始まり、動作、表情、内面の描写に至るまで、全てを解体して、一から作り直すことに躊躇がなかった。だからこそ、思いがけない組み合わせを発見できた。先入観を壊していく勇気があったのだと思います」
 カレーの市民たちの物語は、ドイツの作家ゲオルク・カイザーによって戯曲となり、世界中の人々に広く親しまれている。このエピソードを貫く最大のテーマは、「真実の勇気」だ。
 馬渕館長は続ける。
 「ロダン以前に表現されてきた勇気の行為は、最後の決断の時だけがクローズアップされてきました。そこに至るまでに、実は、複雑な心の過程があることを、ロダンは伝えたかったのでしょう。恐怖、悲しみ、決意といった感情が、6人の存在によって時間のように流れていきます。単に立派な人物の描写で終わるのではなく、人間が葛藤しながらも、正しい選択をしていく強さを表したかったのではないでしょうか」
 ロダンが映しだそうとした感動的な人間像をなかなか理解できなかったカレー市当局は、記念碑の設置をためらっていたが、ついに1895年、除幕式が行われた。彫刻が発注されてから11年が経過していた。
 とはいえ、<カレーの市民>はロダンが携わった記念碑の中でも、成功したプロジェクトとして際立っている。他の代表作は、生前には公共の場所に設置されなかったり、完成しても受け取りを拒否されたりしていた。常に無理解と中傷にさらされてきたロダンのキャリアの中で、彼の意図に共鳴してくれる人々がいることは、決して当たり前のことではなかったのだ。
 ロダンが命を削って描きだそうとした6人の市民たちは、名誉も地位も財産もない。けれど、一番大切な「勇気」を持っていた。勇敢に見えるウスタッシュとて、激しい心の葛藤があっただろう。でも、正しいと信じるがゆえに、行動を起こさずにはいられなかった。愛する同胞たちの希望になることを確信して。
 目には見えない静かな勇気。華やかではない勇気。それが自分を変え、周囲を変え、世界を変えていく――。勇者たちのそんな魂の叫びが聞こえる。

<画家 略歴>
オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin 1840年~1917年)。近代彫刻の父。警察官の息子としてパリに生まれ、彫刻家を目指して美術学校を受験するが、3度連続で不合格。建築装飾の仕事に約20年間、従事した。ミケランジェロに傾倒し、<青銅時代>でデビュー。代表作に<地獄の門><考える人><バルザック>など。

<国立西洋美術館>
東京都台東区上野公園7-7。JR上野駅下車(公園口出口)徒歩1分。開館時間=9時半~17時半。金・土曜日は9時半~20時。※入館は閉館の30分前まで。休館日=月曜日(休日の場合は翌平日)、年末年始、2020年10月19日~2022年春(予定)全館休館。

ついでですので、光太郎の筆になる「カレーの市民」解説も。

彼が「地獄の門」の諸彫刻に熱中してゐる間にフランスの一関門カレエ市に十四世紀に於ける市の恩人ユスタアシユ ド サンピエルの記念像を建てる議が起つた。其話をカレエ市在住の一友から聞かされ、いろいろの曲折のあつた後、雛形を提出して、結局依頼される事になつた。ルグロやカザンの骨折が大に力になつたのだといふ。十四世紀の中葉、カレエ市を包囲した英国王エドワアド三世が市の頑強な抵抗に腹を立てて、市を破壊しようとした時、残酷な條件通り身を犠牲にする事を決心して市民を救つた当年の義民の伝を年代記で読んだロダンはひどく其主題に打たれた。犠牲に立つた者は一人でなくして六人であつた。ロダンは一人の銅像の製作費で六人を作る事を申出で、十年かかつて「カレエの市民」を完成した。
(略)
「カレエの市民」で彼は更に破天荒な構図を作つた。当時の黄金律になつてゐたネオ希朧派の構図法三稜形を全く無視し、十四世紀当時の光景をロダンの幻像のままに示顕させようとした。六人の人物の配置は線の連絡よりも、むしろ明暗の連絡と、劇的心理の連絡によつて行はれた。彫刻の技法は省略と誇張とを強めて、外光を顧慮し、中世期の彫刻精神に余程近づいた。此の彫刻の中には既に後年の「バルザツク」の萌芽があるのである。ロダンは此群像をカレエ市庁の階段の上の石畳へ置いて通行する者と同列の親密感を得させたいと考へた。しかし其は同意せられず、やはり普通のやうに台の上に載せられた。中世期のカテドラルの人物彫刻が彼の意識を支配して居たであらうといふ事が此の群像に特殊の興味を与へる。此は一八九五年に除幕された。
(「オオギユスト ロダン」より 昭和2年=1927)

光太郎はおそらくこの彫刻そのものは見ていないと思われます。現在、全世界に同型の鋳造は12組存在しますが、光太郎が滞欧していた当時(明治40年=1907~同42年=1909)、まだ最初のカレー市(ドーバー海峡に面した都市)にしか設置されて居らず、その作を見たということは光太郎の文筆作品では確認できません。ロンドンからパリに移った明治41年(1908)には、ドーバーを船で渡りましたが、フランス側の到着地はカレーより100㌔ほど南のディエップでした。

また、光太郎はロダンのアトリエを少なくとも2回訪れていますが、いずれもロダンは留守(それを狙っていたふしもあります)。応対してくれた妻のローズに、デッサンは見せて貰いましたが、彫刻の石膏原型などを見たということも光太郎の文筆作品では確認できません。

現在、上野の国立西洋美術館さん前庭に据えられている「カレーの市民」は、昭和28年(1953)の鋳造。この時点ですぐに送られていれば間に合ったのですが、上記記事にあるように紆余曲折があって、設置は昭和34年(1959)。光太郎が歿して3年後でした。ぜひ光太郎に見せたかったなぁ、という感じです。

次に上野に行く機会がありましたら、そんなこんなを思い浮かべつつ、改めて「カレーの市民」を見てこようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

説明に過ぎると却て弱くなる。

散文「『職場の光』詩選評 五」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

詩に関しての発言です。一語一語が内包している背後にあるものを大切にすべし、ということですね。短歌や俳句などの短詩系文学では、さらにその傾向をつきつめたものが優れているとされますが、詩においてもそうだ、と。ついでに言えば、文学に限らず、造形芸術でもそうなのではないでしょうか。

今年四月に亡くなった、大林宣彦監督の遺作が公開されます。 

監督 : 大林宣彦
脚本 : 大林宣彦 内藤忠司 小中和哉
出演 : 厚木拓郎 細山田隆人 細田善彦 吉田玲 成海璃子 山崎紘菜 常盤貴子他
音楽 : 山下康介
製作 : 「海辺の映画館―キネマの玉手箱」製作委員会
配給 : アスミック・エース
封切 : 2020年7月31日(金)より全国順次公開

尾道の海辺にある唯一の映画館「瀬戸内キネマ」が、閉館を迎えた。嵐の夜となった最終日のプログラムは、「日本の戦争映画大特集」のオールナイト上映。上映がはじまると、映画を観ていた青年の毬男(厚木)、鳳介(細山田)、茂(細田)は、突然劇場を襲った稲妻の閃光に包まれ、スクリーンの世界にタイムリープする。

江戸時代から、乱世の幕末、戊辰戦争、日中戦争、太平洋戦争の沖縄……3人は、次第に自分たちが上映中の「戦争映画」の世界を旅していることに気づく。そして戦争の歴史の変遷に伴って、映画の技術もまた白黒サイレント、トーキーから総天然色へと進化し移り変わる。

3人は、映画の中で出会った、希子(吉田)、一美(成海)、和子(山崎)ら無垢なヒロインたちが、戦争の犠牲となっていく姿を目の当たりにしていく。3人にとって映画は「虚構(嘘)の世界」だが、彼女たちにとっては「現実(真)の世界」。彼らにも「戦争」が、リアルなものとして迫ってくる。

そして、舞台は原爆投下前夜の広島へ――。そこで出会ったのは看板女優の園井惠子(常盤)が率いる移動劇団「桜隊」だった。3人の青年は、「桜隊」を救うため運命を変えようと奔走するのだが……!?

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直接、光太郎には関わらないのではないかと思われますが、戦時中、ラジオで光太郎の翼賛詩を朗読していた丸山定夫率いる移動演劇団「桜隊」が、映画のクライマックスで描かれます。桜隊は広島の原爆で被災、大怪我を負った丸山は終戦の翌日に息を引き取りました。映画では窪塚俊介さんが丸山を演じられています。

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今月初めにNHKさんのBS1で放映された追悼番組「BS1スペシャル▽映画で未来を変えようよ~大林宣彦から4人の監督へのメッセージ」を拝見しました。それによれば、他の作品でも「戦争」にこだわってきた大林監督、広島尾道での幼少期のご経験が原体験となっていたようです。

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当時の例にもれず「軍国少年」だった監督。しかし、やがて戦局の悪化と共に……。

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こうした原体験、さらにプロデューサーであらせられる奥様から聞いた、東京大空襲の惨状。それらがこれまでの作品に投影されていたそうで。

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そして「海辺の映画館―キネマの玉手箱」。そうした部分の集大成ともいえる内容です。

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病をおして制作に執念を燃やした大林監督。

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006亡くなったのは、コロナ禍で延期されたこの映画の元々の公開予定日でした。監督からのメッセージ、正しく受け止めなければなりますまい。

ちなみに以前にも書きましたが、当会会友・渡辺えりさんもご出演。えりさんのお父様は、戦時中、中島飛行機(現・SUBARU)の武蔵野工場で働いていらして、丸山も朗読した光太郎の「必死の時」をそらんじることで、空襲の恐怖におびえる気持をまぎらわせたそうです。

新型コロナ感染には充分お気を付けた上で、ぜひ足をお運び下さい。



【折々のことば・光太郎】
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各人皆自己の内に神が宿つてゐることを信ずべきだ。精神ある者にとつては目に触るるもの皆詩である。

散文「『職場の光』詩選評 二」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

雑誌『職場の光』は、えりさんのお父様のような、戦時中「産業戦士」と呼ばれた工場労働者向けの雑誌。大日本産業報国会の発行でした。「産報文芸」という、読者の投稿ページがあり、詩の項の選者を光太郎が務めました。これまでに十二回分の選評を確認しまして、うち、五回分は草稿からの採録で『高村光太郎全集』に掲載、他の七回分は掲載誌を発見し「光太郎遺珠」に掲載しました。一般読者が書いた投稿作品の選評ですが、光太郎自身の詩論が色濃く反映されています。

新潮社さんのオンラインショップで見つけました。おそらく新たにラインナップに加わったのかな、と。 

ブックカバーにも便箋にも。使い方はあなた次第の5枚セットです!

新潮社に所縁のある模様+文豪トートと同じイラストの5種類の包装紙を封入。使い方しおり付きです!

・緑の孔雀:
 1914(大正3)年から刊行された第一期新潮文庫の見返しにあしらわれていたマーク。
・金の潮:
 「潮」の文字を図案化したマーク。
 1922(大正11)年、12,016点の応募作品の中から、高村光太郎らの審査員によって選ばれた。
・水色の木と鳥:
 1933(昭和8)年から刊行された第三期新潮文庫の裏表紙にあしらわれていたマーク。
・灰色のぶどう:
 戦後の1947(昭和22)年に復刊された第四期新潮文庫の本扉にあしらわれていたマーク。
・黄色の文豪イラスト:
 芥川龍之介、川端康成、太宰治、夏目漱石、松本清張、三島由紀夫。
 イラストレーター柳智之 による書き下ろし。

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1922(大正11)年、12,016点の応募作品の中から、高村光太郎らの審査員によって選ばれた。」という「「潮」の文字を図案化したマーク」。最後の画像に使われているものです。

筑摩書房さん『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜、大正11年(1922)の項に、光太郎らによる審査という記述がなく、この件は存じませんでした。

また、「こんなデザインがあったのか」という感じでしたが、改めて手元にある新潮社さんの古い出版物を調べてみたところ、随所に使われていました。これまで気に留めていませんで、汗顔の至りです。

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左から、昭和8年(1933)発行の新潮文庫『大正詩選』検印紙。同じ検印紙は昭和2年(1927)の『昭和詩選』、同4年(1929)の『現代詩人全集第九巻』にも使われていました。さらに『大正詩選』では、上記包装紙の別バージョンにあしらわれている「木と鳥」が裏表紙に。

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左から二番目は、昭和28年(1953)刊行の『高村光太郎詩集』(伊藤新吉編)裏表紙。

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右から二番目で、昭和30年(1955)に出た新潮文庫『詩集 天上の炎』検印紙。ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンのもので、光太郎訳です。光太郎の表記では「ヴェルハアラン」ですが。

一番右は、光太郎遺著の一つ、『アトリエにて』(昭和31年=1956)カバー。

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戦後もしばらく使われていたのですね。

さて、「新潮社オリジナル包装紙」、なかなかシャレオツです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。亡父は耳が相当に遠かったし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。

散文「『青沼彦治翁遺功録』序」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

青沼彦治は宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)で酒造業を営んでいた素封家。その銅像制作が大正14年(1925)、光雲に依頼され、光太郎が原型制作に当たりました。像は戦時中の金属供出のため現存しませんが、光太郎らの名が刻まれた当時のプレートを貼った台座は残っています。

青沼と光雲の会話の様子、ほほえましいものがあります。「時々循環して」、「あるある」ですね(笑)。

広島からコレクション展情報です。光太郎の留学仲間で画家の南薫造が中心です。 

期 日 : 2020年7月4日(土)~8月23日(日)
会 場 : 呉市美術館 広島県呉市幸町入船山公園内
時 間 : 10時~17時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般300(240)円 高校生180(140)円 小中生120(90)円 ( )内団体料金

 南薫造は、1883(明治16)念に広島県賀茂郡内海町(現・呉市安浦町)に生まれました。東京美術学校を卒業後、イギリスやフランスで西洋画の研究を深めた南は、人物や自然を、穏やかで滋味深いまなざしで捉え、「日本の印象派」と評されました。東京美術学校教授、帝国芸術院会員、帝室技芸員などを歴任し、日本の近代洋画史に大きな足跡を残すとともに、呉や広島野の美術の振興に貢献しました。また南は作風同様に人柄も温厚で、画家仲間や教え子など多くの人々から慕われ、尊敬されました。
 2020年は南の没後70年にあたります。
本展では当館の所蔵する南薫造の油彩画、 水彩画、版画、素描を一堂に展示するほか、南と交流のあった画家たちの作品を交えて、南の画業や生きた時代をたどります。

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出品目録はこちら。

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004交流があったということで、光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)が並んでいます。同館の所蔵で、たましん美術館さん、千葉県立美術館さん、花巻高村光太郎記念館さん同様、新しい鋳造のものですが、同館ではこうして時折展示して下さっています。

光太郎との交流が始まったのは、おそらく本格的には明治40年(1907)、ともに留学でロンドン滞在中でした。ただ、光太郎は明治30年(1897)、南は同35年(1902)に美校に入学していますので、ロンドン以前にも面識はあったのではないかと思われます。ロンドンではもう一人、画家の白瀧幾之助も交え、つるんでいました(笑)。禿頭で大男の白瀧は「入道」、小柄な南は「アンファン(仏語「enfant」=「子供」)」と呼ばれていたそうです。

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新型コロナには十分ご注意の上、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】002

その詩格の立派さに感動・根拠の深さ感動のはるかさを感受 高村光太郎

雑纂「梶浦正之詩集『梶浦正之詩抄』」全文
昭和15年(1940) 光太郎58歳


梶浦正之は光太郎より20歳若い、愛知出身の詩人です。おそらく梶浦宛の書簡等からの抜粋だと思われますが、『梶浦正之詩抄』の扉に、西條八十、野口米次郎、川路柳虹の短評と共に掲載されました。

こうした場合の常ですが、良い点として挙げている「詩格の立派さ」、「根拠の深さ」、「感動のはるかさ」など、光太郎自身の目指す詩のあり方にも通じるような気がします。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』7月15日号。

まずは「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」という連載で、光太郎ブロンズ彫刻の代表作「手」が取り上げられました。 

高村光太郎『手』 木彫りと塑像が融合した光太郎の代表作

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。父の高村光雲は明治時代を代表する彫刻家で、小さな仏像から大きな西郷隆盛像まで大小さまざまな作品を遺しました。光雲の長男として生を受けた光太郎は、自然な流れで木彫家の後継者として育ち、小学生のころには小刀で木彫りのまね事を始めていました。
 作品『手』は、東大寺大仏の右手などに見られる「施無畏(せむい)の印(いん)」を、光太郎自身の左手で結んだ光太郎の代表作です。粘土による塑像から石こう像を経て鋳造されたブロンズは、木彫りの台座に支えられ、人さし指は真っすぐに天を貫いています。『手』は単なるブロンズ像ではなく、木彫りと塑像の折衷によって出来上がった作品なのです。
 明治以前からの日本における伝統的な工芸・木彫りと、明治以降に西洋文化の影響を受けた塑像が一体となった『手』。木彫家の光雲の血を引き、欧米留学で西洋の芸術を身に付けた光太郎だからこそ、この作品を作り出せたと言えるでしょう。
 高村光太郎記念館では『手』のほか、併設して実物大で作られた『さわれる手』も展示しています。鑑賞するだけでなく、直接触れて光太郎の作品を感じ取ってみてください。


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この連載、時折、光太郎作品や遺品等を取り上げて下さっているので、非常にありがたく存じます。過去の記事はこちら。

 実業家・大倉喜八郎のブロンズ像 (平成29年=2017 11月15日号)
 光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) (平成30年=2018 8月15日号)
 光太郎が使用した硯(すずり)と筆 (平成31年=2019 9月15日号)
 「大地麗(だいちうるわし)」の書 ( 同 10月15日号)
 
同じ「広報はなまき」最新号で、光太郎がらみの記事がもう1件

道の駅「はなまき西南」が8月7日にオープンします

 太田・笹間地区に整備を進めてきた道の駅「はなまき西南」が8月7日(金)にオープンします。
 同施設は、道路利用者への安全で快適な道路環境の提供と、地域の特性を生かしたにぎわいの場の創出を目的に整備。道の駅に必要とされる ▼地域連携機能(物産館や加工施設などを有した地域振興施設) ▼情報発信機能(道路・観光情報の提供など) ▼休憩機能(駐車場やトイレなど)ーの三つの機能を有しています。
 中でも特徴的なのは地域連携機能。加工施設をミレットキッチン花(フラワー)が運営し、地元食材を使った弁当や惣菜を提供することで地域活力の向上を図るとともに、地域の高齢者を対象に配食サービスを通じた見守りを推進するなど、地域を支える拠点施設としての役割を担います。

■施設概要
 ◦所在地 轟木7-203
 ◦床面積 951.6平方㍍(敷地面積8,219平方㍍)
 ◦総事業費 約8億4,000万円
 ◦建物構造 鉄骨造平屋建て
 ◦建物構成 ▼地域連携機能…物産館、食堂、加工施設
  ▼情報発信機能…道路・観光情報などの情報提供施設
  ▼休憩機能…駐車場、トイレ、休憩所
 ◦駐車台数 大型車12台、普通車36台、身障者用1台、二輪車4台

道の駅「はなまき西南」開所式
 日時8月7日(金)、午前10時
 場所道の駅「はなまき西南」
 *一般開放は、開所式終了後の午前11時30分を予定しています。

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来月オープン予定の道の駅「はなまき西南」。なぜ光太郎がらみかといいますと、愛称が「賢治と光太郎の郷(さと)」ということになったためです。

場所的には、花巻高村光太郎記念館さんから直線距離で4㌔㍍ほど。かつて光太郎もこの辺りを歩いたはずで、そこで「光太郎」。「賢治」は、やはり全国区の知名度として花巻と言えば賢治なので、外せないのでしょう(笑)。このあたりには賢治の足跡は残っていないような気もしますが、どうなのでしょう。当方、賢治にはそれほど詳しいわけではありませんのでよくわかりません。ご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

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施設内には展示スペース的なコーナーも設けられるとのことで、光太郎と賢治の関わりについての説明版が掲げられる予定です。地元の方が書かれた原稿がこちらに廻ってきまして、僭越ながら校閲させていただきました。

計画はだいぶ前からあったのですが、いよいよ8月7日(金)、オープン予定だそうです。花巻高村光太郎記念館あんと併せ、ぜひ足をお運び下さい(しつこいようですがコロナ感染拡大にはお気を付けつつ)。


【折々のことば・光太郎】

幸いに父は達者で居ります。父の面前で、その父の愛について語るなどといふ事は面はゆくて出来ません。

アンケート「名士回答 私が父の愛を最も深く感じた時の思ひ出」全文
昭和6年(1931) 光太郎49歳

父・光雲に対して、彫刻家としては、その方向性の相違を烈しく意識せざるを得なかった光太郎ですが、人間的な部分では感謝の念は忘れたことはありませんでした。どれだけ反抗しても結局はスネかじりになり、お釈迦様の手のひらでいばっている孫悟空のような……。しかし、それを名言できないあたり、日本人の感覚としてはこうなのでしょう。

昨日は千葉市にある千葉県立美術館さんに行っておりました。先週から始まったコレクション展「高村光太郎の生きた時代」拝観のためです。

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光太郎彫刻及び同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品、30余点が展示されていました。

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光太郎作品はすべてブロンズで、同館所蔵の8点、すべて出ていました。当方手持ちのデータアーカイブから画像を載せます。すべて光太郎令甥にして写真家だった、故・髙村規氏撮影になるものです。

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東京美術学校在学中の作で、「猪」(明治38年=1905頃)、「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)。「薄命児」はもともと浅草で玉乗りの曲芸をやっていた幼い兄妹の群像でしたが、現存が確認できているのは兄の頭部のみです。

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「手」(大正7年=1918)。先月、立川のたましん美術館さんでも拝見して参りました。先だって、この作品に関する未知だった文章を発見したばかりでしたので、興味深いものがありました。

「裸婦坐像」(大正6年=1917)。「手」にしてもそうですが、まだ智恵子も健康で、実生活は貧しいながらも平穏だった時期。その心の安定が作品にも反映されているように感じます。

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「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)。光雲が依頼を受けた大倉財閥の創業者夫妻の肖像彫刻のために、光太郎が作った原型です。テラコッタの状態にしてあったものが、戦後になって光太郎の手元に帰り、さらに没後、鋳造されました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生宅の居間にこれがなにげに飾られていたと、改めて感慨にふけりました。

「野兎の首」。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居時代の、現存が確認できている唯一の作。光太郎没後、山小屋の囲炉裏の灰の中からやはりテラコッタの状態で見つかったという、ドラマチックな背景があります。

故・髙村規氏の回想から。

 村のお百姓さんが「囲炉裏の灰の中から、こんな土の塊が出てきたんですけど、これ一体なんでしょうかね」って持ってきたんです。見たら、手のひらにのる一握りの土の塊なんですね。目とか耳らしきものがあるんで兎みたいに見えたんですよ。これはもう小屋の周りの普通の地面の土です。水に溶かしてドロドロにした土を粘土みたいにして作って囲炉裏の火で焼いたんですね。おそらく気持ちとしてはテラコッタみたいになればいいなと思って焼いたんだと。だけど囲炉裏の火じゃあ温度が上がりませんから完璧には焼き締めができてないで、そのまま灰の中に埋めてあったんですね。
(中略)
 見たら、砂の塊みたいでポロポロポロポロ崩れてくるんですね。ちょうど親父のお弟子さんの西大由さんが一緒に僕についてきたもんですから、その人と相談して旅館まで、ハンカチにくるんで怖々やっとの思いで運んで、親父に電話したんです。そうしたら「それは貴重な彫刻かもしれないから、何とかして、うまく石膏だけ残してくれ」。そのお弟子さんとしゃべったら「石膏に取るのはいいけど、石膏が失敗したら両方ともだめになっちゃうよ。そこんとこを、お父さんによく言っといてくれ」って言うから、「そう言ってるよ」って言ったら、「まあ、失敗するかどうかはともかく、石膏を用意してもらって、その土を石膏におこしてくれ」。
(中略)
 「よし」ってんで石膏取りが始まりました。西さんは石膏をどうやって手に入れたんだろう、丁寧に旅館の人に頼んでどっかで石膏を買ってきて貰ったのかな。旅館の部屋の廊下のところで、石膏を溶いて、その土の塊にかぶせたんですよ。
(中略)
 それを親父がブロンズにおこしましてね。《野兎の首》っていうタイトルでよく展覧会に出品するんです。それが戦後七年間の岩手の山小屋時代の唯一の彫刻なんですね。親父はその時はもうほんとに涙を流して喜んでましたね。兄貴はやっぱり彫刻家なんだと。
(「碌山忌記念講演会 伯父 高村光太郎の思い出」 『碌山美術館報第34号』 平成26年=2014)


これが昭和33年(1958)のことです。「親父」は光太郎実弟の豊周。「西大由」は豊周に師事した鋳金家。ともに人間国宝です。「旅館」は光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんでした。のちに鋳造しながら涙を流していたという豊周、感動的です。

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そして生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための試作が2点。「手の試作」と、「中型試作」です。

8点並ぶと、光太郎の世界観がかなりの程度、濃密に現出されるなという感じでした。

その他、先述の通り、同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品群。豊周、柳敬助、石井柏亭、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、毛利教武、高田博厚、中西利雄、舟越保武。そして、千葉出身ということで、宮崎丈二の絵も出ていました。宮崎の作品は滅多に観る機会がないので、「ほう」という感じでした。

作品を通し、これらの人々の魂がこの場に一堂に会し、旧交を温めているような、そんな不思議な感覚でした。ここに荻原守衛やバーナード・リーチらが入ればなおよかったかな、などとも思いました。

同展、会期は9月21日(月)までと、かなり長めです。新型コロナにはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

希望といふのも変ですが、もつと自分の詩をつきつめて行つて其処から戯曲への道をひらきたいと思つてゐます。

アンケート「本年(昭和三年)の計画・希望など」より
昭和3年(1928) 光太郎54歳


少し前にもエッチングの件で書きましたが、光太郎、「有言不実行」というか、「やるやる詐欺」というか、そいう部分もけっこうありまして(笑)……。この時期に戯曲を執筆したという事実は確認できていません。確認できていないだけで、実は存在するのかも知れませんが。

智恵子の故郷、福島・二本松からのニュースです。 

アマビエ夏マスク新作6種、17日発売 富樫縫製と民報印刷

 二本松市の富樫縫製と福島市の民報印刷は、夏向きの「アマビエマスク」の新作を十七日、発売する。販売する施設のある地域の特徴に合った色やデザインを採り入れた六種類の「ご当地マスク」で、数量限定となる。
 新作は落ち着いた色合いの二種類の「雅」、水色にアマビエを白抜きした「空」と黄色に白抜きの「レモン」、ピンクに白抜きの「桃」と白地に桃を持ったアマビエをデザインした「ピーチ」。
 「雅」は福島市のコラッセふくしま内の県観光物産館、高村光太郎の詩集「智恵子抄」からヒントを得た「空」と「レモン」は二本松市の道の駅安達上下線、「桃」と「ピーチ」は桃の産地で知られる国見町の道の駅国見あつかしの郷でそれぞれ販売する。今後、取扱店を増やす方針。
 デザインは民報印刷が担当した。一枚千百円(税込み)。
 富樫縫製の富樫三由社長は「新デザインのアマビエマスクで地域の活性化も応援する。今後もご当地マスクのアイデアがあれば取り組みたい」と話す。

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見ると疫病予防になるというアマビエ。全国的に新商品ブームなのでしょうか。なぜかコロナ禍拡大後、二本松の道の駅「安達」智恵子の里さんで、いろいろなアマビエグッズが新しくラインナップに加わっていましたが、ついにアマビエと光太郎智恵子のコラボが実現しました(笑)。「空」と「レモン」……無理くり感が否めないような気もしますが、良しとしましょう(笑)。

花巻高村光太郎記念館さんの「正直親切」マスクともども、よろしくお願いいたします。

7/22追記 アマビエマスク、お父様(故・大山忠作画伯)が二本松ご出身の一色采子さんからの情報で、「日本橋の福島物産館ミデッテにある」というお話でした。



【折々のことば・光太郎】

彫刻は空間を見るんですネ。像が一人のときは真中が主になるが、二人以上の群像になると、二人の間にできるスキ間に面白味があるんですよ。

雑纂「高村氏制作の苦心語る “見て貰えば判ります”
 像の意味は言わぬが花」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

一昨日、昨日に引き続き、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」序幕に際して。今日の分は除幕式前日、仕掛け人の一人、佐藤春夫と光太郎へのインタビューの一節です。

国際ファッション専門職大学教授・髙橋幸次氏によれば、光太郎彫刻は単体の物でも、周囲の空間との関係性を非常に重視した構造になっているとのことで、群像となると、さらにその傾向が強くなるのでしょう。もっとも、現存が確認できている光太郎彫刻で群像といえるのは、「乙女の像」と木彫の白文鳥(昭和6年=1931頃)のみですが。

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主要紙地方版記事シリーズです。今回は『朝日新聞』さんの岩手県版から。 

(いま聞きたい)大滝克美さん マーケティングから見た岩手の強みは/岩手県

■「行ってみたい」豊富な資源 岩手に移住したコンサルタント

 30年近く岩手に関わってきた、マーケティングコンサルタントの大滝克美さん(53)。一昨年からは県内でペンション経営を始め、埼玉から移住した。人口減少が進むなか、何が人を引きつけるのか。マーケティングのプロの目から見た岩手の強みとは。

――岩手に移住したきっかけは
 コンサルタントの仕事で、もともと10年ほど前から1年の半分ほど岩手に来ていました。少し前に、安比で飲食店の物件を探していた知人から相談を受けましたが契約には至らず、いっそ自分でやってみようと、ペンション経営を始めました。これまでコンサルとしてやってきたことの、いわば実証実験です。2018年夏から岩手に単身赴任し、今年春から家族も移住しました。
――岩手の魅力はどんなところでしょうか
 広い県土、海や山、川、起伏に富んだ土地、歴史、そのバリエーションが強みです。人も多様で個性的。人を引きつける資源が豊富です。それらを、今しかない、行ってみたいというライブ価値に高めていくと、観光の可能性は無限に広がります。
 その場に行ってみたいという本能的な欲求は、例えば、八幡平のドラゴンアイの人気ぶりを見ても根強いものがあります。今年もSNSでは、「(桜などになぞらえ)まだ8分咲き」とか「天気悪く来週もう一度来よう」などと、2度3度訪れる様子が伝わってきました。
――どうアピールすればいいのでしょう
 高村光太郎は「岩手の人 牛のごとし」と記し、寡黙で真面目な面を表現しました。宣伝がうまくないと言われるのも、そうした県民性が底流にある。ただ、それは愛すべき特性で、無理に変える必要はない。私も岩手で仕事をするなかで、「人知れずそんな努力をしていたのか」と驚くことが何度もありました。思慮深く、奥ゆかしいのです。コツコツ努力したという情報をじっくり伝えていくことが、遠回りなようで、岩手らしい王道のような気がします。
 都内の大手百貨店のバイヤーは「北海道や沖縄の物産展は盛り上がりが前半に集中するけれど、お客さんが長く続くのは岩手だ」と言う。魅力を伝え切れていない分、未知の何かがある。だからまた来る、というわけです。観光に置き換えると、岩手に長くいたい、また来たいと思う人が多いということになるので、勝算ありと言えます。
――岩手にとって課題はどこにあると感じますか
 物を加工する力を育てることでしょう。観光の先進地でもある北海道や沖縄、長野などはさまざまなよい商品を出し、価格競争力もあります。岩手の物作りは素材にこだわり、手作りで、デザインに凝っていて品質は高い。けれども生産量や価格に課題があります。豊富な岩手県産原料が県外の製造を支えていることを誇りにしながらも、安定的に供給できる加工業は県内にもっともっと育っていい。
 人口減少との向き合い方も大事です。自治体の地域活性化事業では、成果指標として「定住人口を増やす」と記すことがあります。果たして現実的でしょうか? 市町村の数だけ独自色がある。それぞれの個性を生かして、例えば「30歳代を増やす」「子育て世代を呼び込む」などと戦略的なテーマが必要です。
 「(うちの自治体には良いものが)何もない、どうしよう」と困ることはない。岡目八目、30年近く岩手を見てきてそう断言できます。

 おおたき・かつみ 1966年、新潟県村上市(旧山北町)生まれ。東北大工学部を卒業後、リクルートグループを経て、バブル崩壊後に安比高原でリゾート開発に携わる。97年、マーケティング業へ転身。地方食材ならではのこだわりを重視したブランドづくりや、販売支援を手がけた。2007年に岩手県の産業創造アドバイザーに就任。18年、泊まれるビアバー「安比ロッキーイン」の経営を始め、岩手に移住した。

岡目八目」、なるほど、という感じでした。地域の良さは、他から移ってきた人や、一度離れて戻ってきた人の方が、他の地域との違いもよく分かり、見えやすいようです。

当方も岩手の皆さんとの付き合いが長いせいか、挙げられている岩手県民の美徳的な部分には納得がいきますね。実に堅実にものごとを進め、決して慌てない、といいますか。

しかし、「生き馬の目を抜く」江戸ッ子や、「もうかりまっか?/ぼちぼちでんな」のなにわ商人(あきんど)などからすれば、「まだるっこしい」「もどかしい」と感じることがあるだろう、というのも想像がつきますね。

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光太郎はラジオ放送のために録音したアナウンサーとの対談(昭和24年=1949)で、こんな発言をしています。読みにくいかもしれませんが、すみません。テープから文字起こしをしたそのままですので。

で、岩手が、岩手の大地が好きな、岩手の牛みたいな性格ですね。しっかりものをやって、確かにものをやって、で、のろいですよ、すごく。のろいけれども確かにやるってことは、確かにやる。根本からやるってことは、日本の生活の中に非常に欲しいところなんです。ええ。これは、これまで、明治以来、あんまり文化の進み方を速く急いだから、根本からやるってことはおろそかになった。それでものをしっかりこさえるってことが、どうもうまく行ってない。で、国民性にも、国民性まで、そうなりがちだったですね。かえって、その、昔は、そういうこと、できていたんです。昔の手の周りの道具類とか家具類なんかよく見ると、しっかりできてんですね。明治以来の商品化したそういうものは、もう、すぐ壊れるようにできてる。これじゃ、あの、とてもいけない。で、岩手は、そこ、まだ、その伝統、生きてるんです。

ここでも「牛」のたとえが出ていますね。

この対談の年に書かれた「岩手の人」という詩が元ネタです。既に何度がご紹介しましたが、改めて全文を。画像は花巻北高校さんに立つ、高田博厚作の光太郎胸像の台座に刻まれたものです。

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、006
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

さて、大滝氏のインタビュー。コロナ禍で、東京一極集中の弊害がまた新たに顕現した昨今、示唆に富んだ提言ですね。これから、本当の意味での「地方創成」がさらに進むことを期待します。


【折々のことば・光太郎】008

人間の心の中を、内部を見る。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている――片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです。

談話筆記「「十和田記念碑」除幕式における高村光太郎先生のお話」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

昨日のこの項同様、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」序幕の日のもので、昨日は新聞『東奥日報』に語った談話、本日のものは式典での挨拶の筆録です。

「霊肉一致」という境地までたどり着いているのかな、という気がしますね。

主要紙地方版記事シリーズです。今回は『朝日新聞』さんの長野県版から。 

偉人・文人、出会いの彫像 高田博厚・生誕120年展 安曇野で/長野県

 ロマン・ロラン、マハトマ・ガンジー、ジャン・コクトー、高村光太郎、武者小路実篤――。直接会ったり交流したりした著名人の肖像彫刻知られる高田博厚(ひろあつ)(1900~87)の生誕120年記念展が、安曇野市の豊科近代美術館で開かれている。語学が堪能で文筆・翻訳家でもあった多才な彫刻家。その生涯を振り返りつつ、約200点の全彫刻作品のうち約150点を紹介している。

 高田は石川県七尾で生まれ、福井市で育った。父は司法官、母は女学校出のクリスチャンという家柄で、15歳ごろには、シェークスピア原文で読むほど英語力が非凡だった。 画学生だった先輩の影響で18歳で上京し、倍ほど年齢差のあった高村光太郎を訪ねて芸術論を交わした。イタリア語も学び、雑誌「白樺」でミケランジェロに関する翻訳を発表。出会った岩波茂雄(岩波書店の創業者、諏訪市出身)から翻訳を任された。このころ独学で彫刻を始めた。
 5人の家族を残して30歳で渡仏。ノーベル賞作家のロマン・ロランをはじめとする文化人らと親交を深め、作品制作を続けた。在欧邦人のために謄写版刷りの新聞「日仏通信」を発行。「在仏日本美術家協会」も設立した。
 第2次世界大戦後に収容所で一時過ごした経験もあり、カンヌ映画祭日本代表や新聞社の嘱託などを務め、57年に帰国。62年に朝日新聞社主催で初めて本格的な個展を開くなど、日本を代表する肖像彫刻家として知名度を高めていった。
 修道院を模して1992年に開館した豊科近代美術館の主要収蔵品として、当時の豊科町がほぼ全作品を収集。常設では約80点を展示している。今回の記念展は生誕100年に続く20年ぶりの開催で、彫刻を始めた初期、フランス滞在期、帰国後、の3章に分けて生涯を振り返っている。
 同館学芸員の塩原理絵子さんによると、高田作品は(1)肖像(2)トルソー(胴体)(3)女性像――に分類される。ロダンらの影響を受けながらも、シンプルな作風を好んだ。「肖像は、その性格までもがにじみ出ていると評価されている。直接交流しているからこその表現でしょう」と解説する。
 2年前に神奈川県鎌倉市のアトリエから出てきた男性トルソーの石膏(せっこう)原型も初展示。試作を重ねながら、体のひねり具合を突き詰めていく過程を紹介する。
 高田の作品は出身地の福井市美術館などでも収蔵しているが、ゆかりのない土地でこれだけそろうのは豊科近代美術館だけ。塩原さんは「作品群を見ていると、誰とでも対等に付き合った高田の生き方がうかがえます。北アルプスの山並みや西欧風の建物と一緒に、作品を楽しんでほしい」とPRしている。
 記念展「パリと思索と彫刻」は8月30日まで開催。午前9時~午後4時半入館、月曜と祝日の翌日は休館。入館料は大人520円、大学・高校生310円。新型コロナウイルス対策で入館者にマスク着用と手指消毒を呼びかける。問い合わせは、同館(0263・73・5638)。

というわけで、豊科近代美術館さんで開催005中の「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」に関してです。

高田は著名な彫刻家ですので、おそらく各紙で同展に関する記事が出ているのではないかと思いますが、交流のあった光太郎の名を出してくださったのは、この朝日さんの記事と、信州松本平地区の地方紙『市民タイムス』さんのみ、当方の情報網に引っかかりました。

それにしても、いまだコロナ禍収束にほど遠く、なかなか遠出するには二の足を踏んでしまう状態です。会期末までにはなんとか伺いたいと思っているのですが、まだ不安が残ります。自家用車で都内を避けるルートで行けば、それほど心配はないようにも感じますが、行った先で千葉ナンバーということで、不安を与えてしまうことにも成りかねませんし(まさか石を投げられるようなことはあるまいとは思いますが)……。ちなみに千葉県もそこそこ感染者が毎日出ていますが、当方自宅兼事務所のある地域はほぼゼロです。などと喧伝しながら歩くわけにも行きませんし……。

本当に困ったものです。


【折々のことば・光太郎】

同じようなものを並べるなんて前例なくロダンの地獄の門の部分だけですが前例はいつか誰かが作るんだし僕が二つのブロンズの前例を作つていけないことはない。

談話筆記「モニユマンの除幕式」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

「モニユマン」は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」です。昭和28年(1953)10月21日、十和田湖畔での除幕式の日に光太郎が語った談話から。

006

「同じものを」云々は、「乙女の像」がまったく同型の像を二体向かい合わせに配したことについてです。おそらく日本の彫刻ではそういう前例はないし、西洋での似たような例としても、ロダンが「地獄の門」で同型の「アダム」を三体並べて「三つの影」としたのみ、というわけです。

007

001

前例がなければ前例を作ればいい、そういう考え方、当方は大好きです。

昨日の『読売新聞』さんの記事「内面や存在感 リアルに わがまちの偉人 龍馬像作った本山白雲」同様、光雲の系譜を継ぎ、光太郎と交流のあった彫刻家に関しての記事です。『毎日新聞』さんの奈良版から。 

ならまち暮らし:南都銀行の羊の彫刻=寮美千子 /奈良

 森川杜園(とえん)は、幕末から明治にかけて奈良で活躍した一刀彫りの名手だ。その展覧会が、ならまちの「にぎわいの家」であったのだが、コロナ騒動で外出を控えていたら、見逃してしまった。残念だと思っていたら、同じように残念がっている人がいた。友人の友人の水谷(みずのや)園(その)さん(74)だ。祖父・水谷鉄也が郡山中学(現在の郡山高校)在学中に森川杜園に師事。杜園晩年の最後の弟子だったという。
 園さんは、20代でフランスに渡り、長く彼の地で暮らし、一時帰国で京都に滞在中。「園」という名も、杜園から一字もらったもので、なんとしても杜園の作品に触れたいという。それならと、友人が一肌脱ぎ、杜園作品を見せてくれる古物商を見つけて、彼女を奈良に招待した。わたしも協力し、わが家にお泊まりいただくことになった。
 実は、園さんの祖父・鉄也の作品が、奈良に残されている。東向商店街の南都銀行本店の柱にある羊と花綵(はなづな)の装飾彫刻だ。
 彼がこれを作ることになった経緯が興味深い。鉄也は郡山中学に在学中に、奈良県の技師宅に寄宿していた。そこによくやってきたのが、建築家・長野宇平治。当時、奈良県庁舎を設計するために横浜から奈良に赴任していた。二人は顔見知りになる。
 杜園を喪(うしな)った鉄也は、上京し東京美術学校で高村光雲に木彫を学ぶ。高村光太郎が学友だった。卒業後、大阪博覧会の噴水の観音像を製作していたとき、偶然、長野が見学に来て再会を果たす。彼は、日銀大阪支店新築の技師長として赴任していたのだ。長野35歳、 鉄也26歳。
 杜園の弟子だった少年が、立派な彫刻家となっていることに驚いた長野は、さっそく鉄也に日銀の装飾彫刻を依頼。ここから、二人は協力して数々の名建築を手がけることになった。その一つが、1926(大正15)年竣工(しゅんこう)の現南都銀行本店だ。
 東向商店街のアーケードに阻まれて全貌が見えないが、実に立派な古典ギリシャ様式の建造物だ。
 正面のイオニア式円柱の羊の彫刻が、鉄也の作品である。
 「戦争中、祖父のブロンズ像の多くが金属供出で鋳潰(いつぶ)されました。フランスで学び、ロシア風のミジンスキーというあだ名を持っていた祖父には、欧米の友人が多くいました。自分の作品が弾丸になって友を殺すことになるとは、どんなにかつらかったことでしょう。祖父は生きる気力をなくし、死ぬような病気でもなかったのに、戦争中に67歳で亡くなってしまったのです。死後、駒込の家も空襲にあい作品を焼失。だから石造りのこんな作品が残っているのが、とてもうれしいんです」
 しかし、調べると鉄也は「爆弾三勇士像」「乃木希典像」といった戦争協力的な作品も作っている。皮肉にもそれらは「軍神」であるために供出されなかった。
 「美術学校教授として断れなかったのかも。片瀬江ノ島の乃木希典像は最後の最後まで残りましたが、戦後、軍神ゆえに引き倒されました。祖父はそれを知らずに亡くなりました。かえってよかったのかもしれません」
 豊かさの象徴である羊の彫刻。その背後には、思わぬ物語が刻まれていた。(敬称略)

水谷鉄也、記事にあるとおり、光太郎の同級生でした。入学前から森川杜園のもとで修行していたため、確かな腕を持ち、卒業制作「愛之泉」は光太郎をおさえて主席でした。

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上記は光太郎の学年の彫刻科卒業写真(明治35年=1902)。光太郎は後列左から3人目、前列左から4人目には光雲も写っています。この中に水谷もいるはずなのですが、残念ながらどれだかわかりません。おわかりになる方、ご教示いただければ幸いです。

当方、水谷の作品は、自宅兼事務所のある市内に銅像が有りますし、それ以外にも何度か拝見しましたが、やはり確かな技量を持つ彫刻家だな、という印象でした。

南都銀行さんにあるという作品は存じませんでしたが、同行のサイトで調べてみると、建築としては国の登録有形文化財にも指定されているそうでそれなりに知られているもののようです。水谷の装飾彫刻は「ギリシア様式の古典的な建造物のなかで、とりわけ目を引くのが正面のイオニア式円柱に施された「羊」の彫刻ですが、これは設計者の長野氏と懇意だった東京美術学校教授の水谷鉄也氏の作品です。「羊」の由来には諸説あるようですが、古代ヨーロッパにおいて民に多くの富をもたらした家畜を金融機関のシンボルとして採用したのではないかという説が有力です。なお、この「羊」の彫刻は建物東側壁面の装飾にも用いられています」とのことでした。

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戦時中、ブロンズの作品は供出の憂き目にあったという点、昨日ご紹介した本山白雲と同じですね。残った物は「軍神」のもの。それも戦後には「軍神」ゆえ撤去されてしまったというのですから皮肉な運命です。

供出に関しては、光雲や光太郎も例外ではありません。そのため、現在では写真でしか見られない作品が数多くあります。光太郎作品ですと、岐阜県恵那郡岩村町にあった「浅見与一右衛門銅像」、宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた「赤星朝暉胸像」など。光雲では熊本の水前寺公園に建てられた「長岡護全銅像」(水谷が助手として名を連ねています)、東京・向島の「西村勝三像」など。

それにしても、お孫さんの「自分の作品が弾丸になって友を殺すことになるとは、どんなにかつらかったことでしょう」という一言、刺さりますね。光太郎は戦時中にはこのような発言はしていません。できなかったという部分もあるのかも知れませんが……。

こういう暗黒の時代に戻ることがあってはならないと思いますし、昨日同様、こうした彫刻家にもっと光が当たって欲しいとも感じます。


【折々のことば・光太郎】

品性涵養の要諦は精神の清潔感を育成することにある。

散文「神裔国民の品性」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

「神裔」は「神の末裔」の意。やはりズブズブの翼賛的散文で、このような題名となり、最後は「神裔国民たる品性をますます琢磨しつつ戦ひたい」と結んでいます。それはさておき、引用した部分はそのとおりですね。精神の清潔感が不足している当方としては、この一言も刺さります(笑)。

昨日も隣町の図書館さんに行っておりました。PCで各種データベースを検索できるコーナーが再開しまして、このところ週イチ程の頻度で通っています。

先週、先々週は、国会図書館さんのデジタルデータのうち、自宅兼事務所ではアクセスできないものを閲覧しましたが、昨日は、主要新聞さんの記事で、やはり自宅兼事務所では読めない地方版の記事などを調べ参りました。数日間、それらをご紹介します。

まず、『読売新聞』さんの高知県版に5月10日(日)に掲載された記事。光太郎の父・光雲の弟子の一人、高知出身の本山白雲(もとやまはくうん)についてです。 

内面や存在感 リアルに わがまちの偉人 龍馬像作った本山白雲

 太平洋を見つめるようにたたずむ、高知市・桂浜004の坂本龍馬像は、高知県民のシンボルとなっている。心酔する高知の青年が全国に呼びかけて建造資金を集め、1928年に完成させたストーリーで知られるこの像を手がけたのは、宿毛市出身の彫刻家本山白雲(本名=辰吉、1871~1952年)=写真=だ。
 同市立宿毛歴史館の矢木伸欣館長は「白雲の作品は、外見だけでなく、ポーズや表情を通して、写真では出せないモデルの内面や存在感を引き出した」と評する。この像が、龍馬を慕う人の心を引き寄せ続ける秘密も、そこにありそうだ。高さ5.3㍍、台座を含めると13.4㍍になる偉丈夫ぶり、太平洋に向けられたまなざしや口元、その居ずまいそのものが、坂本龍馬という偉人のイメージを形作る。
 
幼少時地蔵眺め続ける
 白雲は、土佐藩宿毛領の家臣の家に生まれ、子供の頃から美術に興味を持っていたという。特に造型にひかれていたのか、自宅近くの“お地蔵さん”を飽きずに眺めていたというエピソードが残る。10代半ばで、「彫刻家になる」と決心して上京。主筋の前領主伊賀陽太郎(1851~97年)を頼り、有名な彫刻家高村光雲(1852~1934年)に引き合わせてもらった。
 住み込みで師事し、「白雲」の名を受け、さま002ざまなコンクールで受賞するなど力をつけた。木彫りを主とする師と異なり、西洋から伝わったばかりの銅像制作に力を入れた。母校・東京美術学校の講師を務め、彫刻家としての評価が高まった白雲に声をかけたのが、宿毛出身で、北海道開拓に尽力した岩村通俊男爵(1840~1915年)だった。「明治を創り出した人たちを銅像で後世に伝えたい」
 これをきっかけに、白雲の元には、明治の元勲たちをはじめ、軍人、実業家、歴史上の人物などの銅像制作依頼が次々舞い込んだ。国会議事堂に残る伊藤博文像も、白雲の手によるものだ。手がけた銅像は数百体に及ぶとされ、多作ぶりに「銅像屋」と陰口もあった。だが、白雲に銅像を制作してもらうことが、ステータスにもなっていたという。
 太平洋戦争の戦局が厳しくなると、作品の多くは、寺の釣り鐘などとともに砲弾の材料として供出された。県内で残ったのは、海援隊や陸援隊を率いて軍に評価されていた龍馬像や中岡慎太郎像(室戸市)など、わずかだ。当時の白雲の内心を、「父は空襲があった夜、銅像の石膏製の原型を淡々と素手でたたき割り、母は無言で手を合わせていた」と、息子が伝えている。

漫画家・横山隆一も指導
 明治維新以降、東京で名を上げた宿毛出身者の中には、同郷の後輩の面倒を見るという美風があった。伊賀が白雲を支え、白雲もまた1907年、在京の土佐出身の芸術家たちと「土陽美術会」を結成。親交を深め、後輩たちを指導した。高知を代表する漫画家の横山隆一(1909~2001)もその一人だ。そんなつながりが明治から昭和にかけての政財界、文化、宗教など多彩な分野で活躍した20人あまりを、宿毛市から送り出したのだ。
 晩年、白雲は「彫刻家として大成したのは、お地蔵様のおかげ」と、宿毛市役所の北側にある城山墓地の地蔵堂に地蔵像を奉納したという。中には、白雲が贈ったとされる地蔵像が、今も安置されている。

高知桂浜の龍馬像作者・本山白雲。光雲の弟子の一人として、アウトラインは存じ上げていましたが、この記事を読んで、より人物像が明確になりました。

以前にもこのブログに書きましたが、光雲の白雲評、コピペします。

やはり谷中時代の人で、今日は銅像制作で知名の人となつてゐる、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊(いはむらみちとし)氏の書生をしてゐて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参つて弟子になりたいといふことで、内弟子となつてゐました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮れには必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持つた人です。(『光雲懐古談』昭和4年=1929)

ちなみに岩村通俊は、東京美術学校教授だった岩村透の伯父に当たり、その関係で白雲の美校入学につながったのでしょう。岩村透は、光雲に「あなたの生涯最大の傑作は、息子の光太郎君だ」と言ったり、光太郎に留学を強く勧めたりした人物です。

当方、白雲の作品は、高知桂浜の坂本龍馬像をはじめ、何点か拝見しましたが、特に印象に残っているのは、盛岡の岩手県公会堂前にある原敬像(昭和26年=1951)です。

005

ここにこれがあるというのを失念していて、たまたま通りがかって見つけました。

光太郎がこれをけちょんけちょんに(死語ですね(笑))けなしています。というか、これに限らず、白雲の胸像制作方法に関してですが、体の部分はレディーメードで顔だけその人物、胸の勲章も既に型が出来上がっていて貼り付けてある、時にその人物が貰わなかったはずの勲章までおまけしてつけている、など。光太郎、幼い頃、腕力の強かった白雲によくおんぶしてもらったそうですが、それとこれとは別、ということですね。

一般的に言えば、銅像は、「誰作ったか」より「誰作ったか」が優先される世界です。それはある意味、仕方がないことなのかも知れません。しかし、やはり作者の名も残していくべきでしょう。特に地方出身の作家の場合、やはり地方紙や主要新聞の地方版など、その人物の紹介をもっとお願いしたいものです。そういう意味で、この読売さんの記事はなかなかヒットだったと思います。


【折々のことば・光太郎】

いやしいことは決して為ないがいい。さもしい心は決して起こさぬがいい。品性を尚ぶ風が瀰漫したら、どんなに国民一般が生活しやすくなるかしれない。
散文「決戦時生活の基礎倫理」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

敗色濃厚となった時期の文章ですので、基本的には窮乏生活にも我慢して耐えろ、というコンセプトですが、部分的にはこのようにいいことも書いてあります。

永田町に巣喰う魑魅魍魎、そこから垂れ流される利権(見直しが発表されたナントカキャンペーンのような)や優遇(ナントカを見る会、など)に蟻のように群がる品性下劣な輩に叩きつけたいところです(笑)。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。一面コラムの「河北春秋」、一昨日掲載分に光太郎の名が。 

河北春秋 2020.7.14

見上げる参道に人影はない。マスクを取り、石段を踏みしめる。仙台市太白区の愛宕神社。2体のてんぐ像がにらみを利かせる山門の脇に、その詩碑は立っている▼『化石を拾ふ』。石川善助(1901~32年)の絶唱が刻まれている。善助は仙台の裕福な商家に生まれたが、少年期に家産が傾き、いばらの道から抜け出せないまま事故死した。詩友には恵まれ、宮沢賢治、高村光太郎、草野心平らが早すぎる死を惜しんだ▼脚に障害があり、雪道などでよく転んだという。そのせいか、恋愛には臆病で、勤めていた呉服店の同僚や、詩作を指導した文学少女に思いを寄せたらしいが、実ることはなかった。後者の女性は親族の勧めで歯科医の小澤開作氏に嫁ぎ、4男を生んだ。第3子の名は征爾。かの世界的指揮者である▼善助は、上京を果たして5年目の梅雨時に、泥酔して大森駅(大田区)近くの溝に落ち、溺死した。仙台で葬儀が営まれたのは7月13日。その日を覚えているせいで、この時季になると、詩碑を訪ねたくなる▼昭和歌謡に、彼の作品が隠れているといわれる。いわゆるゴーストライター。善助が書いた詞を買い、名曲の作者として名を残した人もいることになる。詩碑の向こうのビル群を眺めつつ、人の運、不運にふと思いを巡らす。

石川善助は、当会の祖・草野心平主宰の『歴程』にも寄稿していました。そこで心平や、同人だった賢治・光太郎の名が出ているわけです。

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画像は戦後の昭和27年(1952)に刊行された『現代詩集 歴程篇』。角川文庫です。編者は「歴程同人」となっていますが、ほぼほぼ心平が行ったと見ていいでしょう。

この詩集では、光太郎ら存命だった同人はもちろん、賢治や中原中也、八木重吉など物故同人の作品も収録され、石川のそれも載っています。

数え32歳で亡くなった石川、生前に詩集は刊行されませんでした。没後、遺構詩集として『亜寒帯』が刊行(昭和11年=1936)され、光太郎が序文を書いています。名文ですので、全文引用します。

 ぐつと若い頃、漁船に乗り込んで鯨000油をふんだんに飲んだので、石川善助は寒さといふものを知らなかつた。アスフアルトがかんかん音を立てる大寒の夜にかたびらのやうな着物を着てよく新宿の焼鳥屋に来た。寒さを知らない石川善助の詩に、しかも寒さが充満してゐた。寒さを知らないのは、自身寒さの太極に外ならなかつたからだ。彼は徹頭徹尾北方人であり、北方の持つ峭厲と皓旰と、規矩と結晶性と、海中火山のやうな晦冥と三貫島のやうな孤僻とを具備してゐた。彼はレオン ドウベルのやうな貧と、勤王の志士のやうな情操とに生きた。事実、彼は宮城の前を通る度に電車の中でも必ず敬礼するのを忘れなかつた。彼には祖先の血が多分に流れてゐた。彼の詩のイデオロギイにはそれ故一種特別な日本的、国土的の要素が盲管状に縦横に馳駆してゐた。その整備された形式の触感は鉱石の切断面に似、途轍もないあの癇高い爆笑の響が、金属性の詩語の間に潜められてゐた。彼は恰も風狂の徒のやうに路傍で死んで発見された。この痛ましい純情の詩人がどういふ位置を我が詩の歴史の上に持つか、其はもう少し歴史の上に持つか、其はもう少し歴史そのものが進展してから考へねばなるまい。彼の詩篇が蒐められて今初めて詩集となる。ありし日の彼を思ひ出して、まるで炸裂した榴弾を見るやうな気がする。

「新宿の焼鳥屋」は、心平が経営(といっても屋台ですが)していた「いわき」です。椅子は智恵子が提供したリンゴ箱でした。

「河北春秋」に紹介されている詩碑は、広瀬川の段丘上、太白区の愛宕神社さんにあるそうで、これは存じませんでした。折を見て行ってみようと思いました。

それから、ゴーストライター云々。調べてみましたところ、石川はニットーレコードから昭和7年(1932)にリリースされた「再生の港」という歌の作詞者として記録が残っていました。作曲は高峰龍雄、歌唱は貝塚正、それぞれ当方、寡聞にして存じません。これ以外にも、何か有名な曲の作詞をひそかに手がけていたということなのでしょうか。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

いずれにせよ、『河北新報』さん、石川のような、まぁ、失礼ながらはっきり言えば忘れられつつある文学者に光を当てているわけで、こうした取り組みも地方紙の使命として大切なことと存じます。こうした動きが全国に広まってほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

ヱツチングは小生もリーチ以来常に試作を志してゐるものゝ未だ機会なくしてとりかゝりませんが今に積年の希望を一度に果し、多くの素描を片端から、ヱツチングしたいと思つてゐます。

散文「『画工志願』読後感」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

雑誌『ヱツチング』第6号に掲載された文章から。『画工志願』は同誌の編輯・発行に当たっていた西田武雄の著書です。

「リーチ」は、留学中のロンドンで知り合い、それが縁で来日した陶芸家のバーナード・リーチです。リーチは元々は陶芸を志していたわけではなく、来日当初はエッチングを教えて生活の糧とする計画でした。

ところで光太郎、意外と「有言不実行」的な部分があります。おそらくこの後もエッチングに取り組んだ形跡は確認できていません。もっとも、智恵子の心の病がのっぴきならぬところまで進んでいた時期ですし、その後は泥沼の戦争、それどころではなかったのかも知れませんが。

ただ、これ以外にも、「戯曲を執筆するつもり」「小説を書きたい」など、発言したあとに実現しなかった事柄がけっこうあります。まあ、そういう人間臭さも光太郎の魅力の一つではありますが。

千葉から所蔵品展の情報です。 
期 日 : 2020年7月18日(土)~9月21日(月)
会 場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区 中央港1丁目10番1号
時 間 : 9:00~16:30
休 館 : 月曜日
      ただし、月曜日が祝日・振り替え休日に当たるときは開館し、翌日休館
料 金 : 一般300円/高大150円  *20名以上は団体料金(それぞれ2割引き)
      65歳以上 中学生以下 障害者手帳をお持ちの方及び介護者1名無料 
高村光太郎は、日本近代を代表する彫刻家の一人であると同時に、『智恵子抄』をはじめとする詩作や美術評論など、多岐にわたる芸術活動を展開しました。
活動の幅広さに比例するように、生涯を通じて多くの芸術家と交流しました。その中には実弟で彫金家の高村豊周、家族ぐるみの交流があった柳敬助、フュウザン会で活動をともにした岸田劉生などがいます。
本展は、当館コレクションの中から、高村光太郎本人の作品とともに、高村と交流のあった芸術家たちの作品を紹介することによって、高村が生きた時代を浮かび上がらせようとするものです。

主な展示作品
 高村光太郎《手》1918年 岸田劉生《霽れたる冬之日》1917年

同時開催
 コレクション展 都鳥英喜とその周辺/名品

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展示目録がネット上に出ていませんが、同館では「手」(大正7年=1918)をはじめ、8点の光太郎ブロンズ彫刻を所蔵しています(以前は6点だったように記憶しているのですが)。8点すべて出すのか、セレクトされるのか、不明です。ただし、いずれも新しい鋳造のもののはずです。

それから、説明文には光太郎実弟にして鋳金の人間国宝・豊周の名。やはり同館では「北詰コレクション」ということで、千葉県印西市にあって平成26年(2014)に閉館した、「メタル・アート・ミュージアム 光の谷」の所蔵品がこちらに移っており、その中に豊周の作品が含まれています。何度かそちらの展示も行われています。今回もおそらく豊周の作品も出るのでしょう。

今週末はいろいろ忙しいので、来週には足を運び、レポートしようと考えております。


【折々のことば・光太郎】

一番よく自分の内の声を聴くものが、一番正しい生活に入るのである。人間世界の道徳律はかうして自然に出来たものだと思ふ。

散文「若さ」より 昭和3年(1928)頃 光太郎46歳頃

昭和3年1月14日、東京開成館発行『新制女子国語読本 第二修正版 巻五』(高等女学校用の教科書)に掲載された文章です。初版は大正11年(1922)ですが、毎年のように改訂が入り、いつの時点でこの文章が採録されたか不明です。

大正13年(1924)発行の雑誌『婦人之友』に載った「若い人へ」と内容的にはほぼ同一ですが、細かな部分での相違がかなりあります。現時点ではどちらが先行するか、これも不明です。

「一番よく自分の内の声を聴くものが、一番正しい生活に入るのである。」ある意味、性善説ですかね。

和歌山県から企画展情報です。昨日に引き続き、光太郎の父・光雲の作品が出ています。 
期 日 : 2020年7月11日(土)~9月27日(日)
会 場 : 高野山霊宝館 和歌山県伊都郡高野町高野山306
時 間 : 午前8時30分~午後5時30分
休 館 : 会期中無休(8月24日(月)のみ展示替えのため休館)
料 金 : 一般 600円 高校生・大学生 350円(※学生証提示必要) 小・中学生 250円

 「如来」とは、「悟った者」という意味で、仏の最高位にあたることから、古来より様々な人々の信仰を集めてきました。曼荼羅の中心に位置する大日如来、極楽浄土に導く阿弥陀如来、無病息災をかなえる薬師如来などがよく知られ、高野山では、主にお寺の本尊として祀られています。高野山霊宝館では、こうした様々な如来像、また如来に関わる文化財が数多く伝わっています。
 今回の展覧会では、当館に所蔵されているこれらの中から、珠玉の文化財を展示いたします。

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7月11日(土)~8月23日(日)が前期、8月25日(火)~9月27日(日)で後期と、二期に分かれていますが、光雲作の「仏頭」(昭和8年=1933頃)は通期展示です。

こちらは、金剛峯寺さんご本尊の薬師如来坐像のための習作。ただ、習作と言っても、その大きさは半端なものではありません。

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同像は、昭和元年(1926)の火災で焼失してしまったかつてのご本尊を、光雲が請われて復刻したものです。現在も秘仏の扱いですが、開山1200年を記念して平成27年(2015)に特別開帳があり、NHKさんの「日曜美術館」でも取り上げられました。

完成は昭和9年(1934)、光雲の亡くなった年でした。金剛峯寺さんから依頼があったとき、光雲は高齢(数え82歳)で、制作途中で倒れるかも、と、一旦断りましたが、同寺の高僧の「完成するまであなたが死なないように全山挙げて加持祈祷をする」との一言で押し切られてしまったそうです。これも凄い話ですね(笑)。結局、こちらが光雲ほぼ最後の大作となったようです。

他にも国宝、重文を含む寺宝の数々がズラリ。出品目録はこちらです。

コロナ感染予防対策徹底の上、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本に真に有機的な文化の起るために、今後の勇進を切望します。

散文「有機的な文化の起る為に」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

神奈川の小田原で発行されていた文芸同人誌『生誕』(藪田久男主宰)が第20輯記念号を出し、それに伴って光太郎や萩原朔太郎らに寄稿を求めたものです。

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題字揮毫は北原白秋です。

上記、高野山金剛峯寺さんのご本尊制作に際しての光雲も、高齢を押して引き受けたのは、「有機的な文化」の継承、という使命感がそうさせたのでは、などと思っております。

石川県から企画展情報です。 

期 日 : 第1期 2020年6月27日(土)~8月2日(日) (第2期 8月8日(土)~9月13日(日))
会 場 : 石川県七尾美術館 石川県七尾市小丸山台1-1
時 間 : 午前9時〜午後5時
休 館 : 毎週月曜日(8/10は開館)・8/11 展示替え期間 8/3(月)~7(金)
料 金 : 一般350円(280円)、大高生280円(220円)、中学生以下無料
        ( )は20名以上の団体料金

 平成7年(1995)4月に開館した当館は、今年春に25周年を迎えました。これもひとえに、多くの皆様のご支援・ご協力があってのことと、改めて御礼申し上げます。
 さて、当館は大きな2本柱があって建設、開館となりました。1つが能登七尾出身である長谷川等伯の作品を公開すること。そしてもう1つが、当館所蔵品の中核を成す、「池田コレクション」を広く公開し、後世に伝えていくことでした。
 本展では、「池田コレクション」289点より日本画・彫刻・工芸作品を《第1期》《第2期》に分け、それぞれ2テーマで紹介します。この機会に、長年愛され伝えられてきた「池田コレクション」の数々を、ゆっくりとご堪能ください。

〈第1期〉 ~日本画・彫刻を中心に~、~美濃焼と漆工を味わう~

 第1のテーマ「日本画・彫刻を中心に」は、宮川長春の肉筆画や菱田春草ほか日本画14点と、平櫛田中などの彫刻作品6点を中心に、高橋介州の愛らしい動物表現による金工作品5点と氷見晃堂などの木工作品2点を加え、計27点を紹介します。
 また、第2のテーマ「美濃焼と漆工を味わう」では、当コレクションの中でも特に充実している、志野・織部・黄瀬戸といった美濃焼29点と、味わい深い根来など漆工作品14点の、計43点を紹介します。

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光太郎の父・光雲の木彫が出ています。昭和6年(1931)の「聖観音像」。さらに光雲高弟の山崎朝雲、平櫛田中の作も。

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『中日新聞』さんの石川版で報道がありました。 

「納涼美人図」目を引く 七尾美術館 池田コレクション展

 七尾市出身の実業家、池田文夫003さん(一九〇七~八七年)が収集した作品を紹介する収蔵品展「伝えゆく池田コレクションの魅力」が、七尾市小丸山台の県七尾美術館で開かれている。味わい深い日本画、彫刻、工芸、陶磁器など計七十点を展示している。八月二日まで。
 日本画では、宮川長春が腰を掛けたなまめかしい遊女を描いた「納涼美人図」(江戸中期制作)、菱田春草が仙人の住む山を霧などを効果的に描き表現した「蓬莱山図」(明治三十五年ごろ制作)、松村景文の余白を効果的に大きく残し雪山などを表した「山水花鳥図」(双幅、江戸後期制作)などが目を引く。
 高村光雲や平櫛田中(でんちゅう)など著名な作家の彫刻作品、重要無形文化財保持者(人間国宝)の氷見晃堂の飾り棚なども並んでいる。陶芸では、ユニークな形状の美濃焼、重厚な印象の赤と黒の根来(ねごろ)の漆工作品も展示している。
 観覧料は一般三百五十円。大学・高校生二百八十円、中学生以下無料。月曜休館。展示は池田コレクションの第一期で、第二期は八月八日九月十三日で別の作品を展示する予定。 (中川紘希)

感染予防にはお気を付けつつ、お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

嵐も猛るがよい。霙も降るがよい。魑魅でも魍魎でも、今の中は勝手に跳梁するがよい。育つものは静かに、盛んに育つて行く。光と美とを吸収しながら、どんな時でも素直なものだ。

散文「立派なるものゝ芽」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

大正も10年代となり、日本の芸術界がそろそろ西洋の最先端の芸術を消化しつつあることに対する希望を述べています。まだそれは完全ではなく、袋小路にはまった古臭いもの、西洋の猿真似に過ぎないものなどが跋扈しているものの、近いうちにそれらは滅びるだろう、ということです。

昨日、朝刊を開きましたら社会面にテノール歌手・永田峰雄氏の訃報。

『朝日新聞』さんから。

テノール歌手、永田峰雄さん死去 欧州を拠点に活躍

 永田峰雄さん(ながた・みねお=テノール歌手)が8日死去した。66歳だった。葬儀は近親者で営む。
 91年にザルツブルク音楽祭に出演し、欧州を拠点に国際的に活躍。モーツァルトを得意とした。東京芸大、愛知県立芸大、洗足学園音大などで指導した。


氏の所属事務所・株式会社AMATIさんののサイトから。 

弊社所属声楽家 永田峰雄(ながた みねお)が7月8日000に逝去しました 享年66歳でした
ここに故人の数々の名演を胸に 哀悼の意をもってお知らせします

永田峰雄は新潟県長岡市に生まれ 東京芸術大学卒業 同大学院修了しました 1991年ザルツブルク音楽祭『サティリコン』に出演して以来 ドイツを拠点にヨーロッパで活躍しました ヴュルツブルク トリーア ギーセン ボン ミュンスター等の歌劇場と専属契約を結びモーツァルト歌手として様式感ある端正な歌唱と柔軟なベルカント唱法が絶賛されたことは広く知られています 日本においても新国立劇場 びわ湖ホール等で数々のオペラ公演 オーケストラとの共演で高い評価を得てまいりました 近年は東京藝術大学 愛知県立芸術大学 洗足学園音楽大学等で後進の指導にも情熱を注いでいました


当方、直接は存じ上げない方でしたが、かつてCDを1枚、購入させていただきました。平成15年(2003)、カメラータトウキョウさんリリースの「別宮貞雄歌曲集「智恵子抄」/ロベルト・シューマン歌曲集「詩人の恋」」。歌唱が永田氏で、ピアノはアメリカのアントニー・シピリ氏。

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氏の訃報を受けて、昨日、久しぶりに聴いてみましたが、20年ほど前の録音で、そろそろ円熟期に入ろうかという氏の伸びやかな歌声、いい感じでした。

まだ新盤で手に入るようです。是非お買い求め下さい。


今朝は今朝で、やはり社会面に、宮中歌会始の選者も務められた歌人の岡井隆氏の訃報。やはり『朝日新聞』さんから。 

岡井隆さん死去 歌人、現代歌壇を牽引

 前衛的な短歌の詠み手として知られ001、現代歌壇を牽引(けんいん)し、皇族の和歌の相談役も務めた歌人の岡井隆(おかい・たかし)さんが10日、心不全で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。
 1928年、名古屋市生まれ。46年に結社「アララギ」に入会。慶応大学医学部卒業後、内科医として病院に勤務する傍ら、歌を詠んだ。
 終戦直後、短歌や俳句を格下の文学と見なす「第二芸術論」が起こると、それに応答する形で50年代半ばから、寺山修司や塚本邦雄とともに前衛短歌運動を展開。60年安保闘争といった社会の動きを、極めて実験的な表現で詠んだ。
 70年には医師としての立場や歌壇での名声を捨てて九州へ出奔。5年間の沈黙を経て歌壇に復帰した。その後は、和歌のように韻律の美しさを重んじる作品や、口語と文語を自由に交ぜた歌など、短歌の可能性を極限まで追究した。
 92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに、選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった。07~18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛(ごようがかり)も務めた。
 歌集「禁忌と好色」で迢空賞、「親和力」で斎藤茂吉短歌文学賞などを受賞。評論・エッセーなどを含む「岡井隆コレクション」で現代短歌大賞。詩人でもあり、「注解する者」で高見順賞を受けた。16年には文化功労者に選ばれた。文芸評論家としても活躍した。
 代表歌に〈父よ父よ世界が見えぬさ庭なる花くきやかに見ゆといふ午(ひる)を〉「天河庭園集」、〈キシヲタオ……しその後(のち)に来んもの思えば夏曙(あけぼの)のerectio penis〉「土地よ、痛みを負え」などがある。
 歌誌「未来」編集・発行人を最期まで務めた。
 <歌人・細胞生物学者 永田和宏さんの話> 政治的なことも巧みな比喩で表現し、前衛短歌運動の一番の立役者。それまで「私」と言えば作者を指したが、その縛りから「私」を解放し、暗喩や口語文体を駆使して表現方法を広げ、一つの時代をつくった。医師でもあり、私がサイエンスの道との両立に悩んだ時、相談に乗ってもらったこともある。

一面コラム「天声人語」でも。 

(天声人語)岡井隆さん逝く

 歌集『現代百人一首』が刊行されたのは25年前のこと。〈みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ〉。テレビで耳にしたCM短歌が、斎藤茂吉や釈迢空の歌と同格に扱われ、新鮮な驚きを覚えた▼その選者で、戦後歌壇を牽引(けんいん)した岡井隆さんが亡くなった。92歳。内科医にして歌会始の選者、皇族の和歌御用掛を務めたという経歴からは想像できないほど、その歩みは波乱に満ちている▼〈一時期を党に近づきゆきしかな処女(おとめ)に寄るがごとく息づき〉。慶応大学の医学生だったころ、マルクス主義にひかれた。共産党系の診療所に詰めていた一夜、警察の家宅捜索を受ける。「歌集や歌誌の原稿まで押収された」とかつて本紙の取材に語った▼家庭や名声をかなぐり捨て、若い女性と九州へ逃避行したのは40代。有名歌人の「蒸発」は騒動を招く。だがその女性とは長続きせず、九州の病院で働くことに。〈女(をみな)とは幾重(いくへ)にも線状(すぢ)あつまりてまたしろがねの繭と思はむ〉。後にそんな官能的な歌を詠んでいる▼「短歌は危機の時を通り越し、廃墟の残骸の中にある」と歌壇の行く末を案じた。「私自身は選歌・添削・講師としてその廃墟に立ち、わずかに再建を夢みている」と繰り返し語っている▼功成り名を遂げたあとも、円熟の歌境に安住することはなかった。ナンセンスなCMから独創的、実験的な作品にまで光を当て、歌の可能性を極限まで広げる。破格、破調の堂々たる生き方であった。

氏の御著書もかつて当方、一冊、購入いたしました。

岩波書店さんから、平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。タイトル通り近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。

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それから、至文堂さんから昭和59年(1984)に発行された雑誌『国文学 解釈と観賞』第49巻第9号「特集=高村光太郎」。岡井氏は「光太郎における短歌の役割」という論考を寄せられています。おそらく調べればこの手の雑誌等にもっと光太郎に言及したものもありそうですが、すぐ思い浮かんだのはこちらでした。

ご両人のご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

悠ゝ無一物満喫荒涼美  短句揮毫 昭和23年(1948) 光太郎66歳

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元ネタがありまして、連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」(昭和22年=1947)に書かれた、「いま悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節です。他に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と書いた揮毫も存在します。こちらはそれらを漢文風にしたものですね。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の厳しい自然環境を「荒涼の美」ととらえたわけですか。

昭和23年(1948)6月22日の日記には、「終日揮毫。有賀氏のため色紙に書く。「悠ゝ無一物満喫荒涼美」」の記述があります。有賀剛は、光太郎と交渉のあった彫刻家・笹村草家人の友人で、神田小川町に汁粉屋を営んでいました。

日本コカ・コーラさんの人気商品の一つ、リアルゴールド。当方、缶入りはたまにいただきますが、ペットボトルもあったそうで……。さらに、ラベルに「「やる気」をアップする、“あの人”の金言つき」が新発売だとのこと。同社のサイトから。 

 コカ・コーラシステムは、エナジードリンクブランド「リアルゴールド」から、働く人の「やる気」をアップする「リアルゴールド ウルトラチャージレモン」の「金言」つきデザインボトル第2弾として、著名人の金言がついたボトルを7月6日(月)より全国で発売します。

 「リアルゴールド ウルトラチャージレモン」は、ビタミンCやローヤルゼリー、BCAAなどのエナジー・栄養成分を配合した持続系エナジー炭酸です。すっきりとしたレモンフレーバーのリアルゴールドの味わいとエナジー・栄養成分に加え、元気をチャージしてくれる “あの人”の金言が、心身ともにリフレッシュしやる気のスイッチを入れてくれます。

製品特徴
 レモンフレーバーの爽快な味わいで、ごくごく飲める持続系エナジードリンク
 ビタミンC、ローヤルゼリー、BCAAなどのエナジー・栄養成分を配合
ターゲット/飲用シーン
 20代~40代男性
 仕事中、休憩中、移動中などで心身をリフレッシュして気持ちを切り替えたい時
パッケージ
 働く人のやる気をアップする、16種の著名人「金言」つきデザイン
 やる気がでる「金言」動画が楽しめるQRコードつき。
 その場で LINEポイントが当たるキャンペーンにも参加可能

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ラベル側面に、近代から現代まで16名の”あの人”(架空の人物を含む)の「金言」が印刷されており、光太郎も選んでくださいました。

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お馴染み、詩「道程」(大正3年=1914)から、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」。

ちなみに同社と光太郎の因縁は深く、大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号に発表され、同3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に、「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされています。

下記はすべてのラインナップです。

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確かに「やる気」が喚起されるような言葉の数々。ただ、当方のごときヘタレは、これだけポジティブな言葉をズラリと並べられると、逆にプレッシャーを感じざるを得ないような気もしますが(笑)。

そうなると、「それでも男ですか、軟弱者!」(『機動戦士ガンダム』 セイラ・マス)などが入っているとなお良いのかな、と言う気もします(笑)。

ついでに言うなら「逃げちゃ駄目だ 、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ」(『新世紀エヴァンゲリオン』 碇シンジ)、「ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」(『ファイト!』 中島みゆき)、「燃えたよ‥‥まっ白に‥‥燃えつきた‥‥まっ白な灰に‥‥‥‥」(『あしたのジョー』 矢吹丈)などもでしょうか。あ、燃えつきてはいけませんか(笑)。

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ところで、「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」の光太郎バージョン、早速、店頭で探してみました。近くのコンビニと最初に行ったスーパーには当該商品自体が置いて居らず、2軒目に廻ったスーパーには並んでいたものの、こちらの新シリーズではなく、3月発売の旧シリーズでした。「田舎ではこんなものか」と思いましたが、あきらめずに探査にあたります。

皆様もぜひ探してみてください。


【折々のことば・光太郎】

高村光太郎 明16・3 東京、東京美術、彫刻、詩、洋画 昭和二十年戦災後移転、山小屋で半農生活に入つた、 岩手県稗貫郡太田村山口

雑纂「日本人名録」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

『毎日年鑑昭和二十五年版』から。凡例には「本社の照会に対する回答及び本社調査の資料を基として衆参議院議員、中央官庁主要職員、都道府県知事、日本芸術院会員、日本学士院会員をはじめ現在各界で活躍の文化人、実業家、政治家等より収録した」とあります。

同じ『毎日年鑑』の、前後の年の版では単に住所等のみの記載となっており、この年の版だけ若干詳しい記載があるため採録しました。

ローカルTV局・IBC岩手放送さんで、毎週水曜日の19:00~19:57、「わが町バンザイ」という自主制作番組が放映されています。「さまざまな組み合わせのアナウンサー2人(時にはゲスト)が、県内33市町村を基本的に行き当たりばったりで訪ね歩く。「岩手ってやっぱりいいよな!」と心の底から思えるような“ふるさと讃歌バラエティ”。」だそうで。

6月24日(水)のオンエアが、「花巻南温泉峡」。その中で花巻高村光太郎記念館さん、隣接する高村山荘も取り上げられました(というか、前半はまるまるそちら)。同館からDVDに録画してくださったものが届きました。ありがたし。

番組の「お約束」だそうで……。

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ドローン空撮ですね。右端が花巻高村光太郎記念館さん、髙村山荘は左上あたりです。

進行役は同局の浅見智アナ、奥村奈穂美アナ。

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お二人とも通常のニュース番組も担当されており、見知ったお顔でした。特に美人さんの奥村アナは当方のど真ん中ストライク(笑)。


閑話休題(笑)。まずは花巻高村光太郎記念館さん。この番組、通常はアポ無し突撃取材だそうですが、やはりコロナ禍でそうもいかないようで……。

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館内に入ると……。

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取材は休館中だった5月末。女性スタッフの方々が、光太郎手ぬぐいを素材とした手作りマスクを製作中。

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同封のカードには、光太郎詩「非常の時」の一節。

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昭和20年(1945)の花巻空襲の際、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった医療従事者を称えた詩です。それが現在のコロナ禍の状況と重なる、ということで。

浅見アナが詩の一部を朗読。

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テロップの口語訳は当方です。

ここでCM(笑)。岩手銀行さん。

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なぜ「ノンストップ」ではなく「のんストップ」かといいますと……。

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のんさんがご出演(笑)。このCMは存じませんでした。「あまちゃん」で一躍注目を集めた三陸鉄道(三鉄)さんも登場。

さて、続いては……。

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花巻高村光太郎記念館さんのロゴ、「光」という字が左右反転状態なのです。

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ちなみにロゴの右下、「?」にかかっているあたり、熊の爪痕です(笑)。

裏返しの謎を解明すべく、髙村山荘へ。

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答えは山荘の別棟、光太郎が使っていたトイレにありました。

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光太郎が自ら壁に彫りつけた「光」の文字。

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下記は昭和24年(1949)、濱谷浩撮影のカット。本当に彫っているシーンなのか、それっぽく見せるための「やらせ」なのか、何とも不明ですが、ともかく禿頭の後ろ姿は光太郎本人です。

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その後、山荘本体へ。

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最近、二重の套屋の内側に、記念館用に当方が作成した花巻時代の光太郎年譜などを、新たにパネルにして展示したそうで……。

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この項目で、奥村アナ、ウケてました(笑)。

再び記念館に戻り……。

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今秋開催予定の企画展示の宣伝も。

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フリップの通り、光太郎遺品のホームスパンの毛布を展示するそうです。

ただ、その前に、昨年、光太郎令甥の藤岡貞彦氏(一橋大学名誉教授)から寄贈があった、光太郎の父・光雲作の木彫を展示する企画展が、9月頭から中旬まで計画されています。当方現在、そちらの説明パネルやキャプションの執筆にかかっております。

番組後半は、花巻南温泉峡。光太郎が泊まった鉛温泉さん、大沢温泉さんなどは、残念ながら扱われませんでした。

そして、ラスト。

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両アナ、いつの間にかマスクがお色直し(笑)。

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いい感じですね(笑)。

奥村アナ、「正直親切」を、これから座右の銘になさるそうで(笑)。

IBC岩手放送さん、ゴールデンタイムにこういう番組を放映されている、その郷土愛には感服しました。岩手の皆さんは、お一人お一人、そういう郷土愛に溢れていらっしゃり、それがコロナ感染ゼロの原動力にもなっているような気がします。

コロナ禍おさまりましたら、皆様、ぜひ、足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は常々定型詩としての短歌に俗情の交加するのを嫌ふ。短歌はおのづから人間醇粋感情の格高き表現の器であると確信するので木下利玄氏の短歌に私が推服するのは当然の事である。

散文「木下利玄全集内容見本」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

木下利玄は光太郎より三歳年下。少年期より短歌を佐佐木信綱に学び、『白樺』発刊に尽力しました。

光太郎自身は、意外とろくでもない巫山戯た短歌も詠んでいますが、本来、短歌は「人間醇粋感情の格高き表現の器である」と思っていたのですね。

先週金曜日、それから昨日と、隣町の成田市立図書館さんに行っておりました。同館では今月からほぼすべてのサービスが復旧、国会図書館さんのデジタルデータ閲覧が可能となったためです。同データ、「図書館送信資料」ということで、自宅のPCでは見られない資料も、提携しているこうした大きめの公立図書館さん等で閲覧が可能です。国会図書館さん自体も再開はしましたが、入館は事前に抽選などと面倒な状態ですし、何より都内はまだコロナが怖いので、成田に行きました。

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デジタルデータでは、『高村光太郎全集』及びその補遺たる「光太郎遺珠」未収録だった戦前の光太郎短歌について、さらに光太郎に関する回想文(今秋発行予定の『光太郎資料』掲載のため)などについて閲覧、コピーをとってきました(そのあたり、おいおい紹介していきます)。

ついでに、新聞のコピーも。少し前の話になりますが、『毎日新聞』さん夕刊に詩人の和合亮一氏が月イチで連載されている「詩の橋を渡って」。5月28日(木)掲載分です。『毎日新聞』さん、当方、購読はしていません。こうした場合、朝刊なら市内のファミレスに行って購入(なぜかコンビニには置いてありませんで)、夕刊はそちらでも販売していないので、翌日以降、当方居住地の市立図書館さんでコピーをしていました。しかし、居住地の市立図書館さんは未だに閲覧やコピー等のサービスが再開して居らず、これも成田頼みとなりました。ちなみに毎日さんのサイトでは有料会員限定閲覧可です。

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詩の橋を渡って 生の喜び 真っすぐに

 東京の空はいつもこまぎれ

 それでもお前は 生きてる喜びつげる
 この小さな空は私だけの空

 世界を襲った新型コロナウイルスの猛威により、社会や命の意味をすぐ隣にあるものとして考えざるを得なくなった気がする。不要不急の外出は避けて、人と交わらない努力をして暮らしていった日々。「3密」や「ステイホーム」「巣ごもり」などのキーワードが頻出してそれに示されるかのようにして、お互いに警戒しながらじっと耐える日々を送った。緊急事態宣言が全面的に解除となっても、油断は許されない。
 家の中でずっと本を開いていた。読書に没頭することで支えられる何かを追い求めたいと思った。思えば九年前の東日本大震災の折に、原発が爆発した後で放射能の心配からやはり外出は出来なかったが、その時と同じような静けさと寂しさを強く感じた。人間が恋しいという感情に似ている。ブッシュ孝子の詩集『暗やみの中で一人枕をぬらす夜は』(新泉社)を読み、毎日に緊張し続けていた心が揺すぶられた思いがした。

 「素直なことばで/本当のことだけを語りたい」。このフレーズは初めて詩を書いた日に記したものである。詩人は二八歳でがんで亡くなった。これは闘病中に記された唯一の詩集である。逝去する五カ月前から書き始められた詩が収められている。一つ一つに生き様を教えられるかのような気がした。この詩句も初めの日に記している。「美しい言葉が次々と浮かび出て/眠れぬ夜がある/新しい詩が次々と生れでて/ 眠れぬ夜がある」。
 病の進行の不安にさいなまれながらも、こんなふうに創作の泉と出合っている姿がある。詩を書く人のみならず言葉を文学を愛する者の原点を見た思いである。読み耽(ふけ)りながら、心の中にせせらぎが生まれているような気がした。ウイルスに脅(おび)える日常に心がすっかりと渇いてしまっていることに初めて気づかされたのである。問いたくなった。詩を書くこと、生きることを願う気持ちが真っすぐに伝わる詩を、私は今書いているだろうか。

 「東京の空はいつもこまぎれ」。病室から見える都会の空の印象。高村光太郎の「 智恵子抄」の詩の一節「智恵子は東京に空が無いという」を思わせる。「 それでもお前は 生きてる喜びつげる/この小さな空は私だけの空」。室内に籠もる暮らしの中で窓が映す建物の影の間の空に生の喜びを見つけるまなざしがある。小さな風景と共に限られた歳月を生きる。「この空だけは誰にもあげない」。 真っすぐな眼(め)の先に詩と命の宿りを信じた。
 「かかえきれない歳月が/春の嵐に吹きつけられ/ きょうもまた傷口をひろげる」。たかとう匡子の新詩集『耳凪(な)ぎ目凪ぎ』(思潮社)。それでありそれではない何かを描き出すかのようにして日々の光景が独特の技法で描かれる。コロナ禍、東日本大震災、熊本の地震……、春の訪れと共に近年に経験した厄災。神戸の詩人がとらえた今が見える気がした。「鳥が石になり魚が砂になった過酷な時代/ といった詩人がいた」。言葉の警鐘が鳴る。=和合亮一(詩人)=毎月第4木曜掲載

ブッシュ孝子さん。懐かしい名前を目にしたな、という007のが第一印象でした。学生時代にその唯一の著書にして遺稿詩集の『白い木馬』(サンリオ出版 昭和49年=1974)を古本屋で購入、拝読したからです。ブッシュさんと言っても、元々日本の方で、「ブッシュ」はドイツ人の旦那さんの姓です。やはり昭和49年(1974)、ガンのため28才の若さで亡くなっています。

購入したきっかけは、萩原英彦氏という作曲家の方が、ブッシュさんの詩に曲をつけた合唱組曲「白い木馬」を作られ、それを聴いて「ああ、これ、いいな」と、そういうわけでした。

しかしなぜ、今、ブッシュ孝子さん? と思ったら、『白い木馬』が再刊、というか、未発表の作品も収録、『暗やみの中で一人枕をぬらす夜は ブッシュ孝子全詩集』として新たに刊行されていました。今000年4月のことです。寡聞にして存じませんでした。解説は若松英輔さんだそうで。

’70年代に注目された詩人が、21世紀に入って20年経とうとする現在、こうして再評価されるというのも稀有な例かと存じます。まぁ、それだけいいものだというのは有るのですが、やはり、優れた作品を次の世代に受け継ごうという、関係者の皆さんや、作品に惚れ込んだ方々のご努力の賜といえましょう。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、「どんなにすぐれた芸術家の作品であっても、次の世代の者がそれを後世に受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」と、いつも語られ、当方もその受け売りをあちこちで話したり書いたりしていますが、まさにそういうことなんだな、と、改めて思いました。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はむずかしいもので、中にあるものが出て来なければ、おみやげ人形と同じだ。
座談会「高村先生を囲んで」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村での蟄居生活を打ち切り、上京する直前に、親しかった村人たちと送別会を兼ねた酒宴が行われ、その席上での発言です。

「中にあるものが出て来なければ」。造形芸術に限らず、詩でも同じですね。

一昨日の『日本経済新聞』さんから。 

絵の具手作り、変わらない色を届けて3代100年 銀座の画材店「月光荘」、大正文化に恩返し 日比康造

東京・銀座8丁目の雑居ビルの中に月光荘はある000。創業は大正6年(1917年)。絵の具、絵筆、パレットからそれらを持ち運ぶバッグまですべてを自社で製造し販売する。100年を超える老舗は私で3代目となる。創業者は祖父の橋本兵蔵だ。もともと、絵が好きでたまらないから始めた店ではない。運命を変えたのは偶然の出会いだ。

祖父は富山で生まれ育ち、18歳で上京。郵便局員や運転手などをしながら暮らしていた。あるとき住み込みで働いていた家の向かいに、歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻が住んでいることを知った。夫妻の本を愛読していた祖父は、大胆にも家を訪ねた。親切に招き入れられ、「いつでも来なさい」と言われた。

そこでは素晴らしい出会いが待っていた。夫妻の家には北原白秋、石川啄木、高村光太郎などの詩人、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬などの画家など当時の文化人が集まっていた。交流を通し、祖父は芸術という世界の素晴らしさに心奪われるようになる。画材店を始めたのは、画家たちが絵の具に不満を持っているのを知ったからだ。

店名の月光荘は、鉄幹がフランスのヴェルレーヌの詩「月光と人」から引用して名付けてくれた。店のトレードマークのホルンは与謝野夫妻と交遊があった芥川龍之介らが考案してくれたもの。音を奏でて多くの人に集まってもらうという願いが込められている。

当時、店は銀座ではなく新宿にあった。銀座に移るのは戦争で新宿の店が焼け落ちたあとのことだ。建築設計は画家の藤田嗣治によるもので、パリにあるような当時としては珍しい造りだった。店にはカフェも併設されており、数多くの文化人が集まるサロンのような場所となっていった。

芸術の世界を教えてくれた人たちに恩返しをすることが祖父の願いだった。1940年に誕生した純国産絵の具第1号のコバルトブルーもそうした思いから生まれた。当時、絵の具はフランス頼りで、船便で到着までに2カ月はかかった。戦争が始まると外国からの輸入も途絶えた。

コバルトは特殊鋼の製造に使われるため、政府が各大学の研究室に開発を命じていたが、完成に至っていなかった。祖父は、専門書を読みあさり、原料の鉱物の焼成温度や時間を試行錯誤しながら執念で完成させた。軍からは供出の命令がきたが、絵の具以外の用途では決して首を縦に振らなかった。猪熊弦一郎、梅原龍三郎ら著名な画家も月光荘の絵の具をひいきにしてくれた。

私が知る祖父は晩年の姿だ。6歳の1年間、一緒に暮らした。明治の男らしく、寡黙で余計なことは言わず、背中で語る人だった。自分のやるべきことを黙々とやる姿に大きな影響を受けた。商売人というより、職人のような人だった。

時代が変わった今も、祖父のときのまま、絵の具はすべて手作りだ。顔料をバインダーと呼ぶ糊(のり)状のものとローラーで練り合わせる。作るのに8時間以上かかる色もあり、職人がつきっきりで作る。季節によっても色は変わってしまう。配合のレシピはあっても、同じ色にはならない。最後はやはり経験がものをいう。いつまでも変わらない同じ色を届ける。使ってくれる方々との約束を守るために、若い職人の育成にも力を注いでいる。

「色感は人生の宝物」。祖父は生前そう言っていた。素晴らしい色との出会いは人生を豊かにしてくれる。その思いを次の時代にも届けることが自分の使命と考えている。

(ひび・こうぞう=月光荘画材店店主)


月光荘画材店さん創業者の橋本兵蔵に関しては、与謝野夫妻を中心とした文献だったか、美術史を扱った文献だったかで読んだ記憶がありました。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が見えませんが。コバルトの軍への供出を拒んだというエピソード、いいですね。

名前といえば、この記事に出て来る面々、殆どすべて、光太郎となにがしかのつながりのあった人々です。

こういう人物の業績にも、もっともっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

人間の不自由なんてものは、やっぱり一つの欲ですから、あの、欲、捨てっちまえば何でもない。
対談「朝の訪問」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

この年11月にNHK盛岡放送局で収録された対談の一節です。花巻郊外旧太田村での蟄居生活について。聞き手は同局アナウンサーと思われますが、詳細は不明。12月2日にラジオで放送予定だったのですが、なぜかお蔵入りとなりました。平成16年(2004)にNHKラジオセンターでそのオープンリールテープが発見され、カセットテープにダビングされたものが、故・北川太一先生経由で当方の元に。「文字起こしをしてくれ」とのことで。

10分ほどの長さだったと記憶していますが、結構大変でした。カセットデッキで再生 → 一時停止 → 鉛筆で筆記、の繰り返し。不明瞭な所は何度も巻き戻して(「巻き戻す」というのが、今の若い人にはもう通じないそうですが(笑))再生し、前後のつながりから「ああ、そういうことか」という場合もありました。光太郎、数え67歳のくせに(笑)結構早口でしたし。今となってはいい思い出です。

長野県松本平地区で発001行されている地域情報紙『市民タイムス』さん。時折、一面コラムで光太郎に言及して下さいますが、一昨日も。 

2020.7.5みすず野

こんなに静かな上高地は冬期を除けば初めてだった。ニッコウキスゲやレンゲツツジの花が咲き、梓川の向こうに六百山や霞沢岳がそびえていた。河童橋に都会風の二人連れの姿がちらほら。皆マスクを着けている。山の支度をした人はいなかった彫刻家で詩人の高村光太郎が上高地に滞在して展覧会に出す油絵を描いていた大正2 (1913)年9月、翌年に妻となる智恵子が訪ねて来る。もちろんバスなんか無い時代、 知らせを受けた光太郎は徳本峠を越えて岩魚留まで迎えに行った。その道をたどってみたかったのだ◆明神を経て峠まで7キロほど。さらに岩魚留へ4キロ近くある。恋しい人に会うため、山道を跳ぶ気持ちだっただろう。その思いは終生変わらなかった。 おかげで私たちは詩集『智恵子抄』を手に取り、優しい詩句を口ずさむことができる。〈 あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川〉◆明神池のほとりで、幼い男の子がうれしそうにぴょんぴょんと先へ走り、両親が後ろから見守り歩くのを見た。「坊や幾つ?」と尋ねると、得意げに指3本を立てる。「大きくなったら山へおいで」と願い、峠への登りにかかった。

コロナ禍による人出の減少上高地も例外ではないようですね。経済優先で考えれば大打撃でしょうが、本来の静謐な雰囲気が戻ったという意味では悪くないような気もします。ただ、あまりに閑散、ではやはり困りますが……。


【折々のことば・光太郎】

詩はわたしの安全辨  短句揮毫 戦後期? 光太郎65歳頃?


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大正12年(1923)の詩「とげとげなエピグラム」には、「詩はおれの安全辨」の一節があります。彫刻と詩、二本柱の光太郎芸術でしたが、彫刻は純粋に造形芸術たるべき、喜怒哀楽や思想信条などが反映されてはいかん、と、光太郎は考えていました。そこで、喜怒哀楽や思想信条などは詩で吐露しようとしたのです。

若し私が此の胸中の氤氳を言葉によつて吐き出す事をしなかつたら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢ひ、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。(「自分と詩との関係」 昭和15年=1940)

そういう意味での「安全辨」ですね。

今日明日で2件ご紹介しますが、まずは神奈川県全域と東京都多摩地域の『タウンニュース』さん。7月2日(木)の八王子版に光太郎の名。 

人物風土記 書家であり、多摩地区で「文字遊び」の教室を開く 吉沢和子さん 元本郷町 77歳

戯れるように書く001

 ○…心を解放し、自分自身を表現することが芸術だ。書家の榊莫山氏に17年間師事し、現在は市内で書道教室を開くほか「はがきで文字遊び」教室を多摩地域18カ所で主宰する。教室で緊張してしまう生徒にリラックスしてもらおうと自身が作った「のびのび体操」では、途中「にっこりして」と声をかける。

 ○…生まれ、育ちは元本郷町。歌や山遊びが楽しみだった。中学校の授業では、高村光太郎の愛情深い詩に衝撃を受けた。戦争に加担する作品を作ったことを悔い、山で隠遁生活を行った姿を尊敬し「多少の困難は乗り越えられる」心構えが養われた。本格的に書道を始めたのは金融業界に務めていた26歳のとき。それまで水墨画を学んでいたが、知人の誘いがきっかけとなり書道の古典に触れる。漢詩や格言などから型を習得するうちに、「既成概念から解放されたい」と考えるようになった。

 ○…そんな頃に出会い、弟子入りしたのが、型破りな表現で知られていた大家榊氏だった。言葉数は少ないが、「空気」から多くを得たという。師に作品を見せると3作品のうち1枚を指さし、「これ、ええで」とポツリ。手本をなぞるのではなく自分自身を表現することを学んだ。そして生まれたのが「はがきで文字遊び」だ。絵を描くように文字を書き、素直な気持ちを伝える。

 ○…休日は夫婦二人で街道歩きを楽しむ。直接見て感じることが、書にも表れるという。新型コロナウイルスでふさぎがちな気持ちを明るくしたいと書いたはがきには「歩こう」の一言。「う」の文字を軸と斜めに傾けることで上向きの気持ちを伝えた。割りばしで足跡のような斑点も添えて。今後も「書と戯れる」心を忘れずに活動していく。

他の記事で、吉沢さんの作品の画像も。 

人物風土記関連 はがきで文字遊び 嬉しいこと素直に

シンプルな言葉で送り手の気持ちを000伝える、見た目にもかわいらしいはがきの教室が、市内等で開かれている。指導をする書家の吉沢和子さん(77)=人物風土記で紹介=は筆や割りばしなど、様々な道具と色を使って文字の書き方を工夫する。

 この「はがきで文字遊び」教室のきっかけは、知人から「難しい作品は初心者にはわからない」と言われたこと。「感謝の気持ちなどは、細かく文字を書かずとも、素直な一言でも伝わるのではないか」と話す。

 吉沢さんは、26歳から本格的に書道を始めた。「自分を自由に表現する」書は、42歳から59歳まで師事した、書家の故・榊莫山氏から学んだ。2000年には国際公募アート未来展で内閣総理大臣賞を受賞したほか、これまで市内を中心に書の個展を12回開催している。

 教室の開始は2000年に出版した本が好評だったため。当初8人だった生徒数は、今では150人になり、8人の講師とともに多摩地区各地で開講している。詳細は【電話】042・623・3028へ。

光太郎に影響を受けたという書家の方はけっこうたくさんいらっしゃいますね。書そのものに魅せられた方、生き様からインスパイアされた方など。吉沢さんは後者のようです。

「はがきで文字遊び」の公式サイトもありました。ご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

比例の美きはまりなし  短句揮毫 戦後期? 光太郎65歳頃?

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こういう書を見せられてしまうと、魅せられてしまいますね(笑)。ご自分でも書をやろうという方は、影響を受けざるを得ないような……。

昨日まで3日間続けました「最近手に入れた古いもの」シリーズ、いったん休止しまして新着情報紹介に戻ります。またネタ不足に陥りましたら再開します。

今日はテレビ放映情報。

まずはNHK Eテレさんで放映されている「にほんごであそぼ」。光太郎を取り上げて下さった6月26日(金)放映分が再放送されます。

にほんごであそぼ「草にすわる」

NHK Eテレ 2020年7月10日(金) 6時35分~6時45分 再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。

今日のひこうき山陽は「草にすわる」です。各コーナーの内容は…文楽/いやなんです…「人に」高村光太郎、うた「どすこい!すもうの決まり手」、ひこうき山陽たんけん隊/わたしのまちがいだった「草にすわる」八木重吉、名文を言ってみよう!「いろは」、うた「日本全国むかし歩き」

出演 美輪明宏 神田山陽(三代目) 竹本織太夫 鶴澤清介 三世桐竹勘十郎 小錦八十吉
    おおたか静流 
白A 中尾隆聖 ラッキィ池田 ほか

6月26日(金)の本放送を拝見しました。過去の作品の使い回しではなく、新作でした。

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人形浄瑠璃の三世桐竹勘十郎さん、竹本織太夫さん、鶴澤清介 さんによる「人に」。いつもながらにシュールでした(笑)。

ご覧になっていない方、ぜひ再放映をご覧下さい。


続いて、光太郎の名が出るかどうか微妙ですが……。 

あなたの駅前物語 #164 「千駄木駅前/東京都 文豪が慕った坂道の駅前」

地上波テレビ朝日 2020年7月9日(木)  23時10分~23時15分
BS朝日 2020年7月11日(土)  18時55分~19時00分


「駅前」には、様々な人々の営みがあり、歳月が刻んできた多彩な「物語」が残る…日本中の“駅前物語"をたどり、“街のぬくもり"を感じる。

#164 千駄木駅/東京都 東京都文京区、東京メトロ千代田線の千駄木駅。地上へ出ると、駅前から、文豪や落語家も居を構えた街が見える。東へいくと、くねくねと曲がった路地がある。その形から、「へび道」と呼ばれている。かつては細い川が流れていたが、今は暗渠(あんきょ)になっている。千駄木は、江戸時代に武士の家が多くあったが、染物屋もいて、流れ出る染料で川は青く色づき、藍染川の名が付いた。


ナレーター 黛まどか(俳人)

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文豪」の中で、この地に暮らした光太郎の名を挙げてほしいものですが……。

ちなみにこの番組、平成29年(2017)9月28日には、二本松駅を取り上げて下さり、光太郎智恵子にも触れられました。


もう1件、光太郎の名は出なかったのですが、昨夜放映されたテレビ東京さんの「新美の巨人たち」。連翹忌会場の松本楼さんを含む日比谷公園でした。

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日本初の本格的都市公園として、明治36年(1903)に造営された日比谷公園。設計にあたった植物学者の本多静六の苦労や工夫がメインの内容でしたが、公園内の松本楼さんも大きく取り上げられました。

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ナビゲーターは要潤さん。それから四代目社長の小坂文乃さんがご出演。一昨年亡くなった三代目・小坂哲瑯氏のお嬢さんです。

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松本楼さんでカレーを食べてコーヒーを飲むのが明治大正期の最先端だったというわけで……。

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ここで具体名として高村光太郎・智恵子夫妻と出ればなおよかったのですが……。連翹忌会場の2階宴会場です。今年の連翹忌は新型コロナのために集いを中止いたしましたので、この部分の映像を見て「ああ……」という感じでした。来年はまたここで皆様とお会いできることを楽しみにしております!

ちなみに創業当時、光太郎智恵子が訪れた頃の松本楼さん。

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番組後半では、料理長の六川健氏もご出演。本多の公園設計図にちなむ特製幕の内弁当づくりにチャレンジして下さいました。

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これは凄い! と思いました。一緒に番組を見ていた愚妻曰く「3,000円+税くらいかな?」(笑)。

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ニンジンとブロッコリーだそうです。「首賭けイチョウ」は、本多が「私の首を賭けて守る」と、当初予定の伐採に断固として反対し残した大木です。

この回、BSテレ東さんで、7月11日(土)23:30~24:00で放映されます。地上波テレ東さん受信区域外の皆さん、ぜひご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

天地寿  短句揮毫 昭和23年(1948) 光太郎66歳

過日ご紹介した「乾坤美にみつ」同様、「この世は美しいもの、素晴らしいものに溢れている」的な意味でしょう。

複数の揮毫が残されていますが、年代のはっきりしているものは、姻戚となった茨城の素封家・宮崎仁十郎に送ったもの。「鯉軒翁喜寿に寄す」という為書きも附されています。「鯉軒」は宮崎の雅号です。また、花巻在の詩人・畑山崇一を光太郎令甥の故・髙村規氏が撮影した肖像写真にも、他の「天地寿」書が写っています。時期的にはほぼ同じ頃でしょう。というか、殆ど同じ筆跡で、同時に書かれたものかもしれません。

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本日も「最近手に入れた古いもの」シリーズです。

本日はアナログレコード。昭和38年(1963)リリースの「高石かつ枝愛唱集」。

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過日ご紹介した「野口五郎 増刊号」同様、LPレコードです。レーベルはコロムビアさん。

全8曲中の「初恋」という歌が、「智恵子抄」、安達太良山、阿武隈川、そういった内容になっています。

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作詞は丘灯至夫。智恵子の故郷・二本松にほど近い小野町の出身です。二代目コロムビア・ローズさんのヒット曲にして、二本松市民のソウルソング「智恵子抄」も丘の作詞でした。

ところが「智恵子抄」は昭和39年(1964)のリリースで、それより1年早く、この「初恋」を含む「高石かつ枝愛唱集」が出ています(「初恋」はシングルカットされていません)。いわば「智恵子抄」の原型のような感じですね。

「初恋」、平成22年(2010)発売の「青春スター~ときめきのヒロイン~3 高石かつ枝 旅の夜風」というCDに収録されており、以前に入手しているので、聴いたことはあったのですが、やはりオリジナルのレコードがほしい、と思って購入しました。

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それから昨日気付きましたが、Youtubeにもあがっていますね。


ところで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」への讃歌として昭和28年(1953)に佐藤春夫が作詞し、本間千代子さんの歌でレコード化された「湖畔の乙女」(昭和39年=1964)という歌があります。当初は本間さんではなく、高石さんの歌でレコーディングまで済んでいたのが、高石さんの移籍(コロムビア→クラウン)に伴い、歌手が変更になったとのこと。


どちらもコテコテの「懐メロ」という感じですね。コテコテついでに(笑)二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」も貼っておきます。



ところで高石さん、「おとめの像」(昭和39年=1964)という歌も歌われています。こちらは十和田湖の乙女の像ではなく、北海道稚内にたつ「九人の乙女の像」(昭和20年=1945 8月20日に樺太の真岡郵便局で自決した9人の電話交換手の慰霊碑)をモチーフとした歌です。像(レリーフ)は、光太郎のDNAを受け継ぐ彫刻家の一人、本郷新が制作に当たりました。

NHKさんの朝ドラ「エール」で、この手の(現在のところ、もう少し前の時代ですが)懐メロに光が当たっています。ある部分では「文化遺産」的な要素もあるわけで、いずれは「保存」とか「伝承」とか「××遺産」とかいう話になっていくのでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

美いづくにありや 美腹中にあり 
短句揮毫 戦後期 光太郎65歳頃

花巻温泉で色紙に揮毫した句です。

最近手に入れた古いものシリーズです。

大正8年(1919)12月発行、『福島高等女学校同窓会報告』第拾四号。76ページある冊子です。「同窓会報告」と言っても、イベントとして旧交を温める「同窓会」の報告ではなく、組織としての「同窓会」の活動報告等です。

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同校は、智恵子の母校。明治34年(1901)、生まれ育った安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校高等科を卒業し、第3学年に編入しました。この時、智恵子数え16歳です。卒業は同36年(1903)3月、卒業式では総代として答辞を読みました。4月には上京して日本女子大学校普通予科に進学しています。

智恵子に関して何か記述があるのでは、と思い、購入しました。すると、智恵子の書いた文章などは載っていませんでしたが、同窓会員の名簿に智恵子や妹たちの名。

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智恵子は高村姓で記載されていました。この時点では入籍していない(入籍は統合失調症が昂進した昭和8年=1933)事実婚だったのですが、雑誌等に寄稿した智恵子の文章等、やはり高村姓となっており、不思議ではありません。「同」は「明治36年=1903卒」という意味での「同」です。

上の画像で、右から2人目~4人目、「長沼ミツ」、「関本ヨシ」、「長沼セツ」が、智恵子の妹たちです。

智恵子が長女でミツは三女。智恵子の6歳下です。ミツの「同」は「明治42年=1909卒」の意。智恵子より早く大正2年(1913)に結婚しましたが、夫のDVがひどく、大正7年(1918)には二人の子を連れて実家に帰っています。したがって、旧姓の「長沼」で名簿に載っていました。二人の子のうち、上の子が、のちに南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期(昭和13年=1938)を看取った春子。戦後になって、光太郎が間を取り持ち、詩人の宮崎稔と結婚しました。ミツ自身は結核を患い、大正11年(1922)に数え31歳の若さで歿しています。

ヨシは四女。明治28年(1895)生まれで智恵子より9歳下です。高等女学校は大正2年(1913)に卒業しています。智恵子の幼なじみ・関本ツギの弟の雄助と大正6年(1917)に結婚しましたが、こちらも昭和2年(1927)、数え33歳の若さで亡くなっています。産後の肥立ちが悪かったそうです。ちなみに筑摩書房『高村光太郎全集』他に掲載されている家系図では、ヨシの歿年齢を「29歳」としていますが、誤りです。計算が合いません。

五女はセツ。大正7年(1918)の卒業名簿に名がありました。のち斎藤新吉と結婚、昭和4年(1929)の長沼家破産後、千葉九十九里に落ち着き、母・センを引き取った他、同9年(1934)には半年余り、智恵子を自宅で療養させていました。

長女の智恵子以外にも、三女から五女まで、皆福島高等女学校の卒業だったのですね。この件は初めて確認できました。ちなみにセツの下にさらに六女のチヨがいたのですが、こちらは同校在学中に髄膜炎で急逝しています(大正8年=1919)。したがって同窓会名簿には載っていません。

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ここで疑問が一つ。「次女はどうした?」。次女のセキは、智恵子より2歳下。智恵子と同じく日本女子大学校を卒業しています。ただ、智恵子は家政学部でしたがセキは教育学部でした。さらに言うなら、日本女子大学校を卒(お)えてから、東京高等女子師範学校の保育実習科に編入したらしく、明治45年(1912)の卒業生名簿にその名が見えます。ところが福島高等女学校の同窓会名簿にはその名がありません。

考えられる理由は二つ。

一つは、除籍されてしまった可能性。セキは大正4年(1915)、半ば逐電するように渡米しました。その背景には、漱石門下の小宮豊隆と不倫の関係となり、子をなしてしまったということがあります。その子は智恵子の同級生だった上野ヤス(旧姓・大熊、上記画像に名を載せました)の婚家(静岡沼津)で産み、里子に出されたそうです。そうした経緯から、除籍処分となった可能性が考えられます。智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した女子大学校の一年先輩・平塚らいてうも、やはり漱石門下の森田草平との心中未遂事件が元で、女子大学校同窓会の桜楓会から除籍されています(のちに復権)。

もう一つの可能性は、姉妹の中でセキだけが他の高等女学校に進んだということ。こちらの方が確率は高いのかな、という気がします。ただ、当時、県内の高等女学校は福島にしかありませんでしたので、そこでないとすると日本女子大学校の附属高等女学校ではないかと考えられます。そしてそのまま女子大学校に進んだ、と。平塚らいてうもそのコースでした。

このあたり、情報をお持ちの方はコメント欄等よりご教示いただければ幸いです。

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こちらは明治41年(1908)頃の、平穏だった時期の長沼一家。この幸福そうな様子が長続きしなかったのかと思うと、胸が痛みますね……。


【折々のことば・光太郎】

わたつみに敵をうつ  短句揮毫  昭和19年(1944) 光太郎62歳

平成16年(2004)頃、都内ご在住の藤尾正人氏のお宅に拝見にあがりました。氏が海軍に出征される際、日章旗に寄せ書きをして貰ったうちの一人が光太郎で、この一言を書いてくれたそうです。

詳しくはこちら

幸い、氏は無事に復員できましたが、同じように光太郎の元を訪れてから出征し、還らぬ人となった若者も多数いたわけで、そういった意味では光太郎の「負の遺産」の代表例です。

新型コロナの影響で、各種イベント等の中止や延期が相次ぎ、またしてもネタ不足に陥っています。

そこで、少し前にもこれでしのぎましたが、「最近手に入れた古いもの」シリーズ。特に急ぎの情報が入らなければ、しばらく続けます。

今日ご紹介するのは、昭和6年(1931)5月1日発行『童謡詩人』(大分市大道町五丁目  童仙房内 新興日本童謡詩人会 編輯兼発行者後藤楢根)復刊第一号通巻第二十五冊。


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こちらに、筑摩書房さん『高村光太郎全集』、その補遺たる「光太郎遺珠」ともに未掲載の光太郎の文章が載っていました。題して「藻汐帖所感」。過日ご紹介したブロンズ彫刻の代表作「手」に関する散文「手紙」(大正8年=1919)と同様のケースです。


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若干長いのですが、全文をご紹介します。

 童謡は深く到つた詩人であつてはじめて書ける。童子の無心の作に、時に魂をうつものゝある事は事実であるが、此は問題外とせねばならぬ。此は自然に於ける風の声、水の音と等しい芸術以外の神韻である。童子は間も無くその天籟を失ふ。地上に落ちる。落ちる事が即ちわれわれの問題圏内に突入する事である。

われわれ」は繰り返し記号「〱」を使用していますが、横書きのこのブログでは表記できません。

ここにあるように、子供が時折、大人をはっとさせるような言語表現をすることがありますが、それを「天才詩人」としてしまうのは危険です。まだ言語体系がしっかり身についていない子供だからこそ、大人が思いつかないような比喩やオノマトペなどを自然と口にするのであって、意識してのものではないからです。光太郎、その点、よくわかっていますね。

 天性的に、生涯、童子の性情を失ひ切らぬ者がある。かゝる種類の詩人こそ、天成の童謡詩人で、童謡とは本来斯の如き詩人にのみ許された詩の一ジヤンルであつて、斯の如き詩人以外の詩人の筆のすさびに成る、童子の発想法を模倣した片言まじりの詩の如きは、極言すれば童謡の冒涜に過ぎない。

ここで具体名は書かれていませんが、他の文章では「童子の性情を失ひ切らぬ」詩人の例として、光太郎は盟友・北原白秋の名を挙げています。

 元来童子は成人しようとする猛烈な意慾を持つて居り、決して単なる甘やかされた言葉に真の満足を感ずるものではない。常に年齢以上の智慧と知識と情感とにあこがれ、一日も早く人生の全幅にその視野をさらさうとしてゐるものである。その全力を傾けて自然と人生とに間断無き探求をつゞけてゐるのが、あの童子特有の「なぜ」であり、「それから、それから」である。この張り切つた力の間からこそ童子の天籟たるあの自作童謡も生れる。
 童子は決して、詩人が童子の稚態を模倣揣摩したやうな、力をぬいた童謡をありがたいとは思はない。さういふものを弄ぶ事はあらう。けれどしんから其に喜を感じはしない。全力をあげて詩人自身が詩人自身の生活を生きる時、その裸心から生れたやうな詩にのみ真の満足を得る。尠くともさういふ童子のみがたのもしい。
 詩人の境地も亦一度天籟を失ふ。落ちる。落ちてから詩人の真の鍛錬がはじまる。心と技との鍛錬である。この鍛錬に耐えた詩人はつひに再び童子の前に恥ぢなくてもいゝ境涯を獲得する。転落以前の天籟に比して、この以後の境涯こそ人間にとつて一層親密であり一層喜の大なるものである。

当方、子供の頃、子供におもねるような易しい絵本は嫌いでした。子供心に「子供と思ってなめるなよ!」という反発心があったのです。まさに光太郎の言う通り「決して単なる甘やかされた言葉に真の満足を感ずるものではない。」というわけで、少し難しくても、しっかりと内容のあるものが好きでした。今でもよく覚えているのは、4、5歳の頃好きだったスサノオとヤマタノオロチの神話の絵本です。

それから、文章ではありませんが、ミニカー。子供向けにデフォルメされたそれには見向きもしませんで、精巧な何十分の一スケールといった本物そっくりのものを好んでいました。

これら、異論はありましょうが。

 平木二六君の「藻汐帖」を通読して感ずるものは、其が徒に童子の言葉をかりて童子の心を迎阿するやうな詩でない事である。此は確に平木君のつきつめた詩であり、しかも其が同時に童子の心を含むものである事である。童子は此等の詩によつて甘やかしてもらへないであらう。けれど童子は此等の詩によつて叡智の満足を得るであらう。又は叡智に滴る詩情への促歩を感ずるであらう。平木君の此等の詩の謡はれてゐるミリユウは平木君独特の俳諧的風趣、田園侘住居的情趣に満ちてゐる。此は平木君の生活自身から必然に生れたのであつて、容易く第三者の容喙し得ないところである。平木君は更に廣い人生に果敢の歩を進めてゐる。「藻汐帖」一巻は此気稟高き詩人の或る期間に於ける好個の記念となるに違ひない。私はかゝる境涯を既に持ち得た者の今後の前進をたのしく見守つてゐる者である。

ここからが本題で、題名にある『藻汐帖』。平木二六(じろう 本名は同じ字で「にろく」)という詩人の詩集です。その名は『高村光太郎全集』にありませんで、当方、寡聞にして存じませんでしたが、室生犀星に師事した詩人だそうです。『藻汐帖』は、『童謡詩人』巻末に広告が載っており、それによれば『童謡詩人』とおなじ童仙房から昭和5年(1930)に刊行されています。副題的には「平木二六童謡集」とのこと。

ミリユウ」は「環境」を意味する仏語「milieu」です。

(作品について一言すると、材題のひろく感情移入の強い第一部のものも面白いが、第二部の日常茶飯詩に深い、巧みな表現があり、更に第三部の幽遠な俳諧に至つてはまつたくユニツクな境地を拓いてゐる。
   霜に割れる
   谺
   月に
   届く
 といふ「寒村餅搗図」の如きその好適例である。)

これで全文です。

この手の光太郎の評論、実によく対象の本質を捉え、的確に表しています。書評とはかくあるべし、ですね。

『童謡詩人』、主宰していたのは後藤楢根なる人物。こちらも『高村光太郎全集』人名索引にはその名が無く、未知の人物でした。大分で教師の傍ら児童文学作家としても活躍していたそうです。同誌には三木露風、与田準一らも寄稿していたとのこと。

光太郎の寄稿もこの「藻汐帖所感」のみではなく、昭和4年(1929)11月20日号にも「佐藤実遺稿童謡集『茱萸原』読後」なる短評を寄せていました。そちらは『高村光太郎全集』第20巻に既収です。もしかすると、まだ未知の文章が『童謡詩人』の他の号に載っているかも知れません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

無二無三の道  短句揮毫 昭和15年(1940)頃 光太郎58歳頃

言い換えれば、唯一の道、でしょう。己の進むべきベクトルをこう表現できるというのも、ある意味、凄いことかなと思います。ただ、この後は太平洋戦争という魔物が口を開けて待っていたのですが……。

広島に本社を置く『中国新聞』さん。昨日のデジタル版から。紙面にも載ったのでしょうか。

000

広島ご出身の歌人・作家の東直子さんによる短歌を中心とした連載エッセイです。写真撮影も東さんだそうで。

言ノ葉ノ箱 丘の上から

 ≪稲は刈り取られた寒い田甫(たんぼ)を見遥るかす道灌山の婆の茶店に腰を下ろした時、居士は、
「お菓子をおくれ。」と言った。茶店の婆さんは大豆を飴(あめ)で固めたような駄菓子を一山持って来た。居士は、「おたべや。」と言ってそれを余に勧(すす)めて自分も一つ口に入れた。居士は非常に興奮しているようであったが余はどういうものだか極めて冷かに落着いて来た。何も言わずにただ居士の唇(くちびる)の動くのを待っていた。≫
 「居士」は正岡子規、「余」は作者である高浜虚子を指す。「子規居士と余」というタイトルで、俳句の師であった子規についての高浜虚子による回想記である。ここに出てくる道灌山は、現在は東京都の荒川区、JR西日暮里駅あたりにある高台で、駅のある低地の道から急な階段を上ってたどりつく、山というより丘のような場所である。

002

 虚子は、葉書で子規の住む根岸に呼び出され、「うちよりは他(よそ)の方がよかろう」と言われて道灌山まで二人で歩いて行った。大人の足で20分ほどで到着する距離だが、子規が結核療養中だったことを考えると、もう少し時間をかけたかもしれない。わざわざ出かけたのは、虚子が自分の後継者になってくれるかどうか、改めて確認するためである。虚子の快諾を期待していたが、21歳とまだ若い虚子は、「私(あし)は学問をする気はない」とすげなく断ってしまう。俳句史では「道灌山事件」と呼ばれるエピソードである。子規はさぞかし落胆したことだろう。

村つづき青田を走る氣車(きしや)見えて諏訪(すは)の茶店はすずしかりけり
                    正岡子規

 道灌山の諏方神社の茶屋から見えた風景を詠んでいる。虚子と話した茶屋だろう。諏方神社は今も存在するが、茶屋はない。青田を走る「氣車」は、隣接する田端から伸びていた日本鉄道の車両だろう。田端駅ができたのが、明治29年4月。この歌が作られたのが明治31年初夏。氣車が青田を走り抜ける景色は、とても新鮮だっただろう。「道灌山事件」は明治28年の冬なので、そのときまだ「氣車」は走っていなかったのだ。道灌山でいったん決裂した二人だが、諸事情で仕事を失った虚子は、子規の協力を得て、明治31年から俳誌「ホトトギス」の編集に携わることになる。虚子が自分の所に戻ってきた嬉(うれ)しさが「すずしかりけり」に込められている気がする。

 現在、諏方神社の高台からは、山手線、京浜東北線、東北新幹線、北陸新幹線、山形新幹線、京成線などの車両が行き交うのが見える。
 神社のそばに荒川区立第一日暮里小学校があり、校門前にふくろうの石像が首をかしげている。高村光太郎の記念碑で、「正直親切」という揮毫(きごう)と「君たちに」という子どもたちへのメッセージを込めた詩も刻まれている。

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 道灌山から続く高台から、田端駅北口に続く坂道は、新海誠監督のアニメーション映画「天気の子」の舞台として印象深く描写されていた。
 見晴らしのよい丘の上に、様々な人の時間が繋(つな)がり続けている。

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光太郎直筆の文字を写した「正直親切」を校訓として下さっている荒川区立第一日暮里小学校さんに触れられています。同校は明治25年(1892)、光太郎が尋常小学校の課程を卒(お)えた、日暮里小学校の後身です。「「君たちに」という子どもたちへのメッセージを込めた詩」は光太郎の詩ではなく、現代のものです。

近くには智恵子も通った太平洋美術会研究所さん、子規庵朝倉彫塑館さんなどがあり、当方も大好きなエリアです。コロナ禍が収まったら、またのんびり歩きたいものです。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

乾坤美にみつ  短句揮毫  昭和14年(1939)頃 光太郎57歳頃

「乾坤(けんこん)」は「天地」とほぼイコールです。

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