2016年06月

先週、娘が迷い猫を拾ってきました。

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猫を拾ってくる娘というと、小学生くらいの女の子をイメージする方が多いかと存じますが、うちの娘は今年24になります。もっとも、中身は小学生とあまり変わらなかったりしますが(笑)。その娘も、それから妻も外で仕事をしていますので、いきおい、昼間は当方が面倒をみるしかありません。まぁ、世話といっても時折餌と猫牛乳をやるくらいで、あとはほとんどほっぽっていますが(笑)。

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光太郎智恵子も駒込林町のアトリエで、猫を飼っていました。

大正15年(1926)、雑誌『詩神』に載った光太郎の談話筆記「生活を語る」に、次の一節があります。

 家畜は犬が大変好きですがよく留守にするので飼わないのです。猫は飼つてゐたことがある。これは自活をしてゐたのです。岡田三郎助さんから黒い猫を貰つてきたので、すばらしくいゝ猫だつたのです。

岡田三郎助は洋画家。光太郎智恵子夫妻と家族ぐるみでつきあいがありました。

また、昭和26年(1951)、『高村光太郎選集』第三巻の附録に載った森田たまの回想。大正5年(1916)頃の話です。

 早春の一日、偶然町角で出会つたいまの夫を、私はふと思ひついて高村家へ連れて行つたのである。高村さんも智恵子夫人も、突然の訪問者をいぶかりもせず、あたたかくもてなして下すつた。(略)つやつやとした黒猫がゐて、それが夫の膝にのつたのを、この猫は他人の膝にのつた事はないのだと、猫に好かれた事が夫の性質の善良さを表はすやうに云つて下すつたりした。

その大正5年(1916)には、光太郎、そのものずばり「猫」という詩も書いています。翌年の雑誌『詩歌』に発表しました。

     猫006

 そんなに鼠が喰べたいか
 黒い猫のせちよ
 どんな貴婦人でも持たない様な贅沢な毛皮を着て
 一晩中
 塵とほこりの屋根裏に
 じつと息をこらしてお前は居る
 生きたものをつかまへるのが
 そんなにもうれしいか
 そんなにも止みがたいか
 ああ、此は何だ
 此は何だ
 黒い猫のせちよ
 お前はそれで美しい
 かぎりなく美しい
 だが私の心にのこる恐ろしい此は何だ


動物をモチーフにしている点、自らの荒ぶる魂を投影している点など、数年後に始まる連作詩「猛獣篇」の序曲ともいえる作品です。

「セチ」というのが高村家の猫の名前でした。奇妙な名前ですが、その由来は智恵子が岡田三郎助の妻、八千代に送った書簡で明らかになりました。大正4年(1915)10月の消印です。

きのふ田村さんが あれをつれて来て下さいました007 (2)
ほんとにきれいなのでよろこんで居ります
厚く御礼申上ます おとなしいひとですね
お宅ぢや惜しかつたでせうつて話して居ります
セチつてつけてやりました あの眼が
そんな気がしたのです セチつて星はセチの
オミクロンていふんですつてね
此度田村さんへ御出の時 どうぞお寄りに
なつて あれの様子を見てやつて下さいまし
いけないとこがあるといけませんから
きのふは少しシヨゲてましたがけふは元気に なれて
しまひました 高村から御主人にくれぐれ
よろしくつて申上ました
どうぞ 御遊びにいらして下さいまし
                御礼まで  艸々
   廿六日夕
 岡田八千代様
                   高村智恵

「田村さん」は作家の田村俊子。智恵子、岡田八千代ともども、初期『青鞜』メンバーです。

「おとなしいひとですね」って、人じゃないぞ、と突っ込みたくなります(笑)。もっとも、光太郎と縁の深かった当会の祖・草野心平は、酒に酔うと、腹を空かせた野犬を前に「犬だってニンゲンだ!」と叫んだといいますので……。この人たちの感覚はやはり違うのかも知れません(笑)。

「セチ」は星座の鯨座のラテン名「Cetus」の所有格「Ceti」から採った名前だということがわかります。「オミクロン」は鯨座を構成する星の一つだそうです。猫の眼がこの星のようだということですが、「セトゥス」や「オミクロン」では呼びにくかったのでしょう。しかし、洒落た名前の付け方ですね。うちの猫は本名「ツナ缶」、通称「ツナ」になってしまいました(笑)。ちなみに雌です。「セチ」は雄雌どちらだったのでしょうか。

「ツナ」嬢、当方がパソコンに向かって椅子に座っていると、脚から膝、さらに肩までよじ登ってきます。迷い猫だったわりに人なつこいというか甘えん坊というか……。さすがにパソコンを打つ時は邪魔ですので、別室で遊ばせていますが、原稿のチェックなど、その別室でもできる仕事の時には、かまってやりながらやっています。

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それにしても、自宅兼事務所には元々柴犬系雑種犬も一頭いて、朝夕それぞれ1時間弱の散歩もしなければならず、すっかり「いきものがかり」です(笑)。まぁ、どちらも癒してくれるのでいいのですが……。

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【折々の歌と句・光太郎】

毒物を置きて鼠にあたへむとしつつきびしき寒夜を感ず
昭和22年(1947) 光太郎65歳

「寒夜」ということで季節外れですが、ご容赦を。

花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での作です。光太郎、7年間の山小屋生活は、ずっと鼠との共同生活でした。毒を食べた鼠が井戸に落ちて死んでいたなどということもありました。そんなことから、山小屋生活の後半では、もはやあまり気にしなくもなったようです。もしかすると、黒猫の「セチ」を思い出していたかも知れません。

青森の地方紙『デーリー東北』さんの昨日の記事です。 

十和田湖畔休屋に人形館オープン 奈里多さんの代表作展示

 全国で根強い人気を誇り七戸町にアトリエを構える創作人形作家、奈里多究星(なりた・きゅうせい)さんのギャラリー「十和田湖究星人形館」が25日、十和田湖畔休屋にオープンした。奈里多さんの代表作である美しい人形約50体が並び、見る人を引き付けている。
 十和田湖レークサイドホテルの中村十二(じゅうじ)社長が、2013年と14年に休屋の休業中の旅館で開催された、奈里多さんの人形展を見て「期間限定ではもったいない」と思い、奈里多さんに呼び掛け、同ホテルが所有する、喫茶「赤とんぼ」の2階にギャラリーを設けた。
 ギャラリーには、十和田湖の乙女の像を題材にした作品や、人形劇に使われる大きな作品などが並ぶ。さらに、窓辺の喫茶・休憩スペースからは湖も眺めることができる。今後は小さい人形や、ポストカードの販売も予定している。
 中村社長は「十和田湖の一つの魅力となり、観光客の滞在時間が増えるきっかけになってほしい」と意気込む。奈里多さんは「湖には女性のイメージがあるので人形にぴったり。県外の人にも見てもらいたい」と話した。
 ギャラリーは11月上旬まで無休で開館。時間は午前9時~午後6時。入場料は一般500円、中学生以下は無料。問い合わせは十和田湖レークサイドホテル=電話0176(75)2336=へ。

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奈里多究星氏、調べてみたところ、七戸町のご出身で、同町の廃校になった小学校を使って「NonoUe人形の館」というアトリエ兼ギャラリーを開かれています(上記の準備のため7/20頃まで休館)。「Nonoue」は廃校となった小学校の名前、「野々上小学校」に由来しています。

記事にある「2013年と14年に休屋の休業中の旅館で開催された、奈里多さんの人形展」というのも、ネット上に情報が残っていました。当方が十和田で定宿としている十和田湖山荘さんの近くで、看板は今も残っており、これは何だろうと常々思っていましたが、ようやく納得いきました。

十和田湖の乙女の像を題材にした作品」というのが、非常に気になるところです。また十和田湖を訪れる際には立ち寄ってみようと思っております。

十和田湖周辺では、来月には「十和田八幡平国立公園 十和田八甲田地域指定80周年記念式典」、「第51回十和田湖湖水まつり」などのイベントが企画されています。併せて足をお運び下さい。十和田湖レークサイドホテルさんのサイトはこちら


【折々の歌と句・光太郎】

雨蛙今日はとるとてとりもせず萬年橋に白き瀬を見る(青梅在)

大正13年(1924) 光太郎42歳

「萬年橋」というと、隅田川にかかる深川萬年橋を思い浮かべますが、同じ東京でも奥多摩の入り口、青梅にある萬年橋が作歌の舞台です。蛙を木彫のモデルにしようとしたのではないかと思われます。

明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会2016」。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市です。神田神保町の東京古書会館を会場に、出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が7月8日(金)午前10時〜午後6時、7月9日(土)午前10時〜午後4時に行われます。昨年は光太郎関連出品物が少なく、行きませんでしたが、今年は種類が多い上に、気になる出品物もあるので、行って来ようと思っています。

目録に載った今年の光太郎関係出品物は以下の通り。

高村光太郎歌幅一幅 15万円~

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戦後の花巻郊外太田村在住時の揮毫です。光太郎本人による箱書きも附いています。書としての出来は素晴らしいものです。が、最低落札価格15万円と、かなり安めです。どうも、状態があまり良くないようで、その値段なのだと思われます。


高村光太郎色紙一枚 10万円~

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こちらもあまり状態が良くないようで、安めです。紙自体もきちんとした色紙ではないようです。戦後すぐくらいの時期にはこうした用紙がよく使われていました。


高村光太郎書簡一通 30万円~

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留学仲間の画家、山下新太郎にあてたもの。平成24年(2012)にも出品されました。


高村光太郎草稿一冊 100万円~

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今回、最も驚いたものです。昭和19年(1944)、『智恵子抄』の版元、龍星閣から刊行された詩集『記録』の原稿で、おそらく龍星閣に送られたものではなかろうかと推定できます。画像は各詩篇に付された前書きです。枚数が書いてありませんが、もし全篇揃っていれば、すごいものです。


高村光太郎詩稿九枚 50万円~

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昭和19年(1944)、青磁社から刊行された『歴程詩集2604』のために送られた草稿と推定できます。昭和63年(1988)にも出品されました。ただし、その時は12枚。3枚減っています。


高村光太郎戦後 「独居生活」資料集 40万円~
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こちらも平成24年(2012)に出品されたものです。詩人志望の青年に、断念するよう忠告する内容の書簡が二通。画像下の部分は、詩集を出版したいので序文を書いてくれ、という求めに対し、断りの書簡と共に別便で送られてきた詩稿を返送した際の包装と鉄道荷札です。尾崎喜八、草野心平からの書簡も附いています。


高村光太郎草稿一帖 10万円~
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昭和18年(1943)に刊行された木村直祐、宮崎稔共編詩集「再起の旗」の序文です。以前から東京の古書店の在庫として販売されていました。


高村光太郎詩稿三枚 30万円~
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昭和25年(1950)の雑誌『展望』に載った2篇の詩「RILKE JAPONIKA ETC.」「赤トンボ」の原稿。これも出版社に送ったものでしょう。昭和62年(1987)にも出品されていました。


某月某日・をぢさんの詩二冊 二枚 20万円~
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昭和18年(1943)刊行の詩集『をぢさんの詩』及び、随筆集『某月某日』。前者の編集に当たった詩人の高祖保に贈ったもので、ハガキも附いています。平成25年(2013)にも出品されました。

文学館等ではガラスケース越しにしか見られないものですが、7/8、9の下見展観では、これらを全て手に取って見ることが出来ます。

その他、名だたる文豪のいろいろな品もてんこ盛り。ざっと目録を拝見したところ、夏目漱石や島崎藤村の草稿で、最低落札価格が数百万円から、というものが目につきました。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

紫の細緒目によき檜木笠今朝みる木曾の霧青いかな
明治34年(1901) 光太郎19歳

自宅兼事務所周辺、今は霧雨に包まれています。今日明日は雨の予報。関東は水不足。これで解消して欲しいものです。

北海道帯広に本社を置く『十勝毎日新聞』さんに、1週間前に載った記事です。 

原発事故への思いCDに 福島出身の村越さん 芽室

 福島県出身で町内在住の元高校教諭、村越英男さん006(85)が2011年の福島第1原子力発電所事故を契機に制作してきた詩を基に、知人の協力でCD「朗読集 望郷」を製作した。古里の言葉で朗読した村越さんは、原発事故で一変した福島の人々の日常に寄り添いながら、少年時代を過ごした古里への思いを込めた。

 村越さんは、県中央部に位置する川東村(現須賀川市)出身。職業軍人に憧れ、1945年に陸軍の技能者養成所へ入り、終戦を迎えた。戦後は教員の道へ進み来道。士別高校(士別市)や芽室高校の教諭を務めながら、原水爆禁止などの平和運動やそば打ち、合唱に汗を流した。書道には幼少期から親しみ、芽室高では書道部の顧問も務めた。

 今回、朗読した「望郷」は、11年に知人から「芽室そば研究会の会長退任の花道に」と展示会の開催を持ちかけられた時に書いたもの。

 製作期間中に東日本大震災と原発事故が発生し、避難した親族もいた。

 「事故が起こるまで福島にあんなに原発があったとは知らなかった。幼い頃を過ごした豊かな福島はどうなってしまうのか」。村越さんは高村光太郎の詩をモチーフに、避難せざるを得なかった住民への同情や、原発を推進した国やマスメディアへの怒りを込め、「望郷」を書き上げた。

 CD化は、昨年末に町内で平和を考えるイベントを企画した有志が「望郷」の展示を依頼したのがきっかけ。「書だけでなく、声でも参加してもらおう」と村越さんの朗読を録音し、会場で流した。

 有志に加わっていた元小学校教諭の岡田幸造さん(62)は「福島弁で語りかけられ、涙が出るほど感動した」といい、有志で編集委員会をつくり、録音から表紙までCDを自作。望郷の他にも村越さんが書にしたためた詩なども収められた。村越さんは「伝えたかった思いを形にしてくれてありがたい」と話す。

 CDは「材料費程度の負担で頒布したい」と岡田さん。


問題の詩は、ネットで調べたところ、震災の年にアップされていた「やまざきあきら」さんという方のブログに引用されていました。

望郷ーあれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川

 なして? どうして?!
  私の生まれ育ったフクシマ

  いつでも人様に尽くすことを喜ぶ
  やさしさにあふれた人たち。
 なして、いつの間にの怖ろしい原発を
  あんなにもたくさん作らされていたの。
 そんなに東京の人たちが大事だったんだべか。
  マデに(真面目に質素に)生きていくべって
  カネ目当ての町村合併まで拒んだ飯舘村の人たち、
 なして、あんたたちまで田んぼやベコまで捨てて
  いったい、どこさ逃げさせられるだっぺ!
  原発は金になっからと素直な県民をおだてだましてきた、
  時の政治家や財界の偉い人たち、
  そして安全だから大丈夫だからと煽り続けた
  学者マスコミの人たち。
 3月11日の後、大熊町に来て切腹した人でもいたったべか!
  家族ぐるみで移り住んで後片付けしているんだべか。
 フクシマの「善人」たちよ、もうあん人たちの
  口車には乗せられないでよ!

 あれが安達太良山 あの光るのが阿武隈川

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元ネタは、『智恵子抄』にも収録された「樹下の二人」ですね。作者の村越さんは、須賀川のご出身だそうで、そういう立ち位置にいらっしゃる方でなければ書けない内容だと思います。

今年の九州の震災では、改めて原発問題を考えさせられました。

あまり報じられていませんが(あまり報じられないところに何らかの圧力を感じます)、九州電力の黒川第一発電所(水力)の施設が崩落しました。これが原発だったらと思うと、ぞっとします。

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震源域に近い川内原発は、「停止すべき」という声が上がっていたにもかかわらず、運転続行。「停止すべき」という声に対しては、「被災者の皆さんが電気を使えなくなったら困る」と、問題のすり替え。昨年、再稼働するまで川内原発以外の発電所で作られた電力で十分にまかなえていたわけですから。そして余震の群発がほぼ納まると、「結局、何もなかったじゃないか」。何かあってからでは遅いのですが……。

さて、参議院選挙が公示されました。先の「大義なき解散」といわれた一昨年の衆議院選挙でもそうでしたが、原発問題は全くといっていいほど争点に上げられていません。震災後の東北を50回以上訪れた当方としては、それでいいのだろうか、と思ってしまいます。

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【折々の歌と句・光太郎】

ていねいにかさなり合ひてまんまろく玉菜のあつ葉たたまるやさしさ

大正13年(1924) 光太郎42歳

「玉菜」はキャベツです。この時代には農作物の放射能汚染など、考えられなかったでしょうね。

昨日、埼玉県東松山市の元教育長で、生前の光太郎をご存じの田口弘氏から、市へ光太郎の肉筆資料等のご寄贈があった旨ご紹介いたしました。その件が今日、『東京新聞』さんの埼玉版で報じられています。今日の時点で、他紙では報じられていないようですが、今後、記事が出る可能性もありますので、しばらく様子を見てから『東京新聞』さんの記事をご紹介します。

今日は、1週間前の『日本経済新聞』さんに載った記事から。

「リーダーの本棚 辺境から世界を見つめる」と題された読書面の記事で、世田谷美術館館長の酒井忠康氏へのインタビューです。

酒井氏がピックアップされた「私の読書遍歴」という項に、光雲談話筆記『光雲懐古談』が紹介されています。

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インタビュー本文は長い上に、光太郎、光雲、智恵子の名が出て来ませんので、テキスト化はしません。上記画像、クリックで拡大しますので、そちらでお読み下さい。

当方の書架には酒井氏が関係された書籍が何点かございます。

『日本の近代美術11 近代の彫刻』(大月書店 平成6年=1994)。酒井氏の責任編集です。「高村光雲《老猿》」「高村光太郎《腕》」という章があり、ともに神奈川県立近代美術館学芸員(当時)の堀元彰氏のご執筆です。

『高村光太郎 いのちと愛の軌跡』(山梨県立文学館 平成19年=2007)。同名の企画展図録です。酒井氏の論考「高村光太郎の留学体験」が掲載されています。また、同展の関連行事として、酒井氏、当時の同館館長の近藤信行氏、光太郎令甥の故・高村規氏のお三方による鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」も開催されました。

『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』(青幻舎 平成27年=2015)。昨年の平塚市美術館さんから全国巡回が始まり、現在、最後の巡回先の北海道立函館美術館さんで開催中の同名の企画展図録を兼ねた書籍です。平塚市美術館館長代理・土方明司氏(光太郎と縁が深く、酒井氏の師でもあった美術史家・土方定一の子息)の司会で、信濃デッサン館・戦歿画学生慰霊美術館無言館館長・窪島誠一郎氏との対談が収録されています。光太郎についても触れられています。

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006そして、氏が「私の読書遍歴」でご紹介された『光雲懐古談』。その前半部分を文庫化した『幕末維新懐古談』(岩波書店 平成7年=1995)。解説を酒井氏がご執筆なさっています。

昨年、NHKさんの「日曜美術館」で、「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」が放映されました。光雲制作の秘仏が初めて御開帳された「高野山開創1200年 金堂御本尊特別開帳」にからめての企画でしたが、ディレクター氏は、同番組のブログで、そもそものきっかけは『光雲懐古談』の衝撃的な面白さだったと述べられています。

内容もさることながら、光雲の語り口の妙、たしかに「衝撃的な面白さ」です。この点は、光太郎も影響を受けているのではないかと思われます。光太郎の文章も非常に読みやすく、範としたいものですが、その素養のある部分は、非常に語りがうまかったという光雲から受け継いでいるような気がします。

岩波文庫版はまだ版を重ねているようですので、ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

森々と更け行く闇のむかつをにひとりたのしむ電(いなづま)のかげ

明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「むかつを」は「向つ丘」。「向こうに見える丘」といったところでしょうか。万葉集などに使われている古語です。

埼玉県のローカルテレビ局、テレ玉さんが昨日報じたニュースです。

高村光太郎と親交があった男性 直筆書簡などを寄贈

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎と親交があった男性が高村光太郎から送られた書簡や書籍など100点あまりを東松山市に寄贈しました。東松山市役所を訪れたのは、市内在住で、市教育長を17年間務めた田口弘さん(94)です。田口さんは、旧制中学時代に高村光太郎の研究をはじめ、その時に使っていたノートが「高村光太郎選集」の編集に資料として使われたことから、20歳の頃に高村光太郎と出会い、高村から詩集を贈られるなど交流を続けました。「高村光太郎がライフワーク」と話す田口さんが集めた書籍およそ80冊や直筆の書簡、掛け軸など、およそ100点が寄贈されました。東松山市の森田光一市長は、「市の宝として、多くの人に見てもらえるようにします」と感謝の意を述べました。田口さんから寄贈された書籍などは、8月10日から28日まで市立図書館で一般公開されるということです。

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田口氏は記事にもあるとおり、東松山市の教育長を永らく務めた方です。その間、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営や、東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻通り」の整備などにも力を注がれました。「彫刻通り」は光太郎と縁の深かった故・高田博厚の作品――光太郎胸像を含む――を屋外設置したものです。また、やはり氏のお骨折りで、市立新宿小学校さんには、光太郎の筆跡を刻んだ「正直親切」の石碑が昭和58年(1983)に建立されています。

当方、昨年、東松山の田口氏のご自宅を訪問させていただきました。かつて光太郎命日の集い・連翹忌にご参加いただいていましたが、最近はご高齢のため遠出は不可能とのことで、ご欠席が続いており、10年ぶりくらいにお会いしました。その際のレポートがこちら。氏と光太郎の縁や、今回寄贈された品々の簡単な解説も載せてあります。

その折に、その品々の寄贈先についてのご相談も受けました。当会に寄贈、というお話もあったのですが、それよりも地元のお宝として、市に寄贈されるか、花巻の高村光太郎記念館さんなどの施設に寄贈されるかした方が良いでしょうというお話をして参りました。結局、市に寄贈なさったというわけです。

過日、東松山市立図書館さんから光太郎関連資料の寄贈を受けた旨、メールを戴きました。その中の書簡一通についてのご質問でしたが、個人情報保護の観点からでしょう、最初は田口氏の名は書かれていませんでした。しかし、「東松山」「光太郎」「寄贈」で、田口氏だとピンと来ました。はたしてその通りだと追伸のメール。ただ、失礼ながらお年がお年ですので、亡くなられ、ご遺族からの寄贈かとひやっとしましたが、それは違うとのことで安心しました。

テレ玉さんで、市立図書館さんでの公開については触れられていましたが、さらに会期中に田口氏ご本人の講演も企画されているとのことです。戦後の光太郎をご存じの方はまだ多くご存命ですが、花巻疎開前の駒込林町アトリエ時代をご存じの方はめっきり少なくなりました。非常に貴重な証言が聴けるはずです。

東松山での展覧会については、詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

稲妻や旅の靴ぬぐ夕まぐれ        明治42年(1909) 光太郎27歳

そろそろ梅雨も終わりに近づいています。そうすると大気の状態が非常に不安定。九州などでは豪雨の被害も出ています。雷や突風、低い土地への浸水など、十分お気を付け下さい。

昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、8月9日から約1ヶ月、宮城から岩手の三陸海岸一帯を旅して廻りました。

その旅のはじめの頃に訪れたのが、、宮城県牡鹿郡女川町。

五 女川港(『時事新報』 1931/10/10掲載より抜粋)
 牡鹿半島のつけ根のぎゆつとくびれて取れ相な処、その外側の湾内に女川がある。船で廻ると一日がかりだが石巻からバスで行けば水産学校のある渡波(わたのは)を通りぬけ、塩田のある万石浦に沿つて二時間足らずの道程だ。朝七時に出ると九時には着く。女川で船を見つけるつもりで出かける。女川湾は水が深くて海が静かだ。多くの漁船が争つて此の足場のいい港へその獲物を水上げする。海岸には東北水産株式会社といふものが巨大な清潔な魚市場を築造して漁船を待つている。三陸沿岸では一番新らしい一番きれいな水上げ場だ。女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている。活発な魚類の取引を見ていると今に釜石あたりをも凌ぐ様になるかも知れない気がする。ところで、海に面する此の新鮮きに対比して、町そのもののぼろの様な古さと小さきとには驚かされる。この古さは珍しい。魅力は此の新古均等の無いところにある。

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これを記念して、平成3年(1991)に、「高村光太郎文学碑」4基が、女川港に建てられました。中心になったのは「女川光太郎の会」さん。町内外からの募金で、当時おそらく日本一という規模の文学碑を建立。

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さらに、翌年からは毎年8月9日に、「女川光太郎祭」が、その碑の前で開催されました。毎年、当会顧問の北川太一先生のご講演が盛り込まれていました。

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やがて平成23年(2011)3月11日、東日本大震災が発生。女川は最大17メートル以上の津波に襲われ、中心街は壊滅、住民の1割近くが亡くなりました。その中には、文学碑の建立や光太郎祭の開催に尽力していた、女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣さんも含まれていました。震災直後、東北地方沿岸が激甚な被害に見舞われたということで、仲間うちで貝氏の消息について情報収集に努めましたが、なかなか消息がわかりませんでした。一度はネット上で避難所に入った方のリスト(手書きコピーのPDFファイル)にお名前を見つけ、安心したのですが、よく見るとお名前の上にうっすら横線。単なる汚れなのか、それとも抹消されたということなのか、前者であって欲しいという願いも虚しく、やがて津波に呑み込まれたという報が届きました。それでもまだどこかでひょっこり生き延びていられるのではと、一縷の望みを持っていましたが、さらに、ご遺体発見の報……。ショックでした……。

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さらに4基あった文学碑のうちの2基は津波で流失、残る2基も再建のめどはまだ立っていないようです。

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震災の年の8月、例年届いていた案内状も来ず、「もはや光太郎祭どころではないのだろう」と思っていました。しかし、あにはからんや、会場こそ女川第一小学校に移ったものの、しっかりと第20回女川・光太郎祭が開催されたとのこと。人間の持つ、逆境に屈しないパワーを改めて感じました。 

震災に負けず光太郎祭

『河北新報』 2011/8/10
 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第20回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川一小で開かれた。「文学でまちを元気にしよう」と企画を発案し、事務作業を一手に引き受けてきた会事務局の貝広さん(64)=同町女川浜=が震災の犠牲となり、毎年、会場となった女川文学碑公園も津波で損壊した。祭りの中止も検討されたが、会員有志が「貝さんの遺志を引き継ごう」と決意。音響会社などの協力もあって継続することができた。
  冒頭のあいさつで、女川・光太郎の会の須田勘太郎会長(70)は「震災で、貝さんをはじめ多くの人が帰らぬ人となった。光太郎の残した紀行文は、水産業のまち女川の文化遺産。復興の励みにしたい」と強調した。
  貝さんは有志を募って、光太郎が三陸地方を巡り、同町に立ち寄った際に書いた紀行文などを題材にした文学碑を1991年に建立。
  行政や団体からの補助金に頼らず、寄付だけで資金を集めた草の根運動が注目を集めた。碑の周囲を公園化し、92年から光太郎が三陸巡りに出発した8月9日に光太郎祭を実施。町民や光太郎の詩の愛好者、研究者が全国から集まるイベントに成長した。
  今年は、光太郎が女川町を訪れて80年、光太郎祭は20回の節目。貝さんは年明け前から開催準備に入っていたが、津波により女川文学碑公園近くの自宅で生涯を閉じた。

その後も仮設住宅集会所、仮設商店街と場所を変えながら、女川光太郎祭は継続。今年で25回目となります。平成25年(2013)からは、当方が記念講演を務めさせていただいております。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、昨夜、千葉県浦安市のディズニーリゾート脇にある、シネマイクスピアリさんにて、その女川の復興を追ったドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」を拝見して参りました。

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当方の住む千葉県での上映はここだけで、なぜ浦安? と思っていたのですが、震災の被災地つながりで、平成25年(2013)に、復興支援を目的としたイベントが開催されていた縁などがあったためのようです。

そんなわけで、上映前には、プロデューサー・益田祐美子氏、浦安商工会議所会頭・柳内光子氏らの舞台挨拶がありました。

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映画本編は73分と短めでしたが、女川の復興にかける、人々の熱い思いが詰まった一篇でした。女川光太郎祭に毎年ご協力いただいている須田善明町長も主要キャストとしてご出演。同じく光太郎祭で演奏して下さっている女川潮騒太鼓轟会の方も写りました。昨年の光太郎祭の様子はこちら

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主に昨年3月のJR石巻線女川駅の復旧時、それに伴って行われた「復幸祭」、同じく昨年12月の「おながわ復興まちびらき2015冬」前後の様子が中心でした

さらに、中東の国・カタールからの支援。カタールは、女川同様に水産業もさかんで、かつて天然ガスのプラント建設で日本の援助を受けたことから、『カタールフレンド基金』(総額1億米ドル)を設立。震災の翌年、そのうちの20億円をかけて、女川港に多機能水産加工施設「MASKAR(マスカー)」が作られました。こちらもある意味、復興のシンボルです。

こうした熱い物語の数々に、当方の隣に座られていたご婦人は何度もハンカチで涙をぬぐわれていました。当方も、女川駅復旧で一番列車到着のシーンには、思わずうるっときました。鉄道マニアではないのですが、光太郎文学碑が出来て間もない頃、石巻線で壊滅前の女川を初めて訪れた時のことを思い出したのです。

その後調べたところ、以前にご紹介した時よりも、上映館が増えていました。今後上映されるのは以下の通りです。

宮城  石巻・みやぎ生協文化会館アイトピアホール
  7/15(金) 18:30
 テーマソング歌唱幹miki復幸ライブ
岩手   盛岡ルミエール            7/16(土)~7/22(金) 
青森   シネマディクト ルアール/ルージュ    6/25(土)~7/1(金)
神奈川 シネマ・ジャック&ベティ 
舞台挨拶あり  7/16(土)~7/22(金) 
岡山   岡山メルパ                6/24(金)迄 9:45/15:35
愛媛   松山市総合福祉センター 大会議室    7/17(日)18(月・祝)13:00/16:00
 

さらに上映館が広がってほしいものですし、自治体さん、学校さんなどでの上映にも対応していただきたいものです。

また、のちほどご紹介しますが、今年も8月9日に女川光太郎祭が開催されるはずです。こちらもよろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

里とほく荒磯づたひさまよひて岩かげに泣く海人(あま)を見しかな

明治33年(1900) 光太郎18歳

三陸といえば、海女さん。ただし、この歌は伊勢の歌人・太田軽舟の作品と共に雑誌『明星』に掲載されており、伊勢の海女さんを詠んだものかもしれません。

日曜日の『産経新聞』さん、千葉版に載った記事です。 

【Faceちば人物記】九十九里の松林守りたい 千葉市緑区の樹木医・石谷栄次さん(67)

 「植物の観察が好き。子供のころは学校の帰り道に雑草を見ながら確認して歩いた。自然の多様性にひかれる」。マツ枯れの発生している九十九里海岸の松林の再生などに取り組むボランティア団体「九十九里海岸の松林を守る会」代表として、同海岸にある松林の景観維持に奔走。病害虫「マツノマダラカミキリ」の駆除や、マツの大苗の植栽の管理などに取り組んでいる。
 関東に広がる大地、武蔵野の自然の中で育った。植物の観察が好きで、林の中で遊んでは草などの名前を覚えた。中高時代は生物部に所属し、植物を使った実験などに熱中。鳥取大農学部林学科に進学すると、ミミズやムカデといった多くの虫を研究し、自然の奥深さに一層ひかれていった。
 昭和49年に県に就職し、県の埋め立て地の緑化を推進する「環境緑化研究室」などで働いた。そうした仕事のなかで、樹木医と接する機会があった。木の治療をできることに魅力を感じ、平成14年に53歳で樹木医の資格を取得。埋め立て地の緑化に携わった経験から、緑化しにくいはずの海岸沿いに松林がある九十九里海岸に興味を持った。
 戦後に植えられた同海岸の松林は、地域住民により維持されてきた。農作が盛んな本県では、松林が風や砂から畑を守ってきたという。防災林でもあり、津波などから町を守る効果もある。
 だが、戦後に植えられてから40~50年がたち、マツは手薄な保護や病害虫などにより枯れてしまう。一宮町東浪見の真っ赤に枯れているマツを見て危機感を募らせ、「松林を守りたい」と奮起。17年に「九十九里海岸の松林を守る会」を結成し、松林の再生に賛同した者らと植林などに取り組み始めた。
 会結成の当初は、知名度不足のためか、病害虫の駆除イベントを行ってもなかなか人が集まらなかった。そこで、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻で明治の洋画家としても有名な高村智恵子の親が昔住んでいた場所で植林のイベントを行うなど、注目を集めるよう工夫。活動の輪を徐々に広げ、これまで会で植えたマツは約千本に上っている。
 病害虫の駆除は容易ではない作業だ。だが、「やりたいことをやってこれた。現場で起きている問題を解決することが楽しい」と充実した表情で話す。白子町でマツの植林イベントを行った際には、参加した親子から「地域に貢献できた」と笑顔で話しかけられるといううれしい出来事もあった。
 「今後は、マツ枯れの予防技術と開発に取り組みたい」と抱負を語る。その一つが現在作成中の病害虫の検索システムで、インターネットを使い全国の樹木医に情報を発信してもらって被害分布図を作ることを目標にしている。「技術を提供し、診断と対策を提案したい。自分たちに何かできることを取り組みたい」と力を込めた。(牧山紘子)
                   ◇
【プロフィル】石谷栄次
 いしたに・えいじ 昭和24年、東京都小平市出身。千葉市緑区在住。樹木医で「九十九里海岸の松林を守る会」代表。趣味は花の写真撮影。好きな植物は紫色の花を咲かせる「ブーゲンビリア」といった熱帯植物。鳥取大卒。

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昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が約半年間療養した九十九里浜。その長大な海岸線に植えられた松林を守って下さっている樹木医さん。頭が下がります。


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こういうイベントがあったとは、気付きませんでした。

九十九里で智恵子が療養していた家は、「田村別荘」という名で、県道を挟んで国民宿舎サンライズ九十九里さんの斜め向かいにありました。その後、真亀川を渡った隣の大網白里市に移築され、保存されていました。一時は敷地内に光太郎短歌を刻んだ歌碑が新たに建てられたり、建物と一緒に移植されたというサボテンの木にも説明板が付けられたりと、きれいに整備されました。

しかし、平成11年(1999)3月、いろいろな感情的な行き違いなどがあり、突如取り壊されてしまいました。

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その後は荒れ放題となり、歌碑のみは残っているはずですが、雑草が繁るにまかせて近づけない状態になっていました。サボテンの木も現存しません。

上記チラシの地図を見ると、どうもここで植林イベントが行われたようです。気付きませんでした。


さて、東日本大震災後、東北の海岸では松林ならぬ巨大防潮堤の建設が進んでいるところもあります。それで本当に住民の皆さんの命が守れるならいいのですが、どうもゼネコンが群がる利権の匂いがぷんぷんしています。当方、毎年訪れている光太郎ゆかりの宮城県女川町では、防潮堤建設という選択はせず、あくまで海と共に生きる街作りを選びました。そのかわり、有事の際には徹底して逃げる、ということを統一方針としています。

なかなか難しい問題だとは思いますが、松林の整備などにももっともっと力が注がれて然るべきだと思われます。

女川、といえば、今夜、以前にこのブログでご紹介したドキュメンタリー映画『サンマとカタール 女川つながる人々』を拝見して参ります。明日はそのレポートを。


【折々の歌と句・光太郎】

中之條雲を出で来て人ごゝろ     昭和4年(1929) 光太郎47歳

「中之條」は通常「中之条」と表記される、群馬の中之条温泉です。この年、詩人の尾崎喜八と共に泊まった鍋屋旅館の宿帳に残した一句。まさに雲の中を歩くような雨天時の山歩きだったのではないでしょうか。

鍋屋旅館は江戸時代初めの創業。『東海道中膝栗毛』の十返舎一九や、安政の大獄の高野長英なども泊まったそうです。

彫刻家高村光太郎最後の大作である「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ、青森十和田湖からのイベント情報です。

十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年記念 第51回十和田湖湖水まつり

期 日 : 2016年7月16日・17日、18日(花火は16日・17日)
場 所 : 十和田湖畔休屋  十和田市十和田湖畔休屋486
時 間
 : 16日・17日 10:00~21:00 18日は花火予備日 クルージングのみ10:10~

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16日(土)、17日(日)の両日とも、18:00から乙女の像のライトアップ、さらに20:00から花火の打ち上げがあります。その他、燃料電池車MIRAIの試乗会、魚つかみどりなど、さまざまなイベントが企画されています。

18日(月・祝)は、花火の予備日であるとともに、遊覧船に500円で乗れるというワンコインクルーズが実施されます。昨年までは抽選で決めていたようですが、今年は先着200名だそうです。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

五月雨の山窟(やまむろ)くらき狸汁奇士大(だい)さんの笑ひやうかな

明治37年(1904) 光太郎22歳

舞台は青年期の光太郎が足繁く登った上州赤城山。「大さん」は、その山中に独居していた一風変わった人物(奇士)です。なぜか光太郎とは馬が合い、光太郎はよく訪ねていきました。

光太郎の親友であった作家の水野葉舟がこの年に記した「夏籠――赤城日記」から。

 道々高村君は大さんの身の上話をした。もとは上州でも有名な博徒であつたが、女房が変な奴だとかで、大さんは多少ある財産を持つて、わづらはしい生活をするのを嫌つて、突然其を女房と息子にくれてやつて、この山上(やまのうへ)の氷小屋の番人になつたのだ。――顔なども剛な処があつて、それでひどく無邪気だ。笑ふ時などはまるで子供の様だ。高村君がこう話したので、
「幾歳(いくつ)位だい?」
と聞くと、
「五十四五だらうね」

大さんの暮らす氷小屋(山窟)の様子は以下の通り。

 小さな路がついて居て、藪を廻ると、倒れかゝつた垣根があつて、其処に鶏が遊んで居る。小屋と言つても、私などが嘗て見た事の無い程のあばら屋だ。一方土を切り下げ壁の代りにして、小屋が建てられてある柱には皮のまゝの木が使つてあつて、其に一つもそろつて居ない板が乱雑に打ち付けてある。そして入口には筵が下げてあつた。

しかし、この時、大さんは近在に熊が出たというのでそれを仕留めに行っていて留守。

 炉には大きな鍋がかかつて居た。小屋の中は二つに仕切つてある。一つは物置らしく、まつくらだ。一つの方は、僅かに、床があつて、其上に板が並べてある。其板の上には筵が敷いてあつた。寝道具が一隅(ひとすみ)に、其他色々な道具を入れる棚の様なものが有る。――大さんの坐たらしい炉のふちには山犬の皮が二三枚敷いてあつた。窓と言つては一つもない。中はいつも薄暗く、たゞ入口の筵の間からと、壁の板の隙からと、日がさし入つて来るが、穴の中の様な心持がした。

戦後、光太郎が独居生活を送った花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)を彷彿とさせられます。光太郎も山小屋生活を始めるにあたって、おそらく40数年前に訪れた大さんの氷小屋をイメージしていたのではないかと思われます。

昨日、自宅兼事務所に案内が届きました。当会の祖にして光太郎と深い縁で結ばれた、草野心平が愛したイベントです。心平没後は心平を偲ぶイベントとなりました。 

第51回天山祭

期  日 : 2016/07/09(土)
時  間 : 午前11時30分から14時まで001
場  所 : 天山文庫前庭 
       福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513 
        雨天時は川内村村民体育センター
  
     福島県双葉郡川内村大字上川内字小山平15

当日の送迎バス(要予約 6/30〆切)
 川内村行き 郡山駅西口発 午前9時15分
    東北新幹線やまびこ125号に接続 東京発7:32 郡山着8:55
 郡山駅行き 川内発 午後2時45分
 東北新幹線やまびこ216号に接続 郡山発16:39 東京着18:16

翌日の送りバス(要予約 6/30〆切)
 郡山駅行き 川内発 午前8時30分
 東北新幹線やまびこ132号に接続 郡山発10:27 東京着11:48

村内宿泊施設
 小松屋旅館       川内村上川内字町分211  0240-38-2033
 ビジネスホテルかわうち 川内村大字上川内字町分394       0240-38-3181                                            
 ビジネスホテルアゴラ  川内村大字上川内字瀬耳上265番地3 0240-23-6300
 いわなの郷コテージ   川内村大字上川内字炭焼場516 0240-38-3181 グループのみ

申し込み (送迎バスの利用がなければ不要)
 天山祭り実行委員会事務局 : 川内村教育委員会教育課生涯学習係 0240-38-3806


ネット上には今年の第51回の案内等はまだ出ていません。当方、昨年まで3年連続で行っておりました。平成25年(2013)、平成26年(2014)、平成27年(2015)、それぞれのレポートにリンクを貼っておきます。

川内村ではつい先週、東日本大震災に伴う福島第1原発事故により、村内で継続されていた避難指示が全て解除されました。  

川内村全域で避難解除=指示継続の2地区―福島

 東京電力福島第1原発事故により、福島県川内村の一部で継続されていた避難指示が14日に解除され、全域が避難対象から外れた。
  同村では2014年10月に避難指示解除準備区域の避難が解除されたが、居住制限区域だった2地区は解除準備区域に変更された上で、避難指示が続けられていた。
  今回解除対象の同村荻、貝ノ坂地区の人口は19世帯51人(今月1日時点)。村では、両地区内の除染終了を受け昨年11月から帰村に向けた準備宿泊を実施していたが、登録者は1世帯2人のみで、解除後すぐに村へ戻るのはごく一部にとどまるとみられる。
  政府や村は、住民から不安の声が上がっていた放射線への対策として、希望者に線量計を配布。線量の高い地点が見つかり次第、追加の除染を行う。
(時事通信 6月14日(火)0時25分配信)

しかし、避難指示解除即住民帰還とはならないようです。それも致し方ないとは思いますが、天山祭などを通じて村が盛り上がり、やがてはかつての活気を取り戻すことを祈念しております。


【折々の歌と句・光太郎】

赤蛙にげるな汝を取るといへど喰ふにはあらず皮むくにあらず

大正13年(1924) 光太郎42歳

草野心平といえば、蛙。梅雨時で蛙も活気づいています。川内村の平伏沼では、心平が愛し、村と心平の架け橋になったモリアオガエルの産卵が始まったそうです。

さて、大正13年(1924)の光太郎。木彫のモデルにでもするために、蛙を捕まえようとしていたのではないかと思われます。だから「喰ふにはあらず皮むくにあらず」。

しかし、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での暮らしでは、蛙を捕って食べていたそうです。

昭和27年(1952)に行われた、詩人の竹内てるよ、食料産業研究所長・川島四郎との座談会「簡素生活と健康」(『主婦之友』に掲載)の一節。

竹内 主食の量は違いましたか。
高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お米でも稗でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね、まだ動いているのを皮をはいで……。近所にはいゝ奴がどつさりいたんです。蛇もいたが、これは歯が悪いので駄目でした。

ワイルドですね(笑)。

岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんからの企画展情報です。 

高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵

期 日 : 平成28年7月15日(金)~11月23日(水祝)
時 間 : 8:30~16:30
場 所 : 高村光太郎記念館(花巻市太田3-85-1)
概 要 : 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎の妻、智恵子。
      その智恵子が晩年制作していた紙絵を展示する企画展。
入館料 : 高村光太郎記念館・高村山荘 一般550円、高校生・学生400円、小中学生300円
連絡先 : 高村光太郎記念館 0198-28-3012

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。その妻、智恵子は雑誌『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、新鋭の画家として注目されるなか光太郎と出会い、結ばれました。結婚後、智恵子は自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散が重なり、心の病に侵され睡眠薬で自殺を図ります。一命は取りとめたものの長い療養生活に入り、その後回復することはなく、昭和13年に入院先のゼームス坂病院でこの世を去ります。享年数え53歳の生涯でした。
 晩年の智恵子は作業療法として身の回りにあった色紙や包装紙など、様々な紙をマニキュア鋏で切りぬき、台紙に貼りつける「切り抜き絵」を多く制作します。それらは光太郎ただ一人に見せるために作られました。後に光太郎は智恵子の遺作となった切り抜き絵を「紙絵」と名づけました。太平洋戦争の空襲で光太郎はアトリを全焼し自身の作品の多くが焼失しましたが、智恵子の紙絵は花巻など地方に疎開させていて難を逃れました。
 智恵子が生み出し、光太郎が守り抜いた紙絵、紙絵の疎開先であり、詩集「智恵子抄その後」が送り出された当地で開催する企画展で、繊細な表現と独自の色彩感覚を持つ智恵子の紙絵をご覧いただき、光太郎と智恵子の思いを感じていただければ幸いです。

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というわけで、智恵子生誕130年を記念し、紙絵の現物が展示されます(複製も)。

過日、その打ち合わせのため、記念館のスタッフお二方と共に、千駄木の高村家に行って参りました。紙絵の大半は今も高村家に保管されています。
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一昨年、光太郎の令甥にあたり、永らく高村光太郎記念会理事長を務められていた写真家の村規氏が亡くなり、今は令息でやはり写真家の達氏が高村家を守られています。

搬入、搬出の日程やら、展示方法等の確認などをして参りました。額装はせず、そのまま斜めに置いて展示すること、作品保存のため、2週間くらいのスパンで作品を入れ替えること等々。紙絵は昭和11年(1936)~同13年(1938)の間に制作されたと推定され、80年が経過しようとしています。もともと高級な紙を使用しているわけでもなく、一日出せばその分褪色するという、非常にあえかな作品です。そのため、展覧会等で現物を出す場合には、照明を落としたり、その照明も熱を発しないものにしたりと、細やかな配慮が必要です。

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現物の何枚かを、手に取らせていただきました。見たことは何度もありますが、触れるのは初めてで、感動しました。約80年を経た智恵子の息遣いが聞こえてきそうでした。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、信州安曇野の碌山美術館さんでも、この夏、智恵子の紙絵現物が展示されます。こちらは「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」(7/23~8/28)においてです。

さらに智恵子の故郷・福島二本松でもこの秋に歴史資料館さんで、企画展「智恵子と光太郎の世界展」があり、そちらでも(或いはそれに合わせて智恵子記念館さんで)紙絵の現物が展示されます。

以前にも書きましたが、色彩の美は複製で感じられるものであっても、紙絵の現物は、厚さ1ミリに満たない中にも紙の重なりによる立体感が感じられ、これは複製にはないものです。

いずれかの機会に、実際にご覧になることをお勧めします(欲をいえば、3つの機会とも)。


【折々の歌と句・光太郎】001

よび鈴をそつと鳴らして逃げし子はいま横丁をまがらんとする
大正15年(1926) 光太郎44歳

昭和20年(1945)の空襲で全焼した駒込林町のアトリエ。上記の実家とはほとんど背中合わせのような位置関係でしたが、実家は焼け残り、アトリエは灰燼に帰しました。

玄関入り口には紐を引くと中でカランと鳴る呼び鈴があったそうで、それを鳴らすと光太郎か智恵子が玄関脇の小窓を開けて顔を出したそうです。

大正末にはすでにピンポンダッシュの悪戯があったのですね。90年前にそんな子供が近所にいたんだと思いつつ、千駄木の街を歩きました。

一昨日の『岩手日日』さんの記事から。 

花巻の魅力 知って 観光協会 地元塾教本を発行

 花巻観光協会(佐々木博会長)は、冊子「はなまイメージ 1き地元塾教本」を発行した。花巻市内外の人たちに花巻の魅力を知ってもらおうと、市内の歴史や文化を分かりやすくまとめたもので、多くの活用に期待を込めている。
 市内の歴史や文化、先人、イベント、特産物などの知識を深めてもらうことを狙いに、同協会を構成する企業や団体、個人合わせて390会員向けに製作。会員には旅館など、観光客と関わる企業などもあることから、花巻について再認識するとともに、もてなしの一つの手段として役立ててもらうことを想定している。
 同協会が主催している「はなまき通検定」のテキストを基に編成。冊子は▽あなたは知ってるね?花巻市の概要▽歴史を感じる文化財▽技と味な特産品▽キラリと輝く先人達▽にぎわいイベント▽知ってソン(損)のない?雑学―の6項目で構成している。
 このうちキラリと輝く先人達では、宮沢賢治や高村光太郎、多田等観など10人余りについて、年表や写真などを用いて人柄や経歴を説明。史実などは、関係機関やボランティアガイドなどの協力を得て盛り込んだ。
 このほか、市内の民俗芸能や名産、方言などの雑学も分かりやすく掲載。主なイベントを月ごとに紹介するなど、分かりやすさを意識して作製した。
 同協会の髙橋誠吾さんは「花巻の魅力を再認識し、新たな発見にもつながればいい。市外の人にとっては、冊子が花巻を知る足掛かりになってほしい」と願っている。
 冊子はA4判で82ページ。一般販売用に300冊を用意。価格は税込みで一冊500円。同市葛の市交流会館内の同協会事務所やJR花巻駅内の花巻観光案内所、JR新花巻駅内の花巻観光センターで扱っているほか、遠方からの注文には郵送などの相談に応じる。
 問い合わせ先は同協会=0198(29)4522=。


旧太田村を含め、光太郎が足かけ8年を過ごし、第二の故郷ともいうべき花巻。宮沢家との深い交流もあり、花巻では花巻生まれではないものの、光太郎を地元の偉人の一人として扱って下さっています。

記事にもう一人名の上がっている多田等観も、光太郎と縁がありました。

等観は光太郎より7つ年下の明治23年(1890)生まれの僧侶。明治末から大正にかけて、チベットで修行し、チベット大蔵経全巻などの貴重な資料を携えて帰国しました。光太郎同様、花巻(旧湯口村)の円万寺に疎開、隣村にいた光太郎との行き来がありました。

ちなみに花巻市博物館さんでは、現在、テーマ展示「多田等観展~等観が辿った道」を開催中です(7/3まで)。

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こちらは光太郎が等観に贈ったうちわ。「悠々無一物満喫荒涼美 高村光太郎 太田村山口 光」の揮毫が入っています。左の方は、昭和20年(1945)の花巻空襲で宮沢家を焼け出された光太郎を、一時期自宅に住まわせてくれた、旧制花巻中学校元校長・佐藤昌の揮毫です。

花巻に残された等観の遺品等は花巻市博物館さんに収められているはずですので、このうちわも含まれているのではないでしょうか。

それはさておき、『はなまき地元塾教本』、記事にあるとおり、花巻市各所で取り扱っている他、花巻観光協会さんに申し込みも出来るようです。来月にはまた花巻に行って参りますので、入手してこようと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

ちちはははわが顔を見てはらはらと落つるなみだをかくし玉はず

明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半に及ぶ欧米留学からの帰国直後に詠まれ001たものと推定されます。画像はこの頃の両親です。後ろに写っているのは、光太郎作の「光雲還暦記念胸像」。

こうした部分での親心には感謝しつつも、西洋で世界最先端の本物を見てきた光太郎、江戸仏師の流れを汲む光雲とは、芸術上の異なる道を歩み始めざるを得なくなります。

明治43年(1910)、『スバル』に発表された「出さずにしまつた手紙の一束」から。

親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。

最晩年の昭和29年(1954)、『新潮』に載った「父との関係」から。

 「父と子」の問題はギリシヤこのかた、この世に於ける最もむつかしい、解決に苦しむ関係の一つである。それは時代のもつれにかかはり、遺伝の入り交じりつながり、個と個との相反親和、処世と信念との衝突妥協の微妙な有機的因縁に左右せられ、その上、親子の愛といふ本能的原始感情が加はつて、大局は一つの運命といふやうな形となつてこの問題に被ひかぶさつてくる。
 小さくはあるが、私たちも亦私たちなりに苦しんだ。

今日は「父の日」だそうで。

3ヶ月前にちらっとご紹介しましたが、神奈川県鎌倉市の川喜多映画記念館さんで、故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)の上映があります 

智惠子抄(98分/1957年/東宝/白黒/35mm)

上 映 : 7月8日(金)10:30/14:00、7月9日(土)、7月10日(日)14:00
監 督 : 熊谷久虎
出 演 : 原節子、山村聰、青山京子、三津田健、柳永二郎、三好栄子 他
料 金 :  一般:1000円 小・中学生:500円   6月18日(土)より発売
原 作 : 高村光太郎

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎が愛妻智惠子の名を冠して発表した詩集をもとに、二人の出会いから妻の死までを描く。原節子の義兄として公私を支えてきた熊谷久虎による映画化作品。


こちらは3月から同館で開催されている特別展「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」の一環です。

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期間中に13本の原さん主演映画が上映され、「智恵子抄」はその大トリです。特別展の方も、「智恵子抄」千秋楽の7月10日(日)まで。「智恵子抄」ポスターなども展示されています。

併せてご覧下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

雨ふればしとしとふれば紙の戸の糊さへかびて我がこころ冷ゆ
明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半に及ぶ欧米留学からの帰国後の作です。

じめっとした日本の空気感が、自然現象としてのそれだけでなく、旧弊な社会全般の閉塞感の象徴としても表されているように読み取れます。

山梨県から展覧会情報です。 

特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙

 期 : 2016年7月9日(土)-8月28日(日)
会 場 : 山梨県立文学館 展示室C 山梨県甲府市貢川1丁目5番35号
休館日 : 7月11日(月)、25日(月)、8月1日(月)、22日(月)
時 間 : 9:00-17:00(入室は16:30まで)
観覧料 : 本特設展は常設展チケットでご観覧いただけます。(団体20名以上)
         一般 320円(250円)  大学生 210円(170円)

65歳以上の方、障がい者及び介護者、並びに高校生以下の児童生徒の観覧料は無料です。
県内宿泊者は団体料金となります。

賢治自筆の手紙73通を公開  
詩、童話に独自の世界を切り開いた宮沢賢治。
山梨県出身の親友・保阪嘉内に宛てた73通の手紙から、二人の生涯と友情をたどります。

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関連行事

名作映画鑑賞会 アニメ銀河鉄道の夜

7月30日(土) 開場 午後1時  上映 午後1時30分~
会場 山梨県立文学館講堂   定員 500 名   無料   申込不要
1985年 日本ヘラルド 107分 原作 宮沢賢治  原案 ますむらひろし
監督 杉井ギサブロー  脚本 別役実  音楽 細野晴臣

渡辺えり講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」

渡辺えりさん(劇作家・演出家・女優)が、賢治と嘉内の魅力を語ります。えりさんは、二〇一二年初演の「天使猫―宮沢賢治の生き方―」で賢治の生涯を描き、演出を手がけました。

7月10日(日) 午後1時30分~ (受付1時~)
会場 山梨県立文学館講堂   定員 500 名   無料   要申込
※ お電話かホームページ、または当館受付にてお申し込みください。

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というわけで、渡辺えりさんの講演があります。

紹介にもあるとおり、えりさん、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫」で、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られました。

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今回の企画展で取り上げられる保阪嘉内も、重要な役どころで登場していました。

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そういう関係もあり、講演の依頼に繋がったのでしょう。賢治と光太郎の交流についても、お話があればと期待しています。

つい先日行われた、盛岡での啄木祭でのご講演は聞き逃しましたので、今回は拝聴に伺います。花巻の高村光太郎記念館に、お父様宛の書簡と献呈署名本をご寄贈下さった御礼も改めて申し上げて参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

野もきえぬ流もきえぬ森もきえぬ小雨みどりに我はたきえぬ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「ぬ」は完了の助動詞。「た」と訳せばだいたい通じます。

沖縄地方は梅雨明けだそうですが、沖縄の梅雨が明けると、梅雨前線が北上、本州の雨が本格化します。今日は今のところ晴れ間です。この夏初めて蝉の声が聞こえています。

光太郎最後の大作、「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ、青森十和田湖からのイベント情報です。 

十和田八幡平国立公園 十和田八甲田地域指定80周年記念式典

日 時 : 2016年7月9日(土)13:00 ~ 16:30
会 場 : 十和田湖小学校体育館 十和田市奥瀬字十和田湖畔休屋16-1
定 員 : 150人程度 どなたでもご参加いただけます

基調講演 :
 1.「十和田八甲田地域80 周年振返り」
 講師: 小笠原哲男氏 (十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会会長)
 2.「吉野熊野国立公園の自然を活用した地域の活性化」
 講師:木下藤寿 氏((特非)熊野で健康ラボ代表理事)
パネルディスカッション
 「十和田八甲田地域の自然を活用した地域活性化」

主 催 : 環境省東北地方環境事務所/青森県/秋田県
問合せ : 環境省東北地方環境事務所

 昭和11年2月1日に十和田湖、奥入瀬、八甲田等からなる十和田八甲田地域が十和田国立公園に指定されました。昭和31年7月10日には八幡平、岩手山、秋田駒ヶ岳等からなる八幡平地域が十和田国立公園に編入され、十和田八幡平国立公園に改称されて現在に至っています。
 今年は、十和田八甲田地域が指定80周年、八幡平地域が指定60周年を迎え、それぞれの地域において記念式典を開催しますのでお知らせします。

 記念式典の翌日(7月10日(日))には、十和田湖畔において十和田市・小坂町共催の「十和田湖マラソン」(秋田県鹿角郡小坂町大川岱~青森県十和田市子ノ口までの約21km)が開催されます。また、自然体験、自然体感のイベントや十和田湖のひめます誕生の芝居の上演等が行われます。

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というわけで、昭和11年(1936)、十和田八甲田地域が十和田国立公園に指定されてから80周年ということで、記念の式典です。

昨年、『十和田湖乙女の像のものがたり』を刊行された、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会の会長を務める小笠原哲夫氏によるご講演が企画されています。乙女の像に関わるお話も入ると期待しています。元々、乙女の像も、十和田八甲田地域の国立公園指定15周年を記念して制作されたものでした。

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同じ7月9日には、「十和田湖花火大会」。それに合わせて「祝80th記念湖上クルーズ 花火鑑賞船」が航行。人数は予約優先・100名様限定、料金は大人1,400円、子供700円だそうです。お問合わせは十和田湖遊覧船 0176-75-2909まで。

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その他、さまざまな関連イベントが企画されています。 

十和田国立公園指定80周年で十和田市が記念行事

 青森県十和田市は3日、十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年を記念した市主催行事を発表した。花火大会やグルメ企画、写真展、公募による絵画展など六つのイベントを実施し、節目の年を盛り上げる。
 花火大会は、国と青森・秋田両県主催の記念式典が開かれる7月9日に十和田湖畔休屋地区で行う。午後7時半から、同市初となる10号玉3発を含む2500発を打ち上げる。観覧船の運航も予定している。
 地元や周辺自治体の食を集め紹介するイベントも開く。「上十三の味力をぎゅっ!十和田湖味紀行」と題し10月1、2の両日、休屋に特設会場を設ける。
 休屋にある十和田湖観光交流センター「ぷらっと」では4事業を実施。スマートフォンで撮影した写真に「#LakeTOWADA」をつけ、会員制交流サイト(SNS)に投稿すると専用端末から写真が印刷される「#SnSnap」は、7月9日から10月30日まで行う。
 十和田湖・奥入瀬をテーマにした絵画展は8月8日から9月16日まで募集、10月15日から展示する。小学生低学年以下、同高学年、中学生、高校生、一般の各部門の入賞者を表彰する。
 写真展は7月9日から。同市出身のカメラマン岩木登氏、和田光弘氏の作品を通し、魅力を伝える。紙とは思えない斬新な作品約45点を展示する「紙わざ展」は同30日から実施する。
 小山田久市長は3日の会見で「震災以降、十和田湖への観光客が減少し戻って来ない状況にある。これを契機にこの地を訪れる人が一人でも増えてほしい」と期待を込めた。
(『東奥日報』 2016/06/03)

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さらに、例年行われている「十和田湖 湖水まつり」(乙女の像のライトアップを含む)が、これとは別に開催されます。こちらはまた後ほどご紹介いたします。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

のみさしの茶の冷たさよ五月雨   明治33年(1900) 光太郎18歳

この時期のイベントは雨が心配ですね。少雨のから梅雨でも困りますが。

6月も後半となりました。来月行われるイベント等、少しずつご紹介していきます。

まずは名古屋からの音楽イベント情報です 

2016年度 国際芸術連盟作曲賞&音楽賞 受賞記念コンサート

日 時 : 2016年7月1日(金) 19:00開演 18:30開場
会 場 : 名古屋市瑞穂文化小劇場  名古屋市瑞穂区豊岡通3丁目29番地
料 金 : 3,500円 (全席自由・税込)
出演/曲目
 野村 朗 <作曲>
  高村光太郎作詞  連作歌曲「智恵子抄」 バリトン:森山孝光 ピアノ:森山康子
  宮沢賢治作詞 混声合唱曲「永訣の朝」
   名古屋二期会合唱団  指揮:加藤 智 ピアノ:伊藤美砂子
 武田美保 <ソプラノ・ドラマティコ>
  マスカーニ:オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より“ママも知る通り”
  ヴェルディ:オペラ「オテロ」より “柳の歌”
  ヴェルディ:オペラ「アイーダ」より “勝ちて帰れ” 他
  ピアノ:池原陽子

申 込 : JILAチケットセンター Tel:03-3356-4140

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「智恵子抄」所収の詩歌にオリジナルの曲を付けた歌曲作品を世に問うている野村朗氏が、2016年度の国際芸術連盟作曲賞を受賞されたということで、その記念演奏会です。

野村氏から頂いたご案内を掲載させていただきます。

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お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々の歌と句・光太郎】005

山峡の梅のはやしの緑くらき中に村あり機織る音満つ
大正13年(1924) 光太郎42歳

「山峡」は「さんきょう」と音読みにしてもいいと思いますが、やはり和語で「やまかい」と詠むべきかな、と感じます。

梅雨どきですが、「梅雨」の語源として、「梅の実が熟する頃に降り続く雨」だから、という説があります。

当方自宅兼事務所の裏山には、「梅林」というほどではありませんが、十数本まとめて植わっている場所が何カ所かあります。

今年の梅の実は、暖冬だった影響で収穫量が激減、という報道を見ました。確かに自宅兼事務所裏山の梅も、例年と比べると実が少ないように思われます。



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【折々の歌と句・光太郎】

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも
昭和5年(1930) 光太郎48歳

昭和5年(1930)制作の木彫「栄螺(さざえ)」を収めるための絹の袋に認(したた)められた短歌です。

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この木彫「栄螺」、平成15年(2003)に、約70年ぶりにその存在が確認され、大きく報じられました。袋はおそらく智恵子が縫ったものと推定されています。

光太郎彫刻の中では、一つのエポックメーキングとなった作品です。これを作る前と後で、彫刻の概念そのものに大きな変化があったとのこと。

 栄螺も彫つたが、それを父に見せたら「この貝はよく見たら栄螺の針が之だけ出てゐるけれど一つも同じのがないね。」と言つた。実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損つて、何遍やつても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやつてゐるが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵へ拵へする最後の時に、色々考へて本物を見てゐると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあつて、それが軸になつてゐて、持つて廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になつて針が一つ宛殖えて行くといふことが解つた。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思つて、其処をさういふ風に考へながら拵へたら、丸でこれまでのと違つて確りして動きのない拠り所が出来た。それで私は、初めてかういふものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)を持つといふことが解つた。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂れが解らなかつたが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないといふことを悟つた。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違はずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見て、それに合へばいいし、さうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやつたものは、本当の謂れが分らないから彫つたものが弱い。展覧会などにも、さういふ弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違はないけれども、その形の拠り所が分つてゐないから肝心のところで逃げてゐて人形のやうになつて了ふ。人形と彫刻とは丸で格段の違ひである。その違ふ製作的根拠をはつきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
(「回想録」 昭和20年=1945)


 さて、この「栄螺」、所蔵する愛知県小牧市のメナード美術館さんで、現在展示中です。いわゆる所蔵品展の形で開催されている「版画と彫刻コレクション 表現×個性」での展示です。

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さらに、メナードさんで所蔵するもう一点の光太郎木彫「鯰」(昭和6年=1931)も並んでいます。

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こちらにも作品を収めるための袱紗(ふくさ)が附いており、やはり智恵子の縫製と考えられます。

認(したた)められている短歌は、「表現×個性」展を3月にこのブログでご紹介した際に取り上げましたが、001

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも

という短歌です。


「栄螺」、「鯰」とも、平成25年(2013)に、やはりメナード美術館さんで開催された「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」で並んで以来の公開です。メナードさん、なかなか他館に貸し出しをして下さいませんので、貴重な機会です。

ただ、「鯰」は他に2体存在が確認されており、東京竹橋の国立近代美術館さん所蔵のものが、この夏、信州安曇野の碌山美術館さんでの企画展「光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」で展示されます。関連行事は当方の講演です。

こちらは近くなりましたらまた詳細をお知らせします。


さて、メナード美術館さんの「表現×個性」、来月10日までの会期です。光太郎木彫以外にも、古今東西の逸品ぞろい。ぜひ足をお運びください。

光太郎を敬愛していた彫刻家の故・舟越保武氏の長女にして、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんによる自伝的エッセイ『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。「千枝子」と言う名を光太郎に付けて貰った経緯や、それがその後の人生に及ぼした影響などにも触れられています。

だいぶ好評のようで、もともと連載されていた新潮社さんのPR誌『波』に載った中江有里さんによるそれを皮切りに、あちこちに書評が出ています。『日本経済新聞』さんと、『朝日新聞』さんに載ったものがこちら。『福島民報』さん他の地方紙に載った評はこちら

約一週間前に、『毎日新聞』さんにも載りました。 

『「私」を受け容(い)れて生きる 父と母の娘』 神様に「逃げなかった」と言いたい 末盛千枝子(すえもり・ちえこ)さん

 ターシャ・チューダーやM・B・ゴフスタインなどの000名作絵本の数々を世に送り出してきた編集者が自らの人生を振り返った。「ああいうことも、こういうこともあったなあ、と思い出しながら書くのは楽しい作業でした」と感慨深げに語る。
 1941年、彫刻家・舟越保武の長女として生まれた。「千枝子」という名は、父が面識のなかった高村光太郎を突然訪ね、つけてもらったという。後に、深いカトリック信仰に根ざした崇高な作品を残した父は、だじゃれや落語を愛する意外な一面も持っていた。「志ん生はテープで繰り返し聴いていました」
 家族の笑い声が聞こえてきそうな幼少時代だが、長女として我慢することもあったらしい。そんな時、絵本が近くにあった。
 「私にとって絵本は、希望を語るものであり、悲しむ子どものそばに寄り添ってくれるものだった」と記す。「自分がこれと思う本を一生の間に一冊でも」。大学を卒業すると、絵本の出版社「至光社」で働いた。
 主に海外版の編集に携わった後、NHKの音楽番組のディレクター、末盛憲彦と結婚。2人の息子を授かる。だが結婚から11年、夫が急死する。
 「たいまつを引き継ぎたい」。人々の心に光をともすのは音楽も絵本も同じ。「G・C・PRESS」で再び絵本の仕事をはじめ、『あさ One morning』で国際賞を受賞、やがて自ら「すえもりブックス」を創設する。皇后さまの『橋をかける 子供時代の読書の思い出』を出版し話題になった。
 青春時代に親しかった哲学者の古田暁(ぎょう)と再会、95年に2度目の結婚をする。このくだりは「書きにくかった」とはにかむ。2013年の古田の死去後、半世紀ほど前にバチカンで、若い2人がローマ法王に謁見している写真が見つかった。「知り合いの修道院の院長から『ジグソーパズルの最後のピースが出てきたのですよ』と言われ、気持ちが助かりました」
 顧みれば、波瀾(はらん)万丈な人生ではなかったか。「それは特にありません」と首を振り、「大変だと思ったことも、乗り越えた時の喜びがあると考えれば、それはそれで良いかな」と続ける。「たぶん、私は死ぬ時に言うと思います。『逃げませんでしたよ。これでいいですね、神様』と」<広瀬登>


それから『読売新聞』さん。ただし、こちらでは光太郎について触れられていません。 

『「私」を受け容れて生きる』 末盛千枝子さん

 写真撮影のため本にちなむものを頼むと、父が作001ったブロンズのレリーフを持ってきてくれた。自分の結婚式の引き出物だという。
 彫刻家、舟越保武さんの長女として生まれ、結婚や出産を挟んでタシャ・チューダーをはじめ絵本の出版を手掛け、「すえもりブックス」を設立。皇后さまの講演をまとめた本などを出版した。その著者が、人生を振り返った。
 「人生は、自分が思うようにはなりません。成るようになるものですね」。撮影の間、穏やかにほほ笑んだ。
 疎開先の自然豊かな岩手で育った少女時代。苦労する両親を見て芸術家だけとは結婚しないと思い、人生に臆病だった若い頃。30歳のとき出会い、仕事から帰ると子供のオムツにアイロンをかけるほど優しかった最初の夫は、自宅で突然に倒れて亡くなった。
 <パパは あをい そらの てんごくにいるのです(略)だから かそうばで やくのは ぬけがらだけです>
 幼い孫に、保武さんはこんな手紙を書いたという。
 「つらい出来事が起きた直後には、希望なんて見えません。でも、逃げずにいれば、それらと一緒に生きていけるように感じる。悲しみや苦しみに意味があると思えるようになる。悩むからこそ、人は色々なことを考え、深まってゆくのではないでしょうか」
 障害を抱えた長男、再婚した夫とともに、東京から岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験した。その後、2度目の夫も亡くしている。現在は被災地の子どもに絵本を届ける「3・11 絵本プロジェクトいわて」を発足させ、代表を務める。
 「津波で本を流された子どもが保育園に置いた段ボールの中から同じ本を見つけ、抱きしめた時の顔。本好きの同志として、忘れられませんでした」(新潮社、1600円)


先週水曜日には、NHKさんで午前中に放映されている「ひるまえほっと」という情報番組に、やはり中江有里さんがご出演、「中江有里のブックレビュー・6月の3冊」というコーナーで、この書籍を取り上げて下さいました。

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当方、たまたま運転中で、カーナビにはNHKさんが流れており、突然この書籍の紹介が始まったので驚きました。そういうわけで録画できなかったのが残念です。


さて、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。新潮社さんから好評発売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

かたつむり早く角出せと思へどもじつと静まり蘭の根にねむる
大正13年(1924) 光太郎42歳

梅雨時というと、カタツムリですね。

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似たようなナメクジは許せませんが、なぜかカタツムリは愛らしいイメージがあるというのが不思議なところです。

光太郎、カタツムリを木彫で作っています。ただし、それがメインではなく、蓮根に添えてアクセントにしたものです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんで開催中の展示「古典再生――作家たちの挑戦」について、昨日の『毎日新聞』さんの東京版に記事が載りました。光雲の名を大きく取り上げて下さっています。 

古典に挑んだ作品並ぶ 皇居の尚蔵館で19日まで 高村光雲、横山大観など /東京

 皇居・東御苑の三の丸尚蔵館で展覧会「古典再生?作家たちの挑戦」の後期展示が開催されている。高村光雲や横山大観など日本を代表する芸術家の作品が並ぶ。19日まで。

 今回の展示は、明治維新によって急速な西欧化が進むなか、古典に目を向け、自らの作風に取り入れながら創作を行った作家の作品が並んでいる。

 仏師の元で修行を積んだ高村光雲(1852?1934年)の木彫「猿置物」は、猿回しの猿が御幣と鈴を持ち、能楽の「三番叟(さんばそう)」を舞っている作品。昭和天皇の弟の秩父宮から、母親の貞明皇后に献上された。東京美術学校(現在の東京芸大)に依頼され、同校教授の高村が23(大正12)年に制作した。高村はかつて皇居にあった明治宮殿の室内装飾の彫刻にもたずさわっている。
 明治から昭和にかけて活躍した横山大観(1868?1958年)の日本画「秩父霊峯春暁」は埼玉県秩父市の秩父神社の依頼で28(昭和3)年に制作された。横山が実際に現地でスケッチして描いたもので、墨の濃淡などで秩父の山々や朝もやを表現した。
 入館無料。午前9時?午後4時45分。月、金曜休館。皇居大手門、平川門、北桔橋門から入門。最寄り駅はJR東京駅、地下鉄大手町駅、竹橋駅。【高島博之】

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光雲作品は、記事にある「猿置物」と「養蚕天女」。どちらも恐ろしいほどの刀の冴えで、まさに超絶技巧の逸品です。

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その他の展示品はこちら。ただし、現在の展示は「後期」です。画像一番右をご確認下さい。

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やはり記事にある横山大観の「秩父霊峯春暁」も、実に見事なものでしたし、他の作品もそれぞれに力のこもった作ばかりでした。やはり、ほとんどが皇室への献上品ということで、各作家の力の入れようも並々ならぬものがあるのでしょう。

来週日曜までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

檜の香部屋に吹きみち切出の刃さきに夏の雨ひかりたり
大正13年(1924) 光太郎42歳

その光雲から受け継いだ彫刻刀の技を活かし、さらに工夫を加えて独自の木彫に挑んでいた頃の作です。

昨年、神奈川平塚市美術館さんを皮切りに、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、姫路市立美術館さんと巡回し、明日まで足利市立美術館さんで開催されている企画展です。最後の巡回が、北海道函館で行われます。 

開館30周年特別展 画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく Poetry of the painter,Paintings of the poet

会 期 : 2016 年6月18日(土) ~8月7 日(日)
時 間 : 9:30 ~ 17:00
会 場 : 北海道立函館美術館 函館市五稜郭町37-6
休館日
 :  月曜日(祝日と重なる場合は開館  祝日開館に伴う振替日)
料 金 : 一般 920(720)円 高大生 610(410)円 小中生 300(200)円
                          ( )内は前売・団体・リピータ料金
障害者手帳をお持ちの方及び付添の方(1名)、児童/老人福祉施設入所の方及び付添の方(1名)は無料

※前売券は6月12日まで、当館受付カウンターにて販売しております。(開館日のみ)
なお、6/14~6/17までの展示替え期間中は、美術館裏口・職員通用口で販売いたします。
 
ときに絵は詩のように語りかけ、詩は絵のような豊かな色彩とかたちを提示します。事実、多くの画家が詩を書き、詩人が絵を描いてきました。明治から現代までの画家と詩人の詩と絵を一堂にあつめ、ひとつの観点から捉えます。

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ネット上で出品作家の一覧等が見つかりませんが、これまでの巡回先とほぼ同様となるはずです。主催に名を連ねる『読売新聞』さんの報道では、「明治から現代まで、60人を超える画家や詩人の作品から、詩と絵画の密接な関係を探ります。」とのことです。

光太郎作品について、館に問い合わせました。大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」、同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)の3点が、会期中通しで展示されるそうです。

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図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』は、青幻社さんから広く販売中です。

関連行事として、以下の通り。 

美術講演会 【祖父 清六から聞いた 兄 宮沢賢治 -絵画について-】

日 時 : 6月18日(土)午後2時~005
会 場 : 当館講堂(聴講無料)

講 師 : 宮澤和樹(みやざわ・かずき)氏 
       (林風舎代表取締役)  

展示の目玉の一つが、賢治の絵画「日輪と山」ということで、賢治の実弟にして、戦時中に光太郎の花巻疎開を実現させた故・宮沢清六の令孫・和樹氏による講演です。

和樹氏、様々な機会でご講演をなさっていますが、必ずと言っていいくらい、賢治と光太郎との魂の結びつき、宮沢家と光太郎の深い縁について、お話下さっています。今回もそういったお話が出るのではないでしょうか。

◆ギャラリー・ツアー

日 時 : 7月2日(土)、23日(土)各日午後2時~(約30分)
会 場 : 特別展示室内(展覧会観覧券が必要です)
※学芸員の解説とともに、展示室をめぐります。


ぜひ足をお運び下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜの吹く
制作年不詳

おそらく明治末と推定は出来ます。その頃よく手がけた、白黒反転の「籠書き」で書かれた短冊から採りました。

九段下の書道用品店・玉川堂さんの所有で、昨年、千葉流山で開催された「後閑寅雄喜寿チャリティ書画展」に「参考借用陳列敬仰作品」として出品され、その後、玉川堂さんに見せていただきに参りました。今年4月2日の第60回連翹忌でも展示させていただきました。

今日の関東は、梅雨の晴れ間の快晴です。本来、これを「五月晴れ」と称します。この場合の「五月」は旧暦五月。「五月雨」も同様です。

朝のうちは涼しい風が吹いていました。ただ、日が高くなると、蒸し暑くなりそうです。

皆様もこれからの季節、熱中症等お気を付け下さい。

昨日、光太郎や宮沢賢治と交流のあった詩人・黄瀛の評伝『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』をご紹介しました。

その関係で、黄瀛についてネットで調べていたところ、現在、黄瀛をメインに据えた企画展が開催されて居ることに気付きました。4月から始まっていましたが、気付きませんでした。

『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』著者の佐藤竜一氏が理事を務める「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」さんの主催です。 

宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展

会  期 : 2016/04/15~10/13
会  場 : 宮沢賢治イーハトーブ館 岩手県花巻市高松1-1-1
時  間 : 8:30から17:00
料  金 : 無料

中国人を父に、日本人を母に重慶に生まれた。
日本語で詩を書き、大正時代に詩壇の寵児として活躍、宮沢賢治とは草野心平が始めた雑誌『銅鑼』を介して知り合う。
中国での宮沢賢治研究のいしずえを築いた。

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関連行事

ギャラリートーク「黄瀛と宮沢賢治」

7月2日(土)13001630

 13:00~13:30 「黄瀛の生涯」佐藤竜一(宮沢賢治学会理事)
 13:30~14:00 「黄瀛研究の現状」守屋貴嗣(法政大学非常勤講師)
 14:00〜14:30 「黄瀛と宮沢賢治」岡村民夫(宮沢賢治学会副代表理事)
 14:30〜14:40  質疑応答
 14:50〜16:20 
 ビデオ鑑賞
         「詩人・黄瀛さんを知っていますか」(1991.11.16全国放映)
         「詩人・黄瀛からの伝言」(1994.7.2、全国放映)

黄瀛、なかなかスポットライトの当たることのない詩人ですが、これを機に、彼の数奇な人生と、その特異な詩的世界についての認識が広まってほしいものです。

展示や関連行事のトークでも、光太郎に触れられると思います。

来月、盛岡に行く予定がありますので、時間を見つけて寄ってみようと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

毒うつぎ花は美くし旅のひといづみくむ手に物を欲(ほ)りすな

明治38年(1905) 光太郎23歳

「毒うつぎ」は、その名の通り強烈な毒草です。

その花をモチーフとし、『伊勢物語』を下地にした架空の恋物語を連作短歌にしたうちの一首です。

新刊情報です。 

宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて

佐藤竜一著 2016/05/26 コールサック社 定価1500円+税

佐藤さんに対してきっと多くの詩人たちや光太郎・賢治・心平などの研究者たちは感謝と称賛の声を上げるだろう。なぜならこの労作から本格的な黄瀛研究が始まるからだ。そしてこれからも日中の架け橋であった黄瀛の存在を通して日本と中国の文化交流の本質的な在り方が問いかけられるに違いない。(鈴木比佐雄解説文より)

目次
 はじめに 
 第一章 軍服を着た詩人
  第一節 詩壇の寵児 
  第二節 軍人への道―何応欽と姻戚に 003
 第二章 日中戦争勃発と日本との訣別
  第一節 詩人たちとの交遊 
  第二節 魯迅との出会い、別れ 
  第三節 日本との別離 
 第三章 日本の敗戦と国共内戦
  第一節 漢奸狩りの犠牲に?
  第二節 草野心平との再会
  第三節  『改造評論』をめぐって 
  第四節 辻政信との出会い 
 第四章 半世紀ぶりの日本
  第一節 四川外語学院教授
  第二節 半世紀ぶりの日本 
 第五章 黄瀛と私
 資料編
  資料編(1) 黄瀛の詩 
  資料編(2) 黄瀛のエッセイ・評論 
 黄瀛略年譜 
 主要参考文献 
 【解説】鈴木比佐雄
 おわりに
 著者略歴


明治39年(1906)、中国重慶生まれ、中国人の父と、日本人の母を持ち、二つの国を行き来しながら活動した詩人・黄瀛(こうえい)の評伝です。


黄瀛は、朝日新聞に勤務していた中野秀人を介して光太郎と知り合い、さらに草野心平を光太郎に紹介する労も執っています。また、昭和4年(1929)には、宮沢賢治を花巻に訪ねてもいます。

光太郎は黄瀛の特異な才能を高く評価、その第二詩集『瑞枝』に序文を寄せたり、黄瀛をモデルに塑像を作ったりしました。

その後、黄瀛は中国国民党の将校となり、終戦後は共産党により投獄、昭和37年(1962)に出獄するも、文化大革命で日本との関係を糾弾され、4年後に再び獄中へ。再び自由の身となるのは、開放政策が始まった昭和53年(1978)のことでした。その後、平成17年(2005)に98歳で歿するまで、たびたび来日、心平と旧交を温めたりもしました。


著者の佐藤氏、平成6年(1994)に、日本地域社会研究所さんから、『黄瀛―その詩と数奇な生涯』という最初の評伝を上梓されましたが、その後判明した事実、新たに入手された資料などを盛り込み、ほぼ全面的に改稿したのが本書です。

黄瀛―その詩と数奇な生涯』も、だいぶ示唆に富むものでしたが、さらに充実の内容です。特に光太郎との関わりで、黄瀛自身の書いた光太郎回想なども収録されており、興味深く拝読しました。


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【折々の歌と句・光太郎】

熊いちご奥上州の山岨(やまそば)にひとりたうべてわれ熊となる
大正13年(1924) 光太郎42歳

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。「たうべて」は「食べて」。

自宅兼事務所の裏山を、愛犬と散歩中に見つけました。熊イチゴならぬ、ブルーベリーです。

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何とまあ、野菜の無人販売所のように、100円入れて勝手に摘んで下さい、とのこと。お互いの信用でこういうシステムが成り立つこの国のこういうところが、当方は大好きです。

一昨日のこのブログでご紹介した、渡辺えりさんから花巻の高村光太郎記念館への資料ご寄贈の件、昨日の『岩手日日』さんに報道されました。 

光太郎ありき 父の人生 女優・渡辺えりさん ゆかりの資料を記念会へ

 演出家、劇作家としても活001躍する女優の渡辺えりさんが、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの資料2点を、花巻市の花巻高村光太郎記念会に寄贈した。資料は光太郎に心酔していた渡辺さんの父・正治さんに宛てられたはがきと署名入りの詩集「道程」。はがきは、かつて光太郎が稗貫郡太田村(現在の同市太田)で暮らしていた頃のもので、当時がしのばれる貴重な資料となっている。
 贈呈式は盛岡市渋民の姫神ホールで4日、生誕130年を迎えた同市出身の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭」の閉会後に行われた。記念会の高橋邦弘業務執行理事が、講演や対談のためホールを訪れていた渡辺さんから資料を受け取った。
 渡辺さんらによると、詩集は終戦間近の1945(昭和20)年4月10日に、光太郎が東京のアトリエで正治さんにプレゼントした。安否確認で来訪した正治さんに、「記念に」とサインし手渡したという。米軍の空襲でアトリエが焼失する数日前のことだった。
 当時10代後半だった正治さんは、軍需工場で航空機の製造に携わっていた。空襲により生きた心地がしなかった時、戦争賛美の詩「必死の時」をそらんじたことで不思議と恐怖心が和らぎ、作者の光太郎に心酔するようになったという。
 はがきは戦後、古里の山形県で精進していた正治さんからの便りを受けたとみられる47年11月30日付の返信で、住所地は太田村。「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでいくやうに見えます」など後進を激励する内容で、当時の心境や思いがしのばれる貴重な資料と言える。
 記念会への寄贈は2000年に正治さん、13年に渡辺さんが、それぞれ花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた「高村祭」で講演した縁もあって実現した。
 ゆかりの資料について渡辺さんは「父は、自分は光太郎のおかげで生きていると常々話していた。はがきとサイン入りの本は父の人生そのもの」と話した。
 記念会では準備が整い次第、花巻市太田の高村光太郎記念館で資料を公開する方針。高橋理事は「貴重な本とはがきの寄贈で本当にありがたい。正治さんの意向に沿うよう取り扱いたい」とし、光太郎の人柄をより深く知る資料として丁重に扱う考えを示している。
 贈呈式には、市生涯学習課の市川清志課長や高村光太郎記念館職員の新渕和子さん、生前の光太郎と交流のあった高橋愛子さんらも出席。盛岡市渋民の石川啄木記念館の森義真館長も立ち会った。


記事にある戦時中の正治氏の光太郎訪問体験は、株式会社文伸さん刊行の『戦時下の武蔵野 Ⅰ 中島飛行機武蔵製作所への空襲を探る』という書籍に詳しく書かれています。

その頃、渡辺正治氏がそらんじていたという光太郎詩「必死の時」は、以下の通り。昭和16年(1941)の作です。戦時中には旧制中学校の教科書にも採用されていました。

  必死の時002

必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
 
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。

死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。003
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。

生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
 004
ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。


戦後、岩手花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を反省する中で、この詩を書いたことも思い起こされます。

  わが詩をよみて人死に就けり 
 
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 

光太郎にとっては、「必死の時」はまったくの「負の遺産」だったわけですね。

昭和16年(1941)に「必死の時」を書いた時点では「爆弾は私の内の前後左右に落ちた。/電線に女の大腿がぶらさがつた。/死はいつでもそこにあつた。」という状況ではなかったはずですが、戦時中、求められてこの詩を揮毫して人に贈ったことがありました。おそらく複数回あったのではないかと思われます。そこで「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」わけです。
005
そのあたり、えりさんもおわかりのようで、啄木祭のご講演での、「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」(『朝日新聞』)というご発言につながるのでしょう。えりさんの書かれた、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」も、光太郎の戦争責任にスポットを当てた内容でした。

光太郎を考える上で、避けて通れない問題でしょう。


【折々の歌と句・光太郎】

ああ我はDAHLIA(ダリア)の花を賞づるにも人を離れて思ひがたかり
明治42年(1909) 光太郎27歳

最近、ダリアの花というのもあまり見かけなくなったような気がします。昔はセレブの庭には必ずあり、光太郎も智恵子の実家、福島の長沼家に球根を贈り、それが咲いた際には近隣の住民が見物に来たというエピソードもあります。

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こちら、愛犬の散歩中に見かけました。庭ではなく、畑の一角に咲いていました(笑)。

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昨日の『福島民報』さんに載った記事に「ほんとの空」の語が。

ただ、状況をわかりやすくするために、同じイベントを報じた『朝日新聞』さんの記事を先に紹介します。 

エアレース、日本人優勝

 プロペラ飛行機の世界レース「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」の決勝が5日、千葉市美浜区の幕張海浜公園であった。日本人パイロットの室屋義秀選手(43)が初優勝、約5万人の観衆が華麗な舞に歓声を上げた。レースには14人のパイロットが参戦。海上に設置した高さ25メートルの複数のエアゲログイン前の続きートを通過するなどしてタイムを競った。室屋選手は2009年から参戦し、過去最高は3位。会見で「難しい世界だったが、やっと(1番が)取れた」と喜びをかみしめた。 

千葉)幕張の空、最速飛行機が舞う 室屋選手Vにわく

 最高時速370キロのプロペラ飛行機が今年も幕張の空を舞った。5日、千葉市美浜区の幕張海浜公園で開幕した「レッドブル・エアレース千葉2016」(朝日新聞社など後援)。4日の予選が悪天候で中止となり、5日開幕となったこの日は決勝に国内外から5万人が来訪。日本人パイロット室屋義秀選手(43)の初優勝にわき上がった。地元住民による「おもてなし」もバラエティーに富み、大会実行委員会は昨年、今年に続き来年も「千葉開催」の方針を示した。
 決勝レース開始前、会場の幕張海浜公園のメディアセンターで大会実行委員会のエリック・ウルフ氏、同公園が立地する地元の熊谷俊人市長、飛行機格納庫が置かれた浦安市の松崎秀樹市長が記者会見した。
 会見では両市長とも昨年の大会に比べ市民の関心、協力度がアップしたと述べた。その上で来年以降の日本開催の方針を報道陣に尋ねられたウルフ氏は「来年も千葉で開催したい」と語った。
 ウルフ氏は以前から①千葉市が日本の民間航空発祥地であり歴史がある②長い人工海浜に面した会場はスピードレースになる③東京に近い――などを千葉開催の利点に挙げていた。
 今年は、さらに「市民など関係者の理解や支援」が今後の開催の後押しになった。ウルフ氏は「世界規模大会では民間の支援が不可欠。(前回、今回の千葉開催で)積み上げた自信、経験、ノウハウに手応えを感じる」と強調した。
 レース終了後には、初優勝を飾った室屋選手が会見に臨んだ。「母国レースでプレッシャーがあった。努力を100%したなら結果は神様に預けましょうという気持ちだった」とし、「千葉が特別な思い出の場所になりました」と語った。(大和田武士、滝口信之)

 
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というわけで、「空のF1」とも呼ばれる「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」。F1レース同様、世界各地を転戦しますが、今シーズンの第3戦が千葉市で開催され、見事、唯一の日本人出場者・室屋義秀選手が優勝しました。


室屋選手、福島市ご在住だそうで、『福島民報』さんの記事が以下の通りです。 

「サムライ」夢かなえる レッドブル・エアレース優勝の室屋選手(福島在住)

 夢は追い続ければきっとかなう-。5日に千葉市で繰り広げられた「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ2016第3戦」で初優勝した福島市在住の室屋義秀選手(43)は、レース後の記者会見で“ほんとの空”から追い求めた夢の結実を喜んだ。「航空文化の魅力を福島に広めたい」。唯一の日本人として世界に斬り込むサムライパイロットの夢舞台は続く。
 上位4選手で競う決勝戦「ファイナル4」。優勝が決まった瞬間、室屋選手は関係者と抱き合った。涙が頬を伝った。
 頂への道のりは平たんではなかった。「世界一のパイロットになる」と決め、20歳の頃に渡米。苦学して軽飛行機の操縦免許を得た。平成11年に拠点を福島市の農道空港「ふくしまスカイパーク」に移した。エアレースに初参戦したのは21年。世界の強豪を相手に苦杯をなめ続けた。テクニックを磨き上げ、機体改良を重ねた結果、昨季の中盤からようやく結果が伴うようになった。さらなる飛躍が期待された今季だったが、第1戦、第2戦ともに重力加速度(G)超過で失格を喫した。機器トラブルや気負いもあった。
 満を持して臨んだ第3戦。千葉会場はG超過が出やすいコースとされる。周囲が失格を恐れて慎重な操縦を心掛ける中、攻めの姿勢を崩さなかった。機体と気力が一体化し、栄冠を手繰り寄せた。昨年の千葉大会を飛んだのが人生最高の日だった。「人生最高の日を更新できた」。笑顔がはじけた。
 「多くの協力や支援があってここに立てた。良い知らせを福島に届けられて本当にうれしい」。次の人生最高の日の更新に向けて新たな航跡を描く。

■関係者祝福「第2章始まる」
 関係者は歓喜に沸いた。ふくしまスカイパークの指定管理者・NPO法人ふくしま飛行協会の斎藤喜章理事長は、共に歩んだ歳月を思い出しながら、「福島の復興のために飛ぶと宣言し、努力を積み重ねた。重圧をはねのけて地元開催で見事に羽ばたいた。第二章が始まる」とさらなる飛躍を願った。
 ふくしまスカイパークに軽飛行機の研究開発施設を整備している自動車部品会社サード(本社・愛知県豊田市)の佐藤勝之社長は技術面で支援。「福島に元気を届けられてうれしい。今後も協力して飛行機の機体開発をしていきたい」と連携を誓った。
 同窓生も快挙に沸いた。同じ中央大出身の小林香福島市長は現地で声援を送った。「市民、県民の大きな喜びであり、励みだ」と拍手を送った。中央大学員会福島白門会の杉原長次事務局長は「福島の子どもたちに夢を与えてくれた。室屋さんに憧れてパイロットを目指す子どもが増えてほしい」と期待した。
 スポンサー契約を結んだレクサスは「(レクサスは)日本発のブランドとして卓越した操縦技術で世界と戦う室屋選手を応援している。残り5試合もサポートし、世界の舞台で驚きと感動を提供し続けてほしい」とコメントした。

■「来年も千葉で」
 レッドブル・エアレース社のエリック・ウルフゼネラルマネジャーは5日、本選前の記者会見で「次も千葉で開催したい」と述べ、来年も国内開催を継続する考えを初めて明らかにした。
 千葉県を開催地候補に挙げた理由について、「行政や関係機関の理解や支援が大きい」と説明した。国内では昨年から千葉県でレースが行われている。
( 2016/06/06)

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ここで「ほんとの空」の語には多少の無理矢理感がありますが(笑)、震災以来、幅広く使われるようになって、もはや一人歩きしているような感もある「ほんとの空」の語、さらに広めていただきたいものです。

当方、レースの行われている時間帯、全くの別件で千葉市に居りました。レースが行われていることは知っていましたが、光太郎ブログのネタになるとはまったく思っていませんでした(笑)。


なにはともあれ、室屋選手の今後のさらなるご活躍も祈念いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

爆音のうなりに耳をすましゐてあやふきも又うつくしとおもふ
昭和20年(1945) 光太郎63歳

飛行機を題材にした短歌ですが、ただし、ここで爆音をたてているのは米軍機です。

光太郎、飛行機には「用の美」を見いだしていました。

 用途に徹(てつ)するものの美といふことを、飛行機ほどあからさまに示してゐるものは少い。所謂装飾(さうしよく)といふものの入りこむ余地のまるでない、純粋に機能そのものの追求(つひきう)からのみ、成つてゐる飛行機が、またなく美しいといふ一事は、「必要なるものは美なり」といふ、古人の言を裏書してゐる。美が物体から遊離(いうり)してゐるものでなくて、物体そのものの機構(きこう)が即ち美しいのだといふ原理をよく示してゐる点で、飛行機の美は茶室の美とにてゐる。一方は動の極、一方は静の極でありながら、どちらも無駄といふ無駄をあくまで除きさつて、其上、その性能を最大限に発揮(はつき)するやうに工夫されてゐる。かういふ角度(かくど)から追求された造型物(ざうけいぶつ)は、欲せずしても美に到達せずにはゐない。これこそ、われわれ美術家の最も心にとゞめねばならない重点であり、美の健康性のうまれる契機(けいき)でもある。自然の成立がすでにさうであり、殊に人体に見る必須の美は、その好個箇の手本であるといへる。

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上記は昭和18年(1943)1月1日発行の雑誌『飛行日本』第18巻第1号に載った「飛行機の美」という散文の冒頭部分です。『高村光太郎全集』に漏れていたものですが、5年ほど前に見つけました。

いわんとするところは分かります。しかし、この文章で光太郎が美しいとたたえているのは、殺戮兵器である戦闘機や爆撃機でした。そうした視点が欠けていたしっぺ返しのように、東京と花巻、光太郎は2度も空襲で焼け出されます。上記短歌は、2度目に焼け出される直前の作です。

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飛行機も、「レッドブル・エアレース」のように、平和的な利用のみが為される時代になってほしいものです。

先週土曜日、岩手盛岡で、「啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~」が開催され、連翹忌ご常連でもある女優の渡辺えりさんが、「わたしの啄木・賢治・光太郎」と題するご講演、対談をなさいました。
 

啄木の世界観ひもとく 盛岡、渡辺えりさんが講演

 盛岡出身の詩人石川啄木をしのぶ啄木祭(同実行委主催)は4日、盛岡市渋民の姫神ホールで開かれた。地元小中学生やコーラスグループの発表のほか、舞台で啄木の母カツを演じた劇作家で女優の渡辺えりさんが講演し、啄木の世界観をひもといた。
 渋民小児童のドラムマーチで開演し、同校鼓笛隊が啄木作詞の「ふるさとの山に向ひて」など3曲を披露。渋民中の生徒たちは啄木の詩を題材にした群読劇で「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」とかみしめるよう朗読。啄木の心象を表現した。
 渡辺さんは「わたしの啄木・賢治・光太郎」と題し講演。啄木と賢治の共通点として友人たちが作品を広めたことを挙げ、「応援してくれる人たちがいなければ、私たちは詩を読むこともなかったのかも」と交友関係の広さを語った。
 渡辺さんと石川啄木記念館(同市渋民)の森義真(よしまさ)館長との対談では、自身が演じた母カツの人柄について「役作りをしながら、カツは本当に啄木のことを手放しで愛していたのだと感じた」と役者の目線で啄木像に触れた。
(『岩手日報』)
 

渡辺えりさん 啄木祭で講演

 生誕130周年を迎えた歌人石川啄木の業績をたたえる啄木001祭が4日、盛岡市の渋民文化会館であった。
 劇作家、演出家、女優として活躍する山形市出身の渡辺えりさんが「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演。以前、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」の上演で啄木の母カツを演じた際、背負われた時のことや啄木の歌などを引き合いに出し、観客の笑いを誘っていた。
 渡辺さんは「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」と力を込めた。
 市立渋民小学校の鼓笛隊による演奏や、渋民中学校の生徒が演じる啄木の詩を題材にした群読劇なども披露された。(金本有加)
(『朝日新聞』)

 

啄木憎めない人柄…生誕130年で渡辺えりさん

 生誕130年を迎えた盛岡市出身002の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭~母を背負ひて~」が4日、同市の姫神ホールで開かれた。女優の渡辺えりさん=写真=が「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演し、約520人が耳を傾けた。
 渡辺さんは生前はほぼ無名だった啄木について「金田一京助など死後、作品を世に出してくれる友人に恵まれた」と、同じ県出身の宮沢賢治との共通点を指摘。啄木が多くの友人から借金をするなど奔放な生活を送っていたことについては「悪人なら友人がいないはず。憎めない人柄だったに違いない」と推し量った。
 また、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」で母カツを演じたことに触れ、「啄木を目に入れても痛くないというほど大事にしていた。心から啄木を応援していたと思う」と役作りを振り返った。
(『読売新聞』)


記事にはありませんが、えりさんのお父様、渡辺正治氏無題2が光太郎と戦中戦後に面識がおありで、さらに宮沢賢治ファンだったということもあり、劇作家でもあるえりさんは、光太郎を主人公とした月にぬれた手、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。

そして今回のご講演、最近、お父様のお加減がよろしくないとのことで、涙ぐまれながら、お父様に関するお話をご披露なさったとのことを、参会された方からメールで教えていただきました。

えりさんからも翌日、「無事に好評のうちに終わりました」とメールを頂きました。


その後、えりさんから花巻の高村光太郎記念館へ、資料の贈呈が行われました。

お父様が戦時中に光太郎から贈られた、サイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)、戦後に光太郎から届いたハガキをご寄贈下さいました。

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先月でしたか、お電話を頂いた際、これらの寄贈先を探しているというお話で、都内の文学館などもご紹介しましたが、ハガキの方は賢治にも触れている内容ですし、発送元が花巻郊外旧太田村ですので、結局、花巻にご寄贈下さいました。えりさんは、平成25年(2013)、お父様も平成12年(2000)に、花巻高村祭でご講演なさっているというご縁もあります。いずれ花巻の記念館で展示されると思います。

同館では、この夏、企画展「智恵子の紙絵」を開催しますし、現在、館としてのあらたな出版物2種類、当方が校正中です。

それぞれまた詳細は後ほどお知らせいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき酒ありてわれをよぶのまざらめやも酔はざらめやも

昭和24年(1949) 光太郎67歳

以前も同一題の短歌をご紹介しましたが、山形出身の渡辺えりさん父子にちなんで。

昨日は、千代田区および横浜戸塚に行って、3件、用事を済ませて参りました。

まず、午前9時。開館と同時に、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんへ。3月に始まった展示「古典再生――作家たちの挑戦」が展示替えで先月末から「後期」になり、光太郎の父・光雲の木彫2点「猿置物」「養蚕天女」が出ています。

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外界から東御苑に通じる大手門。大手町の高層ビルを背景に見ると、ギャップがすごいですね。
お濠には、白鳥も。

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尚蔵館さんは、門をくぐってすぐです。

入り口に「猿置物」の大きな写真。展示の目玉の一つということで、サムネイル的に扱って下さっています。

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光雲木彫の優品を見るのは、昨年、栃木の佐野東石美術館さんでの「木彫の美-高村光雲と近現代の彫刻-」以来。その前は東京国立博物館さんで「老猿」を拝見、さらにその前はやはり尚蔵館さんで昨年開催された「鳥の楽園」でした。東博さんの「老猿」も常に出ているわけではなく、意外と光雲木彫の優品、首都圏では目にできる機会は多くありません。今回出た「猿置物」「養蚕天女」とも、拝見するのは14年ぶりでした。

相変わらず舌を巻くような超絶技巧。天女の衣の複雑な襞、猿の毛並みの一本一本までが表現され、しかも継ぎはぎや嵌め込みなどが一切無く、一本の木から彫り出されている気の遠くなるような緻密さ。しかし、そうと思って見なければ、それを感じさせない自然な仕上がり。脱帽です。

図録を購入して参りました。前期や中期の展示だったため、昨日並んでいなかった光雲弟子筋の荒川嶺雲や山崎朝雲の木彫なども載っており、興味深く拝見。木彫以外にも皇室の名品が目白押しです。

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次の目的地は、永田町の国会図書館さん。光雲の師・高村東雲、そのまた師の高橋鳳雲について調べる都合があり、寄りました。その他、光太郎がらみで戦時中の音楽界についても。

調べている最中に、携帯に着信。何と、渡辺えりさんからです。急いで通話の出来るコーナーに走りましたが、一歩間に合わず、留守電に切り替わってしまいました。再生すると石川啄木と光太郎の関係についてのご質問でした。昨日は、岩手盛岡で開催された啄木祭で、えりさんのご講演でした。当日になってそういう質問の電話をかけてこられるあたり、豪快ですね(笑)。こちらからかけても出ませんで、返答はメールで送りました。


国会図書館内の食堂で昼食を摂り、次なる目的地・横浜戸塚に向かいました。昨日のメインの目的、ピアニスト・荒野(こうの)愛子さん率いる「Aiko Kono Ensemble」のコンサートです。

開場は東戸塚駅近くの「Sala MASAKA」さん。一見、普通の住宅のようでしたが、キャパ30(つめればもう少し)くらいのホールを備えたライヴスペースでした。

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期間限定で、チェコ製の「ペトロフ」というメーカーのピアノが入っているとのことでした。

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このペトロフを荒野さん、オーボエで新實紗季さん、ヴァイオリン・藤田有希さん(第2部のみ)のお三方での演奏でした。作曲はすべて荒野さんです。

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2部構成で、第1部が荒野さんと新實さんお二人の「『智恵子抄』によるピアノとクラリネットのための小曲集」。

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荒野さん曰く「『智恵子抄』のイメージソング的にとらえてほしい」とのことでした。朗読なども入れない完全なインストゥルメンタルでそれをやるからには、かなりの自信がないと出来ないと思うのですが、充分に『智恵子抄』の世界が感じられました。

CDでは拝聴していましたが、やはり生の演奏だと、まったく違いますね。、眼を閉じれば阿多多羅(安達太良)山の山の上に毎日出てゐるほんとの空や、九十九里浜に群れたつ千鳥がイメージできました。特に千鳥は、ピアノの高音でその囀りが表されているように感じました。

休憩をはさんで第2部は、ヴァイオリンの藤田さんも加わって、「中原中也の追想 第一集」。

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こちらも完全なインストゥルメンタル000でした。当方、途中からあえてプログラムを伏せて聴いてみました。プログラムを見ずとも曲を聴いて、詩の題名が浮かぶかどうか試したわけです。最初に選択肢としての11篇がわかっていたので、ほぼ当たりました。そういうすばらしい作曲、演奏だったということですね。

中也といえば、光太郎は中也の第一詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934)の装幀を手がけています。仲介したのは草野心平でした。

中也は光太郎より24歳下の明治40年(1907)生まれ。しかし、光太郎よりずっと早く、昭和12年(1937)に亡くなっています。数え31歳ですね。

その際に光太郎は「夭折を惜しむ――中原中也のこと――」という短文を心平の『歴程』に寄せています。

抜粋します。
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中原君とは生前数へる程しか会つてゐず、その多くはあわただしい酒席の間であつてしみじみ二人で話し交した事もなかつたが、その談笑のうちにも不思議に心は触れ合つた。中原君が突然「山羊の歌」の装幀をしてくれと申入れて来た時も、何だか約束事のやうな感じがして安心して引き受けた。中原君の詩は所謂抒情詩の域を超えた抒情詩といふべきで、それは愬へたり、うたつたりする段階から遙に超脱して、心やものがそのまま声を発するものであつた。

詩に於ける彼の領地は人の思ふよりも新しい。うまいやうな、まづいやうな、まづいやうなうまいやうなあの技巧は比類が無い。言葉は平明であるが、表現せられたものは奥深く薄気味わるい程渾沌たるものが遠くにもやもやと隠れてゐる。

所謂大死一番のところを彼はほんとに死んでしまつた。死んだものは為方ないが、此の難道をもう一度突破せしめたかつた。彼の根づよい、もつと大きな、真新しい日本的性格の詩がたくさん生れたに違ひないのだ。

お三方の演奏を聴きながら、光太郎のこの言を思い出しました。右は、終演後のお三方です。


というわけで、非常に有意義な1日でした。


【折々の歌と句・光太郎】

笛の音にもし形(かたち)あらばしら玉のくだけしあまた入りみだれをらむ

明治33年(1900) 光太郎18歳

ピアノ、オーボエ、ヴァイオリンの素晴らしい音色に耳を傾けつつ、この歌を思い浮かべました。

まずは一昨日の『読売新聞』さんの夕刊。品川にある「レモン哀歌」詩碑をご紹介下さいました。 

タイムトラベル 高村智恵子記念詩碑 夫婦愛を刻む「レモン哀歌」

 JR大井町駅から歩いて10分の住宅街に、高村光太郎(1883~1956年)の詩が刻まれた碑が立っている。妻の智恵子がレモンを口に含んだ最期の姿を詠んだ「レモン哀歌」だ。
 一帯は、智恵子が晩年、精神を病んで入院した病院の跡地。1938年(昭和13年)に52歳で亡くなるまでの4年近くを、ここで過ごした。光太郎が見舞いで持ってきた菓子の包み紙や千代紙を切り貼りし、「紙絵」に没頭したという。作品は1千数百点に上る。
 病院はその後移転し、建物は解体された。地元有志の「品川郷土の会」は当初、土地の所有者から許可を得てレモンの木を植えたものの育たなかったため、寄付金を募って黒御影石製の碑を建てた。
 高さは、智恵子の推定身長に合わせ150㌢。刻まれた文字は、光太郎の自筆原稿を拡大したものだ。各地のファンが訪れているためか、碑の前にはいつもレモンが供えられている。同会の土屋恒行・名誉会長(91)は「碑に刻まれた詩を朗読すると、書物とは違う感慨があるのでは」と話す。
 詩にこんな一節がある。
 <わたしの手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛(か)んだ>
 今年は智恵子の生誕130年。切なく美しい夫妻の最後の時間に思いを巡らせた。

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記事にあるとおり、碑のある場所は智恵子終焉の地・ゼームス坂病院跡です。

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「ゼームス坂」は、ジャーデン=マディソン商会の長崎支社(グラバー商会)の社員として幕末に来日し、明治期に海軍省に雇われたイギリス人、J.M.ジェームスが坂の下に住んでおり、私財を投じて道路の整備を行ったことからついた名です。

「グラバー商会」というと、すぐ世界で最も有名な秘密結社―矛盾していますね(笑)―フリーメーソンと関連づける向きがありますが、どうだったのでしょうか。

病院は大正12年(1923)の開院。当時としては珍しい開放病棟を採用していたとのこと。セレブ対象の小規模な病院で、昭和9年(1934)に亡くなった光雲の遺産が、智恵子の入院費用に充てられたそうです。

当方、この碑のある場所にはもちろん行きましたが、それも20数年前。しばらく行っていません。また、機会を見つけて行ってみたいと思っています。


続いて、6月1日発行の『広報にほんまつ』。智恵子の故郷だけあって、随所に詩「あどけない話」に出て来る「ほんとの空」の語を使って下さいます。安達太良山山開きレポート他もう1件。 

絶景ほんとの空に出会った  第62回安達太良山山開き

 5月15日、日本百名山で知られる安達太良山の山開きが行われました。雲一つない青空に恵まれた今回の山開きには、県内外から約12,500人が訪れ、新緑の安達太良山を楽しみました。
 吾妻連峰、猪苗代湖、磐梯山、蔵王連峰など360度見渡せる大パノラマに、登山者らは足を止め記念写真を撮るなどして、雄大な景色を思い思いに楽しんでいる様子でした。
 山頂では、先着3,000人に山開き記念のペナントが配られ、安全祈願祭や恒例のミズあだたらコンテストも開催されました。50人が参加したミズあだたらコンテストで、ミズに選ばれたのは、山田ちあきさん(宮城県角田市)、準ミズには関本恭子さん(福島市)が選ばれました。風もほとんどなく快晴の天気となったこの日は、登山シーズン到来を迎えるに相応しい一日でした。

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にほんまつのほんとの空とつながってる

インタビュー/青年海外協力隊 マラウイ・青少年活動 本田 藍(ほんだらん 二本松市金色)

“Just stay, just living”
マラウイの人は家族のことをよく質問してくるのですが、はじめの頃、こんなやり取りがよくありました。
マラウイ人:「兄弟はいるの?」
本田:「お兄ちゃんがいるよ」
マラウイ人:「何をしているの? Just stay? Just living?」
本田:「仕事してるよ。Just stay? って何?」
マラウイ人:「仕事がないから家にいるってことだよ」
マラウイでは高校を卒業しても仕事がなく、ただ生活しているという方が多いようで、そのような人たちのことを“Just stay, just living”と言っているようです。

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マラウイ人の気質や慣習、独特の料理等
基本的にマラウイの人たちは穏やかでゆったりしています。日常の小さなことにも楽しみを見つけるのが上手で、よく笑います。音楽と踊りが大好きで街中にはいつも音楽が流れ、踊っている人がいます。 マラウイの食事は「シマ」と呼ばれるメイズの粉をお湯でといて練ったものに、トマトや葉物、豆などを煮込んで塩と油で味付けをしたおかずを合わせるのが一般的で、お肉は高級品なので週に1,2回しか食べません。また、日本の中古車がマラウイ国内をたくさん走っていて、企業の名前やステッカーなどがそのまま日本語で書いてあることに驚きました。

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福島県人としての誇り
マラウイに来て、2011年の東日本大震災を知っているマラウイ人に出会いました。私の出身地、福島も被災地の1つだということを話すと、「街は大丈夫なのか?」「放射能は大丈夫なのか?」と心配してくれ嬉しくなりました。同時に、日本から遠く離れたこの国にまで広がるほど大きな災害だったのだ、ということを改めて認識しました。福島は、震災後日本だけにとどまらず、世界中から多くの支援や応援を受け、少しずつ復興の道をたどってきたと思います。このような状況の中でアフリカのマラウイという地に来るチャンスを与えられた今、日本ではなく福島に行ってみたい、と現地の人に言ってもらえるような活動ができたらと思っています。

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安達太良山の中腹にある、国際協力機構(JICA)二本松青年海外協力隊訓練所から巣立っていった隊員の方のレポートですね。

他の隊員の方に関する話題を、以前、このブログでご紹介しています。

「にほんまつのほんとの空とつながってる」、いいフレーズですね。


【折々の歌と句・光太郎】

まど近くなくなる蛙我が宿の夜をゆかしみ来る友もがな
明治33年(1900) 光太郎18歳

そろそろ入梅かな、という感じの天気予報ですね。当方自宅兼事務所の網戸にも、アマガエルがやってきます。

昨日の『福井新聞』さんの一面コラムから。 

越山若水

一昨夜、昨夜と雲にいらだった人が多いかもしれない。火星が地球に最接近する「スーパーマーズ」である。南南東の夜空に赤く輝く星をご覧になれただろうか▼火星は約2年2カ月ごとに地球と接近を繰り返す。その距離は毎回違う。今回最も近づいた5月31日は7528万キロと、ほぼ10年ぶりに「中接近」したという▼「スーパー」だが「中」くらい、では拍子抜けの気がしないでもない。ただ、見た目で一番小さかった1月に比べいまの火星は3倍も大きい。観察には好機である▼高村光太郎も最接近を見たのかもしれない。「要するにどうすればいいか、という問は、/折角(せっかく)たどつた思索の道を初にかへす」と始まる「火星が出てゐる。」という詩がある▼まずい読み手ながら、例えばこんな一節にひかれる。「お前の心を更にゆすぶり返す為(ため)には…あの大きな、まつかな星を見るがいい」。孤高の星を仰ぐ求道者が浮かんで美しい▼地球から月までは約38万キロ。火星はその数百倍も遠く、ロケットで往復するだけで3年かかる。巨額の費用も必要だ。それでも、世界各国が有人探査計画を進めている▼なぜかといえば将来、人類が移住できそうな星だとみられているから。この計画にロマンを感じるかどうか。青く美しい地球を壊した末に「地球が出ている」とうたうのか、と人類の所業に心痛む人も多いだろう。


というわけで、現在、通常時に比べて地球と火星の距離がかなり近い状態だそうです。

そちらを報じた『中日新聞』さんの記事。 

火星が明るい! 5月31日 火星最接近!

火星接近!
午後11時ごろ南東の空を眺めると、赤い光を強烈にはなっている星が目に入る。火星だ。近くの土星やさそり座のアンタレスがかすんでしまうほど。アンタレスは火星の敵という意味だが、アンタレスよりも3等級も明るい-2等星で輝いている。
それもそのはず5月31日は2年2か月ぶりの火星最接近なのだ。しかも今年は準大接近、前回の2014年4月よりも一回り大きな火星が見えるということで大いに期待が高まる。

火星の動き
火星は地球のすぐ外側を公転周期687日で回っているため、地球から星空の中で輝く火星を見ていると、その動きはとても目まぐるしく、ほぼ2年で天球を1周してしまう。
 今年1月におとめ座の足元にいた火星は、東へ東へと順行し、2月にはてんびん座を通過し3月にさそり座、4月にへびつかい座に入ったかと思ったら17日には動きが止まり、逆行モードに転じUターンしててんびん座まで戻ってしまう。
そして6月30日に再び止まって順行に転じて、そのまま東へ足早移動し8月にはアンタレスに接近する。
火星は、地球に追いつかれ並び追い越されてゆくことになる。この間火星はダイナミックに変化をする。地球との距離は、1月には2億3100万kmもあったが、最接近の5月31日には7530万kmまで縮まり、12月には2億2900万kmまで離れてしまう。
 明るさは、1月はおとめ座のスピカと変わらない1.1等から、5月には木星の明るさに迫る-2等に達し、12月には0.8等南のうお座のフォーマルハウトよりやや明るい0.8等まで落ちてしまう。
 気になる大きさ視直径は、1月の6秒角から最接近時の18秒角、そして年末の6秒角へと、猫の目のように目まぐるしく変化する。だからこそ、火星接近は、一大天文現象になるのだ。

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文章ではわかりにくいのですが、図を見れば一目瞭然ですね。

昨夜は関東は快晴で、南の空に火星がくっきり見えました。あやしいほどの光でした。というか、先月中旬くらいら、赤い大きな星が網戸越しにも見えていたので、気になっていました。その後、「火星再接近」というニュースを見て、ああ、あれが火星だったか、と思った次第です。

光太郎ファンは、「火星」というと、次の詩を思い浮かべます。大正15年(1926)、12月5日作。翌昭和2年1月1日の雑誌『生活者』第2巻第1号に掲載されたものです。


    火星が出てゐる005

 火星が出てゐる。
 
 要するにどうすればいいか、といふ問は、
 折角たどつた思索の道を初にかへす。
 要するにどうでもいいのか。
 否、否、無限大に否。
 待つがいい、さうして第一の力を以て、
 そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
 予約された結果を思ふのは卑しい。
 正しい原因にのみ生きる事、
 それのみが浄い。
 お前の心を更にゆすぶり返す為には、
 もう一度頭を高く上げて、
 この寝静まつた暗い駒込台の真上に光る
 あの大きな、まつかな星をみるがいい。
 
 火星が出てゐる。
 
 木枯が皀角子(さいかち)の実をからからと鳴らす。
 犬がさかつて狂奔する。
 落葉をふんで
 藪を出れば
 崖。
 
 火星が出てゐる。001
 
 おれは知らない、
 人間が何をせねばならないかを。

 おれは知らない、
 人間が何を得ようとすべきかを。
 おれは思ふ、
 人間が天然の一片であり得ることを。
 おれは感ずる、
 人間が無に等しい故に大である事を。
 ああ、おれは身ぶるひする、
 無に等しい事のたのもしさよ。
 無をさへ滅した
 必然の瀰漫よ。
 
 火星が出てゐる。
 
 天がうしろに廻転する。
 無数の遠い世界が登つて来る。
 おれはもう昔の詩人のやうに、
 天使のまたたきをその中に見ない。
 おれはただ聞く、
 深いエエテルの波のやうなものを。
 さうしてただ、
 世界が止め度なく美しい。
 見知らぬものだらけな不気味な美が
 ひしひしとおれに迫る。
 
 火星が出てゐる。


「火星再接近」のニュースを見て、この詩を引用した報道やコラムが、全国どこかの新聞に載るだろうと予想していましたら、まさしくその通り、『福井新聞』さんがやってくださいました。ありがとうございます。「まずい読み手ながら」と謙遜されていますが、どうしてどうして、「孤高の星を仰ぐ求道者が浮かんで美しい」という解釈はその通りです。

しかし、同じく求道的な内容であっても、大正3年(1914)の、あまりにも有名な「道程」で謳い上げられた「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という高らかな調子はありません。この時期の光太郎の、さまざまな面での葛藤や焦燥が込められているからです。

父・光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界と訣別し、独自の道を歩き始め、それなりに認められるようにはなっていた光太郎ですが、まだまだ「大家」の域までの評価は得ていません。

かえって、詩の部分での評価が高まり、光太郎の元には、草野心平、尾崎喜八、黄瀛、佐藤春夫、真壁仁、更科源蔵、宮沢賢治、岡本潤、中原中也、高橋元吉、尾形亀之助ら、若い詩人たちが集ってきます。佐藤春夫曰く「多くの若者を愛し、また多くの若者から慕はれた」、「あの人に近づいたあらゆる人が不思議と、みんな自分が一番気に入られてゐたやうな感銘を持つて帰る」(『小説高村光太郎像』昭和32年=1957)ということでした。

こうした若い詩人たちとの交流が、光太郎をしてアナーキズムやプロレタリア文学に近い位置に導きました。もちろん、それは光太郎一流の旧弊な日本を否定する精神あってのことでした。「彼は語る」「上州湯桧曽風景」「機械、否、然り」「似顔」といったこの時期の詩には、人間を人間として扱わない強欲な資本家に対する怒りなどが表出されています。そうした怒りをさまざまな「猛獣」の視点で描いた連作、「猛獣篇」が手がけられるのもこの時期です。

しかし、そうした怒りも、畢竟するに一芸術家としての狭い視野からのものに過ぎず、そこには確固たる社会認識に基づく方法論も、社会変革を志す姿勢にも欠けていました。

光太郎曰く、

その方(注・プロレタリア文学)にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。(略)プロレタリア文学の良い部分には勿論ひかれたが、心から入ってはゆけなかった。
(「高村光太郎聞き書き」 昭和30年=1955)

というわけでした。


「火星が出てゐる」の、「要するにどうすればいいか」という自問は、このあたりに関わってきます。

ついでに言うなら、パートナー智恵子も目指していた油絵画家への道をほぼ断念、不安定な状態になっていきます。そして慢性的な生活不如意。二人の生活もさまざまな軋みを見せ始めます。そして智恵子の方は、自身の健康問題、相次ぐ近親者の死、実家の破産、光太郎と違って狭い交友範囲だったこと、更年期障害、子供もいないことなどなど、様々な要因がからみあって、光太郎曰く「精一ぱいに巻切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつた」状態―心の病―になってゆくのです。


さて、火星。

当分は夜間、南の空によく見えるはずです。ひときわ赤く大きく輝いているので、すぐにわかります。それを見ながら、光太郎智恵子に思いを馳せていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

まこもぐささびしう風に香をよせて夕の舟の人泣かしむる
明治35年(1902) 光太郎20歳

一昨日からご紹介している利根川の旅の中での一首です。

昨日のこのブログの訪問者数が、「631人」。普段の10倍近い数字になりました。

特に午前9時半頃の時点で、既に300件ぐらいカウントされており、驚きました。昨日の記事を書きはじめた9時少し前には10数件だったのに、投稿が終わって、左の窓を見ると、数字が跳ね上がっていました。

時折、反原発的なことも書きますので、そういう記事を見つけた幼稚なネトウヨが「反日」レッテルでも貼って拡散し、いわゆる「炎上」の状態になったのか、などとも思いましたが、そういう場合にあり得るコメントは全く入っていなかったので、それはありませんでした。しかし、なぜ、というのがさっぱりわからず困惑したまま昨日が終わりました。

YAHOO!ブログの場合、日付が変わって朝になると、前日のアクセス状況の解析が出来ます。早速、解析ページに飛んでみると、5月29日(日)に書いた「紀尾井町福田家インターネットオークション」という記事にアクセスが集中していました。

光太郎も訪れ、さらにその前には岩手太田村に蟄居していた光太郎に援助の手をさしのべていた東京紀尾井町の老舗料亭・福田家さんが、移転に伴い、店の調度品や食器などをオークションに出品、売り上げは千代田区の桜再生事業に寄付する、というニュースの紹介でした。

なぜ、この記事に? と思い、さらに調べてみると、昨日朝、テレビ朝日さんの「羽鳥慎一モーニングショー」で、このニュースを取り上げていたことが分かりました。まさに訪問者数が跳ね上がった時間帯でした。 

超レア食器1円から!?話題のオークション・鑑定士驚く文豪の皿

いま調度品の数々がネットオークションに出001品され話題を呼んでいる。
出品したのは「福田家」(東京・千代田区紀尾井町)で1円からスタートされる。
福田家は1939年に割烹旅館として創業した。
ノーベル賞作家・川端康成、ノーベル物理学賞・湯川秀樹など多くの著名人に愛された店。
アドバイザー的存在だったのが芸術家・北大路魯山人。
料理を盛り付ける皿にも魯山人の作品を使用しているという。
5月に移転したのをきっかけにオークションに出品することを決めた。
戦後、地域のためにと先々代が始めた桜の苗木を植える「千代田区・区のさくら再生事業」への取り組みに収益を充てたいという。
オークションへの出品は11回に分け300点以上になるという。
鑑定士(株)かぐら堂・八木康介、福田家代表取締役・福田貴之のコメント。
店内に飾られた魯山人の作品、川端康成から譲られた飾り皿。


さらに、『読売新聞』さんにも昨日、記事が出たようです。 

ヤフオクで高級料亭の品 「福田家」出品

◆川端、魯山人…ゆかりの調度など300点
 歴代首相が利用した応接間のソファに、川端康成から譲り受けた角皿――。千代田区紀尾井町の高級料亭「福田家」が、今月9日に移転したのを機に、300点以上の調度品をインターネットのオークションサイト「ヤフオク!」に出品している。収益の一部は、区が取り組んでいる桜の再生事業に寄付するという。
 福田家は1939年に港区虎ノ門で 割烹(かっぽう) ( 旅館として創業し、45年に紀尾井町に移転した。ノーベル賞を受賞した川端康成や湯川秀樹、彫刻家のイサム・ノグチが定宿にしたほか、池田勇人、佐藤栄作といった元首相をはじめとする政治家がこぞって利用したことで知られる。
 同店は「外国人にも、日本文化を伝えていく店」を目指し、同じ紀尾井町にあった築80年の木造の別館を約2年がかりで改装。そこに移転し、今月9日から営業を始めている。
 移転にあたり、一部の家具や器などを整理することにしたが、4代目の福田貴之さん(39)は、「何か社会に役立てる方法はないか」と思案。64年頃、2代目社長が店のあった真田 濠(ほり) ( (江戸城の外堀の一部)跡に桜の苗木100本を寄贈したことに触発され、区が2004年から千鳥ヶ淵や真田濠跡などで続けている桜の再生・維持活動に、収益を寄付することにした。
 出品しているのは、日本の歴代首相や外国の政治家らを通した応接間にあったソファと振り子時計のほか、川端康成や北大路魯山人から譲り受けた器など、計300点以上。オークションは16日から始まっており、11回に分けて7月31日まで行う予定。既に終了している回もあり、ソファは9万8000円、振り子時計は16万6000円でそれぞれ落札されている。
 福田さんは、「大切にしてきた調度品の数々が、店が代々お世話になってきた真田濠の桜に役立てばうれしい」と話している。


ついでに、オークション開催元の「ヤフオク!」さんによる紹介記事も引用させていただきます。 

先々代から受け継がれる桜への想い〜紀尾井町 福田家

北大路魯山人の「美」と「味」の調和を大切にしてきた老舗料亭「紀尾井町 福田家」。店舗移転の際に整理した調度品を出品して、千代田区の「さくら再生事業」を支援いたします。

北大路魯山人の「美」と「味」の調和を
昭和14年虎ノ門にて開業。
その後紀尾井町へ移り、川端康成、湯川秀樹、イサム・ノグチら文化人、政財界の方々が利用されました。 また深い交流のあった北大路魯山人から得た「美」と「味」の調和を大切にいたしております。
この春、別館として営業していた日本家屋に移転。変わらぬおもてなしでお客様をお迎えしております。

歴代首相や海外の国賓も「おもてなしの心」で
これまでには、歴代首相や海外からもフランスのミッテラン大統領やジョージ・ブッシュ大統領(副大統領時)、第6代のガリ国連事務総長など、海外からもさまざまなお客様を迎えさせていただきました。
料亭とは、四季に恵まれた日本独自の文化です。
美しいしつらいとお料理をゆっくりお楽しみ頂ける空間を提供いたしております。 時代とともに料亭の数は少なくなってきておりますが、今後も引き継いで守っていきたいと思っております。

「器は料理の着物」
福田家では、「器は料理の着物」と説いた北大路魯山人から譲り受けた貴重な器類や花器をはじめ、椅子や調度品に至るまで細部にこだわりのある品々が使われています。この度、店舗移転に伴って整理した器や調度品を出品することにしました。

出品期間:5月16日(月)〜7月31日(日)、商品数:300点以上
 *商品は、週毎に約30点ほどの出品を予定しております。
・第1弾:5月16日(月)〜5月22日(日)

・第2弾:5月23日(月)〜5月29日(日)無題
・第3弾:5月30日(月)〜6月5日(日)
・第4弾:6月6日(月)〜6月12日(日)
・第5弾:6月13日(月)〜6月19日(日)
・第6弾:6月20日(月)〜6月26日(日)
・第7弾:6月27日(月)〜7月3日(日)
・第8弾:7月4日(月)〜7月10日(日)
・第9弾:7月11日(月)〜7月17日(日)
・第10弾:7月18日(月)〜7月24日(日)
・第11弾:7月25日(月)〜7月31日(日)

先々代から受け継がれる桜への想い
先々代社長の故 福田彰(ふくだ あきら)は、昭和39年頃に13回忌にあたる母への想いとともに、戦後の復興途上の姿であった江戸城外濠 真田濠にさくらの苗木100本を献木しました。
千代田区に文化をつくり、伝統として守り磨き上げてほしいとの思いから継続した寄付を続けてきました。
今回の調度品を販売して集まった資金は、この先々代からの桜への想いを受け継ぎ、千代田区の「区の花さくら再生事業」へ寄付させていただきます。*一部、運営費を除く

【寄付先】千代田区「区の花さくら再生事業」
 千代田区では、多くの人の思いで引き継がれてきた「さくら」を、今、さらに美しい「さくら」として未来に引き継ぐため、「区の花さくら再生計画」を策定し、さくらサポーターの方々と再生事業を推進しています。
 「区の花さくら再生事業」: http://goo.gl/D5ur0b

記事にある先々代社長の母、というのが、太田村の光太郎に食料を贈った福田マチですね。

光太郎が福田家さんを訪れたのは、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再上京した昭和27年10月。当日の日記が残っています。

十月二十日 月
午後一時半主婦之友より迎へ、紀尾井町福田家、川島四郎博士、竹内てるよさんと座談会、七時頃かへる、

座談会の模様は「簡素生活と健康」の題で『主婦之友』に掲載されました。十日前まで暮らしていた岩手太田村での食生活についての話が中心で、蛙まで食べた、などという話も飛び出しました。


ちなみにオークションで集める目標金額は100万円ということで始められましたが、既に集まっている金額は5,227,789円、目標額の5倍を超えています。この調子で7月末までにいくら集まるのか、非常に興味深いところです。そして、それをそっくりさくら再生事業に寄付する、というのですから素晴らしい話ですね。

敗戦後の混乱期に、見ず知らずの光太郎へ食料を贈った先々代の母・福田マチの精神が今も息づいているということなのでしょう。


ところでYAHOO!ブログ、訪問者数が多いと、Tポイントがもらえます。当方、福田家さんほどの気前の良さはありませんが、たまったTポイントは寄付にまわしています。先般の熊本の震災時にも、それまでにたまっていた分をそっくり寄付しました。ネット上でその操作ができるので楽です。昨日のアクセスの多さに対しても、ポイントが加算されるはずですので、またそうした寄付できる機会があったら応じようと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

船のせて船には人のおもひのせて刀根の夕かぜ長うもわたる
明治35年(1902) 光太郎20歳

昨日に引き続き、「常陸の旅の歌の中に」という詞書きがついたうちの一首です。

下記は、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市を流れる利根川です。光太郎、ここを汽船で通ったのではないかと思われます。

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月が改まりまして6月となりました。

光太郎とゆかりのある岩手県花巻市、青森県十和田市。それぞれの広報紙の今月号から。

まずは花巻市の『広報はなまき』。先月15日に行われた第59回高村祭のレポートが掲載されました。

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前日に行われた「高村光太郎記念館講座 高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」についても載るかな、と思っておりましたが、残念ながらそちらは掲載されませんでした。

双方に関する当方のレポートはこちら


続いて青森県十和田市の『広報とわだ』。十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域が国立公園指定80周年を迎えたということで、今月号から「受け継がれる歴史 十和田・八甲田」という連載が始まりました。

第一回は「十和田と大町桂月」。

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 十和田国立公園(現十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域)指定80周年を迎えました。
 桂月が、明治41年に初めて十和田を訪れて著した「奥羽一周記」は大正天皇(当時の皇太子)にも感動を与え、全国に十和田の名を知らしめました。晩年には「十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願」という請願文を起草し、国立公園の指定にも貢献しています。
 十和田国立公園指定15周年を記念して建立された「乙女の像」は、十和田の観光開発に功績のある桂月、県知事武田千代三郎、地元の村長で県議会議員小笠原耕一の3氏を顕彰したものです。
 桂月は、十和田の紀行文、漢詩、和歌など多く残しています。上の写真の歌は、桂月が好んで揮毫(きごう)したものです。晩年には、「山は富士 湖水は十和田 広い世界に ひとつづつ」「住まば日本(ひのもと) 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」と、推敲しています。
 この二つの歌が、初めて文献に登場するのは、4回目の訪問で定宿の蔦温泉に滞在中の大正11年8月29日の日記です。   【文責・大町桂月を語る会】


十和田湖の景勝美を初めて中央に紹介した大町桂月。昭和28年(1953)に除幕された光太郎作の「乙女の像」は、記事にあるとおり、桂月ら3人の顕彰のためのものでした。

以下、当会顧問北川太一先生の談話筆記から。実際に光太郎から聴いた話の紹介です。

 大町桂月と高村さんは、早くから直接面識がありました。しかし、桂月は若い頃に高村さんが加わっていた新詩社の与謝野鉄幹とか晶子とかとは、むしろ反対の立場でした。鉄幹は『文壇照魔鏡』事件の時に桂月と喧嘩したことがあったし、晶子の詩「君死に給ふことなかれ」を桂月は「非国民」だと言って非難した。
 高村さん自身も「僕もよく知っていた。桂月に怒鳴られたこともあるし、十和田湖のモニュメントにしても、桂月がもし生きていて、僕が裸の女の人を造ると言ったら、必ず憤慨して『なぜこんなものを造った』と怒られただろう」と言っています。
 (略)
 高村さんは、十和田湖の景色にものすごく感動しています。大町桂月も同じく十和田湖の景色に感動した。だから自分の感動をそのまま表現すれば、それは大町さんだって喜んでくれるだろうという思いがあった。
(『十和田湖乙女の像のものがたり』 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会 平成27年=2015)


さて、『広報とわだ』さんの連載、いずれは光太郎も紹介していただけるでしょう。注意していたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

雲まよふ刀根(とね)のゆふべの真菰舟なにか悲しき風のおもひぞ
明治35年(1902) 光太郎20歳

「(以下五首常陸の旅の歌の中に)」という詞書きがついています。「刀根」は「利根」、千葉、茨城県境を流れる利根川です。また、連続する他の歌の中に「出島」の語が使われており、かつて利根川につながる霞ヶ浦沿岸に「出島」という地名がありました。ただ、地名ではなく、「小さな半島状の地形」の意味で使われているかも知れません。

明治35年(1902)のこの旅行の記録が残っておらず、どのあたりを回ったのか不明です。「出島」が地名として使われているのであれば、当方の住む千葉県香取市にそう遠くない場所です。利根川も当方自宅兼事務所から2㎞足らずのところを流れています。もしかすると104年前に当地の近くを舟で通ったのかも、と思っています。

「真菰」は「まこも」と読み、水辺に生えるイネ科の草です。かつては食用や眉墨、お歯黒の原料などに使われ、それを刈るための小舟を「真菰舟」と言っていました。夏の季語です。

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