2018年06月

昨日は、六本木の国立新美術館さんに行っておりました。ご案内を頂いておりました第38回日本教育書道藝術院同人書作展拝見のためです。

こちらには「智恵子抄」の世界をモチーフにされ続けている坂本富江さんの絵が展示されていた太平洋美術会展などで何度か足を運びましたが、久しぶりでした。

関東甲信は昨日、梅雨明け。強い日差しでしたが、東京メトロ千代田線の乃木坂駅からほぼ直通で行けますので、助かります。

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受付にて図録を購入。

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展示室には力作がずらり。

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さすが都心。平日にもかかわらず、それなりに観覧の方がいらっしゃいます。

ご案内を下さった菊地雪渓氏。今年の連翹忌に初めてご参加下さいました。なんと、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさっていました。

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題材は「智恵子抄」などの光太郎詩6篇。半切8枚を使った堂々たる作品です。

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流れるようでいて、力強さも感じられる筆跡。余白の使い方にも妙味を感じます。光太郎詩にふさわしい書法、筆法といえましょう。どこか、光太郎自身の書にも通じるような。


他にも光太郎詩を取り上げて下さっている方が複数いらっしゃいました。

「山からの贈り物」(昭和24年=1949)。花巻郊外太田村での蟄居中の詩です。

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「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインが有名な「樹下の二人」(大正12年=1923)。やはり「智恵子抄」収録作品です。

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そして、会場では見落としてしまっていましたが、「晴天に酔ふ」(昭和12年=1937)。

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ありがたいかぎりです。

また、与謝野晶子や北原白秋など、光太郎と交流の深かった人々の詩歌文も数多く取り上げられていました。さらに現代詩や童謡、J-POPの歌詞などを書かれている方もいらっしゃり、「へえ」という感じでした。そういう意味でも拝見していて楽しい展覧会でした。無論、それぞれの出品者の方々の美しい文字あってこそですが。当方、書の公募展というのは初めて拝見しましたが、こういう楽しみ方もあるのだな、と思いました。


こうした公募展等、大小さまざま常に各地で開催されていると存じますが、日本語としての美しさを存分に湛える光太郎詩文、どんどん取り上げていただきたいものです。また、数は少ないのですが、智恵子の詩文にも面白いものがありますし。書家の方々、よろしくお願い申し上げます。

展覧会は7月8日(日)迄の開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

紐育には秋風は吹けども萩の葉の音もなく、透きとほりたる空の色のみ唯おなじながめに御座候。此地にありては何分にも余暇なく未だに何も御送り致さず候へども、此十一月中には何か御届け致さむ心組に候へば御諒承下されたく候。
散文「演劇学校」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

留学先のニューヨークから、与謝野夫妻の『明星』に寄せた文章の末尾です。現在も続くライシーアム劇場附属の演劇学校などについての書簡体で書かれたレポートですが、遠い異境の地での青年期の気概や、「萩の葉」云々からはホームシック的な感傷も読み取れます。

昨日に引き続き、いただきものです。  

続装丁家で探す本 追補・訂正版

2018年6月20日 かわじもとたか著 杉並けやき出版発行 星雲社発売 定価6,000円+税

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むかしの装丁家だから活字で残したい−。装丁家430人の装丁本9100冊の情報を掲載。「ブログで探す装丁本」「田村泰次郎「肉体の門」の装丁家たち」など、装丁家について記した装丁挿話も収録。両開き本。【「TRC MARC」の商品解説】


労作です。光太郎を含む近現代の芸術家たちが誰のどんな本の装幀を手がけたのか、そのリストがメインです。その数429名、9,000冊余のデータが記され、456ページです。さらにそれと別にエッセイ的な「装丁挿話」167ページが掲載されています。

平成19年(2007)に正編が刊行され、今回その続編ということですが、こうしたリストを一冊にまとめたものの類例がないということで、貴重な資料です。

光太郎に関しては、協力させていただきました。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』別巻に、光太郎のそれのリストが載っていますので、その情報を提供しました。しかし、『高村光太郎全集』のリストは、「装幀・題字」で、書籍全体の装幀ではなく、題字のみ光太郎の揮毫というものも一緒に掲載されています。そこで、明らかにそういうものは除かれています。ただ、書籍によっては光太郎の関与の度合いが不明のものも多く、装幀まで手がけているのか、題字揮毫のみなのか不明というものも実は多く存在します。

著者のかわじ氏と書簡やメールのやりとりをした中で、とにかく日本では装幀者の扱いが低い、と言うことを嘆かれていました。正編の方の「TRC MARC」さんの商品解説では、「個人名の付いた美術館で何故装丁本を集めないのか? 図書館では何故、装丁家で本が探せないのか?」とありますが、まさにそのとおりですね。

昨今は少しずつ状況が改善されてきているようで、たとえば神奈川近代文学館さんのサイトの蔵書検索ページでは、雑誌を除く図書で「装幀・挿画者名」での検索が可能になっていますし、日本近代文学館さんのサイトの検索ページでも、個々の図書の注記欄に「装幀・誰々」と記述があればフリーワード検索で引っかかります。また、各地の文学館さんでも装幀に的を絞った企画展等が散見されます。しかし、確かにまだまだですね。

ちなみに光太郎に関しては、昭和48年(1973)、春秋社発行の『高村光太郎 造型』(『高村光太郎選集』別巻)に、その時点で把握されていた光太郎装幀、題字揮毫の書籍の図版が全て掲載されていますし、平成12年(2000)に静岡アートギャラリーさんで開催された「高村光太郎の書 智恵子の紙絵」展で、光太郎装幀、題字揮毫の書籍を多数展示して下さいました。

どうも当方の感覚としては、全体の装幀を手がけたものと、題字揮毫のみのものと、厳密に区別する必要性をあまり感じません。ただ、光太郎にしてみれば、題字を揮毫してあげたのに、装幀全体は気に入らない、みたいなケースはあったかもしれません。カラフルな表紙の色と、光太郎の枯淡的書体が合っていないと感じる書籍も実在します。

いずれにせよ、かわじ氏の提唱される「装幀者の地位向上」的な動きは、もっとあっていいと思われます。

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【折々のことば・光太郎】

人物がよく把握されており、瑣末的技巧におちいらず、彫刻としての構造も堅固であり、動勢も強く、全体としての魅力に富み、生きている。この生命観がその頃の一般彫刻に欠けていたのである。

散文「荻原守衛 北條虎吉肖像」より 
昭和26年(1951) 光太郎69歳

盟友・荻原守衛の作品評ではありますが、結局、光太郎自身が目指す彫刻の在り方が表現されているような気がします。

こういうケースは結構あるように思われます(文学系でも)。

新刊書籍です。  

彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ

2018年6月30日  小田原のどか編集  トポフィル  定価2,700円+税

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彫刻とは何か?── 「空白の時代、戦時の彫刻」と「この国の彫刻のはじまりへ」の2つの特集を柱に、 8本の書き下ろし論考、2人の彫刻家へのインタビュー、鼎談、詩を収録。 この国が孤立主義と軍国主義に落ちこんでいった時代と併走し、国家権力の流れを映し出した「彫刻」に光を当てる。 彫刻をめぐる叢書「彫刻 SCULPTURE」創刊号(次刊は2019年夏、刊行予定)。

目次
 【巻頭言】小田原のどか「近代を彫刻/超克する」
 【インタビュー】小谷元彦「彫刻の変わらなさ」
 【詩】山田亮太「報国」
 ■特集I:空白の時代、戦時の彫刻
  平瀬礼太「戦争に似合う彫刻」
  千葉慶「公共彫刻は立ったまま眠っている──神武天皇像・慰霊碑・八紘一宇の塔」
  椎名則明「鑿の競作──《和気清麻呂像》建設を巡る諸問題」
  迫内祐司「近代日本における戦争と彫刻の関係──全日本彫塑家連盟を中心に」
 【鼎談】白川昌生+金井直+小田原のどか「『彫刻の問題』、その射程」
 ■特集II:この国の彫刻のはじまりへ
  金子一夫「工部美術学校の彫刻教育の歴史的意義」
  髙橋幸次「ロダンの言説輸入と高村光太郎──「道」について」
  田中修二「彫刻と地方(試論)──朝倉文夫と北村西望の場合から」
  小田原のどか「空の台座──公共空間の女性裸体像をめぐって」
【インタビュー】青木野枝「彫刻という幸いについて」
[資料]マップ・年表・索引


文字色を変えて目立つようにしましたが、日大芸術学部さんの教授で、連翹忌にもご参加下さり、このブログにもたびたび登場されている髙橋幸次氏による論考「ロダンの言説輸入と高村光太郎──「道」について」が掲載されている他、他の箇所でもたびたび光太郎、それから光太郎の父・高村光雲に言及されています(索引がついているので、ありがたいかぎりです)。

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amazonさんで註文をしておりまして、届くのが来月初めとのことでしたが、昨日届きました。「早いな」と思って開封してみると、なんと「謹呈」の文字。髙橋先生のご指示だそうで、大感謝です。amazonさんの方はキャンセルいたしました。

髙橋先生以外にも、平成25年(2013)に刊行された『彫刻と戦争の近代』著者の平瀬礼太氏(以前は姫路市立美術館さんにお勤めでしたが、愛知県美術館さんに異動されているようです)、平成6年(1994)刊行の『近代日本最初の彫刻家』を書かれた田中修二氏(大分大学教授)など、見知ったお名前も多く、「ほう」という感じでした。

500ページ超の厚冊ですが、それだけに読み応えがありそうです。また、「彫刻を巡る叢書」の第1巻という位置づけだそうで、第2巻は来夏の刊行とのこと。すばらしい取り組みです。

それから、奥付によると、彫刻家の小田原のどか氏が「編集・造本・発行」となっており、なるほど、インパクトのある装幀ですし、中身も美しく仕上がっています。図版も多く、理解の手助けとなっています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】002

手法は相当荒々しいけれど確かに彫刻になつている。当時のお人形じみた日本の彫刻の中にこんなものが作られているのはおもしろい。

散文「荻原守衛 銀盤(柳敬助像)」より
 
和26年(1951) 光太郎69歳

昨冬、信州安曇野の碌山美術館さんで、学芸員の武井敏氏との対談形式による美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」をやらせていただき、レジュメ作成のために、改めて光太郎が荻原守衛について書いたものを読み返してみました。明治末に彗星の如く現れ、強烈な光芒を遺して逝ってしまった守衛に対し、的確な讃辞が与えられています。それも、盟友としての身びいきに終始することなく、批判すべきところは批判しつつ、しかしそれを差し引いてもどれだけ守衛の彫刻を認めていたかが、文章の端々から伝わってきます。

そして、今日ご紹介した一節にしてもそうですが、守衛が亡くなって数十年経った光太郎最晩年まで、そのスタンスが不変だった点に、守衛に対する敬愛の念の深さを改めて感じます。

上記『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』では、守衛についてもかなり言及されています。

NHK文化センターさんによるカルチャースクール講座で、光太郎の父、高村光雲の師である高村東雲の末裔にあたられる三代高村晴雲氏による彫刻の実技講習です。 

佛像彫刻入門

期 日 : 2018年7月7日(土) ・ 7月21日(土) ・ 8月4日(土) ・ 8月21日(土) 
       9月1日(土) ・ 9月15日(土)

会 場 : NHKカルチャー横浜ランドマーク教室 
       横浜市西区みなとみらい2-2-1ランドマ-クプラザ5F
時 間 : 13:00~17:00
料 金 : 40,435円
講 師 : 高村晴雲氏

彫刻刀の扱い方から、地紋彫り、線彫りの天人像、立体佛へと進みます。各人の進度にあわせてじっくりと指導していきます。

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同じNHKカルチャー横浜ランドマーク教室さんで、同一の講座が4月から6月にかけて、やはり全6回で開講されていましたが、人気が高いのでしょうか、すぐさま次の全6回です。

光雲一派の流れを汲む伝統の木彫、その火が絶えることなく受け継がれていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

モデルは車屋であつたようだが、制作には卑俗なものが感じられず、人物のよさを正直に出している。こういう初期の草創時代を経て日本の近代彫刻はだんだん発達してきたのである。

散文「長沼守敬 老夫」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

長沼守敬は、安002政4年(1857)の生まれ。光太郎より一世代前の彫刻家です。父・高村光雲を別格とすれば、この世代で唯一、光太郎が認めていた彫刻家でした。ただし、あくまで次世代の自分たちが乗り越えるべき守旧派として、です。長沼以外の同世代の彫刻家は、乗り越えるとか何とか、そういう対象としての認識すらしていません。

「老夫」は明治31年(1898)頃の作。翌年には東京美術学校に塑像科が設けられ、長沼が初代教授に任ぜられています。長沼は明治21年(1888)、開校前の準備期間から彫刻科の臨時職員でした。

モデルの車夫に関しては、光太郎の回想が残っています。昭和30年(1955)の散文「モデルいろいろ」から。

最初に来たモデルは四十歳位の男で、人力車夫といふことであつた。裸になつてモデル台に立つたが、褌をしたままであつた。先生は居らず生徒達には文句をいふ権利がなかつたので、そのまま油土を仕事台にのせて一尺二三寸の塑造をはじめた。どこからどう作ればいいのか指導者が一人も居なかつた。そのうち山田先生が紋付袴でやつて来られて部屋に入るなり、モデルの車夫を叱りとばした。なぜ褌を取らんかといふのである。車夫はお菊婆さんとの約束でこれでいいんだと言ひ張る。先生は、ここは学校だ。そんな我がままは許さん。美術の手本になるのが分からんか、といふやうなことをいつていやおう言はせぬ勢でモデルをやつつけた。車夫も弱つたやうであつたが、ぢや、いよいよお開帳か、と言ひながら褌を取つてモデル台に立つた。(略)この車夫が今日ぎりで、明日は来なくはないかといふ心配が起り、大いに車夫にサービスした。車夫は翌日も来た。それからずつと美術学校のモデルをつづけてゐたやうである。

「山田先生」は山田鬼斎、「お菊婆さん」は、モデルの周旋をしていた老女です。

この人物がモデルと知っていたので、「卑俗なものが感じられず」としたのでしょう。「こういう初期の草創時代を経て日本の近代彫刻はだんだん発達してきた」という、その一端も光太郎が担っていました。その草創期のままにとどまらなかったところが光太郎の光太郎たるゆえんですが。

皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんでの企画展示です。4月から始まっていますが、展示替えに伴い、光太郎の父・高村光雲作の木彫が、来月から展示されます。 

第80回展覧会 明治の御慶事-皇室の近代事始めとその歩み

会 期 : 平成28年4月28日(土)~8月5日(日)
      前期:4月28 日~5月27日 中期:6月2日~7月1日 
      後期:7月7日(土)~8月5日(日)
休館日 : 毎週月・金曜日 7月16日(月・祝)は開館し7月17日(火)は休館
時 間 : 午前9時~午後4時45分(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 無料

慶応3年(1867)正月に明治天皇が践祚し,同年12月には王政復古の大号令が発せられます。これは,平安時代からの摂関制と,鎌倉時代以来の武家政治の終わりを告げるものでもありました。翌年には正月に天皇の御元服儀,8月に即位礼が挙行され,その直後に改元が行われて,若き天皇とともに明治という時代が幕を開けたのです。欧米列強と肩を並べるために,天皇を中心とした近代国家の形成は急務であり,天皇および皇族の新たな役割が模索されることになります。それは,主に儀礼をつかさどる存在であった近世の朝廷とは大きく異なるものでした。
まだ戊辰戦争が継続する中,京都御所紫宸殿で行われた即位礼では,儀式の次第は古制をほぼ踏襲しながらも,参加者の服制や式場の鋪設は日本の本来的,理想的なあり方に戻そうと努めるなど,新旧の要素をうまく結合させた新しい天皇の姿を示そうという姿勢がうかがえます。
そして,明治2年(1869)以降,政治の中枢は京都から東京へと移り,明治21年になると近代国家としての行事を行うのにふさわしい明治宮殿も竣工しました。その後,明治27年の天皇大婚二十五年の祝典や,同33年の皇太子(大正天皇)御成婚といった御慶事のたびに,海外諸国の例も参考としながら盛大な儀式,祭典が開催され,内外に対して広く近代皇室の姿が公開されていきました。
三の丸尚蔵館では平成19年に,皇室の御慶事が相継いだ大正時代をテーマにした展覧会「祝美(いわいのび) ―大正期皇室御慶事の品々」を開催しました。その前段階にあたる明治時代の御慶事および皇室の諸行事に関する三の丸尚蔵館所蔵の美術品や書陵部の資料を,明治150年にあたるこの年に紹介します。本展が,様々な模索を通して近代皇室の基盤が整備されていく,明治という時代の重要性を再認識していただく機会となれば幸いです。

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光雲作品は、「文使」。明治33年(0031900)頃の作です。材は桜、50センチほどの高さです。

「文使」は、文書を届ける役人です。服装が闕腋袍(けってきのほう)ですので、飛鳥時代から平安時代のものです。文書を収めた柳筥(やなぎばこ)を捧げ持ち、かしこまる姿を表しています。

光雲は明治30年(1897)に古社寺保存委員会委員に任ぜられ、翌年には京都、奈良、滋賀、和歌山と2府2県を廻る出張に出ています。その際に関心を持った古代の風俗を取り入れたと考えられます。

また、光雲が出仕していた東京美術学校の制服(教官・生徒とも)が、初代校長・岡倉天心の発案による、闕腋風のデザインでした。

だいぶ不評で、やがて廃止されましたが、光太郎が入学した明治30年(1897)当時はまだ残っており、光太郎の制服姿の写真も残っています。

下記画像、まずは教官。左から光雲、黒川真頼、岡倉天心、橋本雅邦、川端玉章です。明治27年(1894)のもの。

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こちらは細谷三郎(左)と光太郎(右)。細谷はのちに而楽(しらく)と号し、仏像修復の分野で活躍します。明治30年(1897)の撮影です。

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閑話休題。三の丸尚蔵館さん、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

光雲は仏師の旧套を脱して新時代の彫刻を創りだそうと努力し、当時日本にあまり扱われなかつた鳥や獣を好んで彫つた。刀法はふるいが、題材が新しいので、何かしら新鮮なものがとらえられ、また伝統的彫刻から写生の方向に赴くにつごうがよかつたのである。

散文「高村光雲 老猿」より
 昭和26年(1951)
 光太郎69歳

光太郎晩年に書かれた光雲評です。重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)について。この作は東京国立博物館さんに所蔵されており、常設ではありませんが、時折、展示されます。現在も並んでいるようです。

岐阜県から企画展情報です。

驚異の超絶技巧!明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2018年6月30日(土)~2018年8月26日(日) 
会 場 : 岐阜県現代陶芸美術館 岐阜県多治見市東町4丁目2-5
時 間 : 午前10時~午後6時
料 金 : 一般 900(800)円 / 大学生 700(600)円 / 高校生以下無料
      ※( )内は20名以上の団体
休館日 : 月曜日 7月17日(火) (ただし、7月16日(月)は開館

 近年、明治工芸に対する注目度が飛躍的に高まってきました。陶磁、七宝、金工、牙彫、木彫、漆工、刺繍絵画など、おもに輸出用としてつくられた工芸作品が海外から里帰りし、多くの人が瞠目するようになったのです。2014年から翌年にかけて、当館など全国6会場を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋」展は、そんな明治工芸再評価の機運を盛り上げるための画期的な展覧会でした。

 大好評を博したその企画の第2弾として、明治工芸と現代アートの超絶技巧が対決する展覧会を開催します。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎ、超絶技巧プラスαの機知に富んだ現代作家の作品も多数展示します。

参加現代アーティスト(五十音順)
青山悟(刺繍)、稲崎栄利子(陶磁)、臼井良平(ガラス)、大竹亮峯(木彫)、加藤巍山(木彫)、佐野藍(石彫)、更谷富造(漆工)、鈴木祥太(金工)、高橋賢悟(金工)、橋本雅也(牙彫)、春田幸彦(七宝)、本郷真也(金工)、前原冬樹(木彫)、満田晴穂(自在)、山口英紀(水墨)

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案内にあるとおり、平成26年(2014)から翌年にかけ、日本橋の三井記念美術館さんから始まり、静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さん、富山県水墨美術館さん、そして今回と同じく岐阜県現代陶芸美術館さんを巡回した展覧会「超絶技巧! 明治工芸の粋」の第二弾です。

今回も皮切りは三井記念美術館さんで、当方、昨秋に拝見して参りました。光太郎の父・高村光雲の木彫「布袋」像が展示されていました。

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おそらく今回も展示されるはずです。ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに同展はこの後、9月7日~10月21日で山口県立美術館さん、11月16日~12月24日に富山県水墨美術館さん、さらに年が明けて平成31年(2019)1月26日~4月14日には大阪のあべのハルカス美術館さんを巡回予定です。それぞれ、また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

日本へ帰つて来てしまつてからは、滅多に会う機会もないけれど、今でもその面影は頭にあるし、好意をもつてその絵なども見ている。思い出すといい気持ちの人で、ああした人が頭の中に生きているということは愉快なものである。
談話筆記「パリの梅原龍三郎君」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

梅原龍三郎は、光太郎より5歳年少でした。光太郎が明治42年(1909)に留学を終えて帰国する際、貸借契約がまだ残っていたカンパーニュ・プルミエル街のアトリエを引き継いでくれました。当時から光太郎はパリに来ている他の日本人画家達より、頭一つ抜け出していると感じていたそうです。

思い出すといい気持ちの人で、ああした人が頭の中に生きているということは愉快なものである」と言われるような人物でありたいものですね。

雑誌系、いろいろ届いております。

昨年刊行された隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん、第8号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、毎号、「光太郎レシピ」というページが設けられています。太田村在住時の日記、周辺人物の回想などから、光太郎の食卓を再現する試みで、好評を博しているとのこと。今号は「アカシアの天ぷらとアカシアはちみつ入りヨーグルト」。なんともお洒落ですね。

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続いて『月刊絵手紙』さん、2018年7月号。こちらも花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

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今号は、詩「山菜ミヅ」(昭和22年=1947)。過日行われた花巻高村光太郎記念館講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」でも取り上げられた、光太郎がことのほか好んだ山菜を謳った詩です。

光太郎の書いたミヅのスケッチに活字版で詩の全文を添え、さらに見開き2ページで光太郎の詩稿を載せて下さいました。おそらく初出発表誌の『婦人公論』に送られたものと推定されます。


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もう1冊。静岡県の伊東市で刊行されている年刊の同人誌『総合文芸誌 岩漿』さん。詩や小説で、250ページ超の立派なものです。主宰の方が、光太郎とも交流のあった詩人・前田鉄之助に師事されたそうで、さらに光太郎を心の師として詩作に励んでこられたとのこと。で、当方が座談会の司会を務めさせていただいた今年の花巻高村祭においで下さったそうです。

その直後に、昨年刊行された第25号を送って下さいました。そちらの「編集後記」で光太郎に触れて下さっていましたが、1年前のものなのでこのブログではご紹介しませんでしたが、このほど今月刊行された第26号が届きました。こちらでも「編集後記」で光太郎に触れて下さっています。

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光太郎、というより、昨年亡くなった大岡信氏に関してがメインですが、ありがたく存じます。やはり静岡の文芸同人誌ということで、三島出身の大岡氏を取り上げられたのでしょう。


今後とも、さまざまなメディアに光太郎が取り上げられることを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

高田君が粘土をいじる巧みさは、これも不思議である。同君の手は料理人のいふ「ウマ手」に属する短い、太い、切つたやうな指を持つてゐる手であつて、一寸考へると、あの指がどうしてこんな繊細な技術に堪へるのかと思ふほどであるが、それがまつたく万能の指なのである。

散文「高田君の彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「高田君」は、高田博厚。17歳年長の光太郎と知遇を得、彫刻の道を志し、光太郎等の援助で昭和6年(1931)に渡仏、以後、30年近くをパリで過ごしました。早世した荻原守衛を除けば、光太郎が最も高く評価していた同時代の彫刻家です。

それに応え、高田は光太郎の歿後に帰国してからは、光太郎の胸像を製作したり、高村光太郎賞の選考委員を務めたりと、光太郎顕彰の先鞭をつけてもくれました。

「ウマ手」に関しては、他の散文に詳しく記述がありますので、またのちほどご紹介します。

昨日は、隣町の成田市立図書館さんに行っておりました。目当ては福島関連の報道。自宅兼事務所や、自宅兼事務所のある香取市の図書館さんでは入手できない新聞記事をゲットしてまいりました。

まず、6月10日の日曜日に、南相馬市で開催された「第69回全国植樹祭ふくしま2018 育てよう希望の森をいのちの森を」の報道。成田市立図書館さんでは、地方紙『福島民報』さんと『福島民友』さんが閲覧できます。おそらく東日本大震災に伴う福島第一原発の事故で、成田近辺に避難してきている方がいらっしゃるということへの配慮でしょう。

記事そのものはネット上で拝読できたのですが、やはり実際の紙面でどのように扱われているか気になり、閲覧いたしました。すると、想像していた以上に大きな扱いで、驚きました。

地元の高校生たちが演じた「智恵子抄」をモチーフにしたメインアトラクションに関するページのみ、カラーコピーを取って参りました。

『福島民報』さん。見開き2ページぶちぬきで、メインアトラクションはメインだけに大きな文字で見出しが付けられていました。さらに感心したのは、「主役」の二人――光太郎智恵子――以外の樹木や大地の精と思われる大勢の生徒さんの写真も大きく掲載していること。すばらしいですね。

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『福島民友』さんはグランドフィナーレの写真をメインに据え、やはり大勢の生徒さんの姿を捉えていました。

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続いて、別件ですが、『朝日新聞』さんの福島版に載った連載記事「(お湯ぶら)県北編:4 奥岳の湯 二本松市 白い湯の花「当たり湯」」。先週水曜日・13日の掲載です。

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こちらは、館内のパソコンで『朝日新聞』さんの記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」が利用できるので、それでプリントアウトして拝読しました。平成27年(2015)、安達太良山の登山口にオープンした「奥岳の湯」を紹介する記事ですが、左下の部分で光太郎太郎智恵子に触れて下さっています。「ほんとの空 高村光太郎の詩集『智恵子抄』の「あどけない話」に登場する。「阿多多羅(あたたらやま)山の山の上に毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」。


それから、たまたまなのでしょうが、17日の日曜日、『しんぶん赤旗』さんの別刷り日曜版でも、「ほんとの空」という題名で安達太良山を大きく紹介してくださいました。写真家・西田省三氏による連載「山の季」というコーナーで、まるまる1ページ取られています。

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福島県中部に位置する安達太良山1700㍍。詩人で彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」に出てくる智恵子の故郷の山で、「ほんとの空」のフレーズでもよく知られています。」という書き出しで始まっています。

『しんぶん赤旗』さんは、当方の住まう香取市の図書館さんでも閲覧できますが、そちらでは日曜版は外してしまっており、見られません。成田の図書館さんでは一緒に綴じて下さっていて、ラッキーでした。


「安達太良山」、そして「福島」といえば「ほんとの空」、となるよう、もっともっと「ほんとの空」の語が広まってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

美術家にとつて七十歳代は最も豊穣の十年である。

散文「三つの死」より 昭和15年(1940) 光太郎59歳

この年、相次いで亡くなった恩師と知友三人――日本画家・邨田丹陵、元東京美術学校校長・正木直彦、彫刻家・明珍恒夫――の追悼文の一節で、邨田丹陵の項の終末近くに出てきます。

美術家にとつて七十歳代は最も豊穣の十年」。88歳まで生きたミケランジェロを念頭に置いた表現でしょうが、奇しくも光太郎自身、この12年後、数え71歳になって、生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に取り組むことになります。

新潟から企画展情報です。 

中村屋サロンと會津八一 ~サロンにつどったアーティストたち~

期 日 : 2018年6月28日(木)~2018年9月2日(日) 
会 場 : 新潟市會津八一記念館 新潟市中央区万代3-1-1 メディアシップ5階
時 間 : 午前10時~午後6時
料 金 : 前売り 500円(一般のみ) 
      一般 600円 大学生 300円 高校生 200円 小・中学生 100円
         ※団体20名以上2割引、土日祝日は小・中学生無料
休館日  : 月曜日(祝日の場合はその翌日) 

 パンやカレーで知られる老舗食品メーカーの東京・新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻は芸術・文化に深い理解を示し、明治末期から昭和初期まで、若き芸術家らの活動を支援しました。中村屋には、彫刻家、荻原守衛(碌山)をはじめとする芸術家や文化人らが集うようになり、芸術・文化が薫るヨーロッパのサロンに例えられ、「中村屋サロン」として日本の近代美術史にその名を刻みました。
 會津八一(号・秋艸道人・1881〜1956)は、大正時代、相馬夫妻の長男を早稲田中学で教えたことが機縁で、相馬夫妻と深い関わりを持つようになりました。昭和20年、八一は東京空襲で罹災し新潟に帰郷してからは、上京のたびに相馬家に招かれ歓待を受け、昭和24年には中村屋で個展を開催しています。
 特別展では、中村屋所蔵の八一の墨蹟の名品を展示し、中村屋と八一との関わりを紹介します。また中村屋サロンゆかりの芸術家の秀作も紹介し、日本近代美術史に名を残したアーティストたちの躍動感あふれる作品を披露いたします。さらに、サロンの中心人物であった画家の中村彝が、生前に新潟県柏崎市で個展を開催した際の絵画も陳列し、新潟と関わりも紹介します。

出品作家
荻原守衛/戸張孤雁/高村光太郎/柳敬助/中村不折/中村彝/中原悌二郎/鶴田吾郎/堀信二/保田龍門/萬鉄五郎/棟方志功 など



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関連イベント

講演「中村屋創業の相馬愛蔵・黒光と若き芸術家たち」
 平成30年6月27日(水)13時30分〜15時  
 講師 : 太田美喜子氏(中村屋サロン美術館学芸員)
 会場 : 新潟日報メディアシップ 2階 日報ホール
 定員 : 150名                         
 参加費 : 500円

講演「近代日本美術史と中村屋サロンに集った作家たち」
 平成30年7月11日(水)14時~15時30分  
 講師 : 原田平作氏(大阪大学名誉教授、頴川美術館理事長
 会場 : 新潟日報メディアシップ 2階 日報ホール
 定員 : 150名                         
 参加費 : 500円

講演「東寺の歴史と會津八一」
 平成30年8月1日(水)13時30分~15時  
 講師 : 砂原秀輝師(東寺執事長)
 会場 : 新潟日報メディアシップ 2階 日報ホール
 定員 : 150名                         
 参加費 : 500円

体験講座「拓本と表装」
 平成30年8月18日(土)
  ①10時〜 ②11時10分〜 ③13時30分〜 ④14時40分〜 ⑤15時50分〜  
 講師 : 角田勝久氏(新潟大学准教授)
 会場 : 新潟日報メディアシップ 5階 會津八一記念館
 定員 : 各回6名                         
 参加費 : 1,500円


新宿の中村屋サロン美術館さんの収蔵品を中心にしたもので、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)が出品されます。同館収蔵品の目玉の一つで、現存が確認できている光太郎唯一の油彩自画像です。

會津八一は光太郎より2歳年長の歌人。荻原守衛の関係で光太郎が中村屋さんに出入りしていた明治末とはズレていますが、大正初期に中村屋さんの創業者・相馬夫妻の長男を早稲田中学校で教えていた関係で、中村屋サロンの一員となりました。

光太郎とは直接の交流はほ003とんどなかったようですが、ほぼ同年令で、ともに独特の書を残したことから、並び称されることが多く、平成19年(2007)には、現在地に移転前の會津八一記念館さんで、特別展「會津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」を開催して下さいました。

今回は、光太郎と交流の深かった荻原守衛、戸張孤雁、柳敬助、智恵子の絵画の師であった中村不折などの名品も並びます。当会主催の連翹忌にもご参加下さっている太田美喜子氏の講演会など、関連行事も充実しています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一国の芸術界には常にその中央にかかる犯し難い実力ある翰林派の存在を必要とする。前衛者は常に此に挑戦する。そして常に新らしい生命は生まれる。挑戦すべき権威者も無い芸術界の薄弱さは斯界今日の現状に見よ。

散文「長沼守敬先生の語るを聴く」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「翰林派」は伝統と格式を重んずる保守的な一派の意。光太郎が敬愛したロダンにせよ、印象派の面々にせよ、そして光太郎も含め中村屋サロンに集った芸術家達にせよ、乗り越えるべき前代の保守的な一派が大きく立ちはだかっていたからこそ、それを打ち破らんとして新しい芸術が生み出せたというわkで、逆説的に芸術におけるアカデミズムを肯定する論調です。

また後ほど詳しくご紹介いたしますが、来月14日(土)から、光太郎第二の故郷・岩手花巻の高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎と花巻電鉄」が開催されます。かつて花巻を二本の路線が走っていて、光太郎もたびたび利用した花巻電鉄にスポットを当てた企画展示です。

目玉は光太郎が暮らしていた頃の戦後の花巻を表現したジオラマ。もちろん、花巻電鉄の電車も走ります。製作は品川区大井町ご在住のジオラマ作家・石井彰英氏にお願いしました。

以前に石井氏から智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院を含む昔の大井町のジオラマを撮影したDVD「小さなパラダイス 昔の大井町あたり」をいただき、そのクオリティに感銘、高村光太郎記念館さんで花巻電鉄に関する企画展も考えているというので、それなら石井氏にジオラマを作っていただこうと、ご紹介した次第です。

昨年9月には、現地花巻でのロケハン。その前後からたびたび石井氏の工房にお邪魔し、全体の配置やどんな建造物を入れるかなどの相談に乗らせていただきました。高村光太郎記念館さんや、隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の北山編集長などにもご意見を伺い、ほぼ1年かけて、ついに完成。昨日、石井氏の工房から花巻に搬出されました。

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パネルは4分割されており、まず花巻町中心街。学術的な実測に基づく設計ではありませんので、かなりデフォルメされていますが、各建造物(光太郎にゆかりのあったものをピックアップしました)の大まかな位置関係はほぼ正確です。

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この線路をミニチュアの電車が走ります。石井氏苦心の作です。

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向かって左の方に、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)を含む旧太田村。

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その上に、大澤温泉さんや鉛温泉さんなどの花巻南温泉郷。少し離れて花巻温泉さんも。

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全部あわせると、畳一畳をゆうに超える大きさです。人形は500体超、樹木は300本以上。自動車はシボレーやフォードなどのものを海外から取り寄せられたそうです。

遠く花巻から搬出のためのワゴン車。

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あいにくの雨でしたので、濡れないよう注意を払いつつ、5階の工房から下ろして積み込みました。

これ以外にも、石井氏はご自分の作品をビデオ撮影されてDVDにまとめられることをなさっており、そちらに登場する東京千駄木の光太郎アトリエ、福島二本松の智恵子生家・長沼酒造なども。

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こちらも別個に展示して下さるとのことです。

こちらもまた後ほど詳細をご紹介しますが、DVDは記念館さんでも販売して下さるそうで、ぜひお買い求め下さい。ミュージシャンでもある石井氏とそのお仲間さんたちによるオリジナルの光太郎智恵子トリビュート音楽、花巻高村光太郎記念会・高橋邦広事務局長の篠笛演奏がバックに使われています。ナレーションやテロップは当方が執筆させていただきました。

街の喧噪、牛馬のいななき、鳥のさえずり、そして人々の息づかいまで聞こえてきそうな作品です。7月14日(土)~11月19日(月)までと、長めの期間設定になっています。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私はまるで自分とちがふ軌道を運行する此の力ある巨星の立派な芸術を見る事に、今は深い興味と予期とが持てるやうになつた事を自らよろこんでゐる。
散文「旧友石井柏亭氏」より 昭和7年(1932) 光太郎51歳

明治末、光太郎と「地方色」論争を起こし、その結果「日本初の印象派宣言」とも言われる評論「緑色の太陽」を書かしめた画家・石井柏亭へのエールです。青年期は自らの考えに合わない絵画や彫刻には一切の価値を認めないというスタンスだった光太郎も、さすがに壮年期に入り、丸くなったようです(笑)。

まずは17日、日曜日の『神戸新聞』さん。一面コラムの「正平調」。

正平調 2018/06/17

作家黒井千次さんの父は90歳で亡くなった。四十九日の法要を済ませた後、残された本を整理しようと入った部屋で1本の黒い万年筆を目にする。握りが太く、吸入式の外国製である◆何げなくキャップを取り、ペン先を走らせて驚く。すらすらと書けた。生前に入れたインクが残っていたのだ。「そこにだけ、まだ父は生きている」。そんな不思議な感慨を覚えたと、エッセーで書いている◆そこにだけ、まだ父は生きている。あるとき、ある瞬間、そんな思いにかられることは間々ある。昨年、牧場を経営する弓削忠生(ただお)さんに書いていただいた本紙「わが心の自叙伝」でも遺品のくだりが印象に残った◆牧場をどう続けるか、決断に迫られていたときのことだ。73歳で生涯を閉じた父の遺品に、彫刻家で詩人、高村光太郎の詩を見つけた。高村は開拓の精神をたたえる詩を残したが、その一節を書き写していた◆「読んでいると、父の思いが見え隠れしているように思えた」。で、意を決したそうだ。難しい課題はあるが、父が挑んできたことに取り組もう、牧場を残し続けようと◆きょうは父の日だ。感謝の贈り物もいいが、もし他界しているのなら、引き出しの奥に眠る遺品を手に取るのもいい。どこかで、まだ父は生きている。

光太郎がメインではありませんが、『神戸新聞』さんの「正平調」、よく光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。


続いて、同じく17日の『毎日新聞』さん、読書面。 

今週の本棚・新刊 『高村光太郎論』=中村稔・著(青土社・3024円)

 高村光太郎の詩「寂蓼(せきりょう)」が、漱石「行人」中に描かれた近代人の内面「かうしては居られない、何かしなければならない、併(しか)し何をしてよいか分からない」に酷似しているという指摘から始め、光太郎の西欧体験を辿(たど)り、智恵子との出会いを探る。西欧との齟齬(そご)、日本との齟齬に悩む新帰朝者・光太郎の焦燥の背後には、一貫して「父光雲の脛(すね)をかじるつもりだったとしか思えない」自己中心的な甘えがあった。
 甘えは智恵子との間にもあった。「智恵子は東京に空が無いといふ」に始まる「あどけない話」を、「夫婦としての会話のない」悲劇的作品とする指摘など鋭い。光太郎の性欲は強く、智恵子は淡泊。それが智恵子発狂の遠因の一つだったとする。その孤独が詩篇「猛獣篇」を書かせ、智恵子の死後には、太平洋戦争下、厖大な戦争詩を書かせた。敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。これは通念を覆す指摘だ。
 著者は詩人、満九十一歳。『中原中也私論』『萩原朔太郎論』『石川啄木論』などに続く力作評論。頭脳の明晰と強靱(きょうじん)に驚嘆する。


中村稔氏著『高村光太郎論』の書評です。最後にあるとおり、満九十一歳の氏による書き下ろしの労作。まさにそのバイタリティーには驚かされます。「敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。」という部分には首肯できませんが……。


最後に、訃報を一つ。昨日の『朝日新聞』さんの朝刊を開いて目に入り、あらら……という感じでした。 

小峰紀雄さん死去

 小峰紀雄さん(こみね・のりお=小峰書店社長、元日本書籍出版協会理事長)10日、肝不全で死去、79歳。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
 児童書専門の同社で、原爆の惨状を伝える絵本「ひろしまのピカ」(丸木俊著)などの編集、出版を手がけた。

小峰書店さんからは、教育評論家の遠藤豊吉氏の編集による「若い人に贈る珠玉の詩集」、『日本の詩』全10巻が刊行されています。おそらく日本全国津々浦々ほとんどの小中学校さんの図書室に完備されているのではないでしょうか。全10巻中の「わたし」、「あい」、「しぜん」に、光太郎の詩が掲載されています。

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当方、うっかり気づきませんでしたが、一昨年には新版が刊行されたそうです。

そして、記事にもあるとおり、小峰書店さんと言えば、丸木位里・俊子夫妻の「ひろしまのピカ」。こういう良質な児童書を世に送り出して下さり、ありがとうございました、そして、お疲れさまでした、という感じです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あの高い哄笑とあの三題噺ももう聞かれないか。あの玄人はだしの落語もあのしんみりした鋭い批評も聞かれないか。あのうまさうな酒の飲みぶりも見られないか。
散文「岸田劉生の死」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

明治末には光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で個展を開き、大正初めのヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社、大調和展などで、光太郎と共に洋画の革新運動に携わった鬼才・岸田劉生。光太郎より8歳年下で、数え39歳の若さでの急逝でした。8歳も年長ながら、光太郎は岸田を「無條件に天才であつた」とし、その死を悼みました。

京都から展覧会情報です。

あっ!きのこの大B級仮装展

期 日 : 2018年6月23日(土)~2018年7月1日(日) 無休
会 場 : 学森舎 京都府京都市左京区超勝寺門前町89
時 間 : 12:00〜19:00
料 金 : 無料

あっ!きのこによる、紙工作で作ったチープな自撮り作品500点を展示します。名画や妖怪、キャラクターや有名人にあの手この手でなりきっています。6月23日19時30分〜はアウトサイダーキュレーター櫛野展正さんをお招きしてトークイベントを開催します。要予約で2000円(軽食付き)  是非お越しください。

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パロディー系(それも脱力系の)ア000ートの展覧会です。チラシがすでにボッティチェリの「プリマヴェーラ」のパロディーになっています。

元ネタは古今東西の有名な作品から、村山槐多などの少しマニアックなものまで幅広く、作者・あっ!きのこさんのサイトを見て、爆笑してしまいました。それぞれ悪意のあるパロディーではなく、リスペクト、というより元ネタへの「愛」に溢れています。

光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)も取り上げて下さいました。

元気の出る展覧会だと思われます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

物は一見するに如くはないが、一見する甲斐ある人と、甲斐なき人とある事は争はれない。スケツチ帖を厚くしに渡欧する人々も多い世の中である。

散文「画家九里四郎君の渡欧を送る」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

九里(くのり)四郎は光太郎より3歳年下。光太郎が彫刻科を終えてから再入学した東京美術学校西洋画科での同級生で、白樺派の面々とも関わっていますが、現代ではほぼ忘れられかけた画家と言っていいでしょう。

光太郎曰く、九里は「一見する甲斐ある」画家。他の箇所では「色彩に対して本能的な好趣味と理解力とを有(も)つてゐる」「此一事は実に芸術家の旅行券(パツスポオト)である」と激賞しています。

期 日 : 2018年6月29日(金) ※主催者サイトで「2017年」となっていますが誤りです
時 間 : 18:30開演 18:00開場
会 場 : 名古屋市 昭和文化小劇場  名古屋市昭和区花見通1丁目41番地の2
料 金 : 3,000円(全席自由・税込)

プログラム  :

 クレールピアノトリオ Clair Piano Trio
  大上良子<ピアノ>/髙橋弥生<ヴァイオリン>/中西みか<チェロ>
  J.ハイドン:ピアノ三重奏曲 第39番 ト長調 “ジプシー”Hob.XV-25

 西村麻衣子<トリプルオカリナ> ピアノ:伊藤真理子
  A.マルチェルロ:オーボエ協奏曲 ニ短調 より アダージョ
  L.アルディーティ:くちづけ
  N.パガニーニ:ラ・カンパネラ
  G.ディニク:ホラ・スタッカート

 本庄由佳<ソプラノ> ピアノ:加藤詩乃
  W.A.モーツァルト:オペラ「フィガロの結婚」より “美しい思い出はどこへ”
  V.ベッリーニ:オペラ「カプレーティ家とモンテッキ家」より “ああ、幾度か”
  G.ドニゼッティ:オペラ「アンナ・ボレーナ」より “私の生まれたあのお城”

 岩井奈美<メゾ・ソプラノ> ピアノ:比果沙織
  T.ジョルダーニ:カーロ・ミオ・ベン  A.スカルラッティ:陽はすでにガンジス川から
  A.ストラデッラ:教会のアリア
  G.ヴェルディ:哀れな男/オペラ「ドン・カルロ」より “呪わしき美貌”
  なかにしあかね:いつだったか/今日もひとつ/二番目に言いたいこと
  E.クルティス:忘れな草
  R.レオンカヴァッロ:朝の歌  A.ブッチ=ペッツィオ:ロリータ

 野村 朗<作曲> バリトン:森山孝光/ピアノ:森山康子
  歌曲「樹下の二人」(髙村光太郎『智恵子抄』より)

 <クラリネットデュオ>
  上中花寿奈&三摩恵里
  F.プーランク:2本のクラリネットのためのソナタ
  B.H.クルーセル:クラリネット二重奏曲 第3番 ハ長調

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以前から光太郎詩に曲をつけた作品を発表なさっている、名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏の「樹下の二人」が演奏されます。

この曲は、昨年、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~」において、メゾソプラノの星由佳子さん、ピアノで倉本洋子さんによる演奏で初演され、今年3月には東京墨田区のすみだトリフォニーホール さんでの「第29回 21世紀日本歌曲の潮流」で、今回と同じ森山孝光・康子夫妻により演奏されました。

今度は野村氏の地元・名古屋での初披露ということになるかと存じます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

善い夢を見てゐる途中で眼がさめた、その先きが思はれてならないといふ感じである。荻原君は此から製作をする人であつた。荻原君を思ふと、此から先きの製作、まだ人の目に入つて来ない芸術の方が此までに作られたものよりも強く頭を刺激する。

散文「死んだ荻原守衛君」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

この年4月、光太郎より4歳年長の荻原守衛は、おそらく静脈瘤の破裂により、数え32歳の生涯を突然閉じました。共に手を携え、この国に新しい彫刻を根付かせようとしていた同志の死に、光太郎は衝撃を隠せません。同じ文章では「その荻原君が死んだ。僕は近ごろ斯んな理不尽な目に逢つた事がない」とも記しています。

今年の連翹忌に初参加いただいた、書家の菊地雪渓氏よりご案内を頂きました。 

第38回日本教育書道藝術院同人書作展

期 日 : 2018年6月27 (水)~7月8日(日)
時 間 : 10:00~18:00 初日は12:30開場
会 場 : 国立新美術館 2階展示室(2CD) 東京都港区六本木7-22-2
休 館 : 7月3日(火)
料 金 : 無料
主 催 : 日本教育書道藝術院
後 援 : 東京新聞

第38回日本教育書道藝術院同人書作展を6月27日より、港区六本木の国立新美術館にて開催致します。横幅寸法無制限、本展ならではの力作・大作が今年も展示されます。ぜひご来場ください。

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「智恵子抄」を題材とした菊地氏の書が並ぶそうです。

流派などによって定義が違うようですが、「近代詩文書」というカテゴリーがあります。近代詩人の詩の一節などを書にするというものです。光太郎文筆作品をモチーフにしていただくケースも多く、ありがたく存じます。

やはり平易な口語自由詩が中心でわかりやすく、それでいて日本語の美しさに敏感だった光太郎の詩、さらに内容的にもポジティブで健康的なものが多いからでしょうか、好んで取り上げられるようです。また、光太郎自身が味のある書をたくさん遺したことも無縁ではないかもしれません。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】000

フアンにはフアンの世界があつて、時によると正体と無関係の展開もしかねない。ひいきの引き倒しとよく言ふが、一度はそこまで行かないと透徹しないものだ。
散文「アンドレ ドラン」より
昭和2年(1927) 光太郎45歳

アトリヱ社から刊行された『ドラン画集』に寄せたやや長文の解説文の一節です。

アンドレ・ドランは光太郎より三歳年長の仏人画家。いわゆる野獣派(フォービズム)を展開し、欧米留学からの帰国後に光太郎がたくさん描いた油絵の数々に影響を与えています。

光太郎はドランと直接の面識はありませんでしたが、彼の絵のファンであると公言していました。

光太郎ファンとしては、上記光太郎のファン論にも、「そうそう」と首肯させられます。

今年2月に都内で公演があった演劇が、西日本へ巡回します。 

ひとり芝居プロジェクト新作公演 立本夏山 智恵子抄

尼崎公演
 期 日  : 2018年6月26 (火)
 時 間 : 19:00~20:00
 会 場 : 兵庫県立尼崎青少年創造劇場 ピッコロシアター 兵庫県尼崎市南塚口町3-17-8
 料 金 : 前売り:2,000円 /  当日:2,500
 申 込 : 市川 080-4164-4150 mail@kazan-office.com

 期 日  : 2018年6月28 (木)
 時 間 : 19:00~20:00
 会 場 : シアターねこ 愛媛県松山市緑町1-2-1
 料 金 : 前売り:2,000円 /  当日:2,500
 申 込 : mail@kazan-office.com
 備 考 : 6月27日(水)19:30~ プレトーク&パフォーマンス開催

 期 日  : 2018年6月30 (土)/7月1日(日)
 時 間 : 6/30 19:00~20:00   7/1 14:00~15:00 19:00~20:00
 会 場 : ミニシアター蛸蔵 高知県高知市南金田28
 料 金 : 前売り:1,500円 /  当日:2,000
 申    込 : mail@kazan-office.com
 備    考 : KOCHI演劇祭参加

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話題作「智恵子抄」が早くも兵庫尼崎、愛媛松山、高知の3都市で続演される。

夏山は2014年にArt Chiyodaで行われた千代田芸術祭で太宰治の小説「駆込み訴え」を題材にした一人芝居で伊藤千枝賞を受賞するなど、文学を扱った一人芝居も多数手がけてきた。

高村光太郎の「智恵子抄」は光太郎が智恵子に出会って恋に落ちてから、同棲、結婚。闘病、死別、そしてその後、約30年にわたって書いた智恵子についての詩をまとめた詩篇である。

光太郎は彫刻家、智恵子は画家、芸術を志す者同士のお互いを求め合う、愛を越えた絆。俳優の動きを際だたせるシンプルな舞台装置、陰影に富んだ照明、洗練された舞台空間で、濃密かつ重層的に繰り広げられる言葉。

光太郎の情熱的な愛の言葉の濁流に立木夏山がどう挑んでいくのか、見どころです。


お近くの方々、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

 Shûkyôga to iwareru mono wa, mukashi kara dossari atta ga, kindai ni okeru hontô no imi no shûkyôga to iu beki mono wa Millet no “Angelus” de aru. Kore wa Shûkyôjô no gishiki ni tsukau Christ ya Maria nado no e no yô ni tada katachi dake no Shûkyôga to wa chigau. Honrai geijutsu wa mina Shûkyôteki de aru ga, kindai ni oite Millet no e hodo Shûkyôteki na mono wa sukunai.

散文「“Angelus”」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

雑誌『ローマ字』に寄せた文000章ですので、全篇ローマ字表記です。ローマ字の普及運動を展開していたこの雑誌に共鳴した光太郎、たびたび寄稿しています。上記は書き下ろしですが、詩の旧作をローマ字にしたものなども掲載されています。印刷は福音印刷。村岡花子の義父・村岡平吉が社主でした。

上記を書き下すと、以下の通り。

宗教画といはれるものは、昔からどつさりあつたが、近代における本当の意味の宗教画といふべきものはミレーの「晩鐘」である。こらは宗教上の儀式に使ふキリストやマリアなどの絵のやうにただ形だけの宗教画とは違ふ。本来芸術は皆宗教的であるが、近代においてミレーの絵ほど宗教的なものは少ない。

この後、ミレーの簡略な、しかし的を得た評伝が続きます。

「晩鐘」は、1857年頃(日本では安政年間)の作です。

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昨日に引き続き、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻からの情報です。

地元紙『岩手日日』さんから。 

地域の魅力 色鮮やかに ギャラリーBun 多田さんがポスター展 花巻

 花巻市の元教諭で絵画サークル講師多田民雄さん(83)の作品展は、同市円万寺のアートスペース・ギャラリーBunで開かれている。地域の自然や名物に目を向け、色鮮やかなポスターに仕上げた20点を展示。多くの市民らが会場に足を運び、花巻の魅力を再確認している。25日まで。
 同市高松にアトリエを持つ多田さんが、なめとこ山や胡四王山などを描いた「イーハトーブの山々」シリーズなどを出品。ほかに高村光太郎記念館や花巻人形、早池峰神楽などを題材とした作品も並ぶ。サイズは変形10号、ポスターカラーを用いて描かれている。
 このうち「花巻で良かった」は、マルカンビル大食堂のソフトクリームを紹介した一枚。名物の10段巻きに客の満足顔を重ねた仕上がりがほほ笑ましく、ひときわ鑑賞者の目を引いている。
 多田さんは同市高松生まれで、花巻中学校に15年間勤めるなど、長年古里の教育に尽力。花巻への愛着もひとしおで、「病気をした時に先輩教師に冬のくらかけ山に連れて行ってもらい、大自然に感動した。若い頃は自分のことばかりだったが、今は周囲に生かしてもらっているという思いが強い」と、地元に寄せる思いを語っている。
 午前11時~午後5時。火、水曜休廊。問い合わせは同ギャラr-=0198(23)7275まで。

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まったく花巻は絵になる場所や風物の宝庫です。

記事にあるマルカン大食堂のソフトクリーム、当方も一度、作法に従い割り箸で頂きました(笑)が、「ハンパない」の形容がぴったりです。

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上記は、昨年創刊された花巻の情報誌『まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんから。


郊外旧太田村の、光太郎曰く「ここの疎林がヤツカの並木で、/小屋のまはりは栗と松。」(詩「案内」昭和24年=1949)という、緑に囲まれた山小屋(高村山荘)、高村光太郎記念館も、非常に絵になるビュースポットですね。

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ぜひ足をお運びください。

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【折々のことば・光太郎】

彼の群像のグルウピング、彼の人物のポオズの動勢。さういふものが皆彫刻家たる私を打つ。彼の画を見るといつでも強い電撃のやうなものを、私自身の彫刻本能にうける。あんな美しい感じの彫刻を一つでも作りたいと思ふ。

散文「ブレエクのイマジネエシヨン」より
 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「ブレエク」は、ウィリアム・ブレイク。18~19世紀の英国人画家です。ダンテの『神曲』の挿画を描いたことで知られています。

おそらく光太郎が傾倒したロダンも、大作「地獄の門」制作に際して参照したのではないでしょうか。

先週9日、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が実施されました。

地元紙『岩手日日』さんの報道。 

光太郎 より身近に 記念館講座 ゆかりの地巡る

 高村光太郎記念館講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」は9日、花巻市内で開かれた。参加者は詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)ゆかりの地をバスで巡ったり講話に耳を傾けたりして、花巻で一時期を過ごした偉人に思いをはせた。
 1945年に花巻に疎開し旧太田村山口の小屋で戦後7年間、地域の人たちと交流しながら暮らした光太郎への理解を深めようと同記念館が毎年開催。市内から親子ら約30人が参加した。
 同市桜町の桜地人館や詩人で童話作家の宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩が刻まれた詩碑を見学後、同市太田の高村山荘に移動。花巻高村光太郎記念会のメンバーや花巻観光協会ボランティアガイドの説明を受けながら、光太郎が暮らした小屋や展望台、光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた詩碑など山荘一帯を歩いて巡った。
 ガイドらは小屋を2層のさや堂で覆い保存していることや、展望台がある高台から光太郎が妻智恵子の名を叫んでいたこと、詩碑の下には光太郎のひげが埋められていることなどを紹介。参加者はメモしながら聞き入っていた。
 同市東和町安俵、主婦小原由起子さん(43)は、長男佑太君(7)と初めて参加。「光太郎のことを知るきっかけになればと思って参加した。大変な暮らしだったことが分かった」と改めて理解を深めた様子。佑太君は「学校の勉強と違って観察したりいろいろなものを見つけたりすることができて面白い」と楽しんでいた。
 参加者は昼食で光太郎の日記から再現した食事を味わい、講話にも耳を傾けた。

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その後、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフ女史からメールで詳細なご報告や画像が送られてきましたので、捕捉します。

郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺散策の際の資料。「見つけよう!」だそうです。

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いかにも自然が豊かな場所だというのが分かりますね。

こちらは、光太郎が好んで食べ、詩にもしている山菜・ミヅ。正式にはウワバミソウというそうです。当方も先月行われた第61回花巻高村祭の折にいただきました。シャキシャキした食感がよく、また、食べきれずに持ち帰った分は、うどんに入れて山菜うどんにしてみましたが、goodでした。

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その後、古民家を改修して集会所的に活用している「新農村地域定住交流会館・むらの家」で、地区の祭りに参加、地元の太田小学校の子供たちに混じって、餅つきや魚つかみに挑戦したそうです。

昼食は記事にあるとおり、光太郎の日記から再現された弁当。ラベルは特製のようです。

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箸袋にメニューが記載されていますが、よもぎ御飯、そば粉パン、ホッケのトマトソース、シュークルート、ミヅの吸い物、焼き鳥、煮豆、ヨーグルトだそうです。商品化してもいけるような気がします。


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昨年は当方も講師に加えていただき、光太郎文筆作品に記された星々の話をさせていただきましたが、その時のレジュメを転用し、天文サークルの方が講話「光太郎と星」をなさったり、星座早見盤の使い方の講習などを行ったりしたとのことです。

その後は記念館さんの自由見学だったそうです。


この手の地域密着型の講座――特に若い世代に向けて――というのは、非常に大切な試みだと思われます。

記念館さんでは、来月14日から、かつて花巻とその郊外の村々を結び、二つの路線が走っていて、光太郎もたびたび利用したた花巻電鉄にスポットを当てた企画展「光太郎と花巻電鉄」を開催予定です。ジオラマ作家の石井彰英氏にご協力いただき、光太郎が暮らしていた頃の昔の花巻とその周辺のジオラマを制作していただいており、そちらが展示される予定です。

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来週には、東京・大井町の工房から搬出だそうで、当方も立ち会う予定でおります。

また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

リーチの美は正統な伝統から生れながら、現代感覚の相当大胆な表現につき進んでいるが、病的のうるささには落ちていない。それはリーチの人柄の如き好ましい新である。恐らく健康な原始人の感覚を内蔵しているリーチの先祖がえりの新であろう。この新は下司ばつていない。とりすましていない。物欲しげでない。まして神々のへどではない。

散文「リーチ的詩魂」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

このところこのコーナーでご紹介している、バーナード・リーチの陶芸作品に関してです。他者の作品評ではありますが、光太郎自身の目指す芸術のあり方もよく表現されています。

昨日まで「第69回全国植樹祭ふくしま2018 育てよう希望の森をいのちの森を」関連の記事を書き続けましたが、もう一日、福島関連で。植樹祭とは別件ですが。

地元紙『福島民友』さんの記事です。 

プライドブルー...『ほんとの空』イメージ 6次化商品用デザイン

 NPO法人ふくしま飛行協会は本年度、「プライドブルー」と称した包装紙デザインを開発する。本県の「ほんとの空」などをイメージしたブルーで、県内の6次化商品のラッピングに用いて県産品の風評払拭(ふっしょく)やブランド力向上を目指す。10月にデザインを発表する。同NPOの斎藤喜章理事長は「県内にはいい商品がたくさんある。パッケージの面でお手伝いしたい」と話している。
 斎藤理事長が8日、福島民友新聞社を訪れ、明らかにした。県のふるさと・きずな維持・再生支援事業の採択を受けた「ジュエリーふくしま」事業の一環として取り組む。
 プライドブルーは包装紙デザインの総称で、商標登録して県民が誰でも使用できるようにする方針。詩人・彫刻家の高村光太郎が二本松市出身の妻智恵子との愛をつづった「智恵子抄」に登場する「ほんとの空」の青が、県民にとって誇りであることなどから名称を決めた。
 同NPOは3日に開いた総会で本年度事業計画を決めた。ジュエリーふくしま事業のほか、市内の小、中学校を上空から撮影し、ふくしまスカイパークの展示場に地図とともに掲示する事業などにも取り組む。また役員改選で、斎藤理事長と猪口春生副理事長、レッドブル・エアレース・チャンピオンシップに参戦している室屋義秀副理事長、大竹隆監事を再任した。任期は2年。
 斎藤理事長は「昨年は室屋選手が大活躍した。航空教室など家族で楽しめる事業も行っていきたい」と語った。甚野源次郎顧問、山本俊平理事補も訪れた。


農林水産業などの第一次産業が食品加工・流通販売にも業務展開している経営形態を「6次産業」と呼び、そこで生産されるものを「6次化商品」というようです。先週のこのブログでご紹介した安達東高の生徒が作る蜂蜜「あいさつ坂」や、それを使った新商品「安達ハチミツと有機レモンのドレッシング」などもその一例でしょうか。

その「6次化商品」などの包装紙用のデザインに、「ほんとの空」をイメージした「プライドブルー」だそうで、広まってほしいものですね。

デザインはこれから作成され、10月(奇しくも智恵子忌日・レモンの日も10月です)に発表されるようですが、続報に注意していたいと思います。

ちなみに記事の最後の方にレッドブル・エアレース・チャンピオンシップの室屋義秀選手の名が。室屋選手、選手活動だけでなくNPOの役員も務められていたとは存じませんでした。先月末に行われた今年の千葉大会は、残念ながら途中棄権の扱いになってしまいましたが、捲土重来を期してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

思出は人を古風にする。ああどんなにわかわかしい熱情を以て二十六年前の私達がこれ等の芸術家及び芸術について語り合つたことかと言つてみたい。

散文「二十六年前」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳

「私達」は、このところこのコーナーでご紹介している、バーナード・リーチと光太郎です。「これ等の芸術家」は、オーガスタス・ジョン、モネ、ロダン、セザンヌなど。明治末のロンドンで、芸術論を闘わせた若き日々を懐かしんでいます。

昨日が新聞休刊日だった関係でしょうか、一昨日行われた「第69回全国植樹祭ふくしま2018 育てよう希望の森をいのちの森を」の報道が、今日になってネット上にいろいろアップされました。

「智恵子抄」をモチーフにしたメインアトラクションに関し、さすがに地元紙は詳しく取り上げて下さいました。

まず『福島民友』さん。 

創作ミュージカル...福島の『今』表現 高校生が未来への希望を

 全国植樹祭記念式典のメインアトラクションでは、県内高校の演劇部やダンス部の生徒らが創作ミュージカルを披露した。「智恵子抄」で知られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家の高村智恵子と、夫で詩人・彫刻家の高村光太郎をモチーフに大会テーマや県民が希望を持って未来へ進む姿を表現した。
 光太郎役を福島東高3年の安藤優希さん(18)、智恵子役を福島東稜高3年の平舘果菜絵さん(18)が務め、天皇、皇后両陛下の前で本県の復興と「今」を体いっぱいに伝えた。安藤さんは「震災で経験したことを演劇で精いっぱい表現することができた」、平舘さんは「震災から再起し、笑顔であふれる県民の姿を伝えることができた」とやりきった様子で話した。
 両陛下は高校生の熱の入ったミュージカルを、寄り添うような姿で鑑賞され、笑顔で拍手を送った。

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続いて『福島民報』さん。 

息吹空に届け 高校生感動呼ぶ劇 全国植樹祭

 南相馬市原町区で10日に開かれた第69回全国植樹祭は、県内の民俗芸能、復興を象徴するアトラクションが繰り広げられ、全国各地から訪れた来場者を魅了した。若者を中心とした県民が演劇や演奏を繰り広げ、復興に向かって力強く進む県民の姿を表現した。

 メインアトラクションでは県内の高校10校の演劇やダンスなどの部員約130人が音楽劇「あどけない話のその向こう」を披露した。「ほんとの空が見えた」。上演後、出演者からは飛びっ切りの笑顔がはじけた。
 詩「智恵子抄(ちえこしょう)」で知られる高村光太郎・智恵子夫妻と東日本大震災、東京電力福島第一原発事故からの復興を描いた作品。8分間の劇中に震災直後の放射能への県民の不安や困惑も織り込んだ。困難な中でも原発事故から「ほんとの空」を取り戻そうとする姿を描いた。
 智恵子を演じた福島東稜高3年の平舘果菜絵さん(18)=伊達市=は「重圧はあったが笑顔を心掛けた。両陛下がご覧になる中、練習成果を全部出し切ることができた」と手応えを語った。光太郎役で福島東高3年の安藤優希さん(18)=福島市=は「気持ちを込めて表現できた」と充実した表情だった。演出や指導を担当した郡山北工高の佐藤茂紀教諭(54)は「生徒の思いが伝わってきた。感動した」とねぎらった。

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全国紙でも大きく取り上げて下さればよかったのですが……。

それにしても、皇后陛下はこの後、過労のため38℃のご発熱だったそうですが、翌日には相馬市の原釜地区(こちらも智恵子ゆかりの地です)を訪れられ、雨の中、同地区や隣接する尾浜地区などの犠牲者207人の名が刻まれた慰霊碑に供花されたそうで、ありがたいことです。

これを機に、さらに被災地の復興が加速することを祈念いたしております。また、光太郎智恵子に対する関心が高まることも。


【折々のことば・光太郎】

日本へ来ると多くの西洋人は成長を止めて反芻を始め徘徊を始め説法を始める。リーチはまるであべこべだ。リーチは五月の若い薔薇の芽の様にまつすぐに、気力満ちて伸びた。

散文「リーチを送る」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

「リーチ」は、明治40年(1907)、英国留学中に知り合ったバーナード・リーチです。

福島の若者達も、「五月の若い薔薇の芽の様にまつすぐに、気力満ちて伸び」て行ってほしいものです。

昨日は、福島県南相馬市をメイン会場に、天皇皇后両陛下をお迎えし「第69回全国植樹祭ふくしま2018 育てよう希望の森をいのちの森を」が開催されました。

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式典内のメインアトラクションが、県内の高校生達による光太郎と智恵子をモチーフにしたパフォーマンスということで、何とか拝見しようと思い、メイン会場には入れませんので、智恵子の故郷・二本松に隣接する安達太良山麓の大玉村にあるサテライト会場・ふくしま県民の森 フォレストパークあだたらさんに行って参りました。

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LIVE中継が行われる式典は午後からですが、駐車スペースが限られているというので、早めに出て、受け付け開始の10時前に到着しました。

こちらがサテライト会場。大型液晶スクリーン搭載の特殊車両が入っており、これでメイン会場から式典の模様が中継されます。

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着いた頃は大丈夫でしたが、やがて雨。それでも多くの方が集まり、にぎわいました。

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係員の方が10時から受け付け、と言っていたのですが、9時30分過ぎには受付が始まりました。始まっているのに気づかずあやうく先着順にもらえる大玉村産コシヒカリ300㌘をもらいはぐれるところでした(笑)。

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さらに受付では、植樹祭を特集した前日の『福島民友』さんの別刷りを下さいました。

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出演者等の紹介も載っていました。メインアトラクションに出場の高校生諸君。学校ごとに集合写真が掲載されていました。

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光太郎役は福島東高校さんの生徒さん、智恵子役は福島東稜高校さんの生徒さんでした。

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ちなみに両陛下の介添えなどを行う「緑の少年団」の中には、川内村の子供達も。

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午後1時35分から、大型スクリーンで、事前に制作されていたビデオ「プロローグ 心から感謝を込めて」の上映。福島県の紹介などでした。歴史上の福島出身者の紹介の中で、智恵子も取り上げて下さいました。

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2時20分から式典の中継。

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内堀雅雄福島県知事の挨拶、両陛下の記念植樹。

そして、メインアトラクション。

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最初に、全体の梗概的なナレーション。曰く、「智恵子は福島にあるのは「ほんとの空」だと言った。私もそう思う。光太郎は「僕たちの前に道は出来る」と言った。私達もそう思う。何があっても、誰が何て言っても、この大地に立って、この風を感じて、私達は生きていくことを決めたのです。この空が「ほんとうの空」であることを信じて。

あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川」という「樹下の二人」(大正12年=1923)や、「あどけない話」(昭和3年=1928)の「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」という一節が使われ、福島の空の美しさが語られます。

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しかし、不穏な効果音と共に、「2011年3月11日、14寺46分」、「大地は割れて、青空は裂けて」「人の温度の消えた街、彼等のいないふるさとの空」……。

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智恵子曰く「嫌だ、こんなの嫌だ、「ほんとの空」を取り戻したいの!

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すると、倒れ込んだりしていた大地や樹木の精たちが再び起き上がり、歌い出します。「小さな希望の緑、育て、育て、大きな大きな命の木へと。育て、育て、大きく育て、ほんとの空へ」「私達は希望の木の種を植える。命の木の種を植える」。

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原発問題には特別な関心を寄せられてきた両陛下のお心にも、しっかりとこのメッセージは届いたのではないでしょうか。

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原発政策を未だに推進している与党の閣僚や議員も多数出席していましたが、こうした内容の上演を許した関係者の英断に敬意を表します。

昨日は、米朝首脳会談関連や残虐な事件の報道、台風関連の災害情報等もあり、テレビのニュースでは植樹祭がらみは短い扱いで残念でした。しかたがないとは思いますが……。

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メインアトラクションはNNN系さんで遠景が写りましたが、全国ネットではそれ以外は無かったようです。

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しかし、関連報道として、両陛下が帰還困難区域に入られたとのニュースもあり、それはありがたく感じました。

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これからも福島の皆さんが、「この空が「ほんとうの空」であることを信じて」。「何があっても、誰が何て言っても、この大地に立って、この風を感じて」力強く生きていっていただきたいと思いました。


【折々のことば・光太郎】

東洋の芸術に惹きよせられた彼の若い悩みのある心持ちは、さながらの詩である。ほんとに芸術を生命とするかういふ青年もあるといふことを私は紹介したい。

散文「日本の芸術を慕ふ英国青年」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「彼」は、明治40年(1907)、英国留学中に知り合ったバーナード・リーチです。

真摯に生きる青年の悩みや夢は、まさに「さながらの詩」だと、昨日の植樹祭を通して感じました。

今日は、福島県南相馬市で、天皇皇后両陛下をお迎えし、「第69回全国植樹祭ふくしま2018 育てよう希望の森をいのちの森を」が開催されます。メインのアトラクション「あどけない話のその向こう」は、光太郎智恵子をモチーフにした音楽劇。両陛下に直に御覧いただけるとは、望外の喜びです。


先月10日のFNNさん系ニュースから。 

全国植樹祭のリハーサル 6月10日に南相馬市で開催

6月10日に開催される全国植樹祭に向けて、福島・南相馬市でリハーサルが行われた。
13日、南相馬市原町区の会場には、アトラクションの出演者や運営スタッフなど、本番に関わる人が集まった。
福島県で全国植樹祭が開催されるのは、昭和45年(1970年)以来、48年ぶりで、天皇皇后両陛下が式典に出席され、苗木のお手植えをされるほか、東日本大震災の津波の犠牲者を慰霊される。
13日のリハーサルは、本番と同じスケジュールで行われ、ハワイアンズのフラガールによるフラダンスや、高村光太郎と智恵子をモチーフにしたパフォーマンスの流れなどを確認した。
平商業高校フラダンス愛好会・伊藤颯伽さんは、「福島の元気を、ほかの県の人にも伝えられたらいいと思います」と話した。
全国植樹祭は6月10日に、南相馬市原町区で開かれる。

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先月のリハーサルは雨の中だったようで、ハンチングに着物姿の光太郎役の高校生、カッパを着ていますね。ご苦労様です。


一昨日の福島中央テレビさんから。 

本番に向け練習続く 全国植樹祭で披露 高校生がミュージカル

あさって行われる「全国植樹祭」では、県内の高校生が福島の復興と現状を伝えるミュージカルを披露する。
ミュージカルを披露するのは、県内の10の高校から選ばれた生徒、120人。
ミュージカルでは、詩人、高村光太郎の「智恵子抄」の内容を盛り込み、若者たちが復興に向けて進んでいく姿を表現する。
*参加する高校生は
「1人1人が福島のことを考えてもらうことをお客様に伝えられるような劇にしていきたいと思っています」
全国植樹祭では、このほか、郷土芸能をモチーフにしたダンスや和太鼓の演奏などが予定されている。

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両陛下は昨日、福島入りされたとのことで、JNNさん系のニュースから。 

両陛下、「全国植樹祭」出席のため福島県に

 天皇皇后両陛下は、「全国植樹祭」に出席するため福島県に入られました。
 両陛下は正午過ぎ、新幹線でJR郡山駅に到着されました。このあと、いわき市内の復興公営住宅で、原発事故で避難生活を余儀なくされた大熊町などの住民と懇談されます。
 10日は南相馬市で行われる「全国植樹祭」に出席し、津波で大きな被害を受けた沿岸部の海岸防災林となる木を植えられます。また、月曜日には相馬市で慰霊碑に花を供え、津波で亡くなった人たちを追悼されます。
 両陛下が天皇皇后として東日本大震災の東北3県の被災地を訪問されるのは、今回が最後になるとみられています。

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当方、安達太良山麓の大玉村にあるサテライト会場・ふくしま県民の森 フォレストパークあだたらさんで式典の模様のLIVE中継を拝見します。雨が心配ですが……。

帰りましたらレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

自分の前に波うつてゐる恐ろしい戦ひの生活に足をふみ入れようとした時、まだ半分睡つてゐる故郷の、庭に草の生えてゐる様なのどかな天然人事が、どの位身にしみて恋しかつたか知れません。

散文「彫刻家・ガツトソン ボーグラム氏」より
 大正6年(1917) 光太郎35歳

明治39年(1906)、生まれて初めて日本を離れ、まずたどり着いたニューヨークでの感懐の回想です。まだ故郷をあとにしてそれほど経っていないにもかかわらず、すでにホームシックになっていたようです。人間にとって、故郷というものがどれほど大きな存在か、ということですね。

東日本大震災に伴う原発事故で故郷を追われ、いまだ避難生活の皆さんの胸中はいかばかりか、と思います。

光太郎と関わった人物に関わるテレビ放映情報です。 

びじゅチューン!「ランチは地獄の門の奥に」

NHK Eテレ
 2018年6月9日(土) 16:05~16:10 / 6月11日(月)  5:55~6:00/24:50~24:55
世界の有名な美術作品をユニークに解釈、うたとアニメーション(by井上涼)で贈る「びじゅチューン!」。今回はロダンの彫刻『地獄の門』が発想の源。門に群がる人々は、悲しそうだったり苦しそうだったり…何があったのかな?…お昼ごはんが買えなかったのかな?…と想像をふくらませた井上。『地獄の門』の扉の向こうにあるスーパーに群がる群像劇を、作品のテーマになったダンテの言葉もおりこみながら曲にした。

出演 井上涼   声 ジョリー・ラジャーズ

古今東西の美術作品をおちょくった、もとい、トリビュートしたオリジナルソングを、脱力系のアニメーションに載せて送る「びじゅチューン」。観ようと思って観たことはほとんどありませんが、流れているとついつい引きこまれ、そのたび腹を抱えてしまいます。

ロダンの「地獄の門」をおちょくった、もとい、トリビュートした本作は、平成27年(2015)に初回放映。

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門に散りばめられた彫刻群の数々に、思わず笑ってしまいました。

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左上から、「考える人」、「三つの影」、「接吻」、「去りゆく愛」、「ウゴリーノ」、「オルフェウスとマイナスたち」。すべて正解できたら、あなたも立派なロダンフリークです(笑)。常に画面右下にいるロダン先生も喜ぶでしょう(笑)。日本で最初のロダンフリーク・光太郎がこれを見てどういう感想を持つか、興味深いところですが(笑)。


もう一つ、ロダンがらみでやはりNHK Eテレさんの短編アニメーション。 

ヨーコさんの“言葉” 第26話「神の手」

NHK Eテレ 2018年6月12日(火) 22時45分~22時50分

絵本の読み聞かせスタイルで絵本作家・佐野洋子さんのメッセージを伝えます。なにごとも感じたまま、飾らず、へつらわず、真正面から捉えるたたずまい。 「ヨーコさん」の胸がすくような言葉で、元気と勇気がわいてくる5分間です。

「多分ロダンもモーツァルトも特別な『手』を持っていたにちがいない。才能も努力も超えたものが、その手を通してだけ特別な力として流れ出たにちがいないと思います。凡人は人並みになるためにわずかな才能を努力して生きてゆくように、神は人を作ったにちがいない。たまにある魔法の手は神様の間違いなのだと思います」。元気と勇気がわいてくる5分間です。

文・佐野洋子  絵・北村裕花  語り・上村典子

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ヨーコさんの“言葉”」、伝説的とも言える絵本「100万回生きたねこ」(昭和52年=1977)の作者にして、平成22年(2010)に亡くなった佐野洋子さんの文章を元にした短編アニメーションです。

こちらも再放送で、初回放映は平成28年(2016)でした。ミシンでの裁縫は苦手だけれど、別にきちんと習ったわけでもない生け花にすごい才能も持つ友人、別の友人は実業家として成功しつつ、料理の腕はまるで駄目、さらに別の友人は、佐野さんが体調を崩した際に肩に手を置いてくれ、それで佐野さんは劇的に癒され……そしてロダンなど、時々「神の手」を持つ人物も現れる……。「手」の持つ不思議な一面に関するお話です。


もう1件。キーワード「与謝野晶子」でヒットしています。 

浅草お茶の間寄席

チバテレ 2018年6月10日(日) 18時05分~19時00分

誰もが知っている師匠から人気の若手芸人まで多数登場。浅草演芸ホールから大爆笑の高座をお届けします。浅草のグルメ情報も必見です。

【内容】 神田京子 「炎の歌人 与謝野晶子」、新山ひでや・やすこ 、宮田章司

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チバテレさんでの放映なので、千葉県内と隣接県の一部でのみ視聴可能です。調べてみましたところ、とちぎテレビさん、神奈川のtvkさん、三重テレビさんでも同じ番組の放映があるようですが、それぞれ放映時期がずれているようで、直近の放映では違う内容になっていました。

講談師の神田京子さんによる「炎の歌人 与謝野晶子」が演目に入っています。神田さん、あちこちでこれを上演されているようです。

もともと講談は、軍記物や政談などを扱うジャンルですので、歴史上の偉人の生涯などでも新作が作られています。同じ神田一門の神田紫さんという方が、10年ほど前に「智恵子・光太郎」を演じられ、智恵子の故郷・二本松でも高座がありました。


こうした二次創作も、大事なアプローチと思います。ぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

彫刻家ロダンの素描が、従来の手法を破つて、所謂ロダン流の縦横自在な、流氷の波紋のやうな線によつて、生きた人物の生命を描き出した事は余り知れすぎてゐる。

散文「ベローヌ(ドライポイント)」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

文章自体は、素描ではなく版画に関するものです。ロダンはドライポイントによる版画も遺しています。

「流氷の波紋のやうな線」という表現が、いいですね。

『日経』さん、2日の夕刊文化面に西郷隆盛に関する記事が出、光太郎の父・光雲の名も出ていました。 

遠みち近みち 西郷 そのとらえがたい像

 高村光雲の手になる東京・上野公園の西郷隆盛像。右手で綱を引かれる犬の名をご存じだろうか。「ツン」というらしい。
 西郷の犬好きは、よく知られ、猟犬として飼いつつも座敷に上げてかわいがったらしい。魚肉や卵を与えられ、ひどく肥満してしまい、猟に向かなくなったものもいたという。
 歴史学者の家近良樹さんが昨年、ミネルヴァ書房から出した500ページを超える西郷の評伝には、49年の激動の人生を彩った数多くのエピソードが盛られ、多面的な人物像を存分に知ることができる。
 知略に優れ、事に当たっては綿密な計画を立てて行動する。まじめで、ぜいたくを嫌う禁欲さも備え、「この人のためなら」と接した人を揺り動かす包容力もある。
 一方で、人の好き嫌いもかなり激しく、多情な面もあったという。
 自ら采配をふるって旧体制を破壊しながら、結局、新政府の方針にあらがい、慕う者らとともに西南戦争に打って出て、敗れ去ってしまった。波乱そのものの一生だが、歴史家の目は冷徹だ。
 別の著書で家近さんは、こんなことを書いている。
 西郷は極めて「男ぶり」がよく、数々の試練で人間力を磨き、たぐいまれな人望を得た。しかし、逆にその人望ゆえに身を滅ぼすことになった――。
 一方で、西郷のライバルだった徳川慶喜については、こう評価した。リーダーに不可欠な人望がなく、政権返上(大政奉還)を独断で行い、結果として日本を内乱の危機から救った――。
 慶喜にリーダーの資質がなかったゆえ、近代日本は思わぬ幸運に恵まれたのだという。
 明治維新から150年。数々の国難に直面する現在、往時の指導者らの全貌に迫るのは諸改革へ向けた指針ともなるにちがいない。
(編集委員 毛糠秀樹)

『日経』さんらしく、組織論、リーダー論でまとめています。

記事本文はネットの電子版で読めたのですが、地元の図書館さんでコピーを取っておこうと思い、拝見。すると、隣には「文学周遊」という連載。 光太郎も登場する、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』についてで、驚きました。ただ、光太郎の名は出ていなかったので、電子版での検索の網に漏れていました。 

室生犀星「我が愛する詩人の伝記」 長野・軽井沢町 先きに死んで行った人はみな人がらが善すぎる

 室生犀星は、長野県の軽井沢を深く愛した詩人である。初めての軽井沢滞在は、31歳になる夏、奥信濃への旅の帰りだった。旧軽井沢にある旧中山道沿いの「つるや」旅館に宿泊した。以来、亡くなるまで40年余り、夏の軽井沢滞在を欠かしたことがない。
 初の滞在から6年後の1926年(大正15年)からは、別荘を借り、31年には「つるや」旅館からほど近い雑木林の中に、木造平屋の別荘を新築した。44年夏には、東京から疎開し、49年までの5年間、厳寒の冬も過ごしている。
 「犀星は多くの文人を軽井沢に招き、結びつけた軽井沢文学の恩人だった」と軽井沢高原文庫副館長の大藤敏行さんは話す。芥川龍之介を軽井沢に誘い、「つるや」で襖(ふすま)一枚隔てた部屋で同宿したのも犀星だったし、後に軽井沢文学の象徴となる堀辰雄が、23年初めてこの地を訪れたのも、犀星の誘いからだった。
 11人の詩人の肖像を描く評伝「我が愛する詩人の伝記」の中でもとりわけ精彩に富むのが、親友、萩原朔太郎や、堀辰雄、立原道造、津村信夫といった年少の詩人の記述だろう。軽井沢の犀星の別荘での描写は中でも印象深い。
 近隣の追分から午前中にやってきた立原は、犀星が原稿を書いていると、庭にあった木の椅子に腰を下ろして、「大概の日は、眼をつむって憩(やす)んでいた」。立原道造が、夏の日の差す庭の椅子に痩躯(そうく)を任せて眠る姿は、何とも魅力的だ。「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に」。立原の夢のような詩を愛する読者は、犀星が描く立原の生々しい面影に、ハッとするはずだ。多くの年若い詩人に先立たれた犀星は、本書で愛惜の思いを隠さない。
 犀星の旧居は、純和風の建物をほぼそのまま残して軽井沢町が19年前に室生犀星記念館として公開した。現在、老朽化した建物の補修のため閉館中だが、来年4月末には再オープンする。旧軽井沢の商店街からも近い旧居は、洋館の点在する別荘地の中にあり、犀星が丹精して植えた苔(こけ)が新緑に輝いている。
 北陸新幹線開業で、夏の旧軽井沢はにぎわいを増した。しかし、最晩年の犀星が自ら文学碑を建てた矢ケ崎川の河畔は今も静かだ。清流の自然に包まれた小さな詩碑からはこの避暑地とともに歩んだ詩人の深い愛が見えてくる。
(編集委員 宮川匡司)

むろう・さいせい(1889~1962) 金沢市生まれ。詩人・小説家。高等小学校を中退後、金沢地方裁判所に給仕として就職。20歳で上京。貧困と放浪の生活の中で萩原朔太郎と親交を結ぶ。18年、第1詩集「愛の詩集」を刊行。翌年、自伝的短編小説「幼年時代」「性に眼覚める頃」を発表。20年、長野旅行の際、軽井沢に宿泊。31年に新築した軽井沢の別荘で夏を過ごし、多くの作家、詩人を招いた。代表作に詩集「抒情小曲集」、小説「杏つ子」「かげろふの日記遺文」。
 58年刊の「我が愛する詩人の伝記」は、雑誌「婦人公論」連載後に刊行された評伝で、親交のあった詩人11人の生身の人間像を豊富な逸話で描く。

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親交のあった詩人11人」のうちの一人が光太郎というわけで、このブログでも何度か同書がらみの記事を載せました。


犀星記念館さん、記事にあるとおり、来春リニューアルオープンだそうで、折を見て行ってこようと思いました。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

結局どんな人間の姿態でも美でないものはないといふことを納得させられる。人間は一個の豊麗な美のかたまりであるといふことを。

散文「ロダンの作品 素描」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

かつてパリ郊外ムードンのアトリエで、内妻・ローズに見せてもらったロダンの素描についてです。「人間賛歌」的な部分で、ロダンの血脈を継いだ光太郎ならではの感想です。

光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の広報紙『広報はなまき』の今月1日号に、先月行われた第61回高村祭の記事が載っています。  

光太郎に思い馳せる 第61回高村祭

 5月15日、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する「第61回高村祭」が高村山荘詩碑前で行われ、約650人が威徳をしのびました。
 光太郎にゆかりのある太田小学校の児童が、遺影の飾られた詩碑に献花し開会。参加者全員で詩「雪白く積めり」を朗読したほか、地元小中高生などが合唱や朗読を披露しました。
 続く座談会では、光太郎と交流のあった地元民4人が思い出を紹介。訪れた皆さんは、語られるエピソードに耳を傾け、郷土ゆかりの先人に思いを馳せていました。

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それから、同じ第61回高村祭を報じた、『読売新聞』さん岩手版。ネットでは有料会員登録をしないと読めませんで、自宅兼事務所に隣接する成田市の市立図書館さんで拝読しました。  

光太郎をしのぶ 献花や座談会も 花巻・高村祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第61回「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。小中高生らが献花し、詩の朗読や合唱を披露。光太郎と交流があった地元民4人が思い出を語る座談会も行われ、約650人が耳を傾けた。
 終戦前の1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、交流があった宮澤賢治の実家に招かれて5月15日に花巻へ疎開。約7年間、粗末な小屋で農耕自炊の日々を送った。
 座談会では、高橋愛子さん(86)が光太郎と初めて会った時の印象を、「よれよれのリュックを背負って大きな靴を履き、本当に偉い先生なのかと思った」と明かした。よく亡くなった妻の智恵子さんの話をしていたといい、「寂しくないかと尋ねると、『智恵さんがいるから』と答えていた」と懐かしんだ。
 小学生だった高橋征一さん(75)と浅沼隆さん(76)は、光太郎がサンタクロースの姿で学芸会に来た時のことを、「愛子さんと母親が赤いじゅばんで縫った服を着て、羊毛のひげを付けていた」と紹介。小屋で火をおこす手伝いをした時は「火吹き用に渡された紙筒が英字新聞で驚いた」という。

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遅ればせながらご紹介いたしました。

高村山荘、そして隣接する花巻高村光太郎記念館さんでは、明後日、市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」を開催予定。さらに来月14日からは企画展「光太郎と花巻電鉄」が予定されています。目玉はジオラマ作家・石井彰英氏作成の、光太郎居住当時前後を再現した花巻とその周辺のジオラマ。完成したとの報が届いています。また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】003

結局これは一つの造形的結構であり、人体をこういう形にしてそれを作つたに止まり、見る者は一つの山のような、海のような、「巨大なるもの」の人体的形象化を見れば十分なのである。

散文「考える人」より 昭和25年(1950)
 光太郎68歳

平凡社刊行『世界美術全集24 西洋十九世紀』に載った、ロダン作「考える人」の解説から。左は同書の図版です。

書き出しは、「「考える人」は別に考えているのではない。こんな動物的巨大漢がこんな無理な形で物を考えている筈もない。」。

「無理な形」は、右の肘を左の太ももに置くという、極度に上半身をねじったポーズです。

ロダンに出会う前、若かりし頃の光太郎も、そういう彫刻を作って喜んでいましたが、いわくありげなポーズや謎めいた題名をつけた「文学的」な彫刻は、彫刻を病ましめるものだと悟りました。以後、光太郎の彫刻は純粋に造形美を表出するもの、自己内面の喜怒哀楽は彫刻に表すべきでなく、詩歌などの文学で吐き出す、という方向に行きました。

文学的にいろいろなことを物語っているように見えるロダン彫刻も、純粋に造形美として見るべし、ということですね。

今日のいくつかの朝刊に、毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌を開催させていただいている、日比谷松本楼さんの小坂会長の訃報が出ました。

小坂哲瑯さん死去

小坂哲瑯さん(こさか・てつろう=日比谷松本楼会長、本名・明〈あきら〉)5月23日、悪性リンパ腫で死去、86歳。葬儀は近親者で営んだ。「お別れ会」は21日午後4時30分から東京都千代田区日比谷公園1の2の日比谷松本楼で。委員長は次女で社長の文乃(あやの)さん。連絡先はお別れ会事務局(0120・57・2222)。


そういえば、ここしばらく松本楼さんでお見かけしていなかったと思いました。

小坂会長、社長だった平成24年(2012)に、テレビ東京さん系列のBSジャパンさんで放映された「小林麻耶の本に会いたい #70本に会える散歩道~日比谷編~」で、松本楼さんが紹介された中にご出演なさいました。

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司会は小林麻耶さん、ナビゲーターは山田五郎さん。

当会の祖・草野心平が編んだ新潮文庫版の『智恵子抄』に収められた詩「涙」が、松本楼さんを舞台としていることからのご出演でした。

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光太郎智恵子が明治末に味わった氷菓を前に。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


ところで、テレビ東京さん系、山田五郎さん、とくれば、毎週さまざまな街にスポットを当てて紹介していく地域密着系都市型エンターテインメント「出没!アド街ック天国」。奇しくも今週末の放映が「日比谷」です。  

出没!アド街ック天国~日比谷~

テレビ東京 2018年6月9日(土)  21時00分~21時54分

街を徹底的に紹介する地域密着系都市型エンターテインメント!お馴染みの街から「えっ、こんな街あったの?」という意外な街まで、あらゆる街に出没する情報バラエティ番組

今回のアド街は「日比谷」に出没!そこは都心のオアシス・日比谷公園を有する街。今一番の話題はあらゆる旬が詰まった東京ミッドタウン日比谷の誕生!最新ショップや世界も注目のレストランが集結。屋上ガーデンテラスからはビルの狭間にある緑豊かな公園を望み、都会での休日を満喫できます。歴史ある劇場や巨大シネコンも完成し、まさに文化芸能の聖地。スターが愛した食堂も登場!大きな進化を遂げた日比谷を堪能しましょう。

司会者  井ノ原快彦、須黒清華(テレビ東京アナウンサー)  レギュラー出演者  峰竜太、薬丸裕英、山田五郎 ゲスト 茂木健一郎、紫吹淳、品川祐(品川庄司)

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意外にも、日比谷が取り上げられるのは初めてのようです。

ただ、予告を見ると、「エンタメ文化の発信地」というコピーになっており、野音や今春開業した東京ミッドタウン日比谷さんなどがメインのようです。

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ちらっとでも松本楼さんが紹介されてほしいものですが。


003【折々のことば・光太郎】

此のまるで野獣のやうな巨大な男の肉体は、およそ題名から聯想される瞑想などといふ既成観念からは飛び離れてゐて、むしろ凝然と黙座する人間の鬱積した精力そのものの表現と見るべきである。かういふ姿勢をとつた人間の錯綜した高低無数の凹凸から来る交響楽的造形美を見なくては此像のよさは分らない。

散文「考へる人」より
 昭和19年(1944) 光太郎62歳

明治41年(1908)、パリでその実物を初めて眼にし、その後の光太郎の歩みを決定づけたロダン代表作「考える人」の評です。

左は上野の国立西洋美術館前庭のものです。

註文しておいた雑誌が届きました。  

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いわゆるタウン誌とも少し違い、「大切に守り伝えたい「いいもの・いい心」を 広島から発信する“生活文化情報誌”」と謳っています。季刊でA4判112ページとなかなかのボリュームです。主に広島県内の観光地、イベント、店舗、扱われている特色ある商品などの紹介ですが、隣接県の情報も。今号は島根県の江の川が大きく取り上げられています。

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で、広島方面とは直接の関係は無いのですが、カラーアナリスト・児玉紀子さんの連載(と思われます)「色を読む」という稿で、智恵子と光太郎をメインに扱って下さっています。題して「智恵子抄 高村光太郎」。

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主に終焉の地となったゼームス坂病院で智恵子が制作した「紙絵」についての内容で、色彩の専門家らしく、こう評されています。

闘病の苦しみの中でも、魂の中に満ち満ちていた万物の美しい色彩を、智恵子は童女のような澄んだ心になってはじめて作品の中に解き放った。その造形、色の組み合わせや重ね方、切ないくらい穏やかで優しいたくさんの紙絵を残し、智恵子はあまりにも激しく純粋に生きた人生を閉じる。

すばらしい讃辞をありがとうございます。光太郎智恵子に成り代わりまして、御礼申し上げます。

実際、智恵子の紙絵に表された造形感覚、色彩のセンスなどは、まさしく超凡。一度、千駄木の髙村家で、何枚かの現物を手に取って拝見させていただきましたが、超凡かつ「あえかな」作品の数々に、涙が出そうでした。

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さて、「智恵子の紙絵」というと、花々をモチーフにしたものが多く含まれます。そして「智恵子」→「花」とくれば、「グロキシニア」。明治45年(1912)6月、駒込林町25番地に、後に二人の愛の巣となる光太郎のアトリエが竣工した際、智恵子がお祝いに鉢植えで持参した花です。

そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらふ事になり、明治四十五年には出来上つて、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持つて此処へ訪ねて来た。(散文「智恵子の半生」 昭和15年=1940)

寄席で、大川端で/そして/ミステリアスな南米の花/グロキシニアの花弁の奥で/薄紫の踊り子が、楽屋(フオワイエエ)の入口で/さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を―― (詩「あをい雨」 明治45年=1912)

私は淋しい かなしい/何といふ気はないけれど/ちやうどあなたの下すつた/あのグロキシニアの/大きな花の腐つてゆくのを見る様な/私を棄てて腐つてゆくのを見る様な/空を旅してゆく鳥の/ゆくへをぢつとみてゐる様な/浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ (詩「人に」 大正元年=1912)

雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く/枕頭(ちんとう)のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く (詩「亡き人に」 昭和14年=1939)

先週、わが家のグロキシニアが花を咲かせました。

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一昨年の秋、智恵子を偲ぶ第22回レモン忌の際に、お土産として会場に飾られていて、いただいて帰ったものです。あまり花屋さんなどで見かけない花なので、栽培が難しいのかと思いきや、ほっぽらかしていても元気です。

ただ、一度、悪い奴の手にかかり、葉や茎がむしられて、枯れかけました。犯人(人ではありませんが)はこいつです。

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ちょっと目を離すと、猫草がわりに鉢やプランターの植物を、囓る囓る(笑)。グロキシニアもあやうく丸坊主にされかかりました。

そこで、どんどん囓っていいよ、ということで与えたのがこちら。

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ラディッシュの鉢植えです。こちらは囓られても囓られても新しい葉を出しますので。

閑話休題。『Grande ひろしま Vol.21(2018年夏号)』、版元サイトから購入ページにリンクされています。是非お買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

パリにはロダンが現に居て、会場などでは時々見かけたが、そのアトリエを訪問する勇気はなかつた。むやみと人を訪問して、仕事の邪魔をする無作法と厚かましさとは私が父や祖父から固く戒められてゐた事である。あつかましいといふ言葉ほど江戸伝来の家系にとつて卑しまれたものはないのである。
散文「ロダンの手記談話録」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎がロダンを訪問しなかったのは、厚かましさを嫌ったのみではなく、まだ何者でもない画学生に過ぎなかった気後れもあったのではと思われます。それにしても、「むやみと人を訪問して、仕事の邪魔をする無作法と厚かましさ」を厭う美徳、「電話」と言い換えてもいいような気もします。自宅兼事務所の固定電話にかかってくる電話の半分以上はわけのわからないセールスです。あるいはあわよくば金をせしめようとする特殊詐欺も含まれているのかも知れません。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松ネタで攻めます。

まず、地元紙『福島民友』さんに昨日載った記事から。  

道の駅・安達でレモンドレッシング発売 安達東高生の蜂蜜使用

 二本松市振興公社が運営する道の駅「安003達」は5月31日、同市の安達東高の生徒が作る蜂蜜「あいさつ坂」を使った新商品「安達ハチミツと有機レモンのドレッシング」を同道の駅で発売した。
 採れたての蜂蜜や、同市出身の洋画家高村智恵子が死の床でかんだレモンにちなんで国産レモンを利用したオリジナル限定商品で、会津若松市の会津ブランド館で製造する。
 ドレッシングはサラダだけでなく、唐揚げなどの揚げ物にも合うよう工夫した。同道の駅で試食した同校3年の生徒3人は「最初はレモンの酸味が強く、後から蜂蜜の甘みがあっておいしい」と口をそろえた。
 問い合わせは同道の駅の上り線、下り線へ。


こちらのドレッシング、6/2(土)の朝、テレビ朝日さん系で放映されている紀行情報番組「朝だ!生です旅サラダ」で紹介されました。

「ラッシャー板前の生中継」というコーナーで、その名の通り、レポーターはラッシャー板前さん。

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それから、KFB福島放送・山崎聡子アナウンサー。

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ドレッシング、というより、その原料となっている蜂蜜を、県立安達東高校さんの農業コースの生徒さんたちが造作っている、という紹介がメインでした。

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ワイプのスタジオMC・神田正輝さんの表情が何とも言えませんね(笑)。

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その蜂蜜を使って商品化されたもの、ということで、まずは蜂蜜そのもの「あいさつ坂」。

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同校正門前の坂の名にちなむネーミングだそうです。

後半は、道の駅「安達」智恵子の里に入っている二本松ベーカリーさんの方々がご登場、蜂蜜を使った料理をご紹介。

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その中で、レモンドレッシングも紹介されました。

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最後は高校生の皆さんも料理を堪能。

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こうして頑張っている若い人達の姿を見ると、まだまだこの国も捨てたもんじゃないと思えます。

ところで、ラッシャーさん、朝早い生中継のため、前日から二本松入りし、智恵子生家・智恵子記念館にほど近い「かねすい智恵子の湯」さんに宿泊されたそうです。ラッシャーさんのブログで、細かくレポートされています。


併せてお読み下さい。


当方、今週末には二本松に隣接する大玉村に行く予定です。余裕があれば、智恵子が死の床でかんだレモンにちなんで国産レモンを利用したドレッシング、購入して参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

その描法の強い明暗とキヤロスキユロとは、遠くフランス十八世紀の伝統を引いてゐながら、又それが近代的息吹に蘇つてゐることを感ぜしめる。

散文「ロダンの素描」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

ロダンのデッサンに関する散文です。「キヤロスキユロ」は「chiaroscuro」、仏語かと思ったら伊語で、明暗のコントラストを表します。

ロダンにしても、敬愛していた光太郎にしても、古くからある技法を一切合切否定するのでなく、そのおいしい部分を咀嚼して自分流にアレンジするということに対しては、貪欲とも言える面を持っていました。

この文章、昭和15年(1940)4月刊行の雑誌『造形芸術』に掲載されました。同誌の表紙に「第八号」とあるため、『高村光太郎全集』の解題では「第二巻第八号」となっていますが、正しくは「第二巻第四号、通巻第八号」の誤りです。当時としては珍しく、原色版の口絵が掲載されています。

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『朝日新聞』さんの別刷土曜版be。「みちのものがたり」という見開き2ページの連載が為されており、毎回、日本全国の様々な「道」と、それにまつわるドラマが紹介されています。今年の1月には、「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」ということで、花巻郊外の光太郎が7年間を暮らした山小屋、高村山荘が紹介されました。

昨日は、福島県二本松市。霞ヶ城(二本松城)の東側にある切り通しの坂、竹田坂と亀谷(かめがい)坂が大きく取り上げられました。

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物語の主役は、幸田露伴。明治20年(1887)、電信技師として働いていた露伴は、文学への志を棄てがたく、赴任していた北海道余市から、職を放棄して帰京します。汽車賃もままならぬ青息吐息の強行軍で、行き倒れになりかけることもしばしば。その途次で思い浮かんだ句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から、「露」を「伴」とする、ということで「露伴」と号するようになったとのことです。

で、二本松。この道中を記録した『突貫紀行』に、次の一節があります。

二本松に至れば、はや夜半ちかくして、市は祭礼のよしにて賑やかなれど、我が心の淋しさ云ふばかりなし。市を出はずるる頃より月明らかに前途ゆくてを照しくるれど、同伴者(つれ)も無くてただ一人、町にて買ひたる餅を食ひながら行く心の中いと悲しく、銭あらば銭あらばと思ひつつやうやう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何せられて、辛くも払暁(あけがた)郡山に達しけるが、二本松郡山の間にては幾度か憩けるに、初めは路の傍の草あるところに腰を休めなどせしも、次には路央(みちなか)に蝙蝠傘を投じてその上に腰を休むるやうになり、つひには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たへ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵かかる光景ならんと、悲しき想像なんどを起すやうなりぬ。

この時食べた餅が、竹田坂と亀谷坂の峠にあった茶店、「阿部川屋」の「阿部川餅」。その後、茶店は東北本線の郡山―塩竃間の開通後、坂を通る人の減少に伴い、閉店。10年ほど前に、二本松の街作り団体が「露伴亭」として復活させました。近く(歩くには少し遠いのですが)には智恵子の生家・智恵子記念館もあります。

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と、まあ、『朝日新聞』さんでは、こんな感じの紹介でした。周辺ガイド的に智恵子生家・智恵子記念館も紹介して下さいました。


このブログではもう少し、突っ込みます。

露伴が「阿部川餅」を購入した茶店「阿部川屋」。何と当時の主人が、智恵子の実の祖父なのです。その名を安斎彦兵衛。文化12年(1815)、二本松で生まれました。歿したのは明治37年(1904)、数え90歳の長寿でした。

安斎氏は元は安西氏と号し(幕末に改姓)、室町時代の正平元年(1347)、足利尊氏に従ってこの地にやってきた安西太郎左衛門真行を祖とします。真行は上川崎地区に館を築き、子孫は紆余曲折を経て、寛永年間には完全に町人となりました。元禄10年頃に生まれた16代安西元喜は、京都に歌や神道を学びに行き、その帰途、東海道の安倍川宿で食べた「安倍川餅」に感激、職人を一人譲り受けて帰郷、字を変えて「阿部川餅」の製造販売を始めました。

下って安斎彦兵衛は28代目。正妻との間に子がありませんでしたが、茶店で働いていた武田ノシとの間に、戊辰戦役のさなかの明治元年(1968)、女の子が生まれました。その子がセン、智恵子の実母です。やがてノシは、新潟の田上から流れてきた杜氏の長沼次助と所帯を持ち、センも連れ子として後に長沼姓となります。次助は新潟に妻子を残したまま二本松に居着き、長沼酒造を興して大繁盛。それが智恵子の生家です。

茶店は彦兵衛の養子の子、29代賢太郎の代に石屋に転業、現在も安斎石材店として、茶店のあった場所に続いています。また、竹田坂の麓には、安斎(安西)氏の菩提寺、真行寺があり、一族の墓碑等が残っているようです。このあたりもきちんと訪れようと思いつつ、まだ果たせていません。

明治20年(1887)、智恵子の祖父が幸田露伴に餅を饗し(ちなみに智恵子はその前年、長沼酒造で生を受けています)、下ってその露伴の弟子だった田村俊子は智恵子の親友となり、同じく露伴の弟子で俊子の夫だった田村松魚は光太郎と親しくつきあい、光雲の懐古談を筆録……。

つくづく縁とは不思議なものだと思います。

『朝日新聞』さんの「みちのものがたり」、全文はご紹介できませんが、購読されていない方、朝日さんのサイトで読める他、公立図書館さん等にも置かれているでしょう。ぜひお読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

世界の幾多の批評家がロダンを寸断する。私は彼等の殆どすべてに不満である。私は日本人であるが、それ故、フランス人よりもロダンが分からないとは思はない。

書き下ろし書籍『ロダンより 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎著の『ロダン』。この年、北原白秋の弟・鉄雄が経営する出版社・アルスから刊行されました。翌年にはペーパーバックの普及版も。

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現在でも格好のロダン評伝です。対象に対する深いリスペクトのなせる業でしょう。

一昨日、拝見して参りました。  

日本文学関係貴重書展示:近現代編

期 日 : 2018年5月30日(水)~6月12日(火)
会 場 : 大妻女子大学博物館 東京都千代田区三番町12(図書館棟B1F)
時 間 : 10:00〜16:00
料 金 : 無料
休館日 : 6/3(日)

 大妻女子大学では、2018年5月30日(水)~6月12日(火)にかけて、「大妻女子大学日本文学関係貴重書展示:近現代編」の特別展示を開催します。この展示は、昨年度に引き続き行うもので、本学日本文学科及び短期大学部国文科を中心として収集して本学図書館及び草稿テキスト研究所に所蔵されている貴重な資料を展示します。
 
 今回の目玉は、梶井基次郎[1901-1932]直筆の書簡に加えて、愛用の鞄やマフラーの展示です。また、その他、伊東静雄・井伏鱒二・金子光晴・坂口安吾・島崎藤村・高村光太郎・谷崎潤一郎・中原中也・萩原朔太郎・堀 辰雄・室生犀星・森 鴎外・森茉莉等13人の作家の直筆原稿も展示します。

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というわけで、行って参りました。

最寄り駅は半蔵門駅、あるいは市ヶ谷駅でしょうか。当方、江古田の日大芸術学部さんからのハシゴのため、乗り換えの都合で九段下駅から歩きました。

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本校舎から離れたところにある図書館棟、エレベータで地下1階に下りると、博物館さんです。

館長さん名義での挨拶文。

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会場入り口から。

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受付で、展示品に関するリーフレットを下さいました。A3判二つ折り、全7ページ。画像は入っていませんが、よくまとまっています。

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光太郎関連は、まず光太郎から詩人で編集者の池田克己にあてたはがき3通が展示されていました。

文面の側が見えるように展示されているものが一通。昭和25年(1950)10月21日付です。だいぶ以前にこのブログでご紹介しましたが、雑誌『サンデー毎日』に、光太郎の戦前の旧作「或る日」(昭和3年=1928)が転載された際、本来、秩父宮雍仁親王と勢津子妃のご成婚を祝す詩なのに、その意図が伝わらず(宮様の名前等伏されていたので致し方なかったのでしょうが)、田舎の花嫁が馬に乗って嫁入りする挿画が付されてしまったことに関してのものです。掲載誌『サンデー毎日』本体と、当該ページのカラーコピーも並んでいました。

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それから、表書きの面を上に、前年2月と3月のもの。

大妻女子大さんでは、こうした肉筆資料等の蒐集に力を入れているようで、池田宛の光太郎はがきはさらにもう1通、所蔵されています。4通セットで、10年ほど前でしょうか、都内の古書店さんが売りに出したものです。すべて『高村光太郎全集』未収録で、そうしたものは当方編集の「光太郎遺珠」(現在は高村光太郎研究会さんで年刊の『高村光太郎研究』に連載)でご紹介しているのですが、その際の目録に載った画像などから、3通の内容は割り出すことができ、掲載しています。

それから大妻女子大さんでは、平成18年(2006)の明治古典会七夕古書入札市に出た、光太郎から神保光太郎(同じ「光太郎」なのでややこしいのですが)に宛てた大量の書簡類も購入されています。そちらも大半は『全集』未収録と思われます。

池田宛の残り1通と、神保宛の大量のもの、いずれ調査させていただこうと思いつつ、まだ果たせていません。この手の『全集』未収録書簡類、あちこちに所蔵されており、「光太郎遺珠」のページ数が限られているため、少しずつ片付けている次第です。ちなみに来年4月刊行の『高村光太郎研究』に載る「光太郎遺珠」では、発見が大きく報じられた、オリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣主・澤田伊四郎に宛てた書簡ごっそりを載せる予定でいます。


003さて、今回の展示の話に戻します。

光太郎本人のものではありませんが、関連する資料が他にも出ていて、実はこちらの方に驚きました。

まず、当会の祖・草野心平の構想ノート。2冊出ていて、うち1冊は「高村光太郎研究ノート」と題されていますが、詩「高村光太郎」(昭和28年=1953)に書かれた長詩・「高村光太郎」のための構想ノートです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕された直後の10月23日、光太郎も演壇に立った青森市野脇中学校で開催された文芸講演会の席上、心平がこの詩を朗読しました。活字としてはその月の雑誌『文芸』が初出です。

「生ける混沌(カオス)」とも言うべき心平らしく、書いた詩の上に、落書きとも見まごうような人物画。光太郎の顔なのか、何なのか、見ようによっては仏画のようにさえ見えます。それも、見開き2ページで5人も。

もう1冊、こちらは光太郎とは直接関わらないようですが、同じ年の詩稿ノートも出ていました。こちらは題して「雑雑」。すさまじいまでの推敲の痕跡が残っており、そのエネルギーに圧倒されました。

福島いわきの草野心平記念文学館さんにあるべき品のような気がしますが、意外と心平の肉筆物も市場に出回っていますので、大妻さんが入手されたのでしょう。


それから、昭和22年(1947)、天明社から刊行されたアンソロジー『近代抒情詩選 花さうび』関連資料。これは佐藤春夫の編集で、光太郎詩も「秋の祈」、「冬が来た」、「ぼろぼろな駝鳥」、「夜の二人」の4篇が収められています。

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リーフレットには掲載されている佐藤春夫の書簡004と草稿が、残念ながら展示されていませんでしたが、岡鹿之助による表紙の原画が出ていて、こんな物が残っているんだ、と驚きました。

右は当方所蔵の『花さうび』です。ちなみに「さうび」は現代仮名遣いでは「そうび」、漢字に直すと「薔薇」です。


その他、直接光太郎とは関わりませんが、光太郎と交流のあった文学者たち――与謝野夫妻、森鷗外、中原中也、伊藤静雄、萩原朔太郎、室生犀星ら――の草稿、書簡、著書などが並んでおり、興味深く拝見しました。

大妻さん、こうした資料の蒐集に力を入れるだけでなく、「死蔵」とならないよう、こうして展示もなさっているということで、すばらしいと思いました。

逸品ぞろいです。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンは忠実な自然の研究者であつた。他の多くの天才よりも際立つて自然に近づいた。自覚して入つて行つた。そして、芸術の本道を大きくして、豊かに盛んな永遠の仕事を生み出した。

談話筆記「ロダンの生涯」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

光太郎ファンとしては、「ロダンは」を「光太郎は」と読み替えたい一文です。

昨日、拝見して参りました。  

−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-

期 日 : 2018年5月8日(火)~6月8日(金)
会 場 : 日本大学藝術学部芸術資料館 東京都練馬区旭丘2-42-1
時 間 : 9:30〜16:30《土曜は12:00 まで》
料 金 : 無料
休館日 : 日曜日

「Life 命の輝き」をテーマに国内外の写真家による⼈物の写真を集めました。いわゆるポートレートから街⾓でのスナップ写真まで多様な写真表現によるイメージを通して、様々な環境のもとで⽣活している⼈々の⽣き⽣きとした⽣命の輝きを感じていただければ幸いです。

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もう少し早く行くつもりが、いろいろあって昨日になってしまいました。

西武新宿線江古田駅で降り、ほぼ駅前の同大藝術学部江古田校舎。

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受付で入館証を受け取り、警備員の方が入り口まで案内して下さいました。資料館といっても独立した建物でなく、普通の校舎の3階にあります。

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すべてモノクロの作品で、世界各国の写真家約50名のプリントおよそ100点が展示されていました。当方も存じていたところでは、ユージン・スミス(米)、ウジェーヌ・アジェ(仏)、大石芳野など。このうち、ウジェーヌ・アジェは、光太郎と同じ時期に、光太郎のアトリエがあったパリのカンパーニュ・プルミエール街17番地に居住していて、交流はなかったようですが、面識程度はあったかも知れません。

古いもので、19世紀の写真から、'90年代の比較的新しいものまで、題材としては基本的に全て人物写真ですが、有名人から市井の人々まで、いわゆる肖像写真的なものから、日常のスナップ的なものまで、さまざまで飽きさせませんでした。モノクロ写真のもつ独特の迫力、一種の抽象性など、たしかに芸術の名を冠されるにふさわしいと感じます。

有名人のポートレートとしては、海外ではチャップリン、オーソン・ウェルズ、ピカソなど。国内では、林忠彦撮影の太宰治、坂口安吾など。

そして、光太郎。003

日藝さんで開催と聞き、光太郎令甥の故・髙村規氏がそちらの卒業生なので、規氏の作品かな、と思っておりましたが、さにあらず。肖像写真家として活躍していた、故・吉川富三氏の右の作品でした。

撮影場所は光太郎が蟄居生活を送っていた、花巻郊外太田村の山小屋内部です。キャプションでは昭和24年(1949)となっています。

光太郎の日記によると、同23年(1948)9月に吉川が来訪しています。おそらくその時の写真で、発表されたのが翌年ということなのではないかと思われますが、翌年の日記の大部分が欠けているので、不詳です。

吉川来訪の記述がこちら。まず8月22日。

吉川富三といふ人より写真アルバムを小包書留にて送り来る。来月余の写真撮影に来たしとの事。文化人多くの写真(署名入)あり。預かりもの。(郁文帖)

そして9月10日。

午前九時盛岡よりとて写真家吉川富三氏同業(盛岡)の唐健吉といふ人と来訪。高橋正亮さんが案内してくる。ズボンの尻の修繕をしてゐたところ。修繕を終りてよりあふ。午后二時頃まで撮影さまざま。「郁文集」を返却す。揮毫してくれとて紙を置いてゆく。同氏の器械は普通の三脚附器械。 そのうち細川書店の岡本氏といふ人来訪。東京より来たりし由。吉川氏等一行大澤温泉泊りの由にて辞去後、岡本氏と談話。(略)弘さんからもらつた大西瓜を割つて一同に御馳走せり。吉川氏より食パン、チース(小箱)(ソーセージ)をもらふ。

『郁文集』は、武者小路実篤の題字、志賀直哉の序文で昭和37年(1962)に出版された吉川の作品集。もうこの頃には既に原型が出来上がっていたのですね。

さらに9月30日。

吉川富三氏より先日撮影の写真の内4葉送つてくる。随分老人らしくなれり。

笑えます。光太郎は写真嫌いで有名でした。9月12日に、詩人の宮崎丈二に送ったはがきにこんな一節があります。

昨日は東京の吉川富三氏といふ写真家が来て弱りました。

その後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)に帰京した後も、吉川は中野のアトリエを3回ほど訪れてやはり写真を撮影しているようです。

はがきといえば、光太郎が吉川に送ったはがきも一通、確認されています。昭和25年(1950)のものです。

おハガキと「文化人プロフイル」と忝なくいただきました、豪華な写真帖なのでびつくりしました。多くの知人がゐるのでなつかしく飽かず見入つてゐます、畑の仕事が中々いそがしくなりました、今日は雨で静かですが、みどりの美しさ限りなしです、

『文化人プロフイル』は、『郁文集』に先だって、吉川単独でなく数人の写真家の作品を収めた写真集です。


写真に限らず、どういった造形芸術でも、或いは文筆作品などでも、作品は作品としてのみ見るべきと、よく言われますが、こうした背景を知って見るのも大事なのではないかと思いました。


というわけで、日藝さんの「−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-」、以上の背景を踏まえて御覧いただければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

私は今迄に経験した事の無い淋しい鋭い苦痛の感情をしみじみと感じた。動乱と静粛と入りまざつた心の幾日かを空しく過した。さうしてロダンが立派にやり遂げるだけの事をやり遂げて、其の私的存在をかき消してしまつた事を思ふと、不思議な伝説的の偉大さを感じる。ロダンの生きてゐた時代に自分も生きてゐたといふ事がまるで歴史のやうに意味深く、又貴く感ぜられる。
散文「ロダンの死を聞いて」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

吉川富三の写真を見、山小屋来訪の話に触れ、つくづく光太郎の生きていた時代に自分も生きていたかったと思いました。

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