2020年05月

まずはテレビ放映情報から。 

プレミアムステージ「私たちは何も知らない」「チルドレン」

NHK BSプレミアム 2020年6月7日(日) 23時20分~27時53分

演劇、ミュージカル、古典芸能など、舞台芸術中継をお楽しみください。6月のプレミアムステージは、<前半>二兎社公演「私たちは何も知らない」。<後半>ルーシー・カークウッド作、栗山民也・演出「チルドレン」のアンコール放送。

23:20~ 永井愛・作・演出の二兎社公演「私たちは何も知らない」。明治末年から大正初年にかけて刊行された雑誌「青鞜」。その編集部をめぐり、活躍した平塚らいちょう、伊藤野枝らの人間模様を、史実に基づいて丁寧に描き出してゆく。

1:55~ ルーシー・カークウッド作、栗山民也・演出「チルドレン」のアンコール放送。

出演 朝倉あき 藤野涼子 大西礼芳 夏子 富山えり子 須藤蓮 枝元萌ほか

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昨年11月から今年2月にかけ、全国を巡回公演した二兎社さんの演劇「私たちは何も知らない」が放映されます。

智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』をめぐる人間模様(キャストに智恵子の名はありませんが)です。各地での公演、かなり好評を博したようで、新聞には大きく取りあげられました。

『青鞜』関連――「二兎社公演43 私たちは何も知らない」評/谷崎由依『遠の眠りの』。

ぜひご覧下さい。


もう1件、若い方々にはテレビよりもこちらの方がなじみがあるかも知れませんが、ネットでの映像コンテンツ配信サービス。

YAHOO!さんのニュースサイトから。 

「僕等の図書室」滝口幸広ら出演の過去作配信、「智恵子抄」リモート朗読も

「僕等の図書室 リモート授業」が、6月6日にイープラスのライブ配信サービス・Streaming+で配信される。

「僕等の図書室」は2012年に初演されたリーディング公演で、国語の先生に扮した俳優たちが童話や文学作品を朗読するシリーズ。今回の「リモート授業」は、る・ひまわりによる“デジタ・るコンテンツ”の第1弾だ。4つのコンテンツからなる配信では、過去公演3作の映像を公開。1時間目「まぁくんの走れメロス」には大山真志、故・滝口幸広、井深克彦、2時間目「マッチ売りの少女原田」には原田優一、中村龍介、滝口、3時間目「たっきーの星の王子様」には滝口、三上真史、木ノ本嶺浩が出演している。また4時間目では「智恵子抄」のリモートリーディングが行われ、出演者には荒木健太朗、井澤勇貴、井深、大山、木ノ本、滝口、中村、原田、三上、村井良大が名を連ねた。なお公式サイトには「各授業の間の休憩時間には、先生から生徒の皆さんへお話があります」と記されている。

配信の視聴料金は税込4500円となり、チケットを購入すると6月6日12:00から14日23:59まで、アーカイブを視聴することができる。

■ デジタ・るコンテンツ 第1弾「僕等の図書室 リモート授業」
出演(五十音順):荒木健太朗、井澤勇貴、井深克彦、大山真志、木ノ本嶺浩、滝口幸広、中村龍介、原田優一、三上真史、村井良大

□ 1時間目「まぁくんの走れメロス」(僕等の図書室2)※2012年舞台収録映像
脚本:毛利亘宏
演出:板垣恭一
音楽:日野悠平
出演:大山真志、滝口幸広、井深克彦

□ 2時間目「マッチ売りの少女原田」(僕等の図書室 特別授業)※2016年舞台収録映像
脚本:加藤啓
演出:西森英行
音楽:伊藤靖浩
出演:原田優一、中村龍介、滝口幸広

□ 3時間目「たっきーの星の王子様」(僕等の図書室3)※2014年舞台収録映像
脚本:古川貴義
演出:板垣恭一
音楽:日野悠平
出演:滝口幸広、三上真史、木ノ本嶺浩

□ 4時間目「智恵子抄」※リモートリーディング
脚本:穴吹一朗
出演(五十音順):荒木健太朗、井澤勇貴、井深克彦、大山真志、木ノ本嶺浩、中村龍介、原田優一、三上真史、村井良大

(ステージナタリー)

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記事にあるとおり、「僕等の図書室」は、平成24年(2012)から始まった朗読劇公演で、昨秋亡くなった滝口幸広さんらによる「智恵子抄」が2度、演目に入っていました。それぞれDVD化もされています。かつては地方の映画館で上映もありましたが、時代は進み、ネットでの配信が為されるようになったとのこと。

どうも滝口さん追悼の意味合いもあるようで、かつて滝口さんが演じられた「智恵子抄」をお仲間の方々9人で「リモートリーディング」だそうです。これのみ新作で、あとは旧作を配信するようです。

こうしたリモート配信、コロナ禍の影響で劇場が使用できない中での代替措置として注目されていますが、今後、演劇等の新たな楽しみ方の一つとして定着していくのでは、といった内容を先日の報道番組で取りあげていました。劇場に足を運ぶことが困難、という場合の一つの選択肢としてはこういう試みもありなのでしょう。

詳細はこちらです。


【折々のことば・光太郎】

こんなところに一人でいるもんだから、みんな「おさびしいでしょう」なんてよくいうけれど、僕は一度だって淋しいなんて思ったことはない。つまらぬ交際もなく自分のしごとがうんと出来るんで、こんないいところはないよ。

談話筆記「〔高村光太郎の生活〕」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

「こんなところ」は戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋です。戦時中の翼賛活動に対する贖罪の意味を持つ蟄居生活ではありましたが、「つまらぬ交際もなく自分のしごとがうんと出来る」というのも一つの本音でしょう。「自分というものとしっかり向き合える」と言う意味で。

5月26日(火)、いわき市立草野心平記念文学館さんの企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」を拝見したのち、茨城県の東海スマートICで常磐道を降りました。

次なる目的地は大洗町の山村暮鳥詩碑。昭和2年(1927)の建立で、除幕式には光太郎も参加しています。詩碑そのものには光太郎の名は刻まれていませんが、説明板に光太郎の名が記されているというのを知り、いわきと方角的には同じということで、立ち寄った次第です。

山村暮鳥は光太郎より一つ年下の明治17年(1884)生まれ。出生地は群馬県ですが、幼少期の家庭の事情や、長じてからはキリスト教の伝道などのため、各地を転々。晩年は大洗の借家で過ごし、大正13年(1924)、数え41歳の若さでここで亡くなったため、詩碑が建立されています。

光太郎と暮鳥、生前に直接会ったことは一度しかないと、光太郎が書き残しています。以下、以前に書いた記事からのコピペです。

暮鳥の歿した大正13年(1924)12月、地方紙「いはらき」に載ったという光太郎の文章。

 山村暮鳥さんとは数年前上野池の端の電車の中で初めに会ひ、又それが最後の事になつてしまひました。
 あんなに人なつこかつたこの詩人に其後会ふ機会をつくらなかつた事を残念に思つてゐます。常に遠くから親密の情は捧げてゐたくせに。
 晩年の彼の詩の深さにはうたれます。

この文章が載った「いはらき」が未見です。したがって、掲載月日も不明。昭和10年(1935)刊行の『暮鳥研究』第一輯に転載されたということで、筑摩書房『高村光太郎全集』では、そちらを底本としています。

「いはらき」は水戸の茨城県立図書館にマイクロフィルムが所蔵されているのですが、そちらは欠号が多く、この文章は発見できませんでした。情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

さて、暮鳥詩碑。鹿島灘に面した松林の中に、ひっそりと佇んでいました。

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刻まれている詩は、暮鳥歿後に出版された詩集『雲』に収められた詩の一節です。

暮鳥、雲、といえば、「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか」が有名ですが、暮鳥はたくさん雲の詩を残しています。碑に刻まれた一節を選んだのは、盟友・萩原朔太郎でした。

光太郎と暮鳥、直接会ったのは一度だけでも、朔太郎等(おそらく当会の祖・草野心平も)共通の詩友がいたり、朔太郎や暮鳥の出していた雑誌『卓上噴水』に光太郎が寄稿したりで、そういう意味では近しい間柄でした。また、光太郎は暮鳥詩ワールドにシンパシーを感じていたようで、戦後には暮鳥全集の刊行をすべきという発言を書簡で繰り返し語っています。

そんなわけで、昭和2年(1927)、詩碑の除幕式にも駆けつけたのでしょう。下記が当時の『読売新聞』に載った除幕式の写真。

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不鮮明なので光太郎がどれだか不明ですが、何となく、中央やや右の和服着流し姿っぽいのがそれかな、という気がします。

ちなみに文字の揮毫は茨城出身の日本画家・小川芋銭(うせん)。


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光太郎は昭和14年(1939)に「芋銭先生景慕の詩」を書いていますし、同年、やはり茨城の取手にある長禅寺さんに建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」の題字は光太郎が揮毫しています。

そして説明版には、光太郎の名。

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90余年前、ここに光太郎も居たかと思うと、やはり感慨深いものがありました。

ところで、この碑のすぐ近くに、平安時代創建の国幣中社、大洗磯前(いそさき)神社さんが鎮座ましましていらっしゃいます。

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当方、きちんとした神社の静謐かつ清澄な空気は大好きでして、これは寄らない手はないなと思い、参拝して参りました。
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社殿等は江戸時代前期のものだそうですが、装飾彫刻が見事でした。

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楼門。鹿島灘の波濤でしょう。

本殿には彩色で、雉子、鴛鴦、燕、猛禽(鷹?)など鳥の彫刻がいろいろ。

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大洗はアニメ「ガールズ&パンツァー(GIRLS und PANZER)」(通称・ガルパン)の舞台にもなっており、その関係で、キャラクターをあしらった巨大絵馬も。

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アニメやドラマ、漫画などの舞台を巡る、いわゆる「聖地巡礼」がブームとなっていましたが、さすがにコロナ禍の明けやらぬ中、それっぽい人はいませんでした。

さて、当方は光太郎智恵子光雲等の「聖地巡礼」、今後も続けていく所存で居ります。

以上、常磐レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

昔の放送局は相当に頭がふるく、定評のあるもの以外はめつたに放送しなかつたものであつて、詩の朗読でも、北原白秋、三木露風あたり以後の詩は決して取り上げなかつたが、昭和九年に、照井君はどう説きつけたか知らないが、はじめて私の詩を五六篇一度にBKから放送した。これが当時の新しい詩の朗読放送の最初であつた。それから段々次代次々代の詩が放送されるやうになつたのである。

散文「照井瓔三君のこと」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

昨日もご紹介した盛岡出身の声楽家・朗読家の照井瓔三についての別の文章から。

5月26日(火)、いわき市立草野心平記念文学館さんに参上し、企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」を拝見しましたが、そちらで入手したものをご紹介します。

昨日もちょいちょいご紹介しましたが、まず同展図録。A4判8ページの簡素なものですが、よくまとまっており、オールカラーで見やすく作られています。頒価300円でした。


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光太郎が題字を揮毫した心平詩集『富士山』(昭和18年=1943)、『天』(同26年=1951)の画像も載っています。

企画展拝見後、トイレに向かったところ、途中の掲示板にポスター。智恵子の故郷・二本松で開催されている「高村智恵子生誕祭」のそれでした。

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同一デザインのチラシも置いてありましたので、GET。生家2階部分の特別公開は終了していますが、「上川崎和紙で作る智恵子の紙絵体験」は今週末の30・31日に土日に最後の開催です。


もう一点。JR東日本さんの車内誌『トランヴェール』の2020年3月号が置いてありましたので、そちらもいただいてきました。特集が「常磐線、文学つまみ食い途中下車の旅」。東日本大震災による原発事故から永らく寸断されていたJR常磐線が3月14日(土)に全線復旧し、上野から仙台までまた繋がりました。それを受けての企画のようです。「高村光太郎」の文字は見あたりませんでしたが、光太郎と関わりの深かった面々の顕彰を行う文学館さんが紹介されていました。

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千葉県の我孫子。手賀沼のほとりに、柳宗悦、バーナード・リーチら白樺派の人々が移り住み、一種の芸術村となっていました。現在は志賀直哉の旧居、白樺文学館さんなどがあります。

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それから草野心平記念文学館さん。だから置いてあったのですね。

心平に関しては、常磐線沿線というわけではありませんが、川内村の天山文庫についても紹介がありました。

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その他、取手駅で柳田國男記念館苑さん、磯原駅で野口雨情記念館さん、勿来駅で勿来関、小高駅で埴谷雄高・島尾敏雄記念文学史料館さん、そして終点・仙台駅で仙台文学館さんが紹介されています。

緊急事態宣言も解除されたことですし、これらの文学館さん等もおいおい再開しているか、これからするかでしょう。まだまだ油断は禁物ではありますが、ぜひ足をお運び下さい。


ところで、全くの別件ですが、ラジオ放送の情報です。 

石丸謙二郎の山カフェ 選「春の山を感じよう!」8時台

NHKラジオ第一 2020年5月30日(土) 001午前8時05分~8時55分

山の日だまりで、朝日に輝く山々や森をながめつつ、コーヒーをいれてほっと一息・・・。そんなひとときをイメージしたラジオ番組が、「山カフェ」です。カフェのマスターこと、パーソナリティをつとめるのは、登山歴40 年になる石丸謙二郎。山を愛する多彩な方々をお客さまに迎え、飾らないトークを楽しみます。

山小屋や今まさに山に登っている方々と電話をつなぐ「山からおはよう」や、古今東西の山岳図書を紹介する「マスターの本棚」などのコーナーも。皆さんからの、心に残る山のエピソード、とっておきの写真も大募集しています。土曜の朝、いっしょに山に想いをはせてみませんか?

「山カフェ」3月14日「春の山を感じよう!」8時台の再放送です。みなさんの好きな春の山、おススメや思い出のお便りをご紹介しました。マスターの朗読で春山気分を味わう「空想登山」を、もう一度、登山気分でお楽しみください。「山からおはよう」は丹沢蛭ヶ岳山荘から。「マスターの本棚」は高村光太郎「山の春」をご紹介しました。

【司会】石丸謙二郎 山本志保

やはり新型コロナの影響でしょうか、「選」ということで、3月14日(土)に放送されたものの再放送です。当方、本放送は仙台からの帰りの愛車内、カーラジオで拝聴しました。司会の石丸氏による光太郎随筆「山の春」(昭和26年=1951)の朗読があります。

ぜひお聴き下さい。


【折々のことば・光太郎】

放送局ではその頃まで詩の朗読といへば必ず藤村、晩翠、白秋、露風といふやうな詩人の詩ばかり放送してゐて、それ以後の者の詩はまるで問題にしなかつたのでした。

散文「照井瓔三の思出」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

照井瓔三(本名・栄三)は盛岡出身の声楽家・朗読家。「その頃」は昭和9年(1934)。JOBK(大阪放送局)制作の「詩の夕」というラジオ番組で光太郎詩の朗読を照井が行ったことを指します。実際にはそれに遡る昭和4年(1929)には既にやはり照井により光太郎詩の朗読がラジオで放送されていましたが。

照井は光太郎以外にも、心平や宮沢賢治の詩の朗読も行ったそうです。

新型コロナ感染症に伴う緊急事態宣言の解除を受け、一昨日、当会の祖・草野心平を顕彰する福島県いわき市の草野心平記念文学館さんへ行って参りました。4月11日(土)にはじまり、一週間後に休館となって中断していた企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」が再開し、拝見して参りました。


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心平というと、「の詩人」または「富士山の詩人」というイメージが強いのですが、もう一つ、重要なモチーフとして繰り返し取りあげていたのが「天」。心平自身「私のいままで書いた作品の約七十パアセントに天が出てくる。或ひは空とか星雲とか天体のさまざまな現象などが。(略)富士山の詩を私は永いあひだ書いてきたやうに思ふが、もともと富士山などといふものは天を背景にしなければ存在しない。」(「天に就いて」昭和26年=1951)、と述べています。ということで、「天」にスポットを当てる展示内容です。

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光太郎とのからみでは、光太郎が題字を揮毫した心平詩集『富士山』(昭和18年=1943)、『天』(昭和26年=1951)。久しぶりに現物を見ましたが、いい字です。


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その他、「天」に題を採った書や絵画なども。勝手な思いこみかも知れませんが、心平が書や絵画をよくしたのも、光太郎の影響に依るところが大きいのではないでしょうか。

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ロビーのガラスには、以前から掲げられているのですが、心平詩「猛烈な天」(昭和15年=1940)。心平の愛した故郷の阿武隈山系、そしてその上に広がる「天」をバックに、というか、「天」に刻みつけられているようにも見えますね。

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おまけ、駐車場に生えていた朴の木です。見事な花が咲いていました。


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【折々のことば・光太郎】

小刀を研いだり木を彫つたり粘土をいぢつたりする時間は素よりいい。晴れた日近所の原で空を仰ぐのもいい。日に干した寝床に横になつてああらくだと思ふ時もいい。

散文「私の好きな時間」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

心平同様、光太郎も「空を仰ぐ」のが好きでした。

昨日はいわき市の草野心平記念文学館さん他に行っておりましたが、そちらのレポートに行く前に、自宅兼事務所に戻りましたところ葉書で訃報が届いておりましたので、そちらを。

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國學院大學名誉教授の傳馬義澄氏。近代文学ご専攻で、『思索と抒情――近代詩文論――』(審美社 平成12年=2000)などのご著書があるほか、お住まいだった埼玉で、「埼玉文芸賞」、それから今年の「第24回全国高校生創作コンテスト」などの審査員も務められていました。

平成24年(2012)には、第57回高村光太郎研究会で「高村光太郎『智恵子抄』再読」と題されてご発表、その後、連翹忌にもおいで下さいました。昨秋も第64回高村光太郎研究会にお越し下さり、当方、それが氏とお会いした最後となりました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あなたの著書「雪明りの路」をいただいてからもう二三度読み返しました。その度に或る名状し難い深いパテチツクな感情に満たされました。チエホフの感がありますね。この詩集そのものもどこかチエホフの響がありますね。

雑纂「「雪明りの路」の著者へ――伊藤整詩集――」全文
昭和2年(1927) 光太郎45歳

伊藤整は明治38年(1905)の生まれ。光太郎の一世代後の詩人です。

「パテチツク」は仏語で「pathétique」。「感傷的な」「哀れな」「悲愴な」といった意味です。

昨日の『毎日新聞』さんに、先月亡くなった俳優の金内喜久夫さんの追悼記事が載りました。 

悼む:文学座俳優・金内喜久夫さん=全身がんのため 4月28日死去・87歳 人間味あふれる演技 文学座演出家・西川信廣

 金内さんが突然この世から「消えた」。昨年の001春、いつものひょうひょうとした口調で「おれ、がんでさ」と告白された時、そこにはがんを患った人の深刻さはみじんもなかった。
 「美しきものの伝説」の先生をはじめ「飢餓海峡」の弓坂刑事、「夢・桃中軒牛右衛門の」の孫文、「藪原検校」の語り役・盲大夫など軽妙洒脱(しゃだつ)、存在感のある演技と語り口で多くの作品を支えていた。
 私との仕事では「マイチルドレン!マイアフリカ!」の黒人教師、「十二人の怒れる男たち」の老人役など人間味あふれる演技で魅了してくれた。
 「十二人」の稽古(けいこ)のとき、私がダメ出しをすると「ハイ!」と大きな声で返事をする。 ある役者が「金内さん、本当分かってるの?」と言ったら「いいんだよ、こう言っておけば、 演出家は安心するんだから」と言って場の笑いを誘った。その時はいたずら好きの少年のような顔だった。 金内さんは自分のセリフを装置、小道具、衣装など舞台上のあちこちに書いて、それをチラリと見ながら演技する達人だった。セリフが出てこないことへの不安解消かと思っていたが、実は皆を和ませるいたずら心だったのかもしれないとふと思う。だって、昨年の暮れの劇団の忘年会で、朗々と高村光太郎の詩を読み上げたのだから。もちろん、何も見ないで。
 2年前、私の初映画監督作品「兄消える」で町内会長の役で出演してもらった。人間味にあふれ、皆に愛される会長だった。4月28日、「兄」ではなく金内さんが私たちの前から消え、旅立っていった。寂しい。合掌。



渡辺えりさん作の舞台「月にぬれた手」(平成23年=2011/同24年=2012)で光太郎役を演じられ、連翹忌でも光太郎詩の朗読をご披露下さった金内さん。昨年にはがんをおして出席された忘年会で光太郎詩を暗誦なさったそうで、そのプロ根性には脱帽です。

コロナ終息後に「お別れの会」が開かれるそうですが、日程は未定。情報が入りましたらまたお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間が真に生きてゐる時、その人は天然に純潔で、大きい。いやしくない。作りものでないものは素より荒い。けれどもその荒さは粗ではない。その人はあらゆるニユアンスを微妙に感じ、捉へ、又いたはる。其故天然にやさしい。

散文「林一郎を知る――林一郎著「元始経」序――」より
 昭和2年(1927) 光太郎45歳

林は大阪府出身の詩人です。「その人」は林個人というより、一般論のようです。当方、金内さんの姿にこの詩句がオーバーラップします。

新型コロナにより、先月7日から出されていた緊急事態宣言は今日にも全面的に解除となる見通しだそうです。それに先立って首都圏の一都三県、北海道以外は解除されていましたが、ようやく全国でということになります。

こうした中で、全国の博物館、美術館、文学館等も少しずつ再開。花巻の高村光太郎記念館さんは6月1日(月)から再開、二本松の智恵子の生家/智恵子記念館さんは5月20日(水)には既に再開しているそうです。

当会の祖・草野心平を祀るいわき市の草野心平記念文学館さんも、5月21日(木)に再開しました。地方紙『福島民友』さんの記事から。 

【いわき】草野心平記念文学館が再開 「天」テーマの企画展、6月28日まで

 新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため臨時休館していたいわき市草野心平記念文学館は21日、再開した。4月11日に始まった企画展「天へのまなざし」を引き続き6月28日まで開く。
 同館は4月18日から休館し、朗読サロンなど一部のイベントが中止となった。本年度最初の同企画展には心平の詩に深く関係のある「天」をテーマにした詩集や絵画など約46点が並ぶ。
 新型コロナ感染拡大防止のため、来場者同士の距離を取ることや入場票への記入、同館への出入り時に消毒をしてもらうなどの対策を取る。問い合わせは同館へ。

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記事にある通り、4月11日(土)から企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」が始まりましたが、わずか1週間で休館となっていました。

光太郎が題字を揮毫した心平詩集『天』(昭和26年=1951)が展示されるなど、わずかながら光太郎との関わりもありますし、招待券も頂いてしまっているので、明日にでも行ってこようと思っております。もちろん感染予防に気をつけながら、ですが。

これから徐々に各種施設の再開、さらにはイベント等も行われ始めると思われます。まだ予断を許さない状況ですが、よろこばしいことだと存じます。

あと一息、頑張りましょう!


【折々のことば・光太郎】

今までこんなに全体の抱和した芸術を日本でみたことのない気がします、私はまだ詩について何事も公けに言はない時に居ますが後に詩の事について書く時、此の集が実に重要なものである事を感じます。

雑纂「萩原朔太郎詩集「月に吠える」に就て」全文
 大正6年(1917) 光太郎35歳

初出は雑誌『感情』第二年第四号。朔太郎に宛てた書簡の一部抜粋です。

「抱和」は「飽和」でなく「抱和」、原文の通りで当方の誤字ではありません。明治大正期には意外と使われていた言葉のようで、「融合」と類義のようです。

『月に吠える』は、3年前に刊行された光太郎の『道程』同様、自費出版でした。この2冊の詩集により、日本の口語自由詩が確立したと言っても過言ではありますまい。

まだ海のものとも山のものともつかない朔太郎をこの時点で絶賛していた光太郎、のちの心平や宮沢賢治に対してもそうでしたが、本物の才能を見分ける力は確かでした。

まだ新着情報不足がつづいていますので、今日も最近手に入れた古いものシリーズです。

昨日は、光太郎詩「道程」を元にした詩の朗読を含む昭和58年(1983)にリリースされた野口五郎さんのLPレコードをご紹介しましたが、やはりLPレコードをもう一枚。

野口さんのアルバムの前年、昭和57年(1982)、キングレコードさんから発売された「映画音楽・佐藤勝10」。

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平成11年(1999)に亡くなった、作曲家・佐藤勝氏の映画音楽001を集成した10枚組シリーズの1枚です。

佐藤氏といえば、「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」などの黒澤明監督作品、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)公開の「太陽の季節」などの石原裕次郎主演作品、山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」などを手がけた方ですが、それ以外にも「これも佐藤作品か」、「えっ、こんなものまで」というような映画(日本映画史上に残るような)の音楽もたくさん作られています。10枚組シリーズの収録曲一覧、右画像をご覧下さい。

そして、昭和42年(1967)公開の、中村登監督作品「智恵子抄」(松竹)。岩下志麻さんが智恵子、故・丹波哲郎さんで光太郎でした(過日、コロナ禍に関する記事でもこの映画をご紹介しました)。「映画音楽・佐藤勝10」には、この「智恵子抄」の音楽が収録されています。

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当方、この「智恵子抄」は1度拝見しただけですが、各シーンで効果的に使われていた佐藤氏の音楽、印象的でした。

その10年前に製作された原節子さん、山村聰さん主演の「智恵子抄」(東宝)はVHSテープで市販されましたが、松竹の「智恵子抄」は販売用ソフトになっていません。ぜひDVD化を望みます。

ちなみに佐藤氏の作品集成のうち、「智恵子抄」が収められたもの、CD版ではかなり以前に入手しました。アナログレコード版とはまたラインナップの組み方が異なっています。

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今回佐藤氏について改めて調べたところ、当方存じませんでしたが、映画音楽以外にも、有名な「若者たち」や由紀さおりさんの「恋文」なども作曲されているそうで、驚きました。

NHKさんで現在放映中の連続テレビ小説「エール」で、古関裕而、古賀政男山田耕筰らの作曲家に光が当たっていますが、佐藤氏についてももっと知られていいと思います。


【折々のことば・光太郎】

彼は過激を欲しない。彼は律度を欲する。彼は異様を欲しない。彼は正順を欲する。
散文「寸言 ――シヤヷンヌについて――」より
 大正5年(1916) 光太郎34歳

「シヤヷンヌ」は、フランスの画家、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ。印象派の面々と世代的に同じですが、奇を衒わず、しかし守旧に堕することもなく、独自の芸術をつきつめました。そうした部分で光太郎、かなり共鳴する部分があったようです。

この手の評論的な文章での光太郎の常ですが、他の芸術家を好意的に評するとき、それが光太郎芸術の目指すある面を表していることが多くあります。「過激を欲しない」「律度を欲する」「異様を欲しない」「正順を欲する」、たしかに光太郎芸術にも当てはまります。

最近手に入れた古いものシリーズです。

今回はアナログレコード。昭和58年(1983)にリリースされた野口五郎さんのLP「野口五郎 増刊号」です。野口さん自選のベストアルバム的なコンセプトで、「私鉄沿線」「19:00の街」など14曲の他、野口さんによる朗読4篇が収められています。

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ラストが光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を元にした「GOROの道程」朗読。

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無理くり感がありますが(笑)。まあ、このあたりが「昭和」の感覚ですね。

他に光太郎と交流のあった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、中原中也の「サーカス」、それから島崎藤村の「千曲川旅情の歌」のパロディ朗読も収められています。

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ライナーノート(という言葉は当時はなかったか、あっても一般的ではなかったように思いますが)的な部分に、こちらも無理くり感がありますが、「道程」が引かれています。

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「高村太郎」となっているのはご愛嬌(笑)。

それにしても、野口さん、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)のお生まれだったのですね。

野口さんの一つ年上で、さらに郷ひろみさんを加えて「新御三家」と称された故・西城秀樹さん。三回忌となりましたが、脳梗塞から復帰後は、朗読劇にも挑戦されるようになり、やはり「道程」(雑誌『美の廃墟』初出掲載の102行バージョン)を取り上げて下さっていました。

ちなみに現在発売中の『週刊現代』さんに、西城さんの3回忌ということで、その当たりにも触れられた記事が出ています。題して「西城秀樹 いまだから言える話 もう三回忌なんですね」。

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ただ、「高村光太郎」とか「道程」とかの文字はありませんでした。

ところで、今さらアナログレコードを買って、聴けるのか? とお思いの方がいらっしゃいましょうが、大丈夫です。EP、LP、それからSPまで聴け、さらにUSBでPCと接続し、デジタルデータが作れるレコードプレーヤーを持っています。光太郎作詞の戦時歌謡や、光太郎詩の朗読が収められたSPを聴く都合があり、購入しました。

明日も最近入手したアナログレコードをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

此の人等は、しん底から自分の立つてゐる地面を考へたことがあるでせうか、そして、今、世界の人間がどの位の芸術境に立ち入つてゐるかを見渡した事があるでせうか。
アンケート「日本画と四画伯について」より
大正元年(1912) 光太郎30歳

「四画伯」は、竹内栖鳳、寺崎広業、横山大観、下村観山。けちょんけちょんですね(笑)。海外留学からの帰朝後まだそれほど経っていない時期ですので、西洋で見た最先端の芸術と比較した時、日本画の古臭さ、そこから発展しようとしない閉鎖性などが許し難かったのだと思われます。

しかし、大観や観山は日本画の革新を目指し、いわゆる「朦朧体」などに挑戦していました。ところがこれなども光太郎にとっては小手先だけの工夫に過ぎない、という感覚だったのかもしれません。


またもやネタ不足となりまして、最近手に入れた古いものシリーズです。

先だって、昭和30年代はじめの花巻絵葉書セットをご紹介しましたが、その後、およそ10年後の昭和40年代はじめの花巻絵葉書セットを入手しました。

まず、カバー。昭和39年(1964)に開港した花巻空港です。飛行機は懐かしの双発プロペラ機YS-11ですね。

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題字の「はなまき」の文字は、何と、光太郎の花巻疎開に尽力し、終戦後の一時期、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた佐藤隆房花巻病院長の揮毫です。

カバー裏側に解説文。光太郎の名も。

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イラストマップもカバーの裏に。

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昭和43年(1968)に廃線となった花巻電鉄鉛線が描かれていますし、下記の高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)のキャプションには「昭和41年10月ここに高村記念館を建立して遺作を保存しております」とあるので、昭和41年(1966)~昭和43年(1968)の間の発行ということになります。発行元は「花巻市観光協会」となっていました。

葉書宛名面の切手貼付欄は「7円」と印刷されています。葉書の料金が7円だったのは昭和41年(1966)~昭和47年(1972)、年代的に合いますね。金魚のデザインの7円切手、記憶されている方もいらっしゃるのではないでしょうか(歳がバレますね(笑))。

さて、絵葉書本体。8枚セットでした。

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縦長で、上半分が光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑、下半分が高村山荘です。現在は二重の套屋に蔽われていますが、この当時は第一套屋のみ。第二套屋の竣工は昭和52年(1977)です。

昭和30年代の絵葉書セットもそうでしたが、あとは温泉地が中心です。

花巻温泉佳松園。昭和40年(1965)、建築業協会賞を受賞したとあります。

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左下は台温泉。過日も書きましたが、小規模な温泉宿が多数軒を連ね、その中の松田屋旅館さんに光太郎、それから当会の祖・草野心平が泊まっています。まだ道路が舗装されていないようです。

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右上はこれのみ戦前の絵葉書の画像ですが、花巻南温泉峡の西鉛温泉秀清館。昭和20年(1945)、花巻疎開直後に結核性の肺炎で1ヶ月臥床した光太郎が、予後を養うために6月に1週間滞在しました。昭和47年(1972)に閉館となったそうですが、下記にはまだ健在で写っています。

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奥に写っている愛隣館さんが昭和35年(1960)に創業し、「西鉛温泉」という呼称は「新鉛温泉」と改められ、絵葉書キャプションもそうなっています。

鉛温泉藤三旅館さん。中央の古い建物、三階の一番奥が光太郎の泊まった31号室です。

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それから温泉ではありませんが、鉛温泉スキー場。なぜかスーツにネクタイでスキー板を履いている人が居るのですが(笑)。

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大沢温泉さん。立て替えられる前の山水閣さんのようです。

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志戸平温泉さん。現在の姿にだいぶ近くなっています。

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各温泉さん、緊急事態宣言の解除を受け、徐々に再開しているようです。連休明けには既に再開したところ、宿泊はまだでも日帰り入浴のみ再開しているところもあり、大半は今月末や来月初めから全面的に再開するようです。ちなみに高村山荘・高村光太郎記念館さんも6月1日(月)から再開の予定だそうです。まだ油断は禁物ですが、早く元の状態に戻って欲しいものですね。

特に急ぎの情報が入らなければ、明日も最近手に入れた古いものをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

もう六年です。すっかり住みなれて、都会へ出る気はしません。僕はもう都会を信用しません。都会は腐りかけている。

対談「高村さんと語る」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

ところが翌年には「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、帰京します。まあ、花巻郊外太田村ではあれだけの大作を制作することが不可能だったためですが、帰京したら帰京したで、ぶつぶつ言いながらも東京の生活も楽しんでいた部分もありますが……。しかし、住民票は本当に身体が動かなくなり、死を予感するようになった昭和30年(1955)まで太田村に残していました。

テレビ放映情報です。 

クラシック音楽館 N響 第1934回定期公演

NHK Eテレ 2020年5月24日(日) 21:00~23:00

N響第1934回定期公演▽指揮はパーヴォ・ヤルヴィ▽【曲目】1.バイオリン協奏曲第1番~プロコフィエフ 2.交響曲第2番~ラフマニノフ

▽N響首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィによる、ロシアン・プログラムです。▽曲目は、激動の帝政ロシア末期に作られた2つの作品、プロコフィエフ作曲のバイオリン協奏曲第1番とラフマニノフ作曲の交響曲第2番です。▽ソリストは、スペイン出身で注目のバイオリニスト、レティシア・モレノ▽管弦楽・NHK交響楽団でお聴きいただきます。コンサートαは、山田耕筰、武満徹ほかの日本人作曲家による、心温まる歌曲の数々です。

出演
管弦楽団…NHK交響楽団,指揮者…パーヴォ・ヤルヴィ,バイオリニスト…レティシア・モレノ,
オペラ歌手…小林沙羅,テノール歌手…山本耕平,ピアニスト…河原忠之


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メインはN響さんの定期公演ですが、番組最後の「コンサートα」というコーナーにおいて、1月25日(土)に開催された福島県棚倉町での公開収録「~小林沙羅&山本耕平デュオ・リサイタル」から抜粋で放映されるそうです。

元々はNHK FMさんの「ベスト・オブ・クラシック」の公開収録で、ラジオでは2月24日(月)に放送されました。また、BSプレミアムさんの「クラシック倶楽部」という早朝の番組で3月27日(金)にオンエアされています。

抜粋される曲目は以下の通り。

「この道」山田耕筰 作曲 北原白秋 作詞 (小林/河原)
「或る夜のこころ」中村裕美 作曲 高村光太郎 作詞 (小林/河原)
「四行詩」泉谷閑示 作曲 中原中也 作詞  (山本/ 河原)
「小さな空」武満徹 作詞作曲 (小林/山本/河原)

ソプラノの小林沙羅さん、ピアノで河原忠之さんによる、光太郎詩に中村裕美さんという方が曲を付けた「或る夜のこころ」が含まれています。

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新型コロナの影響で各種コンサートは軒並み中止や延期となり、緊急事態宣言の解除地域では少しずつ再開の動きもあるようですが、「三密」だなんだと、いろいろなことを気にしながらではなかなか楽しめないという皆さんも多いことと思われます。ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

音楽は遊芸の一種と考えられ勝ちだが大きな誤りだ。すぐれた音楽はどんなに生活を楽しくすることか。

対談「新しき岩手の創造」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

対談の相手は当時の岩手県知事・国分謙吉です。ここでは岩手が民謡の宝庫であるという話の流れからの発言ですが、西洋音楽にももちろん当てはまる内容ですね。

今日、5月20日は明治19年(1886)に生まれた智恵子134回目の誕生日です。そこで微かに智恵子がらみで。

「ご当地フレーム切手」。全国各地域の記念品として、それぞれの地域内の郵便局限定、JP日本郵便さんのサイトで販売されている切手シートです。昔ほど切手収集家は多くなくなったと思われますが、こうした限定品的なものはまだまだ人気のようです。

先月、下記が青森県内で発売されました。 

日本郵便株式会社東北支社(宮城県仙台市青葉区、支社長 古屋 正昭)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。
このオリジナル フレーム切手は、青森県十和田市にある十和田湖・奥入瀬渓流の美しい景色を題材としたもので、下記の郵便局で限定販売します。


商品名 十和田湖・奥入瀬渓流~四季のひとこま~
販売/受付開始日 2020年4月14日(火)
販売/受付開始日(Web) 2020年4月15日(水)0時15分
申込受付数 1,070シート
販売郵便局
青森県の八戸市、十和田市、三沢市、むつ市、上北郡野辺地町、七戸町、六戸町、横浜町、東北町、六ヶ所村、おいらせ町、下北郡大間町、東通村、風間浦村、佐井村、三戸郡三戸町、五戸町、田子町、南部町、階上町、新郷村の全郵便局(合計113局) ※一部の簡易郵便局でも販売する場合がございます。
商品内容 フレーム切手 1シート 63円切手×5枚、84円切手×5枚
販売価格(税込)1シート 1,275円
送料 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、販売価格のほかに郵送料等が加算されます。


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光太郎最後の大作にして、智恵子の顔を持つとも言われる「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をあしらった63円切手も含まれまています。

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最初に「こうした限定品的なものはまだまだ人気のようです。」と書きましたが、その通り、すでにJP日本郵便さんのサイトでは売り切れとなっています。当方、手に入ってラッキーでした。同じ「ご当地フレーム切手」でも、なかなか売れないものもあるようですが、ポピュラーな観光地などの美しい景観等を題材にしたものは人気が高いのでしょう。

ちなみに光太郎智恵子がらみの「ご当地フレーム切手」、これまでも何種類かゲットできています。今回同様、「乙女の像」関連で「十和田八幡平国立公園」と「十和田湖畔「乙女の像」建立60 周年記念」(もう1種類「十和田湖・奥入瀬渓流~四季彩~」というのがあるのですが未入手です)、智恵子のふるさと二本松の「あだたら桜回廊」、光太郎が碑文を揮毫した花巻の「雨ニモマケズ」碑をあしらった「宮沢賢治生誕120 年」。


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目白にある切手の博物館さんに行くと、過去の「ご当地フレーム切手」もけっこう販売しています。今後も注意して探してみようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

商人には商人の妻、百姓には百姓の妻、ぼくには智恵子が、一ばんありがたかった。その気持をこめて、智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもえいです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。

対談「自然と芸術」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

この構想が具現化したのが、2年後に制作を始めた「乙女の像」です。ただし、十和田湖は全く想定外で、この頃は智恵子が療養していた九十九里に置きたいという希望でした。

地方紙『石巻かほく』さんに、光太郎の名。 

石巻ゆかりの本(5完) 新潮日本文学アルバム 高村光太郎

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年000)は、1931(昭和6)年8月に三陸地方を旅行している。その時、女川町にも立ち寄った。時事新報の仕事の一環だった。

 その年の10月の夕刊に、紀行文「三陸廻り」を掲載。女川について「極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」と記している。

 6年後の37(昭和12)年には、女川の地名を入れた詩「よしきり鮫」を発表。よほど港町・女川の印象が強かったようだ。

 光太郎の生涯と彫刻作品についてたどったのが、新潮日本文学アルバムシリーズの「高村光太郎」(新潮社、定価1320円・税込み)である。妻となる智恵子との出会い、美との格闘、父との確執などが豊富な写真と資料でつづられ、日本を代表する彫刻家・詩人の実像に迫る。

 巻末には山崎正和のエッセー「蕩児の憂鬱」が掲載されている。西洋に留学し、ロダンに心酔した光太郎が見つけた答えが興味深い。詳しい略年譜も参考になる。

 新潮日本文学シリーズからはほかにも「石川啄木」「志賀直哉」「宮沢賢治」と、石巻とゆかりのある人物たちが、それぞれ1冊の本になって取り上げられている。


取り上げられている『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』は、昭和59年(1984)の刊行。まだ版を重ねているようです。故・北川太一先生の編集になり、実に的確な解説と数百枚の写真で、光太郎の生涯を概観できるようになっています。刊行当時、卒論を書く際、真っ先に読んだ本の一つです。

昭和6年(1931)の三陸旅行についても紹介されており、そういうわけで『石巻かほく』さんで「石巻ゆかりの本」として取り上げて下さったのでしょう。

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ただ、記事を読むと石巻に隣接する女川の話がメインです。しかし、「三陸廻り」の紀行文は石巻から始まっていて、日和山から見た北上川の様子など、挿絵入りでレポートしています。『新潮日本文学アルバム』では石巻から旅のスタート、という記述になっていないので、そのあたりは割愛したのかもしれません。

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そういうことであれば、やはり北川太一先生による『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)も紹介いただければいいのかな、という気もします。こちらは「三陸廻り」の全文(石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古)が、やはり詳細な解説入りで引用されています。


さて、光太郎智恵子の名は出て来ませんが、別件で。智恵子が「ほんとの空」があると言った安達太良山関連です。

まず、『福島民報』さん。 

規模縮小し山開き 登山者景色楽しむ 001安達太良山

 日本百名山の一つ、安達太良山(一、七〇〇メートル)が十七日、山開きした。新型コロナウイルス感染拡大防止に向け、山頂で予定していたミズあだたらコンテストなどのイベントが中止となるなど規模を縮小して催された。

 新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が福島県で解除されて初の日曜日だったが、登山客は例年と比べ、大幅に少なかった。通常は山頂で先着順に登山記念ペナントを配布し、多くの登山客でにぎわうが、今回は各登山口で配った。

 二本松市などでつくる安達太良連盟が神事のみをあだたら高原スキー場ランデブーで行い、連盟会長の三保恵一二本松市長らが登山客の安全を祈願した。

 あいくにの小雨や強風、霧などの天候。登山客は時折霧の隙間から見える雄大な景色を目に焼き付けていた。


続いて『福島民友』さん。 

「安達太良山」山開き...魅力堪能 感染防止、イベントは中止

 日本百名山の一つで、二本松市などにまたがる002安達太良山(1700メートル)で17日、山開きが行われた。新型コロナウイルスの感染防止のため山頂イベントは中止となったが、福島県の緊急事態宣言が解除されて初の日曜日ということもあり、多くの登山客らが山頂を目指した。
 山頂はガスが濃く、強い風が吹く荒れ模様。例年なら、岩山に登ったり周辺で食事を取ったりする人や、山頂イベントに参加する人が多いが、この日は登り切った人たちが早々に下山していた。
 登山中は天候に恵まれ、雪が残る山肌に新緑の若葉がもえる様子や、阿武隈山系の山々が広がる大パノラマを楽しむ人の姿が見られた。登山客は、コロナ禍にも例年と変わらない姿を見せる安達太良山の魅力を堪能していた。

昨年は9,000人もの人出(当方、9,000分の1でした)があった山開きでしたが、今年は山頂イベントは中止、安全祈願祭等は登山口で実施したそうで、さびしいと言えばさびしい結果になりました。来年以降、旧に復することを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

東京にいたころと現在とを比べてみて、わたしは今の方がほんとうだと思っています。自然を見る眼もいまの方が詳しいのですから……。

対談「清談を聴く」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

対談者は掲載紙『新岩手日報』の顧問・伊東圭一郎。智恵子は安達太良山の山の上に「ほんとの空」を見、約20年後、光太郎は花巻郊外旧太田村の山林に「ほんとう」の生活を見たというわけです。

新刊、というか、ハードカバーの文庫化です。昨日ご紹介した『山と渓谷』の増刊号同様、1週間ほど前、久々に新刊書店さんに行って目にし、「ああ、これ、文庫になったんだ」と気づいた次第です。 

2020年4月15日 門井慶喜著 講談社001(講談社文庫) 
定価920円+税


第158回直木賞受賞作、待望の文庫化!

天才で、ダメ息子な宮沢賢治。その生涯を見守り続けた父が、心に秘めた想いとは。

政次郎の長男・賢治は、適当な理由をつけては金の無心をするような困った息子。
政次郎は厳格な父親であろうと努めるも、賢治のためなら、とつい甘やかしてしまう。
やがて妹の病気を機に、賢治は筆を執るも――。

天才・宮沢賢治の生涯を父の視線を通して活写する、究極の親子愛を描いた傑作。<第一五八回直木賞受賞作>


ハードカバーは平成29年(2017)9月に刊行されています。その後、翌年1月には第158回直木賞を受賞しました。

光太郎がその作品世界を激賞し、その歿後は、当会の祖・草野心平らとともに、作品の普及に尽力した宮沢賢治。主人公は賢治の父、政次郎です。政次郎は、昭和20年(1945)4月の空襲で、駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、疎開させてやった張本人。同8年(1933)に亡くなった賢治の作品を世に知らしめてくれたということで、光太郎に恩義を感じていました。

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前列左端が政次郎、その隣が光太郎です。ついでに書くなら二人の間から顔を出しているのが、花巻空襲で宮沢家が被災した後、光太郎を一時自宅に住まわせてくれた、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌、うしろで立て膝の人物が、賢治実弟の清六、光太郎の右隣が花巻病院長・佐藤隆房、女性陣は左からクニ(賢治妹)、愛子(清六夫人)、イチ(賢治母)、岩田シゲ(賢治妹)です。

『銀河鉄道の父』、戦中戦後の話は出て来ませんので、光太郎本人は登場せず(大正15年=1926の、光太郎と賢治唯一の出会いの場面は描かれていません)、名前が2度ほど出て来る程度ですが、政次郎と賢治の関係が、ある意味、光雲と光太郎の関係を彷彿させられます。

すなわち、政次郎も光雲も、息子の特異な才能に戸惑ったり、うまく立ち回れないところにやきもきしたりしながらも、自慢の息子ととらえていました。しかし息子である賢治も光太郎も、父を「重し」のように感じ、反発することもしばしば。それでいてすねをかじる時には平気でかじり、政次郎も光雲も「しょうがないやつだ」と思いつつ、結局は息子のいいなりになることも……。まぁ、世の多くの父と子が、多かれ少なかれこのようなドラマを演じ続けてきたのかも知れませんが、この二組の父子はまさしく典型例のようです。010

ハードカバーでお読みいただいていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

天地微妙  短句揮毫  戦後期

光太郎が賢治の作品世界を激賞した理由、いろいろと考えられますが、その一つが、賢治の「自然観」にあったのではないでしょうか。

光太郎はこよなく自然(nature)を愛し、そして人間も自然の一部、したがって、自然に対し、自然に(natural)従うべし、といった考えがありました。そうした「自然観」を賢治の作品世界にも見出し、共感を持っていたのではないかと思われます。

「天地微妙」の句にも、大自然が織り成し、かたときも休むことなく、微妙に移り変わりながら美を顕現しているさまへの讃仰が見て取れるような気がします。

1週間ほど前、久しぶりに地域の新刊書店さんに行きました。なぜ久しぶりだったかというと、まぁ、外出自粛の要請に応じ、というのが一つ。それから、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な、回りまわっての理由で足が遠のいていました。すなわち、「生活圏外で光太郎智恵子がらみのイベントや展覧会等が催される」→「新幹線や高速バスで移動」→「その車中で読むための新刊書籍(頭を使わなくて済む時代小説、推理小説等)が必要」→「新刊書店に行って購入」というサイクルだったのですが、最初の「生活圏外で光太郎智恵子がらみのイベントや展覧会等が催される」が無くなってしまったため、以下も無くなっていたわけです。

ところが、あまり長く新刊書店さんに行かないでいると、出版界の情報に取り残される、というか、時代小説や推理小説を買うついでに他のコーナーを見ると、意外と光太郎智恵子がらみの新刊が知らずに出ているのに気づけない、というわけで、1週間ほど前、久しぶりに地域の新刊書店さんに行きました。

案の定、知らずに出ていた光太郎智恵子がらみの書籍を発見。まずはムックです。 

2020年3月31日 山と渓谷社編刊 定価1000円+税

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今年こそ、日本一美しい上高地の高原を歩きましょう!
一冊まるごと上高地号。

■特集 「最も美しい上高地へ」
●巻頭グラフ 上高地、折々の景
●上高地周辺登山地図
●上高地誕生のヒミツ
●第1部 上高地を歩く(大正池、河童橋周辺、小梨平、明神、徳沢)
・ルポ 春の愉快な仲間たち
・ルポ 夏の上高地自然散歩
・イラストマップ 大正池・田代池・田代湿原エリア/河童橋エリア/明神エリア/徳沢エリア/横尾エリア
・ルポ  岳沢トレイルへGO!
・コラム 上高地施設案内 上高地郵便局、インフォメーションセンター、ほか
・ビジターセンタースタッフに聞く、上高地の楽しみ
・エッセイ 斎藤由香〈父・北杜夫と訪ねた上高地の思い出〉
・インタビュー 明神館 梨子田満さん
●第2部 上高地の自然
・上高地は自然の宝庫
・上高地の森と生き物(植物・樹木/哺乳類/鳥類)
・フィールド昆虫記
・グラフ 上高地 春を歓ぶ声
●第3 部 上高地周辺の山々へ
・上高地の古き守り人、陰の立役者たち
・ルポ 焼岳ワンデイハイキング(中の湯〜焼岳〜上高地)
・ルポ 蝶ヶ岳、はじめての北アルプス(徳沢〜蝶ヶ岳往復)
・人物 徳本峠道を守る人々
・上高地から歩く登山ガイド
 霞沢岳、蝶ヶ岳、焼岳、徳本峠越え、涸沢、奥穂高岳、北穂高岳、西穂高岳、前穂〜奥穂
・穂高岳の岩壁
・グラフ 70's~80's  あの日、ボクらはあの山で…、誌面でふり返る涸沢・穂高・上高地
・ノウハウ 穂高の歩き方 安全に楽しむためのTips13
●第4 部 上高地旅の情報
・上高地、穂高宿泊案内
・アクセスガイド
・上高地ランチ&カフェMAP
・上高地を知るためのブックガイド
●特別企画
お~い蕎麦だよ 「乗鞍、奈川、稲核」に在来そばの名店を訪ねて


上記目次の色を変えた項に、光太郎智恵子の名が。

まず、「インタビュー 明神館 梨子田満さん

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次に「上高地の古き守り人、陰の立役者たち」。

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それから、「上高地から歩く登山ガイド」中の「徳本峠越え」。

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最後に、「上高地を知るためのブックガイド」。

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このブログでかつてご紹介した書籍が2冊、紹介され011ています。まず、『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』。同じ山と渓谷社さんで出している「ヤマケイ文庫」の一冊で、同社の編とクレジットされています。光太郎作品は、上高地での感興を題材とした詩「山」(大正2年=1913)、「狂奔する牛」(大正14年=1925)、それから戦後の「岩手山の肩」(昭和22年=1947)の三篇の詩、それからエッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)からの抜粋が載せられています。

さらに同じ「ヤマケイ文庫」ラインナップ中の『名作で楽しむ上高地』(大森久雄氏編)。こちらにも「狂奔する牛」全文と「智恵子の半生」の抜粋が載っています。

『名作で楽しむ上高地』の方は、巻末の広告ページにも。

ところで、上高地というと、昨夜のNHKさんのニュースで取り上げられていました。  

宣言解除 上高地へ路線バス再開

北アルプスの玄関口、長野県松本市の上高地では、緊急事態宣言が解除されて初めての週末となった16日、運行を休止していた路線バスがおよそ1か月ぶりに再開しました。

緊急事態宣言を受けて長野県は観光地の宿泊施設などに休業への協力を依頼していましたが、16日から緩和されました。
こうした中、先月18日から運休していた上高地に通じる路線バスが運行を再開し、松本市内のバス停では、午前8時40分の始発に登山客とみられる数人が乗車しました。
運行会社によりますと、感染防止のため車内にアルコール消毒液を置いて利用を呼びかけるほか、客席と運転席との間には飛まつを防ぐシートを設置したということです。
また、運行本数は当面、通常の5分の1の1日3往復に減らし、岐阜県側から上高地に入るバスは県をまたぐ移動をともなうため運休を続けることにしています。
例年、いまの時期は多くの観光客で混雑する上高地ですが、16日は午前中から雨が降り、訪れる人の姿はまばらでした。
松本市に隣接する塩尻市から訪れた71歳の男性は「ことしは初めて来ました。いつもより静かな上高地を楽しむことができました」と話していました。
バスを運行するアルピコ交通の辻善弘・新島々営業所長は、「運休の継続も考えましたが、地元で働く人の足を確保するため再開しました。対策を徹底しながら、段階的に運行していきたい」と話していました。


とりあえず上高地に足を踏み入れることはできるようになったようですが、まだまだ油断は禁物。やはりNHKさんのニュースでは、長野県内の宿泊施設で、感染予防にものすごく神経を使っている、という件も報じられていました。

いつもおなじようなことを書いていますが、コロナに関し、何の心配もなく移動ができるような日が、遠からずやってくることを祈念いたしております。

さて、『山と溪谷2020年5月号増刊 「最も美しい上高地へ」』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然直伝  短句揮毫  戦後期?

これもどういうシチュエーションで書かれた言葉なのか当方は存じませんが、おそらく、自らの芸術(特に造型)のありようについての言ではないでしょうか。余計なことをして自然の美しさを損なうことなく、そのまま再現すべし、と。

簡単そうでいて実は難しいことのように思われます。対象物の構造から何から、丸ごとに把握しなければならないわけですから。

一昨日ご紹介した『岩手日報』さん掲載の記事「「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる」の関連記事が、やはり同紙に出ました。 

「非常の時」に将来重ね 花巻高看 高村光太郎学ぶ

 花巻市東町の花巻高等看護専門学001校(大島俊克校長)は14日、1年生の文学の授業で、彫刻家で詩人、高村光太郎(1883~1956年)を取り上げた。終戦5日前の花巻空襲の負傷者の救護に当たった医師や看護学校生らの勇敢さを讃えた詩「非常の時」も紹介。新型コロナウイルス感染症拡大の現状で、学生は非常時に何をなすべきか、将来の看護師としての自身の姿に思いをはせた。
 文学の授業は約40人が受講。非常勤講師の阿部弥之さん(73)が、宮沢賢治(1896~1933年)の作品紹介に尽力した光太郎の功績、総合花巻病院の前身、花巻病院院長の佐藤隆房博士(1890~1981年)との関わりを説いた。
 「非常の時」について阿部さんは「花巻空襲で動揺したりうろたえたりせずにやるべきことをやった医師や看護学校生に感激して書いた詩」と述べ「こういった学校の歴史を知ってほしい」と呼び掛けた。
 授業を受け関心を高めた学生。阿部菜月さん(18)は「非常時に、人のために行動できる看護師になれるよう勉強を重ねたい」と誓った。石田あかりさん(18)は「宮沢賢治や高村光太郎といった偉人と関わりのある病院や学校で学べるのは誇り」とかみしめた。
 光太郎が疎開先の花巻に向けて東京・上野をたった1945年5月15日にちなんで、例年5月15日に高村山荘詩碑前(花巻市太田)で高村祭が開かれ、看護学校生が「非常の時」を朗読するが、今年は新型コロナウイルスの影響で同祭が中止となった。


記事にある通り、例年であれば昨日は高村祭でした。やはり記事にあるように看護学校の生徒さんが「非常の時」を朗読して下さり、それから昨日もご紹介した「手づくり光太郎マスク」を贈られた太田小学校・西南中学校の児童生徒さんによる群読や音楽演奏、そしてこのところ、花巻農業高校鹿踊り部さんの演舞なども盛り込まれていました。

ここ5年間の様子、以下にリンクを貼っておきます。

 平成27年(2015)  平成28年(2016) 平成29年(2017) 平成30年(2018) 令和元年(2019)


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いつも書いていますが、来年以降、旧に復することを祈念して已みません。

そして、看護学校生の皆さん、この大変な時期に敢えて看護の世界に生きていこうとするその決意には、花巻空襲の際に奮闘した医療関係者を光太郎が讃えたように、敬意を表せざるを得ません。彼らの未来に幸福あれ、とも祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

詩魂万機  短句揮毫  戦後期?

光太郎の言う「詩魂」とは、いわゆるポエムを作り出すためのものというだけでなく、「物事の本質を十分に見極め、さらに端的に美しく表現する精神」といった意味だと思われます。

「彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」 (略)しかし彫刻にはもつと肝腎な根本生命がある。詩の魂である。立体感を重んずる余り、一にも二にも其事ばかりで彫刻を律してゐると、いつの間にか彫刻の生命が無機的なものとなる。芸術の総勘定としての生命が卻つて圧しつぶされてしまふ。(略)立体感をまでも生かすのは彫刻家の内にある詩の魂である。此所に詩と云ふのは、必ずしも文学的の謂ではない。所謂「詩的」なといふ事ではない。(略)人間の内にある名状し難い無限への傾きのやうなもの、結局「詩」とでも言ふより外言ひ様の無い、あの一つのものの事である。此があるからこそ、そもそも彫刻もはじまるのである。此の根本無くして何の立体感ぞ。詩の魂は翼を持つ。(「彫刻十個條」大正15年=1926)

そして「万機」。どんな機会にもその「詩魂」を見出しうるということでしょう。空襲という極限状況下でも、敢然と負傷者の救護に当たった花巻の医療関係者たちの精神も「詩魂」。現代の新型コロナ禍に対し、最前線で闘っておられる皆さんの精神も「詩魂」です。

先月27日、花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの皆さんによる「手作り光太郎マスク」寄贈の件、『岩手日報』さんでは早々に報じて下さいましたが、5月2日(土)には『岩手日日』さん、そして昨日、『朝日新聞』さんの岩手版で報道されましたので、ご紹介します。

まず『岩日』さん。 

真心つなぐ善意の輪 光太郎先生の教え今に

 新型コロナウイルスの感染予防に役立ててもらおうと、花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)の有志は4月27日、手ぬぐいを使った手作りマスクを花巻市の太田小学校と西南中学校に寄贈した。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の詩「非常の時」を添えて助け合いの思いを伝えるとともに、児童生徒の健やかな成長を願った。
 1945年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は花巻に疎開し、終戦後は旧太田村山口の山小屋(現高村山荘)で約7年間、独居自炊の生活をしながら住民と交流した。つながりは現在も受け継がれ、同市太田の太田小学校は「正直親切」など光太郎の筆跡を校内に掲示し、6年生児童は「高村光太郎先生に学ぶ会」で地域ゆかりの先人に理解を深めている。
 この日は同市太田の新渕和子さん、高橋順子さんが同校を訪れ、高学年用と低学年用のマスク計100枚を梅木康行校長に手渡した。同記念会が新商品として製作した「正直親切手ぬぐい」を使用し、耳に掛ける部分はストッキングを活用するなど工夫。光太郎が花巻空襲の際、総合花巻病院の医師や看護師の奮闘をたたえた詩「非常の時」の一節を添えた。
 新渕さん、高橋さんは「光太郎先生は困った人を助けることは尊いことという意味で『非常の時』を書いている。私たちもその精神を引き継ぎ、何かの役に立てればとマスクを作った」と説明。梅木校長は「子どもたちの安全第一に使わせていただく」と感謝した。
 同市轟木の西南中学校には、同市の障害者支援ボランティアグループあおぞらから無償提供された花巻まつり用手ぬぐいで製作したものも含め、全校生徒分のマスク158枚を贈った。

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校長先生、早速かわいらしいリス柄のマスクを着用して下さっています(笑)。

ちなみに先日、同館の玄関付近の木にエゾリスらしき姿が現れたそうで、下記はその画像です。

エゾリス


続いて、『朝日』さん。 

岩手)手作り「光太郎マスク」、小中学校2校に寄贈 記念会、職員手づくり

 一般財団法人花巻高村光太郎記念会が、花巻市内の小中学校2校に職員手作りのマスクを寄贈した。
 高村光太郎記念館で4月から発売予定だった手ぬぐいなどを使いマスク約260枚を作り、光太郎が「心はいつでもあたらしく」などの書を贈ったことがある太田小と西南中に届けた。包みには花巻空襲の際、危険を顧みず負傷者の救護にあたった医師や看護師をたたえて光太郎が作った詩「非常の時」の一節「人危きを冒して人を護るは貴いかな」と記したカードも添えた。
 「光太郎精神を引き継ぎ、何かお役に立てればと思った」と職員代表の新渕和子さん。太田小の梅木康行校長は「絶対に感染は起こさないと心を新たにしました」と話した。

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同館女性スタッフによるブログサイト「森のたより」によれば、その後、太田小学校児童の皆さんからのお礼の手紙も届いたそうです。

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新型コロナ禍、まだまだ収束には時間がかかるかと存じますが、こうした善意の輪、広げていきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

天人満堂  短句揮毫  戦後期?

「満堂」は「堂の中に満ちていること。また、堂の中にいるすべての人。満場」。昨日ご紹介した「天人充満」とほぼ同義でしょう。やはり自らを手厚く遇してくれた花巻周辺の人々に対する謝意と思われます。

コロナ禍に揺れている今こそ、この国が「天人満堂」という状態であってほしいものです。

このブログ、一昨日から、偶然ですがコロナ禍に関する地方紙報道シリーズとなっています。本日は『岩手日報』さん。 

「非常の時」共感呼ぶ 高村光太郎が花巻空襲後に詩作 勇敢な医療者たたえる

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、東京をたち疎開先の花巻に向かった1945年5月15日から75年を迎える。終戦5日前に遭った花巻空襲で、負傷者の救護に当たった医師、看護学校生らの勇敢さをたたえた詩「非常の時」の情景が、新型コロナウイルスの感染リスクと闘う医療従事者の姿と重なるとして、共感が広がっている。非常時に人間は何をなすべきか、詩は訴えかけてくる。

非常の時003
人安きをすてて人を救ふは難きかな。
非常の時
人危きを冒して人を護(まも)るは貴いかな。
非常の時
身の安きと危きと両つながら忘じて
ただ為すべきを為すは美しいかな。

 「非常の時」は冒頭、こうつづる。非常事態時、自分の安全な状態を捨て、危険を冒して救護に当たることは難しく、貴い。身の安全や危険を意識の外に追いやり、なすべきをなすことは美しい―。
 光太郎は45年5月、花巻中心部の宮沢賢治の実家に疎開。同年8月10日に花巻駅周辺などが空襲を受け、花巻市が把握するだけで犠牲者は48人を数えた。光太郎は同日、宮沢家で初期消火を手伝ったとされる。
 「非常の時」は終戦後の9月に病院職員の表彰式に出席した光太郎が救護班として活動した勇敢な少女らをたたえ、祝辞に代えて朗読した。同市の高村山荘詩碑前で例年5月15日に開かれる高村祭では花巻高等看護専門学校生が朗読する。今年は同感染症の影響で中止し、山荘近くの高村光太郎記念館も休館している。
 花巻高村光太郎記念会長で同校長の大島俊克・公益財団法人総合花巻病院理事長は「医療人はコロナ禍でも、ある程度の危険は覚悟の上、携わっている。博愛の精神で患者に向かう姿勢は今にも通じる」と受け止める。
 同記念会は4月、光太郎ゆかりの太田小と西南中に贈った手作りマスクに詩の一節を書いたカードを添えた。活動の中心を担った井形幸江さんは「感染症をうつさない、うつさせない、うつらないためにできることは何か、と考えさせられる」と詩に向き合う。
 顕彰活動を行う高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表=千葉県香取市=は「非常の時」を「倫理を失わず、なすべきことを実践した病院関係者への畏敬の念が込められている」と解釈し「医療関係者への差別や偏見がなくなればと願い、この詩を紹介したい」と胸に刻む。


    非常の時   高村光太郎

 非常の時000
 人安きをすてて人を救ふは難いかな。
 非常の時
 人危きを冒して人を護るは貴いかな。
 非常の時
 身の安きと危きと両つながら忘じて
 ただ為すべきを為すは美しいかな。
 非常の時
 人かくの如きを行ふに堪ふるは
 偏に非常ならざるもの内にありて
 人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
 大なるかな、
 常時胸臆の裡にかくれたるもの。
 さかんなるかな、
 人心機微の間に潜みたるもの。
 其日爆撃と銃撃との数刻は
 忽ち血と肉と骨との巷を現じて
 岩手花巻の町為めに傾く。
 病院の窓ことごとく破れ、
 銃丸飛んで病舎を貫く。
 この時従容として血と肉と骨とを運び
 この時自若として病める者を護るは
 神にあらざるわれらが隣人、
 場を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
 神にあらずして神に近きは
 職責人をしておのれを忘れしむるなり。
 われこれをきいて襟を正し、
 人間時に清く、
 弱きもの亦時に限りなく強きを思ひ、
 内にかくれたるものの高きを
 凝然としてただ仰ぎ見るなり。



昨夜まで、断続的にメールや電話で取材を受けておりました。意外と言えば意外だったのが、詩の文語体が一般の方にはわかりにくい、という指摘。なるほど、そう言われればそうかもしれません。そこで、全文の口語訳を、と頼まれまして、無理くり訳し、メールにて送信しました。記事の冒頭近くにある「非常事態時、自分の安全な状態を捨て」云々(「うんぬん」です。「でんでん」ではありません。念のため(笑))は、そこからの抜粋です。

ついでですから、送った全文訳を以下に。新型コロナの関わりもあり、かなりの意訳にせざるを得なかったので、その点はご了承ください。また、当方、古文は専門外ですので、助詞、助動詞などの扱いに問題があるかもしれませんが、あくまで意訳ということで。

 非常事態の時に
 人が安全な状態を捨てて人を救うのは難しいことである。
 非常事態の時に 
 人が危険を冒して人を守ろうとするのは貴いことである。
 非常事態の時に 
 自分の身の安全や危険といったことを意識の外に追いやり
 ただ為すべきことをなすのは美しいことである。
 非常事態の時に
 人がこういうことを行えるのは
 ひとえに平常心が心の中にあって
 人をしてこのような行いをさせるのである。
 たとえようもなく大きいのであろう、
 常に心の中にしまわれている使命感は。
 盛んに発揮されるのだろう、
 人の心の中に潜んでいる責任感は。
  (花巻空襲のあった)その日、爆撃と銃撃にさらされた数時間は
 たちまちのうちに街を血みどろにし
 岩手花巻の街はそのために大混乱に陥った。
 病院の窓はことごとく爆撃のために破損し、 
 飛んできた銃弾が病棟を貫いた。
 この時、実に冷静に怪我人を運び
 この時、取り乱すことなく病人の看護に当たったのは
 神ではないわれらの隣人、
 与えられた場所を守って動じなかった病院職員の諸氏であった。
 神ではなく、しかし神に近かったのは
 医療関係者として職責を果たす使命感が自らの身を案ずる意識を忘れさせたためである。
 私はこのことを聞いて襟を正し、
 人間というものが時に清く、
 本来弱い者が時に限りなく強くなることに思いを馳せ、
 心に刻みつけられている使命感の実に高いことを
 ただじっと仰ぎ見るのである。

 
この詩を通して、とにかく訴えたいのは、現在、最前線で闘い続けられている医療関係者の皆さんに対する感謝、エールです。新型コロナによる日本の死者数が少ないのは、ひとえに医療関係者の皆さんのご尽力によるもの。政府の手柄ではありません。しかしながら、真逆に、医療関係者の皆さんが感染源となりかねない、との偏見が横行している現状には実に胸が痛みます。

医療関係者の皆さんへの感謝の意を示すため、各地の建物が青色(NHS=国民保健サービスのシンボルカラー)にライトアップされるなどの取り組みがアメリカで始まり、日本にも波及しています。しかし、日本での謝意表示はまだまだですね。もともと高度な医療を実践してきた日本では、医療関係者の皆さんの苦闘もあたりまえのように受け止められているのかもしれません。

「非常の時」が、そのような現状に対する警鐘として機能すれば、泉下の光太郎も喜ぶことと思われます。お読み下さった方、この詩の拡散を希望します。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

天人充満  短句揮毫  昭和25年(1950) 光太郎68歳

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どういうシチュエーションで この句が書かれたかまでは存じませんが、リンゴ農家で賢治とも親交のあった故・阿部博氏旧蔵の書です。想像ですが、自らを親切に遇してくれる花巻の人々を天人に例え、ここは天人が満ちあふれているような素晴らしい街だ、ということでしょうか。

「花巻」を「病院」に置き換え、この句もまた、医療関係者の皆さんに贈りたい言葉です。

昨日は青森の『東奥日報』さんから、コロナ禍による十和田湖の現状についての記事を紹介いたしましたが、本日は同様の件で、『高知新聞』さんから。 

コロナなかりせば… 大心劇場(安田町)上映まで歯食いしばる

 新型コロナウイルスの感染拡大により、高知県内でもさまざまなイベントが中止に追い込まれ、活動の自粛を余儀なくされている。コロナ禍がなければ、にぎわっていたであろう「あんな催し」「こんな取り組み」を紹介。次回にかける関係者の思いと共に、随時紹介していく。
 高知県安芸郡安田町内京坊の「大心劇場」は月に1、2本の映画を上映する、山の中の映画館だ。昭和30年代の純愛もの、任侠劇、高知ロケが行われた近作など上映作は多彩。だが、3月初旬から休館を余儀なくされている。
 座った途端、懐かしさでほっとする客席。周囲は、往年の映画ポスターがぐるり囲む。
 「映画の中でしかなかったものが、現実になった。朝起きて、『夢で良かった』じゃない世界になったね」。コロナ禍をこう表現するのは、館主の小松秀吉さん(68)。上映は、国道55号や町内に掲げる名物の手描き看板が知らせてくれるが、今は姿を消している。

 劇場は映画上映だけの場所ではない。併設するステージでは、シンガー・ソングライターとして「豆電球」の名で活動する小松さんが歌ったり、プロの歌手が登壇。2018年10月には、双子の歌手「こまどり姉妹」が30年ぶりに来町。トークと歌声を披露した。
 年号が改まる2019年4月30日夜は常連客ら約30人がカウントダウンイベントに参加。昭和の開館から三つ目の時代の幕開けを祝った。

 今年からは旅行会社のツアーの巡り先にもなっていたという大心劇場。小松さんは「今はじっと我慢するしかない。山の中に映画を見に来てくれるお客さんに力をもらってきた。東部の映画の灯は絶対に守っていく」。山の湧き水で溶いたペンキを手に、上映を待つ映画の看板作りに取り掛かった。(北原省吾)

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(左)上映日が未定の「智恵子抄」(中村登監督)の看板前に立つ小松秀吉さん。「ヒーローじゃなく、マスクが世界を救ってるね、今は」
(右)令和の幕開けを祝う常連客ら(2019年5月1日未明)003

待ち遠しいね~ 安田町のゆるキャラ 安田朗(あんたろう)
 レトロな大心劇場の再開が待ち遠しいね~。町にはほかにも、おいしいごはん屋さんとか、おやつを売りゆう所があるきん、落ち着いたらぜひ遊びにきてよ~。ぼくもまたいろんな所へ安田町のPRしに行くきん、会いにきてね~!

高知県安田町の大心劇場さん。写真のキャプションにあるとおり、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)を、この3月に上映して下さる予定でした。

3月に、このブログでご紹介しようと、途中まで005記事を書きました。ところが、観覧料金が大心さんのHPに記載されていなかったので、電話で問い合わせてみたところ、おそらく記事にある小松さんでしょう、「あー、ホームページはまだ直してないんですけど、新型コロナで無期限延期にしたんですわ」とのことでした。「ありゃま」という感じでした。右は予定されていた上映のポスターです。

まさに見出しの通り「コロナなかりせば」ですね。ちなみに「せ」は助動詞「き」の未然形、そこにプラス助詞「ば」ですから反実仮想の用法です。

油断は禁物ですが、徐々に緊急事態宣言の解除が進むようで、「智恵子抄」の上映も遠くない日に実現して欲しいものです。観覧料金は1,500円だそうです。

こうした大心さんのようなミニシアターが存続の危機、という報道が為されたのは先月くらいだったでしょうか。その後、どうなっているかと調べてみましたところ、クラウドファンディング「ミニシアター・エイド(Mini-Theater AID)基金」なるものが立ち上がり、支援の輪が広がっているようです。

同様に、全国の新刊書店さん、古書店さんを支援する「ブックストア・エイド基金」も展開中です。素晴らしい!

「不要不急」と、とかく後回しにされがちな文化芸術分野ですが、そうしたものが一切無い世界を想像してみて下さい。当方には耐えられません。

466億円もの予算を組んで、「不要不急」どころか「不要」でしかない、しかも利権の匂いのプンプンするものを配るより、こうした部分に予算を廻せ、きちんと制度を整備しろ、と言いたくなりますね。制度と言えば、同じく「不要不急」どころか「不要」でしかない、いや、「有害」な法案は拙速に強行採決されそうな勢いですが……。


【折々のことば・光太郎】

桐葉亭々   短句揮毫  戦後期?

「亭々」は「ていてい」。樹木が葉を繁らせ、高々と聳えるさまです。桐は実は樹木というより草に近いのだそうですが(だから成長が早く、軽いのだそうで)、そろそろ紫の可憐な花があちこちで見られているのではないでしょうか。

「亭々」、寡聞にして当方は存じない言葉でした。明治人にとってはあたりまえの言葉だったのか、それとも光太郎のボキャブラリーが豊富だったのか、どちらなのでしょうか。

青森に本社を置く『東奥日報』さん、昨日の記事です。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖の話題。 

にぎわい創出進む十和田湖 コロナで暗転/ホテル「4月の売り上げ99%減」/関係者、早期収束を渇望

 青森県が世界に誇る観光資源である十和田湖・奥入瀬渓流エリア。十和田市はここ10年ほど、国や青森・秋田両県などと連携して再整備を図ってきた。湖面の県境画定による交付税収アップや、インバウンド(訪日外国人旅行者)増加に後押しされ、イベントによるにぎわい創出も進む。そんな中での新型コロナウイルス問題。関係者は早期収束を渇望するとともに、活性化の機運がしぼまないか危惧している。

 「4月の売り上げはほとんどゼロ。前年同期の99%減です。全国的な外出自粛で5月、6月も期待できない」。湖畔の休屋でホテル「十和田荘」を営む中村秀行さんは肩を落とす。十和田湖国立公園協会理事長として十和田湖マラソン、十和田湖ウオークなど湖畔のスポーツ大会にも積極的に関わってきたが、今年は両大会とも中止。「何とか7月の『湖水まつり』は開きたい。湖上に咲く花火を見て、みんなと元気を出したいんだけれど…」

 近年、十和田湖エリアの観光施策には追い風が吹いていた。2008年に青森・秋田両県の境界が画定したことで、湖面の面積割合「青森6、秋田4」に応じて、09年度から年間約6700万円の地方交付税が増額されることになった。配分は青森県約2400万円、十和田市約1600万円、秋田県約1600万円、同県小坂町約1100万円。

 地方交付税は本来、特定の使い道を定めず一般財源となるが、両県と両市町は連携して増額分を09~18年度の10年間限定で、十和田湖エリアの環境保全・景観対策に充てた。事業は、藻の発生原因調査や水質改善、放置された観光ボート撤去、トイレ改修、誘客を促す旅行商品の開発、ヒメマス商品のブランド化、新しい観光拠点となる施設の整備、イベント開催補助など多岐にわたる。

 この10年間の後半は、観光客が急増した時期に重なる。十和田市商工観光課のまとめによると「奥入瀬・十和田湖」の観光客入込数は14年の99万9644人から右肩上がりで増え、19年(速報値)は126万7071人となった。

 また、十和田市全体への宿泊者数は、14年の27万2832人(うち外国人1万3089人)に対し、19年(速報値)は33万1881人(同6万6930人)と増えている。

 十和田市は19年度以降も、環境省の「国立公園満喫プロジェクト」と連動させて十和田湖振興を進めてきた。本年度当初予算には焼山地区活性化(約1億3千万円)、休屋-十和田神社間の市道の石畳化(1億1千万円)などを計上している。新型コロナ感染拡大に伴う湖畔や焼山地区の観光業者支援策として、本年度の固定資産税、温泉使用料、上下水道料の免除も打ち出している。十和田市企画財政部の漆舘典子部長は「(交付税増収分を活用する)期間が終わったとはいえ、十和田湖・奥入瀬は当市にとっての重要な観光資源。新型コロナさえ収束すれば国、県、観光事業者と連携して観光PRに努めたい」と、世界的な感染拡大の行方に気をもんでいる。

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5月3日(日)には、秋田県北部エリアの地方紙『北鹿新聞』さんにも同様の記事が出ましたが、こちらはより深刻な状況が詳述されています。「売り上げ99%減」と、そこまでか、という感じです。当方、現地の観光関係者の方々にいろいろとお世話になっておりますので、胸が痛みます。

そうした皆さんのご努力(本当にあの手この手で、十和田湖や奥入瀬渓流の魅力の発信に尽力されてきました)で、画像の表にある通り、観光客が伸び続けてきた中でのコロナ禍ですから、なおさらです。

と言っても、今、この時期に訪れても迷惑でしょうし(自宅兼事務所は「特定警戒都道府県」内です)、とにかく「早期収束の渇望」、それしかありませんね……。

人類史上、おさまらなかったパンデミックはないそうです。「三歩進んで二歩下がる」の状態になってしまいましたが、ここからまた一歩一歩、前を向いて行っていただきたいものですし、そのための協力は惜しみません。

全国の観光地、どこも似たり寄ったりの状況でしょう。皆様もぜひ、収束後はそれまでのステイホームの鬱憤を晴らす意味でも、あちこちにお出まし下さい!


【折々のことば・光太郎】

大地麗   短句揮毫  昭和25年(1950) 光太郎69歳

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送りがながありませんが、「大地麗(うるわ)し」と読みます。花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居中、村役場の新築祝いにと乞われて書いた揮毫です。

本当に1日も早くコロナ騒ぎが収束・終息し、麗しきこの国の国土を満喫できる日が再びやってくることを願ってやみません。

だんだんと新着情報も戻りつつあります。富山県の地方紙『北日本新聞』さん。
 

令和の匠 岩崎努(いわさき・つとむ)さん(47) 木彫家

■本物以上の美を求め002
 大きな窓に向かい、制作中のブドウのレリーフに取り掛かる。のみの刃を入れるたびに、 波打った葉や張り詰めた実が輝きを増す。無言で木と向き合いながら、命を吹き込んでいく。
 井波彫刻で培った伝統的な技術を生かし、レリーフや彩色木彫、肖像彫刻を手掛ける。
 作品は全て、1本の木材から彫り出す「一木(いちぼく)造り」。木の繊維に沿ってのみの刃を入れ、艶を引き出す。確かな技術で作る写実性の高い作品は東京の三つ星フランス料理店に飾られるなど、和洋を問わず空間に彩りを添える。 目指すのは高村光雲ら明治時代の彫刻家。
 武蔵野美術大在学中に作品を目にし、圧倒的な写実表現に言葉を失った。「この時代のクオリティーをよみがえらせることができたら、どこでも戦える」。逃げ場のない写実表現の世界で勝負することを決めた。
 井波彫刻師の父の元に生まれ、ごく自然に彫刻の道を志した。大学卒業後は彫刻家の多田美波さん(東京)の研究所で2年間働いた。井波に戻って父の下で修業を積み、8年後に独立。より写実的な表現を追求し始めた。
 ほどなくして、 富山市岩瀬地区を「芸術村」にする構想を知った。異分野で活躍する同世代の作家たちと切磋琢磨(せっさたくま)できる環境は魅力的だった。
 だが、父からは反対された。「木彫刻をやるのに井波を出る必要があるのか」。名の通った井波の地を離れ、家族を抱えて生活できるのか心配され、勘当に近い形で父と別れた。
 岩瀬に移り住んで12年。 順風満帆だったわけではない。写実性を追求すると制作に時間がかかり、値段は上がる。価値を認めてもらうのは難しく、しばらくは安定して注文がある天神様の制作で生計を立てた。
003 転機は4年ほど前、柿をモチーフにした彩色木彫を発表したことだった。明治時代の牙彫(げちょう)師、安藤緑山(ろくざん)が作る野菜や果物の彩色彫刻が昔から好きだった。
 安藤のように姿形だけでなく質感まで再現するリアルな造形を突き詰めた。
 「日本らしさを凝縮して世界に発信したい」。柿は「国果」とも言われる。日本の木を使い伝統の技を駆使した精巧な作品は口コミで広まった。顧客が増え、生活のめどが立ったことで、父とのわだかまりも消えた。
 昨年12月、「嘉来(かき)」と題した柿の彩色木彫2点を京都の清水三年坂美術館に収めた。幕末・明治の名作がそろう同館に認められるのは長年の目標だった。念願がかない「ある基準までは来た」と思う。「でも、まだまだ行ける」 「写実」は対象を写し取ることではない。「そのものらしさを表現する中に、自分が出ている」。大胆にカーブを描く枝、黒い傷のある実、枯れてくしゃりと折れた葉-。「嘉来」は自分が美しいと感じる柿の姿を重ね合わせた集大成。実物以上の「柿」を目指した。
 今は国内外から注文があり、1年以上待ってもらうことも珍しくない。それでも「 目指すところには遠い」。伝統技術をベースに自分らしい「写実」を追求し続ける。

光雲ら明治の彫刻家を範とし、「この時代のクオリティーをよみがえらせることができたら、どこでも戦える」とする意気や良し、ですね。

「具象」と「抽象」という問題を考えた時、たしかに「抽象」には逃げ場が存在します。わけのわからない表現でも、「抽象だから」の一言で済んでしまうような……。作者が意図せず偶然に生まれたような表現を、さも苦心の末に編み出した表現だ、などとする不届き者もいそうな気がします。

その点、「具象」、特に「写実」は、そういうわけにはいきません。まず実物に似せなければなりませんし、ただ似ているだけでも不可。「似せよう」という意識が厭味に残らず、実物以上に実物、という域に達しなければ、「写実」に取り組む意味がないのではないでしょうか。

光太郎も散文「彫刻十個條」で、「似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。」と書いています。これは肖像彫刻を念頭に置いての言ですが、実物写生にも当てはまるのではないでしょうか。

守旧にとどまることなく、伝統を更に発展させようとするこうした取り組み、応援していきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

木竹諧和  短句揮毫  昭和23年(1948) 光太郎66歳

花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に、花巻病院長・佐藤013隆房や村人たちの厚意で、それまで無かった風呂場が作られました。風呂は鉄砲風呂と呼ばれるタイプ。水の中に金属製の筒が入っており、その中で薪を燃やすことで湯を沸かします。

その風呂桶を造ったのが花巻一の桶造り職人、大橋喜助。光太郎はお礼にと、この句を揮毫した書を贈りました。「諧和」は「やわらいで親しみあうこと」の意。木や竹などの材料を「諧和」させる見事な匠の技へのオマージュですね。

しかし、せっかく造ってもらった風呂でしたが、薪を大量に消費せねばならず、結局、あまり使われませんでした。

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左の画像はその現物です。竹は箍(たが)の部分に使われています。






花巻高村光太郎記念館さんに展示されている昭和20年代の光太郎が暮らした頃の花巻とその周辺、花巻電鉄沿線のジオラマを作製してくださった石井彰英氏。

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石井氏、ジオラマを撮影し、ナレーションやお仲間と演奏された音楽を入れたDVDを制作されることをなさっており、光太郎ジオラマについても以前に作製されています。

氏から、新作のDVDが届きました。今回は、光太郎がその第一詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934)の表紙題字を揮毫した、中原中也。題して「中原中也ジオラマDVD ダダさん」。

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まず、中也の故郷・山口の風景が中心です。光太郎ジオラマを作っていただいた時もそうでしたが、現地でロケハンもなさったそうで。

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その他、中也終焉の地・鎌倉やゆかりのあった都内、川崎なども。

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さらには代表的な詩の数々。お仲間の皆さんの朗読やBGMが入ります。

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中也とサーカスは切っても切り離せないということで、サーカス風景も。

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光太郎ジオラマDVDも素晴らしいクオリティでしたが(ちなみに当方手許にも在庫があります。ご入用の方、コメント欄等からご連絡下さい)、光太郎詩よりも叙情性、感覚性に優れ、妖しげでメランコリックな中也詩の世界と、ある意味憂愁を帯びた映像が非常にマッチしていると感じました。特にこのサーカスのシーンなど。

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今回、当方は何のお手伝いもしていないのですが、なぜかエンドロールに当方の名(笑)。

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こりゃ、「宣伝しろ」ということかと思い(笑)、宣伝させていただきます。

山口の中也記念館さん、昨年から先月まで、光太郎にも関わる「開館25周年記念展(文学表現の可能性 後期)清家雪子展――『月に吠えらんねえ』の世界」を開催して下さっていました。その報道を見るにつけ、ぜひ伺いたいと思っておりましたが、結局、コロナ禍で行けずじまいでした。

ただ、7月末から『山羊の歌』などに焦点を当てた「令和2年度特別企画展「中也詩集の装幀」(仮)」が予定されているようですので、今後の状況を見て、考えたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

    
豊耳聡明  巨眼帯露

短句揮毫 昭和21年(1946)/昭和23年(1948) 光太郎64歳/66歳

時期の異なるものを二つ並べましたが、ワンセットということで。

両方とも、花巻で世話になった花巻病院長・佐藤隆房のお孫さんの誕生記念に送った言葉です。前者は貞之氏に。おそらく耳が特徴的な赤ちゃんだったのでしょう。後者は泰之氏に。こちらはお目々あクリッとしていたということではないでしょうか。

最近手に入れたものシリーズで、一昨日ご紹介した荒井とみよ氏著『詩人たちの敗戦』同様、少し古い書籍です。
 

昭和の若き芸術家たち 続金四郎三代記[戦後篇]

平成8年(1996)10月1日 浅尾丁策著 芸術新聞社 定価3,200円+税

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朝井閑右衛門 浜口陽三 木内克 原精一…… 昭和の美術界を闊歩した芸術家たちの素顔をつづるよき時代のものがたり

目次
 占領下の画家たち
  悪夢の日々からの解放 占領下の画家たち “プール・ヴー”美術研究所 
  カルチェ・ヴァル会誕生 モデル紹介業のはじまり 田村泰次郎「肉体の門」の頃
  浅草界隈人間模様 フランスに行けなかった浜口陽三さんの狸公 
  谷中の畸人、上口愚郎さん
 思い出の人と絵画
  様相転ずる上野・下谷界隈 ゴーギャン、幻のブルターニュ風景 思い出の人々と絵画
  走馬燈 ワイセツ今昔物語 旧都美術館周辺のこと 北荘画廊の成功 
  逸品・珍品あれこれ 旅の僧の淡彩風景 石膏像販売はじめる 
  仙人のごとき画人・朝井閑右衛門さん 東山魁夷さんのクレヨン画 
  中村研一先生の水墨屏風 インド古剣と岩田藤七さん 裸婦をめぐる風景
  高村光太郎先生「乙女の像」のモデル 谷中五重塔心中綺譚 第一回形象展開催
  五大家合作枕屏風出来 小絲先生のインスタントホワイト
 金四郎、パリを行く
  初のヨーロッパ旅行 イタリア紀行 ヨーロッパ古物商めぐり 金四郎、個展をひらく
  パレット座迷舞台あく 鶴岡政男さん逝く
 拂雲堂日記抄(一九七七年春から八三年春)――別れと出会いの日々
 あとがき

本書は、美術雑誌『アート・トップ』に連載されたものの単行本化で、著者の浅尾丁策氏は、明治40年(1907)、東京下谷の生まれ。戦前に画材店「浅尾拂雲堂」を開業、戦後は絵画修復、額縁制作、さらに、昭和24年(1949)、「プール・ヴーモデル紹介所」を設立しました。平成12年(2000)に歿しています。

その「プール・ヴーモデル紹介所」(現在も存続しています)に所属していた藤井照子が、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めました。当時19歳だったということです。

藤井照子詩集『石花采(てんぐさ)』が刊行されました。
 
「藤井照子」というと、詩集『石花采(てんぐさ)』(昭和16年=1941)に光太郎が序文を書いてやった女流詩人が「藤井照子」ですが、同姓同名の全くの別人です。ところが筑摩書房『高村光太郎全集』(増補版)別巻の人名索引では二人の「藤井照子」が混同されています。

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そこで、「高村光太郎先生「乙女の像」のモデル」という章が設けられています。ただ、章のタイトルとは裏腹に、その内容は1ページだけでした。残りの部分は別件です。

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これだけの文章ですが、詳しい経歴等不明だった藤井照子に関し、いろいろとわかりました。三姉妹でモデル業を務めていたというのは存じませんでしたし、妹さんが荻窪で喫茶店、というのももちろん初耳でした。

ただ、ここにも詳細は語られていないのですが、結婚後の照子自身についてはやはり不明です。北海道に旅して相手を見つけたとありますが、道内に嫁いだのか、相手も旅行者で、道外の人だったのかなど。数年前、十和田市で講演をさせていただいた折、参加者の方から「品川の方の青果店に嫁に行ったらしい」というお話を伺いましたが、それも真偽不明です。

照子、または姉妹、ご存命であればお会いしたいと思っているので、情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

ところで、上記文章、光太郎自身が浅尾氏の元を訪ねたように書かれていますが、日記等と付き合わせても、そうした記述が無く、浅尾氏の勘違いではないかと思われます。像の制作中に光太郎が倒れた場合、代わりの制作者として指名されていた彫刻家・菊地一雄の斡旋だったと聞いた記憶があります。当方、かつて故・北川太一先生のお宅で、光太郎遺品中の、照子のプロモーション用の写真(ヌードでした)を拝見したことがあります。

ただ、日記といえど、すべて真実が書かれているとは限りませんし、このあたりも調べようと思いつつ、後回しになっています。

さて、『昭和の若き芸術家たち』、絶版ですがAmazonさん等では入手できます。是非お買い求めを。ちなみに当方、昨年拝見した演劇「岸井戯曲を上演するinTokyo#1「かり」」に出演されていた辻村優子さんという方にこの書籍を教えていただき、購入した次第です。


【折々のことば・光太郎】

人体豊麗  短句揮毫  昭和25年(1950) 光太郎68歳

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この色紙が書かれた2年後に「乙女の像」制作を始めますが、19歳のみずみずしい肉体を前に、やはり「人体豊麗」の感を抱いたことでしょう。

最近手に入れたものシリーズです。

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昭和26年(1951)10月30日、花巻から送られた葉書で、『高村光太郎全集』に漏れていたものです。例によって味わい深い筆跡です。

同便速達第四種で原稿お送りします、
一日で書けるものでありながらその一日が中々得られない次第で遅れました。
        十月卅日


宛先は、「平凡社編集部 関博」。

当日の日記です。

 十月三十日 火
くもり、晴れてくる、 花巻行、 十二時の電車でゆく、平凡社へ電報、郵便局でいろいろ発送、しんばしでうな丼、三時半の電車でかへる、(略)

原稿」とあるのは、この年11月30日発行の『世界美術全集 第25巻 日本Ⅳ』のためのものです。そちらは20年ほど前に現物を手に入れました。

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この中で、光太郎は図版の解説文を4本執筆しています。

まず、長沼守敬の「老夫」(明治33年=1900)。

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続いて、父・光雲の「老猿」(明治26年=1893)。

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親友、荻原守衛の「銀盤(柳敬助像)」(明治43年=1910)。

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同じく、「北條虎吉肖像」(明治42年=1909)。

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『世界美術全集』への同様の寄稿は前年から始まっており、他の巻ではロダン、ミケランジェロ、江戸期の彫刻、エジプト彫刻について執筆しています。

「物書きあるある」として、当方もそうなのですが、自分で書きたくて勝手に書く原稿は、思い立ったらすぐに書くことが多く、それに対し、依頼されて書くものは手を付けるまでに意外と時間を要します。書き始めてさえしまえばけっこう早く書き上がるのですが、書き始めるまでが長いのです。あるいは逆に、そうなることが分かっているので、頼まれたら即書いてしまうとか。物書き全員がそうだというわけではないのでしょうが。

まぁ、この年の光太郎は結核性の肋間神経痛がひどく、ペンを持つのも苦痛で、農作業は思い切って放棄した状態だったので、当方のような単なる怠惰とは違うとも思いますが(笑)。

光太郎、この原稿を送り、電報を打ち、さらに当方が入手した葉書(日記に「いろいろ発送」とあるうちの一つということですね)も送ったわけで、念入りです。

日記に出て来る「しんばし」は、花巻市役所近くに今も健在の食堂です。建物は建て替わっているようです。

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電車」は廃線となった花巻電鉄です。

当方、美術系古書専門店さんの目録から註文し、入手しましたが、他店の目録にも同じ関博宛の葉書(これも『高村光太郎全集』未収録)が出ました。そちらも註文したのですが、抽選に負けたようで、駄目でした。また、1月には『日本古書通信』さん巻末に載っている古書店さんの新入荷品目録に、誰宛か、いつのものかは不明でしたが、やはり「高村光太郎葉書」。これが破格の値段でたったの5,000円。「一桁間違ったんじゃないのか」と思いつつ註文しましたが、こちらも抽選に負けました。

当方、基本的に『高村光太郎全集』未収録のもののみ購入しています。それらを集成して「光太郎遺珠」として世に出しているわけです(5,000円の葉書はもしかすると既知のものだったかも知れませんが、「5,000円ならそれでもいいや」と思って註文しました)。

比較的長命だった上に、筆まめだった光太郎。上記葉書は『高村光太郎全集』からの通しナンバーで3,457通目です(諸般の事情により、通しナンバー外のものが49通ありますが)。しかし、まだまだ書簡類は各地に眠っていることと思われます。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

   ひかりをつつむ  短句揮毫  戦後期?

書簡類と同じように、こうした短句を揮毫した色紙類なども、ぽつりぽつりと市場に出て来たり、「こういうものを持っている」という情報のご提供を受けたりします。既知の詩や散文などの一節を抜き書きしたものでない、オリジナルのものであれば(その見極めが難しいのですが、これについてはまた改めて書きます)、これも「光太郎遺珠」収録対象です。こちらも情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

昨秋、八重洲ブックセンターさんで手に入れた書籍です。最新刊、というわけではないのでご紹介していませんでした。 

平成28年(2016)4月1日 荒井とみよ著 編集工房ノア刊 定価2,200円+税

敗戦の中でことばはどのように立ち上がったか。与謝野晶子、高村光太郎、三好達治、横光利一、臼井吉見、高見順、宮本百合子の戦争敗戦の文学について考察する。同人誌『水路』掲載を書籍化。

目次
 「歌は歌に候」――与謝野晶子
 後日ノート――晶子の手紙
 「わが詩をよみて人死に就けり」――高村光太郎
 後日ノート――『智恵子抄』をめぐる物語
 「なつかしい日本」――三好達治
 「夜汽車が木枯の中を」――横光利一『夜の靴』
 「常念岳を見よ」――臼井吉見『安曇野』
 「私の日記は腐ってもいい」――高見順『敗戦日記』
 「歴史はその巨大なページを音なくめくった」――宮本百合子『播州平野』
 後日ノート――百合子の手紙
 あとがき


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4年前の刊行で、光太郎について2章も割いている書籍に気づかなかったというのも情けない話ですが、言い訳させていただけるなら、版元の編集工房ノアさん、大阪で「社主の涸沢純平さんが奥様とお二人でやっているミニ出版社。関西で活動を行っている作家、詩人にとって方舟のような存在。活動を開始して35年を超えるが、いまだに家内制出版を守る。」(はてなキーワードより)だそうで、自前のHPもなく、大がかりな宣伝もしていないようでして……。

閑話休題。著者の荒井とみよさんという方、昭和14年(1939)のお生まれで、元大谷大学さんの教授だそうです。そういうわけで、本書は分類すれば評論なのでしょうが、一般的な評論というより、エッセイの要素も強い感じがしました。タイトルが示す通り、文学者たち(「詩人」というのは広義の意味ですね)が、どのように戦争に向き合ってきたかというところに主眼が置かれなかなか鋭い着眼も随所に見られます。

光太郎に関しては、『智恵子抄』所収の詩篇と、大量に書き殴られた愚にもつかない翼賛詩が平行して書かれていた矛盾、そして戦後になってそれをどう総括したのか、的な進め方です。戦時中に関しては、柿本人麻呂になぞらえていらっしゃり、「なるほど」と思わせられました。戦後に関しては、書簡や日記、さらに花巻病院長・佐藤隆房による『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)に紹介されたエピソードなどをひきつつ、考察されています。

章題に使われている「わが詩をよみて人死に就けり」は、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれ、自らボツにした作品。光太郎の戦争観を考える上で、多くの論者が参考にしているものです。

   わが詩をよみて人死に就けり1009

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


以前にも書きましたが、「必死の時」は、昭和15年(1940)の詩。


    必死の時

 必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、002
 その時こころ洋洋としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。
 
 人は死をいそがねど
 死は前方から迫る。
 死を滅すの道ただ必死あるのみ。
 必死は絶体絶命にして
 そこに生死を絶つ。
 必死は狡知の醜をふみにじつて
 素朴にして当然なる大道をひらく。
 天体は必死の理によって分秒をたがえず、
 窓前の茶の花は葉かげに白く、
 卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
 天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
 安きを偸むものにまどひあり、
 死を免れんとするものに虚勢あり。
 一切を必死に委(ゐ)するもの、
 一切を現有に於て見ざるもの、
 一歩は一歩をすてて003
 つひに無窮にいたるもの、
 かくの如きもの大なり。
 生れて必死の世にあふはよきかな、
 人その鍛錬によつて死に勝ち、
 人その極限の日常によつてまことに生く。
 未練を捨てよ、
 おもはくを恥ぢよ、
 皮肉と駄々をやめよ。
 そはすべて閑日月なり。
 われら現実の歴史に呼吸するもの、
 今必死のときにあひて、
 生死の区区たる我慾に生きんや。
 心空しきもの満ち、
 思い専らなるもの精緻なり。
 必死の境に美はあまねく、
 烈々として芳しきもの、
 しずもりて光をたたふるもの
 その境にただよふ。
 
 ああ必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、
 その時こころ洋々としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。



昭和15年(1940)といえば、太平洋戦争はまだ始まっていません。そこで、「わが詩をよみて人死に就けり」で、爆弾が落ちる中、この「必死の時」を書いたというのはおかしいじゃないかと、エラいセンセイが指摘しています。「光太郎はこの詩を自分でいつ作ったのか忘れている、けしからん」と。こういうのを浅い読み方、といいます。光太郎は「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」と書いていますが「「必死の時」を必死になつて私は作つた。」とは書いていません。

詩の右に載せた画像は、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、政治学者・富田容甫に宛てた昭和18年(1943)の書簡ですが、「必死の時」の一節が書かれています。「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」は、こういうことを指しているのだと考えれば、何らの不思議もありません。

残念ながら、荒井とみよさんも「自分史として正確でない」としているのは、この点だと思われます。また、他にも事実に反する記述(残っている光太郎日記は昭和21年(1946)以降、としていますが、昭和20年(1945)のもの、さらに言うなら断片的には明治期のものも残っています)があったり、ある市民講座での参加者の頓珍漢な発言(智恵子が入院していたゼームス坂病院で格子が嵌められた部屋に閉じこめた的な)を訂正せず(ゼームス坂病院は当時としては画期的な開放病棟が採用されていました)に引用したりと、いろいろ問題があるのですが、そういう点を差し引いても、なかなかの好著だとは思いました。

光太郎以外の章、与謝野晶子はじめ、取り上げられている人物すべて、光太郎と交流のあった面々ですので、興味深く拝読しました。臼井吉見(光太郎の『暗愚小伝』掲載時の筑摩書房『展望』編集者)の章では、光太郎に触れられています。

Amazonさん等で、入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

不可避の道  短句揮毫 戦後期  光太郎70歳頃

いろいろ見方はあるかと存じますが、光太郎にとって、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活は、「不可避の道」だったように思われます。

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繰り返し書きますが、新型コロナの影響で、各種イベント等がほとんど行われなくなり、このブログのネタにも困っています。

新着情報系がない時は、最近入手したもののご紹介。少し前に同様の趣旨で「ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。」という記事を書きましたところ、意外と反響が大きくて驚きました。

今回は「新発見」というものではないのですが、ちょっと珍しいと思われるものが手に入ったので、そちらをご紹介します。光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻の昭和30年代はじめと思われる絵葉書セットです。

まずはカバー。二つ折りの状態のものを開いてスキャンしました。画像をクリックしていただくと拡大します。

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花巻市さん、花巻市観光協会さんが発行元ということになっています。裏表紙的な方には、アバウトな地図。2系統あって、ともに昭和40年代に廃線となった花巻電鉄(細い弧線)がここでは健在です。右上には光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建てられた十和田湖も。このあたりは縮尺を無視しています。

カバーの裏には手書きの文字で「33.9」とあります。おそらく最初に購入した方が、昭和33年(1958)9月にゲットした、という意味でしょう。その日の体温だとしたら低すぎます(つまりませんね(笑)、すみません)。

中身は8枚入っていました。やはり昭和30年代はじめと思われる写真でした。なぜわかるかというと、こちら。

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昭和20年(1945)から7年間、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)です。中央が元々の小屋(鉱山の飯場小屋を移築したもの)、左の白い建物は昭和26年(1951)、オリジナル『智恵子抄』の版元、龍星閣の肝煎りで増築された二間×三間の別棟、右の方は便所と風呂場です。

光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)には、中央の元の小屋を保存するための套屋(カバーの建物)がかけられ、左の新小屋は50㍍ほど移築されています。しかし写真はそれが行われる前のもの。それから、カバーには先述の通り「花巻市」とあり、花巻に市政が施行されたのが昭和29年(1954)ですから、おそらく昭和30年(1955)前後の撮影でしょう。

右は光太郎の山小屋と同じく旧太田村の音羽山清水寺さん。光太郎も何度か足を運んでいます。

花巻といえば、宮沢賢治。

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昭和11年(1936)建立の、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」碑も取り上げられています。イギリス海岸は2枚にわたって。

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もう一つ、花巻といえば、温泉。有名な温泉5カ所が採用されています。

豊沢川沿いに点在する花巻南温泉峡の一番奥、鉛温泉藤三旅館さん。

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光太郎が泊まった当時の建物で、令和となっても健在です。

光太郎がもっとも多く逗留したと思われる、大沢温泉さん。

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左は「菊水館」となっていますが、本来の菊水館さんは写真左の方、江戸時代竣工の茶色い茅葺きの部分です。赤い屋根の方の建物は、位置関係からして現存しないのではないかと思われます。菊水館さん、一昨年の台風で道路の法面が崩れ、車が通行できないため宿泊棟としては休業し、「昔ギャラリー茅」として活用されています。ここにも光太郎が宿泊しています。

右は山水閣さん。現在は建て替えられて近代的な建物になっていますが、光太郎が居た頃はちょっと高級な温泉旅館的な棟でした。光太郎がよく泊まった部屋が「牡丹の間」という名で再現されています。

続いて、志戸平温泉さん。

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光太郎、ここにも泊まっています。ただ、残念ながら当時の建物は残っていません。おそらく画像は光太郎が泊まった頃の建物なのでしょう。

南温泉峡から一山越えた花巻温泉さん。

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こちらは建物がメインではなく、庭園を前面に押し出しています。松雲閣は、やはり光太郎の定宿の一つ。現在は旅館としては廃業しましたが、建物は健在で、一昨年、国の有形文化財に登録されました。

最後に台温泉さん。南温泉峡とは異なり、小さな温泉旅館がたくさん。その中の松田屋旅館さんに光太郎の足跡が残っています。絵葉書には松田屋さんは写っていないように思われますが、すぐ近くでしょう。

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以上8枚のセットでした。元の購入者の方が、他の何枚かを使ったりしていなければ、これで全部です。

この手の古絵葉書、かえって戦前のものなどの方が、その古さ故の資料的価値などから、市場に多く出回っています。このような昭和30年代位のものだと、中途半端に古い、的な感じなのでしょう、あまり見かけません。ただ、当方としては、光太郎が居た頃とそう離れていない時期のものなので、ありがたいのです。

ところで、気になって各温泉宿のHPを見てみました。案の定、何軒かは新型コロナの影響で休業中のようです。岩手県では感染者ゼロが続いていますが、やはり気をつけるに超したことはありませんね。

昨日のこのブログでは、「世界がもとに戻ったらしたいこと」ということで、「図書館系に行って調べものをしたい」と書きましたが、やはり「温泉に行きたい」も挙げねばなりません(笑)。大手を振って温泉に行ける碑が戻ってくることを念じつつ……。


【折々のことば・光太郎】

秋水かげふかし  短句揮毫  戦後期  光太郎70歳頃

おそらく花巻郊外旧太田村に蟄居していた頃の揮毫です。

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イラストレーター・ただまひろさんのツイート「『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』」が話題になっています。

Yahoo!さんのニュースサイトから。 

飲み会に部活?『世界がもとに戻ったらしたいこと』ツイートに反響、自粛の我慢を希望へ変換

『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』と題した漫画のツイートが、大きな話題となったイラストレーター・ただまひろさん(@mappy_pipipi)。同ツイートは31.1万のいいねを集めたほか、「コロナが終息したら、みんなは何したい?」という問いかけに応えたユーザーから、多くの「したいこと」が寄せられ、1000件以上のコメントが付いた。この漫画に込めた思い、自粛生活を送るユーザーへのメッセージを聞いた。

■31.1万の“いいね”集めた漫画、大反響の裏に「みんなの我慢」

――『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』をツイートしようと考えたきっかけは?

【ただまひろさん】私にできることは、「自粛しよう」と注意喚起するよりも、漫画を読んでくれた方にこの先の楽しいことを想像してもらい、それを実現するために今がんばろうと感じてもらうことだと思い、公開しました。

――漫画の中には11個の「したいこと」が描かれていますが、どんなことを意識して制作したんですか?

【ただまひろさん】「したいこと」はもっといっぱいあると思いますが、自分がしたいことや、周りの人がしたいと言ってることを選びました。またイラストについても、読者の方が自分に当てはめて読めるように、一つのキャラクターを使うのではなく、いろんな人を描きました。

――“いいね”はもちろん、多くの人が自分のしたいことを書いてリプライしています。

【ただまひろさん】想像以上のたくさんの「したいこと」があって、今みんなが我慢してるんだと改めて感じました。みんなのしたいことを絶対できるようにするために、今一人一人ががんばらないといけないと思います。

――ただまひろさんは、イラストレーターのほかにクレープ屋でも働かれているとか。やはり、コロナの影響を感じますか?

【ただまひろさん】そうですね。今何も影響がないという人はいないと思います。いつまで続くのかわからない状態でストレスが溜まりますが、誰かのせいにはしたくないなと思っています。

■バイト先のクレープ屋にもコロナの影響、「誰かのせいにはしたくない」
――今回にしても、クレープ屋のお客さんを描いた漫画にしても、絵や言葉にとても温かみがありますね。描く際に心がけていることは何でしょうか?

【ただまひろさん】ありがとうございます。ちょっと笑えてホッとするものを目指してるので嬉しいです。一人一人思うことは似ていたとしても、まったく同じわけではありません。自分は良かれと思って描いたとしても、誰かを傷つけてしまうかもしれない。そういうことがなるべく無いように心がけています。

――多くの反響がありましたが、SNSで作品を発信することの良い点、また大変だと思うことはありますか?

【ただまひろさん】良い点は、実際に会ったことがない人にも作品を見てもらえたり、自分では想像できなかった考えを知れる点です。誰でも見られて何でも言えるのが良いところですが、それが大変な面でもあると思います。

■嘆いてもどうしようもない、「家でどう楽しく過ごすか考えることにシフトチェンジ」

――『世界がもとに戻ったらしたいことまとめ』の最後には「したいことを楽しみに過ごそう!」とありますが、まさにゴールデンウイークも自粛生活となっています。ユーザーへ何か伝えたいことは?

【ただまひろさん】私も、旅行や帰省など色々と計画を立てていました。もう近場にも行けない状態ですので、家でお菓子作って食べて筋トレしての繰り返し...の予定です。どこにも行けないのを嘆いていてもどうしようもないので、今は家でどう楽しく過ごすか考えることにシフトチェンジするほうがいいと思います。

――ちなみに、ただまひろさんの一番したいことは?

【ただまひろさん】まずは帰省して両親や祖父母に会いたいです。あとは友だちと集まって、ごはんや飲み会をパーッとやりたいです!

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したいことを楽しみに過ごそう!」というポジティブな考え方がいいですね!

当方も、「① 集まって、飲み会したい」、「③ お祭りに行く」、「④スーパー銭湯とサウナに行きたい」、「⑥ 旅行する」、「⑪ 普通の生活を送りたい」あたりはまさに当てはまります。

それ以外に是非やりたいこと、というか、今、やれなくて困っていることなのですが「図書館系で調べものをしたい」と思っています。

少し前に、このブログで紹介すべきネタが不足している、と嘆いたところ、メールで情報提供があったり、ネットでいろいろ調べている中で網にかかった情報があったりしています。で、その情報について詳しく調べたり、ご教示いただいた資料を閲覧したりしたいのですが、主要な図書館系はどこも休館中……。困っています。

例えば、当方と同じ千葉県ご在住で、連翹忌にもよくご参加いただいている方から、ご自宅近くだという千葉県文書館さんの情報をご提供いただきました。こちらは「県の行政文書や古文書などの資料を収集保存し、その活用を図るとともに、県の行政に関する情報を提供する施設」だそうですが、こちらにローカルテレビ局・チバテレさん制作の「房総プロムナード」という番組がDVDで保存されていて、視聴できるというのです。

同番組、現在は制作は終了しているようですが、'90年代末、'00年代くらいのものは、時折、再放送されています。ご教示いただいたのは、それより古いもので、2本。まず、昭和52年(1977)制作の「文学散歩 九十九里の浜」。こちらに当時存命だった智恵子の妹・斎藤セツが出演しているというのです。セツは昭和4年(1929)の智恵子実家・長沼家の破産後、あちこち転々としたのち、九十九里に夫や子ども、そして母・センと共に落ちつき、昭和9年(1934)には、半年余り、心を病んだ智恵子を引き取っていました。その智恵子の思い出を語っているということで、これはぜひ見てみたいと思っております。写真はいくつかの資料に載っているのですが、動画となると、見たことがありません。ちなみに下記は昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)のパンフレットから。

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また、平成2年(1990)制作の「文学散歩 ~九十九里町~」。こちらには、智恵子が療養していた斎藤家(田村別荘)が紹介されているとのこと。やはり「智恵子抄」の故地、という扱いです。この建物は移築・保存されていたのですが、平成11年(1999)、感情的な行き違いが元で、突如、取り壊されてしまって今は見ることが出来ません。


それから、他の方からの情報提供で、どうも『高村光太郎全集』未収録の短歌が載っているらしい雑誌についても教えていただきましたし、先述の通りネットでいろいろ調べている中で網にかかった情報もあります。

そうした場合、平時であれば国会図書館さん、日本近代文学館さん、神奈川近代文学館さんなどに出向いて調べるのですが、三館とも休館中です。

昨日の政府見解では「図書館や公園の再開は容認」ということですが、個々の館の対応等まだ不透明ですし、たとえ再開しても、そこまで行くためには公共交通機関を利用しなければならず、結局はまだ当分無理でしょう。国会図書館さんのデジタルデータは、自宅兼事務所のPCで見られるものもありますが、当方が必要とする情報はほぼ「国立国会図書館内限定」か「図書館送信資料」。後者であれば隣町の成田市立図書館さんで見られますが、こちらも休館中(GW中、臨時に開館という話でしたが、PCの置いてあるフロアは閉鎖)……。

まったく、困っています。

それから、自分で自分に腹が立っていることが一つ。

当会として年2回発行しております『光太郎資料』、次号(智恵子命日の10月5日発行予定)の執筆にかかっているのですが、そのために必要な資料(光太郎と交流のあった詩人・風間光作執筆の回想)が見あたらなくなってしまっています。読んだ記憶が確かにあるので、書庫の蔵書のどこかに転載されているはずなのですが、いったいどの本に載っていたのか、忘れてしまいました。

言い訳させていただければ、書庫はこういう状況でして……。

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4畳半の部屋ですが、三方が作り付けの書棚(20年ほど前、現在の自宅兼事務所を新築した際に造ってもらいました)、それ以外にも通常の本棚を置いてあります。書棚は天井が吹き抜けですのでやけに高く、9段、天板の上まで使っているので10段です。蔵書がどれだけ冊数があるのか、数えるのは早々にやめてしまいました(笑)。書物以外に、上記の図書館さん系で取ってきたコピーなども多数。何処に何が書いてあるかほぼ頭に入っているのですが、どうしても今探している文章が見つかりません。

元は戦時中の雑誌に載っていたことが分かっていますので、やはり平時であれば、国会図書館さん等に出向いてすぐコピーが取れますが、いかんせん、主要な図書館さん系はこぞって休館中……。まいっています。

そんなわけで、「世界がもとに戻ったらしたいこと」、当方は、まず「図書館系で調べものをしたい」です。やっぱり、変わり者なのでしょうかね(笑)。

さて、皆さんの「世界がもとに戻ったらしたいこと」は何でしょうか? そして、ただまひろさんのツイートにある通り、「「したいことを楽しみに過ごそう!」ですね。


【折々のことば・光太郎】

美しきものをおさむ   短句揮毫  昭和24年(1949) 光太郎67歳

東北大学総長を務めた結核学者・熊谷岱蔵の描いた画帖を収める箱のための箱書きとして揮毫しました。

上記当方書庫、6:4、いや、7:3くらいで古書の方が多いと思います。中には100年以上前のものも。となるとかなりボロボロだったりもしますが、そこに描かれている内容は、光太郎の詩文をはじめこれもまた、まごうかたなき「美」です。

秋田県北部で発行されている地方紙『北鹿新聞』さん、昨日の記事です。 

コロナ影響 観光地は異例の光景 大型連休の後半スタート 十和田湖は外出自粛で人影なく

 大型連休後半の5連休初日となった2日、例年多くの観光客でにぎわいを見せる国立公園十和田湖は、新型コロナウイルス感染拡大の影響で人影はほとんどなく閑散とし、国内有数の観光地に異例の光景が広がっていた。
 十和田湖は4月11日の湖水開きで本格的な春の観光シーズンが幕開けとなるはずだったが、新型コロナの流行が懸念されることから遊覧船の運航開始が延期に。その後も当面の間、運休となっている。
 湖畔の観光・宿泊施設や飲食店、土産店なども軒並み休業。通行する車両も少なく、例年とは違った様子となっている。
 毎年多くの観光客が訪れる「乙女の像」周辺では2日の午前中、散歩する地元住民や十和田神社参詣者らが数人見られたが、観光客の姿はほとんど見られなかった。
 小坂町にある人気スポット、発荷峠展望台の第1、第2駐車場は人の出入りを抑止するため当面は閉鎖。県はバリケードに設置した看板に「観光地など多くの人が集まる場所への訪問は自粛してくださるようご協力をお願いします」と記し、新型コロナ感染症対策への理解を求めている。
 仕事の関係で十和田湖を訪れた鹿角市十和田大湯の60代男性は「観光客がいなくなった十和田湖はこの先どうなるんだろうと思う。特に外国人観光客がいつ戻るのかめどが立たず、厳しい状況が続くのでは」と不安げに話した。
 感染の拡大防止のため、外出や営業自粛などを求める緊急事態宣言は全国で6日まで発令。安倍晋三首相は1日、全国を対象に期間をさらに1カ月程度延長する方針を示している。


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キャプションにあるとおり、左は先週土曜日、右は平成27年(2015)のGWの写真。同じ時期の同じ場所とは思えませんね……。そういえば、当方も一昨年のGWに十和田湖や秋田の小坂町に行ったことを思い出しました。

そしてもう一つ思い出したのが、THE虎舞竜さんの「ロード」の一節、「〽何でもないようなことが 幸せだったと思う」……。しかし、「ロード」では、その後、「〽二度とは戻れない夜」と続きますが、今のこの状況は「二度とは戻れない」わけではないと思いますので、戻れる日が来ることを祈りつつ、日々を過ごしたいと存じます。

皆様もどうかご自愛下さいませ。


【折々のことば・光太郎】

踊は人をあつめ 人をむすぶ  

短句揮毫 昭和27年(1952) 光太郎70歳

この年11月5日、光太郎は、当会の祖・草野心平が詩を書き、それを元に舞踊家の藤間勘紫乃が振り付けた「四つの仮面の為のチュード」を含む「藤間勘紫乃舞踊発表会」を、貸しアトリエの大家だった中西夫人と共に、帝国劇場に観に行きました。

舞台デザイナーだった石井荘男に乞われ、プログラムに即興詩「四つの仮面は」と、この短句をしたためたということです。

新型コロナの影響で、各種公演等も軒並み自粛、芸能関係の皆さんも大変な思いをされていることと存じます。しかし、「明けない夜はない」と言うように、再び「人をあつめ 人をむすぶ」日の来ることを信じましょう。

このブログで時折取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」。東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町にあった光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けているものです。

計画では全21基を、町内の海岸にくまなく設置するということですが、18基目が今年の3月に完成披露、さらに国土地理院さんが制定した「自然災害伝承碑」にも登録されました。

女川町の『広報おながわ』、先月号。うっかりネットで見るのを失念していまして、つい先日、気がつきましたが、18基目の設置について取り上げられています。

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表紙は、やはり東日本大震災がらみで、津波で横倒しになった旧女川交番。こちらは今年、震災遺構として整備が完了しました。

それから、ラジオ番組で「いのちの石碑」が取り上げられますので、紹介いたします。 

復興支援PROGRAM Hand in Hand 1000年後の命を守るために。今年21の浜に完成「女川いのちの石碑」

TOKYO FM 2020年5月9日(土)  8:00~8:25無題2
FM大阪    5月9日(土)  21:30~21:55
FM AICHI   5月14日(木) 20:00~20:25
FM福岡    5月9日(土) 9:30~9:55
AIR-G (北海道) 5月10日(日) 21:30~21:55
DATEFM(仙台) 5月10日(日) 9:30~9:55
ふくしまFM   5月10日(日) 9:30~9:55
広島FM     5月10日(日) 8:00~8:25


2011年3月11日に発生した「東日本大震災」は、巨大な津波によって1万8000人を超える死者・行方不明者を出し、さらには福島第一原発の爆発事故を招き、今なお約5万2千人に及ぶ方が避難生活を余儀なくされています。
そして2015年、鬼怒川を決壊させた「関東・東北豪雨」、2016年「熊本地震」、2017年「九州北部豪雨」、2018年 「西日本豪雨」、そして「北海道胆振東部地震」と、もはや災害列島と言っていいほど、日本では毎年のように 自然災害が発生し、多くの被害をもたらしています。
しかしながら2018年の西日本豪雨を例に取れば、そのとき避難勧告、避難指示が出ているにもかかわらず、
実際 に避難行動をとった人は、わずか1%台にとどまりました。
これほど災害が頻発しているにもかかわらず、どれほどの人が自分の住む地域の災害リスクを認知し、
いざという時に取るべき行動を理解しているのでしょうか。
そして災害が起こった地域では、懸命の復旧、復興への歩みが始まりますが、傷ついた地域からは子育て世帯が減り、過疎と高齢化が加速する・・・、これもまた、被災地の抱える大きな問題となっています。
災害から得た教訓を自分のこととして共有し、そして復興、地域の再生へ励む人たちを応援する・・・、それこそがこのプログラム、「Hand in Hand」が中心に据える想いです。


それから、終わってから気づいたのですが、やはりTOKYO FMさんを中心に、FM AICHIさん、広島FMさん、そしてエフエム青森さんでは、3月まで、同じような趣旨の番組「LOVE&HOPE ヒューマンケアプロジェクト」という番組を放送していました。で、TOKYO FMさんで3月6日(金)にオンエアされた回が、やはり「いのちの石碑」関連でした。 

女川いのちの石碑 18基目の石碑が完成

宮城県女川町「女川いのちの石碑」。震災当時、女004川第一中学校の1年生が町内にある21の全ての浜に、津波到達地点より高い場所に石碑をたてて、避難の大切さを伝えようという取り組み。先日18基目の石碑が完成し、その披露式が行われました。
プロジェクトメンバーの阿部由季さんと、女川中時代の担任教師・阿部一彦先生に話を聞きました。

◆「1000年後の命を守るため」
(阿部由季さん)宮城県女川町大石原浜に18基の石碑が立ちました。最後の21基目の石碑が女川小中一貫校に11月22日に立つ予定です。まず1000万円集まったということがすごすぎて、周りの方々005が支援していただいたおかげ。この石碑が3月11日のことを思い出すきっかけにもなると思うし、地域の方々はもちろん、小中学生も目にすると思うので、まだ生まれていなかった子もいると思うので、これを見て「あ、地震が来たら逃げなきゃいけないんだ!」と思う人もいると思います。「1000年後の命を守る」というのは遠い話だけど、わたしたちも自分の子どもや孫に語り継いでいって、同じ思いをしないでほしいと思っているので、これが少しでも役にたてたらいいなと思います。

◆「21基立てて、そこからがスタート」
(阿部一彦先生)子どもたちが先日言っていたことは。「21006基立てて終わりと思っている人もいるが、わたしたちにとっては違う。21基を立てて、そこからがスタートなんです」と。本当にそうおもっているんだろうなあということをひしひしと感じる9年目。この子たちはたぶん死ぬまで活動を続けるんだろうな、おじいちゃん、おばあちゃんの姿を見て、次の子どもたちも活動を続けるんだと思う。

「1000年後の命を守る」というのが、子どもたちの旗印です。これまで建立した石碑のうち15基がすでに「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図に掲載されています。

またこの石碑を案内する「語り部」の活動もしています。毎月第3日曜日、10時に女川駅前集合とのことです。


当方、ラジオはあまり聴かないので存じませんでしたが、こうした硬派の番組を、しかも民放さんで制作しているのですね。

「復興支援PROGRAM Hand in Hand」、聴取可能な地域の方はぜひお聴き下さい。


【折々のことば・光太郎】

美かぎりなし  短句揮毫  戦後期?

彫刻や絵画など造型芸術の「美」、詩歌などの言葉としての「美」、それらを融合させた「書」の「美」、そして人の心が包含する「美」もイメージしていたのではないでしょうか。

新型コロナの影響で、イベントの中止や延期が相次いでおりますが、「高村智恵子 生誕祭」、とりあえず二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』今月号に予告が出ています。 

高村智恵子 生誕祭

智恵子が生まれ育ち、愛した生家。中庭の庭園を眺めながら、切り絵(紙絵)体験ができます。智恵子の世界を身近に感じてみませんか。

上川崎和紙で作ろう智恵子の紙絵 
智恵子の紙絵をモチーフとした切り絵から、上川崎和紙を使用したハガキ・しおり作成ができます。   
開催日時 5月16日(土) 17日(日) 23日(土) 24日(日) 30日(土) 31日(日)
     9:00~16:00(生家・記念館の開館時間内)
場 所 智恵子の生家「奥座敷」
内 容 智恵子の紙絵をモチーフとした切り絵・上川崎和紙を使用したハガキ・しおりの制作
     ※所要時間は10~20分程度
     ※料金は入館料に含まれます。

智恵子作「紙絵」実物展示公開
奇跡といわれる実物の紙絵をぜひご覧ください。
展示期間 5月26日(火)まで

展示場所 智恵子記念館

◎ 問い合わせ…智恵子記念館    ☎(22)6151 Fax(22)6151
            文化課文化振興係 ☎(55)5154 Fax(23)1326



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例年ですと、4月からの智恵子の生家二階部分の公開も、「高村智恵子 生誕祭」の一環としての実施でしたが、今年はやはり新型コロナの影響で、様子を見ながら小出しにしているという感じでしょうか。上記紙絵体験も、場合によっては中止ということも考えられます。

中止といえば、同じ『広報にほんまつ』には、安達太良山の山開き、山頂でのイベントが中止という記事も出ていました。

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ただ、例年山頂で行っている登山002者の安全を祈願する安全祈願祭は、奥岳登山口で10時から関係者のみで行うと、二本松観光連盟さんのサイトにありました。それから、これも例年楽しみにしている方が多い、ペナントの配付に関しては、「山開き当日以降、各登山口で随時配布予定です。(状況により変更となる場合あり)」だそうです。

日本山岳・スポーツクライミング協会や日本勤労者山岳連盟など山岳関係の4団体が、「事態の収束まで山岳スポーツ行為を厳に自粛してほしい」と呼び掛ける声明を、先月下旬に発表したことを受けての措置でしょう。

美しいポスター、フライヤーまで完成していて、誠に残念ですが、仕方ありませんね。

ちなみに昨年の様子はこちら

コロナ騒ぎの終息が少しでも早く訪れることを、本当に心待ちにしております。


【折々のことば・光太郎】

美に生く   短句揮毫   戦後期?

彫刻や絵画による造型の美、主に詩による言葉の美、そしてその二つの美を融合させた「書」と、生涯「美」を追い求め続けた光太郎ならではの一言ですね。

シニアズ』さんという、岩手の盛岡でシニア世代向けに発行されている情報誌があるそうです。基本、新聞折り込みで近郊に配付、さらに病院さんや銀行さんの待合席等にも置いているとのこと。

そちらの4月26日(日)号に、生前の光太郎をご存じで、花巻ご在住の浅沼隆さんの談話筆記が載りまして、花巻高村光太郎記念館さんから情報を頂きました。 

晩年を花巻で過ごした芸術の天才 高村光太郎の人柄

 明治~昭和を芸術とともに生き抜いた日本を代表する彫刻家・詩人、高村光太郎。その光太郎が昭和20年5月、東京空襲でアトリエを失った時に宮沢賢治の実家に招かれ、花巻市に疎開、その後太田村山口地区(現花巻市太田)の山荘で7年間農耕自炊の生活をしていました。現在もその山荘を保管し、隣接して高村光太郎記念館があります。
 幼少期に光太郎と出会い、現・花巻高村光太郎記念会理事も務められる浅沼隆さん(78)から光太郎にまつわるお話を伺いました。
 当時、小学生だった浅沼さんは校長であった父の頼みで光太郎の山荘まで郵便物や小包を運ぶのが日課になっていたと話します。温厚で誰にでも親切だったという光太郎は、自宅前の菜園で野菜を育てていたそうで「光太郎先生と一緒に野菜の収穫をしていた時、キャベツについていた青虫をはらうと「蝶々になるから殺すな」と怒られましたね。先生は当時では珍しかった西洋野菜も育てていて、先生からセロリをもらってかじったらとっても苦くて。吐き出せないから頑張って飲み込んだよ」と話されました。
 留学の経験もあった光太郎は、新鮮な野菜でシチューや牛鍋などハイカラな料理を作っていました。山荘での食卓風景を再現するイベント「ゆかりの盛岡・公会堂~高村光太郎の食卓」を今秋には開催を予定しています。
 ここを文化の発信地としようとした光太郎の意志は今も岩手の人々に受け継がれています。
(4月2日の「連翹忌(れんぎょうき)」、5月15日の「高村祭」はいずれも今年は中止)


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余談ですが、最後に書いてあるイベント、本来、今月の予定で、当方、講師を仰せつかっていましたが、秋に延期となりました。その頃にはコロナ騒ぎも終息していてほしいものです。

閑話休題。浅沼さん、以前から光太郎の語り部として、さまざまな機会でお話をなさっています。

平成25年(2013)の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」。

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平成28年(2016)、テレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」。

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一昨年の第61回高村祭。当方が進行役を務め、浅沼さん他4名の、生前の光太郎をご存じの方に思い出を語っていただきました。

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昨年は、地元の太田小学校さんでゲストティーチャーとして。

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花巻高村光太郎記念館さんで、かつて作ったリーフレット。同じく生前の光太郎をご存じの、高橋征一さんと浅沼さんの証言録です。

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当方など、どんなに偉そうにいろいろ語ったところで、生前の光太郎を存じません。そういう意味では、浅沼さんたちのように生前の光太郎と親しく接せられた皆さんを実にうらやましく感じますし、こういう皆さんの体験談をしっかり残していかねば、とも思います。

これからもお元気で、語り部としてご活躍いただきたいものです。

おまけ(その1)。浅沼さんのお父様、故・浅沼政規氏が校長先生で、浅沼さん、高橋さんが通い、光太郎がよく茶飲み話に訪れた、山口小学校の在りし日の姿です。

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おまけ(その2)。『シニアズ』さんの読者プレゼントに、花巻高村光太郎記念館さんが協力なさったそうで。「太っ腹だな」と思ったら、5名様限定でした(笑)。

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【折々のことば・光太郎】

美にして実 実にして潤    短句揮毫 戦後期 光太郎70歳頃

欅の板に書き付けられた揮毫、というか柿の実を描いた絵の画賛です。自画自賛ではなく、他の人物の画です。美しいうえに、食べることができて実用的、さらに食べたらその潤いもすばらしい、ということでしょう。

ちょうど浅沼さんが郵便物を届けていた頃のものです。

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