2016年05月

埼玉所沢より演奏会情報です。 

所沢メンネルコール 第30回記念演奏会~歌は心のよろこび

期  日 : 2016/06/18 (土)
時  間 : 12:45 開場  13:30  開演
会  場 : 
所沢市民文化センター ミューズ アークホール
       埼玉県所沢市並木一丁目9番地の1
料  金 :  1,000円 全席自由
問  合 : 猪股 04-2955-1655 岩田 04-2948-6145
曲  目 :
 1. F.リスト:レクイエム(パイプオルガンと管楽器との共演)
   Requiem aeternam / Dies irae / Sanctus / Agnus Dei
 2. 昭和浪漫
   青い山脈 / 夜明けのうた / 長崎の鐘 / 海 その愛 / 喜びも悲しみも幾年月
 3.清水脩 「智恵子抄より」
   「智恵子抄巻末のうた6首」 「ある夜のこころ」
 4. トコメン思い出のうた
   野分 / ヒャンス향수(郷愁) / 終電車のブルース / 石家荘にて / 海よ / 川の流れのように

指揮 : 岩佐 義彦  ピアノ : 大下 さや香  パイプオルガン:川越 聡子

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所沢に本拠を置く男声合唱団、所沢メンネルコールさんの演奏会です。

008故・清水脩氏が光太郎の詩歌に曲を付けた2曲がプログラムに含まれています。

「智恵子抄巻末のうた六首」は、昭和39年(1964)、東海メールクワイヤーさんの依嘱によって作曲、初演。翌年にはカワイさんから楽譜も刊行されました。ア・カペラ(無伴奏)の曲です。

「ある夜のこころ」。こちらはピアノ伴奏付きで、同40年(1965)、慶應義塾大学ワグネル・ソサエティーさんの依嘱・初演です。楽譜は音楽之友社さんから刊行された「清水脩・合唱曲集」シリーズに含まれていたはずですが、こちらは当方、持っておりません。

どちらも音楽之友社さんの『清水脩 男声合唱曲集 智恵子抄巻末のうた六首』に収録され、オンデマンド(受注出版)の形で入手可能です。

CD等の音源もリリースされています。

東芝EMIさんの「合唱名曲コレクション21(男声合唱) 月光とピエロ」に東京リーダーターフェルさんの演奏で、2曲共に。「巻末のうた」の方は、ビクターさんから発売の「日本合唱曲全集 月光とピエロ 清水集作品集」にも収められています。こちらの演奏は東海メールクワイヤーさん。

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清水氏は、昭和16年(1941)に刊行された『智恵子抄』を手に取り、「異常なほどの感動を覚え、以来、この愛情の詩に曲を付けたいと思い続けていた」と後年語っています。その「智恵子抄」作曲は男声合唱にとどまらず、混声合唱、独唱歌曲、箏曲にまでおよんでいます。「智恵子抄巻末のうた六首」は、混声版も存在します。


今年は光太郎没後60年、智恵子生誕130年。またひとつ花を添えていただけるかと期待しております。


【折々の歌と句・光太郎】

「トスカン」の酒の赤さよ衣がへ    明治42年(1909) 光太郎27歳

「トスカン」は、フィレンツェを含むトスカーナ地方。赤い酒は、かの地特産のワインでしょう。

昨日、紀尾井町福田家さんについてこのブログでご紹介しましたが、その記事の執筆のため、『高村光太郎全集』第13巻の、昭和24(1949)、同25年(1950)に書かれた「通信事項」という項を繰っておりました。

紀尾井町福田家さんの女将、福田マチに関する記述を探すのが目的でしたが、別件で、思いがけない名前を発見しました。

大橋鎭子。NHKさんの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で、高畑充希さん演じるヒロイン・小橋常子のモデルとなった人物です。鎭子に関しては、2週間ほど前のこのブログでご紹介しました。その際はドラマで『青鞜』が取り上げられるということを書きました。

その他、光太郎とのからみとして、戦前に鎭子が編集に当たっていた『日本読書新聞』に、光太郎が寄稿していることを書きました。それ以上のかかわりが、2週間前の時点ではつかめていませんでした。

ところが、昨日、改めて『高村光太郎全集』第13巻の「通信事項」を調べていて、鎭子の名を見つけ、驚いた次第です。「通信事項」は、日記が失われている昭和24(1949)、同25年(1950)の分のみ、日記の代わりとして『高村光太郎全集』第13巻に掲載されている、郵便物等の授受の記録のノートです。

なぜ昨日まで気付かなかったのか、これにはわけがあります。言い訳がましくなりますが、弁解させて下さい(笑)。当会顧問・北川太一先生が中心となって編まれ、平成10年(1998)に完結した増補版『高村光太郎全集』。全21巻+別巻1の構成で、別巻にはさまざまな索引が載っており、その中で、「人名索引」もあって、常に活用させていただいています。ところが、この「人名索引」には漏れがあるのです。「漏れ」というより、意図的にそうした編集方針を採ったのですが、「通信事項」の部分に表れる人名はカットされているのです。これは、「通信事項」の部分がほぼ人名の羅列だからということで、ここに書かれている人名までカウントすると、「人名索引」が現在の倍くらいになってしまうという判断だと思います。

たとえば光太郎と縁の深かった草野心平。縁が深かっ005ただけに、別巻の「人名索引」では右の通り、すでにかなりのスペースですが、ここに「通信事項」の第13巻415ページから542ページまでの分を入れると、さらにスペースを拡大しなければなりません。全ページに心平の名が載っていれば「415~542」で済みますが、実際にはとびとびに名が出て来ますので、「417,421,431,436,438~440,442……」などとなってしまい、煩雑です。

そこで、「通信事項」は「人名索引」の対象にしていないというわけです。

ところが、ここで困ることが一つ。「通信事項」にしか名前が出てこない人物がいるのです。昨日ご紹介した福田マチもそうでしたし、大橋鎭子もまたしかり。そういう場合も「人名索引」には名が載っていません。

福田マチに関しては、「通信事項」に名が載っていることを記憶していましたが、鎭子の名が載っていたことは完全に覚えていませんでした。というより、「大橋鎭子」の名を当方がしっかり認識したのは、「とと姉ちゃん」の放映が決まってからで、ここ1年くらいの話です。「通信事項」全体をちゃんと読み返したのは、1年以上前、花巻高村光太郎記念会さんの依頼で、『高村光太郎 山居七年 年譜』を執筆していた頃でしたので、その時点では鎭子の名はスルーしていました。不覚。


さて、「通信事項」に書かれた鎭子の名。まずは昭和25年(1950)7月6日です。

大橋鏡子さんよりテカミ(来訪の由)

「鏡子」となっていますが、「鎭子」の誤りです。この時期に光太郎が受け取った書簡のほとんどは、当会顧問・北川太一先生の手元にあり、おそらくそれと照合した結果、「鏡子」でなく「鎭子」と判断されたのでしょう。「鏡」の脇に「(鎭)」とルビが振ってあります。

「来訪」ということは、この後、鎭子が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に、光太郎を訪ねたのだと考えられます。この時期の光太郎日記が失われているのが、かえすがえす惜しいことです。


続いて7月12日。

大橋鎭子さんよりテカミ

ここからは正しく「鎭子」となっています。おそらく、「先日はお忙しいところ、お邪魔いたしました」といった内容なのでは、と思われます。


さらに7月25日。

クラシの手帖より電報(原稿の事)

これは当時、鎭子が編集に当たっていた『美しい暮しの手帖』のことと思われます。ちなみにこの頃はまだ送りがな等のルールが確立して居らず、「暮らし」ではなく「暮し」です。


8月23日にも。

大橋鎭子さんよりテカミ(原稿の事)


そして8月30日。

大橋鎭子さんへ返ハカキ (略) 大橋鎭子さんより「くらしの手帳」八冊

光太郎から鎭子への発信の記録はこれだけです。


翌8月31日。

大橋鎭子さんよりテカミ

おそらく、「別便で『美しい暮しの手帖』八冊送りました」的な内容と思われます。


最後に少し飛んで、11月9日。

大橋鎭子さんよりテカミ(原稿の事)


見落としがなければ、以上です。ただし、『高村光太郎全集』には掲載されていませんが、翌年以降も「通信事項」ノートは継続されていますので、そちらにも鎭子の名があるかも知れません。


以下、推理です。

昭和25年(1950)7月上旬、鎭子が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に光太郎を訪ね、『美しい暮しの手帖』への寄稿を依頼。戦前の『日本読書新聞』の関係で、2人は面識があったと思われます。ところが光太郎は生返事。そこで鎭子は「こんな雑誌です」ということで、『美しい暮しの手帖』のバックナンバーを送附。しかし気乗りしない光太郎、断りのハガキ。諦めない鎭子はまた依頼の書簡を送るも、光太郎は無視。

こんなところではないかと思われます。

『美しい暮しの手帖』への光太郎の寄稿は、確認できていません。ただ、未確認の寄稿がもしかするとあるかも知れませんし、時折、ハガキがそのまま載せられているというケースもありますので、調べてみます。

同時に、先述の通り、この時期の光太郎に宛てた書簡類、さらに昭和26年以降の「通信事項」ノートは、当会顧問・北川太一先生の手元に残っているはずですので、問い合わせてみます。

逆に昭和25年(1950)、8月30日に光太郎が鎭子に送ったハガキ、どこかに残っていないかな、と期待する次第です。また、鎭子の書いたものの中に、光太郎に関する記述がないかも気になります。


さて、「とと姉ちゃん」。先々週のオンエアで、『青鞜』がらみの展開となりました。

昭和11年(1926)、ヒロイン・常子(鎭子)の女学校での新しい担任・東堂チヨが、生徒の前で平塚らいてうの『青鞜』創刊の辞をぶちあげ、女性の自立を促しました。片桐はいりさんの熱演(怪演?)はさすがでした。

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衝撃を受けた常子は、東堂先生から『青鞜』を借ります。

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智恵子デザインの表紙です。前作「あさが来た」でも、終盤に大島優子さん演じる平塚らいてうが登場、小道具として使われました。

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「とと姉ちゃん」に戻ります。

常子はすっかり『青鞜』にはまります。

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そして、進学希望を打ち明けられず、悩んでいる妹の鞠子(相良樹さん)にまた貸し。鞠子もすっかりとりこになります。

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さらに、阿部純子さん演じる常子の親友の中田綾も、独自のルートで『青鞜』を入手、影響を受けたらしいことが語られます。

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常子、鞠子、綾は、戦後、『美しい暮しの手帖』(ドラマでは『あなたの暮し』)を立ち上げることになり、そのバックボーンになったのが『青鞜』だったという設定ですね。

今後の展開が楽しみです。


【折々の歌と句・光太郎】

衣かへてジヨツトの塔に登りけり    明治42年(1909) 光太郎27歳

「ジヨツトの塔」は、イタリア・フィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘楼です。

光太郎がここを訪れたのは、明治42年(1909)3月末から4月はじめ。「衣かへ」は真冬の服装から春物への衣替えと思われますが、やはり「衣替え」といえば今の時期の季語ですので、今日、紹介させていただきます。

先週、NHKさんの首都圏版ローカルニュースをたまたま見ていて、気になるニュースに出会いました。 

老舗料亭が文化人ゆかりの調度品競売 収益は桜再生に

文豪、川端康成などの文化人が通ったことでも知られる東京・千代田区の老舗の料亭が近くに移転縮小するのに伴い、調度品の数々をオークションで販売して、その収益を地元の桜並木の再生事業に役立てることになりました。
千代田区紀尾井町にある「福田家」は昭和14年の開業以来、ノーベル文学賞を受賞した川端康成や物理学賞の湯川秀樹などの文化人のほか、歴代の総理大臣も通ったことで知られる料亭です。
今回、近くに移転し、規模を縮小することから由緒ある調度品およそ300点をインターネットのオークションで販売することになりました。
このうち、川端康成から譲り受けた角皿はかつて、かっぽう旅館だった料亭に本人が宿泊した際に気に入られていた先代のおかみが渡されたものだということです。
また、芸術家で美食家としても知られる北大路魯山人から譲り受けた湯飲みもあります。
このほか、店で使われてきた鉄瓶や高さ2メートル50センチもある振り子時計など、いずれも歴史の重みを感じさせる品々です。
収益の一部は古くなって傷んだ地元の桜並木を再生する区の事業に寄付されますが、先々代の経営者も桜への愛着が深く、桜の名所として知られる真田濠に植えた桜の苗木100本を寄贈した経緯もあるということです。
オークションはすでに始まっていて、ことし7月31日まで行われる予定です。料亭を経営する福田貴之さんは「祖父が寄贈した桜も年を重ねたので、寄付金で整備してもらい、多くの観光客に楽しんでもらえたら」と話していました。


紀尾井町の福田家さん。一昨年のこのブログでご紹介しました。昭和27年(1952)の10月に、光太郎と、元陸軍少尉にして栄養学者の川島四郎、詩人の竹内てるよによる座談会「高村光太郎先生に簡素生活と健康の体験を聞く」が行われ、翌年1月の『主婦之友』に掲載されました。昭和27年(1952)10月といえば、光太郎が十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手花巻郊外太田村から再上京したばかりです。

その際に、この年5月に亡くなった福田家さんの先代女将、福田マチが、太田村在住時の光太郎に大量の食料を贈っていたことが判明しました。判明、というと変ですが、贈り主が福田家の女将だったと判明したということです。

以前にも引用しましたが、もう一度、『主婦之友』の記事から。

「この世は美しいよ。やつぱりいゝことはするもんだなあ」
 と感激性のH記者。老詩人高村光太郎先生を囲む座談会から先生を送つて帰社するなりひどく感心した様子で語り出した――
 座談会は、千代田紀尾井町の福田家といふ旅館で開いたが、座に着いた高村先生
「僕の山の家へね、食糧不足のころ、二度も沢山の食物を送つてくれた人があるんです。紀尾井町の福田さん……この家ぢやないかな」
 と感慨深さう。
 女中さんに聞いてみると、やつぱり先生の推察どほり、贈主は、この五月に亡くなつた先代主人福田マチさんだつた。
 福田さんは隠れた篤行で、これまでもしばしば話題になつた人、新聞か雑誌で高村先生の御生活を読んだことから、慰問品を送つたものらしい。
「お礼も云はず失礼したが……」
 高村先生は滅多に書かれない筆をとつて、福田家さんのために「美ならざるなし」と色紙に認め、心からほつとした面持。
 偶然選んだ会場ながら、思はぬ美しい因縁話で、かくはH記者を感心させた次第だつた。


一度目は、昭和25年(1950)9月でした。この年の光太郎日記は大半が失われていますが、郵便等の授受を記録した「通信事項」というノートが残されており、そこに記述がありました。

福田マチさんといふ人より書留小包(抹茶、茶筌、牛肥菓子一折、放出ものスープ2罐、焼きのり一罐、つけもの一瓶)

前日には封書が届いた旨の記述もあります。

福田マチさんといふ人よりテカミ(よみうりを見たといふ事)

おそらく、『読売新聞』あたりに光太郎の山小屋生活を報じる記事が出、それを読んだ女将が食料を贈ったということなのでしょう。

008光太郎、小包を受け取った日に、すぐに礼状を返信しています。

また、もう一度、同程度の食料が届いたようですが、こちらは翌年以降のようで、昭和25年(1950)の「通信事項」に記述がありません。「通信事項」は日記が失われている昭和24年(1949)、25年(1950)の分のみ、『高村光太郎全集』第13巻に掲載されています。

のちに福田家さんがマチの顕彰のために私家版刊行した冊子に、光太郎から贈られた色紙の写真が掲載されています。


さて、その福田家さんが、調度品類約300点をオークションに出品とのこと。

調べてみましたところ、Yahooさんのオークション「ヤフオク!」に、【紀尾井町福田家】ということで、さまざまなものが出品されています。

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報道では「およそ300点」とありますが、300点、一気に出品というわけではなく、小出しにしているようです。そこで、「ことし7月31日まで行われる予定」ということなのでしょう。もしかすると、昭和27年(1952)に光太郎がこちらを訪れた際に使用した椅子や食器なども含まれているかも知れません。

「収益を地元の桜並木の再生事業に役立てる」というのが素晴らしいですね。調べてみたところ、この桜並木は、マチの13回忌を記念して、昭和39年(1964)に献木されたそうです。

川端康成から贈られた皿なども出品されたようで、もしかすると、今後、完全に光太郎がらみの品も出て来るかも知れません。注意していたいと思います。

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【折々の歌と句・光太郎】

石像に雨ふる日なり衣がへ       明治42年(1909) 光太郎27歳

5月ももうすぐ終わり、6月の声を聴くことになります。となると、衣替えですね。

ただ、昨今は「クールビズ」とかで、5月にはノータイ、上着無しという職場も多いようですし、中高生の制服も、昔のように杓子定規でなく、5月末から6月はじめは夏服でも冬服でも、という柔軟な対応が為されているようです。

NHKラジオ第一放送の深夜番組「ラジオ深夜便」。明日の晩から明後日未明にかけてのオンエアです。 
5月30日(月)午前0時台と1時台(29日(日)深夜)
出演:桂幸丸さん(落語家)、石澤典夫アンカー、村上里和アンカー

東日本大震災の被災地復興支援のひとつとしてNHKが行っている「公開復興サポート 明日へ」の公開収録が、5月22日に福島県郡山市で行われました。 その中から、第一部として福島県出身の桂幸丸さんの落語とインタビュー、第二部としてアンカーのトークと「智恵子抄(高村光太郎作)」「蜘蛛の糸(芥川龍之介作)」「矢村のヤ助(かこさとし作)」の朗読をお聞きいただきます。

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午前1時台の「朗読とトーク」で、「智恵子抄」が取り上げられます。石澤アナか、それとも村上アナか、はたまたお二人ともか、そのあたりは不明ですが、とりあえず聴いてみます。

それに先立つ午前0時台、落語家の桂幸丸師匠がご出演。オリジナルの新作落語「円谷幸吉伝」が流れるそうです。須賀川市ご出身の幸丸師匠、福島に題を採った新作落語を多数発表されています。「新島八重伝」、「瓜生岩子伝」、「野口英世伝」、「福島方言」、「常磐ハワイアンセンター物語」、そして「智恵子抄」。

■『智恵子抄』でお馴染みの高村智恵子。その人生は、恵まれた環境で好きな事に一生懸命打ち込む幸せな少女時代、学生時代の智恵子であったが、その後不幸が彼女を次々と襲い苦悩し葛藤する。そして最後に見つけた彼女の人生の一筋の光は紙絵制作。52才で亡くなるまでの3年8か月の入院生活の間に千数百点の作品を作り上げました。穏やかなテンポの噺の流れでありながら、聴いている内に自然に微笑んでしまうような、そんなステキな作品です。

当方、CDを持っております。

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今回の演目は「円谷幸吉伝」ですが、「智恵子抄」に関するお話も出ることを期待します。


ぜひお聴き下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

病またたのしき如し五月尽   昭和20年(1945) 光太郎63歳

東京のアトリエを焼け出され、花巻の宮沢賢治の実家に疎開、到着した翌日から結核性の肺炎で高熱を発し、病臥していた折の句です。

「月尽」は「月の終わり」という意味で季語として使われる俳諧用語。「五月尽」は「五月末」です。

当方も夏風邪にやられ、ここ数日、寝込んだり起きたりの毎日です。

昨日に続き、香川県から演奏会情報です。 
期  日 : 2016/06/12 (日)
時  間 : 13:30 開場 14:00 開演
会  場 : 
サクラートたどつ(多度津町民会館) 香川県仲多度郡多度津町大通り4-26
料  金 :  【前売】一般 1,000円 小・中・高校生 500円
                   【当日】一般 1,300円 小・中・高校生 800円 
問い合わせ : サクラートたどつ 0877-33-3330
曲  目 :
 オペラ「カルメン」より ハバネラ~恋は野の鳥 ビゼー
 オペラ「ドン・バスクァーレ」 あの騎士の眼差しは ドニゼッティ
 歌曲集「智恵子抄」より 別宮貞雄

グループ礫(れき)は、創立44年になる香川県中讃の声楽家の団体です。
毎年定期演奏会だけでなく、童謡唱歌講座や日本歌曲公開講座等も開催し、声楽曲の魅力を伝えようと取り組んでいます。
今回は6月のジューンブライドにちなんで、愛や結婚をテーマにした曲をお届けします。

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というわけで、独唱歌曲のコンサートです。別宮貞001雄氏作曲の「智恵子抄」が演奏されます。

この歌曲集は、昭和58年(1983)初演。「人に」、「深夜の雪」、「僕等」、「晩餐」、「あどけない話」、「人生遠視」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」の全9曲です。今回の演奏会では「より」となっています。このうちの何曲が演奏されるかは不明です。


音楽之友社さんから楽譜が刊行されていましたが、絶版になっているようです。
 
CDが、カメラータトウキョウさんからリリースされていて、こちらはまだ新盤で手に入ります。演奏は永田峰雄(テノール)、アントニー・シピリ(ピアノ)。平成14年(2002)の録音です。

お近くの方、ぜひどうぞ。008

【折々の歌と句・光太郎】

とげとげのこごしきかどをまろめよと友も師もいふ駱駝さへいふ
制作時期不詳

「こごし」は古語で「凝り固まっている、険しい」の意。

「高村の言いたいことはよく分かる。もっともだ。しかし、ここは一つ、大人になってだな……」「そうとも、もっと如才なく立ち回ることも覚えないと、やっていけないぞ」というような声が背後に聞こえてきそうです。

そこに「駱駝」がからむのは、連作詩「猛獣篇」とのつながりでしょうか。

四国香川から演奏会情報です 
期  日 : 2016/06/04(土)
時  間 : 18:00開場 18:30 開演
会  場 : レクザムホール 小ホール(香川県県民ホール)  香川県高松市玉藻町9-10
料  金 :  一般1000円  学生(高校生以下)500円
問い合わせ メールアドレス:
takakon1975@gmail.com
曲  目 :
 ◆第Ⅰステージ
  まど・みちお 作詩、鈴木憲夫 作曲 混声合唱組曲「地球ばんざい」
 ◆ensemble stage
  みずかみかずよ作詩、木下牧子作曲「めばえ」
  岸田衿子作詩、津田元作曲「うたをうたうのはわすれても」
  さくらももこ作詩、相澤直人作曲「ぜんぶ~ア・カペラ版~」
 ◆第Ⅱステージ
  土曜七時の歌謡ショウ PART4 私たちの英雄(ヒーロー)
 ◆第Ⅲステージ
  高村光太郎 作詩、鈴木憲夫 作曲 混声合唱曲「レモン哀歌」
  鈴木憲夫 作曲 混声合唱曲「Ave Maria」

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高松混声合唱団さん。このブログでもご紹介しました、福島で開催された「第9回声楽アンサンブルコンテスト全国大会-感動の歌声 響け、ほんとうの空に。- 」に参加なさっています。実力のある合唱団なのでしょう。

上記の通り、光太郎作詞、鈴木憲夫氏作曲の混声合唱曲「レモン哀歌」を演奏して下さいます。

この曲は、平成24年(2012)に混声版がカワイさんから刊行されました。

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前年には女声合唱版独唱版も刊行されています。

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CDなどは発売されていないようで、当方、これまで聴いたことはなかったのですが、動画投稿サイト「youtube」に、高松混声さんの演奏がアップされていました。


途中でめまぐるしく転調したり、変拍子を多用したりといった最近流行の手法は用いず、奇を衒うことなく、最初から最後まで、ゆったりとした清澄な響きを保ち、安心して聴いていられる作品です。ただ、ヴォカリーズの部分が結構あって、8分あまりの演奏時間と、少し長めではあります。聴いて感じるほどには易しい曲ではないようです。

演奏会当日には、作曲者の鈴木憲夫氏もお見えになるそうです。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

乳酪(にうらく)をつくりて生きむ画をうりて生きじと彼はゆきてかへらず
制作年不詳

昭和4年(1929)、改造社刊行の『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に載った作品ですが、いつの作品か不詳です。同書には明治末の作も載っていることから、明治44年(1911)5月、画廊琅玕洞を閉じて北海道月寒に渡り、酪農をしつつ芸術制作をする生活を夢見ていた頃のものかもしれません。

しかし、夢は夢にしかすぎず、少しの資本ではどうにもならぬと悟り、「ゆきてかへらず」どころか、月内にはすごすごと帰京しています。

作歌の経緯がよく分からないので何ともいえませんが、大志を抱いていた頃の作なのか、あるいは夢破れて帰ってからも、夢だけは北の大地にとどまっているというのか、はたまた自らが果たせなかった夢を友人知己の誰かが代わりに果たすべく北海道に行った、とでもいうのか、謎の多い歌です。

新刊、といっても2ヶ月前ですが、気付くのが遅れ、紹介が遅くなりました。 
2016/03/10 筑摩書房(ちくま新書) 墨威宏著 定価960円+税


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知らなかった!銅像の真実
歴史的人物や偉人の像、アニメのキャラクター像など日本全国の銅像を訪ね歩き、カラー写真と共に、エピソードや現地の情報を盛り込んで紹介する楽しい一冊。
明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近現代史が見えてくる。
 
目次
第1章 秘められた歴史
第2章 謎の銅像
第3章 昭和の記憶
第4章 源平合戦の虚実
第5章 戦国武将の盛衰
第6章 幕末の群像
第7章 銅像が語る文学史


基本的に、全国の銅像を紹介する項立てになっており、「第1章 秘められた歴史」の中で、光太郎の父・光雲が制作主任となって作られた「楠木正成像」「西郷隆盛像」が扱われています。

同時に、「銅像」受容の歴史を考察する作りにもなっており、楠公像、西郷像の項では、サブタイトルを「銅像会社設立を考えた光雲」とし、光太郎にも触れています。

特に日露戦争後、武功のあった軍人などの像を造る機運から、一種の銅像ブームが起こりました。光雲が「銅像会社」の構想をぶちあげたのは、光太郎が欧米留学から帰った明治42年(1909)です。日本郵船の阿波丸という船で、神戸港に着いた光太郎を迎えに来た光雲が、東京への汽車の中で光太郎に語りました。

「弟子たちとも話し合つたんだが、ひとつどうだらう、銅像会社といふやうなものを作つて、お前をまんなかにして、弟子たちにもそれぞれ腕をふるはせて、手びろく、銅像の仕事をやつたら。なかなか見込があると思ふが、よく考へてごらん。」
(「父との関係」 昭和29年=1954)

この光雲の構想は単なる思いつきではありません。楠公像や西郷像同様、東京美術学校として受注し、光雲を中心に山崎朝雲、本山白雲らが携わった銅像がかなりありましたし、光太郎の実弟・豊周は既に鋳金の道に進み始めていました。実際に光雲の残した綿密な構想メモも現存し、ビジネスとして非常に見込みのある企画だったといえます。

しかし、光太郎にとっては、功成り名遂げた人物の自己顕示、または周囲のゴマすりのような形での銅像制作は、俗なもの、芸術にあらず、という感覚でした。

私はがんと頭をなぐられたやうな気がして、ろくに返事も出来ず、うやむやにしてしまつた。何だか悲しいやうな戸惑を感じて、あまり口がきけなくなった。
(同前)

結局、光太郎は光雲を頂点とする日本彫刻界とは縁を切り、独自の路線を歩み始めます。光雲も、光太郎が乗ってこないなら、ということで銅像会社の構想は断念しました。

ただし、光太郎、のちに光雲の代作で銅像の原型制作は何度もやっていますし、銅像ならぬ肖像彫刻も数多く手がけています。『銅像歴史散歩』にも紹介されている光雲像、日本女子大学校初代校長・成瀬仁蔵(NHKさんの朝ドラ「あさが来た」における成澤泉)像など。

単なる「銅像」と「肖像彫刻」の境界がどこにあるのか、難しいところです。おおざっぱにいえば、作者があまり前面に出て来ず、モデルとなった人物の顕彰、という点が中心になっているもの、いわば「誰々作った」がメインなのが「銅像」、それに対し、作者が重要で、「誰々作った」という感覚で捉えるべきなのが「肖像彫刻」、といえそうな気がしますが、その線引きは曖昧模糊としています。

今後も考察を続けてみたいと思います。

ところで『銅像歴史散歩』。定価960円+税と、新書としては高額です。これは、ほぼ全ページカラーで画像が多数使われているせいでしょう。その意味では妥当な価格です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

夏は来ぬものみなみちよかがやけよ生めよふえよととどろくちから
明治37年(1904) 光太郎22歳

当方、夏は大好きです。しかし、急に暑くなったせいで、あちこちで急に冷房が使われはじめ、かえってそれにやられました。夏風邪気味です。

昨日、生活圏の新刊書店にて、光太郎に少しだけ触れている書籍を2冊、買って参りました。

まずは雑誌『サライ』の6月号。

『サライ』6月号「生誕120年記念 今こそ、宮沢賢治」

2016/05/10 小学館 定価700円

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今年の8月に生誕120年を迎える宮沢賢治(1896~1933)。生まれ育った岩手県花巻市を中心に様々な記念行事が予定されていますが、いま、賢治の生き方や作品が再び注目されています。また、東日本大震災の被災地でも賢治は読まれているそうです。

『サライ』6月号の特集は「今こそ、宮沢賢治」と題して、作家の池澤夏樹さん、映画作家の大林宣彦さん、漫画家の松本零士さんをはじめ、賢治作品に影響を受けたという著名な方々に、賢治との出会いと作品の解釈、それぞれの賢治像を語っていただきながら、「いま、なぜ宮沢賢治か」をひもといていきます。

社会学者の見田宗介さんは賢治が今なお多くの人々に読まれている理由として、作品に共通する「人間は生きて在るだけでいい」という考えに共感し救われているからと語ります。また、それは経済的な豊かさを追い求めてきた人々が、従前とは異なる幸福感を考え始めているからだとも述べています。

賢治が生きた時代、日本は戦争への道を進み、故郷・岩手は自然災害にたびたび見舞われました。29歳で農学校の教職を辞し、花巻に「羅須地人協会」を設立。自らも一農民として後半生を農業の発展に寄与する道を賢治は選びます。農民に肥料の相談や指導を無料で行ないながら、自らの考えも説いたのです。

<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>
賢治の弟・清六の孫にあたる宮澤和樹さんは、「賢治さんは、自らが率先して実践することで、各人が他人のことを考えて行動し、歩みを進めれば、夢の国『イーハトーブ』は実現できると考えていたのではないでしょうか」と賢治の心の内を代弁します。

本特集では、今も賢治作品に刺激を受け続けているという作家の夢枕獏さんが、岩手県内に賢治ゆかりの地を訪ね歩いています。賢治の世界を肌で感じた夢枕獏さんは、こう言いました。
「災害やテロなど、世の中が混沌としている今だからこそ、賢治の言葉が私たちの心に刺さります」
人は繋がりで生きています。そして、私たちはひとりではありません。誰もの心に賢治の言葉があれば、本当の幸せの花が咲くのです。宮沢賢治が私たちに残してくれたいくつものメッセージにもう一度耳を傾けてみてはいかがでしょうか。


実際に会ったことは一度だけながら、お互いにその詩的世界を認め合い、足かけ8年にわたる光太郎の花巻近辺での生活を実現させた宮沢賢治の特集です。

「イーハトーブ対談 賢治が本当に伝えたかったこと」というコーナーで、作家の夢枕獏氏と、賢治の弟である清六の令孫・宮澤和樹氏の対談で、賢治を見いだし、世に広めるのに一役買った光太郎に言及されています。和樹氏、ことあるごとに光太郎の功績を語って下さり、有り難く思っております。

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また、やはり夢枕さんによる「宮沢賢治の「心」と「風景」を歩く」という紀行文では、旧太田村の山小屋(高村山荘)が紹介されています。

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ちなみに夢枕さんといえば、「智恵子抄」を愛読する、心優しい巨漢の豪傑を主人公とした『怪男児』というエンタメ小説を、かつて執筆なさっています。

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その他、賢治・光太郎ともに愛した大沢温泉さんや、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑など、光太郎がらみの場所も紹介されています。


もう1冊。

月に吠えらんねえ(5)

清家雪子著 2016/5/23 講談社(アフタヌーンKC) 定価740円+税

萩原朔太郎作品のイメージから生まれた「朔くん」、北原白秋作品から生まれた「白さん」、室生犀星作品から生まれた犀。戦中詩を強要され苦しむ朔、□(シカク)街と朔の関係を追求する白、戦場の悲劇を目撃し続ける犀、3人の詩人たちは近代日本の闇に直面する。膨大な資料を下敷きにした、話題集中の近代詩歌俳句エンターテインメント、あいかわらず独走中!

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萩原朔太郎をモデルとした「朔」を中心に、幻想の街・□(シカク)街に交錯するさまざまな文人たちを描くコミックの第5巻です。昨年刊行された第4巻では、アッコさん(与謝野晶子)とチエコさん(高村智恵子)が表紙を飾り、第17話「あどけない話」では、コタローくん(光太郎)とチエコさんがメインのストーリーになっていました。

5巻では、コタロー君とチエコさんは直接登場しませんでした。が、「朔」が幻想の中で、日本近代詩史を辿るという場面に、光太郎詩「牛」、そして「敵ゆるすべからず」が使われています。

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「社会が最上と認めるものが芸術の価値ならば 日本近代詩の頂点は あの無惨な 響きも実験精神も何もない 雰囲気に追い立てられ無理に生み出された出来損ないの 戦争の詩なんだよ」という「朔」のセリフ。なかなか鋭い考察です。


『サライ』、『月に吠えらんねえ』、ともに新刊書店で普通に販売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

朝焼けやぬるき南のしめり風海より吹きて初夏は来ぬ
明治40年(1907) 光太郎25歳

昨日の関東では、真夏日を記録した所もありました。今日も暑くなりそうです。

一昨日の土曜日、二本松市の智恵子の生家を後に、安達太良山を目指して愛車を走らせました。

ロープウェイを使えば長時間歩かずとも山頂まで行けるとのことなので、そのつもりでした。さらにイルミネーションも見てみよう、昨年オープンした日帰り温泉施設「あだたら山 奥岳の湯」の湯にも入ろう、という計画でした。

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麓から見た山頂。期待が高まります。

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途中の岳温泉。

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沿道に咲くのは山ツツジでしょうか。

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ところが、岳温泉を過ぎた辺りから、まさかの雨。し002かも大粒。

ウィンドブレーカーは持って行きましたが、ちゃんとした防水のものではありません。車には傘が積んであるものの、さすがに傘を片手に山歩きというわけにも行きません。靴も登山靴ではなく、街中も歩けるようなトレッキングシューズです。

結局、標高950㍍の登山口まで車で行ったところで、断念しました。この雨は「山をなめるな」ということでしょうか。

「あだたら山 奥岳の湯」は登山口にありますので、そちらにだけは傘をさして行って参りました。



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けっこうな賑わいでした。登山シーズンの休日ということもありましたし、「雨宿り」と言っていたお客さんもいました。

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内湯が一つと、展望露天風呂が一つ。雨に打たれながら露天風呂に浸かりました。当方の好きな熱めの湯です。先週泊まった岩手の大沢温泉さんも熱めの湯でした。大沢さんはアルカリ性でしたが、こちらは酸性泉。殺菌効果が期待できます。

雨はやみそうにないので、これで帰路につきました。結局、千葉の自宅兼事務所に着くまでずっと雨でした。前日までの天気予報では一言も「雨」とは言っていなかったような気がしたのですが……。

イルミネーションと、山頂から見る「ほんとの空」はまたの機会に取っておきます。


帰りがけ、地元紙2紙を買ってきました。

まずは『福島民友』さん。

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智恵子生家・記念館で前日から始まっていた「高村智恵子生誕130年記念事業 智恵子生誕祭 琴の調べ」について報じて下さっていました。 

風流の時間楽しむ 智恵子生誕130年記念「琴の調べ」

 二本松市出身の洋画家・紙絵作家で、夫で彫刻家・詩人の高村光太郎の詩集「智恵子抄」でも知られる高村智恵子の生誕130年記念イベント「琴の調べ」が20日、同市油井の智恵子の生家で始まった。同日の智恵子の誕生日に合わせた「生誕祭」として、22日まで開かれている。
  智恵子の実家は造り酒屋で、一般公開されている智恵子の生家には、裏に「長沼ちゑ用」と書かれた琴も展示されている。少女時代には琴に親しんだという。
 琴の調べは今回が初めて。同市の福箏会(高橋和子代表)の会員らが出演し、琴と尺八で「智恵子抄」や「荒城の月」などの曲を演奏している。
 また、二本松婦人会(石川美知会長)が野だて傘などで風情を演出した中で抹茶や菓子を提供し、入館者は静かに風流の時間を楽しんでいる。
 琴の調べは午前の部が午前10時~正午、午後の部が午後1時~同3時。智恵子の生家と併設する智恵子記念館の入館料は高校生以上410円、小・中学生200円。お茶の振る舞いは実費となる。智恵子記念館には、智恵子の紙絵の実物も約10点展示されている。
 問い合わせは智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。


続いて『福島民報』さん。

こちらは琴関係の記事は見あたりませんでしたが、過日ご紹介した末盛千枝子さん著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』の書評が出ていました。

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長いので引用はしませんが、光太郎智恵子の名を挙げて下さっていますので、そこだけ。

 彫刻だけで子ども六人を育てようとした厳格な父と、それを支えた母。「千枝子」は、父が彫刻家の高村光太郎にお願いして、彼の妻智恵子にちなんで付けてもらった名だ。

同一の書評は、他県の地方紙さんにも載ったようです。

『日経』さんと『朝日』さんに載った書評はこちら

以上、2日に分けての福島レポートでした。


【折々の歌と句・光太郎】

かわきたる赤岩の角(かど)湯にぬらしざぶりと立ちて腰かけにけり
大正13年(1924) 光太郎42歳

温泉好きだった光太郎、温泉にまつわる短歌も複数残しています。

昨日は福島県郡山から二本松をぶらり散歩。

まずは郡山市のふれあい科学館さんに。こちらでは、第4回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト 作品展(観覧無料)を開催中です。

「”ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景」ということで寄せられた作品のうち、入賞作30点あまりが展示されています。どれもこれもハイレベルな作品でした。


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入賞作品集の冊子も販売中。一冊購入しました。

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表紙は大賞受賞作「雲は去り、月は彼方に」。桧原湖と、光太郎が詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)で、「二つに裂けて傾く」と謳った磐梯山が写っています。

来月30日までの会期です。今後も、福島の「ほんとの空」を広めるために、続けていってほしいものです。

会場から見えた安達太良山。天気が今一つで、「ほんとの空」とは行きませんでした。

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その後、二本松へ。午後1時から、旧安達町にある智恵子の生家で、「高村智恵子生誕130年記念事業 智恵子生誕祭 琴の調べ」ということで、琴の演奏があります。

その前に、国道4号を北上し、智恵子の生家付近を通り過ぎ、道の駅「安達」智恵子の里で昼食を摂りました。

こちらでは今月いっぱい、下り線で『高村智恵子』紹介コーナーが設置されています。「智恵子生誕祭」の一環です。

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こちらの道の駅は全国的にも珍しい、上下線に分かれている作りになっています。上り線でも光太郎智恵子のパネル。さらに「和紙伝承館」というお店では、智恵子の紙絵の複製が特別展示されていました。
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さて、智恵子の生家へ。

まずは裏手の記念館を拝観。この期間、複製ではない実物の紙絵が10点、展示されています。以前にも書きましたが、やはり実物は違います。厚さ1ミリに満たない中で、紙の重なりが立体感を生み出しています。正面に立つとわかりにくいのですが、斜め方向から見れば、一目瞭然です。

撮影禁止なので画像は出せません。ぜひ行って、実物をご覧下さい。

受付で、4枚組の絵葉書をゲット。新製品のようです。以前はありませんでした。袋は上川崎和紙でしょう。

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さて、1時となり、「琴の調べ」。

生家の一室を使い、琴の方が4人、そこに尺八の方が入った合奏でした。

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曲はお約束で、二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」、その他は「さくら」「荒城の月」などなど。こういう場所で聴くと、より風情が増します。心が洗われるようでした。

こちらは生家に展示されている、智恵子が実際に使っていた琴。

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裏側には名前が入っています。

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智恵子の琴に関するエピソードは伝わっていませんが、素封家の子女のたしなみとして、取り組んでいたのでしょう。

「琴の調べ」、今日まで開催されています。智恵子も「ほんとの空」の上から喜んでいるのではないでしょうか。

当方、この後、安達太良山に行きました。長くなりましたので、明日に回します。


【折々の歌と句・光太郎】

この人を見よヴエルハアランはわがごとく妻を恋ふゆゑ間なくし作れり

大正13年(1924) 光太郎42歳

「ヴエルハアラン」は、エミール・ヴェルハーレン。ベルギーの詩人です。

画家だった妻・マルトに贈った「時の三部作」(『明るい時』、『午後の時』、『夕べの時』)のうち、『明るい時』、『午後の時』を、光太郎が翻訳しました。

『明るい時』(大正10年=1921)の序文で、光太郎は以下のように記しています。

詩の翻訳は結局不可能である。意味を伝へ、感動を伝へ、明暗を伝へる事位は出来るかも知れないが、原(もと)の「詩」はやはり向うに残る。其を知りつつ訳したのは、フランス語を知らない一人の近親者にせめて詩の心だけでも伝へたかつたからである。

フランス語を知らない一人の近親者」は、もちろん、智恵子です。内容的にも『智恵子抄』所収の詩との類似点が指摘され、いわば『智恵子抄』の序章とも言えます。

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オリジナルのステーショナリーグッズなどを製造・販売している「花籠や」さんという企業?があります。

そちらの商品の画像をインスタグラムで見つけ、「おお、これは!」と思い、サイトにたどり着き、商品をいろいろと取り寄せました。

すべて「文豪」というシリーズの商品です。サイトには「おやまあ、教科書で、便覧でみたことあるような顔、顔、顔…!お気に入りはだれですか?」という説明がありますが、個々の名は出ていません。ナントカ権の問題でしょうか。したがって、このブログでも伏せ字を使わせていただきます。


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縦11㌢、横9㌢の台紙。木版画風の絵で、左上が、太○治、2段目、左から、中○○也、○目○石、武者○路○篤、3~4段目に2段抜きで宮○賢○、3段目中央が与謝○○子、右には○川啄○、4段目中央に芥○龍之○、そして右下隅は我らが○村光○郎。


続いて「文豪バッヂ」。

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「新文豪しゐる」にあった宮○賢○の代わりに、正○○規が入っています(右下隅)。当方、苦労して伏せ字「○」を使いましたが、委託販売店?の中には全員の実名を晒している(笑)ところもあったりします(笑)。

こちらはバラ売りで、当方、我らが○村光○郎のみ購入しました。

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さらに「文豪ポストカード」。

これも我らが○村光○郎のみ購入しましたが、「新文豪しゐる」、「文豪バッヂ」の10名全員のバージョンがあります。

我らが○村光○郎バージョン、顔以外に光○郎の木彫、白○鳥もあしらわれています。5枚購入し、1枚は保存用。1枚は既に荒野愛子さんへの連絡に使いました。残り3枚もそのうちに、お仲間のどなたかの所に行くでしょう。届いた方、棄てずにとっておいて下さい(笑)。

「文豪」シリーズ、他にも一筆箋や便箋、ラッピング用の紙などのラインナップがありますが、そちらはどうも光○郎がカットされているようなので、購入しませんでした。

ところが、改めて今日また花籠やさんのサイトを見ると、光○郎もいるマスキングテープもあることに気付きました。これも買わねばなりません(笑)。

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「花籠や」さん、「文豪」シリーズ以外にも、いろいろとおしゃれで面白い商品を取りそろえていらっしゃいます。ネットでも購入可能ですし、店頭販売の取扱店も増加中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

疲れきつて二階の汝の部屋にゆけば童子のごとくものの食べたし

大正13年(1924) 光太郎42歳

「汝」は、おそらく昨日130回目の誕生日を迎えた智恵子でしょう。

今日は智恵子の故郷・二本松にぶらりと行って参ります。

このブログも5年目に入りまして、閲覧数が10万件突破しています。ありがとうございます。割り算をすると、一日平均70件弱の閲覧を頂いています。

が、時折、閲覧数が跳ね上がります。イベントのレポートなどを載せた際に、そのイベントの関係者の方などがよくご覧下さるようです。

岩手花巻に滞在中だった先日の日曜日も急に多数のご訪問。その時はなぜ?という感じでした。前日には花巻のレポートを載せていましたが、携帯からの短い投稿でしたので、閲覧数の跳ね上がるような内容ではありませんでした。

携帯からではどの記事にアクセスがあったのかなどの解析が出来ません(そろそろタブレットを買え、ということでしょうか)。帰って参りまして、解析のページを見ると、末盛千枝子さんに関わる記事に多数のアクセスがあることがわかりました。

そこで思い当たったのが、新聞の書評欄。各紙おおむね日曜日に掲載されますが、末盛さんの新刊『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』の書評が、どこかの新聞に載ったので(近々書評が出るだろうと思っていました)、さらに同書についてネットでサーチされた方が当方ブログにたどりつかれたのだろう、というわけです。

果たして、ありました。

まず『日本経済新聞』さん。光太郎智恵子の名も出して下さいました。 

あとがきのあと 「私」を受け容れて生きる 末盛千枝子氏 困難を克服しつつ歩む人生

 彫刻家、舟越保武の長女。やはり彫刻家となった舟越桂の姉にあたり、家族の死や事故、震災、皇后美智子さまとの交流など起伏に富んだ人生を歩んできた。絵本作りに尽力し、国際児童図書評議会(IBBY)の理事も務めた。そんな半生を本書で振り返った。
 幼いころは裕福とはいえず、我慢の多い生活で心の支えになったのが絵本。やがてこれを仕事とし、美智子皇后さまにIBBYの退会でビデオで講演していただく機会を得た。「皇后さまはとても優しく気品があり、りんとした方。長男が入院したとき、すぐにお見舞いの電話を下さったことは忘れられない」と話す。
 皇后さまの気遣いは、スポーツの事故で体が不自由になった長男のこと。その父である最初の夫も54歳で突然死した。「こうした出来事がなければ今の人生はなかった。それで幸せかといわれれば分からない。でも、私に与えられた運命を受け入れて生きてきた」
 本書には実際、悲しみよりも感謝や慈しみの言葉が多くつづられる。それは、幼い弟の死をきっかけとした「信仰」ゆえだという。カトリックの指導者だった再婚相手から「神様はあなたをひいきしている」と言われたことが忘れられない。「困難を、神様からの宿題として受け止めて一つ一つ克服する私を見て、ある種のうらやましさを感じたのだろうと思う」とほほえむ。
 名付け親は父が尊敬した高村光太郎。「智恵子抄」で知られる高村の妻の名の漢字を替えて「千枝子」だ。
 2010年には岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験。被災地に絵本を届ける事業に奔走し、13年に再婚相手を看取ったことを機に、心の整理の一環として本書を書きとめた。「つらいことはたくさんあったけれど、決して不幸ではなかった。人生は生きるに値すると伝えたい」

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同日、『朝日新聞』さんにも書評が載りました。ただし、こちらには光太郎智恵子の名はありません。 

(著者に会いたい) 「私」を受け容れて生きる 父と母の娘 末盛千枝子さん(75)苦しかったことも自分の一部

 40年近く絵本の編集に携わってきた。「心を打つ絵本には、どこかに悲しみのひとはけが塗られている。そして、きちんと希望がある」と言う。平坦(へいたん)ではない自身の道程を著した本書を読むと、人生にも重なる言葉に思えてくる。
 父は彫刻家の舟越保武氏。7人きょうだいの長女で、大学卒業後、出版社で働いた。独立後、皇后美智子さまの講演録や英訳詩集を手がけ、親交を深めてきた。「『でんでん虫のかなしみ』というお話があってね、と最初に伺った時はびっくりして」。だれもが悲しみを背負っていることを伝える新美南吉の物語で、子どもの頃に出会った本が、のちの美智子さまを支えてきたのだと心に染みた。
 自身も困難に直面してきた。42歳の時、8歳と6歳の息子を残して夫が急死した。15年前には長男が事故で脊髄(せきずい)を損傷し、胸から下が動かなくなった。経営難に陥った出版社をたたみ、東京から父の故郷・岩手に移り住んでまもなく東日本大震災に遭う。
 「幸せとは、自分の運命を受け容(い)れることから始まる」との思いが書名の由来。だが「そう思えない時もあったのでは?」と尋ねると、「時間はかかるけれど、あきらめずにいれば、いつしか困難を乗り越え、強くなっていることに気づく。苦しかったことも、今の自分の一部なんですよね」としみじみと語った。
 病院からの帰り道、盛岡で車いすの長男と映画や展覧会を楽しむ。「東京では出来なかったこと。何が幸いするかわからない。ここでたくさん友だちを得たことも不思議なご褒美」とほほ笑んだ。被災した子どもたちに絵本を届ける活動を、今も仲間と続けている。

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当方、末盛さんとは2回お目にかかりました。最初は代官山で開催されたクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」(この記録集『少女は本を読んで大人になる』も好評発売中です)、二度目は一昨年の花巻高村祭。こういうと失礼ですが、本当に素敵なお年の召し方をされている方です。当方も、それから作家の中江有理さんも、「朝ドラのヒロインのよう」と感じています。ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ
大正12年(1923) 光太郎41歳

今日、平成28年(2016)5月20日は、明治19年(1886)、福島県安達郡油井村(現・二本松市油井)に生まれた智恵子の130回目の誕生日です。

この短歌は、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」に添えられたものです。

光太郎最晩年、昭和30年(1955)に、当会顧問の北川太一先生が採った聞き書きには、以下の一節があります。

「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別の人を指すんです。
 詩の方はお寺に行く道の山の上に見晴らしの良いところがあってね、その土堤の上に坐って二人で話した。もう明日僕が東京に帰るという時でね。それをあとから作ったんです。詩と歌は別々に出来てそれをあとで一緒にしたわけだ。

二本松では今日から高村智恵子生誕130年記念事業「智恵子生誕祭」が行われます。明日、ぶらりと行ってみようと思っています。

先週末、花巻でチラシを入手して参りました。

啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~

日 時 : 平成28年6月4日(土) 13:30開演 (13:00開場)
場 所 : 姫神ホール(盛岡市渋民公民館)  盛岡市渋民字鶴塚55番地
講 演 : 「わたしと啄木・賢治・光太郎」渡辺えり氏(劇作家・演出家・女優)
対 談 : 「啄木の母」 渡辺えり氏×森義真氏(石川啄木記念館長)
料 金 : 前売1,000円 当日1,300円
定 員 : 550人
主 催 : 啄木祭実行委員会
共 催 : 盛岡市,盛岡市教育委員会,(公財)盛岡観光コンベンション協会,
      盛岡商工会議所,盛岡芸術協会,(公財)盛岡市文化振興事業団

本年は啄木生誕130年,盛岡市玉山村合併10周年の節目の年であり,郷土の歌人石川啄木を偲び,「2016啄木祭~母を背負ひて~」が開催されます。
今年は,女優でNHK連続テレビ小説「あまちゃん」にも出演していた渡辺えり氏を講師にお迎えして,「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演していただきます。
また,渋民小学校鼓笛隊や渋民中学校群読劇,女性コーラスグループのコールすずらんなど,啄木にちなんだ歌や劇が披露されます。
皆さまどうぞご来場ください。

問合せ先 : 石川啄木記念館 019-683-2315

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宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。明治19年(1886)生まれの光太郎より3歳年少でしたので、智恵子と同じく今年が生誕130年になります。ただし、啄木は前年の出生であるという説もあるようです。明治45年(1912)、数え27歳で歿したその短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がさらに長く続いたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。


さて、講演と対談に、渡辺えりさんがご登場。

えりさんのお父様、渡辺正治氏が光太郎と面識があり、さらに宮沢賢治の精神に共鳴していたというご縁から、えりさんは光太郎を主人公とした「月に濡れた手」、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。そして、今回初めて知ったのですが、啄木に関しても「泣き虫なまいき石川啄木」という舞台では、啄木の母・カツの役をなさったこともあるそうです。

えりさんの講演は、平成25年(2013)の花巻高村祭その翌日の花巻市文化会館で拝聴しましたが、さすが大女優、時の経つのも忘れる素晴らしいお話でした。

ぜひ足をお運びください。

えりさんに関しては、もう一つネタがありますが、またのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき友ありてわれをよぶみちのはたてに火あるがごとし
昭和24年(1949) 光太郎67歳
山形ご出身の渡辺えりさんにちなんで。

この年11月、詩人の真壁仁らが中心となり、山形市美術ホールで「高村智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催され、光太郎は翌年には県綜合美術展のため、山形を訪れています(えりさんのお父様はこの際の講演をお聴きになっています)。この歌はおそらくそれらに関わると推定されます。

先週、ご案内を頂きましたが、その後岩手に行っておりまして、ご紹介が遅れました。

Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート

夜明けの湖を照らす淡い光のように 音楽は静かに語りかける
ピアニスト・作曲家 荒野愛子による室内アンサンブルコンサート
音楽環境に優れたホールでチェコの名器PETROFの響きとともに

期  日 : 2016年6月4日(土)
時  間 : 開場14:30  開演15:00
会  場 : Sala MASAKA 神奈川県横浜市戸塚区品濃町514-13
料  金 : 前売り:3,500円  当日:4,000円
申し込み: cafecatsmusic@gmail.com 

主  催 : Cafecats Music
協  力 : 株式会社ピアノプレップ

出  演 : Aiko Kono Ensemble
野愛子 Aiko Kono(ピアノ・作曲)
国立音楽大学卒業。在学中よりクラシックを学ぶ傍ら、ジャズ、ポップス、ブラジル音楽等に親しむ。卒業後、演奏活動と同時に作曲を始める。特に文学作品に影響を受けて作曲されたものが多く、朗読や演劇との共演も多数。
2007年にはオリジナル作品を収録した初のピアノソロアルバム「オトヒトシズク」(Cafecats Music)を発表。
2013年には高村光太郎の詩集にインスパイヤされ制作したアルバム「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットのための小曲集」(Cafecats Music)を発表。
ピアノを中心とした自由な形態のアンサンブル、クラシックとその他の音楽を融合したジャンルの限定されない音楽を目指す。 

藤田有希  Yuki Fujita(ヴァイオリン)
2歳よりヴァイオリンを始める。第53回全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門小学生の部第2位、東京都教育委員会から表彰される。2000年、東京芸術劇場大ホールにて東京交響楽団主催の演奏会でソリストとしてデビュー。新宿文化センター主催、第一回ニューイヤー名曲ファミリーコンサートで東京交響楽団と共演。2006年までソリストとして招かれた他、飯盛範親、山下一史、本名徹二、時任康文の著名な指揮者と共演。また、フィンランド国営放送コンサートミストレスとして出演。日本、フィンランドで多数のソロリサイタルを開催。
これまでにヴァイオリンを原田幸一郎、竹澤恭子、富重祐、友永優子、ペトリ・アールニオの各氏に師事。
桐朋女子高等学校音楽科を卒業後、シベリウスアカデミー(フィンランド)に留学。2014年春、シベリウス・アカデミー修士課程を修了し、現在日本とフィンランドを拠点に活動中。


新實紗季 Saki Niinomi(クラリネット)
愛知県出身。13歳よりクラリネットを始める。国立音楽大学卒業。同大学卒業 演奏会に出演の他、各種新人演奏会やサロンコンサート等で演奏を重ねる。
2005年大阪市芸術家支援制度<大阪AIS>オーディションに合格し、大阪にてソロリサイタル、ジョイントリイタルなど多数出演。ソロだけでなく室内楽の分野においても演奏活動をしている。

曲  目 :『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集/中原中也の追想 第一集/他

荒野さんサイトより

今回、兼ねてからコンサートで弾きたいと思っていたチェコのピアノPetrofを使用させていただきます。場所は、東戸塚にある素敵なプライベートホールです。クラシックコンサート仕様に設計されたとても音の良いホールです。
そして一緒に演奏するメンバーも素晴らしいので、本当に楽しみです。
全曲荒野愛子オリジナルを演奏します。
ぜひお越しください!


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というわけで、ピアニスト・作曲家の荒野愛子さんを中心とするサロンコンサートです。

プロフィールにあるとおり、荒野さん、「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集」というCDを平成25年(2013)にリリースされています。その際にはリリース記念のコンサートにお誘いいただきましたが、当方の講演の日程ともろかぶりで欠礼いたしました。

今回のコンサートにも出演される新實さんも参加されています。

また、ファーストアルバム「オトヒトシズク」にも、「レモン哀歌」というナンバーが収録されています。

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やはり荒野さんのプロフィールにあるとおり、「ピアノを中心とした自由な形態のアンサンブル、クラシックとその他の音楽を融合したジャンルの限定されい音楽」、そういう感じです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

野ははるか夢ながるるにかくるるに青葉の森の暗き過ぎずや
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日の記事を書くにあたって、荒野さんのCDを流していました。「青葉の森」を歩いているような感覚にとらわれました。

画像は当方自宅兼事務所の裏山に広がる森です。
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先週末から昨日にかけ、岩手花巻に行っておりました。土曜日に行われた高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」のバスツアー、翌日曜日の第59回高村祭といったオフィシャルな部分は昨日のこのブログでご紹介しました。

それ以外のプライベートな時間も活用し、花巻市内、あちこち回りましたので、本日はそちらをレポートします。

まず、夜行高速バスで花巻に着いた土曜の朝、ツアーの集合時刻まで時間がありましたので、市街北部の花巻北高校さんまで歩きました。

こちらには、彫刻家の高田博厚作の光太郎胸像があります。当方、20年ほど前にも見に来ました。

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同じ型から作ったものは、信州安曇野の豊科近代美術館さん、同じく信州塩尻の古田晃記念館さん、福井市美術館さんにも収蔵されています。そして埼玉県東松山市の「彫刻通り」では野外展示。こちらは光太郎の薫陶を受けた、同市元教育長の田口弘氏のお骨折りで設置されました。

花巻北高さんのものは、台座に光太郎詩「岩手の人」の一節が刻まれたプレートが嵌め込まれています。

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光太郎、今も若い世代へのエールを送り続けています。

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同校は光太郎との直接的な縁はないそうですが、昭和52年(1977)、光太郎精神に共鳴した卒業生保護者の皆さんにより、設置されました。

ちなみに昨日のこのブログでやはり高田博厚作の佐藤隆房像(右上)もご紹介しました。


続いて、バスツアー終了後、花巻高村光太郎記念会事務局の方のご案内で、「山の駅 昭和の学校」さんへ。こちらは廃校となった旧前田小学校さんの校舎を利用し、昭和のレトログッズを展示しているミュージアムです。花巻南温泉峡、大澤温泉さんと鉛温泉さんの中間ぐらいのところに、一昨年オープンしました。

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校舎内を昔の商店街に見立て、約5万点という膨大なレトログッズがところせましと並んでいます。

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左上はダイハツミゼット。一度、運転してみたいものです。その文房具店、右はカメラ屋さんの設定です。

当方、子どもの頃に普通に周囲にあったものばかりで、懐かしさに打たれました。

古本屋さんの設定のコーナーに、光太郎著書がありまして、光太郎関連はそんなものだろうと思っていましたが、さにあらず。帰りがけ、出入り口の壁にこんなものを見つけました。

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銅板を組み合わせて作った大きなプレートで「道程」が刻まれています。こちらは旧前田小学校さんのもので、ある年の卒業記念制作。おそらく児童ひとりひとりが作ったプレートをパッチワークのように繋げてあるのでしょう。

前田小学校さんと光太郎との関連もないようですが、やはり花巻北高さんと同じように、ある意味郷土の偉人の顕彰も兼ねる、というわけですね。


さらに日曜日、高村山荘敷地内での高村祭終了後、花巻温泉に行きました。入浴はせず、あくまで調査です(笑)。

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当方の泊まっていた大澤温泉さんを含む花巻南温泉峡とは山一つ隔てたところにあります。ここは温泉宿を中心とした一大レジャーランドとして、大正12年(1923)に開業した、比較的新しい温泉地です。湯は湯量がやけに多く、無駄にしていた近くの台温泉から引き、花巻電鉄花巻線(鉄道線)が町中心部から延引されました。下は廃線となった花巻電鉄の駅の跡です。

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十万坪の敷地全体を花巻温泉株式会社として経営、スキー場、遊戯場、プール、ゴルフコース、テニスコート、動物園、植物園、貸別荘、傷病軍人療養所など、さまざまな施設が作られました。経営には賢治の一族も関係し、賢治が設計した花壇も作られました。入場無料のバラ園があり、その中に花壇跡の碑、賢治詩碑、復元された花壇がありました。桜並木も賢治の土壌改良技術によって可能となったそうです。ちなみに今年は賢治生誕120年です。

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大澤温泉さんと並び、光太郎はこの花巻温泉にも繁く宿泊しています。光太郎の記録に残っている旅館は、松雲閣、およびその別館、紅葉館(まだ健在。しかし、建物は近代的になっています)という旅館です。格としては松雲閣別館が最も高かったようで、光太郎の談話筆記には以下の記述が見られます。「一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である」。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、詩人の真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った岩手県知事国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

こちらが往時の松雲閣別館。古絵葉書です。

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松雲閣自体は老朽化のため営業を終えましたが、この建物はまだ残っているらしいと知り、探しに行きました。はたして、残っていました。

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ただし、公開はされて居らず、バラ園、そして道路から外観が見えるにとどまります。柵があって近づけません。

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総欅造り、釘を一本も使っていないそうです。


また、昭和25年(1950)には、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑が建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加しています。光太郎生前の数少ない詩碑の一つです。

この詩碑も20年ぶりに拝見。松雲閣別館のすぐ近くです。

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こちらは除幕式の写真。中央やや左に光太郎。ガタイがやけにいいのですぐわかります(笑)。

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左上に写っているのが除幕された碑です。

以前にも書きましたが、この碑は、花巻農学校跡(現在のぎんどろ公園)に建てられた賢治の「早春」詩碑と、どうやら同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。こちらも同じ昭和25年(1950)の建立で、光太郎は詩の選択に関わり、除幕式にも参加しています。

詳しくはこちら


最後に、泊めていただいた大澤温泉さん。

山水閣さん、菊水館さんは、ここ数年で何度か利用しましたが、今回は湯治屋さん(自炊部)に泊まりました。こちらは学生時代以来、30年ぶりです。

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豪華ホテルに慣れている方には絶対にお勧めできません(笑)。「普通の旅館と同じだろう?」という方も、甘いですね(笑)。なにしろ、部屋のカギは存在しません。浴衣もコタツも有料です。隣の声は筒抜け、廊下や階上(当方の部屋は一階でした)を他の人が歩く音が響き渡ります。食事は館内の食堂で摂るか、自炊(共同調理場があります)、もしくは売店でパンやカップ麺など。しかし、風情は大ありです。料金も激安です。

当方、2泊の間、夕食は食堂で、朝食は売店で買ったパンでした。音対策(それが必要だとわかっていたので)は携帯音楽プレーヤー。ヘッドホンでヒーリング系の音楽を聴きながら眠りました。たまにはこういう経験もいいものです(笑)。何より温泉はすばらしいので、2泊の間に8回入ってきました。

以上、花巻レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

白花のリラのさし花さきたわみ石のはだかの肩に触りたり
大正15年(1926) 光太郎44歳

大澤温泉さん、リラ(ライラック)ならぬ遅咲きの桜がまだ咲いていました。澄んだ空には飛行機雲。

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先ほど、2泊4日の行程を終え(夜行高速バスで行きましたので、1泊少ないのです)、岩手花巻より帰って参りました。

本日は、オフィシャルな部分での花巻レポートです。

5/14(土)、花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が開催され、それに帯同しました。

地元紙2紙の報道から 

光太郎の足跡たどる 花巻で没後60周年ツアー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の没後60周年を記念したツアー「高村光太郎の足跡を訪ねる-花巻のくらし」は14日、花巻市内で開かれた。戦禍を逃れて花巻に疎開した際に身を寄せた同市桜町の「二岳荘(にがくそう)」が特別公開され、市民ら約20人が光太郎ゆかりの地を巡った。
 高村光太郎記念館講座として企画。光太郎は、花巻共立病院(現総合花巻病院)元院長の故・佐藤隆房さんの招きで佐藤家の二岳荘に滞在。離れの2階にある4畳半ずつの2部屋で過ごしたといわれ、当時使っていた火鉢や妻智恵子が創作した紙絵などが残されている。
 参加者は「タイムスリップしたみたい」「光太郎さんがここで過ごしたんですね」と大喜び。ボランティアガイドの説明を聞きながら広大な庭園を散策し、当時の生活に思いをはせた。
 ツアーでは光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑や同記念館なども見学。同市葛の葛巻秀子さん(65)は「こんなに立派なお屋敷があるとは知らなかった。1928(昭和3)年に建てられたのにモダンな印象。また訪れたい」と雰囲気を楽しんだ。
(2016/05/15 『岩手日報』) 

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細かい話ですが、キャプションに2箇所、誤りがあります。上の写真、こちらに飾られている智恵子の紙絵は複製で、本物は花巻高村光太郎記念館に展示中です。それから下の写真、「光太郎が過ごしたとされる」というあいまいなものではなく、はっきり「光太郎が過ごした」です。 

目と食で〝先生〟思う 高村光太郎没後60周年 足跡巡る記念館講座

 花巻市の高村光太郎没後60周年事業として、高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし」が14日、市内で催された。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの深い地を巡り、東京から花巻に疎開して以来7年に及ぶ思索と農耕自炊の日々を送った偉人に思いをはせた。
 定員いっぱいの市民20人が参加。まなび学園を発着点にバスで移動し、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑前で光太郎や賢治らに関する資料や作品を展示している桜地人館を見学後、佐藤家の二岳荘と庭園へ。上太田山関振興会館で昼食を取り、高村山荘と記念館を訪れた。
 このうち、光太郎が東京から花巻に疎開した際、花巻共立病院長で交流のあった佐藤隆房(1890~1981年)の招きで身を寄せた部屋が残されている二岳荘は、今回特別に公開された。
 部屋には光太郎が滞在した当時の様子を紹介する写真パネルが展示され、庭園では植栽や茶室「潺湲亭(せんかんてい)」などが散策でき、抹茶の振る舞いも行われた。
 昼食では、光太郎が記した食事のメモを基に太田山口地区の食生活改善推進員協議会が調理した「そば粉パン」、光太郎が「シュークルート」と呼んだ野菜の酢漬けなどが並んだ。同協議会員で記念館職員の新渕和子さん(64)が「そば粉と重曹、みそ、水を混ぜてフライパンで焼くだけで簡単にできる。光太郎先生はバターをつけ、黒蜜を塗って食べたらしい」と紹介。参加者は自分でも作ってみようと手帳に書き留めたり、食べ方をまねたりして味わった。
 締めくくりは、光太郎が暮らした山荘と、2015年4月にリニューアルオープンした記念館の見学。参加者は「冬の山荘は相当寒かったろうに」「地域の人には、かなり慕われていたんだろう」などと当時の暮らしぶりに思いを巡らせていた。
 同市若葉町から夫婦で訪れた男性(72)は「こういう時じゃないと自分たちだけでは見られない場所があったので参加した。佐藤家は敷地の広さ、古い住宅の良さ、設備に驚いた。そば粉パンは思っていたよりおいしかった」と話していた。
(2016/05/15 『岩手日日』)

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上の写真には、当方が写っています(笑)。

記事をお読みいただければ、概要はつかめますね。

下記は帯同しながら撮った写真です。

賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫。さらに当初あった誤字脱字を昭和21年(1946)に訂正しています。

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新緑がきれいでした。

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詩碑近くの桜地人館。光太郎や賢治関連の貴重な資料が展示されています。大半は佐藤隆房が贈られたものです。昔は「佐藤郷志館」という名前でした。
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その庭に立つ佐藤隆房像。光太郎と親しかった高田博厚の作です。

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佐藤隆房邸。詩碑や桜地人館さんからそう遠くありません。ここの離れに光太郎が昭和20年(1945)、1ヶ月滞在しました。その後も太田村から花巻町に出て来た時の拠点にしていました。

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広大な庭。

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咲き誇る牡丹。

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右上は、賢治が取り寄せたという薔薇。ただし、こちらはまだ咲いていませんでした。


この後、旧太田村に移動。昼食をいただきました。

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記事にあるそば粉パンとシュークルートです。

光太郎が暮らした山小屋・高村山荘および高村光太郎記念館。

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この後、一般参加者の皆さんは、バスで市街へ戻り、解散。当方はこちらに残り、事務的打ち合わせ等々。


翌日は、第59回高村祭。明日以降もブログに書くべきネタがてんこ盛りですので、一気にこちらもご紹介してしまいます。

やはり地元紙の報道から。

没後60年、光太郎の情熱しのぶ 花巻で高村祭

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第59回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、市民ら約300人が青空の下、合唱や朗読で没後60年を迎えた先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。佐藤会長は「先生は情熱の詩人で戦時中は士気を鼓舞する作品も発表したが、山荘暮らしの7年間は戦争への反省を重ねた。皆さんも当時をしのんでほしい」とあいさつした。
 太田小、西南中、花巻高等看護専門学校の児童生徒が合唱し、詩の朗読では及川波月(はづき)さん(花巻農高3年)が「レモン哀歌」、藤原詳さん(同2年)が「当然事」、花巻高等看護専門学校1年の石川泰(たい)さんが「非常の時」を読み上げた。
 及川さんと藤原さんは「純粋な思いが伝わるように朗読を心がけた」「自然豊かな高村山荘で朗読する貴重な機会をもらった」と語り光太郎に思いをはせた。
(2016/05/16 『岩手日報』)

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”先生”の教え次代が引き継ぐ 高村祭

 花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が主催する「第59回高村祭」は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。彫刻家で詩人の高村光太郎が、1945年に東京から花巻に疎開してきた日に合わせて毎年実施。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を会場全体で朗読し、古里ゆかりの偉人をしのんだ。
 地元小中学生らが合唱などを披露。いずれも光太郎作の「レモン哀歌」を及川波月さん(花巻農高3年)、「当然事」を藤原詳君(同2年)、「非常の時」を石川泰君(花巻高等看護専門学校1年)が朗読し、光太郎の偉業に思いをはせた。
 2016年は光太郎没後60年、光太郎の妻・智恵子生誕130年の節目の年。特別講演では、祖母の金谷ふゆさんが光太郎のいとこだった盛岡市の加藤千晴さんが「高村光太郎と金谷一族について」と題し、エピソードを披露した。
 同日は約600人が参加。鎌田志栞さん(西南中1年)は「光太郎先生の詩からは自然の豊かさを感じる。太田の風景とも重なるところがあり落ち着く」と話していた。

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以下、やはり当方が撮りました。

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今朝のNHKさんのローカルニュース。

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永続的に続けていっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や南へいそぐ旅烏       明治42年(1909) 光太郎27歳 

旅ガラスの当方、このブログを書くために急いで帰って参りました(笑)。

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昨日、岩手花巻に参りまして、今日は光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭にお邪魔しました。

からりと晴れ渡った空の下、爽やかな風が吹き渡り、暑くもなく寒くもなく、素晴らしい陽気でした。

例年通り、地元小中高生、高等看護専門学校生による音楽演奏や朗読。記念講演は光太郎の血縁で、盛岡在住の加藤千晴氏。貴重なお話が聴けました。

地元の皆さんをはじめ、福島いわきの草野心平記念文学館の方、青森の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアガイドの会の方、このブログをご愛読いただいている方などに久しぶりにお会いできたのも、嬉しい点でした。

詳しくは、帰りましてからレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うなづけば万語(ばんご)若(し)く無き意は足りぬ山の湯に聴く昼ほととぎす
明治37年(1904) 光太郎22歳

今晩も当方、光太郎が愛した大澤温泉さんです。

「ほととぎす」ならぬカジカガエルの声がよく聞こえます。

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岩手花巻・大澤温泉さんにて、携帯からの投稿です。
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昨夜、池袋西口発の夜行高速バスに乗って、今朝6時半、花巻に着きました。

明日が郊外旧太田村の、昭和20年(1945)から7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭。今日はそれに合わせ、市主催の市民講座で、太田村に移る直前の1ヶ月間、光太郎が厄介になっていた花巻市街地にある花巻病院長・佐藤隆房邸、高村山荘、高村光太郎記念館などの見学ツアーがあって、それに帯同していました。

先ほど、二泊させていただく大澤温泉さんに到着。この後は露天風呂を満喫、早めに夕食をとって寝ます。
詳しいレポートはのちほど。

【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの花巻町に人ありき賢治を生みきわれを招きき
                                                                    昭和21年(1946)光太郎64歳

「人」は前年の空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を受け入れてくれた宮沢賢治の父・政二郎、賢治の主治医でもあった佐藤隆房らを指します。

智恵子関連で2件、ご紹介します。

まずは福島から。今週はじめの『福島民報』さんの記事。 

福島の県立図書館 企画展示多彩に 来月1日まで

 福島県福島市の県立図書館は7日、各種企画展示を始めた。いずれも6月1日まで。 
【受賞児童図書展】各賞に輝いた絵本や児童書、紙芝居など76点を展示している。昨年の日本絵本賞を受けた、あきびんごさん著「30000このすいか」(くもん出版)などを紹介している。一部は貸し出し可能。 
【高村智恵子生誕130年 「ほんとの空」の下で】二本松市出身の洋画家・高村智恵子が今月、生誕130年を迎えるのに合わせ催した。智恵子が表紙を描いた「青鞜 第一巻一号」(復刻版、明治44年)をはじめ、夫光太郎が著した詩集「智恵子抄」(白玉書房、昭和22年)など5点を展示している。他に、智恵子に関係する書籍約100冊を貸し出している。 
【時事展示・今改めて考えよう防災と復興支援】熊本地震を受けて展示した。防災の知恵をまとめたハンドブック、東日本大震災でボランティア活動をした人が体験をまとめた本、九州の文化や歴史についての書籍など約150点を特集し、貸し出している。 
 この他、暮しの手帖社関連の書籍などを集めた「本のひろば」、「特殊文庫・貴重資料コーナー」など、多彩な展示をしている。

というわけで、福島県立図書館さんの「ミニ展示」で智恵子関連が取り上げられています。報道が先行し、同館のサイトでは昨日になってアップされました。

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「智恵子に関係する書籍約100冊を貸し出している。」は、今に限ったことではないと思うのですが……。



もう1件。福岡小倉から。映画館・小倉昭和館さんで、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」がかかります。 

名画をフィルムで  ~原節子特集~

期  日 : 2016年5月14日(土)~27日(金)
会  場 : 小倉昭和館 福岡県北九州市小倉北区魚町4-2-9
 第1週  「お嬢さん乾杯」  10:00/13:30/16:55 
       「小早川家の秋」 11:40/15:05/18:30
 第2週  「智恵子抄」 10:00/14:05/18:05
       「娘・妻・母」 11:50/15:55

「智恵子抄」
監督:熊谷久虎  脚本:八住利雄
出演:原節子、山村聰、青山京子、太刀川洋一、三津田健、三好栄子、柳永二郎
◆昭和31年に他界した詩人で彫刻家の高村光太郎が亡くなった妻・智恵子を悼んで発表した同名詩集の映画化。高村の一周忌に映画化され話題となった。高村は智恵子と出会い生きる喜びを見出していくが、二人の幸せな愛の暮らしは長くは続かず…。美しくも儚い智恵子を演じる原節子に心打たれる。(1957年/98分)

関連行事
 5月22日(日)シネマトーク
 「殉愛 原節子と小津安二郎」著者の映画評論家 西村雄一郎さんを お迎えしたシネマトークを行います。
  「智恵子抄」  10:00~11:40
  「娘・妻・母」  11:50~14:40
  シネマトーク  14:10~14:40
  「智恵子抄」  15:00~16:40 
  「娘・妻・母」  16:50~18:55
  「智恵子抄」  19:00~20:40
 ※当日鑑賞券でお聞きいただけます。


昨年の原節子さんご逝去を受け、もう半年以上経ちますが、やはり大女優、いまだに追悼イベントが行われています。

東宝映画「智恵子抄」にもふたたびスポットが当たるようになり、ある意味ありがたいところです。7月には鎌倉市川喜多映画記念館さんで、現在開催中の展示「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」の一環として、秋には智恵子の故郷・二本松の歴史資料館さんで開催される企画展「智恵子と光太郎の世界展」に伴って、それぞれ上映されます。また近くなりましたら、ご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

わが心ゆたかにさめて朝の陽のかがよふ時し牡丹花咲く
昭和20年(1945) 光太郎63歳

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画像は光太郎筆の水彩画。短歌ともども、空襲で駒込林町のアトリエを焼け出され、疎開した岩手花巻での作です。

花巻に向けて東京を発ったのが、5月15日。この日を記念して、花巻では「高村祭」が毎年行われています。明日、14日はそれに合わせ、郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に移る直前に暮らしていた、花巻病院長・佐藤隆房邸の公開があります。当方、それに間に合うよう、今夜、池袋発の夜行高速バスで花巻入りします。


光太郎とのゆかりのある宮城県女川町が舞台。東日本大震災から5年のあゆみを追っています。

まずは封切りに関しての報道。 

「サンマとカタール」女川町長、舞台あいさつ

 東日本大震災で大きな被害を受000けた宮城県女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」の全国公開を記念した舞台あいさつが9日夜、東京都千代田区のヒューマントラストシネマ有楽町であり、須田善明町長が各地からの復興支援に感謝の言葉を述べた。
 再起を図る水産関係者や、町中心部の再生の様子などを約2年間追った作品。中東のカタールの支援により、水産復興の中核施設となる大型冷蔵庫が建設された経緯なども描いた。須田町長は「カタールとありがたい縁があった。(映画に登場した)多くの仲間がいたからこそ、震災を乗り越えられた」と述べた。
 乾弘明監督は「女川町は行政と民間が連携し、素晴らしいまちづくりをしている。日本の水産業をリードする町になる」と話した。
 作品の全国公開は7日に始まり、東京のほか名古屋、大阪などで上映される予定。東北では仙台市青葉区の桜井薬局セントラルホールで上映中。
(『河北新報』 2016/05/11)


毎年8月の女川光太郎祭で当方もお世話になっている、須田町長、上京して舞台挨拶にご登壇。

公式サイトには、熊本の皆さんへのメッセージも寄せられています。

今も続いている熊本地震に心を痛めておりますが、この映画から、熊本地震で被災した皆様に何かメッセージをお送りしたいと思い、映画にもご出演されている女川町長にメッセージをお願いしました。下記全文をご紹介させていただきます。
 
この映画を通じて、希望の光を届けることを願って。
 
●女川町長からのメッセージ
 
熊本地震で被災された皆様へ
 
目の前の現実とその先を思い、不安な日々を過ごされていると思います。
五年前の私達もそうでした。
だからこそ願っています。
諦めないでほしいし、心折れないでほしい、と。
 
自らの「立ち上がろう」という思いには必ず誰かが手を差し伸べてくれる、
そのことを私達は5年の歩みの中で知りました。
今、皆さんが困難を乗り越える力になれるように、
数多くの方々が、有形無形に最善の努力をしています。
それを信じ、希望を捨てず、励まし合い支え合いながら、
今の苦境を乗り越えていただけるよう、切に願います。
 
日常を取り戻すには多くの地域で長期戦になるかもしれません。
未だ復興途上の微力な私達ですが、
これまで皆さんからいただいてきたご支援に少しでも報いるべく、
経験を活かし皆さんのお力になれるよう努力していきます。
共にがんばろう!
 
女川町長 須田善明

5年前に甚大な被害を受けた当事者ならではの内容ですね。


さらにニュースサイトで調べてみると、封切り直前の試写会のニュースがヒットしました。眞子内親王殿下がご覧になったとのこと。

偶然ですが、当ブログでこの映画をご紹介したのが先週5日。翌6日には宮内庁三の丸尚蔵館さんの「第72回展覧会 古典再生―作家たちの挑戦」をご紹介、その中で眞子さまに触れました。すると、さらにその翌日の7日に眞子さまが試写会をご覧になったというわけで、驚いています。 

眞子さま、震災復興のドキュメンタリー映画ご鑑賞

 秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまが、東日本大震災からの復興を描いたドキュメンタリー映画を鑑賞されました。
 眞子さまは7日午前10時ごろ、東京の有楽町で映画「サンマとカタール」を鑑賞されました。この映画は津波で大きな被害を受けた宮城県女川町が舞台で、中東のカタールから支援を受けながら復興に携わる人々を追ったドキュメンタリーです。眞子さまは真剣な表情でスクリーンに見入られていました。上映後は、映画に出演した被災者に「皆さんの前向きな姿に力をもらいました」「家族にも勧めたいです」と声を掛けられました。また、石巻市でご自身がされたボランティア活動についても被災者と話されていました。
(テレ朝 news 2016/05/07)

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もう1件。 

眞子さま、震災復興のドキュメンタリー映画鑑賞

 秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまが、東日本大震災で被災した宮城・女川町の復興への歩みを描いたドキュメンタリー映画をご覧になりました。
 眞子さまは7日午前、東京・千代田区の映画館を訪れ、7日から公開が始まった映画「サンマとカタール~女川つながる人々」をご覧になりました。
 この映画は、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城・女川町で、復興を目指して前向きに歩む人々と、生まれ変わっていく町の姿を追ったドキュメンタリー映画です。
 大学時代、ボランティアとして宮城県などの被災地を訪れていた眞子さまは、真剣な表情で映画を鑑賞し、上映終了後には観客らと共に拍手を送られていました。帰り際には「皆さんが前向きに生きている姿に力をもらいました」などと話されていたということです。
 女川町には今年3月、天皇・皇后両陛下が初めて訪れ、駅前に去年末に開業した商業施設などの様子を見て回られていました。
(TBSNEWS 2016/05/07)

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ご自身、震災が起こった平成23年(2011)には、女川に隣接する石巻で、身分を隠し、ひとりの大学生としてボランティアに参加されたというご経験をお持ちですので、ご興味があったのでしょうか。

そういえば、天皇皇后両陛下は、今年、女川をご訪問されました。

東北各地もまだ復興半ば。今はある意味、記憶の風化との戦いです。この映画の鑑賞も、一つの復興支援となります。よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

天地に白きは雲か紅(くれなゐ)はわれに倣へと躑躅の燃ゆる
明治36年(1903) 光太郎21歳

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当方自宅兼事務所の庭に咲くツツジです。

昨日、『青鞜』がらみの演劇公演をご紹介しましたので、さらに『青鞜』つながりで。

現在、NHKさんで放映中の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」から。 

連続テレビ小説 とと姉ちゃん 第7週 「常子、ビジネスに挑戦する」

NHK総合       (月~土)8:00~8:15  再放送 12:45~13:00
NHKBSプレミアム (月~土)7:30~7:45  再放送 23:00~23:15
                             (土) 9:30~11:00[1週間分]

戦前の静岡県遠州。繊維のまちで育った主人公・小橋常子(10)は三人姉妹の長女。染物工場の営業部長で子ども思いの父と優しい母を茶目っけたっぷりに「とと」「かか」と呼びながら、鞠子(まりこ)(9)と美子(よしこ)(4)という二人の妹の面倒をみるしっかりものの娘。 

経済的に不自由なく幸福な生活を送っていた常子たちだったが、父・竹蔵が結核にかかったことで生活は一変する。死の間際、竹蔵は常子だけを呼び寄せ「ととのいなくなったあとは、常子が自分の代わりに家族を守ってほしい」と遺言。常子はその言葉を胸に、二人の幼い妹と、母を守って生きていこうと、胸に誓う―。

そんな遠州での生活も、染物工場からの援助が閉ざされたことで、たち行かなくなり、母・君子(きみこ)は、仲違いしている東京・深川の母(三姉妹の祖母)に頭を下げて一家で上京することを決意。東京で待っていた祖母・滝子(たきこ)の援助を受けながら、三姉妹と君子は激動の時代を懸命に生きていく。

第37回 2016年5月16日(月)001
あと1年で女学校を卒業する学年になった常子(高畑充希)は、僅かでも給料の良い就職先を探していた。そんな折、新担任の東堂チヨ(片桐はいり)の演説に衝撃を受ける。

昭和11年春。常子(高畑充希)は女学校最高学年の五年生となる。クラスの同級生の大半が嫁いでいく中で、家族の食いぶちを稼ぐため、少しでも給料の高い仕事を探していた。そんな折、新たな担任としてやってきた東堂チヨ(片桐はいり)に出会う。「女性とはこうあるべき」という固定観念に捕われず、自分の気持ちに正直に挑戦する大切さを教わる。一方、鞠子(相楽樹)は進学したい思いを誰にも相談できず、深いため息をつく…。


第38回 2016年5月17日(火)000
悩む鞠子を心配し、常子は東堂から借りた「青鞜」を渡す。感銘を受けた二人は東堂に助言を受け、何かに挑戦したい気持ちになる。そんな時、災いを呼ぶ男・鉄郎が現れて…。

どこか元気のない鞠子(相楽樹)を心配し、常子(高畑充希)は、東堂(片桐はいり)から借りた「青鞜」を渡す。感銘を受けた二人は、女性だからという理由だけで尻込みせず、挑戦することが大切だと東堂から助言され、何かを始めたい気持ちが湧き上がる。一方、時代は次第にきな臭くなり、青柳や森田屋も不況の波が押し寄せ、自粛ムードが漂っていた。そんな折、鉄郎(向井理)が森田屋に現れ、どんちゃん騒ぎが始まってしまい…。


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連続テレビ小説「とと姉ちゃん」。妹たちと共に、女性のための情報誌『暮しの手帖』を創刊した編集者・大橋鎭子をヒロイン・常子のモデルとしています。

『暮しの手帖』の創刊は戦後ですが、その契機の一つとなるエピソードとして、『青鞜』の影響が描かれるわけですね。また、妹の鞠子はらいてうに傾倒する、という流れになるようです。

実際にそういうことがあったのかどうか存じませんが、来週の物語の舞台は昭和11年(1936)、『青鞜』は明治44年(1911)に、平塚らいてうの編集、智恵子の手になる表紙絵で創刊され、その後、伊藤野枝に委ねられて大正5年(1916)に廃刊になっています。時期的にかなりの開きがあるので、おそらくドラマとしての演出なのでは、と思われます。

ちなみに常子のモデルとなった大橋鎭子は、東京府立第六高等女学校を昭和12年(1937)卒業、いったん銀行に就職しますが、日本女子大学校に入学し直します。智恵子の後輩となぅたわけですが、結核のためほどなく退学。その後、日本読書新聞社に入り、『日本読書新聞』の編集に当たります。それが太平洋戦争前のことで、朝ドラではどう描かれるかと期待しています。

光太郎、戦後の『暮しの手帖』への寄稿は確認できていませんが、『日本読書新聞』には、昭和17年(1942)から19年(1944)にかけ、たびたびエッセイや詩、アンケート回答を寄せています。

前作「あさが来た」では、光太郎智恵子と関わりのあった、広岡浅子や成瀬仁蔵が登場しましたし、一昨年の「花子とアン」でも、ヒロインのモデル・村岡花子や、作家の長谷川時雨など、光太郎と関わった人物が登場しました。しかし、光太郎智恵子は登場せずじまい。「とと姉ちゃん」では、どうなることでしょうか……。

5/30追記 光太郎と大橋鎭子について、さらに追記しました。ご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

乳色のぎやまん皿と赤茄子のうしろに光る初夏の風
明治43年(1910) 光太郎28歳

ここでの「赤茄子」はトマトのことのようです。前年に欧米留学から帰った光太郎、食習慣はかなり洋風になったとのことで、朝はパン食が多かったようです。

九州・福岡から演劇の公演情報です。気がつくのが遅れ、ご紹介が遅くなってしまいました。申し訳ありません。 

サザンクス筑後ぱふぉーまんす集団センゲキ第16回公演「ELEGANCE FIGHT~元始、女性は太陽であった~」

期 日 :  2016年5月15日(日)
時 間
 : 14時開演(13時30分開場)
会 場 : サザンクス筑後 小ホール  福岡県筑後市大字若菜1104
料 金 : 一般1,000円 / 小・中・高校生500円  全席自由 未就学児入場不可
主 催 : (公財)筑後市文化振興公社
後 援 : 筑後市、筑後市教育委員会

原典 : 宮本研・作『ブルーストッキングな女たち』
脚本・脚色・演出 : 久保田りき
キャスト サザンクス筑後専属劇団“ぱふぉーまんす集団SENGEKI

 平塚らいてう/富安美沙子 荒木郁子/久間明日香 神近市子/古賀美紅
 保持研子/角有紗 伊藤野枝/松本渚 尾竹紅吉/後藤杏奈 掘保子/藤木菜穂
 松井須磨子/後藤奈津実 辻三津・市川房枝/澁江綾香
 高村智恵子・与謝野晶子/河口智美

西暦1911年(明治44年)「青鞜(せいとう)」という女性文芸雑誌が発刊されました。編集していたのは女性たち。その中心となった人物は「平塚らいてう(らいちょう)」。彼女のもとに個性豊かな女性たちが集い「青鞜」は生まれたのです。その翌年、明治天皇が崩御し元号は大正となります。時代が移り変わるように、女性たちも「人として生きる道」を探り、戦い、実践した時代。この「青鞜」に関わった女性たちの生き様には『優美』かつ『激闘』という言葉がふさわしいと思い、このタイトルとしました。100年も昔…、いいえ、その時から100年しか経っていないのです。現代に通じる何かを探しながら、ぜひご覧下さい。
作品のベースとさせていただいたのは、宮本研・作「ブルーストッキングの女たち」。ぱふぉーまんす集団センゲキの10人の女性たちに合わせ脚色させていただきました。女性の恋愛を描くには、当然の如く男性キャストが必要です。しかし、現在センゲキは女性ばかり。あえず男性を登場させず女性たちだけで描く内容に挑みました。解釈の違い等もあり、フィクション・ノンフィクション入り混じった構成でありますが、センゲキの描く「青鞜」を…。「女性たち」をお楽しみいただければ幸いです。ご来場心よりお待ちしています。

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youtubeに、プロモーションビデオも公開されていました。かつて『青鞜』メンバーは、光太郎曰く「女水滸伝」と言われていたとのこと。しかし、キャストの皆さん、かわいらしい女性ばかりです(笑)。


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というわけで、日本女子大学校で智恵子と同じ家政科の一級上だった平塚らいてうを主人公とし、『青鞜』の旗の下に集まった女性たちを描く舞台、ということです。智恵子も登場します。ありがたいです。

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その他、日本女子大学校出身の『青鞜』メンバーについてはこちら

ところで、PVの冒頭にあったのですが、九州では今、熊本を中心とする震災により大変な状況です。しかし、彼女たち、今、自分たちでできることを精一杯やることで、復興支援に繋げたいとの思いから、一時は自粛も検討したものの、予定通り公演を実施するとのこと。さらに収入の一部は、被災地に寄付なさるそうです。それでいいと思います。

是非、観に行きたいのですが、残念ながら花巻高村祭と同一の日程のため、行けません。残念です。遠くみちのくから九州に思いを馳せることと致します。お近くの方は是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

口紅の女も買ふや夏蜜柑         明治42年(1907) 光太郎27歳

欧米留学末期、スイス経由イタリア旅行中の作です。「夏蜜柑」というよりオレンジ的なものなのでしょう。石畳のイタリアマルシェ、小太りの陽気なヒゲの店主が「お嬢さん、一つどうだ?」……勝手な想像ですが(笑)。

昨日は、東京・晴海に行っておりました。第一生命ホールさんで開催された、合唱団CANTUS ANIMAE(カントゥス・アニメ)さんの第20回演奏会「つながる魂のうた」を拝聴して参りました。

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故・三善晃氏の作品を軸に、それプラス3名の若手女性作曲家さんたちの、それぞれ委託初演作品等というプログラムでした。

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委託初演作品の中で、安藤寛子さんという方の「智恵子の手紙」という作品。智恵子が母・センに宛てて書いた手紙をテキストに使用する、というので非常に興味深く思っておりました。

1曲目は、谷川俊太郎氏作詞、三善晃氏作曲の「鳥」。ア・カペラ(無伴奏)の曲で、三善作品の中では定番の「地球へのバラード」という曲集の一曲です。ア・カペラの曲はごまかしがききにくいのですが、さすがにコンクール全国大会ご常連の団、その表現力には早くも引き込まれました。三善作品は、一つ一つのフレーズや、さらに細かく云えば音符や休符の一つ一つに作曲者の思い入れ、特別なニュアンスが込められており(いわゆる「三善アクセント」など)、「何げなく歌う」ことは許されません。そういう意味では、本当に徹頭徹尾、緊張感を持続して歌わなければならないのですが、そうかといって、聴く方に緊張感を強いる演奏もよくありません。歌う方はさまざまな工夫を凝らしながらも、聴衆には、そうした点で作為を感じさせず、自然に、心地よく届く音楽、というのが理想だと思います。

その点、CANTUS ANIMAEさんの演奏は、三善作品以外の最終ステージ最後の曲まで、そうした部分が具現されていたように感じました。人数も多く、厚味のある合唱でした。

さて、「鳥」が終わり、配布されたパンフレットを見ると、連続して「智恵子の手紙」ですが、一旦、合唱団の皆さんは袖に引っ込み、指揮で音楽監督の雨森文也氏のMC。三善氏への思い、それから委託初演3曲の解説などでした。

MCが終わり、ここで舞台の照明は半分くらいに落として、演奏者入場というのが一般的です。ところが、ほぼ完全に暗転。「あ、こりゃ何かやるな」と思いました。「何か」というのは「演出」という意味です。

案の定、袖に通じる扉が開き(第一生命ホールさん、最近流行のサイドの反響板に扉がついているスタイルです)、袖から通奏低音的に、女声のハミング(ないしはヴォカリーズ)で、唸るような低いA音(当方、絶対音感が無いので違っていたらすみません)が聞こえてきます。

その音に乗って、60名程の団員の皆さんがゆっくりゆっくり入場。まだ舞台は暗転のままです。さらに驚いたのは、団員の皆さん、客席に向かって背を向ける形で整列したこと。さすがに背を向けていたのは最初だけでしたが、皆さん、上下とも黒の服装でしたので(男声は上着を着ずに黒シャツ)、葬列のような印象を受けました。

やがて、女声の方がお一人、舞台中央前方に歩み出て、オペラのアリアのようにソロで歌い始めました。オペラといえば、この曲全体が、合唱というより、オペラの一幕のようでした。ア・カペラだったのですが、オペラの一幕という印象。矛盾していますが、それだけ迫力に満ちた演奏だったということです。ある意味、柴田南雄氏作曲の「宇宙について」や、オルフの「カルミナ・ブラーナ」を連想しました。ぶっとび方はそれらの比ではありませんが(ほめています、念のため)。

テキストは、以前このブログでご紹介した、智恵子の心の病が誰の目にも明らかになった時期、昭和6年(1931)のものを中心に、その前後の、全て母・センに宛てた手紙から採られていました。

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そうした智恵子の不安定な内面を表すように、不安をかき立てるような半音進行、不協和音、さらにはクラスター唱法的な手法も用いられていました。そうかと思えば比較的単純で美しいメロディーの部分もあり、終末近くでは完全な無音の状態が約30秒。最後はまた、最初とは異なる女声の方が前に出て、「それではまた」と繰り返すアリア。まさしくドラマチックでした。時計を見るのも忘れ、引き込まれていたのでよく分かりませんが、15分程の演奏時間だったでしょうか。

「厚味」のある演奏が求められるので、少人数のアンサンブル的な合唱団さんでは不可能。たとえ人数が多くても、技術が伴わなければ不可能。これをしっかりと歌い上げたCANTUS ANIMAEさんには脱帽でした。そう考えると、なかなか広まりにくいとは思われますが、初演のみでお蔵入り、ということにならないことを祈念いたします。

また、こうした音楽で、「智恵子」という人間を鮮やかに描いた、作曲の安藤さんにも敬意を表します。勝手ながら、パンフレットからお言葉を載せさせていただきます。

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一般に、「智恵子抄」というと「純愛の詩集」。当方も制作のお手伝いをし、昨年オンエアされたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア」にしても、サブタイトルは「ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」でした。しかし、その裏側には、智恵子という一人の人間の、焦燥感、光太郎や家族への愛憎(「憎」の部分も見逃せません)、無謀ともいえるやる気、空回り、そして絶望感などが、どろどろと渦巻いていました(「ヒストリア」でも、そうした部分はしっかり描いて下さいましたが)。光太郎もそうした部分はある程度理解していたはずですが、完全には理解しきれず、それが大きな悲劇につながります。しかし、光太郎もある程度理解していたというのが理解されていなかった時代には、かの吉本隆明ですら「高村のひとり角力(ずもう)」と断じていました。

そうした単純な賞賛や批判に対し、当会顧問の北川太一先生(亡くなった吉本の盟友でもありました)は、次にようにおっしゃっています。

はじめこの詩集(注・智恵子抄)は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語り始めるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。遙かな未来を指さすその現象は、むしろ壮観と言っていい。
(『芸術…夢紀行 高村光太郎智恵子抄アルバム』 芳賀書店 平成7年=1995


ここでまた、合唱曲「智恵子の手紙」が加わったことを喜びたいと思います。

その後の演奏も素晴らしいもので(詳述する余裕がありませんが)、大満足の演奏会でした。CANTUS ANIMAEさん、安藤さん、今後のさらなるご活躍を期待いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

昭和9年(1934)5月7日、光太郎は心の病の昂進した智恵子を、「空がない」と言った東京から離れた大自然の中で療養させようと、妹・セツが暮らし、母・センも同居していた九十九里浜に転地させました。

のちにその頃を回想して作られた短歌で、さらに昭和16年(1941)、最初の『智恵子抄』刊行の際、「うた六首」としてこの作品も掲載しました。

六首をまとめ、古くは故・清水脩氏により合唱曲(男声/混声)に、新しくは野村朗氏により独唱歌曲に作曲されています。

新宿の中村屋サロン美術館さん発のイベント情報です。 
5月29日(日)  旅行代金(おひとり様)9,800円 ※大人・子ども同額

新緑と水が煌めき、雪解けの山が美しく映える5月の安曇野。パワースポットの穂高神社で安曇野の歴史に触れ、新宿中村屋ゆかりの彫刻家 荻原守衛(碌山)の作品を展示する碌山美術館で、芸術と自然を堪能するバスツアーです。

芸術と自然に囲まれた、豊かな時間を過ごしませんか?

特典付きで大満足!
・碌山美術館学芸員によるミニレクチャー付!
・荻原家ご当主のご案内による碌山の墓参付!(希望者)
・安曇野市と中村屋から素敵なプレゼント付!

新宿(8:00)=大王わさび農場(昼食・買い物・見学)=安曇野着 穂高神社参拝(解説付)=碌山美術館(ミニレクチャー・見学)=現ご当主のご案内による碌山の墓参(希望者)=新宿(20:00予定)
※行程は道路状況等により、入れ替わる可能性がございます

添乗員:同行  受付最少人数:1名 最少催行人員:30名 バスガイド:なし 食事:1回昼食
※5月9日までに最少催行人員に達しない場合は中止とさせていただきますこと、ご了承ください
※詳しい旅行条件説明書面をお渡しいたしますので、事前にご確認の上、お申し込みください

お問い合わせ・お申し込みは
近畿日本ツーリスト個人旅行株式会社
東京都新宿区新宿3-26-13 新宿中村屋ビル3階 03-3354-4021 受付時間11:00~19:00 (土日祝18:30)

旅行企画・実施
近畿日本ツーリスト個人旅行株式会社 新宿プレミアム旅行サロン 東京都新宿区新宿3-26-13

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お申込期限はまだ先でしょうが、明日までに30名に達しないと催行中止だそうで、とりあえず早めにご紹介しておきますが、それが杞憂に終わることを祈念いたします。

中村屋サロン美術館さん、昨年も同様の企画を開催されました。おそらくそれが好評だったので、二匹目のドジョウでと思われます(笑)。こういう場合には、バスツアーというのは非常に楽ですね。しかもいろいろお土産もあるようですし(笑)。

碌山美術館さんは、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎をはじめ、碌山と縁の深かった作家の作品も収蔵、光太郎ブロンズ作品も多数お持ちです。複数の光太郎彫刻を一度に見られるのは、こちらと花巻高村光太郎記念館だけです。

7月から8月にかけては、当方も関わる企画展「光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」が開催されます。そちらはそちらとして、こちらにもぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

たらちねの母は死ねども死にまさずそこにもをるよかしこにも居るよ

昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日からの続きで、「母の日」がらみで。

母・わかの三回忌を前に作られました。昨日ご紹介した短歌と共に、雑誌『炬火』に発表した詩「母をおもふ」に反歌のように添えられたものです。

   母をおもふ

夜中に目をさましてかじりついた
あのむつとするふところの中のお乳。

「阿父(おとう)さんと阿母(おかあ)さんとどつちが好き」と
夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。
000
鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから
切火(きりび)をうつて学校へ出してくれたあの朝。

酔ひしれて帰つて来たアトリヱに
金釘流(かなくぎりう)のあの手紙が待つてゐた巴里の一夜。

立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。

やつとおれのうちの上り段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたがつたあの小さなからだ。

さうして今死なうといふ時の
あの思ひがけない権威ある変貌。

母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。


「死ねども死にまさず」、「そこにもをる」「かしこにも居る」。後に妻・智恵子が亡くなった後にも、智恵子は元素となって私の周りに常に居る、と光太郎は繰り返し発言しています。そうした考えの源流がここにありそうです。

先月16、17日に青森県十和田市で公演があった、劇団エムズ・パーティーさんによる朗読劇「乙女の像のものがたり」。2日分の公演を撮影したDVD、ブルーレイディスクが届きました。十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会の方が送って下さいました。感謝。

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さっそく拝見。

まず1日目、会場は十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」。

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基本、動きはなく、スクリーンにスライドショーを投影しながらセリフやト書きを朗読するという形です。

総勢10名以上の方がご出演。登場人物が多いので、お一人で2役、3役こなされた方もいらっしゃいました。原作は当方ですが、上演されることを前提には書かなかったので、キャラが多くなってしまいました。「史実」という制約があると、尚更です。「史実」を大胆に改変していいのであれば、明治末の「パンの会」の場面前後にだけ登場した北原白秋柳敬助夫妻を、全体の狂言回しに使った草野心平や、後半に登場する佐藤春夫夫妻に替えてしまったりした方が、ストーリー的にはすっきりするな、と感じました。

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左が智恵子役の仲島みちるさん、右が光太郎役の子午線馬ノ助こと植田祐介さん。お二人とも、さらに他の皆さんも、まさしく「熱演」でした。

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エンドロールには、当方の名も出して下さいました。

2日目は、十和田市街の市民交流プラザ「トワーレ」。こちらは市街ということもあり、予定を大幅に上回るお客さんの入りだったそうです。

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2回目ということもあり、キャストの皆さんも、さらに熱の入ったパフォーマンスでした。

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エンドロールのバックに、テーマソング的に佐藤春夫作詞の「湖畔の乙女」を流したところ、前日の「ぷらっと」での公演でもそうでしたが、観客席の皆さんも自然と大合唱。

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小山田十和田市長のごあいさつ。市としても後援に入って下さっていて、ありがたいですね。

今後、市の助成を受け、DVD化して学校さんなどでの上映も検討されているとのこと。是非とも実現してほしいと思います。さらには機会があれば、再演も。


そして観光客や、原作本の売り上げも増加してほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

やせこけしかの母の手を取りもちてこの世の底は見るべかりけり
昭和2年(1927) 光太郎45歳

明日は「母の日」。

光太郎の母・わかは、大正14年(1925)に亡くなりました。その三回忌を前に作った作です。

現在、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんで開催中の展覧会です。

今月末から展示替えに伴い、光太郎の父・光雲作の木彫が2点、展示されます。 

第72回展覧会 古典再生―作家たちの挑戦

会 期 : 2016年3月25日(金)~6月19日(日)
      前期 3月25日~4月24日 中期 4月29日~5月22日
      後期 5月28日(土)~6月19日(日)
休 館 : 毎週月・金曜日
時 間 : 午前9時~午後4時45分(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 無料

明治維新後,近代国家としての自立を目指した日本は,急速に西欧化を推し進めていきました。しかし,その影響下で廃仏毀釈による古器旧物の破壊や,美術工芸品の国外流出が相次いだこともあり,明治十年代半ば頃から日本古来の伝統を保護しようとする機運が高まりを見せます。江戸時代後期に興った復古思想とも重なりながら,絵画や工芸の分野では,モチーフや形状,表現技法などの面で近世以前の古美術を古典として意識した作品が数多く作られるようになりました。それらは古典の単なる焼き直しに終わる作品も少なくありませんでしたが,徐々にその中から古典を表面的に模倣するのではなく,その本質を捉えた上で作家の個性や近代的な進取の精神とを融合した,新味あふれる作品が登場しました。大正時代以降も作家たちは真摯に古典と向き合い,その中にそれぞれが自分なりの美を発見し,新機軸となる作品を生み出していきました。このように古典を昇華して生み出された作品は,伝統保護の重要性を認識していた皇室,宮内省からも高く評価されて展覧会などで買い上げられ,また,皇室への献上を目的に制作された作品にも注目すべきものが多くあります。
本展では,古典に範を取りながらも,明らかな近代的感覚を抱かせる,不思議な魅力をもった近代美術の作品を紹介します。それらを通して明治,大正,昭和,それぞれの時代の作家にとって常に創作の源泉となり得た,日本美術という土壌の豊かさを再認識していただく機会となれば幸いです。

見出された宝物
 蓬莱雲鶴蒔絵書棚    六角紫水ほか    一基     大正6年
 瑞鳥霊獣文蒔絵手箱   六角紫水      一合     昭和3年
東洋の美、新たなる挑戦
 秋爽          小坂芝田      十曲一隻        大正元年
 春庭・秋圃       小室翠雲      対幅     大正8年
受け継がれるやまとのこころ
 渓澗           宇田荻邨      二曲一隻     昭和2年
 秋草流水蒔絵螺鈿棚      川之邊一朝ほか      一基     明治28年
 菊蒔絵硯箱                    赤塚自得       一合     昭和3年
 猿置物         高村光雲       一点     大正12年
近代における神と仏
 養蚕天女        高村光雲       一点     大正13年
 肇国創業絵巻      安田靫彦ほか    二巻のうち      昭和14年
墨の彩り
 唐崎老松図       野村文挙       一面     明治30年頃
 月夜帰牧之図      木島桜谷       一幅     大正3年
 雪渓遊猿之図      山元春挙       一幅     大正4年
 秩父霊峯春暁      横山大観       一幅     昭和3年

上記が後期の出品作品です。

光雲の「猿置物」は別名「猿・三番叟」。

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平成25年(2013)、京都国立近代美術館で開催中された「皇室の名品-近代日本美術の粋」展にも出品されました。今年は申年と云うこともあり、同一題の純金製複製なども販売されています。

「養蚕天女」はその名の通り、養蚕の守護神です。

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帝室技芸員だった光雲の作は、宮内庁にかなり現存します。当方が把握しているだけでも十数点。

「養蚕天女」も二種000類所蔵されており、今回展示される大正13年(1924)のものは、高さ48㌢の比較的大きなものですが、昭和3年(1928)作のものは、約半分の高さ25㌢。

平成23年(2011)、眞子内親王殿下ご成年の際に公開された写真に、そちらが写っています。

皇室と養蚕の関連は深く、今も皇后陛下は明治以来続いている「皇后御親蚕」をされているそうです。


三の丸尚蔵館さんでは、昨年も「第68回展覧会 鳥の楽園―多彩、多様な美の表現」で、光雲木彫を展示して下さいました。今後も続けていただきたいものです。何と言っても入場無料ですし(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

春風や運動会の吹流し          明治33年(1900) 光太郎18歳

最近は5月に運動会をやってしまうという学校も多いようです。考えてみれば、秋に運動会、というのも昭和39年(1964)の東京オリンピックで開会式が行われた10月10日を体育の日、と定めて以来なのかも知れません。

明治期にも5月に運動会というのは一般的だったのでしょうか。それともこの「吹流し」は、鯉のぼりとは無関係のものなのでしょうか。詳細が不明です。

映画の公開情報です。

昭和6年(1931)、光太郎が訪れて紀行文「三陸廻り」を残したことを記念し、かつて巨大な「高村光太郎文学碑」が建てられ、以来、あの東日本大震災で碑は倒壊しながらも、「女川光太郎祭」が連綿と続けられている、宮城県女川町が舞台です。

まずは、仙台に本社を置く『河北新報』さんで、今年2月に掲載された記事から。 

女川復興の軌跡描く 苦悩追う映画先行試写会

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城000県女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」の先行試写会が21日、町まちなか交流館であった。実行委員会が主催。町民ら約150人が鑑賞した。
 タイトルは港町・女川を代表するサンマと、水産業の中核施設の大型冷蔵庫「マスカー」の建設を支援した中東のカタールから。再起に懸ける水産関係者や大切な人を失った住民の苦悩、まちづくりの様子や国境を越えた支援などを2年間にわたって追い、約1時間10分の作品に仕上げた。
 町民約30人が登場。映画の中で、マスカー建設に奔走した石森洋悦さん(59)は「町民に前を向いてほしかった」と明かし、復興イベント「復幸祭」実行委員長の阿部淳さん(41)は「『人が死んでいるのにお祭りか』などと非難も浴びたが、やり遂げた事実は残る」と思いを語った。
 阿部由理さん(55)は津波で自宅を失い、2012年に復興に尽力した町職員の夫を亡くした。上映後のあいさつで「主人のような人間がいたことを思い出してもらえたらいい」と語り掛けた。乾弘明監督(52)は「まちづくりの大変さや皆さんの苦労を肌で感じ、女川に力をもらった」と謝辞を述べた。
 映画は5月7日から東京都のヒューマントラストシネマ有楽町など全国で公開。県内では翌8日から仙台市青葉区の桜井薬局セントラルホールで上映される。


というわけで、明後日から、全国各地で順次公開が始まります。 

サンマとカタール~女川つながる人々


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あまりにも多くを失ったマイナスからのスター
カタールの援助が灯となった復興をゆだねられたのは若者達
泣いた、怒った、そして笑った!
荒れ野に芽吹いた小さな草が蕾をつけ
今、花開こうとしている
女川は流されたんじゃない
海の見える景色を残したまま新しい女川が誕生する!
女川復興の軌跡に迫る

宮城県女川町は牡鹿半島の付け根にある水産業の町。サンマの水揚げで有名だ。
石巻線の終着駅で、古くから天然の良港として栄えた美しい港町だった。

「あの日」までは…

この町の人々は、「あの日」2011年3月11日を何十年も何百年も語り継いでいくことになるだろう。住民の1割近くが犠牲となり、8割以上が住まいを失った。被災した全ての市町村の中でも、人口比では最も激烈な被害を蒙った町である。町の中心部は根こそぎ津波にのまれ、失うものは何もなくなった。

そんな絶望から、人はどうやって立ち上がるのだろう…。

最初の希望は、中東の国カタールによってもたらされた。古くは漁業で栄えたカタールは、震災直後に基金を設置し津波対応を施した冷凍冷蔵施設「マスカー」を建設。そして、小さな町だからできる独創的な発想と素早い行動、5年たった今でも寝る間を惜しんで復興にかける若きリーダーたち、その仲間が生み出す波及効果。人々の輪は町を飛び越え広がっていく。

女川は今、復興のトップランナーと呼ばれる。
震災前よりレベルアップした町づくり、そこに至る苦悩と喜びを見つめていく。

 青森 シネマディクト ルアール/ルージュ 6/25(土)~7/1(金)
 宮城 桜井薬局セントラルホール      5/8(日)~5/20(金)
 東京 ヒューマントラストシネマ有楽町   5/7(土)~5/20(金)
 千葉 シネマイクスピアリ            6/23(木)
 愛知 名演小劇場                5/14(土)~5/27(金)
 岐阜  大垣コロナシネマワールド        5/21(土)~6/3(金)
 大阪 シネ・リーブル梅田            5/21(土)~6/3(金)
 岡山 岡山メルパ                6/11(土)~6/24(金)
 広島 福山駅前シネマモード         6/11(土)
 岐阜 こくふ交流センター          10/30(日)
 兵庫 神戸アートビレッジセンター    6/12(日)
 広島 広島国際会議場 大会議室ダリア
    5/26(木)




予告編の動画を拝見、見知った顔もあり、これは是非観に行かなければ、と思いました。

限られた会場での公開ですが、皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

摘むに花くむに泉のあまからむ男の子世にゆく道たかうあれ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は5月5日。端午の節句です。

明治34年(1901)、数え19歳の光太郎は東京美術学校彫刻科在学中。さらに前年から与謝野鉄幹の新詩社に加わり、未来への夢をふくらませている時期でした。

先週、各界で功績のあった人をたたえる2016年春の叙勲受章者が発表されました。

主に政治家や民間人対象の「旭日章」、主として元公務員に贈られる「瑞宝章」、それぞれ「大綬章」「重光章」「中綬章」「小綬章」に分かれ、4,000人あまりが受章対象ということで発表されました。

報道では、いわゆる著名人ということで、それぞれ旭日小綬章に選ばれた、女優の富司純子さんと歌手の北島三郎さんが大きく取り上げられました。

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お二人とも、「智恵子抄」との縁がおありです。

まず富司さん。

昭和43年(1968)、大阪梅田コマ・スタジアムで開催された「名作劇場第三作 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。光太郎役は高島忠夫さんでした。

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脚本は北条秀司。同じ北條作の「智恵子抄」で、初代水谷八重子さんや、有馬稲子さんも智恵子役を演じられています。


続いて北島さん。

昭和39年(1964)、五月みどりさんとのデュエットで、シングル「新民謡 九十九里音頭」をリリース。

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三番の歌詞に、九000十九里浜片貝海岸の「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑がうたわれています。

昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子がこの地で療養したことにちなみ、同36年(1961)に建立された碑です。

ただし、「千恵子抄」というよくある誤植をやらかしていますが(笑)。

「東洋のマイアミ」というのも、わかるようなわからないような(笑)。突っ込みどころ満載です。


お二人とも、今後もお元気で、さらなるご活躍を期待します。


【折々の歌と句・光太郎】

新緑のみどりのいろの流れ入る画室の中に君と語りき
大正9年(1920) 光太郎38歳

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今日は「みどりの日」。自宅兼事務所裏山の緑も、だいぶ濃くなってきました。

先週の土曜日、横浜神奈川近代文学館に行って参りました。

閲覧室での調べ物が主目的でしたが、開催中の特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、招待券を戴いていたので拝見してきました。 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」

「吾輩は猫である」「坊っちやん」「三四郎」「それから」「心」そして「明暗」…人間の心の孤独とあやうさを描いた夏目漱石の作品は、私たちの生き方へ多くの問題を投げかけ、その一方で、夢や謎、笑いに彩られたイメージの宝庫としても読者を魅了して来ました。
作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、漱石は「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」と述べています。そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、多くの人びとが作品を繰り返し読み、その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。漱石文学は読者にとってまさに「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。
没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。
会 期  2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日
  月曜日(5月2日は開館)
 間  午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場  神奈川近代文学館第1・2・3展示室
観覧料  一般700円(500円) 65歳以上/20歳未満,学生300円(200円) 
     
( )内は20名以上の団体  高校生100円 中学生以下無料     
     東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
 催  県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
特別協力 岩波書店
協力   東北大学附属図書館
後援   NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
協賛   集英社 京浜急行電鉄 相模鉄道 東京急行電鉄
     神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
広報協力 KAAT 神奈川芸術劇場
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漱石と光太郎には美術を通して接点がありました。大正元年(1912)、漱石の書いた美術評論を光太郎が批判したというものです。当時光太郎は数え30歳。留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と縁を切り、ヒユウザン会に加盟、油絵の制作に力点を置いていた時期でした。

漱石はそうした美術界の新機軸に一定の理解を示していました。一つには漱石山房に出入りしていた画家の津田青楓の影響があったと思われます。津田は後に漱石の著書の装幀を多く手がけます。

光太郎の方は、漱石や森鷗外といった権威的な存在には噛みつかずにはいられない、という感じでした。津田とは欧米留学中に親しくつきあっていましたが、お互いの帰朝後は、漱石にかわいがられた津田と、権威的なものに反抗する光太郎とで、自然と疎遠になったようです。

ちなみに光太郎がまだ東京美術学校に在学中で、本郷Ⅸ駒込林町155番地の実家に住んでいた頃、漱石は明治36年(1903)から約3年間、本郷Ⅸ千駄木町57番地(いわゆる「猫の家」)に住んでおり、近所といえば近所でした。

さて、「100年目に出会う 夏目漱石」。当然ですが文学関連が中心の展示で、漱石の自筆資料等もふんだんに出品されており、息遣いが聞こえてくるようでした。

美術関連では、ヒユウザン会がらみの展示はありませんでしたが、漱石自身の絵画がまとめて展示されていました。ただ、津田青楓などは自身で絵の手ほどきをしながら、その方面での漱石の才能がないことを、敬愛を込めながらも揶揄しています。

 津田が自分の仕事の段落のついた或000る日行つてみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるやうな口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの、俺は日本画の方が面白いよ。」さう云つて、半紙ぐらいの厚ぼつたい紙に塗りたくつた妙な画を出して見せられた。
 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息してゐる。そのまへに一匹の馬がある。先づ馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先づ馬に近い――その馬が前脚を一つ折つて、これから草の上で休まうとするやうにも、又これから立ち上がらうとするやうにも見える。馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。柳は無風状態で重々しくたれ下つてゐる。全体が濁つた緑でぬりつぶされてゐる。柳の下にはフンドシを干したやうに、一条の川が流れてゐる。その川と柳の幹だけが白くひかつて、あとは濁つた緑。下手な子供くさい画と云つても片付けられる。又鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、云つてもみられる。先生はリヤルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし」「夢十夜」あんな作を絵筆で出さうとしてゐられる。
 漱石先生が「どうだ、見てくれ」と云つて出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は挨拶の代りに大きな口をあいて、
「ワハヽヽヽヽヽ」
 先づ笑つた。
(『漱石と十弟子』)


漱石といえば、文豪中の文豪ですが、こういう人間くさいエピソードには、親しみを感じます。並んでいた絵を見て、クスリとしてしまいました。

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、今月22日までです。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

人あり薫風に似て来り坐す      昭和20年(1945) 光太郎63歳

「薫風のよう」といわれる人間になりたいものです(笑)。

昨日の『長崎新聞』さんの一面コラムです。 

水や空 2016年5月1日 きょうから5月

きょうから5月。〈五月の日輪はゆたかにかがやき/五月の雨はみどりに降りそそいで/野に/まんまんたる気迫はこもる〉-高村光太郎の「五月の土壌」は、この季節が感じさせる大地の生命力を力強くうたいあげた一編だ▲ところで、この詩人は"土との格闘"をつづった「開墾」という題名の随筆も残している。自然の強さや厳しさを愛し称賛した作者には不似合いな弱気な姿勢が興味深い▲〈猫の額ほどの地面を掘り起こして去年はジヤガイモを植ゑた〉〈...自分の体力と時間とに相当したことだけを今後もやつてゆくつもり...〉〈...分相応よりも少し内輪なくらゐに始めるのがいいのだと信じている〉▲と、控えめに始めた農作業だったが、それでも手に血まめをこしらえてしまい、傷跡が化膿したのか、夜も眠れぬ痛みに襲われる。1カ月ほどの病院通いを余儀なくされ、戻ってみると、せっかくの畑は台無しに▲当世風のブログならば文末に(泣)とでも書き加えたくなりそうな顛末(てんまつ)だ。自虐めいたユーモラスな筆致が親近感を誘う▲ともあれ、桜の花に彩られて始まった新生活や新しい環境が一段落して、緊張感の反動が少し心配なこの時期に、新緑のみずみずしさと爽やかに吹く風が人々を癒やす。日本の「1年」は、つくづく絶妙にできている。(智)

引用されている「五月の土壌」は、大正3年(1914)5月の作。雑誌『詩歌』に発表され、この年に編まれた第一詩集『道程』にも収められました。


   五月の土壌

 五月の日輪はゆたかにかがやき
 五月の雨はみどりに降りそそいで000
 野に
 まんまんたる気魄はこもる

 肉体のやうな土壌は
 あたたかに、ふくよかに
 まろく、うづたかく、ひろびろと
 無限の重量を泡だたせて
 盛り上り、もり上り
 遠く地平に波をうねらす

 あらゆる種子をつつみはぐくみ
 蟲けらを呼びさまし
 悪きものよきものの差別をたち
 天然の律にしたがつて001

 地中の本能にいきづき
 生くるものの為には滋味と塒とを与へ
 朽ち去るものの為には再生の隠忍を教へ
 永劫に
 無窮の沈黙を守つて
 がつしりと横はり
 且つ堅実の微笑を見する土壌よ
 ああ、五月の土壌よ

 土壌は汚れたものを恐れず
 土壌はあらゆるものを浄め
 土壌は刹那の力をつくして進展する
 見よ
 八反の麦は白緑にそよぎ
 三反の大根は既に分列式の儀容をなし
 其処此処に萌え出る無数の微物は
 青空を見はる嬰児の眼をしてゐる
 ああ、そして
 一面に沸き立つ生物の匂よ
 入り乱れて響く呼吸の音よ
 無邪気な生育の争闘よ

 わが足に通(かよ)つて来る土壌の熱に
 我は烈しく人間の力を思ふ


画像は自宅兼事務所の裏山の竹林です。タケノコがすごいことになっています。「五月の土壌」のパワーですね(笑)。

さらにコラムにある「開墾」という散文は、昭和22年(1947)、岩手花巻郊外太田村の山小屋での作です。『北方風物』という雑誌のために書かれましたが、同誌が発表前に廃刊となり、いったんお蔵入りになりましたが、その後『智恵子抄その後』に収められ、『高村光太郎全集』で読むことが出来ます。

「風薫る」と称される五月。暑くもなく寒くもなく、緑の美しい季節です。「日本の「1年」は、つくづく絶妙にできている。」そのとおりですね。


【折々の歌と句・光太郎】

青葉若葉巴里の町の狭さかな    明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学中の作。パリにいても、遠い日本の「風薫る」風景も思い起こしていたのではないでしょうか。

昭和20年(1945)、空襲で東京のアトリエを失った光太郎が、岩手花巻への疎開のため東京を発った5月15日、例年、花巻で「高村祭」が行われています。今年で59回目となります。今月号の『広報はなまき』から。 

第59回高村祭

期  日 : 2016年5月15日(日)
会  場 : 高村山荘詩碑前広場 岩手県花巻市太田3-85

光太郎が花巻に疎開してきた5月15日に毎年開かれる「高村祭」。光太郎が暮らした高村山荘にある「雪白く積めり」の詩碑の前では、地元の小・中学生や高校生、花巻高等看護専門学校生による合唱や楽器の演奏、詩の朗読などが行われます。

高村祭特別講演を開催
 高村光太郎と金谷一族について-高村光太郎のいにしえの姿-
【時間】午前11時~正午
【講師】加藤 千晴さん
【内容】
講師の祖母、金谷ふゆは、高村光太郎のいとこで幼なじみでした。祖母ふゆから受け継いだ仏像と光太郎が持っていた仏像のつながりをはじめ、祖母から聞いた光太郎の姿を紹介します。

【駐車場のご案内】
当日はスポーツキャンプむら「メイングラウンド側」駐車場をご利用ください。雨天時は「屋内運動場側」駐車場は利用できません。
【無料臨時バスを運行】往路…花巻駅西口発9時半、復路…高村山荘発15時
【問い合わせ】(一財)花巻高村光太郎記念会事務局(平日電話29-4681)

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毎年、地元小中高生、看護学校生による光太郎詩の朗読、音楽演奏が行われ、さらに記念講演があります(昨年は当方が仰せつかりました)。

今年の講演は、盛岡在住の加藤千晴氏。光太郎の血縁の方です。明治の高村家は、養子縁組等で若干、家系が複雑です。光太郎の父・光雲が徴兵を逃れるため師匠・高村東雲の姉・悦の養子となり、光太郎の母・わかも若くして父を亡くして東雲の妹・きせの養女となりました。きせの実子がふゆ。年齢的には光太郎に近く、幼馴染み的な関係だったので、混乱が生じているようです。光太郎のいとこにあたるのは、ふゆの子の照。その照の子息が加藤千晴氏です。ちなみに照さんは100歳近いということですが、まだご存命です。この方も、戦後に花巻郊外太田村の光太郎の元を訪れています。

昨年暮れに、当方、花巻に参りまして、加藤氏の手記のコピーを戴きました。手記はふゆ・照母子と光雲・光太郎との関わりなどが詳細に記されており、非常に貴重なものでした。今回の講演でも、一般に知られていないエピソードなどが聴けることと思われます。

ぜひ足をお運びください。

前日の5月14日には、光太郎が旧太田村の山小屋に入る前に1ヶ月暮らした、花巻市街の佐藤隆房邸の公開もあります。当方、ここからお邪魔いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

米無くばじやがたらいもをわが喰はむみどりの風に身を養はむ
制作時期不詳

昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に載った作品です。おそらくあまりさかのぼらない時期の制作とは推定できます。

5月となりました。しかも今日は八十八夜だそうです。「みどりの風」が心地よい季節になって参りました。

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