2017年03月

ほぼ毎日、インターネットで24時間以内に更新された新情報をいろいろ調査をしています。

先日、そのうち「智恵子抄」をキーワードに検索をしていたところ、デザインTシャツ等の通販を行っているClubTさんという業者さんのサイトが網に引っかかりました。おそらく新商品なのでしょう。

愛 ハート 福島 二本松 NIHONMATSU  ( i love  福島 二本松 NIHONMATSU  ) ー片面プリント トートバッグS(ターコイズ)

二本松市(にほんまつし)、福島県中通りの北に位置する市。「智恵子抄」に詠われた安達太良山と阿武隈川で知られる。国道4号 国道349号 国道459号 二本松城 - 別名は霞ヶ城、県立霞ヶ城公園にあり、江戸期には二本松藩(丹羽氏)の居城。国史跡。十万三千石。戊辰戦争での悲話、二本松少年隊も有名。

2,305円(税込2,489円)
【発送まで】5営業日程度(土日祝のぞく)
【ボディ】12ozキャンパス
【品番】TM761-ENT
【素材】綿100%

※サイズは横300mm×縦200mm、奥行きが100mmです。

いい感じのバッグですね。

調べたところ、同じClubTさんのサイト内で、いろいろ見つかりました。

同じロゴを使った商品は、バッグ以外にも、Tシャツ、トレーナー、パーカー、スマホケース、エプロン、さらには赤ちゃんのロンパースや、わんこの服までいろいろ取りそろっていました。色もさまざまです。

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すると、どうも日本全国の市町村が網羅されているようで、花巻やら十和田やらのバージョンもいろいろあるようでした。

そして、今日付で、東京電力福島第1原発事故により出ていた居住制限、避難指示解除準備の両区域に対する避難指示が解除された浪江町。町役場さんや、今日付で休校となる浪江高校さんは二本松に移転していましたし、仮設住宅の多くが二本松に建てられています。

その浪江町バージョンはこちら。

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商品説明には「大堀相馬焼きの徳利とぐい飲みに、福島県の象徴の起き上がりこぼしを浪江町民に見立てて絆を表現しました。バックの青空は、お世話になっている二本松の安達太良の智恵子の空と請戸の海をイメージしました。」とありました。うるっときてしまいました。



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なかなかこれを着て歩くのは勇気がいるような気がしますが、イベントなどの際にスタッフで揃えて、というのは有りかもしれませんね。


上記いろいろ、ご購入をご検討ください。


【折々のことば・光太郎】

予約された結果を思ふのは卑しい。  正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。
詩「火星が出てゐる」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

大きな決断を迫られるシチュエーションで、ついつい楽な未来をイメージし、無意識のうちにそちらの方へと梶を切ってしまうということが、往々にしてあると思います。

そうではなくて、「思いこんだら試練の道を」。実際に光太郎の人生はそういう状況に満ちていました。見習いたいものです。

戦後、この国で初めて光太郎を真っ正面から取り上げた故・吉本隆明。当会顧問・北川太一先生とは、東京工業大学等でご同窓、光太郎がらみで終生、交流を続けられました。

その没後、晶文社さんから『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の刊行が始まり、これまでに刊行された第5巻(月報に北川先生玉稿掲載)、第4巻、第7巻第10巻第12巻などで、光太郎に言及した文筆作品が所収されています。

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その『吉本隆明全集』が第Ⅱ期刊行に入るということで、記念イベントが実施されます。
会 場 : 寛永寺輪王殿第一会場 東京都台東区上野公園14-5
時 間 : 14:00~16:00(開場13:30~)
料 金 : 学生:無料(学生証提示) 一般:1000円
定 員 : 約200名(要予約・申込先着順)  専用フォームより申し込み
      往復ハガキ 〒101-0051 千代田区神田神保町1-11 晶文社 吉本全集イベント係
出 演 : 糸井重里、ハルノ宵子
 ◇糸井重里(いとい・しげさと)
1948年、群馬県生まれ。Webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰。同サイトでは、’60年代から’08年の吉本隆明さんの講演をできるかぎり集め、デジタルアーカイブ化して、無料で公開している。著書多数。吉本さんとの共著に『悪人正機』(新潮社)があるほか、ほぼ日ブックスより、『吉本隆明の声と言葉。』 『吉本隆明が語る親鸞』を刊行している。
 ◇ハルノ宵子(はるの・よいこ)
1957年、東京都生まれ。漫画家・エッセイスト。長年の介護の末、’12年に父と母を相次いで亡くす。妹は小説家の吉本ばなな。現在は定住猫数匹+外猫たちと暮らす。マンガ以外の著書に『それでも猫はでかけていく』(幻冬舎)、『開店休業』(プレジデント社・吉本隆明と共著)など。

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光太郎に関わる内容が出るか、微妙なところではありますが、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

さあもう一度水を浴びよう。 さうしてすつかり拭いた自分の体から 円(まろ)い二の腕や乳の辺りからかすかに立つ  あの何とも言へない香ばしい、甘(うま)さうな、  生きものらしい自分自身の肌の匂をもう一度かがう。
詩「秋を待つ」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

さまざまな獣や妖怪に仮託して自らの内面を謳う連作詩「猛獣篇」時代ですが、仮託しない自分自身、充実した「生」を送っている一個の「生きもの」であるという実感のようなものが感じられます。

信州安曇野にある、光太郎の盟友・碌山荻原守衛の個人美術館、碌山美術館さんから、館報第37号が発行されました。

館のご厚意で、4/2の第61回連翹忌にて、ご参会の皆様に無料で配布するため、昨日、当方自宅兼事務所に宅急便でどさっと届きまして、早速拝読。

毎号充実の内容で(今号も全60ページ)、感心しきりなのですが、特に今回は光太郎がらみの記事が多く、ありがたいかぎりでした。

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いきなり表紙が光太郎のブロンズ「薄命児頭部」(明治38年=1905)。同館顧問の仁科惇氏の解説「高村光太郎の詩魂を見る」という解説の短文がついています。

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目玉の記事は、「新資料紹介 荻原守衛書簡発見報告」。学芸員の武井敏氏の筆になります。

昨秋、当方の手元に送られてきた古書店の合同目録に、画家の白瀧幾之助にあてた荻原守衛の書簡が掲載されており、同館に情報を提供したところ、同館で購入の運びとなりました。同時に販売されていた光太郎から白瀧宛の書簡は当方が購入しました。

さらに同館では光太郎、守衛と親しかった戸張孤雁から白瀧宛の書簡も購入、その他、個人や台東区立書道博物館さん蔵の、これまで知られていなかった守衛書簡の情報も得(そちらの情報も一部、当方が提供しました)、それについても記述されています。

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このうち、明治40年(1907)8月2日消印で、パリ在住だった守衛が訪れたロンドンから送られた絵葉書には、光太郎の名も記されていました。当時、光太郎もロンドン在住でしたが、守衛はロンドンに着いたばかりで「高村兄にはまだ会はぬ」としています。この後、二人は再会し、一緒に大英博物館を訪れるなどしています。

また、従来、「碌山」の号の使用は、この年の秋頃からと推定されていたとのことですが、8月の時点で既に使われていたことも判明したそうです。


その他、同館五十嵐久雄館長の「ロダン没後百年に思う」、昨年12月に同館で開催された「美術講座 ストーブを囲んで 「荻原守衛 パリ時代の交友」を語る」の記録でも、光太郎に触れてくださっています。


そして巻末に、昨年8月、同館の夏季特別企画展「高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として行われた、当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」の筆記録。9ページもいただいてしまいまして、恐縮です。
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筆記録といいながら、実際にはかなり手を入れさせていただきました。というのは、当初、スタッフの方が録音された当方の講演をそのまま文字に起こしたものが送られてきたのですが、読んでみて「こりゃだめだ」(笑)。自分は普段、こんな滅茶苦茶なしゃべり方をしているのか、とショックでした。

とにかく、ずらずらずらずらと区切れが無く、主語述語ははっきりぜず、「てにをは」も滅茶苦茶(笑)。内容的にも、時間配分を誤り、前半はどうでもいいような余談ばかりで、後半に配した本題の「乙女の像」関連が駆け足の消化不良となっていました。

そこで、徹底的に手を入れて、「こういうことをしゃべりたかったんだよ」という形にまとめさせていただきました。


さらに最終ページには、同館の来年度の予定が載っていました。またまた光太郎関連をいろいろ取り上げてくださるとのことで、感謝です。

7/1(土)~9/3(日) 夏期特別展「『ロダンの言葉』編訳と高村光太郎」

12/2(土) 美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」

それぞれまた近くなりましたら詳しくご紹介いたします。


さて、館報第37号、4/2の連翹忌ご参会の方々には、館のご厚意で無料配布いたします。その他の皆様、ご入用とあらば、同館までお問い合わせください。


【折々のことば・光太郎】

雷獣は何処に居る。 雷獣は天に居る。風の生れる処に居る。 山に轟くハツパの音の中に居る。 弾道を描く砲弾の中に居る。 鼠花火の中に居る。 牡丹の中に、柳の中に、薄の中に居る。 若い女の糸切歯のさきに居る。 さうして、どうかすると、 ほんとの詩人の額の皺の中に居る。

詩「雷獣」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

連作詩「猛獣篇」の一編。「雷獣」は落雷とともに現れるという、架空の妖怪です。詩「清廉」では、同じく架空の妖怪「かまいたち」をモチーフとしていましたが、こうしたモンスター系も、光太郎にとっては「猛獣」の範疇に入るものでした。

「牡丹」「柳」「薄(すすき)」は、線香花火の様態変化を表します。その他様々なシチュエーションで、激しく火花や轟音を発する「雷獣」。「ほんとの詩人」でありたい自分の額にもいてほしい、というところでしょうか。

昨日、花巻高村光太郎記念会さん事務局の方が当方自宅兼事務所にいらっしゃいました。直接の用件としては、花巻高村光太郎記念館さんで来月から開催される企画展の資料をお貸しするためでしたが。併せて現状での課題、来年度の展望等、いろいろお話を伺いました。

まず現状。入館者数等伸び悩んでいるそうです。平成27年(2015)5月に、リニューアルオープンした同館ですが、その年は入館者数等順調に伸びたそうですが、昨年から今年にかけてはジリ貧的に落ち込んでいるとのこと。

立地条件的に花巻市街からかなり離れていること、すぐ近くに他の観光施設等がないこと、他にもいろいろ要因はあるとは思いますが、残念です。昨年行われた国体も入館者数には結びつかなかったそうです。追い打ちをかけるように、一度復活した在来の花巻駅から高村山荘行きの路線バスも今年度で廃止(途中の県立清風支援学校までの通常便は維持)。ますます厳しくなりそうです。

ただ、追い風もありそうです。記念館のある太田地区に、「(仮称)西南道の駅」の計画が進んでいます。これから用地買収だそうで、オープンはまだ先ですが、道の駅内に光太郎に関するコーナーを設けたりといったタイアップが考えられているとのことで、実現すれば記念館への新たな導線となることが期待されます。

智恵子の生家・記念館がある福島二本松には道の駅が二つあり、道の駅「安達」智恵子の里さんでは、智恵子情報コーナーの設置など、道の駅ふくしま東和さんでは、光太郎智恵子にちなむ「あだたら恋カレー」の販売などを行っているほか、いろいろと生家・記念館との連携を図っているようです。いずれ花巻もそういう方向に行ってほしいものです。


それから、まだ公式発表がないので詳細が書けませんが、記念館としての来年度の計画。

まず、こちらは現在進行中ですが、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の高台、通称「智恵子展望台」の整備。ここに住んでいた頃の光太郎が、ここから夜空に向かって「智恵子ーーー」と叫んでいたという証言が残っています。元々、簡素な東屋的なものはあったのですが、そちらが老朽化とのことで建て直し、さらに雑木を伐採したり刈ったりして、ビューポイントとしての整備を進めているそうです。当方、来月10日、盛岡に行く都合があり、その途中に立ち寄って、現状を見てきます。

それから企画展。日程はあくまで予定ですが、以下の通り。

4/14(金)~6/26(月)で、光太郎と花巻の温泉郷に関わる展示。大沢温泉さん、花巻温泉さんなど、花巻に点在する温泉をこよなく愛した光太郎。書き残された文章や、古写真類、それから温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた浴槽が保存されており、その実物も展示されます。

9/15(金)~11/27(月)に、昨年も行った智恵子の紙絵の実物展示。関連行事的に映画「智恵子抄」などの上映も考えているそうですが、そのあたりは未定です。

12/8(金)~2018年2/26(月)には、市内の他の文化施設、花巻市博物館さんや新渡戸稲造記念館さんなどと共同で、統一テーマによる同一時期企画展開催。光太郎記念館さんでは、通常展示していない書の展示を考えているとのことです。

それぞれまた近くなって詳細が出ましたら、またお伝えいたします。


それにしても、入館者数等伸び悩み、非常に残念です。リニューアルに伴い、非常に充実した施設ですし、併設の光太郎が暮らした山小屋・高村山荘、そして整備中の智恵子展望台など、見どころの多い場所です。ぜひ足をお運びください。

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【折々のことば・光太郎】

ありがたう、フランス  わけのわかるこころといふものが  どんなに人類を明るくするか  朝のカフエ オオ レエをついでくれた  一人のマダムのものごしにさへ  ああ、君はそれを見せてくれた
詩「感謝」 大正15年(1926) 光太郎44歳

これで全文の短い詩です。社会矛盾にみちた日本での暮らしの中で、20年近く前の、芸術に関する考え方や人間としての生き方に目を開かせてくれたフランスでの日々に思いを馳せています。

ところで大正時代にカフェ・オ・レについて記した文学作品、というのも少ないような気がしますが、どうでしょうか。

群馬から展覧会情報です。

太田市美術館・図書館開館記念 「未来への狼火」

期 日 : 2017年4月26日(水)~7月17日(月・祝)
会 場 : 太田市美術館・図書館 群馬県太田市東本町16番地30
時 間 : 午前10時~午後6時 ※展示室への入場は午後5時30分まで
休館日 : 月曜日 (ただし祝日の7月17日は開館)
料 金 : 一般800円、学生・団体640円、中学生以下無料

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地元の詩人・清⽔房之丞の言葉を手がかりに、 太⽥の風土に育まれてきた創造の遺伝子を発見する
2017(平成29)年4月、太田市美術館・図書館は、「まちに創造性をもたらす、知と感性のプラットフォーム」として、「創造的太田人」を基本理念に、太田で育まれてきたものづくりの英知を継承しながら、市⺠によるこれからのまちづくりの拠点となることを目指してグランドオープンします。
現在、北関東随⼀の工業都市として知られる太田市の土台を築いたのは、1917(大正6)年5月、元海軍機関大尉の中島 知久平を中心に設立された飛行機研究所でした。第二次世界大戦後、GHQによって解体された中島飛行機株式会社を源流に、日本屈指の航空機生産技術を基礎に創立した富士重工業株式会社(2017年4⽉より、株式会社SUBARU)は、「ものづくり のまち」太田を象徴する存在です。
それでは、工業都市としての顔以外に、太田にはどのような風景が広がっているでしょうか? さらにさかのぼる1903(明治36)年、太田に生まれ、田園詩人と称されたのが清水房之丞です。彼は最初の詩集『霜害警報』(1930年)で、「桑が自分の⼦の樣に可愛いいんだ/桑が黑くなれば俺逹まで口がひ上がることになるんだ/村の俺逹の狼火をあげよ う」とつづりました。そこで描かれたのは、冬の霜害に苦しみながらも、大切に桑を育てていたひとたち。高村光太郎や 萩原朔太郎といった稀代の詩人とまじわりながら、郷土で詩を書くことに心を傾けた清水房之丞の仕事は、この風土で生きることへの強い誇りを感じさせます。
開館記念展では、「風土の発見」「創造の遺伝⼦」「未来への狼火」をキーワードに、こうした歴史的風土のなかで生まれた絵画、工芸、写真、映像、詩、歌など、多ジャンルのアーティストの作品を新作もまじえてご紹介します。さらには、 市民と共同のプロジェクトも実施、それらを通してわたしたちが未来を展望するための狼火をたちあげます。
「創造的太田人」とともに歩む、太田市美術館・図書館の挑戦が本展からはじまります。

出品作家

淺井裕介、飯塚小玕齋、石内都、片山真理、清水房之丞、正田壤、林勇気、藤原泰佑、前野健太(9名/五十音順)

清水房之丞(しみず・ふさのじょう)
詩人。1903年生まれ、1964年死去。群馬県太田市(旧・新田郡沢野村)出身。群馬師範⼆部卒。群馬県内で小学校教師をつとめ、佐藤惣之助の「詩之家」に参加。「田園詩人」と称され、詩集に『霜害警報』(1930 年)をはじめ『青い花』、『炎天下』などがある。萩原朔太郎や高村光太郎ら稀代の詩人とも交わりながら 活動、詩誌『上州詩人』や『青馬』の刊行も行い、群馬県内の詩の発展に尽力。本展では詩集、詩誌を展示。


太田の郷土の偉人ということで、詩人の清水房之丞に関する展示がなされます。上記紹介にあるとおり、光太郎と交流のあった詩人でした。

『高村光太郎全集』には、光太郎から清水宛の書簡が3通、そして清水の詩集『炎天下』(昭和17年=1942)の序文が掲載されています。

また、その後、光太郎から清水宛の書簡3通が新たに見つかり、当会顧問・北川太一先生と当方の共編『光太郎遺珠①』(平成18年=2006)に収めました。

それから、清水が編集・発行にあたった詩誌『上州詩人』の第17号(昭和10年=1935)。こちらにはアンケート「上州とし聞けば思ひ出すもの、事、人物」があって、光太郎の回答も掲載されています。これも『高村光太郎全集』には漏れていたので、やはり『光太郎遺珠①』に収めました。

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光太郎の回答は「上州と聞けば赤城山 高橋成重、萩原恭次郎」。「高橋成重」は「高橋成直」の誤植と思われます。「高橋成直」は、前橋出身の詩人・高橋元吉のペンネームでした。萩原恭次郎も現在の前橋出身の詩人です。

さらに『上州詩人』のこの号には、清水、或いはやはり『上州詩人』に関わっていた松井好夫に宛てた書簡の抜粋も掲載されていました。松井の翻訳になる『ボオドレエル詩抄』の受贈礼状です。

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このように、光太郎と関わりのあった清水に関する展示がなされます。『上州詩人』も並ぶようですし、光太郎が序文を書いた『炎天下』も出品されるのではないでしょうか。

他は現代アート系の作家さんの作品ですが、ぜひ、足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

神さまから言ひつかつた事をするのは当りまへだ ほんとにさうだ、田舎の処女(ピユセル)よ
詩「聖ジヤンヌ」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

ジャンヌ・ダルクをモチーフとした詩です。そこで、「神さまから言ひつかつた事をする」となっています。光太郎はクリスチャンではありませんでしたが、天から与えられた使命を果たす、的な部分ではジャンヌ・ダルクに共感を覚えていたようです。

この詩が作られた同じ時期に、築地小劇場でジャンヌを主人公としたバーナード・ショー原作の「聖ジヨオン」が上演され、それを見た光太郎は「ジヨオンに自分は惚れてゐるやうだ。今日はその声をききにゆかう。」と記しました。

その悲惨とも言える末路に、自分や智恵子の未来の姿も重ね合わせていたふしも見られます。この詩の末尾は「火あぶりか うゑ死にか ああ、だが何とうつとりさせる声だらう」となっています。

一昨日、昨日と、このブログでは、最近入手した古資料の光太郎編、光雲編をご紹介して参りました。智恵子編もありますが、またネタ切れになってきたら(笑)ご紹介いたします。

今日は岩手花巻からの情報を。

まず、市で発行しているPR誌『花日和』の今月発行の2017春号。光太郎の名が2カ所に現れます。

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最初は光太郎も愛した大沢温泉さんの紹介の中で。

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「多くの文化人が愛した温泉」という項で、以下の通り。

 大沢温泉は、多くの文化人に愛された温泉としても知られている。
 宮沢賢治もその一人。幼い頃から父に連れられ、花巻仏教会の講習会場であった大沢温泉に足を運んでいた。花巻農学校の教師時代には、教え子たちを引き連れよく湯浴みに訪れていたという。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は、疎開先として花巻に滞在していた際、大沢温泉を気に入り幾度か宿泊。「ここは本当の温泉の味がする」と、とても気に入ったそうだ。近年何度か利用していたのは、書家の相田みつを。大沢温泉の入口にある看板の“ゆ”の文字は相田みつをに書いてもらったものを複写したものだ。オリジナルは山水閣内に飾っている。

大沢温泉さん、当方も数え切れないほど泊めていただきまして、今年も5月の高村祭の折りに予約を入れてあります。

その頃、花巻高村光太郎記念館さんで、光太郎と花巻の温泉をテーマとした企画展が開催されます。そのための打ち合わせで、明日は記念館のスタッフ氏が当方自宅兼事務所にいらっしゃいます。詳細は後ほど。

花巻高村光太郎記念館さんといえば、昨年から手作り感あふれる記念館通信『メトロポール』を発行されています。今年に入って、花巻市さんのサイトで閲覧できるようになりました。今月発行の第3号がこちら

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記念館に隣接する、光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)。春とはいえ、まだまだ雪深い様子が見て取れます。


再び『花日和』。5月の高村祭の案内も載っていました。

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こちらもまた近くなりましたら詳細をご紹介します。

ところで『花日和』。花巻市内の観光案内所などで無料配布されていますが、首都圏でも入手可能。東銀座にある岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」さんなどに置いてあるはずです。

お近くにご用のある方、ぜお立ち寄りのほど。


【折々のことば・光太郎】

私達の最後が餓死であらうといふ予言は、 しとしとと雪の上に降る霙(みぞれ)まじりの夜の雨の言つた事です。

詩「夜の二人」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

と言っているわりには、高級な茶葉を常用したり、西洋風の朝食を摂っていたりと、矛盾していた光太郎智恵子。「武士は食わねど高楊枝」でしょうか。

昨日に引き続き、最近入手した古資料等をご紹介します。今回は光太郎の父・高村光雲の関係で。


まず古絵葉書。

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国指定の重要文化財である「老猿」の写真が使われています。キャプションには「東京朝日新聞社主催 明治大正名作展覧会 (猿) 高村光雲氏作」とあります。

調べてみたところ、昭和2年(1927)6月に東京府美術館で開催されたもので、明治大正期の日本画・洋画・彫刻の代表作計460点を集め、会場は連日盛況で総入場者数は17万8千余人を記録、多くの人々に日本の近代美術というものをあらためて認知させることになったとのことです。

おそらくその会場などで販売されていたものと推定され、絵葉書ではありますが、普通に焼き付けされた写真の裏面に絵葉書のフォーマットを印刷したという感じです。作品題が現在使われている「老猿」ではなく、単に「猿」となっている点が興味深いところです。

この点も気になって調べたところ、昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』でも、口絵部分のキャプションが「猿」となっていました。

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しかし、本文では「栃の木で老猿を彫つた話」となっており、「老猿」の語が使われています。ただ、よく読むと、「老猿」の語は作品題というより、モチーフとして年老いた猿を作ったよ、という使い方になっているようです。いつから作品題として「老猿」が定着したのか、興味深いところです。


続いて、雑誌『キング』から。

昨日ご紹介した光太郎の「ある日の日記から」の関係で、その前後にやはり光太郎文筆作品が載ってはいまいかと探したところ、光太郎のものは見つけられませんでしたが、光雲の談話筆記が2点見つかりました。

まず昭和5年(1930)10月の第6巻第10号。「昔の芝居と今日の芝居」という題で2ページの談話が載っています。

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芝居好きだった光雲、当時や少し前の役者についていろいろ述べています。挙がっている名は初代中村吉右衛門(「吉右衛門」と書いて「はりまや」とルビが振られています。粋ですね)、十五代目市村羽左衛門、そして五代目中村歌右衛門。

さらに、昭和8年(1933)2月の第9巻第2号には、「猫の話 鑿の話」という談話も1ページ載っていました。

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猫に関しては、『光雲懐古談』にも載っている、徒弟修業時代に近所の猫の仕業に見せかけて、鰹の刺身をせしめた話、それから現在製本中の『光太郎資料47』に載せた、光雲ゆかりの金龍山大圓寺さんの発行になる『仰高』という冊子でも語られている、「団扇に眠る猫」について。下の写真は光太郎令甥・髙村規氏です。

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それから、木彫用の鑿について。写真が大きく載っており、最近、みすず書房さん刊行の『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を読んだこともあり、興味深く感じました。

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いずれ、当方編集発行の『光太郎資料』に転載しようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

この世では、 見る事が苦しいのだ。 見える事が無残なのだ。 観破するのが危険なのだ。
詩「苛察」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

連作詩「猛獣篇」の一作。上野動物園の大鷲をモチーフとしています。

この時期、さまざまな社会矛盾に目を向けざるを得ず、また、光太郎の元に集った若い詩人たちの影響などもあって、光太郎はアナーキズム系、プロレタリア文学系に近づいていきます。しかし、完全にはその方面には入れずじまい。そのあたりはまた後ほどご紹介します。

このブログでご紹介している内容は、主に以下のようなものです。これから行われる光太郎、光雲、智恵子関連のイベント等のご案内。それらに足を運んでのレポート。新刊出版物等のご紹介。関連するテレビ番組等のご紹介。新聞記事等で光太郎らにふれられたもののご紹介、などなど。

そういったものが集中する時期には、半月先まで記事の内容が決まっていたり、一回の投稿で何件もご紹介したりということもあるのですが、逆にネタに困ることもあります。あまりにも先に行われるイベントをご紹介しても仕方がありませんし、新刊書籍も版元のサイトで情報がアップされていないなどの場合には、ご紹介しにくい部分があります。

今がまさにその状態で、情報が少なく、困っています。

そこで、今回は、最近入手した古資料について。新刊書籍等は「皆様もぜひお買い求めください」的なまとめ方ができるのですが、古資料ですと、それができないので、あまりご紹介してきませんでした。

背に腹は代えられないので、こうした機会にご紹介しておきます。今回は、光太郎編。

筑摩書房さん刊行の『高村光太郎全集』に漏れているものの収集、というのが当方のライフワークでして、そういう関係がメインです。

まずは書簡。

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光太郎晩年、昭和28年(1953)4月10日付で、中央公論社の編集者・岩淵徹太郎に宛てたはがきです。とある古書店さんのサイトで見つけ、購入しました。

曰く、

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、
此間は久しぶりでおめにかかりましたが、この前よりも大変健康になられたやうに見うけました、

岩淵宛の書簡は、『高村光太郎全集』に5通掲載されていますが、これは漏れており、従前のものを補うものです。光太郎の住所は中野区桃園町四八 中西氏方。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、その制作まっさかりの時期です。

選集」は、この年一月に完結した『高村光太郎選集』全六冊。誰かに進呈するためにセットで注文したものと思われます。「此間は久しぶりでおめにかかりましたが」とありますが、4月7日の日記に岩淵来訪の記述があります。

内容的にそれほど重要なことが書かれているわけでもありませんし、光太郎の書簡はすでに3,400通ほどが知られていて、珍しいものではありませんが、味のあるいい字ですし、それなりに貴重なものです。


続いて雑誌『キング』第5巻第9号。昭和4年(1929)9月の発行です。

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002現在の講談社さんの前身、大日本雄弁会講談社の発行していた総合雑誌です。

これに、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎の文章が掲載されています。「ある日の日記」という総題で、光太郎、町田経宇(陸軍大将)、鈴木伝明(俳優)、朝倉文夫、山本久三郎(帝国劇場専務)の5人の日記が載せられています。

この時期の日記帳そのものの現存が確認できていないので、実際の日記からの抜粋なのか、このために書き下ろされたのか、あるいはこのために実際の日記を換骨奪胎したりふくらませたりしたのか、何とも言えませんが、光太郎に関しては、「六月十日」ということで、その日の出来事が記されています。

内容的には主に2点で、1点目は、改造社から刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集/現代俳句集』のために、自作短歌を選んだこと。「記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。」とあります。ちなみに同書に掲載された光太郎短歌は四十四首。この違いは何なのか、謎です。

笑ってしまったのは、海外留学のため、横浜港から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン船上での作「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」という短歌(明治39年=1906)についての記述。「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」たしかに当方もこの歌の書かれた短冊を持っています。

後半は、智恵子の母校・日本女子大学校から同窓会誌『家庭週報』の記者が訪れたことが書かれています。大正8年(1919)、同校創設者の成瀬仁蔵の胸像を光太郎が依頼され、なかなか完成しないため(結局、昭和8年=1933までかかりました)、時折同校関係者が光太郎をせっつきに来ていました。この際の記事が、同じ年の6月28日発行の『家庭週報』第990号に掲載されてもいます。光太郎、呑気に記者が持参した手作りの洋菓子「クレーム フアンティーヌ」を賞味しています(笑)。
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比較的長い文章ですが、『高村光太郎全集』に漏れていました。その理由は、おそらく、目次。目次には光太郎の名が無く、「各方面五名士」となっているのです。

そこで、同じ時期の『キング』に、同じようにこれまで知られていない光太郎の文章が載っている可能性もあると思い、駒場の日本近代文学館さんに行って、片っ端から調べました。するとやはり、目次に「諸名家」とだけあって、氏名が明記されていない記事がたくさんありました。しかし、光太郎のものは新たに結局発見できませんでした。

代わりに、やはり日本近代文学館さん所蔵の資料の中から、『高村光太郎全集』未収録の短歌を見つけました。掲載誌は明治39年(1906)刊行の『新詩辞典』。短歌の作り方テキスト的な書籍です。

作例、ということで、与謝野晶子ら多数の歌人の作品が載っており、光太郎の短歌も18首。その中で1首だけ、これまでに知られていなかったものが含まれていました。

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一刷毛(ひとはけ)のそれは上総か春の海光ましろき雲ながれゆく

クレジットは新詩社における光太郎の号「砕雨(さいう)」です。

上記の「海にして……」同様、太平洋を渡る船中での作なのか、それとも千葉方面を旅した際の作なのか、何とも言えません。この時期に千葉方面への旅行という記録が残っていません。あるいは東京にいて、「あの雲の真下は上総あたりかな……」的なことも考えられますし……。


というわけで、まだまだ眠っている光太郎文筆作品等はかなりありそうです。今後もその発掘に力を尽くします。


【折々のことば・光太郎】

印度産のとぼけた象、 日本産の寂しい青年、 群集なる「彼等」は見るがいい、 どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

詩「象の銀行」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

明治39年(1906)から翌年にかけての滞米体験を下敷きとしています。セントラルパークの動物園で、客の投げる硬貨を上手に鼻で拾って貯金箱的な入れ物に入れる象を謳っています。

遠い異国からやって来たもの同士ということで、光太郎はこの象に奇妙な親近感を抱いていました。排他的な雰囲気のあったニューヨークは、光太郎にとってあまり居心地がよくなかったようです。

0014月2日の第61回連翹忌が近づいて参りました。

当方が編集・発行している冊子『光太郎資料』、年2回のうち、1回は連翹忌にあわせて発行しています(もう1回は半年後の智恵子忌日・レモンの日に合わせています)。

元々は当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期に発行されていたもので、当方、5年前にその名跡を譲り受けました。

というわけで、第47集、頼んでおいた印刷が完了し、印刷屋さんから受け取って参りました。印刷のみ印刷屋さんにお願いし、ページ順に並び替える丁合という作業、その後のホチキス留めはすべて手作業でやっております(そこまで頼むと料金がさらにかかりますので)。

当方編集に移行してから11冊目の発行となりました。毎号ほぼ同一の章立てで、後世に残すべき光太郎関連の文字資料を様々な角度から載せております。

今回は

光太郎遺珠から 第11回 詩人として(四) 戦後・晩年
 ・昭和21年(1946) 松本政治宛書簡
 ・同24年(1949) 肥後道子宛書簡
 ・同25年(1950) 池田克己宛書簡 2通
 ・同 三宅正太郎宛書簡 2通
 ・同26年(1951) 雑纂「賞を受けて」
 ・同 川路柳虹宛書簡
 ・同27年(1952) 雑纂「“詩だけはやめぬ”」

筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類をテーマ、時期別にまとめています。

ちなみに上記にお名前のある肥後道子さん、その後ご結婚なさって姓が変わりましたが、十数年ぶりに今年の連翹忌にご参加くださるそうです。この書簡の思い出を語っていただこうと思っております。


光太郎回想・訪問記   白い手の記憶―高村光太郎の思い出― 堀口大学 / 『パアゴラ』より 斎藤玉男

光太郎と同時代の人々が残した光太郎回想も貴重な記録ですので、それらの集成も図っています。今回は詩人の堀口大学と、智恵子の主治医だったゼームス坂病院長・斎藤玉男のもの。それぞれに、これまでこの世界で知られていなかった(と思われる)新事実が語られています。

堀口に関しては、海外生活が長かった堀口が、ロダン関係の文献、逐次刊行物等を日本の光太郎に送っていたということなど。斎藤に関しては、智恵子の診察を引き受けるに至った経緯など。ただ、当人の述懐ですので、鵜呑みにするのも危険ですが。


光雲談話筆記集成 「因縁に感謝」 『仰高』より

光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、光雲ゆかりの金龍山大圓寺の発行になる『仰高』という冊子から。


昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十一回 花巻電鉄 (岩手)

光太郎ゆかりの地の古絵葉書が少なからず手に入っており、それらの地と光太郎智恵子らの縁を綴っています。今回は、光太郎もよく利用した花巻電鉄を扱いました。

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音楽・レコードに見る光太郎   「新穀感謝の歌」(その三)

昭和16年(1941)、信時潔の作曲で歌曲となった光太郎作詞の「新穀感謝の歌」に関して。歌曲以外にも二世観世喜之節附による謡曲も作られ、同年と翌年に、財団法人日本文化中央聯盟主催の「新穀感謝祭奉献能の会」で演じられたことなどを書きました。

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光太郎詩に曲が附けられた音楽作品は少なからず存在しますが、それらの作曲の経緯、演奏の実態など、従前の研究ではほとんど手がつけられていません。このあたりもライフワークとしていくつもりでおります。


高村光太郎初出索引(十一)

発表された光太郎の文筆作品、装幀・挿画などの作品を、掲載誌の題名50音順に表にまとめています。


B5判、全50ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(連翹忌ご参加の場合は、4月発行分は進呈)。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【折々のことば・光太郎】

暖炉に入れる石炭が無くなっても、 鯰よ、 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
詩「鯰」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

木彫の代表作の一つ、「鯰」に関する詩です。下の画像は光太郎令甥・髙村規氏によるものです。

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昨日ご紹介した詩「金」では、粘土の凍結を防ぐため「夕方の台所が如何に淋しからうとも、 石炭は焚かうね。」としていた光太郎ですが、その石炭も無くなると、では、木彫なら、ということでしょうか。これも危険な考えですね……。

まずは先週土曜日の『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」。

あぶくま抄 野球少年の夢(3月18日)

 世界一まであと二勝。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表の快進撃が続く。すっかりお茶の間の話題をさらい、野球の根強い人気を裏付けた。
 「幻のホームラン」も出た。一次リーグ初戦のキューバ戦。山田哲人選手は左翼に本塁打性の打球を放ったが、スタンドの最前列にいた少年がグラブを差し出し捕球してしまう。判定は二塁打。少年は批判にさらされる。それを知った山田選手が「僕は全然気にしていない。野球を嫌いにならずにまたグラブを持って応援に来てほしい」と語り、男前ぶりが評判になった。
 東京五輪の野球・ソフトボールの一部試合を福島市の県営あづま球場で開催することがIOC理事会で決まった。カメラフラッシュの中で電話連絡を受けた内堀雅雄知事の顔が上気していた。紆余[うよ]曲折があっただけに関係者の喜びもひとしおだ。開幕試合の日本戦という情報もあり、いやが上にも盛り上がりそうだ。
 3年後、グラブを持った被災地の子どもたちで、あづま球場の観客席があふれることを想像する。憧れのスラッガーが完璧な放物線を描き、福島の「ほんとの空」を皆々で見上げる特別な時間が今から待ち遠しい。


福島の空を表す代名詞として定着したかの感がある、光太郎詩「あどけない話」に使われている「ほんとの空」の語で締めくくられています。

「ほんとの空」といえば、先週末から今週月曜にかけ、福島市音楽堂では「第10回声楽アンサンブルコンテスト全国大会-感動の歌声 響け、ほんとうの空に-」が開催されました。

『福島民友』さんから。 

郡山五中・2位、郡山高・3位 全国声楽アンサンブル・最終日

 第10回声楽アンサンブルコンテスト全国大会最終日は20日、福島市音楽堂で中学校、高校、一般部門の金賞受賞団体による本選が行われ、郡山五中が2位・福島市長賞に輝き、郡山高が3位・県教育長賞を受賞した。郡山二中が4位、日大東北高が5位に入り、「郡山勢」が実力の高さを見せつけた。1位・知事賞は不来方高(岩手)。県、県教委、大会実行委員会の主催、県合唱連盟などの共催、福島民友新聞社などの後援。
 県合唱連盟の創立70周年を記念して結成された県合唱連盟青少年選抜合唱団が記念歌「楽譜を開けば野原に風が吹く」を披露、節目の大会に花を添えた。合唱団は欧州で演奏会を開くため21日出発する。
 39都府県とフィリピンから過去最多タイの127団体が出場、16人以下の少人数で競った。部門ごとに予選を行い、本県の5団体を含む15団体が本選に臨んだ。残る本県のコーラル・アウローラ(郡山)は入賞。

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「合唱王国」と称され、各種コンクールでの上位入賞が多い福島県勢、今回も上位に多くの団体が入ったようです。ただ、全体の最高賞に当たる福島県知事賞に輝いたのは、岩手の不来方高校さん。秋の全日本合唱コンクールでも金賞受賞の常連校です。一般の団体を抑えての最高賞受賞は、このコンクール初だそうで、快挙ですね。

IBC岩手放送さんから。 

不来方高校 声楽アンサンブル全国大会で最高賞/岩手

 福島県で開かれた声楽アンサンブルコンテストの全国大会で、不来方高校音楽部が最高賞に輝きました。部員たちは21日学校で、県勢初の快挙を報告しました。
  福島県で開かれていた声楽アンサンブルコンテスト全国大会は16人までの少人数で合唱の歌声を競うものです。不来方高校音楽部は最高賞の福島県知事賞を県勢として初めて受賞しました。大会に出場するのは中学生から社会人までで、高校の音楽部が最高賞に輝くのも初めてです。21日学校の体育館で報告会が行われ、部員たちは大会で歌ったイタリアの宗教歌を披露しました。
 (三浦真子 部長)「この賞に恥じないような活動をこれからもしていかなければと気が引き締まるような思いです」
  3年生が引退した音楽部は来月新入部員を迎え、10月の全日本合唱コンクールで3年連続の最優秀賞=文部科学大臣賞獲得を目指します。

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「不来方」といえば、新詩社や『スバル』で光太郎と交流のあった石川啄木の代表作「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」が思い浮かびます。

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こちらは昨年7月、盛岡少年刑務所さんで講演をさせていただいた際に撮ってきました。不来方城址に建つ歌碑です(余談ですが、それがご縁で来月にも盛岡で講演をさせていただきます)。

啄木ゆかりの地の若者たちが、光太郎智恵子ゆかりの福島で美しい歌声を響かせたことに、感慨を覚えます。


最初に野球ネタで始めましたが、ところでもう一つ不来方高校さんといえば、現在開催中の選抜高校野球にも「21世紀枠」ということで出場していますね。こちらは部員10人での健闘。


『日刊スポーツ』さんから。

10人不来方「楽しめた」センバツ入場行進で大拍手

<センバツ高校野球:開会式>◇19日
 選手10人で初出場の不来方(こずかた、岩手)が、参加32チーム中で一番大きな拍手を受けて入場行進した。
 旗を持って10人の先頭を切って行進した小比類巻圭汰主将(3年)は「緊張したけど楽しめた。秋と変わらず全力で楽しくプレーするのが第一。それで勝てれば自信になる。選んでもらえた感謝を忘れずにプレーしたい」と意気込んだ。
 開会式ではこの3月に不来方を卒業したばかりの竹内菜緒さん(18)が君が代を独唱した。小比類巻は「すごく歌が響いていた。一緒に選ばれたのは力になる」と話した。
 プラカードを持って、甲子園の土を踏んだ女子マネジャー越戸あかりさん(2年)は、滝沢・鵜飼小3、4年の担任が竹内さんの母親だったこともあり「世間は狭いと思った。甲子園で聞く君が代は違った」と素直な感想を口にした。
 不来方の初戦は23日の第3試合で、静岡と対戦する。

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部員10人(音楽部より少ないですね(笑))での出場、それから規定の変更により、初めて女子マネージャーが甲子園での練習の補助に参加ということでも話題になりました。

さらに開会式での国家独唱も、同校3年生の竹内菜緒さんが務めました。竹内さんは、センバツ大会スポンサーの毎日新聞社さん主催の全日本学生音楽コンクール全国大会声楽部門高校の部で1位だそうです。声楽アンサンブルコンテストといい、不来方高校さんっていったい何なんだ、と思って調べたところ、芸術学系音楽コースが設置されているとのことで、むべなるかなと納得しました。

野球の方は明日、1回戦だそうで、こちらもがんばってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

工場の泥を凍らせてはいけない。 智恵子よ、 夕方の台所が如何に淋しからうとも、 石炭は焚かうね。
詩「金」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

「工場」は「こうじょう」ではなく「こうば」と読み、アトリエを指すのでしょう。冬場は水分を多く含む粘土が凍結し、制作中の彫刻作品にひびが入ってしまいます。それを防ぐには、24時間ストーブを焚く必要があり、困窮とまではいかなかったものの、決して豊かではなかった光太郎智恵子夫妻の生活を圧迫したと思われます。

それでも「夕方の台所が如何に淋しからうとも」、さらに詩の他の箇所では「寝部屋の毛布が薄ければ、/上に坐布団はのせようとも」「少しばかり正月が淋しからうとも」というわけで、智恵子にも忍従を強いています。一種のロジハラともいえ、非常に危険ですね……。

一昨日の『朝日新聞』さんの読書面で、みすず書房さん刊行、土田昇氏著『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』が紹介されました。

(書評)『職人の近代 道具鍛冶千代鶴是秀の変容』 土田昇〈著〉

 やわらかにして鋭い。独特の文体は、刃物店の3代目店主として父から聞き知った逸話の下地に、あるスタイルを追求する意志が加わったものだろう。刀工の家に生まれた大工道具鍛冶(かじ)の名工・是秀(これひで)の、デザイン性の高い切出(きりだし)小刀のように。
 大工の繊細な感覚への挑戦、木彫家に彫刻刀を見せ丸一日の対座、と丁々発止の真剣勝負が面白い。名人は名工を理解する。手練(てだ)れあっての道具だ。しかし近代化は職人に、よい仕事ではなく利益追求を求める。弟子たちに起きた悲劇は、職人の倫理と近代化の矛盾の深さを物語っている。
 是秀は近代化を拒否してはいない。師の遺言もあり、日本古来の玉鋼に拘泥せず、素材として優れた洋鋼を用いた。しかし後にデザイン切出をつくったのは、博物館で見たアイヌの「木製のペーパーナイフのような」もの(儀礼具の捧酒箸〈イクパスイ〉か)に触発されて、と語る。実用具と芸術が乖離(かいり)する時代に、彼はあえてオブジェ的な小刀を作製した。
 中村和恵(明治大学教授)

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主要紙の中では、朝日さんがはじめて取り上げたのではないかと思われます。さすがですね。

光太郎と交流があり、その日記にも名が出てくる千代鶴是秀ですが、高村光雲門下で光太郎と親しかった平櫛田中とも接点がありました。朝日さんの書評に「木彫家に彫刻刀を見せ丸一日の対座、と丁々発止の真剣勝負」とあるのがそれです。

同書によれば、おそらく明治末頃、田中が雑誌に「日本の彫刻刃物は切れ味のよいものがなく、自分は西洋の手術用メスを研ぎ直して仕上げに使っている」的な発言を載せたそうです。それを読んだ是秀が激怒、何本かの彫刻刀を作り、田中の元を訪れます。田中は自分の発言による訪問とすぐに察し、無言のまま是秀の目の前で、持ち込まれた彫刻刀を使って木を削っては研ぎ、削っては研ぎ、丸一日、その対峙が続きました。結局、田中はその出来に脱帽、自分の彫刻刀すべてを是秀に作ってほしいと頼みますが、是秀は拒否します。是秀曰く「日本の鍛冶屋が作ったものでも、きちんとしたものがあるということを知ってもらいたかっただけ」。粋といえば粋ですね。


ところで、田中といえば、今週末、テレビ東京系の「美の巨人たち」で、田中の代表作「鏡獅子」が取り上げられます。

美の巨人たち 平櫛田中『鏡獅子』彫刻家の信念と覚悟▽5代目尾上菊之助の思い

テレビ東京 2017年3月25日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2017年4月19日(水)  23時00分~23時30分

6代目尾上菊五郎演じる新歌舞伎十八番を捉えた『鏡獅子』。明治・大正・昭和を生き抜いた彫刻界の巨人・平櫛田中が着想から完成までなんと22年をかけたこの作品に迫ります。

6代目尾上菊五郎演じる新歌舞伎十八番[春輿鏡獅子]。今回の作品は、その一場面を捉えた高さ2mの木造彫刻『鏡獅子』。国立劇場のロビーに展示されています。作者は彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)。今にも動き出さんばかりの躍動感!しかも裸の姿まで彫り上げています。これこそが田中の頂点を極めた作品だといいます。

田中が作品に挑んだのは65歳。完成は22年後。そこまで歳月をかけたのには、彫刻家と歌舞伎俳優の深い絆と信頼が。知られざる『鏡獅子』誕生物語に迫ります。さらに『鏡獅子』を何度も演じている、5代目尾上菊之助が作品と対面。“6代目”を前に感じたその思いを語ります。

ナレーター 小林薫  蒼井優

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右下の画像は、今月12日まで開催されていた小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」会場です。ちなみにこの「鏡獅子」、田中の故郷、岡山県井原市のゆるキャラ「でんちゅうくん」のモチーフにもなっています。

光雲や光太郎、是秀に触れられるといいのですが……。

是非ご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

ちきしやう、 造形なんて影がうすいぞ。 友がくれた一束の葱に 俺が感謝するのはその抽象無視だ。
詩「葱」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

木彫で自然物を作ってみても、やはり一束の葱の持つ自然の精巧な造型力にはかなわない、という感懐が吐露されています。光太郎の木彫に関してはそうでもないような気がするのですが……。

昨日は、千葉市の千葉県立美術館さんに行っておりました。

光太郎の実弟にして、鋳金分野で人間国宝に認定された高村豊周の作品が展示されているという情報を得ていたためです。もう少し早く行きたかったのですが、昨日になってしまいました。

通常、自宅からは車で1時間ほどですが、3連休中日、さらに春のぽかぽか陽気ということもあったのでしょう、京葉道などで交通集中による渋滞が発生しており、若干時間がかかりました。

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所蔵品展的な展示で、「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」。こちらで豊周の作品が展示されているとのことでした。「北詰コレクション」は、千葉県印西市にあった「メタル・アート・ミュージアム 光の谷」が平成26年(2014)に閉館し、そちらの所蔵品がこちらに移ったものです。

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そちらの会場の手前では、やはり所蔵品展的な「コレクション名品展」が開催されていました。

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すると、光太郎のブロンズも3点出品されていました。「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」昭和28年=1953)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(同27年=1952)、「猪」(明治38年=1905)です。同館では光太郎ブロンズの比較的新しい鋳造のものを6点収蔵していて、そのうちの半分ということになります。

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これら3点、一昨年、勝浦市で開催された「第39回千葉県移動美術館 高村光太郎と房総の海」で拝見して以来のご対面でした。

他にもルノワールや梅原龍三郎の洋画、船越保武や高田博厚の彫刻、東山魁夷の日本画などが並んでいます。

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そして、「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」。

豊周の作品は3点並んでいました。大正9年(1920)の「朱銅素文花瓶」と「流れ筋文花瓶」、昭和31年(1956)の「朱銅面取四耳花入」。いずれも見事でした。特にチラシにも画像が使われている「流れ筋文花瓶」は、単純化された全体のフォルムの中に、三筋入れられた「流れ筋文」がアクセントとなり、見ていて飽きない感じです。

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「朱銅面取四耳花入」は、直線的な装飾を施したモダンアート風の作品。もう少し口が広ければ、連翹忌会場で光太郎遺影の前にレンギョウを挿すのに使いたいと思いました。もっともここまでの大きさの豊周作品を購入するほどの財力はありませんが(笑)。

他にも、光雲・豊周・光太郎と関わる作家の作品がたくさん並んでいました。岡崎雪声は、光雲が主任となって制作に当たった「楠木正成銅像」などの鋳造にあたった人物、大島如雲は東京美術学校での光雲の同僚で、光雲とのコラボ作品もあります。津田信夫は豊周の師、丸山不忘は豊周と同級で、豊周の工房にいて、光太郎作品の鋳造にもあたりました。

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4月16日(日)まで開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう、

詩「狂奔する牛」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

大正2年(1913)の、ひと月を智恵子と過ごした信州上高地での思い出を謳った詩です。当時、上高地では牛の放牧が行われており、発情期の牡牛の荒ぶる姿を通し、自然を賛美しています。


新品のパソコンが届き、ようやく通常の投稿ができるようになりました。そこで、このコーナーも復活させます。

駒場の日本近代文学館さんからご案内をいただきました。

講座「資料は語る」2017 作家からの手紙

開催日時 : 2017年4月15日  5月20日  6月10日  9月16日  10月21日  11月18日
          (全て土曜、それぞれ午後2時から3時30分)
会  場 : 日本近代文学館ホール 東京都目黒区駒場4-3-55
受講料金 : 全回10,300円(9,300円) 前または後期5,200円(4,700円) 1回のみ2,100円
          ( )内は維持会・友の会会員料金
定  員 : 40名(先着順) 定員に達しない場合は当日可能
申し込み : 館受付にて手続き/必要事項明記の上現金書留/郵便振替 00140-0-47730
内  容 :
前期
 4月15日 谷崎潤一郎の恋文 
       千葉俊二 (早稲田大学・教育総合科学学術院教授)
 5月20日 アメリカ留学とヨーロッパ旅行ー有島武郎から家族へ、マチルダ・ヘックへ
       江種満子 (文教大学名誉教授)
 6月10日 戦地からの絵だよりー高見順から妻・秋子へ 
       竹内栄美子 (明治大学教授)
 後期
 9月16日 愉快と不愉快と淋しさとー漱石の若き友人たちに宛てた手紙
       長島裕子 (早稲田大学文学学術院講師)
 10月21日 フイチンさんの引き揚げ体験スケッチー上田としこから佐多稲子へ
       久米依子 (日本大学教授)
 11月18日 作家の年賀状ー日本近代文学館コレクションから
       宗像和重 (早稲田大学文学学術院教授)

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直接、光太郎に関わる内容ではありませんが、有島武郎、高見順、夏目漱石らは光太郎とつながりがありましたし、漱石の回では、やはり光太郎と親しかった津田青楓が取り上げられるそうです。

また、個人的なことになりますが、有島の回で講師を務められる江種満子先生は当方の恩師です。不肖の弟子は行かずばなりませぬ(笑)。

皆様も是非どうぞ。

若き日の光太郎が、その本格的な文学的活動の出発点として加盟していた新詩社関連のイベントです。

第11回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」ではみんな詩人だった~鉄幹・晶子・白秋・啄木

日 時 : 2017年3月26日(日)
会 場 : 武蔵野商工会議所・市民会議室 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
時 間 : 開場:午後1時  開始:1時30分  終了:4時30分
参加費 : 1500円(含・資料代 別途懇親会費4000円)
定 員 : 90名

プログラム :
 第1部:ミニ講演
 「それは新体詩から始まった─和歌革新の源流について─」 前田宏(歌人)
 「与謝野晶子の詩の魅力~家族愛から政治批判まで」 松平盟子(歌人)
 
 第2部:鼎談「詩のことば、歌のこころ―表現の秘密と可能性をさぐる」
      細川光洋(静岡県立大学教授):北原白秋・吉井勇 
      西連寺成子(明治大学兼任講師):石川啄木 
      松平盟子:与謝野鉄幹(寛)・晶子 

 「明星」に集まった俊秀は、短歌と詩に優劣をつけることなく、自らを詩人と呼び、それぞれ作品を発表しました。そもそも鉄幹(寛)が文壇デビューしたのは詩歌集『東西南北』(明治29)。晶子は詩「君死にたまふこと勿れ」を歌集『恋衣』(明治38)に載せるなど、二人は一貫して詩と短歌を両立させていきます。
 今回は鉄幹(寛)、晶子、白秋、啄木を中心に据えて、「明星」の文学者たちの詩への意欲と、詩を通して果たした時代への挑戦に思いを馳せてみたいと思います。
 明治の詩歌の黎明期から、浪漫主義の「明星」を経て、大正期の口語自由詩へと展開する詩のダイナミズムは、おそらく現代の私たちの想像をはるかに超えるものだったことでしょう。多くの皆さまのご参加を心よりお待ちしています。

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というわけで、光太郎の名はあがっていませんが、名のあがっている人物たちとの交流の深さから、光太郎についての言及も為されることを期待しています。

新刊、というか、ハードカバーの文庫化です。

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ

2017年3月17日 集英社(集英社文庫) 森まゆみ著 定価740円プラス税

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版元サイトより
女性解放運動の象徴と言われた雑誌『青鞜』の創刊から終刊までを追った評論。
雑誌編集という観点からの分析により、平塚らいてうら“新しい女性”たちの等身大の姿を浮き彫りにする。

ハードカバーは同社から平成25年(2013)に刊行されました。のちに第24回紫式部文学賞を受賞した労作です。

智恵子に関しても随所で触れられ、非常に示唆に富むものでした。

是非、お買い求めを。

今朝、パソコンの電源を入れたところ、立ち上がらなくなりました。数年前に購入したデスクトップで、OSはウィンドウズ7。昨夜、電源を切る際に、更新プログラムがダウンロードされ、で、今朝、立ち上げようとしたら、更新プログラムの展開的な作業が入り、その後パスワード認証画面までは進んだものの、それから先に進みません。

ダメ元で家電量販店にリカバリーを依頼、さらに本体のみでニッキュッパの店頭展示品を購入しました。数年前でしたら、その場から持って帰って接続し、それほど面倒な作業もいらずにすぐ使用できたのですが、今は初期設定がどうの、アカウントがどうの、1週間かかるそうで、超参りました。

このブログはスマホから投稿できますが(それでも入力に普段の30倍くらいの時間がかかっています)、情報の収集など、スマホだと使い勝手がよくありません。何よりメールが困ります。急ぎのメールを送信される方は、フリーメールのアドレスにお願いします。

閑話休題。来る4月2日、東京日比谷公園松本楼さんで、光太郎忌日の集い、第61回連翹忌を開催いたします。

同じく4月2日、光太郎が昭和20年(1945)から002足かけ8年を過ごした岩手花巻でも、花巻としての連翹忌、さらに詩碑前祭が開催されます。

花巻市さんの『広報はなまき』3月15日号から。

高村光太郎の連翹忌
彫刻家で詩人の高村光太郎を偲んで、命日である4月2日に連翹忌法要を行います。「連翹忌」という名称は、光太郎が生前好んだ花、レンギョウに由来しています。
【日時】 4月2日(日曜日) 午後1時
【会場】 松庵寺(双葉町)
当日午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます。
【問い合わせ】花巻高村光太郎記念会(総合花巻病院内 電話0198 29 4681)

お近くにお住まいで、都内まで出て行くのはちょっと、という方、ぜひどうぞ。

パソコンが復活するまで、【折々の言葉・光太郎】はお休みさせていただきます。

先月亡くなった、埼玉県東松山市の元教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏の関係で、『産経新聞』さんの埼玉版に、光太郎の名が出ました。

東松山市、高坂彫刻プロムナードを整備 ライトアップや案内板でPR

 東松山市は、東武東上線高坂駅西口の高坂彫刻プロムナードに彫刻32体が野外展示されている彫刻家、高田博厚(1900~87年)が今年で没後30年となることを記念し、命日の6月17日に向けて彫刻のライトアップなどのプロムナード整備や、ゆかりの人によるフォーラムを開催する。
  高田は石川県生まれ。18歳で上京し、高村光太郎と出会って彫刻の道に入り、31歳で渡仏。詩人のジャン・コクトーらと交流し、彫刻の制作に没頭した。昭和32年に帰国後は東京芸術大学講師などを務めた。晩年は神奈川県鎌倉市にアトリエを構え、多くの作品を残した。
  2月に94歳で死去した東松山市の元教育長で詩人、田口弘さんが高田と交流があり、同市が高坂駅西口土地区画整理事業の一環として高田の作品を集めて彫刻通りを整備することを計画。昭和61年から国内に残る高田の彫刻175点のうち、高村光太郎や棟方志功、宮沢賢治などのブロンズから裸婦像まで32体を購入し、延長約1キロにわたって設置。同市の名物となった。
  平成29年度は一般会計当初予算案に事業費2千万円を計上。6月ごろまでに同駅西口ロータリーに幅4メートル、高さ2メートルの案内板を設置し、ロータリー内の2つの彫刻「遠望」と「大地」をライトアップ。同駅西口階段に彫刻などをPRする壁面シールなどを掲示する。
  また、命日の6月17日には市民活動センターホールで没後30年記念フォーラムを開催するほか、同1日から30日まで高坂図書館で高田のアトリエから借用した彫刻やデッサンなどを展示する企画展を開催する。
  定例会見で同事業を発表した森田光一市長は、「高田氏の彫刻が32体もあることは大変な資源であり、観光面でも文化的にも価値がある」と強調。貴重な彫刻群を改めて市民にも知ってもらい、観光客にもアピールする考えだ。(石井豊)


記事にある「彫刻プロムナード」に関してはこちら。

田口氏のお手元にあった光太郎の書や書簡類は、すべて市に寄贈されました。

さらにもう一つの「遺産」である高田博厚の彫刻群も、しっかり活用されていくようです。すばらしいですね。


【折々のことば・光太郎】

桜がいちめんにさいてゐるので、 空も地面もありはしない。

詩「校庭」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「校庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の校庭です。同校同窓会誌『家庭週報』に掲載されました。創立記念式典か何かの一コマを詠んだ詩です。


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画像は戦前の絵葉書。校庭ではなく寮ですが、桜が咲いているようです。

もうすぐ、空も地面も桜に覆い尽くされる季節となります。はやくそうなってほしいものです。

このブログ、このところ、東日本大震災ネタで来ましたが、3.11当日、当方、都内に出ておりました。

文京区立森鷗外記念館コレクション展「死してなお―鴎外終焉と全集誕生」の展示関連講演会 「与謝野夫妻の崇敬の師 森鷗外」を拝聴のためです。

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昼過ぎに千駄木に到着、鷗外記念館さんのすぐ近くにある、巴屋さんというお蕎麦屋さんで昼食を摂りました。こちらはかつて、光太郎の実家によく出前を届けていたというお店です。

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天麩羅蕎麦1,100円也をいただきました。

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いざ、森鷗外記念館へ。かつての鷗外邸、観潮楼の跡地で、近所に住んでいた光太郎も、歌会に参加したり、鷗外に呼びつけられたりで何度か訪れています。

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講演会は2階講座室での開催。定員50名の募集でしたが、ほぼ満席でした。

講師は与謝野夫妻のご研究の第一人者、逸見久美先生。演題は「与謝野夫妻の崇敬の師 森鷗外」ということでした。

文久2年(1962)生まれの鷗外と、明治6年(1873)生まれの与謝野鉄幹、そして同11年(1878)生まれの晶子。まずは鉄幹が、鷗外共々尊敬していた落合直文の紹介で、鷗外の知遇を得ます。鷗外も鉄幹の才を認め、その著書の序文を執筆してやったり、新詩社に関わったり、大正期の『明星』復刊の際にも力を貸したりしました。また、光太郎も参加した観潮楼歌会は、相反する歌人達の融和を図るというのも目的だったそうです。

009鉄幹は、鷗外を敬愛し続け、その逝去に際しては葬儀委員長を務め、歿後には『鷗外全集』の刊行に尽力しました。

そのあたり、非常にわかりやすいお話で、光太郎も登場し、興味深く拝聴しました。乱暴なたとえをすれば、後の光太郎と草野心平の関係のようなつながりが、鷗外と鉄幹にあったといえるのでは、と思いました。

その他、逸見先生のお父様で、『週刊朝日』の編集長だった翁久允の話題も出ました。ちなみに、久允あての光太郎書簡も遺っており、以前に情報をご提供いただいています。で、久允は晩年の竹久夢二を援助をし、幼い逸見先生を描いた夢二の絵も残っているとのこと(プロジェクタで拝見しました)。昨年には風間書房さんから『夢二と久允』というご著書が刊行されていました。こちらは存じませんでした。早速購入いたします。皆さんもぜひどうぞ。

下は講演会終了後、逸見先生を囲んで。当方は写っていません。
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以前にもご参加いただきましたが、4月2日の連翹忌にご参加下さるとのことで、ありがたいかぎりです。逸見先生のお話をお聴きしたい、という方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

おとなしさうで、いたづらさうで、 役に立ちさうで、遊びたさうで、 あらゆる可能性がしまつてある君のからだは 海にこぎ出すボオトのやうだ。

詩「少年を見る」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

子供に恵まれなかった光太郎智恵子夫妻でしたが、光太郎はこのように、少年や少女に対する温かい眼差しをモチーフとした詩も、けっこう書いています。

3.11を迎え、東日本大震災に関わる話題をお届けしています。今回も、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」に関わる話題を。

まずは『東愛知新聞』さんの記事です。

宮城出身の遠藤さん 豊橋でチャリティー絵画展

 東日本大震災で被災、現在、田原市で生009活する宮城県女川町出身の遠藤美貴子さん(39)によるチャリティー絵画展「MNikico.EArTExhibitio HOPE」が、豊橋市曙町のギャラリーgaraco(garage2階)で開かれている。心に傷を抱えながらも、明るい未来に向けて前向きに進もうとする、自らの気持ちや被災地への願いを込めた小品絵画を販売している。31日まで。
 遠藤さんは6年前の3月11日、地元で被災。高台へ避難し、津波から逃れることができたそうだ。避難所生活、仮設住宅での暮らしを経て、翌年、自然豊かな田原市へ移住した。「仮設住宅で1人になった時、不安や怖い気持ちがよみがえった。亡くなった友だちも、知り合いもおり、心が苦しくなった。前向きになろうと、遠くの地を選んで移り住んだ」と話す。
 避難生活中、無心になりたい気持ち、不安を払拭したい気持ちから、心のケアのために描き始めた絵。田原に移っても、心はいつも被災地にあることから、「支援をしよう」と仕事の傍ら絵を描き、ポストカードを作り、チャリティー販売を開始した。毎年この時期に合わせてチャリティー展を開いており、収益を女川や気仙沼大島など被災地へ届け続けてきた。
 いつも田原市で展示を行っており、豊橋での開催は今回が初。会場には「HOPE(希望)」をテーマに、小品20点を展示した。作品は、コーヒーで染めた画用紙に、被災地への思いを投影させた少女や子供の姿を極細の製図ペンで細密に描いたもの。復興途中で被災地が姿を変える中、昔を懐かしむ気持ちを演出しようと、紙をコーヒーで染めてノスタルジックに仕上げている。「辛さを抱えながらも上を向いて」との思いを、祈る姿、希望のニュアンスを込めた風船を持つ姿などで表現。愛らしくも少し愁いのある表情が印象的だ。
 「いのちの大切さを伝えられたら、心に悲しみを抱えながらも、被災地の人たちが笑顔で頑張っていることを知って欲しい」 と遠藤さん。会場では絵以外に、ポストカード5種、自らデザインしたTシャツも販売。収益 は女川町の「いのちの石碑プロジェクト」や気仙沼大島へ届ける予定という。


同じ件が、豊橋地区で発行されている『東日新聞』さんにも記事が載っていますが、有料会員向けサービスなので読めませんでした。

全国紙では、『朝日新聞』さんの愛知版に載りました。

愛知)田原へ移住の遠藤さん 被災地支援の絵画展

 東日本大震災で被災した故郷の復興を願ったペン010画約20点が並ぶ。作者は、宮城県女川町から田原市へ移り住んだ遠藤美貴子さん(39)。「HOPE(希望)」をテーマにした初めての個展が、豊橋市曙町の園芸店「ガレージ」内のギャラリーで開催中だ。
 2011年3月。遠藤さんは、宮城県石巻市の勤務先にいた。高台の神社へ逃げ、津波も免れたが、水がひくまで孤立した。
 震災から3日目。長男が通っていた女川町の小学校まで歩き、やっと無事を確認した。住んでいた3階建てのアパートは全壊。避難所からテント生活を経て、仮設住宅に移った。海の近くで暮らしてきた遠藤さんはサーフィンが大好きだった。しかし、あの日以降、海を見ると足がすくみ、サーフボードを手にすることができなくなった。
 1年後の12年春、「人生を暗いまま終わりたくない」と引っ越しを決意。故郷に両親を残し、長男と2人で田原市へ移り住んだ。
 「心は被災地にあった。何もせずにはいられなかった」と遠藤さん。趣味で描いたオリジナルのポストカードなどを近くのサーフショップなどで販売し、売上金を被災地へ届ける活動を始めた。
 遠藤さんは被災地で出会い、絵とサーフィンが縁で、12年9月に田原市で奇跡的に再会した長野県の画家山本拓也さん(45)とともに、14年からチャリティー絵画展を開催。2人はこの春、田原市を生活の拠点とし、結婚する約束を交わしている。
 遠藤さんにとって今回の絵画展が初個展。会場には、女性や子どもをモチーフに繊細なタッチで描かれたペン画に、コーヒーで色づけをした小さな作品が並ぶ。
 年2回、帰郷している遠藤さんは「復興はまだ道半ば。仮設住宅で暮らす人たちは心が疲れてきているように見える。自分の絵で被災地に元気を届けたい」と話す。
 会場ではオリジナルTシャツの販売もある。経費を引いた売上金は、長男の同級生らが中心となり、女川町で1千年後の命を守るためのモニュメントづくりを進めている「いのちの石碑プロジェクト」に寄付される。31日まで。木曜定休。(松永佳伸)

昨年暮れになくなった岡山市の学校法人ノートルダム清心学園の元理事長・渡辺和子さんご執筆のエッセイ集『置かれた場所で咲きなさい』を思い起こしました。

ただし、自主的な避難とは異なり、原発事故に伴う避難指示で、やむなく「置かれた場所」に留まらざるをえない皆さんも、まだまだたくさんいらっしゃいます。その無念さは、いかばかりか……。しかし、だからといって、咲かずに腐るのみではいけないような気もします。もちろん、そこに強制的に置かれたことに対する怒りは忘れてはいけないと思いますが……。


ちなみに今日、3月13日は、光太郎134回目の誕生日です。

戦後の7年間、自らの戦争協力責任を反省し、花巻郊外太田村の山小屋に隠遁生活を送った光太郎。あえて過酷な環境に身を置き、自らの天職と定めた彫刻も封印しました。しかし、村人との関わりなどの中で、そして詩歌や書、さらに生涯の締めくくりとして、封印を解いて取り組んだ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などで、立派な花を咲かせました。

置かれた状況は異なりますが、こうした光太郎の生き様も一つの指針になるかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

自由と闊歩との外何も知らない、 勇気と潔白との外何も持たない、 未来と光との外何も見ない、 いつでも新らしい、いつでもうぶな魂を 寂寥の空気に時折訪れる 目もはるかな宇宙の薫風にふきさらして、 獅子はをなめてゐる。
詩「傷をなめる獅子」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「清廉」、「白熊」に続く、連作詩「猛獣篇」の第三作です。獅子がなめている傷は、「執念ぶかい邪智」を持った人間が、「あの極楽鳥ののむれ遊ぶ泉のほとり 神の領たる常緑のオアシスに、 水の誘惑を神から盗んで、 きたならしくもそつと仕かけた 卑怯な、黒い、鋼鉄のわな」によるものでした。まるで利権まみれの原発のようですね。

昨日は3.11。東日本大震災から6年が経過しました。

先日もこのブログで書きました、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」の件で。

まず、昨日の未明、NHK総合さんで放映された「被災地からの声 宮城県女川町」を拝見しました。

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進行は津田喜章アナウンサー。23分間の番組でしたが、はじめに「いのちの石碑」の件が取り上げられました。

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かつて光太郎文学碑が建っていたあたりの映像です(下の画像も)。

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そして、高台に建てられた「いのちの石碑」。

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その他、「女川光太郎の会」現会長の須田勘太郎氏がお住まいの、同町出島(いずしま)のレポートもありました。震災前、約500人いた島民は約90人に激減、小中学校も統合で無くなってしまったそうです。当方、女川には年に一二度お邪魔していますが、島嶼部には行ったことがありません。いずれ、須田氏に案内していただこうと思いました。

6年前の映像とともに、他にも女川町民の皆さんの「声」が多数。見応えがありました。


昨日は、『朝日新聞』さんの別刷り「東日本大震災6年」でも、「いのちの石碑」が紹介されました。

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プロジェクトのメンバーで、海上保安官を目指すという、山下脩さん。巨大防潮堤の建設という道を採らなかった女川町のキャッチフレーズ「わたしたちは海と生きる。」を地でいくようで、ジーンと来ました。

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再びNHK総合さんで放映で放映された「被災地の声」から、出演された阿部由季さんの「声」。

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まさしくそのとおりですね。

明日も「いのちの石碑」関連で。


【折々のことば・光太郎】

首が欲しい、 てこでも動かないすわりのいい首

詩「首狩」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この後、「○○な首」「××の首」というフレーズが10行続きます。「なんじゃ、そりゃ?」という感じですが、種明かしをすれば、彫刻のモデルとしての「首」を求めているわけです。いずれご紹介しますが、光太郎、電車に乗っても他の乗客の「首」が気になってしかたがない、的なことも発言しています。天性の造型作家としての、ある意味、宿業のようなものですね。

今日は3月11日。平成23年(2011)の東日本大震災から、6年が経ちました。あの日、亡くなった方にとって、七回忌となります。改めまして、ご冥福をお祈り申し上げます。

そして、復興への歩み。さまざまな場所で、いろいろな取り組みが為されていますが、被災地の一つ、福島で、毎年、この時期に行われているイベントです。

光太郎詩「あどけない話」の一節から採られ、福島では復興の合い言葉となっている「ほんとうの空」(光太郎詩では「ほんとの空」)の語が、サブタイトルに使われています。

第10回声楽アンサンブルコンテスト全国大会-感動の歌声 響け、ほんとうの空に。- 

声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名の少人数編成の合唱団によるコンテストです。
平成19年度の第1回大会から毎年、福島県で開催されており、全国から集まったトップレベルの合唱 団が、中学校、高等学校、一般の各部門で競います。各部門の金賞受賞団体(上位5位)は、最終日の 本選に出場。部門の枠を超え、総合第1位を目指して華麗に競い合います。

期 日 : 平成29年3月17日(金)~20日(月・祝)
会 場 : 福島市音楽堂大ホール 福島県福島市入江町1-1

主 催
福島県 福島県教育委員会 声楽アンサンブルコンテスト全国大会実行委員会

共 催
 全日本合唱連盟 全日本合唱連盟東北支部 福島県合唱連盟 福島市 福島市教育委員会

スケジュール
 3月17日(金)   部門別コンテスト(中学校部門)、表彰式
 3月18日(土)   部門別コンテスト(高等学校部門)、表彰式
 3月19日(日)   部門別コンテスト(一般部門)、表彰式
 3月20日(月・祝) 各部門金賞受賞団体による本選       特別企画、表彰式
 3月21日(火)   海外団体との文化交流ワークショップ
 ※大会各日、開場9:30 開演10:00

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今年で10回目を迎えるこの大会、当初は「感動の歌声 響け、ほんとうの空に。」のサブタイトルは冠されていませんでした。それが、平成23年(2011)の東日本大震災の年に予定されていた第4回大会はやむなく中止となり、平成25年(2013)の第6回大会から、震災からの復興を祈念する意味もあって、サブタイトルが冠されています。

ただ、残念ながら、事前に出場団体は公表されるものの。演奏曲目が発表されません。

音楽には、人を癒したり、奮い立たせたり、活動を円滑にしたりと、さまざまな効用があります。昨日も、たまたま観ていた震災関連の番組の中で、あの日、高台に避難した小学生達が、卒業式で歌う予定だった歌を合唱し、皆で励まし合ったというエピソードが紹介されていて、ジーンときました。

はっきりいえば、6年経っても先の見えない復興の現状ですが、それにくじけることなく、時に音楽を心の糧として、進んでいって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

さあ行かう、あの七里四方の氷の上へ。 たたけばきいんと音のする あのガラス張の空気を破つて、 隼よりもほそく研いだ此の身を投げて、 飛ばう、 すべらう、 足をあげてきりきりと舞はう。

詩「氷上戯技」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

スケートを題材とした詩です。身長180センチ超の偉丈夫だった光太郎ですが、たしなんだスポーツは、記録に残っている限り、ボディービル的な「サンドー式体操」と、意外や意外、スケートでした。留学中のパリでもスケートに興じていたそうです。

まだまだ先の見えない震災からの復興ですが、「さあ行かう」という気概を持って、前に進んで行ってほしいものです。

音楽同様、詩にも人を癒したり、奮い立たせたりする力があると思います。さまざまな光太郎の詩が、復興支援へのエールとなることも、祈念いたしております。

昨日、卒業式に関する話題を載せました。各学校では卒業シーズンでもありますが、来年度入学生の入試シーズンでもありますね。

今月7日に行われた群馬県公立高等学校入試の社会の問題で、光太郎の父・光雲の「老猿」が問題に出されました。

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模範解答として提示されている正解は、以下の通り。

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(例)とありますので、「西洋の技法」以外でも○となるのでしょう。「写実的な作風」とか。そのあたりは採点者向けのマニュアルに記されているはずです。「写実的な作風」と書いて×になったら、当方は暴れます(笑)。

しかし、中学生には難問かな、という気もします。おそらく、中学校の社会の授業で、ここまで掘り下げて扱うことは稀でしょうから。ただ、鋭い生徒は、大問としての設定「「世界の中の日本」というテーマで調べたことをまとめ……」という部分、そして文明開化に湧いた「明治」という時代などから類推することができたのではないでしょうか。

光雲は、おそらくどの教科書会社でも取り上げていると思います。しかし、ただ、「明治の文化、岡倉天心、横山大観、黒田清輝、高村光雲、夏目漱石、森鷗外、与謝野晶子……暗記しろ」ではなく、それぞれの人物の生き様まで(せめて概略でも)、授業で扱ってほしいものです。


文部科学省で定めている「中学校学習指導要領」の社会編、歴史的分野で掲げている目標を抜粋します。

(2) 国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産を,その時代や地域との関連において理解させ,尊重する態度を育てる。

(3) 歴史に見られる国際関係や文化交流のあらましを理解させ,我が国と諸外国の歴史や文化が相互に深くかかわっていることを考えさせるとともに,他民族の文化,生活などに関心をもたせ,国際協調の精神を養う。

さらに、それぞれの「解説」。

(2)に関しては、

 歴史を具体的に理解させるためには,歴史の展開の中で大きな役割を果たした人物や各時代の特色を表す文化遺産を取り上げることが大切であることを述べている。
 人物の学習については,歴史が人間によってつくられてきたものであることを踏まえて,国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物を取り上げ,主体的に社会を変革しかつ歴史の形成に果たした役割について学ぶことが大切である。その際,人物の活動した時代的背景と地域とを関連させながら,その果たした役割や生き方を具体的に理解させる必要がある。

とあり、(3)の解説は、

 「歴史に見られる国際関係や文化交流のあらましを理解させ」る学習については,国際化の進展の著しい社会に生きる生徒に,他民族の文化や生活などに関心をもたせ,我が国と諸外国の歴史や文化が相互に深くかかわっていることを考えさせて,国際協調の精神を育成することが求められる。

となっています。

これらを踏まえると、上記の「老猿」関連の設問、的確な問題ですね。

それにしても、改めて「学習指導要領」を見てみると、かなりいいことが書いてあります。「我が国と諸外国の歴史や文化が相互に深くかかわっていることを考えさせるとともに,他民族の文化,生活などに関心をもたせ,国際協調の精神を養う。」など、まさしくその通りです。


中学校ではありませんが、それと真逆の、「よこしまな考え方を 持った在日韓国人・支那人」などと書かれたヘイト文書を平気で保護者に配布し、「竹島・北方領土を守り、日本を悪者として扱っている中国・ 韓国が心改め、歴史教科書でウソを教えないようお願いいたします!」と、運動会で選手宣誓させている教育機関があるなど、論外ですね。だいたいそういうよこしまな人物に限って「教育勅語」をありがたがる、というのも不思議です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

教養主義的温情のいやしさは彼の周囲に満ちる。 息のつまる程ありがたい基督教的唯物主義は 夢みる者なる一日本人(ジヤツプ)を殺さうとする。

詩「白熊」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

明治39年(1906)から翌年にかけて、ニューヨークで暮らした体験を下敷きにしています。週給7ドルで、彫刻家ボーグラムの助手を務め、休日に訪れるブロンクス・パークの動物園で目にする、やはり異邦から来た象や白熊に、全ての面で「合理的」な事柄を優先するアメリカ社会になじめない自分を仮託しています。

この詩は、単に「敵国」を非難しているという理由から、後に編まれた翼賛詩集『記録』(昭和19年=1944)に再録されました。

昨日のこのブログで、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」の件を書きました。

最近の状況がどうなっているかと思い、調べてみたところ、まず、今月初めに地方紙『河北新報』さんに載った記事がヒットしました。 

<卒業式>津波で祖母犠牲「成長見守って」

 東日本大震災の教訓を未来に伝えるため、宮城県女川町003の津波到達点に「いのちの石碑」を仲間と建立してきた鈴木美亜さん(18)=宮城県石巻市=が1日、石巻西高(東松島市)を卒業した。客室乗務員(CA)の夢を抱き、7月から米国の大学に語学留学する。津波で亡くなった祖母に「成長を見守っていてほしい」と祈り、新たな一歩を踏みだした。
 鈴木さんが生まれ育ったのは女川町尾浦地区。同じ集落にあった祖母トシミさん=当時(87)=の自宅は比較的高い場所にあり、チリ地震津波(1960年)でも被災しなかった。
 6年前のあの日、鈴木さんの父親が祖母を迎えに行ったが、祖母は「大丈夫だから」と自宅にとどまった。津波に見舞われ、戻らぬ人となった。
 強くて優しい、憧れの存在でもあった祖母との突然の別れに、鈴木さんは葬儀で涙が枯れるほど泣いた。
 「もう津波で命を落とす人を出したくない」
 2011年4月に入学した女川一中(現女川中)で、同じ思いを持つ同級生らと津波から命を守る活動を始めた。合言葉は「1000年後の命を守る」。
 町内の21の浜に石碑を建立する「いのちの石碑」プロジェクトや、被災体験や津波対策案などをまとめる「女川いのちの教科書」作りなどに携わった。
 CAは幼い頃からの夢。ボリビア人の母の帰郷で飛行機に乗ると、日本語が不得手な母にも優しく丁寧に対応する姿に憧れた。
 留学を決断したのは昨年12月。親や高校の先生には反対された。国内の大学で学ぶことも考えたが「CAになるために本場で語学を学びたい」という思いは捨てきれなかった。
 「なれるよ、みーちゃんなら」。以前、夢を語ったときに祖母が掛けてくれた言葉が頭をよぎった。
 約6年間、本音で語り合ってきた女川の仲間たちも後押ししてくれた。「もし挫折しても、女川のみんなが支えてくれると思う」
 青い海を漁船が行き交う尾浦の風景は、古里を遠く離れても心に深く刻まれている。米国で出会う新たな友人にも震災の経験を伝えていくつもりだ。1000年後の命を守るために。


あの日、小学6年生だった子供達も、高校を卒業する年令になりました。つらいこともたくさんあったとは思いますが、逆に、あの経験がその後の人生のプラスになっていくこともあると思います。


さらに今朝の『朝日新聞』さんの宮城版。

宮城)東京から現場に行き、被災者と心通わせる

 海を望む高台。向けられた録音機に、高校004生が訥々(とつとつ)と言葉を吹き込む。「あれから6年。震災を経験した人でも記憶が薄れている。どう伝えていくか。自分たちが頑張る」
 2月4日、女川町。TOKYO FMの復興支援番組「LOVE&HOPE」を担当するフリーディレクター、黒川美沙子さん(43)らが震災6年特番の取材に訪れていた。「大きな地震が来たら、この上まで逃げて」と呼びかける「女川いのちの石碑」。建てている女川中学校の卒業生の思いは3月10日、電波に乗って関東へと届けられる。
 女川の訪問は30回をくだらない。彼らを取材するのは2度目。指導してきた教員の阿部一彦さん(50)は「1回だけ取材に来るマスコミは何百人といる。でも黒川さんは、今の自分たちの生の声を、ずっと聞いてくれている」。
 番組は月曜から金曜の午前6時半から10分間。被災者や復興を支援する人たちが出演し、全国のFM38局をつないであの日の体験、今の思いが語られる。放送は8日、1432回を数えた。
     ◇
 「被災地と全国をつなごう」と番組が始まったのは、2011年4月4日。「心と体のケア」をコンセプトに、当初は低体温症の予防や上手な栄養の取り方を、避難所に向け発信するなどしていた。
 転機は1週間後。初めて石巻に入った。不明者を捜す自衛隊の車が走り、がれきが折り重なり、電気も水道も不通のまま。広がる光景は想像を絶した。
 倉庫で支援物資の仕分けをしている中年の男女がいた。津波に襲われ、かろうじて立つ自宅の2階でそれぞれ暮らすという。でも「ゼロからでなく、一からのスタート。命があるんだから」と取材に明るく答え、「また来てね。次はバーベキューしようね」と笑顔までくれた。
 泣きたくてどうしようもないはずなのに、笑っている。家族のため、地域のため、前を向かざるを得ない。その強さ、かなしさ――。現場に行かなければすくい取れない、ありのままの被災地を伝えよう。番組のつくりは、大きく変わった。
     ◇
 スポンサーはつかない。コスト管理の厳しい民放。震災3年を過ぎると、予算が4割ほど削られた。それでもスタッフは朝5時半に集合し、片道5時間。車を駆って月に1度は東北に行く。
 何度も出演してもらった福島県沿岸部の40代の男性。両親と子ども2人が犠牲になった。父と長男が見つからず、今も行方を捜す。震災5年の昨年、取材に訪れたパーソナリティーに「5年も経ったのに、いつまでやるんですか」と、あえて聞いてもらった。男性は声を荒らげ、でも涙ながらに「やめるつもりはない」と言い切った。
 震災から10年後、同じ質問をしたら何を語るのだろうか。心を通わせ、追っていきたい。
 仮設住宅を出て復興した、という人もいれば、家族を失った悲しみから立ち直っていない、という人もいる。被災者一人ひとりにある物語。そして、あのとき起きたこと。話を聞けば、伝え続けなければいけないという思いがわき上がる。「だから、番組は終われないですよね」(桑原紀彦)


記事にあるTOKYO FMさんの番組、明日には特番として拡大枠でオンエアされます。 

特別番組 『LOVE&HOPE Special忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』

放送日時: 3月10日(金)16:00~16:55
放送局: TOKYO FM
出演者: 高橋万里恵  片田敏孝教授(群馬大学大学院教授・広域首都圏防災センター長)

1000年後の子どもたちの為に。 女川005の高校生による命のバトンを未来に繋ぐ活動に密着 LOVE & HOPE Special 『忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』

TOKYO FMでは人と人とのこころのつながりを大切にし、問いかける「HUMAN CONSCIOUS~生命を愛し、つながる心」をステーション理念として掲げており、毎年3月11日に、6年前に発生した東日本大震災を風化させないために、特別番組を放送しています。
震災6年目となる今年は、3月11日の前日である10日(金)16:00~16:55に『LOVE&HOPE Special忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』を放送致します。
パーソナリティは、「釜石の奇跡」を生み出した防災研究の第一人者、群馬大学大学院の片田敏孝教授と、朝のワイド番組『クロノス』パーソナリティの高橋万里恵。東北の若い世代が伝え、残そうとしている「震災の記憶と記録」を紹介します。

◇1000年後の子どもたちのために…「女川 いのちの教科書」の取り組みとは?

東日本大震災から6年。震災の記憶が薄れゆく中、番組が密着したのは、宮城県女川出身の高校3年生による「1000年後のいのちを守るプロジェクト」です。震災当時小学校6年生だった彼らがまず手掛けたのが「いのちの石碑プロジェクト」。「ここより上に逃げてください!」という文字を刻んだ石碑を町内の津波到達地点に建立しました。困難だったのは土地の取得。「子供たちの1000年先を見据える活動に、一人、また一人と、自分の土地を提供する町民が現れた。」そう語るのは、子どもたちの指導にあたった阿部一彦先生(震災当時女川第一中学校教員)です。
そして、石碑の次に彼らが取り掛かったのが、「いのちの教科書」の作成です。「子どもが教科書で数学を学ぶように、女川のこと、地震や津波のことを学ぶ教科書を作りたかった。」この3年間で100回を超えるミーティングを重ね、試行錯誤の末、「女川 いのちの教科書(中学生版)はいままさに、完成のときを迎えています。
震災当時小学生だった彼らがこの6年間どんな思いでプロジェクトに関わってきたのか。大切な人を亡くしたもの。喪失感に悩んだもの。生きていることが苦しくなったと語るメンバーもいます。プロジェクトに関わる想いは違えども、願いはひとつ。「一人でも多くの命ではなく、一人の命も失わないように、この震災の記憶と記録を1000年後まで語り継ぎたい」そして旅立ちの季節。この春高校を卒業し、それぞれの夢に向かって飛び立つ彼らが選び取った進路と未来の夢とは?一人ひとりの選択と決意はそのまま被災地の希望の灯です。


関東地方の皆様、それから地域局で提携があって放送を聴ける皆さん、ぜひお聴き下さい。


【折々のことば・光太郎】

又新しいラツシユ・アワアに騒然たる人間の急迫の力を思ひ むしろ猛然として、 この元気溢れるスケルツオに短音の銅鼓(テムパニ)を打ち込むのである。 「さあ、やるぞ」

詩「月曜日のスケルツオ」より 
大正14年(1925) 光太郎43歳

「スケルツオ」は現代仮名遣いだと「スケルツォ」。音楽用語で「諧謔曲」と訳し、基本的に速い3拍子、ゆったりした部分との差異を対比させ、激しい感情を表したりします。

この詩の前半は、光太郎が彫刻のモデルに雇った少女のおしゃべりを引用しています。そのとめどない、他愛ない、おそらく早口でまくしたてるおしゃべりを、スケルツォと比喩しています。「やかましいから黙っていろ」という意味合いではなく、むしろ少女の生命感溢れるおしゃべりを心地よくとらえ、そこにかぶせる自らの「さあ、やるぞ」の一言を、ティンパニーの一打に例えてもいます。

「さあ、やるぞ」。いい言葉ですね。震災からの復興もそうですが、それぞれの置かれた場所で、前向きに、決然と、そして人の道を踏み外すことなく、「さあ、やるぞ」の声に満ちる世の中であってほしいものです。

3.11が近づいて参りました。このところ、メディアでも取り上げて下さっていて、記憶の風化の防止に役立っているような気がします。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して、あの日、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」。震災の年に女川第一中学校(当時)に入学した生徒たちが、さまざまな困難を乗り越えて取り組んでいます。


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3.11間近ということで、久々にテレビ番組での紹介があります。東北地方では、今月2日(木)の午後に放映されたそうですが、今回は全国放送です。

被災地からの声「宮城県女川町」

NHK総合1 2017年3月10日(金) 26時48分~27時11分=3/11(土)午前2時48分~3時11分

今回訪ねたのは、宮城県女川町。離島の女性たちが震災後に作った島唄。6年を前に故郷への帰還。津波到達点に石碑を建てる高校生▽過去の出演者を再び訪ねる「あの声は今」

震災直後から、被災地で出会った方々の「いま一番言いたいこと」をそのままお伝えしています。被災者一人一人に寄り添った丁寧な取材で、被災地の今をお届けします。番組では、ご意見・お便りを募集しています。NHK仙台放送局へ郵送またはEメールでお送りください。詳しくは、NHK仙台放送局「被災地からの声」番組公式ホームページをご覧ください。

出演 津田喜章アナウンサー

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深夜、というより未明のオンエアですが、ぜひご覧下さい。


その他、震災関連の番組は数多く放映されます。できるだけご覧下さり、「記憶の風化」防止につなげていただいたいものです。


【折々のことば・光太郎】

孤独に酔ひ、孤独に巣くひ 茯苓(ふくりやう)を噛んで 人間界に唾を吐く
詩「清廉」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎自身が「猛獣篇」と名付けた連作詩の第一作です。謳われているのは、架空の妖怪「かまいたち」。荒ぶる魂、消し得ない怒りを抱くものは、光太郎にとってすべて「猛獣」です。関東大震災後の、露わになった社会矛盾に対し、こうした「猛獣」に仮託して、自らの怒りを表出して行くのです。

花巻郊外、豊沢川沿いに点在する花巻南温泉峡。昭和20年(1945)から7年間を稗貫郡太田村(現・花巻市太田)の山小屋で過ごした光太郎は、たびたびこの地の温泉を訪れていました。老境にさしかかり、結核にも蝕まれていた身体を癒す、一番の妙薬だったのかも知れません。

そのうちの大沢温泉さんと鉛温泉さんが、このところ、テレビ番組で立て続けに取り上げられています。

先週土曜日(3/4)、NHK BSプレミアムさんで放映された「ぜんぶ、温泉。 岩手・花巻を浴びる」。

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まずは大沢温泉さん。


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語りは伊武雅刀さん。とぼけた感じがよかったです。

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名物の混浴露天風呂「大沢の湯」にはじまり、別館・菊水館の「南部の湯」にも。

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湯治部の部屋。

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さらに鉛温泉さん。

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立ったまま入る深さ125㌢の「白猿の湯」。

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実に「ゆるい」感じの番組で、見ているだけで癒されました(笑)。ぜひ再放送を望みます。


再放送といえば、それぞれたびたび再放送されている大沢温泉さん、鉛温泉さんを取り上げた番組の再放送があります。

まず、大沢温泉さん。

美の壺 アンコール「風雪に生きる 東北の温泉」

NHKBSプレミアム 2017年3月9日(木)  6時30分~7時00分

3つのツボで観賞指南する新感覚美術番組。今回は「東北の温泉」。色とりどりの濁り湯から、湯船の木肌の味、野趣あふれる露天風呂まで。

冬の東北、一面の雪景色に彩られた山あいに、今日もモクモクと湯気が立ち上る。美しく温かい、東北の温泉の最高の姿を集めて東北縦断! 福島・吾妻山から湧き出る源泉を、淡い空色の「にごり湯」に変える、温泉の魔法使い・湯守の技とは? 長い年月をかけて「湯舟」をしっとり輝かせる高級木材・青森ヒバの秘密とは? 岩手のわびた「湯治場」には風雪に耐えながら湯と共に暮らしてきた、おおらかな日本の原風景がありました。

案内役:草刈正雄 語り:木村多江

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後半に、写真家の北井一夫氏による大沢温泉さん湯治部のレポートがあります。日本の原風景がここにある、的な。

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実は今日も再放送していました。


続いて鉛温泉さん。

スギちゃんのいい湯だぜぇ #11岩手 花巻温泉郷編

BS12トゥエルビ 2017年3月14日(火)  20時00分~20時30分

スギちゃん×姿勢調律士が岩手の名湯「花巻温泉郷」を巡る。カリスマもオススメ!「おもてなし温泉」を紹介。女性がよろこぶ温泉宿&1度で3度おいしい温泉宿を堪能。

温泉ソムリエの上位資格「カリスマ温泉ソムリエ」を持つお笑い芸人スギちゃんが数ある温泉の中で一生に一度は浸かりたい、全国の極上温泉を巡る!!旅のお供の野口早苗(姿勢調律士・温泉ソムリエ)が紹介する入浴中でもできる簡単ストレッチでさらなる健康効果も。これまで紹介されてきた全国の名湯&秘湯もこの番組を見れば新鮮な驚きと発見が満載!果たしてカリスマ温泉ソムリエ・スギちゃんはどんな温泉を選ぶのか!?

出演:スギちゃん、野口早苗(姿勢調律士・温泉ソムリエ)

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もう一つ。

明日へ1min.「おいで、東北」23 君に見せたい東北がある~冬 岩手県花巻市編

NHK総合1・東京 2017年3月8日(水)  14時54分~14時55分

「君に見せたい東北がある」番組特設サイトに旅プラン掲載中!見る、食べる、体感する楽しみがいっぱいの花巻へ、「おいで・東北」。

東北各地を舞台に、地元を愛する男性が方言をまじえながら、おすすめのスポットをご案内!今回は花巻編。宮沢賢治のふるさと花巻には、町中に賢治のメルヘンあふれる世界が。大のそば好きだった賢治にちなみ、名物わんこそばに挑戦。また立ったまま湯船につかる温泉など、賢治も楽しんだ世界をたっぷり紹介。見る、食べる、体感する楽しみがいっぱいの花巻へ「おいで、東北」。番組特設サイトに旅プラン掲載中!

出演 「おいで、東北」花巻編の地元案内人…小森林克弥

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1分間番組です。2分間のバージョンもあるそうですが、そちらは拝見したことがありません。イケメンのお兄さんがナビゲーター役。デルモ系かなと思ったら、何と花巻市の職員の方だそうです。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、 ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、 ただ一心に草を喰ふ。

詩「春駒」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

親友の水野葉舟が隠棲していた、成田三里塚にあった御料牧場を謳った詩です。跡地は成田三里塚記念公園となり、光太郎に触れる展示も為されている御料牧場記念館、光太郎詩「春駒」碑などがあります。

「自然」を愛した光太郎、ここでは飼われている馬ですが、こうした動物にもシンパシーを感じていたようです。

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一昨日、町田市民文学館ことばらんどさんで開催中の展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-拝見し、その後、JR横浜線、中央線、西武線と乗り継いで、小平市に向かいました。

向かった先は小平駅前のルネこだいら(小平市民文化会館)さん。

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こちらで、小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」の関連行事「音楽と巡るロダンの世界」が開催されます。

先月の関連行事は同館学芸員の藤井明氏による美術講座「ロダンと近代日本彫刻」で、会場は同館近くの放送大学東京多摩学習センターさんでしたが、今回は音楽コンサートを含むということで、こちらが会場でした。

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平櫛田中が晩年を過ごした地ということで、館内にも田中彫刻が。岡倉天心の像です。平成25年(2013)に「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」を巡回して下さった、岡山井原市の田中美術館さんの前にも、同じ像が立っていました。大きさが違うようですが。

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さて、第1部は日本大学芸術学部の髙橋幸次教授によるご講演。題して「ロダン歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」。

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豊富な画像をプロジェクタで投影しつつ、ロダンの人となり、彫刻上の特質、具体的な作品などについて、熱のこもったお話でした。ただ、残念なことに、予定時間をオーバーしてしまい、光太郎がからむ「日本のロダニズム」についてのお話がほとんど無くなってしまいました。終演後、髙橋先生、反省の弁を口にされていましたが、よくあることです。当方も経験があります(笑)。

第2部は、ソプラノの斉藤智恵美さん、ピアノの竹内綾さんのかわいらしいお二人組ユニット「ラ・ペスカ」による演奏。ユニット名の「ラ・ペスカ」はイタリア語で「桃」。ちなみにお二人は小中高とご一緒だったそうで、その小学1年生の時の学級名「1年桃組」にちなむとのこと。

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前半は「ロダンと同時代のフランス音楽を中心に」ということで、ピアノソロ、ピアノ伴奏による歌唱を織り交ぜ、ドビュッシー、サン=サーンス、フォーレ、ラヴェル、グノー。当方の大好きなラインナップでした。ここにサティと、一世代後ですがプーランクが入れば言うことはありません(笑)。

「ロダンと同時代」ということは、光太郎とも同時代なわけで、光太郎、このメンバーの中では特にドビュッシーを高く評価していました。

ロマン・ロランの書いた「クロオド デユビユツシイの歌劇-ペレアス、メリザンド-」の翻訳(明治44年=1911)も手がけていますし、親友だった陶芸家バーナード・リーチのデッサンやエッチングを褒めるのにドビュッシーを引き合いに「其の優雅な美しさを持つ或作品にはドビユツシイの「アラベスク」の美を思はせるものもある」(「リーチを送る」大正9年=1920)と書いています。また、昭和8年(1933)に岩波書店から刊行された『岩波講座世界文学7 現代の彫刻』の中では、ロダンの出現にからめ、19世紀後半のフランスの芸術界を評して「フランスそのものが自分の声を出しはじめたのである」とし、「音楽に於けるドビユツシイ、詩に於けるマラルメ、皆その意味に於いてフランス再発見の声である」と書いています。

また、光太郎は明治末に「詩歌と音楽」という評論を2篇書いています。一つ目は明治43年(1910)発行の雑誌『趣味』に掲載、もう一つは同年の雑誌『常盤木』に発表しました。自身の滞仏体験を元に、ヴェルレーヌやボードレールの詩に曲を付けた音楽などについて述べていますが、この中でもドビュッシーを高く評価し、ラヴェルやグノー、フォーレにも言及しています。

その他、朋友・石井柏亭の絵を評するのにサン=サーンスの音楽を用いたり、フォーレは「パンの会」を謳った詩に登場させたりもしています。詩といえば、一昨日のプログラムには入っていませんでしたが、やはりフランスの一世代前のベルリオーズは繰り返し詩で扱っています。

だから、というわけではありませんが、当方、近代フランスものは大好きで、フォーレやグノー、プーランクの作品は自分の音楽活動でも扱いました。そんなわけで、大満足でした。

後半は、演奏者お二人もおっしゃっていましたが、ちょっとこじつけっぽく(笑)「ロダンの作品が置かれている国へ、世界を巡る旅」。こちらは楽しい演奏でした。


小平市平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」そのものは、今週末まで。ぜひ足をお運びください。


さて、美術館・文学館関係の皆さん。光太郎をメインにする企画展等の場合、こうした関連行事での講演者(当方を含め)、演奏家、朗読家の方々は当会会友としてたくさんご紹介できます。ご用命下さい。


折々のことば・光太郎】

なんのかんのと言つてゐるうちに どこもかもまつ青ではないか

詩「新茶」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「新茶のはしりがもう出たね」で結ばれるこの詩、五月の風景を「どこもかもまつ青」と謳っています。

3月となりました。比較的温暖なここ房総半島でも、さすがにまだ「どこもかもまつ青」とは行きませんが、庭の木々や書斎の鉢植えには、続々と新芽が出ています。「山笑う」季節、そして「どこもかもまつ青」も、もうすぐですね。

一昨年、碌山美術館さんで戴いてきたヤマブキ。

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昨年、二本松のレモン忌でいただいたグロキシニア。

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光太郎終焉の地・中野アトリエの庭に咲き、光太郎が「かわいらしい花」だと愛で、その葬儀の際には一枝コップに挿され、「連翹忌」の由来となった連翹から株分けして貰ったもの。

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何のゆかりもありませんが(笑)、アジサイ。

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ミモザは既に花が。

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ユキヤナギも咲き始めました。

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昨日は、東京多摩地区を歩いておりました。まずは町田、そして小平。町田と小平では、あまり近くはないのですが、千葉の自宅兼事務所から見れば方角的には同じということで。

町田での目的地は、町田駅近くの町田市民文学館ことばらんどさん。こちらで開催中の展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-」を拝見して参りました。

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野田宇太郎は福岡県小郡市出身。主に戦前は詩人として、戦後は編集者、文芸評論家として活躍しました。戦後の活動は大まかにいうと二本柱でした。

一つは「文学散歩」の提唱。今ではあたりまえのようになった「文学散歩」という語や概念は、野田の提唱によるものが大きいようです。背景には、太平洋戦争で焦土と化した東京を見て、失われゆく「トポス」の記憶の記録、という意味合いがあったようです。昭和26年(1951)から、『日本読書新聞』に「新東京文学散歩」の連載が始まり、GHQによる規制で自由に写真撮影が出来なかった頃には、石版画家の織田一麿に挿絵を依頼、のちには野田自身の写真により、その対象は全国に及びました。

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左が単行本化された『新東京文学散歩』、右は野田愛用の「文学散歩」用品です。

そうした活動は文学碑建立などにも向けられ、師と仰いだ木下杢太郎の碑を静岡伊東に建てる際に奔走しています。野田はこの杢太郎碑や、博物館明治村の開設などで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む公園一帯の設計を手がけた建築家・谷口吉郎とも深く関わりました。

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以前にも書きましたが、野田が主宰した雑誌『文学散歩』の昭和36年(1961)10月号で、「特集 十和田湖」を組み、草野心平や谷口吉郎らの寄稿を仰いで光太郎最後の大作「乙女の像」を紹介しています。

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余談になりますが、この中で、谷口は「乙女の像」の台座に使われた石材を「福島産の黒ミカゲ」と記しています。谷口は他に昭和34年(1959)・筑摩書房発行、草野心平編集の『高村光太郎と智恵子』に収められた「十和田記念像由来」では、「石材は福島県産の折壁石で、表面はつやつやと鏡のように磨いてある。」との記述も。しかし、「折壁石」は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来するブランドで、どうもどこかで勘違いがあったようです。

追記:ちゃんと「岩手産のミカゲ石」と書かれた制作当時の新聞記事を見付けました。
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除幕直前、昭和28年(1953)11月15日の『毎日新聞』です。

閑話休題。野田と谷口の深い縁というのは、当方、存じませんで、「そうだったのか」という感じです。実際にこういう展示を見ると、いろいろ発見があるものです。


野田の活動のもう一つの柱は、「パンの会」の研究。「パンの会」は明治末、野田が師と仰いだ木下杢太郎や光太郎などが中心になって持たれた芸術運動です。光太郎の滞欧中から開かれ、帰国後の光太郎はすぐその波に飲み込まれ、後には発起人にも名を連ねました。文芸誌『スバル』、美術誌『方寸』に寄った若い芸術家の集まりを中心としましたが、演劇界からの参加も目立ちました。

野田はまず、昭和24年(1949)に六興出版社から『パンの会』を上梓、さらに同26年(1951)には増補版として『日本耽美派の誕生』を河出書房から出版しています。そこにも「文学散歩」同様、失われゆく記憶の記録という側面がありました。

そこで今回の展示では、「パンの会」関連も充実していました。光太郎から野田に宛てた、『パンの会』受贈の礼状も展示されていました。

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こちらは野田の故郷・福岡小郡の野田宇太郎文学資料館さんの所蔵。その存在を数年前に突き止め、文面などは同館にご教示いただいたのですが、現物を見るのは初めてでした。昨日は、もしかするとこれも並んでいるのではないか、と思って見に行ったというのが大きいのですが、ビンゴでした。

その他、ヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と親しく交わった木村荘八が描いた油絵「パンの会」。

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こちらは以前に東京ステーションギャラリーさんで開催された「生誕120年 木村荘八展」でも拝見しましたが、今回はこの絵に関する木村のメモ(複製)も展示されており、光太郎を含め、描かれた人物一人一人が特定でき、興味深く拝見しました。

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会場出口近くでは、昭和40年頃に撮影されたと思われる野田と女優の故・小林千登勢さんとのトークが上映されていました。題して「千登勢の文学散歩 奥の細道」。テレビ番組だったのか、モノクロの映像で、スタジオでのトークと、深川、白河、平泉などの映像にのせての野田の解説が収められていました。

ちなみに帰ってから調べましたところ、光太郎智恵子にも触れた「犬吠岬」篇も制作されており、新潟県立生涯学習推進センターさんに収蔵されているようです。そちらも見たかったと思いました。

帰りがけ、図録を購入。

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A4判並製で30ページ。分厚いものではありませんが、よくまとまっています。これで300円は超お買い得でした(笑)。

不謹慎だなとは思いながら、笑ってしまったのが、昭和59年(1984)に亡くなった野田の年譜の最後。戒名が「文学院散歩居士」だそうで。いかにも、ですね。

同展、20日(月・祝)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


その後、次なる目的地、小平に向かいました。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

この猛獣を馴らして もとの楽園にかへすのが、 そら恐ろしい おれの大願。
詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

このあとに続く、社会矛盾への怒りを露わにする「猛獣篇」時代のプレリュード、約30篇の短章から成る「とげとげなエピグラム」の最後です。

昨日、仙台市に本社を置く地方紙『河北新報』さんに、以下の記事が載りました。 

<あなたに伝えたい>元気くれる絵手紙に涙

 佐々木広さん=当時(64)=は、妻英子さんと宮城県女川町で釣具店を営む傍ら、画家として創作を続けていた。彫刻家で詩人の高村光太郎の町での足跡を伝えようと、25年前から地元で光太郎祭を開催する町民グループの中心メンバーだった。旧姓(貝)で活動し、英子さんは「貝さん」と呼んでいた。町中心部で津波に遭い、帰らぬ人となった。

◎七回忌に寄せて(3)画家としても活動した夫/佐々木英子さん(宮城県女川町)から広さんへ

 先日、東京の知人から絵手紙14枚が届きました。15年前に知人の母が病に倒れた時、貝さんが連日描いて送ったものでした。女川の魚の絵と共に「とびうおのように元気に!!」「魚さんも頑張れ負けるな!!と言っています」と添えられています。ちょうど元気をなくしていた私を励ましているような言葉に涙が出ました。
 ユーモアがあり、それでいて苦しんでいる人を助ける本当の優しさを知っていた人。たくさんの知人を絵手紙で応援していました。
 震災後間もなく、投函(とうかん)されずに残っていたはがきを見つけました。「人生には時に悲風 黒風が吹きます でもかならずきっと快風が吹きます」。こんな言葉があった1枚は、一人残された私に向けられているようでした。
 毎年8月に開かれていた光太郎祭、震災後も仲間たちと続けていますよ。子どもや大人たちが詩を朗読しています。光太郎さんは活気に満ちた女川を描いた作品を残しました。貝さんは、その光太郎さんに光を当てることで、足元の文化を耕そうとしていましたね。そんな思いをつないでいきたいと思っています。
 仏教の本をたくさん読み、私にいろんなことを教えてくれました。そして、自分のお葬式のために残した言葉に驚きました。生前、友人に「自分が死んだら弔辞を頼む」と言い、法華経の第16章を引用するようにと頼んでいたのですね。私は何も知らずにその方に弔辞をお願いしました。
 友人は第16章の「常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)」という8文字を引用しました。あなたが抱き続ける悲しみが真実へと導く、という意味です。
 8文字の意味、頭では分かるような気がします。でも、感情はそうはいかない。思いが強ければ、悲しみは深くなりますから。一生をかけて、答えを探すのかもしれません。


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毎年お邪魔しています8月の「女川光太郎祭」を主催なさっている佐々木英子さん、そして亡きご主人・廣さんが取り上げられました。

お二人と、女川光太郎祭に関して、このブログで書いた記事は以下の通り。手前味噌ながら、女川町の復興の歩みのアーカイブにもなっています。

平成24年(2012)
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平成25年(2013)

平成26年(2014)

平成27年(2015)
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平成28年(2016)


正直、もう七回忌か、という感じです。上記の『河北新報』さんの記事、改めてご夫妻のお人柄がにじみ出ているように感じました。

女川では、3.11ということで、各種イベントが企画されています。

11日(土)には、女川町総合体育館を会場に、「女川町追悼式」。一週間後の18日(土)、19日(日)で「女川町復幸祭」。その前日の17日(金)、昨年、女川町に天皇皇后両陛下が足を運ばれ、その際に皇后陛下が詠まれた短歌を刻んだ碑の除幕式が行われます。

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そのあたり、また報道がありましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

どうかきめないでくれ、 明るいばかりぢやない、奇麗なばかりぢやない、 暗いもの、きたないもの、 あきれたもの、殘忍なもの、 さういふ猛獣に満ちてゐる おれは 沙漠だ。 だから奇麗な世界に焦れるのだ。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

造型作家として、何ゆえ「美」を追い求めるのか、その答の一端が表されています。

出版社コールサック社さんから、詩誌『コールサック』の最新号が届きました。毎号送って下さっています。恐縮です。

光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。

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「四尾連湖」は山梨県西八代郡市川三郷町にある小さな湖で、野澤一が昭和のはじめに約6年間、湖畔の丸太小屋で独居自炊の生活を送った場所です。

野澤一についてはこちら。



その丸太小屋のすぐ近くに「水明荘」という宿泊施設があり、そこの若女将さんが平成2年(1990)に書き、山梨県のふるさと作文コンクールで特別賞を受賞した作文が引用されています。四尾連湖判に野澤の詩碑が建立された頃の作です。光太郎についてもふれて下さっています。

当方、山梨県にも4年近く住んでいたことがありましたが、四尾連湖には行ったことがありません。直線距離で6㎞ほど離れた富士川町の高下地区には、光太郎の文学碑があります。昭和17年(1942)に、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の母を顕彰する「日本の母」顕彰事業のため、同地の井上くまの元を光太郎が訪れたことを記念して立てられました。建立は昭和62年(1987)。

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光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」の句が刻まれています。漢字仮名交じりにすれば「美しきもの満つ」、「この世は美しいもので満ちているよ」といった意味です。

ちなみに、少し前に光太郎の変体仮名使用についてちらっと書きましたが、これもそうで、片仮名の「ミ」を平仮名に混ぜて使うことが多くありました。日記でも「手紙」を「てかミ」と表記することがしばしばでした。

ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが……。

他にも光太郎にまつわる「都市伝説」の類は少なくありません。「××神社の狛犬は光太郎の作である」、「××県の料亭の座卓には光太郎が包丁で彫った文字が残っている」など。実は後者の方は、ろくに確かめもせず、20年ほど前に当方も著書で紹介してしまったことがありますが、ガセネタです。

閑話休題。ほぼ毎年、4月22日に信州安曇野碌山美術館さんで開催される碌山忌にお邪魔していますが、その際には近隣、あるいは途中にある光太郎ゆかりの地、光太郎と交流のあった人々の記念館的なところに立ち寄ることにしています。四尾連湖もいずれその際に、と思っております。

富士川町の光太郎碑も含め、皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はおれの錬金術、 出ないかも知れない金を求めて、 この禁苑の洞窟(ほらあな)に烈火をたく。 あんまりそばへ寄るな。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「無」から「有」を生み出し、しかも単なる「有」でなく、「美」にまで昇華させる彫刻。たしかに「錬金術」にも似た部分があるかもしれませんね。

野村朗氏作曲の「連作歌曲 智恵子抄」が、ドイツ・ハイデルブルグで演奏されます。

liederabend mit schauspiel 智恵子抄 Für CHIEKO Eine schöne Japanische Geschichte von einem Ehepaar

日   時 : 2017年3月19日(日) 15:00〜  ※現地時間
会   場 : Jakobusgemeinde Neue (Schröderstraße 105, 69120 Heidelberg)
料   金 : 無料
出   演 : 新井俊稀(ハイ・バリトン) 北野温子(智恵子役)  木下敦子(pf)
企画・演出 : 宮永あやみ

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ハイデルベルク市内のワイナリーが経営するレストランに勤務しながらオペラの演出の勉強を続けていらっしゃるという、宮永あやみさんという方が、動画投稿サイト「YouTube」で、「連作歌曲 智恵子抄」の動画を見て、今回の企画が実現しました。出演される新井氏のサイトに宮永さんの「演出家ノート」が記されています。

「連作歌曲 智恵子抄」は、全5曲。第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、 第2曲「あどけない話」、 第3曲「レモン哀歌」、第4曲「間奏曲」、第5曲「案内」です。インストゥルメンタルの第4曲を除き、光太郎詩にメロディーが付けられています。したがって、光太郎視点。

「liederabend mit schauspiel」は「演劇を伴う歌曲公演」、「Eine schöne Japanische Geschichte von einem Ehepaar」は、「ある日本の美しい夫婦の物語」とでも訳しましょうか。光太郎視点の歌曲演奏だけでなく、智恵子役を配してのドラマ仕立てだそうです。どのようなものになるのか、興味深いところです。

興味深いといえば、ドイツの皆さんにはどのように受け止められるのかといった点も、非常に興味深いところです。

拝見・拝聴に伺いたいところですが、朔太郎風に言えば「独逸へ行きたしと思へども 独逸はあまりにも遠し」。しかし、盛会を祈念しております。


【折々のことば・光太郎】

人のきめてくれた線路には どうもはまりにくい車だ、 通用しないのが あたり前な車だ。   君の思ふ壺から はづれておれが歩く時、 やつぱり友達であつてくれ、 さういふ時こそ。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

言わずもがなですが、光太郎自身を表しています。いいですね。今回、二つの短章を並べました。本来は連続していないのですが、内容的には繋がっているようなので、並べてみました。

昨日、一昨日と、小平市平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」について書きました。こちらでは光太郎彫刻「腕」(大正7年=1918)、「十和田湖畔の裸婦群像中型試作」(昭和28年=1953)、そして朝倉彫塑館さん所蔵の「手」(大正7年頃=1918頃)が展示されていました。

同じ「手」が、現在、竹橋の東京国立近代美術館さんで展示されていますので、ご紹介します。 

平成28年度第4回所蔵作品展「MOMATコレクション」

会 期 : 2017年2月18日(土)~5月21日(日)
場 所 : 東京国立近代美術館 千代田区北の丸公園3-1
時 間 : 10:00-17:00 金曜日・土曜日は20:00まで(入館は閉館30分前まで)
休館日 : 月曜日(祝日の場合は開館)
料 金 : 一般:430円(220円) 大学生:130円(70円)( )内は20名以上の団体料金

 MOMATコレクションにようこそ! 今年も、千鳥ヶ淵の桜が美しい季節を迎えます。これにあわせて、前期(2月18日~4月16日)には川合玉堂《行く春》をはじめ、桜を描いた名作が、みなさんをお迎えします。後期(4月18日~5月21日)も加山又造《春秋波濤》など、見逃せない作品ばかりです。
 それだけではありません。個人の特集も充実です。4階4室では山本鼎を、3階6室では藤田嗣治を、7室では長谷川潔と浜口陽三を、9室では植田正治を、そして10室では長谷川利行を特集します。
 一方、4階5室は当館の所蔵する西洋近代美術の特集です。日本への影響関係を知るためにも、コレクションに欠かせないこれらの作品に、あらためてご注目ください。 さらに、1階で開催の「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」展に関連した小特集を、3階8室で行います。樂の茶碗と、当館コレクションの戦後抽象絵画との間に、深いところで響き合うものを感じ取れるはずです。
 それでは、MOMATですてきな春の一日を、ごゆっくりお楽しみください。

出品作品リストは、こちら


先述の通り、光太郎のブロンズ代表作「手」が出品されています。現在、小平市平櫛田中彫刻美術館さんに展示されている朝倉彫塑館さん所蔵の「手」と同じく、光太郎生前の鋳造で、台座の木彫も光太郎の手になるものです。

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有島武郎が入手し、自殺する直前まで手にとって愛でていたという逸話があります。その後、回り回ってこちらに所蔵されました。

一昨年には、武蔵野美術大学美術館さんにて開催された「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」で、二つの手が並びました。当方が把握している限りでは、光太郎生前の鋳造で、台座も光太郎作という「手」は、この2点と、高村家に伝わっている1点の3点のみです。

「MOMATコレクション」、他にも教科書に載っているような作品が満載です。光太郎と関連の深かった作家のものとしては、中村彝「エロシェンコ氏の像」、安井曽太郎「金蓉」、梅原龍三郎「噴煙」、村山槐多「バラと少女」、岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」、柳敬助「白シャツの男」、荻原守衛「女」、藤田嗣治「アッツ島玉砕」、木村荘八「新宿駅」、舟越保武「原の城」など。その他、海外や伝代の作品も充実しています。

4月2日(日)―第61回連翹忌の日ですが―は、「美術館の春まつり」の一環として、観覧料無料。さらに「春まつりトークラリー」ということで、正午受付開始、先着1,000 名様対象のギャラリートークも開催されます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

おれの手の届かないさきを人がやる、 人の手の届かないさきをおれがやる、 それでいい。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

上記の光太郎と交流の深かった作者の作品などを目の当たりにすれば、こういう感想を抱いたのでは、と思われます。光太郎に「金蓉」や「アッツ島玉砕」は描けませんが、安井や藤田に「手」は作れません。

このところ「とげとげなエピグラム」からの引用が続いています。このコーナー、基本的に一作品から一つのフレーズを選んでいましたが、「とげとげなエピグラム」は数行ずつの短章が30余り並べられており、一つ一つが一つの作品といった趣ですので、そうしています。明治末の「泥七宝」もそうでした。

どうもこういう短章の羅列があると、光太郎には大きな転機が訪れるようです。「泥七宝」の頃には、智恵子との恋愛を経て、光雲を頂点とする日本彫刻界と縁を切って独自の道に進む姿勢の確立、「とげとげなエピグラム」の頃には、露わになった社会矛盾に怒りを表出する「猛獣篇」時代への突入と。

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