2019年11月

テレビ放映情報です。 昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した「高村光太郎文学碑」を建立、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。 

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 阿部一彦さん」

NHK総合 2019年12月5日(木)  10時50分~10時55分

宮城県女川町の中学校教師だった阿部一彦さんは、津波の悲劇を後世に伝え、100年後の命を守るために、生徒と協力しながら、津波が到達した地点に石碑を建て続けている。

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あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」は、東日本大震災をはじめ、各地で被災された方々の証言を紹介する5分間番組です。これまでに、やはり「いのちの石碑」建立に携わった勝又愛梨さん、「女川光太郎祭」の折に宿泊させていただいているトレーラーハウスホテルのエル・ファロさんを経営されている佐々木里子さんなども取り上げられてきました。

今回取り上げられる阿部一彦さんは、「いのちの石碑」を発案した震災当時の女川第一中学校生の担任だった方です。当ブログ、以下の記事でご紹介させていただいています。

高校生が未来を創る町 女川町 七つ目のいのちの石碑。
<卒業式>津波で祖母犠牲「成長見守って」/忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書。
中学生が被災地で震災の教訓学ぶ/女川の子どもたちのそばに居続けた阿部一彦先生。

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また、今年3月、NHK BSプレミアムさんで放映された、平祐奈さん主演のスペシャルドラマ「女川いのちの坂道」では、皆川猿時さんが阿部先生の役を演じられました。失礼ながら(「失礼ながら」というのが失礼かもしれませんが)、よく似ていらっしゃいます(笑)。

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「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」、ぜひご覧下さい。

その他、来週は、女川、十和田湖、花巻といった光太郎関連の地が紹介されるテレビ放映が相次ぎます。明日はそのあたりをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一見蕪雑に見える今日のただの言葉の中に脈々と伝はつてゐる日本古来の語法の美を発見し、その表現の性格を弁別し、正邪の乱れを格(ただ)し得る者にとつては、恐らく捨て置きがたい美の宝庫を其処に見るに違ひない。

散文「言葉の美しさ――日本の感覚――」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳


詩集『道程』(大正3年=1914)によってこの国の口語自由詩を確立し、空虚な美辞麗句の羅列に過ぎなかったあまたの文語定型詩を葬り去った光太郎ならではの言です。

ただし、その光太郎ですら、この直後には空虚なこけおどし的文言に充ちた文語の翼賛詩を乱発する愚にとらわれるのですが……。


昨日は都内に出ておりました。

先日の第64回高村光太郎研究会でご発表なさった書家の菊地雪渓氏が、大賞に当たる内閣総理大臣賞を受賞された「第41回東京書作展」を拝見のため、上野の東京都美術館さんに。

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受付で菊地氏から頂いた招待券を提出、会場内へ。

菊地氏もいらしていて、女性ファンに囲まれ、ウハウハでした(笑)。

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菊地氏、昨年の同展では光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)を書かれた作品で「特選」。今年は白居易(楽天)の漢詩で臨まれました。

以下、『東京新聞』さんに載った氏の談話。

令和元年東京書作展において、念願であった大賞を拝受し大変嬉しく思います。受賞作は、白居易の「題詩屏風絶句并序」です。本文は七言絶句ですが、先に百三十六文字からなる序文があります。両者の対比を考慮し、大小、太細、潤渇を駆使し、相互に濃淡が映える工夫をしました。制作直前に、白居易ゆかりの地、洛陽を訪れ、大きな感銘を受けた事は作品制作に於いて精神的な支えとなりました。この受賞を励みとし、普遍性を持った自身の書を追求し、書の文化とその魅力を後世に伝えて行くという使命を持って書に取り組んで行きたいと思っております。

菊地氏、白居易のあまり知られていない七言絶句を書かれたそうですが、ちなみに光太郎、白居易に関しては、明治36年(1903)の『明星』に寄せた「口あいて山の通草(あけび)の愚(ぐ)は避けねもとより居易(きよい)の下司を願はぬ」という短歌(今ひとつ意味不明なのですが)で取り上げた他、散文「芸術上の良知」(昭和15年=1940)でも触れています。曰く、

此の俳句を読んでこの閑寂の美を味ひ得るためには、われわれはこの俳句の背後に千百年の歳月の連綿たるものがある事にも気づかねばならぬ。この俳句が美である為には、そのうしろに宋因があり、西行があり、新古今集があり、更に方丈記があり、平家物語があり、紫式部があり、往生要集があり、水にすむかはずの古今集があり、又杜甫があり、白楽天があることを要する。

此の俳句」は松尾芭蕉の「古池や……」を指します。


さて、他の出品作も拝見。光太郎の詩を題材にした書もあるだろう、と思って見てまわりましたところ、果たしてありました。

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左から、「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(大正2年=1913)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)。この三作は光太郎詩の中でも、人口に膾炙しているものですね。

あまり有名でない、というかほとんど知られていない光太郎詩を取り上げて下さった方もいらっしゃいました。

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昭和2年(1927)の「平和時代」という詩です。なぜか1行目と最終行が書かれていないのですが。

ざっと見た限り、見落としがなければ上記4点で、近代詩文書では藤村などと並び、光太郎の詩がもっとも多かったのではないかという感じでした。

書家の皆様には、これからも光太郎詩を取り上げ続けていただきたいものです。


こちらに伺う前に、国立国会図書館さんにも行っておりました。例によって調べものです。光太郎と交流のあった岩手出身の画家について調べるのと、『高村光太郎全集』に洩れている光太郎文筆作品の調査。

国会図書館さん、その蔵書検索の機能やデジタル化など少しずつ進化していますし、古い時代の蔵書の数も増えているようです。

昨日は、昭和20年(1945)8月25日、盛岡の岩手県公会堂内の食堂で行われた「ものを聴く会」という催しで、光太郎が語った長い談話を見つけました。掲載紙は当時の『新岩手日報』です。

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終戦後すぐ、光太郎はほうぼうの友人等に、花巻郊外太田村に移住し農耕自炊の生活に入ることを知らせる書簡を送りました。その中で、彼の地を本阿弥光悦の鷹峯のような文化村にする、的な意図が語られており、研究者の方々は当時の光太郎の心境をよく表しているとして、それらの書簡群を引用されています。それと同様の発言がさらに詳しく為されている他、終戦の玉音放送に題を採った詩「一億の号泣」で、「鋼鉄の武器を失へる時/精神の威力おのづから強からんとす/真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」と記した真意なども語られており、非常に興味深い内容でした。

ただ、終戦直後の混乱期のため、印刷の事情などもよくなかったようで、活字がかすれていたり、逆に真っ黒につぶれていたりしていて判読が困難な箇所もあります。何とか翻字し、高村光太郎研究会から来春刊行予定の『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」でご紹介したいと思っております。

ちなみに短めの談話は他にも3点見つけました。戦時中の工場等の環境に関する件、昭和28年(1953)、日本芸術院会員推薦を拒否した件、そして同年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕後に、一時的に花巻郊外旧太田村へ帰った際のものです。『高村光太郎研究』が刊行されましたらまたご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

詩の世界では、表現が方法の位置を取らない。詩は直接に表現に拠り、表現そのものが詩に憑かれる。

散文「詩と表現」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

要するに、詩は心境の自然な発露、ということでしょうか。

四紙誌から、ご紹介します。

まず、『朝日新聞』さん。11月14日(木)、岩手版に載った記事が、1週遅れで11月21日(木)、夕刊の全国版にも掲載されました。見出しのみ、「高村光太郎のはがき寄贈 70年前に受け取る」だったのが「高村光太郎、ファンに宛てた感謝 当時中3の85歳、はがき寄贈 「死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります」」と変更されていますが、記事本体は同一でした。

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続いて、『しんぶん赤旗』さん。11月24日(日)の日曜版。智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』編集部を舞台とした、劇団・二兎社さんの公演「私たちは何も知らない」について、脚本家の永井愛さんへのインタビューが大きく載っています。

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長いので全文は引用しませんが、『青鞜』がらみの箇所のみ。

 平塚らいてうさんは70年安保でも運動の先頭に立たれていました。私には年配の偉い人という感じで、若い娘の時『青鞜』を旗揚げした人という実感がありませんでした。
 数年前、森まゆみさんの『「青鞜」の冒険』を読みました。森さん自身の雑誌づくりの経験をまじえながら、「青鞜」編集部の様子を書いていました。
 それを読んで、あの時代に女性だけで雑誌をつくることの大変さが、初めて現実的に感じられたんです。
 『青鞜』の提起した三大論争があります。貞操=結婚まで処女を守ること、堕胎=人工妊娠中絶、公娼=当時公認されていた売春制度―です。この三つはいずれも女性の体に関する自己決定権の議論だと、最近になって見直されるようになりました。
 女性の体は誰のものか。当時はまず親のもので、次いで夫のもの、あるいは兵士を産む国家のものでした。本当はそうではないと、『青鞜』が稚拙ながらも問題提起して、真面目に語り合ったのは画期的なことです。
(略)
 モデルにした人がみんなおかしいし、人間模様がすごいんです。作家が考えた話なら、普通もっとシンプルにします(笑い)。あの時代に若い女たちが、真剣に雑誌作りに取り組んだ日を描けば、その中にすべてがあると思います。
 いまでも出産で退職する女性は多いですし、『MeToo』運動など、『青鞜』が提起した問題は今も続いています。昔の話でなく、今のスタイルでやってみようと。


なるほど。

ちなみに紹介されている、森まゆみさんの『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』についてはこちら


続いて、『日本経済新聞』さん。11月26日(火)、千葉市美術館館長・河合正朝氏による文化面の連載で、光太郎の父・光雲の代表作にして国指定重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)を取り上げて下さいました。 

日本美術の中の動物十選(10) 高村光雲「老猿」

 西洋美術史の概念に、てらしあわせるなら、日本に「彫刻」は、無いのではないかとわたしには思える。素人ゆえの無謀、無知との謗(そし)りは覚悟の上である。

 敢(あ)えて言えば、8世紀の初めと13世紀の前半に、幾(いく)らかは、彫刻と言える作品があったとは思う。
そのように考えた時、高村光雲作の「老猿」は、日本の彫刻の本質、日本の彫刻の「何か」を語っているように思える。
 近年、日本の近代彫刻、それも木彫の研究が活発になっているという。「老猿」をもって、日本の彫刻、日本の近代彫刻について識者の説くところを聞きたい。
 光雲は、江戸末期の東京浅草に生まれた。仏師・高村東雲に学び、東京美術学校開設に際し教授となって、彫刻科の基礎を築いた。仏師の伝統に、西洋美術に学ぶ写実を加味し、木彫に新しい作風を拓(ひら)いたと評される。
 1893年のシカゴ万博に出品、高い評価を得た「老猿」を、今年、わたしは再びワシントンDCのナショナルギャラリーに展示した。欧米人に、真の日本彫刻とは何かを問い、示したかったからだ。実は、モチーフが人体でなく動物であることも重要なのである。
(1893年、高さ108.5センチ、東京国立博物館蔵)

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最後に、雑誌で、『月刊絵手紙』さん12月号。連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」。毎年、11月号は年賀状特集ということで、通常の連載がお休みになるので、2ヶ月ぶりの掲載でした。

今号は、詩「冬の言葉」(昭和2年=1927)全文。

    冬の言葉004

 冬が又来て天と地を清楚にする。
 冬が洗ひだすのは万物の木地。

 天はやつぱり高く遠く
 樹木は思いきつて潔らかだ。


 蟲は生殖を終へて平気で死に、
 霜がおりれば草が枯れる。


 この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
 冬はいきなり蹂躙する。


 冬は凩の喇叭を吹いて宣言する。
 人間手製の価値をすてよと。


 君等のいぢらしい誇をすてよ、
 君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。005


 冬が又来て天と地を清楚にする。
 冬が求めるのは万物の木地。


 冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、
 一生を棒にふつて人生に関与せよと。


11月も末となり、確かに冬に蹂躙される時期となってきました。冬の寒さに弱い当方としては、憂鬱な期間が続きます(笑)。


皆様もお風邪など召しませぬよう、ご自愛下さい。


【折々のことば・光太郎】

美は発見によつて豊かにされる。

散文「詩の朗読について」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

「美ならざるなし」、「美しきもの満つ」といった言葉を好んで揮毫した光太郎。ありふれた風景の中にも美は充満している、それに気付くか気付かないかは、あなた次第(笑)、そして気付ける者には豊かな人生が待ち受けているよ、ということでしょうか。

山口県から企画展情報です。 

清家雪子展――『月に吠えらんねえ』の世界

期 日 : 2019年11月27日(水)~2020年4月12日(日)
会 場 : 
中原中也記念館 山口県山口市湯田温泉1-11-21
時 間 : 9:00~17:00
料 金 : 【一般】 330円 【大学・高校専門学校の学生】220円 
      18歳以下、70歳以上無料(要証明書)
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日) 毎週最終火曜日 12/29~1/3,2/12・13


中原中也記念館は、平成6年2月18日の開館から、この2月で25周年を迎えます。

開館25周年となります本年におきましては、様々な分野とのコラボレーション企画を中心といたしまして、新たな中原中也の魅力を市内外へ発信いたし、多くの皆様に中原中也への興味・関心の拡大を図ってまいります。

後期は、漫画家・清家雪子氏とその作品「月に吠えらんねえ」を御紹介する、「清家雪子展 『月に吠えらんねえ』の世界」を開催いたします。漫画「月に吠えらんねえ」は、日本の近代詩人たちが住む □街(しかくがい)を中心に、萩原朔太郎、北原白秋、三好達治、室生犀星、中原中也など、それぞれの詩人の作品世界をイメージ化したキャラクターが登場し、それぞれの作品自体や文学史上の出来事などが融合された世界が展開する作品でございます。中原中也をモチーフといたしました「チューヤ」を中心に、文学表現と清家氏独自の作品世界の造形との関わりを御覧いただくことができます。

こうした、中原中也記念館開館25周年記念事業を通じまして、これまでの展示の歩みや文学館として培ってまいりました資料収集・修復保存の実績を、全国の文学ファンや市民にわかりやすくまとまった形で伝えてまいりますとともに、新たな文学表現の可能性を探る展示やイベントを行い、中原中也ファンの更なる拡大を図ってまいります。

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関連行事

中原中也記念館×山口市立中央図書館 『月に吠えらんねえ』ファントーク

期 日 : 1回目:12月15日(日)14:00~15:30 チューヤ篇
      2回目:3月21日(土)14:00~15:30 朔、その他のキャラクター篇

場 所 : 山口市立中央図書館 共同利用スペース 山口県山口市中園町7番7号
定 員 : 各回20名(要事前申込 先着順)  ※ファントークは定員に達しました
料 金 : 無料

というわけで、先頃完結した清家雪子さん作のコミック『月に吠えらんねえ』関連です。

フライヤー裏面の「展示で紹介する主なキャラクター」に、光太郎からのインスパイア「コタローくん」も。それから当会の祖・草野心平をモデルとした「ぐうるさん」はじめ、ここに挙げられているキャラクターの元ネタ的人物は、全員が光太郎と交流のあった面々です。

関連行事のファントーク、すでに来年3月の分も満席だそうですが、キャンセル等有るかも知れませんので、とりあえずご紹介しておきます。

さらに市立中央図書館さん、その他、「まちじゅう図書館」ということで、市内のカフェやら歯医者さんやらで、「サテライトライブラリー」と称するミニ図書館的なコーナーが設けられているそうですが、そちらでも関連書籍の閲覧が出来るようにするなど、面白い取り組みが為されるようです。

会期が長いので、何とか都合を付けて行ってみたいと思っております。当方、山口県は学生時代に訪れたことがありますが、その頃、同館はまだ開館していませんでした。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩は何もせつかちに考るものぢやない。十年二十年三十年のことを考へねばならぬ。土台人一生のことであり、一時代のことである。

談話筆記「昭和二年詩壇概観」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎、朔太郎、中也、心平らは、それぞれどんなことを考えて詩作に取り組んでいたのか、上記企画展、その一端にでも触れられるような内容であってほしいものです。

 静岡県から演劇系の公演情報です。 

SPAC出張劇場『星の時間 〜高村光太郎「智恵子抄」より〜』

期 日 : 2019年11月29日(金)
会 場 : 
鴨江アートセンター 静岡県浜松市中区鴨江町1番地
時 間 : 開場 18:45/開演 19:00 /上演時間50分(予定)
料 金 : 500円

画家であり高村光太郎の妻である高村智恵子の人生を、俳優の言葉と身体そして生演奏で描く作品。
出演するのは静岡県立の劇団SPACの俳優。
SPACの舞台に欠かせないパーカッションの生演奏を牽引してきた吉見亮が、本作品ではATV株式会社(本社:浜松)が生んだ新感覚の電子パーカッション「aFrame」に挑戦します。
布施安寿香による智恵子の言葉ひとつひとつが水面の波紋のように広がっていき、多彩な楽器の音色とともに観客の身体に染み込んでいく…そんなひとときをお楽しみください。

出演(SPAC俳優):布施安寿香、吉見亮

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「新感覚の電子パーカッション「aFrame」」。何だ、それは? と思って調べてみました。

製造元のATV株式会社さんのサイトがこちら




電子ドラムのような据え置き型ではなく、ポータブルです003ね。パネルにタッチすることで音を出す仕組みは共通のようですが。電子系の強みで、いろいろな音域、音色が出せるようです。なるほど、これは手軽に使えそうで、面白い楽器だと思いました。

この楽器の演奏に乗せて、「智恵子抄」。さらに俳優さんの身体表現も売りのようで、なかなか興味深い内容です。

都内、または近県であれば拝見に伺うのですが……。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

外国美術を見学に渡欧したいといふ画かきや彫刻家はたくさんあるが、わざわざ国帑を外国へ棄てにゆかなくてもいいのにと思はれる様な程度の人も尠くない。最新流行の買い出しや、ふる臭くなつた感覚の染め直しにゆくやうな連中は論外である。

散文「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会趣意」より
昭和5年(1930) 光太郎48歳

高田博厚は、早世した荻原守衛を除き、光太郎がほぼ唯一、その力量を認め、プライベートに付き合った同時代の彫刻家です。興味深いのは、高田が彫刻家として独り立ちする前から、その才の非凡さを見抜き、実際、後に高田が大成したこと。こうした点も光太郎の審美眼の正しさを証明しているのでしょう。

その高田の留学に際し、費用を捻出しようと、光太郎、谷川徹三、高橋元吉らが骨折って始めた「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」のパンフレットから。

「国帑」は「外貨」に対する日本円の意。要するに、物見遊山の延長でほいほい海外に出る美術家の何と多いことか、そして、高田はそんな奴等とは一線を画す存在なのだ、という話の流れです。

11月23日(土)、午後2時からの第64回高村光太郎研究会に行く前に、白金台の東京都庭園美術館さんで開催されている「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」展を拝見して参りました。

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同館の本館は昭和8年(1933)竣工の旧朝香宮邸で、アール・デコ様式の装飾が随所に施され、レトロ建築大好きな当方にとっては実にいい感じでした。

展示は三部構成。第一部が「アジアへの再帰」ということで、雲崗などを描いた杉山寧や川端龍子の日本画、中国的なものをモチーフとした岸田劉生や安井曾太郎(ともに光太郎の朋友)らの油彩画、やはり光太郎と親しかったバーナード・リーチの絵皿などが出品されていました。

第二部「古典復興」は、陶磁器、青銅器などの工芸がメイン。古代中国の作品と、そこからインスパイアされた近代日本の作品を並べて展示するという、面白い構成になっていました。

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さらに第三部は「幻想のアジア」をテーマにした現代アートでした。

拝観メインの目的は、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった、髙村豊周の作品を観ること。意外と豊周作品を観られる機会は多くありません。

今回、豊周作品は4点、出品されていました。


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左上は「朧銀杵形花器」(昭和36年=1961)、その隣が「青銅斜交文花瓶」(昭和3年=1928)。下段左で「鼎」(昭和30年=1955)、そして右下に「提梁花瓶」(昭和21年=1946)。それぞれ実に見事な作でした。

特に「青銅斜交文花瓶」などにはアール・デコの影響も色濃く見られるのですが、それだけでなく、やはり古代中国の青銅器の形態や様式を取り入れ、しかし大胆に用途を変更するといった工夫も見られます。鼎(かなえ)は元々は調理器具ですが、豊周の手にかかると花器に変貌しています。

豊周も若い頃は中国古銅器を手本とすることを忌避し010、モダニズム的な方向性が顕著だったのですが、のち、エスプリ・ヌーボーと伝統的な価値観の融合を目指すようになりました。そこには桂離宮などを絶賛した建築家、ル・コルビジェなどの影響もあったそうです。

右は、大正15年(1926)、豊周37歳の作「挿花のための構成」。若い頃の代表作の一つと見なされている作品です。画像は昭和58年(1983)、東京国立近代美術館工芸館さんで開催された「モダニズムの工芸家たち―金工を中心として―」展の図録の表紙です。特に戦後の作品と比べると、その違いは明らかですね。

帰りがけ、今回の展覧会の図録的な書籍『アジアン・インパクト 日本近代美術の「東洋憧憬」』(樋田豊治郎監修 東京都庭園美術館編 東京美術刊行)を購入。佐倉市立美術館さんの本橋浩介氏による「金工モダニズムと古代青銅器」という論考が載っており、興味深く拝読しました。本橋氏、やはり「挿花のための構成」を引き合いに出されていて、考えることは
同じだな、と思いました(笑)。

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ところで、東京都庭園美術館さんということで、広大な庭園も付帯しています。

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が、行った当日、豪雨というほどではなかったものの、それなりの雨でして、ほとんど見ずに撤収。紅葉は少し見られましたが、残念でした。また日を改めて訪れたいものです。

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「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」展は、来年1月13日(月・祝)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は現今の多くの日本の油画を油画といふよりはむしろよく発達した密陀絵に近いと思つてゐる。昔の密陀絵の延長であつて、材料こそ便利な泰西の絵具を使へ、実は何等油画と関係の無い仕事の方が多いと見てゐる。

散文「宮坂君について」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

上記だけ読むと、そうした傾向を批判しているように読めますが、そういうわけでもなく、同じ文章では「私は素より此を非難しない。日本人が東洋の画法にしたがふのに何の不思議もないのである。」としています。今回の展覧会のコンセプトにつながるような発言ですね。

ただ、凡ての画家がそこで終わるのではなく、西洋的感覚を十分に我がものとした画家も出て欲しい、とも。

宮坂君は、宮坂勝。長野県出身の画家で、光太郎がそうした期待をかけた一人でした。

昨日は第64回高村光太郎研究会でした。KIMG3431

会場は江東区の東大島文化センターさん。生憎の雨でしたが、稀代の雨男だった光太郎の魂がやってきているのかな、という感じでした。まったくいつもいつも、不思議とと光太郎がらみのイベントは雨に見舞われます。

研究会は、会としてはHPなどもなく、こぢんまりと行っている催しで、少ない時は参加者が発表者を含めて5~6人だった年もありましたが、昨日は20名超のご参加。元々の会員の方が光太郎に興味があるという皆さんを誘ってお連れになったり、ご発表の方が発表するから、ということでお仲間にお声がけなさったりで、盛況となりました。

ご発表はお三方。

まず初めに、元いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩氏。現在は定年退職なさり、群馬県立女子大学さんで非常勤講師をなさっているそうです。

発表題は「心平から見た光太郎・賢治・黄瀛」。大正から昭和にかけ、戦争やら中国の文革やらの影響で、断続的になりつつも深い絆で結ばれていた光太郎、当会の祖・草野心平、それから心平を光太郎に紹介した黄瀛。そこに宮澤賢治がどう絡んだか、的な内容でした。

KIMG34334人全員が、心平主宰の雑誌『銅鑼』同人でした。そのうち光太郎と黄瀛は、それぞれ一度ずつ、早世した賢治と会っています。光太郎は大正15年(1926)、駒込林町のアトリエ兼住居に賢治の訪問を受け、黄瀛は昭和4年(1929)、花巻の賢治の元を訪れています。それに対し、心平が直接賢治と会うことは、生涯、叶いませんでした。しかし、賢治に会った光太郎や黄瀛以上に、賢治の精神を深く理解し、共鳴し、たとえ顔を合わせることはなくとも、それぞれの魂で結ばれていたと言えるかも知れません。

小野氏のご発表は、特に心平が花巻の賢治訪問を思い立って赤羽駅のホームに立ちながら、結局、行き先を新潟に変更してしまった昭和2年(1927)1月の話が中心でした。当方、寡聞にしてその件は存じませんで、興味深く拝聴しました。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご子息、北川光彦氏。父君の介添KIMG3434え的にずっと研究会にはご参加下さっていましたが、ご発表なさるのは初めてでした。題して「高村光太郎の哲学・思想・科学 高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「命」とは――画竜点睛、造型に命が宿るとき――」。

光太郎の美術評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)などに表された思想が、同時代の世界的な哲学の潮流――ウィトゲンシュタイン、ユクスキュル、西田幾多郎など――と比較しても非常な先進性を持っていたというお話など。

そして光太郎の「生命」に対する捉え方が、芸術的な要素のみにとどまらず、科学、哲学、宗教的見地といった様々な背景を包摂するものであるといった結論でした。そうした見方をしたことがなかったので、これも新鮮でした。光彦氏、ご本業は半導体などのご研究をなさる技術者でして、そうした観点から見ると、違った光太郎像が見えるものなのだなと感じました。

KIMG3436最後に、書家の菊地雪渓氏。光太郎の詩句を題材にした作品も多く書かれている方です。過日もご紹介いたしましたが、今年の「東京書作展」で大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさいました(そちらの作は光太郎ではなく白居易でしたが)。

何と実演を交え、光太郎の書がどのようなことを意識して書かれているかの分析。特に仮名の書が、それぞれの字母(「安」→「あ」、「以」→「い」、「宇」→「う」といった)の草書体をかなり残している、というお話。参加者一同、「ほーーーー」という感じでした。

また、光太郎が範とした、黄山谷(庭堅)についてのお話なども。山谷は、中国北宋の進士。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。光太郎は山谷の書を好み、最晩年には、終焉の地となった中野の貸しアトリエの壁に山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。

今回のお三方のご発表、おそらく来春刊行される会の機関詩的な雑誌『高村光太郎研究』に、それを元にした論考等の形で掲載されると思われます。刊行されたらまたご紹介します。

終了後は、近くの居酒屋で懇親会。和気藹々と楽しいひとときでした。「高村光太郎研究会」、学会は学会なのですが、肩のこらない集いです。特に事前の参加申し込み等も必要なく、入会せず聴講のみも可。多くの皆様の来年以降のご参加をお待ちしております。


【折々のことば・光太郎】

之等の画幅を熟覧しながら、まことに画は人をあざむかないと思つた。

散文「所感――『宅野田夫画集』――」より
昭和15年(1940) 光太郎58歳

宅野田夫は、初め岡田三郎助に洋画を学び、のち、南画なども描いた画家です。ここでいう画幅は南画系のものと思われます。

よく「書は人なり」と言いますが、光太郎にとっては「画も人なり」だったようです。そうした話は、研究会での菊地氏(書)、北川氏(「レンマ」知性といったお話)のご発表にもあり、納得させられました。

注文しておいたCDが届きました。 

日本の詩(うた)

2019年11月20日 日本コロムビア 定価3,000円+税

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演 奏 小林沙羅(ソプラノ)  河野紘子(ピアノ) 澤村祐司(箏)  見澤太基(尺八)
曲 目 
 1 . 小さな空  作詩・作曲/武満徹 編曲:轟千尋
 2 . うみ  作詩/林柳波 作曲/井上武士
 3 . この道  作詩/北原白秋 作曲/山田耕筰
 4 . 故郷(ふるさと)  作詩/高野辰之 作曲/岡野貞一
 5 . 早春賦  作詩/吉丸一昌 作曲/中田章
 6 . 赤とんぼ  作詩/三木露風 作曲/山田耕筰
 7 . お六娘  作詩/林柳波 作曲/橋本国彦
 8 . うぐひす ―春夫の詩に據(よ)る四つの無伴奏の歌―  作詩/佐藤春夫 作曲/早坂文雄
 9 . せきれい  作詩/北原白秋 作曲/宮城道雄
 10. 浜木綿(はまゆふ)   作詩・作曲/宮城道雄
 11. 初恋  作詩/石川啄木 作曲/越谷達之助
 12. 荒城の月  作詩/土井晩翠 作曲/瀧廉太郎
 13. ペチカ  作詩/北原白秋 作曲/山田耕筰
 14. 或る夜のこころ ―『智恵子抄』より  作詩/高村光太郎 作曲/中村裕美
 15. 死んだ男の残したものは  作詩/谷川俊太郎 作曲/武満徹 編曲:轟千尋
 16. ひとりから  作詩/谷川俊太郎 作曲/小林沙羅 編曲:相澤直人

公式サイトより)
クラシック声楽界のトップランナー小林沙羅にとって身近にあった歌と詩(うた)。
幼少時から詩集を声に出して読むことを好み、オペラ歌手として日本語の新作オペラ『万葉集』『KAMIKAZE』『狂おしき真夏の一日』等に積極的にも出演している。そして現在も詩と音楽のコラボレーション集団「VOICE SPACE」の一員として谷川俊太郎や佐々木幹郎、小室等などと共演し、近・現代詩と音楽の新たな融合を目指して活動している小林沙羅。
そんな小林が3年ぶりとなる3rdアルバムで選んだのは、曾祖父にあたり大正・昭和時代の有名詩人:林柳波の「うみ」をはじめとした「故郷」「荒城の月」等の童謡唱歌を収録した。林柳波は「うみ」「おうま」、そして今作にも収録した「お六娘(おろくむすめ)」などを作詩。また、小林の曾祖母は、狂言浄瑠璃の祖といわれる初代豊竹和国太夫を父にもつ日本舞踊家(林流創始者)・林きむ子。日本の詩や歌に心惹かれてきた小林のルーツはここにもあったのだ。
武満徹の作品や、作曲家・箏曲家でもある宮城道雄の作品を箏・尺八と共演し、高村光太郎の『智恵子抄』から生まれた新曲「或る夜のこころ」、そして現代を代表する詩人・谷川俊太郎による小林に向けて書きおろした詩に、小林が作曲した新曲「ひとりから」も収録。
日本語の発音にこだわり表現を大切にしてきた小林沙羅が、古き良き作品から、今を生きる表現者として生み出していく作品を未来へと導いていく。


ソプラノ歌手の小林沙羅さん。平成27年(2015)には、「ライフサイクルコンサート 雄大と行く 昼の音楽さんぽ 第3回 小林沙羅 麗しきソプラノの旅」、昨年は「浜離宮ランチタイムコンサートvol.175 小林沙羅ソプラノ・リサイタル」で、今回のCDに収録されている「或る夜のこころ」を演奏なさいました。「ライフ……」の方は拝聴にうかがいまして、改めてCDを聴き、ああ、こういう曲だったっけな、と思いだしました。単なる歌曲、というよりオペラのアリアのような、ドラマチックな曲想です。

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また、個人的には1曲目の「小さな空」、混声合唱で歌ったことがあり、懐かしく感じました。

Amazonさん等でも取り扱っています。ぜひお買い求め下さい。

また、先の話になりますが、小林さん、来春には今回のCDのリリース記念リサイタルをなさるそうです。近くなりましたらまた改めてご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

知力によつて幾何学的正確を期するならば学生にも出来る。正しく見るといふのはそんな軽率な事ではない。自然を正々堂々と正面から押してゆく事だ。又受け入れる事だ。小さな主観で自然を歪めない事だ。面白い処に随はせない事だ。微妙な処にひつかからない事だ。小さな自己を殺して大きな自然と合一する事だ。「所謂」自己表現で無くて純真表現の事だ。

散文「大森商二君の木炭画」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

光太郎の芸術感がよく表された一節だと思います。

「幾何学的正確を期するならば学生にも出来る。正しく見るといふのはそんな軽率な事ではない」。これは、造型芸術に限らず、音楽にもいえることです。楽譜通り、さらに平均律的な演奏をするなら、コンピュータでも可能ですが、小林さんのような優れた音楽家の演奏にはかないません。

また、造型芸術の分野でも、おそらく近いうちにAI(人工知能)による造型作品などというものが出てくるでしょうが(或いは既に実現しているのでしょうか)、それとて光太郎のような優れた造形作家の作には到底およばないでしょう。

演劇の公演情報です。 

二兎社公演43 私たちは何も知らない

期日・会場

 
埼玉公演 2019年11月24日(日) 富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ 


 東京池袋公演 2019年11月29日(金)~12月22日(日) 東京芸術劇場

 
東京亀戸公演 2019年12月28日(土) 亀戸文化センター


 兵庫公演 2020年1月4日(土) 兵庫県立芸術文化センター


 長野公演 2020年1月8日(水) まつもと市民芸術館


 三重公演 2020年1月10日(金) 三重県総合文化センター


 愛知豊橋公演 2020年1月13日(月・祝) 穂の国とよはし芸術劇場PLAT


 滋賀公演 2020年1月18日(土) 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール


 愛知名古屋公演 2020年2月1日(土) ウインクあいち


 石川公演 2020年2月8日(土)・9日(日) 能登演劇堂

 『ザ・空気』( 2017 )『ザ・空気 ver.2』( 2018 ) と、観客が「今、日本で起きていること」をリアルに体感する話題作を立て続けに発表してきた永井愛が、一転、明治〜大正期に発行された雑誌『青鞜』の編集部を舞台にした青春群像劇を書き下ろします。

 
 平塚らいてうを中心とする「新しい女たち」の手で編集・執筆され、女性の覚醒を目指した『青鞜』は、創刊当初は世の中から歓迎され、らいてうは「スター」のような存在となる。しかし、彼女たちが家父長制的な家制度に反抗し、男性と対等の権利を主張するようになると、逆風やバッシングが激しくなっていく。やがて編集部内部でも様々な軋轢が起こり―


作・演出   永井愛
出 演   朝倉あき(平塚らいてう) 藤野涼子(伊藤野枝) 大西礼芳(岩野清)
      夏子(尾竹紅吉) 富山えり子(保持研) 須藤蓮(奥村博)
      枝元萌(山田わか)  


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智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』をめぐるドラマですね。残念ながら智恵子の名はキャストに入っていませんが、智恵子と交流のあった平塚らいてう尾竹紅吉、その他青鞜社の面々が登場します。

各地で上演されますので、お近くの公演にぜひどうぞ。



【折々のことば・光太郎】

彼は多くの人の期待と予望とを背負ひながら死んでしまつた。神秘の扉はしまつてしまつた。彼にかはる者は無い。無いとなると世界中に無い。実に言ひやうもなく惜しい。

散文「岸田兄の死を悼む」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「岸田兄」は岸田劉生。光太郎が最も高く評価した画家の一人です。

昨夜、NHK BSプレミアムさんで放映された「にっぽんトレッキング100 満喫!紅葉ワンダーランド~安達太良山&磐梯山~」を拝見しました。

智恵子の故郷、福島二本松に聳え「ほんとの空」があると語った安達太良山、そして心を病んだ智恵子が光太郎にもたれ「わたしもうぢき駄目になる」とつぶやいた磐梯山。それぞれの絶景がふんだんに取り上げられました。

しかし、この手の番組で以前はよくあった、枕としての「高村光太郎の『智恵子抄』で「ほんとの空」がある山と謳われた安達太良山」という紹介がなく、代わって「古くは『万葉集』に詠まれた安達太良山」となっていました。やはり令和改元による影響でしょうか。まったく、意外なところで強力なライバルが出現したものです(笑)。

めげずに紹介し続けます(笑)。まず、話の流れで安達太良山系。 

ココに福あり fMAP「温泉より愛をこめて」

NHKBSプレミアム 2019年11月24日(日)  5時00分~5時30分

全国5位130をこえる温泉地がある福島県。その恵みを私たちが享受できるのは、知られざる「人の力」のおかげだ。二本松市の岳温泉に湯を届けるため、雪山に毎週登る男たち。つげ義春の漫画で知られる天栄村の二岐温泉を守るため、ブナの原生林を守った人。金山町の大塩温泉では、日本有数の「炭酸の湯」を集落の共有財産として守り、恵みを分かち合ってきた。福島の自然が生み出す宝物「温泉」をめぐる三つの物語をお届けする。

ココに福あり fMAP」という番組、NHK福島放送局さんの制作で、福島では総合テレビでおおむね毎月第二金曜日の夜に放映されているそうです。そちらが系列のBSプレミアムさんで放映されます。

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今回放映されるのは、福島では昨年3月に放映された回です。したがって、令和改元前なので、「古くは『万葉集』に詠まれた安達太良山」ではなく「高村光太郎の『智恵子抄』で「ほんとの空」がある山と謳われた安達太良山」という紹介がされていてほしいものです(笑)。

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続いてラジオ番組。こちらは完全に「智恵子抄」系です。 

スペシャルプログラム Sound Travelogue ~沢木耕太郎、日本を旅する~ ラジオドラマ 高村光太郎「智恵子の紙絵」

FMヨコハマ84.7 2019年11月28日 24:00~深夜1:00007

作家、沢木耕太郎が日本を旅する番組。今回の舞台は会津若松。高村光太郎「智恵子の紙絵」のラジオドラマとともに、福島の旅の魅力の詰まった「Sound Travelogue=音の紀行文」をお楽しみください。


出演 沢木耕太郎、佐々木望、杉原夕紀、池田理恵 ほか


FM放送ですので電波の届く範囲が限られますが、聴取可能な地域の方、ぜひどうぞ。当方自宅兼事務所のある千葉県は微妙なところです。ただ、昨今はインターネットでもラジオが無料聴取できます(それも地域によりけりですが)ので、そちらで拝聴します。


もう1件。紅葉のライトアップがなされている京都知恩院さんがらみのテレビ番組です。

京都紅葉生中継2019~皇室ゆかりの秋を訪ねて~

BSイレブン 2019年11月24日(日)  19時00分~20時54分

◆晩秋の京都から、鮮やかに色づいた紅葉を かつては宮廷人や平安貴族が風流を楽しむための遊びだった「紅葉狩り」。 町民文化が大きく花開いた江戸時代以降は庶民にも広がり、現代に生きる私たちにも、その儚く美しい姿を見せてくれます。 KBS京都・BS11共同制作『京都紅葉生中継2019』。元号が“令和"となり、天皇陛下即位の礼も行われた本年は、“皇室ゆかりの秋を訪ねて"をテーマに、世界遺産・仁和寺から生放送いたします。◆メイン放送席は、皇室ゆかりの世界遺産“仁和寺" 平成6年(1994)に世界遺産に登録された、仁和寺。平安時代の宇多法皇以来、明治維新に至るまで皇子皇孫が仁和寺の門跡を相続し、御室御所とも呼ばれ親しまれてきました。京都には多くの門跡寺院がありますが、そのはじまりが仁和寺です。 遅咲きの御室桜が有名ですが、実は紅葉の名所でもあり、本年、史上初めて本格的なライトアップを実施しています。◆“皇室ゆかりの名所にある紅葉"を、生中継とVTRで紹介

生中継(予定) ※日本で唯一の皇室の菩提寺である、泉涌寺別院『雲龍院』 ※後嵯峨天皇の勅願寺にして、昨年770年ぶりに公開された『新善光寺』 ※江戸時代に仮御所としても使用された“粟田御所"『青蓮院門跡』 ※9年ぶりに方丈庭園が夜間公開される門跡寺院『知恩院』◆“皇室ゆかりの名所にある紅葉"を、生中継とVTRで紹介


司会 竹内弘一(KBS京都アナウンサー)  八木菜緒(BS11アナウンサー)
ゲスト 賀来千香子(女優)  東儀秀樹(雅楽師)
解説 所功(京都産業大学 名誉教授)
リポーター  村田千弥(フリーアナウンサー)  大倉未沙都(タレント)


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光太郎の父・光雲の手になる聖観音像が取り上げられるといいのですが……。


【折々のことば・光太郎】

私は元来芸術に於ける手技を中々貴ぶものだ。手技を追ふものではないが、手技の純芸術的世界にも深い法悦を感じるものだ。線を目送し、描出を味はひ、色調を静観してゐる事のうちに言ひ知れぬ深い世界を見るのである。

散文「岸田君の芸術の事」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

ここで言う「手技」は、「技法」の意。造型芸術に携わる以上、基本的な技法には通じていなければならないということでしょう。ただ、あまりにそうしたテクニックのみに拘るのはよくない、とも。

「岸田君」は岸田劉生。劉生の絵には、そうした「手技」が理想的な形で使われているという話の流れからの発言です。

 先週末、若手俳優の滝口幸広さんの訃報が出ました。

『デイリースポーツ』さん。 

俳優・滝口幸広さん死去 34歳 テニスの王子様、仮面ライダードライブなどで活躍

 俳優の滝口幸広さんが13日に突発性虚血心不全の001ため亡くなったことが15日、分かった。34歳だった。滝口さんの公式ブログで所属事務所が発表した。通夜、告別式は近親者のみで執り行う。

ブログには「これまで温かく応援してくださったファンの皆さまならびにお世話になった関係者の皆さまへご報告致しますとともに厚く御礼申し上げます」と記されている。

 滝口さんは千葉県出身。04年にフジテレビ系ドラマ「ウォーターボーイズ2」でデビュー。14年にはテレビ朝日系「仮面ライダー ドライブ」にも出演した。

 ミュージカル「テニスの王子様」など、舞台でも存在感を見せ、今年もミュージカル「青春鉄道」や「MANKAI STAGE『A3!』」などにも出演。年末の舞台「明治座の変~麒麟にの・る」にも出演予定で、来年も1月に「MANKAI STAGE『A3!』~AUTUMN2020」のスケジュールが発表されていた。


『朝日新聞』さんの紙面から。

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滝口さん、ともに平成24年(2012)に開催された朗読系の公演「僕等の図書室」(以下、「1」)及び「僕等の図書室2」(以下、「2」)で、「智恵子抄」の朗読を披露なさいました。

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「1」のパンフレットから。


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「2」のパンフレットから。

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それぞれに公演の模様がDVD化されています。

まず「1」。

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滝口さんがメインで、三上真史さん、中村龍介さんがサポートメンバーとして途中から合流。光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)を換骨奪胎したものをト書きにしつつ、「智恵子抄」所収の詩篇を朗読なさいました。30分ほどの構成でした。

「2」。台本的には「1」と同一。サポートメンバーが中村さんはそのままに、三上さんが大山真志さんに変更。

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滝口さん、こちらでは、感極まったか、最後は涙ぐみつつの朗読でした。

DVDは2枚組となり、DISK2の「特典映像」には、出演者それぞれのインタビューなども。

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「1」「2」それぞれLe Himawari(る・ひまわり)さんという演劇制作会社から販売されています。

それにしても滝口さん、前途有為な34歳という若さでの急逝。実に残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

芸術家の名誉は作品にあるのだから、勲章なんかいくら胸にぶら下げでもなんにもならんよ、それよりも金でもくれて大いに仕事させてくれたほうがありがたいね。
談話筆記「梅原・安井両君おめでとう」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳


明治末、それぞれに光太郎と留学仲間だった梅原龍三郎、安井曾太郎が文化勲章を受章した際の談話です。上記の一節だけ読むと、ケチをつけているようにも読めますが、そういうわけではなく、両者の受賞を素直に喜んでいます。

その上で、副賞としての金品授与を伴わなかった文化勲章の制度が前年に改正され、受賞者は同時に文化功労者にも認定、文化功労者年金法に基づく終身年金が支給されるシステムとなったことを受けての、「政府も粋な計らいをするじゃん」的な発言です。

学会情報です。

明星研究会 第13回<シンポジウム> 「明治の恋」~すべては『みだれ髪』から始まった!

期 日 : 2019年11月30日(土)
会 場 : 日比谷コンベンションホール 東京都千代田区日比谷公園1-4
時 間 : 13時40分~16時40分
会 費 : 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)

内 容 
  第1部 対談「鉄幹と晶子 ~陶酔から現実へ」  13:45 ~14:45
      内藤明(歌人・早稲田大学教授) 松平盟子(歌人)

  第2部 鼎談「恋はどう歌われたか ~一葉・晶子・登美子・白秋」  15:00 ~16:40
      米川千嘉子(歌人) 古谷円(歌人) 渡英子(歌人) 


1901年6月、堺の鳳志ようは奔騰する恋に促されて上京し、与謝野鉄幹のもとで歌集『みだれ髪』を編みます。刊行は8月。ここに歌人・与謝野晶子は誕生し、絢爛たる恋歌は多くの青年たちの心を震わせるとともに、明治浪漫主義を一気に押し上げます。
晶子の恋歌は表現においてそれ以前をどう一新し、青年たちに何を与えたのでしょう。20世紀初年に登場した『みだれ髪』は、恋を表す言葉としてどう時代に機能したのでしょう。晶子に先んじる樋口一葉、のちに晶子の夫となる詩歌の旗手・鉄幹、恋と歌のライバル山川登美子、人妻との恋愛により人生の激変した北原白秋……。彼らの作品を通して明らかにします。
来春は「明星」創刊120年。その前夜とも言うべきこの秋に晶子の恋を考えてみましょう。


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光太郎の本格的な文学的活動の出発点となった、雑誌『明星』を中心とした、明星研究会さんの研究発表会です。

一昨年、昨年の様子はこちら。

都内レポートその1 第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎。
都内レポート その4 「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」。

11月10日(日)、「事前勉強会」なるものが開催されました。発表者の皆さん、研究会の事務局的な方々など十数名がお集まりになり、まあ、一種のリハーサル。当方も参加させていただきました。

それによると、今年の内容は直接的には光太郎には関わりませんが、「明治の恋」ということで、「恋愛」という語の成立、使用例などなど、後の光太郎智恵子にもつながるなと思いつつ、拝聴していました。

そういえば、『智恵子抄』所収の詩で「郊外の人に」(大正元年=1912)という詩があります。千葉銚子犬吠埼で愛を確かめ合った後、発表された詩です。


     郊外の人に

 わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君にむかへり003
 愛人よ
 いまは青き魚(さかな)の肌にしみたる寒き夜もふけ渡りたり
 されば安らかに郊外の家に眠れかし
 をさな児のまことこそ君のすべてなれ
 あまり清く透きとほりたれば
 これを見るもの皆あしきこころをすてけり
 また善きと悪しきとは被ふ所なくその前にあらはれたり
 君こそは実(げ)にこよなき審判官(さばきのつかさ)なれ
 汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
 をさな児のまこともて
 君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
 君の見いでつるものをわれは知らず
 ただ我は君をこよなき審判官(さばきのつかさ)とすれば
 君によりてこころよろこび
 わがしらぬわれの
 わがあたたかき肉のうちに籠れるを信ずるなり
 冬なれば欅の葉も落ちつくしたり
 音もなき夜なり
 わがこころはいま大風の如く君に向へり
 そは地の底より湧きいづる貴くやはらかき温泉(いでゆ)にして
 君が清き肌のくまぐまを残りなくひたすなり
 わがこころは君の動くがままに
 はね をどり 飛びさわげども
 つねに君をまもることを忘れず
 愛人よ
 こは比(たぐ)ひなき命の霊泉なり
 されば君は安らかに眠れかし
 悪人のごとき寒き冬の夜なれば
 いまは安らかに郊外の家に眠れかし
 をさな児の如く眠れかし


この詩で、光太郎は智恵子に「愛人」と呼び掛けています。現代では「愛人」というと、背徳の匂いしかしませんが(笑)、この場合、文字通り「愛する人」または「愛(いと)しい人」という意味で使っているわけですね。そもそもが「恋愛」という概念もまだ一般的ではなかったというのがよくわかります。

ちなみにこの詩、題名の「郊外」を、智恵子が福島二本松の出身だから、と勘違いしている方がいらっしゃるようですが、違います。当時、智恵子が住んでいたのが雑司ヶ谷。この頃の雑司ヶ谷は「都心」とは言えぬ「郊外」でした。

閑話休題。「明星研究会 第13回<シンポジウム>」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

美術家に完成は恐ろしいと言ふ。此は完成が恐ろしいのでなくして、完成の堕し易い陥穽(おとしあな)が恐ろしいのである。殊に技巧の問題になつて自縄自縛の完成の幽閉が恐ろしいのである。

散文「石井柏亭君を送る」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

なるほど、一度、自己のスタイルを確立させてしまうと、いつまでもそれを続けていては、やがて飽きられるでしょうし、進歩がないことにもなります。進歩に関しては、アスリートの皆さんも同じような発言をすることがあります。

「ここだ!」と思って到達した地点に安住できないというのも、しんどい話ですね。しかし、がらりとスタイルを変えるというのも大変でしょうし、それがそれまでの自己の全否定を伴うとなると、なかなかそれも出来ないのでしょう。




都内から展覧会情報です。他の展覧会と混同しておりまして、始まってしまっています。 

アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」

期 日 : 2019年10月12日(土)~2020年1月13日(月・祝)
会 場 : 東京都庭園美術館 東京都港区白金台5-21-9
時 間 : 10:00~18:00
                11/22(金) 23(土・祝) 29(金) 30(土)12/6(金) 7(土)は
       夜間開館のため夜20:00まで開館
料 金 : 一般1,000円 大学生等800円 中高生・65歳以上500円
休 館 : 第2・第4水曜日(10/23、11/13、11/27、12/11、12/25、1/8)、年末年始

およそ1910~60年頃にかけてのことですが、日本の知識人、美術愛好家、美術作家たちがアジアの古典美術に憧れた時期がありました。唐物趣味は日本の伝統だとはいえ、このときのアジア熱は別格でした。
朝鮮半島や中国から、考古遺物や古美術が日本に輸入されると、それらは実業家たちによって競うように蒐集されました。平壌では漢代の楽浪漆器が発掘され、河北省では磁州窯や定窯が調査されます。そして息を呑むような伝世品(殷の青銅器、唐三彩・宋磁・元の染付・明の赤絵、煎茶で愛好された籐籠、李朝白磁など)が輸入されました。それらを目の当たりにした画家や工芸家たちは、創造の翼をアジアへと羽ばたかせます。
さらに画家たちは、大同で雲岡石仏を見て、飛鳥仏との繋がりに想いを馳せました。流行のチャイナドレスにも目を留め、アジアの新しい息吹も掬(すく)いとりました。
アジアへの憧れは、1960年頃に表舞台からフェードアウトしますが、その後どのように深化されているのでしょうか。新館ギャラリーでは、3人の現代作家に表現していただきました。

展覧会の構成(展示総数は約100点)
Ⅰ アジアへの再帰
 雲岡石仏との遭遇(川端龍子、杉山寧)
 チャイナドレスの婦人(岡田謙三、藤島武二、安井曾太郎)
 静物画のなかのアジア(岸田劉生、前田青邨、バーナード・リーチ)
Ⅱ 古典復興
 古代青銅器と工芸モダニズム(岡部嶺男、香取秀眞、高村豊周、豊田勝秋、津田信夫)
 生きのびる中国陶磁器(石黒宗麿、北大路魯山人、富本憲吉)
 (1)黒釉褐彩 (2)白地黒花 (3)五彩
 籐籠と竹籠(飯塚琅?齋)
 李朝白磁と民藝運動(河井寛次郎)
 文様から装飾芸術へ (髙野松山、増田三男、松田権六、石黒宗麿、北原千鹿)
 (1)走獣文 (2)唐三彩と斑文 (3)魚文
Ⅲ 幻想のアジア
 岡村桂三郎(画家)  田中信行(漆芸家)  山縣良和(デザイナー)


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光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わり、髙村家を継いだ光雲三男、鋳金分野の人間国宝、髙村豊周の作品が展示されています。

豊周の作品は、今月初めまで群馬県立近代美術館さんで開催されていた「没後70年 森村酉三とその時代」展にも出ていましたが、意外としっかり観られる機会は多くありません。

他に光太郎と交流のあった藤島武二、安井曾太郎(有名な「金蓉」)、岸田劉生、バーナード・リーチ、豊周の師・津田信夫らの作品も並んでいます。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

それ故、氏の彫刻には、ただ見た眼に好ましいとか、流麗であるとか、典雅であるとか、手馴れてゐるとかいふやうな効果だけを追つて満足してゐる様子は見えず、絶えず求めるものを実質的に追求してゐる態度が見えた。

散文「彫刻家建畠大夢」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳



建畠大夢は、東京美術学校彫刻科での光太郎の後輩に当たります。年齢的には光太郎の方が3歳年下でしたが、建畠は大阪医学校や京都市立美術工芸学校などを経てからの編入学でしたので、そうなりました。


子息の建畠覚三も彫刻の道に進み、昭和42年(1967)、最後の高村光太郎賞を受賞しています。

ただ見た眼に好ましいとか、流麗であるとか、典雅であるとか、手馴れてゐるとかいふやうな効果だけを追つて満足してゐる様子は見えず」あたりには、光太郎が目指す彫刻の一つのありかたが示されているように思われます。

嬉しい悲鳴ですが、連日のように光太郎やその血縁者等の名が新聞雑誌等に出ています。今日は3件ご紹介します。

まず 、広島に本社を置く「中国新聞」さん。昨日の一面コラムです。 

天風録  冬が来た?

きのうの朝、起きるといつも居間にいる猫の姿がない。ヒーター付きのハウスで丸まっていた。窓の外を見ると小学生が厚い上着にマフラー、手袋をして登校している。各地で一番の冷え込みとなり、鳥取県の大山は初雪をかぶったという▲きつぱりと冬が来た―。高村光太郎が詠んだ詩のように、到来を実感した人も多いだろう。「人にいやがられる」「刃物のやうな」と、高村は冬をさんざんに表現しながらも「僕の餌食(えじき)だ」と立ち向かう覚悟をうたう▲見習って、寒さに負けないように気を引き締めなければと思ったら…おや、きょうはまた、小春日和でも訪れそうな予報である。まだ秋なのだろうか。そう言えば、ことしは秋を十分には楽しんでいない気がしている▲例年通りマツタケは手が出ないし、せめてサンマをと思っても先日まで高値だった。色づかずに枯れそうな木々の葉も目立つ。夜長を読書で過ごすには冷え込んできた。満喫しないうちに、秋は逃げたのかもしれない▲寒さが例年以上にこたえる人も多いはずだ。秋の台風や大雨に襲われた東日本の被災地である。冬将軍は到来したか。足踏みしてくれないか。詩人の言う刃物など持たない冬がいい。

冬の寒さに弱い当方としては、最後の一文、まったく同感、激しく同意します(笑)。

ちなみに我が家の猫も、コタツの中や日向のマッサージチェアなどに居ることが多くなりました(笑)。

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続いて、一昨日の『朝日新聞』さん北海道版。

湯めぐり編 観音湯 仏に見守られ「極楽、極楽」

 お金には未(いま)だに縁がないが、学生の頃はもっとなかった。だから旅に出ると、野宿か、ちょっと贅沢(ぜいたく)してユースホステル。当時は寺経営のユースが結構あり、飛騨高山の寺ではドラム缶風呂に入った。でも仏像が見守るお風呂は、登別温泉の浄土宗観音山聖光(しょうこう)院にある「観音湯」がはじめて。

 寺の縁起は1895年。室蘭の満冏(まんけい)寺の住職が登別に開いた説教所に遡(さかのぼ)る。その後寺は解体するが、現住職である渋谷隆芳さんの父隆道が1950年に再建。62年から92年まではここもユースホステルを営んでいた。「食べていくための副業です」と隆芳さん。

 温泉は隆道が67年に発見。400メートル離れた源泉を家族や檀家(だんか)らと苦労して引いてきた。「ここの湯は殺菌力が強く、傷の治りが早いんです」。ほぼ中性だが硫黄臭のある温泉。2009年に素泊まりの「宿坊」を開業したが、日帰り入浴は浴室清掃の大変さから2年ほど前にやめた。

 宿泊の7~8割は外国人で、それも欧米の人。「日本人はいい所に泊まろうとするけど、欧米の人は宿代が安く味わいのある所を探します」と隆芳さん。“観音寺”とも呼ばれる寺の本堂には、彫刻家高村光雲の弟子筋にあたる3代目東雲が彫った34体の観音像と、寄進された円空の「聖(しょう)観音像」が安置されている。

 肌にやさしく、よく温まるお湯。その泉質は浴槽を覆う石灰華からも伝わってくる。観音様に見守られながら入るお風呂は、まさに「極楽、極楽」。

 (文と写真・塚田敏信)

002

三代高村東雲。光太郎の父・光雲の師匠・初代東雲の孫です。

光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)から。

今一人、私の弟子には違ひないが、家筋からいへば私の師匠筋の人――私の師匠東雲師の孫に当たる高村東吉郎君(晴雲と号す)があります。(「その後の弟子のこと」)

二代目東雲の栄吉氏の子息は、祖父東雲師の技倆をそのまま受け継いだやうに中々望みある人物であります。此は私の弟子にして、丹精致しまして、目下独立して高村晴雲と号して居ります。三代目東雲となるべき人であります。只、惜しいことには、健康すぐれず、今は湘南の地に転地保養をして居りますが、健康恢復すれば、必ず祖父の名を辱めぬ人となることゝ私は望を嘱して居ります。(「東雲師の家の跡のことなど」)

三代東雲、戦後の昭和26年(1951)まで北海道にいたそうで、聖光院さんに納められているのはその頃作った諸仏なのでしょう。帰京する帰途、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に立ち寄り、自作の観音像を光太郎に贈っています。ちなみにその令孫は三代高村晴雲として、今もご活躍中です。

当方、久しく北海道には足を踏み入れていませんが、いずれそのうち、と思っております。


最後に、『週刊ポスト』さん。11/8・15号の書評欄から。

【平山周吉氏書評】伝説の俳人・河東碧梧桐に肉迫

【書評】『河東碧梧桐 表現の永続革命』/000石川九楊・著/文藝春秋/2500円+税
【評者】平山周吉(雑文家)
「五七五のリズムの生れるべき適当な雰囲気が、芭蕉の身辺に醸生してゐたのではないでせうか」「芭蕉の時代に近い、それと相似た雰囲気のもとに立たねば、再び五七五のリズムの物をいふ時は復帰しないのではないでせうか」
 本書に引用されている河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の『新興俳句への道』の一文である。碧梧桐は高浜虚子と並ぶ正岡子規門下の巨人だった。虚子が花鳥諷詠を愛で、「ホトトギス」を一大文芸企業に発展させたのに対し、碧梧桐は旅を続け、定型を破壊し、遂には俳壇を引退した。
 書家・石川九楊による評伝『河東碧梧桐』は、俳句と書のいずれでも近代の最高峰となった碧梧桐を描き出す。「近代史上、書という表現の秘密に肉迫した人物は、河東碧梧桐と高村光太郎の二人しかいない」という判断があるからだ。俳句は五七五と指折り数えてヒネるのではない。俳句の母胎である「書くこと」=書字へと降りて行くことによって新たな俳句へ至るという「俳句―書―俳句」なる回路の作句戦術に向かった」のが碧梧桐だ。
 明治末、碧梧桐は六朝書の新鮮な衝撃をバネに子規的世界から離脱できた。その当時は、「書は文芸と密接な関係にあり、切り離すことはできない」(『近代書史』)時代だった。いまでは視えなくなったその関係が多くの図版を援用しながら論証されていく。
 碧梧桐の俳句は活字ヅラで読むより、書として鑑賞する時に、その「自由で愉快な」魅力が伝わってくる。日本の近代化が「西欧化」であると同時に「中国化」でもあったことをも、碧梧桐を論じることで解明していく。
 著者は「かく」ことなくして文はない、という強力なワープロ・パソコン否定論者である。本書の中では芥川賞を二種に分け、手書きの「芥川賞」と別に「e芥川賞」をと提言している。その箇所を読んでいる時に思い出したのは長らく芥川賞銓衡委員を務めた瀧井孝作のごつごつとした選評の文章だった。瀧井こそが碧梧桐に激しく傾倒した大正文学青年だった。

平成27年(2015)、NHKさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で、講師を務められた書家・石川九楊氏の新著書評です。

石川氏、けっこうな光太郎ファンで、これまでのご著書でも、光太郎の書をだいぶほめて下さっていましたが、「近代史上、書という表現の秘密に肉迫した人物は、河東碧梧桐と高村光太郎の二人しかいない」は、ほめすぎではないかという気もします(笑)。


3日ほどこのような内容でしたが、とりあえずストックは吐き出しました(笑)。明日から他の内容で。


【折々のことば・光太郎】

父の遺作がどの位世上に存在するかは関東大震災があつた為にその調査が中々困難である。今度長岡市有志の方々が長岡市所在の父の遺作を一堂に集めて展観せられるといふ事を知つて喜びに堪へない。かねてから同市には父の第一品が多いと聞えてゐるので之は見のがし得ない催であると思ひ、感謝と期待とを以て其日をたのしみにゐる。

散文「高村光雲作木彫展観」全文 昭和12年(1937) 光太郎55歳

同年5月23日、一日限定で長岡市の常盤楼という料亭を会場に開催された「高村光雲作木彫展観」出品目録に掲載された文章です。この出品目録を入手したいと思って探してはいるのですが、なかなか難しいですね。

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昨日からのつながりで、まず、新聞各紙に載ったコラム等から。

最初は、11月10日(日)、『産経新聞』さんに載ったイラストレーターのみうらじ001ゅん氏の連載コラム「収集癖と発表癖」。サブタイトルが「菊人形 恐怖乗り越え仲間入り」。

みうら氏といえば、その仏像愛でも有名で、今年、開眼100周年を迎えた光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による信州善光寺さんの仁王像等をめぐる「善光寺サミット」でも講師を務められました。

長いので全文は引用しませんが、幼児期から最近までの、菊人形を巡るみうら氏の体験等がユーモラスに語られています。

京都ご出身のみうら氏、幼稚園に通われていた頃、お母様たちに連れられて、初めて見た菊人形展で、リアルなその人形に恐怖を覚え、トラウマとなったそうです。なるほど、小さい子供にとっては恐ろしく見えるかもしれません。

しかし、長じて、「トラウマを再調査したくなって」、各地の菊人形展を積極的に見て歩いたそうです。


 角川映画『犬神家の一族』で菊人形が生首と変わるシーンを観(み)た時、原作者の横溝正史もたぶん幼い頃、僕と同じような体験をしたに違いないと思った。
 以来、トラウマを再調査したくなって、大阪の遊園地、ひらかたパークの『ひらかた大菊人形展』(現在は終了)や、福島県の『二本松の菊人形』の会場に足を運んだ。こんなカンジである(写真❷)。



 写真❸は、二本松の菊人形による『智恵子抄』の一幕。何とストーリー仕立てで、智恵子と夫である高村光太郎(当然、ご両人は体中に菊の花を差し、グラム・ロック・テイストで)舞台から迫(せ)り上がってくるという仕掛けだ。僕の驚きは恐怖からそのエンターテインメント性に移行し、釘付(くぎづ)けとなった。
 そして、“いつか僕も菊人形の仲間入りをしてみたい”とまで思ったのだが、NHK大河ドラマの出演経験もなく、まして高村光太郎のような偉人でもない僕にとってそんなチャンスは訪れるはずもない。

しかし、昨年、ご自身のイベント会場にご自身の菊人形を飾られたとのこと。素晴らしい「菊人形愛」です(笑)。

ちなみにみうら氏がご覧になった二本松の光太郎智恵子、平成6年(1994)のようです。二本松の菊人形、現在開催中ですが、最近は光太郎智恵子人形が出なくなってしまいましたので、このブログではご紹介していません。ぜひ復活させてほしいものです。

平成26年(2014)の光太郎智恵子。

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翌平成27年。この年は智恵子のみでした。



続いて、11月12日(火)の『読売新聞』さん。「時代の証言者」という連載で、001サブタイトルが「令和の心 万葉の旅 中西進19 比較文学 広がる視野」。新元号「令和」の考案者であらせられる国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏へのインタビューです。

これも長いので全文は引用しませんで、光太郎に関わる箇所のみ。

 そもそも日本文学とか中国文学とか生物学、天文学というのは、人間が勝手につくったジャンルで、古代の人は、漢籍どころか、中東の影響も受けながら、日々、自然を見つめ、天を眺め、生命の歌を歌っている。それをしっかり受け止めるには、広く世界のことを見つめなければならないと思います。
・春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(をとめ)
 これは万葉集を編纂(へんさん)した大伴家持(やかもち)の代表歌ですが、この歌は、聖書の「アダムとイブ」や中国の唐代に盛行した樹下美人図にも通じるところがあります。
《樹下に立つ女性を描く樹下美人図は、古代アジアでは広く行われ、唐代に流行した》
 現代では高村光太郎の詩「樹下の二人」にもつながります。このように古典の息吹を現代に伝えるには、幅広い目配りが大切です。


なるほど。

中西氏、ご専攻は比較文学ですので、まさにこういったお考えなのでしょう。言わずもがなですが、「樹下の二人」(大正12年=1923)は「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な、智恵子の故郷・二本松を舞台とした詩です。


もう1件、同日の『毎日新聞』さん。

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デジタル版の記事は、もう少し長い内容でした。そして結びが「「時代の先端は福島のほんとの価値に気づいています」と左今さんが言った。 福島の名峰、安達太良(あだたら)山(1700メートル)の上に広がる美しい空を「 ほんとの空」と表現した詩人・高村光太郎の妻智恵子の言葉を想起させた。

これも「なるほど」と思わせられました。


続いて、安達太良山系のテレビ放送もご紹介しておきます。

にっぽんトレッキング100「満喫!紅葉ワンダーランド~安達太良山&磐梯山~」

NHK BSプレミアム 2019年11月20日(水)  21時00分~22時00分

今回の舞台は福島を代表する安達太良山と磐梯山。紅葉の名山としても知られる2つの山で秋を満喫!水と火山が生んだ絶景が錦秋の山々に彩られる様はまさにワンダーランド!
古くは万葉集にも歌われた安達太良山。いまが紅葉の真っ盛り。美しい渓谷沿いを歩けば、滝と紅葉との見事なコラボレーションが!歩いてしかいけない温泉の山小屋に泊り、絶景の稜線を堪能する。一方、300もの湖沼群が作り出す絶景が魅力の裏磐梯。神秘的な沼と紅葉がこの時期ならではの景観を生み出している。さらに磐梯山に登れば、火山が生み出す絶景の数々に遭遇!秋真っ盛り、火山と水と錦秋のトレッキングを満喫!

出演 大杉亜依里 一双麻希  語り渡部紗弓 大嶋貴志

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安達太良山。「令和」改元に伴って、『万葉集』という強力なライバルが出現してしまい(笑)、「『智恵子抄』に謳われた山」という枕詞が使われなくなってきましたが、「ほんとの空」的な紹介もしていただきたいものです。


それから、地上波テレビ朝日さんでは、安達太良山、智恵子の生家等でロケが行われた、伊東四朗さん、羽田美智子さん主演の「おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査 東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」の再放送があります。11/18(月)13:59~15:53です。

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一般に仏像といへば、殆ど金ピカなるものであるが、清浄な白木の仏像の製作を亡父は思ひ立つたのである。

散文「父・光雲作の仏像」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

彩色を施さない白木の仏像。確かに寺院のご本尊などにはありませんね。古仏で彩色が剥げ、白木のように見えるものも、元々は極彩色だったわけで。

またまた溜まってしまっています(笑)。2日に分けてご紹介します。

まず、先月30日、『読売新聞』さんの北海道版。

伊藤整の青春時代 特別展 小樽 写真や詩など200点

 小説、詩、評論に幅広く活躍した小樽ゆかりの文学者・伊藤整の青春時代にスポットを当てた特別展が、市立小樽文学館(小樽市色内)で開かれている。
 没後50年を記念した展示「伊藤整と北海道」で、旧塩谷村(小樽市塩谷)で育ち、上京するまでの歩みを伝える写真や詩の草稿、創作ノートなど約200点が並ぶ。
 小樽高等商業学校(現・小樽商科大)時代の演劇大会の写真には、羊に扮(ふん)した先輩の小林多喜二と伊藤が舞台の隅に並んで写っている。
 初の詩集「雪明りの路」(1926年)は、後半部分の直筆原稿などが展示されている。小樽市の中学校教諭だった21歳の時に自費出版したこの作品は伊藤の飛躍の契機となり、小樽の名物行事に今も名を残す。
 会場には文学誌に載ったこの詩集の広告も展示され、詩人・彫刻家の高村光太郎は推薦文で伊藤の詩を「(ロシアの作家)チェホフの様な響」と評した。
 展示は11月24日まで。同9日には作品の解説講座とミニ文学散歩(ともに無料)も行う。問い合わせは同文学館(0134・32・2388)へ。


というわけで、小樽文学館さんで開催中の特別展「歿後50年 伊藤整と北海道展」の紹介です。

002

記事にある光太郎の評とは、昭和2年(1927)3月の雑誌『椎の木』に載ったもので、「「雪明りの路」の著者へ――伊藤整詩集――」の題で、『高村光太郎全集』別巻に掲載されています。おそらく、伊藤宛の礼状そのままを引用したと思われる文章です。

 あなたの著書「雪明りの路」をいただいてからもう二三度読み返しました。その度に或る名状し難い深いパテチツクな感情に満たされました。チエホフの感がありますね。この詩集そのものもどこかチエホフの響がありますね。

「パテチツク」は仏語で「pathétique」。「感傷的な」「哀れな」「悲愴な」といった意味です。


続いて、11月12日(火)、『信濃毎日新聞』さん。一面コラムです。

斜面(11月12日)

教科書で出合った高村光太郎の「道程」は不安定な思春期を勇気づけた詩だ。<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る…>。周りの反対を押し切って智恵子と結婚した年の発表である。わが道を行く強い決意と高揚感が感じられる

   ◆

きのうの信毎選賞贈呈式の若い受賞者に、この9行の詩が重なった。女子柔道の出口クリスタさんとピアニストの藤田真央さん。ともに3歳から始めた道を力強く歩んでいる。出口さんの転機は父の母国カナダの代表として東京五輪を目指す決断だった

   ◆

迷いが吹っ切れたのか自信を持って戦えるようになり、8月の世界選手権初優勝。来夏の「金」へ突き進む。藤田さんもやはり果てしない音楽の道に真摯(しんし)に向かう決意をした。ベートーベンの曲演奏で、自らを信じ歩み続ける強さを感じる作品で自分の気持ちと同じ―と紹介した

   ◆

原点は県ピアノコンクールという。2歳上の兄に負けた悔しさが6月のチャイコフスキー国際コンクール2位につながった。団体受賞の日本ジビエ振興協会も道を切り開く。イノシシやシカの肉を活用するシステム作りは農業の存亡にもかかわる問題だ

   ◆

現地に出向いて新鮮なうちに処理する車を開発するなど数々の工夫を重ねる。信州発の先進的な試みに全国が注目する。飯田OIDE長姫高校原動機部は電気自動車の製作に取り組んで10年目。全国大会の高校部門で8連覇した。飽くなき向上心と積み重ねが頼もしい技術者を育てている。


信毎選賞」というのは、同社の主催で、県内在住、または長野県に関わりが深く、文化、スポーツ活動などを通じて社会に貢献し、将来なお一層の活躍が期待できる個人、団体を顕彰するものだそうです。

女子柔道の出口クリスタ選手。当方、柔道有段者ですのでよく存じていますが、ご存じない方のために解説しますと、長野県の松商学園さんから山梨学院大さんに進み、現在は日本生命さん所属の選手です。以前は全日本の強化指定選手でしたが、お父さんがカナダ人ということで、カナダ代表の道を選びました。やはりオリンピックでは各階級一人しか代表に選ばれませんので、ある意味苦渋の決断だったと思われます。来年の東京五輪での活躍が期待されます。

藤田真央さんという方は、当方存じませんでしたが、今年のチャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞されたそうです。「真央」さんなのでてっきり女性だと思いこんでいましたが、男性でした。すみません。

さらに団体受賞の方々も。

みなさん、<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る…>という「わが道を行く強い決意と高揚感」を持って、今後もご活躍いただきたいものです。


最後に同日の『岩手日報』さん。やはり一面コラムです。

風土計

 「(賢治は)将来、啄木ほど有名になる可能性がありますか」。そんな質問に、詩人の草野心平は困った。宮沢賢治の没後に発刊した全集を何とか売りたい、と在京岩手の人々に相談した時のことだ
▼「あります」と答えたものの内心、確信はない。「可能性があるなら、応援してもいいだろうけど…」と質問者。全く無名の作家の本を売る。その支援を、同じ岩手出身の人から得るのさえ楽ではなかったらしい
▼心平の命日のきょう、全集発刊の労を思う。賢治を世に出した功績者だが、当時は売れる見込みはない。出版社の命取りにもなりかねない。それでも諦めなかったのは、「いつか必ず読まれる」の一念だったろう
▼そういう話を新鮮に感じるのは、あまりに目先の利を追う時代だからかもしれない。企業や大学では基礎研究より「実利」が重んじられる。高校の国語教育も、3年後は教養より「実用」に重きを置くという
▼今は何の富も生まないが、いつか必ず役に立つ。そう考える余裕が社会から失われて久しい。目先の利を追う時代だったら、賢治が世に現れることもなかったのだが
▼「同時代には、近すぎて全貌が目に入らない。でも100年、200年後には拝まれる人だろう」。金田一京助はそう賢治を評した。100年の時を経て、本当の価値が光を放ち始めるものもある。

光太郎の名は出て来ませんが、当会の祖・草野心平が、光太郎ともども手がけた『宮澤賢治全集』に関してです。心平らの「目先の利」を追わない姿勢があったからこそ、今日、賢治が世界的に有名になりました。考え指させられる内容です。

あと4件ほどご紹介すべき記事等がありまして、明日、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

美というものはだんだん進んで行くのであつて、三段跳びのようにとぶものではない。その進み方は面白い。

講演筆録「美の源泉」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

自ら「美」を創出すると共に、先人達の残した「美」にも関心が高く、美術史についても一家言持っていた光太郎ならではの発言です。

『朝日新聞』さんの岩手版に載った記事です。

岩手)高村光太郎のはがき寄贈 70年前に受け取る

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が戦後、高橋光枝岩手県花巻市の山荘で蟄居(ちっきょ)していた約70年前に、ファンの中学生から来た手紙に返信したはがきが、受け取った本人から同市の高村光太郎記念館に寄贈された。戦争賛美したことへの自責の念から彫刻を封印していたとされる当時の光太郎だが、詩作や彫刻への思いを記しており、心境を伝える貴重な新発見だという。
 「おてがみが こんな山の中へまで来ました」。こんな書き出しで始まるはがきを、寄贈者である神奈川県横須賀市の高橋光枝さん(85)が受け取ったのは、終戦から5年後の1950(昭和25)年9月のことだ。
 高橋さんは当時、横浜市在住の中学3年生。光太郎の詩集「智恵子抄」のファンで、彫刻展で見た光太郎のセミの彫刻に感激して太田村山口(現花巻市)の光太郎に宛てて手紙を送ったところ、この返信が来たという。

「書いた手紙の内容は忘れたが、お返事をくれた優しさがうれしく、生涯の宝としてずっと大切に保管してきた」と高橋さん。今年8月、親類の法事で岩手県奥州市を訪れた際、約50年ぶりに花巻市の光太郎の山荘を訪れて立派な記念館ができているのに感激し、「わかる人に見てもらいたい」と寄贈の意向を伝え、9月に正式に寄贈した。
 返信のはがきを送った当時の光太郎は、東京大空襲で焼け出され、宮沢賢治との縁を頼って花巻に疎開、そのまま粗末な山荘に蟄居して5年目だった。戦時中に戦争賛美したことなどを悔いた光太郎は当時、彫刻を封印していたとされるが、はがきには、自作が若い人の心に触れたことに「大変はげまされます」と感謝を伝えたうえで「この山にいて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居(お)ります」と記しており、彫刻への意欲もうかがえる。
 「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」の制作依頼が来て、光太郎が山荘を離れるのはその2年後。はがきを読んだ光太郎研究者の小山弘明さん(55)=千葉県香取市=は「ファンレター的な手紙に返信した例はほとんどなく、若い世代への期待も見て取れる。山荘時代も手すさびで小さなセミなどを作っていたという目撃談もあり、創作再開への意欲は当時からあった。十和田湖の像の依頼が来る前は、死ぬまで太田村にいるつもりだったことが再確認できるという意味でも貴重な資料だ」と話している。
 はがきは12月7日から来年1月27日まで光太郎記念館で開かれる冬季企画展「光太郎からの手紙」に展示される。(溝口太郎)


花巻高村光太郎記念館さんに、横須賀在住の高橋さんという女性が光太郎から受け取ったはがきを寄贈されたというニュース。

先月、市民講座の講師を仰せつかって花巻を訪れた際、市役所の担当の方から「こういうものの寄贈があったのですが」とコピーを渡され、調査いたしました。当初、消印の年月日ががなかなか判読できず、何年のものかを特定するのに手間取りましたが、光太郎が郵便物等の授受を記録した「通信事項」というノートがあり、昭和25年(1950)9月、確かに高橋さんから手紙を受け取り、返信をしたという記録がありました。

文面は以下の通り。

おてがみがこんな山の中へまで来ました、
小生の作つたものが若い人達の心に触れたといふお話をきくと不思議のやうにも思はれ、又大変はげまされます、
おてがみに感謝します、
この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります、


上野で光太郎の木彫「蝉」をご覧になって感動した高橋さんが、光太郎にその気持ちを伝えたことに対する返信だそうです。戦後、光太郎存命中にその作品がまとめて展覧会等に出たのは3回しかなく、そのうち2回は昭和27年(1952)の帰京後。すると、高橋さんがご覧になったのは昭和23年(1948)、上野の東博さんで開催された「近代日本美術綜合展覧会」か、と思いましたが、2年もたっていますし、その際には「蝉」は並びませんでした。となると、やはり東博さんで常設展示のような形で出していたのかもしれません。

若い人達」云々。戦後の光太郎は、若い世代に対して、新生日本を作っていってほしいという期待をかけ、あちこちの学校で児童生徒や教員などに対し、講演や講話を行ったりもしていました。そうした気持の一つの表れのような気がします。

最後の一文中の、「この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもり」。昭和25年(1950)当時、光太郎は確かにこう考えていました。昭和27年(1952)に帰京したのは、岩手の山小屋では不可能な「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためで、それが終われば山に帰るつもりでいました。実際、「乙女の像」除幕後の昭和28年(1953)には一度、山に帰ったのですが、健康状態がもはや山での生活に耐えられず、やむなく再上京(それでも住民票は昭和30年=1955まで移しませんでした)、結局、東京で歿することになります。

とまあ、そういったお話も電話取材に対してしたのですが、紙幅の都合でそこまでは載せられなかったようですので、補足します。

というわけで、貴重なはがきのご寄贈、ありがたい限りです。

その他、新聞各紙でやはり光太郎の名が出ているコラム、記事等がまたいろいろありまして、明日はそのあたりをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

先生方が別に美について説明したり教えたりする必要はない。ただ身体の中に持つていてもらいたいのです。自然にそれがにじみ出してくる。それでいいのです。人間は何も持つていなければ際限なく低くなつてゆく性質があります。

談話筆記「美の日本的源泉」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

光太郎が暮らしていた山小屋近くの山口分教場で行われた講話の筆記から。昭和17年(1942)の『婦人公論』に連載した「日本美の源泉」をもとにした連続講話ですが、上記の「あちこちの学校で児童生徒や教員などに対し、講演や講話を行った」一つの例です。

それにしても「人間は何も持つていなければ際限なく低くなつてゆく性質があります」。昨今の「ナントカを見る会」の報道に接すると、その通りだなあ、と思います。

学会情報です。

第64回高村光太郎研究会

期 日 : 2019年11月23日(土)
会 場 : 江東区立東大島文化センター 東京都江東区大島8-33-9
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円 

研究発表
 「黄瀛から見た光太郎・賢治・心平」  
   元いわき市立草野心平記念文学館 小野浩氏

 「高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「命」とは」
   当会顧問北川太一氏子息 北川光彦氏

 「光太郎の書について―普遍と寛容―」
   書家 菊地雪渓氏

終了後懇親会有り

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当方も加入しております高村光太郎研究会主催の研究会で、年に一度開催されています。

今年の研究発表はお三方(例年、お二方なのですが)。皆さん連翹忌ご常連で、さらに連翹忌以外にも、あちこちのイベント等でお会いしています。当方としては気心の知れた方々です。

小野浩氏は元いわき市立草野心平記念文学館さんの学芸員。「いわき賢治の会」等でも活動されています。そこで、宮沢賢治、当会の祖・心平、そして花巻まで賢治を訪ねていった黄瀛らと光太郎との関わり、といった内容のようです。

北川光彦氏。当会顧問・北川太一先生のご子息です。ご本人は「門前の小僧で……」とおっしゃっていますが、最近は文治堂書店さんのPR誌『トンボ』にも寄稿されるなど、精力的に活動されています。

書家の菊地雪渓氏は、光太郎詩文による書作品で、昨年の第38回日本教育書道藝術院同人書作展会長賞や第40回東京書作展特選といった栄冠に輝いています。さらに今年の第41回東京書作展では内閣総理大臣賞(大賞)だそうです。


研究会への入会は年会費3,000円の納入で、どなたでも可。年刊機関誌『高村光太郎研究』が送られ、そちらへの寄稿が出来ます。入会しなくとも年に1回の研究会のみ聴講も可能です。


ぜひご参加を。


【折々のことば・光太郎】

このつつましく、ほつそりと何気なく立つてゐる仏弟子の美しさは彫刻的要約の一典型であり、かういふ美は他に比類が無いやうだ。

散文「興福寺十大弟子」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

奈良興福寺さんの十大弟子像は、有名な阿修羅像と同じく天平期の乾漆像です。やはり光太郎の範とする彫刻のあり方の一つの典型例なのでしょう。

下記はこの文章の掲載誌『日本美術の鑑賞 古代篇』(帝国教育界出版部 北川桃夫・奥平英雄共編)より。


毎日のように言い訳をしていますが、とりあげるべき事項が多く、今日も「智恵子抄」がらみで3件まとめてご紹介します。余裕のある時は1件ずつ3日に分けるのですが……。


まずは、名古屋からコンサート情報。

伊藤晶子ソプラノリサイタル ~演奏生活70周年を記念して~

期 日 : 2019年11月16日(土)
会 場 : ザ・コンサートホール 愛知県名古屋市中区栄2-2-5
時 間 : 14:00開演
料 金 : 4,000円

プログラム
 本居長世 十五夜お月さん 青い眼の人形 白月  小松耕輔 母
 大中寅二 椰子の実   平井康三郎 歌曲集「日本の笛」より   團伊玖磨 三つの小唄  
 朝岡真木子 改訂初演「智恵子抄」
  人に あどけない話 風にのる智恵子(委嘱・初演) 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌

追記 「風にのる智恵子」がプログラムに入っていたのはフライヤーの印刷ミスだそうで、正しくは「値ひがたき智恵子」です。

出演 伊藤晶子(sp) 伊藤眞理(pf) 朝岡真木子(pf)

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朝岡真木子さんとおっしゃる方の作曲になる独唱歌曲「智恵子抄」全5曲が演奏されます。ありがたいことです。


続いて、地方紙『福島民報』さんの記事。

丘灯至夫さんの作品合唱 東京で「歌う会」

 小野町出身の作詞家、故丘灯至夫さんの作品を歌う会は九日、都内の品川プリンスホテルで開かれた。
 丘さんが二〇〇九(平成二十一)年に他界する前からほぼ毎年開催している。十六回目の今回は、芸能関係者や親交のあった知人ら約百人が集まった。
 丘さんの妻ノブヨさんが「年に一度の歌う会の開催を幸せに思い感謝している」とあいさつした。出演者たちがステージに上がって「高原列車は行く」や「郡商青春歌」「智恵子抄」などの名曲を歌った。歌手の水木一郎さん、県民謡連盟会長の佃光堂さんも熱唱。最後は全員が輪になって、大ヒット曲の「高校三年生」を合唱した。

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昨年もちらっとご紹介しましたが、こういう催しが為されているそうです。

作詞家の故・丘灯至夫氏は智恵子の故郷・二本松に近い小野町のご出身で、昭和39年(1964)リリース、二代目コロムビア・ローズさんによる「智恵子抄」は、二本松市の正午のチャイムに使われるなど、二本松市民の皆さんのソウルソングの一つです。


最後に訃報。俳優の中山仁さんが先月亡くなっていたそうで。下記は「共同通信」さんの配信記事。

俳優の中山仁さんが死去 ドラマ「サインはV」でコーチ役004

 テレビドラマ「サインはV」のコーチ役などで活躍した俳優の中山仁(なかやま・じん、本名中山仁平=なかやま・じんぺい)さんが10月12日午後5時25分、肺腺がんのため東京都内の自宅で死去した。77歳。東京都出身。葬儀・告別式、お別れの会は故人の遺志で行わない。

 早稲田大中退後、文学座養成所に入り、劇団「NLT」を経て三島由紀夫らと「浪曼劇場」を設立。1960~70年代に放送されたバレーボールチームが舞台のスポ根ドラマ「サインはV」で、熱血鬼コーチ役を演じて全国に知られた。他の主な出演作にドラマ「七人の刑事」「ウルトラマン80」など。



さらに『朝日新聞』さん。

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中山さん、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん主演)にご出演なさっていました。光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣ぎ、のちに鋳金分野の人間国宝となる豊周(とよちか)の役でした。

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当方、この映画は一度だけ拝見しましたが、非常に爽やかな豊周だったという印象です。

謹んでご冥福をお祈りさせていただきます。


【折々のことば・光太郎】

彼の画はやはらかい画です。偉大、崇高、厳正、剛直、清澄といふ様な性質は無いかも知れません。しかし限りなき太陽の温かさ、親しさ、神々しさをさげ思はせます。そして徹底的に自己の道を極め尽した大きな魂を思はせます。自己の天凜を生かし尽した人の貴さを思はせます。

散文「美術院の将来品―ルノワール、セザンヌと、ロダン―――」より
大正9年(1920) 光太郎38歳


光太郎が範とした芸術家のうち、彫刻家はミケランジェロとロダンでした。絵画の分野では、ルノワール。その評はイコール、光太郎のあるべき絵画観、芸術観を如実に表しています。

毎年ご紹介しておりますので、失念していたわけではないのですが、いろいろご紹介すべき事項が多く、気がついたら既に始まっていました。

20周年! お坊さんに会いに行こう! 知恩院秋のライトアップ2019


期  間 : 2019年11月1日(金)~12月1日(日)

時  間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)

場  所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
        三門下周辺、友禅苑、女坂、国宝御影堂外観、宝佛殿、方丈庭園

料  金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)

約8年間の大修理が行われ、2020年春に落慶を迎える国宝「御影堂」や、9年ぶりの夜間拝観となる「方丈庭園」、日本最大級の木造二重門である国宝「三門」、宮崎友禅ゆかりの庭園「友禅苑」など、境内各所をライトアップいたします。

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主な見どころ

国宝 三門

元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した 高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」(三解脱門)を 表すことから三門といいます。


国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。
間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。


宝佛殿

平成4(1992)年に建立。和様式重層寄棟造りで、 堂内には高さ4.8mの阿弥陀如来立像、四天王が祀られています。

方丈庭園(9年ぶり)
江戸時代初期、小堀遠州と縁のある僧玉淵(ぎょくえん)によって作庭されたと伝えられる池泉式の庭園です。方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、情緒あふれる美しい風景をかもしだしています。
※11月19日(火)~24日(日)は山内行事のため、時間帯によって拝観できない場合があります。 詳しくは当日スタッフにお尋ねください。

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。

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京都では珍しい、露座の光雲作聖観音像が毎年ライトアップされています。

法話やコンサート、フォトコンテストなど、関連行事も充実しています。ちなみに昨年のフォトコンテストで最優秀に当たる「ナムいで賞」に輝いたのは、光雲原型の観音像を撮った一枚でした。賞品は「和順会館(宿坊的な)ペア宿泊券(お坊さんの案内付き)」だそうです。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】
ミケランゼロの芸術は、自然の豪壮偉大を最もよく出してゐるが、ロダンはもつと自然的である。小宇宙的である。例へば、花の愛らしさ、岩石の強さまでも表現しわけることの出来るやうな内容的なものとなつてゐる。

談話筆記「巨匠ロダン翁」より 大正6年(1917) 光太郎35歳


こういう場合の常ですが、光太郎が範とした人物の評は、そのまま光太郎の理想的な芸術の一面を物語り、光太郎贔屓の当方などは、そのまま光太郎自身の評としてもいいように感じます。

11月7日(木)、ぽっと時間が出来ましたので、群馬県に行っておりました。


前橋市の前橋文学館さん、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんをハシゴ。現在、両館で共同企画展「萩原恭次郎生誕120年記念展」を開催中です。

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両館のフライヤーを並べると、一枚につながるというなかなかのアイディアです。

萩原恭次郎は、明治32年(1899)、群馬県勢多郡南橘村(現・前橋市)生まれの詩人。萩原朔太郎とは血縁は無いそうですが、10代の頃から朔太郎の元に出入りし、影響を受けていました。

筑摩書房さん刊行の『高村光太郎全集』には恭次郎の名は出て来ませんが、『全集』完結後に見つけたアンケート「上州とし聞けば思ひ出すもの、事、人物」(『上州詩人』第17号 昭和10年=1935)に、その名が記されていました。

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曰く「上州と聞けば赤城山 高橋成重、萩原恭次郎」。「高橋成重」は「高橋成直」の誤植と思われます。「高橋成直」は、前橋出身の詩人・高橋元吉のペンネームです。

「上州とし聞けば」の問いに、朔太郎や山村暮鳥の名をあげず、恭次郎の名を出している光太郎。あまり深い交流はなかったものの、作品から受けるインパクトが余程強かったのではないかと思われます。ちなみに光太郎と恭次郎、同じ雑誌やアンソロジーで、共に作品が掲載されているというケースが結構ありました。

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そんなわけで、群馬の二館をハシゴした次第です。

まず向かったのは、前橋文学館さん。こちらに伺うのは初めてでした。

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こちらでの展示に関しては、以下の通り。

萩原恭次郎生誕120年記念展「何物も無し!進むのみ!」

期  日 : 2019年11月2日(土)~2020年1月26日(日)
会  場 : 前橋文学館 群馬県前橋市千代田町三丁目12-10
時  間 : 9:00~17:00
休館日 : 水曜日 年末年始(12/29~1/3)

料  金 : 400円
      11月9日(土) 12月7日(土) 1月9日(木) 1月11日(土)は無料


多くの近代詩人を輩出してきた前橋。その中にあって、大正末期から昭和初期にかけて、きわめて先鋭的な活動を展開した詩人・萩原恭次郎――。
初期の抒情詩を経て、未来派、ダダイズム、構成主義といった前衛芸術の波に身を投じ、1925(大正14)年には、日本におけるアヴァンギャルド芸術運動の記念碑的詩集『死刑宣告』を刊行。アナキズム、農民詩へとスタイルを変え、美術や音楽、舞踊、演劇など、他ジャンルとの往還的な活動を繰り広げ、39歳で早逝した詩人は、常に時代の先端を疾走し続けました。
本展では、生誕120年にあたって、その前衛性や革新性を中心に、萩原恭次郎の詩作品と活動の軌跡を紹介します。

 
また、萩原恭次郎生誕120年記念展は群馬県立土屋文明記念文学館においても開催されます。
コラボ企画も複数ありますので、是非両館に足をお運びください!


[コラボ企画]
群馬県立土屋文明記念文学館×前橋文学館両館の展示をご覧いただいた方に、『月に吠えらんねえ』オリジナルグッズを差し上げます。
※両館の観覧券の半券を、どちらかの館の受付にご提示ください。
他にも様々な連動企画を予定しています。お楽しみに!


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関連行事

学芸員による展示解説
2019年11月9日(土)、12月7日(土)、2020年1月11日(土)
*各日とも13時00分〜14時00分

詩集『死刑宣告』を踊る
期 間 : 2019年11月16日(土)
会 場 : 前橋文学館 3階ホール
内 容 :
舞踏家・奥山ばらばさんが萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』をイメージした舞踊を群馬交響楽団・片倉宏樹さんのコントラバスに合わせて、オリジナルの振付で踊ります。公演後は舞踊評論家・鈴木晶さんと萩原朔美館長も交え、萩原恭次郎と舞踊の関係性を紐解くアフタートークを行います。
〈出演〉
舞踊 奥山ばらば(舞踏家)
コントラバス演奏 片倉宏樹(群馬交響楽団)
アフタートーク 鈴木 晶(舞踊評論家)×奥山ばらば×萩原朔美(前橋文学館館長)

 
「孤児の処置」(村山知義作)リーディングシアターVol.10
期 間 : 2019年12月14日(土)
会 場 : 前橋文学館 3階ホール
内 容 :
創作上で互いに深く関係しあっていた村山知義と萩原恭次郎。恭次郎の第一詩集『死刑宣告』には前衛的な文芸美術雑誌「マヴォ」を主宰した村山らの写真が挿入され、日本近代詩に視覚的な変革をもたらした作品として高い評価を得ました。また、村山が手掛けた戯曲作品「孤児の処置」の中には、登場人物が「最近の詩人の詩」として恭次郎の詩「何物も無し!進むのみ!=小さき行進の曲=」を絶叫するシーンがあります。この作品に荒井正人さんが演出を加え、オリジナルリーディングシアターとして上演いたします。
〈演出〉荒井正人
〈音楽〉荒木聡志
〈出演〉手島実優、萩原朔美(前橋文学館館長)ほか 

アフタートーク
やなぎみわ(美術作家・演出家)×荒井正人(演出家)×萩原朔美



こちらは恭次郎遺稿、遺品、作品掲載誌などの展示が中心でした。先ほど、「光太郎と恭次郎、同じ雑誌やアンソロジーで、共に作品が掲載されているというケースが結構ありました」と書きましたが、この展示を見てそう感じた次第です。

また、同館、4階まであり、4階では萩原朔太郎を主人公のイメージとし、光太郎も登場する、清家雪子さん作『月に吠えらんねえ』関連のミニ展示も行われていました。

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左上は窓に提げられたタペストリー。第4巻の表紙原画を元にしたもので、アッコさん(与謝野晶子)とチエコ(智恵子)があしらわれています。これは欲しい、と思いました。

右上は、ミュージアムショップで購入した缶バッヂ。コタローくん(光太郎)とチエコさん(ロボット)です。

さらに清家さん筆、物語の舞台である□街(しかくがい・詩歌句街)地図。


左下にコタローくんが。


続いて、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんへ。意外と近かったので、驚きました。

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こちらの展示情報です。

萩原恭次郎生誕120年記念展「詩とは?詩人とは?ー大正詩壇展望ー」

期  日 : 2019年10月5日(土)~12月15日(日)
会  場 : 
群馬県立土屋文明祈念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000
時  間 : 9:30~17:00
休館日 : 火曜日
料  金 : 一般410円 大高生200円

詩人萩原恭次郎の生誕120年を記念した企画展です。
萩原恭次郎は、大正時代を通じて詩壇の中心に在った民衆詩派に対抗するように、詩集『死刑宣告』によって既存の詩を否定、芸術の改革を叫びました。
本展では、当時の時代背景に着目しながら、大正詩壇の様相及び日本近代詩の変遷に迫ります。草野心平、中原中也らの貴重資料も展示予定です。

同時期開催
前橋文学館 萩原恭次郎生誕120年記念展 「何事も無し!進むのみ!」
前橋文学館と連携し、両館で切り口を変えた展覧会を同時期に開催します。コラボレーションした企画を展開し、広報物も両館で一つのデザインになっています。両館観覧特典として、漫画「月に吠えらんねえ」オリジナルグッズも用意しています。


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関連行事

(1)記念講演会
各日14時00分~15時30分 定員150名 無料
• 11月17日(日) 「萩原恭次郎と大正という踊り場」
講師:佐々木幹郎氏(詩人)
• 11月30日(土) 「萩原恭次郎とダダ・未来派・アナーキズム―『死刑宣告』を中心に―」
講師:塚原史氏(早稲田大学名誉教授)
※電話または当館受付カウンターにて事前にお申し込みください。(申込順)
※定員に達しない場合は、当日も受け付けます。

(2)朗読イベント
• 11月4日(月・休) 14時00分~15時30分 定員150名 無料
「詩を声に翻訳する―歌い、叫び、演じ 萩原恭次郎、萩原朔太郎、宮沢賢治、草野心平、中原中也」
演出:萩原朔美(前橋文学館長) 出演:手島実優、磯干彩香(あかぎ団)ほか
※電話または当館受付カウンターにて事前にお申し込みください。(申込順)
※定員に達しない場合は、当日も受け付けます。

(3)展示解説
10月5日(土)、11月3日(日・祝)、12月7日(土) 各日 13時30分~(30分間程度)
※申込不要、参加には企画展観覧券が必要


こちらの展示は、恭次郎をひときわ大きく紹介しつつ、全体としては大正詩壇を概観するというコンセプトで、したがって、光太郎に関してもそれなりに大きく取り上げられていました。代表作「道程」(大正3年=1914)がパネルに大きくプリントされ、詩集『道程』(同)が展示されています。

見返しに「人間の心の影のあらゆる隅々を尊重しよう 高村光太郎」と、詩「カフエにて」(大正2年=1913)の一節の識語署名が入っています。

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ちなみに詩集『道程』は200部ほど自費出版で作られ、50部ほ011どにはこの手の識語署名が入っているとのこと。嘘かまことか、書店を通じてきちんと売れたのは七冊だけだったそうで、現在残っているものは、光太郎が友人知己に献呈したものがほとんどと考えられます(当方も一冊持っていますが)。それでも残本が多く、中身はそのままに奥付と外装を換えて何度か刊行されました。国会図書館さんのデジタルデータで公開されているものは、大正4年(1915)の改装本です。

その他、当会の祖・草野心平や、宮澤賢治、中原中也といった、光太郎と交流のあった人物についてもそれなりに大きく取り上げられており、こちらの図録は購入せざるを得ませんでした(笑)。

それから、こちらでもロビーに『月に吠えらんねえ』の展示。ちなみに両館の半券をコンプリートすると、オリジナルグッズがもらえるということで、いただいて参りました。群馬ということで、朔(朔太郎)、ブンメイ(土屋文明)、恭くん(恭次郎)があしらわれたコースターでした。

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プレミアがつくかも知れません(笑)。

というわけで、両館ハシゴ、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

せめて一度日本に来て奈良あたりの古芸術を見て貰ひたかつた。そして今日翁を信ずる者のある事を知つて貰ひたかつた。

談話筆記「ロダン追悼談話」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

ジャポニスムの影響もあったでしょうが、ロダンは日本贔屓でもありました。確かにロダンに白鳳、天平の仏像などを見せたらどう言っただろうか、興味深いところです。

のんきにあちこち見て回ったり、そのレポートを書いたりしている間に溜まってしまいました。5件、ご紹介します。

まず、先月の『聖教新聞』さん。現在、新宿の中村屋サロン002美術館さんで開催中で、光太郎作品も展示されている「生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念 荻原守衛展 彫刻家への道」について、同館学芸員で、連翹忌にもご参加下さった太田美喜子さんへの長いインタビューが載っています。太田さん、『新美術新聞』さんや、雑誌『美術の窓』さんにも寄稿されたり、NHKさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」にもご出演されたりと、最近、その麗しいお姿をあちこちのメディアさんでお見かけします。

記事全文は長いので全文の引用は致しませんが、光太郎に触れて下さった箇所のみ、以下に。

 荻原が帰国後、新宿につくったアトリエには、戸張孤雁(こがん)や柳敬助、高村光太郎ら、荻原が留学中に知り合った若い芸術家が訪(たず)ねてくるようになりました。当の荻原は毎日、愛蔵と妻・黒光(こっこう)の相馬夫妻が新宿に開業していた中村屋に通(かよ)っていたため、やがて芸術家たちも中村屋に集まるようになったのです。
 相馬夫妻が彼らを温かく迎えたことによって「中村屋サロン」が生まれましたが、荻原は、その中心的人物でした。友人から慕(した)われる彼の人柄がなければ「中村屋サロン」は出来なかったでしょう。


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同展、12月8日(日)までの開催です。


続いて、『毎日新聞』さんの西日本版。11月3日(日)に掲載された記事。やはり光太郎作品も出ている熊本市現代美術館さんでの「きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」展に関してです。こちらも長いので、抜粋で。

日曜カルチャー 近、現代の「彫刻」一望 熊本市現代美術館開催 同館の所蔵品も存在感

 「きっかけは『彫刻』。」。そんなタイトルの二つの展覧会が、000熊本市現代美術館(同市中央区)で開かれている。前者は2019年度国立美術館巡回展(東京国立近代美術館所蔵品展)で、「近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」の副題が付く。後者はCAMK(熊本市現代美術館)コレクション展vol・6。こちらの副題は「現代日本の彫刻と立体造形」となっている。展覧会名はどちらも同じ、副題も酷似していて頭が混乱するが、要するに、東京国立近代美術館と熊本市現代美術館の所蔵品を連続して紹介し、近代から現代に至るまでの日本彫刻の展開をたどる試み。一続きの彫刻展として鑑賞できる。
 鎌倉時代の運慶の例を持ち出すまでもなく、日本には古くから世界に誇るべき彫刻の歴史があった。だが、「彫刻」なる言葉が生まれたのは明治に入ってから。34点で構成する東京国立近代美術館所蔵品展の会場を巡ると、ロダンが、荻原守衛や高村光太郎ら、日本近代彫刻の巨匠たちに多大な影響を与えていたことが分かる。 フランスで直接指導を受けた荻原のブロンズ像「文覚」(1908年)が好例だろう。図録には<恋に悩む作家自身を重ねた作>とあるが、男性の上半身像は力強く、ロダン作品に特徴的な生命感が凝縮されている。
 107歳の天寿を全うした平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は江戸・明治時代には、見せ物とみなされていた生(いき)人形の技術を習得するところから、キャリアをスタートさせた。そのせいだろう、作品のたたずまいは人形的である。「鏡獅子試作頭(かがみじししさくかしら)」(38年)は代表作「鏡獅子」(57年)の試作品として作られた。モデルは歌舞伎の六代目尾上菊五郎。東京・国立劇場のロビーに飾られている完成品は木彫の全身像(高さ約2メートル)で、試作品はブロンズの頭部と違いがあるが、どちらも彩色を施す。本作(試作品)の場合、金箔(きんぱく)を貼り、その上に岩絵の具で着色している。西洋の写実に和の感覚を溶かし込むスタイル。鋭い眼光が名優とうたわれた六代目の精神を映し出す。
(以下略)

同展は11月24日(日)まで開催されています。


続いて、同じく『毎日新聞』さんで、集英社さんから刊行された津上英輔氏著 『危険な「美学」』の書評。11月6日(水)に掲載されました。

危険な「美学」 津上英輔著

「美」という言葉には完璧な「善」のイメージがある。しかし「美化」となると一転する。アニメ映画「風立ちぬ」に登場する「美しい」戦闘機、高村光太郎の戦争「賛美」、「魔の山」で結核を「美的」に描いたトーマス・マン――。美学者である著者は、「美」を感じようとする人の感性が負を正に反転させてしまう、という作用を具体的に例示し、「美」に潜む危険性を解き明かす。美しくも恐ろしい指摘だ。(集英社インターナショナル新書・882円)


同日の『日本経済新聞』さんのコラムにも光太郎の名が。

春秋 2019/11/6付

朝晩、冷え込むようになった。近畿地方では、はや木枯らし1号が吹いたという。札幌も本格的な雪の季節が間近い。東京近郊の公園ではドングリがパラパラと落ち、春、満開の花で人々を楽しませたコブシやサクラの木の葉が黄や赤に色を変え、音もなく散っている。
▼「きりきりともみ込むやうな冬が来た」。高村光太郎の詩「冬が来た」の一節だ。まもなく誰もが実感しよう。「人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た」。しかし、厳しい局面を待ち望み、むしろ挑もうという作者は続けている。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と。
▼いてつきそうな境遇を乗り切ろうとの気概が満ちる。抗しがたい人口構成の変化や長引く低金利といった冷たい逆風にさらされ、さまざまな業界が苦境にあえぐ昨今。「冬の時代」という言葉には停滞や低迷の時期といった意味合いがあるのだが、高村の「冬」は逆境に学び、それをはね返す人間をたたえる季節のようだ。
▼いっときユニクロがCMで使った「冬の詩」には、こんな言葉もある。「冬は見上げた僕の友だ」「冬は未来を包み、未来をはぐくむ」。昨今の報道を見渡せば、国内外の諸関係の中にも冷え込みが長引きそうなものが、そこここにある。高村の心の強さにあやかり、冬支度を整えようか。「春遠からじ」の言葉も信じて。




冬の寒さが苦手な当方としては、「『日経』さん、気が早いです、まだ秋です」と言いたくなりますが(笑)。紹介されているユニクロさんのCM、松田龍平さんと黒木メイサさんのご出演でしたが、インパクトがありました。



 




さて、最後に、昨日の『福島民報』さん。

宮沢賢治の書簡、市に寄贈 郡山出身の詩人 故寺田弘さん遺族

 詩人で童話作家の宮沢賢治が亡く
005なる半月前に書いたとみられる書簡が七日、郡山市に寄贈された。市によると、賢治直筆の書簡は貴重だが、最晩年の物はさらに資料的価値が高いという。
 書簡は二〇一三(平成二十五)年三月に九十八歳で死去した郡山市出身の詩人の寺田弘さんが所蔵していた。寺田さんらが賢治に詩誌への寄稿を求め、要請に応じた際に送られた。手紙には、賢治が一九三三(昭和八)年九月二十一日に死去する直前の同月五日の日付が記されており、市によると、九日に届いたという。
 「ご指示の原稿を一応送りましたが、役に立ちますかどうか。もしお使いになるのなら、名前を迦莉または迦利として出してほしい」などといった内容が書かれていた。「迦莉」「迦利」はペンネームと考えられているが、使用例は知られておらず、なぜ使うよう要望したかは分かっていないという。
 寺田さんの妻ツルさん(96)=千葉県=が寄贈した。代理として長女の古宮敬子さん(71)と夫の滋さん(73)=大阪府=、寺田弘さんの弟の寺田秀夫さん(88)=郡山市=が郡山市こおりやま文学の森資料館を訪れ、品川萬里市長に書簡を手渡した。書簡の他、寺田弘さんの原稿や詩集、写真、彫刻家・詩人の高村光太郎の掛け軸などを寄せた。
 敬子さんは「皆さんに見ていただければ父が喜ぶと思い、家族で相談して決めた」と寄贈に至った経緯を語った。
 市は同資料館の企画展などで寄贈品を展示する。

故・寺田弘氏。やはり連翹忌ご常連でした。昭和20年(1945)4月13日、空襲で本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が燃えはじめた時、真っ先に駆けつけたのが寺田氏だったそうです。氏はその際の回想を、平成21年(2009)にTBSラジオさんでオンエアされた「爆笑問題の日曜サンデー」中の「27人の証言」というコーナーにご出演され、語られました(ちなみに当方も出演)。のち、平成24年(2012)に書籍化もされています。

現存数の少ない賢治書簡がクローズアップされていますが、光太郎の書が気になりますので、今後、展示情報に気をつけ、拝見に伺おうと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

あらかじめ道があつたわけではない。けれども、真の芸術家の必然向はねばならない道であつた。単純で平明な、しかし歩きにくい道であつた。「自然」に帰依する熱情。此が凡ての根本だが、しかし此は芸術家といふ名に値する芸術家たる以上、当然の事であつて、特に此所に数へる迄もない事である。――実は中々忘られ勝ちな事だけれども。

散文「ロダンに就いて二三の事」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

題名の通り、ロダンについての文章です。しかし、光太郎自身のこれからの「道程」を表しているようにも読めます。

先月末、今年の文化勲章受章者、文化功労者が発表され、今月3日にはその伝達式が行われました。文化勲章を受章された6名の方々のうち、写真家の田沼武能氏が、光太郎と関わります。

受賞を報じた『朝日新聞』さんの記事。

人間の姿追い写真分野で初 田沼武能さん004

 写真の分野で初の受賞者だ。「びっくりしました。大変光栄で、写真界の励みにもなると確信しています」と喜びを語る。
 東京・浅草の写真館に生まれ、東京写真工業専門学校を卒業後、木村伊兵衛に師事。「人間の生きる姿」に一貫して関心を注ぎ、世界中の子どもたちを写した写真群は自身のライフワークとなった。「人間は生まれてから死ぬまで、即興のドラマを演じている。同じ場面は二度とないんです」
 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長といった職を通して、写真界の発展に尽力したことも今回評価された。朝日新聞社が後援する写真愛好家の全国組織・全日本写真連盟では、2000年から会長を務めている。
 近年は、自ら提言して設立した日本写真保存センターの代表として、時代の記録となるような古い写真フィルムの保存活動に力を注ぐ。「今やっておかないと、無くなってからでは取り戻せない。後世に悔いを残さないよう、活動を軌道に乗せなければと思っています」


田沼武能氏(たぬま・たけよし)90歳。写真家。米タイム・ライフ社契約写真家を経てフリーに。「子どもたちの写真」という新たな分野を開拓した。全日本写真連盟会長、日本写真著作権協会会長としても写真家の地位向上や後進の育成に尽力、東京工芸大名誉教授。85年菊池寛賞。
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当方、田沼氏と一度お会いしたことがあります。平成26年(2014)8月の、光太郎令甥にして田沼氏と同じく木村伊兵衛門下の写真家だった、故・髙村規氏の葬儀でした。兄弟子に当たられる田沼氏、参列者を代表して弔辞を読まれました。

田沼氏ご自身も、光太郎と面識、というより、光太郎の肖像写真を撮られています。

昭和27年(1952)の『芸術新潮』。


「芸術界時の人」というグラビアで、田沼氏が撮影された、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した直後の光太郎写真が掲載されています。

同じ写真は、平成12年(2000)、筑摩書房さん刊行の田沼氏の『作家の風貌』にも載っています。こちらは、平成3年(1991)、文藝春秋刊行の『わが心の残像』の再編だそうですが。

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こちらは、田沼氏がポートレートを撮られたそれぞれの人物とのエピソードも記されています。それを読むと、載せられている光太郎写真撮影時の内容ではなく、翌昭和28年(1953)、「乙女の像」制作がかなり進捗してからの内容でした。

そういえば、平成25年(2013)に拝見した氏の個展「アトリエの16人」に出ていた光太郎写真が、昭和28年(1953)のものでした。

残念ながら、光太郎日記には田沼氏の名が出て来ず、こちらでは撮影日時までは特定できませんが、田沼氏、複数回、中野のアトリエを訪問されているようです。

ちなみに『作家の風貌』には、当会の祖・草野心平の項もあります。それによれば、心平、撮影を約束していた日時を忘れ、行方不明(笑)。やっとつかまって氏が訪ねると、氏をもてなそうと、秘書嬢に「○○堂のお菓子はどうした?」。秘書嬢「先生が食べてしまったのに……」。いかにも、で、笑いました。

閑話休題。田沼氏、これからもお元気で、さらなるご活躍を祈念いたしております。


【折々のことば・光太郎】

実技家から見ると、裸体は平等といふ観念を意味するよりも、やはりギリシヤに始まつた普遍の美を欲するところから専ら来てゐると言ひたいのである。
散文「羽仁五郎氏著『ミケルアンヂエロ』」より
昭和14年(1939) 光太郎57歳


羽仁五郎は歴史家。光太郎と交流のあった、自由学園の創始者、羽仁吉一・もと子夫妻の娘婿です。

11月2日(土)、盛岡を後に、レンタカーで一路、花巻へ。宿泊先である在来線花巻駅前のかほる旅館さんにチェックイン。かほる旅館さんは、先月の市民講座「高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の際に引き続いてです。初めて泊めていただいたのが20数年前、それ以来、何だかんだで10回近くはお世話になったでしょうか。

一泊素泊まり5,000円也。夕食は外で。

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徒歩数分の、いとう屋さんへ。戦後の光太郎日記にたびたび記述があり、当時の花巻町中心部で光太郎が最も多く利用したと思われる食堂です。建物はリニューアルされていますが。

腹を満たしたところでかほる旅館さんに帰り、入浴、就寝。翌朝は7時に出ました。

まずレンタカーを向けたのが、大沢温泉さん。

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出来ればこちらに泊まりたかったのですが、紅葉シーズンの土曜日で、頼もうとした時にはもう満室でした。しかし、意地でもここの露天風呂につかりたいと思い(笑)、日帰り入浴600円也で入湯。

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紅葉が見頃でした。


露天風呂だけが目的ではなく、メインの目的は、休業中の菊水館さんを使っての「昔ギャラリー茅(ちがや)」の拝見でした。

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花巻で宿泊予約する際、まず菊水館さんに当たるのが習慣で、年に数回泊めていただいていましたが、昨年8月の台風で、こちらにつながる道路の法面(のりめん)が崩れ、食材やらの物資搬入等が困難ということで、昨年9月いっぱいで一時休業となってしまいました。そこで、今年6月から「昔ギャラリー茅」として、いろいろな展示を行っています。

先月、花巻に伺った際には立ち寄る時間が無く、今回、お邪魔した次第です。

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建物は築170年近いもので、やはり戦後の光太郎日記に、光太郎もこちらに泊まったことが記されています。

展示も入れ替えがあるようで、現在は「大沢温泉×岩手大学 学生 コラボレーション企画 今昔の彼方へ」ということで、現代アート的な作品の展示もありました。

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上記は当方、一度泊まった部屋。ただ、よく泊めていただいていた梅の間の棟は使っていませんでした。

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こちらは菊水館さんの内湯・南部の湯の女風呂。当方、初めて足を踏み入れました(笑)。

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他に、宮澤賢治関連、南部のお殿様関連、昔の品々などの展示も。エンドレスで流れていたアナウンスでは光太郎関連も、という内容でしたが、今回は見あたりませんでした。

こちらは元の食堂。ここに泊めていただいた時には、朝夕、素朴ながらも美味しい料理に舌鼓を打っていたことを思い出し、涙が出そうになりました。

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ギャラリーとしての活用もいいと思いますし、皆様にもぜひ足をお運びいただきたいのですが、やはり宿泊施設として、一日も早い再開を希望します。


大沢温泉さんをあとに、花巻高村光太郎記念館さんへ。

先月、ダッシュでしか見られなかった企画展示「高村光太郎 書の世界」をゆっくり拝見。


額の裏に、当会の祖・草野心平の揮毫のある作品も。

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昨年の企画展示「光太郎と花巻電鉄」の際に、ジオラマ作家・石井彰英氏に制作をお願いしたジオラマは、常設展示室に移動していました。広い部屋に置くと、この大きさがさらに際だつなと思いました。

その後、事務室で今後の企画展等についての相談やらを受け、さらに隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)へ。

こちらも紅葉がいい感じでした。最近はキツネが出没するそうです。

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内部の照明に手を入れたそうで、確かに以前より見やすくなっていました。

お土産に当方大好物のリンゴをたくさんいただき、大感激のうちにこちらを後にし、最後の目的地へ。市街桜町の、故・佐藤進氏邸です。

先月11日に亡くなられた進氏、父君の佐藤隆房は賢治の主治医で、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏ご自身も、光太郎と交流がおありで、父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。

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こちらは高村山荘套屋内部に飾られている写真。前列中央が光太郎、後列右端が進氏、一人おいて父君です。

先月のご葬儀には参列適わず、弔電は送らせていただいたのですが、やはり四十九日前にはご焼香を、と思い、参じました。奥様がいらしていて、対応して下さいました。

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改めてご冥福をお祈り申し上げます。


その後、東北新幹線新花巻駅でレンタカーを返却、帰途に就きました。以上、東北レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

人間以上の人間がそこにいるように見える。美はここに至つて真に高い。われわれの魂はもろもろの附属物を洗い去られて、ただ根源のものこそ貴重だということを悟らせられる。

散文「ロンダニーニのピエタ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

ロダン同様、光太郎が終生敬愛して已まなかったミケランジェロの有名な作品の一つ、「ロンダニーニのピエタ」に関してです。

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当方、光太郎の彫刻に関して、同じようなことを感じます。

智恵子の故郷・福島二本松を後に、次なる目的地、岩手盛岡に向かいました。昭和20年(1945)以後、花巻町およびその郊外旧太田村に足かけ8年暮らしていた光太郎がたびたび訪れた街です。

盛岡駅から路線バスに乗り、たどりついたは中の橋の岩手銀行赤レンガ館さん。旧岩手銀行中ノ橋支店を改装して、各種展示やコンサートなどに使えるイベントスペースとしたものです。東京駅なども手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司による設計で、国指定重要文化財。明治44年(1911)の竣工ですので、たびたび来盛した光太郎も眼にしているはずの建物です。

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こちらでは、11月2日(土)、3日(日)の2日間、「IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)」が開催されていました。

基本、岩手の伝統産業の一つであるホームスパンの、現代作家の方々による展示、即売、製作実演などでした。


建物の趣と相まって、まるで日本ではなくどこか外国のバザールとかマルシェとか、そういった雰囲気でした。

出展されていた工房さんの中には、ともに光太郎と交流のあったホームスパン作家・及川全三やその高弟・福田ハレの流れを汲むところも。


ちなみに一昨日の夜、車を運転中に何の気なしにカーナビテレビのチャンネルをNHK Eテレさんに合わせたところ、生涯教育的な番組「趣味どきっ」が放映中で、何とみちのくあかね会さんが取り上げられていました。自宅兼事務所に帰って調べましたところ現在放映の月曜シリーズが「暮らしにいかすにっぽんの布」ということで、今日も午前中に総合テレビさんでオンエアがありまして、録画予約しておきました。

余談になりますが、この番組では書道を扱った平成27年(2015)の「女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」で光太郎智恵子を取り上げて下さり、少しだけ番組製作のお手伝いをさせていただきました。


閑話休題。で、赤レンガ館さんの一角に、特別展示として、光太郎の遺品である毛布が展示されていました。戦後の光太郎日記に何度か「メーレー夫人の毛布」として記述があり、その方面の専門家であらせられる岩手県立大学盛岡短期大学部の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織工芸家、エセル・メレの作であることが確認された(ただ、メレ本人のみの作か、弟子の手が入った工房としての作かまでは不明とのこと)ものです。戦前、智恵子にせがまれて購入したと光太郎に聞いた、という証言が残っています。

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以前に一度、所蔵する花巻高村光太郎記念館さんで拝見し、今回は二度めです。

今年2月に、岩手県立大学さんの公開講座として、先述の菊池教授による「高村光太郎のホームスパン」があり、拝聴、また、菊池教授の研究報告「「高村光太郎記念館」所蔵のホームスパンに関わる調査」を拝読、わずかながらご調査に協力させていただき、自分でもいろいろ調べたので、感慨ひとしおでした。

その後、赤レンガ館さんの向かいにある「プラザおでって」さんに移動。こちらで菊池教授の特別講演「高村光太郎のホームスパンを探る!」を拝聴するためです。

おでってさんから見た赤レンガ館さん。いかにも辰野建築です。

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大筋では、2月の講座と同一でしたが、その後、他KIMG3363の専門家の方が現物を見ての感想などが新たに加わり、また、前回は60分だったのが今回は90分と、その分、ボリュームアップしていました。

他の専門家の方、というのがこちら。毛織物作家の大久保芙由子さん。NHKさんで放映中の「鑑賞マニュアル 美の壺」にもご出演された方です。また、本場英国への留学のご経験がおありだそうで、光太郎毛布の作者、エセル・メレとはお会いできなかったそうですが、その流れを汲む作家の人々と交流されたそうです。

今回のレジュメには大久保さんから菊池教授に送られた光太郎毛布の分析的な報告も附されていました。実際にこういったものの制作に従事されている方の視点はさすがと思わせられるものでした。

まとめ的な部分で曰く、

エセル・メイリの作品が、高村光太郎・智恵子夫妻によって選ばれ、長い間身辺に置かれて慈しまれ、彼らの美意識にかない、彼らの生活の一部となりえた貴重なものとして尊重したいと思う。

なるほど。

ところで、「メイリ」とあるのは、「Ethel Mairet」のカタカナ表記が日本では確定していないためです。文献によって「メレ」「メーレ」「メーレー」「メイリ」「メアリー」など、さまざまだそうで。

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当方としては、こうした真に「いいもの」を見極め、身辺に置いて愛用した智恵子や光太郎の審美眼的な部分にも感銘を覚えます。

ちなみに、以前にもこのブログに掲載しましたが、この毛布(と思われるもの)を膝に掛けている光太郎の写真。

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おそらく昭和28年(1953)で、場所は光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエです。背後に最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が写っています。菊池教授、今回のご講演ではこの画像もスクリーンに投影してくださいました。

その後、再び赤レンガ館さんへ。菊池教授、大久保さんもいらっしゃり、現物を見ながら「この部分がこうなっている」「この色は××を使って染めている」的な解説を拝聴。ありがたく存じました。


続いて、すぐ近くのニッポンレンタカーさんの営業所で車を借りました。ここから翌日までレンタカーでの移動です。

宿泊は花巻でしたが、その前に、盛岡市内の岩手県立美術館さんへ。現在開催中の「紅子と省三 ―絵かき夫婦の70年―」を拝見。

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共に盛岡出身の画家、深澤省三・紅子夫妻の画業をたどる回顧展です。夕方6時まで開館しているということで、ラッキーでした。

夫妻は共に戦後に開校した岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教壇に立ち、同校にオブザーバーとして関わった光太郎と交流がありました。

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こちらは昭和25年(1950)、盛岡の菊屋旅館(現・北ホテルさん)で開催された光太郎を囲む会食会「豚の頭を食う会」。深澤夫妻も写っているはずです。

この翌日から、雫石にあった夫妻の家に、光太郎はおそらく2泊逗留しました。当方、平成27年(2015)、夫妻のご長男、故・竜一氏のお宅にお邪魔し、その際に光太郎に書いてもらったという宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節を揮毫した書を拝見しました。

さらにその折に詳しくお話を伺ったのですが、竜一氏は東京美術学校彫刻科に在籍されていた昭和18年(1943)、学徒出陣に際し、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を、三人の先輩方と共に訪れ、激励の言葉をもらったそうです。光太郎はその際の様子を、同年、詩「四人の学生」に綴りました。

海軍で各地を転々とされた竜一氏、最終的には人間魚雷「海龍」を擁する特攻隊に配属されたそうですが、出撃命令が出る直前に終戦となり、無事、復員。花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を訪ねられたりもしたそうです。雫石のお宅では、光太郎、好物の一つだった牛乳を一升ほどもがぶ飲みいていたとのこと(笑)。

さらに、紅子の父・四戸慈文は、盛岡で指折りの仕立て職人だったそうで、のちのちまで光太郎が愛用したホームスパンの猟人服(花巻高村光太郎記念館さんで常設展示中)も四戸の仕立てでした。

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さて、夫妻の絵を拝見。

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同じく盛岡の深沢紅子野の花美術館さんを二度訪れたことがあり、夫妻の絵はそちらでも拝見していましたが、油絵の大作をまとめて見るのは初めてでした。

ステレオタイプの表現をするな、と、ジェンダー論者のコワい方々に突っ込まれそうですが(笑)、男性的で雄渾な省三の絵、女性的で細やかな紅子の絵、それぞれに眼福でした。特に紅子の一見油絵に見えない水彩風の優しいタッチで描かれた大きな絵画群が印象に残りました。日本画的な要素も強いな、と感じていましたところ、年譜を見ると紅子は女子美術学校ではじめ日本画に取り組んでいたそうで、なるほど、と思いました。

光太郎との関わりが展示の説明の中に一切無く、その点は残念でしたが、いいものを見せてもらった、という感じでした。

その後、レンタカーを南に向け、花巻へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

静かに坐りこんだやうな彫刻作品に対しても、こちらもじつと坐りこんで静かに呼吸すると、呼吸の微動によつて、向ふの彫刻も肩なり胸なりで微かに呼吸してゐるやうに感じる。

散文「埃及彫刻の話」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

特に具象の優れた造型作品に接すると、確かにこう感じますね。絵画でもそうですが、やはり彫刻の方が、3Dである分、この傾向は強いように思われます。

11月2日(土)、3日(日)と、1泊2日で福島と岩手を廻っておりました。

まずは智恵子の故郷・福島二本松。先月、二本松で開催された智恵子を偲ぶ「第25回レモン忌」にお邪魔した際、智恵子と同郷の日本画家の故・大山忠作画伯を顕彰する大山忠作美術館さんで開催中の「新五星山展」の招待状を、大山画伯のご息女で女優の一色采子さんから頂きまして、立ち寄ることに致しました。

ちなみに今回も公共交通機関で行きました。午前4時半に千葉の自宅兼事務所を出まして、二本松着が9時でした。この日は素晴らしい秋晴れ。二本松駅前の「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節を刻んだ光太郎詩碑にも、まさしく「ほんとの空」が映っていました。
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光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・橋本堅太郎氏の手になる智恵子像。「ほんとの空」の題名です。まさしく「ほんとの空」が背景に広がっていました。この像を写真に撮るには、朝の時間帯がいいようです。
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その背後にあるのが大山忠作美術館さん。
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この日の午後、一色さんと、福島県立美術館長の早川博明氏によるトークショーがあり、そちらも拝聴したかったのですが、次なる目的地・盛岡に行かねばならず、そちらは断念。また、当方が着いた時は開館時間前で、一色さんもまだお見えになっていませんでした。

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館のロビーから見た安達太良山。
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近くの小高い丘は紅葉に色づいていました。

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この奥が霞ヶ城。菊人形の会場です。

さて、開館時間となりました。
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「新五星山展」。名前に「山」のつく日本画の巨匠五人の作品を集めた展覧会です。五人すなわち横山大観、山口蓬春、杉山寧、横山操、そして大山画伯。「今回は」というのは、前回があったわけで、「新」がつかない「五星山展」が(東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造、大山忠作)平成25年(2013)に開催されています。

このうち、横山大観は東京美術学校で光雲や光太郎とも関わりがありました。『高村光太郎全集』にも、大観の名がたびたび表れます。

こちらが展示目録。
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大山画伯には智恵子をモチーフとした作品も複数有りますが、今回は展示されておらず(安達太良山を描いた「安達太良山(残照)」という作品はありました)、そちらは少し残念でしたが、日本画の大作をまとめてみるのは久々で新鮮でした。また、五人それぞれに近代の新しい日本画を創出しようという意気込みが感じられました。
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下記は、ミュージアムショップで購入した一筆箋とはがき箋。新商品のようで、初めて見ましたし、館のサイトにも掲載されていません。一筆箋の方は光太郎智恵子の後ろ姿、はがき箋は4種類のデザインのうち、智恵子生家をあしらったものもあります。早速使わせていただいています。

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「新五星山展」、今月17日までです。ぜひ足をお運び下さい。

この後、次なる目的地、岩手盛岡を目指し、再び電車に乗り込みました。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】007 (2)

あれのアイデアというのは真正面から見ると二等辺三角形になつている。三角形の先端は空中に伸びていて向き合つた二人の乙女の像の真中辺に空間がある。この空間の面白さが群像の面白さで、何となしにわかる人は、そういうところを見ているからです。

講演筆録「視角で変る群像」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

智恵子の顔をもつ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関し、その除幕式の二日後に青森市の野脇中学校で行われた講演で語った一節です。

同じ講演では、「三角形という形は何か無限性と関係があるようです」などとも述べています。



1泊2日の行程を終え、東北から帰って参りましたが、そちらのレポート(最低3日はかかりそうなので)の前に、新刊情報を。

『詩と思想』2019年11月号 特集 詩人・作家の死生観

2019年11月1日 土曜美術出版社 定価1,300円+税


かつて文芸同人誌『虹』を主宰され、連翹忌にもたびたびご参加下さっている豊岡史朗氏からいただきました。

『虹』については以下。残念ながら、現在は休刊中だそうですが。
詩誌『虹』。   いただきもの。   詩誌『虹』―鷗外と光太郎。  文芸同人誌『虹』第6号。
文芸同人誌『虹』第8号。    文芸同人誌『虹』第9号/『月刊絵手紙』2018年8月号。

で、『詩と思想』。「詩人・画家の死生観」という特集を組んでいまして、豊岡氏の「高村光太郎の自然観と死生観」という玉稿も6ページにわたり掲載されています。

『虹』掲載のものもそうでしたが、氏の論考は安心して読めます。奇を衒わないリスペクトに基づく明快な論旨、完結で歯切れのいい文体等々、かくあるべしというお手本のようです。

他に、宮澤賢治、八木重吉、ミケランジェロなど、光太郎と関連する人々についての論考も掲載されています。


もう1件。 注文してはありますが、まだ届いていません。ネット上にも画像が掲載されていませんで、画像はなしです。

ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京

2019年11月 日本近代文学館編 勉誠出版刊 定価2,800円+税

夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、泉鏡花…。
日本を代表する文豪たちは、東京のどこに住み、どんな生活を送っていたのか。
彼ら・彼女らの生活の場、創作の源泉としての東京を浮かびあがらせる。東京を舞台とした作品の紹介のほか、古写真やイラスト、新聞・雑誌の記事や地図など当時の貴重な資料と、原稿や挿絵、文豪たちの愛用品まで100枚を超える写真も掲載。現在につながる、文豪たちの生きた東京を探す。
都内にある8箇所の文学館ガイドも掲載! アクセス方法、代表的な収蔵品など、写真付きで紹介。

目次
 刊行にあたって 坂上弘
 はじめに―東京文学を歩く 池内輝雄

 生活を支えた本郷菊坂の質店―樋口一葉と伊勢屋 山崎一穎
 千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎 小林幸夫
 漱石作品における「東京」の位置―「山の手」と「下町」の視点から 中島国彦
 女性たちの東京―泉鏡花と永井荷風 持田叙子
 近代医学へのまなざし―斎藤茂吉と青山脳病院 小泉博明
 作家たちの避暑地―芥川龍之介の軽井沢体験など 池内輝雄
 伏字の話から始まって―弴・万太郎・瀧太郎 武藤康史
 林芙美子の東京―雌伏期の雑司ヶ谷、道玄坂、白山上南天堂喫茶部 江種満子
 遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草 宮内淳子


 [文学館記念館紹介]
 一葉記念館/武者小路実篤記念館/田端文士村記念館/世田谷文学館/太宰治文学サロン/
 森鷗外記念館/漱石山房記念館/日本近代文学館


上智大学教授で鷗外研究者の小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎」という項が含まれています。

小林氏、日本近代文学館さんで平成25年(2013)に開催された講座「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」で「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」をご担当、当方、拝聴させていただき、そのご縁で連翹忌にもご参加下さいました。その際の内容は『日本近代文学館年誌―資料探索』第10号に掲載されています。今回は、そこに木下杢太郎が関わっています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

出来た結果は思の半分にも及ばないが、毎日懐に入れて持つて歩いた。飯屋でも其を出して見ながら飯をくつた。まだ健康だつた頃の智恵子が私にも持たせてくれとせがんだ。

散文「木彫ウソを作つた時」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

自作の木彫「うそ」(大正14年=1925)は下の画像。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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昨日から一泊二日で東北二県を回っております。

昨日は、智恵子の故郷・福島二本松。智恵子と同郷の日本画家の故・大山忠作画伯を顕彰する大山忠作美術館さんへ。
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その後、盛岡へ。旧岩手銀行赤レンガ館さんで展示中の光太郎遺品の毛布ーー世界的染色工芸作家・エセル・メレの作ーーを拝見、さらにそれに関わる講演を拝聴。

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さらに岩手県立美術館さんで、光太郎と交流のあった画家の深澤省三・紅子夫妻の展覧会「紅子と省三 絵かき夫婦の70年」を拝見。
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今日は花巻の大沢温泉さんに開設されたギャラリー茅(ちがや)、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「高村光太郎書の世界」を拝見するなどして帰ります。

詳しくは帰りましてからレポートいたします。

光太郎がらみのコンサート情報です

加耒徹バリトンリサイタル2019 〜歌道Ⅱ〜東京公演

期 日 : 2019年11月7日(木)
会 場 : 豊洲シビックセンターホール 東京都江東区豊洲2-2-18
時 間 : 19:00開演
料 金 : 一般前売:4,000円、学生:3,000円
出 演 : 加耒徹 (バリトン)、松岡あさひ (ピアノ)

プログラム
《ヘンデルのオペラアリア》
 歌劇『リナルド』より "Sibillar gli angui d'Aletto"
 歌劇『アグリッピーナ』より "Pur ritorno a rimirarvi"
 歌劇『ロタリオ』より "Se il mar promette calma"

《日本歌曲》
 宮本益光:平和へのソネット  伊藤康英:いんへるの  加藤昌則:レモン哀歌
 松岡あさひ:(新曲)  信長貴富:貴種流離譚

R.シューマン  歌曲集『詩人の恋』全曲
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バリトン歌手の加耒徹(かく・とおる)さん。9月にめぐろパーシモンホールさんで開催された「4人のバリトンコンサート ハンサムなメロディー」というコンサートで、平成20年(2008)に加藤昌則氏という方が作曲された「レモン哀歌」を演奏なさいました。その同じ「レモン哀歌」がプログラムに入っています。

で、上記フライヤー画像にもある通り、福岡公演がすでに開催されていました(福岡は加耒さんの故郷のようです)。言い訳させていただけるなら、台風15号による千葉大停電の影響で、情報収集ができなかった時期がありましたので……。

で、来週、東京公演だそうです。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】
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圓いものを、ただ圓く、薄いものを、ただ薄く作るのは彫刻ではありません。

散文「彫刻実習(塑像・木彫)」より 
昭和9年(1934) 光太郎52歳

自作の木彫「桃」(昭和2年=1927)の解説文の末尾です。掲載された雑誌『綜合美術研究』では、右の画像が添えられていました。

「圓いものを」云々は、この「桃」などのごつごつとした粗い削り方について、「薄いものを」云々は何点か現存が確認されているやはり木彫の「蝉」の羽を意識しての言でしょう。光太郎の木彫が「本物そっくり」という単なる写実を超えた抽象化の域に入っていることを表しています。

まず、現在発売中の『週刊新潮』さん2019年11月7日号。

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グラビアページで「「ほんとの空の下」の山小屋」という記事が3ページにわたって掲載されています。

智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山の山小屋「くろがね小屋」さんの紹介です。

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「ほんとの空」の語が使われる光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)も取り上げられています。ありがたし。


その二本松市の『広報にほんまつ』11月1日号。「第24回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」の金賞受賞作品が紹介されています。

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5年生の部の作品は、智恵子の母校・油井小学校の児童さん。先輩・智恵子の生家をモチーフにして下さいました。

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背景の「ほんとの空」が実にいい色合いですね。


テレビ放映でも、「ほんとの空」系が。

秘湯ロマン #413 「福島県 岳温泉・土湯温泉」

テレ朝チャンネル2(CS) 2019年11月2日(土) 15時15分~15:40 

福島県の秘湯

岳温泉「ながめの館 光雲閣」
福島県・安達太良山麓に湧く秘湯・岳温泉。雪の山々をする一望する絶景のお湯には、不思議な魅力が。

あだたら山奥岳の湯
岳温泉の奥まったところ、周囲はスキー場という雪深い一画にある立ち寄り湯。お湯は少し熱めの42度。かつて高村光太郎が「ほんとの空」と詠った安達太良山の澄み切った空の下で絶景温泉を満喫します。岳温泉の源泉は標高1500メートルの山の中にあるため、温泉街まで8キロもの距離を「引き湯」されています。


土湯温泉「山水荘」
吾妻連峰に抱かれた土湯温泉では、かわいいこけしと、湯量豊富な広い風呂がお出迎え。


川上温泉
土湯温泉から、渓谷をさらに遡った山あいにあるのが、奥土湯の秘湯・川上温泉。創業400年を超える、趣のある純和風の老舗旅館です。「万人風呂」と名付けられた内湯は、縦10メートル、横4メートルという大きさ。露天風呂の脇に大きな洞窟があります。半分露天、半分洞窟ということで、その名も「半天岩窟風呂」と名付けられています。湯船は青森ヒバでできていて、宿のご主人によれば、木造りの露天風呂としては、県内有数の大きさだそうです。

出演 秦瑞穂


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昨年、地上波テレビ朝日さんで放映されたものの再放送だそうです。

基本、このブログではCS放送の番組はご紹介していませんが、今回はちょうど無料放映の日にあたっていますので、BSの受信設備が有れば視聴可能です。

テレビ放映といえば、安達太良山系ではありませんが、以下も。

まず、過日ご紹介したNHKさんの「ブラタモリ#146「草津温泉~最強の湯力とは?~」。先月オンエアの予定でしたが、台風関連の報道のため、明日に変更になっています。再放送は5日(火)23時50分~です。

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それから、同じく過日ご紹介したNHK Eテレさんで放映の「日曜美術館 わしがやらねばたれがやる~彫刻家・平櫛田中~」。再放送が3日(日)20時00分~です。


岡山県井原市の田中美術館さんで開催中の田中回顧展「没後40年 平櫛田中 美の軌跡」とのタイアップで、田中代表作の一つ、「鏡獅子」をメインに扱っています。


田中の師・光雲についても言及して下さいました。しかし、一昨年、テレビ東京さん系で放映された「美の巨人たち」でもそうでしたが、光雲の後ろに写っている学生服姿の光太郎についてはスルー(笑)。

ちなみに田中は明治39年(1906)に渡米する光太郎に、禅宗の教義書『無門関』を餞別に贈り、それは光太郎の座右の書ともなりました。

ロダンの影響や、「鏡獅子」以外の作品についても言及。


ビデオ出演を含め、ゲストも多彩でした。


メインコメンテーターは大分大学の田中修二教授。その他、当方もお世話になっております小平市平櫛田中彫刻美術館の藤井明学芸員、「鏡獅子」のモデルとなった六代目尾上菊五郎の曾孫・尾上右近さん、田中の弟子(つまり光雲の孫弟子)の橋本堅太郎氏。


橋本氏は、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」の004作者です。ここでほんとの空に話を戻すあたり、当方もなかなかやりますね(笑)。ちなみに明日から一泊でまた東北出張。この像も拝見して参ります。


さて、『週刊新潮』さん、それからご紹介したテレビ番組、それぞれぜひご覧下さい。



【折々のことば・光太郎】

私は彫刻こそ余り出品しませんが、詩歌の類を十数年来発表してゐて、今更批評をいやがる程初心でもないのです。作品を発表して批評を聞くのは褒貶共に面白いものであり、且つ素より自他双方の研究となります。

散文「小倉右一郎氏に」より 大正15年(1926) 光太郎44歳 

小倉右一郎は、光太郎と同じく東京美術学校卒の彫刻家。光太郎より2歳年長で、文展(文部省美術展覧会)審査員などを務めました。


その小倉が、光太郎の審査を伴う展覧会には出品しないという方針を皮肉った文章――自作を批評されるのを嫌がるケツの穴の小さい奴だ、的な――に対しての反論です。

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