2018年10月

情報を得るのが遅れ、始まってしまっていますが、京都から企画展示情報です。 

平成30年度秋季特別展「奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣-寺田出身の青年が作った大正サロン-」

期 日 : 平成30年10月20日(土)~年12月16日(日)
場 所 : 
城陽市歴史民俗資料館 京都府城陽市寺田今堀1 文化パルク城陽西館4階
時 間 : 午前10時から午後5時
料 金 : 大人 200円(160円) 小中学生 100円(80円)(  )内20名以上の団体
休 館 : 11月5・6・12・19・26・27日、12月3・10日

 寺田村出身の青年奥田駒蔵が東京で作った店「メイゾン鴻乃巣」は、明治から大正にかけて近代文学を担った文豪たち、芸術家たちが集う本格的なフレンチレストランでした。この特別展では、「鴻巣山人」と称し、永井荷風、与謝野晶子など錚々たる文学者じゃ、芸術家に愛された奥田駒蔵と彼の生涯、また少年時代の駒蔵が過ごした寺田村の当時の様子をあわせて紹介します。この展示の実施にあたっては、奥田駒蔵氏の孫である奥田恵二氏の妻であり、エッセイストである奥田万里氏の著書『大正文士のサロンを作った男-奥田駒蔵とメイゾン鴻ノ巣』の内容に沿いながら実施します。

展示構成
 1 奥田駒蔵とふるさと寺田村
  『カフェエ夜話』 寺田尋常高等小学校写真・資料 大正~昭和初期の鴻巣山関係資料
 2 西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」とは
  『文章世界』明治44年9月号 『白樺』大正3年9月号 サモワール
  「メイゾン鴻乃巣創業の地」説明版写真 京橋鴻乃巣新装落成記念ポスター 
  カラトリー、すっぽん鍋
 3 メイゾン鴻乃巣に集った人々
  木下杢太郎写真、「該里酒」(『食後の唄』収録) 北原白秋写真、「屋根の風見」
  芥川龍之介写真、
  『羅生門』出版記念会写真 志賀直哉写真、
  志賀の手がけた鴻乃巣の広告(『白樺』第3巻10月号)他
  関根正二「子供」 与謝野鉄幹・晶子夫妻写真、駒蔵葬儀の写真、晶子の追悼歌他
 4 自由人奥田駒蔵-その人と作品-
  掛軸「蛙百態」「洋蘭」 掛軸「父上像」「南京と蜜柑」 屏風「蛙」 
  版画「ダリア」「柿」他スケッチ画5点
  奥田駒蔵と家族の写真 『カフェエ夜話』

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関連イベント

第83回文化財講演会 祖父奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣
 講師 奥田恵二氏、奥田万里氏
 日時 平成30年11月23日(金・祝) 13:30~15:00
 場所 文化パルク城陽ふれあいホール
 申込み・参加費 不要

ギャラリートーク
 日時 10月27日(土)、11月17日(土)、12月9日(日) 14:00~15:00
 場所 城陽市歴史民俗資料館特別展示室
 講師 資料館職員


光太郎、北原白秋、木下杢太郎らの芸術運動「パンの会」の会場として使われ、光太郎の詩文にたびたび登場する日本橋にあったカフェ「メイゾン鴻乃巣」。創業者の奥田駒三が現在の城陽市の一部、寺田村出身ということで企画されたようです。

駒三の令孫にあたる奥田恵二氏、奥田万里氏夫妻の地道な調査により、平成27年(2015)には『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』という書籍が刊行され、興味深く拝読しました。関連行事としての講演ではご夫妻が講師を務められます。

メイゾン鴻乃巣に集まった文士たちに関する展示もあり、「パンの会」での光太郎の朋友・木下杢太郎や北原白秋、それから「パンの会」とは関わりませんが、光太郎の師・与謝野夫妻の名が上がっています。おそらく光太郎についても名前程度は出していただいているのでは、と思われます。

来月もあちこち飛び回るつもりでおりますが、都合をつけて観に行くつもりです。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は生きいきした人生の礼讃者である。明るい、健康な、いぢけない、四肢五体に意識と智慧と精神とのはつきり行き渡つてゐる人生の渇仰者である。暗愚な、おどおどした、無智な、無意識な人生からは一刻も早く脱したいと思ふ。
散文「日本家庭百科事彙」より 昭和3年(1928) 光太郎47歳

彫刻に、詩に、脂ののっていた時期の文章だけに、こういう発言となっています。ただし、パートナー・智恵子の方は実家の長沼酒造の経営が傾きはじめ、油絵にも絶望、徐々に精神の均衡を保てなくなっていました。

10月27日(土)、福島二本松の智恵子生家・智恵子記念館を後に、再び北へ。「〽北へ行くのね ここも北なのに」の「潮騒のメモリー」状態だなと思いつつ(笑)。

東北本線安達駅から福島駅、新幹線を仙台でやまびこからはやぶさに乗り換え、七戸十和田へ。レンタカーを借りて十和田市街方面。ポニー温泉さんというところに1泊しました。

翌10月28日(日)、宿で朝食を摂った後、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖方面を目指し、出発。この日は「奥入瀬渓流エコロードフェスタ」ということで、国道102号線、奥入瀬渓流沿いの部分にマイカー規制がかかっており、麓の焼山からシャトルバスに乗ることにしました。バイパスを使って遠回りすれば十和田湖まで行けたのですが、そちらが混むと面倒ですし、渓流の紅葉も見たかったので。

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焼山の駐車場。すでに山々は色づいていました。

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バスの車中から。

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あいにくの雨でしたが、かなりの人出でした。

十和田湖畔休屋地区に到着。こちらもすっかり紅葉が進んでいました。

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遊覧船の船着き場に近い、市の施設・十和田湖観光交流センター「ぷらっと」。

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こちらの2階、光太郎に関する展示のコーナーがリニューアルということで、式典が行われます。

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左が、青森市ご在住で、生前の光太郎をご存じの彫刻家、田村進氏制作の光太郎胸像。右には、「乙女の像」制作時に光太郎が使った彫刻用の回転台。ともに十和田市に寄贈され、こちらで展示することとなったものです。

田村氏制作の胸像は、名付けて「冷暖自知 光太郎山居」。

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昭和20年(1945)秋から、戦時中の翼賛活動を恥じ、花巻郊外旧太田村の山小屋に逼塞していた当時の光太郎の肖像です。題字の揮毫は当会顧問・北川太一先生。

下世話な話ですが、制作にかかる実費だけでもかなりのものでしょうが、田村氏、ポンと寄贈なさいました。なかなかできることではありません。

僭越ながら、当方が解説板を執筆させていただきました。

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光太郎遺品の回転台はこちら。

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「乙女の像」制作に際し、光太郎の助手を務めた青森野辺地出身の彫刻家・小坂圭二が手配して入手し、光太郎歿後は小坂がもらいうけ、さらに小坂歿後に小坂の弟子筋だった彫刻家の北村洋文氏の手に渡ったものです。

昨夏、千葉船橋にある北村氏のアトリエにお邪魔し、現物を初めて見、「よくぞこれが遺っていた」と感懐に包まれました。その際の経緯などはこちら


目玉はこの2点ですが、それ以外にもいろいろ。

窓には日除けを兼ねたタペストリー。古写真を使い、「乙女の像」完成までの経過を時系列で追うというコンセプトにもなっています。光太郎と一緒に写っているのが小坂圭二です。

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写真の選定にも当方に相談があり、さらに、写真であることにこだわらなければ、こんなのもいいんじゃないでしょうか、と、推薦したのが最後のカット。平成27年(2015)、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』の挿画の一枚で、十和田市ご在住のイラストレーター・安斉将さんの作品です。

十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんといえば、最後の「乙女の像」設置風景の写真は、同会の地道な調査で発見されたもの。こういう写真が残っていたというのも感慨深いものがあります。


さらに、一時的な展示となるそうですが、「乙女の像」の小型試作。

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また、1階には、回転台を寄贈なさった北村氏の彫刻も。

平成26年(2014)の「ぷらっと」オープンの際から、内部の解説板執筆等でご協力させていただいていますが、こうしてグレードアップしていくのが非常に嬉しい限りです。

さて、午前10時から、式典。その直前には、湖面にうっすらと虹が架かっていました。リニューアルを祝ってくれるかのようでした。

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小山田十和田市長のご挨拶。

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田村氏と北村氏に、感謝状の贈呈。

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その後、田村氏、北村氏、そして当方でトークセッション。

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当方からは、「乙女の像」のアウトライン、田村氏と北村氏には、それぞれの寄贈品についてなどを語っていただきました。さらに田村氏には光太郎、北村氏には小坂圭二、それぞれの生前の思い出等、それから、彫刻家の眼で観た「乙女の像」といったお話も。

昨年、十和田市街で開催された講演会、「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」に当方を講師としてお招き下さった十和田市立三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会さん代表の佐藤やえさん、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の吉崎明子さんなど、見知った顔も駆けつけて下さいました。

最後に、若手ガイドの地域おこし協力隊・山下晃平氏の案内により、「乙女の像」までのミニツアー。

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湖畔の木々もすっかり色づき、多くの観光客の皆さんでにぎわっていました。

半年ぶりに「乙女の像」と対面。

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光太郎が詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)で謳ったように、「いさぎよい非情の金属が青くさびて 地上に割れてくづれるまで この原始林の圧力に堪へて 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。」と、見るたびに思います。

その後は再びシャトルバスで麓まで戻り、レンタカーを七戸十和田駅前で返却して、帰途に就きました。七戸十和田駅ではまた虹が出ていました。

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十和田湖、奥入瀬の紅葉、まだ楽しめます。「ぷらっと」、「乙女の像」と併せ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

此は到底、営利を外にした各方面の人の気が揃ふと言ふ珍らしい事情の起こらない限り出来ない為事である。私は此の刊行会の当事者のやうなむきな人達の一所に集つた珍らしい機会の到来に感謝する。

散文「「日本古典全集」に感謝す」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

「為事」は、採算をほとんど度外視して、武者小路実篤の新しき村出版部から、与謝野夫妻等の編集で刊行された『日本古典全集』第一期50巻、第二期50巻を指します。

営利を外にした各方面の人の気が揃ふと言ふ珍らしい事情」。「ぷらっと」のリニューアルにも通じる話ですね。

10月27日(土)、朝早くに千葉001の自宅兼事務所を出、北紀行開始。

東北新幹線を福島駅で下車、安達駅まで戻る形で東北本線に乗り、安達駅から徒歩で、智恵子の生家/智恵子記念館を目指しました。

智恵子生家では、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭2018」の一環として、13日(土)から切り絵作家の福井利佐さんの作品が展示されています。10月7日(日)、智恵子を偲ぶ第24回レモン忌の際には、太平洋美術会の坂本富江さんの絵画展が行われており、福井さんの展示も改めて観に行かねば、というわけで参上しました。

また、毎年この時期に開催されている智恵子居室を含む二階部分の特別公開も行われています。

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さて、一昨年は版画家の小松美羽さん、昨年は刺繍作家の清川あさみさんによる展示が行われました。今年の福井さんの作品は……。まず、1階部分。

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続いて、箱階段で2階へ。番頭さんのような人は、市教育委員会の服部氏。ご実家は生家隣の戸田屋商店さんです。

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福井さんの作品ではないものも。智恵子実家からそう遠くない、養泉院さんという修験系の寺院で配布されている縁起物だそうです。

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幼い頃の、あるいは長じてからもたびたび実家に帰っていた智恵子がこれを眼にしていたとしたら、のちの紙絵制作に何らかの影響を及ぼしたのではないかと思い、興味深く拝見しました。

1階には、智恵子母校・油井小学校さんの児童諸君の作品も。

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1階といえば、初めての試みだと思いますが、何と物販コーナーが設けられていました。

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地元のお菓子などが売られており、こんなものも。思わず買ってしまいました(笑)。

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長登屋さんというお菓子メーカーの製品です。なるほど、ほんのりレモンの香。

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さて、生家裏手の智恵子記念館さんへ。

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明治末、生家で撮られたと推定される智恵子肖像写真をモチーフにした作品もあり、感心しました。使っている紙は新聞紙です。他の作品ものびのびと作られ、いい感じです。

館内では、普段は写真複製が展示されている智恵子の紙絵の実物が10点、展示されています。実物を見るたびに思うのですが、1ミリに満たない紙の重なりが微妙な立体感を出しており、この味は複製ではなかなか再現できないものです。見ていてせつなさがこみ上げてくる作品ですが、ぜひ実物をご覧になることをおすすめします。

生家での福井さんのインスタレーションは11月25日(日)まで、記念館での紙絵実物展示は11月27日(火)までだそうです。

この後、さらに北、青森十和田を目指して旅を続けました。続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

神田神保町に行くと大抵の本はある様であるが、又懐中との相談を考へると、大抵の本は無い様でもあるのである。

散文「「日本古典全集」礼賛」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

光太郎の時代からそうだったのですね。現代は図書館やインターネットなどで情報が入手しやすくはなりましたが、やはり現物を手に入れようとすると、「懐中との相談」の結果、「無理」と言われます(笑)。

昨日から一泊二日で東北に来ておりまして、帰りの新幹線はやぶさ号車中でこの記事を書いております。
昨日は智恵子の故郷、福島二本松で智恵子の生家・智恵子記念館を訪問しました。生家では、福島ビエンナーレ「重陽の芸術祭」の一環として、切り絵作家の福井利佐さんのインスタレーションが開催されており、裏手の記念館では、普段は複製が展示されている智恵子の紙絵の実物が展示されています。

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さらに北紀行を続け、昨夜は青森十和田市に宿泊。今日、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖畔休屋地区にある市の施設、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」内の光太郎コーナーリニューアル完成式典に参加しました。
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青森市ご在住の彫刻家・田村進氏の手になる光太郎胸像と、光太郎が「乙女の像」制作の際に実際に使用した回転台が寄贈され、田村氏、それから回転台を所有されていたやはり彫刻家の北村洋文氏、それぞれに感謝状が渡され、さらに当方を交えてのトークイベント。

その後、「乙女の像」を見て、帰途に着きました。
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詳しくは、明日以降、レポートいたします。

新刊書籍です。 

一九四〇年代の〈東北〉表象 文学・文化運動・地方雑誌

2018/10/10 高橋秀太郎 森岡卓司編 東北大学出版会 定価5,000円+税

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一九四〇年代、東北に疎開した文学者、新聞・雑誌などのローカルメディア、そして各地に展開された文化運動が、それぞれに照射した「地方」の姿を追う。
 
《目 次》
序  地方文学研究と近代日本における〈東北〉表象 森岡卓司
1章 島木健作の「地方」表象 山﨑義光
2章 戦時下のモダニズムと〈郷土〉ー雑誌『意匠』・沢渡恒における「東北」 仁平政人 
3章 『文学報国』『月刊東北』における地方/東北表象の消長 高橋秀太郎
  [コラム1] 金木文化会と太宰治 仁平政人
4章 提喩としての東北ー吉本隆明の宮沢賢治体験 森岡卓司
5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開 佐藤伸宏
6章 更科源蔵と『至上律』における地方文化 野口哲也
  [コラム2] 石井桃子と「やま」の生活ー宮城県鶯沢での開墾の日々 河内聡子
7章 皇族の東北訪問とその表象ー宮城県公文書館所蔵史料にみるイメージの生成 茂木謙之介
8章 「北日本」という文化圏ー雑誌『北日本文化』をめぐって 大原祐治
あとがき 高橋秀太郎


主に東北地方の大学で教鞭を執られている研究者の方々による共著です。

光太郎に関しては、東北大学文学研究科教授の佐藤伸宏氏による「5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開」で、戦後の花巻郊外旧太田村に逼塞した時期が論じられています。意外とこの時期の詩作品に関する論考等は少なく、しかし、人間光太郎の完成型を見るためには外せない時期と思われ、貴重な論考です。

5章でのさらに詳細な目次は以下の通り。

一 高村光太郎の疎開/二 詩「「ブランデンブルグ」」の成立/三 戦争詩と大地性/
四 光太郎に於ける詩の「転轍」――「脱卻」の帰趨

さらに「6章 更科源蔵と『至上律』における地方文化」(都留文科大学文学部教授・野口哲也氏)でも、更科と交流の深かった光太郎についてかなり詳しく言及されています。

是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

もつと野暮な、もつと骨のあるもの、文学はほんとはその骨髄にそれがなけりやならぬ。さういふことをこれからも誰かやらなきやならないけれど、もう果してさういふ人が出てくるかどうか……。

談話筆記「「夜明け前」雑感」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

谷崎潤一郎の「細雪」と対比し、藤村の「夜明け前」には、そうしたエッセンスがあった、と光太郎は言っています。

まず、10月20日(土)の『日本経済新聞』さん。智恵子終焉の地・品川区のゼームス坂病院跡についてです。 

今昔まち話 ゼームス坂(東京・品川) 詩人も通ったなだらかな坂

東京都品川区の大井町駅から3分も歩けば、風変わりな名称の坂道にたどり着く。約400メートル続く2車線の両側には新しい高級マンションから昭和時代に竣工したビンテージ物件などが立ち並ぶ。多くがその名を冠するほど、人気の住宅地に浸透している。ところで、ゼームスって誰?
幕末に来日し、明治期にこの地に邸宅を構えた英国人のJ・M・ゼームス(スペルはJames)。船長で日本海軍の創設に関わり、後に勲章が贈られた人物だ。通りの名となった理由は、私財を投じて急な坂道を緩やかに整備したため、と伝えられている。
「もともと浅間坂と呼ばれていた今のゼームス坂を明治時代に改修したとする文献は見つけられない」と話すのは区立品川歴史館の学芸員を長年務めた「品川郷土の会」の会長、坂本道夫さん(68)だ。坂の脇道を入ったところに邸宅があったことから、この脇道を整備したのではないかと推測している。
坂本さんが国立公文書館アジア歴史資料センターで調べたところ、ゼームスは海外情勢を報告した報酬として海軍省から大金を得ていた。坂の近くにあった青果店の男性(故人)からは「ゼームスさんは近所の子供にお小遣いを与えており、自分ももらったことがある」との証言も得ていることから、坂本さんは「資産家で住民から親しまれていたことは間違いないだろう」とみる。
脇道を挟みゼームス邸跡地の反対側は作家の高村光太郎の妻、智恵子が1938年に亡くなるまで入院していたゼームス坂病院があった地だ。郷土の会は95年、光太郎が妻の最期を詠んだ「レモン哀歌」を黒御影石に刻んだ碑を建てた。
「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛(か)んだ」
深い悲しみのなか、優しさに満ちた光太郎の詩は今も多くの人の心を捉えている。智恵子の命日である10月5日、今年も誰かがレモンを詩碑の前に置いていた。人気の住宅街で脇道に潜むストーリーに触れた気がした。

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続いて、10月22日(月)、『福島民報』さん。 

西会津で探究心育む 小学生「ほんとの空プログラム」

 自然の中で子どもたちの好奇心や探究心を育む「ふくしま ほんとの空プログラム-地域の謎を解明せよ!」は二十一日、福島県西会津町奥川で催された。 
  小学一年生から五年生九人が参加した。にしあいづ自遊学校(旧奥川保育所)をスタート・ゴールに、ヒントが記された地図を頼りに約二キロのコースに設けられたチェックポイント八カ所を巡った。途中でバッタやカマキリなどの昆虫採集を楽しむ姿も見られた。 
  昼食ではピザ作りに挑戦。ドラム缶を加工した特製オーブンで焼き上げた熱々のピザを青空の下で味わった。 
  プログラムは福島民報社の主催。オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、日本シビックコンサルタント、日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協賛。NPO法人寺子屋方丈舎の実施運営。全四回あり西会津町は第三弾。

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語、もはや福島の復興の合い言葉として、一人歩きの感がありますね。


さらに昨日の『東奥日報』さん。過日ご紹介した十和田湖観光交流センターぷらっと 高村光太郎コーナー リニューアルオープンセレモニーなどについてです。 

十和田湖畔休屋「ぷらっと」 高村光001太郎コーナー改装 28日式典 胸像展示やガイドツアー

 十和田市は28日、十和田湖畔休屋地区の十和田湖観光交流センター「ぷらっと」2階で、高村光太郎コーナーのリニューアルオープンを記念した式典を開く。コーナーは青森市の彫刻家・田村進さんが制作し昨年市に寄贈した胸像「光太郎山居」を回転台とパネル附きで展示。28日は式典後に、田村さんらによるトークセッション、高村が制作した「乙女の像」を巡るガイドツアーも行う。いずれも参加無料。
 式典は午前10時から。田村さんのほか、解説パネルなどを監修した小山弘明さん(高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会代表)、回転台を寄付した北村洋文さん(むつ市)らが出席。
 午前10時20分から同11時40分まで、田村さんら3氏が高村にとって「最後の大作」となった乙女の像について語りあうトークセッションを行う。
 午前11時50分からは、地域おこし協力隊・山下晃平さんによるガイドツアー。かつて東北有数の山岳霊場として信仰を集めた十和田湖に、弘前大学の斉藤利男名誉教授が歴史的側面からアプローチした本紙連載を基にした単行本「霊山十和田」で紹介されたスポットを巡り、乙女の像をバックに記念撮影を行う。いずれも申し込み不要。問い合わせは十和田市観光推進課(電話0176 51 6771)へ


それから、10月22日(月)には、『毎日新聞』さんの岩手版に「7年間過ごした花巻、昭和20年代ジオラマで 記念館で企画展 来月19日まで」という記事が出たようですが、こちらは共同通信さんの配信で、同一の記事が10月5日(金)の『日本経済新聞』さん他にも掲載されました。


最後に、今朝の『朝日新聞』さん。重松清氏による連載小説「ひこばえ」の一節。

 和泉台文庫では、『○月の特集』と002銘打って、毎月テーマを決め、蔵書の中からお勧め本をピックアップしている。発案したのは田辺麻美さんで、テーマ決めや選書も麻美さんが一人でやっている。
(略)
 壁際の本棚ではなくキャスター付きのブックラックが、特集のコーナーになっていた。小説やエッセイ、児童書や絵本に加え、写真集などのビジュアル本も含めて二十冊ほどのラインナップだった。高村光太郎の『智恵子抄』や城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』といった、私でも題名ぐらいは知っている本もあれば、初めて目にした著者の本もある。

川上和生氏による挿画がいい感じです。『智恵子抄』、本題には関係ないのですが「ごくごく当たり前の本」の例として使われています。

しかし、『智恵子抄』、「ごくごく当たり前の本」でなくなるようなことがあってはいけないな、と、改めて感じました。


【折々のことば・光太郎】

鷗外先生の「花子」はまことに簡にして要を得た小説であつて、ロダンの風貌性格習性がいきいきと描かれて居る。巧にロダンの言説まで取り入れられ、又久保田医学博士といふ人の行動をかりて、ダンテからボオドレエルに至るロダンの思想上の経歴まで暗示されてゐる。

散文「鷗外先生の「花子」」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

森鷗外の「花子」(明治43年=1910)は、確認できている限り唯一、ロダンの彫刻モデルを務めた日本人女優・花子とロダンの関わりを描いた短編小説です。

テレビ番組の放映情報、2件です。それぞれ、ぜひご覧下さい。 
 2018年10月31日(水) 19時50分~19時55分/ 11月5日(月)  5:55~6:00/24:50~24:55

古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。
今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館所蔵)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!
「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

出演 井上涼  声 ジョリー・ラジャーズ

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古今東西の美術作品を脱力系のアニメーションと唄でいじる5分間番組です。平成27年(2015)には、光太郎が敬愛したロダンの「地獄の門」をモチーフにした「ランチは地獄の門の奥に」が放映されました。

公式サイトでは過去の放映作品の唄の部分がすべて見られますが、どれもこれも笑えます。光太郎の「手」が、どう料理されるか楽しみです。


もう1件。直接光太郎には関わりませんが。 

歴史秘話ヒストリア「新発見!晶子と白蓮 情熱の女たち」

NHK総合 2018年10月31日(水)  22時25分~23時10分
     再放送 11月3日(土) 10時05分~10時50分

今夜の主人公は、情熱の歌人・与謝野晶子と柳原白蓮。連続テレビ小説『花子とアン』で脚光を浴びた白蓮は、大正時代、意に染まぬ夫への「絶縁状」を新聞紙上に発表して駆け落ちを決行、世間の常識に立ち向かう。今年生誕140年を迎える晶子も、女性の情念を大胆にうたった作品を世に問い、さらに自立した女の生き方を実践した。新発見の歌や未公開の動画もまじえ、思うままに恋をし、力強く生きた、2人のりりしい姿を描く。

出演 原沙知絵 袴田吉彦  キャスター 井上あさひ

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光太郎の師・与謝野晶子が取り上げられます。


晶子といえば、先週土曜日(10/20)、NHK Eテレさんで放映された「第48回 NHK講談大会」で、神田陽子さんが「炎の歌人 与謝野晶子の生涯」を演じられました。

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今年6月には、チバテレさん他で放映された「浅草お茶の間寄席」で、同じ神田一門の神田京子さんがこれを演じられました。定番の演目なのですね。


先週のNHKさんといえば、BSプレミアムさんで放映されている「にっぽん縦断 こころ旅」。俳優の火野正平さんが自転車で日本各地を廻る番組です。19日(金)の放映では、花巻を訪れられました。

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その中で、光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の法音山昌歓寺さんが大きく取り上げられました。光太郎もたびたび訪れた古刹です。光太郎は観音像を彫る依頼を受けながら果たせず、その歿後、光太郎に代わって、交流のあった彫刻家・森大造が代作しました。

公式サイトから。

東京・府中の李 淳子さんのご両親は、昭和の初め頃、朝鮮半島から日本に渡り東京に住んでいました。しかし戦争が激しくなり、家族全員で疎開したのが岩手県花巻市。淳子さんは地元の小学校に通い、友だちと遊んだのが昌歓寺です。戦後もしばらく花巻で暮らし、その後両親は朝鮮半島へ戻り、両親と会うことができなかったと言います。家族・兄弟の思い出の地、花巻。そのランドマークともいえるのが昌歓寺。そこが淳子さんの「こころの風景」になりました。再訪したくとも高齢のため行けないという淳子さんのために、正平さんは花巻城址を出発して秋色に染まった北上盆地を走ります。

この番組は、火野さんが、視聴者の方から寄せられた「ずっと残したいふるさとの風景」に関するお手紙で紹介された場所に行く、というコンセプトで、番組の最初と最後に火野さんがお手紙を朗読なさいます。今回のお手紙がこちら。光太郎と同じ時期に旧太田村に疎開されていた東京在住の方から。光太郎にも触れて下さっています。

 正平さん、おはようございます。番組をいつも楽しみにしています。
 私の心に残る風景は岩手県花巻市太田にある昌歓寺(しょうかんじ)です。
 昭和のはじめの頃、朝鮮半島から日本に移り住んだ両親は東京に居を構え、私たち子供8人をもうけ大家族で暮らしていましたが 戦争が激しくなるとともに家族全員を連れ岩手県花巻市に疎開しました。私が小学生の頃でした。
 戦争が終わった後もしばらく当地にとどまり、私は高校時代までを花巻で育ち過ごしました。
 勝手のわからない土地で8人の子供たちを養うのでさえ大変なのに ましてや戦時中皆が窮乏した時代です、両親の苦労はいかばかりであったことかと思います。
でも、家族思いの両親のもとで兄弟仲良く過ごし、また地元の学校でできた友達たちとも仲良くなり、戦争を避けるための疎開先とはいえ、岩手時代のことは楽しい思い出ばかりです。
その当時の思い出の場所が昌歓寺です。
 私たちが通った太田小学校の近くにあり、友達たちと立ち寄っておしゃべりに花を咲かせたりしました。
また、詩人の高村光太郎さんも当時こちらに疎開されており、高村さんを慕って訪ねてくる多くの学生が昌歓寺を宿にして滞在していました。
 歴史の古いお寺ですが、今で言えば太田のランドマークのような場所であったと言えるかもしれません。
 戦後 世の中も落ち着きを取り戻し、私たちの家族も東京に戻りましたが、私が主人と結婚した年に、両親は隣国でのままならぬ暮らしに終止符を打とうと、朝鮮半島に戻りました。
 必ずしも容易でない時代環境のもとで、その後 両親と存命中に再会することは叶いませんでした。まだ二十代で両親と別れることになった私には、花巻は両親や兄弟との思い出の土地です。
 仲良く温かった家族の思い出、そしてその土地の象徴であるような昌歓寺。
 私はお陰様で子供たちに恵まれ、今年90歳を迎える主人と平穏な日々を送っています。ただ遠出は難しい状況です。
どうか正平さん、私の家族の思い出の土地、花巻市太田と昌歓寺に訪ねていって頂ければ、心から嬉しく思います。
 宜しくお願いします。

花巻市街を出発された火野さん、リンゴ畑やお手紙の主が通われていた太田小学校などを経由し、昌歓寺さんを目指します。

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その後、もう少し足を伸ばせば光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)なのですが、そちらには行かれなかったようで、残念でした。

「第48回 NHK講談大会」ともども再放送を期待しますし、未公開映像の特別編なども時折放映されていますので、そうした中で光太郎ゆかりの地が取り上げられてほしいものです。


さて、「びじゅチューン」、「歴史秘話ヒストリア」、それぞれご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

馴れきれないものは失策する。馴れきれるものは瞞着するのである。

散文「豊島与志雄氏著「猫性語録」」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

猫が持つ肉食獣としての野生の夢想に自己を仮託した、豊島与志雄の随筆集『猫性語録』評から。自身も連作詩「猛獣篇」を書き、荒ぶる野生の魂を自己内部に見いだしていた光太郎、共感を持って同書を捉えています。

今週末は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立っている青森十和田湖に行って参ります。

平成26年(2014)にオープンした、湖畔休屋地区の十和田湖観光交流センターぷらっと内部の、光太郎に関するコーナーがリニューアルされ、そのオープンセレモニーを行うというので、お招きを頂いた次第です。

もの自体は今年の4月から展示されているのですが、生前の光太郎をご存じの青森市ご在住の彫刻家・田村進氏から昨年寄贈された光太郎胸像「冷暖自知 光太郎山居」、それから「乙女の像」制作の際に実際に使われた彫刻用の回転台。こちらは「乙女の像」で光太郎の助手を務めた青森野辺地出身の彫刻家・小坂圭二がもらい受け、さらに小坂の弟子に当たる彫刻家・北村洋文氏の手に渡り、そしてやはり昨年、十和田市に寄贈されたものです。

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とりあえず仮に置いておいたという感じだったのを、説明板等をきちんと制作したりして、正式にお披露目ということのようです。その他にも、日除けを兼ねたタペストリーを窓に提げ、そこに「乙女の像」関係の古写真などをプリントするという件でご相談を受けたりもしました。

日時は10月28日(日)、10:00から。「ぷらっと」のオープンの時がそうでしたが、議員さんとかに集まっていただいての式典なのでしょう。

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式典後、トークセッションということで、田村氏、北村氏共々、お前も何かしゃべれと言われておりまして、「乙女の像」関連で少しお話をさせていただこうと思っております。

さらにその後、「乙女の像」まで行って、記念撮影だそうです。


ところで、十和田湖といえば、先だって、下記書籍が発売されました。

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NHKさんで好評放映中の「ブラタモリ」の書籍化です。既に14巻目だそうで、この巻は「箱根 箱根関所 鹿児島 弘前 十和田湖・奥入瀬」。このうち「十和田湖・奥入瀬」は、昨年9月放映分の内容に準拠しています。オンエアでは「乙女の像」は約2秒間出演(笑)。

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書籍では十和田湖全体の見所紹介的なページに記述がありました。

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ただ、説明は某サイトからのコピペのようで、あちこちでこの文章を見かけますが、少し閉口しています。

まず、「最後の作品」ではなく「最後の大作」。「乙女の像」完成後に、小品ではありますが、昭和28年(1953)「乙女の像」除幕式の際、関係者に配られた、大町桂月肖像をあしらった記念メダルが作られ、これが完成したものとしては光太郎「最後の作品」ですし、昭和29年(1954)から手がけ、未完成に終わりましたが「倉田雲平胸像」も、ある意味「最後の作品」です。

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それから「完成までに1年余りを費やした」。ひな形である小型試作の制作開始が昭和27年(1952)11月17日、七尺の本体原型が完成したのが翌年5月31日。1年かかっていません。さらにいうなら、このペースは光太郎としては異常に速いもので、その裏には自らの健康状態への不安があったと思われます。そこで、逆に「半年ほどで完成させてしまった」と書くべきですね。

その他、よく見かける誤りが、「乙女の像」台座の石が「福島産」であるとの記述。これは、地元の十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の皆さんの地道な調査等により、「岩手産」であることが判明しています。従来、この像を含む周辺一帯の設計をした建築家・谷口吉郎が「福島産の折壁石」とあちこちに書き記してしまったため、福島産と思われてきましたが、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。

追記:ちゃんと「岩手産のミカゲ石」と書かれた制作当時の新聞記事を見付けました。
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除幕直前、昭和28年(1953)11月15日の『毎日新聞』です。

さて、その点はともかく、『ブラタモリ⑭ 箱根 箱根関所 鹿児島 弘前 十和田湖・奥入瀬』二重カルデラとしての十和田湖や、奥入瀬渓流の特異な成り立ちなど、非常に興味深い内容です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

氏の詩は実に美しい。その美は実相の葉末に凝つた露滴のやうに自然に形成された美であつて、手先ばかりの作為が無く、偏局せず、破片でない。いつもまともで、精神の高さから生れてゐる。

散文「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」より
 
昭和7年(1932) 光太郎50歳

宮崎丈二は明治30年(1897)、銚子生まれの詩人です。大正期からさまざまな詩誌の刊行に関わり、それらに光太郎作品を積極的に載せていました。また、やはり光太郎と縁の深い岸田劉生とも交流があり、岸田の興した草土社にも参加するなど、画業でも優れた作品を遺しています。

やはり他者の詩の評ではありますが、詩とは斯くあるべき、という光太郎詩論が垣間見えます。

昨日ご紹介した、東京都荒川区の吉村昭記念文学館さん。平成18年(2006)に亡くなった、荒川区ご出身の作家・吉村昭氏の顕彰施設ですが、氏の奥様、津村節子氏の郷里・福井の福井県ふるさと文学館さんと昨年、「おしどり文学館協定」を締結、このたび、合同企画展が開催されています。小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)で芸術選奨文部大臣賞を受賞され、一昨年には文化功労者にも選ばれた津村さんにスポットをあてたものです。  

おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」

期   日  : 平成30年10月26日(金)~31年1月23日(水)
場   所  : 福井県ふるさと文学館 福井県福井市下馬町51-11 福井県立図書館内
時   間  : [火~金]9:00~19:00  [土・日・祝]9:00~18:00
料   金  : 無料 
休 館 日 : 月曜日(祝日の場合は翌日) 11/22 12/20 12/29~1/3 

 県ふるさと文学館では、文壇のおしどり夫婦といわれた吉村昭氏と本県出身の津村節子氏のそれぞれの出身地に建つご縁に基づき、昨年11月に荒川区立ゆいの森あらかわ吉村昭記念文学館と全国初の「おしどり文学館協定」を締結しました。
 1周年を記念し、福井県と荒川区において、合同企画展と記念講演会をそれぞれ行います。
 

関連イベント

記念講演会「津村・吉村文学の魅力」
 日 時:平成30年10月28日(日)14:00~15:30
 会 場:福井県立図書館多目的ホール
 講 師:出久根達郎氏(直木賞作家)
 定 員:150名(申込順、参加無料)
 申 込:電話、FAX、メールにて、または直接ふるさと文学館窓口
      TEL:0776-33-8866 FAX:0776-33-8861
      E-mail:
bungakukan@pref.fukui.lg.jp
 その他:手話通訳、音声の文字表示を行います。

津村節子氏撮り下ろしインタビュー特別上映会
 表 題:「津村節子氏人生を語る~これまでの歩み そして明日への思い~」
 日 時:平成30年10月26日(金)~10月28日(日) 
     各日10:00~、13:00~、15:30~(約20分)
 会 場:福井県ふるさと文学館 映像ルーム
 定 員:各回40名(当日受付、参加無料)

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ところで、「おしどり文学館」ということであれば、花巻高村光太郎記念館さんと、二本松市智恵子記念館さんも、そのような協定を結べば、それで一つの宣伝にもなりますし、展示の共同開催、資料の相互貸借などなど、いろいろ便利だと思うのですが、どうも行政がからむと、そうした部分、腰が重いのが現状です。

閑話休題、福井展、お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩とは決して別の世界があつて、その世界に我々を誘ひ出すものでなく、事実の中の事実が正しい言葉に具体された時、それが即ち詩なのだといふ確信を終に失ひ得ない自分は、此等の諸篇の中に立派な詩を見出して喜ぶ。

散文「更科源蔵詩集「種薯」感想」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

北海道弟子屈で開拓にあたりながら詩を書いた更科源蔵の詩集への讃辞です。

他者への評でありながら、光太郎詩論が端的に語られています。

第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が開催中の荒川区ゆいの森あらかわ内の吉村昭記念文学館さんで、それとは別個の展示が始まっています。  

おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子展 生きること、書くこと」

期   日  : 平成30年10月20日(土曜)~12月19日(水曜)
場   所  : 吉村昭記念文学館 東京都荒川区荒川二丁目50番1号 ゆいの森あらかわ内
時   間  : 午前9時30分から午後8時30分まで
料   金  : 無料 
休 館 日 : 11月15日(木) 12月7日(金)

平成29年11月5日に、吉村昭記念文学館と福井県ふるさと文学館はおしどり文学館協定を締結しました。荒川区出身の作家、吉村昭氏と、妻で福井県出身の作家、津村節子氏の「おしどり夫婦」になぞらえ、両館が協力して相互に魅力を高めていくため、締結したものです。協定の締結1周年を記念して、福井県と合同で企画展を開催します。

昭和40年に「玩具」で芥川賞を受賞して以来、力強く生きる女性の姿を書き続けてきた作家、津村節子。今年で90歳を迎え、現在も精力的に執筆活動を行う津村氏の約60年に及ぶ創作活動を、自筆原稿や取材メモ、愛用品などを通して紹介します。

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関連イベント

◆記念講演会「果てなき往復書簡―一編集者から見た吉村昭・津村節子」
 日程:11月4日(日曜)14時~16時(開場は13時30分)
 講師:山口昭男氏(岩波書店前代表取締役社長)
 参加費:無料   定員:100名※申込順   会場:ゆいの森あらかわ1階ゆいの森ホール

◆朗読会「智恵子飛ぶ」
 日程:11月23日(金曜・祝)14時~15時30分(開場は13時30分)
 出演:竹下景子氏(俳優)
 参加費:無料   会場:ゆいの森あらかわ1階ゆいの森ホール
 定員:100名(応募多数の場合は抽選。11月4日(日曜)までにお申込下さい。当選者のみ、11月17日(土曜)までに葉書でお知らせします。)

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◆文学館学芸員による展示解説
 日 時  :11月3日(土曜)15時~ 15時30分  12月5日(水曜)15時~15時30分
参加費:無料  定 員  : 15名※申込順   会 場  :ゆいの森あらかわ3階企画展示室

イベント申込方法
ゆいの森あらかわホームページ(イベント予約)、ゆいの森あらかわ1階総合カウンター、FAX(03-3802-4350)でお申込み下さい。
イベント名(展示解説の場合は、参加希望日)・参加者の氏名(2人まで)・代表者の住所と電話番号を、ゆいの森あらかわへ。

なんとまあ、竹下景子さんが、津村さんの代表作の一つである『智恵子飛ぶ』から朗読をなさるそうです。



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上記会場は、荒川区の吉村昭記念文学館さん。平成18年(2006)に亡くなった、荒川区ご出身の作家・吉村昭氏の顕彰施設です。亡くなる直前、吉村氏は、区の財政負担を考慮し、単独の文学館ではなく図書館等の施設と併設することを条件に文学館の設置を承諾なさったということで、ゆいの森あらかわさんの中にオープンしました。

そして奥様の津村節子さんの出身地・福井の福井県ふるさと文学館さん。おしどり夫婦それぞれゆかりの文学館ということで、昨年、「おしどり文学館協定」を締結、展示の共同開催、資料の相互貸借を行うそうで、今回もその一環です。

荒川区・福井県合同企画展ということで、もう一方の福井県ふるさと文学館さんでも「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されます。明日はそちらをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

此の北地に闘つてゐる人のまぎれのない声は、どんなジヤスチフイケイシヨンがあらうとも結局まだ中途に立つてゐる私などの腹わたに強くこたへる。私は其をまともに受ける。かういふ強さは、ひねくれた強さでないから、痛打を受ける事が既に身になる。

散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

猪狩満直は、福島いわき出身の詩人。同郷の草野心平の詩誌『銅鑼』同人でした。『移住民』は、前年に北海道阿寒に移っての開墾生活を題材としています。

明治末に、やはり北海道移住を志した光太郎。あまりの無計画で、ひと月ですごすご逃げ帰りました。そうした負い目が読み取れますね。

昨日は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さんの開館60周年記念行事にお招きいただき、信州安曇野に行っておりました。

記念行事は、近くの穂高神社さんで開催されましたが、その前に同館に参りまして、展示を拝見。「開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」というタイトルでの展示となっています。

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光太郎彫刻作品も7点、並んでいました。

そちらを拝見後、穂高神社さんへ。

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参拝後、境内の一角にある参集殿という施設に。こちらで記念行事が開催されました。

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まずは建築家の藤森照信氏による記念講演「碌山美術館の建築と建築家について」。非常に興味深い内容でした。

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当方、寡聞にして存じませんでしたが、碌山美術館さんの本館(碌山館)は、スペイン・バルセロナのサグラダファミリアで有名なガウディを日本に紹介した、今井兼次という建築家の設計だそうで、様式的にはロマネスク様式建築の範疇に入るとのこと。

ギリシャ建築を範とする重厚で権威的な石造りの古典主義建築に対し、教会などに多用されたバロック様式、さらにそれより古い様式がロマネスク建築。11~12世紀頃にやはり教会などを造る際に流行った様式で、手作り感溢れる素朴なスタイルです。当時の農民が、畑から出てきた石などを持ち寄り、手作業で積んだとのこと。

碌山館は石ではなく焼過煉瓦ですが、中世ヨーロッパと同様に、隣接する穂高中学校の生徒などが煉瓦を積む作業を手伝ったりしたそうで、教会風の外観といい、まさにロマネスクの精神を顕現した建物と言えるそうです。

講演の後は、同じ会場で記念祝賀会。

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同館代表理事にして、元館長の所賛太氏のごあいさつ、現荻原家ご当主の荻原義重氏をはじめ、来賓の方々の祝辞。

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アトラクションとして、松本ご在住の桂聰子さんによるフルート演奏。

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その後、乾杯、そして祝宴。美味しい料理を頂きました。

最後は、万歳三唱。

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今でこそ、個人美術館は当たり前のように全国に存在しますが、同館の開館当時はその嚆矢といえるものだったわけで、しかも、以来60年間、安曇野地域の文化推進に果たしてきた役割も非常に大きかったことと思われます。

同館建設に骨折った、彫刻家の笹村草家人、石井鶴三らは、晩年の光太郎に何かと相談を持ちかけ、光太郎も同館開館を心待ちにしていましたが、その日を待つことなく他界。生前の光太郎が同館を訪れることができたら、さぞや喜んだだろう、などと思いました。

祝賀会参加の引き出物的に、またまた書籍を頂いてしまいました。『荻原守衛日記・論説集』。題名の通り、現存する守衛の日記と、雑誌等に発表した美術評論などの集成です。

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A4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。

ただ、守衛帰国後の日記は相馬黒光によって守衛没後に焼かれてしまって現存しませんし、留学中の日記もすべてが残っているわけではなく、残念ながら日記の部分には光太郎は登場しません。しかし、索引を見た限りでは「論説」の部分に、光太郎、そして光雲の名が頻出しているようで、この後、熟読いたします。


今後とも、同館が末永く愛され続けることを願ってやみません。紅葉も美しい季節、皆様も是非足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ブラボオ! と叫びたい事がある。最近、長沼重隆訳ホヰツトマンの「草の葉」の出来た事だ。
散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」より
 昭和4年(1929) 光太郎47歳

ホヰツトマン」は、光太郎が私淑した19世紀アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン。光太郎はホイットマンの日記を翻訳し、『白樺』などに寄稿した他、『自選日記』(大正10年=1921)として刊行もしました。

草の葉」は1855年に刊行されたホイットマンの代表作で、それまでに富田砕花、有島武郎らによって断片的に翻訳されていましたが、あくまで断片的なものでしかありませんでした。それが、英文学者・長沼重隆により、ほぼ完全な訳が行われたことを、光太郎は「ブラボオ!」と言っているわけです。これを機に長沼と光太郎は交流を持つことになったようです。

ちなみに当方、上記『荻原守衛日記・論説集』の刊行に「ブラボオ!」と叫びたくなりました。病のため任期半ばで退任なさった前碌山美術館長・五十嵐久雄氏のご功績大なりと承り、昨日、車椅子ながら祝賀会にご参加の五十嵐氏に久々にお目に掛かることもでき、望外の喜びでした。

昨日は、都内2ヶ所を廻っておりました。

まず、日暮里の太平洋美術会研究所さん。明治40年(1907)からのおそらく数年間、智恵子が通った太平洋画会の後身です(智恵子が通っていた頃と、場所は変わっていますが)。

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こちらで、智恵子の名も載った昔の名簿的なものが出てきたというので、拝見させていただこうと、参上した次第です。隣接する第一日暮里小学校さんでの特別授業などで知遇を得ていた、同会の松本氏が対応して下さいました。

こちらがその名簿。昭和に入ってから書かれたものでした。

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智恵子の名は、昭和7年(1932)の「第二回卒業者」という中にありました。「千恵子」と誤記されていましたが、「高村光太郎夫人」と薄く書き込みがしてありました。さらに「明治三十八年通学」「こゝに記載」「卒業者とする」などの書き込みも。何をもって同会の卒業という扱いにしたのか、なぜ昭和7年の項に名前があるのかなど、詳しいことは不明とのことでした。

ちなみに智恵子が同会に通い始めたのは日本女子大学校を卒業した明治40年(1907)とされています。明治38年(1905)は、まだ女子大学校に在学中でした。しかし、もしかすると、在学中に松井昇などの手引きで、同会に通い始めたことも考えられなくはないな、と思いました。ただ、名簿が書かれたのが昭和に入ってからなので、智恵子が通っていたのはその時点で20年以上前。関係者の記憶や記録があやふやだったための誤記とも考えられます。

当方がお伺いするということで、松本氏、光太郎に関する資料も引っ張り出していて下さいました。明治から大正にかけての雑誌『秀才文壇』。国会図書館さんには所蔵がなく、駒場の日本近代文学館さん、横浜の神奈川近代文学館さんでは、とびとびにしか所蔵されていないため、光太郎が寄稿しているはずの号がこれまで未見でした。

以前に、当会顧問・北川太一先生から、「光太郎にこういう文筆作品があるはずだから見つけるように」と渡されたリストに、『秀才文壇』に掲載されたはず、というもののタイトルが複数記されていました。しかし、これまで折に触れて捜していましたが、見つからないでいたものです。

その『秀才文壇』がドンと出てきたので、驚愕しました。なんとまあ、編集長の野口安治が、松本氏の御曾祖父にあたられるそうで、こちらに所蔵されているとのこと。

そして、ありました!

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ロダンの秘書だった、ジュディト・クラデルが書き、光太郎が訳した「ロダンといふ人」。明治43年(1910)の『秀才文壇』に3回にわたって掲載されたのですが、筑摩書房『高村光太郎全集』刊行時点では、そのうちの第3回のみしか見つけられず、第1回、第2回が漏れています。それがあったので、驚愕した次第です。

また、野口に宛てたと推定される、大正6年(1917)の年賀状も紹介されていました。「賀正」一言の簡素なものでしたが、これも『高村光太郎全集』に未収のものでした。

他にも色々ありそうなので、自宅兼事務所に帰って早速調べた内容と、さらなる調査を依頼する文言を書いて、松本氏に手紙を書きました。今後に期待しております。


そんなこんなで太平洋美術会研究所さんを後にし、次なる目的地、谷中の台東区立朝倉彫塑館さんへ。先月から特別展「彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学」が始まっています。

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こちらでは、こちら001の所蔵の、光太郎ブロンズ彫刻代表作「手」が展示されています。3点しか確認できていない、大正期の鋳造、さらに台座の木彫部分も光太郎の手になる物の一つです。

同館では他館の様々な企画展等に貸し出していて、他の場所で何度も見た作品ですが、こちらで見るのは初めてでした。また、以前に伺ったときにはなかった新商品ということで、「手」のポストカード(100円)が販売されていまして、思わず10枚も買ってしまいました(笑)。

その他、光太郎とも交流のあった大工道具鍛冶・千代鶴是秀の手になる刃物類などがたくさん並んでおり、興味深く拝見しました。「用の美」がにじみ出ている実用的なものもそうですし、遊び心溢れる非実用的な魚の形のものなど、そのどれもこれもですが、特に切り出し刀は「切れる」というのが見ただけで分かります。朝倉や、光雲弟子筋の平櫛田中などが惚れ込んだというのもうなずけました。

こちらは12月24日(月)までの長い会期となっています。ぜひ足をお運びください。

今日はこの後、信州安曇野碌山美術館さんでの開館60周年の記念行事に行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

「故郷図絵集」をよんで其の中にある一脈の「荒さ」に強く心をひかれました。この荒さといふ事に就ては或は自己流の説明を要するかも知れませんが、とにかくオリヂナルのものに必ず潜む「あらたへ」の感じです。芭蕉が持つてゐて其の弟子達に少いものです。荒々しい文字に必ずしもあると言へないところのもの、オリヂナルならざるものには絶無の或る感じです。

散文「所感の一端――室生犀星詩集「故郷図絵集」――」より
昭和2年(1927) 光太郎45歳

「故郷図絵集」は、この年刊行された室生犀星の詩集。「あらたへ」は、織り目の粗い粗末な織物のことです。

秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館さんを経由して、詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣さんから書籍を頂きました。

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題して『澤田伊四郎 造本一路』。故・002澤田伊四郎氏は龍星閣さん創業者です。昨年には光太郎からの書簡類などが、郷里の秋田県小坂町に寄贈されています。また、竹久夢二関連は千代田区に寄贈、今年、東京ステーションギャラリーさんで公開され、話題を呼びました。

その辺りに伴う記念出版ということで、どうも非売品のようです。定価等の記載もありません。添え状によれば、主に秋田県内の図書館等に寄贈されたようです。

カラー印刷の堅牢な函に収められ、本体は『智恵子抄』戦後新版(昭和26年=1951)を思わせる赤布貼。豪勢な作りです。本文272頁、ちょっとした厚冊です。

目次的には以下の通り。

 本の芸術家
 澤田伊四郎の略年譜と著作・刊行物など
 澤田伊四郎写真抄
 終わりに
 付 龍星閣刊行書目録

このうち「澤田伊四郎の略年譜と著作・刊行物など」が全体の約9割を占め、龍星閣さん創業前の大正7年(1918)から、澤田氏の没後、『智恵子抄』五十年記念愛蔵版が刊行された平成3年(1991)までの、澤田氏と龍星閣のあゆみがまとめられています。

ほぼほぼ個人経営であった龍星閣さん、社主のあゆみがおおむね社史でもある、という感じです。

単なる年表にとどまらず、合間合間に重要事項の解説や、各種メディアからの引用文などが挟み込まれ、興味深く拝読いたしました。

それについて言及する立場にないので、詳細は割愛しますが、光太郎没後に「智恵子抄裁判」というのがあり、龍星閣さんにとっては不本意な結果に終わっています。しかし、澤田伊四郎という人物がいなければ、『智恵子抄』が世に送り出されることはなく、おそらく光太郎の名も今ほど人口に膾炙していないでしょう。

そうしたもろもろも含め、この場を使いましてあらためて謝意を表します。


【折々のことば・光太郎】

Hon ni kore hodo natsukasimi no ayu, Tama no yô ni reiro to shita shikisai to Shinkei no utsukushiku mattaki shijinn no Iki to tansoku towo kiita kotowa arimasen. Jimen no naka kara deta mono no yô ni Precieuse na hikari ga arimasu ne.

散文「尺牘」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

題名の「尺牘」は「せきとく」と読み、「手紙」の意。北原白秋に宛てた、『思ひ出』献呈への謝辞です。雑誌『朱欒(ザムボア)』に発表されました。

なぜかローマ字で書かれていますが、無理くり書き下してみます。

ほんに此程懐みのある、珠のやうに玲瓏とした色彩と神経の美しく全き詩人の意気(息?)と嘆息とを聞いた事は有りません。地面の中から出た物のやうにPrecieuseな光が有りますね。

Precieuse」はおそらく仏語の「Précieuses 」で、「貴重な」の意です。

智恵子関連新聞記事等、4件ご紹介します。

まず先週の『神戸新聞』さんの一面コラム。 

正平調 2018/10/08

湊川神社西側の坂を上ると神戸文化ホールの大壁画が目に入る。印象的な青いアジサイ。このモザイク画は高村智恵子の紙絵から制作された。ホールの完成は1973年だから、半世紀近く市民に親しまれている◆智恵子の名は、彫刻家・詩人である夫高村光太郎の愛に満ちた詩集「智恵子抄(ちえこしょう)」で知られるが、明治時代に洋画を学んだ先進的な女性だった◆精神を病んで、病床で紙絵を作り続けた智恵子は38年10月に52歳で没した。それから80年を迎える今年、郷里の福島県二本松市では智恵子抄の朗読大会などが開かれるという◆ホールのモザイク画の下には小さな石碑がある。光太郎の詩「晩餐(ばんさん)」の一節を刻む。〈われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ〉。光太郎と親交のあった詩人草野心平が書いた◆アジサイの元絵を収める画集「智恵子紙絵」を開けば、花や果物、動物などを題材にした繊細な作品が次々と現れる。これをホールの壁に選んだセンスに、今更ながら敬服する◆紙絵は智恵子の詩であり叙情であったと、光太郎は記す。「私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない」。ホールは三宮への移転が計画されている。その後も、この壁画が残ってくれればいいのだが。

神戸文化ホールさん、20年ほど前に、現地に行って観て参りました。

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原画はこちら。

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どういう経緯で智恵子の紙絵が神戸の地に採用されたのか寡聞にして存じませんが、こんな感じで智恵子作品が使われているのは全国でここだけです。

壁画の下には、記事にもある、当会の祖・草野心平揮毫の碑。

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壁画ともども、残していただきたいものです。


続いて、やはり先週、10日付の『朝日新聞』さん。投書欄の一角にある、風刺の効いた一言で笑いを誘う短文投稿欄的なコーナーです。 

かたえくぼ 羽田新ルート001


東京には日本の空がない  ――高村智恵子  (亘理・光太郎)




背景の解説的な、『東京新聞』さんの記事がこちら。 

<すぐそこに米軍 首都圏基地問題>横田空域の返還求めず 羽田新ルートで政府

 東京都心上空を初めて通る羽田空港(東京都大田区)の新飛行ルートが在日米軍が管制権をもつ横田空域を一時的に通過する問題で、日本政府が通過空域の返還を求めない方針であることが、国土交通、外務両省や米軍への取材で分かった。日米は管制業務の分担について協議を続けている。(皆川剛)
 新飛行ルートは二〇二〇年の東京五輪・パラリンピックに向け、羽田空港の国際線の発着枠を増やすために導入される。東京湾の上を通って離着陸するこれまでの原則を変え、都心上空を通過することになる。その際、横田空域の東端をかすめることになり、国交省と米軍の実務者間で対応を協議してきた。
 現在、羽田を利用する民間機は横田空域を避けて航行しており、新ルートに合わせて〇八年以来となる空域返還の可能性も取り沙汰された。しかし、国交省管制課と外務省日米地位協定室は本紙取材に、「横田空域の削減(返還)は求めない」との見解を示した。
 国交省の担当者は「〇八年の削減で当面の航空需要には対応できており、これ以上の削減を求めるのは米軍の運用上も難しい」と説明した。
 在日米軍司令部も「横田空域のいかなる部分に関しても、永久的な返還の実質的な交渉は行っていない」と文書で回答した。
 横田空域を維持したまま新飛行ルートを運用すれば、着陸間際の航空機の通る空域が羽田、横田、羽田と変わる。短時間の間にパイロットが交信先を二度変えねばならず、安全性の面からも懸念が大きい。国交省は、横田空域を通過する際も日本側が管制を一元的に担当する案も含めて米軍と協議するとしている。
 <横田空域> 東京から静岡や新潟まで1都8県にまたがり、高度約2400~7000メートルの階段状に広がる。域内にある厚木や入間などの基地を離着陸する米軍機や自衛隊機の管制を、横田基地の米軍人が行っている。民間機も飛行計画を提出すれば通れるが、現在、羽田空港の定期便の航空路は通っていない。

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こちらも寡聞にして存じませんでしたが、東京はじめ1都8県の空域は、ほぼ米軍の管理下にある実情だそうで。結局、アメリカのポチなんですね(笑)。


お次は『福島民友』さん。今週月曜の記事です。 

「智恵子の居室」特別公開 二本松の生家、初日から大勢の観光客

002 二本松市智恵子の生家・記念館自主事業として二本松市にある智恵子の生家2階の特別公開が13日、始まった。11月25日までの土、日曜日と祝日に公開される。
 生家の2階は通常公開されず、市内で繰り広げられている重陽の芸術祭の一環で「智恵子の居室」として披露された。
 初日から観光客らが大勢訪れ、興味深げに部屋の中を見て回っていた。時間は午前9時~正午と午後1時~同4時。
 切り絵アーティストの福井利佐さんの作品展も13日、智恵子の生家で始まった。同展は重陽の芸術祭プログラムの一つで、11月25日まで開かれている。智恵子の生家内の至る所に作品が飾られ、来場者を楽しませている。

福島ビエンナーレ」の一環としての取り組みです。昨年の様子はこちら。今年は切り絵作家の福井利佐さんによるインスタレーションが行われており、当方、来週末に行って参ります。福井さんのブログに展示風景がアップされています。


最後に一昨日の『福島民報』さん。 

飲食業者が全国大会 35都道府県1000人、復興応援

 全国社交飲食業代表者福島大会は十五日、福島市のとうほう・みんなの文化センター(福島県文化センター)で開かれた。席上、厚生労働省医薬・生活衛生局長表彰の太田和彦氏(郡山市、味の串天)、全国生活衛生同業組合中央会理事長感謝状の高野豊氏(会津若松市、ゑびす亭)、全国社交飲食業生活衛生同業組合連合会会長表彰の鴫原岩男氏(二本松市、クラブキーボード)らをたたえた。
  全国社交飲食業生活衛生同業組合連合会の主催、県社交飲食業生活衛生同業組合の主管。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故からの復興を応援しようと「ほんとの空・みんなの笑顔・よみがえる福島」を大会テーマに三十五都道府県から約千人が参加した。
  実行委員長の鈴木悦朗県社交飲食業生活衛生同業組合専務理事(福島市、轟座)ら都道府県ごとに組合旗を掲げて入場した。大会委員長の佐藤吉昭県社交飲食業生活衛生同業組合理事長(福島市、談妃留)が震災と原発事故後の全国からの支援に感謝を伝え「福島の魅力を味わってほしい」と歓迎した。畠利行副知事、木幡浩福島市長が祝辞を述べた。
  組合活性化のための人材育成に努め、組織の強化拡大などを盛り込んだ大会宣言を採択した。
  太田氏、高野氏、鴫原氏以外の県内受賞者は次の通り。
  ▽全国生活衛生同業組合中央会理事長感謝状=高橋光子(福島市、フラワーロード)伊藤小百合(須賀川市、スナック鶴つう)
  ▽全国社交飲食業生活衛生同業組合連合会会長表彰=中島隆(伊達市、FineBar Sora)

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語、福島の復興の合い言葉として、広く一人歩きしている感があります。もっともっと広まってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

芸術品としての価値について今更贅語を費すのは、雪を冷たいと説明するやうな愚に近いのを感ずる。

散文「北原白秋の「思ひ出」」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

この年刊行された白秋の詩集『思ひ出』を評する文章の一節です。現代に於いても、「雪は冷たい」式のエラいセンセイ方の「評論」がまかり通っていますね(笑)。

埼玉から、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の企画展示情報です。 

高田博厚展2018

期 日 : 2018年10月25日(木曜日)~2018年11月18日(日曜日)
会 場 : 東松山市総合会館1階多目的室 東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 9:00~17:00
料 金 : 無料

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高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚の企画展を開催します。
この企画展で展示する作品の多くは、高田博厚のご遺族の方から寄贈いただいた品です。高田博厚のご遺族より寄贈いただいた彫刻作品のほか、デッサンや絵画、フランスから持ち帰った書籍等を展示します。


彫刻作品
〇アラン〇マハトマ・ガンジー〇マルセル・マルチネ 〇ロマン・ロラン 〇ジョルジュルオー〇川端康成 〇中原中也 など

デッサン
〇アラン〇マハトマ・ガンジー〇ロマン・ロラン 〇ジャン・コクトー 〇ジョルジュ・ルオーなど

書籍等
アラン『芸術論』
他に高田博厚と著名人との往復書簡の写しなど

その他
高田博厚と交流のあった高村光太郎や田口弘についての展示や、高田博厚のフランス時代のアトリエを引き継いだ野見山暁治氏の展示なども行います。
 

関連行事 特別講演会 野見山暁治/堀江敏幸

日時 2018年11月11日(日)13:00~15:00  会場 東松山市総合会館4階多目的ホール

「高田博厚展 2018」の開催に伴い、1957年に高田のパリ郊外のアトリエを受け継いだ洋画家・野見山暁治氏と、小説家でフランス文学者の堀江敏幸氏の対談を行います。国内外の著名な思想家や芸術家から厚い信頼を得た彫刻家、高田博厚とはどんな人物だったのか、その人柄や生前のエピソードをぜひお聞き下さい。

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過日、光太郎の縁者の山端氏が経営な001さっている北鎌倉の笛ギャラリーさんで開催中の「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」を拝見に伺いましたところ、光太郎から高田に贈られた書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)が展示されていました。たまたま山端氏が古書店から入手されたとのことでした。

で、「こんなものが展示されていますよ」ということを、東松山市の担当者の方にお教えしたところ、非常に興味を持たれ、北鎌倉まで行かれて借用、展示されるとのことです。

高田は昭和6年(1931)に渡仏しましたが、それ以前に持っていたほとんどの品々は散逸してしまったらしく、これもその一つです。

他にも光太郎関連のものが展示されるようで、当方、関連行事の講演の日に拝見に行って参ります。ちなみに講演の講師のお一人、芥川賞作家でもあられる堀江敏幸氏は、角田光代さんとのご共著『私的読食録』(平成27年=2015)の中で、光太郎詩集にも触れて下さっています。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

元来、人はアクの強い四十代前後の中年には、よい顔は少ないとされているものである。しかし、恋愛に耽る頃の青年時代は皆美しいと言われ、また、年老いてからはどことなく風格が出てくるものだともいわれている。

談話筆記「志賀さんの顔」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「志賀さん」は、光太郎と同年齢の志賀直哉。その風貌について、同じ談話では「志賀さんは稀に見る中年の男の美をたたえた人であつた」としています。

しかし現今は、年老いてからもアクの抜けない、否、いっそう毒々しくなる妖怪のような顔が、特に永田町界隈に多く見受けられますね(笑)。

光太郎以上に肖像彫刻を多く手がけた高田博厚は、どういう意見だったでしょうか。

全日本合唱連盟さん主催の平成30年度(第71回)全日本合唱コンクール。今月末に中学校・高等学校部門(会場・長野県県民文化会館)、来月末には大学職場一般部門(同・札幌コンサートホールkitara)が開催されます。

このうち、中学校・高等学校部門の全出場校と001演奏曲目が発表されました。楽譜販売を手がけるパナムジカさんのサイトです。

それによりますと、高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場する九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが、光太郎作詞、西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」から、「レモン哀歌」を自由曲として演奏なさいます。他の学校さんでも光太郎作詞の曲を取り上げて下さっているかと期待しておりましたが、残念ながら鹿児島高校さんだけでした。

鹿児島高校さんに関しては、コンクールの主催者である『朝日新聞』さんで記事になっています。

まず、鹿児島版、先月8日の記事から。 

鹿児島)鹿児島・松陽が全国へ 九州合唱コン高校の部

 宮崎市で7日にあった九州合唱コンクールの高校の部に県内からは3団体が出場。鹿児島、松陽が金賞に輝き、いずれも全国大会への出場権を得た。鹿児島女子は銀賞だった。 高村光太郎が作詩した「レモン哀歌」を自由曲に選んだ鹿児島は、大所帯ながら一体感のある歌声をホール内に響かせた。部長の高岡未侑さん(3年)は「今まで練習してきたことを出せて楽しかった。やりきりました」とほほえみながら話した。(以下略)

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さらに今月12日には、コンクール全体を特集する全国版の記事でも紹介されました。 

歌う喜びのせて 第71回全日本合唱コンクール全国大会

 第71回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)は、中学校・高校部門が27、28日に長野市のホクト文化ホールであり、その様子が全国31カ所で同時中継されます。また大学職場一般部門は11月24、25日に札幌市の札幌コンサートホールKitaraで開かれます。今回、全国の切符をつかんだ約120団体の中から、4団体の意気込みを紹介します。

■高校B 鹿児島高 互いに信頼「一唱懸鳴」
 合言葉は「天歌統一」「一唱懸鳴」。一人一人の声を一つに合わせて響かせ、頂点を目指す。全国大会出場は実に23年ぶり。顧問の片倉淳教諭(54)は、その原動力について「生徒たちの自主性と信頼関係の深さ」と話す。
 練習スケジュールなどは3年生が中心になり計画。自ら決めた日程やルールを守ることで、自主的に取り組む姿勢と責任感が育まれた。また、音程の悪さなど気づいた点を部員同士が自由に指摘し合う。互いへの信頼に支えられている。
 自由曲は、詩人で彫刻家の高村光太郎の詩に曲がついた「レモン哀歌」。光太郎の智恵子への思いを新鮮なレモンのようにみずみずしく描く。部長の高岡未侑さん(3年)は、「歌いたいのはふたりの悲哀ではなく生の喜び。智恵子を失った悲しみの深さを、確かに生きた喜びで表現したい」と話す。(町田正聡)
 
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西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」は、平成20年(2008)、大阪のいずみホールで開催された関西合唱団創立60周年記念・第73回定期演奏会で委嘱初演され、翌年には全音楽譜出版社さんから刊行されました。

「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」「レモン哀歌」の全3曲で、鹿児島高校さんが演奏する終曲「レモン哀歌」は7分にもなる大作です。楽譜冒頭に西村氏による「新鮮なレモンのようにみずみずしく、すっぱく清らかにそして哀切に、ノスタルジックに」という指示が書き込まれています。鹿児島高校さんには、その指示が実現できる演奏を期待します。

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大会日程等は以下の通り。 

2018年度 第71回全日本合唱コンクール全国大会 中学校・高等学校部門

期 日 : 2018年10月27日(土)・28日(日)
会 場 : ホクト文化ホール(長野県県民文化会館)大ホール 長野市若里1丁目1-3
時 間 : 27日(土) 9:45開演(予定)  ◇高等学校部門 A・Bグループ
      28日(日) 9:45開演(予定)  ◇中学校部門 混声合唱の部・同声合唱の部
料 金 : 一般者用入場券 1日 3,600円


さらに今年から、全国各地のイオンシネマさんで、パブリックビューイングが行われるとのこと。会場は北海道、岩手、宮城、福島、群馬、埼玉、千葉、神奈川、東京、長野、愛知、三重、石川、京都、大阪、兵庫、岡山、山口、徳島、香川、愛媛、福岡、熊本の23都道府県の計31カ所。中学校・高校部門とも演奏順に五つの時間帯に分け、各映画館の地元校が出場する時間帯を中心に上映するそうです。

ちなみに、曲目は光太郎智恵子に関わりありませんが、智恵子の故郷・福島二本松の市立二本松第一中学校合唱部さんが、中学校部門 同声合唱の部に出場なさいます。
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このコンクールで、光太郎詩に曲を付けた合唱曲が演奏されるのは、平成27年(2015)以来です。今年に関しては、大学職場一般部門の演奏曲がまだ発表されていませんが、どこかの合唱団さんで取り上げて下さっていることを祈ります。また、来年以降も、ですね。


【折々のことば・光太郎】

埴輪はどれを見ても一律であるが、どれを見ても新鮮で深みのあるものである。単純だから深みがあるのである。武者さんの人間的な美も丁度これに似て、一律さが覗かせる新鮮と深淵の美しさなのである。

談話筆記「埴輪の美と武者小路氏」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

遠く明治末、共に雑誌『白樺』に依り、その後も断続的に彼の主宰する雑誌に寄稿を続けた武者小路実篤への讃辞です。日本古来の美を表象する埴輪との類似点を見いだしています。

各地の公立図書館さん等での講座です。 

文学講座「近代詩歌の名作に親しむ秋」

期 日 : 2018年10月21日(日)
場 所 : 豊中市庄内公民館 大阪府豊中市三和町3丁目2番1号
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 無料
講 師 : 川内通生さん  (近代文学研究家)

近代を代表する詩人、石川啄木、宮沢賢治、高村光太郎について、一日ずつ、それぞれの作品を紐解きながら、その時代背景や考えかたを学んでみませんか。関連資料の紹介もあります。

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10月レコード鑑賞会 秋を感じる名曲集

期 日 : 2018年10月24日(水)
場 所 : コミュニティーCafé ぶんぶん 三重県亀山市東御幸町63 亀山市文化会館
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 500円(喫茶代)

故・加藤剛朗読による智恵抄、収穫の歌、小さい秋見つけた 他
※諸般の事情により、急遽曲目が変わる場合もあります

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朗読・朗読講座(大人のためのお話し会)

期 日 : 2018年10月27日(土)
場 所 : 三郷市立北部図書館  埼玉県三郷市彦成3丁目364番地
時 間 : 午後2時~3時30分頃まで 
料 金 : 無料

「奥の細道 立石寺(りっしゃくじ)~象潟(きさがた)」(松尾芭蕉作)の一部抜粋朗読とミニ解説
「道程」高村光太郎作 朗読講座 皆さんと一緒に朗読します。    
対象:16歳以上のかた 持ち物:筆記用具

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それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彼のやうな人にはめつたに会はない。この白皙の貴公子は巴里に生れればよかつた。このやうな詩人をあれだけで死なしめた日本の貧しさ、あはれさを思ひ、憮然とする。

散文「尾形亀之助を思ふ」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

尾形亀之助は、草野心平の『歴程』同人の詩人。明治33年(1900)、宮城県の素封家の家に生まれました。定職を持たず、実家からの仕送りで生活していましたが、実家の没落後は貧窮に陥り、昭和17年(1942)、衰弱死しています。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館として、昭和33年(1958)に開館し、今年、60周年を迎えました。

そこで、記念行事のご案内をいただいております。

まずは記念講演会。 

碌山美術館の建築と建築家について

期 日 : 2018年10月20日(土)
場 所 : 穂高神社参集殿 長野県安曇野市穂高6079
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 無料
講 師 : 藤森照信(建築史家・建築家)

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その後、同じ会場で60周年記念祝賀会に突入します。こちらは参加費5,000円だそうで。

同館の開館には、最晩年の光太郎も多大な関心を寄せ、協力を惜しみませんでした。残念ながら開館前に光太郎の生命の火は燃え尽きてしまいましたが、その功績を讃え、本館である煉瓦造りの碌山館入口のプレートには、光太郎の名も刻まれています。

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また、同館に隣接する穂高東中学校さんに立つ守衛のブロンズ彫刻「坑夫」の題字は光太郎が揮毫し、光太郎が亡くなる前年(昭和30年=1955)に除幕されました。

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その縁の深い同館の60周年記念式典ですので、行かざあなるめいというわけで、参上します。光太郎の代参のつもりで行って参ります。

ちなみに現在開催中の企画展は、こちら。 

開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-

期 日 : 2018年9月22日(土)~11月4日(日) 会期中無休
場 所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : AM9:00~PM5:10 (11月はAM9:00~PM4:10)
料 金 : 大人 700(600)円  高校生 300(250)円  小中学生 150(100)円
       ( )内は、20人以上の団体料金

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このたび碌山美術館では開館60周年記念企画、「荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」を開催致します。春季、夏季に続く本展は、荻原守衛(碌山)の系譜に連なる彫刻家と造形の展開を紹介するものです。
荻原はパリを立つ際に、師と仰いだロダンから「自然を師とせよ」という言葉を受け取ります。自然への観照、「真実」の追求によって荻原は生命感あふれる作品を示し、若い芸術家たちの心を捉えました。戸張孤雁は、荻原亡きあとの粘土を貰い受け彫刻家となり、当時画家を志していた中原悌二郎も、彫刻家へと歩みを進めます。戸張と中原が活躍する日本美術院彫刻部には荻原の「生命の芸術」が伝わり、石井鶴三や喜多武四郎など俊英の輩出を導きます。荻原の系譜は、「生命の芸術」を変容しながら、明治末から大正、昭和、そして日本美術院最後の同人となる基俊太郎の平成へと繋がります。
本展では明治大正期を第一展示棟に、昭和以降を第二展示棟に配置することで、時代とともに移り変わる造形の展開をご覧いただけます。
明治大正期の彫刻には、モデルから抽出した生命感が彫刻に表れています。これは、自然(真実)の獲得に全霊を尽くし、生命の写実に挑んだ成果とみてとれます。昭和以降の彫刻には、石井鶴三の「立体感動」や基俊太郎の空間への意識のように、造形そのものに思考が表れ、新たな造形の展開が示されます。
荻原守衛の登場によって目覚めた日本の近代彫刻は、自然への観照、造形への意識化をそれぞれの個性のなかに育みながら展開してきました。本展を通じて、荻原守衛の系譜における造形の展開をご覧いただければ幸いです。

夏期企画展が、「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」で、光太郎と柳敬助、戸張孤雁に斎藤与里が大きく取り上げられましたが、今回も光太郎に関わると思われます。ただ、メインは次の世代の彫刻家たちのようです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

その詩人が死んだら、もう二度とその類の詩をきき得ないといふ稀有な詩人が、こんどのどさくさの中の多くの死にまじつて死んだのである。

散文「逸見猶吉の死」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

逸見猶吉は、明治40年(1907)生まれ。草野心平の『歴程』に依り、光太郎とも交流がありました。戦時中は関東軍報道隊員として満州に派遣され、終戦後の昭和21年(1946)、帰国できずに現地で病死しています。

高祖保を紹介する中でも書きましたが、こうした報に接するたび、戦争推進に加担した自らへの慙愧の思いが、光太郎を捉えたことでしょう。

アートオークションでの光太郎の父・高村光雲作品出品情報です。 

第587回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日 程 : 2018/10/20(土) 14:00~  
下見会 : 2018/10/18(木) 10:00~18:00 10/19(金) 10:00~18:00 10/20(土) 10:00~13:00

光雲作の木彫2点が出品されます。

番号順にまず、「大聖像」。像高20㌢ほどの小品です。

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「大聖」とは、徳を積んだ人物の意で、ここでは孔子を指します。ほぼ同一の図題の作品は他にも存在が複数確認されています。左下は信州北野美術館さん、中央は敦井美術館さん、右下は札幌芸術の森美術館さんの所蔵です。

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続いて「聖徳太子像」。

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こちらにも、同一図題の作品が存在します。島根県立美術館さん所蔵のものです。

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また、牛と人物を配した作品は他にもあります。

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こちらは「牛と童子」という題が付けられています。個人蔵の作品です。他に、画像はありませんが、老子や蘇東坡と牛を配した作品もあるとのこと。

今回出品の2点、然るべき所に収まって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

水野君は三田綱町だつたか四国町だつたかに居り、私は駒込林町に居り、互に訪問しては果てしない散歩につれ出して、歩きながらあらゆる問題に触れて語り合つたものであつた。鷗外の翻訳、国男、藤村の詩から、多田親愛のかな文字の書に至るまで、凡そ問題になるものは悉く取り上げでよく激論した。
散文「水野葉舟君のこと」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

親友であった作家・水野葉舟の追悼文の一節です。

冒頭部分では「水野葉舟君は私のたつた一人の生涯かけての友達だつた」と述べています。光太郎壮年期以降は、年少の芸術家たち――草野心平、尾崎喜八、高田博厚ら――が集まってきましたが、同年配で、青年期からの長い間の交友があったとなると、葉舟しかいなかったようです。

情報を得るのが遅れまして、既に始まっています。 

彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学

期 日 : 2018年9月8日(土)~12月24日(月・休) 
場 所 : 台東区立朝倉彫塑館 東京都台東区谷中7-18-10
時 間 : 9:30~16:30
料 金 : 一般 500円(300円) 小中高校生 250円(150円)  (  )内は、20人以上の団体
休館日 : 月・木曜日

彫刻家 朝倉文夫が蒐集した美術品や趣味の道具をご紹介します。
彫刻家の眼で蒐集した多彩なコレクションは、独自の美意識や審美眼を示しています。
アトリエと邸宅という空間で、朝倉作品とコレクションをご堪能ください。

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光太郎ブロンズ彫刻の代表作、「手」001(大正7年=1918)が展示されています。

「手」は、戦後に鋳造されたものが日本中に広まり、少なくとも20点くらいは各地の美術館、文学館等に収められているのでは、と思われます。

しかし、朝倉彫塑館さんで持っている「手」は、大正期の鋳造で、台座の木彫部分も光太郎が彫ったオリジナルです。確認できている限り、他のオリジナルは、竹橋の東京国立近代美術館さんと高村家にあるのみです。ちなみにそれぞれ台座の形が異なり、興味深いところです。

朝倉彫塑館さんでは、けっこう各地の展覧会にこれを貸し出して下さっており、それだけにかえって同館で見られる機会が少ないので、この機会をお見逃し無く、というところですね。

情報に気づくのが遅れたため、関連行事の「スペシャリスト★トーク」が先月末に終わってしまっています。講師は昨年、みすず書房さんから『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を刊行された土田刃物店店主・土田昇氏でした。明治から昭和にかけて活躍し、名人と謳われた大工道具鍛冶の千代鶴是秀(ちよづる・これひで)が、朝倉のために生け花用の道具一式その他を作ったための人選でしょう。

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千代鶴は光太郎とも縁がありました。そのあたりで土田氏に質問しようと思っていたのですが、残念です。


ともあれ、来週、近くの太平洋美術会さんにお邪魔しようと思っておりますので、併せて立ち寄ろうと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ビルマのやうな暑い土地に送つて此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのものをつくづくなさけないものに思ふ。その粗暴な組織体がともかくも日本から消え失せるやうな事になつた今日、高祖保さんのやうな詩人こそ今居てもらひたいといふ循環心理がぐるぐるおこる。

散文「高祖保さんをしのぶ」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

高祖保は、明治43年(1910)生まれの詩人。光太郎の詩集『をぢさんの詩』の編集を担うなど、光太郎と縁の深い詩人でした。しかし、終戦の年の1月、ミャンマーで戦病死。数え36歳の若さでした。

光太郎自身、「此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのもの」の一員、とはいかないまでも積極的に加担していたわけで、こうした報が届くたび、慙愧の思いが募っていったのだと思います。

10月9日(火)、前日まで1泊2日で福島二本松、山形天童と廻っておりましたが、今度は北鎌倉に向かいました。明月院さんの上(歩いて365歩)の笛ギャラリーさんで開催中の「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」拝見のためです。

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基本、カフェですが、店内の壁などを使ってギャラリーとしても活用されています。ご主人・山端氏の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しずの令孫にあたられます。ご近所には、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八がかつて住んでいて、今も令孫・石黒氏がお住まいです。

この日の午前中に伺うことをお伝えしておいたところ、石黒氏(右)もいらしていました。左は山端氏です。

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後ろの壁の中央に掲げられているのは、大正8年(1919)、雑誌『白樺』10周年記念の会が催された芝公園三縁亭での写真。

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後列左から、尾崎喜八、佐竹弘行、八幡関太郎、新城和一、椿貞雄、バーナード・リーチ、小泉鉄、近藤経一、木下利玄、岸田劉生、志賀直哉、長与義郎、そして光太郎。前列中央が武者小路実篤です。

左右には、肉筆を含む尾崎と光太郎の書。

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書籍類もずらり。

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そして、反対側の壁際には、光太郎ブロンズ「聖母子像」。

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大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもので、ミケランジェロの模刻です。石膏原型は既に失われ、鋳造もこれ一点しか確認されていない、非常に貴重なものです。毎年催されているこの展示でも、毎年展示されているわけではなく、まさに眼福。

尾崎の妻・實子は、光太郎の親友の作家、水野葉舟の娘。光太郎は實子を我が子のように可愛がっていました。

その他、ロマン・ロランと交流のあった尾崎関連で、ロランからの葉書(複製)、光太郎が装幀、題字を手がけた尾崎訳のロラン著書『花の復活祭』(昭和2年=1927)。

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尾崎や光太郎の肖像写真。

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それから、昭和2年(1927)刊の光太郎による書き下ろし評伝『ロダン』。「それ、サイン入りですよ」とおっしゃるので、確認してみましたら、なんとまぁ、高田博厚宛でした。


このあと、会期は11月6日(火)までの火曜、金曜および10月13日(土)、27日(土)、28日(日)。是非足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

今私の山小屋の外で北西の風が潮騒のやうに鳴つてゐる。ふかい積雪の上にオリヨンが南中を少し越えた。下弦の月はまだ出ない。時計はないが、まづ二十一時前後といふところだらう。丁度あの頃三河島の林家さんか東方亭に彼があらはれた時刻だ。黙つて隣へ坐りさうな気がする。

散文「倉橋弥一さん」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

倉橋弥一は光太郎より一世代あと、明治39年(1906)生まれの詩人です。昭和20年(1945)に、交通事故で死去。その追悼文の末尾の部分です。

「林家」、「東方亭」、ともに光太郎行きつけの飲食店で、倉橋もここによく来ていたとのこと。さりげなく書かれた中にも、深い哀悼の意が伺える名文ですね。

10月8日(月・祝)、宿泊した福島二本松を後に、愛車を北に向け、東北道、山形道と乗り継いで、山形県天童市に参りました。

目指すは出羽桜美術館さん。こちらで「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」」が開催中です。当方、見逃しましたが、10月7日(日)、NHKさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」で取り上げられました。

蔵王の山懐を抜け、2時間程で到着しました。

美術館母体の酒造メーカー、出羽桜酒造さん。

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その一角に美術館さん。瓦葺きの大きな屋敷と蔵を改装して美術館したそうで、実に趣のある佇まいです。

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元々、亡くなった先代の社長さんが集めた、李朝陶磁や、「瞽女・明治吉原細見記」シリーズで有名な画家・斎藤真一の絵を中心にして設立されたそうです。それ以外にも書画の類もたくさん収蔵されており、今回はその展示です。

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まず順路通りに行くと「画」の方から。チラシにも使われている宮本武蔵の「葡萄栗鼠図」(山形県指定有形文化財)が目玉でしたが、その他に竹久夢二の作品も複数展示されていて、「おっ」と思いました。

そして「書」。失礼ながら、実際に眼にするまで高をくくっていましたが、ビッグネームの優品揃いで、目を剥きました。すなわち、夏目漱石、正岡子規、芥川龍之介、會津八一、土井晩翠、斎藤茂吉、与謝野夫妻、尾崎紅葉、島崎藤村、幸田露伴、川端康成、吉井勇、北原白秋、高浜虚子、島木赤彦、堀口大学……。

そして光太郎。特に「撮影禁止」という表示がなかったので、撮らせていただきました。

「智恵子抄」に収められた詩「郊外の人に」(大正元年=1912)冒頭のワンフレーズで、「わがこころは今 大風の如く君に向へり」。智恵子と二人で過ごした千葉犬吠埼から帰り、自分のパートナーとなるべきはこの女性しかいない、と思い定めての「宣言」です。

筆跡的には戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた時期のものと思われますが、「智恵子抄」の詩句を大きく書いたものは他に類例が確認できて居らず、貴重なものです。

書籍の見返しや扉に書いたものは以前から知られていました。それらを元に複製の色紙が作られたりもしています。また、昨年、川端康成のコレクションの中から扇面に揮毫したものも見つかっています。しかし、こちらは半切の紙で、大作といっていいでしょう。

おそらく戦後、あの太田村の山小屋で、何を思ってこの書の筆をふるったのか、興味深いところです。


「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」」、10月21日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

近代日本に天成の詩人があるか、近代日本に純粋と称し得る詩人があるか、近代日本に性情そのものに根ざす詩人らしい尖鋭の詩人があるかと人にきかれたら、即座に萩原朔太郎があると答へよう。

散文「希代の純粋詩人――萩原朔太郎追悼――」より
 
昭和17年(1942) 光太郎60歳

「尖鋭」の語が無ければ、当方は勿論「高村光太郎」と答えます。「尖鋭」さでは、やはり朔太郎ですね。

一泊二日の行程を終え、昨日の夕方、千葉の自宅兼事務所に戻りました。

一昨日は智恵子を偲ぶ「第24回レモン忌」に参加、さらに智恵子生家で開催中の「坂本富江展 「智恵子抄」に魅せられて そして~今~ パートⅡ」を拝見。岳温泉さんに宿泊いたしました。

昨日は午前10時から、二本松駅前の市民交流センターで「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」が行われました。その前に、早く目が覚めてしまいましたので、智恵子の愛した「ほんとの空」を堪能しようと、安達太良山奥岳登山口まで愛車で行くことにしました。

8時前には宿を出たのですが、登山口の手前、2㎞ほどのところから渋滞。驚きました。

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結局、登山口より数百メートル手前の無料駐車場に車を駐め、歩きました。

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下界はまだまだ点々とでしたが、下から見る限り、山頂付近はもうかなり紅葉に色づいていました。そして台風一過の「ほんとの空」。

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さて、とって返して二本松市街へ愛車を向けました。その頃になると登りの渋滞は倍以上に伸びていました。多くの方に訪れていただき、ありがたい限りです。

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市民交流センターに到着。午前10時、智恵子検定開会。

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結局、受検人数はあまり多くなかったので、少し残念でした。開会式的な時間の中で、監修の当方も一言ご挨拶だけさせていただき、皆さんの健闘を祈りつつ、二本松を後にしました。

その前後、一昨日から昨日にかけ、二本松で新聞各紙を購入しました。

一昨日の『福島民友』さん。坂本富江さんの個展の記事が掲載されました。

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昨日の『朝日新聞』さん福島版。一昨日の「レモン忌」を大きく取り上げて下さいました。

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ネット上にも。 

福島)没後80年、智恵子しのぶ 二本松で「レモン忌」

 詩人で彫刻家の高村光太郎の妻智恵子をしのぶ24回目の「レモン忌」が7日、生家がある二本松市であった。主催した「智恵子の里レモン会」の会員ら約40人が集い、智恵子の好きだったレモンと花を肖像画に捧げ、光太郎が妻への愛を記した「亡き人に」を朗読した。
 智恵子が所属して洋画を学んだ美術団体の後継団体である「太平洋美術会」会員の坂本富江さんが記念講演し、智恵子の画学生時代の足跡などを紹介した。
 レモン会会長の渡辺秀雄さん(86)は「光太郎の妻」「優しく病気がちな女性」というイメージとは異なる面に智恵子の魅力を感じるという。渡辺さんによると、智恵子が残した文章の中に、関東大震災後の復興策や憲兵隊の横暴を批判したものがある。「しっかりした意見を持って社会に目を向けていた。新しい時代の女性だったと思う」と渡辺さんは評価する。
 今年は智恵子の没後80年にあたり、様々なイベントが開かれる。
 坂本さんは「智恵子抄」をテーマにした絵画作品展を智恵子の生家で9日まで開催。8日には「智恵子のまち夢くらぶ」の主催で「智恵子検定」が市民交流センターで開催される。また11月18日には、智恵子や光太郎への思いを詩の朗読やスピーチなどで表現してもらう「全国『智恵子抄』朗読大会」が市コンサートホールで開かれる。(杉村和将、奥村輝)

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それから、昨日の『福島民報』さん。『福島民友』さんで先週取り上げた「好きです智恵子純愛通り」CDについてです。

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CDそのものも、いただいて参りました。

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手作りといいますか、草の根といいますか、地方でのこうした地道な取り組みが大事なんだよな、と感じました。


この後、山形県天童市へ。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

佐藤氏は詩魔に憑かれた魔性の人のやうに見えた。端倪を知らずとは正に此の詩人の詩業の事である。

散文「詩魔佐藤惣之助氏」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

佐藤惣之助は光太郎より7歳年少の詩人。前年に急逝した佐藤の追悼文集に寄せた文章の一節です。

端倪を知らず」は、その全体像を安易に推し量るべきでない、といった意味。「詩魔に憑かれた魔性の人」といい、光太郎自身の評としてもよいような気がします。

昨日から、智恵子の故郷・福島県二本松に来ております。「ほんとの空」の広がる安達太良山の中腹にある岳温泉♨さんに泊まり、宿屋でこれを書いています。
昨日は、智恵子生家に近いラポートあだちさんで、智恵子追悼忌「第24 回レモン忌」が開催されました。同地の「智恵子の里レモン会」さんの主催です。

第一部が10時開会。

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智恵子肖像画に献花・献果。

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参加者全員で光太郎詩「亡き人に」の朗読。

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レモン会渡辺会長のご挨拶。このあと来賓祝辞やら集合写真撮影やらで第一部終了。

第二部は、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会の坂本富江さんによる記念講演。

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パワーポイントの操作は当方でした。

主に智恵子が太平洋画会で学んでいたころの話で、松井昇や中村不折などとの関わりにも触れられました。

第三部は昼食を兼ねての懇親会。

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連翹忌スタイルで、色々な方のスピーチが入りました。

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左から、岩手花巻の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)のある太田地区振興会・佐藤定会長。平成の初めに智恵子生家の修復工事を担当された八代勝也氏。テルミン奏者の大西ようこさん。

来年の再会を約して散会となりました。

このあと、当方は大西さんと一緒に智恵子生家に。

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こちらでは、坂本さんの個展が開催されています。
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智恵子にまつわる油絵、ご著書『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』原画、智恵子の生涯を紹介する紙芝居などなど。

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多くの方々で賑わっていました。

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説明なさる坂本さん(帽子の方)。

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大西さんも感心しきり。

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このあと、神奈川のご自宅へ帰られる大西さんを郡山までお送りし、当方は岳温泉へ。
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今日は二本松の市民交流センターで開催される「智恵子検定」会場に顔を出したら、山形まで足を伸ばします。

長くなりました(スマホでの入力は疲れます(笑))、この辺で。

まずは富山県の地方紙『北日本新聞』さん。一昨日、10月5日(金)の一面コラムです。 

天地人

戦後詩を代表する北村太郎さんの詩の一節を引く。〈部屋に入って 少したって/レモンがあるのに/気づく〉。以前からそこにあったレモンは、爽やかな香りがして初めて詩人の目に留まる
▼匂いが演出する“認識の時間差”なら、この時期、キンモクセイとなる。自転車通勤の道すがら、ほのかに香り始めた。ふと、鼻をくすぐられて周りを見ても、にわかには姿を見せない。香りの主張に比べ、花そのものは葉に隠れて目立たない
▼甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、秋の深まりを思う人も多いだろう。先日の本紙「とやま文学散歩」に、〈この町のこの風が好き金木犀(きんもくせい)〉(吉崎陽子)とあった。見慣れ、住み慣れた町も、季節の匂いの演出で新鮮な顔つきになる
▼〈この風〉は、花を揺らし、芳香を運んでくれる。すそうあってほしい秋の風だが、9月以降、台風が矢継ぎ早にやって来て、秋の野辺を騒がす強風が吹き荒れた。3連休となるこの週末も台風25号が列島に迫るようだ。予報通りに進めば、朝鮮半島をかすめて日本海を北上する。このコースをたどると、県内は強い南風が吹き、過去には大きな火災が起こっている
▼冒頭のレモンのこじつけながら、きょうは高村智恵子の命日「レモン忌」。死を悼んだ夫、高村光太郎の「レモン哀歌」にちなむ。風雨に備えつつ、夜長に詩集などを開く人もいるだろう。

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智恵子の命日、10/5は、どなたが制定されたのか、「レモンの日」ということにもなっており、そのおかげであちこちで取り上げられています。ありがたいことです。


同じく10月5日(金)、『日本経済新聞』さんの夕刊社会面には、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」が紹介されました。共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙の中に、同じ記事が載ったところもあるようです。 

高村光太郎、思い出の花巻 記念館でジオラマ

 詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が終戦間際から7年間を過ごした岩手県花巻市の情景を伝えるジオラマが、同市の高村光太郎記念館で展示されている。高村が随筆で「ローカル色豊かで旅情をそそられる」と表した花巻電鉄の企画展の一環だ。
 高村は空襲で東京都内のアトリエを失い、45年5月に宮沢賢治の実家を頼って花巻に疎開。終戦直後に現在の記念館近くの山荘に移り住み、52年までに「暗愚小伝」などを執筆した。
 ジオラマを制作したのは東京都品川区の石井彰英さん(62)。以前の作品で、高村の妻、智恵子が最期を迎えたゼームス坂病院(品川区)をつくったことがきっかけで、同館から依頼を受けた。10月5日は智恵子の命日。
 1年がかりで完成したジオラマは幅180センチ、奥行き120センチ。町のにぎわいや温泉街など昭和20年代の雰囲気を表現した。高村も乗った車幅が狭く前面が縦長の「馬面電車」が走り、背丈1センチほどの約520人の衣服にもこだわった。石井さんは「当時を知る世代も知らない世代も、人々の息吹や幸せを感じ取ってほしい」と話す。企画展は11月19日まで開かれている。

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地方版でなく社会面だったので、ありがたいところです。


昨日には、福島の地方紙二紙。

まずは『福島民友』さん。 

「好きです智恵子純愛通り」 顕彰団体がイメージソングCDに

 詩集「智恵子抄」で知001られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子の没後80年、智恵子純愛通り記念碑建立10年を記念し、顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶは」はイメージソング「好きです智恵子純愛通り」を録音、CDを作った。団体代表の熊谷健一さんらが2日、三保恵一二本松市長に報告、曲を録音したCDを贈った。
 作詞、作曲は「安達の光太郎」をペンネームとする二本松市に住む男性。高村光太郎の詩「樹下の二人」や「あどけない話」をモチーフに光太郎、智恵子の美意識などの世界観を表現したという。歌は東日本大震災で浪江町から横浜市に避難した歌手のハーミーさんが吹き込んだ。
 熊谷さんは「歌詞は優しく、メロディーも覚えやすい。気軽に口ずさみ、光太郎や智恵子の世界に思いをはせてほしい」と話した。


続いて『福島民報』さん。 

今日の撮れたて 安達太良山(二本松市) 「ほんとの空」と錦秋満喫

 日本百名山の安達太良山(一、七〇〇メートル)で紅葉が見頃を迎えた。高村智恵子が愛した「ほんとの空」の下、山肌を覆う低木、樹林が赤、黄、茶色に染まる。五葉平の緑に割り込むように秋のモザイクを広げていく。
 連日、大勢の登山者が訪れる。二本松市の奥岳登山口からロープウェイで八合目の薬師岳に登ることができる。降りてからは一面に広がる錦絵のような景色を楽しみながら山頂を目指す。
 問い合わせは富士急安達太良観光 電話0243(24)2141へ。

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当方、今日は二本松に行って参ります。「第24回レモン忌」に参加後、智恵子生家での「坂本富江展 「智恵子抄」に魅せられて そして~今~ パートⅡ」等を拝観、岳温泉に1泊し、明日は二本松市市民交流センターで行われる「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」会場に顔を出し、その足で山形県天童市の出羽桜美術館さんで開催中の企画展「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部 日本本画と文士の書」を拝見に行く予定です。

錦秋の安達太良山を見、できれば「好きです智恵子純愛通り」CDもゲットしたいと考えております。

皆様もぜひ、二本松、そして花巻へと足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

この詩人の能く重きに堪へるねばり強さと、内燃する熱情と、性来の正直さとを知るものは、尚ほ実に多くの未来を彼に負はせる。この詩人は必ずそれに答へるであらう。

散文「神保光太郎の詩」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ「光太郎」の名を持つ神保光太郎は、高村光太郎より22歳年少、およそ一世代下の詩人です。やはり高村光太郎同様、本名は「みつたろう」ですが、自ら「こうたろう」と名乗りました。

高村光太郎による他の詩人の評はかなり数多く残されましたが、感心するのは、そのどれをとってもありきたりな評ではなく、その詩人を的確に表し、それから、一つとして使い回しがないということ。ある詩人の評に使った表現を、別のある詩人の評にも転用するというインチキをしていません。当然といえば当然ですが、その語彙力、表現の豊かさに感心させられます。

北鎌倉・明月院さん近くにある、光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェ「笛ギャラリー」さんからご案内を頂きました。 

回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七

期 日 : 2018年10月5日(金)~11月6日(火)
        火、金曜および10月13日(土)、27日(土)、28日(日)
場 所 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215 0467-22-4484
時 間 : 10:00~16:00
料 金 : 無料

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毎年この時期に催されており、ご近所に住まわれている、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒氏との共同開催で、両家に伝わる光太郎・喜八関連の資料を店内に展示なさいます。例年、光太郎や喜八の肉筆資料が展示されていますが、今年はそれプラス、ロマンロラン訳書なども並べるとのこと。

もう7回目で、目新しい物はないと謙遜されていましたが、貴重な資料が並ぶのは間違いありません。

当方、平成26年(2014)、27年(2015)、28年(2016)と、3回お邪魔しました。最初にお邪魔したときには、尾崎喜八のお嬢さんで、さらには光太郎の親友・水野葉舟の令孫でもあった榮子様(上記チラシ左端の少女)がご存命で、店内にいらっしゃり、智恵子に抱っこして貰ったことなど、いろいろ貴重なお話を聞かせていただきました。

今年は来週、参上いたします。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

もう一つ。此を書くのを忘れてはいけない。尾崎君に「みいちゃん」がついて居ることだ。實子さんは日本のマダムの最も好い手本である。この小父さんは實子さんを知つてゐる事が馬鹿にうれしい。實子さんの事ならいつでも二挺ピストルの役をつとめる気で居る。

散文「「渝らぬ友」――尾崎喜八――」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

喜八に関する評論の末尾の部分です。ここまでの部分で、喜八の人となり、業績などについての讃辞が並び、最後に喜八の妻にして、光太郎の親友・水野葉舟令嬢の實子(上記画像右端)のことを書き添えています。子供の出来なかった光太郎、實子を実の娘のように可愛がっていました。

本日、10月5日は、智恵子の命日「レモンの日」です。昭和13年(1938)に亡くなった智恵子、今年で没後80年となりました。

それにちなみ、昨日の『福島民友』さんの一面コラム。  

【10月4日付編集日記】高村智恵子没後80年

 1990年代の半ば、ロックバンド・ミスターチルドレンの桜井和寿さんが文芸雑誌「ダ・ヴィンチ」の表紙を飾った。写真の中の桜井さんは愛読書だという文庫本を手にしている
 ▼その文庫本は、高村光太郎の「智恵子抄」だ。ダ・ヴィンチのインタビューで桜井さんは智恵子抄について、一人の人を愛し抜くパワーに感動したと述べていた。愛する喜びと苦悩に満ちた光太郎の詩は、桜井さんの曲づくりにも影響を与えたに違いない
 ▼智恵子が52歳で亡くなってから、明日で80年を迎える。節目の年に合わせ、地元・二本松市では智恵子を顕彰している団体がさまざまな記念事業を予定している
 ▼11月には智恵子抄の朗読大会を初めて開く。このほかにも智恵子に関する知識を問う検定や、二人にちなんだお菓子を食べながら語り合うカフェなども企画する。同団体は、時代を超えて読み継がれてきた智恵子抄の魅力を広く発信していきたい考えだ
 ▼同市には、智恵子の生家がいまも残る。二人が手を取り合って歩き、安達太良山や阿武隈川を眺めた鞍石山などゆかりの場所もある。節目の年に智恵子の古里を訪れてみれば、心を通わせ合った二人の存在をより身近に感じられるはずだ。

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当方、寡聞にしてミスチルの桜井さんが光太郎智恵子ファンとは存じませんでした。言われてみれば「愛する喜びと苦悩に満ちた光太郎の詩は、桜井さんの曲づくりにも影響を与えたに違いない」、納得できますね。

けっこう芸能界には隠れ光太郎智恵子ファンの方々がいらっしゃるようです。引退なさった山口百恵さん、現在もご活躍中の声優・能登麻美子さん、連翹忌や、二本松で開催されている「レモン忌」にもご出席いただいている一色采子さん(昨年は智恵子生家で朗読イベント「智恵子・レモン忌 あいのうた」にご出演なさいました)などなど。

隠れ、ではないのが当会001会友・渡辺えりさんお父様の渡辺正治氏が光太郎本人と交流があったご関係で、ご自身、幼い頃から(あまり想像できませんが(笑))、光太郎詩を聞かされて育たれたそうです。そんな関係で光太郎を主人公とした「月にぬれた手」という舞台をなさったり、各地の講演やさまざまなテレビ番組などでお父様と光太郎のエピソードをご紹介なさったりして下さっています。

そういえば、10月7日(日)14時〜15時、二本松で第24回レモン忌が行われる日ですが(したがって当方は欠礼します)、同じ福島の、いわき市立草野心平記念文学館さんで、渡辺さんのご講演があります。

当会の祖・草野心平を祀る(笑)文学館でのご講演ですので、やはり光太郎智恵子に関わるお話があるかと存じます。

事前予約制で、おそらく既に定員に達していると思いますが、もしかするとキャンセル等が有るかも知れません。同館にお問い合わせ下さい。


最後に、本日放送の福島でのテレビ放映情報を。 

はまなかあいづToday▽高村智恵子没後80年 ▽カフェ?子育て女性注目の働く場

NHK総合1・福島 2018年10月5日(金)  18時10分~18時52分 

▽きょう高村智恵子没後80年 ▽まるでカフェ…子育て女性注目の働く場 ▽気象情報 ▽県内の放射線測定値 

キャスター 吾妻謙 岩間瞳 平川沙英  リポーター 後藤万里子  気象予報士 齋藤郁子

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福島県の方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

中原君の詩は所謂抒情詩の域を超えた抒情詩といふべきで、それは愬へたり、うたつたりする段階から遙に超脱して、心や物がそのまま声を発するものであつた。インキ壺を書くのでなくて、インキ壺が書くのであつた。むしろインキ壺がただ在るのであつた。

散文「夭折を惜しむ――中原中也のこと――」より 
昭和14年(1939) 光太郎57歳 

愬へたり」は「うったえたり」と読みます。

智恵子の翌年に亡くなった中原中也の追悼文から。中也独特の詩の世界を端的に言い得ていますね。

平成16年(2004)から、福島県内で開催されてきた、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ」。一昨年から二本松市も会場となり、同市出身のアーティストということで、智恵子にからめてのインスタレーションが為されています。ビエンナーレ(隔年開催)ではありますが、その隙間を埋めるということで、昨年はビエンナーレとは冠せず「重陽の芸術祭」としての開催でした。

同市油井の智恵子の生家では、一昨年は版画家の小松美羽さん、昨年は刺繍作家の清川あさみさんによる展示が行われました。また、昨年は道の駅安達「智恵子の里」さんで展示された、ワタリドリ計画さんによるインスタレーション「絵葉書フラッグ」でも、智恵子にからめてくださいました。

今年の「福島ビエンナーレ」、すでに9月9日(日)から始まっていますが、直接、智恵子に関わりそうな展示はこれからのようです。

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まず、智恵子の生家では、切り絵作家の福井利佐さんの作品が展示されます。10月13日(土)~11月25日(日)、9:00~16:30で、智恵子の生家/智恵子記念館入館料として大人410円 高校生以下200円です。

福井さん、昨年は安達ヶ原ふるさと村さんでの展示をなさっていましたし、今年は既に智恵子の母校・市立油井小学校さんでワークショップをやられたとのこと。

それに合わせ、生家では、通常は非公開である二階部分(智恵子の居室を含みます)の特別公開(10/13~11/25の土日祝日)、記念館では、通常は複製が展示されている智恵子紙絵の実物展示(10/11~11/27)が予定されています。

また、安達ヶ原ふるさと村さん内の武家屋敷では、古川弓子さんという方の絵画の展示。どうやら智恵子がモチーフにされるようです。こちらも10月13日(土)~11月25日(日)です。

それ以外にも光太郎智恵子にからむ展示等があるかもしれません。

さらに、今回の福島ビエンナーレは、二本松での「重陽の芸術祭」、さらに南相馬での「海神の芸術祭」と、リンクして行われています。

そして、期間中には毎年恒例の「二本松の菊人形」。今年のテーマは「戊辰150年~信義×二本松少年隊~」だそうです。このところ、智恵子人形は出ていませんが、今年はどうなりますことやら。

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最後にもう一つ、ビエンナーレとは関係ありませんが、10月14日(日) 10:00~16:00、安達太良山中腹の岳温泉で、「第2回ほんとの空 マルシェ in あだたら」が開催されます。第1回が8月に行われていますが、同様の内容でしょう。


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

頃日、一人の気位の高い友人が来ていつた。今の世上の詩と称するものは皆うす汚いといつた。この友人は真に心の高い立派な人であるが、若し八木重吉のやうな詩人をもうす汚いといふならば、それは気位の高い人の病であるところの、自己以外を決して了解し得ぬ程高い成層圏にもう突入してしまつたことを意味するであらう。

散文「八木重吉について」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

昭和2年(1927)に数え30歳で夭折した詩人・八木重吉に関する文章の一節です。

自己以外を決して了解し得ぬ程高い成層圏にもう突入してしまつた」「気位の高い人」、あるある、ですね。そうはなりたくないものです。

昭和13年(1938)に亡くなった智恵子、今年で歿後80周年となる10月5日(金)「レモンの日」に合わせ、故郷の二本松市では、その前後にさまざまなイベントが企画されています。

昨日は二本松で智恵子顕彰に取り組む「智恵子の里レモン会」さん主催の「坂本富江展 「智恵子抄」に魅せられて そそして~今~ パートⅡ」、「第24回レモン忌」をご紹介しましたが、本日は、同じく智恵子顕彰に取り組む「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催のイベントを。  

智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問

期  日 : 2018年10月8日(月・祝)
会  場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3番地1
時  間 : 受付 午前9:30   開始 午前10:00
料  金 : 一般 1,000円  中高生600円
申し込み   : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷 0243-23-6743

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文字通り、智恵子についての00150問の問題に答える検定試験です。

50問すべて四択で、原案は智恵子のまち夢くらぶさんの熊谷代表が考え、当方が監修ということで、一部手直しをしたり、パソコンで打ち込んだりしました。

超難問カルト問題の連続というレベルでもなく、さりとて全国民の一般常識というわけでもなく、この種のものとしては妥当な問題かな、と自負しております。

基本、智恵子その人に関する問題ですが、一部、光太郎についての問題も。ただし、智恵子と無関係ではありません。

正答数に応じ、「称号」がもらえます。

 全問正解   「智恵子プラチナマイスター」
 45問以上正解 「智恵子ゴールドマイスター」
 35問以上正解 「智恵子シルバーマイスター」
 25問以上正解 「智恵子ブロンズマイスター」
 24問以下正解 「智恵子フレンド」

ことによるとプラチナマイスターが複数出るかも、と思っております。

称号の授与式は、11月18日(日)、同じく智恵子のまち夢くらぶさん主催の「全国『智恵子抄』朗読大会」(また後ほど詳しくご紹介します)会場で行うとのこと。

ぜひチャレンジしてみて下さい!


【折々のことば・光太郎】

先生が日本詩歌界に曾てまき起した変革の性質は、ロダンがフランス彫刻界に曾てまき起した変革の真意義と相通ずるものがある。其は死せるものに生命の鼓動を呼びさましめ、遠いものを近くし、間接のものを直接にし、人間性の横溢をその芸術に齎しめて全く面目一新の実を挙げた事である。

散文「与謝野先生を憶ふ」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

与謝野先生は、鉄幹与謝野寛。光太郎の才を見ぬき、そして愛し、本格的な文学へ誘った師匠です。彼なくして後の詩人光太郎は生まれなかったといえます。

この年、気管支カタルで亡くなった鉄幹への追悼文の一節です。

来る10月5日(金)は、智恵子の命日「レモンの日」です。昭和13年(1938)に亡くなった智恵子、今年で歿後80周年となります。

そういう関係もあり、今月は智恵子の故郷・福島二本松で、智恵子関連のイベント等が目白押しです。

10/4(木)~9(火)     坂本富江展「智恵子抄」に魅せられてそして~今~パートⅡ
           智恵子の生家
10/7(日)         第24回レモン忌  ラポートあだち
10/8(月・祝)       高村智恵子没後80周年記念事業 智恵子検定 市民交流センター
10/11(木)~11/27(火)  智恵子紙絵実物展示  智恵子記念館
10/13(土)~11/25(日)  福島ビエンナーレ重陽の芸術祭 福井利佐展  智恵子の生家
    〃       智恵子生家二階特別公開  智恵子の生家
10/14(日)        第2回ほんとの空マルシェinあだたら    岳温泉

何回かに分けて詳しくご紹介します。  

坂本富江展 「智恵子抄」に魅せられて そして~今~ パートⅡ

期   日 : 2018年10月4日(木)~9日(火)
会   場 : 智恵子生家 福島県二本松市油井字漆原町36
時   間 : 9:00~16:30
料   金 : 智恵子生家/智恵子記念館入館料として大人410円 高校生以下200円

智恵子の足跡をたどりながら、坂本さんが各地で描いてきた風景画等を展示します。

≪坂本富江プロフィール≫
山梨県生まれ。太平洋美術会会員であり、高村光太郎研究会会員でもある。現在は、山梨県韮崎市のふるさと大使を務めている。

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なぜ「パートⅡ」なのか? と思いましたが、今年4月に新宿のヒルトピアアートスクエアさんで開催された坂本さんの個展が「パートⅠ」だったということのようです。

筋金入りの智恵子ファンのお一人、坂本さんとしては、智恵子生家で個展が開催できるというのは望外の喜びでしょう。


続いて、その会期中に行われる、智恵子を偲ぶ集い「レモン忌」。  

第24回レモン忌

期   日 : 2018年10月7日(日)
会   場 : ラポートあだち 福島県二本松市油井字濡石16
時   間 : 10:00~14:00
料   金 : 3,000円

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以前の様子はこちら。


毎年、記念講演があり、当方も仰せつかったことがありますが、今年は坂本さんです。当方もスライドショーの投影でご協力させていただきます。

ご興味のある方、上記連絡先まで。


【折々のことば・光太郎】

人は随分気むつかしくなつてゐる時でも、その気むつかしさをてんで問題にしない、ひろびろとした野原のやうな魂に接すると又思ひかへして、一寸心の転轍の出来る事があるものだ。「小公子」はいつの間にかあのやかまし屋のおぢいさんを軟化させた。

散文「所感――詩人廣瀬操吉観――」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「小公子」は、アメリカのバーネット夫人が明治19年(1886)に書いた児童文学。明治24年(1891)には若松賤子の訳で日本でも刊行され、昭和2年(1927)には岩波文庫のラインナップに入っていますが、光太郎、こうしたものも読んでいたのですね。

詩人・廣瀬操吉の作品には、そういう魂があると褒めています。

特に智恵子の関連で、新聞雑誌各紙誌にいろいろ出ていますので、ご紹介します。

まずは9月20日(木)、『朝日新聞』さんの北海道版。「歌壇」という欄で、読者の方々からの投稿短歌欄です。

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函館の作山宗邦さんという方の作。

妻持ちし文学全集抜きだして智恵子抄読む新盆の朝

「持ちし」と過去形ですから、「新盆」は奥様のそれだったのでしょう。「智恵子抄」をご生前に好まれていたのでしょうか。切ない歌ですが、厨(くりや)で智恵子の遺した梅酒を見つけた光太郎のような、リアル「智恵子抄」短歌ですね。


続いて、『しんぶん赤旗』さん。9月23日(日)の日曜版で、「智恵子の生家と「ほんとの空」」ということで、智恵子の故郷、二本松の紹介が載りました。

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智恵子生家・記念館を大きく扱って下さいました。同紙では、今年6月にも智恵子がらみで安達太良山を取り上げて下さっています。


それから、日本古書通信社さん発行の雑誌『日本古書通信』9月号。巻末に全国の古書店さんの在庫目録的なページがついていますが、その中で、神田の八木書店さんのページに、光太郎の書簡が。

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出版社文一路社の社主、森下文一郎に宛てたもので、筑摩書房の『高村光太郎全集』に漏れているものです。智恵子が亡くなる前年の昭和12年(1937)のものと推定され、智恵子にも触れています。

拝復 先日はおてがみ忝く拝見しました、一寸いそぎの事がありました為め御返事失礼しました、
今年の暑は殊にからだにこたへ毎日閉口して居ります、やむを得ず仕事はして居りますがはかどりません、
あなたの方はお変りなく御健勝で居られますか、 おてがみによれば何か御用との事ですが、若しお急ぎの事でなければ秋涼の頃まで待つて頂ければありがたく存じます、この暑さで半病人の有様で居ますので殆と人にも会はずに暮して居ます、全く夏ばかりは一切をすてたく思ひます、 智恵子がまだ悪かつたりしますので尚更小生は腐つて居ます、早く秋風高く吹いてくれればいいとそれのみ望んで居る次第です、
御見舞の御礼かたがた御返事まで    艸々
   七月十五日
       高村光太郎
  森下文一郎様
  二伸 若しお急ぎの事でしたらおてがみでおきかせ下されば早速御返事いたします、

何げなく書かれた一言が、やはり切なく感じられます。


最後に、智恵子は絡みませんが、『月刊絵手紙』さん10月号。花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、昭和29年(1954)に書かれた「書をみるたのしさ」の一節が取り上げられています。

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併せて紹介しておきます。


さらに、雑誌というわけではありませんが、智恵子の故郷・二本松市の広報紙『広報にほんまつ』さんで、今月の様々なイベント等が紹介されています。そちらは明日。


【折々のことば・光太郎】

私はかかる意味のフランスに感謝してゐる。「感謝」といふ詩にも書いた通り其は黙つてゐても物のわかるといふ、あの人間精神文化の最尖端を鷹揚に持つところの一種の気質である。

散文「熱情と理解の人――川路柳虹の印象――」より
 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「美」や「芸術」が人々の生活に深く根付き、無意識に文化的な生活を送っているフランス国民への讃仰です。光太郎の朋友だった詩人・川路柳虹もそうした気質を備えていたと言っています。

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