2015年08月

光雲関連の報道を2件。

まずは長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺資料館展示 三宝荒神ひな型 初の「補修の旅」

 近代日本を代表する彫刻家高村光雲(1852~1934年)と米原雲海(1869~1925年)の合作で、長野市の善光寺仁王門にある三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像の試作品に当たる「ひな型」が27日、修理のため、展示してある善光寺の資料館(日本忠霊殿)から東京芸術大に搬出された。ひな型が修理で寺の外に出るのは、1919(大正8)年の制作以来、初めて。

 ひな型は、三宝荒神が高さ123センチ、三面大黒天が106センチ。仁王像の背面にある高さ2・5メートルほどの本像の制作前に、高村、米原が作った。文化財に指定されてはいないが、木造彩色でともに三つの顔と6本の腕があり、群青色の体や衣、金色の装飾が鮮やかだ。しみや欠損、カビが生えるなど傷みが目立つようになり、来年5月までの予定で修理することになった。

 27日は東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の3人が、付属品を外した像を緩衝材やさらしで幾重にも包み、慎重に運び出した。同大学院非常勤講師で近代彫刻が専門の藤曲隆哉さん(33)によると、伝統的な仏像彫刻の形式と近代の技法を融合させ、大正時代を代表する作品の一つという。善光寺事務局は「近代彫刻の観点での調査成果にも期待したい」としている。
(2015.8.28)


善光寺さんの仁王門には、光雲と高弟の米原雲海合作の仁王像が奉納されています。下記画像は大正時代の絵葉書です(以下同じ)。

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大正8年(1919)の開眼です。昨秋には、最大震度6弱を観測した長野県北部地震が発生、仁王像も破損しましたが、大事には至らなかったようです。

その仁王像の裏側には、三面大黒天像と、三宝荒神像が納められています。こちらも光雲・雲海の手になるものです。

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その試作(ひな形)が善光寺さんの資料館である日本忠霊殿に収蔵されていますが、そちらが東京芸術大学で補修されることになったという記事です。文化財修復の技術には定評がある同大、光雲も雲海も前身の東京美術学校で教鞭を執っていたゆかりの深い学校です。この際、きっちりと補修をしていただきたいものです。

下記は三面大黒天像のひな形。三宝荒神像のそれが写った絵葉書は未入手です。

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「高サ七尺五寸」というキャプションは、仁王門に納められている本体で、ひな形は約100㌢です。

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もう1件、『毎日新聞』さんの静岡版の記事です。昨秋ご紹介した袋井市の寺院・可睡斎さんに、明治31年(1898)頃に建てられた「活人剣」の碑に関してです。

<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井

 袋井市久能の禅寺・可睡斎(かすいさい)の境内に復活建立される「活人剣の碑」の工事が最終段階を迎えている。27日には制作者で金属工芸家の宮田亮平・東京芸大学長が訪れ、台座に載せる金属製の剣碑(高さ約5メートル)が据え付けられた。
 剣はサーベルの形をしておりステンレス製。表面をブロンズで覆ってある。富山県内のアトリエで制作した。この日作業員が重機などを使って台座の上に剣先が天に向かう形で慎重につり下ろした。高村光雲作とされる初代の碑は境内奥にあったが、復活碑は山門の横に建立される。
 宮田学長は「(初代の)復元ではなく現代に合わせた作品」と説明。剣の刃先の向きなど設置状態を調べ「このままでいいですね」と満足そうだった。
 初代「活人剣の碑」は、日清戦争(1894〜95年)の講和交渉のため来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監、佐藤進の交友の証しとして建立された。佐藤がいつも軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし第二次大戦中、金属供出でなくなり、台座だけが残った。地元有志らが再建委員会を設置。昨年から建設費(約3000万円)の募金活動を始めた。
 9月26日に完成を祝う「立剣式」を行い一般公開する。【舟津進】
(2015.8.29)


こちらも古絵葉書です。おそらく光雲が中心となって、上部の剣の部分を木彫で制作、それをブロンズで鋳造したものと思われます。

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色即是空とは申しますが、滅びるに任せず、修復したり再建したりができるのであれば、光雲ら先人の事績共々後世に伝えていって欲しいものです。その意味ではどちらも意義のある取り組みですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月31日 000

昭和61年(1986)の今日、徳間書店から内田康夫著『「首の女(ひと)」殺人事件』が刊行されました。

昭和57年(1982)、『後鳥羽伝説殺人事件』で始まり、現在も続く、浅見光彦シリーズの第10作です。光太郎の作った木彫の贋作を巡る事件を、名探偵浅見光彦が鮮やかに解決するというものです。

平成18年(2006)にはフジテレビさんが中村俊介さん主演で、平成21年(2009)にはTBSさんが沢村一樹さん主演で、それぞれドラマ化しています。どちらもBS放送などで、年1~2回、再放送されています。

浅見光彦シリーズはコミック化されている作品も多いのですが、この『「首の女(ひと)」殺人事件』は、それがなされていません。光太郎の「蟬」の木彫などを描かなければ成り立たないので、大変なのかも知れませんが、漫画家の皆さん、ぜひお願いします。

追記 平成30年(2018)、ぶんか社さんから、『まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー』が刊行され、夏木美香さんの画による「首の女……」が収録されました。

昨日に引き続き、開催中の展覧会情報です。光雲作品が出品されているとのことですが、気付くのが遅れました。

北陸新幹線開業記念 お召列車と鉄道名画 ~東日本鉄道文化財団所蔵作品を中心に~

会 期 : 2015年8月21日(金曜)~9月27日(日曜)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
休館日 : 月曜日(ただし9月21日は開館)
 間 : 午前 9時30分から午後5時まで(入室は午後4時30分まで)
観覧料 : [前売り]一般のみ800円 [当日]一般1,000円 大学生700円
主 催 : 「お召列車と鉄道名画」実行委員会(富山県水墨美術館、富山テレビ放送)
共 催 : 北日本新聞社
後 援 : 滑川市、滑川市教育委員会

関連行事
鉄道模型運行 場所 エントランスホール
運転日 会期中の日曜・祝日(8/23 30 9/6 13 20〜23 27)
運転時間 午後1時〜4時  見学無料

学芸員による作品解説
日時 8/22、9/5、19 いずれも土曜日 午後2時〜
※要展覧会観覧券


 この展覧会は、北陸新幹線の開業を記念し、美術と鉄道の関わりという視点から、JR東日本、東京ステーションギャラリーと鉄道博物館の運営母体である東日本鉄道文化財団の協力を得て開催します。
  「お召列車」は、天皇・皇后両陛下、皇太子殿下が乗車されるために運行される列車で、「御料車」は御乗用される車両の総称です。また、「御座所」は車両内でお座りになる場所を指し、その席を「玉座」と呼びます。
  本展は、この「御料車」に実際に用いられていた、工芸技術の粋が惜しみなく注ぎ込まれた装飾と玉座を紹介するとともに、蒸気機関車や機関庫など、鉄道の情景が描かれた作品や、鉄道をモチーフにイメージを膨らませて描かれた作品、昨年開業百年を迎えた東京駅が描かれた作品などの絵画を展示します。
  これら貴重な作品の数々が富山に一堂に会するのは、北陸新幹線の開業という二度とない機会だからこそと言えます。さらに、展覧会としてだけではなく、鉄道事業への理解を深める機会とします。

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同展について報じた『中日新聞』さんの記事です。

これがお召列車「玉座」 県内初 県水墨美術館で展示 新幹線開業記念 JR東から借り受け

北陸新幹線開業を記念し、美術品を通して鉄道が楽しめる企画展が、富山市五福の県水墨美術館で開かれている。九月二十七日まで。
 「お召(めし)列車と鉄道の名画」と題し、JR東日本(東京都渋谷区)や東日本鉄道文化財団(同)の所蔵品五十二点を借り受けた。今回、天皇、皇后両陛下がお座りになる「玉座」を県内で初公開している。
 玉座は、一九三三年に一脚、五九年にもう一脚が製作された。色調は控えめで、絹製のクッションに、金糸の装飾が施され、テーブルとともに展示している。
 ほかに、彫刻家高村光雲(一八五二~一九三四年)が制作、監督を務めた「お召列車」の食堂車の窓枠や、勢いのある筆遣いの洋画家長谷川利行(一八九一~一九四〇年)の油彩画「赤い汽罐(きかん)車庫」(一九二八年)などが並んでいる。
 学芸員の鈴木博喬(ひろたか)さん(48)は「特に、玉座はなかなか見られない。大人から子どもまで楽しめます」と来館を呼び掛けている。
 休館は月曜日。開館時間は、午前九時半~午後五時(入館は午後四時半)。一般千円、大学生七百円、高校生以下は無料。


というわけで、光雲作の窓枠が展示されているとのことです。

当方、鉄道マニアではないのでよくわからず、調べてみました。すると、「御召列車博物館」というサイトがあり、その歴史が年表になっていました。

そちらによると、光雲存命中に15回ほどお召列車の車両が作られています。光雲は明治20年(1887)に、皇居造営に伴う彫刻の仕事を命ぜられ、それがきっかけで飛躍していくのですが、その流れでお召列車の内装も手がけたのでしょう。

ただ、現在、最も詳細な光雲の年譜は、平成11年(1999)に中教出版から刊行された『木彫高村光雲』巻末のものですが、こちらにも記録がありません。まだまだ光雲の事績の全体像も不明のところが多いのが現状です。そこで、お召列車の仕事にも携わっていたと知り、「ほう」と思いました。

お近くの方、ぜひどうぞ。

他にも別件で光雲関連、ぽつぽつ報道が為されています。明日はそのあたりを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月30日

平成15年(2003)の今日、新人物往来社から沼口勝之著『裸像 小説・若き日の高村光太郎』が刊行されました。

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サブタイトルの通り、明治39年(1906)の欧米留学から、大正元年(1912)、智恵子と愛を確かめ合った銚子犬吠埼までの光太郎を描いた小説です。なかなかの力作、「ここはおかしい」という突っ込みどころも皆無だった記憶があります。

残念ながら版元の新人物往来社は吸収合併され、絶版ですが、古書市場では入手可能です。

ノエビア銀座ギャラリーさんから開催案内の葉書を戴きました。今週から始まっている展覧会です。
 期 : 2015 年8 月24 日(月)~10 月30 日(金) 入場無料
 間 : 午前10 時~午後6 時 (土・日・祝日は午後5 時まで)
 場 : ノエビア銀座ギャラリー(ノエビア銀座本社ビル1F 中央区銀座7-6-15)
 催 : 株式会社ノエビア
お問合せ : 0120-401-001(月~金/9:00~18:00 土・日・祝日除く)

独自の作品世界を持つ銅版画家、山本容子。
1995 年より、 「本の話」(文藝春秋)の表紙画として、毎月、アーティストの肖像画を描きました。本展では、17 年にわたり描かれた191 名の銅版画のポートレイトから、日本人アーティストを選んで展示いたします。作品にある“EX-LIBRIS”とは蔵書票を意味し、ひとりひとりが蔵書票のスタイルで描かれています。持ち主の印として蔵書に貼られる蔵書票には、古くは紋章や肖像画をあしらった図案が用いられました。山本が大切に考えたという「作家の人物としての空気感」を感じていただけます。

山本容子 (やまもと ようこ)・銅版画家 1952 年-埼玉県生まれ京都市立芸術大学西洋画専攻科修了。都会的で軽快洒脱な色彩で、独自の銅版画の世界を確立。絵画に音楽や詩を融合させるジャンルを超えたコラボレーションを展開。数多くの書籍の装幀、挿画なども手がける。近年では、医療現場における壁画制作、ホスピタルアート壁画を制作し、幅広い分野で精力的に創作活動を展開している。近著に『山本容子のアーティスト図鑑100 と19 のポートレイト』(文藝春秋)、『Art in Hospital スウェーデンを旅して』(講談社)がある。


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銅版画家の山本容子さん。古今の著名人の肖像を多く手がけられており、雑誌『婦人公論』の表紙絵を集めた『女・女』(平成16年=2004 中央公論社 絶版)、そして一昨年には雑誌『本の話』の表紙絵集『山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト』(文藝春秋社)などには、智恵子の肖像も採用されています。

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今回は『山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト』の原画のうち、智恵子を含む日本人アーティストを描いたものが展示されているそうですが、点数はよくわかりません。近々観に行って、レポートします。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月29日

昭和29年(1954)の今日、終焉の地、中野アトリエ近くに落雷があり、しばらく停電しました。

当方の子供の頃、停電などはしょっちゅうでした。最近はめったなことでは起こらなくなりましたね。

先週の『東京新聞』さんの千葉中央版に以下の記事が載りました。

昨日もご紹介した、昭和9年(1934)に智恵子が療養した千葉県九十九里。こんなところにも悲惨な戦争の余波がしばらく残っていたという話です。 

<九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年>智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い

 人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の砂にすわって智恵子は遊ぶ。

 詩人で彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節に、九十九里が登場する。一九三四年、妻智恵子は療養のために豊海町(現九十九里町)の真亀納屋に八カ月ほど滞在し、光太郎は毎週のように東京から見舞ったという。智恵子が小鳥と戯れ心を癒やしたその砂浜こそ、十四年後に米軍のキャンプ片貝に姿を変えた場所だった。
 内山いつ(78)=九十九里町=は、父親を太平洋戦争で亡くし、母子家庭で育った。「明日食べるものをどうにかしなくちゃいけない毎日だった」。五歳年下の妹・長谷川ぬい(73)=大網白里市=と、イワシの地引き網を手伝ったり、ヨシを刈って売ったり。少しでも家計の足しになるならと、夜なべで内職もした。
 自宅から三百メートル先にキャンプ片貝ができ、町の様子が不穏になる中で過ごした思春期だった。子どもたちがたばこを吸い、化粧した姿を見かけるようになった。夜道を歩いていると米兵に声を掛けられ、「アイ・アム・スクールガール」と答えると逃げていった。母子家庭に突然米兵が押しかけて来ることもあり、不安だった母親は、ガードマン代わりに内縁の夫を持った。
 そんな中、内山は豊海町の青年会が中心となった俳句会「白濤(はくとう)会」に参加する。中学生から二十代前半の若者が三十人ほど集まり、思いを句に込めた。「怖い体験をすることが増えた。誘惑も多く、このままでは町がだめになってしまうんじゃないかと、みんな思っていた」
 五二年四月、サンフランシスコ講和条約の発効で日本は主権を回復し、米軍による占領は終わった。しかし、同時に発効した日米安全保障条約(旧安保条約)により、米軍は希望する基地は今まで通り使うことができ、キャンプ片貝でも変わらず演習が続いた。
 五三年七月、朝鮮戦争の休戦協定が調印されると、キャンプ片貝で年二百日を超えて行われていた高射砲演習は徐々に減っていく。五七年三月には、政府が米軍に接収された九十ヘクタールのうち二十ヘクタールに縮小して提供することを決め、調達庁(現防衛省)が県に通知した。
 ところが米軍は同年五月、突然「永久に射撃演習を中止する」と県に通告。しばらくして敷地を返還し、十年間住民を苦しめたキャンプ片貝が姿を消した。
 突然の基地撤退について郷土史家の古山豊(67)=大網白里市=は「核兵器の開発が進む中、高射砲という戦術が時代遅れになり、キャンプ片貝の必要性そのものが低くなった」と指摘。五四年に自衛隊が発足して日本に一定の防衛力が備わったことも一因とみる。千葉大の三宅明正教授(日本近現代史)は、五〇年代後半、本州各地で米軍基地の撤退が相次いだことに着目。「政府が積極的に基地返還を求めることは無かったが、米国側が基地闘争の高まりを危険と判断し、返還を進めたのだろう。撤退は住民の反対運動が決定的だった」と分析する。
 キャンプ片貝の売店で働いていた宇津木勇(83)=東金市=は五六年ごろ、将校に「沖縄で働けないか」と尋ねると、「沖縄は米国の永久接収だから異動はできない」ときっぱり断られたことを覚えている。米軍基地は、米政府統治下の沖縄に集中。今も在日米軍専用施設の74%を占める。
 無人機「赤とんぼ」の墜落や高射砲演習「ドカン」の騒音、振動被害、米軍車両による事故…。九十九里の住民がかつて経験した同じ苦しみを今、沖縄をはじめ基地のある全国の町の人々が味わっている。
 平和の世永久(とわ)につづけよせみしぐれ
 内山は、ドカンの鳴り響くあの時代を生きたからこそ、暑い夏のせみしぐれに平和を感じ、平和を祈る。智恵子が愛した九十九里に思いをはせながら。  =文中敬称略、おわり  (柚木まり)

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昭和32年(1957)に返還されるまで、智恵子が歩いた浜の一帯が、米軍の実弾演習場として使われていたことは、千葉県民でもあまり知りません。当方も、光太郎智恵子がらみで知っていたというところです。昭和25年(1950)には、「九十九里浜闘争」という反対闘争も起こっています。この夏、自民党が安保法案の根拠として無理矢理引き合いに出していた「砂川闘争」など、各地でこうした住民運動が起こっていました。

返還後の昭和36年(1961)、記事にもある地元の俳句サークル「白濤会」の皆さんのお骨折りで、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が建てられました。

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実は、この碑も米軍基地に関係があります。

以下、草野心平の回想(昭和39年=1964 『新潮』掲載「高村光太郎・智恵子」)から。

 昭和三十六年(光太郎歿後六年)に私は二回、九十九里浜にいった。新しい町村合併後で片貝も真亀納屋も九十九里町に編入されていた。その町の青年有志が中心になり、あとでは町長なども応援にたっての詩碑建設の話が前年の暮頃から進んでいた。高村家でもそのことを了承したので、三十六年の何月だったかは忘れたが、石材と建碑の場所の選定をまかされて出掛けていった。
(略)
 町の有志の人たちのあいだではそれも大体目星がついているらしく私を先ずそこに案内した。米軍の演習基地はもうすっかり取払われていて、以前は何が建っていたのだろうか、正方形の大きなコンクリの台座が露出しているところがあった。既成のその台座を利用してその上に建てたいという意見であった。
(略)
 資金の点もあるらしいし、
「あの台座の上でもいいでしょう。」
 と私は言った。風景もいいし、あの辺を智恵子さんは散歩したに違いないとも思ったから。

というわけで、当初は、米軍演習場の遺構を使って碑の台座にするという計画でした。しかし、それは白紙に戻ります。先の心平の回想の続きです。

 その晩成東の宿で、みんなが引きあげたあとに私の考えは然し変わった。翌る朝東京へ帰る予定を変えて私はまた町役場に出掛けていった。米軍が使っていた台座の上に建てるのはどうしてもすっきりしない。あの上には絶対に建てたくない。そんな気持ちに私は豹変していた。そしてきのうと同じことを私たちは繰返した。米軍台座よりも沖合に近く、そこよりも更にいくらか高みのある砂丘、私たちはそこに決めた。津波などのことも考え、二米のコンクリの台座を新しくつくり実際に出来上がったときはあたりは平凡な砂の丘だけで台座は寸分も見えないように、そんな希望も受入れられた。

こうして「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が建ったのです。当初は心平の回想の通り、波打ち際を望む砂丘に建てられました。下の画像は碑の除幕の翌年、昭和37年(1962)に刊行された『光太郎のうた』(社会思想社現代教養文庫 伊藤信吉編)の表紙です。

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しかし、その後、昭和47年(1972)に碑と海岸線の間に九十九里有料道路が通され、残念ながら現在は碑から海が見えません。何だかなあ……という感じです。


さて、もう1件、やはり先週の新聞記事を紹介します。「戦争」「光太郎」そして「俳句」ならぬ「短歌」ということで、多少なりとも関わるかと思いますので。『高知新聞』さんの記事です。 

「戦争は二度と再びするまいぞ」 短歌九条の会こうち発足 31文字に平和込め 県内から50人参加

 〈戦争は 二度と再び するまいぞ よろよろ生きて 九条守る〉―。政府による解釈改憲で憲法の平和主義が大きく変容しかけている中、高知県内の歌人らが「短歌九条の会こうち」を立ち上げた。31文字の短歌に平和への思いを込め、憲法9条を守るとの意思を広げていく狙いだ。
 会は7月15日に発足した。ちょうど、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法案の採決が強行され、衆院を通過した日に当たる。
 その様子を会員は詠んだ。
 〈国民の 理解不十分と 認めつつ いきなり衆院 採決強行〉
 会には、安保法案への危機感や憲法順守の思いを表現しようと、高知市や四万十市、安芸市などから50人余りが集まっている。世話人の梶田順子(みちこ)さん(75)=高知市福井町=によると、「戦前の反省がある」と言う。
 満州事変後の「15年戦争」で、斎藤茂吉や高村光太郎ら当時の著名な歌人は、積極的に「愛国歌」を詠んで戦争に協力した。
 梶田さんは「日常が壊されると、歌も自由に詠めなくなる。今はまだ、間違うちゅうことは間違うちゅうと言える。黙っていては認めたことになってしまう」と話す。
    ■  ■
 会員の作品には、自身の戦争体験を取り上げたものも多い。
 〈父おくる 母の涙を 見てしより 言へず語れず 戦を憎みき〉
 〈新婚の 僅(わず)かひと月 嫁残し 戦死せる子の 墓撫(な)づる母〉
 梶田さんは1945(昭和20)年7月4日の高知大空襲で自宅を失った経験を持つ。親類はニューギニアで戦死している。
 「他国の人を殺さず、殺されずにやってこれたのは憲法9条があったから。安保法案はその9条を壊してしまう。短歌を一つ一つ味わってもらい、今の社会情勢を考えるきっかけになれば」
 梶田さん自身はこう詠んだ。
 〈子の戦死(し)をば 誉れと言ひし 彼(か)の日日の 還(かえ)り来(きた)るを 止めねばならぬ〉
 会では、短歌を掲載した会報の発行や学習会を随時開催するという。投稿や入会希望、賛同者は梶田さん(090・8692・8221)へ。

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戦後70年。草野心平が「絶対に米軍が使っていた台座の上に詩碑を建てたくない」とがんばったような努力は、形を変えてこのように受け継がれています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月28日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、姪の高村美津枝に葉書を書きました。

 八月廿六日のおてがみ 今日来ました。お庭の作物のこと おもしろくよみました。それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長) 唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、エン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首、)など。

本当かな?という気がしないでもありませんが、まあ、これら全てを同時に作っていたということではないのでしょう。

昨日、千葉県勝浦市にて「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」」を拝見して参りました。

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会場は勝浦市役所近くの勝浦市芸術文化交流センター・キュステさん。音楽ホールなどを備えた施設です。

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千葉市にある千葉県立美術館さんの収蔵品の出張展示ということで、今回は「高村光太郎と房総の海」というテーマに絞っての実施です。

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順路に従って歩くと、まずは「房総の海」。様々な作家が描いた房総の海岸風景、風俗作品が展示されています。驚いたのは、中西利雄の水彩画。中西といえば、その歿後に光太郎が、東京中野に今も残る中西のアトリエを借りて、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を制作しました。中西はアトリエを建てた直後に急逝し、その後、貸しアトリエとなっていたのです。

また、光太郎と同じ明治16年(1883)生まれの川瀬巴水の新版画、晩年を千葉県で過ごした東山魁夷の日本画など、逸品ぞろいでした。

そして光太郎の彫刻。以前にこのブログでご紹介したとおり、全てブロンズで「猪」(明治38年=1905)、「薄命児男児頭部」(同)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「手」(同7年=1918頃)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(昭和27年=1952)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」(同28年=1953)の6点が展示されていました。

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いずれも新しい鋳造ですが、いいものです。入場無料ですし、お近くの方は、ぜひご覧下さい。


行きは当方の住まう香取市から東関東自動車道の宮野木JCTで京葉道に乗り換え、市原から国道297号で南下というルート、いわば内房廻りでしたが、帰りは勝浦から海岸沿いに北上する外房廻りで帰りました。途中、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町に立ち寄るためです。

台風から変わった低気圧の余波で、大雨洪水警報が発令されており、実際、滝のような雨も降る中、愛車を駆りました。右手にちらちら見える九十九里浜の海も、だいぶ時化ていました。その白く荒々しい波濤を見ながら、さまざまな画家達が画題に選んだのもうなずけると思いました。

九十九里町に着いた頃には、雨も小降りとなっていました。国民宿舎サンライズ九十九里さんのかたわらに立つ、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑を見て参りました。年に1、2回はここを訪れますが、何度来てもいいものです。

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昼食はそこからほど近い浜茶屋向島さんで摂りました。注文したのは、自分で食材を焼いて食べる本蛤セット+焼きおにぎり。この店も3度目の来訪ですが、いつもこれです。前回はほぼ1年前、NHK大阪放送局の「歴史秘話ヒストリア」ディレクター氏とのロケハンでした。

焼く前がこちら。蛤が3個、イワシが2尾、ホタテと栄螺が一つずつ。写っていませんが、焼きおにぎりは2個で1人前です。

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そして焼いている最中。香ばしい匂いが食慾をそそります。

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これで2,500円ほどです。「安い!」というわけではありませんが、このボリュームにしてはお手頃でしょう。ちなみに前回はNHKさんの取材費で食べさせていただきました(笑)。


さらに北上して、片貝漁港近くに今年4月にオープンした「海の駅 九十九里」に寄りました。「海の駅」というのは「道の駅」のパクリか? と思っていましたが、意外や意外、すでに全国の海岸140箇所ぐらいに設置されています。

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こちらには「いわし資料館」が併設されています。

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かつてここには「いわし博物館」(入場無料)がありました。そちらの学芸員だった永田征子さんという方は、平成16年(2004)に、博物館で起きた天然ガスの爆発事故で亡くなりました。永田さんという方は、智恵子史跡の保存にも力を入れられていたそうで、そういうことに思いを馳せつつ拝観しました。

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海の駅の2階から見た九十九里浜。雨はほぼやんでいましたが、やはり時化ていました。


さて、明日も九十九里ネタで書かせていただきます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月27日

昭和13年(1938)の今日、詩「或る日の記」を書きました。

   或る日の記000

水墨の横ものを描きをへて
その乾くのを待ちながら立つてみて居る
上高地から見た前穂高の岩の幔幕
墨のにじんだ明神岳岳のピラミツド
作品は時空を滅する
私の顔に天上から霧がふきつけ
私の精神に些かの條件反射のあともない
乾いた唐紙はたちまち風にふかれて
このお化屋敷の板の間に波をうつ
私はそれを巻いて小包につくらうとする
一切の苦難は心にめざめ
一切の悲歎は身うちにかへる
智恵子狂ひて既に六年
生活の試練鬢髪為に白い
私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
そこにあるのは写真であつた
そそり立つ廬山に向つて無言に並ぶ野砲の列

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詩の下の画像が「水墨の横もの」、詩の右側の画像は大正2年(1913)、智恵子と婚前旅行に出かけた上高地で描いた油絵です。

詩は智恵子が歿する直前、昭和13年(1938)の10月に発表された一篇です。この前年には廬溝橋事件が起こり、日中戦争に突入しています。終末の三行はその辺りを指しています。

先週土曜日、九段下の玉川堂さん、新宿の中村屋サロン美術館さんと制覇し、最終目的地、文京区千駄木の区立森鷗外記念館さんに向かいました。

先月からコレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」が始まっており、さらにこの日は、関連行事として東京大学大学院教授の今橋映子氏による講演「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」があったためです。

ただ、最寄りの千駄木駅には早めに着いてしまいました。そこで、団子坂を上り、いったん鷗外記念館前を通り過ぎて、近くのコンビニに。ここは店頭に灰皿が置いてあり、煙草吸いには有り難い配慮です。ちなみに当方、都内のよく歩く範囲では、どこに喫煙所があるか、かなり頭に入っています。シルクロードを旅するキャラバンがオアシスの位置を頭に入れているのと同じです(笑)。

さらに少し行くと、道の右側に瀟洒なマンションが建っています。少し前まではNTTさんのビルだったところですが、こんな案内板が設置されています。

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「「青鞜社」発祥の地」。明治44年(1911)、平塚らいてうを中心に創刊された我が国初の女性だけによる雑誌『青鞜』創刊号―その表紙絵は智恵子の作品―が、ここで編集されました。元々は国文学者・物集高見の屋敷があったところで、物集の娘・和子が青鞜社員だったため、自宅の一室を編集室にしたというわけです。

案内板には光太郎智恵子の名も記され、それを読みつつ、思いを馳せました。

ちなみに光太郎智恵子が暮らしたアトリエ跡や、現在も高村家の方がが住む光雲の旧宅もほど近いのですが、そこまで足をのばす時間もなく、鷗外記念館に戻りました。こちらは元の鷗外邸「観潮楼」のあった場所に建てられています。

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講演会の前に、地下の展示室に。常設の鷗外の展示と、コレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」をじっくり拝見しました。

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鷗外はもちろん、杢太郎も光太郎と縁の深い人物でした。光太郎の方が杢太郎より2歳年長です。

杢太郎は本名・太田正雄。静岡・伊藤の出身です。医学を志し、旧制一高から東京帝国大学に進みましたが、その間、文学に対する熱情も強く、明治40年(1907)頃から鷗外が観潮楼で開いた歌会に参加、明治42年(1909)からは雑誌『スバル』の編集にあたります。この年、欧米留学から帰国した光太郎も『スバル』の主要執筆者の一人となり、二人の交流が始まります。さらに、芸術運動「パンの会」。鎧橋のメイゾン鴻乃巣などで、文学、美術、演劇などに携わる若き芸術家達が酒を飲みながら怪気炎を上げたものですが、光太郎、杢太郎、ともに発起人に名を連ねています。

展示は『スバル』や杢太郎の著書、自筆資料などなど。下に出品目録を載せますが、途中で展示替えがあり、今週から一部変わっているはずです。

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その後、2階の講座室へ。こちらが講演会場です。

講師の今橋映子氏は、比較文化学がご専門。特に明治大正期の日仏両国の文化的なつながりを研究されています。『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があり、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項の第1章が「乖離の様相―高村光太郎」。また、昨秋には明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。

現在、美術史家の岩村透についてのご研究を進められているそうで、数年後には新たなご著書として世に問われるそうです。岩村は、光太郎が在学中、東京美術学校で教鞭を執っており、光太郎に西洋留学を強く勧めた人物です。前任者が鷗外、さらに杢太郎ともつながりがあり、講演では鷗外と杢太郎の関連以外にも、岩村や光太郎にも触れられていて、興味深く拝聴しました。

それにしても、昨日書いた斎藤与里にしてもそうですが、杢太郎も、一般には忘れ去られかけつつある芸術家です。もっともっと光が当てられていいのでは、と思います。

同時に光太郎が「忘れ去られつつある芸術家」とならないよう、もっともっと頑張らねば、と感じました。

以上、3回にわたる都内レポートを終わります。今日は当方の住む千葉県内の、その南端に近い勝浦に行って参ります。勝浦市芸術文化交流センター・キュステさんで開催中の「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」を観て参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月26日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、どら焼きを食べました。

当日の日記の一節です。

曇、少々むしあつし。 朝、抹茶、濱田先生に昨日もら(っ)たドラ焼を甘味とす。

別に、どら焼きを食べるのは不思議でも何でもないのですが、問題はその量です。前日の日記の一節にはこうあります。

学校にて郵便物授受。 濱田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。(略)濱田氏よりドラ焼20数個もらふ。

まさか20数個全部を光太郎一人で食べたとも考えにくいのですが、「おすそ分けをした」的な記述が日記には見あたりません(笑)。

先週土曜日、九段下の玉川堂さんで光太郎短歌の短冊、智恵子の実妹・セキ宛の書簡を拝見した後、九段下から都営新宿線に乗り、次なる目的地、新宿に向かいました。

中村屋サロン美術館さんで開催中の「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」を拝観するのが次の目的でした。

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昨秋、開館の際の記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」、今春の「テーマ展示 柳敬助」に続き、3度目の来訪です。

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斎藤と光太郎の主な接点は以下の通り。明治43年(1910)、光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で個展開催、さらに、大正元年(1912)には、光太郎、斎藤、岸田劉生等が中心となって、アンデパンダンの美術団体「ヒユウザン会」(のちに「フユウザン会」)を結成、といったところです。

それ以前に、斎藤も光太郎もパリ留学経験がありますが、明治41年(1908)、光太郎がロンドンからパリに移るのと同時期に斎藤は帰国。パリでは2人のつながりはなかったようです。その後、光太郎も帰国した明治42年(1909)には、ヒユウザン会展の元になるような会の結成を図る仲間として知り合っています。共通の友人だった碌山荻原守衛が橋渡しをしたと考えられます。斎藤はこの頃、中村屋サロンに出入りしており、もしかするとそこで初めて光太郎と出会ったのかも知れません。

さて、出品目録によれば、40点の斎藤作品が展示されています。

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初期のフォービズムの影響を受けたものから、のちの童画風のものまで、なかなかバリエーション豊富。しかし、一本の筋が通っていると感じました。

大正元年の第一回ヒユウザン会展出品作の「木陰」も展示されており、つい1時間前に玉川堂さんで拝見した書簡がヒユウザン会展がらみのものだったので、不思議な縁を感じました。また、やはり1時間前に拝見した短冊が、斎藤の個展が開催された琅玕洞で販売されていたらしいというところにも。

「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」、来月27日までの開催です。ぜひ足をお運びください。

同展拝観後、同じ中村屋ビルの8階にあるレストラン「Granna」さんで早めの昼食。春に「テーマ展示 柳敬助」を見に行った際には満席&順番待ち行列で断念しましたので、リベンジです。今回は早めに行ったので大丈夫でした。中村屋純印度式カリーのコース3,000円+税のちょっと豪華なランチに舌鼓。その後、次なる目的地、文京区千駄木へ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月25日 

昭和25年(1950)の今日、雑誌『スバル』にアンケート回答「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」を発表しました。

「与謝野寛・与謝野晶子作の短歌中、特に愛誦さるるもの、若しくは御記憶に残れるもの。」という質問に対し、以下のように回答しています。

  大空のちりとはいかがおもふべきあつき涙のながるるものを

先生のこのうたが今頭に出て来ました。
晶子女史のにはむろんたくさんあるのですが今うたの言葉を思ひ出しません。

一昨日は、東京都内に出かけ、3件の用事を済ませて参りました。

最初の目的地は、九段下。創業文政年間(1818~1831)という老舗の書道用品店、玉川堂(ぎょくせんどう)さんでした。

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5月に千葉県流山市で開催された、書家・後閑寅雄(号・恵楓)氏の作品展で、参考出品として、光太郎を含む古今の名筆が並んでいました。その中で、光太郎の短歌が書かれた短冊があったのですが、驚いたことに、書かれていた短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。そこで、後閑氏に、短冊の所有者が玉川堂さんであることをご教示いただき、連絡を取って、拝見しに行って参りました。玉川堂さんでは、売り物としてではなく、名筆のコレクションの一つとして所蔵されているとのことでした。

お店に着き、二階の事務所に通され、早速、拝見しました。お忙しい中、社長さんが直々に対応して下さいました。

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金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかに/かけていろいろ凉かぜ000の吹く」と読めます。画像ではわかりにくいのですが、最後に光太郎がよく使った「光」一時を丸で囲む署名も入っています。

黒地に文字は白、というより銀ですが、これは字の周りを墨で囲んで塗りつぶす「籠書き」という手法です。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。また、短冊でも籠書きのものが遺っています。

右の画像は明治44年(1911)頃に書かれたもので、やはり短歌が書かれています。こちらの短歌は滞米中の作品で、「天そそる家をつくるとをみなより/うまれし子等はけふも石きる」と読みます。

てっぺんには墨絵で石造りの建築が描かれています。玉川堂さんの短冊も、同じ位置に墨絵の風景画が入っており、ほとんど同じ時期のものと推定できます。


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光太郎の籠書きについては、実弟の豊周が書き残しています。

 兄がともかく兄らしい個性のある字を書きはじめたのはヨーロッパから帰ってからで、その頃から以後しばらくの兄の短冊には、よく籠書きというのが、字のへりをとって外側の部分を墨で塗りつぶし、中を、銀短冊なら銀に塗り残す変った書き方が現れて来る。(『光太郎回想』 昭和37年=1962)

また、作家・江口渙の回想にも。

 高村光太郎も……片手に短冊をもちながら、まるで彫刻の刀でも使うようなしかたで、はなはだ丹念に書いている。よく見ると書いているのは普通の字ではない。ちょうちん屋などがよくやるかき方の俗にかご字といわれるものである。まわりを線でほそくかいて中を白ぬきにするあの書体である。……かご字で一とおり歌を書き上げると、こんどは字の外がわを、一そう丹念に墨でぬりはじめた。……やがて出来上がったのを見ると、銀短冊はすっかり黒短冊にかわっていた。そして、はじめにかご字で書かれた歌だけが浮き上がるように銀色に光っていた。(「わが文学半生記」 昭和28年=1953)

まさにこれらの短冊そのままの描写です。ただ、江口の回想は大正中期、新詩社新年歌会での一コマですので、若干、時期がずれています。

ちなみに旧蔵者の方は、明治43年(1910)に光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で購入したとおっしゃっていたそうです。さもありなん、です。


それから、さらに驚いたことに、玉川堂さんではもう1点、光太郎作品をお持ちでした。そちらは短冊ではなく、長い書簡です。

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大正元年(1912)10月14日、智恵子の妹・長沼セキに宛てたものです。封筒もきちんと遺っていました。セキに宛てた光太郎からの書簡は7通が既に知られており、『高村光太郎全集』に収められていますが、こちらは未収録でした。玉川堂さんには『高村光太郎全集』は持って行きませんでしたが、セキ宛の書簡はだいたい頭に入っており、見た瞬間にこれは新発見だ、とわかりました。念のため自宅兼事務所に帰ってから調べてみると、その通りでした。

大正元年(1912)というと、智恵子とはまだ結婚前で、愛を確かめ合った犬吠埼の写生旅行から帰ったのが9月4日、この手紙が書かれた翌10月15日から、斎藤与里、岸田劉生等と興したヒユウザン会(のちフユウザン会)の第一回展が京橋の読売新聞社で開幕します。この手紙にも明日から同展が始まるため、準備に追われていることが記されています。

当会顧問の北川太一先生にもお骨折りいただいて解読中ですが、高村光太郎研究会から来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にて詳細を発表します。


それにしても、短冊といい、書簡といい、関東大震災に太平洋戦争の空襲をくぐり抜け、よくぞ残ってくれたと、感慨深いものがありました。まだまだほうぼうにこうした貴重な資料が眠っていると思われます。それらを見つけ出し、光太郎の全貌を明らかにしていくのが使命と考えております。ご協力いただければ幸いです。

ご協力、といえば、玉川堂さん。貴重な資料を拝見させくださり、公表もOK、さらに展覧会等に貸し出すのもかまわないとおっしゃって下さっています。頭が下がります。

それにひきかえ当方は、手土産に当方の住まう千葉佐原銘菓の最中を持参したのですが、新発見の資料を前に頭に血が上り、お渡しするのを忘れて、いったん玉川堂さんを出てしまいました。九段下の駅まで行って、「しまったあああああ!」と気付き、玉川堂さんまで飛んで帰りました。お店に入ると社長さんが「あれっ」というお顔で「忘れ物ですか?」とおっしゃいます。そこで当方、「そうです、忘れ物です。こいつをお渡しするのを忘れてました」。店員さんにも笑われてしまいました(汗)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月24日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、截金師の西出大三に葉書を書きました。

おてがみ忝くいただきました。貴下も文字を彫つて居られし由、潺湲楼は九月一ぱいかかるでせう。これはむしろ鑿で文字を書くといつたやうな彫り方です。原字には拘泥せずにやります。 今夏は夏まけの気味にて四度高熱を出しましたが、その都度二三日の休養で恢復しました。 旧盆過ぎて稲の穂も垂れはじめ、山にやうやく秋が近づいてきました、

「潺湲楼」は昭和20年(1945)、終戦後に光太郎が一時厄介になっていた花巻町の佐藤隆房医師宅の離れです。「潺湲」は水のせせらぎを表し、眼下に豊沢川の清流を望むことから、光太郎が命名しました。佐藤医師は「潺湲楼」の文字を彫った扁額を光太郎に依頼、この葉書はそれに関わります。

しかし、結局この扁額は完成せず、文字を下書きにした紙が貼られたまま、現在は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。やっつけ仕事をせず、納得いくように出来なければやらない、という光太郎の性格が表れています。

テレビ放映情報です。 

空から日本を見てみよう+ 岩手県花巻温泉~遠野

BSジャパン 2015年8月25日(火)  20時00分~20時55分

北上川沿いで栄えた城下町でもあり全国有数の人気温泉町として名をはせた花巻市から、独自の文化や風習が残る民話の里・遠野市まで空から眺めていきます。

花巻市の南端からスタートし、北上川に沿って花巻市の中心市街地へ。宮沢賢治の生家を越えて、江戸時代に城下町として栄えた町のメインストリートでカニのような建物を発見。そこは連日ランチタイム満員の人気大食堂・マルカン百貨店。花巻駅から温泉街を目指す途中で、幅が狭すぎる電車を発見。かつて温泉街まで走っていた馬面電車と呼ばれ保存されている花巻電鉄の車両を見ていきます。昭和の花巻を再現した小学校跡を通り、鉛温泉へ。昔からの湯治宿の不思議な自動販売機などを見ていきます。さらに花巻温泉では昭和初期に一大レジャーランドとして栄えた姿を偲びます。花巻から民話の里として知られる遠野へ。宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」のヒントにしたといわれるSLが走る橋を見ながら遠野市の中心へ向かいます。遠野物語で紹介されたカッパをはじめ、市内に残る民話にちなんだ場所を見て行きます。さらにこの地域特有の曲がった古民家、曲り家や馬を大切にしてきた生活を垣間見ます。  

出演者  伊武雅刀(くもじい)  柳原可奈子(くもみ)

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光太郎が昭和20年(1945)から足かけ8年を過ごした花巻が扱われます。番組説明によれば、光太郎が何度か訪れた鉛温泉や、太田村の山小屋から鉛温泉大沢温泉などを含む花巻南温泉峡や花巻町に出かける際に利用した花巻西公園に静態保存されている花巻電鉄などが紹介されるようです。


もう1件。 

遠くへ行きたい 阿藤快「世界三大漁場 金華山沖の魚と龍神祭り」石巻~女川

日本テレビ 2015年8月30日(日)  6時30分~7時00分

阿藤快が、夏の南三陸を旅する。石巻漁港で「金華カツオ」の水揚げを見学し「金華丼」を食べる。JR石巻線の真新しい「女川」駅で、駅にある温泉に入浴。女川の仮設商店街「きぼうのかね商店街」で各店舗の軒先に貼られた面白いポスターに見入り、スペインタイルを作る工房でタイル作りを体験する。女川の夏の味覚「ホヤ」の水揚げを見て、獲れたてのホヤを刺し身でいただく。島全体が神域だという金華山で「龍神まつり」を見る。

 まずは仙台と石巻を結ぶJR仙石線の車中から。「石巻」駅で下車し、石巻漁港を訪ねる。ここは金華山沖で獲れる「金華カツオ」が有名だ。阿藤は金華カツオの水揚げを見学し、金華山沖で獲れた魚で作る「金華丼」を食べに「富喜寿司」へ向かう。店主の大場英雄さん(71歳)に話を聞きながら、金華丼をいただく。
  JR石巻線で「女川」駅へ。3月21日に完成した真新しい駅舎には、展望スペースや土産物屋のほか温泉入浴施設「ゆぽっぽ」がある。阿藤はさっそく駅の温泉を体験する。
 次に女川の「きぼうのかね商店街」へ向かう。町中で商売をしていた約50店が集まる仮設の商店街で、八百屋、カレー屋に理髪店、スナックなどが営業している。目を引くのは各店舗の軒先に貼られたポスター。どんぶり屋の軒先に「一杯 食わされた!」、つぶ貝の串焼き店には「ツイッター? やってないけど つぶ焼くよ」などなど。これらは被災地の人々を盛り立てようと、地元の新聞社や大手広告会社が協力し、各店舗に1点以上ある宣伝ポスターなのだ。阿藤は「つぶ焼くよ」のポスターが貼られた「串焼きたろう」で、店主の千葉静郎さん(62歳)につぶ貝を焼いてもらう。
  きぼうのかね商店街の中にある「みなとまちセラミカ工房」は、スペインタイルを作る工房だ。代表の阿部鳴美さん(54歳)が「津波で流された町を鮮やかな色彩のスペインタイルで飾りたい」と思い立ち、スタートさせた。スペイン産の素焼きの陶板の上に、スペイン産釉薬を使って絵付けし、3日かけて焼き上げる。民家のタイル表札のほか、壁飾りや看板として公共施設や集合住宅にも利用されている。工房ではオリジナルタイル作りの体験もできる。阿藤は阿部さんの指導でスペインタイル作りに挑戦する。
  女川の夏の味覚といえば、珍味として知られる「ホヤ」。女川湾では夜明け前から水揚げが行われている。阿藤は漁師の阿部次夫さん(63歳)の船に乗せてもらい、ホヤの水揚げ作業を見学する。生簀から揚げられたホヤは巨大な塊状で、船上で漁師さんたちがすばやくさばいていく。ホヤは傷みが早いため、作業はスピードが勝負だ。作業のあと阿藤は漁師さんたちに混じって獲れたてのホヤを刺し身でいただく。
  さらに女川湾から連絡船で35分のところにある金華山へ。金華山は黄金山神社を中心に、島全体が神域とされている。毎年7月最終の土・日に「龍神まつり」が行われ、長さ20メートルの「龍(蛇)踊り」の奉納が見ものだ。阿藤は多くの参拝客でにぎわう神社で龍踊りの奉納を見守りながら、石巻と女川のいまを見つめた、南三陸の旅を振り返る。

出演 阿藤快

<系列各局放送時間>
日本テレビ (日)6:30 札幌テレビ (日)5:45 青森放送 (金)10:25
ミヤギテレビ (日)6:30 テレビ信州 (日)6:30 北日本放送 (金)15:55
中京テレビ (日)7:00 四国放送 (木)10:55 南海放送 (火)10:25
日本海テレビジョン (土)5:29 広島テレビ (日)7:00 福岡放送 (日)7:00
長崎国際テレビ (土)16:25 鹿児島読売テレビ (日)5:45

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女川光太郎祭会場となっている「きぼうのかね商店街」が取り上げられます。

ポスター云々は、「女川ポスター展」。河北新報社さんの「今できることプロジェクト」と電通関西支社さんの復興支援事業コラボ企画で、インパクトのある面白いポスターを作ることで地域を活性化させようという試みです。

会期は終わっていますが、まだ参加したほとんどの店舗、企業でポスターが貼られています。

女川光太郎祭仕掛人の佐々木釣具店さんのものはこちら。先日、当方が撮影してきたものです。

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さらに女川光太郎祭の折に泊めていただいたステイイン鈴家さんのポスター。

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「空から日本を見てみよう+」、「遠くへ行きたい」、ともに今回は光太郎に直接触れることはないかもしれません(それぞれ以前にはちらっと触れて下さいました。こちらこちら)が、それぞれゆかりの地の様子、現状ということでぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月23日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村から詩集『典型』の装幀原案を発送しました。

編集を担当した詩人、宮崎稔宛の書簡に以下の記述があります。

やつと「典型」装幀原図が決定、出来上りましたので、別封で契約書と一緒にお送りします、 原図については説明してありますからお分りと思ひますが、不明の点はおたづね下さい、

さらに版元の中央公論社の松下英麿に宛てた書簡の一部。

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります、書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です、

10年ほど前に、その原図がひょっこり出てきました。装幀家としても名を成した光太郎だけあって、詳細な指示が書き込まれ、さらにそれを元に出来上がった装幀も非常にいいものです。太田村では彫刻を封印した光太郎ですが、題字の木版は、この時期に彫刻刀を振るった数少ない作品の一つです。

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岐阜県からの情報です。

梅弦ワンマンコンサート

日 時 : 2015年9月5日(土曜日) 午後7時(開場:午後6時30分)
場 所 : 岐阜県関市中池公園内 旧徳山村民家 関市塔ノ洞3855-1
出 演 : 
 梅弦(語り人あきが日本の詩や物語を独特のリズムで読み語り、弦術師aokiが即興でギターを演奏する変則的なスタイルのユニット)
料 金 : 無料
問い合わせ : 関市教育委員会文化課 0575-24-6455

旧徳山村民家にて「読み語りとギターの演奏」を開催します!
梅弦(うめげん)による、ワンマンコンサートです。
本を読むことを忘れ、音を楽しむことを忘れた大人のための読み語りを行います。
しっとりとした秋の夜、古民家でのゆったりとしたひとときをお楽しみください。
読み語りとギターの演奏です。
当日は、智恵子抄などを読み語りします。お楽しみに。

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梅弦さんに関しては、昨年のこのブログにてご紹介した『岐阜新聞』さんの記事にお名前がありました。 

東北と岐阜つながれ 岐阜市でイベント、黙とうも

 2014年03月10日 岐阜新聞
 東日本大震災をきっかけに、人とのつながり、支え合いを大切にしようと企画されたイベント「みんな友達!tunagari fes.2014」が9日、岐阜市金町の金公園で開かれ、大勢の人たちが触れ合いを楽しんだ。
 実行委員会(はやしちさこ代表)が開催し、5回目。手作りのお菓子や手芸品などの約120ブースが並び、家族連れらが出店者との会話を楽しみながら買い求めた。
 ステージイベントもあり、8グループが出演。関市のユニット「梅弦」は、震災で津波に流された松で作ったギターの演奏に合わせ、詩集「智恵子抄」を朗読した。
 地震発生時刻の2時46分には、来場者が黙とうをささげた。

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今度も『智恵子抄』の朗読をなさるとのことで、ありがたいかぎりです。


こうした活動をなさっている皆さん、こちらまでお知らせいただければ、このブログにてご紹介いたします。もっとも、それほど読者も多くなく、あまり宣伝にはならないかもしれませんが(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月22日000

平成元年(1989)の今日、元青森県副知事・横山武夫が歿しました。

横山は、昭和28年(1953)に除幕された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の計画段階からプロジェクトに関わり、青森県と光太郎とのパイプ役を務めました。

右の画像は、除幕式当日の光太郎と横山です。

また、歌人としても数冊の歌集を上梓し、県文化振興会議会長、県歌人懇話会会長、東奥日報社主催県短歌大会選者等を歴任、足跡を残しました。

下記七首は、除幕式当日の『東奥日報』に載った横山の短歌です。像が「乙女の像」という通称で呼ばれるようになる一因を作ったといえる作品群です。

三人(みたり)ありき人知らざりし湖の水の真澄を愛してやまず001
メトロポール山にありとぞカルデラ湖の水のほとりにたてる乙女子

みちのくの土の命をもりあげて乙女の像のたもつ量感

限りなき生の凝視かま裸の乙女子があひ向かひたつ

湖の水よなに呼ぶ指触れてたつ乙女子のもてる幸福(さひはひ)

みちみてる乙女の裸像目の前にわれは厳かの極みとぞなす

ここに遠き過去と未来をひとつにす水に匂ひて乙女たちつつ

また、昭和44年(1969)に刊行された横山の随想集『わが心の人々』には、光太郎に関する長い回想が含まれ、乙女の像の制作過程を知る上で貴重な記録となっています。

東京から書道関連の学会情報です。 

国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」

日 時 : 2015年9月12日(土)10:30~17:00
会 場 : 筑波大学東京キャンパス文京校舎134講義室(文京区大塚3-29-1)
主 催 : 「書の資料学」実行委員会
共 催 : 筑波大学
参加費 : 無料 どなたでもご参加いただけます。参加をご希望の方は、事前に住所・氏名・電話番号(またはEメールアドレス)をFAX 029-853-2715へご連絡ください。

プログラム
受付 10:00~ 
開会挨拶 10:30~10:35

第1部 研究発表 10:35~12:05
明末における書体論の諸相 尾川明穂(安田女子大学助教)
松花堂昭乗筆『詠歌大概』(国文学研究資料館蔵)所収秀歌撰について 山口恭子(都留文科大学非常勤講師)
清代書法指南書の受容と展開  髙橋佑太(相模女子大学非常勤講師)

第2部 基調講演 13:00~15:00
『石渠宝笈三編』に見る碑帖と碑学の関係についての初探 何炎泉(国立故宮博物院書画処副研究員兼科長)
書は人を以て伝う―趙孟頫書「絶交書」の考察 陳建志(国立故宮博物院書画処助理研究員)

第3部 討議 15:15~17:00
司会 菅野智明(筑波大学教授)
登壇者 何炎泉 陳建志 家入博徳 矢野千載
登壇者提言
日本書論にみる中国書論の受容 家入博徳(國學院大学兼任講師)
高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について 矢野千載(盛岡大学教授)
           
お問い合わせ:〒305-8574つくば市天王台1-1-1 筑波大学芸術系 菅野研究室 TEL/FAX:029-853-2715


日中両国の研究者による書に関する研究発表、討議です。上記のとおり、盛岡大学の矢野千載(やのせんざい)教授による討議の提言「「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」があります。

宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑は、岩手花巻の羅須知人協会跡地に昭和11年(1936)に建てられました。光太郎が遺族の依頼で、「雨ニモマケズ」の後半部分を揮毫したものが刻まれている碑です。

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この碑、それから作品としての「雨ニモマケズ」にはいろいろな問題があります。まず、賢治が手帳に記した段階で、「ヒドリノトキハ」と書いた部分が、現在では(というか、かなり早い時期から)「ヒデリノトキハ」となって流布している点、花巻の詩碑も、賢治の手帳通りではなく、後に光太郎が誤りに気付き、追刻がなされている点などです(それでもまだ手帳通りになっていません)。

「ヒドリ/ヒデリ」については、光太郎を改変の戦犯扱いする説がありますが、誤りです。

詩碑の追刻の件については、以前にこのブログで、昭和31年(1956)、光太郎歿後すぐ刊行された佐藤勝治著『山荘の高村光太郎』の記述を引用し、紹介しました。

また、昭和18年(1943)には、啄木研究家の川並秀雄に、次の書簡を送っています。

 拝復、おてがみありがたく拝読いたしました、これまで其について質問をうけた事がないので、宮澤賢治詩碑碑面の不審がそのままになつてゐました、貴下によつて事情が明瞭になる事をよろこびます、
 宮澤賢治さんのあの手帖は以前に草野心平君から示されて、その時「雨にもまけず」の鉛筆がきをよみ、感動いたしましたが、手帖はやがて国元へかへり、字句は忘れてゐました、
 その後国元の令弟宮澤清六さんから碑詩揮毫の事をたのまれ、同時に清六さんが写し取つた詩句の原稿をうけとりました、小生はその写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫いたした次第であります、
 さて後に拓本を見ると、あの詩の印刷されたものにある、「松の」がぬけてゐたり、其他の相違を発見いたし、もう一度写しの原稿をみると、その原稿には小生のバウがボウであり、小生のサウがソウであつた事を又発見しました、
 つまり清六さんが書写の際書き違つた上に、小生が又自分の平常の書きくせで、知らずにかな遣いを書き違へてゐた事になります、甚だ疎漏であつた事を知りましたが、既に彫刻の出来てしまつたあとの事でありましたため、そのままにいたしました、
 碑面の不審は右のやうな当時の事情で起つた次第、よろしく御解明なし置き下さらば、由来がはつきりして今後の研究者の無駄な考慮や疑問がはぶかれる事となりませう、その点をよろこびます、
 貴下の細心な研究精神をまことにありがたき事と存じ、早速右御返事まで申上げました、
                                                                  艸々
  昭和十八年七月十四                    高村光太郎
 川並秀雄様 侍史

これを読むと、『山荘の高村光太郎』の記述ともまた異なり(『山荘の……』では、戦後になって初めて碑文が誤っていることに気付いたように書かれています)、さらに他の人物の回想ではまた違ったニュアンスのエピソードも紹介されていたりします。

今回の矢野氏の「提言」では、こういった話に触れられるのではないかと思われます。

興味のある方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月21日

昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村に初めて足を踏み入れました。

当日の日記から。

晴、暑  太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。信一郎、清一郎君落合ふ。二ツ関下車徒歩五十分。午後勝治君の案内にて地所検分、選定。部落会長宅に挨拶にゆく。小屋を勝治氏に一任。五時十二分二ツ関よりかへる。

8月10日の花巻空襲で、疎開していた宮澤家を焼け出された光太郎、旧制花巻中学校長・佐藤昌の家に厄介になっていました。終戦の2日前、山口分教場の教師だった佐藤勝治に勧められ、太田村移住を計画、この日の下見になったわけです。太田村に住み始めたのは10月17日のことでした。

昨年の東京三井記念美術館さんから始まり、これまで静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さん、富山県水墨美術館さんを巡回した展覧会が、岐阜で開催されます。
 
全国巡回6館目の開催となりますが、とりあえずこれで終了のようです。

超絶技巧! 明治工芸の粋

場  所 : 岐阜県現代陶芸美術館 岐阜県多治見市東町4-2-5
期  間 : 2015/09/12~2015/12/06休催日月曜日(休日の場合は翌平日)
時  間 : 10:00~18:00(入館は17:30まで)
料  金 : 一般800円、大学生600円、高校生以下無料
主  催 : 岐阜県現代陶芸美術館

近年、メディアでも取り上げられ注目を集める明治の工芸は、激動の時代に花開き、精緻きわまりない超絶技巧で私たちを魅了します。しかしその多くは当時輸出用として制作されていたため、海外で高い評価を得ながら、日本国内においては全貌を目にする機会がこれまでほとんどありませんでした。
忘れかけた明治工芸の魅力を伝えるべく、今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが村田理如氏です。本展では村田氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品から選りすぐりの逸品を一堂に公開します。
並河靖之らの七宝、正阿弥勝義らの金工、柴田是真・白山松哉らの漆工、旭玉山・安藤緑山らの牙彫、そして薩摩、印籠、刀装具、自在に刺繍絵画。多彩なジャンルにわたる約一六〇点の優品を通して、明治の匠たちが魂を込めた精密で華麗な明治工芸の粋をお楽しみください。

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【関連企画】
1、特別ギャラリートーク  2015年9月12日(土)10:30~11:30
本展作品所蔵者・村田理如氏(清水三年坂美術館館長)により、作品のみどころをお話しいただきます。

2、トークイベント「明治工芸の魅力を語る」 2015年10月31日(土)14:00~15:30 (セラミックパークMINO 国際会議場)
本展監修者・山下裕二氏(明治学院大学教授)と本展チラシでイラストを手掛ける気鋭の現代美術家・山口晃氏による記念対談。 
定員300名(先着順・要事前申込)、参加費無料。
※9月1日(火)10:00より、お電話(0572-28-3100)にてお申込みください。

3、ギャラリートーク
毎週日曜日13:30より当館学芸員によるギャラリートークを行います。会期中の催しにより、変更される場合があります。当館ホームページなどでご確認ください。

その他、会期中、美術館では様々な催しを予定しています。内容や日程、申込方法などの詳細は当館ホームページにてご案内します。


これまでの各会場とと同じく、光雲の木彫「西王母」「法師狸」が並ぶはずです。

他にも七宝、金工、自在置物、薩摩焼、象牙彫刻、漆工、刀装具などの逸品ぞろいです。お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月20日000

昭和16年(1941)の今日、アトリヱ社から『ミケランヂエロ彫刻集』が刊行されました。

光太郎が序文「ミケランヂエロの彫刻写真に題す」を執筆しました。

ちなみに全く同じ昭和16年(1941)8月20日には、龍星閣から詩集『智恵子抄』、道統社から評論集『美について』が刊行されました。

『智恵子抄』と『美について』が同じ日の刊行ということには気づいていましたが、この『ミケランヂエロ彫刻集』も同じ日だったとは、改めて知りました。

愛知から舞台の情報です。 

智恵子抄~故郷 福島への想い

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内 容 : 智恵子抄~故郷 福島への想い~ Part1  あわい 愛~
      智恵子抄~故郷 福島への想い~ Part2 あわい 淡~
開催日
 : Part1 2015年9月2日(水)  Part2 2015年10月5日(月)
会 場 : メニコンANNEX 愛知県名古屋市中区葵三丁目21番19号
時 間 : <両日ともに> 19:00 開演 (18:30 開場)
入場料 : 各日 全自由席 ¥2,000  お支払いは当日受付にてお願いします。
 ※うち¥100円は一般社団法人aichikaraへ寄付させていただきます。一般社団法人aichikara →http://www.step-aichikara.com/
  福島の子どもたちへの支援を中心に、愛知県の学生が主体となって活動している名古屋の団体。毎年リフレッシュキャンプを開催し、福島の子供たちを愛知県へ招いています。
主 催 : カラダのアトリエ マナマナ
協 賛 :  (株)メニコン


お問い合わせ
◆沼田眞由み Tel 080-4426-0770 (カラダのアトリエ マナマナ)
◆ANNEX事務局 TEL 052-935-0918(受付時間平日9:30~18:30)FAX 052-935-3877 Email 
info@menicon-net.co.jp
 
出 演 者 :
 ☆Part1 ~あわい 愛~
  高村光太郎 高宮直秀
  高村智恵子 沼田眞由み(カダラのアトリエ マナマナ) 
  ピアノ 堀内悠馬      朗読 のざきのりこ
 ☆Part2 ~あわい 淡~
  高村光太郎 榊原忠美(劇団クセックACT

  高村智恵子 沼田眞由み(カダラのアトリエ マナマナ)
  ピアノ 堀内悠馬 朗読 のざきのりこ

定員 各日とも 80名

 智恵子抄の真実 〜夫 光太郎への愛〜 〜故郷 福島への想い〜 〜断ち難い 芸術の魂〜 智恵子抄の真実がコンテンポラリーダンスで今、蘇る・・・
 「智恵子抄」から、誰もがよく知る詩の朗読とともに、ダンスで光太郎と智恵子の故郷福島への想いを伝えます。
 衣裳や舞台で使われるいるものは、ダンサーが福島各地で手にして集めたものです。智恵子抄の朗読、ダンス、衣裳やホールを使った映像もお楽しみいただけます。

お申込み
以下リンクより、お申込みください。
http://form1.fc2.com/form/?id=2e247b5214d0ff5b
9月2日、10日5日の両日のお申込み可能です。それぞれ、日付を選びご入力ください。
※入場料は当日お支払いをお願いいたします。


舞踊系の舞台のようです。

9月2日(水)、10月5日(月)と2回に分けての公演。それぞれ「Part1  あわい 愛」、「Part2 あわい 淡」と異なるサブタイトルになっていますので、同一の内容ではないのでは、と思います。

調べてみましたところ、両日共に智恵子役の沼田眞由みさんという方は、福島郡山ご出身だそうです。


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お近くの方、ぜひどうぞ。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月19日

平成17年(2005)の今日、雑誌『アニメーションRE』創刊号が発行されました。

付録のDVDに、声優の能登麻美子さんによる、『智恵子抄』巻末近くの光太郎詩「亡き人に」の朗読が収められています。

能登さんは、声優のお仕事以外にも、朗読系にも力を入れていらっしゃいまして、ラジオ文化放送系で「能登麻美子のおはなしNOTE」(月曜深夜=火曜未明、再放送・火曜昼間)という朗読番組を担当されています。こちらの番組では光太郎の詩「道程」や散文「珈琲店より」も取り上げて下さいました。

それぞれ素晴らしい朗読です。

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福島からイベント情報です。 

第46回 日本看護学会-慢性期看護-学術集会

テ ー  マ : ほんとうの空のもとで看護を紡ぐ~生きる 支える つながる~
開催期日 
 2015年9月2日(水曜日)・3日(木曜日)
会  場 : ビッグパレットふくしま(福島県・郡山市)
主  催 : 公益社団法人 日本看護協会
主な演題内容 :
  小児から高齢者における慢性の経過をたどる患者(児)と家族に関する看護研究 
 慢性期看護における看護技術・用具、生活習慣の改善、自己管理への援助、長期療養者(児)の看護、障がい者(児)の看護、認知症を伴う者の看護、がん看護、緩和ケア、リハビリテーション看護、障害受容、慢性疾患患者(児)の家族への支援、慢性疾患患者(児)のケア提供システム、退院支援・調整、外来看護、継続看護、介護施設における看護 など

あいさつ 
   慢性期看護学術集会を、ここ福島県郡山市で開催することになりました。福島県は春に観光特別企画『福が満開、福のしま』を開催し、多くの方々においでいただきました。第46回日本看護学会-慢性期看護-学術集会も全国より多くの看護職の方々に、ご参加いただき誠にありがとうございます。東日本大震災と原子力発電所の事故から4年が経過しました。復興への道のりは多くの課題がありますが、このように全国からおいでいただくことは何よりのご支援をいただいていることと皆様方に感謝いたします。
 さて、超高齢社会になり、病を抱えながら暮らしや仕事をする人々が増えています。さらに社会保障制度の改革から地域包括ケアシステムの構築が進められ、医療の姿、地域の姿が変わろうとしています。慢性の経過を辿る方々が、「生き続ける」ことや「生き切る」ことに対し、支援していくことが慢性期の看護の使命であると考えます。
 福島県は詩人高村光太郎が詩集『智恵子抄』で『安達太良山の上に出ている空がほんとうの空』と歌っていることや東洋一の絹の織物産業が伝統として守られ発展している所です。今回の学術集会は、『ほんとうの空のもとで看護を紡ぐ~生きる 支える つながる~』がメインテーマです。生活者の視点で看護を考え、看護が人々を支える、さらに保健・医療・福祉が、縦糸と横糸で織物が出来上がるように連携し合う時代をイメージいたしました。
(略)
 特別講演では福島県立医科大学放射線健康観理学講座、放射線災害医療センター助手宮崎真様に『福島第一原子力発電所事故の慢性期に必要な放射線知識と健康問題の現状』についてご講演いただき、放射線問題についてご示唆をいただきます。
(略)
 今回の学術集会で多くの発表をもとに、研究成果が共有され、看護の智慧になることを願っています。
(第46回 日本看護学会-慢性期看護-学術集会会長 高橋京子)

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というわけで、看護を業とする皆さんの学術集会です。原発事故に絡む内容も含まれ、復興の合い言葉の一つとなっている「ほんとの空」(「ほんとうの空」とも)が使われています。

基本的には一般の方は対象外ですが、初日(9/2)の午后に開催される特別講演のみ、一般公開されます。


第46回日本看護学会-慢性期看護-学術集会 一般公開講座のお知らせ

標記学術集会では、地域の皆様に看護への理解を深めていただけるよう、学術集会のプログラムの一部を一般公開しています。内容、参加方法は以下の通りです。多くの皆様にご参加いただきますようご案内申し上げます。
公開講座名特別講演Ⅰ<一般公開>  福島第一原子力発電所事故の慢性期に必要な放射線知識と健康問題の現状
開催日時    平成27年9月2日(水)13:00~14:30
場  所       ビッグパレットふくしま第1会場多目的ホールC
講  師       宮崎真氏(福島県立医科大学放射線災害医療センター助手)
講座の内容 
 東日本大震災により、津波の被害のみならず、福島県では原子力発電所事故に伴う放射能飛散による問題が加わりました。目に見えない放射線という存在、長期にわたる低線量被ばくへの不安を抱え、さらに大規模な避難が続くという問題にどう取り組んだら良いのか、現状を学び、今後のあり方を考えます。
定 員  数    100人
受付方法
  事前に福島県看護協会にファックスまたはEmailで氏名、住所、電話番号、ファックス番号(ファックスで申込みの場合)をご記入の上お申し込みください。
7月1日から7月31日まで先着順で受付けます。折り返し、参加受付の案内を送付いたします。
公益社団法人福島県看護協会 担当者名:遠藤、佐藤
電話:024-934-0512 FAX :024-991-5560 Email:gakkai@fna.or.jp

しかし、申し込み受付期間を過ぎています。すみません。ただ、まだ定員に達していない可能性もなきにしもあらずですので、お問い合わせ下さい。


こうした取り組みが行われている一方で、大規模噴火が懸念され、警戒レベルが4に引き上げられた桜島にも遠くない、川内原発が再稼働しました。鹿児島が第二の福島にならないよう、祈るばかりです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月18日

平成2年(1990)の今日、埼玉県立美近代術館で、企画展「近代洋画の旗手 斎藤与里とその時代」展が開幕しました。

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光太郎らとともに反アカデミズムの美術団体・フユウザン会を作った斎藤与里の故郷、埼玉での開催。中村屋さん所蔵の光太郎の油絵「自画像」も出品されました。

斎藤与里がメインの企画展は、現在、新宿の中村屋サロン美術館さんで開催中です。当方、今週末に行って参ります。

神奈川県平塚市美術館さんで開催中の企画展です。 

生誕100年記念 写真家 濱谷浩展

期 日 : 2015 年7 月18 日(土) ~ 9月6 日(日)
会 場 : 平塚市美術館
  : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)

       ※9 /1(火)以降9:30 ~ 17:00( 入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
 
 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
        ※( ) 内は20 名以上の団体料金
        ※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
        ※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
        ※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
  : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
特別協力
 : 濱谷浩写真資料館

 このたび平塚市美術館では世界的に著名な写真家濱谷浩の生誕100 年を記念した展覧会を開催します。
 濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
 その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
 人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
 本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。

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濱谷浩(はまや ひろし)は大正4年(1915)生まれの写真家。日本の風土に生きる人々を撮り続け、特に「裏日本」を題材にした写真が有名です。また、肖像写真も多く手がけ、昭和58年(1983)には、光太郎を含む学者、芸術家100名ほどのポートレートをまとめた『學藝諸家』という写真集を出版しています。

昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に、濱谷による光太郎が暮らす山小屋訪問記「孤独に生きる 高村光太郎氏を岩手県太田村に訪ねて」が掲載されました。ちなみに表紙は木村伊兵衛撮影のヴァイオリニスト・諏訪根自子です。

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グラビアとして写真が8葉、長文の訪問記も、光太郎書簡や贈られた短歌などを引きつつ、興味深い内容です。写真はどれも、厳しい山居生活の側面を写し取り、すばらしいものです。上記の手の肖像は、肥後守の小刀で、鰹節を削る光太郎の手です。想像ですが、何か彫っているところを撮りたい、という濱谷のリクエストに、戦時の反省から彫刻封印の厳罰を自らに科していた光太郎が、彫刻刀で木を彫るところではなく、小刀で鰹節を削る様子を撮らせたのではないかと思います。

さて、ここに収められた写真が、平塚市美術館さんの「生誕100年記念 写真家 濱谷浩展」にも並んでいるとのこと。情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。濱谷は晩年は平塚に住んでいたとのことで、平塚市美術館さんでの開催です。


ちなみに、疎開などでやはり濱谷と縁の深い新潟・長岡市の新潟県立近代美術館さんでも、「生誕100年 写真家・濱谷浩」展を開催中です。ただ、こちらは光太郎の肖像写真が展示されているかどうか不明です。情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月17日

昭和40年(1965)の今日、詩人の高見順が歿しました。

高見は明治40年(1907)の生まれ。自分よりはるかに若い詩人たちをかわいがった光太郎に気に入られ、昭和25年(1950)に刊行された高見の詩集『樹木派』の題字を揮毫したり、最晩年の昭和30年(1955)には雑誌『文芸』のため、高見との対談「わが生涯」を行ったりしています。

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詩集『樹木派』の題字は、現在も公益財団法人高見順文学振興会さんの会報に使われているそうです。

昨日は終戦記念日でした。戦後70年ということもあり、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。この国が二度と戦争に荷担することの無いようにするためにも。

さて、それに伴い、光太郎の名も新聞各紙に引用されています。少し前には仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さんで「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事を載せて下さいました。

また、『毎日新聞』さんには、8月13日に以下の記事が載りました。

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「銃後のくらし:戦後70年/4 婦人標準服 「興亜の精神」美しさ消え」という記事です。長いので全文は引用しませんが、戦時中の物資欠乏を受け考案された「婦人標準服」について書かれています。

和服は非常時に動きにくいし、贅沢。洋服も「米英の模倣」と敵視され、そこで考え出されたのが和服でもなく洋服でもない「婦人標準服」。布地の節約のため、着物を仕立て直した洋服タイプの「甲型」、和服タイプの「乙型」、もんぺ・スラックスの「活動衣」の3種類が推奨されたそうですが、このうちの「甲型」の評判はさんざんだったそうです。曰く「「洋服と和服のちゃんぽんで、格好悪かった。両方の美しさを消す服だった」。着物専門学校「清水学園」(東京都渋谷区)理事長の清水ときさん(91)は眉をひそめた。」。

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記事ではここで光太郎に言及されます。

彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)は「家庭週報」(43年6月)への寄稿で、「新しい美を此(こ)の服式から創出し得る」とし、標準服を持ち上げている。

調べてみると、「服飾について」という散文でした。問題の箇所は以下の通り。

 一切の美の根源は「必要」にある。いかなるものが美かと考へる前に、いかなるものが必要かと考へる方が早いし確実である。今日の戦時生活にはモンペ短袖は必要である。それ故モンペ短袖は必ず美であり得る。昨日の美を標準とする眼を新にすれば、目がさめたやうに新しい美を創り出すことができる。又平常服としての女子標準服も資材の節約上必要である。それ故此の標準服も美であり得る。強い魅力を持つ新しい美を此の服式の範疇から創出し得る。

こういう部分でもプロパガンダとして光太郎が期待された役割、果たした役割は大きかったと思います。しかし「創出し得る」ということは「まだ創出されていない」ということではありますが、それにしても上記の画像を見て、ここから「美」が創出できるとは思えませんが……。


もう1件、『毎日新聞』さんでは今日の読書面に光太郎がらみの記事が載りました。文芸評論家の加藤典洋氏による「今週の本棚・この3冊:終戦」の中に、吉本隆明の『高村光太郎』が紹介されています。  

今週の本棚・この3冊:終戦 加藤典洋・選

<1>太宰治全集8(太宰治著/ちくま文庫/1188円)
<2>高村光太郎(吉本隆明著/講談社文芸文庫/品切れ)
<3>戦時期日本の精神史 1931〜1945年(鶴見俊輔著/岩波現代文庫/1274円)
 終戦、またの名を敗戦。それは戦争の終わりであり、同時に、戦後のはじまりでもある。

 終戦前後を描く白眉(はくび)の短編は、<1>所収の「薄明」だ。空襲で甲府まで逃げる途中、幼い娘が眼病で目が見えなくなる。そして数日。猛烈な空襲の後、ようやく、娘の目があく。小説家の父親が家の焼け跡を見せに連れていく。「ね、お家が焼けちゃったろう?」「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している、と小説家は書いている。私には、これが八月一五日をはさんで、一時的に失明した女の子が、戦後のはじまりに回復し、ほほえむ小説として読めた。『敗戦後論』に引いたが、もっとも美しい「戦争の終わり」と「戦後のはじまり」を描く短編だと今も考えている。<1>全体は太宰治の敗戦直後の作品を集めた一冊。収録の短編はどれもこれもすばらしい。

 戦後、誰もが戦時中に間違わないで正しい振る舞いをした人について書いたとき、例外的に間違いに間違った人を取りあげ、なぜこの人を自分は信じるに足る人として読み続けたのかと、自分の誤りをみつめて書いたのが<2>。そのなかの章「敗戦期」で、著者吉本隆明は敗戦直後、尊敬する高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にするのを見て、その立ち直りの早さに、はじめて違和感をおぼえた、と書いている。それが彼のただひとりで歩む戦後の起点となる。吉本は、自分は皇国少年で、間違った、と述べ、戦後そのことを足場に考えた絶対的少数派だった。

 <3>は戦時期の日本について、戦後のことを何一つ知らない外国の学生に英語で講義したものを、著者がその後、日本語で口述してなった。戦争と日本人についてもっともコンパクトな見取り図がえられる。その一章「戦争の終り」では、終戦の日の天皇の玉音放送を聞く日本人に対する当時軽井沢に軟禁されていたフランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランの観察が取りあげられている。放送が終わると、人びとは感情を押し殺すように押し黙り、姿を隠した。ギランを驚かせたのは、これまで降伏よりは死を選ぶ覚悟をもっていた日本人が、「いまや天皇とともに回れ右をし」、「翌日から」、自分やほかの白人たちに「明るい笑みを見せて挨拶(あいさつ)したこと」だった。

 私は、この鶴見俊輔の講義をカナダで贋(にせ)学生として聞いた。戦後七〇年もたてば無理もないが、みんな退場する。そしてコトバが残る


講談社現代文庫版の単行書『高村光太郎』として取り上げられていますが、昨年刊行された『吉本隆明全集5[1957‐1959]』に件の論考が収められています。

高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にする」は、昭和20年(1945)、終戦の2日後に発表された詩「一億の号泣」に典拠します。詩の終末部分の「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす/真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」です。

戦時の光太郎の詩文を注意深く読むと、「鋼鉄の武器」で鬼畜米英を殲滅せよ、というようなジェノサイド的発言はほとんどなく、「精神の武器」で闘おう、といった内容が多く見られます。そういう意味では吉本の指摘のように、敗戦直後に突如としてそういう方向に行ったわけではありません。しかし、当時、全ての光太郎詩文をチェックしていたわけでもない吉本にとってこの発言は違和感を覚えるものだったのでしょう。

リアルタイムを生きた吉本の論考、この際に改めて読み解くべきかと思います。

「一億の号泣」については、70年前にそれが掲載された『岩手日報』さんでも、昨日の一面コラムにて取り上げて下さいました。

風土計 2015.8.15

「綸言(りんげん)一たび出でて一億号泣す。/昭和二十年八月十五日正午、」という書き出しの詩が1945年8月17日付の本紙に載った▼作者は、花巻に疎開していた高村光太郎。玉音放送を聞くために神社に出掛け、天皇の声に接した。国防色の粗末な服を身にまとい、両手を畳の上について聞き終わった後は、無言で静かに立ったという。失意の姿が目に浮かぶ▼太平洋戦争開戦を詠んだ作品もある。「記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史あらたまる。/アングロ・サクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。」と始まる。戦争の大義を信じて高揚した思いが伝わる▼光太郎には他にも戦争をうたった詩が数々ある。鼓舞するような内容だ。そんな姿勢に対して戦後、批判が相次いだ。本人は山小屋で独居自炊の生活を送りながら、戦争に協力したことと向き合ったという▼自己責任を問うことを避けた文学者は多くいる。そんな中、戦時中の言動を批判されても「自己を弁護するようなことはせず、正面からそれを受け止めた」(岡田年正著「大東亜戦争と高村光太郎」)姿勢は、評価されていいのではないか▼8月15日の敗戦の日は言論界に深く刻印された。もちろんジャーナリズムにおいても。反省を踏まえて新たに出発した日の決意を忘れてはなるまい。


やはりリアルタイムを生きた光太郎の詩文も、この際に改めて読み解くべきかと思います。

最初にも書きましたが、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。ただ、散見されるのですが、それを美化につなげようとしたり、一種の「戦後70年ブーム」に乗り遅れまいと、とんちんかんな引用をしたお粗末な作りだったりでは困るのですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩「蒋先生に慙謝す」の執筆に取り組みました。

当日の日記の一節です。

午后詩「蒋先生に慙謝す」書きかける。

「蒋先生」は蒋介石。その激しい抗日思想に対し、戦時中の昭和17年(1942)には「沈思せよ蒋先生」という詩を書いた光太郎。戦後になって、それと対を為す詩篇として作りました。しかし、なかなか書き上がらず、結局、完成したのは9月30日でした。

    蒋先生に慙謝す
000
わたくしは曾て先生に一詩を献じた。
真珠湾の日から程ないころ、
平和をはやく取りもどす為には
先生のねばり強い抗日思想が
厳のやうに道をふさいでゐたからだ。
愚かなわたくしは気づかなかつた。
先生の抗日思想の源が
日本の侵略そのものにあるといふことに。
気づかなかつたとも言へないが、
国内に満ちる驕慢の気に
わたくしまでが眼を掩はれ、
満州国の傀儡をいつしらず
心に狎れて是認してゐた。
人口上の自然現象と見るやうな
勝手な見方に麻痺してゐた。

天皇の名に於いて
強引に軍が始めた東亜経営の夢は
つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、
あらゆる文化をふみにじり、
さうしてまことに当然ながら
国力つきて破れ果てた。
侵略軍はみじめに引揚げ、
国内は人心すさんで倫理を失ひ、
民族の野蛮性を世界の前にさらけ出した。
先生の国の内ではたらいた
わが同胞の暴虐むざんな行動を
仔細に知つて驚きあきれ、
わたくしは言葉も無いほど慙ぢおそれた。
日本降伏のあした、
天下に暴を戒められた先生に
面の向けやうもないのである。

わたくしの暗愚は測り知られず、
せまい国内の伝統の力に
盲目の信をかけるのみか、
ただ小児のやうに一を守つて、
心理を索める人類の深い悩みを顧みず、
世界に渦まく思想の轟音にも耳を蒙(つつ)んだ。
事理の究極を押へてゆるがぬ
先生の根づよい自信を洞察せず、
言をほしいままにして詩を献じた。
今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。
けちな善意は大局に及ばず、
せまい直言は喜劇に類した。
わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、
自分の醜を天日の下に曝すほかない。


先頃発表された、主語のない「談話」などよりも、ぐっと来るものがありますね。

昨日、宮城県石巻圏の地方紙『石巻かほく』さんで、先日の第24回女川光太郎祭について報じて下さいました。

女川でしのぶ会 光太郎と戦争協力詩、文芸評論家・北川氏語る

 三陸紀行で女川町を訪れた詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第24回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、同町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」であった。

 文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長が、光太郎の作品や妻智恵子へ抱いた思いについて講演。

 戦争協力の詩文を作った過ちを敗戦後に探ろうと記した、連作詩「暗愚小伝」に関しては、「光太郎は何と愚かなことをしたのかと顧みている。遺書のような詩である」と述べた。

 参加者は、光太郎が女川を訪れた際に残した紀行文や、女川を題材にした「よしきり鮫(ざめ)」などの詩を朗読し、当時の情景に思いをはせた。

 祭りは光太郎が1931年8月9日、三陸への旅に出発した日付にちなみ、92年に初めて開催された。

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記事にある「暗愚小伝」は、昭和22年(1947)、花巻郊外太田村の山小屋で一人蟄居生活を送りながら、それまでの自らの来し方を20篇の詩に綴った連作詩です。それを書いた最大の目的は、やはり自らの戦争帰任の省察です。

帝室技芸員に任ぜられ、御前彫刻を拝命した光雲の皇国史観の支配する家庭で育った幼少時、この国の卑小さに絶望した青年期、それと交流を絶って、芸術三昧の日々を送った智恵子との生活。そして智恵子を亡くし、どうしようもない虚脱感に捕らわれた自己。

私は精根をつかひ果し、
がらんどうな月日の流の中に、000
死んだ智恵子をうつつに求めた。
(略)
私はひとりアトリエにゐて、
裏打の無い唐紙のやうに
いつ破れるか知れない気がした。
いつでもからだのどこかにほら穴があり、
精神のバランスに無理があつた。
私は斗酒なほ辞せずであるが、
空虚をうづめる酒はない。
妙にふらふら巷をあるき、
乞はれるままに本を編んだり、
変な方角の詩を書いたり、
アメリカ屋のトンカツを発見したり、
十銭の甘らつきようをかじつたり、
隠亡(おんぼ)と遊んだりした
(「おそろしい空虚」より)

そして智恵子を狂わせ、死に至らしめたのは、社会との交流を絶った生活だったとし、その反省から、一転して積極的に世の中に関わろうとします。その世の中がどんどん戦時へと突き進んでいく時期だったのが、大きな悲劇でした。

智恵子と私とただ二人で001
人に知られぬ生活を戦ひつつ
都会のまんなかに蟄居した。
二人で築いた夢のかずかずは
みんな内の世界のものばかり。
検討するのも内部生命
蓄積するのも内部財宝。
(「蟄居」より)

協力会議といふものができて
民意を上通するといふ。
かねて尊敬してゐた人が来て
或夜国情の非をつぶさに語り、
私に委員になれといふ、
だしぬけを驚いてゐる世代でない。
民意が上通できるなら、
上通したいことは山ほどある。
結局私は委員になつた。
(「協力会議」より)

軍部や大政翼賛会は、光太郎の文才や社会的影響力をいいように利用します。光太郎自身も、人心を荒廃から救うため、積極的にプロパガンダに没入していきます。

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキに かけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。003
ただこの一語が
私の一切を決定した。
(略)
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。
(「真珠湾の日」より)


しかし、そうして書いた大量の空虚な翼賛詩篇を読んで、多くの前途有為な若者が散華していきました。



構想段階では、「暗愚小伝には」次の断片が入っていました。


  わが詩をよみて人死に就けり007

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


そして「終戦」。


   終戦009

すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、

人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も014
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


「暗愚小伝」最後を飾るのはは「山林」という詩です。文字通り、花巻郊外太田村の山林における現在の自分の心境です。こんな一節があります。

おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の非難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。

光太郎は公的には戦犯として断罪されることはありませんでした。しかし、自らの罪は自ら罰する、というわけで、7年間にわたる不自由な山小屋暮らし、さらに彫刻封印という厳罰を科したのです。


「何と愚かなことをしたのかと顧みている。遺書のような詩である」という、当会顧問・北川太一先生のお言葉がうなずけます。
015
今日は70回目の終戦記念日。直接、戦争を知る方々は次第に減り、その負の記憶はどんどん薄れています。あまっさえ、それを美化し、もう一度この国をおかしな方向へ持って行こうとする動きも顕著です。こうした時代にこそ、光太郎の精神に学ぶべきではないかと、切に思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月15日

昭和46年(1971)の今日、現代書館から詩人の村田正夫による評論集『戦争●詩●批評』が刊行されました。

上記の翼賛詩篇や「暗愚小伝」にからめ、光太郎についても考察が為されています。

今週の月曜日に載った、福島の地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」です。限定公開されている二本松市の智恵子生家について言及して下さいました。 

智恵子が過ごした部屋(8月10日)

 〈如何[いか]なる場合に処するにも ただ一つの内なるこえ たましいに聞くことをお忘れにならないよう…〉。詩人の高村光太郎の妻智恵子が、40歳のころに書き残したとされる。
 二本松市にある智恵子の生家が特別公開されている。普段は入れない2階の智恵子の居室や光太郎の過ごした部屋、杜氏[とうじ]の寝室などが見られる。明治16(1883)年、酒造業の家屋として建てられた。この四畳半で時代の先端を行く気質が育まれたのかと、しばし感じ入る。裕福だった生家は後に経営が行き詰まり破産する。智恵子も精神を病む。
 光太郎が「智恵子抄」を出版したのは昭和16(1941)年の8月だ。12月に日本は太平洋戦争に突入するが、詩集は3年間で13刷を重ねる。戦時下で死が日常だった若者は、光太郎のように愛し、智恵子のように愛されることを願った(二本松市教委刊「高村智恵子-その愛と美の軌跡」)。
 戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。戦争協力の行為を弁明するでもなく、「内なるこえ」に耳を澄ませた。心の中の智恵子と暮らすことは本望だったのだろう。

生家二階部分の限定公開、10月から11月の菊人形期間、来年2月にも予定されていますが、8月は23日までの土日、つまり8/15・16・22・23です。ぜひとも智恵子の息吹を感じて下さい。

戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。」とあるように、光太郎の息吹を感じるなら、花巻郊外の高村山荘、高村光太郎記念館です。

花巻観光協会さんで作った新しいチラシがこちら。

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同じ花巻市にある宮沢賢治記念館さんもこの春にリニューアルオープンしています。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月14日

昭和22年(1947)の今日、東京女子高等師範学校に勤務していた椛沢ふみ子に長い書簡を書きました。

椛沢ふみ子(佳乃子)はたびたび花巻郊外太田村の山小屋を訪れ、地元の皆さんとも親しく交流しました。以前にご紹介した高橋愛子さんも椛沢に茶道を習ったそうで、花巻高村光太郎記念館の受付で配布されているリーフレット「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」に記述があります。

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書簡の最後には、「紀州の人からクマ蟬のモデルを送つてもらひました。秋には此を彫ります。」とあります。「紀州の人」は俳人の東正巳。この月6日付けの東宛てのはがきには、以下の記述があります。

待望のクマゼミ到着、感激に堪へません。よく捉へられたものです。小生は先年つひに失敗、今まで熟覧できなかつた蟬です。実に美しいので今夏中に彫刻したいと思つてゐます。

しかし、結局、この彫刻は完成せずに終わったようです。日記にも詳細な記述がなく、着手もしなかったかもしれません。それでいて書簡では蟬を彫ると明言しているのは、光太郎の蟄居生活を案じる周囲へのポーズなのでしょうか。

4月2日の連翹忌にご参加いただいている詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌第四次『青い花』の最新号をいただきました。ありがたや。

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宮尾様のエッセイ「「第59回 連翹忌」に参加して」が掲載されています。タイトルの通り、今年4月2日、東京日比谷公園の松本楼で開催しました第59回連翹忌のレポートです。

最晩年の光太郎が、終焉の地となった中野のアトリエで、所有者の中西利雄夫人・富江にアトリエの庭に咲く連翹の名を問うて、非常に気に入ったというエピソード、それを知った草野心平が、昭和32年(1957)の第一回連翹忌案内状に「この日を連翹忌となづけ、今後ひきつづいて高村さんの思ひ出を語りあひたいと存じます。」と記したことなど、丁寧にご紹介下さっています。

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ちなみにこちらが第一回連翹忌の芳名帳です。

その他、今年の連翹忌の様子ということで、スピーチを賜った皆さんについて、スピーチやお席でのお話などをご紹介下さっています。

当会顧問・北川太一先生、光太郎の親友・水野葉舟子息の清氏、中野アトリエの中西利一郎氏、お父様の日本画家・大山忠作氏が智恵子と同郷で智恵子をモチーフにした作品も多い女優の一色采子さん、やはりお父様が光太郎本人と交流がありご自身も光太郎が主人公の戯曲をお書きになった女優の渡辺えりさん、連作歌曲「智恵子抄」を作られた作曲家の野村朗氏など。

また、イベントや出版関係で、花巻高村光太郎記念館のリニューアル、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんによる『十和田湖乙女の像のものがたり』、さらには当ブログについてもご紹介いただき、恐縮しております。

これをお読みになった方が、連翹忌に興味を示して下さって、ご参加いただけるようになればと願っております。折にふれ、このブログで書いていますが、連翹忌への参加資格はただ一点、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです(当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です)。次回は8ヶ月後、第60回の節目に当たります。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月13日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術新報』第15巻第10号に、散文「寸言――シヤヷンヌについて――」を発表しました。

「シヤヷンヌ」は、ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ。19世紀末に活躍したフランスの画家です。サロンに代表されるアカデミズムはもちろん、当時隆盛を極めた印象派とも一線を画した独自の画風で知られました。光太郎はその路線に共感を示しています。

宮城女川レポートの最終回です。

8月10日、前日の第24回女川光太郎祭を終え、千葉の自宅兼事務所に戻りましたが、女川を出る前に、やはり石碑を二つ見てから発ちました。

一つ目がこちら。昨年も見た「いのちの石碑」の鷲神浜地区に建てられたものです。泊めていただいた「ステイイン鈴家」さんや、女川光太郎祭会場の「きぼうのかね商店街」に近い場所に建っています。

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続いて、前日同様、女川港から国道398号で、東の方に。この碑を見に行ってきました。

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国道沿いにあって、前日も脇を通りましたが、その時は何か古い石碑があるなと思っただけで通り過ぎていました。それが、光太郎祭を主催されている女川光太郎の会の佐々木英子さんのお店・佐々木釣具店で読んだ地元紙『石巻かほく』に、この碑に関する記事が載っており、これはもう一度ちゃんと見に行かなければ、と思った次第です。

記事はこちら。ネット上にもアップされていました。 

戦後70年 伝える(2) 女川空襲 元駅員、町訪れ体験語る

 太平洋戦争で沿岸防衛の拠点の一つだった女川町の女川港。1945年8月10日、連合国軍の激しい空襲を受けた。
 石巻市桃生町出身の須藤良輝さん(87)=広島県福山市在住=は当時、女川駅の駅員として空襲に遭遇した。「女川の人たちにはかわいがってもらった。生きているうちに自分の経験を伝えたい」。5日、女川町を訪れ、住民に体験談を語った。
  ◇
 8月9日の朝。警報が鳴らないのに、見たことのない双胴機が上空を飛んだ。後から考えれば、空襲の偵察だったのだろう。
 10日午前8時ごろ、空襲警報が鳴り響いた。艦載機が5機編隊で10分おきに来た。湾内の掃海艇や海防艦に波状攻撃が続いた。超低空飛行だったので、日本軍の砲撃はかわされた。
 駅員は駅舎内に退避し、戦況を見守っていた。午後2時を過ぎると、攻撃目標が駅周辺に変わった。ホームにナパーム弾が投下された。オイルを保管していたドラム缶が火を噴きながら上空に飛ばされ、屋根を突き破った。
 駅長が町役場裏の防空壕(ごう)に退避するよう指示した。男性が女性の手を引き、500メートル先の壕を目指した。3分の1ほど走ったところで、後ろから爆音が聞こえた。2人で叫びながら伏せた。
 振り向くと戦闘機が迫っていた。航空士の若い男の顔が見えた。機銃掃射され、目の前にやっきょうが飛び散った。あの恐ろしさは忘れられない。
 午後4時を過ぎると、空爆はピタリとやんだ。
 港は全滅だった。2隻の掃海艇は船首しか見えず、漁船を含む多くの船が沈んだ。海軍の宿舎5棟は倒壊。駅前広場は250キロ爆弾で巨大な穴が開いていた。
  ◇
 須藤さんは空襲体験をまとめた手記を町に寄贈したことはあるが、実際に体験を語ったのは今回が初めて。集まった住民に対し、「戦争の悲劇を子どもや孫に語り継いでほしい」と涙ながらに訴えた。
 東日本大震災の2カ月後にも女川を訪れた。「気になって仕方がなかった。がれきだらけの町を見て、写真を撮ることもできなかった」と振り返る。
 「年齢を考えれば、女川に来るのはこれが最後だろう」と須藤さん。「復興を果たし、かつてのような活気のある港町に戻ってほしい」と願った。
■女川空襲
 女川防備隊が置かれるなど日本海軍の基地となっていた女川港は1945年8月、連合国軍の空襲を受けた。軍関係者ら200人以上が死傷。江島でも住民19人が死亡した。日本軍に撃墜されたグレー大尉はカナダ人の第2次大戦最後の戦死者で、町内に記念碑がある。


女川に空襲があり、多数の方が亡くなったということを、当方、寡聞にして存じませんでした。しかも昭和20年(1945)8月10日。まさに光太郎祭翌日、当方が千葉に帰る日です。そういうわけで、もう一度行き、線香を手向けて参りました。当方の愛車には、なんや かやで行った先で墓参をすることが多いので、常に線香が積んであるのが役に立ちました。

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先客がいて、香華をお供えしていました。関係者の御子孫でしょうか。

それにしても、昭和20年(1945)8月10日という日付には二重に驚きました。岩手花巻の宮澤家で、光太郎が2度目の被災となった花巻空襲も同じ日だったためです。もしかして同じ艦艇から飛び立った艦載機によるものではないかと思い、調べてみましたが、花巻は米軍艦載機、女川は英軍艦載機と、異なっていました。前日にはご存じの通り、長崎に原爆が投下されましたし、岩手釜石には艦砲射撃が行われています。もはやこの時期の日本はやられ放題だったわけですね。

今年は戦後70年。前日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の様子を、きぼうのかね商店街の食堂で昼食を摂りながら見ましたが、もう一度この国を戦争の出来る国にしようとする輩が、「返れ!」とヤジを受けながら空疎なスピーチをしているのを聴き、暗然とした思いになりました。泉下の光太郎はどのような思いでこの国を見ているのでしょうか……。

女川レポートを終わります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月12日

大正2年(1913)の今日、智恵子が福島の実家に金銭の無心をする手紙を書きました。

無心したのは光太郎と共に信州上高地婚前旅行をするための費用です。しかし手紙には、光太郎の「こ」の字も出てきません(笑)。

一部、抜粋します。

 こんどといふこんどこそは、何がなんでもいゝ絵をかいて そして生活をしてゆかなければ 私はかうしてはゐられないのですから

 どうぞたすけると思召して こんどだけ暫くの間御都合下さいます様 偏に御願ひ申しあげます

 これは何につかふのでもありません ずつと前からも申しあげました通り 文部省の展覧会に出しますか また大阪の方で個人展覧会をいたしますか 何れにしましてもそれ等の絵を売りました上にすぐご返済申し上げます

恋する女の一念、ある意味、恐ろしいです(笑)。

8月9日の第24回女川光太郎祭の前後、女川町内を探訪しました。

今回は、3月に常磐自動車道と仙台東部道路がつながり、自宅近くから女川に隣接する石巻まで高速道路で行けるようになったので、自家用車で行きました。そのため、多少離れた場所で、今まで訪れたことのないところにも行ってみました。

まずはやはり3月に新生成ったJR石巻線女川駅。ウミネコをデザインしたという瀟洒な駅舎が出来ていました。

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向かって左側は、温泉入浴施設「ゆぽっぽ」です。朝早かったので、まだオープン前でした。

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こちらはホーム。

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待合室には、震災前の女川駅の写真が。

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20数年前に、はじめて女川を訪れた時のことを思い出しました。小牛田から石巻線に乗り、料金が路線バスのように後払いで、いざ払おうとしたら一万円札しかなく、駅前にあった商店で崩して列車に駆け戻って払った記憶があります。

現在の駅前は、まだまだ造成中でした。

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やはり駅前の地域医療センターにはこんなメッセージが。

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海の方に戻り、光太郎の文学碑を見に行きました。周辺は工事中ですが、日曜でしたので休工でした。元は4基あった碑のうち、詩「よしきり鮫」を刻んだ碑と、短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびすおほぞらのもと」を活字で刻んだ小さな碑は津波で流され、紀行文「三陸廻り」と短歌「海にして……」を光太郎自筆で刻んだメインの碑と、詩「霧の中の決意」を刻んだ碑のみが残っています。

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いつの日かまた建てられ、女川名所の一つとなることを切に願います。

近くには横倒しになった旧女川交番。震災遺構として残すそうです。

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あの日、牙を剝いた海。この日は穏やかでした。

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その後、女川港から国道398号で、東の方に行ってみました。そちらの方に行くのは、初めてでした。このブログで何度かご紹介した、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」を見てみようと思ったからです。鷲神浜地区に建てられた碑は、昨年拝見しましたが、他の場所に建てられた碑は未見でした。

桐ヶ崎地区の碑はすぐにわかりました。

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上の画像、2回クリックすると拡大画像が出ます。碑文をお読み下さい。

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こちらが碑の前から見た海。碑はかなり高い場所にありますが、ここまで逃げないと津波にやられるということです。

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竹浦地区にも行ってみましたが、こちらでは碑が見つかりませんでした。昨日書いたとおり、時折雨が激しく降っていて、あまり歩けませんでした。

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また町の中心部に戻り、女川中学校さんに建った最初の碑も見て参りました。

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そうこうしているうちに、女川光太郎祭の準備にかからねば、という時間になり、この日の碑めぐりはここまでにしました。長くなりましたので、続きは明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月11日

昭和2年(1927)の今日、連作詩「名所」を書きました。

「大湧谷」「草津」の二篇から成ります。004

   大湧谷

 岩がとろけてわいてゐるのを
 ひとりでのぞくのは止すがいい。
 千八百度の破壊力が
 たいへんやさしく微笑するから。


   草津

 時間湯のラツパが午前六時を吹くよ。
 朝霧ははれても湯けむりははれない。
 湯ばたけの硫気がさつとなびけば
 草津の町はただ一心に脱衣する。


大湧谷は神奈川の箱根、草津は群馬の草津温泉です。前月、草津には光太郎一人で、箱根には智恵子と二人でそれぞれ訪れています。このブログの上部、プロフィール欄に使っている光太郎智恵子のこの写真は、この年の大湧谷での一コマです。

また、どちらも他の年に智恵子ともども訪れており、お気に入りの場所だったようです。

先ほど、2泊3日の行程を終えて、宮城県女川町から千葉の自宅兼事務所に戻りました。

今回は、昨日行われた第24回女川光太郎祭についてレポートいたします。

元々は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で三陸沿岸一帯の紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を発った日を記念して、永く光太郎の精神を受け継ごうと始まったイベントです。平成23年(2011)の東日本大震災で、女川光太郎の会の事務局長だった貝(佐々木)廣氏が津波に呑まれて亡くなり、女川の町自体も激甚な被害を受け、それ以来、復興のためのイベントという側面も加わりました。

さて、一昨日から泊めていただいていた宿、「ステイイン鈴家」さんで目を覚ますと、雨。光太郎自身が稀代の雨男で、生前から光太郎が何かやろうとすると必ず雨、冬なら雪、というのは有名な話です。その力は歿後も衰えることなく、毎年の連翹忌や5月の花巻高村祭、そしてこの女川光太郎祭の日には、必ずといっていいほど雨です。

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鈴家さんで朝食をいただき、まず自家用車を駆って、女川町内をいろいろ見て回りましたが、そちらについては明日レポートします。

光太郎祭会場の「きぼうのかね商店街」には9時頃着きました。当方、毎年、講演を依頼されていますが、それ以外にも肉体労働です。時に激しく降る雨の中、テント設営。さらに机やテーブル、看板、そして自分の講演に使うパソコンやプロジェクタのセッティング。体を使う仕事も大好きなのですが、けっこうずぶ濡れになったのはまいりました(笑)。


000

そうこうしているうちに当会顧問・北川太一先生ご一家、北川先生が高校教師をなさっていた頃の教え子である北斗会の皆さんもご到着。

そして午後2時、開会。

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普段は漁船でサンマ漁などをなさっている須田勘太郎会長のご挨拶に続き、当方の講演。一昨年から、昭和22年(1947)に光太郎が自らの来し方を振り返って作った連作詩「暗愚小伝」をひもときながら、光太郎の人となり、業績についてお話しさせていただいています。昨日は主に欧米留学に出かけた青年期についてでした。

その後、光太郎遺影や、津波で被害を受けた光太郎文学碑の写真などに献花。

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続いて、地元の皆さんや、わざわざ東京からいらした方々による光太郎詩や紀行文「三陸廻り」の朗読。

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途中からギタリスト宮川菊佳氏の伴奏が入り、いい感じでした。

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そして北川太一先生のご講話。やはり震災がらみ、そして戦後70年ということで、ご自身の戦争体験などに基づき、もちろん光太郎の生き方をからめつつ、「命」についての感動的なお話でした。御年90歳になられた先生ですが、「あと10回来たい」とおっしゃっていました。そのとおりになってほしいものです。

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こちらは朗読をして下さった皆さんへの、北川先生からのご著書のプレゼント。

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須田善明女川町長のスピーチ。

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オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。花を添えていただきました。

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女川の子供達「女川潮騒太鼓轟会」の演奏。

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こうして盛会の内に終わりました。終了後には雨も上がり、きれいな雲が。

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またまたテントなどの片づけを終え、きぼうのかね商店街集会所での打ち上げ。北川先生も楽しそうです。

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今後とも、息長く続けていって行きたいものです。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月10日

明治29年(1896)の今日、彫刻「兎」を完成させました。

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光太郎数え14歳の作。「手板浮彫」といい、約15㌢四方の板に彫られたレリーフです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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昨日から宮城県は女川町に来ております。本日行われた第24回女川光太郎祭に参加、講演をさせていただきました。

地元の皆さんや、わざわざ東京からいらした方々による光太郎詩の朗読、当会顧問・北川太一先生の講話、ギタリスト宮川菊佳氏、オペラ歌手本宮寛子さんの演奏、地元の子供たちによる和太鼓など、盛りだくさんの内容でした。

一年ぶりに訪れた女川は、JR石巻線が女川駅まで復旧。さらに今回は自家用車で来ましたので、これまで行ったことのなかった場所をいろいろ探索してみました。

詳しくは明日、帰ってからレポート致します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】8月9日

昭和45年(1970)の今日、大分文化会館にて、演目に「智恵子抄」を含む、「平瀬克美ゆりかご舞踊20周年記念公演」が開催されました。

当方の住む千葉県からの展覧会情報です。

第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」

千葉県広報紙『ちば県民だより』より

県立美術館の収蔵作品を身近な文化施設でご覧いただくための展覧会です。高村光太郎(たかむらこうたろう)の彫刻や勝浦周辺の海を描いた水彩画・版画、海を題材にした日本画・油彩画など、千葉県ゆかりの作家の作品を展示します。

日   時 : 2015年8月18日(火曜日)~31日(月曜日)9時~17時
会   場 : 勝浦市芸術文化交流センター・キュステ(勝浦市沢倉523-1)
問い合わせ : 県立美術館TEL043-242-8311


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千葉県立美術館サイトより

今回の展覧会では、「高村光太郎と房総の海」をテーマとして、彫刻家高村光太郎の作品6 点と、日本画家若木山の作品4 点を中心に、鵜原や太海といった勝浦周辺の景勝地を描いた作品も展示します。この夏、県立美術館の名品を、潮風の香る海辺の街、勝浦でお楽しみください。

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「高村光太郎」と「房総の海」ということで、光太郎の彫刻が6点、熊本県出身の日本画家・若木山(わかき たかし)の作品などで房総の海を描いたものが展示されます。

光太郎智恵子と千葉県は意外と結びつきが深く、人生の要所要所で千葉を訪れています。大正元年(1912)、智恵子との愛を確かめたのは銚子犬吠埼。大正10年(1921)には与謝野夫妻の新詩社主催の旅行に夫婦で参加。同14年(1925)には夫婦だけで房総の海を旅したことも。さらに成田郊外三里塚には光太郎の親友・水野葉舟が移り住み、光太郎もたびたび訪れました。そして昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が九十九里浜に転地療養しています。

そういう背景があるからなのでしょうか、千葉県立美術館さんでは、光太郎の彫刻を8点所蔵しています。この数字は全国の美術館の中でも多い方です。ちなみに内訳は、全てブロンズで「猪」(明治38年=1905)、「薄命児男児頭部」(同)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「手」(同7年=1918頃)、「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)、「野兎の首」(昭和20年代)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(昭和27年=1952)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」(同28年=1953)です。ただし、いずれも比較的新しい鋳造です。

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入場無料ですし、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月8日000

昭和29年(1954)の今日、終焉の地となった中野のアトリエに、岩手疎開中に親交のあった花巻町在住の女性が訪れ、盛岡銘菓「豆銀糖」をお土産にもらいました。

豆銀糖は、水飴、砂糖、青大豆のきな粉を原料に作られる、素朴な味わいのお菓子です。似たものを挙げろ、と言われれば、埼玉・熊谷銘菓の「五家宝」、茨城・水戸銘菓の「吉原殿中」。わかる人にしかわかりませんね(笑)。

光太郎はこれが意外と好物だったようで、書き残したものなどの中に時折現れます。
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岩手はね、その、庶民階級がいいんです。それが僕は好きなんです。だから人によく話すけど、八戸煎餅ですね。それと豆銀糖と。ああいうものに実にいい、うまいものがある。で、殿様が食べるようなものは別にない。
(対談「朝の訪問」昭和24年=1949)

右は今年5月、花巻高村祭の折に、花巻在住の内村義夫さんからいただいた豆銀糖の包み紙です。美味でした。

ちなみに「八戸煎餅」は「南部煎餅」ですね。

それぞれ先日ご紹介した、中村屋サロン美術館企画展示「生誕130年年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」東京都美術館「伝説の洋画家たち 二科100年展」につき、先月の『産経新聞』さんが、光太郎に触れつつ紹介しています

斎藤与里 詩情あふれる晩年作、作風の変遷たどる

 大正、昭和にかけて活躍した洋画家、斎藤与里(より)(1885~1959年)の生誕130年を記念する展覧会「斎藤与里のまなざし」が、東京・新宿の中村屋サロン美術館で開かれている。
 斎藤の代表的作品といえば「古都の春」が挙げられるだろう。旅先で訪れた家族を描写した作品。人物や事物が平面的に描出され、どことなくユーモラスで、まるで子供の絵のようだ。背後で咲き誇る桜の花のピンクが、暖かく春らしい。明朗快活な絵だ。
 斎藤は明治39年、20歳でパリに留学。後期印象派のセザンヌや象徴主義のシャヴァンヌ、さらにフォービスムの影響を受けた。明治41年に帰国してからは多くの芸術家が集っていた東京・新宿の中村屋に通い高村光太郎や荻原守衛らと交流。「木陰」などヨーロッパ美術から刺激を受けた作品を制作した。
 西洋美術から脱却したのは戦後になってから。昭和20年、戦禍を逃れ東京から生まれ故郷の埼玉県加須市に疎開。のどかな田園暮らしや農村の人たちとのつきあいで、作品は力が抜けて素朴に。さらに、60代になるとハス池で遊ぶ子供を描いた「少年の頃」など、童画的で詩情あふれる作品に変化していった。
 斎藤は「日本の絵は日本の手で作る以外にないと思います」と文章を残しているが、晩年になって自己の絵画世界を確立した。
 本展は20代から60代まで約30点を展示し、作風の変遷をたどっている。
 9月27日まで、火曜休、一般300円。(電)03・5362・7508。

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【伝説の洋画家たち 二科100年展】(中)萬鉄五郎 斬新…でも親しみ感じる油絵

 「裸体美人」などで知られる萬(よろず)鉄五郎(1885~1927年)は大正から昭和初期に活躍した画家だ。
 萬は大正6年の第4回二科展に2点の油彩画を出品した。注目を集めたのは「もたれて立つ人」。人体は幾何学的な面に解体され、機械のパーツのように組み立てられている。あたかもロボットのように。これが日本のキュービスム絵画の記念碑的作品となった。
 もう1点の「筆立のある静物」は、物の簡略化や複数の視点の描写が試みられキュービスム的傾向が見られるものの、まだ試行錯誤の段階だ。
 萬は当時の美術の本場だったパリに留学し、芸術家たちと交流したわけではない。画集などから刺激を受け、咀嚼(そしゃく)して表現した。
 この2点は二科展で岸田劉生の静物画などとともに展示された。現代から見ればとりたてて新しくはないが、1世紀も前にこんな絵画を制作したことは驚きだ。官展でない在野の二科展はこうした実験的な表現の発表の場でもあった。
 萬は岩手県東和賀郡十二ケ村(現在の花巻市)に生まれた。明治39年、20歳のとき渡米。美術学校で学ぼうとしたが、わずか半年で帰国。40年、東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、洋画壇の重鎮だった黒田清輝が主導した白馬会展に出品して活躍。美術学校の卒業制作が、ゴッホやマチスに影響を受けた「裸体美人」だった。半裸で草原に寝そべる女性を太い筆致で荒々しく描出し、日本のフォービスムの先駆的作品となった。
 45年には、岸田劉生や高村光太郎らが結成したフュウザン会に参加して頭角を現した。大正3年に一時岩手に帰郷し、茶褐色を主とした風景作品を制作。自己の目指す絵画を模索し、5年に上京。「もたれて立つ人」と「筆立のある静物」を第4回二科展に出品し、時代の最先端を疾走した。
 萬の描く裸婦は日本髪を結っていて、足は短め。決してプロポーションが良いわけではない。西洋人を好んでモデルにした黒田清輝の作品のように、アカデミックでもなければ洗練されてもいない。茶褐色を主体にした色彩は、土俗的で故郷の土の匂いが漂っているかのようだ。表現は斬新でありながら日本的な油彩だった。そんなところに親近感を感じる人は少なくないだろう。(渋沢和彦)

 「伝説の洋画家たち 二科100年展」は9月6日まで、東京・上野公園の東京都美術館。一般1500円ほか。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。

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ともに「フユウザン会」の仲間だった斎藤与里、萬鉄五郎。それぞれを紹介する中で光太郎の名が挙げられています。斎藤の記事には記述がありませんが、斎藤も「フユウザン会」のメンバーで、光太郎が「フユウザン会」を代表する作家の一人と認められているためです。こうした評価が今後揺らぐことはないとは思いますが、「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうした際に光太郎の名は挙がらなくなるでしょう。そうならないよう、正しく光太郎の業績を次代へと引き継いでいこうと、決意を新たにいたしました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月7日

平成19年(2007)の今日、宮城県美術館で「日本彫刻の近代」展が開幕しました。

明治期から1960年代までの日本近代彫刻の歩みを概観するもので、宮城県美術館、三重県立美術館、東京国立近代美術館の3館を巡回した大規模な展覧会でした。

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とにかく出品点数が多く、さらに普段目にする機会のない珍しい作品も出品されました。

図録を兼ねた書籍『日本彫刻の近代』が淡交社さんから刊行されています。図版が掲載されているのが、光雲作品で、「矮鶏置物」、「老猿」、「鞠に遊ぶ狆」、「魚籃観音立像」、「聖徳太子坐像」、「楠木正成銅像頭部(木型)」、「楠木正成像」、「西郷隆盛像」。光太郎作品で「兎」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「蓮根」、「桃」、「柘榴」、「鯰」、「うそ鳥」、「白文鳥」。当方、東京展を観に行きましたが、確か、掲載作品のほとんどが出品されていたと思います。

下記は「楠木正成銅像頭部(木型)」。珍しい写真です。

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「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田市の広報誌、『広報とわだ』の今月号をネットで拝見していたところ、以下の記事を見つけました。

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「詳しくは市ホームページを……」というので、十和田市さんのサイトで検索してみたところ、詳細な開催情報が出ていました。

元気な十和田市づくり市民活動支援事業 成果発表会を開催します

市の元気につながる市民の自主的な取り組みを支援する「元気な十和田市づくり市民活動支援事業」では、平成26年度対象団体の取り組みの成果報告や活動紹介、市民の皆さまが参加できるワークショップを開催します。これから活動を始めたいと思っている方など、興味のある方はぜひご来場ください。

◆日 時   平成27年8月9日(日) 午前10時~正午
◆場 所   市民交流プラザ 「トワーレ」 (駐車場無料)
◆内 容   
1. 成果発表
・青い森の小さな調査団
・とわだYosakoi夢まつり実行委員会
・白上湧水会
・セーフコミュニティとわだをすすめる会
・十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会
・とわだ市民活動ネットワーク

2. 活動パネル展示(全35団体)

3. ワークショップ
【多肉植物の寄せ植え講座(十和田ガーデン花街道)】
10:00~12:00(10時コース、11時コース) 参加費 500円 先着30名(要予約)申し込み   まちづくり支援課  ☎51-6725
【ミニウマジン制作(十和田のまちなかをアートで盛り上げる会)】
10:00~12:00 参加費300円 申し込み不要


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展示の一環として、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんが刊行した『十和田湖乙女の像のものがたり』に掲載された写真のパネル展示があります。

先日の花巻市太田地区の皆さんと、十和田湖関係者の方々の交流会にもお持ちいただいて、参加者の皆さんにご覧頂きましたが、同書で初めて公開された珍しいものも含め、乙女の像建立前後の貴重な写真が数多く含まれています。

中野のアトリエでの様子、鋳造を担当した伊藤忠雄の工房で、木組みで台座と同じ大きさの台を作り、台座と像とのバランスを見ているカット、十和田湖畔での設置工事中のものなど。

あいにく当方は同日に宮城女川の女川光太郎祭に参加しているため、十和田には行けませんが、お近くの方など、ぜひ足をお運びください。また、『十和田湖乙女の像のものがたり』もぜひご購入いただきたいと存じます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月6日

昭和27年(1952)の今日、詩人の真壁仁に葉書を書きました。

十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、この年の秋に帰京することに関しての記述があります。

今度は純粋に仕事の為ばかりなので東京都心へはなるべく行かず、人にも出来るだけ会はぬ気でゐます。東京的文化面に触れるのもいやな気がします。早く帰つて来たいです。

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画像はほぼ1年後、昭和28年(1953)の中野アトリエです。中央に小型試作、左に中型試作、右に乙女の像本体と、三種類が同時に写っています。

この写真も上記「元気な十和田市づくり市民活動支援事業 成果発表会」のパネル展示に並びます。

仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さん。先週、以下の記事が載りました。

先月中頃でしたが、記事を書いた記者氏から電話があり、記述のある「わが詩をよみて人死に就けり」についてレクチャーし、その際に7/26の紙面に載ると聞きました。そこで仙台在住の息子に頼んで取り寄せました。6月に当方も紹介された『朝日新聞』さんの東北版を送れ、と頼んだところ、忘れやがった抜け作の息子ですが、今回はしつこくメールしたので、大丈夫でした(笑)。

ただし、「この封筒に入れてポストに投函せよ」と、140円切手を貼った封筒を送ったところ、料金不足でゴタゴタしました。抜け作の父でした(笑)。

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毎週日曜日の文化面に掲載されている「戦災の記憶を歩く 戦後70年」という連載で、花巻市の高村山荘が取り上げられています。

戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念

 「智恵子抄」などの詩で知られる高村光太郎(1883~1956年)が終戦後、1945年から7年間を過ごした建物が花巻市西部の太田地区にある。
 高村山荘。静かな山村に立つ。木造平屋。約5㍍四方で、土間と板の間からなる簡素な造りだ。高村が使った机やランプ、いろりなどが今も残る。
 高村は45年5月、宮沢賢治の弟清六を頼り、東京から花巻に疎開。宮沢家が空襲に遭い、知人の勧めで太田地区に移り住んだ。
 地区に住む高橋愛子さん(83)は当時、農作業のため山荘のそばにある畑に毎日通い、高村の暮らしぶりを間近で見てきた。
 「偉い先生がなんで、こんな所で大変な思いをして住んでいるのか、不思議だった」と振り返る。
 
雪をかぶる布団
 地区の冬は厳しい。山荘の間仕切りは障子一枚しかない。室内の布団が雪をかぶることもあったという。
 山荘での暮らしを、高村は自ら「自己流謫(るたく=罪のため遠くに流されること)」と称した。戦時中、戦意を高揚する詩を数多く発表したことに自責の念を抱き、進んで厳しい環境に身を置いたのだった。
 「われら自ら力を養ひてひとたび起つ/老若男女みな兵なり/大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ」
 41年作の「十二月八日」の一節だ。「愛の詩人」と称された高村には、似つかわしくない言葉が並ぶ。
 山荘で暮らした7年で、高村は詩を多く残した。
 「暗愚小伝」は当時の代表作の一つ。幼少期から戦後に至る自己批判を中心とする連作詩だ。構想段階で書いた詩「わが詩をよみて人死に就けり」から、高村の思いが読み取れる。
 「死の恐怖から私自身を救ふために/『必死の時』を必死になつて私は書いた/その詩を戦地の同胞がよんだ/人はそれをよんで死に立ち向かつた」
 
地区の子と交流
 試作に励む傍ら、高村は地区の子どもらと交流を深めた。地区の山口小(現在の太田小)を頻繁に訪れ、開校式で祝辞を述べたり、学芸会に参加したりした。新刊の辞典を寄附するなど支援も惜しまなかった。
 太田地区山関行政区で区長を務める高橋征一さん(72)は幼少時、山口小に通った一人。学校で何度も高村と接し、山荘で掃除を手伝ったこともあった。
 「大人になって、光太郎先生の伝えたかったことが分かった。平和な世の中で、子どもたちが文化的で心豊かに育ってほしいと願ったのでしょう」と話す。
 反戦、平和を声高に訴えることはなかったという高村だが、48年に作った詩「新年」にこう記した。「世界に戦争の来ませんやうに(中略)われら一人一人が人間でありますやうに」。
 流謫の末に見出した、切なる願いに違いない。

メモ 高村山荘は保存のため、太田地区の住民と花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)がそれぞれ作った上屋で、二重に覆われている。午前8時半~午後4時半、有料で内部を見学できる。隣接地に市営の高村光太郎記念館がある。連絡先は総合案内所0198(28)2270。

文 生活文化部・肘井大祐 写真も


読んでおわかりだとは存じますが、単なる観光案内の記事ではなく、太平洋戦争とのからみで光太郎の内部世界をよく省察した内容となっています。

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高村山荘。行くたびに粛然とした気持ちにさせられますが、単に光太郎が住んでいた小屋、というだけでなく、ここでの7年間が「自己流謫」の日々だったことに思いを馳せざるを得ないからです。

6月のこのブログでご紹介した高橋愛子さんがご登場。

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それから後半に談話が載っている高橋征一さんは、先だっての花巻市太田地区の皆さんと、十和田湖関係者の方々の交流会にご参加なさっていました。


戦後70年。あの戦争とは何だったのか、考えるいい契機になります。夏休みということもあり、ぜひ若い世代を交えたご家族で、高村山荘、隣接する4月にリニューアルオープンした高村光太郎記念館、足を運んでいただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月5日

昭和24年(1949)の今日、筑摩書房から『印象主義の思想と芸術』が復刊されました。

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オリジナルは大正4年(1915)。「筑摩選書」の一冊としての復刊です。

昨日、BSフジさんで放映された発掘!歴史に秘めた恋物語「〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」を拝見しました。

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なかなかよくまとまっていました。 一般の皆さんが、入門編として少し詳しく智恵子と光太郎について知りたい、という場合にはいい手引きになるだろうと思いました。

スタジオでのMCは勝村政信さん。今回のゲストは、以前にもご紹介しましたが、平成16年(2004)に、柄本明さんとの二人芝居「れもん」で智恵子役を演じらた石田えりさんと、昭和58年(1983)に、未来社から『詩人の妻 高村智恵子ノート』という書籍を刊行された郷原宏氏。リスペクトの念の感じられるお話が展開され、それでいて光太郎智恵子を無条件に持ち上げるわけでもなく、バランスが取れていました。

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その他、VTRには当会顧問の北川太一先生、毎年の智恵子の命日・「レモン忌」でお世話になっている「智恵子の里レモン会」の根本豊徳さんもご登場。

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出演、ということになると、再現ビデオの部分での光太郎智恵子役の役者さんもいい芝居をしていました。特に智恵子役の女優さん、松之井綾さんという方ですが、ご自身のブログに記述がありました。

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智恵子の故郷・二本松や、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里浜の映像も入りました。

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最後には智恵子の顔を持つといわれる十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)。

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詩集『智恵子抄』や智恵子の紙絵も。

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ただ、どちらかというと智恵子中心の構成だったためか、戦後足かけ8年にわたる花巻時代の光太郎について触れられなかったのが残念でした。まあ、実質45分間という尺の問題もあるでしょうし、制作費用や期間の問題もあるので、いたしかたないでしょう。


さて、この番組、毎週のオンエアが新作ばかりでなく、かなり旧作の再放送が入ります。先週は5月に放映された日野富子編を再放送していました。智恵子編もいずれ再放送されると思います。情報が入りましたらまたご紹介しますので、見逃された方はぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月4日

平成2年(1990)の今日、群馬県草津温泉で、「光太郎と心平」をテーマに「『歴程』夏の詩のゼミナール」が始まりました。

6日までの3日間で、ガーデンハウス別館、天狗山レストランハウス大ホールなどを会場に、いわき市立草野心平記念文学館長・粟津則雄氏の「光太郎の『暗愚小伝』のことなど」、当会顧問の北川太一先生の「光太郎と心平」などの講演がありました。

8月5日には囲山公園で光太郎詩「草津」を刻んだ碑の除幕も行われました。下記は真冬に撮ってきた写真です。季節はずれですみません(笑)。

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宮城県牡鹿郡女川町からのイベント情報です。

昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎は同年8月9日に東京を発って、約1ヶ月、石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古と、主に船で旅をしました。それを記念して、毎年8月9日に行われている、光太郎顕彰のイベントです。

元々、中心になって運営なさっていた「女川光太郎の会」事務局長だった貝(佐々木)廣氏は、東日本大震災の津波で還らぬ人となってしまいました。その遺志を継ぎ、奥様の佐々木英子さんを中心に、細々とですが、続けられています。


そして今年。ネット上などに情報が出ず、電話で確認したのと、昨年の要項を参考にまとめてみました。こんな感じだと思います

第24回女川光太郎祭

期 日 : 2015年8月9日(日)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : きぼうのかね商店街 宮城県牡鹿郡女川町浦宿浜字十二神
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって③―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 
 ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)
 太鼓演奏 女川潮騒太鼓 轟会


今年は日曜日にあたっていますので、多くの皆さんのご参加を期待しております。

女川は今年3月にJR石巻線の女川駅がリニューアルオープンし、だいぶ様変わりしているようです。かつて港に建っていた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」プロジェクトも継続中。震災から5年目の夏、女川の様子をぜひご覧下さい。


さて、今夜、BSフジさんで、「発掘!歴史に秘めた恋物語「〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」が放映されます。

先週、このブログでご紹介した段階では、番組公式サイトに詳細情報が出ていませんでしたが、その後、アップされました

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また、先週のオンエアを見ていましたら、合間にCM的に次週予告が入りました。

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ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月3日

平成14年(2002)の今日、詩人の伊藤信吉が歿しました。

伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身。室生犀星や萩原朔太郎と縁の深かった詩人ですが、一時、群馬に住んでいた草野心平や光太郎とも交流があり、特に戦後は何度か光太郎詩集の編集に携わったり、光太郎没後は『高村光太郎全集』の編集にも関わったりしています。
 
晩年は群馬県立土屋文明記念文学館の初代館長に就任。そんなわけで同館には氏の旧蔵になる光太郎がらみの資料も数多く収蔵されています。

昨日までレポートしておりました青森十和田での、花巻市太田地区の皆さんと、十和田湖関係者の方々の交流会の様子が、地元紙2紙で報道されています。十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会の方に、画像ファイルを送っていただきました。

まずは『デーリー東北』さん。先月30日に載りました。

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生前の光太郎をご存じという方はやはり貴重な存在で、浅沼隆氏の談話が光っています。当方の談話も載せて下さいました。


続いて『東奥日報』さん。こちらは昨日、掲載されたとのこと。

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こちらにも浅沼さんの談話が。六十数年前の思い出です。

浅沼さんといえば、一昨年にNHKEテレさんで放映された「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」にも出演していただきました。

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これからも光太郎の語り部として、ご活躍なさっていただきたいものです。


それにしても、偉人の顕彰には、こうした草の根の市民運動が欠かせません。今回の交流会の企画運営に当たられた皆さんの御努力には頭が下がります。そして、こうした輪が、もっともっと広がっていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月2日

昭和55年(1980)の今日、箱根彫刻の森美術館で「第1回高村光太郎大賞展」が始まりました。

同館他の主催で、現代具象彫刻の振興を企図して始められ、抽象彫刻を対象とした「ヘンリー・ムア大賞」と隔年で、昭和59年(1984)の第3回展まで開催されました。

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1泊2日の青森レポートの最終回です。000

7月29日(水)、午前10時過ぎに、岩手花巻から太田地区振興会の皆さん40数名が、大型バス1台でご到着。皆さん、そろいのTシャツに身を包まれていました。背中には光太郎の言葉、「心はいつでもあたらしく」。筆跡も光太郎のそれです。

一行を率いる会長の佐藤定氏は、生前の光太郎をご存じで、秋に福島二本松で行われる智恵子命日の集い「レモン忌」にもご参加下さっています。さらに連翹忌にもご参加下さっているやはり生前の光太郎をご存じの浅沼隆氏、いつもお世話になっている㈶花巻高村光太郎記念会事務局の方々、他にも見知った顔が見えました。

迎えるは十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さん、十和田湖国立公園協会さん、十和田湖観光婦人部さんの方々です。

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早速、観光交流センター「ぷらっと」内で、交流会が始まりました。

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主催者として、観光ボランティアの会の小笠原会長のご挨拶。小笠原会長は、蔦温泉売店のご主人もなさっています。さらに歓迎の挨拶、訪問の挨拶など、和気藹々とした雰囲気で進行しました。

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当方の講話の時間も取っていただきましたが、短時間でしたので、「ぷらっと」内部の見学の時間を十分に取っていただこうと思い、とりあえずレジュメは作っておいて、「詳しくは後で読んでおいて下さい」的な感じでさっさと切り上げました。

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「ぷらっと」内では、昭和28年(1953)の乙女の像除幕式を撮影したフィルムをデジタル化した映像が見られます。また、観光ボランティアの会の方が、今春刊行された書籍、『十和田湖乙女の像のものがたり』に使った古写真等をパネルにしたものをお持ち下さったので、そちらも並べて見ていただきました。皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

その後、遊覧船に乗船。船内で昼食。朝方はまだ雨がぱらついていましたが、この頃になるとすっかり晴れました(東北北部もこの日には梅雨明けが宣言されています)。湖上を渡る風が爽快でした。

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こちらは船上からの乙女の像です。

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下船後、観光ボランティアの会の皆さんに案内していただき、乙女の像へ。大半の方は、初めてではないということでしたが、久しぶり、という方が多かったようです。浅沼さんなどは、50年ぶりとおっしゃっていました。

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その後は十和田神社に参拝、さらに土産物購入を兼ねて、十和田湖観光婦人部会長の森田玲子さんのお店などへ。さらに花巻の皆さんは再びバスに乗って、奥入瀬渓流に向かわれました。

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当方は十和田湖で花巻の皆さんを見送った後、十和田の一行とも別れ、レンタカーを駆って、新幹線に乗車すべく八戸へ向かいました。

青森の道路も、昔、やはりレンタカーで走った北海道の道路に似ていると思いました。距離感の部分が、です。交差点を曲がり、カーナビが「この先、しばらく道なりです」と言うので、「『しばらく』ってどのくらいだ?」と突っ込みを入れながら画面を見ると、「41.5㎞」だったり、その40㌔以上の間にすれ違った対向車が10台たらずだったり、コンビニが1軒もなかったり……。おかげで予定よりだいぶ早く八戸に着き、先払いだったレンタカーの料金が返ってきました。ラッキーでした。

そうそう、こちらは花巻の方に戴いたお土産です。

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花巻にある「パティスリー アンジュ」という洋菓子店の商品です。このお菓子が発売されたことや、お店の大体の場所は存じていましたが、まだ行ったことも買ったこともなかったので、ありがたく思いました。素朴な味のクッキーです。

というわけで、有意義な青森旅行でした。次の遠出は来週末。またまた東北で、宮城は女川に行って参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月1日

昭和5年(1930)の今日、光雲が主任となって皇居前広場に建てられた「楠木正成銅像」を額面部分にあしらった官製葉書が発行されました。

当初は額面1銭5厘。その後、デザインや額面金額の改定を経ながら、昭和21年(1946)まで発行されました。

当方、光太郎の自筆葉書を30通ほど持っていますが、そのうちの10通がこの葉書です。下記は昭和17年(1942)、詩人の神保光太郎に宛てたものです。

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