2019年05月

現在、定期購読している雑誌は、隔月刊誌が1誌、月刊誌は2誌です。隔月の方は『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。偶数月発行ですので今月はお休みでした。月刊の方は、『月刊絵手紙』さんと『日本古書通信』さんです。

『月刊絵手紙』さんは、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされていますので、その連載がお休みの月を除いて毎号光太郎の名が。

今月は初夏の高村山荘(光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋)の写真に添えて、詩「クロツグミ」。

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クロツグミは夏に日本にやってくる渡り鳥。その声を光太郎は「こつちおいで、こつちおいでこつちおいで。/こひしいよう、こひしいよう、」と表しました。何だか、光太郎自身の心の声のようでもあります。


『日本古書通信』さんは、古書全般に関する情報誌的な雑誌で、ある意味、古書店さんたちの業界誌のような側面もあります。以前は当会顧問・北川太一先生や、光太郎令甥・故髙村規氏の連載などもあり、光太郎の名が頻出していました。今月号はたまたまでしょうが、複数回その名が出ていました。

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まず秀明大学学長にして、筋金入りの初版本コレクター・川島幸希氏を囲む座談会的な連載「初版本蒐集の思い出」。詩集『道程』特製版署名入り(大正3年=1914)についてのご発言があります。

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続いて「美術雑誌総目次大正編」という連載。明治末から大正にかけ、青年画家達の活動を裏方から支えて洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれてた北山清太郎が刊行した雑誌『現代の洋画』、『現代の美術』について述べられています。光太郎もしばしば寄稿した雑誌で、やはり光太郎の名を出して下さいました。

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さらに「受贈書目」の項。当会顧問北川太一先生の最新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』と、当会刊行の冊子『光太郎資料51』を並べてご紹介下さいました。ありがたいかぎりです。

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各種メディア等で「高村光太郎」の名を見かけなくなる、という事態にならないよう、今後も努力していきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

芸術上の新機運は無限に発展してとどまることころもなく進むであらうし、造型上の革命も幾度か起るべきであるが、しかしその根元をなす人間の問題は千古不磨である。誠実ならざるもの、第二思念あるもの、手先だけによるもの、気概だけに終始するもの、一切のかういふものは、いつか存在の権利を失ふであらう。

散文「荻原守衛 ――アトリエにて5――」より
 昭和29年(1954) 光太郎72歳

彫刻家としては、唯一無二の親友だった碌山荻原守衛を回想した文章、末尾近くの一節です。守衛の遺した芸術は、このようなものではないというわけで。

守衛といえば、新宿中村屋さん。明治末、同郷の先輩・相馬愛蔵が興し、守衛ら若い芸術家たちの援助を惜しまなかった店です。守衛もパン作りを手伝ったりもしましたし、光太郎も守衛を訪ねて来店しています。

現在、NHKさんで放映中の「連続テレビ小説 なつぞら」。広瀬すずさん演じるヒロイン・奥原なつがアニメーターめざして奮闘する物語です。北海道編が終わり東京編になって、中村屋さんをモデルにしている「川村屋」が舞台の一つとなっています。戦後の話なので、守衛や光太郎は登場しませんが、守衛が思いを寄せ、その絶作「女」(明治43年=1910)のモチーフとなった相馬黒光をモデルとした「前島光子」を、比嘉愛未さんが演じています。

昨日に引き続き、新刊情報です。今回はアンソロジー的な……。 

名作で楽しむ上高地

2019年6月7日  大森久雄編  山と渓谷社(ヤマケイ文庫)  定価1,000円+税

上高地再発見!
登山家、文学者の紀行・エッセーと歴史エピソードの名作集。
文政9(1826)年の播隆、明治24(1891)年のウェストンに始まり、上高地は常に日本の登山の中心にあり、幾多の登山者、文学者たちが訪れてきた。
彼らの残した名作で、上高地の魅力を再発見し、さらに興味深い上高地の歴史やそこに生きた山人たちの姿をしのぶアンソロジー。
登山家は小島烏水、辻村伊助、田部重治ほか、文学者は窪田空穂、高村光太郎、若山牧水、芥川龍之介ほか、読んでおきたい本当の名作が一冊に。
上高地の魅力、歴史、上高地に生きた人々など、上高地を深く知るためにも役立ちます。

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 第一部 エッセーで味わう上高地
       穂高・徳沢・梓川  浦松佐美太郎
  神河内  松方三郎
  小梨の花咲く上高地  尾崎喜八
  初夏の上河内  串田孫一
  花の百名山より  田中澄江
 第二部 早期登山者たちの見た上高地
  日本アルプスの登山と探検(抄) W・ウェストン 青木枝朗訳
  梓川の上流  小島烏水
  上高地渓谷  田部重治
 第三部 青春の上高地、槍・穂高
  夏休みの日記/山と雪の日記(抄)  板倉勝宣
  穂高星夜  書上喜太郎
  涸沢の岩小舎を中心としての穂高連峰(抄) 三田幸夫
  穂高の雪  今井喜美子
  アルプス讃歌  北杜夫
 第四部 上高地を訪れた文人たち
  明神の池  窪田空穂
  山路  若山牧水
  槍ヶ岳紀行  芥川龍之介
  芥川龍之介の槍ヶ岳登山  山崎安治
  智恵子の半生(抄)/狂奔する牛 高村光太郎
  日本高嶺の高嶺(抄) 大町桂月
 第五部 上高地と槍・穂高連峰の歴史
  槍・穂高連峰登山略史(抄)  山崎安治
  かみこうち宛字の詮索  岡茂雄
  播隆の槍ヶ岳登山(抄)  穂苅三寿雄・穂苅貞雄
  槍ガ岳と共に四十年(抄) 穂苅三寿雄
  焼岳の噴煙  三井嘉雄 

同じ山と渓谷社さんのヤマケイ文庫で、一昨年には『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』が刊行されており、こちらは全国の名山に関し、やはり光太郎を含む多くの文人たちのアンソロジーでした。今回は上高地に特化したものです。

光太郎の掲載作品のうち、「智恵子の半生」は、智恵子歿後の昭和15年(1940)、雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年、詩集『智恵子抄』に収められた長い文章です。恋愛時代、結婚生活、そして心を病んで結局結核で亡くなるまでの智恵子の姿が描かれています。

光太郎と智恵子が婚約したというのが大正2年(1913)の上高地に於いてで、滞在中のできごとやその前後の経緯なども記されています。『名作で楽しむ上高地』では、そのあたりを抜き出して「(抄)」としているのでしょう。

詩「狂奔する牛」は大正14年(1925)の作。やはり『智恵子抄』収録作で、上高地での見聞をモチーフとしています。上高地ではかつて徳沢周辺を中心に牧場があり、牛も上高地を代表する風景の一つでした。

ちなみに当方、平成27年(2015)、『山と渓谷』さんのライバル誌『岳人』さんに、「高村光太郎と智恵子の上高地」という文章を書かせていただきました。そちらでも「智恵子の半生」、「狂奔する牛」ともに引用、紹介しています。2015年3月号で、「特集 言葉の山旅 山と詩人上高地編」。まだバックナンバーの在庫があるようです。

併せてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

おまけに担任の先生というのが、どこかの国の訛の強い先生で、東京以外を知らない江戸つ子のわたしには、その先生の言葉が分からなかつた。「アルタの数が……」 もう分からなかつた。アルタの数、とはなんだろうか。分らない。後になつてわかつたことだが、これは「或る他の数が……」ということであつた。

談話筆記「わたしの青銅時代」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

高等小学校を卒業し、本郷森川町にあった共立美術学館予備科に編入し、旧制中学の課程を学ぶこととなった明治29年(1896)、数え14歳当時の回想です。この学校はもともと東京美術学校の予備校として同窓生たちが作ったもので、横山大観が館長でした。光太郎、編入ということで、特に数学ではかなり苦労したようです。

いわゆる右脳型だったらしい光太郎、数学でも幾何の分野はましでしたが、代数の領域はお手上げだったとのこと(ちなみに当方もそのようで、その気持ちはよく分かります(笑))。他の機会には「高村の家には理系の地は一滴も流れていない」と負け惜しみ的な発言もしています(笑)。実弟の藤岡孟彦は植物学者になったのですが(笑)。

新刊書籍です。

高村光太郎の戦後

2019年6月3日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

戦争を賛美した二人の巨人、詩人・彫刻家高村光太郎と歌人斎藤茂吉。
戦後、光太郎が岩手県花巻郊外に独居して書いた『典型』と茂吉が山形県大石田に寓居して書いた『白き山』の定説を覆し、緻密な論証により正当な評価を与え、光太郎の十和田裸婦像の凡庸な所以を新たな観点から解明した卓抜で野心的評論

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【目次】
第一章 高村光太郎独居七年
 (一)  空襲によるアトリエ焼失、花巻疎開、花巻空襲、太田村山口へ
 (二)  山小屋生活の始まり
 (三)  山小屋の生活における高村光太郎の思想と現実
 (四)  高村光太郎の生活を援助した人々
 (五)  一九四五年の生活と「雪白く積めり」
 (六)  一九四六年の生活と「余の詩を読みて人死に就けり」
 (七)  一九四七年の生活
 (八)  「暗愚小伝」その他の詩について
 (九)  一九四八年の生活
 (一〇) 一九四九年の生活
 (一一) 一九五〇年の生活
 (一二) 一九五一年の生活
 (一三) 一九五二年の生活
第二章 高村光太郎『典型』と斎藤茂吉『白き山』
 (一)  はしがき
 (二)  戦争末期の斎藤茂吉(その一)
 (三)  戦争末期の高村光太郎
 (四)  戦争末期の斎藤茂吉(その二)
 (五)  余談・高村光太郎と三輪吉次郎
 (六)  戦争末期から終戦直後の斎藤茂吉
 (七)  『小園』を読む(その一)
 (八)  高村光太郎「おそろしい空虚」と「暗愚」
 (九)  『小園』を読む(その二)
 (一〇) 敗戦直後の斎藤茂吉
 (一一) 大石田移居、『白き山』(その一)
 (一二) 肋膜炎病臥前後
 (一三) 『白き山』(その二)
 (一四) 『白き山』(その三)
 (一五) 『白き山』(その四)
 (一六) 『白き山』と『典型』

第三章 上京後の高村光太郎 十和田裸婦像を中心に

 (一)  帰京
 (二)  十和田裸婦像第一次試作
 (三)  十和田裸婦像第二次試作
 (四)  十和田裸婦像の制作
 (五)  十和田裸婦像の評価とその所以
 (六)  十和田裸婦像以後
あとがき


昨年、同じく青土社さんから刊行された『高村光太郎論』に続く労作です。前著が明治末、光太郎の西欧留学期から晩年までを概観する内容だったのに対し、本著はタイトル通り、戦後の光太郎に焦点を当てる試みです。ただ、第二章はどちらかというと斎藤茂吉論が中心で、当方、そちらはまだ読破しておりません。

第一章、第三章について書きますと、『高村光太郎全集』中の光太郎日記や書簡からの引用が実に多いのが特徴です。やはり当人の証言をしっかり読み込んだ上で論ずるのはいいことですので、この点には感心しました。おそらくそうした作業を行っていないと思われるエラいセンセイ方の論文もどきもよく眼にしますが。

そして概ね戦後の光太郎に対して好意的な筆です。世上から過小評価され、注目されることも少ない戦後の詩に対し、高評価を与えてくださっています。

この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩であるというのが今の私の評価である。弁解が多いとしても、これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない。

この一節は戦後唯一の詩集の表題作ともなった詩「典型」(昭和25年=1950)に対してのものです。

   典型
000
 今日も愚直な雪がふり
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲の翼を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みづから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 今放たれて翼を伸ばし、
 かなしいおのれの真実を見て、
 三列の羽さへ失ひ、
 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
 四方の壁の崩れた廃嘘に
 それでも静かに息をして
 ただ前方の広漠に向ふといふ
 さういふ一つの愚劣の典型。
 典型を容れる山の小屋、
 小屋を埋める愚直な雪、
 雪は降らねばならぬやうに降り、
 一切をかぶせて降りにふる。


それから感心させられたのは、「わからないことはわからないとする」こと。詩句の意味や、光太郎のとった不可解とも思える行動の理由など、苦しい解釈やこじつけで切り抜けず、正直にわからないとしている点に好意がもてます。

ただ、「それはこういうことですよ」と教えてあげたくなった点があるのも事実でした。残念ながら、参考資料の数が多くないのがありありとわかります。本書には「参考文献」の項がありませんが、第一章、第三章に於いては、十指に満たないのではないかと思われました。光太郎本人の日記や書簡をかなり読み込まれているのはいいのですが、周辺人物の証言や回想などで、かなりの部分氷解するはずの疑問が疑問のままに残されたりもしています。

また、光太郎の戦後七年間の花巻郊外旧太田村に於ける山居生活の意味づけ。光太郎本人は「自己流謫」という言葉で表現しました。「流謫」は「流罪」の意です。戦時中、大言壮語的な勇ましい翼賛詩文を大量に書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死地に追いやったという反省、その点を中村氏、前著からのつながりで、認めていません。結局、若い頃から夢想していた自然に包まれての生活を無邪気に実現したに過ぎなかったとしています。

中村氏、前著にも本著にもその記述がないので、おそらく厳冬期の旧太田村、光太郎が暮らした山小屋に足を運ばれたことがないように思われます。メートル単位で雪が積もり、マイナス20℃にもなろうかという中、外界と内部を隔てるのは土壁と障子紙と杉皮葺きの屋根のみ、囲炉裏一つの厳冬期のあの山小屋の過酷すぎる環境は、無邪気な夢想の一言で片付けられるものではありません。

また、山居生活中に彫刻らしい彫刻を一点も残さなかった件についても、誤解があるように思われます。それを小屋の環境の問題や、作っても売れる当てがないといった問題に還元するのはあまりに皮相的な見方でしょう。「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。」(「自分と詩との関係」昭和15年=1940)とまで自負していた光太郎が、「自己流謫」の中で、自らに与えた最大の罰として、彫刻を封印したと見るべきなのではないでしょうか。

ちなみに光太郎、きちんとした「作品」ではありませんが、山居中に手すさびや腕をなまらせないための修練的に、小品は制作しています。その点も中村氏はご存じないようでした。

さらに、第三章で中心に述べられている「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。こちらも「凡庸」「貧しい作」としています。確かに傑作とは言い難く、光太郎自身も「十和田の裸像、あれも名前(注・サイン)が入っていません。はじめ入れたんだけど、よくないんで消してしまった。」(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)としています。しかし、近年、『全集』未収録の光太郎の談話や、像に関わったさざざまな人々の証言が明らかになるに従い、あの像に込められた光太郎の思いが見えてきました。そういったところに目配りが為されて居らず、「凡庸」の一言で片付けられているのが残念です。

ただ、前述の通り、根柢に光太郎に対するリスペクトが通奏低音のように常に流れ、日記や書簡が読み込まれ、無理な解釈やこじつけが見られないといった意味で、好著といえるでしょう。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

芸術界のことにしても既成の一切が気にくはなかつた。芸術界に瀰漫する卑屈な事大主義や、けち臭い派閥主義にうんざりした。芸術界の関心事はただ栄誉と金権のことばかりで、芸術そのものを馬鹿正直に考えてゐる者はむしろ下積みの者の中にたまに居るに過ぎないやうに見えた。

散文「父との関係3 ――アトリエにて4――」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

ここで述べられているのは明治末のことですが、その最晩年まで、こうした見方は続いたようです。

中村稔氏もこうした光太郎の反骨精神は高く評価されています。

光太郎終焉の地・東京中野から朗読系イベント情報です。
会 場 : 古民家asagoro 東京都中野区若宮3丁目52-5
時 間 : 昼の部 13:30~15:30    宵の部 16:00~18:00
料 金 : ¥3,000

月を撮り続けているカメラマン、河戸浩一郎による映像作品の上映会です。月の映像詩の作品数本の上映と朗読を交えた映像作品の上演を行います。(朗読:蓑毛かおり)

今回はVol.8、全15回開催予定の折り返し地点でもあるので、いつもの作品上映に加え、新しい試みとして、高村光太郎の「智恵子抄」を取り上げ、月と絡めてご紹介します

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なかなかシャレオツなイベントのようですね。

確かに『智恵子抄』収録の詩篇の中には、月を詠み込んだものがいくつかあります。

まず結婚前、恋愛時代の作から。

 七月の夜の月は/見よ、ポプラアの林に熱を病めり  (「或る夜のこころ」 大正元年=1912)

 あなたは女だ/男のやうだと言はれても矢張女だ/あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ/世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ  (「おそれ」 同)

 御覧なさい/煤烟(ばいえん)と油じみの停車場も/今は此の月と少し暑くるしい靄(もや)との中に/何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか/あの青と赤とのシグナルの明りは/無言と送目との間に絶大な役目を果たし/はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる  (同)

 瓦斯(ガス)の暖炉に火が燃える/ウウロン茶、風、細い夕月  (「或る宵」 同)

何となく、月の持つ一種の神秘性を智恵子に仮託しているようにも思えます。

その後は『智恵子抄』中に月はしばらく登場しません。次に月が現れるのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)。

    荒涼たる帰宅007 (2)

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

ほぼ一切の感情を表す単語を排し、客観描写に徹しながら、しかしそれがかえって深い喪失感を表しているように思えます。葬儀は10月8日。たしかにちょうど中秋の名月の頃ですね。

ちなみにこの詩は『智恵子抄』刊行(昭和16年=1941)に際して書き下ろされたと推測されています。したがって、実際の智恵子の葬儀より3年近く経ってから書かれたものですが、まるでその場で書いているような臨場感が感じられます。

おそらく、このあたりを朗読で取り上げて下さるのでしょう。ありがたいかぎりです。


【折々のことば・光太郎】

ロンドンからパリへ来ると、西洋にはちがひないが、全く異質のものではない、自分の要素もいくらかはまじつてゐるやうな西洋、つまりインターナシヨナル的西洋を感じて、ひどく心がくつろいだ。魚が適温の海域に入つたやうな感じであつた。

散文「父との関係2 ――アトリエにて3――」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

そして、そのパリで、光太郎は芸術家として、また、人間として、開眼したということになるわけです。

北海道から講演会の情報です。
会    場 : 札幌文化芸術交流センター SCARTS 
            札幌市中央区北1条西1丁目 札幌市民交流プラザ2F
時    間 : 10時30分~12時
料    金 : 500円 
         ご受講の方は彫刻美術館で開催中の砂澤ビッキ展―樹―」展を無料でご観覧いただけます。
講    師 : 新関伸也氏(滋賀大学教育学部教授)

美術の教科書でもおなじみの彫刻家たち。仏師としての修練をつみ、西洋の写実を取り入れた光雲。その息子にしてフランス近代彫刻の巨匠ロダンに心酔した光太郎。そして西洋彫刻のもうひとりの紹介者であり、日本近代彫刻の礎を築いた荻原。日本の伝統的な技法と、西洋由来の彫刻が出会った時代に、彼らが生んだ作品の魅力とは?

※本講演会は彫美連続講座の第1回として開催するものです。彫刻の見方や楽しみ方を学び、芸術鑑賞の幅を広げる全4回の講座です。
※今年度より1講座ごとのお申込みとなりました。

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昨年も光雲に関わる講座「銅像時代-明治150年の光と影」を開催して下さった本郷新記念札幌彫刻美術館さんの主催です。

光太郎の父にして明治木彫界を代表する光雲、さらに彫刻家としては光太郎唯一無二の親友だった荻原守衛、そして光太郎。この三者を取り上げるということで、ありがたい企画です。

申し込みは同館まで。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美術史上から見ると、明治初期の衰退期に彫刻の技術面に於ける本質を、父の職人気質が頑固に守り通して、どうやらその絶滅を防いだことになる。彫刻の技術上の本質については無意識のうちに父は伝統の橋となつた。たとへば彫刻のこなしとか、木取りとか、肉合(にくあ)ひとか、つり合ひとかいふものは作品の高下に拘わらず彫刻に内在すべきもので、これを口やかましく父が伝へただけでも父の役目は果されてゐると見るべきである。

散文「父との関係1 ――アトリエにて2――」より
 昭和29年(1954) 光太郎72歳

明治初年の廃仏毀釈により、仏師としての仕事が激減した際、同業者がどんどん転業していく中で、木彫の孤塁を守り通した光雲。光太郎はその部分の功績を評価しています。しかし、同じ文章で「結局父光雲は一個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であつた。」とし、特にその製作態度の部分で手厳しい評を与えてもいます。

昨日は、都内に出ておりました。駒場の日本近代文学館さんで調べ物の後、赤坂のサントリーホールさんへ。過日ご紹介した、第35回アイメイトチャリティーコンサートを拝聴。

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こちらは東京パイロットクラブさんというボランティア団体の主催行事でした。「パイロット」は一般的な「航空機等の操縦者」の意ではなく、「水先案内人」という本来の意味から転じ、社会全体の水先案内的にさまざまなボランティア活動に取り組むということだそうです。ちなみに同会の初代会長は神近市子。その後の歴代会長には村岡花子や平林たい子といった錚々たる名が並んでいます。一昨年、105歳で亡くなった日野原重明医師も名誉会員だったそうで。

「アイメイトチャリティーコンサート」は、同会の主要な活動の一つ。アイメイト(盲導犬)育成活動への助成を行うためのものとのこと。

昨日は、以前からこのコンサートに出演されてきた女優の一色采子さんが「智恵子抄」の朗読をなさるというので、はせ参じた次第です。

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開場前から長い行列。大ホールではなくブルーローズ(小ホール)での開催でしたが、キャパ400席弱の7割ほどが埋まったでしょうか。

開演前の一コマ。

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かつては美智子さまが皇后陛下時代にいらしたことも何度かおありだそうで、昨日ももしかしたら、と思っていましたが、それはありませんでした。ただ、お嬢様の黒田清子さんがお見えでした。黒田さんはほぼ毎年いらしているようです。

一色さん、まずは第1部の最後でご登場。「詩と音楽のマリアージュ 高村光太郎作「智恵子抄」より」ということで、ピアニスト田中健さんの奏でるショパンの楽曲に乗せ、「人に」(大正元年=1912)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の4篇を朗読なさいました。

一色さんの朗読を拝聴するのは、一昨年、二本松の智恵子の生家での催し以来2度目でしたが、凛とした中にも情感溢れる朗読で、いい感じでした。何度も書いていますが、一色さんのお父様の故・大山忠作画伯が智恵子と同郷で、智恵子をモチーフにした作品も複数遺され、そうしたご縁で智恵子顕彰にも一役かわれている次第です。

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第2部では、オペラの名曲の数々。その進行役を一色さんが務められました。

出演された音楽家の皆さん、非常にハイレベルでした。

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第2部のピアノ伴奏でご出演の渕上千里氏、前述の二本松での一色さんの朗読に際し、電子ピアノで伴奏をなさっていましたし、かつて故・平吉毅州氏作曲の混声合唱組曲「レモン哀歌」CD(平成11年=1999 フォンテック)に、ピアノで参加されていました。

実際にアイメイト(盲導犬)と共に生活されている音楽家の方の演奏もありました。その方々の演奏中、ステージでおとなしく座っている姿はほほえましいものでした。

インタビューもあり、ピアニストの高橋雅枝さんという方、右手の点字の楽譜を左手で読みながら右手の練習を、右手で左手の点字の楽譜を読みながら左手の練習をなさり、それぞれを覚えてから両手で演奏されるということで、なるほど、そういうふうにするのかと、初めて知りました。視覚障害のあるピアニストの方、皆さんがそうなさっているのでもないのでしょうが。

終演後のカーテンコール。アイメイト君も真ん中に写っています。

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さらに一色さんとお話しさせていただき、こちらも。

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なかなか見聞の広まる経験となりました。


【折々のことば・光太郎】

街を歩いて、あちこちで見かけた詩のかけらをこの冬中に詩集にまとめたい。すさまじいもの、浅間しいもの、いくつにも分れているような美をひつくるめた面白さだな。都会人の心なら、だれでも知つている東京の魅力だ。ほんとうは東京を礼賛したかつたんだが、街をうたえばどうしてもエレジーになる。結局、東京はそういうところなんだ。

談話筆記「新春放談」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

それを詩集にまとめるという構想は実現しませんでしたが、前年には「東京悲歌」という詩も書いた光太郎。岩手花巻郊外旧太田村で過ごした7年間の間に浄化されたその眼には、「東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」(「あどけない話」(昭和3年=1928)という智恵子の気持ちが実感できたのではないかと思われます。

『朝日新聞』さんの記事等から。

まず、今月9日の一面コラム「天声人語」。当会の祖・草野心平を取り上げて下さいました。

天声人語 危機の100万種

草野心平は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた。その小さな生き物になりきるようにして、いくつもの詩をつくった。たとえば「秋の夜の会話」。〈痩せたね/君もずゐぶん痩せたね/どこがこんなに切ないんだらうね……〉▼切ないのは空腹のためだろうか。2匹の会話は続く。〈腹だらうかね/腹とつたら死ぬだらうね/死にたくはないね/さむいね/ああ虫がないてるね〉。やせこけた蛙たちの姿が浮かんでくる▼冬眠の前を描いた詩ではあるが、いまや別の読み方もできるかもしれない。国際的な科学者組織が先日、地球上に800万種いるとされる動植物のうち、100万種が絶滅の危機にあるとの報告書を公表した。なかでも両生類は40%以上が危機に直面している▼主犯は人間である。報告書によると湿地の85%はすでに消滅させられ、陸地も海も大きく影響を受けた。海洋哺乳類の33%以上、昆虫の10%も絶滅の可能性があるという▼農業や工業を通じ、地球をつくり変えながら生きてきたのが人間だが、その地球に頼るのもまた人間である。ハチがいるから農作物が育ち、森林があるから洪水が抑えられる。当たり前のことが改めて浮き彫りになっている。報告書は「今ならまだ間に合う」と各国政府に対策を求める▼草野心平にとっての蛙は、生きとし生けるものの象徴にも見える。〈みんなぼくたち。いっしょだもん。ぼくたち。まるまるそだってゆく〉。おたまじゃくしの詩である。全ての命のことだと読み替えてみたい。

「秋の夜の会話」、さらに言うなら、核戦争後の人類が滅亡した地球を描いているようにも読めます。この詩は昭和3年(1928)の詩集『第百階級』に収められたもので、いまだ核兵器は開発される前のことですが……。

心平といえば、現在、心平の故郷・福島いわき市の市立草野心平記念文学館さんで、企画展「草野心平 蛙の詩」が開催中です。ぜひ足をお運びください。


ついでというとなんですが、同じ『朝日新聞』さんから、光太郎にも言及されている中川越氏著『すごい言い訳!  二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』の書評。5月11日(土)の掲載でした。

文豪たちの機知に味わい 中川越さん「すごい言い訳!」

 言い訳には「姑息(こそく)」「卑怯(ひきょう)」というイメージがある。だが、この本で取り上げられた文豪たちの言い訳は機知に富んでいて、一味違う。
 例えば中原中也。酒に酔って友人に迷惑をかけた際、詫(わ)び状の文末に署名代わりに「一人でカーニバルをやってた男」と記した。中川さんは「カーニバルの中にいる人は、無礼講に決まっています。その人にとやかく言うのは無粋です。こんなふうにトリッキーに書かれてしまっては、もう許すしかありません」と解説している。
 ほかにも「禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した北原白秋」「二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター林芙美子」「不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない徳冨蘆花」など、思わず読みたくなる項目が並ぶ。森鴎外、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、太宰治らも次々と登場する。
 文豪たちの言い訳の魅力は何か。
 「辛気くさいものではなく、おしゃれに整えられていて、ユーモアのおまけまで付いている。一方で、いたわりの気持ちが深い味わいになっている」と話す。
 最高峰は夏目漱石だとみている。「返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者」を読むと、いかにも漱石という感じでニヤリとさせられる。「文章の神髄は『そこに詩があるか』だと思うが、漱石がまさにそう。ある言葉が大きな意味合いを放って、心に触れてくる。漱石のすごみです」
 10年前から漱石の手紙2500通を分析し始め、4年前から漱石以外の文豪たちの書簡や資料にも手を広げた。「砂金探しみたいで楽しかった」と振り返る。
 土壇場に追い詰められたとき、気の利いた言い訳をしてみたい人にとって、最適の指南書だ。(文・西秀治、写真・篠塚ようこ)=朝日新聞2019年5月11日掲載

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評には名前が出ていませんが、光太郎も「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項で取り上げられています。

こちら、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

本号にその文章が掲載されるといふ草野天平さんは若いのに昨年叡山で病死された優秀な詩人である。草野心平さんの実弟だが、詩風も行蔵もまるで違つてゐて、その美は世阿弥あたりの理念から出てゐるやうで、極度の圧搾が目立つ。きちんと坐つたまま一日でもじつとしてゐるやうな人で、此人のものをよむとシテ柱の前に立つたシテの風姿が連想される。

散文「余録」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

心平ならぬ実弟の天平を評した文章の一節です。兄の心平は1分たりとも「じつとしてゐ」られない人でしたので(笑)、たしかに「まるで違つてゐ」たのでしょう。

ちなみに天平、過日亡くなった彫刻家の豊福知徳氏と共に、昭和34年(1959)、第2回高村光太郎賞を受賞しています。故人への授賞だったわけです。

演劇の公演情報です。
会    場 : シアターKASSAI 東京都豊島区東池袋1-45-2
時    間 : 5/28(火) ~5/30(木)19:00 5/31(金)  14:00・19:00 
         6/1(土)  12:00・15:30・19:00
  6/2(日)  13:00・17:00
料    金 : 前売・当日共 3,800円/学割2,800円

脚本 清水邦夫 演出 大谷恭代

『いとしいとしのぶーたれ乞食』
首塚に棲みついている老人と老婆。老婆は何十年もおかげまいりの一行を待っている。そこへ「おかげまいりパック」のツアー客たちがやってくる・・・
  側見民雄 槇由紀子 町屋圭祐 尾﨑宇内 小野田由紀子 瀬沢夏美 夏谷理恵 環みほ 須藤正三 藤本しの
 野良のりオ  知野三加子 黒崎雅 今氏瑛太

『朝に死す』
長く続く壁の前。男は仲間を裏切った。女は男に捨てられた。生への絶望と渇望・・・名前も顔も知らなかった二人が話し始める・・・
  眞藤ヒロシ 牛水里美 小林司 鳥居きらら

二本立て(休憩なし)×Wキャスト公演。

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劇作家・清水邦夫氏の脚本による2本立て公演だそうです。

清水氏と言えば、平成3年(1991)に、光太郎智恵子を主人公とした演劇「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」を書かれ、小林勝也さん(光太郎)、故・松本典子さん(智恵子)他のご出演、木冬社公演ということで上演されました。

今回の作品のうち、『いとしいとしのぶーたれ乞食』の方で、光太郎詩「樹下の二人」(大正12年=1923)が使われるようです。「首塚に棲みついている老人と老婆」の会話が、「樹下の二人」からデフォルメされたものを含むようで。上記チラシの右上にも「樹下の二人」の一節が引用されています。

この作品、戯曲として書かれたのは昭和46年(1971)、清水氏まだお若い頃の作品です。ただ、初演は下って昭和58年(1983)。のちの「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」と同じく、木冬社さん公演でした。

おそらくこれが発展して「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」につながっていったのだと思われます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

又新聞で、私が彫刻家であるのに文学部門から推せんされたのがをかしいといふので辞退したやうにも言はれたが、これは談笑の間に私が早解りするやうに、「それでは親爺におこられるよ」などといつたからであらう。又実際一旦文学部門で会員になつたら、その上重ねて美術部門で会員に推されるといふことはあり得ないことであらう。つまり私の場合で言へば、美術部門からはしめ出しを食つたことになるのである。

散文「日本芸術院のことについて――アトリエにて 1――」より
 昭和28年(1953) 光太郎71歳

この年、光太郎は日本芸術院第二部(文芸)会員に推挙されましたが、辞退しています。辞退者が珍しく、当時のメディアがその理由をいろいろ憶測を交えて報じましたが、それに対し、間違いもあるようだから、と発表した文章の一節です。

やはり彫刻家としての矜持があったでしょうし、そして、戦時中に書き殴った大量の翼賛詩によって多くの前途有為な若者を死地へと追いやったという反省から、文学部門での栄誉に浴することを辞退したのでしょう。

智恵子の故郷二本松に聳え、智恵子が「ほんとの空」があるといった安達太良山。5月19日(日)に行われた山開きの件が報道されていますのでご紹介します。

まず『福島民報』さん。 「ほんとの空」の語を使って下さいました。

”ほんとの空”体感 安達太良山で山開き

006 日本百名山の一つ、安達太良山(一、七〇〇メートル)が十九日、山開きした。県内外からの登山者約九千人が新緑を楽しみながら山頂を目指した。
 二本松市などでつくる安達太良連盟の主催。山頂付近で神事を執り行い、同連盟会長の三保恵一二本松市長らが登山客の安全を祈願した。先着三千人に記念のペナントが配られた。
 山頂付近を覆っていた霧は午前中に消え、時折青空ものぞいた。登山者は稜線を進み、沼ノ平などの雄大な景観を満喫した。

続いて『福島民友』さん。

「安達太良山」待望の山開き! 登山者ら風にも負けずに山頂へ

 二本松市などにまたがる安達太良山(1700メートル)の山開きは19日、行われた。頂上付近では風が吹き、雲がかかるなど絶好の登山日和とはならなかったが、約9000人の登山者が山頂を目指した。
 山頂付近では、安達太良連盟が記念イベントを行った。安全祈願祭では観光関係者と登山者らが一緒に、本格的な登山シーズンのスタートを祝い、無事故を願った。記念のペナントも配られた。友人と一緒に登った福島市の女性(65)は「とても登りやすく大好きな山。女性に優しいといえるかも」と笑顔で話した。
 ミズあだたらコンテストには39人が参加。ミズに桑折町の看護師菅野恵梨華さん(26)、準ミズには家族と登った鏡石町の幼稚園児鈴木妙英ちゃん(4)が選ばれた。菅野さんは「選ばれてびっくりした。安達太良山は景色がきれい。ますます好きになった」と喜び、妙英ちゃんは「うれしい」とはにかみながら笑った。

それから、山開きの報道ではありませんが、『朝日新聞』さんの福島版、今月3日の記事。

福島) 新天皇陛下、県内訪問は11回 再訪願う声も

 1日に即位した天皇陛下はこれまでに福島県内を11回訪れている(県調べ)。皇太子時代には新皇后の雅子さまと9回来県。うち3回は震災と原発事故後で、被災者を激励したり、復興状況を視察したりした。ゆかりの地の人たちは当時を振り返り、再訪を願う声も聞かれた。
 2015年10月、お二人はこの年の春に開校したばかりのふたば未来学園高校(広野町)を訪れ、地域の将来を考えるグループ学習の様子を見学した。
 丹野純一校長は当時も校長として応対し、「子どもたちが地域の課題と向き合う中で前を向いて頑張っていることを伝えると、『よかったですね』と応えて頂き、心強さを感じた」と振り返る。

  ふるさとの復興願ひて語りあふ若人たちのまなざしは澄む

 雅子さまは翌年1月の「歌会始の儀」で、生徒たちのすがすがしいまなざしの印象を詠んだ。
 高校は今年4月、中学を併設した新校舎に移り、訪問時に植えたミカンの木も移し替えた。丹野校長は「復興の願いのもと、前を向いて頑張ることが学校の伝統。子どもたちがミカンの木を見て思い出すようにしたい。福島の子が、困難を乗り越えながら、ともに生きる姿を、再びご覧頂ける機会ができれば」と話す。
 1996年4月に私的旅行で来県した際には、安達太良山を登った。案内をした「あだたら山の会」の渡辺一郎さん(74)によると、お二人は登山靴を履いて雪が残るコースを30分ほど周遊したという。
 「(山頂の別名)乳首(ちちくび)山の名も知っておられ、登山客とすれ違うと、優しく声を掛けられたのが印象的だった」と渡辺さん。「山好きということなので、思い出の登山道を再び歩いて頂ければうれしいですね」と話す。
 登山後には休憩所で地元・二本松市の玉嶋屋の羊羹(ようかん)を口にしたという。同社の和田雅孝社長(64)は「疲れた時に一息つくには甘い物が一番。召し上がって頂いて光栄」と話す。
 2000年9月に全国育樹祭で来県した際には、柳津町の斎藤清美術館を訪れた。同館は即位を記念して、「ご夫妻がご覧になった斎藤清、そして会津」をテーマにした企画展を開催中だ。
 文化功労者の斎藤清(1907~97)は、故郷の会津に「日本の原風景」を求めた版画作品で知られる。3年前から勤務する伊藤たまき学芸員によると、お二人は訪問時に「会津の冬」と題したシリーズ作品を鑑賞しながら、「こんなに雪が降るんですか」と驚かれた様子で語り、作品の技法なども尋ねたという。
 記録をもとに展示を再現し、訪問時の写真も掲示した「もうひとつの会津の四季」展を6月23日まで開催中で、伊藤学芸員は「ご覧頂いた斎藤作品の魅力を、新しい時代に再発見しながら、多角的に紹介していきたい」と話す。
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ロープウェイ山頂駅にあるパネルと記念碑は平成8年(1996)のものだったのですね。知らずに行き会った一般登山客はさぞ驚いたことでしょう(笑)。
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さすがに天皇陛下となられてからは、なかなか登山というわけにもいかなくなるのでしょうが、古くから「智恵子抄」に関心を寄せられている陛下、海外のご友人にもその魅力を伝えて下さったりもなさっています。今後とも智恵子の故郷・福島をよろしくお願いしたいところです。

【折々のことば・光太郎】

ぬれ紙につつんで灰の中で焼く焼栗を電燈の下でぼつぼつ食べていると。むかし巴里の街角で、「マロンシヨウ、マロンシヨウ」と呼売していた焼き栗の味をおもい出す。あの三角の紙包をポケツトに入れて、あついのを歩きながら食べたことを夢のように思い出す。あれはフランス、ここは岩手、なんだか愉快になつたものだ。

散文「山の秋」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後、中野のアトリエで書かれた文章。前年まで7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での蟄居生活の回想です。

そういえば今上陛下、学習院中等科時代の昭和49年(1974)には高村山荘も訪れられています。今度は雅子さまともども、ご来訪いただきたいものです。

智恵子の故郷、福島二本松のレポートに戻ります。

5月18日(土)、智恵子生家/智恵子記念館さんから徒歩数分の鉄扇屋さん蔵で、シャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家増田真也さんのコンサート「モモの智恵子抄」を拝見拝聴したのち、安達太良山中腹の岳温泉さんに宿泊しました。

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宿はマウント・インさん。昨年度までせせらぎ荘という名前でしたが、リニューアル。リーズナブルな料金でしたが、実に快適な宿でした。

翌5月19日(日)が第65回安達太良山山開きということで、行って参りました。毎年このブログで紹介するだけ紹介しておきながら、実際に参加したのは初めてでした。なかなかこれだけの目的では足が向きませんでしたが、前日のモモさんのコンサートがあったので、いっそのこと登ってみようと思った次第です。

岳温泉さんから、8:05発のシャトルバスで奥岳登山口へ。天気が心配でしたが、とりあえず雲間から「ほんとの空」。愛車で登山口まで行くことも出来たのですが、相当の混雑が見込まれ、すると登山口からかなり下の駐車場に駐めねばならないと予想し、シャトルバスにしました。実際、その通りだったので正解でした。

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8:40、ロープウェイで山頂駅めざして出発。当方、登山マニアではありませんので、楽に行けるところまで楽に行きました。ただ、山頂駅といっても、安達太良山頂までは約1時間30分歩くと案内に出ています。

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かつて皇太子時代の今上天皇陛下と雅子さまも登られたそうで、山頂駅にはパネルや記念碑が。

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山頂までの登山道は、けっこう難行苦行でした。時間的には1時間ちょっとで行けましたが、雪がかなり残っており、その雪解け水で泥の河と化している箇所や、がっつり雪原となっている箇所などもあり……。

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そして山頂。着いた時には濃霧でした。霧というより雲の中に居たようなものかもしれません。

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一瞬、霧が晴れたときに撮ったのが下の画像。

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この溶岩ドームが安達太良山最高地点。別名「乳首山」のまさに乳首です。

こちらは中腹からの画像。赤丸の部分が上記なわけで。

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先着3,000名に、記念のペナントがもらえました。

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令和元年ということで、「令和」の出典となった『万葉集』中の安達太良山を詠んだ歌が取り上げられていました。

帰りのシャトルバスの都合などもあり、もらうものをもらい、それから急いでこのブログ5/19の記事をスマホから投稿し、下山。

山頂以外にもう一つの目的地だった薬師岳パノラマパークへ。ロープウェイ山頂駅の近くです。

駅からすぐの分岐点を左に行けば山頂、右に行けば薬師岳パノラマパーク。

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ここには観光案内等でよく使われる「この上の空がほんとの空です」の一文を刻んだ木標があり、これも今まで見たことがなかったもので。

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「ほんとの空」、言わずもがなですが、この語は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採られています。東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故以来、福島の復興の合い言葉にもなっていますね。 

あそこまでよく登ったなぁ、と思いながら、木標越しに山頂を眺めました。

まぁ、楽な道のりではありませんでしたが、さりとてアイゼンやらザイルやらの本格的な装備は必要ありませんし、わんこ(ビーグル犬)まで登っていたルートですので、それほどでもありません。ただ、雪が残っているうちはストックなり杖なりがあった方が安心だったなと思いました。それから、靴とズボンが雪解けの泥でどろどろになってしまったのには閉口しました。

再びロープウェイで奥岳登山口に。その時点で11時30分ぐらいでしたので、3時間弱で往復できました。帰りのシャトルバスは12:20発。それをのがすと14:00までありません。

比較的余裕を持ってレストハウスで昼食。すると、以前にここまで来た時には気づかなかったのですが、壁に光太郎智恵子の写真などが展示されていました。



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それから、この石碑も観て参りました。

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「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。光太郎詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で使われているリフレインです。

この石碑、ネット上などでもあまり紹介されておらず、正確な場所がわからなかったのですが、探し当てました。最初、レストハウスの従業員の方にスマホで画像を見せて訊いたところ不明、次にパトロール事務所の方に同じように訊いても分かりませんでした。半分諦めかけながら周辺をぶらぶら歩いていたところ、なんのことはない、パトロール事務所の隣にあるスキースクールの建物のすぐ脇にありました。ここらで働いている人達にも知られていないのかと少し残念でした。

その後、再びシャトルバスで岳温泉さんに戻りました。さすがに足が疲れていましたので、有名な桜坂の途中にある足湯へGO。

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気持ちよかったです(笑)。

足だけでなく、日帰り温泉にがっつり入浴しようかとも考えましたが、さすがにそこまでやるとバタンキュー(死語ですね(笑))となりそうでやめました。

この後、岳温泉さんに駐めておいた愛車を駆って千葉の自宅兼事務所に。

というわけで、前日の「モモの智恵子抄」と合わせ、有意義な二本松行きでした。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。

談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

「皇太子さま」は、さきに退位された現上皇陛下です。この年3月、イギリス女王エリザベス2世の戴冠式出席のため、横浜から船で向かわれたそうです。

「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。光太郎自身、明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンに滞在しており、芸術の部分ではあまり学ぶところはなかったというものの、重厚で歴史ある英国人のライフスタイルには非常に感銘を受けたそうです。

そういえば、日本に近代的登山を紹介し、大正2年(1913)の上高地で光太郎とも交流があったウォルター・ウェストンも英国人ですね。

予定では、智恵子の故郷、福島二本松に聳え、智恵子が「ほんとの空」があると言ったという安達太良山の山開きの件をレポートするつもりで居ましたが、急遽、訃報が入りましたのでそちらをご紹介します。

彫刻家の豊福知徳さんが死去 楕円の穴特徴000

 楕円形の穴を幾つも開けた抽象的な作品で知られる彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日午後11時57分、福岡市の病院で死去した。94歳。福岡県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長女夏子(なつこ)さん。
 国学院大在学中に旧日本陸軍に志願し、終戦後は復学せず、彫刻家の冨永朝堂氏の下で木彫を学んだ。1959年に高村光太郎賞を受賞。60年にイタリアのミラノに拠点を移し40年以上活動した。2003年に帰国後は日本とイタリアを行き来しながら創作を続けた。
(共同通信) 

世界的彫刻家の豊福知徳さん死去 「那の津往還」など

 世界的な彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日、福岡市内の病院で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は長女夏子さん。後日、お別れの会を開く。
 福岡県久留米市出身。59年に高村光太郎賞を受賞し、60年のベネチア・ビエンナーレ出品を機にイタリアへ移住。ミラノにアトリエを構え、40年以上にわたり現地で制作を続けた。楕円(だえん)形の穴をいくつも開けた独特な造形作品で知られ、ローマ国立近代美術館や東京国立近代美術館など、国内外の美術館に作品が所蔵されている。
 福岡市の博多港引揚(ひきあげ)記念碑「那の津往還」などの作品も手がけ、昨年には福岡市早良区百道浜に専門ギャラリーが開設された。
(朝日新聞)

昭和34年(1959)、木彫「漂流」により、第2回高村光太郎賞を受賞した彫刻家の豊福知徳氏の訃報です。ここに挙げた以外の各紙の報道でも、「高村光太郎賞受賞」が氏の経歴に必ずと言っていいほど記載されていました。

「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村001光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、歴代受賞者には、造形が柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、黒川紀章、建畠覚造、そして豊福氏など、詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一ら、錚々たる顔ぶれ。審査員は高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

当初から10回限定と決め、昭和42年(1967)で終了。同44年(1969)には、求龍堂さんから大判厚冊の『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。歴代受賞者や審査員の作品等を紹介し、さらに高村光太郎賞の開始の経緯、年譜などが掲載されています。

そちらに載った豊福氏の彫刻が右画像です。

そして氏の言葉。

受賞作「漂流」は、私にとって殊に思い出深い作品であった。それは受賞作ということからではなく、その頃の自分の仕事の一くぎりを為した作品であったと思うからである。
処でこの重要なるべき作品の記録が手元にない。作品の所有者や所在地に加えて写真すらもないというのは私の不精のせいで、一九六〇年のヴェニス・ビエンナーレに出品して、そのままあるイタリアのコレクショナーに買取られたまではわかっているが、その後の消息は一切不明である。
この作品は受賞作ではなく、その頃しきりに制作していた漂流シリーズの中の一点である。

1950年代後半というと、ヘンリ・ムーアなどの影響もあって、彫刻の世界にも抽象がかなり入り込んできていましたが、この頃の氏の作風は完全な抽象でもなく、さりとて具象とも言えず、双方の良いところをバランスよく取り入れているように感じます。

当時の連翹忌は、高村光太郎賞の授賞式も兼ねていましたので、豊福氏、受賞された昭和34年(1959)と翌年の連翹忌に参加なさっています。受賞の年には豊福和子さんというお名前も参加名簿に残っており、おそらくご夫人なのでしょう。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とにかく日本人の趣味、教養はいま実におくれている。四等国以下、野蛮人といつてよい。敗戦の混乱で日本人の正体が分つたわけで、実に徳川時代そのままなんだ。こうしたひどい状態で全然絶望かといえばそうでないとやはり考えたい。

談話筆記「ラジオと私」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

敗戦の傷跡がまだ色濃く残っていたこの頃を憂えての発言です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)には「もはや戦後ではない」と言われ、文化的な部分でも新しいものがどんどん出てくるようになりました。豊福氏などもそうした新時代の旗手だったわけで……。重ねて謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

今日、5月20日は智恵子の誕生日です。明治19年(1886)生まれですから、満で133年ということになります。

そんなこんなで、一昨日、昨日と1泊で智恵子の故郷、福島二本松に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

5月18日(土)、まずは智恵子生家/智恵子記念館さんに。生誕祭ということで、のぼりや立て看。

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智恵子の居室を含む2階部分の公開期間は終わっていましたが、地元の上川崎和紙を使った紙絵制作体験が行われていました。

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物販コーナーも。

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こちらは智恵子クイズだそうで(笑)。

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生家裏手の記念館さんでは、智恵子紙絵の実物公開期間。10点の実物が出ていました。実物を見るたびいつも思うのですが、複製ではなかなか感じられない、ほんの僅かながら紙が重なっていることによって生じる立体感が見て取れ、感心しました。

その後、徒歩数分の鉄扇屋さんへ。築140年という蔵があり、生誕133年の智恵子も、この前を通って小学校に通っていたと思われます。

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こちらがサウンドシステムのスタジオ的になっており、こちらでシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんのコラボによるコンサート「モモの智恵子抄」が開催されました。光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているモモさん、この蔵でのコンサートは3回目くらいでしょうか。昨年も行われましたが急な話だったので当方は欠礼、平成27年(2015)以来でした。

モモさんと増田さん、東北各地を廻られてコンサートや病院の慰問講演等を開催されたとうです。5月15日(水)には花巻郊外旧太田村スポーツキャンプむらでの第62回高村祭でも。ただ、その際は増田さんは出演されず、モモさんのみでした。

増田さんは今年の連翹忌にもいらして下さり、そして花巻高村祭でもお会いしたのですが、そのダンスを拝見したことがなかったので、それが楽しみでした。モモさんとはもう20年来のおつきあいになりますが(笑)。

午後4時開演。光太郎智恵子の軌跡をほぼ年代順に追う構成で、トータル1時間半近いステージでした。伴奏は鉄扇屋さんで販売しているスピーカーを通し、打ち込み系DTM。

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会場が狭いということもあったからでしょうか、増田さん、ダンスといいつつ激しい動きはほとんど無く、モモさんともども、折り紙をいろいろなモチーフとしての幻想的な世界を演出。折り紙が時に花となり、雪となり、千鳥が智恵子にねだる貝殻となり、智恵子の紙絵となり、トパアズ色のレモンの香気となり……。

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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」的な。

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なかなかに面白いステージでした。

今後、やはり光太郎智恵子ゆかりの場所でやりたいということですので、期待したいと思います。

この後、当方は智恵子の愛した「ほんとの空」の広がるる安達太良山中腹の岳温泉さんに宿泊。昨日は山開きで登って参りました。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

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一体では出せない或る雰囲気がこの二体の四肢胴体の交錯で出るわけなのだ。彫刻全体の面(めん)から起る明暗の処理、彫刻体量の比例の按排、構造上の煩簡の分布、離れた二体の造形的連絡、雰囲気醸成の基となる対向と親和とのかね合ひ、一切がこの組合せから来る。

散文「工房にて」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「乙女の像」の小型試作2体を石膏取りしてもらい、その2体の組み合わせ方をいろいろ試行錯誤している際のことです。ちなみに石膏に取ってくれた職人は、光太郎と交流のあった道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿・牛越誠夫でした。

右はこの頃書かれた、「乙女の像」構想スケッチ。反故になった原稿用紙の裏に書かれたものです。わずかな前のめりのポーズで二体を向き合わせ、全体で三角形の円錐空間を作る意図が見て取れます。

下の画像はもう少し後、中型試作(左)も石膏取りし、本体(右)の制作も進んでいる頃のものです。

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昨日から智恵子の故郷、福島二本松に来ております。昨日は智恵子生家・智恵子記念館にほどちかい鉄扇屋さんの蔵で、シャンソン系歌手モンデンモモさんのコンサートを拝聴。岳温泉さんに宿泊しました。

今日は安達太良山の山開きということで、登って参りました。

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けっこうガスっていて分かりにくいと思いますが、山頂です。

このブログ最高地点、標高1,700メートル付近での投稿です(笑)。

このあと下山して千葉の自宅兼事務所に帰ります。

詳しくは帰りましてから。

5月15日(水)、第62回高村祭に出席のため、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻郊外旧太田村に行って参りまして、ついでというと何ですが、高村光太郎記念館さんの別館的な森のギャラリーで開催中の「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」を拝見して参りました。

まずは5月14日(火)、記念館さんの職員の方にご案内いただき拝見、さらに翌日、高村祭に出演なさったシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんをご案内。

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森のギャラリーは、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館です。現・高村光太郎記念館さんの方で展示しきれない収蔵品や、地元の方々の作品等の展示、時にはワークショップ的な活動、市民講座等でも活用されています。

で、現在は地元ご在住、多田民雄氏のポスター作品、安部勝衛氏の陶芸・書作品の展示がメインです。看板的な書も安部氏が揮毫。

「美しきものみつ」というのは、光太郎が好んで揮毫した短句。「この世界には美しいものが満ちている」的なニュアンスです。「み」を変体仮名的にカタカナの「ミ」とした揮毫もあり、それを漢字の「三」と誤読、「美しきもの三つ」と勘違いし、「三つのうちの一つは○○、次は××……」と、むちゃくちゃな解釈がされる場合があり困っているのですが……。

多田氏のポスター作品。最近の作品なのですがレトロ感が溢れています。

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展示作品を元にしたポストカードも作成されていました。記念館さんで販売中です。

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モチーフは、戦後の7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)です。正確に言うと、その套屋(カバーの建物)で、農家の納屋風のこの建物の中に、光太郎の山小屋が保存されています。イメージとしては中尊寺金色堂のような保存法です。

安部氏の書。光太郎の詩句等から言葉を選んで書いて下さっています。下の方には陶芸作品も。

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過日、その存在が報道された、光太郎遺品のホームスパン毛布。世界的に有名なイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)の作と確認された逸品。ただし現物ではなく、画像をロール紙にプリントアウトしたものです。目に入った瞬間は本物かと見まがいましたが。

以前にも書きましたが、大正末か昭和初め、メレの作品展が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたとのことです。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。

ちなみに下の方は、記念館スタッフの方のご自宅にあったという糸車と糸。直接光太郎に関わるものではありませんが、このあたりでこうしたものが使われていたということでの展示です。

来年度あたり、記念館さんの方で、こちらにまつわる企画展示を行うという計画が進行しているようです。ぜひ実現してほしいものです。

記念館さんの企画展といえば、昨年開催された「光太郎と花巻電鉄」の際に、品川在住のジオラマ作家・石井彰英氏に制作していただいた、昭和20年代花巻町とその周辺のジオラマ。現在も記念館さんで展示中です。

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モンデンモモさんと増田真也さんをご案内して登った智恵子展望台。山荘裏手です。ここから光太郎が夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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いちめんの新緑と、赤いのはツツジ。「山青くして花然(も)えんと欲す」ですね。この日はあいにくの雨模様でしたが、晴れた日には抜群の展望でしょう。


森のギャラリーでの「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」は、5月26日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あれは智恵子といふ純真な女性に接したいろいろな時期にまつたく唯夢中で書いたもので、それを愛の精神とおよみ下すつた事をありがたく思ひます。ほんとに高い愛といふものこそ此の厳しい人生に真に人間を人間たらしめるものでございませう。

ラジオ放送「たのしい手紙」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

文京区在住だった松林忠という人物(詳細が不明です)からの書簡に対しての返信が、おそらくそのままラジオで放送されまして、その一節です。

「あれ」は『智恵子抄』。光太郎自身、智恵子に対する愛情がそうだったとは書いていませんし、光太郎が実践できていたかもあやしいのですが、「ほんとに高い愛」……言い換えれば「無私の愛」とでもいうことになるのでしょうか。

5月15日(水)、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻郊外旧太田村で開催されました第62回高村祭。今日は高村祭自体ではなく高村光太郎記念館さんなどの状況をレポートしようと思っておりましたが、ありがたいことに地元メディア各社さんで高村祭の模様を取り上げて下さっていますので、そちらをご紹介します。

まず、地元紙『岩手日日』さん。

芸術家の生涯思いはせ 「雪白く積めり」朗読 花巻、高村祭 光太郎遺徳しのぶ

詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ高村祭は15日、花巻市太田のスポーツキャンプむら屋内運動場で開かれた。光太郎の詩の朗読や合唱、講演などが行われ、来場した市民らが花巻に大きな足跡を残した芸術家の生涯に思いをはせた。

花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)と高村記念会山口支部(照井康徳支部長)が主催。戦禍を逃れて光太郎が花巻に疎開してきた1945(昭和20)年5月15日を記念して58年から開かれており、今年で62回目。雨天のため高村山荘碑詩前広場から屋内に変更して開催され、市内外から約500人が参加した。

光太郎の写真が飾られた祭壇に、太田小学校年の照井彩笑さん、照井莉心さんが花を手向け、花巻東高茶道部による献茶で開会。西南中学校の1年生が先導し、高村山荘の碑詩に刻まれた「雪白く積めり」の詩を参加者全員で朗読した。

大島会長と藤原忠雅副市長のあいさつに続き、太田小2年生17人が「かっこう」の器楽演奏、詩「案内」を朗読。児童たちは光太郎が詩人草野心平と共に作詞を指導した「旧山口小学校校歌」も歌って会場を和ませた。

西南中の1年生48人は、光太郎の「心はいつも あたらしく 日々何かしら 見いだそう」の言葉が盛り込まれた同校精神歌を合唱。花巻南高3年の三浦莉奈さんが「岩手山の肩」 、同じく横田遥奈さんが「激動するもの」の朗読に続き、花巻高等看護専門学校の1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」を会場に響かせた。

45年8月10日の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した同専門学校1年の佐々木優花さんは「花巻空襲時に働いていた人たちへの尊敬の思いを込めて朗読した。私も患者に寄り添うことができる看護師になりたい」と話していた。

発表後は、総合花巻病院の後藤勝也院長が「高村光太郎と花巻病院」と題して講演した。

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続いて、NHKさんのローカルニュース。

光太郎しのぶ「高村祭」

詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦中から戦後にかけて7年間を過ごした花巻市で、15日光太郎をしのぶ催しが開かれました。

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高村光太郎は、昭和20年4月、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟、清六を頼って花巻に疎開して、69歳までの7年間を過ごしました。
花巻市では、光太郎が疎開してきた5月15日に合わせて毎年「高村祭」が開かれていて、ことしで62回目になります。
光太郎が暮らした山荘近くの施設には地元の人や光太郎のファンなどおよそ500人が集まり、花を供えたあと、光太郎が疎開したときに作った詩、「雪白く積めり」などを朗読したり歌を歌ったりしました。

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昭和20年の花巻空襲を詠んだ「非常の時」の詩を朗読した、花巻高等看護専門学校1年の佐々木優花さんは、「戦争を知らない世代なのでこの詩を読んで戦争の恐さを感じた。人は強い時も弱い時もあるが、もしもの時には強い心で向かっていきたい」と話していました。
また昭和25年、中学3年生の時に山荘で光太郎と話したという83歳の女性は、「友達と連絡もしないで山荘に行くと光太郎先生に声をかけられ、父親の光雲さんや妻・智恵子さんの話を聞きました。次元が高くすごい人だなと感じました」と話していました。

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さらに、岩手めんこいテレビさん。

高村光太郎しのび「高村祭」 ゆかりの花巻市で

花巻ゆかりの芸術家に思いをはせました。
詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村光太郎をしのぶ「高村祭」が、15日、花巻市で開かれました。
高村光太郎は、1945年の15日、花巻市に疎開し、太田地区で7年を過ごしました。
「高村祭」は今年で62回目を迎え、県内外からおよそ500人が集まりました。
式では、地元の児童や生徒たちが、光太郎ゆかりの歌や詩の朗読などを披露しました。


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岩手山の肩
「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ、あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
花巻南高校 3年・三浦莉奈さんは、「地域の人たちにも、高村光太郎先生の詩はすてきなものだと、自分の口で伝えていきたい」と話しました。


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また、サンタクロースの光太郎と記念撮影をした、当時の小学生にも話を聞きました。
高村光太郎と記念撮影した高橋征一さん(76)は、「毎日、正直で、みんなといっしょに仲良く暮らしてください(と言われ)、『正直親切』という言葉が、一番記憶に残っている」と話しました。
参加した人たちは、花巻を愛した芸術家・高村光太郎に思いをはせていました。


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高村祭、毎年5月15日です。まだ行かれたことのない方、来年以降、ぜひよろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

山口部落で畑をいぢつてばかりゐた八年間のブランクがブランクになつてゐなかつた事を知つた。マイナスであるべきものがむしろプラスになつてゐるのを知つた。恐らく人間の潜在意識といふものが内で造型意識を眠らせずにゐたものと思へるし、頭の中にたまつてゐたものが今堰を切つて流れはじめたやうな感じである。

散文「制作現況」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後の文章です。高村祭が開催される旧太田村での生活(正確には丸7年ですが、それ以前に旧花巻町の宮沢家、佐藤家などで過ごした半年間を含めれば、足かけ8年です)が、彫刻制作の上でも決してマイナスに作用していないとの発言。多分に強がり的な要素や、発表された文章を目にするであろう花巻や太田村の人々に対する配慮などもあるのでしょうが、作りたい彫刻を作りたいように作れる喜びは、実際、ブランクを埋めて余りあるものだったと思われます。

一昨日から1泊で花巻に行っておりました。

昨日は、郊外旧太田村で、第62回高村祭。昭和20年(1945)、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居をを空襲で失った光太郎が、宮沢賢治の実家や賢治の主治医・佐藤隆房らの勧めで、花巻に疎開。そのために東京を発った5月15日に、毎年、高村祭が開催されています。

例年は光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」詩碑(光太郎の遺骨ならぬ遺髯が埋まっています)の前で行っていましたが、昨日は朝まで本格的な雨だったため、数百メートル離れた旧山口小学校跡地の、スポーツキャンプ村屋内運動場(通称・高村ドーム)での実施となりました。こちらが会場となるのは平成24年(2012)以来のことでした。

前日から、光太郎もよく泊まっていた大沢温泉さんに宿泊していましたが、朝5時過ぎに宿を出、レンタカーで旧太田村、高村山荘に。

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5時半から会場設営と言うことで、そのお手伝いです。その時点でかなりの雨だったので、高村ドームでの開催が決定。早速、作業にかかりました。当方、高村祭で講演などを仰せつかったりもしますが、こういう力仕事の方が性に合っています(笑)。

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ほぼ終わったところで、宿に戻りました。5時過ぎではチェックアウトも出来なかったので。ついでに雨に濡れた体を露天風呂で温めました。

そして再び旧太田村。シャンソン系歌手のモンデンモモさん、舞踊家の増田真也さんと落ち合い、開会前に周辺をご案内しました。そのあたりは明日書きますので省略。

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午前10時、開会。

光太郎遺影に献花・献茶の後、市立西南中学校の生徒さんの先導で、光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を全員で朗読。その後、主催者ということで、花巻高村光太郎記念会の新会長・大島俊克氏のご挨拶など。

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山口小学校が統合された太田小学校さん2年生児童の合奏、光太郎詩「案内」の群読。それから旧山口小学校の校歌斉唱。光太郎作詞ではありませんが、光太郎や当会の祖・草野心平のアドバイスは入っているとのこと。それにしても数十年前に廃校になった学校の校歌が歌い継がれているというのは驚きです。

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西南中学校さん1年生諸君は、光太郎を詠み込んだ歌詞の「西南中学校精神歌」。さらに語りも今年は今までより充実していました。

詩の朗読で、花巻南高校さんと花巻高等看護専門学校の生徒さん。

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花巻高等看護専門学校の皆さんは、さらに合唱も。

第1部の最後は、総合花巻病院さんの後藤勝也院長による記念講演「高村光太郎と花巻病院」。

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花巻病院、そして先述の佐藤隆房元院長と光太郎とのエピソードなどをご紹介下さいました。後藤院長ご自身、幼い頃に花巻電鉄の車内で光太郎が向かいの席に座ったというご経験がおありだそうでした。

昼食後、第2部。地元の方々のお祭り的な要素が色濃く残っています。光太郎がこの地にいた頃は、旧山口小学校でこの時期に運動会(光太郎もビンつり競走に出場しました)が実施され、それが地区全体のイベントのような感じでしたが、それが高村祭に引き継がれているように思われます。

トップバッターは、昨年から参加して下さっている花巻農業高校鹿(しし)踊り部の皆さん。昨夏、長野県で行われた第42回全国高校総合文化祭郷土芸能部門で、見事、最優秀賞を受賞されました。

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勇壮な演舞でした。激しい動きで、しかもかなり長時間。こりゃ大変だ、と思っていましたところ、踊り終わってかぶりものを取ったら、何と、女子生徒も2名混ざっていまして、驚きました。

ちなみにこの鹿踊りに触発されて現れたのでしょうか、この後、会場を後に新花巻駅を目指してレンタカーを発車したところ、会場すぐ近くの山口集落の中心あたりで、野生の鹿(牝鹿でした)に遭遇しました。このあたり、年に3、4回は訪れているのですが、鹿に遭遇したのは初めてで、これにも驚きました。残念ながら急いでいたので、車を駐めて写真を撮る余裕がありませんでしたが。

閑話休題、高村祭に戻ります。

続いては地元の婦人会の皆さんの踊り。婦人会といいつつ、歌と太鼓は男性の方(笑)。しかもお一人は、昭和24年(1949)、サンタクロース姿の光太郎と一緒に写真に収まった高橋征一さんでした。

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改めてこの山口小学校があった場所で高村祭が行われているんだなと、感慨深いものがありました。

そして、モンデンモモさん。

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光太郎詩にオリジナルの曲を付けた「道程~冬が来た」「案内」「もしも智恵子が」の3曲を熱唱。

ここまで拝見拝聴したところで、家庭の事情もあり、早く帰らねばならず中座させていただきました。

帰ってからネットを開くと、早速、IBC岩手放送さんのローカルニュースがアップされていました。

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詩人で彫刻家の光太郎を偲ぶ「高村祭」/岩手・花巻市

 岩手ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎を偲ぶ「高村祭」が15日、花巻市で開かれました。
 高村光太郎は、詩集「道程」や「智恵子抄」などの作者として知られています。62回目を数える今年の高村祭は、朝方の雨の影響で光太郎が過ごした高村山荘に近い、屋内運動場に場所を移して開かれました。
(朗読)
「雪白く積めり…」
 高村祭は、74年前の5月15日に光太郎が戦火を逃れて東京を発ち花巻に疎開したことから、毎年この日に開催されています。地元の中学生や高校生が光太郎の詩の一節を引用した歌や、作品の朗読を披露しました。
(合唱)
「心はいつもあたらしく…」
(朗読)
「岩手山があるかぎり南部人種は腐れない新年はチャンスだあの山のように君らはも一度天地に立て」
(花巻南高校3年・三浦莉奈さん)
「(光太郎の詩は)聞いている人にダイレクトに届く人に伝わりやすい」
 会場には県の内外から多くのファンが足を運び、朗読やコーラスに耳を傾けて光太郎に思いを馳せていました。


手作り感溢れる、しかし盛大に行われた高村祭。泉下の光太郎、面はゆい思いをしつつも喜んでいるのではないでしょうか。

明日も関連する内容で。


【折々のことば・光太郎】

以前にはパリの「空気」ベルリンの「空気」と並んで、東京の「空気」があつた。それが今は「東京」といつても何もないではないか。ただもの珍しい文化のかけらが、尖つたガラスの破片が散らばつているようにそこらにあるだけで、私はそうしたものにはぶつかるが「空気」を感ずることができない。

談話筆記「おろかなる都」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後のインタビューから。7年ぶりに見た生まれ故郷・東京は、光太郎の目にはこう映っていたのです。

今日は光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻郊外旧太田村の山口小学校跡地で、第62 回高村祭が行われています。途中で抜けて帰路につき、只今東北新幹線やまびこ号車中でこの記事を書いております。

毎年、光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内で開催する高村祭ですが、今朝がたまでかなりの雨だったため、山口小学校跡地に建てられた屋内運動場(通称・高村ドーム)での実施となりました。

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詳しくは帰りましてからレポートいたします。

たびたびこのブログにてご紹介させていただいております、宮城県女川町の「いのちの石碑」関連です。東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画。かつて光太郎碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。それが「いのちの石碑」です。
会    場 : 仙台市シルバーセンター 交流ホール
                                 宮城県仙台市青葉区花京院1丁目3番2号
時    間 : 13:20~15:40
料    金 : 無料

内容 : シンポジウム「守りたい、子どもたちの未来」
それぞれの立場で命の大切さを語り継いでいる方々から、現在の活動内容や未来を生きる子どもたちへの
メッセージを伝えてもらいます。当日は関連書籍やグッズ販売も予定しています。
 パネリスト :   ① 佐藤敏郎さん(元中学校教諭)
           ② 丹野祐子さん(閖上中学校遺族会代表)
           ③ 「女川いのちの石碑」活動に従事した渡邊滉大さん
           ④ 谷口光さん(日本ユニセフ協会職員)
 コーディネーター : 渡辺祥子さん(アナウンサー、朗読家)

募集 : 300名 事前のお申し込みをお願いします
申し込み : 宮城県ユニセフ協会
     電話 022-218-5358 FAX 022-218-3663
       E-mail sn.municef_miyagi@todock.coop
 
 
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活動開始当時、中学生だった少年少女達は、今年、成人式を迎えました。そしてやはり今年、NHK BSプレミアムさんでは、平祐奈さん主演のスペシャルドラマ「女川 いのちの坂道」が放映され、「いのちの石碑」が取り上げられました。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

わたしは、山の生活で、彫刻はやらないことにきめました。やりたいと思つていてやらないのは神経にさわつていけないし、小屋の状態や時候から考えても彫刻をすることは無理だと思つて、はつきりとつてしまつたのです。

談話筆記「南沢座談」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

終戦直後から丸七年の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活を回顧して語った一節です。

「時候」の一語には、戦時中、大量に書き殴った翼賛詩により、多くの前途有為な若者を死に追いやった反省からくる「自己流謫(るたく)」――「流謫」は「流罪」に同じ――中であったという意味合いが込められているように思われます。

明日はその旧太田村に移り住む前に疎開していた旧花巻町に向けて東京を発った日で、それを記念して花巻では毎年、高村祭が催されています。当方、今日から前乗りします。

光太郎詩の朗読を含む演奏会情報です。

第35回アイメイトチャリティーコンサート

期    日 : 2019年5月25日(土)
会    場 : サントリーホールブルーローズ(小ホール)  東京都港区赤坂1-13-1
時    間 : 開場12:30 開演13:00
料    金  : 5,000円 全席自由 収益は公益財団法人アイメイト協会へ寄付

プログラム
 第1部
        会長挨拶
       ピアノ独奏 高橋雅枝(アイメイト)
       ソプラノ独唱 大石亜矢子(アイメイト)
       お話「アイメイトと共に」 アイメイト使用者
       詩と音楽のマリアージュ 高村光太郎作「智恵子抄」より
                    朗読 : 一色采子 ピアノ : 田中健

 第2部 オペラコンサート~オペラの名曲を集めて~
       構成・演出 : 原純  ピアノ : 水谷真理子/田中健/渕上千里
       語り : 一色采子   バイオリン独奏 : 松井利世子
       モーツァルト「ドン・ジョバンニ」より    ドニゼッティ「ルチア」より
       サン・サーンス「サムソンとデリラ」より  ヴェルディ「オテロ」より 他
       ソプラノ:鎌田滋子、大石亜矢子、加賀山弥生  メゾソプラノ:仲野玲子
       テノール:工藤和真    バリトン:大貫史朗、ヴィタリ・ユシュマノフ

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「アイメイト」は、いわゆる盲導犬ですが、公益財団法人アイメイト協会さんは、「盲導犬という呼び方では、「利口な犬が盲人を連れて歩いている」と受け取られがち」とのことで、「アイメイト」という呼称を使用しているそうです。

女優の一色采子さんによる「智恵子抄」抜粋の朗読がプログラムに入っています。「智恵子抄」系は、一昨年、二本松の智恵子の生家で朗読されています。何度かご紹介していますが、一色さんのお父様の故・大山忠作画伯は智恵子と同郷の二本松ご出身。智恵子をモチーフにした作品も複数遺されています。その遺作の数々が寄贈されて設立されたのが、二本松駅前の大山忠作美術館さん。一色さんが名誉館長です。

一色さん、アイメイト活動へのご協力も以前からされていたとのことで、このコンサートへのご出演も毎回のようになさっているようです。以前には現在の上皇后さま(当時は皇后陛下)もご臨席下さったということです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

そんなに食事にやかましい僕が、お酒を飲むのは感心できないが、まあ、一つぐらい悪いことをしなくちゃ……なんでも完全というのは危険である。

談話筆記「たべものの話」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後のインタビューから。栄養を考え、基本的に自炊生活を続けた光太郎ですが、夜は当会の祖・草野心平の経営する居酒屋「火の車」などで杯をあけることもたびたびでした。

明治末に智恵子が西洋画を学んでいた太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんに所属されている坂本富江さんから情報をいただきました。坂本さんの故郷・山梨県韮崎市にある韮崎大村美術館さんがらみです。

まず企画展。3月から既に始まっているそうで。

企画展 「花と実り」

期  日 : 2019年3月9日(土)~5月26日(日)
会  場 : 韮崎大村美術館 山梨県韮崎市神山町鍋山1830-1
時  間 : 10:00-18:00
料  金 : 一般・大学生 500(420)円  小中高生 200(160)円 
                      ( )内は20名以上の団体料金
休  館  日 : 水曜日

冬の厳しい寒さがやわらいでくると、草木が開花し、目に見える風景が色鮮やかに変化していきます。そして穏やかな陽気の中、色とりどりに咲いた花たちは、やがて実りの時を迎え、再び花を咲かせるための種子を育てていきます。
このように春夏秋冬を通して変化していく自然の様を、古くから画家たちはそれぞれの視点で感じ取り、多くの芸術作品に残してきました。
本展では「花」と「実」という2つのモチーフに焦点をあて、四季折々に見られる自然の姿をご紹介します。はじまりの春ともいえるこの季節に、一つ一つの作品に潜む季節感を味わうと共に、めぐる生命の姿を感じていただければ幸いです。

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太平洋画会で智恵子と共に学んでいた亀高文子の作品(上記チラシ1枚目画像の左上)が展示されているそうです。

日本画家の渡辺豊洲の娘である亀高文子は、智恵子と同年の明治19年(1886)、横浜の生まれ。女子美術学校を経て太平洋画会に入り、智恵子と出会います。明治42年(1909)に、やはりここで学んでいた宮崎与平と結婚しましたが、与平は同45年(1912)に早世、のち大正7年(1918)に東洋汽船の船長・亀高五市と再婚し、亀高姓となりました。

ちなみに智恵子は与平に淡い恋心を抱いていたという証言もあり、逆に文子は光太郎を慕っていたという説もあります。また、歌人の会津八一が文子にプロポーズしたものの、断られたというエピソードも。

文子は女性洋画家の草分け的存在の一人ですが、現在ではその名が忘れかけられています。その作品が展示されている美術館さんもあまりないようで、貴重な機会かと存じます。

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韮崎大村美術館さんは、平成27年(2015)にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智博士のコレクションを中心にしていますが、大村博士の審美眼にかなったということなのでしょう。

同展では、他に光太郎と交流が深かった梅原龍三郎、安井曾太郎、さらに坂本さんの作品も展示されているそうです。大村博士、坂本さんと同郷、さらに年度は違いますが、同じ韮崎高校さんのご出身で、以前からお知り合いだとのことで。その関係で当方も博士に一度お目にかかりました

また、企画展示「花と実り」以外の常設展示では、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されているそうです。新しく鋳造された同型のものは全国各地の美術館さん、文学館さん等で展示されていますが、こちらのものは岸田劉生旧蔵のものらしく、そうなると数少ない大正期の鋳造ということになります。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

近ごろの道徳はだまし合いで、だました方が勝で、だまされた方が負け、これでは正しいことが否定されるようで淋しい。官吏なぞは善悪の判断さえ忘れたようですね。露見すれば悪くて露見しなければ悪くないと思っているらしい。
談話筆記「新春雑談」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

さらに最近は、官吏のみならず、議員や官邸まで、露見しても居直れば済むという風潮が蔓延していますね。道義的に明らかにおかしい場合でも、「法的に問題はない」などと。さすがに「復興以上に大事なのは高橋さんだ」「首相や副総理が言えないので私が忖度(そんたく)しました」はアウトでしたが(笑)。

昨日、山開きの情報と合わせて紹介すべきでしたが、智恵子の故郷・福島二本松の「ほんとの空」の下に聳える安達太良山に関して、追補です。

まず、二本松市さんの『広報にほんまつ』今月号。三保恵一市長のメッセージ。光太郎智恵子に触れて下さっています。  

市民が主役。~市長からの手紙~ 第65回安達太良山山開き

 待望のシーズン到来!「安達太良山山開き」が行われます。
 安達太良山は「日本百名山」「花の百名山」の一つであり、その山容から「乳首山」と慕われ、これまで神聖で清浄な信仰の山として、また、万葉集や高村光太郎の詩集「智恵子抄」で「ほんとの空」がある恋の山として、多くの人々に愛されてきました。
 山頂から見渡す三百六十度の大パノラマ。磐梯山、吾妻連峰、遠くは蔵王・那須・飯豊連峰を望むことができます。
 初夏には、新緑の中に清楚で純白のこぶしの花や、つつじ、シャクナゲなど、花が咲き薫り、五葉松や貴重な高山植物を眺め、野鳥がさえずり、雪どけ水を集めて流れる清冽な流れ、数々の滝を見ながら、悠久より続く美しい空間。
 喧騒とは無縁の神秘的な静かな空間の中で、しばし時の流れが止まってしまう。
 雪渓の残雪を一歩一歩踏みしめ山頂に立った時の感激。安達太良山の自然のぬくもり優しさに包まれ、新たな明日への活力につながり、素晴らしい至福のとき。
 変化に富んだ山でもあり、登山やトレッキングのメッカとして、女性、中高年者をはじめ、誰もが気軽に登れる山であります。
 山々の頂に憩いあり!
 安達太良山のきれいな稜線、端正なたたずまい。時に荒々しく、時に幻想的。安達太良山の多彩な美しさに、古来、私たちは、感動し、元気づけられてきました。
 安達太良山は、私たちの誇りであり、私たちが守り、次世代に引き継いでいかなければならないと思っております。
 美しい安達太良山を愛する皆さんの交流がさらに深まることを希望しており、多くの人々が頂上を目指し、雄大な自然を満喫されることを願っております。

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地元愛がひしひし伝わってくる文章ですね。


山開きが近いせいでしょうか、NHK BSプレミアムさんで、過去の放映の再放送も。 

にっぽん百名山・選「安達太良山」

NHK BSプレミアム 2019年5月13日(月) 19:30~20:00

3月、雪の残る福島・安達太良山(1700m)で、ウサギやリスなど春を待つ生き物の息吹に触れ、山のいで湯を堪能。さらに「霧氷」など雪山ならではの風景に出会う。

雪山の初級コースとして人気の福島・安達太良山(1700m)。早春3月、出発はあだたら高原スキー場の登山口から。雪の残る森を進み、鳥の巣作り、ウサギの足跡、リスの食べかすなどを次々と発見。山小屋で一泊し、源泉かけ流しの温泉と満天の星空を楽しむ。山頂までの斜面では雪山ならではの風景である霧氷を堪能。山頂からは磐梯山、吾妻連峰など東北の名峰を望む。また雪山で温泉の通り道を守る人々の営みを紹介する。

出演 五十嵐潤    語り 鈴木麻里子 高塚正也

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初回放映は昨年4月。ロケは3月で、まだ山頂付近は雪に覆われていた時期でした。番組冒頭近くで、光太郎智恵子について触れて下さいました。

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基本、登山系の番組ですので、山岳ガイド・五十嵐潤さんのナビゲートによる1泊2日の行程が紹介されます。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

だが、パリでそういう詩を読みはじめたら、実に身近な感じにうたれた。なにか苦しくなるようだ。決して日本の変な調子をつける詩のような変てこなものではない。もっと直接なもので、これならいいと思い、こういうものなら書くべきだと思つた。

談話筆記「遍歴の日」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

そういう詩」とは、明治末のパリで、フランス語の習得のために与えられたボードレールやヴェルレーヌなどの詩です。与えた先生はマリー・ノードリンガーという、プルースト研究家の女性でした。

日本の変な調子をつける詩」は、文語定型のいわゆる「象徴詩」です。そして明治42年(1909)に帰国すると、三木露風や北原白秋らが「てこなもの」ではない詩を書き始めており、それらにも影響されたと語っています。

毎年お伝えしていますが、今年もやって参りました。今年のキャッチコピーは「ほんとの空の下 心の晴れ渡る、感動深呼吸」だそうで。言わずもがなではありますが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語が使用されています。 

第65回安達太良山山開き 

2019年5月19日(日曜日)

山頂イベント
 ○10時~   山開き参加ペナント配布(先着3,000名)
 ○11時~   安全祈願祭
 ○11時20分~ Ms.あだたらコンテスト(ミズ1名、準ミズ1名、入賞6名)
            (未婚、既婚は問いません。入賞者には記念品を贈呈します。)
 ※山頂の天候次第で、途中で中止や、予定していた時間も変更になる場合があります。
 ※雨天の場合は、山頂イベントは中止
   奥岳登山口入口にて8時からペナント配布、奥岳登山口 
  (レストラ
「ランデブー」)で10時から安全祈願祭を行います。

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シャトルバスが運行されます。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

アメリカでは部屋に鍵を使うのが習慣であつて、また使わなければ危なくて仕様がない。その習慣をパトニーの下宿でやつたら、おかみさんが掃除ができないので弱つて、不思議がつた。ロンドンでは鍵をかけない習慣だという。
談話筆記「青春の日」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

明治末の留学生活の回顧ですが、現在でもそうなのでしょうか?

智恵子の故郷・福島二本松、智恵子生家のある旧安達町の道の駅「安達」智恵子の里さんでのイベントです。

みんなで愛のメッセージを書こう! 5月20日は、高村智恵子の誕生日です。

期   日 : 2019年5月18日(土)~5月31日(金)
会   場 : 道の駅「安達」智恵子の里下り線 銘産コーナー
             福島県二本松市米沢字下川原田105-2

レモンの木を、みんなのメッセージでいっぱいにしてたくさん実らせましょう!
参加のお客様にレモン飴をプレゼント☆ メッセージは、6月まで展示致します。みなさん、ぜひ参加して下さいねヽ(^。^)ノ

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道の駅「安達」智恵子の里さんは、全国的にも珍しい上下線に分かれている道の駅です。国道4号線の広い道路をはさんで、東京方面が上り線、仙台方面が下り線となっています。国道の下を通る立体交差があり、それぞれがつながってはいます。

で、上記は下り線側の「銘産コーナー」さんの新着情報としてサイトにアップされていました。同じ下り線側ですと、フードコート的なコーナーの一角には、光太郎智恵子の顔ハメがあったりもします。

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さらに、智恵子生家/智恵子記念館さんの割引チケットも販売中。通常大人410円のところが300円、小人200円は150円と、かなりの値引率です。こちらは上り線側の地域物産コーナーさん、和紙伝承館さんでの販売だそうです(5月末まで)。

また、智恵子がらみの新商品の開発や販売にも力を入れている様子。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

或日、実家の裏山の松林を散歩してそこの崖に腰をおろし、パノラマのやうな見晴らしをながめた。水田をへだてて酒造りである実家の酒倉の白い壁が見え、右に「嶽(だけ)」と通称せられる阿多多羅山(安達太良山)が見え、前方はるかに安達ヶ原を越えて阿武隈川がきらりと見えた。

散文「「樹下の二人」」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

雑誌『婦人公論』の第37巻第10号に載ったものの一節です。この号には「自選自解現代詩人代表作品集」と題し、光太郎以下佐藤春夫、室生犀星、草野心平らの作品17篇と、それぞれの詩を作者自身が解説した短い文章が載っています。

で、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な、大正12年(1923)作の「樹下の二人」に添えられた文章から引用しました。詩の制作は大正12年(1923)ですが、モチーフとなった光太郎の二本松(旧油井村)訪問は、大正9年(1920)のことでした。

今月20日が智恵子の誕生日ということもあり、その故郷、福島県二本松市でいろいろとイベント等が企画されています。3回に分けてご紹介します。

まずは、光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手のモンデンモモさんによるコンサート。

モモの智恵子抄

期   日 : 2019年5月18日(土)
会   場 : (株)鐵扇屋 サウンドリゾート蔵 福島県二本松市油井字八軒町45
時   間 : 15:30開場 16:00開演 
料   金 : お気持ち

智恵子さん!!!
はじめは涙で私に語りかけ そして 今は 優しく微笑んでくれています 
2018年 モンデンモモの智恵子抄は 新モモの智恵子抄へ少し歩み始めました
大好きな 鉄線屋さんで またこうして 今回も 『私の智恵子抄』のページを 開きます  
高村光太郎さんの言葉は いつも いつも 新しい!
たくさんの歴史 お伝えしたこともたくさん!  是非是非 お目にかからせてください!
2019年春 モンデンモモ

♪ 樹下の二人 あどけない話 レモン哀歌 人に 僕ら 十和田湖の裸像にあたふ
    智恵子飛ぶ もしも智恵子が やっとあなたに逢えた  他

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鐵扇屋さんは、智恵子生家/智恵子記念館さんから徒歩数分。昔の油屋さんだった蔵を音響装置の試聴スペース的に改装したもので、モモさん、平成27年(2015)昨年、それぞれこちらで演奏なさっています。

今回も、昨年同様、最近、モモさんと組んでよくお仕事をなさっている、舞踊家の増田真也さんという方とのコラボとのこと。

智恵子生家/智恵子記念館さんでは、「高村智恵子生誕祭」ということで、「上川崎和紙で作ろう切り絵体験」、「智恵子の「紙絵」の実物展示」が行われています。さらに明日、詳しくご紹介しますが、道の駅安達智恵子の里さんでも、同じ5月18日(土)から智恵子バースデー関連の企画が始まります。また、明後日ご紹介しますが、二本松周辺の皆さんのソウルマウンテン・安達太良山の山開きが翌日です。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

遠因近因の外にこの病気には原因がある。それは精神の深いいたみだ。現代東洋に生まれたものが必ず持つてゐるにちがひない心の奥の悲傷は、人それぞれの生理に従つて身体的に苦悩となる。呼吸するたびに痛むわたくしの肋間神経の痛みは、一語を吐くたびに傷むわたくしの精神奥処のうづきに照応する。
散文「みちのく便り 四」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

「この病気」は、永らく光太郎を苦しめていた肋間神経痛。結核性のもので、結局、光太郎はこの5年後にそれで亡くなるのですが、身体的な痛みと共に、戦時中、多くの前途有為な若者を鼓舞して死に追いやったという自責の念からくる精神的な傷みと相まって、光太郎に襲いかかります。畢竟するにそれが罪深い自分に与えられた罰の一つなのだろう、という感覚でしょうか。

史上初の10連休は終わりましたが、今月後半、各地でいろいろと光太郎智恵子光雲がらみのイベントが目白押しです。

今日は都内のイベントを。募集は終了しているとのことですが、こういうイベントもあるんだな、という紹介で。また、キャンセル等あるかもしれませんし。

杉並区歴史講座見学会「とげぬき地蔵から染井霊園を訪ねる」

期   日 : 2019年5月16日(木)
会   場 : 集合 JR巣鴨駅前広場  解散 JR駒込駅
時   間 : 午前9時(出発)から正午(解散)まで
料   金 : 500円(傷害保険料含む)

行程
【集合】JR巣鴨駅→真性寺(六地蔵)→高岩寺(とげぬき地蔵)→猿田彦庚申堂→妙行寺(お岩様の墓)→本妙寺(遠山金四郎、千葉周作 ほかの墓所)→都立染井霊園(高村光雲、岡倉天心 ほかの墓)→西福寺 →JR駒込駅【解散】
  約5.6キロメートルの平坦なコースです。


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染井霊園は豊島区ですが、主催は杉並郷土史会さん。まあ、同じ都内ですし、ことによると杉並ゆかりの著名人のお墓もあるのかもしれません。

ちなみにこちらに眠る著名人というと、光雲、光太郎智恵子をはじめ、こんな感じです。近くのお寺も含めていますが。

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それから、上記講座見学会のコースに入っている妙行寺さん。東京うなぎ蒲焼商組合などの発願で建立された「うなぎ供養塔」があり、光雲作の観音像を戴いています。戦後の鋳造ですが。

ひと頃、「掃苔(そうたい)」と称し、著名人の墓参が静かなブームとなりました。「掃苔」の語は本来、墓参全般を指しますが。アニメファンの「聖地巡礼」のようなミーハー的感覚では困りますが、それぞれの人物の業績に思いを馳せ、また、身近に感じるにはいい機会だと思います。


【折々のことば・光太郎】

自然の季節に早いところとおそいところとはあつても、季節のおこないそのものは毎年規律ただしくやつてきて、けつしてでたらめでない。ちやんと地面の下に用意されていたものが、自分の順番を少しもまちがえずに働きはじめる。
散文「山の春」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳 

風薫る五月。厚くもなく寒くもなく、梅雨入り前のちょうどいい季節です。10連休は終わりましたが、野山の――あるいは街角でも――「季節のおこない」に敏感でいたいものです。

溜まってしまう前に……。

まずは3日(金)の『日本経済新聞』さん……というより共同通信さんの配信記事です。信州善光寺さんでのもろもろをご紹介して下さいました。

善光寺、あうんの呼吸1世紀 仁王像の節目祝う企画

長野市の善光寺で国宝の本堂に向かう参拝客らを仁王門の両脇から出迎える2体の仁王像・阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)が今年9月に開眼100年を迎えるのを記念し、ライトアップや写真コンテストなどの企画が相次いでいる。善光寺の事務局は節目の年に「より多くの方に善光寺を訪れてほしい」と期待を寄せる。
1752年に建立された当初の仁王門と仁王像は1847年の地震に伴う火災で焼失。いったん再建された後も火災に見舞われ、仮の門を代用した時代を経て1918年3月に現在の高さ約14メートルの仁王門が建立された。
高さ約5メートルの仁王像2体が復活したのは翌19年9月。彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が木曽ヒノキを使い、完成までに4年の歳月を要したという。
昨年は仁王門再建から、今年は仁王像開眼からそれぞれ100年に当たるのを記念し、善光寺は昨年9月から仁王門に貼られた約1200枚の千社札を剥がしたり、仁王像のすす払いを造立後初めて実施したりして、装いも新たにした。
また、仁王像の姿や造形美を際立たせるために午前6時から午後8時までオレンジ色にライトアップし、門の脇を5色の吹き流しで彩る。仁王門や仁王像の写真コンテストとして6月14日まで作品を受け付けているほか、保存や管理を目的に明治、大正期や昭和20年代までの古い写真も募っている。節目となる9月ごろには大規模な記念法要も予定されている。
4月下旬、善光寺を初めて訪れたという甲府市の無職、山下広明さん(71)は「災害など苦難を乗り越えた力強い仁王門、仁王像だと感じた。100年という記念の年に来られて、パワーをもらえた」と話していた。〔共同〕

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続いて、4日(土)、『読売新聞』さんの一面コラム。

編集手帳

陽光に輝く綠の濃淡が心を弾ませる。咲き競うツツジやシャクナゲも生命力にあふれる。 〈植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭〉。高村光太郎は詩『新緑の頃』で青葉若葉の季節を讃美する◆誰もが幸福そうに見える。山が人を幸福にするのはなぜだろう-----。奥秩父の山小屋が舞台の笹本稜平さんの小説『春を背負って』で、主人公の小屋主が登山客の姿に思う。山小屋を訪れる人々は自然の中で癒やされていく◆大型連休中に山歩きやキャンプを楽しむ方も多かろう。今日は「みどりの日」、新緑のエネルギーを吸収し、英気を養うにふさわしい◆この春、社会に出た若者は、緊張続きのひと月を経て、ほっと一息というところか。抑え込まれていた疲れが噴き出して、虚脱感に覆われがちな時期でもある◆〈悲しめるもののために/みどりかがやく/くるしみ生きむとするもののためにめiに/ああ みどりは輝く〉。室生犀星の『五月』と題された四行詩は悩める心を優しく励ます。薫る風に憂いを払い、心機一転、次なる一歩を踏み出したい。

まさに青葉若葉の季節です。それだけに自宅兼事務所の庭の雑草取りも大変ですが(笑)。


そして今朝の『毎日新聞』さん。俳壇・歌壇面に載ったコラムです。

出会いの季語 北上へ花を追い=高田正子009

 今年は思いのほか長く花時を楽しむことができた。関東圏では卒業式のころには咲き始めていたが、その後の冷え込みによって、めでたく入学式までもちこたえたのだ。そのうえ、花を追って北上するという贅沢(ぜいたく)をしてしまった。標高の高い所へ赴き、はからずも花の時を遡(さかのぼ)ることは日常的にもあり得るが、桜前線を追って自ら動くのは、日々の飯炊きを担う者にとっては目くるめく体験である。
 最終目的地は岩手・北上(きたかみ)の雑草園。俳人山口青邨(せいそん)(1892~1988年)の旧居である。元は東京・杉並にあったが、北上市の詩歌の森公園内に移築されているのだ。
 身ほとりの花が大方散り、遅咲きの桜はまだ固い蕾(つぼみ)であった四月後半、いつもの吟行メンバーが東京駅に集合した。朝からコートが要らないほどの陽気である。<もうひとり待つて始まる花の旅 正子>。とはいえアラ還以上の世代に遅刻は無い。
 みちのく(道の奥)へも今や新幹線でぴゅーっと一走りである。永久(とわ)の別れになることをも覚悟して芭蕉と曽良が旅立ったのは、たった三百年前のことだというのに。 車窓の景色は川を越えるたびに季節を巻き戻してゆく。あら辛夷(こぶし)が、と思うころには仙台に着いていた。芭蕉が「心もとなき日数(ひかず)重なるままに」差し掛かった白河の関も、気づかぬままに通過した模様。<居眠りて過ぐ白河の花の関 正子>。両岸が緑に潤む川を渡ると北上駅である。コートのライナーを外してきたことをコートのライナーを外してきたことを心から悔やみつつ、初日は花巻へ。宮澤賢治の里から、翌日高村光太郎山荘を経て北上へ戻り、雑草園へ。
 わが書屋落花一片づつ降れり 山口青邨
青邨は旅の一行の先生の先生である。桜は一片だに散らさぬ完璧な佇(たたず)まいで、ちょうど花弁を散らしていたのは門の白梅であった。以前訪れたときには庭に居た石の蛙の姿が見えず。冬眠中? そんなわけはないと思うが、また夏に来てみようか。(たかだ・まさこ=俳人)

桜前線をトレースする行程、「東北新幹線あるある」です(笑)。

ぜひ高村山荘のレポートも書いていただきたいところですが……。


【折々のことば・光太郎】

人間の生活は網の目のように引つぱり合つてできているので、文化ということもあまりせつかちに一部分だけにつぎこむと、かえつて悪いこともある。こういう古いけれどもいいならわしのあるところは、ゆつくり進む方がよいような気がする。
散文「山の人々」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

高村山荘のある花巻郊外旧太田村山口地区を評しての一言です。たしかに「地方創成」といいながら、プチ東京をあちこちに作っても仕方がありませんね。

新刊情報です。

陛下、今日は何を話しましょう

2019年5月12日 アンドルー・B.アークリー著 すばる舎 定価1,500円+税

プレスリリースより

本書は、5月1日に迎えた新天皇陛下の即位に際して、陛下の学習院高等科時代のご学友で、当時オーストラリアからの外国人留学生であり、のちに英語のお相手を務めたアンドルー・B・アークリー氏が、天皇陛下や皇室の方々との交流を回想しながら、「素顔の新天皇陛下」を伝える一冊です。
著者は、1975年、交換留学生として学習院高等科に留学、天皇陛下とご学友になりました。いったん帰国後、東京外語大学に留学し、のちに日本に移住。以来20年以上にわたり交流を続けてきました。本書では、天皇陛下、上皇陛下、美智子様をはじめとした皇室の方々との知られざるエピソード、そして世の中には出ていない秘蔵写真を多数収録しております。
著者は陛下との交流を通じ「日本を心から愛するようになった」と述べています。著者に見せた友人としての「陛下の素顔」は、まさに日本の心そのものだったそうです。


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【著者プロフィール】アンドルー・B・アークリー(アンドルー・ビー・アークリー)
オーストラリアのメルボルン生まれ。中学生時代、父の国連勤務のため、1971年にスリランカ、1973年にジャマイカに、それぞれ一年間滞在。1975年、国際ロータリークラブの交換留学生として学習院高等科に留学(学習院高等科が受け入れた初めての外国人留学生である)。当時の日本国文部省の学部国費留学生として国立東京外国語大学に入学し、1982年に日本事情の専攻で卒業し、オーストラリアに帰る。その後オーストラリアの鉱山会社・リオティントに就職し、東京丸の内にある子会社に転勤のため、再び来日。途中からオーストラリア外務省に出向のため、帰国。1986年に再来日する。元日豪音楽交流協会会長、元オーストラリアビジネス協会副会長。1993年、皇太子殿下と雅子妃のご婚約にあたり、海越社より『ぼくの見た皇太子殿下』を出版。

【本書に記載されている著者が陛下にまつわる秘蔵エピソード(一部抜粋)】

*陛下の高校時代のニックネームは「じぃ」 著者が最後まで呼べずに後悔の意味
学習院高等科時代、陛下の秘密のあだ名は「じぃ」。陛下自身も気に入っていらっしゃったようですが、著者は恐れ多く最後まで呼ぶことができなかったそう。今それを後悔しています。その深い理由とは?

*「僕とお友達になっていただけますか?」から始まった!地理研で深めた陛下との友情物語
陛下と著者はクラブ活動で「地理研究会」に所属していました。著者は勇気を出して日本語で「僕と友達になっていただけますか?」と話しかけ、友情物語が始まりました。能登旅行や信州旅行などのエピソードも。

*お招きいただいた東宮御所で垣間見た一家の素顔
陛下と仲良くなるにつれ、東宮御所に招かれるようになりました。御所では上皇
陛下、美智子様、秋篠宮様、清子様ともお近づきになり…著者はそこで数々の感動エピソードに遭遇することになります。

*上皇陛下、美智子様、陛下、皇室の方々から頂いた「感動の寄せ書き」
著者が高校の留学を終え、帰国する際にも信じられないサプライズがありました。友人たちからの寄せ書きの中に、陛下、上皇陛下、そして美智子様からもお言葉が記されていたのです。その知られざる内容とは?

*『智恵子抄』高村光太郎の詩のお気に入りの一編から感じる雅子様への深い愛と思いやり
「この本で日本の心を学んでください」学習院高等科の留学を終え、帰国する際に陛下から手渡されたのは詩集。その中で陛下お気に入りの一節は、『智恵子抄』で知られる高村光太郎が智恵子への愛情と思いやりを綴ったものでした。後年、著者は陛下と雅子様のご婚約の会見を観ながら、その中身を思い出すのでした。

*庶民感覚を知る新時代の天皇 トンカツにカレーライス、中華料理がお好き。
著者が一番驚いたのは、陛下は特別な立場にありながらとても気さくで親しみやすいお方で、普通の方の生活感覚をご存知でいらっしゃったこと。トンカツにカレーライスといった庶民的なメニューも好まれました。


オーストラリア人の著者・アークリー氏は、昭和50年(1975)から学習院高等科に留学、一学年下の今上陛下と共に地理研究会に所属。それが交流の始まりでした。いったん帰国するも、東京外語大に入学するため再来日、その間に家庭教師……とまではいかないものの、オックスフォード留学を控えていた陛下の英会話の練習相手的な任につかれ、足繁く御所に通われたそうです。そこでタイトルの『陛下、今日は何を話しましょう』につながるわけです。

プライベートな友人の立場から見た、大変真面目でありながら、茶目っ気があったり大胆だったり意外に庶民的だったり、何より気さくでこまやかな気遣いをされたりする、少年期から青年期にかけての陛下の姿が描かれています。

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そうした中で、「智恵子抄」収録の「樹下の二人」(大正12年=1923)に関わるエピソードが紹介されています。ちなみに本書カバーの見返しには、この部分の一節が。

 雅子さまはご婚約内定時の記者会見で、陛下の魅力を問われて、
「たいへん、忍耐強くて根気強くていらっしゃること。勇気がおありになること、そしてすごく思いやりのある方でいらっしゃること」
 と答えています。
 私は、雅子さまのお言葉を聞いたとき、学習院高等科での交換留学を終え、帰国する直前に陛下から手渡された、詩集『Japanese Songs of Innocence and Experience』のことがすぐに思い浮かびました。
「アンドルー君、日本では和歌や俳句ばかりでなく、詩にもすばらしいものがあります。この本で日本の心を学んでください」
 というコメント付きで、プレゼントして下さった本です。
 後で開いてみると、その本の46ページにだけ、ほかの本から抜粋した日本語訳が付けられていました。『智恵子抄』で知られる詩人・高村光太郎の『You and I Under a Tree(樹下の二人)』でした。
 (略)
 「樹下の二人」は、光太郎の妻・智恵子が二本松の実家に帰っていた時期に作られたそうです。追いかけてきた光太郎と智恵子が、ふたりで松林の崖に腰をおろしてパノラマのような景色をながめたときの、楽しい思い出が綴られています。
 智恵子への愛情と思いやりがあふれる光太郎の詩を思い返し、陛下は雅子さまをどこまでも守っていかれるのだなと、と感じました。

上記(略)の部分では、「樹下の二人」全文が引用されていますが、割愛します。

今上陛下、学習院初等科のみぎりの作文でも「樹下の二人」に触れて下さっていましたし、これを期に、「智恵子抄」など光太郎作品がまた見直されるといいなと思っております。

ちなみに贈られたという『Japanese Songs of Innocence and Experience』。北星堂さんから昭和50年(1975)に刊行されたもので、Marie Philomene(マリー・フィロメーヌ)編、今も古書市場で時折見かけます。

さて、『陛下、今日は何を話しましょう』ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

結局人はその望む方向へ無意識のうちににも歩いてゐるものだと考へざるを得ない。実に緩慢な歩みのやうだが結果から見ると存外早い。

散文「十二月十五日」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

戦後の花巻郊外旧太田村での隠遁生活に関し、青年期から抱いていた北の大地での自然に囲まれた生活への夢を実現する意味合いもあったのだろう、と感懐しています。

『陛下、今日は何を話しましょう』著者のアークリー氏も、当初は単なる交換留学での来日でしたが、そこで知り合った陛下のお人柄に魅了され、結局は日本に根を下ろすことになりました。人の世の中、そういうものなのでしょう。

昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家の誘いで、光太郎が岩手花巻に疎開するため東京を発った5月15日、光太郎を偲ぶ高村祭が、毎年、手作りのイベントとして、光太郎が7年間の独居自炊生活を送った旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で行われています。

第62回 高村祭

期 日 : 2019年5月15日(水)
会 場 : 高村山荘 「雪白く積めり」詩碑前広場 岩手県花巻市太田3-85-1
         雨天時はスポーツキャンプむら屋内運動場 岩手県花巻市太田11-363-1
時 間 : 10:00~14:30頃
料 金 : 無料
内 容 :
 式典
  児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラス等
  特別講演 「高村光太郎と花巻病院」 講師 後藤勝也氏(総合花巻病院院長)
  花巻と光太郎の縁を取り持った総合花巻病院創設者・佐藤隆房と高村光太郎の関係

無料臨時バス運行 
 往路  花巻駅西口発 午前9時30分   高村山荘着  午前9時50分
 復路  高村山荘発   午後2時30分   花巻駅西口着  午後2時50分

光太郎が花巻に疎開してきた5月15日に毎年開かれる「高村祭」。光太郎が暮らした高村山荘にある「雪白く積めり」の詩碑の前では、地元の小・中学生や高校生、花巻高等看護専門学校生による合唱や楽器の演奏、詩の朗読などが行われます。また、この日は無料で高村光太郎記念館・高村山荘に入館できます。

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山荘周辺、新緑の美しい季節ですし、この日は山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんも入場無料。ぜひ足をお運びください。

ついでというと何ですが、先週の『秋田魁新報』さんに載った記事をご紹介しておきます。

「気ままな旅」花巻・高村記念館へ行く

 3月下旬、新青森駅7時43分発はやぶさ10号で盛岡へ向かう。目的地は花巻市太田にある高村光太郎記念館・高村山荘。列車は1時間で盛岡駅に到着した。
 駅内のカフェで朝食をとり、トヨタレンタカー盛岡駅南口店で小型乗用車・ヴィッツを借りる。カーナビに行く先をセットし、盛岡南インターから東北自動車道へ入る。約30分車を走らせ、花巻南インターでおりる。記念館まで11キロ。
 県道12号(花巻大曲線)を右折して、道なりに10分程行くと県道37号(花巻平泉線)と交差する。前方に「花巻南温泉峡」のアーチ看板を確認し、交差点を左折してすぐ高村橋(豊沢川)にかかる。ここから5分くらいで記念館に着く。
 高村光太郎記念館・高村山荘は2015年4月28日にリニューアルオープンしている。森の中にある、白く瀟洒(しょうしゃ)な記念館はこぢんまりとして温もりに満ちていた。切妻(きりづま)屋根(漆黒(しっこく)と銀色)の建物が左右に2棟(母屋(おもや)と離れ、あるいは夫婦のように)並び渡り廊下で繋(つな)がっている。母屋は入り口(受付)・展示室1・詩朗読コーナー・休憩コーナー・土産品(色紙、書籍、絵葉書)コーナー等で、離れは展示室2・企画展示室で構成されている。
 特に展示室1では代表作の彫刻や詩が紹介されていた。たとえば十和田湖畔に建つ裸婦像「乙女の像」の中型試作(妻・智恵子がモチーフ)父・高村光雲の還暦記念として制作された胸像試作「光雲の首」(欧米留学後初の彫刻作品)近代的感覚を表現した、天を真っ直ぐ貫くような人差し指「手」のレプリカ(実際に触れて体感できる)をはじめ「道程」「レモン哀歌」などの詩作品も鑑賞できる。また展示室2は、「東京からみちのく花巻へ」「地上のメトロポオルを求めて」「書について」「賢治を生みき、我をまねきき」のテーマで、高村光太郎の人物像が多面的に理解できるように演出されていた。 そもそも彫刻家、詩人として知られた高村光太郎の記念館が花巻市太田(旧太田村山口)にあるのは、戦火で東京のアトリエを失い、花巻へ疎開してきたことによる。7年間、太田村山口で山居生活を送りながら多くの詩や書を残した。特に書には一家言をもち「正直親切」「大地麗(うるわし)」といった名作を学校などに寄贈する一方、トレードマークの彫刻については封印していた。それは戦時中の己の翼賛活動を恥じ入る、自分への罰であった。
 光太郎は村人との交流により、この地に文化の花を咲かせ、国際的な連携拠点となるようなメトロポオル(中心地)の建設を夢見た。すべては花巻へくる奇縁になった宮沢賢治との出会いにある。光太郎は賢治を認め、世に知らしめた。「宮沢賢治全集」の題字を手がけたり「雨ニモ負ケズ」の詩碑を揮毫(きごう)したり。彼の短歌が物語る。「みちのくの花巻町に人ありて賢治をうみき われをまねきき」
(東北女子大学家政学部教授 船水周)




【折々のことば・光太郎】

わたしはいつも新年には国旗を立てるが、四角な紙にポスターカラーで赤いまんまるをかいて、それを棒のさきにのりではり、窓の前の雪の小山にその棒をさす。まつ白な雪の小山の上の赤い日の丸は実にきれいで、さわやかだ。空が青く晴れているとなおさらうつくしい。

散文「山の雪」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

同じ件を、同じ年に書いた詩「この年」でも取り上げています。

  この年000
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で「神の国」とたたえねばならず、その結果、多くの若者を死に追いやった日本。そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はことさらに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや単に世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで紙に描いた日の丸を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。

智恵子の故郷・福島二本松からの情報です。

日本酒オリジナルカクテル「ほんとうの空」をご提供!

期   日 : 2019年5月11日(土) 12日(日) 13日(月) 14日(火) 15日(水)
        16日(木) 17日(金)
会   場 : ダイニングバー メモリー 福島県二本松市本町2-33
時   間 : 19:00-翌3:00011
料   金 : 1杯700円

地元二本松の地酒を使用したここでしか飲めない二本松のカクテルをお楽しみ下さい!
地元二本松の日本酒を使用した、二本松の酒、二本松の空、二本松の菊人形、智恵子抄などをイメージした当店オリジナルカクテルを1杯700円でご提供致します!また、他店ではなかなかご覧になれないフレアバーテンディング(カクテルパフォーマンス)なども是非この機会にご覧下さい!
(フレアは要リクエスト)

なるほど、シャレオツですね。

やはり5月11日(土)、茨城県の旅行会社・石塚サン・トラベルさんでは、こんなバスツアーも組んで下さっています。
会   場 : 二本松市智恵子の生家/智恵子記念館 羽山の里クマガイソウ群生地 他
時   間 : 那珂IC 7:00出発 17:45帰着
料   金 : 10,800円

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ともに茨城県ご在住の画家・村田伊佐夫氏、絵手紙作家・友部久美子氏が同行され、智恵子生家/智恵子記念館裏の智恵子の杜公園から安達太良山スケッチ(雨天時は生家にて)、智恵子生家で紙絵作り体験が組み込まれています。紙絵作り体験は、「高村智恵子生誕祭」の一環として行われているものですね。

今月号の『広報にほんまつ』さんにも紹介されています。

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今月、二本松ではこの他にも様々なイベントが企画されています。少しずつご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

すべての精神活動は生理に基づく。

散文「夏の食事」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居も5年経ち、すっかり独居自炊生活に慣れた頃の文章です。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というわけで、健全な肉体を維持するための食事の大切さを説いています。

「令和」初日の昨日、「令和」最初の遠出ということで、当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんにお邪魔して参りました。同館では先月から企画展「草野心平 蛙の詩」が開催されています。

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心平の詩というと、蛙をモチーフにしたものが多く、今回の企画展、いわば一周回って原点回帰のような感じがしました(同じことは、平成最後の遠出となった信州安曇野碌山美術館さんでの企画展示「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」にも言えるような)。ある意味、大事なことです。

心平の蛙の詩は、200篇以上だそうで、ほぼ制作順に、それらの掲載雑誌、詩集、詩稿などがずらり。パネルでは代表的な詩の全文が幾つか紹介されていました。

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蛙の詩を中心とした心平詩集は6冊刊行されており、うち3冊は光太郎が深く関わっています。

まず心平初の活版印刷による詩集『第百階級』(昭和3年=1928)。序文は光太郎が執筆しました。昭和13年(1938)の『詩集 蛙』は、光太郎が題字揮毫と装幀を手がけ、戦後昭和23年(1948)の『定本蛙』でも、扉の題字が光太郎の揮毫です。

それだけでなく、心平と光太郎、お互いに影響を与え合っていたというのが実感されました。

『第百階級』に収められた心平の詩。大きくパネルに印刷されていました。

    ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉 

 痛いのは当り前ぢやないか。002
 声をたてるのも当りまへだらうぢやないか。
 ギリギリ喰はれてゐるんだから。
 おれはちつとも泣かないんだが。
 遠くでするコーラスに合はして歌ひたいんだが。
 泣き出すことも当り前ぢやないか。
 みんな生理のお話ぢやないか。
 どてつぱらから両脚はグチヤグチヤ喰ひちぎられてしまつて。
 いま逆歯が胸んところに突きささつたが。
 どうせもうすぐ死ぬだらうが。
 みんなの言ふのを笑ひながして。
 こいつの尻つぽに喰らひついたおれが。
 解りすぎる程当然こいつに喰らひつかれて。
 解りすぎる程はつきり死んでゆくのに。
 後悔なんてものは微塵もなからうぢやないか。
 泣き声なんてものは。
 仲間よ安心しろ。
 みんな生理のお話ぢやないか。
 おれはこいつの食道をギリリギリリさがつてゆく。
 ガルルがやられたときのやうに。
 こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
 そしたらおれはぐちやぐちやになるのだ。
 フンそいつがなんだ。
 死んだら死んだで生きてゆくのだ。
 おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに。
 ドシドシガンガン歌つてくれ。
 しみつたれいはなかつたおれぢやないか。
 ゲリゲぢやないか。
 満月ぢやないか。
 十五夜はおれたちのお祭ぢやあないか。

同じ昭和3年(1928)に発表された、光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」。

  ぼろぼろな駝鳥
 
 何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
 動物園の四坪半のぬかるみの中では、
 脚が大股過ぎるぢやないか。
 頸があんまり長過ぎるぢやないか。
 雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
 腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
 駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢやないか。
 身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
 瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
 あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
 これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
 人間よ、
 もう止せ、こんな事は。

ともに「ぢやないか」のリフレイン。

「ぼろぼろな駝鳥」の発表は3月(ちなみに心平主宰の雑誌『銅鑼』第14号でした)。『第百階級』の刊行は、11月。「ヤマカガシの……」がいつ執筆されたのか、当方は不分明ですが、どちらが先にせよ、先行する方に影響されているのは明らかなような気がします。

「ぼろぼろな駝鳥」は、連作詩「猛獣篇」の一篇。この「猛獣篇」自体も、心平の蛙の詩からのインスパイアがあるのでは、とも思いました。心平が蛙という特定の種をモチーフにしたのに対し、光太郎は駝鳥やら象やら白熊やら、さまざまな生物(中には妖怪かまいたち、龍なども)を主題としていますが、それぞれ、反体制、虐げられる人々やその一部としての自己といったものが仮託されています。ただし、のちに泥沼の戦争の激化に伴い、かつて矛盾する社会を両断する快刀乱麻だった「猛獣」は、大政翼賛のご用聞きに成り下がりますが……。


企画展示以外に、常設展示コーナーの片隅に、いわきゆかりの作家で、心平、光太郎と交友があった猪狩満直の生涯と作品の魅力を紹介する「スポット展示 猪狩満直」が設けられています(6月30日(日)まで)。

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光太郎が激賞した詩集『移住民』(昭和5年=1930)なども並び、こちらも興味深く拝見しました。

常設展示コーナーといえば、以前から光太郎より心平宛の葉書も展示されています。そうしたコーナーのトップに展示していただいており、ありがたいかぎりです。昭和23年(1948)8月12日付のもので、最後に次のような一節があります。

多くのものが滅び去る時貴下のものは消えないでせう。人為の如何ともし難いものがあるでせう。

いかに光太郎が心平を買っていたか、象徴的な一節です。この言葉通り、心平の、そして光太郎本人の詩、令和の時代となっても語り継がれていくことを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

人類はいつか必ず合成食料で十分の栄養をとり得るやうになると思ふが、さういふ時のくるまで、人は鳥獣魚介を殺して自己の身を養はねばならないであらう。むざんな事だが止むを得ない。

散文「みちのく便り 二」より 昭和25年(1950)より 光太郎68歳

遠く明治末のパリ留学時にはフランス料理のオードブルとして、そして戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中には貴重なタンパク源として、光太郎は蛙を食べていたそうです。

さきの天皇陛下御退位に伴い、今日から令和元年の始まりです。そこで、それっぽい内容で。

このブログ、新聞雑誌各紙誌の場合、基本的に紙誌面に掲載されたものをご紹介していますが、今日のみは例外的に、ネット上の「週刊女性PRIME」さんというサイトに載った記事をご紹介します。紙媒体の『週刊女性』さん本誌には、この記事は出ていませんでした。

新天皇陛下小学校卒業文集で、夢は日本史教師、白虎隊を「あわれ」12歳の思い全文

 いよいよ間近に迫った新しい天皇陛下のご即位と、新時代令和。
 新しい時代の象徴となる新天皇陛下はどんな方なのだろうか。
 名は徳仁さま。称号は浩宮。昭和35年(1960年)2月23日生まれ。学歴は学習院幼稚園入園後、学習院初等科、中等科、高等科、学習院大学(文学部史学科)と歩まれてきた。
 ’83年から’85年にかけ、オックスフォード大学マートン・カレッジにご留学。’88年には学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程をご修了。専攻は歴史学。
 ご趣味は登山、ヴィオラ演奏、ジョギングなど。またお酒も嗜(たしな)まれ、たいそう“お強い”との評判も。
 言うまでもなく、皇太子として公務と国際親善に努められてきた。また、'03年よりご病気の療養に入っている妻の雅子さまを支え、聡明と評判の長女・愛子さまの教育にも力を入れられてきた。
 仕事と家庭両面にベストを尽くす誠実さはまさしくご両親譲りのもの。ここでは、そんな新天皇陛下のさらなる内面や成長過程がうかがえる文章をご紹介したい。
 学習院初等科の卒業文集。徳仁さまの徳を取った『徳桜集』という文集で卒業生らが2つのテーマで文章を寄せている。1つは『思い出』、もう1つは『二十一世紀からこんにちは-二〇〇一年〇月〇日の手紙-』。
 つまり、学校生活の思い出と、将来の自分についての作文ということ。殿下の“12歳の地図”まずはご一読を。

<テーマ:思い出>
  思い出の修学旅行   徳仁親王
 長い長いと思われた初等科時代も、あとわずかになった。ここで、今までの六年間をふり返ってみる時、ぱっとぼくの心の中に浮かび上がるのは、なんといっても、六年生の春に行った福島への修学旅行だ。
 福島駅で列車を降りると、出発した上野駅とは変わった東北地方特有のひんやりした風が吹いていた。ぼくたちをむかえてくれる風のような気がした。長い間の列車の中の退屈した気分を吹き飛ばしてくれたのだ。スモッグがひどく、空気のよごれた東京よりも、すがすがしい空気の中で暮らせる福島の人たちはしあわせだと思った。
 車窓から見えた安達太良山・磐梯山などは、古い古い過去を物語ってくれるようだ。そう、安達太良山といえば、高村光太郎作の(あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川)という詩を思い出す。しかし、実際にはそのとき、ぼくは、この詩を部分的にしか知っていなかった。この詩の全容に出会ったのは、その夏である。磐梯山についていえば、(会津磐梯山は宝の山よ)という、あの有名な歌……。
 翌日行った中で、いちばん印象深かったのは飯盛山だった。ここは白虎隊十九士の墓のある所だ。墓の前に立つと、ぷうんと線香のにおいが鼻を突く。昔の人はここを通るとき、きっと墓石に涙を注いだことだろう。ぼくもここに、自分の家の花をささげたいような気がした。戸の口原で戦って負け、飯盛山に逃げて、鶴が城が焼けているのを見、自殺した。ほんとうは、城は焼けていなかった。あわれな最期であった。死にさいして、彼らの心の中にあった思いは、どんなものであっただろうか、ぼくはその後も折々考える。
 修学旅行は、ぼくたちにすばらしい思い出を与えてくれた。風景の美しさ、集団生活の楽しさ。さらにこの思い出は、後の歴史の勉強などにも大いに役立つことだろう。福島県下の旅行と初等科時代の思い出は、ぼくの心の中で、切っても切りはなせない思い出となり、いつまでも残ることだろう。

<テーマ:「二十一世紀からこんにちは-二〇〇一年〇月〇日の手紙-」>
                        徳仁親王
 みなさん、お元気ですか。わたくしは、今、大学で、日本史を教えています。
 この間、学生たちに美しい平城京の姿を知ってもらいたいと思い、奈良に行ってきました。初めに東大寺などの寺院を見ました。ふり返ってみれば、わたくしがこの東大寺を訪れたのは、今から三十数年前、たぶん初等科四年生のころだったと思います。幸いに、大仏も四天王も当時と変わらず大切に保存されています。ふくうけんじゃくの美しい姿も変わっていません。ほっとして外へ出れば、若草山・春日山・三笠山などがなつかしい姿を見せています。それを望んでいると、どこからともなく、(天の原、ふりさけ見ればかすがなる、三笠の山に出でし月かも)という歌がわたくしの耳をかすめ、再び永遠の彼方に消え去っていくような気がしました。空を見上げれば、雲一つありません。この晴れ渡った空を、昔の人はどう思ったでしょうか。わたくしは、あれやこれやのことを、「奈良見物記」という題で本にまとめました。 
 これは余談になりますが、旅先の旅館におりますと、山鳥の声が微妙に悲しげに響いてきます。夜は、マッチぼうを散りばめたように星が光っておりました。自然はいいなあと、何度思ったか知れません。
 そうしている間に、ついに帰京する日が来ました。古い歴史を語る奈良に、わたしは、いつまでもいつまでも自然や遺跡が保存されることを願ってやみません。
 ではみなさま、くれぐれもおからだを大切に、さようなら。 

 いかがだろうか。まず美しい自然と文学を愛(め)で、歴史と文化を学ぼうとする素直な心が伝わってくる。
「趣味が登山ということからもわかりますが、殿下は自然と美しい景色を愛するロマンチストですね。そこは少年時代から今も変わっていないといえるでしょう」(全国紙宮内庁担当記者)
 また、白虎隊の悲劇に思いを寄せたのは、高祖父(ひいひいおじいさん)の明治天皇を押し立てた官軍と会津藩の戦いの歴史の因縁を感じてのことなのかもしれない。
 また、「二十一世紀から」のほうは皇太子、天皇となる定められた将来を知りながら、愛する歴史に携わる未来にも思いを馳せる健気な文章だ。
 皇室取材歴60年のジャーナリスト、文化女子大学客員教授の渡邉みどりさんは、「二十一世紀から」の作文について、
「殿下の歴史愛は美智子さまのご教育の賜物(たまもの)だと思っています。初等科低学年のころ殿下は赤坂御用地内にかつて奥州街道が通っていたことを知り、歴史と道に興味を持たれました。美智子さまはその関心に応え、殿下と一緒に松尾芭蕉の『奥の細道』を読破されたのです」
 やがて関心は道から海上交通につながり、大学の卒業論文は瀬戸内海の海上交通史、オックスフォード大学での論文はテムズ川の交通史について。
「海上交通から関心は水全般に移り、かつて国連の『水と衛生に関する諮問委員会』の名誉総裁を務められるなど、水は殿下のライフワークになっています。少年時代の歴史愛がライフワークにつながっていったということですね」(渡邉さん)
 殿下は間もなく天皇としての“道”が始まるわけだが、その誠実なお心で国民とともに歩んでいかれることは間違いない。


さきの両陛下も、福島の被災者の方々への思い入れを表出なさっていましたが、新陛下も小学生の頃から「智恵子抄」に親しまれていたとは驚きました。

ちなみに新陛下、中等科時代の昭和49年(1974)には、やはり修学旅行で、花巻郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間逼塞していた山小屋(高村山荘)と、当時の高村記念館も訪れられています。学習院さんには校外学習の場として使われていた八幡平松尾校舎という施設があったそうで、宿泊はそちらだったようです。

二本松の智恵子生家・智恵子記念館ともども、いずれまたお越し願いたいものですね。

そして「週刊女性PRIME」さんの末尾にあるように、「その誠実なお心で国民とともに歩んでいかれること」を望みます。

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【折々のことば・光太郎】

見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性のこまかい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

散文「みちのく便り 三」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

この年4月、盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵(当時は切抜絵と称していました)展を見ての感想です。これ以前に山形でも開催されていますが、光太郎はそちらは見て居らず、展覧会の形で見たのはこれが初めてでした。

「令和」の時代となりましたが、光太郎智恵子、この一組の男女の鮮烈な生の軌跡を語り継ぐ仕事、これからも続けて参りますのでよろしくお願いいたします。

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