今年2月、平凡社さん刊行、和田博文氏著の『日本人美術家のパリ 1878-1942』に関し、6月17日(土)、『東京新聞』さんから。
和田氏の強調されている「一次資料」の大切さ。まさにその通りですね。「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる」というくだりなど、まさに光太郎の実像を追究しようとする当方にとっては、我が意を得たり、です。
また、「戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ」も。そこで、国会図書館さんなどのデジタルアーカイブの普及が非常に有り難いのですが、結局、光太郎について多くのページを割いている書物はプリントアウトするより買ってしまった方がよく、しかしおいそれと手が出せなかったりもしています。
それにしても「岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない」はショックでした。云われてみればそんな感じはしていたのですが。ただ、逆に中小の出版社さんがいい個人全集に取り組んでいる例も見られ、頑張って欲しいなと思っています。
光太郎全集は増補改訂版が平成10年(1998)に完結。しかし、その後も故・北川太一先生や当方の渉猟で、未収録作品等の発見が大げさに云えば日々続いています。先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、見つかりすぎるほど見つかって、現在、探索は少し休止中です。ちょうど10年後には、光太郎生誕150周年。そのあたりでもう一度光太郎全集の改訂を行いたいものですが……。
ところで上記記事の最後にある『猫の文学館』(ちくま文庫)についてはこちら。『日本人美術家のパリ 1878-1942』同様、光太郎にも言及されています。併せてお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
此間片山さんがロマン ロランのてがみを持つて、高田君尾崎君と三人で来てくれました。 初めてあつて愉快でした。ロランのてがみは私を強く動かしました。
「片山さん」は片山敏彦。ロマン ロランと文通をしていました。「高田君」が高田博厚、「尾崎君」で尾崎喜八です。翌年には彼等と「ロマン ロラン友の会」を結成する光太郎、明治末のパリ留学中にはロマン ロランの家のすぐ近くに住んでいたのですが、その際にはそれを知りませんでした。
<土曜訪問>時代の風景 読み解く 1次資料駆使し日本モダニズム探る 和田博文さん(東京女子大特任教授)
近代日本の美術家は“芸術の都”パリにどう迎えられ、何を学んだのか。東京女子大特任教授の和田博文さん(69)の『日本人美術家のパリ1878−1942』(平凡社)は、明治から昭和戦前期の美術家たちのパリ体験に焦点を絞った最新の単著だ。高村光太郎、佐伯祐三、藤田嗣治らが、言葉や習慣の違いに戸惑いながらも新しい表現を求めて苦闘する日々を、彼らの手記や当時の紙誌の記事の資料をもとに丹念に跡付けた。
「私は美術の専門家ではないですが」と前置きして「戦前の美術雑誌に載っているパリ関係の資料を、一度全部洗ってみようと。これはたいへんな作業で、誰もやったことがないんです」と大部の自著に達成感をにじませた。
文化史、比較文化が専門で、とくに「モダニズム」研究の分野のトップランナーだ。モダニズムは、十九世紀末から二十世紀初めに世界で起きた文芸変革の潮流であり、和田さんはその時代のさまざまな資料の収集と調査、復刻を通じて、日本でのモダニズムの実相を明らかにしてきた。
作家の宇野千代が一九三〇年代に創刊した雑誌『スタイル』は、女性の映画俳優を採用して洋装和装を問わず最先端の流行を発信。ファッション以外の趣味の文化を取り込む中で、食器の専門家として登場させたのが、シュールレアリスム詩誌『リアン』を創刊、マルクス主義にも傾倒した竹中久七だったことを突き止めた。
また、そのころ文学雑誌に文学者の顔写真が掲載されるようになり、それが文学の読まれ方にどう影響したのかを考察した。「中原中也の瞳のぱっちり開いた、いかにも無垢(むく)な印象の写真が、彼の詩の読まれ方と連動した」。「モダンガール」の実像に迫るため、写真雑誌『アサヒカメラ』を端から端まで読んだ。
和田さんは「モダニズムとは、最も新しいものに価値を見いだすという意味」と定義する。モダニズム期の一次資料(本、雑誌、詩集、写真、ポスターなど)からは、西洋のハイカラな文化や技術が、時間をかけて日本化されていく過程を読み取ることができる。「一次資料と向き合っていると、つくられた時代の風景がよみがえってくる」
詩を研究していた三十代前半のころに転機があった。学生時代の友人が開いた古書店、石神井書林(東京都練馬区)との出会いだ。短詩系文学の専門で、有数の目録を誇っていた。「店主が古書つまり一次資料の話をしても、私は何も分からなかった」。全集と、誰かが書いた評論を机に置いて論文を書いても、それらを通り道に同じような論を再生産していくしかない。一次資料を徹底的に集めて論文を書くという研究スタイルに方針を転換した。
ただ、戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ。当時勤めていた大学とは別に非常勤で勤めたりもして、一次資料の購入を続けた。その額は計約四千万円にも。この膨大な蓄積が、全百巻のシリーズ「コレクション・モダン都市文化」(ゆまに書房)の監修などに実を結んだ。
「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる。だから私は、特定の専門の研究者ではなく、ジャンルをクロスする研究者になった」
肩書は「人文学科日本文学専攻特任教授」だが、作家個人の名前を冠して書いた本は、宮沢賢治についての一冊だけという。
六〇年代に日本近代文学館ができて資料を集め、出版社と大学の研究者と協力して個人全集を刊行する「作家主義」が隆盛したが、それも八〇年代終わりに終了したとみる。岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない。「全集を通して見えてくる風景が目新しくなくなった」
かといって、近代文学が全く読まれないかというとそうではない。二〇一七年に編んだ二巻の『猫の文学館』(ちくま文庫)は多くの読者を獲得した。寺田寅彦、太宰治、佐藤春夫らの作品から、猫が生き生きと描かれる短編やエッセーを集めた。猫がいかに豊かなインスピレーションを作家に授けたかを知る、ユニークなアンソロジー。「作家主義は終わったが、文学はまだ面白い可能性を秘めていることを、いろいろな切り口で伝えたい」
『日本人美術家のパリ 1878-1942』。好著だな、と感じつつ拝読したのですが、その舞台裏というか、制作秘話というか、なるほど、こういうことだったか、と思いました。和田氏の強調されている「一次資料」の大切さ。まさにその通りですね。「一次資料はジャンルに関係なく、どんどん広がっていき、ジャンルの違う資料が結び付いた時に、新しい知的なテーマが生まれる」というくだりなど、まさに光太郎の実像を追究しようとする当方にとっては、我が意を得たり、です。
また、「戦前の古書は高額で一冊数万円はざらだ」も。そこで、国会図書館さんなどのデジタルアーカイブの普及が非常に有り難いのですが、結局、光太郎について多くのページを割いている書物はプリントアウトするより買ってしまった方がよく、しかしおいそれと手が出せなかったりもしています。
それにしても「岩波書店も筑摩書房も今は個人全集をほとんど出していない」はショックでした。云われてみればそんな感じはしていたのですが。ただ、逆に中小の出版社さんがいい個人全集に取り組んでいる例も見られ、頑張って欲しいなと思っています。
光太郎全集は増補改訂版が平成10年(1998)に完結。しかし、その後も故・北川太一先生や当方の渉猟で、未収録作品等の発見が大げさに云えば日々続いています。先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、見つかりすぎるほど見つかって、現在、探索は少し休止中です。ちょうど10年後には、光太郎生誕150周年。そのあたりでもう一度光太郎全集の改訂を行いたいものですが……。
ところで上記記事の最後にある『猫の文学館』(ちくま文庫)についてはこちら。『日本人美術家のパリ 1878-1942』同様、光太郎にも言及されています。併せてお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
此間片山さんがロマン ロランのてがみを持つて、高田君尾崎君と三人で来てくれました。 初めてあつて愉快でした。ロランのてがみは私を強く動かしました。
大正14年(1925)5月11日 田内静三宛書簡より 光太郎43歳
「片山さん」は片山敏彦。ロマン ロランと文通をしていました。「高田君」が高田博厚、「尾崎君」で尾崎喜八です。翌年には彼等と「ロマン ロラン友の会」を結成する光太郎、明治末のパリ留学中にはロマン ロランの家のすぐ近くに住んでいたのですが、その際にはそれを知りませんでした。