2017年08月

昨日は都内に出ておりました。

まずは文京区の弥生美術館さん。

イメージ 1  イメージ 2

イメージ 3

こちらで開催中の企画展「命短し恋せよ乙女 ~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿~」を拝見して参りました。

イメージ 4

いかにもこういうのが好きそうな「乙女」のみなさんでにぎわっていました。

過日ご紹介した書籍『命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿』(中村圭子編著・河出書房新社)と連動しての企画で、ほぼ同書の章立て通りの展示でした。

すなわち、

 姦通罪による投獄―北原白秋×松下俊子・江口章子
 恋愛なき心中未遂―平塚らいてう×森田草平
 運命の出会い―平塚らいてう×奥村博史
 歌姫の情熱―与謝野晶子×与謝野鉄幹
 姪との禁じられた恋―島崎藤村×島崎こま子
 後追い自殺の衝撃―松井須磨子×島村抱月
 サッフォーのごとく―田村俊子×長沼智恵子・田村松魚・鈴木悦
 私は誘惑していません―原阿佐緒×石原純
 人妻との山荘情死事件―有島武郎×波多野秋子
 筑紫の女王、恋の出奔―白蓮×宮崎龍介
 「魔女事件」「妻譲渡事件」―佐藤春夫×谷崎千代
 追うときも別れるときも潔く―藤原あき×藤原義江
 友情の絆は、色恋の関係より強いか―澤モリノ×石井獏
 恋愛放浪―山田順子×竹久夢二・徳田秋聲
 「椿姫事件」そして「雪の国境越え」―岡田嘉子×竹内良一・杉本良吉

ただし、展示の順番は異なりました。003

扱われている女性達などの肉筆書簡や揮毫などが展示されているというので、もしや智恵子のものも、と思っていましたが、それはありませんでした。しかし、光太郎智恵子と関わった平塚らいてう、与謝野晶子らのそれが数多く展示されており、眼福でした。

智恵子が扱われた田村俊子のコーナー、そしてその他、北原白秋、有島武郎、佐藤春夫ら、やはり光太郎智恵子と関わった面々が取り上げられており、興味深く拝見しました。

書籍『命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿』の表紙や挿絵、そしてこの企画展のポスターやチラシ(田村俊子です)に使われている、イラストレーター・マツオヒロミさんの原画も並んでおり、見事なものでした。

智恵子のそれを含め、写真や説明パネルなどは、ほぼ書籍『命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿』と同一のようでした。その中で、同書では見落としていましたが、展示を見て「おやっ」と思ったのが、佐藤春夫夫妻の写真。右は書籍『命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿』から採りました。

集合写真の一部で、撮影されたのは昭和28年(1953)10月21日(書籍『命みじかし恋せよ乙女 大正恋愛事件簿』では27年となっていますが、誤りです)。撮影場所は、青森県十和田湖畔宇樽部地区で、かつて旅館だった東湖館の前。この日は、光太郎の最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の日です。そちらが午後の開催で、午前中には奥入瀬渓流で、春夫の「奥入瀬渓流の賦」詩碑除幕式と、連チャンで行われました。

集合写真全体はこちら。

イメージ 6

春夫は前列右から二人目。その左隣は光太郎です。こんなところに光太郎がらみ、と、笑いました。

さらに、光太郎智恵子と直接の関わりがあったものの薄かったり(竹久夢二、石井漠ら)、無かったりした人々の「恋愛事件簿」。中にはドロドロのそれもありましたが、やはりそれぞれ、必死の「生」(矛盾していますが)を送る中でのドラマということで、人間の持つエネルギーの凄さに感動させられました。

展示は9月24日(日)まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

われらに今欠けたるもの和なり。 億兆の和なくして社稷なし。 和は念慮にして又具顕なるを。 大いなるかな和をおもふことの力。 これ人倫のもとゐ社稷の血脈。

詩「和について」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

戦時中、大量に書き殴った翼賛詩は、多くの前途有為な若者たちを戦場へと駆り立てた罪深いものでしたが、一面、荒廃した人心を救わんとする意図もあったことも否定できません。

「社稷」=「国家」。戦後になって書かれたこれらの詩にも、そうした部分が残っています。

竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中のイベントです。

MOMATサマーフェス

期 日 : 2017年7月19日(水)~9月30日(土)
休場日 : 月曜日(祝なら翌平)
会 場 : 
東京国立近代美術館 千代田区北の丸公園3-1
時 間 : 10:00~17:00(金土~21:00) ※入館は閉館30分前まで

7月から9 月にかけて、大人も子どもも、昼も夜も楽しめる夏のイベント「MOMATサマーフェス」を開催します。
展覧会を中心にイベントやワークショップを開催するほか、金曜・土曜はナイトミュージアムで夜9時まで開館し、お得な夜の割引料金で観覧いただけます。さらに前庭にはガーデンビアバーが出現。ゆっくりと夏の夜をお楽しみいただけます。
所蔵作品展「MOMAT コレクション」では、参加型プログラムの対話による所蔵品ガイドを毎日実施。毎週金曜の「フライデー・ナイトトーク」や、夏休みにあわせた子ども向けプログラムも実施します。
週末の仕事帰りや夏休みにご家族で、また訪日外国人観光客の皆様にもおすすめです。
いつもと一味違う美術館をぜひご体感ください。




展示としては、企画展「日本の家 1945 年以降003の建築と暮らし」の他、「平成29年度第1回所蔵作品展 MOMATコレクション」が開催されていて、光太郎ブロンズの代表作「手」の、大正期の鋳造が並んでいます。出品リストはこちら。キュレータートーク等も充実しているようです。観覧料は一般500円、大学生200円。

さらに、「金曜・土曜のナイトミュージアム&夏限定ガーデンビアバー 」だそうで、毎週金曜・土曜は夜9時まで開館。お得な夜の割引料金で展覧会を観覧できるほか、キッチンカーが登場し、前庭がビアバーに変身、金曜・土曜は夜も営業。当初は8月27日までの予定だったとのことですが、好評につき、9月も営業するそうです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り 万境人をして詩を吐かしむ。 早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。

詩「雪白く積めり」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入り、7年間の蟄居生活を始めた最初の冬、山小屋生活に関わる最初の詩です。40年を超える詩作を続けてきながら、戦時中、愚にもつかぬ大量の翼賛詩を書き殴り、多くの前途有為な若者たちを戦場に追いやった蛮行をして、「わが詩の稜角いまだ成らざる」としています。

ユマニスト光太郎再生のために、マイナス20℃の酷寒の地での生活は、必要不可欠でした。

雑誌2冊、紹介いたします。

まずは「山ガール」を対象とした、女性向け登山雑誌『ランドネ』。月刊誌です。


イメージ 1


「山岳お遍路さん 神様百名山を旅する」という連載があり、智恵子の故郷・二本松に聳える安達太良山が、「智恵子抄」にからめて紹介されています。

イメージ 2  イメージ 3

イメージ 4  イメージ 5

今月号の特集は、「ロープウェイで楽しい山時間」ということで、60ページほどは、全国のロープウェイで或る程度まで登れる山々の紹介です。安達太良山もロープウェイがありますが、この記事ではそれは使わず、くろがね小屋を使う1泊2日での登山ルートが扱われています。

4ページ目は「アダタラ山はアンドロメダ山 !?」と題されています。あやしげなスピリチュアル系の内容かと思いきや、さにあらず。まじめな山岳信仰にかかわる連載のようで、安達太良山頂に奥宮が鎮座する、安達太良神社さん(麓の本宮市)について述べられています。

六柱設定されている同社の御祭神のうち、筆頭は「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」。農耕や暦の作成に関わるアンドロメダ星雲を神格化したとする説もあり、智恵子が愛した「ほんとの空」がさらに「ほんとの空」だった古代には、安達太良山上に煌々ときらめくアンドロメダ星雲が、現代よりもくっきり見えたであろうとのこと。なるほど、と思いました。

そこで、奥宮である安達太良山頂には「八紘一宇」と刻まれた石碑が立っているそうです。以前から気になっていましたが、これは植民地支配を正当化するスローガンとしての「八紘一宇」ではなく、神道の理念――世界は一つ――的な意味合いでの「八紘一宇」だったわけですね。納得が行きました。

税込み定価980円、付録にまな板(山用のカッティングボード)も付いています(笑)。お買い求め下さい。


もう1冊、まず、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』9月号。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は詩「あたり前」(大正2年=1913)から言葉が取り上げられています。

イメージ 6  イメージ 7

写真は、光太郎が戦後の7年間を暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)内部。光太郎がいた当時のまま、保存されています。

同誌を購読されている皆さんに興味を持っていただき、高村山荘、そして隣接する花巻高村光太郎記念館に足を運んでくださること、さらに昨日ご紹介した「森のギャラリー」の活用なども為されてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

欺きしは「兇敵」にあらずして 二なく頼みしわれらが「神軍」なりしなり。 一切は曝露せられて国民愕然たり。 国民目覚むればすでに飢餓に瀕す。 国力尽き民力消耗してただ焦土あり。

詩「永遠の大道」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

敗戦から約4ヶ月、いかに戦時中の軍部が無謀かつ国民不在の暴挙に出ていたのか、そして負けるべくして負けた戦争であったことなどが、ようやく白日の下にさらされてきた、というわけです。

しかし、光太郎も紛れもなくその片棒を担いでいたわけです。この詩が書かれたのが、12月6日。約4年前の真珠湾攻撃で熱狂した光太郎、翌々日に開かれた日本共産党主催の戦争犯罪人追求人民大会で、その名もリストに挙げられました。

花巻郊外旧太田村、昭和20年(1945)秋から戦後の7年間を光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内に、光太郎の遺品などを展示するために「高村記念館」が竣工したのが、昭和41年(1966)のことでした。

イメージ 1

看板の揮毫は、草野心平。

イメージ 2

こちらは平成25年(2013)に、近くの歴史民俗資料館だった建物が新たな高村光太郎記念館として仮オープングランドオープンは平成27年=2015)するまで、使用されていました。

イメージ 3

古い建物なため、空調も無く、夏場は開け放った入り口からオニヤンマが舞い込み、光太郎彫刻に止まったりしていました。それはそれで趣があってよかったと思います。

その後、倉庫として使っていましたが、このほど、内部をきれいに一新し、「森のギャラリー」としての活用が開始されました。

先月末、市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」で、お邪魔した際に、内部を見せていただきました。

イメージ 5

イメージ 6

新しい記念館に並べきれない収蔵品の一部――高田博厚作の光太郎胸像、智恵子紙絵の複製など――が展示されているほか、長テーブルなども配され、ちょっとしたイベントに使えるようにしてあります。

オープンを報じた8月25日の『岩手日日』さん。

イメージ 4
早速、紙絵制作の体験講座が開かれたそうです。

同じ『岩手日日』さんの8月27日付。

イメージ 7

こんなチラシを作り、呼び掛けたそうです。

イメージ 8

講座の様子の画像も送っていただきました。

イメージ 9

記事に有るとおり、光太郎が望んでいたという、この地の芸術・文化活動の拠点という意味合いでのリニューアルです。狭い建物ですのでキャパは限られますが、こうした講座や、ギャラリーとしての作品展示、それからコンサート等にも使えそうですし、いろいろ活用の方法がありそうです。

光太郎ゆかりの地で、ちょっとしたイベントを行いたい、という方、窓口は一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんです。もちろん何でもありというわけではないでしょうが、問い合わせてみて下さい。


【折々のことば・光太郎】

願くは精神の鼓舞これを凌いで われら面目一新の大道に立ち、 武装せざる平和の妙致を随処に捉へ 精神の美と深とに匹儔を絶たん。

詩「武装せざる平和」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

我が国は敗戦により、否応なしに武装解除させられたわけですが、それを逆に好機として、「武装せざる平和」の実現に向くべきだとの論。戦時中の翼賛詩からの変わり身の早さは置くとして、のちの憲法第9条の精神を先取りしている点は、やはりさすが光太郎です。

「核戦力を中心とする自衛的国防力を100倍、1000倍に強化していかなければならない」とするどこかの国の指導者に贈りたい言葉です。

過日ご紹介した「ふくしま ほんとの空プログラム」関連で、続報的な……。 

ふくしま ほんとのプログラム フォトコンテスト

【福島県産米「天のつぶ(5㎏)」が3名様に当たる!】

応募期間 2017年10月31日(火)まで

< 応募方法 >
①インスタグラムアカウントを公開してください。
②ふくしまほんとの空プログラムの公式インスタグラムアカウント「@f_hontonosora」をフォローしてください。...

③ハッシュタグ“#ふくしまほんとの空”を付けて、撮影場所を記載し、福島の空(昼夜問わず)の写真を投稿してください。

※お一人様何回でも投稿できますが、同一画像の投稿はご遠慮ください。
※本ハッシュタグをつけた投稿写真と文章は、当選の有無に関わらずふくしまほんとの空プログラムのインスタグラムやfacebook等で掲載させていただく場合があります。

< 当選発表 >
・応募期間終了日を持って応募締め切りとします。厳正なる審査のうえ、当選者を決定いたします。
・結果発表は当選者にインスタグラムダイレクトメールでご連絡いたしますので、公式アカウントを必ずフォローしてください。
・結果発表は2017年11月下旬を予定しています。
・当選者は、事務局からの当選通知ダイレクトメールの送信後7日以内にご連絡いただけない場合は、当選を無効とさせていただきます。
・当選商品の発送は日本国内に限らせていただきます。
・政治・宗教・営利活動に該当するもの及び公序良俗等に反する作品は受付できません。

イメージ 1


「ふくしま ほんとの空プログラム」は、9月と10月に鮫川村で開催される自然体験イベントですが、それと直接関係なく、福島の「ほんとの空」を撮った写真のコンテストだそうです。


イメージ 2  イメージ 4 


既にfacebook上に応募写真のいくつかが掲載されています。

どれもいい写真ですね。

イメージ 3  イメージ 6

イメージ 5  イメージ 7

もう1件。昨日の『福島民報』さんから。

ミスセブンティーンに 郡山在住、箭内夢菜さん

003 郡山市在住の高校2年生箭内夢菜(やない・ゆめな)さん(17)が、10代向けのファッション誌「Seventeen」(集英社)のオーディションで、専属モデルとなる「ミスセブンティーン2017」に選ばれた。集英社によると県内在住者が選出されたのは初めて。

 箭内さんは「ずっとSeventeenモデルになるのが夢だったので本当にうれしい。初心を忘れずに、たくさんの人に愛されるモデルになりたい」と話している。
 「Seventeen夏の学園祭2017」が24日に横浜市で開かれ、発表された。鹿児島県出身の宮野陽名さん(13)とともに、応募者5981人の中から選考された。イベントで箭内さんは約3000人の歓声を浴びながらランウエーを歩いた。
 ミスセブンティーンは、広瀬すずさんら女優・人気モデルを多数輩出している。
 箭内さんは東京マラソンのオフィシャルドリンク「ポカリスエット」をPRする「ポカリガール2017」に選ばれて注目を浴びた。今夏は全国高校野球選手権福島大会を盛り上げる「KFB高校野球ガール」に起用された。
 10月28、29の両日、福島民報社が鮫川村で催す「ふくしま ほんとの空プログラム」宿泊体験にプログラムナビゲーターとして参加する。


記事にある広瀬すずさん以外にも、北川景子さん、木村カエラさん、水原希子さんらがこのオーディションの出身だそうで、福島をもりあげるための今後の活躍が期待されますね。


【折々のことば・光太郎】

限りなき信によつてわたくしのために 燃えてしまつたあなたの一生の序列を  この松庵寺の物置御堂の仏の前で 又も食ひ入るやうに思ひしらべました
詩「松庵寺」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昭和16年(1941)8月、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」以来4年ぶりに、公表された詩に智恵子がメインで現れました。

詩の舞台は花巻町中心部の松庵寺さん。10月10日には、父母と智恵子の法要を営んでもらっていますが、制作の日付は10月5日。智恵子の命日です。8月23日の日記には、「雨、晴、朝一寸雨ふる。(略)松庵寺にて一枚起請文をもらふ。」とあり、この時の出来事を謳ったものかもしれません。

智恵子の故郷、福島二本松からイベント情報です。

重陽の芸術祭2017

期  日 : 2017年9月9日(土)~11月23日(木・祝)
会  場 : 二本松市智恵子記念館・智恵子の生家/二本松城(霞ヶ城)本丸跡/
        安達ヶ原ふるさと村/
大七酒造/国田屋醸造 千の花/
        道の駅「安達」智恵子の里(下り線)/岳温泉/福島大学/
        二本松市大山忠作美術館/安達文化ホール 他
参加作家 : 浅尾芳宣(福島ガイナックス)、岩根愛、大山忠作、一色采子、
       オノ・ヨーコ、川口京子、
木下史青、清川あさみ、京極夏彦、雲井雅人、
       小松美羽、佐藤雅子、三平典子、鈴木美樹、
高村光太郎、高村智恵子、
       月岡芳年、手塚治虫、二瓶野枝、東雅夫、福井利佐、藤井亜紀、
渕上千里、
       古田晃司、夢枕獏、ヤノベケンジ、渡辺かおり、渡邊晃一、
       ワタリドリ計画(麻生知子、武内明子)、
       福島大学学生(井戸川文美、尾形千尋、北村はるか、熊田あかり、齋藤友希、
       白岩勇磨、
高橋花帆、渡邉賀菜子)、
       Ahmed Galal、Alberto Giacometti、Dillon Rapp、J.Pouwels、ほか

開催趣旨 :「重陽の芸術祭」とは?

 「重陽の芸術祭」は,「福島現代美術ビエンナーレ2016」から誕生した二本松市を拠点に開催される現代アートの祭典です。
 開催初日となる9月9日の「重陽」は,日本酒に菊を浮かべて不老長寿を願う節句です。二本松城(霞ケ城)は全国一の規模をほこる菊人形祭が開催されており,菊は古来より薬草としても用いられ,延寿の力があるとされてきました。菊は他の花に比べて花期も長く,日本の国花としても親しまれています。菊を眺めながら宴を催し,菊を用いて厄祓いや長寿祈願をする「重陽の節句」は,五節供の中で最も重要な日でした。
 菊と日本酒による「重陽」を主軸に,能や歌舞伎で有名な「黒塚」の安達が原,永遠の愛を詠った「智恵子抄」の高村智恵子の生家などを会場に、最先端のアートを通して,地域文化に触れ,国際交流を活性化させる機会を設けています。
二本松は,奥の松酒造や大七酒造など,世界的に有名な日本酒の産地でもあります。明治初期に建てられた智恵子の生家も造り酒屋でした。新酒の醸成を伝える杉玉が今も下がっています。高村光太郎の『智恵子抄』に詠われているように,智恵子が愛してやまなかった「ほんとの空」。そのふるさとの自然,安達太良山と阿武隈川が見られる地でもあります。
 「重陽」を主軸に、二本松の地で、現代アート(絵画,彫刻,工芸,インスタレーション,ダンスや詩のパフォーマンス,ビデオアート,アニメーション,映画)とともに,ワークショップやシンポジウムが開催されます。

 二本松 重陽の芸術祭のキーワード
 
 ・日本一の菊人形祭 ・智恵子の生誕の地 ・国際的な日本酒の産地
 ・黒塚伝説,安達が原の鬼婆


イメージ 5

イメージ 1

昨年、二本松で開催された「福島現代美術ビエンナーレ 2016 - 氣 indication -。」の流れをくむイベントのようで、昨年同様、市内各所で展示や各種公演などが行われます。

光太郎智恵子にからみそうなところでは、9月9日(土)から、智恵子生家で、現代アート作家・清川あさみさんによるインスタレーションの展示が為されます。智恵子という女性の価値観を見つめなおし、写真を縦糸横糸で形成して編んだ巨大な新作「女である故に」、さらに他にも光太郎詩からのインスパイア作品が展示されるようです。

イメージ 2

イメージ 3  イメージ 4

また、智恵子命日の10月5日(木)には、やはり智恵子生家で、「二瓶野枝ダンスパフォーマンス」。智恵子を題材にした日本画を多く手がけた故・大山忠作氏の息女にして女優の一色采子さんが朗読で参加されるとのこと。

さらに、昨年もそうでしたが、毎年行われている「二本松の菊人形」ともコラボがあるようです。


いろいろありすぎて詳細が不明な部分があり、今後も情報収集に努めます。


二本松ついでに、もう一件。地元紙『福島民友』さんの記事から。

詩の朗読者募集 9月17日に建立祭、二本松・智恵子純愛通り記念碑

 詩人で彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」でも知られる高村智恵子(二本松市出身)の生誕の地にふさわしい地域づくりを目指し、顕彰活動に取り組む智恵子のまち夢くらぶ(熊谷健一代表)は9月17日午前10時から、同市油井の「智恵子の生家」近くにある智恵子純愛通り記念碑前で第9回建立祭を開く。詩の朗読者を募集している。
 朗読する詩は智恵子抄をはじめ、詩集「智恵子抄その後」、光太郎の詩作品の中から選ぶ。小学生から一般までが対象で、朗読者には図書券を贈る。
 申し込み締め切りは今月31日。問い合わせは熊谷代表(電話0243・23・6743)へ。
2017年08月23日    

というわけで、9/17(日)には、智恵子生家近くの智恵子純愛通り記念碑前で建立祭だそうです。併せて足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間時に清く、 弱きもの亦時に限りなく強きを思ひ、 内にかくれたるものの高きを 凝然としてただ仰ぎ見るなり。

詩「非常の時」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

終戦から約20日経った9月5日、花巻病院の職員表彰式で朗読した詩の一節です。終戦5日前の花巻空襲の際、自らの危険を顧みず、怪我人の救護に当たった医師や看護師への表彰式でした。花巻病院附属の高等看護学校では、光太郎に贈られたこの詩をいまだに学校の宝とし、毎年5月15日の花巻高村祭で、生徒さん達が群読なさっています。

戦争という「非常の時」、勝つとか負けるとか、敵とか味方とか、そういったことを超越し、さらには自らの恐怖心という弱さを克服して救護に当たった人々の清さ、高さをたたえています。

九州福岡から、演劇の公演情報です。

渡辺隆男さん 

期   日 : 2017年9月8日(金)
時   間 : 14:00~15:30
会   場 : レディスもじ 北九州市立東部勤労婦人センター 
         北九州市門司区下馬寄6番8号
料   金 : 500円(菓子・コーヒー付き)
定   員 : 50名(先着)
備   考 : 託児あり(1歳~未就学のお子さん)有料・要予約
         お申し込み時にご相談ください。
出   演 : 芝居屋企画主宰 玄海 椿

詩人高村光太郎を支えた、妻 智恵子。光太郎は智恵子自身を詩に表現するが、皮肉にもそれが智恵子の心を崩壊させることに・・・
毎年開演している玄海椿さんによる一人芝居。今年は「智恵子抄」です。お楽しみに!

イメージ 1

九州を拠点に、主にご自身で書かれた脚本で一人芝居をなさっている玄海椿さん。「智恵子抄」もラインナップに入っていて、当方、平成24年(2012)に福岡で公演があったのを拝見しました。

会場の「レディスもじ 北九州市立東部勤労婦人センター」が、「健康と情報」をテーマに、働く女性及び勤労者家庭の主婦の福祉増進のために設置された施設だそうで、玄海さん、毎年、こちらの利用者のための公演的な感じでやられているそうです。で、今年が「智恵子抄」というわけです。

光太郎との出会いから、さまざまな挫折と心の病、そしてその死まで、主に智恵子視点で描かれた脚本ですが、よくある「光太郎の芸術精進の生け贄となった哀れな智恵子」という描き方ではなく、ボタンの掛け違いの連続で、そうならざるを得なかった、という流れで、感心させられた記憶があります。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

木の実草の実おもしろや 木の実草の実おそろしや 自然の技術きはまりて あらすさまじのたくみかな 木の実草の実そらをゆき 地をゆき野辺に山にみつ
詩「小曲二篇」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昨日、前半部分を紹介し、今日は後半部分です。

終戦直前の作と推定されますが、もはや敗色決定的な昭和20年(1945)の8月、「国破れて山河あり 城春にして草木深し」的な感懐があったのではないでしょうか。

福島からイベント情報です。 

ふくしま ほんとの空プログラム

【参加者募集】
子どもたちの好奇心と探究心を育む原体験活動
自然の中での体験活動に取り組みながら、福島の魅力をたっぷり感じるプログラムを実施します。日帰りプログラムを3回、宿泊体験交流プログラムを1回展開します。全てに参加しても、どれか1回の参加でも大丈夫です。

~活動場所~007  あぶくまエヌエスネットフィールド 
 福島県鮫川村赤坂東野字葉貫57

~活動内容~

 日帰りプログラム
 実施日/日帰りAコース 9月16日(土)
     日帰りBコース 9月30日(土)
     日帰りCコース 10月22日(日)
 服装/長袖・長ズボン・帽子
 持ち物/おやつ200円まで、汗ふきタオル、着替え、作業用手袋
      持ち物への記名をお願いします。
  ■旅行代金/小学生 3,000円  大人(保護者)1,500円
  ■参加対象者/小学1年生~6年生とその保護者(児童のみの参加も可能)
  ■募集人員/20名(最少催行人員10名)
  ■食事条件/昼食1回

  日帰りプログラムAコース 9月16日(土)☆申し込み締切:9月1日(金)必着
   みんなで協力しよう+食育ピザ!
    10:00 集合 オリエンテーション フィールドワーク
    11:30 石窯ピザ作り+じゅうねんうどん
    13:00 自由遊び
    14:00 プロジェクトアドベンチャー!
    15:00 おやつタイム 振り返り
    15:30 解散

  日帰りプログラムBコース 9月30日(土)☆申し込み締切:9月8日(金)必着
   自然って楽しい+食育餅つき
    10:00 集合 オリエンテーション フィールドワーク
    11:30 餅つき+じゅうねんうどん
    13:00 自由遊び
    14:00 ネイチャーゲーム 自然遊び!!
    15:00 おやつタイム 振り返り
    15:30 解散
 
  日帰りプログラムCコース 10月22日(日)☆申し込み締切:9月29日(金)必着
   世界で1本の鉛筆+食育うどん
    10:00 集合 オリエンテーション フィールドワーク
    11:30 手打ちうどん
    13:00 自由遊び
    14:00 「木の鉛筆」クラフト
    15:00 おやつタイム 振り返り
    15:30 解散
 

  宿泊体験プログラム
   ■実施日/10月28日(土)~29日(日)1泊2日
           ☆申し込み締切:10月6日(金)必着
   ■服装/長袖・長ズボン・帽子
   ■持ち物/着替え、タオル、洗面用具歯ブラシ、マイコップ(プラスチック製)、
        マイ箸、おやつ200円まで、エプロン、マスク
   ■旅行代金/小学生 7,000円 大人(保護者) 5,000円
   ■参加対象者/小学1年生~6年生とその保護者(児童のみの参加も可能)
   ■募集人員/20名(最少催行人員10名)
   ■食事条件/昼食2回、夕食1回、朝食1回
   ■行程/
    1日目(10月28日・土)
     07:30 首都圏からの参加者 東京駅集合
     11:30 集合受付 オリエンテーション  スタッフ&参加者自己紹介
     12:00 昼食(炊き込みご飯)
     13:00 自由遊び
     14:00 プロジェクトアドベンチャー!みんなで協力するよ!!
     15:00 おやつタイム 夕方の係決め
     16:30 夕食カレー作り 動物の世話 ドラム缶風呂火起こし
     18:00 夕食(カレーライス&カレーうどん)
     19:00 ドラム缶風呂
     20:00 星空観賞
     20:30 明日の子ども係決め

    2日目(10月29日・日)
     06:30 釜戸ご飯炊き
     07:00 起床 着替え
     07:30 朝の体操 動物の世話(犬の散歩、山羊、ニワトリ)
     08:00 朝ご飯 身仕度 荷物整理整頓
     09:00 活動タイム
     10:00 「木の鉛筆」クラフト
     11:30 ピザトッピング
     12:00 石窯ピザ
     13:00 活動振り返り 色紙にサイン交換タイム!
     14:30 解散
 
首都圏(東京・神奈川・千葉・埼玉)からご参加の方はJR往復プラン(追加代金お一人様\3000・大人小人同額)をご用意しております。詳しくは、JTB東北法人営業仙台支店までお問い合わせください。
 
(日帰り、宿泊共通事項)
  ■参加条件/
   ①プログラムの趣旨に賛同し、福島県についての理解を深めたいと考えている方
   ②当日配布するアンケートに記入いただける方
   ③当日写真ならびに映像撮影させていただき、新聞およびfacebook、
    イ
ンスタグラムに掲載させていただく場合があることをご了承いただける方。

  応募多数の場合は抽選となり、当選者にツアー参加申込書とご旅行条件などが記載された
  書面を実施約
10日前に郵送しますので、ご確認のうえお申し込みください。

  ■参加希望の方は/
  ハガキに、参加希望プログラム(例:日帰りA)、参加者氏名(漢字・ふりがな)、
  生年月日、学年または
年齢、性別、学校名、郵便番号、住所、電話番号(日中連絡が
  つきやすい電話)、運営団体への連絡事
項(体調、アレルギー、お薬など少しでも気
  になる点等)をご記入ください。

※申込みにあたりご提供いただいた個人情報はお客様との連絡のほか、本プログラムにて郵送・宿泊機関の提供するサービスの手配及びそれらのサービス受領のための手続きに必要な範囲内で利用させていただきます。なお、本プログラム推進のためにプログラムを主催する福島民報社及び協力いただくNPO法人あぶくまエヌエスネットへ提供いたします。お申込みいただいた方は、個人情報の共有を承諾したものとみなします。児童の参加に当たっては、親権者の同意書が必要になります。
 
  (お申し込み)
  ■ハガキ
   〒980-0804 仙台市青葉区大町1-4-1 明治安田生命仙台ビル4F
   ㈱JTB東北 法人営業仙
台支店「ふくしま ほんとの空プログラム」係
 
 【プログラムに関するお問合せ】
  ■プログラム主催/
  ふくしま ほんとの空プログラム(事務局)福島民報社東京支社
   TEL 03-6226-1001(平日10:00
~17:00)
 
 【ご旅行内容に関するお問合せ】
  ■旅行企画・実施/ 
  ㈱JTB東北 法人営業仙台支店 日本旅行業協会正会員 
  〒980
-0804 仙台市青葉区大町1-4-1
   明治安田生命仙台ビル4F 総合旅行業務取扱管理者 塚原大

   TEL022-263-6712(平日9:30~17:30)


イメージ 1

イメージ 2


福島の地方紙『福島民報』さんと、旅行会社のJTB東北さんのタッグによる、自然体験教室的なプログラムのようです。

光太郎詩「あどけない話」から、福島の復興支援の合い言葉としてよく使われている「ほんとの空」の語を冠して下さいました。プロモーション動画などでも、「あどけない話」が使われています。

イメージ 6

イメージ 4

イメージ 3

イメージ 5


基本、親子での参加申し込みを想定しているようですが、親子限定でもないようです。こういうイベントへの参加も一つの復興支援。県内だけでなく、幅ひろく参加者の輪が広がってほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

花はなにとてうつくしく 花はなにとてかをるらん 蝶々さそふか蜂よぶか ああ天然のやみがたき ただうるはしくかんばしく 花は野にみち山にみつ
詩「小曲二篇」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昨日ご紹介した『石くれのうた』同様、未完に終わった詩集『花と実』の序詩として書かれたものです。駒込林町のアトリエを焼け出され、岩手花巻に疎開していた8月、おそらく終戦直前の作です。

それまで大量に書き殴っていた翼賛詩から離れ、若い頃から追い求めていた「自然」への讃仰が主題となっています。もはや敗色濃厚の時期。無理矢理の国民鼓舞はもうやめた、ということでしょうか。

テレビ放映情報です。

ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~

NHK総合 2017年9月2日(土) 午後7時30分~8時15分

出演 タモリ/近江友里恵アナウンサー ナレーション 草彅剛 テーマソング 井上陽水

ブラタモリ、十和田湖・奥入瀬へ!
十和田湖といえば、青森と秋田の県境に広がる美しい湖。奥入瀬渓流とあわせて、年間100万の観光客がやってくる人気スポットです。
新緑のシーズンから秋の紅葉、そして厳しい雪景色と、1年を通じて「神秘的」な風景が楽しめる場所ですが・・・でもそもそも、どうして十和田湖は“神秘の湖”になったのでしょうか?十和田湖、そして奥入瀬の不思議な成り立ちと知られざる姿を、タモリさんがブラブラ歩いてひも解きます。
まずやってきたのは、十和田湖の湖畔。湖底に現れる神秘的な「白い筋」が、十和田湖の成り立ちを解き明かすカギだった?なぜか喫茶店の「ココアと練乳」であきらかになる十和田湖誕生の秘密!・・・っていったいどういうこと!?
実は十和田湖は、火山の噴火によって出来たカルデラ湖。しかもなんと出来たてホヤホヤの、世にも珍しい「二重カルデラ湖」だった!ボートで湖へ出たタモリさん、目の前にそそりたつ急な崖に大興奮!この崖こそ、火山の中身が見えるというダイナミックな神秘だった!
さらに十和田湖の神秘といえば、もともと魚がいなかったという湖に、なぜか棲んでいるヒメマス。ヒメマスが養殖できたのも、「二重カルデラ」がつくった湖の神秘的な地形がきっかけだった?
さらに美しい滝と渓谷で知られる、奥入瀬渓流へ。十和田湖の水がただひとつ流れ出るスポットにも神秘がいっぱい!14あるという滝に隠された、1万5000年前の奇跡とは?奥入瀬の美しい森を作り出したのは・・・何と「コケ」だった?コケが織り成す神秘的なミクロの世界にタモリさんもビックリ!

イメージ 7

イメージ 1


イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6


というわけで、NHKさんの人気番組「ブラタモリ」。地質学の普及への貢献が評価され、日本地質学会さんから表彰されたりもしています。

今週はお休みですが、来週土曜日、9月2日の放送で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖と、奥入瀬渓流が取り上げられます。予告編では、「乙女の像」は写っていませんでしたが、ぜひとも写っていてほしいものです。

他にも光太郎智恵子ゆかりの地で、銚子犬吠埼や安達太良山など、地質学的に特異な場所がいろいろありますので、そちらも取り上げて下さればとも存じます。


【折々のことば・光太郎】

石くれは動かない 不思議なので しやがんで いつまでも見てゐた

詩「石くれの歌」より 昭和20年(1945)頃 光太郎63歳頃

光太郎が手元に残した紙切れに書かれていたもので、おそらく雑誌等には未発表の詩です。ただ、実現しませんでしたが、戦争末期に『石くれの歌』という詩集を刊行する意図があったことは確かで、それに関わるという推理が可能なため、「昭和20年(1945)頃」としています。

不動の「石」に対し、自分でも余り予期していなかった「動き」――過激な戦争協力――をしてしまった、せざるをえなかった光太郎、何を見ていたのでしょうか……。

昨日の『岩手日日』さんの記事です。

雨ニモマケズ一歩一歩 ツーデーマーチ 県内外1107人が交流【花巻】

 花巻の豊かな自然を歩いて体感する第20回いわて花巻イーハトーブの里ツーデーマーチ(イーハトーブフォーラム実行委主催)は19、20の両日、花巻市内を巡る距離別8コースで行われた。県内外から2日間で延べ1107人が参加し、花巻の観光スポットやウオーカー同士の交流を楽しみながらゴールを目指した。

 イーハトーブフォーラムのイベントとして毎年実施され、今回は5キロから40キロまでの8コース(1日4コース)に北は北海道、南は鹿児島県から19日606人、20日は501人が参加した。

 最終日の朝は霧雨が降る悪条件となったが、参加者は傘を差したり雨具を身に着けたりして同市大通りのなはんプラザに集結。「雨にも負けず完歩しよう」「いつまでも平和で歩けるといいですね」などのメッセージ入りのゼッケンを着けて「元気よく歩くぞ エイエイオー」と気勢を上げ、力強い足取りでスタートを切った。

 出発式であいさつした県ウオーキング協会の佐藤良介会長は「宮沢賢治、高村光太郎のゆかりの地を訪ねて歩くコースなどがある。足元に気を付け、楽しみながら完歩をめざしていただきたい」と激励。前回に続く2度目の参加で、初日は賢治文学散歩のコース、最終日は花巻温泉郷コース(ともに20キロ)に挑戦した福井県福井市の会社役員澤村玲子さん(73)は「市民の方々の親切なおもてなしに感激し、今年も参加した。60年以上の賢治ファンなので、とても満足できるイベント」と笑顔を見せた。

 発着点のなはんプラザには、これまでのツーデーマーチのパンフレットや県内外のウオーキングイベントを撮影した写真を展示。参加者には20回の記念タオルやバッジなどが贈られた。

イメージ 1


花巻でこの手のイベントが行われているのは存じておりましたが、「宮沢賢治、高村光太郎のゆかりの地を訪ねて歩くコース」というのは存じませんでした。

調べてみましたところ、なるほど、郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)方面へのコースが、「光太郎と賢治出会いのコース」となっていました。

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

光太郎がその碑文の文字を揮毫した、賢治の「雨ニモマケズ」詩碑もコースに入っており、そんなことから「光太郎と賢治出会いのコース」なのでしょう。距離は30キロだそうで、楽勝、という距離ではありませんが、無理、というわけでもなく、歩き甲斐はありそうですね。この手のイベントででもなければ歩こうとは思わない距離でもありましょう。

もう20回を数えるイベントだとのことですが、今後とも継続していってほしいものです。


ところで、ウオーキングの大会として、日本最大の規模を誇るのが、埼玉県東松山市で行われている「日本スリーデーマーチ」。その発展に尽くされた同市元教育長の故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と交流がおありでした。今年2月に逝去され、今秋行われる「日本スリーデーマーチ」は、氏の歿後初めての開催となります。

光太郎も歩くことが好きでした。奇縁を感じます。


【折々のことば・光太郎】

鋼鉄の武器を失へる時 精神の武器おのづから強からんとす 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
詩「一億の号泣」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

亡き智恵子と共に暮らした思い出深い駒込林町のアトリエを焼け出され、賢治実家の厚意で身を寄せていた花巻の鳥谷ヶ崎神社で聴いた終戦の玉音放送に題を採った詩です。

それまでに大量に書き殴っていた翼賛詩のなごりがまだ見えますが、その翼賛詩にしろ、決して敵国人の鏖殺を目的としたものではなく、「真と美と到らざるなき我等が未来の文化」建設のため、という意図がありました。

始まってしまった戦争であれば負けるわけにはいかない、塗炭の苦しみにあえぐ国民を勇気づけたい、そういう意図があったことは非難できません。

しかし、戦後の光太郎は、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を厳しく断罪するのです。

北海道から新たな美術館オープンの情報です。

ニトリ小樽芸術村さんのサイトから。

「旧三井銀行小樽支店」公開と「小樽芸術村」グランドオープンのお知らせ

この度、株式会社ニトリホールディングス(札幌市北区、代表取締役社長兼COO 白井俊之、以下ニトリ)は、昨年オープンしたステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)、ミュージアムショップ(旧荒田商会)に加え、この今年8 月1 日より隣接する「旧三井銀行小樽支店」を、小樽を代表する歴史的建造物の一つとして公開いたします。さらに9 月1 日より「旧北海道拓殖銀行小樽支店」を修復し、アールヌーヴォー・アールデコグラスと所蔵する絵画・彫刻を一堂に集め「似鳥美術館」として公開いたします。
ニトリは、これまで「ニトリ北海道応援基金」などを通じて、道内の教育・観光・文化活動を支援してまいりましたが、企業メセナ活動の一環として本施設をグランドオープンし、北海道のさらなる観光発展に寄与すると同時に、国内外の多くの方々が優れた文化・芸術に触れ、情操を育み、感動を共有できる場所にしてまいります。

【小樽芸術村 概要】
名 称 :小樽芸術村 英文名 :OTARU ART BASE
昨年7 月より公開●ステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)  所在地:小樽市色内1丁目2-17
昨年7 月より公開●小樽芸術村ミュージアムショップ(旧荒田商会)  所在地:小樽市色内1丁目2-17
8 月1 日より公開●旧三井銀行小樽支店  所在地:小樽市色内1丁目3-10
9 月1 日より公開●似鳥美術館(旧北海道拓殖銀行小樽支店)  所在地:小樽市色内1丁目3-1
B1 に、アールヌーヴォー・アールデコグラスギャラリー、
似鳥美術館ミュージアムショップ併設

◆似鳥美術館(旧北海道拓殖銀行小樽支店)
建物:1923 年(大正12 年)の建築。かって作家・小林多喜
二が働いていた旧北海道拓殖銀行小樽支店。2階ホールまでの吹き抜けは、6本の古典的円柱が圧巻。ステンドグラス美術館、旧三井銀行小樽支店同様に小樽市指定有形文化財。
面積:3,309 ㎡(1,002 坪)
4階は横山大観、川合玉堂などの日本画、
3階は岸田劉生をはじめとする日本・海外の洋画、
2階には高村光雲とその弟子たちの木彫
地下はアールヌーヴォー・アールデコグラスギャラリーとなっています。

003

イメージ 2

イメージ 3


というわけで、光太郎の父・高村光雲とその弟子達の作品が、ある程度まとめて展示されるようです。

光雲の作品は、さまざまな美術館に分散しており、それも多くて数点というところが多く、まとめて所蔵している館(京都清水三年坂美術館さんなど)にしても、それらが常に展示されているわけではないので、これは嬉しいニュースです。

点数やどんな作品か、また、弟子達のメンバー構成といった点などが不明ですが、新たな情報が入り次第お伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は拾つた篠懸木の一枚の葉を 如何に木で彫らうかと考へてゐる。

詩「美しき落葉」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

篠懸木は「すずかけのき」と読み、プラタナスの和名です。

多くの前途有為な若者達を戦場へと駆り立てた罪深い翼賛詩を大量に書き殴るかたわら、光太郎は彫刻の方面での戦争協力はほとんど行いませんでした。

同時代の彫刻家の多くは、もはやブロンズが使用できないとなると、セメントまでも使用して、兵士の姿などを彫刻にし、戦意高揚に資していました。光太郎がそうした愚にもつかぬ彫刻に手を染めなかったのは、さすがです。もっとも、大量の翼賛詩による原稿料などで、生活が保障されていたためと考えることもできますが……。

一昨日の『毎日新聞』さんの大阪夕刊から。

舞台をゆく長野県松本市・徳本峠(ウェストン「日本アルプスの登山と探検」) 穂高岳の雄姿、幾年月も

 毎年夏から秋にかけて大勢の観光客でにぎわ001う長野県・上高地。1933(昭和8)年にバスの乗り入れが始まるまで、旅行者や登山客は、徒歩で徳本(とくごう)峠を越えて上高地に入った。日本アルプスの魅力を初めて国内外に広く知らせたウェストン(1861~1940)の著書など、多くの紀行文に登場する峠を訪ねた。【関雄輔】

 「峠の最高点近くからの展望は、日本で一番雄大な眺望の一つで、円い形の輪郭や緑に包まれた斜面のある普通の山の風景とは、全くその趣を異にしている」
 
 英国出身のウェストンは宣教師として日本を訪れ、1891年(明治24年)の夏、徳本峠を経て槍ケ岳を目指した。悪天で断念したが翌年、登頂に成功。その後も繰り返し徳本峠を越え、周辺の魅力を「日本アルプスの登山と探検」などの著書に記した。ウェストンだけでなく、上高地を舞台に「河童(かっぱ)」を書いた芥川龍之介や、詩人の高村光太郎もこの峠を歩いたという。
 
 今月1日の早朝、松本市の安曇支所前でバスを降り、徳本峠への道を歩き始めた。上高地までは約20キロ。2時間ほど歩くと、道ばたに炭焼き窯の跡があった。上高地が観光地化される以前から、この峠道は狩猟や炭焼きなどに従事する人々の生活の道だったのだろう。今は利用する登山客も少なく、ハイシーズンの北アルプスとは思えない静かな山道が気持ちいい。
 
 さらに歩くこと1時間、現在は営業休止中の岩魚留(いわなどめ)小屋にたどり着いた。道沿いの沢が、岩魚を足止めするほどの急流に変わることからこの名が付いたという。

002  003
 
 小屋の前で休憩中、この日初めて他の登山者と出会った。神奈川県藤沢市から来たという小川武士さん(53)。「多くの人が行き来した歴史あるルートで、以前から
一度歩いてみたいと思っていた」。互いの疲れをいたわり合い、峠への急坂に取りかかった。
 
 息を切らしながら3時間ほど登ると、峠の広場に出た。標高2135メートル。あいにくの曇り空で、ウェストンが「日本で一番雄大な眺望」と賞した穂高岳の姿は見えない。翌日に期待をかけ、今夜の宿である徳本峠小屋に荷物を下ろした。
 
 1923(大正12)年に営業を始めた徳本峠小屋は、2010年に建てられた新館に隣接して旧館がそのまま残されている。国の登録有形文化財に指定されており、内部の柱や梁(はり)は建てられた当時のままという。
 古い落書きがいくつも残されていた。ほとんどが名前と日付で、特に多いのが「昭和二十年八月」。「八日」もあれば「二十日」もある。終戦の前後、彼らはどんな思いでここに来たのだろう。
 翌朝、目を覚ますと雲一つない快晴だった。峠の木々004の間から穂高岳が見えた。峠から尾根伝いに霞沢岳(2646メートル)まで往復し、昼過ぎに上高地へと下山。梓川沿いの散策路は大勢の観光客でにぎわっていた。
 大正時代末から昭和の初めにかけ、上高地は観光地として大きく姿を変えた。商店や旅館が増え、バス路線の開通で峠道は使われなくなった。豊かな自然は今も変わらないが、人の流れは100年あまりで大きく変化した。英語や中国語の会話が聞こえてくる現代の上高地を歩きながら、ウェストンらが歩いた往時の風景を思った。

徳本峠登山ルート(長野県松本市)
アクセス
 徳本峠へは、安曇支所前から徒歩で約7時間半。峠から上高地への下りは約1時間半。霞沢岳へは峠から往復約7時間。所要時間は個人差が大きいため要注意。徳本峠小屋(090・2767・2545)は予約が必要。


記事にある、光太郎が徳本峠を越えて上高地に入ったのは、大正2年(1913)の夏。あとから結婚前の智恵子も追いかけてきて合流、1ヶ月ほどを過ごしました。智恵子も健脚で、徳本峠を歩いて越えました。光太郎は上高地で描いた油絵を、この年開かれた生活社展に出品しています。

上高地についてはこちら。



白状いたしますと、当方、上高地には行ったことがありません。いずれ、とは思っております。


【折々のことば・光太郎】

夫人一生を美に貫く。 火の燃ゆる如くさかんに 水のゆくごとくとどまらず、 夫人おんみづからめでさせ給いし 五月の薔薇匂ふ時 夫人しづかに眠りたまふ。

詩「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎の本格的な文学活動の出発点といえる新詩社を主宰していた与謝野鉄幹・晶子夫妻。いわば光太郎の師にあたります。

その晶子が亡くなったのは、昭和17年(1942)5月29日。晶子は光太郎より5歳年長でしたので、数え65歳。早いといえば早い逝去でした。光太郎のこの詩、智恵子へのそれとはまた趣を異にした、味わい深い挽歌です。

しかし、こう言っては何ですが、晶子はこの時点で亡くなったのは、ある意味、幸せだったかも知れません。

かつて日露戦争の際に、出生する弟に「君死に給ふことなかれ」と謳いかけた晶子も、この年にはこんな短歌を詠んでいます。

  戦(いくさ)ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く
  水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ

「四郎」は「四男」の意で、大正2年(1913)生まれのアウギユスト(本名です。ロダンのファーストネームから採りました)。

この時期、ほとんどすべての文学者は、こうした戦意高揚の作品を書くことが求められていました。変な言い方ですが、晶子ももう少し生きながらえてしまっていたら、この手の歌をもっとたくさん遺してしまうことになったでしょう。そうならなかったのがせめてもの救い、というわけです。

先日、十和田市役所の方から、最新の十和田湖関連のパンフレット類を頂きました。

まずは十和田市としての観光ガイドパンフレット『とわだ旅』。「街なか編」「奥入瀬編」そして「十和田湖編」の三種類があり、それぞれA5判16ページ、オールカラーの冊子になっています。

イメージ 1

イメージ 2

このうち「十和田湖編」で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が紹介されています。

イメージ 3


それから別冊の、A3判1枚両面印刷を4つ折りにした「とわだ旅~ゆったり癒しの感動体験~」にも。

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6


また、平成26年(2014)にオープンした、「十和田湖観光交流センターぷらっと」の新しいパンフも併せて頂きました。こちらはA5判8ページの冊子です。

イメージ 7

展示コーナーの内容が説明されています。

イメージ 8

イメージ 9

特産のヒメマス養殖に生涯を捧げた和井内貞行、十和田湖の魅力を初めて広く紹介した大町桂月。

そしてわれらが光太郎。

イメージ 10

ありがたいですね。


この「ぷらっと」に、来春、青森在住の彫刻家にして、生前の光太郎を知る田村進氏による光太郎胸像のブロンズ彫刻が寄贈され、展示される予定です。

その寄贈を報じた地元紙2紙の画像も頂きました。

まず『デーリー東北』さん。

イメージ 11

『デーリー東北』さんの記事は、ネット上でも読めましたが、やはり実際の紙面で見る方が、いい感じです。

続いて、『東奥日報』さん。

イメージ 12


この光太郎胸像と共に、さらに、もう1点、「乙女の像」にまつわるなかなかすごいお宝が、やはり来春から「ぷらっと」で展示されることになりそうです。

そちらの方は、詳細が公表されましたらまたこのブログにてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

父なく母なく妻なく子なく、 木端(こつぱ)と粘土と紙屑とほこりとがある。 草の葉をむしつて鍋に入れ、 配給の米を余してくふ。

詩「独居自炊」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

前年12月8日に太平洋戦争が開戦。この前後はほとんど程度の低い翼賛詩のオンパレードです。そうした中で、ふと謳われた身辺雑事。かえってこういう詩に、光太郎の魂のありようが見て取れます。

青森県さんのサイトから。
県では、関西圏での観光PRの一環として、滑舌の悪い芸人として人気の諸見里大介氏と青森県民がラップバトルするムービー「ディス(り)カバリー青森」第2弾を公開します。

日程
2017年08月09日〜2018年03月31日 

お問い合わせ 誘客交流課 国内誘客グループ 大庭 017-734-9384  

更新日付:公開日:2017年8月9日


早速、拝見。

「ディス(り)カバリー」は、「ディスカバリー(discovery)=発見」と、「ディスリスペクト (disrespect)=侮辱する」からの造語「ディスる」を、さらに組み合わせたものですね。

青森を「ディスる」吉本新喜劇座員の諸見里大介さんが、県内各地で青森県民の皆さんと「ラップ対決」をするというシチュエーションです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

三内丸山遺跡、八戸屋台村みろく横町。

イメージ 4

イメージ 5

そして、2分03秒頃から、十和田湖。

イメージ 6

諸見里さんと「対決」するのは、謎の女子高生二人組。

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の前でも、バトル。ただし、仲間割れも(笑)。

イメージ 12

イメージ 13

諸見里さんも負けていません。

イメージ 14

イメージ 15

と言いつつ、彼は沖縄出身だそうですが(笑)。

酸ヶ湯温泉では……

イメージ 16

謎のおじさんが……

イメージ 17

何と、その正体は……

イメージ 18

青森県知事・三村申吾氏。「ちじ」ではなく「つづ」だそうで(笑)。

こんなカットも。

イメージ 19

諸見里さん、最後は「改心」(笑)。

イメージ 20

イメージ 21


追記 2018年3月をもってYoutubeさんでの公開が終了してしまいました。

ここまで開き直ると、かえって痛快です。半分以上は意味不明ですが(笑)。

当方、10月に十和田に講演に行くことになりました。皆様ぜひ青森へ!


【折々のことば・光太郎】

この世に何が起らうと、 こころに美を持つ 凛々しい女性の居るかぎり 人は荒まず滅びない。

詩「こころに美を持つ」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

上記動画で、開き直って青森の魅力を訴える、特に女性の姿を見て、なるほどな、と思いました。

大阪から演劇の公演情報です

売り言葉

期   日 : 2017年8月25日(金)~27日(日)
会   場 : 大阪市立芸術創造館 大阪府大阪市 旭区中宮1丁目11−14
時   間 : 25日(金)20:00[S]  26日(土)12:00[A]/15:30[B]/20:00[A]
         27日(日)12:00[B]/15:30[S]
料   金 : 前売/2,500円、当日/3,000円(全席自由席)
主   催 : evkk(エレベーター企画)
出   演 : 一人芝居バージョン[S] >25日(金)20:00、27日(日)15:30  澤井里依  
         複数バージョン[A] >26日(土)12:00、26日(土)20:00
          佐々木穂香、澤井里依、他
         複数バージョン[B] >26日(土)15:30、27日(日)12:00
          宮下牧恵、澤井里依、他

高村光太郎の妻・智恵子の物語。裕福な家庭に生まれた彼女は、東京で高村光太郎と出会い、結婚。才気煥発な智恵子だったが、ふたりの関係は少しづつ変わってゆく。光太郎が芸術家として前進する一方、自分の絵は認められることはなかった。『智恵子抄』に描かれた「あなた」であらんとするため、必死でもがく智恵子-本当に、私はこんなにも綺麗に死ぬことが出来るのかしら。

作・野田秀樹 演出・外輪能隆 上演時間・約1時間30分(休憩なし)

イメージ 1

「売り言葉」は、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、主役・大竹しのぶさんで初演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。

翌年に新潮社から出版された野田さんの脚本集『二十一世紀最初の戯曲集』に収められ、その後、プロアマ問わず、多くの公演で取り上げられています。

モラハラともいえる光太郎の芸術至上主義の犠牲となった智恵子、という観点で、徐々に壊れていくその描写が秀逸でした。

今回、「複数バージョン」という試みが為されるそうで、元来が一人芝居であるものを、どう複数で演じるのか、興味のあるところです。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生きた言葉の美しさ。 利害を絶した天の声こそ まことに此世をせいせいさせる。  
 商量思念に我を持つ言葉は 結局あはれな陳列物。 自然と涌いてあやまたない、 さういふ言葉を語る人に 雲のやうな無限がある。

詩「或会議に列して」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

「或会議」は、光太郎も議員として出席した第一回中央協力会議。大政翼賛会中央本部で開催されました。終了後、同じく議員だった菊池寛、尾崎士郎と行った座談会の筆記が雑誌『モダン日本』に掲載されています。冒頭の光太郎の発言。

今日あたり聴いてゐて、人のしやべる欲望の物凄さを感ずるですね。自分でしやべつてゐて、頭がわるくなつてしまふのか、同じことを五人も六人も話したことを忘れて、やつぱりちつともやめないんですね。

それが「商量思念に我を持つ言葉」「結局あはれな陳列物」ということなのでしょう。何だか、どこぞの国の国会や閉会中審査なる会議のようですね(笑)。

しかし、三人とも、議長を務めた後の内務大臣、海軍大将の末次信正については賞賛しています。

尾崎 しかし僕はあの議長は非常に立派だと思つたですね。あの人が変つたら、何か感じが少し変りは
    しない
かと思ふ。(略)僕はちょっと眠つちやつたけれども、気がつくと、末次さんが眼をギ
    ラギラしてやつてゐ
るので、何か壮烈な感じがしたですね。
菊池 長くなつた人なんか遠慮しないで「簡単に願ひます」なんてやつてゐた。
尾崎 はつきり処理しながら、なかなか思ひやりもあつて、情義兼ね備はつてゐるね。
高村 ゆつたりやつてゐるから、面白いですね。

当方も人前で話す機会が結構あるのですが、「自然と涌いてあやまたない、 さういふ言葉」を心がけようと思います。

昨日は終戦記念日でした。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手の地方紙『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」で、それにからめて光太郎を紹介して下さいました。

風土計 2017.8.15

 岩手にとって1934(昭和9)年は歴史に刻まれる年だろう。その夏は異常に寒かった。大凶作となって人々は食うに困り、娘は身売りに出された。前年の大津波に続いて、農漁村はみるみる疲弊していく
▼釈迢空(ちょうくう)こと折口信夫が詩「水牢(みずろう)」を世に問うたのは、この年だった。<水牢さ這入つて 観念の目を閉ぢた><娘を売つて-から 水牢だ>。以前に東北の旅を通じて、農民の窮状を目の当たりにしていた
▼飢えは人々の怒りを呼び起こす。青年将校の暴走を生み、政治は軍部を抑えられない。そして戦いへと、ひた走っていく。水責めの牢獄・水牢に社会全体が入り込み、抜け出せなくなる。そんな時代だった
▼戦火の中で折口の養子・春洋(はるみ)も戦死した。<戦ひにはてし我が子のかなしみに、国亡ぶるを おほよそに見つ>。悲憤の歌がいくつも残る。今年で生誕130年の民俗学者はこの時、心の水牢に入り込んだのだろう
▼もう一人、あえて水牢を望んだ人がいる。高村光太郎は終戦後間もなく、花巻の粗末な小屋に入った。戦争賛美の詩を書き続けた自らを罰するために。そして語った。「ぼくは自分から水牢に入るつもりだった」と
▼72年前のきょう8月15日。終戦により人々は水牢から放たれたが、引きずり込まれる者もいた。戦争というものの、それが宿命なのかもしれない。


花巻郊外旧太田村。譲り受けた鉱山の飯場小屋を移築してもらっての「水牢」生活は7年に及びました。それでも許されたとは思っていなかったようですが、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の依頼に応えるために再上京。仕事が終わればまた「水牢」に戻るつもりでした。しかし、健康状態がそれを許しませんでした。10日余り太田村に帰ったものの、結局は東京で療養せざるを得なかったのです。というより、これこそがある意味、天の配剤だったのかも知れません。「もう十分だ」という……。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7  イメージ 8

村人達との心温まる交流、若い頃から憧れていた自然に包まれての生活など、プラスの面もありましたが、それをさっ引いてもマイナスの要因の多い暮らしでした。小屋は村の一番はずれで、夏は周りを熊がうろつき(現在もです)、冬は零下二十度、寝ている布団にさえ隙間から入り込んだ雪がうっすらと積もったといいます。最初の数年間は電気さえ引いていませんでした。その自虐ともいえる過酷な生活は、戦時中に大量の翼賛詩文を書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死に追いやった反省からくるものでした。公的には戦犯として訴追されなかった光太郎ですが、己を罰するために、あえて不自由な生活、さらに天職と考えていた彫刻の封印を、自らに科したのです。

イメージ 9  イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16


まったくもって、こうした世の中が再び訪れないよう、一人一人が考えていかなければならないと、痛切に思いました。


【折々のことば・光太郎】

夜が明けたり日がくれたりして そこら中がにぎやかになり、 家の中は花にうづまり、 何処かの葬式のやうになり、 いつの間にか智恵子が居なくなる。 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。 外は名月といふ月夜らしい。

詩「荒涼たる帰宅」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年8月に刊行された詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されている詩の末尾です。3年前の智恵子葬儀の日をモチーフにしました。

亡き智恵子を偲ぶ時、「狂瀾怒涛の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」(「梅酒」 昭和15年=1940)と謳っていた光太郎でしたが、この詩をもって、公表された詩で智恵子を謳うことは、戦後まで途絶えます。

智恵子に思いを馳せる時のみ、強引な言い方ですが人間性を回復できていた光太郎、愛する者の死を謳うことで、愛する者に別れを告げ、同時に詩人としての「魂」も自ら死に追いやったといえます。ここから約4年、上記のような翼賛詩の書き殴りの時期が続きます。

宮城県女川町で8/9に開催されました、第26回女川光太郎祭関連で、女川ネタを続けます。

若干古い話ですが、先月末、花巻、盛岡を訪れた際、借りていたレンタカーのラジオで聞いたNHK FM東北さんのローカルニュースです。 

中学生が被災地で震災の教訓学ぶ

東日本大震災の被害や教訓を学ぼうと、七ヶ浜町の中学生が、震災で大きな被害を受けた女川町を訪れ、発生した当時の状況などを聞きました。
女川町を訪れたのは、震災について学ぶ活動を続けている七ヶ浜町の向洋中学校の1年生から3年生までの生徒あわせて26人です。
生徒たちは、震災が発生した際、多くの住民が避難した女川中学校の校舎を訪れ、当時、教員として勤務していた佐藤敏郎さんから話を聞きました。
この中で、佐藤さんは、発生直後、割れた窓ガラスの破片が避難路に散乱し、生徒たちが思ったように避難できなかったことを説明し、日頃からさまざまな被害を想定しておくことが重要だと強調していました。
また、佐藤さんは、女川中学校の生徒や卒業生が、震災後、教訓を伝える石碑を町内各地に建てる活動を行っていることも紹介し、生徒たちは、時おりメモをとりながら真剣な表情で聞いていました。
自身も七ヶ浜町で被災し、家族を亡くしたという3年生の阿部杏珠さんは「自分は震災のことをあまり話したくなかったのに、女川の人たちはちゃんと伝えようとしていてすごいと思いました。自分もまずは身近な人から伝えていきたいと思います」と話していました。

同じ内容をテレビのニュースでも報じたようで、しばらくNHK東北さんのサイトで動画も見られました(現在は削除)。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5


「教訓を伝える石碑」が「いのちの石碑」です。この上の画像2枚に写っています。

東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒さんたちが発案、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に碑を建て、大地震の際にはそこより上に避難するためのランドマークとするというもので、既に半数以上が設置されています。合い言葉は「1000年後の命を守る」。平成3年(1991)、かつての海岸公園に建てられた光太郎文学碑に倣い、「100円募金」で設置費用をまかなうとして始められました。それぞれの碑には、当時の中学生たちが国語の授業で詠んだ句も刻まれています。

このブログでもたびたびその動向をご紹介しています。



8/10(木)の『朝日新聞』さん宮城版でも取り上げられています。

宮城)女川の子どもたちのそばに居続けた阿部一彦先生

■震災6年5カ月(11日に想う)
 私は社会科の教員です。でも今は、子どもたちが私の先生です。
 矢本二中の阿部一彦教頭(51)は震災の時、女川一中(現・女川中)の3年生を受け持っていた。
 午後2時15分、次の日に卒業式を控えていた92人の3年生を帰しました。帰さなきゃよかった。教え子を2人殺してしまいました。おばあさんの車いすを押していたのが、けんちゃんの最後の姿。今も見つかっていません。
 学校は避難所になり、コピー用紙も古い教科書も燃やしてたき火をしました。女の子が友だちと話していました。「逃げるとき何か踏んづけた。見たら近所のおばあさんだった。(頭を)ハンカチで包んでご家族に届けた……」
 なんにも言えなかった。怖くて。避難所に来た子にどうだったと聞いて、「お父さんがいなくなった」と言われたら何もできない。おなかすいたと言われても何もできない。ずっと子どものそばにいよう。横で同じ空気を吸おう。それしかできなかった。
     ◇
 被災した地域のどこよりも早く、4月8日に始業式をすることになりました。教育長が「子どもが手足を伸ばせる場をつくらないとだめだ」と。鉛筆も教科書も楽器もなかったけど、同僚だった佐藤敏郎先生と「子どもと先生がいれば、学校はできる」と確信していました。
 新1年生の学年主任になり、ふるさとや震災について考える授業に取り組んだ。子どもたちは「千年後の命を守る」を合言葉に、浜に「ここまで逃げて」と呼びかける石碑を建て、防災を学ぶ「いのちの教科書」を作り始めた。
 町の縄文遺跡を生徒と回ると、全部残っていました。悔いました。それまでの23年間、何を教えていたんだろうと。縄文時代の授業の時、「縄文遺跡まで逃げるんだよ」とたったひと言伝えていれば、2人は亡くならずにすんだのに。そして、子どもたちが言ったんです。「過去を知ることは未来を創造することだ」
 津波対策案を考えた時のことです。ななみさんが涙ながらに言いました。「逃げようと言っても逃げない人がいる。どうするの」。ななみさんのおじいさんはなかなか逃げない近所の人に避難を呼びかけていて津波にのまれたのです。私は答えられませんでした。
 こうせい君から出てきた答えは「絆」です。「はやりの言葉か」と思ったら、避難所で食べ物をくれた人がいるから助かったと。さらに、逃げなかった人も家族や親友が逃げろといえば逃げたし、そうすればおじいさんも助かったと言うんです。私はただただ、「すごいなあ」と言いました。
 教科書づくりのアイデアを出したのは、社会科が大っきらいな男の子です。授業中に突然手をあげて、「小学1年生から順番に学べるものを作ろう」。子どもたちはみんな、やりたいことを持っている。
 高校生になっても、15人ほどが活動を続けました。集まったのは3年間で108回。いつまでやるのと聞いたら、「死ぬまで」。
     ◇
 子どもたちはこの春、高校を卒業した。看護師、物書き、サッカー選手……。中2の時に「立志の会」で語った自分の夢に、多くの子が近づいている。
 あきと君が最近、「防災を空気にしたい」と話していました。ご飯を食べ、水を飲むように、防災を考えることを当たり前にしたい。そんな言葉、教科書だけで教えても出てきません。子どもの意欲がないと最近言われるけど、それは引き出していないから。女川の子たちも普通の子。場があれば、自律的な学びになっていきます。
 震災で得たものは一つ。すべての答えはそれぞれの子どもの中にあるということです。たくさんのことを教えてくれた先生たちに、11日、久しぶりに再会します。(中林加南子)

イメージ 6  イメージ 7
愛知から訪ねてきた中学生に石碑の説明をする阿部一彦先生=5日、女川町竹浦


さらに石碑だけでなく、「いのちの教科書」というプロジェクトも進行中だそうです。今後とも「1000年後の命を守る」ためにがんばっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

青年は親からはみ出す。 時々親をばかにする。 しかしいよいよといふ時には、 いつでも母をよび父をよぶ。 親は青年のいきほいひに驚く。 それを見て生きるかひがあると思ふ。

詩「青年」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いつしか「復興のトップランナー」と言われるようになった女川町。行政も積極的に動いていますが、行政任せにせず、住民が自分たちで知恵を出し合い、動いています。特に若い世代が進んで先頭に立ち、高齢者世代は口を出さないという暗黙の了解が出来ている部分があるそうです。女川の復興を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール 女川つながる人々」に、そういう話が紹介されていました。

「いのちの石碑」「いのちの教科書」などのプロジェクトにもそういう部分があるのでしょう。

なかなか勇気のいることだと思いますが、変なしがらみに縛られないためにはそれも大切なことでしょう。もちろん「いよいよといふ時には」世代を超えて協力することが必要だと思いますが。

8/9(水)、既にご紹介いたしましたが、第26回女川光太郎祭が行われました。それ以外の部分で女川、光太郎がらみのレポートを。

イメージ 2

前日に女川入りしまして、2泊いたしました。宿泊先は、これも既にご紹介したトレーラーハウス、エル・ファロさん。

イメージ 1

JR石巻線女川駅のすぐ裏手に移転され、ぐっと利便性が良くなりました。

それぞれの宿泊棟にユニットバスがついていますが、2晩とも女川駅の駅舎2階にある温泉入浴施設、ゆぽっぽさんを利用いたしました。やはり足をのびのびと投げ出して浴槽に浸かれるというのは大きな魅力です。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

こちらは女川駅の夜景。

イメージ 6


女川駅といえば、昨年、女川町に天皇皇后両陛下が足を運ばれ、その際に皇后陛下が詠まれた短歌を刻んだ碑が、今年3月、駅前に建てられました。

イメージ 7

イメージ 8

曰く「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川駅を始発車いでぬ」。


碑といえば、そもそも女川光太郎祭の機縁となった、平成3年に故・貝(佐々木)廣氏が中心となって建てられた光太郎文学碑。

周辺が、貝(佐々木)廣氏も呑み込んだ、震災・津波のメモリアルゾーンとして整備されている真っ最中でした。

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

一日も早く、再び立つことを祈念しております。


そこからほど近い女川町まちなか交流館さんで、第26回女川光太郎祭が開催されましたが、そのロビーには、震災がらみの展示が充実していました。

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

女川町の歴史、ということで、光太郎がここを訪れた昭和初期の様子なども。

イメージ 19

イメージ 20


このブログで何度もご紹介しています、光太郎文学碑の精神を受け継いだ「いのちの石碑」についても。

イメージ 21


着々と復興は進んでいますが、まだまだ道半ば。ぜひとも多くの皆さんに訪れていただき、復興の歩みと、ここに暮らす人々の心意気を見ていただきたいものです。

ついでですので、明日は「いのちの石碑」がらみで。


【折々のことば・光太郎】

夜明けの前の波は静まり、 ただ天上の炎がもえる。 さういふ天の時をつんざいて 漁村に人間の息吹は生れる。

詩「漁村曙」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「天上の炎」は、星。「漁村曙」は、翌春の宮中歌会始の題でもあり、光太郎詩以外にも、横山大観の日本画、宮城道雄の箏曲など、さまざまな作品の題となりました。

「漁村に人間の息吹」。女川を思い起こさせます。そこで、第26回女川光太郎祭では、当会顧問北川太一先生が高等学校に勤務されていた頃の教え子の皆さん、北斗会さんの方が、この詩を朗読されました。

花巻での刊行物2点、ご紹介します。

まず、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』第3号。創刊号第2号同様、裏表紙に花巻高村光太郎記念館さんの協力により「光太郎のレシピ」が連載されています。

イメージ 1  イメージ 2

今回はカレーを中心に、付け合わせの漬物系。昭和21年(1946)の光太郎に日記には、カボチャの花や間引きした白菜(茎でしょうか)などを酢であえてみた的な記述があり、それを再現したようです。なかなか面白いアイディアですね。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本。送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


続いて、盛岡ご在住、光太郎の従妹・加藤照さんの子息・加藤千晴氏による冊子『光太郎と女神たち』。

イメージ 3

加藤氏、昨年5月の花巻高村祭でご講演をされ、その後、当方、ご自宅にお伺いし、照さんにもお目にかかりました。その際に、加藤家に伝わる光太郎書簡や古写真、光太郎の姉・さくが描いたという扇子(表紙に使われています)などを拝見しました。

それらの資料の紹介と共に、加藤家と光雲、光太郎らのつながりについてまとめられたものです。

こちらは非売品の扱いですが、お問い合わせは花巻高村光太郎記念館さんまで。


【折々のことば・光太郎】

少女立つて天を仰ぐは まことに聖なるものの凜たる像だ。

詩「少女立像」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

雑誌『少女の友』に掲載されました。もともと光太郎には婦人誌や少女誌からの原稿依頼が多く、他にも老境に入り、次代を担う若者達へのメッセージが目立つようになります。

青森の地方紙『デーリー東北』さんから。 

内なる魂を感じて 高村光太郎のブロンズ胸像寄贈/青森・十和田

 青森市在住の元教員田村進さん(84)が、詩人で彫刻家の高村光太郎の偉大さを伝えようと、ブロンズ製の胸像「光太郎山居(さんきょ)」を完成させた。田村さんは8日、青森県十和田市役所に小山田久市長を訪ね、市に寄贈することを報告。胸像は来年4月から、十和田湖畔休屋の光太郎が制作した「乙女の像」の周辺にある十和田湖観光交流センター「ぷらっと」で展示される予定だ。

 田村さんは10代から光太郎の詩や書、彫刻などの作品に親しんだ。乙女の像が完成した1953年には、除幕式の翌日に本人と直接会う機会に恵まれ、以後も光太郎の芸術世界を思い続けてきたという。

 県内の中・高校で美術教員を務め、退職後の80歳の時に、今回の胸像の原型となる石こう像を4カ月半かけて制作。昨年7月、十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域指定80周年の記念式典会場に展示された。これを契機に市への寄贈の話が進み、石こう像から型を取ったブロンズ像を完成させた。

 像は高さ74センチ、幅78・5センチ。重さが85キロあり、台座を市が今後準備した後、ぷらっとに展示する。

 この日は田村さんが胸像の写真パネルを小山田市長に贈り、制作の経緯などを説明。小山田市長は「観光などで訪れる多くの人に見ていただき、高村や乙女の像について関心を持ってもらえればと思う」と謝辞を述べた。田村さんは取材に「胸像から高村の内なる魂、すごさ、優しさを感じてもらいたい」と話していた。

イメージ 2  イメージ 3

田村進氏、記事にあるとおり、青森市在住の彫刻家で、昭和28年(1953)には光太郎本人とも会われたという方です。連翹忌にも3回、ご参加下さっています。

平成24年(2012)頃から、光太郎像の制作にかかられ、レリーフ習作を経て、平成26年(2014)には胸像本体の原型が完成したそうです。で、このたび、ブロンズに鋳造したものが十和田市に寄付されたとのこと。

展示は来春からになるそうですが、十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」にてなされるそうで、元々ある光太郎がらみの展示と合わせ、多くの方々に見ていただきたいものです。


十和田市さんのブログサイト「駒の里から」でも報じられているほか、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の方から、さらに詳しくこの件を扱った地元紙『十和田新報』さんの記事を、メールで頂きました。

004


画像クリックで拡大します。


来春以降、十和田湖にお立ち寄りの際は、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】005

南へ 北へ (あるけ あるけ)  東へ 西へ (あるけ あるけ)  路ある道も (あるけ あるけ)  路なき道も (あるけ あるけ)  

歌詞「歩くうた」 より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

日本放送協会選定の国民歌謡として作られた、飯田信夫作曲による歌曲です。戦意高揚という部分を抜きに考えれば、詩としては悪くないと思います。

徳山璉(たまき)らの歌唱などでSPレコード化され、それなりにヒットしたそうです。

詩人でもあり、朗読もなさっている宮尾壽里子さんからご案内を頂きました。宮尾さん、これまでもお仲間の皆さんと、 「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」、「第5回 春うららの朗読会」等で、光太郎詩を取り上げて下さっています。

響きあう詩と朗読

期  日 : 2017年8月30日(水)
時  間 : 開場18:30  開演19:00
場  所 : 江東区公会堂ティアラこうとう 小ホール 東京都江東区住吉2-28-36
料  金 : 3,000円(全席自由・税込)

イメージ 1

イメージ 2

演 目 :
宮尾壽里子 ピアノ:YOSHI
 <ポエジー母>より 三好達治「乳母車」  高村光太郎「母をおもふ」  西條八十「帽子」 
 草野心平「青ィ花」  宮尾壽里子「母になる日」  吉田一穂「母」

勝田のぞみ J.D.ベリズフォード(訳:西崎 憲)『喉切り農場』

岩井奈美 F.G.ロルカ(訳:小海永二)  『ガリーシアの六つの詩篇』 
 ヴァイオリン:松田 彩 ピアノ:室井悠李
 Ⅰ サンティアゴの町への恋歌  Ⅱ 小舟に乗った聖母マリアのロマンセ Ⅲ 少年店員の歌
 Ⅳ 死んだ若者の夜想曲  Ⅴ 死んだロサリア・カストロのための子守唄
 Ⅵ サンティアゴの月の踊り
 芥川龍之介『地獄変』

ひらやす かつこ J.R.ヒメネス(訳:長南 実)
 『プラテーロとわたし』より「プラテーロ」「春」「秋」

清水けいこ 篠笛:長谷川美鈴
  高村光太郎『智恵子抄』より「郊外の人に」「晩餐」「あどけない話」
 「あなたはだんだんきれいになる」「樹下の二人」「風にのる智恵子」 「荒涼たる帰宅」
 「梅酒」「レモン哀歌」


恐縮ながら招待券を頂きました。楽しみにしております。


それから、情報を得るのが遅れて、もう明日になってしまっていますが、もう1件。朗読と云うより詩吟系のイベントのようです。

京の文化絵巻2017 ~文学吟詠舞劇と邦楽の飛翔~

期  日 : 2017年8月12日(土)
時  間 : 開場14:30  開演15:00
場  所 : 京都芸術センター 講堂 京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2
料  金 : 1,000円

イメージ 3
演 目 :

 文学吟詠舞劇 「智恵子抄 断章―千鳥と遊ぶ智恵子―」
  原詩 高村光太郎   構成詩・付曲 廣 青隴   舞振付 藤蔭静樹
  文学吟詠:廣 青隴 古川瀞女 増田松洲 栗田瀞惠  村田青雪 黒田桜風 松浦哲山
       増田興洲
  舞:藤蔭静樹 藤蔭静亜樹
 
 -古典芸能十八番中の十八番 道成寺もの-より 「古道成寺」
  作曲 岸野治郎三、八重崎検校  出演 箏 早瀬久恵
  歌・三絃 大木冨志 粟田彰輝 梶田和栄

文学吟詠舞劇というジャンル、どんなものかと非常に興味があるのですが、いかんせん参上できません。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生れてまだ二十年にもならないだらう青年は まるで天からもらつた水晶玉のやうにきれいだ。 その純潔をまもつてくれ、青年よ。

詩「純潔」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

その青年たちを戦場へと追いやるための詩を、この後、光太郎は大量に書き殴ることとなってゆきます。戦後はその贖罪のため、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での、自虐とも云える蟄居生活に入るわけです。

2泊3日の行程を終え、先ほど、宮城女川から帰って参りました。

昨日の第26回、女川光太郎祭をレポートいたします。

イメージ 1

イメージ 2

会場は、JR女川駅前に新たに建設された商店街・シーパルピア女川のはずれに建つ、女川町まちなか交流館さん。台風余波の驟雨が時折強く降りしきる中での開催となりました。

イメージ 3

多目的ホールが備わっており、ゆったり広々した会場で開催できました。特に今年は、智恵子の故郷・福島二本松から、智恵子命日の集い・レモン忌を主催されているレモン会の皆さん20余名が、マイクロバス一台で駆けつけて下さり、多数の参会となりましたので、広い会場で幸いでした。

イメージ 4

イメージ 5

はじめに黙祷。かつてこの会を取り仕切っていた、貝(佐々木)廣氏を偲んで、頭を垂れさせていただきました。

イメージ 6

その後で、当方の講演。昭和22年(1947)に発表された、光太郎のそれまでの65年間を振り返る連作詩「暗愚小伝」に基づき、光太郎の生の軌跡をご紹介する連続講演で、今年は5回目。主に智恵子との結婚生活、その始まりから終焉までを語らせていただきました。合間に光太郎の肉声の録音なども聞いていただき、おおむね好評でした。

主催の女川光太郎の会・須田会長のご挨拶。

イメージ 7

須田会長は女川沖に浮かぶ出島(いずしま)ご在住の漁師さんで、年に数回、当方の元に銀鮭やらホヤやらサンマやらを送って下さっています。

光太郎遺影、それからかつて会場すぐそばに建っていた光太郎文学碑の写真に献花。レモン会の方にもお願いしました。

イメージ 8

イメージ 9

今年の会場からは、横倒しになった文学碑が見えました。ちょっとわかりにくいのですが、下の画像、真ん中の電柱の真下の黒いのがそうです。

イメージ 10

碑の関係については、いずれ日を改めてこのブログでご紹介します。

その後は、ギタリスト・宮川菊佳さんの演奏に乗せて、光太郎の詩文の朗読。

イメージ 11

イメージ 12  イメージ 13

小学生からご高齢の方、さらに地元の方から遠方の方まで、それぞれに個性あふれる朗読でした。

アトラクションとして、音楽演奏も行われ、花を添えて下さいました。

イメージ 14  イメージ 15

故・貝(佐々木)廣氏夫人の英子さん。今回欠席された、当会顧問北川太一先生のメッセージを代読なさいました。

イメージ 16

イメージ 17

高村家から、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周令孫・達氏のご挨拶。

こうしてつつがなく終了し、すぐ近くの中華料理店さんを借り切って、レセプション。

イメージ 18

レモン会の皆さんは、二本松からの列車の都合がおありの方がいらっしゃるとのことで帰られましたが、北川先生の教え子の皆さんである北斗会の方々、詩人の曽我貢誠氏ご夫妻、音楽演奏をなさって下さった方々、女川の風土に魅せられて、毎年この日に遠方からいらっしゃる方々、そして地元の皆さんなどで、おおいに盛り上がりました。泉下の光太郎、さらに貝(佐々木)廣氏も喜んだことでしょう。

その途中、喫煙のため外に出たところ、見えた夕焼け。

イメージ 19

イメージ 20

一年後の再会を約し、散会しました。


今朝、地元紙『石巻かほく』さんで、早速報じて下さいました。

女川で「光太郎祭」、講演と朗読 紀行文や詩に思いはせる

 女川町を訪れた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ、第26回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、町まちなか交流館で開かれた。光太郎は31年の8月9日に三陸地方を巡る旅に出発した。

 町民ら約60人が参加。高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会代表の小山弘明さんが「高村光太郎、その生の軌跡~連作詩『暗愚小伝』をめぐって」と題して講演。光太郎と妻智恵子が共に歩んだ人生を、光太郎の詩を紹介しながら解説した。

 小山さんは、光太郎が智恵子と結婚披露宴を開いた1914年の作品「道程」について「光太郎が文学や彫刻で新しい道をつくっていく決意を表している」と説明。「道程」の一文にある「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来(でき)る」に触れ、「現代のわれわれにも通じる素晴らしい作品だと思う」と述べた。

 参加者はじっくりと聞き入り、光太郎と智恵子の生涯に理解を深めた。

 光太郎の紀行文や詩の朗読もあり、女川を題材にした「よしきり鮫(ざめ)」などが紹介された。

 91年に女川を題材にした紀行文や詩の文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。
003

来年以降も、続けられる限り、永続的に行われて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

見えもかけ値もない裸のこころで らくらくと、のびのびと、 あの空を仰いでわれらは生きよう。 泣くも笑ふもみんなと一緒に 最低にして最高の道をゆかう。

詩「最低にして最高の道」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

あの東日本大震災の大津波を経験され、愛する者を失い、故郷の街の壊滅、そして再生を見てこられた女川の皆さん。まさに「泣くも笑ふもみんなと一緒に」だったわけです。

ただし、光太郎は「泣くも笑ふもみんなと一緒に」、泥沼の戦争協力へと進んでしまったのが、本人にとっても大きく悔やまれることでした。

昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅したなかで立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して毎年開催されている女川光太郎祭、今年もつつがなく終わりました。
イメージ 1

イメージ 2

台風の余波で時折降りしきる雨の中、遠方からも含め、多くの皆様がお集まりくださいました。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

明日、8月9日は第26回女川光太郎祭です。003これから女川町に向けて出発いたします。迷走台風5号、いったんは日本海側に抜けたようですが、また福島あたりで列島を横断しそうな勢いで、どうも台風を追いかけてゆく行程になりそうです。

帰還は10日の予定で、2泊します。宿泊先は、よく泊めていただいているエル・ファロさん。

去る1日(火)、NHK総合さんで放映された「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」で、エル・ファロさんの女将・佐々木里子さんが紹介されました。

イメージ 1

イメージ 3

震災前、もともとご両親が経営されていた旅館を手伝われていた佐々木さん。しかし、ご両親と旅館は津波で流されてしまいました。

イメージ 4  イメージ 5

イメージ 6

失意の中、ご家族の支えもあり、旅館再開を決意した佐々木さん。

イメージ 7  イメージ 8

そして、震災後、いちはやく女川に出来た宿泊施設、エル・ファロさん。

イメージ 9

可動式のトレーラーハウスです。

イメージ 10

震災で壊滅状態となった女川町中心部、茶色とねずみ色の街となりましたが、それなら明るい色にしよう、との佐々木さんの考えで、カラフルなパステルカラー。

イメージ 11  イメージ 12

光太郎もこだわっていた、環境と美の関連性の重要さですね。

その後、工事関係者やボランティアの皆さんなどの宿として愛されてきたエル・ファロさん。今年、再開発が一段落した女川駅付近に移転しました。

6月の『日本経済新聞』さんから。

トレーラーハウス大移動 女川・元旅館女将たちの挑戦

 東日本大震災の津波で老舗旅館を流された女将たちが、トレーラーハウスを使った宿泊村を再建させたのが2012年の年末。それから4年半たった今年6月、宿泊村は、新しくできたJR女川駅近くに移設されることになった。日本で初めての規模というトレーラーハウスの「大移動」には、女将たちの第三の創業の願いがこもる。

■津波で旅館と両親を失う
 「ドスン」。長さ13メートル、重さ5トンもあるトレーラーハウスから「馬」が外され、タイヤが接地する。6月6日、トレーラーハウスは牽引(けんいん)車にひかれ、ゆっくりと女川の海岸に向かって動き始めた。行き先は、2015年3月に再建された新しいJR女川駅の近くだ。40台すべてのトレーラーハウスの移動は、9日に終わる予定だ。

 2011年3月11日の大津波で、女川は町の8割が流され、1万人の人口の1割の命が失われた。町の中心部で、両親とともに「奈々美や」という旅館を営んでいた佐々木里子さん(48)も、津波で旅館と両親を一度に失った。
 悲しみにうちひしがれている間にも、町の復興は進んでいく。佐々木さんの目の前では、県内外から作業員が引きも切らずに出入りしている。町内に宿泊施設がないため、仙台市から車で約2時間ほどかけて来ている。
 「もう一度旅館業を復活させなければ」。佐々木さんと同様に旅館を流された計4人の旅館主が集まり、町の商工会や旅館組合にも知恵を借りて、旅館の再建計画が動きだした。ただ、実現には2つのハードルがあった。1つは、建築規制だ。地盤沈下の修正と、土地のかさ上げのため津波跡地に新たな建物は建てられなかったのだ。「建築制限で建物が建てられないのであれば、建物でなければいい」。こうして出てきたのがトレーラーハウス宿泊村の建設計画だった。
 しかしこの妙案にも障害があった。復興補助金の支給の対象は不動産で、トレーラーハウスのように移動できるものは除外されていた。せっかく建てても県外に持ち出されては困るという意見が根強くあったのだ。
 「女川の復興のためなのに、そんなことするわけがないでしょう」。佐々木さんらは熱心に国や県を説得し、ついに2012年5月、補助金の支給がきまり、その年の12月、トレーラーハウス宿泊村「ホテル・エルファロ」がオープンした。

■若いホテルマンが救世主に
 オープン当初、エルファロは宿泊施設不足の解決に役立ち、工事関係者や里帰り客に親しまれた。だが、13年の暮れごろから売り上げの減少が目立ってきた。もともと、こぢんまりとした旅館の主たちだ。トレーラーハウス40棟、宿泊63室もの運営には慣れていない。
 さらに、エルファロは津波で壊滅した町域から離れた高台に造られたため、町の中心部である女川駅からは1.5キロほども離れている。「駅から遠い」「繁華街から歩いて帰れない」――。佐々木さんのもとにはこうした苦情も寄せられるようになった。
 「エルファロを助けてやってほしい」。石巻グランドホテルや琵琶湖のリゾートホテルでホテルマンの経験を積んだ田中雄一朗さん(当時28)に声がかかったのは15年の6月。石巻出身で、自身も被災した田中さんはフロントマンとしてエルファロに合流、これまでのホテル経験をいかして接客や集客のノウハウをつぎ込み、支配人としてエルファロを切り盛りするまでになった。
 その結果、16年には黒字化を達成。佐々木さんらは所有するトレーラーハウスの運営業務を田中さんに委託し、田中さんは新たに会社を設立して株式会社エルファロの代表に就任。今回、総費用1億4000万円のうち約5000万円の借り入れを自ら背負って、新女川駅前への移転を決めた。
 「震災後、この町の人たちが本気で町をつくっている姿を常に見てきた。私も覚悟を決めようと思った。もう後戻りはできない」。田中さんはこう決意を見せる。佐々木さんにとっても、流された旅館「奈々美や」から数えて第三の創業となる。「町を明るく照らす存在でありたい」
 エルファロは、スペイン語で「灯台」を意味する言葉だという。「ホテル・エルファロ」はトレーラーハウス40台、全63室。1人1泊素泊りで6018円(税込)から。朝食付きだと7020円(税込)から利用できる。

サイトには動画もアップされていました。

イメージ 13  イメージ 14

イメージ 15

イメージ 22

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20


先週の『石巻日日新聞』さん。

女川町駅前の「エルファロ」 5日から営業再開 地域を照らすホテルに

 東日本大震災後、女川町清水地区に誕生したトレーラーハウスの宿泊施設「ホテル エルファロ」の移設工事が完了し、3日に落成式がJR女川駅西側の現地で開かれた。本設の観光型ホテルとして5日からリニューアルオープン。初年度は1万7千人の利用を目標にしており、関係者らは神事やテープカットで町の滞在人口増加を祈願した。
 エルファロは、災害復旧工事に携わる関係者らの宿泊施設を確保しようと、町内の被災4宿泊事業者による「町宿泊村協同組合」(佐々木里子理事長)が、清水地区の町営住宅跡地に整備した。トレーラーハウスを活用した施設で、平成24年12月から今年5月初旬まで同地で営業を続けてきた。
 清水地区の土地契約が満了を迎えることから、利便性の良い駅前付近の町有地に移転本設することを決定。本格的な観光型ホテルに転換するため、ホテル エルファロ共同事業体(田中雄一朗代表)を立ち上げるなど組織体制も変えた。移転費用は約1億4千万円で、8千万円は県から補助金交付を受けた。
 新施設の客室数は63室。ソファベッドなどを新たに設けたことで収容人数は149人から195人に増えた。ロフト付きタイプもある。食堂機能のトレーラーハウスが集まるバルケをはじめ、敷地内にはたき火やBBQ広場も設けている。
 落成式では、田中代表が「場所の変更だけでなく、施設配置の工夫や観光型ホテルとして経営、運営の見直しも図って来た。エルファロはスペイン語で“灯台”の意味。駅前商業街区と密に連携し、町全体を回遊してもらうプランなどで波及効果を生み出し、町を照らすホテルとしたい」と語った。
 須田善明町長は「トレーラーハウスの宿泊施設は全国で初めての事例。災害発生時に短期間で対応する必要がある場合における選択肢の一つになる。オープン後は、経験を生かして町を盛り上げてほしい」と期待した。
 その後、関係者らがテープカットを行い、5日からの営業再開に向けて心を一つにした。

イメージ 21

こうした皆さんの思いを噛みしめつつ、泊めていただこうと思います。

ところで、女川といえば、もう1件、テレビ放映情報です。

孤独のグルメスペシャル!松重豊主演~真夏の東北・宮城出張編~

BSジャパン 2017年8月9日(水)  17時58分~19時00分  

雑貨輸入商の井之頭五郎が東北出張。仙台名物牛たん、女川町では海鮮料理に出合い、石巻ではシメの○○まで!?孤独のグルメスペシャル!

井之頭五郎(松重豊)は、古くからの友人・岸本(渡辺いっけい)に頼まれた仕事で、宮城に来た。前日入りした仙台で、まずは名物を堪能する。翌日、石巻で借りた軽トラで仕事の舞台の女川に移動、担当者の牧原(向井理)と打ち合わせするが…。一段落すると腹が減った。山道を通って五郎が辿り着いたのは、ひっそりと佇む海鮮の店だった。その店を後にした五郎がさらに辿り着いたお店は…!?

出演者 井之頭五郎…松重豊 牧原達也…向井理  岸本…渡辺いっけい  親方…でんでん  女将…余貴美子

昨年オンエアされたものの再放送です。

イメージ 23

イメージ 24

女川編では、駅前の商業施設・シーパルピアに移転する前の「活魚 ニューこのり」さん仮設店舗が舞台でした。

イメージ 25

豊富なメニューの中から、腹具合と相談しながら海鮮丼を選び、堪能する松重さんのコミカルな演技が秀逸です。また、シーパルピアでホヤ入りの焼きそばを食べるシーンも必見です。


さて、そろそろ女川に向けて出発いたします。


【折々のことば・光太郎】

青葉若葉に野山のかげろふ時、 ああ植物は清いと思ふ。

詩「新緑の頃」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

季節外れですが(笑)……。

「女性の生き方、心のあり方 を考える中高年の主婦向け」「時流に流されない、心豊かな生き方や、魅力的な人との出会いを提案していく」「主婦たちに贈るこころマガジン」という『月刊清流』さん。

イメージ 1  イメージ 2

最新号の9月号。「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。

イメージ 3  イメージ 4

智恵子の故郷・福島二本松にそびえる安達太良山の写真、光太郎との出会いと別れ、詩集『智恵子抄』、そして詩「道程」と「あどけない話」が紹介されています。

他にも光太郎と交流の深かった人物――与謝野晶子から鉄幹への恋文を紹介する記事があったり、オノマトペ(擬音語・擬態語)に関する記事では、宮沢賢治に触れたりするなど、そのあたりも興味比較拝読しました。また、光太郎との関わりはほとんどありませんでしたが、正岡子規に関する特集もありました。

旬の女性たちもたくさん取り上げられています。TBS系のテレビ番組「プレバト!!」中の「俳句の才能査定ランキング」査定人の俳人・夏井いつきさん。それから、当方、柔道経験者なもので、以前から存じていました天野安喜子さん。358年続く花火の宗家「鍵屋」の15代目にして、国際柔道連盟審判員です。

一般書店さんには置いて居らず、オンライン通販か電話での申し込みのみだそうです。当方は雑誌販売サイトのFujisan.co.jpから購入しました。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

五月はしやべる、五月はうたふ。 頬白、せきれい、駒鳥、つばくろ。 まるで少女の遊び時間。
詩「五月のうた」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

もう8月ですが、当方自宅兼事務所周辺、早朝はホトトギスなどの野鳥の声に満ちています。それから2階の戸袋の上に雀が巣を作ってしまいまして、その声も。日が昇る頃にはヒグラシに始まり、やがてミンミンゼミ、アブラゼミたちの大合唱。自然が豊かなのはいいことです。

詩集や詩歌評論などの出版に力を入れられている土曜美術出版さん刊行の月刊誌『詩と思想』。その今月号に拙稿が載っております。

以前に「智恵子抄」を取り上げて下さった雑誌で、存じていましたのでお受けしました(生意気なようですが、思想的に光太郎の精神と相容れなかったり、社としての矜恃が感じられなかったりするところからの依頼はお断りすることにしています)。

連翹忌の歴史や現状などについて書いてくれという依頼でしたので、そのような内容を。ところが文治堂書店さんのPR誌『トンボ』の方でも同一内容の指定があり、同じような内容になってしまいました。ただ、『誌と思想』さんの方が字数を多く指定されましたので、詳しく書いています。

イメージ 1  イメージ 2

イメージ 3  イメージ 4

画像もほしいというので、今年をはじめ、最近の連翹忌の様子、それから昭和31年(1956)の光太郎葬儀の写真を提供しました。

イメージ 5

今年の連翹忌で朗読と演奏のコラボをお願いした、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんと、テルミン奏者大西ようこさん、それからお父様が光太郎と交流がおありで、連翹忌ご常連の渡辺えりさんなどなど。

連翹忌のよい宣伝になったかなと思います。

ところが、1箇所、とんでもない誤りをそのままにしてしまいました。昭和13年(1938)の智恵子の没年を14年としてしまったのです。認めたくないのですが、歳のせいか、最近、パソコンのミスタッチが多くなっています。たいがいはすぐ画面上でおかしなことになっていると気づいて訂正するのですが、ここはそのまま流してしまったようです。ゲラが送られてきて、校正もしたにもかかわらず気づきませんでした。

「3」と「4」もそうですが(テンキーではなくキーボード左上)、多いのはやはり隣のキーに触れてしまうこと。たまに「こうたろう」と叩いたつもりが「O」と「P」を間違えて「kぷたろう」などとなります(笑)。それから変換ミスですね。多分このブログでもやらかしていると思います。もっと気をつけねば、と思いました。

大きな書店さんでは雑誌コーナーに並んでいると思われますし、同社サイトから、またはAmazonさんなどでも注文可能です。ぜひお買い求め下さい。定価1,300円+税です。


【折々のことば・光太郎】

狂瀾怒涛の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。

詩「梅酒」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

前年に亡くなった智恵子が生前に作っておいた梅酒を台所で見つけ、智恵子を偲びながらそれを味わう、という詩です。

日中戦争は膠着状態、泥沼化。欧州では既に大戦の火蓋が切られています。それが「狂瀾怒涛の世界の叫」。しかし、それも亡き妻を偲ぶ「この一瞬」を「遠巻にする」というのです。

すでに翼賛詩をたくさん書き始めている光太郎ですが、智恵子に思いを馳せる時のみ、強引な言い方ですが人間性を回復できていたように思われます。それも翌年までのことですが……。

岩手レポートを書いている間に、新聞各紙で光太郎智恵子についていろいろ触れて下さいました。

まず、一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊。

(言葉の服)日本人のおしゃれ:下 智恵子の素(しろ) 堀畑裕之

 昭和のおしゃれで見てみたかったのは、『智恵子抄』で知られる智恵子の普段着だ。写真はきものだが、撮影された昭和2年(1927年)、40歳ごろの智恵子について高村光太郎はこう書いている。
 「彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、ついに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すようになった。しかも其(そ)が甚だ美しい調和を持っていた。『あなたはだんだんきれいになる』という詩の中で、
 《をんなが附属品をだんだん棄(す)てると/どうしてこんなにきれいになるのか。/年で洗はれたあなたのからだは/無辺際を飛ぶ天の金属》
と私が書いたのも其の頃である」
 今では女性のセーターとズボンなんて当たり前だが、当時はまだ圧倒的にきもので、そんな男みたいな格好は考えられなかった。だが洗練された智恵子の飾らないスタイルは、逆に女性としての素地を美しく際立たせたはずだ。
 そしてこれは期せずして時代の最先端でもあった。1920年代中ごろ~30年にかけて、華の都パリでは「ギャルソンヌ」ルックが流行していた。女性が髪を短く切り、コルセットを脱ぎ捨てて「男の子」のようなスタイルになることである。そのファッションリーダーがココ・シャネルで、実は智恵子とは3歳違いだった。第一次世界大戦後、社会進出した「新しい女」たちが求めたのは、性に縛られない自由で活動的なおしゃれだったのだ。
 互いを尊重し合い、ともに芸術家として苦闘した智恵子と光太郎も、この時代精神を自ら生きていたに違いない。
 連載は最後になります。長い間ご愛読ありがとうございました。(matohuデザイナー)

イメージ 1

しかし、その裏側にはやはりいろいろと軋みがあったと思うのですが……。


続いて『福島民友』さん。7/31(月)の一面コラム。

編集日記 福島好き

 「飛行機好き」を自認する作家の浅田次郎さんは、たとえ長いフライトでも機内では眠らないそうだ。旅先に思いを巡らせたり機内食を食べたり、いろんな楽しみがあると著書に書いている
 ▼そんな浅田さんが乗り合わせたら、どんな感想を語ってくれるだろうか。日本航空が8月、国内・国際線の機内などで、本県にスポットを当て、文化や歴史など、さまざまな魅力を発信してくれることになった。4月から行っている地域プロモーション活動の一環という
 ▼機内誌では白河から会津へと観光地をたどり、その英語版では裏磐梯の自然を特集、機内ビデオでは「ほんとの空」の安達太良山を紹介する。ファーストクラスでは県内の郷土料理や地酒を夕食に用意するなど念が入っている
 ▼本県への観光客は、東日本大震災と原発事故の影響で大幅に減ったが回復しつつある。県は今年の観光客数の目標を震災前(2010年)の1・07倍に当たる6120万人に設定して誘客を進める
 ▼機内誌や機内食で、本県の「絶景」や「温泉」「食と日本酒」をたっぷり楽しんでもらった後は、実際に足を運んで、機上では味わえない本県を堪能してほしい。誰もがきっと「福島好き」になるはずだ。


ついでにJALさんのキャンペーンに関しても。

JAL、福島の魅力発信 8月・機内誌特集やアレンジ郷土料理

 日本航空(JAL)は8月の1カ月間、国内・国際線の機内などで本県の魅力を集中的にアピールする。国内線・国際線の機内誌「SKYWARD」では「扉開ける、東北路」と題し、白河から下郷町の塔のへつり、大内宿、会津若松とたどりながら沿線の歴史と文化を紹介する。
 今年4月からスタートした地域プロモーション活動「地域紹介シリーズ」の一環。英語版では外国人観光客に人気が高い裏磐梯の自然の美しさを特集する。また、お笑いコンビ「パックンマックン」が二本松市と安達太良山などを紹介する機内ビデオを上映する。
 国内線ファーストクラスでは「星野リゾート磐梯山温泉ホテル」がアレンジした本県の郷土料理を夕食に提供する。コメは会津産コシヒカリ、茶菓は福島市の「いもくり佐太郎」、日本酒は会津坂下町の「飛露喜」で、料理を通じて福島の風土と歴史を堪能してもらう。
 このほか、JALマイレージバンクのサービス「とっておきの逸品」では、会津そばなどの県産品を保有マイルと交換できる。JALパックでも会津地区を中心に県内各地のホテルを利用した宿泊プランを設定している。
 ジャルセールスの二宮秀生社長は28日、PRのため福島民報社を訪れた。二宮社長は「さまざまな企画を用意した。福島のためにできる限り力になりたい」と語った。
 日本航空東北支店の筈見昭夫支店長、池俊彦マネージャーが一緒に訪れた。

イメージ 2

がんばろう! 福島!


『読売新聞』さんでは、十和田湖の話題。

国立公園 廃屋撤去しイメージ改善

 環境省や自治体は、全国の国立公園内で廃業したホテルや食堂などの施設が放置されて景観の妨げになっていることから、廃屋の撤去に本格的に乗り出した。
 国立公園を重点的に整備する「国立公園満喫プロジェクト」の一環。電柱の地中化や新たな観光施設の整備も進めることで訪問者数を増やし、自然保護の意識向上につなげたい考えだ。
景観悪化
 青森、岩手、秋田県にまたがり、景勝地として名高い十和田八幡平国立公園内にある十和田湖畔。南岸に位置する「休屋(やすみや)地区」を歩くと、玄関や窓に板を打ち付けた食堂や廃ホテルが目立つ。雄大な自然や、詩人で彫刻家の高村光太郎が作ったブロンズ像「乙女の像」を楽しむことができ、かつては修学旅行生をはじめとする観光客でにぎわっていた。だが、東日本大震災後に廃業が相次ぎ、廃屋が十数軒に上るようになった。
 「暗いイメージがつく」など、地元関係者らの声を受け、同省は同地区の国有地内にある廃屋の撤去を進めることを決めた。2020年度までに撤去し、跡地には開放的な芝生広場などを整備することで、廃屋で遮られていた湖畔の景色を見やすくする。
 休屋地区で飲食店を経営する男性(47)は「景観改善は待ち望んでいた。寂れたイメージを変えるきっかけになるかもしれない」と歓迎する一方、「一つ二つ解体しただけでは人気は回復しないだろう。整備の継続と、人を呼び寄せるソフト面の対策も必要になる」と課題も指摘した。

人気に格差004
 国立公園は現在、全国に34か所あるが、交通の便や知名度によって人気に差がある。ピークの1991年には、国立公園全体を延べ4億1596万人が訪れた。同年の訪問者は、富士山のある富士箱根伊豆国立公園は同1億1434万人、十和田八幡平は同1067万人、阿寒国立公園(北海道)は同697万人だった。
 その後の景気の冷え込みや東日本大震災の影響などで、14年には全体数が同3億5218万人に減少。だが、富士箱根伊豆の人気は衰えず、逆に1億2390万人に増えた。一方で、十和田八幡平は474万人、阿寒は360万人に減って差は広がった。
 十和田八幡平だけでなく、訪問者数が伸び悩む地方の国立公園などで、廃業後の施設が放置されるケースは多く、訪問者から「寂れた地域」「がっかりポイント」などと酷評されることもある。現状を重く見た環境省は、各公園内の国有地内に残されたままの廃屋を撤去または改修し、広場や観光施設などに活用してもらうこととした。各自治体の土地や私有地内の廃屋については、自治体に交付金を活用してもらうなどして再整備を促すことにした。

訪問客増を期待
 大山隠岐国立公園(鳥取、島根、岡山県)では、鳥取県大山町が、公園内にある寺院の参道周辺で景観改善に取り組んでいる。2年前に廃業した飲食・宿泊施設を国の交付金を活用して改修し、今年7月、観光案内所やカフェを備えた施設として生まれ変わった。また、廃業した山荘の解体作業中で、跡地に来年度、商業施設をオープンさせる予定だ。さらに同県は、大山の眺望を遮る電線・電柱を地中化することを検討している。
 日光国立公園(福島、栃木、群馬県)では、温泉地にあるバスの停留所前で、廃業後に放置されたガソリンスタンドを撤去する予定だ。同省関東地方環境事務所の担当者は、「バスを降り立った観光客を、すぐに落胆させたくはない」と話す。阿寒では温泉街の廃屋の撤去方法を検討中。阿蘇くじゅう国立公園(熊本、大分県)では、見通しを遮る立ち木の伐採などを行う予定だ。
 環境省の担当者は「国立公園の目的は、貴重な自然を保護すること。ただ、影響のない範囲で多くの人に美しい風景に親しんでもらい、自然保護への理解につなげてほしい」として、訪問客増に期待している。(野崎達也)

十和田湖休屋地区、確かにゴーストタウン的なところもありまして、気になっています。良い方向へと進んでほしいものです。

他にも光太郎の名が出た記事がありましたが、またの機会にご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

この大地の生活物理の裏がはに 人は迅速にして静寂なる天を持つ。

詩「落日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

上記のようにさまざまな人の営みがあり、しかし、その上にはそれを見守る空があるのですね。

7/29(土)・30日(日)、1泊2日の岩手花巻・盛岡紀行、最終回です。

盛岡市郊外の岩手県立美術館さんで、企画展巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観した後、返却場所が盛岡駅前ということもあり、盛岡の市街にレンタカーを向けました。

まだ時間もあったので、返却前に少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思い、まずはもりおか啄木・賢治青春館さんに。

こちらは明治43年(1910)竣工の旧第九十銀行本店本館の建物を使っています。

イメージ 1  イメージ 2

こちらではその名の通り、旧制盛岡中学に通っていた青春時代をこの町で過ごした石川啄木と宮沢賢治に関する展示が為されています。当方、前を通ったことは何度もありましたが、いずれも開館時間外の早朝や夜だったため、中に入るのは初めてでした。入館は無料。ありがたや。

啄木、賢治の生涯が、パネルやガラスケースでわかりやすく構成されていました。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

レトロな建物の内装とマッチし、いい感じでした。

光太郎に関わるパネルも。

イメージ 6

賢治が亡くなった直後、昭和8年(1933)10月6日の『岩手日報』。賢治の追悼特集です。

イメージ 7

光太郎が賢治実弟の清六に寄せた弔意を表す書簡が抜粋されています。

 拝啓 先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてしまいゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、折あしく当方にて手放せない病人などありまして手紙さへ差し上げられませんでしたが草野君が参上する事となつて幾分安心いたしました(略)
 昨夜は草野君が帰京直ちに来宅せられていろいろそちらのお話や賢治さんの事やら遺稿の事やらうかがふ事が出来て少々慰められました(略)
 遺稿の事などいづれ又こちらの友人達からも申出ることがあるかと存じます(略)
  八年九月二十九日
            高村光太郎
  宮沢清六様 
                                              
手放せない病人」は心の病が昂進していた智恵子、「草野君が参上」は、光太郎の命で草野心平が宮沢家に弔問に訪れ、さらに賢治遺稿の散逸を防ぐ対策を講じるよう動いたことを表します。

翌年には、清六が賢治遺稿の入ったトランクを持って上京、やはり光太郎や心平、永瀬清子らのいた中で、有名な「雨ニモマケズ」の書かれた手帳の発見へとつながりました。

イメージ 8  イメージ 9

左は光太郎に私淑した彫刻家、高田博厚作の賢治像、右は舟越保武作の啄木像です。

啄木も、明治末年、与謝野夫妻の新詩社や、雑誌『スバル』の関係で、光太郎と交流がありましたが、こちらではそのあたりはあまりふれられていなかったようでした。


続いて、すぐ近くの盛岡てがみ館さんへ。

イメージ 10

こちらでは、企画展「舟越保武の手紙~手紙から見る制作の裏側~」が開催中でした。

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

遺された舟越から諸家への書簡のうち、特に彫刻制作に関わるものをピックアップし、その背景を浮き彫りにしようというコンセプトでした。

イメージ 14

光太郎にも通じる、彫刻家としてのさまざまな苦労や、逆に喜びなどが綴られ、興味深く拝見しました。

イメージ 15

こちらは田沢湖の辰子像制作中の写真です。

常設展示では、光太郎の詩稿「岩手山の肩」(昭和22年=1947)が展示されています。


   岩手山の肩

 雪をかぶつた岩手山の肩が見える。003
 少し斜めに分厚くかしいで
 これはまるで南部人種の胴體(トルソオ)だ。
 君らの魂君らの肉体君らの性根が、
 男でもあり女でもあり、
 雪をかぶつてあそこに居る。
 あれこそ君らの實体だ。
 あの天空をまともにうけた肩のうねりに
 まつたくきれいな朝日があたる。
 下界はまだ暗くてみじめでうす汚いが、
 おれははつきりこの眼でみる。
 岩手県といふものの大きな図態が
 のろいやうだが変に確かに
 下の方から立ち直つて来てゐるのを。
 岩手山があるかぎり、
 南部人種は腐れない。
 新年はチヤンスだ。
 あの山のやうに君らはも一度天地に立て。


さらには啄木や賢治の書簡も常設展示されています。

イメージ 17

イメージ 18

いったいに、盛岡ではこうした遺産をしっかり継承し、先人の顕彰をきちんと行っていこうという気概が見え、好ましく思っております。

ところで賢治といえば、前日、新花巻駅近くの銀河プラザ山猫軒さんで、こちらを購入しました。

イメージ 19

帯にあるとおり、WOWOWさんで放映された「WOWOWプライム 連続ドラマW 宮沢賢治の食卓」原作のコミックです。

ドラマでもそうでしたが、賢治以外にも、清六や、父の政次郎、賢治妹のクニやシゲ、藤原嘉藤治など、光太郎と関わった人々が多数登場。そして、やはりドラマ同様、光太郎と賢治が出会う大正15年(1926)の前で、終わっています。光太郎と出会う続編を期待しております。

かくて1泊2日でしたが、ぎゅぎゅっと濃密な岩手紀行でした。行く先々でお世話になった皆さん、ありがとうございました。


【折々のことば・光太郎】

冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。 乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は およそ生きの身のいやしさを絶ち、 物をくふ口すらその所在を知らない。

詩「蝉を彫る」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

詩では翼賛的なものを大量に書き殴った光太郎ですが、造形美術の方面では、戦争協力はほとんどしませんでした。特に彫刻では、軍部や大政翼賛会の命で、戦意高揚に資する作品の制作が広く行われましたが、光太郎はその手の作品は作りませんでした。非常時でも一匹の蝉を彫る勇気を持つというのが光太郎の矜恃だったのです。この点はもう少し評価されてもいいような気がします。大量に書き殴られた翼賛詩はまったくといっていいほど見るべきものがありませんが……。

岩手レポートの4回目となります。

7/30(日)、盛岡市の岩手県立美術館さんで開催中の、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観いたしました。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5


同名の企画展は、かなり以前から全国各地を巡回していますが、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった、新発見の川端康成旧蔵の書画などが、今回初めて展示されています。


イメージ 6


光太郎の書も1点。詩「樹下の二人」(大正12年=1923)中のリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものです。現物を見てもいつ頃の揮毫なのか、何とも言えないところですが、筆跡的には間違いのない物でした。ネット上で小さな画像は事前に見ていましたが、現物を見ると、それまで意識しなかった余白の使い方などの絶妙さに改めて気づかされました。

イメージ 7

公式図録は過去の全国巡回の際のものと同003一のようで、新発見のものは掲載されていませんでした。残念に思っていたところ、目玉となるようなものについては、ブロマイド的に写真用紙にプリントした物が販売されており、そちらを購入いたしました。A4判で、800円だったと思います。

その他、光太郎と関わりのあった人物の作品などが数多く展示されており、興味深く拝見いたしました。彫刻のロダンや高田博厚、絵画では梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、安井曾太郎。書で夏目漱石、与謝野晶子、室生犀星、北原白秋など。右はロダンのブロンズ「女の手」。ポストカードが売られていたので購入しました。

光太郎に関わらないものも逸品ぞろいで(国宝も含まれていました)、川端・東山の審美眼に感心させられました。また、下世話な話ですが、その財力にも(笑)。

下記は出品目録です。クリックで拡大します。ここにはブラウザの「戻る」ボタンで戻って下さい。

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

こちらは8月20日までの開催です。ぜひ足をお運びください。


それから、常設展示も拝見。岩手県立ということで、岩手出身の美術家の作が中心でした。特に興味を引かれたのが、それぞれ多数の作品が展示されている萬鉄五郎、松本竣介、そして舟越保武。やはりそれぞれ光太郎と関わりがありました。萬は大正元年(1912)から翌年にかけてのヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と一緒でしたし、松本は昭和10年代に主宰していた雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いでいます。そして舟越はこのブログでも何度かご紹介しましたが、光太郎がさまざまな援助を行った岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、それ以前には、お嬢様の千枝子さんの名付け親になってもらっています。

イメージ 13

こちらは舟越の代表作にして、第5回高村光太郎賞受賞作の「長崎26殉教者記念像」のうちの4体。

舟越の彫刻は、館の入り口に野外展示されてもいました。


イメージ 14

というわけで、なかなか充実の展示でした。

当初予定ではここだけ観て帰るつもりでしたが、せっかく盛岡まで来たし、しばらく盛岡に来る予定もないので、市街に車を向けました(県立美術館さんは若干郊外です)。少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思った次第です。

明日は岩手レポートの最終回で、そのあたりをお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は青年が好きだ。 私の好きな青年は真正面から人を見て まともにこの世の真理をまもる。 私の好きな青年はみづみづしい愛情で ひとりでに人生をたのしくさせる。

詩「私は青年が好きだ」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

しかし、数年後にはその大好きな青年たちを死地に追い込む詩文を乱発します。それだけに、戦後になっての悔恨は深いものがあったのでしょう。7年間に及ぶ、花巻郊外太田村での蟄居生活に結びつくのです。

7/29(土)、花巻郊外の台温泉に宿を取りました。

これまで花巻に宿泊する場合は、ともに光太郎が泊まったことがある花巻南温泉峡の大沢温泉さんか鉛温泉さん、あるいは駅前の商人宿が多く、台温泉は初めてでした。

台温泉は、花巻温泉の奥に位置し、室町時代に発見された古い温泉です。豊富な湯量を誇り、かつては川に流していた余剰の湯を、花巻温泉に回しています。こちらにも光太郎が宿泊しています。

光太郎日記によれば、昭和26年(1951)に2回、1泊ずつ泊まっています。2回目は、草野心平も一緒でした。宿泊は、今も残る松田屋旅館さんでした。

以下、日記から。

10月19日 金
晴、くもり、 花巻行、 十二時十三分のでゆく。花巻局より中央公論社へ選集三回分の原稿を速達書留小包で送る、ニツポンタイムスへ一年分の金を送る、 夜六時半公民館の賢治子供の会の劇を見る、 九時、タキシで台温泉松田屋旅館にゆき泊る、(略)

10月20日 土
台温泉の湯よろしけれど、遊客多く、さわがし。 雨となる、 九時半のバスにてかへる、(略)

12月7日 金
(略) そのうち草野心平氏来訪、 (略) ヰロリで暫時談話、 後洋服をあらためて一緒に出かけ、花巻伊藤屋にてにて四人でビール等、 草野氏と共にタキシで台温泉松田家(原)にゆき一泊、ビール等 <(あんま)>

12月8日 土
朝雨後晴、 昨夜妓のうたをきき二時にねる、 花巻温泉まで歩き、花巻より盛岡までタキシ(2000円)、よきドライブ。

というわけで、日記に依れば、この2回の宿泊が確認できます。ただ、昭和24・25年(1949・1950)の日記の大部分が失われているため、その間にも宿泊しているかもしれません。傍証は談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」(昭和31年=1956)。台温泉に関し、「湯がいいので私もたまに行く」という記述があります。2回では「たまに行く」とは言わないような気がします。

さて、松田屋旅館さん。

イメージ 1

イメージ 2  イメージ 3

宿の方にお訊きしたところ、戦後すぐくらいの建築だそうで、となると、光太郎が泊まったのもこの建物のようです。それを存じ上げなかったので、いっそう感慨深いものがありました。ただし、かなり改修、改装は入っているようですが。

いったいに台温泉自体が、レトロな街並みのひなびた温泉街、という感じで、非常に気に入りました。

イメージ 4  イメージ 5

松田屋さんから少し上には、これもかなり古い中嶋旅館さんという旅館がありました。こちらも実にいい風情です。温泉街に付きものの温泉神社も鎮座ましましていました。

イメージ 6 イメージ 7

下は松田屋さんの露天風呂。源泉掛け流しで、湯が出てくるところではほとんど熱湯です。熱めの温泉大好きの当方には嬉しいかぎりでした。

イメージ 8

ロビーには昔の絵図。これもお約束ですね。

イメージ 9

光太郎は先述の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」で、このように書いています。心平も登場しますので、おそらく、昭和26年(1951)12月7日から8日未明にかけてのことでしょう。

 台温泉は花巻線の終点から一里ばかり奥になる。電車の発着ごとにバスが出ている。
 狭い所なのだが温泉宿が十軒以上も建並び、芸妓屋もうんとある。湯がいいので私もたまに行くが、夜っぴいて三味線を、ジャンジャンとやられるのには閉口する。その代り、えらく念入りのサービスだから、東京の人でもまず満足するだろう。熱海でこんなことが流行っているというと、逸早く真似をするという所である。山の懐ろだが、そういう点ではバカに先走っている。
 以前に草野心平と一緒に台を訪れたことがあるが、隣でさわぐ、階下じゃ唄う、向うで踊るという次第で、一晩中寝られない。そこでこっちも二人で飲み出した。二人の強いのを知って、帖場からお客なんか呑み倒しちまう、という屈強な女中が送り込まれたのに張合った。たちまち何十本と立ちならんだ。まったくいい気になって呑もうものなら、大変なことになるところだ。
  しかし、よくしたもので、それだけに宴会などをやらせれば、それは面白くやれる。一口に云えば、花巻で浮かれて、お泊まりは台さ、としけこむところである。

まさに「心の洗濯」をしていた姿が、ありありと浮かびます。

当方は、一泊して温泉を堪能、7/30(日)朝、こちらを後にしました。

麓の花巻温泉、昨年も行きましたが、通り道ということもあり、レンタカーを駐めて少し歩きました。

昭和25年(1950)に建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加している、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑。

イメージ 10 イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

やはり光太郎が何度か泊まった、旧松雲閣別館。現在は使用されていません。

イメージ 14

松田屋さんも含め、こうした遺産、末永く保存していってもらいたいものです。


その後は一路、盛岡へと北上。続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

この男の貧はへんな貧だ。 有る時は第一等の料理をくらひ、 無い時は菜つ葉に芋粥。 取れる腕はありながらさつぱり取れず、 勉強すればするほど仕事はのび、 人はあきれて構ひつけない。 物を欲しいとも思はないが 物の方でも来るのをいやがる。

詩「へんな貧」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

それを「清貧」と人は呼ぶのですが、光太郎にはそういう自覚はなかったようです。むしろ、こうした生活が前年になくなった智恵子を追い詰めた、という悔恨の方が先に立っているような気がします。

7/29(土)夕刻、花巻高村光太郎記念館さんに到着。この日は記念館さんの市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」の講師を仰せつかっておりました。

イメージ 2

市の広報誌などでも宣伝していただき、十数組、30名ほどの親子と、地元の方が若干名、ご参加下さいました。せっかくそれだけの申し込みがあったにもかかわらず、あいにくの曇り空でした。

ところが、開始時刻が近づくと、雲が切れ始めました。

イメージ 3

これなら、少しは星も見えるかな、という感じでした。

午後七時、記念館の展示室1、光太郎彫刻が並んでいるスペースで、開会。

イメージ 4

はじめに当方の話でした。ただ、メインは星空の観察ですので、短く切り上げました。彫刻や詩歌で「美」を追い求めた光太郎、山川草木鳥獣虫魚などの大自然にも美を見いだし、その一環として、天体にも関心を持っていたらしいこと、特に、記念館のある旧太田村山口に隠遁してから、市街地では気づきにくい天体の美しさに憑かれたこと、約70年前に光太郎が見上げたのと同じ星空と思って見てほしいことなどをお話しさせていただきました。

レジュメでは、天体についての記述がある光太郎文筆作品を紹介しました。はじめにこの企画の話が出た際、当方が講師を仰せつかるつもりもなく、適当に「こんなものまとめましたので、よかったら使って下さい」と、お送りしたもので、それも急いで作ったので、文筆作品といっても、『高村光太郎全集』の、詩歌、随筆、日記の巻を斜め読みし、ピックアップしたに過ぎません。それでも、数多くの箇所が見つかりました。

特に昭和24年(1949)に書かれた随筆「みちのく便り 一」には、山小屋から見える天体の魅力をかなりくわしく書いています。

 みちのくといへば奥州白河の関から北の方を指すのでせうが、さうすると、岩手県稗貫郡といふ此のあたりは丁度みちのくのまんなか位にあります。北緯三十九度十分から二十分にかけての線に沿つてゐる地方です。有名な緯度観測所のある水沢町はここから南方八里ほどのところにあり、天体も東京でみるのとは大分ちがひます。星座の高さが目だち、北斗七星などが頭に被ひかぶさるやうな感じに見えます。山の空気の清澄な為でせうが、夜の星空の盛観はまつたく目ざましいもので、一等星の巨大さはむしろ恐ろしいほどです。星座にしても、冬のオライアン、夏のスコーピオンなど、それはまつたく宇宙の空間にぶら下つて、えんえんと燃えさかる物体を間近に見るやうです。木星のやうな遊星にしても、それが地平線に近くあらはれてくる時、ほんとに何か、東京でみてゐたものとは別物のやうな、見るたびにびつくりするやうなもので、月の小さいものといいたい位にみえます。その星影が小屋の前の水田の水にうつると、あたりが明るいやうに思はれます。星の光は妙に胸を射るやうに来るものです。昔の人が暁の金星を虚空蔵さまと称した、さういふ畏敬の念がおのずから起るやうです。夜半過ぎて用足しに起きた時など、この頃の寒さをも忘れて私はしばらく星空を眺めずにはゐられません。このやうな超人的な美を見ることの出来るだけでも私はこの山の小屋から去りかねます。かういふ比較を絶した美しさを満喫できるありがたさにただ感謝するほかありません。たかだかあと十年か二十年の余命であつてもその命のある間、この天然の法楽をうけてゐたいと思ひます。宮澤賢治がしきりと星の詩を書き、星に関する空想を逞しくし、銀河鉄道などといふ破天荒な構想をかまへたのも決して観念的なものではなくて、まつたく実感からきた当然の表現であつたと考へられます。

このとき光太郎、数え67歳でしたが、まるで少年のように、天体の美しさのとりこになっている様子がよくわかりますね。

その他、特に記述が多いのは、月に関してでした。細かく書いていた山小屋生活前半の日記には、天体についての記述がたくさんあります(後半になると、一日に書く長さが短くなり、あまり天体については書かれなくなってしまいます)。特に月は毎日のように記述があり、イラスト入りでその形を記述している日もありました。

イメージ 5  イメージ 6

それからこんなものも。

 もう十五年前のことになります。
 初めて紐育へ行つた五月初旬、街路樹にぱらぱら新芽の出る頃でした。このさき、どうして金をとつて勉強していいか、初めて世の中へ抛り出されて途方に暮れながら、第五街の下宿の窓から、街路の突き当たりに、まんまろく出た満月を見て、故郷の父母弟妹のことを思い、止度なく涙の出たのを忘れません。
アンケート「私が一番深く印象された月夜の思出」(大正11年=1922)

俳句でも。

  自転車を下りて尿すや朧月  (明治33年=1906)
  ドナテロの石と対座す朧月  (明治42年=1909)

そして詩でも、「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)、「月にぬれた手」(同24年=1949)などで月をモチーフにしています。


惑星では、ずばり「火星が出てゐる」(昭和2年=1927)という詩がありますし、他の詩でも、木星やら金星やらが出てくる箇所がけっこうあります。

うすれゆく黄道光に水星は傾き、/巨大な明星と木星ばかり肩をならべて、/いまがうがうと無限時空を邁進してゐる。    「落日」 昭和15年(1940)

ああ、もう暁の明星があがつて来た。  「漁村曙」昭和15年(1940)

詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。同胞の荒廃を出来れば防がう。私はその夜木星の大きく光る駒込台で/ただしんけんにそう思ひつめた。     「真珠湾の日」昭和22年(1947)

日記でも同様です。

昭和20年(1945) 12月25日 夜晴、火星大也 

昭和21年(1946)1月1日   夜天に星きらめく。オリオン星座顕著なり。オリオンのあとより大きく火星がひかる。
                 
昭和21年(1946) 4月16日  木星が丁度中天に来た頃いつもねる。 月と木星と同位置にあり。夜おそくまで村の子供の叫声がきこえる。月明るし。
                     
昭和22年(1947) 2月25日  夜星うつくし。木星、金星未明の頃大きく輝く。
 
昭和22年(1947) 4月17日  夜も星月夜、明方残月と金星と木星美し。    

昭和22年(1947) 4月25日  夜読書、十時、木星サソリ座にあり。 

昭和22年(1947) 4月29日  夜星出る。木星大なり。       

昭和22年(1947) 5月4日  月おぼろ、木星月に近づく、


そして、星座を形作る恒星に関しても。

風の無いしんしんと身籠つたやうな空には/ただ大きな星ばかりが匂やかにかすんでみえる/天の蝶々オリオンがもう高くあがり/地平のあたりにはアルデバランが冬の赤い信号を忘れずに出してゐる
「クリスマスの夜」 大正11年(1922) アルデバラン……おうし座の一等星

腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽの奴は黙つてゐる。/往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
「のつぽの奴は黙つてゐる」昭和5年(1930)    大熊星……北斗七星を含む大熊座

イソゲ イソゲ 」ニンゲ ンカイニカマフナ ヘラクレスキヨクニテ
「五月のウナ電」昭和7年(1932) ヘラクレス……ヘラクレス座

或夜まつかなアルデバランが異様に鋭く、/ぱつたり野山が息凝らして寝静まると、/夜明にはもうまつしろな霜の御馳走だ。
「冬が来る」昭和12年(1937) 

まだ暗い防風林の頭の上では/松のてつぺんにぶら下つて/大きな獅子座の一等星が真紅に光る。/隣の枝のは乙女座だらう。/北斗七星は注連飾のやうだし、/砂丘の向ふの海の方には/ああ、もう暁の明星があがつて来た。
 「漁村曙」昭和15年(1940) 

オリオンが八つかの木々にかかるとき雪の原野は遠近を絶つ 昭和22年(1947)

日記では……

昭和4年(1929) 6月10日  夜天東方よりアークチュラスの星、夏の気息を余の横顔に吹きかく。
            注・アークチュラス…… アークトゥルス。 うしかい座の0等星

昭和21年(1946)1月1日
   夜天に星きらめく。オリオン星座顕著なり。オリオンのあとより大きく火星がひかる。
                                   
昭和21年(1946) 1月28日  風おだやかにて晴れ、星月夜なり。オリヨン君臨す。

昭和21年(1946) 3月7日   夜中空はれ間あり。サソリ座大きく出ていゐ。暁近き頃とおぼゆ。

昭和21年(1946) 3月30日  夜星みえる。夜更けてサソリ座大きく立ってみえる。

昭和21年(1946) 4月7日  夜星出てゐる。サソリ座夜半大きく出る。

昭和21年(1946) 5月3日  星出る。星明り。サソリ座高し。     

昭和22年(1947) 1月15日  空晴れ、オリオン美し。

昭和22年(1947) 1月18日   夜でも寒暖計五度をさしてゐる。軒滴の音がする。オリオン美し。

昭和22年(1947) 4月25日  夜読書、十時、木星サソリ座にあり。

昭和22年(1947) 8月14日  晴、昨夜星らん干。サソリ座大きく見え、暁天に廿七日の月出でたり。

昭和22年(1947) 9月16日  夜、銀河明るし。            

昭和22年(1947) 5月4日  星が出ると、オリオン、大犬等の壮観、

それから、智恵子と結婚した大正前半頃、東京駒込林町のアトリエで飼っていた黒猫の名前は、星座のくじら座から取って「セチ」。その猫を謳った詩や、猫の名前にふれた智恵子の書簡も残っています。

とまあ、こんなことをレジュメに書きましたが、とてもすべて説明している時間はなく、バトンタッチ。ともに花巻ご在住で、天文サークル「星の喫茶室」の伊藤修さん、根子(ねこ)義照さん(猫さんではありません(笑))。

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

簡単に天体観測について説明のあと、記念館から徒歩5分ほどの、智恵子展望台へ。当初の予定では、こうでした。

イメージ 10

しかし、この時はまた雲が低くたれ込めており、結局、星は一つも見えませんでした。残念。

イメージ 11

イメージ 12

ふたたび記念館へ移動。帰り道、山小屋付近で蛍が光りながら飛んでいました。

記念館では、お二人により、DVDの上映や、天体望遠鏡、写真パネルなどの説明。そうこうしているうちに、雲が切れ始め、講座終了後、参加者の皆さんが帰られる頃には、ぽつぽつ星が見えました。展望台に居る時に見えればベストだったのですが、こればっかりは自然相手ですので致し方在りません。それでも、少しでも星が見えて良かったと思いました。

イメージ 13

イメージ 14

講座の前後、伊藤さん、根子さんとお話しさせていただいた中で、お二人とも光太郎がずいぶん天体について記述を残しているのに驚かれていました。また、天文愛好家ならではの着眼で、日記の日付と見ている星座の関係から、時にはかなり早起きして夜明け前に星を見ていたはず、というご指摘。ほう、と思いました。それから、光太郎が姻戚の宮崎稔に村上忠敬著『全天星図』の入手を依頼したのも、流石だ、というお話でした。逆に、彗星や流星について、特に、明治44年(1911)のハレー彗星について書き残していないことを残念だとおっしゃってもいました。そのあたりは、今後、新たな文章などの発見があれば、と思っております。

最初に書いたとおり、大自然を愛した光太郎。その一環として天体の美にも反応したのでしょうが、宮沢賢治の影響もあるような気もしています。今後、賢治と光太郎の関わりについてしゃべる機会があれば、そういう話もしようと思っております。

午後9時頃、片付けも終わり、撤収。レンタカーをその日の宿・台温泉に向けました。

以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

山を見る先生の眼に山の叡智がうつる。 山は先生をかこんで立ち、 真に見るものの見る目をよろこぶ。
詩「先生山を見る」より 昭和14年(1939)
 光太郎57歳

「先生」は、光太郎より10歳年長、登山家の木暮理太郎です。2年後に光太郎の『智恵子抄』を上梓する龍星閣から刊行された、木暮の『山の憶ひ出』下巻に載った木暮の写真にインスパイアされて書かれた詩です。やはり大自然の美を愛するものとしてのアフィニティー、ということなのでしょう。
006
光太郎、翌年には木暮の山姿の彫刻を作り始めますが、結局、完成しませんでした。

↑このページのトップヘ