例年同じようなことを書いていますが、早いもので今年も今日一日を残すところとなりました。
このブログ、5月には7年目に突入し(ちなみに今日で2,434日目、1日も休んでおりません)、今月初めには「訪問者数」が20万件を超えました。開設当初は1日の訪問者が20人くらいだったのが、このところ、コンスタントに百数十人くらいの方が閲覧して下さり、ありがたく存じます。訪問者数が多いと、YAHOOさんからTポイントがいただけ、知らぬ間にけっこう貯まります。毎年そうしていますが、今年も寄付に廻させていただきました。
記録の残っている5月以降で、以下に寄付いたしました。
雀の涙ほどではありますが。
寄付といえば、これも例年通り、皆様からいただいた郵便物に貼られていた切手を、公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付いたしました。同会サイト、12月分の寄付団体一覧が大晦日に間に合わないことがあるので、先月、お送りしましたところ、名前を載せていただいております。


来年もよろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔を丸出しにして往来を歩いてゐる事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまふより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたといふ事が見えるだけである。
散文「顔」より 大正13年(1924) 光太郎42歳
痛烈ですが、そのとおりですね。
同じ文章で、「仙人じみた風貌をしてゐて内心俗つぽい者は、やはり仙人じみてゐて内心俗つぽい顔をしてゐる。がりがりな慾張でゐながら案外人情の厚い者は、やはりがりがりでゐて人情の厚い顔をしてゐる。まじめな熱誠なやうでゐて感情に無理のあるものは、やはり無理のある顔をしてゐる。お山の大将はお山の大将、卑屈は卑屈。争はれない。だから孔子や釈迦や基督の顔がどんなに美しいものであつたかといふ事だけは想像が出来る。」という一節もあります。
孔子や釈迦やキリストのような顔、とは言いませんが、無理があったり卑屈だったりという顔にならぬようにしていきたいものです。











































































































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とも親しくなさっていて、渡辺さんがお父様の渡辺正治氏が光太郎から贈られた詩集『道程再訂版』や書簡を記念館に寄贈された際の





















































太郎の『智恵子抄』もモチーフとして使われた「
か・めぐみ=作曲家)3日、菌血症で死去、94歳。葬儀は8日正午から東京都港区赤坂1の14の3の「日本キリスト教団 霊南坂教会」で。喪主は妻清子(せいこ)さん。


な作風で1960年代以降の現代詩をリードした詩人で、宮沢賢治研究の第一人者としても知られた入沢康夫(いりさわ・やすお)さんが10月15日に亡くなった。86歳だった。

趣味人でもあり、文化芸術そしてスポーツにも関心を寄せ、長岡市スポーツ協会の前身・長岡市体育団の会長を務めたりもしました。


