2016年12月

いよいよ大晦日となりました。3日前からこのブログで書き続けている今年1年間の光太郎関連回顧も、最終回となります。

11月1日(火) 産経新聞出版社さんから、手島𣳾六氏著『日本の書』が刊行されました。平成24年(2012)から今年にかけ、『産経新聞』さんに連載されていた同名のコラムの単行本化で、光太郎の項もありました。

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11月3日(木) 『智恵子飛ぶ』などのご著書がある作家の津村節子さんに今年度の文化功労者授賞がありました。

11月3日(木)~6日(日) 豊島区の切手の博物館さんで、、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」が開催され、光太郎の葉書も展示されました。

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11月6日(日)~14日(月) 文京区の文京シビックセンターで、平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人が開催されました。

11月7日(月) NHKラジオ第二で、カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」がオンエアされ、昭和27年(1952)の、光太郎と真壁仁の対談が放送されました。14日(月)に再放送がありました。

11月9日(水)~17(木) 福岡市総合図書館映像ホールシネラにおいて、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

11月13日(日) 福島県いわき市の草野心平生家で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」が開催され、当方が卓話(講話)をさせていただきました。同日、『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」が、花巻市の高村光太郎記念館さんでの企画展高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」に触れて下さいました。

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11月15日(火)~1/19(木) 静岡県立美術館さんで、企画展「再発見!ニッポンの立体 生人形(いきにんぎょう)からフィギュアまで」。光太郎彫刻「手」、「裸婦坐像」、「大倉喜八郎の首」、光雲彫刻「西王母」「江口の遊君」が展示、現在も開催中です。

11月19日(土) 文京区のアカデミー茗台において、第61回高村光太郎研究会が開催されました。発表は高村光太郎研究会主宰の野末明氏。智恵子の姪・長沼春子と結婚して光太郎と姻戚となった詩人、宮崎稔に関して、さらに当方の「高村光太郎と草野心平 魂の交流」でした。

11月19日(土)~1/15(日) 和歌山県立近代美術館さんで、動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」。現在も開催中で、光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されています。

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11月19日(土)~2月12日(日) 京都の清水三年坂美術館さんで、特別展「うた詠むこころ The Composing Mind」。光雲の木彫、「西行法師」が出品されています。

11月22日(火) みすず書房さんから酒井忠康氏著『芸術の海をゆく人 回想の土方定一』が刊行されました。「高村光太郎と土方定一」の項が設けられました。

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11月28日(月) 光雲が彫刻を手がけた横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が修復を終え、JRAエクセル伊勢佐木さんで披露されました。

12月3日(土)~2月19日(日) 花巻市立萬鉄五郎記念美術館さんで、「光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~」が開催中。光太郎ポートレートが並んでいます。

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12月10日(土)~3/5(日) 台湾・台北の故宮南院で、「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」が開催中です。光雲の「老猿」が出展されています。

12月10日(土) 東京学芸大学さんで開催された「昭和文学会 2016(平成28)年度 第59回研究集会」が開催され、アギー・エヴァマリア氏による研究発表「「女性はみんな母である」――高村光太郎の戦争詩における〈女性〉像の研究――」がありました。

12月14日(水) 汐留ベヒシュタイン・サロンさんで、朗読系イベント「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」が開催され、宮尾壽里子さん作「智恵子さん」が上演されました。

12月29日(木) ATV青森テレビさんで、特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」が放映されました。


……とまぁ、今年も実に色々なことがありました。まがりなりにも、光太郎・智恵子・光雲の芸術世界が世の中に受け入れられ続けている証左と思われ、ありがたいことだと考えます。こうした状況がいつまでも続くように、今後も努めて参りたいと存じます。

最後に、会としての寄付。

皆様から戴いた郵便物に貼られていた使用済み切手を、例年通り公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付、同会サイトに寄付団体として名前を載せていただきました。

また、このブログの閲覧数が多いと、Tポイントが加算されるシステムになっています。貯まったポイントを、4月の「熊本地震災害緊急支援募金」、それから先日の「「糸魚川市駅北大火」緊急支援募金」に回させていただきました。今後もこうした活動も続けたいと思いますので、ご協力よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

おほうみのしほのやうにもさいはひはそらのはてよりながれくるかな
制作年不詳

来年も、皆様に「さいはひ(幸い)」が訪れることを念じつつ、このコーナーを終わります。

今日は、8月から10月の光太郎関連の動きを振り返りますが、やはり7月で書き落としていましたので、そちらから。

7月(日付不明) 花巻高村光太郎記念館さんから、『光太郎 1883―1956』が刊行されました。同館展示品などの写真集です。

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8月1日(月) 文京区のケーブルテレビ区民チャンネルさんで、「ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎」の後編が初放映されました。

同日、岩手日日新聞社さんから、観光PR誌『岩手大陸』第3号が発行され、花巻高村光太郎記念館さんが大きく紹介されました。

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8月2日(火) コールサック社さんから、曽我貢誠氏他編『少年少女に希望を届ける詩集』が発行されました。光太郎詩「道程」「冬が来た」も収められています。

8月9日(火) 宮城県女川町のフューチャーセンターcamassを会場に、「第25回女川光太郎祭」が開催されました。当方の記念講演に始まり、地元や遠方の皆さんによる詩の朗読、当会顧問・北川太一先生の講話などが行われました。

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8月10日(水) 講談社文芸文庫の一冊として、室生犀星著『我が愛する詩人の伝記』が復刊されました。光太郎アトリエ訪問記も掲載されています。

8月10日(水)~28日(日) 埼玉東松山市立図書館で、「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」が開催されました。21日(日)には、田口弘氏によるご講演もありました。

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8月11日(木)~9月11日(日) 美術館「えき」KYOTOにおいて、「世界の巨匠たちが子どもだったころ」展が開催され、光太郎の姉・さく(咲子)の日本画が展示されました。

8月14日(日) 『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で、終戦記念日にからめ、光太郎に触れて下さいました。

8月17日(水) 日本ヴォーグ社さん刊行の雑誌『手づくり手帖』第10号に載った、色彩アートセラピスト・江崎泰子氏による「巻頭特別エッセイ 色はこころの表現」で、智恵子の紙絵について触れられました。

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8月20日(土)~28(日) 花巻市の宮沢賢治記念館で、「「雨ニモマケズ」展」が開催され、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の碑文の書が展示されました。

8月28日(日)~9月2日(金) 千代田区の神保町シアターで、「一周忌追悼企画  伝説の女優・原節子」の一環として、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

9月10日(土)~10月23日(日) 石川県立美術館にて企画展「近代美術の至宝 明治・大正・昭和の巨匠」が開催され、光太郎のブロンズ「手」が出品されました。

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9月11日(日) 福島市子どもの夢を育む施設こむこむ館で、「アナウンサーたちが言葉で綴る物語の世界 第20回定期朗読ステージ 季節はめぐり…そして今~朗読集団「原 國雄とその仲間たち」~」が開かれ、「智恵子抄」が取り上げられました。

9月16日(金) 茨城県守谷市の茶房かやの木で、「おとばな結成3rd記念コンサート フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』」が開催、光太郎詩「レモン哀歌」が取り上げられました。

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9月17日(土) 岡山県赤磐市中央公民館で、「第14回おかやま県民文化祭参加事業 岡山県生涯学習大学連携公開講座「高村光太郎と智恵子の運命」」が、三浦敏明氏 (東洋大学名誉教授)を講師に開催されました。

9月17日(土)~10月10日(月) 津市の三重県総合博物館において、「新 津市誕生10周年特別展覧会「過去から未来へ~津のあゆみ~」展が開かれ、光雲作の木彫「魚籃観音立像」が出品されました。

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9月17日(土)~11月6日(日) 東京ステーションギャラリーさんで、企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 ―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」が開催され、光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されました。

9月18日(日) 福島二本松の智恵子生家近くで、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子純愛通り記念碑第8回建立祭 坂本富江さんの絵で語る智恵子の生涯」が開催されました。

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9月21日(水) 花巻市の宮沢賢治詩碑前広場に於いて、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」が開催され、「宮沢賢治と高村光太郎」の題で、当方が講話をさせていただきました。

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9月22日(木)~12月25日(日) 静岡県三島市の大岡信ことば館さんで開催の「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」で、光太郎から谷川氏に宛てられた昭和29年(1954)の葉書が展示されました。

9月24日(土) 福島二本松の安達文化ホールで、「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」が実施されました。

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同日、いわき市のいわき芸術文化交流館「アリオス」では、国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター (FURE)さん主催の「シンポジウム in いわき ほんとの空が戻る日まで~ふくしま浜通り地方の復興・再生~」が開催されました。

さらに同日、銀座CHEEPA'S CAFEで、テルミン奏者大西ようこさん他による「ぷらイム in チーパズカフェ 2 ~ アトムも来るよ! ~」公演があり、初代鉄腕アトムの声を演じられた清水マリさんによる「智恵子抄」朗読もプログラムに入りました。

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9月25日(日) 『読売新聞』さんの土曜版の連載「名言巡礼」で、岡山赤磐出身の詩人にして光太郎と交流の深かった永瀬清子が取り上げられ、光太郎との関わりについても言及されました。

9月26日(月) 品川郷土の会会長を務められ、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院跡の「レモン哀歌」詩碑建立に尽力された、土屋恒行氏が亡くなりました。

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10月1日(土) 株式会社アールビーズさん発行のランニング愛好家向け雑誌『ランナーズ』10月号、「熊出没の青森鹿角は駅伝の故郷 武田千代三郎と乙女の像の因縁」という記事で、「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」にふれられました。

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同日、青森県十和田市の『広報とわだ』では、「特集「十和田湖・奥入瀬渓流」」を組み、光太郎に言及しました。

さらに同日、荒川区のムーヴ町屋で、第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会が開催され、野村朗氏作曲「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」が、森山孝光氏(Br)、森山康子氏(pf)で演奏されました。

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10月2日(日)~11月27日(日) 二本松市の歴史民俗資料館及び智恵子記念館で、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」が開催されました。関連行事的に、2日(日)には高村光太郎研究会員・大島裕子氏による「記念講演会  『智恵子抄の世界』―智恵子生誕130年に伝えたいこと―」、さらに智恵子を偲ぶ第22回レモン忌も開催されました。

同日、郡山市の市民文化センターで、市制施行90周年・合併50年を記念して同市出身の湯浅譲二氏が作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が初演されました。

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さらに同日から11月1日(火)にかけ、鎌倉市のギャラリー笛さんにおいて、展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」が行われました。

10月5日(水) 二本松市智恵子の生家に於いて、「福島現代美術ビエンナーレ 2016 - 氣 indication -。」の一環として、画家・小松美羽さん、詩人・和合亮一氏のコラボによるアクションペインティングと朗読が行われました。

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10月10日(月) 二本松市市民交流センターにおいて、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座'16」が始まりました。昨年からのカウントで、第5回が「セザンヌとポスト印象派」、講師は後藤學氏 (喜多方美術館館長)でした。第6回は11月20日(日)、宮川菊佳氏 (ギタリスト)で、「美の同志 高村光太郎~クラシックのギターと共に~」。第7回の「平塚らいてうと青鞜社」(福島大学名誉教授・澤正宏氏)/第8回 「参加者による高村智恵子を語るつどい」(12月18日(日))で終わりました。

10月10日(月)~11月23日(水) 二本松市霞ヶ城公園に於いて、「第62回 菊の祭典 二本松の菊人形」が開催され、光太郎智恵子の人形も展示されました。

10月15日(土) 麗人社さん発行の雑誌『美術屋・百兵衛 2016年秋号 vol39 岩手県特集』で、「彫刻家・高村 光太郎」10㌻が掲載されました。

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10月20日(木) 響林社さんからwisさんの朗読によるCD、<声を便りに>オーディオブック 「智恵子抄(抄) 高村光太郎 ― 十七編抜粋 ―」がリリースされました。

10月23日(日) 俳優の平幹二朗さんが亡くなりました。平さんは、昭和42年(1967)、松竹映画「智恵子抄」(中村登監督、主演・岩下志麻さん、丹波哲郎さん)にご出演。光太郎の親友、石井柏亭の役でした。また、平成12年(2000)には、津村節子さんの小説を原作とした舞台「智恵子飛ぶ」で、ズバリ光太郎役を演じられました。

10月25日(火)~2017年2月13日(月) 盛岡市の盛岡てがみ館さんで、第51回企画展「文豪たちの原稿展」。現在も開催中、光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」他が展示されています。

10月26日(水)~12月4日(日) 堺市博物館さん他3会場で、「河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」」が開催され、光雲木彫「釈迦牟尼仏」が出品されました。

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10月30日(日) 集英社さんから、原田マハさん著『リーチ先生』が刊行されました。光太郎の親友だった陶芸家、バーナード・リーチを描く小説で、光太郎、光雲、豊周も登場し、活躍します。

明日は、残る11・12月を振り返ります。


【折々の歌と句・光太郎】

吾山にながれてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり
昭和24年(1949) 光太郎67歳

個人的に、光太郎短歌・俳句等の中で、最も好きな作品です。晩年となり、「行雲流水」の境地に達し、しかし、流されるのではなく、あくまで求道者たらんとするその姿勢。ここに光太郎の真骨頂があるように思われます。

昨日に引き続き、今年一年の回顧を……と、その前に、後ろを振り返ってばかりもいられません、未来の話を(笑)。

テレビ放映情報です。

のんびりゆったり路線バスの旅スペシャル▽拡大版!ちょっといい景色へ 徳島・福島

NHK総合 2016年12月30日(金)  8時20分~9時34分

大河ドラマ「真田丸」のお局役で話題となった峯村リエさんと、バス旅の常連となった野間口徹さんが東北・福島を!鈴木砂羽さんと浅利陽介さんが四国・徳島を路線バスで巡りました。今回は、その拡大版を放送します!旅のテーマは「ちょっといい景色」。今回は、男性が女性をエスコートして、オススメの景色に案内します。なんと、福島から富士山が見える!?徳島が誇るドキドキの景色とは?そしてゴールで見る感動の景色とは?

出演 鈴木砂羽,浅利陽介,野間口徹,峯村リエ,
語り 高木渉,島本須美

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今月15日の夜、「拡大版」ではない放映があり、その際は当方、用事があって出かけており、愛車を運転中で、カーナビのテレビで流れていました。

「おー、福島かぁ」と思ったら、何と智恵子の故郷二本松。慌てて車を駐めました。その際にスマホでナビ画面を撮影。

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秋の菊人形期間中にロケが行われていて、智恵子人形がばっちり写りました。

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帰ってからネットで調べてみると、番組紹介の欄に「二本松」の文字がなかったので、放映前に気付かなかったと判明しました。当然録画もしておらず、「再放送してくれないかな」と思っていたところ、再放送ではありませんが、「拡大版」の放映があり、ラッキーでした。

さらに、光太郎と縁の深かった草野心平ゆかりの地・川内村も訪れたとのことでした。

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今度はしっかり録画しようと思っております。

それにしても旅人の峯村リエさん、大河ドラマ「真田丸」での大蔵卿局のイメージしかなく、かなりのお歳なのかと思っていました。しかし、失礼ながらこの放映を見ると、かわいらしい感じで、意外でしたが、それもそのはず、実は当方と同い年でした(笑)。

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それはさておき、もう1件。 

ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎(前編・後編)

東京MXテレビ 2017年1月1日(日)  9時30分~10時00分

区内の史跡や名所、ゆかりの人物などについて紹介する歴史番組です。


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ぶんきょう浪漫紀行」。もともと、文京区さんで、区内対象のケーブルテレビの番組として制作され、今年7月(前編)と8月(後編)に初回放映がありました。当会顧問・北川太一先生や、現在の髙村家当主・達氏とお姉様の朋美様などのご出演です。

それが地上波・東京MXテレビさんで放映されます。都内及び隣接県の一部でしか視聴できませんが、該当地域の方、ぜひご覧下さい。


さて、今度こそ、昨日に引き続き、今年一年の回顧を。今日は5月~7月ですが、昨日の分に抜けがあり、その増補から。

4月15日(金) 株式会社ビューティービジネスさんの美容専門雑誌『PROFESSIONAL TOKYO』95号「智恵子抄」が発行されました。同日、ナカニシヤ出版さん刊行の藤田尚志・宮野真生子編『愛・性・家族の哲学① 愛 結婚は愛のあかし?』で、『智恵子抄』にふれてくださいました。

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4月15日(金)~10月13日(木) 岩手花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで、「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」が開催され、光太郎に関わる資料も多数展示されました。

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5月8日(日) 中央区の第一生命ホールにて、合唱団CANTUS ANIMAEさんの第20回定期演奏会があり、安藤寛子さん作曲の「智恵子の手紙」 が委嘱初演されました。

5月12日(木)~6月9日(木) 文京区のアカデミー文京で、生涯学習講座「智恵子はるか―高村光太郎・その愛と美―」全6回が、早稲田大学名誉教授・榎本 隆司氏を講師に開催されました。

5月14日(土) 岩手花巻で高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が行われ、光太郎が旧太田村の山荘に移るまでの1ヶ月あまりを過ごした佐藤隆房邸の公開などが行われました。

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同日、愛知小牧のメナード美術館さんで、「版画と彫刻コレクション 表現×個性」が開幕しました。7月10日(日)迄の会期で、光太郎の木彫「栄螺」と「鯰」が展示されました。

5月15日(日) 岩手花巻郊外の高村山荘敷地で、第59回高村祭が開催されました。記念講演は、光太郎の従妹のご子息、加藤千晴氏でした。

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同日、福岡県筑後市のサザンクス筑後を会場に、「ぱふぉーまんす集団センゲキ第16回公演「ELEGANCE FIGHT~元始、女性は太陽であった~」の公演がありました。河口智美さんという方が智恵子役を演じられました。

5月20日(金)~22日(日) 福島二本松の智恵子の生家で、「高村智恵子生誕130年記念事業 智恵子生誕祭 琴の調べ」が開催され、地元愛好家による琴の演奏が披露されました。

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5月21日(土)~27(金) 北九州市小倉北区の小倉昭和館さんで行われた「名画をフィルムで ~原節子特集~」の一環として、昭和32年(1957)制作の東宝映画「智恵子抄」(原節子さん主演)の上映がありました。

5月22日(火) NHKラジオ深夜便の公開収録「公開復興サポート 明日へ」が福島郡山で行われ、「智恵子抄」の朗読がなされました。オンエアは5月30日(月)でした。

5月26日(木) コールサック社さんから佐藤竜一氏著『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』。が刊行されました。平成6年(1994)に日本地域社会研究所さんから刊行された『黄瀛―その詩と数奇な生涯』の増補改訂版です。

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6月4日(土) 横浜市戸塚区のSala MASAKAで、ピアニスト荒野愛子さんらによる「Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート」があり、「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集」が演奏されました。

同日、岩手盛岡の姫神ホール(盛岡市渋民公民館)に、「啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~」が挙行され、渡辺えりさんによる記念講演「わたしと啄木・賢治・光太郎」がありました。その後、渡辺さんから花巻高村光太郎記念館さんに、光太郎が渡辺さんのお父様に宛てた書簡等が贈呈されました。

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6月2日(木) 『読売新聞』さんに「タイムトラベル 高村智恵子記念詩碑 夫婦愛を刻む「レモン哀歌」という記事が掲載されました。

6月18日(土)~8月7日(日) 北海道立函館美術館さんで、「開館30周年特別展 画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく Poetry of the painter,Paintings of the poet」が開催されました。昨年、神奈川平塚市美術館さんを皮切りに始まり、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、姫路市立美術館さん、足利市立美術館さんと巡回した展覧会で、こちらが最終開催地でした。

6月24日(金) 生前の光太郎と交流のあった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、同市に光太郎から贈られた書や書簡など約100点を寄贈なさいました。

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7月1日(金) 名古屋市瑞穂文化小劇場で「2016年度 国際芸術連盟作曲賞&音楽賞 受賞記念コンサート」が開かれ、野村朗氏作曲の連作歌曲「智恵子抄」が、バリトン:森山孝光氏、ピアノ:森山康子氏によって演奏されました。

7月11日(月) 上にも書きましたが、文京区のケーブルテレビで、「ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎(前編)」の初回放映がありました。

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7月13日(水) 盛岡少年刑務所で、「第39回高村光太郎祭」が開催され、受刑者による光太郎詩の群読、当方の講演などが行われました。

同日、『朝日新聞』さんの「各駅停話」というコラムが「新御徒町駅 幻の高村光雲の大仏」でした。

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7月15日(金)~11月23日(水) 高村光太郎記念館さんで、「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」が開催され、智恵子紙絵の実物の展示が行われました。

7月16日(土)~9月19日(月) 群馬県立館林美術館さんで、「再発見!ニッポンの立体」展が開催されました。光太郎彫刻「手」、「裸婦坐像」、「大倉喜八郎の首」、光雲彫刻「西王母」「江口の遊君」が展示されました。

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7月16日(土)~18日(月) 青森十和田湖畔で、「十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年記念 第51回十和田湖湖水まつり」が開催され、例年通り「乙女の像」のライトアップが為されました。

7月17日(日) 福井県鯖江市文化の館で、朗読イベント「復刻智恵子抄」が開催されました。同日、福島安達太良山頂で、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子抄」朗読会も行われました。

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7月20日(水) 彩流社さんから北野麦酒氏著『永遠なれ! レトロスペース・坂会館』が刊行されました。第2章が「坂館長が見た「智恵子抄」の智恵子の幻のヌード写真」、第7章が「ヌード写真の智恵子」となっています。

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7月23日(土)~8月28日(日) 信州安曇野碌山美術館さんで「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催されました。8月7日(日)には関連行事として当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」が行われました。

7月25日(月) JR東日本企画主催の「交通広告グランプリ2016」で、「あなたの思う福島はどんな福島ですか?」という題で、光太郎詩「あどけない話」をモチーフに使った「福島県の作品が特別賞に当たる「JR東日本賞」を受賞しました。
 
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7月29日(金) 花巻高村光太郎記念館さんで、テルミン奏者・大西ようこさん、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんによるロビーコンサートが行われました。こうした試みは同館初でした。


本当は8月までカバーする予定だったのですが、力尽きました(笑)。明日に回します。


【折々の歌と句・光太郎】

何となく沈みがちなる我胸をわれもえしらず年くれてゆく
明治34年(1901) 光太郎19歳

「え……ず」は「……することが出来ない」という意味です。自分の胸の内を自分でも知ることが出来ない、という煩悶の中、年が暮れて行くというわけですね。若き日にありがちな悩みだと思います。

このブログにて毎年恒例の一年間を振り返るコーナーをはじめます。

1月1日(金) 元旦早々、『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」にて、光太郎・光雲に触れて下さいました。3/4(金)の同欄でも光太郎智恵子に触れて下さいました。

同日、文芸評論家の佐伯彰一氏が肺炎のため亡くなりました。『日米関係の中の文学』(昭和59年=1984 文藝春秋社)というご著書で、光太郎に触れて下さっていました。

1月4日(月) 『日本経済新聞』さんの連載コラム、「生きる命 十選 掌編の試み」で、光雲作の重要文化財「老猿」が取り上げられました。

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1月22日(金) 目黒区のライブハウス アピア40で、『智恵子抄』の朗読と音楽のコラボを含むコンサート「言葉と音の交差点」が開催されました。

1月25日(月) 池袋新文芸坐で、昭和32年(1957)公開、故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。

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1月31日(日) 名古屋の電気文化会館 ザ・コンサートホールで開催された「Gruppo Giglio Vol.8」で、作曲家・野村朗氏の新作、連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六編より」が、バリトン・森山孝光氏、ピアノ・森山康子氏の演奏で初演されました。

2月5日(金)~2月28日(日) 青森県十和田湖畔休屋地区で、「光と雪のページェント 十和田湖冬物語2016」が開催されました。期間中、例年通り光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップがなされました。

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2月6日(土) 福島県二本松市の智恵子生家で昨年から実施されている、2階の智恵子の部屋限定公開が開始されました。2月、4月、5月、10月、11月の土・日・祝日に実施されました。

2月13 日(土) ~3月27 日(日) 姫路市立美術館さんで、企画展「画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催され、光太郎油彩画「日光晩秋」(大正3年=1914)、「静物」(同)、「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)が展示されました。

2月15日(月) 名古屋学芸大学教授で、かつて高村光太郎談話会を主宰されていた大島龍彦氏が亡くなりました。ご著書に、『智恵子抄の新見と実証』(新典社 平成20年=2008)、『『智恵子抄』の世界』(同 平成16年=2004 奥様の裕子様と共編著)などがありました。

2月17日(水) 月刊『美術手帖』2016年3月号で、特集「超絶技巧!!宮川香山と明治工芸篇」が組まれ、光雲の項も設定されました。

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2月18日(木) 光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の息女で、ご自身も光太郎智恵子にかわいがられたという尾崎実子さんが亡くなりました。

2月24日(水) 平凡社さん刊行の雑誌『こころ vol29』、「特別企画 再録・『心』名作館」という項に、光太郎詩「人体飢餓」が収められました。

2月27日(土) 『岩手日日新聞』さんに、「光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈」という記事が載りました。昭和27年(1952)頃に、花巻郊外太田村で撮影されたと見られる光太郎も写っている写真が、花巻高村光太郎記念館さんに寄贈された、という内容でした。

3月1日(火)~5月15日(日) 滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMさんの企画展「かざり -信仰と祭りのエネルギー」で、神奈川横浜伊勢佐木町の日枝神社例大祭で街を練り歩く、光雲の手になる「火伏神輿」及び「獅子頭」が展示されました。

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3月5日(土) 愛知大学車道キャンパスコンベンションホールを会場に、国立大学法人福島大学さん、福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさん主催のシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―震災・原発事故から5年を迎える福島を考える―」が開催されました。

3月5日(土)・3月19日(土) 葛飾区のプラネタリーアム銀河座で、「3月のプラネタリウム 智恵子抄と春空」が上映されました。

3月6日(日) 大田区民ホール・アプリコにて、朗読劇「レモン哀歌」が上演されました。

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3月15日(火) 青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」が、光太郎に触れて下さいました。

3月16日(水) 江東区深川江戸資料館において、「朗読人の四季~2016春」が開催され、杉山典子さんによる光太郎『智恵子抄』よりの朗読がありました。

3月18日(金)~7月10日(日) 鎌倉市川喜多映画記念館さんの特別展「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」が開催され、東宝映画「智恵子抄」関連の資料の展示、さらに7/8(金)~10(日)には同作品の上映も行われました。

3月24日(木) 秋田県生涯学習センター講堂で、生涯学習講座「平成27年度あきたスマートカレッジ連携講座 支え合う文学者たち」の第3回「『歴程』高村光太郎・宮沢賢治・草野心平・黄瀛(同人)」が、県生涯学習センター シニアコーディネーター北条常久氏を講師に行われました。

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3月25日(金) 新潮社さんから、光太郎と交流が深かった彫刻家・舟越保武のご息女・末盛千枝子さんの『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』が刊行されました。末盛さんの「千枝子」というお名前は、光太郎が名付け親となってつけられたそうです。同日、武蔵野美術大学さんから、昨年開催された「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture」展(光太郎作「白文鳥」「手」が出品)の関連行事としての「国際シンポジウム The Study of Modern Japanese Sculpture」記録が刊行されました。

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3月26日(土) 千代田区の宮内庁三の丸尚蔵館で、「古典再生――作家たちの挑戦」展が開かれました。光雲作品「猿置物」「養蚕天女」が出品されました。

3月29日(火)・30日(水) 名古屋市でHITOMIホールプリズムステージ「智恵子抄~朗読と音楽が紡ぐ、純愛~」公演が行われました。

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3月29日(火)~31日(木) 東京都北区の北とぴあ カナリアホールにて、劇団東京イボンヌ第3回企画公演「コンサートと無伴奏 ~永遠の愛~」が上演されました。伊達裕子 さん、浅川荘子さんによる「【朗読】~「智恵子抄」より~ 」がプログラムに入っていました。

3月31日(木) 岩手花巻の太田地区振興会さんから、「大地麗(だいちうるわし)」が刊行されました。戦中戦後の光太郎の思い出を、地元の皆さんが記した記録集です。

4月2日(土) 第60回連翹忌を、日比谷松本楼さんで開催いたしました。同日、高村光太郎研究会から雑誌『高村光太郎研究』第37号が刊行されました。また、岩手花巻でも詩碑前祭と、花巻としての連翹忌が開催されました。

4月5日(火) NHK文化センター水戸教室の生涯学習講座「日本の詩をよむ-人と作品の魅力 ~高村光太郎と室生犀星~」が始まりました。9/6(火)までの全6回で、講師は日本文藝家協会会員  成井惠子氏でした。

4月6日(水) 昭和29年(1954)にラジオ番組「私の見たこと、聞いたこと」で、光太郎談話の聞き手を務めたラジオパーソナリティー・秋山ちえ子さんが亡くなりました。


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4月9日(土)~6月12日(日) 「画家の詩、詩人の絵 ―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく―」展が、栃木足利市立美術館さんに巡回になりました。

4月11日(月) 千葉市美浜文化ホールで、第1回「朗読と音楽の刻(とき)・虹」〜朗読とピアノとオカリナのコラボレーション〜が開催され、「智恵子抄」も取り上げられました。

4月16日(土)・17日(日) 青森県十和田市十和田湖観光交流センター「ぷらっと」及び市民交流プラザ「トワーレ」において、劇団エムズ・パーティーさんによる「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇」が上演されました。

4月17日(日) 福島二本松で、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「第11回好きです智恵子青空ウォーク~桜章~」が開催されました。

4月30日(土) 言視舎さんから、福井次郎氏著『映画「高村光太郎」を提案します 映像化のための謎解き評伝
が刊行されました。

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4月(日付不明) 長野で『豊科近代美術館友の会会報』が刊行されました。幅谷啓子氏による「昭和6年に出した2枚のハガキ」という記事で、光太郎から在仏の高田博厚宛の外信葉書二通が初めて紹介されました。


続きはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

秩父かぜ吹いても枯れし古しきみ御墓(みはか)掃くとてひとりし泣かる
明治35年(1902) 光太郎20歳

「秩父かぜ」は「秩父颪(おろし)」ともいい、秩父山塊から埼玉や東京に吹く木枯らしです。「しきみ」は「樒」、その枝を仏前に供える木ですね。具体的な背景が不明ですが、親しかった人物の墓参を題材にしているようです。

上記で今年1月から4月までの回顧録を記載しましたが、たった4ヶ月でも関係する方々の訃報が多く、改めて残念に思いました。色即是空、諸行無常とは申しますが……。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な『トンボ』の第3号が届きました。

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編集に当たられているのは、詩人の曽我貢誠氏。連翹忌ご常連にして、今年はコールサック社さんからアンソロジー詩集『少年少女に希望を届ける詩集』を編纂上梓されました。

当方にもお声がけくださり、曽我氏もご参加下さった8月の女川光太郎祭に関し、5ページほど書かせていただきました。このブログでとびとびにご紹介してきたような内容――平成のはじめに女川の地に光太郎文学碑が建立された経緯、それを記念して始まった女川光太郎祭、平成23年(2011)の東日本大震災による被害、そこからの復興、若い世代による新たな街づくりなどについてです。

また、目次には入っていませんが、光太郎と交流のあった詩人、野澤一のご子息・俊之氏による巻頭言、巻末には当会顧問・北川太一先生の近著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』にからめてのエッセイが3編、それぞれ収録されています。

当方手元には50冊送られてきました。この際、送料のみでお頒けいたしますので、一冊140円、ゆうちょ銀行さんの振替口座――00100-8-782139  加入者名 小山 弘明――までご送金下さい。その際、ご住所ご芳名等、払込取扱票に書き込んでお知らせください。

追記 全冊はけました。

よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

さいはひやあめつちに居て身は健(けん)に星かぞふべく指ほしいまま

明治36年(1903) 光太郎21歳

もうすぐ今年も終わりますが、当方、今年も健康に過ごすことができました。というか、このブログを始めた平成24年(2012)5月3日から数え、今日で1,700日目ですが、その間、微熱程度はあったものの、どうやら大事には至らず続けて参りました。

あらためて健康にすごせることの「さいはひ(幸い)」に感謝したいと思います。

昨日、大晦日と年明けに総集編がオンエアされる、NHKさんの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」についてご紹介しました。

今日は出版関連で。

連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の撮影に密着してきた「NHKステラ」が、ドラマ全26週を写真やインタビューで振り返る!
[内容]
 ●  常子の思ひ出ノオト
 ●  独占ラストインタビュー ヒロイン・高畑充希
 ●  全26週のあらすじとシーン写真
 ●  名場面クローズアップ!
 ●  〈とと姉ちゃん〉の衣♪食♪住!(衣装、消え物、セット&小道具紹介)
 ●  ステラインタビュー セレクション(+本誌未掲載 はみだしトーク♪)
 ●  物語を彩る 音楽の世界
 ●  貼り絵&実写で描く タイトルバックの世界&主題歌「花束を君に」歌詞
 ●  登場人物”ほぼ”全紹介
 ● 壇ふみ特別エッセイ〈とと姉ちゃん〉とわたしのはなし
 ●  〈とと姉ちゃん〉モチーフ  大橋鎭子と花森安治が『暮しの手帖』にかけた夢
 ●  脚本家・西田征史インタビュー
 ●  チーフプロデューサー・落合将メッセージ  
 ☆ 特別付録:小橋3姉妹仲よしピンナップ

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このドラマでは、明治44年(1911)、智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』が重要なモチーフの一つとして使われ、後半には真野響子さん演じる平塚らいてうが登場しました。

そのあたりにも触れられています。

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ちなみに、余談になりますが、「とと姉ちゃん」、他に光太郎智恵子がらみの仕事をなさった俳優さんが、何人か出演されていました。

常子(高畠充希さん)一家が、一時寄寓していた弁当屋・森田屋の若女将、照代役の平岩紙さん。平成24年(2012)、渡辺えりさん制作の舞台「月にぬれた手」で、智恵子役を演じられました。

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常子と共に『あなたの暮し』を作った花山(唐沢寿明さん)の戦友の父親を演じた寺田農さん。

1990年代に発売されたVHSビデオ「日本文学紀行 名作の風景 智恵子抄」でナレーションを務められました。


常子の妹・鞠子(相良樹さん)と結婚した水田(伊藤淳史さん)の母親役・高橋ひとみさん。

平成3年(1991)、やはりNHKさんで放映されたスペシャルドラマ「智恵子と光太郎 極北の愛」で、光太郎(小林薫さん)のアトリエの隣に住む炭屋の女将を演じられました。

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このドラマのラストシーンは、小林稔侍さん演じる旦那さんと、光太郎歿後、「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」を訪れるシーンでした。

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それぞれをなつかしく思い出しながら、「とと姉ちゃん」を拝見していました。

さて、『とと姉ちゃん メモリアルブック』。人気ドラマだっただけに、まだ大きな書店さんでは店頭に並んでいますし、もちろん、ネットでも購入可能です。総集編のオンエアともども、お楽しみ下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

さびしさに執れば先づ成る俳諧歌われなる者を筆に傷みぬ
明治36年(1903) 光太郎21歳

いよいよ今年も最終週となりました。この【折々の歌と句・光太郎】のコーナーも、あと僅かです(来年は別のコーナーに意匠替えします)。

これまでに360余の短歌、俳句、川柳などを一つずつご紹介してきましたが、それらに対する作者光太郎のスタンスは、「歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。」(昭和21年=1946 喜田聿衛宛て書簡)というようなものでした。ここで自作を「俳諧歌」としているのも、同じ感覚でしょう。

しかし、どうしてどうして、それぞれに味わい深い作ばかりだったように思われます。残りあと5作品も、期待していて下さい。

今年4月から10月にかけ、NHKさんで放映された連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の総集編が、地上波で大晦日に、年明けにはBS放送でオンエアされます。

連続テレビ小説「とと姉ちゃん」総集編

前編 NHK総合       2016年12月31日(土) 8時45分~10時15分  
   NHK BSプレミアム    2017年1月8日(日)  12時45分~14時15分
後編 NHK総合       2016年12月31日(土) 10時20分~11時48分  
   NHK BSプレミアム  2017年1月8日(日)  14時00分~15時28分

出演 高畑充希 西島秀俊 木村多江 相楽樹 向井理 片岡鶴太郎 大地真央 坂口健太郎 秋野暢子 ピエール瀧 平岩紙 杉咲花 川栄李奈 浜野謙太 佐藤仁美 上杉柊平 阿部純子 石丸幹二 野間口徹 矢野聖人 伊藤淳史 奥貫薫 古田新太 唐沢寿明 ほか

語り 壇ふみ

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このドラマでは、明治44年(1911)、智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』が重要なモチーフの一つとして使われました。主人公・小橋常子(高畠充希さん)、その妹・鞠子(相良樹さん)、親友の綾(阿部純子さん)、恩師の東堂先生(片桐はいりさん)、そしてもう一人の主人公ともいうべき花山伊左次(唐沢寿明さん)らに、その人生の節目節目で大きな影響を与えるという扱いでした。

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また、後半には、真野響子さん演じる平塚らいてうが登場。常子らの発行していた『あなたの暮し』に、特別に寄稿してくれる、という展開でした
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007今年、生誕130年だった智恵子とらいてう、ある意味それぞれにいい供養になったのではないでしょうか。

また、戦時中に戦意高揚のための文章を書いたことを恥じ、一度はペンを折った花山のエピソードは、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に7年間蟄居した光太郎に通じるものがあります。


総集編では、これらのエピソードがどの程度使われるか不明ですが、それぞれに大事なシーンですので、それなりには扱われるでしょう。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり

昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた際の作です。

メートル単位で雪に覆われる山小屋。さすがにこの季節は訪れる人も少なく、唯一の同居人(笑)、鼠も吹雪の今夜は現れなかった、というわけです。

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日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。たびたび光太郎の父・高村光雲の作品が出品され、このブログでもご紹介していますが、来月開催のオークション「近代美術partⅡ」で光太郎のブロンズが出品されます。

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作品は「野兎の首」。戦後、花巻郊外太田村の山小屋に隠棲していた頃の作品です。発見されたのは光太郎歿後の昭和32年(1957)。山小屋を「高村山荘」として保全するための工事中でした。

この作品について、令甥である故・髙村規氏の回想から。

 山小屋へ移って最初に作った詩「雪白く積めり」を、記念に詩碑にするってことで、三回忌に詩碑にしたんです。その時に村のお百姓さんが「囲炉裏の灰の中から、こんな土の塊が出てきたんですけど、これ一体なんでしょうかね」って持ってきたんです。見たら、手のひらにのる一握りの土の塊なんですね。目とか耳らしきものがあるんで兎みたいに見えたんですよ。これはもう小屋の周りの普通の地面の土です。水に溶かしてドロドロにした土を粘土みたいにして作って囲炉裏の火で焼いたんですね。おそらく気持ちとしてはテラコッタみたいになればいいなと思って焼いたんだと。だけど囲炉裏の火じゃあ温度が上がりませんから完璧には焼き締めができてないで、そのまま灰の中に埋めてあったんですね。農家の人たちが掃除したらそういう物が囲炉裏にあるのを見つけたんですね。何か塊だから取っておいた、それを僕がたまたま詩碑のことで行ったもんですから持ってきてくれたんです。
 見たら、砂の塊みたいでポロポロポロポロ崩れてくるんですね。ちょうど親父(注 鋳金の人間国宝・高村豊周)のお弟子さんの西大由さんが一緒に僕についてきたもんですから、その人と相談して旅館まで、ハンカチにくるんで怖々やっとの思いで運んで、親父に電話したんです。そうしたら「それは貴重な彫刻かもしれないから、何とかして、うまく石膏だけ残してくれ」。そのお弟子さんとしゃべったら「石膏に取るのはいいけど、石膏が失敗したら両方ともだめになっちゃうよ。そこんとこをお父さんによく言っといてくれ」って言うから「そう言ってるよ」って言ったら「まあ、失敗するかどうかはともかく、石膏を用意してもらって、その土を石膏におこしてくれ」。
失敗したらやむを得ない。そのまま東京へ持ってきたら、汽車の中で崩れちゃうのは目に見えてますから。「失敗してもいいから兎に角石膏に取れって言ってるよ」。「よし」ってんで石膏取りが始まりました。西さんは石膏をどうやって手に入れたんだろう、丁寧に旅館の人に頼んでどっかで石膏を買ってきてもらったのかな。旅館の部屋の廊下のところで、石膏を溶いて、その土の塊にかぶせたんですよ。
 そして取った行程を全部、カメラ持ってたもんですから写真撮りました。石膏は全部うまく成功したんですね。石膏に取って初めてわかったんです。兎の首なんですね。それを親父がブロンズにおこしましてね。《野兎の首》っていうタイトルでよく展覧会に出品するんです。それが戦後七年間の岩手の山小屋時代の唯一の彫刻なんですね。親父はその時はもうほんとに涙を流して喜んでましたね、兄貴はやっぱり彫刻家なんだと。
(碌山忌記念講演会 「伯父 高村光太郎の思い出」 碌山美術館報第34号 平成26年=2014)

……という、ドラマチックな経緯を経て発見された彫刻というわけです。

落札予想価格の設定が30万から50万。光太郎ブロンズとしては破格の廉価(おかしな日本語ですが)です。というのは、あくまできちんとした制作ではない小さな習作――あるいは習作ですらない手すさびだということが挙げられます。とはいうものの、決して「駄作」というわけではありません。小品ながら行き届いた造形感覚、そしてちゃんとした粘土を使っていないことによって生じた荒々しいタッチが、かえって得(え)も言われぬ不思議な美を醸し出している優品です。下記写真も規氏撮影です。

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それから、最初の段階で複数鋳造され、昭和53年(1978)には花巻高村記念館の功労者に、新たに鋳造されて配布されたりもしていますので、同一の物がかなりあることも、あまり高価な設定になっていない理由の一つでしょう。

ただし、あくまで予想価格。オークションですので、蓋を開けてみればとんでもなく跳ね上がる(兎だけに(笑))こともあり得ます。というか、ある意味、そうなってほしいという気もします。「こんなものに大枚はたくのは馬鹿馬鹿しい」といわれてしまうのも癪ですので(笑)。

下見会が1月18日(水)〜1月20日(金) 10:00〜18:00と、21日(土) 10:00〜16:00、オークション本番が28日(土)15:00から、シンワアートミュージアムさん(東京都中央区銀座7-4-12 銀座メディカルビル(旧ぎょうせいビル) 1F)で開催されます。

懐に余裕のある方、是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

昭和5年(1930)頃 光太郎48歳頃

昭和5年(1930)頃に制作された木彫「蓮根」(写真:髙村規氏)を包む絹の袋にしたためられた短歌です。

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もういくつ寝ると、お正月。お正月といえば、おせち料理。おせち料理には蓮根が欠かせませんね。当方、あまり好きではありませんが(笑)。

光太郎、木彫作品には、ほぼ必ず智恵子手縫いの袋か袱紗(ふくさ)をつけ、短歌を添えています。木彫ではありませんが、「野兎の首」に、もし短歌を添えたとしたら、どんな歌が出来ていたのかなどと想像してしまいます。

来週、ATV青森テレビさんで、下記の番組が放映されます。

「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~

ATV青森テレビ 2016年12月29日(木) 16時55005分~17時25分

「乙女の像」の制作はなぜ、高村光太郎に依頼されたのか、実写映像など貴重な資料をもとに辿ります。

 十和田湖が1936年(昭和11年)2月1日に国立公園に指定されてから、今年で80年を迎えました。
 十和田湖休屋の畔にたたずむ「乙女の像」は、国立公園指定に向けてさまざまな取り組みをした3人の功労者を顕彰すると共に、国立公園指定15周年を記念して昭和28年に建てられたものです。製作は彫刻家で詩人としても名を馳せていた高村光太郎に依頼されました。
 番組では「乙女の像」の制作がなぜ高村光太郎に依頼されたのか、当時を知る関係者の証言を中心に描きながら、高村光太郎が鉛筆で走り書きした最初の「乙女の像」の構想スケッチや制作中の実写映像など貴重な資料を織り交ぜながら構成していきます。

出演 ◆小山田久・十和田市長 ◆奈良秀則・青森県観光コンベンション協会会長 ◆高村規(高村光太郎の甥・故人) ◆北川太一(文芸評論家・高村光太郎研究の第一人者)◆小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)


同局から協力要請があり、先月30日と今月1日、都内での取材・撮影に同行いたしました。文京区の光太郎アトリエ跡、実家、当会顧問・北川太一先生のお宅でインタビュー、さらに中野区の光太郎終焉のアトリエ。その際に当方へのインタビューも撮影されましたので、尺の都合でカットされていなければ、映るでしょう。

光太郎の令甥である故・高村規氏の部分は、平成25年(2013)に、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の皆さんが、『十和田湖乙女の像のものがたり』を刊行するためにお話をお聞きした(その折も同行させていただきました)際の映像が転用されるようです。

追記・残念ながらその部分はカットでした。

青森限定での放映というのが残念ですが、青森にお知り合いのいらっしゃる方、録画をお願いしてみてはいかがでしょうか。

こちらにはDVDが届くことになっております。拝見するのが楽しみです。届きましたらまたレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

火はあかし雪は白しのことわりにかしこや諸手(もろで)胸にくむ世ぞ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「かしこ」は「畏」の字を宛て、「畏れ多い」といった畏怖の気持ちを表します。神社の祝詞で使われる「畏み申さく」なども同源です。

ここでは火を赤く、雪を白く創り上げた大いなる自然の力への畏怖、といった意味でしょうか。

火といえば、新潟糸魚川の火災、大変な状況です。亡くなった方はいらっしゃらないようで、不幸中の幸いと存じますが、焼け出された方々、さぞや大変だろうと胸が痛みます。謹んで御見舞い申し上げます。

改めて、火の取り扱いには畏れをもって接したいと思いました。

いただきものの紹介です。

まずは花巻高村光太郎記念館さんから、筑波大学附属駒場中学校総合学習報告書『東北地域研究』のコピーをいただきました。

同校では3年生が、「総合的な学習」の時間に、「東北地域研究」という取り組みをおこなっていて、グループごとに校外学習や学習成果発表会なども実施されているそうです。『東北地域研究』はそのレポートです。

そのうち、23班の生徒さん達が、「岩手の文学」をテーマとし、花巻高村光太郎記念館さんも訪れたとのこと。

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レポートを読むと、単なる物見遊山に終わることなく、しっかりとテーマを絞っての校外学習がなされていたようですね。

明治大正昭和の激動の時代を生きた光太郎の生き様に、現代の若者達も、さらに多くのことを学んでほしいと思います。


同様にいただきものでもう一点、智恵子の故郷・福島二本松で顕彰活動を続けられている智恵子のまち夢くらぶ さんから『智恵子講座’16文集』が届きました。

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これは、昨年と今年、2年間にわたって「高村智恵子に影響を与えた人々」のメインテーマの元に開催された市民講座の記録です。会員、会友の皆さん、各回に講師を務められた方々の文章などが載っています。

当方も講師を仰せつかったため、何か書け、とのことで、今年このブログに毎日載せた【折々の歌と句・光太郎】中の、『智恵子抄』に収録されていない、智恵子を詠んだ短歌をご紹介させていただきました。

また、地方紙に載った講座を含む会の活動を紹介する記事のコピーも附いており、こんなに報道されていたんだ、という感じでした。ネットでは全ての記事が網羅されているわけではありませんので、読めない記事も多いのです。

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こうした地道な活動により、光太郎智恵子の名が次世代へと受け継がれて行くという面があります。今後も継続していただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

夜の空気かすかにふるへ電線のうなりもきこゆ酔ひたる耳に

明治43年(1910) 光太郎28歳

木枯らし吹く冬の夜、といった感がありますね。

一昨日、『徳島新聞』さんの一面コラムに光太郎智恵子が引用されました。

鳴潮 12月20日付

 智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ-。沖縄の人は言う。沖縄には空が無い、米軍機の落ちぬ空が見たいと言う
 重大事故から1週間足らず。大破した機体の回収も終わらないのに、在沖縄米軍は新型輸送機オスプレイの飛行を全面的に再開させた。日本政府も米軍の対応を「理解できる」と容認した
 事故があれば、運用再開より原因究明が優先される。これがこの国の常識だと思っていた。買いかぶりだったようである。沖縄県知事は不信感もあらわに言う。「政府などもう相手にできない」
  配備計画も事故の検証も「日米地位協定の下、政府が手も足も出せない国家」。米軍の言いなり、まるで植民地。その姿を全国民に見てもらいたい、と知事。在沖縄米軍トップは、住民に被害がなかったことを挙げ「操縦士に感謝せよ」と言ってはばからない。一体、誰の空か
 防衛相は言う。「米側の対応は合理性がある。配備が抑止力向上につながる」。沖縄の反発をよそに、政府はオスプレイ擁護に躍起だ。一体、どこを向いて仕事をしているのか
 高村光太郎著「智恵子抄 あどけない話」から-智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ-。沖縄にほんとの空が戻るのはいつか。情けない空の話である。

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今月13日、沖縄・名護市の海岸に米軍の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが「墜落」した事故、さらには日本政府が同機の運用再開を容認したことを受けての内容です。

手厳しい論調ですが、一貫して正論ですね。ステレオタイプの反応しかできない幼稚なネトウヨどもは、「これを書いたのは中韓の工作員か」などとのたまうのでしょうが(笑)。

東日本大震災に伴う原発メルトダウンで福島の「ほんとの空」が失われましたが、「ほんとの空」が失われているのは沖縄も同様ですね。

「ほんとの空」の語が、こういった警句として使用されるこの国の矛盾に満ちた現状、泉下の光太郎智恵子も嘆いているのではないでしょうか。「情けない空の話」はもうたくさんだ、と。


【折々の歌と句・光太郎】

わが胸に常によき矛とよき楯と対ひてあればい行きかねつも
明治39年(1906) 光太郎24歳

米国留学中の作。

若き日の光太郎も、己の内面に大いなる矛盾を抱え、「い行きかね」=進むに進めない、という状況でした。おそらくは幼い頃から叩き込まれた江戸の仏師の価値観と、広い世界の美術界の潮流とのギャップに、そろそろ眼を開かされつつあったことが背景にあるように思えます。それが決定的になるのは、もう少し後、米英で約1年ずつを過ごし、パリに移ってからのことです。

人として、大いなる矛盾に悩みつつも、進むべき道を探求し続けた求道者・光太郎。国としてもそうあるべきですね。

光太郎が戦中戦後を過ごした岩手県花巻市。

まずは市の広報紙『広報はなまき』。花巻はいわば光太郎第二の故郷ということで、時折、光太郎の名が載っており、このブログのネタを見つけるのに活用させていただいています。

12月15日号には、「花巻市民芸術祭第10回文芸大会」の入選作品が掲載されていました。これは、先月22日、同市生涯学園都市会館(まなび学園)で開催されたイベントです。

短歌、俳句、川柳、詩、随筆の五部門で、このうち短歌と俳句は事前に応募があった作品と、会場で作られた「当日詠・句」とのそれぞれで選考されるそうです。

さて、俳句の部の「当日句」で「特選」、さらに「最高点句賞」に選ばれた作品が、光太郎がらみです。

光太郎の手縫ひ雑巾小鳥くる


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いい句ですね。花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋(高村山荘)での光太郎を詠んだものと推定されます。作者の中村さんという方、もしかすると、その当時(昭和20年=1945~同27年=1952)の光太郎をご存じなのかもしれません(違っていたらごめんなさい)。

「小鳥くる」は秋の季語。ツグミやヒヨドリなどの渡り鳥に対して使うそうです。


同じ『広報はなまき』の12月15日号には、光太郎もたびたび逗留した大沢温泉さんの記事も載っていました。ただ、光太郎ではなく宮沢賢治が愛した温泉、という紹介で、残念ながら光太郎の名はありませんでしたが。

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また、今月発行された市のPR誌『花日和』の平成28年冬号では、やはり光太郎がたびたび逗留した花巻温泉さんが紹介されています。

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こちらも光太郎にふれられていないのが残念ですが……。


また近くなりましたら詳細をお伝えいたしますが、来春から花巻高村光太郎記念館さんで、企画展として大沢温泉さんや花巻温泉さんなどと光太郎のつながりを紹介する「光太郎と花巻の湯」展が開催されます(当方、監修ということになっております)。

余裕があれば、この冬もいずれかの温泉に行き、雪見風呂としゃれこみたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

天然の湯をしおもはばしばらくは魂とびて夢のこゝちする
大正9年(1920) 光太郎38歳

まったくそのとおりですね(笑)。

それぞれ先週、『毎日新聞』さんの地方版に載った、美術館の企画展報道です。

まず和歌山版。

「ペール北山の夢」展 画家と両輪、時代動かす 大正期の美術界支援

 詩人で彫刻家の高村光太郎はかつて記した。「この人ぐらい熱心に当時の美術界に尽力した人はないであろう」と。「この人」の名は北山清太郎(1888~1945年)。大正初期に雑誌の出版や展覧会開催を通して、岸田劉生や木村荘八ら若い画家たちを支援した。19世紀のパリで無名だったゴッホらを支え「ペール・タンギー」と慕われた画材商の男性にちなみ、「ペール北山」と呼ばれた。

 彼の故郷、和歌山市の和歌山県立近代美術館で開かれている展覧会「動き出す!絵画 ペール北山の夢」はあまり知られていない北山の仕事を軸に、大正期の美術動向を探ろうとする意欲的な企画だ。

 明治末以降、国内では文芸雑誌「白樺(しらかば)」がセザンヌやロダンを紹介するなど西洋美術への熱が高まっていた。北山は1908年に水彩画同好者の団体を結成後、東京で画材商を営みながら12年4月に美術誌「現代の洋画」を創刊。当時としては珍しいカラー図版や海外論文の翻訳を掲載するなど情報発信に努めた。本展では同誌で紹介されたゴッホやセザンヌらの作品とあわせて、彼らにあこがれた国内の画家たちの油彩画など計約170点が並ぶ。
 例えば萬(よろず)鉄五郎の「女の顔(ボアの女)」(12年)。椅子に腰掛ける和装の女性が荒々しい筆致で描かれている。その構図はゴッホの「ペール・タンギーの肖像」を思わせ、毛皮の襟巻きに異国趣味が漂う。08年にフランスから帰国した斎藤与里(より)の「木蔭(こかげ)」(12年)はセザンヌの水浴図の影響がうかがえる。一方で「律義にたたんだタオルを持つ姿は銭湯帰りのよう。日本の風習が感じられて面白い」と同館の青木加苗(かなえ)学芸員は指摘する。
 両作品とも、斎藤と高村が中心となって12年秋に結成した若手絵画グループ「ヒユウザン(後にフュウザン)会」の展覧会に出品された。北山はその運営や機関誌の発行を手伝った。また同会解散後の15年、メンバーだった岸田や木村らが発足させた「草土社」の初期運営にも関わり、出品目録などを手がけた。劉生の「代々木附近(ふきん)」(15年)は目の前の赤土と切り通しの風景を写実的に描き、新時代の到来を感じさせる。
 雑誌「現代の洋画」は「現代の美術」と改題し、15年までの発刊が確認されている。北山はそのころ出会ったアニメーションの制作に没頭するようになり、美術界からは遠のいた。近年は国産アニメの先駆者として注目されつつある。
 2006年から調査を続けてきた同館の宮本久宣学芸員は「北山は事業家として時代の最先端に反応しながら、芸術文化を支えることにやりがいを感じていたのでは」と話す。北山と美術の直接的な関わりは10年にも満たないが、それは日本の洋画界の転換期でもあった。最新の西洋美術を受容しながら自らの表現を追い求めた画家たちと、それを支えた名プロデューサーは両輪となって熱い時代を動かしたのである。
 来年1月15日まで。12月29日~1月3日、月曜休館(9日は開館、翌日休館)。和歌山県立近代美術館(073・436・8690)。【清水有香】


先月から、和歌山県立近代美術館さんで開催されている企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」についてです。光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されています。

開幕した頃に、地元紙や全国紙の和歌山版などで結構報じられましたが、始まって1ヶ月ほど経ってからの報道。これはこれでありがたいそうです。

というのは、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフ氏から聞いた話ですが、企画展に関しては、開幕後、しばらく経つと落ちた客足が、この手の報道が入ることでまた持ち直すからなのでそうです。「なるほど」と思いました。

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同様に、同じ『毎日新聞』さんの千葉版では、千葉県立美術館さんでの企画展「メタルアートの巨人 津田信夫」を報じて下さっています。こちらは光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった、高村豊周の作品も展示されています。

企画展 千葉「メタルアートの巨人 津田信夫」

 (毎日新聞千葉支局など後援) 来年1月15日まで、千葉市中央区中央港1の10の1、県立美術館。
 佐倉市出身の工芸家、津田信夫(1875~1946年)の代表的な作品を中心に、津田と関わりのあった工芸家や教え子の作品も展示し、津田の生涯を振り返る。

 津田は溶かした金属を型に流し込んで作る鋳金(ちゅうきん)の分野で活躍。鳥や動物などをモチーフに、装飾的表現を抑え形態そのものが持つ美を追求した。津田の初期から晩年までの金工作品、陶器を加えた約90点を紹介している。
 また、母校の東京美術学校(現東京芸術大学)で約40年間教壇に立ち、工芸家の高村豊周ら逸材を輩出した。明治期から同校は各種各地の委嘱制作の注文を受けた。津田は近代工芸史上最大規模の作品ともいえる国会議事堂の正面扉群のほか、日比谷公園の鶴の噴水、日本橋橋上装飾の麒麟(きりん)など、経費や工期に至るまで総括した工房の親方として業績を残している。
 美術館普及課の担当者は「津田は工芸家、教育者、工房の親方として、多方面に優れた業績を残したメタルアートの巨人です。近代日本を代表する工芸作品をじっくり見てください」と来場を呼びかけている。
 美術館(電話043・242・8311)は9時~16時半(入館は16時まで)。月曜休館(祝日の場合は翌日)、年末年始(28日~来年1月4日)。入場料は一般500円、高・大生250円、中学生以下無料。【渡辺洋子】


それぞれ、来年1月15日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

一入に美術の海は波高しこゝ楫取りの腕をこそ見れ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

ペール北山、津田信夫、豊周、そして光太郎……。それぞれに波高き美術の海を渡っていったわけですね。

「一入」は「ひとしお」、「楫」は「かじ」と読みます。「こそ見れ」は係り結びですね。

新宿の中村屋サロン美術館さんから、企画展のご案内を頂きました。

中村屋創業115周年記念 新宿中村屋食と芸術のものがたり

期 日 : 2016年12月17日(土)~2017年2月19日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 東京都新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階
時 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 :  毎週火曜日(火曜日が休日の場合は開館、翌日休館)、12/31(土)~1/3(火)
料 金 : 200円
 ※高校生以下無料(高校生は学生証をご呈示ください)
 ※障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

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食と芸術のドラマが織り成す新宿中村屋の“味”
 中村屋は1901年に創業し、2016年12月30日に115周年を迎えます。この間、多彩な食を生み出すとともに芸術活動を支援し、単なる小売店ではない、新宿中村屋という店格を築いてまいりました。創業者 相馬愛藏・黒光夫妻の独創性から、今まで日本に無かった食が生まれ、二人に惹かれて、多くの芸術家・文化人たちが中村屋に集いました。
 本展では、愛蔵・黒光を中心に起こった、食と芸術誕生のドラマを垣間見ていきます。一つ一つのドラマがスパイスとなり新宿中村屋という“味”を形成していった、その様子をお楽しみください。

主な展示作品
 彫刻 荻原守衛(碌山) 「女」「坑夫」  
 油彩 柳敬助「諏訪湖畔雪景」   中村彝「小女」  鶴田吾郎「盲目のエロシェンコ」
 水彩 布施信太郎 「中村屋の包装紙原画」
 版画 棟方志功 「中村屋の羊羹掛け紙」
 書   会津八一 「おほてらの」「いかるがの」 
 

関連行事 

新宿中村屋のドラマと料理を味わう ~食事付講演会~

 新宿中村屋の歴史やゆかりのある芸術家たちについて学んだ後、中村屋伝統の料理をご賞味いただきます。その後、中村屋サロン美術館にて展示をご覧いただく、中村屋満喫のイベントです。

《第1回テーマ》 創業者 相馬愛藏・黒光と新宿中村屋
 日  時 : 2017年1月21日(土) 10時~13時半頃
 講  師 : 株式会社中村屋CSR推進室課長 広沢久美子

《第2回テーマ》 相馬黒光と中村屋サロンの芸術家たち
 日  時 : 2017年2月4日(土) 10時~13時半頃
 講  師 : 中村屋サロン美術館学芸員 太田美喜子

定  員 : 各回24名 先着順、定員になり次第〆切
参加費  : 各回3,000円(税込、食事代、美術館入館料込み)
場  所 : 新宿中村屋ビル8F グラシナ
料  理 : 伝統のインドカリーやボルシチを含めたコース料理
申  込 : 中村屋サロン美術館 museum@nakamuraya.co.jp 03-5362-7508

既に定員に達しているそうです。


展示の方は、光太郎作品は並ばないようですが、講演の方で光太郎にもからむかな、と思っておりましたら、既に定員に達しているそうです。ただ、キャンセル待ち等があるかも知れません。

展示は昨日から始まっています。ぜひ足をお運びください。当方も年明けに行って参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

我おもひ胸にはひめむしかはあれどあまりにやせしこの頬をいかに

明治33年(1900) 光太郎18歳

『明星』時代の、おそらくは架空の恋の歌です。

しかし、10年後の新宿中村屋における碌山荻原守衛を謳ったようにも読める歌です。

書家、石川九楊氏。昨年、NHK Eテレさんでオンエアされた趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」 にて講師を務められ、光太郎の書もご紹介下さいました。

その石川氏の全集ともいうべき『石川九楊著作集』全12巻がミネルヴァ書房さんから刊行中です。そして次回配本が第6巻で、『書とはどういう芸術か 書論』。やはり光太郎にも触れて下さっています。

石川九楊著作集Ⅵ 書とはどういう芸術か 書論

2016年12月25日 ミネルヴァ書房 本体9,000円+税

序 書とはどういう芸術か——筆蝕の美学
はじめに
序 章 書はどのようなものと考えられて来たか
第一章 書は筆蝕の芸術である——書の美はどのような構造で成立するか
第二章 書は筆・墨・紙の芸術である——書の美の価値はなぜ生じるのか
第三章 書は言葉の芸術である——書は何を表現するのか
第四章 書は現在の芸術でありうるだろうか——書の再生について

書——筆蝕の宇宙を読み解く
第一講 書の表現の根柢をなすもの——筆蝕についてⅠ
第二講 反転しあう陰陽の美学——筆蝕についてⅡimg_0_m
第三講 垂線の美学——書と宗教
第四講 整斉、参差、斉参——旋律の誕生
第五講 書のなかの物語——旋律の展開
第六講 折法の変遷と解体——リズムについて
第七講 表現行為としての書——書と織物
第八講 書のダイナミックス——筆勢について
第九講 結字と結構——書と建築
第十講 ムーブメントとモーション——書と舞踊
第十一講 甲骨文、金文、雑体書——書とデザイン
第十二講 余白について——書と環境

九楊先生の文字学入門
はじめに
第一講 表 現
第二講 動 詞——筆蝕すること
第三講 場
第四講 主 語
第五講 述 語
第六講 単 位——筆画
第七講 変 化
第八講 接 続——連綿論
第九講 音 韻——筆蝕の態様
第十講 形 容
第十一講 接 辞
第十二講 構 文
講義レジュメ

凡 例
解 題
解 説 弁証法の美学——書の表現をささえるもの(高階秀爾)

007このシリーズは、単行本化されたものをまとめたもののようで、この巻は736ページもあり、3冊のご著書がまとめられています。すなわち表題作の『書とはどういう芸術か 筆触の美学』(平成6年=1994 中公新書)、『書―筆蝕の宇宙を読み解く』(平成17年=2005 中央公論新社)、『九楊先生の文字学入門』(平成26年=2014 左右社)。

当方、全て読んだわけではないのですが、このうちの表題作『書とはどういう芸術か 筆触の美学』は、かつて店頭で見つけ、光太郎に言及されていたので購入しました。

曰く、「彫刻家・高村光太郎などの場合には、ペンもまた鑿であり、端正な瞠目するような詩稿を残している。」「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」などなど。


調べてみましたところ、7月には同じシリーズの第1巻『見失った手 状況論』が刊行されており、そちらには平成5年(1993)新潮社刊の、『書と文字は面白い』が収録されており、やはり光太郎に触れられています。こちらは当方、文庫版(平成8年=1996)で読みました。

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こちらは2ページにわたり「高村光太郎」という項があって、このように述べられています。

高村光太郎の書は、近代・現代の作家、詩人、歌人などの書の中で異彩を放っている。表現上、いわゆる作家、芸術家の書の範疇(はんちゅう)には属さず、また、いわゆる書家の「現代書」とも異なっている。
(略)
「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。

けだし、そのとおりですね。ただ、強いて類例を挙げるとすれば、その精神性などの部分で色濃く影響を受けた、草野心平の書が、光太郎のそれに近いかもしれません。


『石川九楊著作集』、おそらく他の巻を含め、他の部分でも、光太郎に言及されている箇所がまだあると思われます。とりあえず、はっきり光太郎に言及されているとわかっているもののみご紹介しました。また情報が入りましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

百燭に雉子の脂のぢぢと鳴る     昭和20年(1945) 光太郎63歳

花巻郊外太田村の山小屋で迎える最初の冬に詠まれた句です。最初の数年間は、電気もない生活で、夜はランプや蝋燭で過ごしていました。

智恵子がらみのイベント二つ、ネット検索で情報を得ました。

まず都内から朗読系。

光子/Unplugged 〜四谷で文学に浸る夜

期  日 : 2016年12月20日(火)
場  所 : 綜合藝術茶房 喫茶茶会記 新宿区大京町2-4 1F
時  間 : 19時半スタート
料  金 : 2000円(ワンドリンク付き)

音響・照明の力を極力かりず、シンプルな舞台の上で、光子という俳優ひとりの声と身体を用いて、みなさまを文学の世界へお連れします。

演目 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」 「よだかの星」  高村光太郎 「智恵子抄」…他

光子プロフィール
東京乾電池、ニナガワスタジオ等で演技を学び、数々の舞台や映画に出演。現在は浅草リトルシアターにて、コメディ集団「浅草くじら座」の一員として毎月喜劇の舞台に立っている。


続いて大阪で、「紙絵」に関して。

高村智恵子's『紙絵』

期  日 : 2016年12月28日(水)
場  所 : コミュニティープラザ平野 2階 第3&第4会議室
       大阪市平野区長吉出戸5丁目3-58
時  間 : 13:30~16:00
料  金 : 500円
問い合わせ : 
メール momento.jp/at/gmail.com (「/at/」を半角の「@」に変えてご連絡ください。) 電話 090-8212-7499

『智恵子抄』の本などを執筆した詩人で彫刻家でもある高村光太郎さんの奥方である、洋画家で紙絵作家の高村智恵子さんが行なっておられた『紙絵』作りの会を催します。お正月に向けて、素敵な紙絵を作りましょう。小さなお子さまも、お気軽にご参加ください。

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また近くなりましたらご紹介しますが、年が明けて1月、2月にも「智恵子抄」朗読系のイベントを見つけています。

光太郎智恵子を取り上げて下さり、有り難い限りです。

【折々の歌と句・光太郎】

雪よけの縄こそ松に張られたれ形そびえて朝風に揺る
大正15年(1926) 光太郎44歳

当方自宅兼事務所のある、比較的温暖な房総も、今日は底冷え。さらに雪でも舞い出しそうな曇り空です。

昨日は、都内汐留で、朗読系イベント「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」を拝聴して参りました。

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会場は汐留ベヒシュタイン・サロンさん。ドイツのピアノ製造会社のブランド「ベヒシュタイン」の輸入代理店が持っている施設で、販売の他、小ホールが併設されていて、各種コンサートなどに使われています。

汐留地域、久しぶりに歩きましたが、欧州のような街並みに変貌していて驚きました(イタリア街というそうです)。右は帰りがけです。

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こちらが会場です。

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右は展示されていたベヒシュタイン。450万だそうです。この他にもチェンバロまであって驚きました。

さて、「フルムーン朗読サロン IN 汐留」。

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第1部で、詩人にして文芸同人誌『青い花』同人の宮尾壽里子さん作の「智恵子さん」がありました。宮尾さんはじめ、6名の女性による朗読劇でした。

冒頭、フルコンサートのグランドピアノ(もちろんベヒシュタイン)による、カッチーニ「アヴェ・マリア」にのせ、光太郎詩「あどけない話」「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」、智恵子書簡などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡が語られます。

終末近く、「智恵子抄」所収のさまざまな詩から、一部分ずつを取り上げてのコラージュ。光太郎ファンにはたまりません(笑)。最後は短歌「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」(昭和13年=1938頃)で締めくくり。ドラマチックでした。

その後は、群読あり、自作詩の朗読あり、創作舞踊やハーモニカ、もちろんピアノ演奏、会場を巻き込んでの歌なども織り交ぜ、多彩なプログラムでした。

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今後も皆様のご活躍を祈念いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

冬ごもりみぞれ吹き入るふる壁の眼なし達磨ををかしと見る日

明治35年(1902) 光太郎20歳

正月に片目だけ入れて購入しただるまが、まだそのままという景。「あるある」という感じです。

気がつけば今年もあと半月。都内は店々の飾り付け等、クリスマス一色でした。いよいよ冬本番でもあります。

台湾の首都、台北から特別展情報です。

わかりやすくするために、『毎日新聞』さんの記事から。

台湾・故宮南院で日本美術展

008 台北の故宮博物院の分院である故宮南院(台湾嘉義県)で、東京国立博物館と九州国立博物館が所蔵する国宝や重要文化財などを展示した「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」の開幕式が12日、南院で行われた。訪台した国会議員を含む日台関係者数百人が出席した。

 来年3月5日までの期間中、国宝18件を含む絵画、彫刻、工芸など延べ151件を展示。縄文時代から明治時代まで日本美術を幅広く紹介しており、明治時代の木彫、高村光雲作「老猿(ろうえん)▽江戸時代の浮世絵、葛飾北斎筆「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」=写真▽安土桃山時代の狩野(かのう)永徳筆「檜図屏風(ひのきずびょうぶ)」などが含まれる。東博の銭谷真美(ぜにや・まさみ)館長は「これだけ多分野にわたる名品の数々を日本国外で大規模に紹介するのは初めて。日本美術、日本文化全体を深く理解していただけると確信している」とあいさつした。【嘉義(台湾南部)】


というわけで、光太郎の父・高村光雲作の重要文化財「老猿」が海を渡って展示されています。

それでは、展覧会情報を。

日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展

期 日 : 2016年12月10日(土)~2017年3月5日(日) 月曜休館
会 場 : 國立故宮博物院南部院區 アジア芸術文化博物館
時 間 : 9:00~17:00 
料 金 : 一般 250台湾ドル 団体(10人以上) 230台湾ドル
      障害者とその介護者一名まで無料
      国際学生証/青年旅行カード所持者 150台湾ドル (1台湾ドル=3.62円)

國立故宮博物院は2014年、東京国立博物館、九州国立博物館と共同で、特別展「台北 国立故宮博物院-神品至宝-」を開催し、本院が収蔵する逸品を日本で初めて展示致しました。この展覧会は両国の文化交流の重要な一里塚となり、日本中で大きな話題となりましたが、今回は、東京国立博物館と九州国立博物館からの感謝の意として、本院の南部院區において、「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」を開催致します。両博物館が収蔵する作品のうち、国宝18件、重要文化財44件などを中心に、最も優れた計151件を精選した本展覧会は、規模・質ともに、台湾はもちろん、日本国外で行う日本美術の展覧会として過去最大・最高のものとなります。展示は「第1章 祭祀と生活」「第2章 皇権と佛法」「第3章 貴族の世界」「第4章 武家の文化」「第5章 市民の創造」「第6章 伝承と創造」の6章から構成されており、古代から近代までの、約5000年にわたる豊かで多様な日本芸術を紹介するものです。


009一昨年に東京国立博物館さんで開催された「台北・国立故宮博物院展」で、台湾の秘宝の数々を借りた返礼に、今度は日本の国宝や重要文化財をお貸ししよう、というコンセプトだそうです。

そこでいわば日本代表選手として(笑)「老猿」が選出され、喜ばしいことですね。彼の地の皆さんは、あれをどう見るのか、興味深いところです。光太郎の作も選出されていればなおよかったのですが……。

「国威発揚」というような浅はかな考え方でなく、純粋に「文化交流」として、歓迎したい試みです。

台湾に行かれる方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

正次がうちし平鑿くろがねのうら砥ふまへて幾夜わが砥ぐ        
大正15年(1926) 光太郎44歳

「正次」は桜井正次。宮内省御用刀工にして、光雲と同じく帝室技芸員でした。「卍正次」として、日本刀の作が有名ですが、鑿(のみ)なども打っていたようで、それを光太郎が愛用していたわけですね。もしかすると、光雲から譲り受けたかもしれません。

光太郎が光雲から受けた教えとして、彫刻刀のたぐいはとにかくよく研ぐこと、というのがあったそうです。自分の体の一部であるように使いこなすためだそうです。そのため、光雲光太郎、ともに砥石にもこだわりを持っていました。

新刊情報です。

芸術の海をゆく人 回想の土方定一


酒井忠康著 2016年11月22日発行 みすず書房 定価 4,968円(本体4,600円)

目次 I
 土方定一の戦後美術批評から 007
 土方定一の詩、その他
 高村光太郎と土方定一
 暗い夜の時代  杉浦明平の「日記」から
 土方定一・周作人・蒋兆和のことなど
 北京にて  中薗英助と土方定一
 ある消息  詩人・杉山平一
 II
 ブリューゲルへの道  海老原喜之助
 ある書簡  松本俊介と土方定一
 わが身を寄せて  野口弥太郎
 土方定一のデスマスクと田中岑
 年賀状の牛と柳原義達
 ある日のローマ  飯田善國
 扉をひらく  一原有徳
 若いモンディアルな彫刻家  若林奮
 III
 『岸田劉生』についての覚書き
 『渡辺崋山』をめぐる話
 再読『日本の近代美術』
 『ドイツ・ルネサンスの画家たち』の思い出
 反骨・差配の大人  編集者・山崎省三
 歴史家として  編集者・田辺徹
 不思議な魔力  編集者・丸山尚一
 はぐれ学者の記  菊盛英夫
 二人の出会い  土方定一と匠秀夫
 追想のわが師
 土方定一の影  児童生徒作品展のことなど
 あとがき 土方定一略年譜 初出一覧 図版一覧

日本初の近代美術館である“カマキン”こと神奈川県立近代美術館の館長をながく務めた土方定一(1904-1980)は、アナーキズム詩人から出立したのちに美学者となり、美術批評家の草分けとしなった。館長就任以後も旺盛な批評活動を行い、また数々の芸術賞選考委員を務めるなど、指導者的役割を果たした泰斗である。
若き学芸員補として同館に勤務した酒井は、老境にさしかかった八方破れの館長を公私ともに支えることとなり、近代日本の芸術の海に針路を示す土方船長の肩越しに海を望み、その広さ、深さ、波濤の激しさを目の当たりにする。

「地方の公立美術館としてはユニークな企画展で知られ、わたしにもちょっとばかり誇りに思えるところがあった。もちろん企画展だけではない。陣頭指揮にあたっていた土方定一という人の仕事の采配に感心するところが大いにあったからである。氏を囲んで学芸諸先輩と過した夜の〈宴会〉などは、闘いにたとえればちょっとした“作戦会議”の観を呈していた」
(「再読『日本の近代美術』」)

師の影を追ううちに同館館長に就任、批評家として美術界に提言する立場となった著者は、いまなお師の影のなかにいる、と述懐する。師から弟子へ受け継がれた系譜をみずからたどりながら、日本美術の来し方行く末を問いなおす味わい深いエッセイ集。


世田谷美術館館長の酒井忠康氏による、氏が師事した元神奈川県立近代美術館館長・土方定一に関するエッセイ集です。

土方は本業の他に、草野心平主宰の『歴程』同人で、詩にも取り組んでいました。そこで、心平経由で光太郎とも縁があり、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の際には、在京建設委員の一人となり、光太郎の十和田湖下見(昭和27年=1952)、翌年の像除幕式に参加したりしています。

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上は昭和28年(1953)、「乙女の像」除幕式。左から光太郎、佐藤春夫、谷口吉郎(建築家)、土方、伊藤忠雄(鋳金家)です。

また、光太郎歿後は、当時、副館長だった神奈川県立近代美術館で、いち早く「高村光太郎・智恵子展」を開催するのに尽力しました。

そういうわけで、本書にも「高村光太郎と土方定一」の一項があり、おそらく他の部分でも光太郎に言及されていると思います。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

女房の縞の財布に五十両     大正9年(1920) 光太郎38歳

俳句というより川柳ですね。この年、友人の作家・田村松魚にあてた葉書にしたためられました。「良妻讃美は大賛成です。」の一言が添えられており、松魚の二度目の妻・妙子に関わると思われます。

先週は、外で働いている妻と娘がボーナスを貰ってきました。といっても、昔と違い、振り込みですが。当方、金銭的な部分では、二人におんんぶにだっこです(笑)。

京都から、光太郎の父・高村光雲がらみの企画展情報です。

うた詠むこころ The Composing Mind

期  日 : 2016年11月19日(土)~2017年2月12日(日)
場  所 : 清水三年坂美術 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入清水三丁目337-1
時  間 : 午前10:00~午後5:00(入館は午後4:30まで)
休  館 : 月・火曜日(祝日は開館)  年末年始(12月26日(月)−1月3日(火))
料  金 : 大人 800円 大・高・中学生 500円 小学生 300円 団体 (20名以上)20%引

古来「ことだまの幸はふ国」といわれる日本では、歌は祈りを込めた詞であり、また森羅万象や心の機微を言葉でもって巧みに写し取り、よむ人を鼓舞し、慰め、感動を伝えてきた。その心は、日本の文化形成に大きな影響を与え、言葉のみならず、絵画や身の回りに備える調度品、刀装具などにも多く題材とされ、優れた作品を生み出してきた。蒔絵や金工などの技法でもって描かれる情景は、時に幻想的であり、歌の世界を超えた作り手たちの心象風景とも言えよう。
本展では、当館所蔵の美術工芸品の中から、歌にまつわる名品の数々をご高覧いただきたい。

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光雲の木彫、「西行法師」が出品されています。005

正確な制作年が不明なのですが、像高56㌢、桜財を使った緻密な作品です。

同館で昨年開催された企画展「明治の彫刻」にも出品され、当方、同じく京都の知恩院さんに立つ聖観音像とともに拝見して参りました。

この他にも同館では常設展もあり、そちらにも光雲作の木彫が出ていると思われます。

冬の京都もなかなか乙なものと存じます。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

この雪に宿かしたまへ法の師よこよひの鐘はわれつとめむに
明治33年(1900) 光太郎18歳

まるで遊行中の西行法師を謳ったような感じですね。または西行作として『新古今和歌集』あたりに載っていてもおかしくないような気もします。

光太郎が昭和20年(1945)から、足かけ8年を過ごした岩手花巻から、企画展情報です。 

光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~

期  日 : 2016年12月3日(土)~2017年2月19日(日)
場  所 : 花巻市立萬鉄五郎記念美術館 岩手県花巻市東和町土沢5区135
時  間 : 8時30分~17時(入館は16時30分まで)
休  館 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
料  金 : 一般400(350)円/高校・学生250(200)円/小中学生150(100)円
       ( )内20名以上団体料金

1914(大正3)年盛岡市に生まれた写真家・内村皓一(1914-1993)は、1940(昭和15)年関東軍に徴用され中国・奉天にわたります。翌16年から2年余りにわたって撮りためたのは、奉天市内の市民や風景。戦争により厳しい生活を送りながらも生き抜く、生々しい市井の人々の姿をとらえた人物像や、戦争のなかでも変わらず美しくあり続ける奉天の風景などでした。終戦後そのなかから30数枚のフィルムを荷物に忍ばせ帰国。残り3,000本は自らの手で焼却しました。
帰国後は花巻市で家業の印刷業を営むかたわら、1947(昭和22)年アムステルダム国際サロン「盗女」「ボロ」「流浪者」「不具者」入賞を皮切りに数多くの国際サロン展に出品。その入選作は2,000点を超え、1950(昭和25)年には、英国ロイヤルアカデミーサロンで「瞑想」グランプリ受賞するなど多くの受賞歴を持ちます。また、戦後花巻に疎開していた高村光太郎と親交を持ち「光の詩人」と称されました。また写真クラブ「皓友会」を結成し後進の指導に努めるかたわら、各国の写真団体と交流展を開催するなど交友をすすめました。1973(昭和48)年には岩手日報文化賞を受賞。昭和59年英国王室写真協会正会員。1993(平成5)年80歳で亡くなるまで後進の指導に尽力しました。
本展では、内村の奉天時代の作品50点に、戦後サロンを中心に発表した女性像や「貌」シリーズをあわせ、初の大規模な回顧展として内村写真の全貌を辿り、これまであまり紹介されることのなかった郷土の美術家を検証します。

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上記紹介にある通り、光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の名は、光太郎の日記に散見されます。また、昨年、娘婿に当たる内村義夫氏から、御岳父にあてた光太郎書簡のコピーを拝見させていただきました。また、非常に珍しい光太郎作詞「初夢まりつきうた」のレコードも拝見。さらに、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)で、光太郎が使っていた皿と同じ物を戴いてしまいました。そのあたりはこちら

さて、その内村皓一の写真展が開催中です。光005太郎を撮った写真も展示されています。開催されることは知っていましたが、光太郎ポートレート出品については存じませんで、紹介していませんでした。

昭和23年(1948)頃、太田村時代の光太郎を撮ったもので、「高村光太郎先生『帰路』」。この頃の光太郎にしては珍しく、きちんとシャツにズボン姿です。大概は国民服や、智恵子の織った布で作ったちゃんちゃんこなどですが、どうも何かオフィシャルな場からの帰り道のようです。

その他にも、日中戦争当時の外地の様子、戦後サロンを中心に発表したものなど、貴重な写真が多数出品されています。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

めづらしき写真機ひたとわれに向くわが身光りてまぬかれがたし
大正15年(1926) 光太郎44歳

光太郎、写真嫌いで有名でした。ただし、晩年になると、そうでもなくなったようです。とはいっても、好きになったというわけでもないのでしょうが。

内村皓一のように、ちゃんと交流のあった相手ではなく、いきなり来ていきなり撮るジャーナリズム系や、パパラッチ的に無遠慮に撮ることを信条としていたカメラマンには、最期まで嫌悪を隠しませんでした。

のち、令甥の規氏が写真家の道を志したと知ったとき、具体名を挙げて、「××のような写真家にはなるな」と釘を刺したそうです。

今朝、犬の散歩から帰ると、妻が「今、「乙女の像」がテレビで紹介されていたよ」とのたまいました。光太郎の名も紹介されていたとのこと。

テレビ朝日さん系列の「朝だ!生です旅サラダ」でした。サブタイトルが「女優・手塚理美が冬の青森で感激!!香港最新(秘)グルメ初公開 !?」。

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時折あるのですが、前日までネットにも詳細な内容が紹介されず、放映当日を迎えるパターンだったようで、まったく情報をえていませんでした。残念……。


今日は、午後からNHK BSプレミアムさんで先月放映された「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」の再放送があります。来年1月10日から、やはりNHK BSプレミアムさんで放映が始まる「にっぽんトレッキング100」の、ある意味番宣のための番組です。

ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!

NHK BSプレミアム  2016年12月10日(土)  13時30分~15時00分

山好き必見!日本の秋を満喫するベスト10を大公開!

トレッキングにぴったりの秋到来。日本の秋を満喫する、お勧めコースベスト10を大公開! 真っ赤に染まる紅葉、黄金色に輝く草原、そして心まで温まる癒やしの温泉! 女優の宮澤佐江さんは雄大な北海道・雌阿寒岳へ。モデルの仲川希良さんは上高地へと向かう知られざるクラシックルートを。タレントの田代さやかさんは紅葉真っ盛りの八幡平温泉へ。他にも黒部峡谷、奥日光、四万十川、雲仙など、北海道から九州まで深まる秋を体感!

出演 パトリックハ-ラン 宮澤佐江 田代さやか 仲川希良 青山草太 高橋庄太郎 小林千穂,
司会 森下絵里香
語り 渡部紗弓 柴崎行雄

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本編は来年1月25日(水)ですが、今回もちらっと光太郎智恵子が紹介されます。


もう1件。

あらすじ名作劇場 「銀河の詩人・宮沢賢治「風の又三郎」「雨ニモマケズ」」

BS朝日1 2016年12月14日(水) 22時00分~23時00分 

名前は聞いたことあるけど、実は読んだことがない…
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そんなアナタに!
「読むヒマないなら、観ればいい!」
新感覚の番組が誕生!王道・定番・世界の名作文学の“あらすじ”を、オリジナル「再現ドラマ」でわかりやすく超解説!あの有名な物語が伝えたかったこと、隠された裏話、作者にまつわる秘話も紹介。時にはゆかりの地を、ぶらりと歩くことも。
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「観て学ぶ。名作は、あらすじだけでも面白い」をコンセプトに、文学・落語・歌舞伎・童話…あらゆる“名作"の「あらすじ」をオリジナルの超訳ドラマや朗読でわかりやすく解説!作者の知られざるエピソードや、その作品が生まれた時代背景など、裏話・秘話もあわせて紹介!

ストーリーテラー:平泉成  MC:本仮屋ユイカ

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「雨ニモマケズ」は、その「発見」の現場に光太郎が立ち会い、その後半部分を刻んだ石碑が、賢治の最初の詩碑として光太郎の揮毫により花巻に立てられました。現在も賢治の命日・9月21日に、その碑の前で「賢治祭」が開催されています。今年は当方もスピーチを仰せつかりました。

そのあたりの、光太郎と賢治の交流に関するエピソードが紹介されればいいのですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

ヤツガレハスコシオクレテサンズベシズブロクグデンノタカムラサイウ
明治44年(1911) 光太郎29歳

そろそろ忘年会シーズンということでこの歌を。

漢字平仮名交じりで表記すれば「僕(やつがれ)は 少し遅れて 参ずべし ずぶろくぐでんの 高村砕雨」。

『高村光太郎全集』に漏れていた短歌で、『短歌研究』第十三巻第五号(短歌研究社 昭和31年=1956 5月)に所収の、堀口大学「白い手の記憶 ――高村光太郎の思い出――」に載っていたのを今年、見つけました。

堀口曰く、
 
  それは初夏の頃だったと記憶するが、一夜百首の徹夜の歌会が新詩社で催された。常に待たれる人、高村さんは、その夜もみんなに待たれたが、仲々姿は現われなかった。十時頃に電報が来た。鉄幹先生が披露された。《ヤツガレハスコシオクレテサンズベシズブロクグデンノタカムラサイウ》――
  「高村君は今夜もヨカロウらしい。」鉄幹先生がぽつんと言われた。誰やらが発信局を尋ねた。――「浅草本局です。」 ヨカロウも浅草本局も、二つながら雷門の近くにあった。その夜、会者十数人の中、百首の結字が全部出詠出来たのは晶子先生ただお一人だった。待たるる人、高村さんは遂に翌朝になっても見えずにしまった。鉄幹先生ばかりか私もがっかりしたことを覚えている。

この年の暮れに長沼智恵子と運命的な邂逅を果たす光太郎は、前年に吉原河内楼の娼妓・若太夫(真野しま)に失恋、この頃は浅草のカフェ・よか楼の女給だった「お梅」に入れあげていました。

 「ずぶろく」も「ぐでん」も泥酔状態を表す語で、「ぐでん」は現代でも「ぐでんぐでんに酔っぱらう」などと使われますね。「ずぶろく」の方は、当方、存じませんでした。

「砕雨(さいう)」は新詩社に於ける光太郎の雅号。欧米留学からの帰朝(明治42年=1909)以降も使用例が見られ、矛盾しません。

昨日ご紹介したカキの歌にしてもそうですが、巫山戯た歌を詠んで完全に師・与謝野鉄幹をないがしろにしていますね(笑)。しかしそんな光太郎を鉄幹はかわいがっていました。

今日、12月9日は、文豪夏目漱石が亡くなってちょうど100年だそうです。

16歳違いの漱石と光太郎、ともに芸術の道を志したり、海外留学でこっぴどく人種的劣等感を植え付けられたり、漱石は言文一致の小説、光太郎は口語自由詩と、新しいスタイルの文学を確立したり、といった共通点があります。また、共通点といえば、同じ千駄木界隈に暮らしていたことも挙げられます。

さらに、漱石の『坊っちゃん』に表れているような、権威的なものを嫌う傾向も、二人の共通点といえるかもしれません。漱石が文学博士号を拒否した話は有名ですが、光太郎も芸術院会員を辞退しています。

それから、文学と美術の問題。光太郎は自身では美術(彫刻)が本業と位置づけていました(しかし、現実には詩人としての方が有名ですが)。一方の漱石は小説家を自認していたと思われますが、美術にも造詣が深く(描画にも取り組んでいました)、自作の中にさまざまな美術関連のエピソード的なものを効果的に盛り込んでいます。そのため、漱石と美術に的を絞った研究、展示なども為されています。

ただ、絵画の実作者としての漱石は、光太郎の留学生仲間だった画家の津田青楓にけちょんけちょんに言われていますが(笑)。

それはともかく、いろいろと共通点が感じられるので、当方、漱石作品は非常に好きです。

ところが、漱石と光太郎、お互いにどうだったかというと、水と油、犬猿の仲、とまでは行きませんでしたが、光太郎が漱石に噛みついたことがあり、以後、互いに敬遠していたようです。

その裏には、似たもの同士がお互いの中に自分の嫌なところを見いだし、結局は好きになれない的な関係があったのではないかと、勝手に想像しています。


さて、新刊をご紹介します。

いま、漱石以外も面白い 文学作品にみる近代百年の人語り物語り

2016/12/05 倉橋健一 述 / 今西富幸 筆録 株式会社澪標 無題定価2,500円+税

活字文化の花形であった近代の文学作品は、物語と同時に書かれた時代そのものの吐息も鮮明に伝えてくれる。哀しみ、苦しみ、はかなさ、喜び、夢、希望、すべての作中人物の息遣いをとおしてリアルタイムに直接わたしたちに呼びかけてくれる。だからこそ漱石以外も魔的に面白い。七年にもおよんだ産経新聞連載「倉橋健一の文学教室」。新たに数本の加筆と対談を得て、古今東西の名作がよみがえる。いま、格好の文学案内。

目次
(近代編)尾崎翠/小林多喜二/室生犀星/石川淳/有島武郎/夏目漱石/谷崎潤一郎/島崎藤村/井伏鱒二/堀辰夫/織田作之助/太宰治/山川菊栄/内田百閒/徳田秋声/折口信夫/菊池寛/知里幸恵/柳田国男/川端康成
 (戦後編)金子光晴/島尾敏雄/高橋和巳/椎名麟三/宇野浩二/高見順/伊藤整/里美弴/林芙美子/広津和郎/深沢七郎/檀一雄 (現代編)辻井喬/吉村昭/堀田善衛/石牟礼道子/野坂昭如/井上ひさし (近世編)仮名手本忠臣蔵/三遊亭円朝/井原西鶴 (海外編)メリメ/ラファイエット夫人/トルストイ/チェーホフ/サルトル/ボードウィン/ウルフ/レマルク/ドストエフスキー/ブロンテ/ミシュレ/ホーソン/カフカ/カミュ/コクトー/フォークナー/ポオ/ヒューズ
(詩歌編)北原白秋/高村光太郎/山村暮鳥/小野十三郎/三好達治/丸山薫/黒田三郎/吉野弘/吉原幸子/荒川洋治/金時鐘/石原吉郎/平田俊子/寺山修司/山頭火/ヌワース/ランボー ほか 
(対談)文学が担うものをめぐって

もともと、『産経新聞』さんに連載されたコラムの単行本化だそうです。光太郎の項は平成22年(2010)に載ったとのこと。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

わたくし道徳しないあるなど言ふ人と犢の肉を喰ひて別れぬ
大正末~昭和初期(1920年代半ば) 光太郎45歳頃

一昨日に続き、「カキ」ネタです。

昔、華僑の人々が、手っ取り早く日本語を話す手段として、断定・完了などの意の文末を「~ある」としていたそうです。芸人のゼンジー北京さんや、石ノ森章太郎さんの「サイボーグ009」の006(張々湖)が使っていたため、ステレオタイプの表現に過ぎないと思われがちですが、実際に光太郎短歌にも使われています。

この歌に関しては、与謝野晶子に師事した歌人の中原綾子の回想があります。

 大正末期か昭和の極く始め、荻窪の与謝野邸で久々で古い同人達の歌会が催されたが、これは席上結び字で高村先生がお詠みになつたお歌である。いまでは私の記憶に在るだけかも知れないと思はれるので書き留めておくが、途方もない此のお歌と、それを読み上げられた寛先生の御迷惑顔とが同時に思ひ出されて、いまでも可笑しい。余談だが、その事を当日欠席された堀口大学氏へ知らせてさし上げたところ「――高村君は一種の巨人です。ときどき見ておくよろしいある」と御返事が来た。
(『高村光太郎全集』第六巻月報「第二期明星の頃」)

こういう部分にも、光太郎の権威的なものへの反抗心が色濃く表れています。

日曜日の『日本経済新聞』さんに載った書評です。10月に刊行された原田マハさんの『リーチ先生』についてです。

リーチ先生 原田マハ著 独自性求めて奮闘する青春

 著者はルソーやピカソらの人生とその時代を、美004術館で働いた経験と知識を生かして小説に仕立ててきた。新作では日英の文化交流に尽力したバーナード・リーチを描いている。リーチと仲間たちの青春ドラマのような物語だ。
 香港で生まれ、3歳まで日本で育ったリーチは、ロンドンの美術学校時代に留学中の高村光太郎と出会う。日本への憧れを募らせて来日を決意。柳宗悦ら「白樺派」のメンバーと交流を深めながら陶芸にのめり込み、最後は英国で窯を開く。
 物語はリーチの助手、亀乃介の視点で語られていく。絵を描くのが大好きで、食堂で外国人と話すうちに自然と身につけた英語力を見込まれた。初めて絵付けをしたときの感動、苦労して作った窯が火事を起こして窯はおろか資料も燃えてしまったときの落胆――。リーチとともに一喜一憂する亀乃介もまた、陶芸の魅力に取りつかれていく。
 物語を貫くのは、芸術には「独自性(ユニークネス)」こそが大切だというリーチの信条だ。この言葉のとおり、自分だけの表現を求めて奮闘するリーチや亀乃介のひたむきな思いに心が揺さぶられる。
 何かに夢中になり、挑戦すること。国境や国籍を越え、友情を育む慶び。若者たちのあふれる情熱が、さわやかな読後感をもたらす。(集英社・1800円)


この他にも、先月には『毎日新聞』さんに短評が出ましたが、残念ながら光太郎の名は書かれていませんでした。

今後、各メディアで取り上げられそうな予感がしていますが、その際には光太郎や光雲も登場することに触れていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

仇討かいさかひ事か生き死にの際(とき)か人みな血眼なるは
明治42年(1909) 光太郎27歳

75年前の今日、まさに日本全体がこういう感じだったのでしょう、光太郎も含めて。短歌自体は明治末の作ですが、その32年後を予言しているような内容です。

毎年この時期になると、にわか光太郎ファンが現れます。「記憶せよ、十二月八日。 この日世界の歴史 あらたまる。 アングロ サクソンの主権、 この日東亜の陸と海とに否定さる。」と、ブログなどに引用してありがたがる愚か者がいて辟易します。

週末の『日本経済新聞』さんに、立て続けに光太郎の名が出ました。

そのうち、先週土曜の夕刊に載った記事です。同紙編集委員の宮川匡司氏のご執筆。 

遠みち近みち中村稔89歳 燃える執筆意欲

 「四十五十は洟(はな)垂れ小僧」という言い回しに、20代のころは反発を覚えていたものだ。しかし、いざその年代も過ぎようとしている昨今、「なるほどうまいこと言うものだ」と苦笑いを交えて、肯(うべな)うことが多くなった。
 例えば、来年1月に90歳を迎える詩人で弁護士の中村稔氏の驚くべき仕事ぶりに接した時には、怠惰な自分を省みて悄然(しょうぜん)とならざるをえない。中村氏は、89歳になった今年に限ってみても、2月に550㌻に及ぶ大部の「萩原朔太郎論」、4月に井原西鶴の主要な作品の魅力を読み解く「西鶴を読む」、7月にエッセー集「読書の愉(たの)しみ」という3冊の単行本を、いずれも青土社から刊行した上に、この秋には、初の書き下ろし詩集である「言葉について」(青土社)を出版したばかり。
 ほぼ2、3ヶ月おきに単行本を出し、しかも西鶴文学という新しいジャンル、書き下ろし詩集という新たな形態への挑戦が続くという、とても卒寿とは思えない精力的な執筆活動を続けている。
 「言葉について」は、詩人として七十余年、積み重ねてきた言葉に対する思索を凝縮したような詩集で、14行のソネット形式で20編を収める。
 「言葉は時間の流れの中で黄ばみ、/ぶざまに歪み、無数に裂け、/つくろいようもなく傷ついた/私たちの意思伝達の道具であり、また、私たち自身だ。」
 こうした今の言葉に対する厳しい認識は、次のような行に、さらに鮮明に表れている。
 「着せかえ人形ほどに軽い、なにがし大臣の椅子、/紙幣をじゃぶじゃぶ金融市場に溢れさせている、/権力者のそらぞらしい言葉の軽さ。」
 その後の「言葉の軽さは傲慢な思いつきの軽さだ」の行に、今を見据える目が光る。
 90歳になる来年は、「高村光太郎と石川啄木についてそれぞれ本を書くつもりです」。言葉の本質を見つめる仕事は、なおも途上といっていい。
(2016/12/03 夕刊)


詩人で弁護士、評論家、さらに駒場の日本近代文学館名誉館長であられる中村稔氏に関する記事です。

弁護士としての氏は、知的財産権関連を手がけることが多く、いわゆる「智恵子抄裁判」で、原告・高村家側の弁護人を務められました。20年以上にわたる裁判の末、原告側の勝訴に終わり、この件は著作権に関する判例の一つの指針として、現代でも重要な扱いを受けています。

詳細は氏のエッセイ集『スギの下かげ』(平成12年=2000 青土社)に「回想の『智恵子抄』裁判」としてまとめられています。

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また、その裁判の関連もあり、平成11年(1999)には、角川文庫から『校本 智恵子抄』を編刊されてもいます。

氏とは今年、お会いしました。

夏に信州安曇野碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として、記念講演をさせていただいたのですが、その日に中村氏が同館にいらっしゃいまして、お話をさせていただきました。

その際に、記事に有るとおり、光太郎についての論考をまとめられているというお話を伺い、そのバイタリティーに感銘しました。

それにしても記事の冒頭、「四十五十は洟(はな)垂れ小僧」とありますが、当会顧問の北川太一先生にしても、中村氏よりさらに2歳年長(夏には中村氏に北川先生の近況を尋ねられ、「中村先生ご同様にお元気です」とお答えしました)で、来春には満92歳になられます。かないませんね(笑)。

しかし、光雲の弟子筋に当たる彫刻家・平櫛田中は満107歳で天寿を全うし、「六十、七十、洟垂れ小僧 男盛りは百から百から」と言っていたといいます。そうなると当方、洟垂れ小僧にもたどりついていません(笑)。

さて、中村氏御著書、来年には刊行されるようですので、楽しみに待ちたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

牡蠣を賞す美人の頬の入れぼくろ    明治42年(1909) 光太郎27歳

鍋の美味しい季節となりました。当方、鍋にはカキが入っていてほしいのですが、娘がカキをあまり好まず、我が家の鍋にはめったにカキが入りません。

時折、当方が夕食の支度をしますので、その際、隙を狙ってカキを入れてしまおうと企てております(笑)。

岩手の地方紙『岩手日日』さんに、昨日載った記事です。

全国高校文芸コン 長畑さん(花巻北3年)短歌最優秀

 第31回全国高校文芸コンクール(全国高文連など主催)の入賞者が決まり、本県からは最優秀賞の文部科学大臣賞に小説部門で佐藤薫乃さん(盛岡三3年)、文芸部誌部門で盛岡四、短歌部門の最優秀賞に長畑七海さん(花巻北3年)がそれぞれ選ばれた。
 今回は小説、文芸評論、随筆など7部門に全国2593人から6732点の応募があった。表彰式は10日に東京都で行われる。本県の入賞者は次の通り。(敬称略)
◇小説部門▽最優秀賞=佐藤薫乃(盛岡三3年)「うるわしの里」▽優秀賞=佐々木桂子(水沢3年)及川慈子(一関一2年)▽優良賞=熊谷奈南、水野綾香(以上盛岡三3年)佐々木ほのか(盛岡四2年)▽入選=岩﨑麻里奈(盛岡三3年)鈴木由希(水沢3年)
◇随筆部門▽入選=田鎖寛都、太田彩季(以上盛岡三1年)
◇詩部門▽優秀賞=髙橋香奈(盛岡四3年)及川真智子(水沢3年)▽優良賞=佐々木ほのか(盛岡四2年)髙橋鈴花(水沢2年)▽入選=及川慈子(一関一2年)土谷映里(盛岡四3年)佐藤薫乃(盛岡三3年)古川智梨(盛岡四3年)相田美咲(同2年)菱川里奈(花巻北3年)
◇短歌部門▽最優秀賞=「一輪を」長畑七海(花巻北3年)▽入選=舘下智子(宮古3年)髙橋鈴花(水沢2年)
◇俳句部門▽入選=佐藤楓(盛岡二3年)
◇文芸部誌部門▽最優秀賞=「志髙文芸五十号」盛岡四▽優秀賞=盛岡三▽優良賞=水沢▽奨励賞=花巻北、盛岡二

007光太郎の詩、糸口に表現
 全国高校文芸コンの短歌部門で最優秀賞を獲得した花巻北高文芸部長の長畑七海さん(3年)。受賞の喜びを「最優秀賞なんて縁がないと思っていた。母から褒められ、じわじわうれしさが込み上げた」と振り返った。
 受賞したのは、晩年の一時期を花巻で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎の忌日「連翹忌(れんぎょうき)」を題とした「一輪を墓石に飾る連翹忌あなたの気魄(はく)私に満たせ」。6月に開いた文芸部恒例の歌合(うたあわせ)でものしたという。
 瞬間を切り取る俳句は得意だが、感情を盛り込む短歌は苦手。「上の句は早かったが、下の句はなかなかだった」。糸口を求め、手にした光太郎の詩「道程」の一節「常に父の気魄を僕に満たせよ」が光明となった。
 締め切りに追われる緊張感は、受賞歴の多い同学年のライバルに感じていた焦りとも重なった。「結果を出そうと内心かなり焦っていた。光太郎さんの力を借りたいと思い、それに懸けた」。
 結局、歌合では敗れたものの、部誌掲載を通じ出品した文芸コンでは高評価に。ただ、あまりの出来事でにわかには受け入れ難く、喜びを実感したのは受賞を知った日の帰宅時、迎えに来た母親に褒められた時だった。
 長畑さんは、これまでの活動で、自由な想像の余地がある表現方法の魅力を認識した様子。「活字は美術以上の可能性を秘めている。将来はまだ見えないけれど、これからも短歌や俳句に挑戦したい」と話していた。


短歌部門最優秀の長畑さん、連翹忌を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。

4月2日、当会主催が主催する日比谷松本楼での連翹忌以外に、花巻でも毎年、光太郎ゆかりの松庵寺さんで連翹忌の法要がもたれています。それが午後からの開催で、午前中には光太郎が7年間を過ごした郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で、光太郎詩碑に献花する詩碑前祭が行われています。おそらく長畑さん、そのいずれかにご出席下さったことがあるのでしょう。

また、長畑さんが通われている花巻北高さんには、高田博厚作の光太郎胸像が鎮座ましまし、日々、生徒さんたちを見守り続けています。

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そういうところからの連想もあるのではないでしょうか。泉下の光太郎、そして高田博厚も喜んでいるような気がします。

なかなか決まらなかったという下の句は、光太郎の代表作「道程」からのインスパイア。この詩が書かれたのは大正3年(1914)ですから、もう100年以上前です。それでも現代の若者の心の琴線に触れているわけで、あらためて光太郎の偉大さを感じさせます。

受賞した皆様の今後のさらなる活躍を祈念いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

わがわかき高田博厚剛腹のてのひらをもて風をとらへぬ
大正13年(1924) 光太郎42歳

碌山荻原守衛の死後、高田は光太郎が最も親しく交わった彫刻家です。高田は光太郎より17歳年下ですが、師弟関係とも違う、友人としてのつきあいでした。

いったいに光太郎は、詩にしても彫刻にしても、「弟子」を持たない主義でした。周囲に集まってきた若い芸術家たちは、全て年少の友人という感覚で、アドバイス程度はあったかもしれませんが、添削をしたり、手取り足取り教えたりと言ったことはやりませんでした。

したがって、彼らのプロフィールに「高村光太郎に師事」とあるものは、厳密にいえば全て誤りです。芸術家としての生き様、人生観といったものを教わったと考えれば「師事」かもしれませんが……。

智恵子の故郷・福島二本松での市民講座、「智恵子講座’16」の最終回が開かれます。

智恵子講座2016 第7回 「平塚らいてうと青鞜社」  第8回「高村智恵子を語るつどい」

期 日 : 2016年12月18日(日)
時 間 : 午前10時から
会 場 : 福島県男女共生センター 二本松市郭内一丁目196-1
講 師 : 澤正宏氏 (福島大学名誉教授)
参加費 : 1,000円
問い合わせ/申し込み : 智恵子のまち夢くらぶ ☎0243(23)6743

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午前中が福島大名誉教授・澤正宏氏による「平塚らいてうと青鞜社」、昼食休憩を挟み、午後1時半から閉講式を兼ねた「高村智恵子を語る集い」だそうです。

郷土の文化人の顕彰を地道に続けられている智恵子のまち夢くらぶさんには、頭が下がります。


二本松といえば、この秋、市の歴史資料館と智恵子記念館二ヶ所分散開催で、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展がありました。

そちらが先月27日に閉幕し、一昨日、当方がお貸しした展示物の返却に、市教委の担当者の方がいらっしゃいました。その際にご報告を受けましたが、盛況だったとのことで、安心いたしました。

歴史資料館では、会期中の入場者数が1,602人。これまでの企画展だと、1,000人行くか行かないかというところだそうでした。

智恵子記念館の方は、同じく6,173人。こちらは智恵子の生家とセットの施設で、もともと観光名所的な部分もあり、普段から入館者数はそれなりですが、やはり普段のそれを大きく上回ったようです。

恒例の連中行事、菊人形や、福島現代美術ビエンナーレの一環としての小松美羽さんの襖絵アートなども集客への貢献があったと思われます。

報告書には「展示状況」ということで、画像も掲載されていました。

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このようにして記録を残すというのはいいですね。

返ってきた当方所蔵資料。まずはさまざまな『智恵子抄』。

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明治~昭和前半の智恵子資料。

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故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」関連。

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ご当地ソング「智恵子抄」関連。

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夏には信州安曇野碌山美術館さんの「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」に、光太郎詩集5冊ほどお貸ししましたし、花巻高村光太郎記念館さんには、無期限で『宮沢賢治全集』などをお貸ししています。当方コレクション、大活躍です(笑)。

各地のイベント等担当の方、光太郎智恵子に関する資料類、ものすごいものはありませんが、お貸しいたしますので、必要とあらばご連絡ください。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【折々の歌と句・光太郎】

風吹いて桶屋さかゆの句にもまし恋する人の考へや貧(ひん)
明治38年(1905) 光太郎23歳

今日の関東、冬晴れのいい天気ですが、凩が強く、布団を干すか干すまいか迷っています(笑)。

朗読系のイベントです。文芸同人誌『青い花』同人で、詩人の宮尾壽里子様からご案内を頂きました。 

2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留

期  日 : 2016年12月14日(水)
時  間 : 開場14:15  開演14:30  終演17:15
場  所 : 汐留ベヒシュタイン・サロン 東京都港区東新橋2-18-2グラディート汐留1F
料  金 : 無料(お気持ち)

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第1部で、宮尾様によるオリジナル作品「智恵子さん」の朗読があります。宮尾様、『青い花』に智恵子に関するエッセイや、連翹忌のレポートなどを執筆なさっています。

また、12月14日といえば、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日(旧暦ですが)、というわけで橋田壽賀子さんの「女たちの忠臣蔵」からの朗読もあるそうです。汐留ですから浅野公の墓所にして浪士たちが吉良上野介の首級を運んだ泉岳寺も近くといえば近くですね。

その他、朗読だけでなくピアノありハーモニカあり、創作舞踊も交えての、なかなか趣向を凝らしたイベントのようです。

ぜひ足をお運びください。当方も参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

人間のことをば汝わすれよといふにあらねど山の風ふく
大正13年(1924) 光太郎44歳

師走となり、凩を肌で感じるようになって参りました。

一昨日と昨日、ATV青森テレビさんの年末特別番組「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」の撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。

そのさらに前日は、茨城取手に行っておりました。

先月開催された第61回高村光太郎研究会において、主宰の野末明氏が、光太郎の姻戚の詩人にして、取手出身の宮崎稔について発表をされました。それを聴いて、宮崎に関する情報を提供する約束をしたのですが、あやふやな点があって、確かめに行った次第です。

まずは宮崎家の墓地。十数年前に行ったことがあり、だいたいの位置は記憶していたのですが、正確に地図で表せ、と言われると自信がありませんでした。

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取手駅の西南方向、利根川の河岸段丘の上です。画像で言うと左手が国道6号、手前は6号線に上っていく立体交差の側道です。

もともと光太郎と宮崎の縁は、宮崎の父・仁十郎が、戦前に日本画家の小川芋銭の顕彰に光太郎を引き込んだあたりから始まっています。

その仁十郎の墓もこちらにあり、それとは別に宮崎の墓。墓石側面の墓誌には、宮崎と、夭折した男児の名が刻まれていました(その辺りの記憶もはっきりしていませんでした)。当然刻まれているはずの宮崎の妻・春子(智恵子の最期を看取った姪)の名がなぜか有りませんでした。

ちなみに宮崎には、夭折した男児を謳った「ゆうぐれ」という詩があります。

二つの墓に線香を手向け、ここはこれで終了。

来たついでと思い、取手駅の反対側にある長禅寺を参拝、というか、境内にある光太郎ゆかりの二つの碑を見てきました。

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門前には、取手ゆかりの文人的な説明板も立っていて、光太郎も紹介されています。

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意外にも、智恵子を『青鞜』メンバーに引き込んだ平塚らいてうの名が。昭和17年(1942)から同22年(1947)まで取手に住んでいたとのこと。時期的に疎開と思われますが、これは存じませんでした。


さて、山門はやはり河岸段丘の上にあり、長い石段。



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その石段の右側に、昭和23年(1948)、光太郎が題字を揮毫した「開闡(かいせん)郷土」碑が有るはずでしたが、見つかりません。いくつか碑がありましたが、ずべて他の碑でした。この碑は何度か見に来ているので、場所の記憶違いということはありえません。そういう例が他にあったので、撤去されてしまったのかも、と思っていたところ、見つかりました。何と、繁茂した篠竹の藪に埋まっている状態でした。



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画像中央、やや黒みがかって見える部分に碑があります。不本意ながら石段の手すりを乗り越えて、篠竹をかき分けてみると……



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光太郎の手になる「開闡郷土」の文字。「光太郎」の署名もくっきりと。

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以前から、何の説明板もなく、これが光太郎の筆跡を刻んだものだと知られていないのでは、という感じでしたが、もはや碑そのものが見えない状態になっているとは……。

もっとも、先述しましたが、無理解のため撤去されてしまった碑も、他県にはありましたが……。

長禅寺には、もう一つ、光太郎の筆跡が刻まれた碑があります。こちらは山門をくぐって、境内の左手。光太郎と宮崎家の結びつきの機縁となった、「小川芋銭先生景慕之碑」で、昭和14年(1939)の建立です。


そちらは無事だろうかと、少し急いで行ってみましたが、こちらは無事でした。

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こちらも題字のみ、光太郎の筆跡です。

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題字の下に小さく「高村光太郎書」の文字も。ただし、柔らかい大理石なので、風化が進んでいます。

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以上を見て回りましたが、取手にはもう一つ、光太郎の筆跡が刻まれたものがあるはずです。

それは、宮崎仁十郎の仲介で、元取手町長だった中村金左衛門から頼まれた墓標。中村の縁者(息子?)と思われる「故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓」という文字を、昭和23年(1948)に光太郎が揮毫しています。おそらく取手のどこかに立てられたと思われますが、それがどこなのかわかりません。

長禅寺にも見あたりませんでしたし、当会顧問・北川太一先生にもお伺いしましたが、不明でした。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

2021年2月6日追記。見つかりました。


【折々の歌と句・光太郎】

人間のハムと友らのよびならす女のあしはつるされにけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、駒込林町アトリエでの塑像彫刻制作に関する短歌です。

アトリエには、この短歌のとおり、女性の脚の習作がぶら下がっていたというエピソードが、複数の光太郎友人の回想に出て来ます。「人間のハム」とはよくいったものですね(笑)。

一昨日、昨日と、ATV青森テレビさんの撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。

予定では暮れも押し詰まった12月29日(木)、16:55から、同局で「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」という30分番組が放映されることとなり、旧知の同局アナウンサー、川口浩一氏がレポーター役でご出演、当方に協力要請があった次第です。

十和田湖周辺が国立公園指定80周年というわけで、同じく15周年を記念して制作された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を特集する番組です。これまでに十和田湖、花巻でのロケが終了、そして東京で、というわけです。

ゆかりの場所の全てをまわったわけではありませんが、さながら都内光太郎文学散歩的な2日間でした。

一昨日、上京して来られる青森テレビさんと上野駅で待ち合わせ。予算の関係で、クルーはディレクター氏と川口氏のお二人だけです。ディレクター氏おん自らカメラを回すとのこと。それでも青森の局が東京まで取材に来るというのは異例のことだそうです。

上野で昼食を摂りました。どうせですので、光太郎の父・光雲が制作主任を務めた西郷隆盛像近くのお店に入りました。

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スカイツリーとのツーショット。

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上野公園内、紅葉と、それから画像ではわかりにくいのですが、桜も咲いていました。

JR、東京メトロ千代田線と乗り継いで、光太郎が永らく住んだ文京区千駄木に向かいました。

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団子坂を上って右に曲がり、旧駒込林町、光太郎のアトリエ跡地へ。

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現在は一般の民家が建っています。

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すぐ近くの光太郎実家。
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こちらは現在も高村家です。光太郎が幼い頃からあったという椎の木も健在。

団子坂方面に戻ります。天保年間創業のそば屋・巴屋さん。よく光太郎実家に出前を届けたそうです。

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青鞜社跡地、それから現在は記念館となっている森鷗外旧宅跡地。
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団子坂を下りると、明治8年(1875)創業の「菊見せんべい」さん。

光太郎も買いに来たという話がありますし、少年期、ここの看板娘さんが気になって気になってしょうがなかったそうで、美術学校への行き帰り、顔が赤くなって困るので、わざわざ遠回りしたそうです。光太郎、ウブでした(笑)。

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そして、やはり千駄木の、当会顧問・北川太一先生宅に。こちらで北川先生と当方のインタビューを収録しました。

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北川先生には、インタビューというより、事前に「こういうお話を……」と伝えておき、カメラは回しっぱなしで自由に語っていただきました。おん年91歳ですが、語り出したら止まらないもので(笑)。結局この日も、1時間以上、光太郎について熱く語って下さいました。やはり、生前の光太郎本人をご存じの方のお話は違います。

この日はここまで。


翌日(昨日)は、朝、中野駅で待ち合わせ。光太郎終焉の地にして、「乙女の像」が制作された中西家アトリエへ。

昭和23年(1948)、新制作派所属の水彩画家・中西利雄が建てたアトリエですが、中西自身が早逝してしまい、昭和27年(1952)から光太郎が借り受けました。光太郎の前には、やはり彫刻家のイサム・ノグチも借りていました。ノグチの妻は、一昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんでした。

そしてここは、光太郎一周忌の昭和32年(1957)、草野心平らの呼びかけにより、第一回連翹忌が開かれた場所。いわば当会発祥の地です。

まずは旧桃園川だった緑道(現在は暗渠)から撮影。

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中に入れていただき、中西画伯の子息・利一郎氏に取材。氏は「乙女の像」制作中の光太郎を間近にご覧になっていた方です。

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中西家に遺る、光太郎ゆかりの品々も撮影させていただきました。

左・中西夫人と光太郎。右・花巻郊外太田村から中西夫人に宛てた葉書。「これからお世話になります」的な。

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左・中西夫人に託した買い物メモ。右・利一郎氏ら、お子さんたちへのお年玉の熨斗袋。といっても、原稿用紙を折りたたんで作られています。こういう生活臭のある物、いいですね。

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昼になったところで辞去。昨年も中西家にお邪魔してお話を伺いましたが、今回、その際には出なかったお話も聞け、実に有意義でした。

この他にも、光太郎が学んだ日暮里尋常小学校(現・第一日暮里小学校)や東京美術学校(現・東京芸大)、智恵子が学んだ日本女子大学校(現・日本女子大)、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院跡(南品川)、駒込染井霊園の高村家墓所などなど、ゆかりの地をあげればきりがありませんが、さすがにそこまで廻る余裕はありませんでした。

番組は先述の通り、12/29のオンエアです。また近くなりましたら詳細をお伝えします。


【折々の歌と句・光太郎】

うづだかき泥をひねもすこねしかばかひな太ももふとりて張りけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

「泥」は彫刻用の粘土です。駒込林町のアトリエで、彫刻制作に脂の乗っていた時期の短歌です。

昨日は、ATV青森テレビさんの番組制作取材に同行、千駄木の光太郎アトリエ跡などをめぐり、そこからほど近い当会顧問・北川太一先生のお宅にもお伺いし、そちらで北川先生と当方のインタビューを撮影しました。

今日も同じ件で、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエに行って参ります。


この件についてはまた明日、2日分まとめてお伝えします。今日は最近入手した光太郎書簡について。

海外留学で光太郎がロンドンにいた頃、パリにいた画家の白瀧幾之助にあてた絵葉書で、『高村光太郎全集』には収録されていないものです。

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こちらは宛名面。消印が明治41年(1908)1月2日。パリのテアトル通り16番地、白瀧幾之助宛てです。

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文面の書かれた面。写真ではなく、石版画的な感じでしょうか。何せ100年以上前の絵葉書です。宛名面に印刷された文言によれば、イングランド南部ワイト島に位置するカウズという町の風景で、「Royal Yacht squadron」と記されています。「squadron」は「艦隊」。調べてみましたところ、1815年に設立され、まさにカウズの町に本部があったヨットクラブだそうです。「Royal」ですから、英王室との関連もあるのでしょう。

さて、文面は以下の通り。1月2日ということで、ある意味、年賀状的な内容でもありますが、大半は白瀧からの問い合わせに回答する事務的な内容ですね。

新年の御慶申納候
僕の処へも荻原君から手がみがあつた。
柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114□とある。
此でいいのだらう。
□光太郎

□の二文字分が読めません。ちょうどよいと思って、北川先生にもご覧頂いたのですが、やはり読めませんでした。もう少し推理してみます。

追記 「114」の後は「st」(ストリート)、「光太郎」の前は「二日」ではないかと、碌山美術館さんの学芸員氏からご指摘がありました。なるほど。それで正解ですね。

荻原君」は碌山荻原守衛、「柳君」は画家の柳敬助。白瀧を含め留学生仲間で、明治39年(1906)には光太郎、柳、白瀧は同時期にニューヨークに居住していましたし、荻原もパリからニューヨークを訪れ、光太郎らと会っています。

この葉書が書かれた明治41年(1908)には、光太郎はロンドン、白瀧はパリ、柳はニューヨーク、そして荻原は一足早くパリからイタリア、ギリシャ、エジプトを経て日本へ帰国する途中でした。「僕の処へも荻原君から手がみがあつた。」というのは、その船旅の途次からの手紙という意味でしょう。

白瀧幾之助は、光太郎より10歳年長。明治31年(1902)に東京美術学校を卒業し、洋画家として白馬会に所属していました。禿頭で大男、留学生仲間からは「入道」とあだ名されていましたが、非常に面倒見のいい人物で、光太郎もニューヨークやロンドンでさんざん世話になっています。また、両者晩年の戦後に、交流が復活しています。

100年以上前のロンドンからパリに送られた絵葉書が現存し、日本の当方の手元に届き、若き留学生たちの息吹が聞こえてきそうな内容……ある意味感無量です。


神田の古書店さんから入手しましたが、ほぼ同時期の白瀧宛書簡がごそっと売りに出ていました。光太郎からのものはこの1通だけでしたが、荻原のそれは3通含まれていました。早速、碌山美術館さんに連絡したところ、注文されたそうです。比較的長命だった光太郎の書簡はこれまでに3,400通余り見つかっていますが、夭折した荻原のそれは150通ほどしか知られておらず、新たに3通が加わったというのは大きいですね。これまでに見つかっていたものは、碌山美術館さんで昨年刊行の『荻原守衛書簡集』にまとめられています。

ちなみに光太郎の絵葉書は、70,000円でした。当分は節約に努めます(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の空とほいかづちす黄に枯れて一馬(いちば)かげなき焼原(やけはら)の牧
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎留学中の作です。ただし、最初の滞在国、アメリカで詠まれたものです。

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