2015年06月

今朝の『読売新聞』さんの福島版に載った記事です。  

二本松景観 ダブル受賞

◆住民グループの取り組み
住民らによる長年の取り組みが評価され、二本松城跡に近い二本松市竹田根崎地区の景観が日本都市計画学会(東京)の計画設計賞を受賞した。都市づくりパブリックデザインセンターなどの実行委員会が主催する都市景観大賞の都市空間部門の優秀賞にも選ばれたといい、住民らは30日、同市にダブル受賞を報告する。
 いずれも都市計画の進歩に貢献し、良好な都市景観を作り出した人らを表彰する制度。対象となったのは、城跡の東側に延びる旧奥州街道の県道「竹根通り」の景観で、拡幅計画をきっかけに、住民らは2002年、地域の歴史や風土に調和した景観をつくるための協定を結んだ。
具体的には、城跡の石垣や、高村光太郎の「智恵子抄」に収められた「あどけない話」で有名な安達太良山の上の空と調和した街並みを目標にし、広々とした眺めを守るため、原則として建物は3階建てまでとすることを申し合わせた。板塀を設け、屋根は瓦ぶきとするなど、一体感のある外観を目指したという。電柱の地中化も決まり、昨年9月、道路の拡幅や地中化などが終了。十数年に及んだ取り組みが結実し、受賞につながった。参加した住民の1人の高橋淳記(あつのり)さん(60)は、二つの賞をほぼ同時期に受けたことについて喜び、「他の地域でも景観に配慮したまちづくりに取り組む機運が高まればうれしい」と笑顔で語った。


二本松市竹田根崎地区。県道129号線で、二本松霞ヶ城の東に、それぞれ「竹田」「根崎」という交差点があり、そのあたりでしょう。

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西の「竹田」方面から来て、「根崎」の交差点を鍵の手に曲がり、さらに行くと「智恵子の森」地区、そして智恵子の生家・智恵子記念館に至ります。

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このあたりが都市計画・景観の賞を二つ受賞したというニュースです。

調べてみると、先月の地方紙『福島民友』さんにも類似の記事が出ていました。 

二本松・竹根通りが優秀賞 都市景観大賞「都市空間部門」

 東北地方整備局は26日、良好な都市景観を生み出す優れた事例などを表彰する「都市景観大賞」の東北の本年度受賞団体を発表、本県関係は都市空間部門で優秀賞に「二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区」が選ばれた。
 本県関係の受賞は、同部門で優秀賞を受賞した昨年度の「小峰城跡・白河駅周辺地区」(白河市)に続き2年連続。同部門に加え、景観教育・普及啓発、景観づくり活動の計3部門に全国から35件の応募があった。各部門で大賞と優秀賞を選考した。
 竹田根崎竹根通り沿道地区は、景観協定に基づく統一感のある街並みや、電線地中化による美しい景観、東日本大震災被災後の地域の復興と再生への希望の象徴となっていることなどが評価された。表彰式は6月、都内で行われる予定。
(2015年5月27日 福島民友ニュース)

ただ、こちらには光太郎智恵子の名などが出ていなかったので、当方の検索の網にはかかっていませんでした。


『読売新聞』さんに紹介された二つの賞のうち、日本都市計画学会さんの計画設計賞に関しては、こちらのサイトをご覧下さい。

計画設計賞
受賞者  竹田根崎まちづくり振興会議
作品名  福島県二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区の景観まちづくり
授賞理由
本作品は、福島県道「竹根通り」の拡幅整備計画を契機として発足した「竹田根崎まちづくり振興会議」が中心となる、20 年近くにわたるボトムアップ型景観まちづくりの取組が結実したものである。
当地区では、景観シミュレーションによるワークショップなどを開催し、「ほんとの空とお城山が美しく見える景観づくり協定」を締結し、その後振興会議内に設置された「まち並み委員会」が、協定に基づくデザイン協議を110 回以上繰り返すことで、城下町に相応しい落ち着いた意匠など、ゆるやかなルールのもと、住民個々の意向や個性を尊重した調和のある町並みを生み出している。この成果は「NPO 法人たけねっと」、「NPO 法人桑原さん家」などの住民まちづくり活動との連携や、早稲田大学と芝浦工業大学の研究者と学生、二本松市と福島県関係者の長年の支援に負うところも大きい。
東日本大震災と原発事故による被害とその影響が続く福島県内、二本松市内にあって、「竹根通り景観づくり」は、美しい景観づくりの先に、まちの復興と暮らしの再生の希望を示していることに深い意義がある。よって本作品は、日本都市計画学会計画設計賞に値すると判断した。


もう一つの、都市づくりパブリックデザインセンターさんによる都市景観大賞についてはこちらのサイトに詳しく載っています。

「優秀賞」(公益財団法人 都市づくりパブリックデザインセンター理事長賞)
■地区名:二本松市竹田根崎竹根通り沿道地区
■面積:約9.0 ha
■所在地:福島県二本松市
■応募者:竹田根崎まちづくり振興会議、福島県、二本松市、早稲田大学都市計画研究室芝浦工業大学地域デザイン研究室
■地区の概要:
当地区は、二本松市の中心市街地内であるが、JR二本松駅からは徒歩20分ほどと離れていることもあり、商店街の衰退と人口減少が続いていた。かつての奥州街道である「竹根通り」が幅員18mへ拡幅されることを契機に、魅力的な景観づくりに取り組み始めた。まちづくり活動は住民からなる「竹田根崎まちづくり振興会議」が総括し、行政の支援のもと、住民主導で17年にわたり活動している。大学の支援もあり、模型を使用したワークショップを何度も開催し、まちづくりの計画づくりと街路デザイン、景観づくりを検討してきた。住民は景観協定を締結し、建て替えデザイン協議を110回以上開催してきた。それにより、街路事業と一体となった町並みが完成している。
平成23年3月の東日本大震災と原発事故による低線量放射線被害、風評被害により、当地区も大きな打撃を受けている。そのなかにあって竹根通り景観づくりの完成は、景観の劇的な向上と、それを実現した住民を中心とする関係者の努力で、復興と再生への希望の光と受け取られている。未だ原発事故被害で厳しい状況にあるが、今後は人々が戻り、また新たな産業が生まれることが期待されている。
■審査講評:
とにかく空が広い、道路の両端が山あて、しかも安達太良山と二本松城址、これこそが「ほんとの空とお城山が美しく見える景観づくり協定」という名前の元であることがよくわかる、気持ちの良い道路景観である。全国の多くの道路をみてきたが沿道の建築物の意匠より、何より大事にされてきた空が広いことが、居心地の良さに通じることが印象的であった。また、住民、市、県、そして学識経験者と建築士会、それらの非常に緊密なコラボレーションで、平成9年より長きにわたりまちづくりを作り上げてきた絆を強く感じる。また、110回にわたるデザイン協議にも敬服する。さらには、道路を拡幅したことにより、従来奥にあった蔵が沿道に露出し、展示スペースにしたり、居酒屋にしたり、新たな街のランドマークとして使い、地域の活力を生み出している。道路の拡幅は、ともすれば、街の活気を失いがちであるが、この地区では、見事に、拡幅による洗練された澄み切った空気を感じる街並みが息子世代への牽引に役に立ちそうな気配を感じさせられる、優秀賞に値する景観である。今後の継続にも期待したい。(池邉)

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智恵子の愛した「ほんとの空」まで含めた景観が授賞対象となったかと思うと、喜ばしいことです。東日本大震災からの復興という意味でスポットが当てられるのもよいことでしょう。

しかし、ちょうどこの辺りには、震災から4年経った今も、福島第一原発に近い浪江町の皆さんの住む仮設住宅や、プレハブ校舎の福島県立浪江高等学校津島校なども存在します。この状況が正常な状態であるわけがありません。

『福島民友』さんにあるとおり、二本松の景観が「東日本大震災被災後の地域の復興と再生への希望の象徴」でありながらも、福島が一刻も早く、正常な状態になるようにと願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月30日

昭和57年(1982)の今日、筑摩書房から『定本高村光太郎全詩集』が刊行されました。

光太郎生誕100年の記念出版で、限定700001部、全1,037ページ。『広辞苑』とまではいきませんが、それに近い厚さです。

刊行当時に確認されていた光太郎の詩作品736篇(断片を含む)を編年体で収録しています。

これに先立つ昭和41年(1966)には、新潮社から『高村光太郎全詩集』が刊行されていますが、こちらは光太郎生前に刊行された単行詩集を核として、それらに収められなかったものはその前後に配置するという、いわば紀伝体の編み方でした。

いずれも古書市場で出回っています。光太郎が作った詩のみを読みたい、という方にはお勧めです。

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一昨日、昨日と、新聞報道について書きましたので、今日もその流れで。

光雲、光太郎の名がちらっと出た記事をご紹介します。

まず、『産経新聞』さん。

22日の文化面、「【自作再訪】 澄川喜一さん「そりのあるかたち」 錦帯橋の美しさに惚れ込んで」という記事。

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元東京芸術大学学長で東京スカイツリーのデザイン監修者として知られる彫刻家、澄川喜一さん(84)。47歳のときに誕生した代表作「そりのあるかたち」は、ライフワークとして取り組んできたシリーズだ。反った曲線が特徴の抽象彫刻は、どこか懐かしく親しみがある。代表作誕生の背景には、日本の伝統文化が深く関わっている。

と始まり、昭和53年(1978)、平櫛田中賞を受賞した抽象彫刻「そりのあるかたち」についての話、さらに岩国の錦帯橋、法隆寺の五重塔、東京スカイツリーなどの古今の造型に触れています。

その中で、光雲が主任となって原型が作られた、上野の西郷隆盛像にも言及されました。

公共の場には、周囲の環境に合った作品を創らなければなりません。多くの人が目にするのですから、ひとりよがりの彫刻では駄目なんです。高村光雲は、東京の上野公園の西郷隆盛像を創りました。戦後、軍国主義を一掃するために軍人の銅像がことごとく撤去される中で、西郷さんは残りました。造形もさることながら着流しで犬を連れた庶民的な姿にしたアイデアも良かった。後世に残るものもあれば消えてしまうものもあります。彫刻家の社会に対する責任は重大です。

最後の一文、まさしくその通りですね。


『産経新聞』さん、翌日の教育面には、光太郎の名が。

インテリアデザイナーの小坂竜氏と、お父さんの彫刻家、故・小坂圭二氏を紹介する「父の教え 創作への情熱教わった師匠」という記事です。

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故・小坂圭二氏は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作に際し、光太郎の助手を務めた彫刻家です。

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その圭二氏の紹介文で、光太郎が引き合いに出されています。

【プロフィル】小坂圭二
 こさか・けいじ 大正7年、青森県生まれ。中国と南太平洋のラバウルで兵役に服す。昭和25年に東京芸術大彫刻科卒業。青山学院中等部の美術教師をしながら彫刻家として活躍。阿部合成や柳原義達らに師事し、高村光太郎の助手を務めた。74歳で死去。


同じくプロフィールの紹介で、光太郎を引き合いにしたのが、『京都新聞』さんの先週の記事。陶芸家バーナード・リーチに関連する記事でした。

東西陶工の縁、百年越え 京都・宇治の一族、リーチ工房に

 20世紀を代表する陶芸家の1人、バーナード・リーチ(1887〜1979年)の母国・英国の工房で登り窯を造った京都・宇治の陶工の一族がこの春、リーチの工房で新たな作陶に挑んだ。近代陶芸の礎を築いた巨匠の工房で、約100年の時を経て再び生み出された東西の美の結晶が27日から京都市内で展示される。
 英国で陶芸に取り組んだのは、宇治で代々続く窯元「朝日焼」の次期当主、松林佑典さん(34)。リーチの工房を支えた陶工松林靏(つる)之助(1894〜1932年)は、13代当主だった曽祖父の弟にあたる。
 靏之助は京都市立陶磁器試験場付属伝習所(現・京都市産業技術研究所)で、後の人間国宝、濱田庄司らに師事。1922年、28歳で英国留学した。リーチと濱田は英南西部セントアイブスで工房を開いたが窯が壊れ、靏之助に窯の築造を依頼した。靏之助は半年がかりで日本式登り窯を造り、京都の陶芸の知識をリーチの弟子たちに教えた。窯は半世紀にわたり使われ、世界で評価される多数の作品が生まれた。
 靏之助は25年に帰国後、38歳の若さで亡くなり、ほぼ無名の陶工だった。京都女子大の前?信也准教授(日本工芸史)が大英博物館で靏之助の茶碗を発見したことから、近年に研究が進んだ。前?准教授は「靏之助がいなければ、今日、私たちの知るリーチはなかった」と高く評価する。
 今年3〜4月の約1カ月間、リーチの工房に滞在した佑典さんは、今も工房の道具が日本由来だったり、釉薬(ゆうやく)の名前が日本語だったりして驚いたという。100年前の姿が残る石造りの工房で、宇治と英国の土を混ぜ、地層や年輪のような味わいのある茶碗など30点を制作した。「異質なものが混ざり合って多様なハーモニーが生まれる。東洋と西洋が交わる普遍的な美を目指した」と話す。
 展示は京都市中京区衣棚通三条上ルの「ちおん舎」で、29日まで。入場無料。28日午後4時半から、前?准教授の講演会もある。朝日焼TEL0774(23)2511。

 ■バーナード・リーチ 英国の陶芸家。幼少期を日本で過ごし、英国に留学中の詩人高村光太郎と出会い、20代で版画家として再来日した。日用品に美を見いだす民芸運動を提唱した柳宗悦と親交が深く、在日中に陶芸にのめり込んだ。東西の美や哲学を融合した作品を発表した。


小坂圭二にせよ、バーナード・リーチにせよ、その紹介に縁の深かった光太郎が引き合いに出され、ありがたいかぎりです。「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうはいきません。そうならないように、光太郎の名を後世に残す活動に取り組み続けたいと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた歌人の伊藤岩太郎の持参した画帖に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と揮毫しました。

伊藤は当時、岩手郡大更村(現・八幡平市)に住んでいました。その後、盛岡に居を構え、自宅の庭に先達の偉業を偲ぶとともに、自分の50年に及ぶ歌道精神の総決算の意味で石川啄木、若山牧水、長塚節、斎藤茂吉、木下利玄、北原白秋の歌碑を建立しました。

伊藤と光太郎のかかわりは、この日の日記にしか確認できませんが、もう少しいろいろあったように思われます。画帖の現物も確認できていません。今後の宿題とします。

「悠々たる……」はこの年に書かれた連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」にある「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の変形。漢文調に語順を変え、送りがなを廃したバージョンの揮毫も複数存在します。

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昭和23年(1948)、光太郎と交流のあった彫刻家・笹村草家人を介し、神田小川町の汁粉屋主人・有賀剛に贈ったと推定されるもの。

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同じ頃、隣村に疎開していたチベット仏教学者・多田等観に贈ったもの。

昨日、このブログで花巻の高橋愛子さんについて書きましたので、続けて花巻ネタで参ります。

今月16日の『朝日新聞』さんの東北の版に、今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館、そして隣接する光太郎が7年間住んだ山小屋(高村山荘)に関する記事が載りました。

当方、『朝日新聞』さんのデジタル版「朝デジ」の無料会員登録をしてありまして、全国版に載った記事はほぼネット上で読める環境です。しかし、地方版の記事は読めるものと読めないものがあり、この記事は読めませんでした。ただ、見出しとさわりの部分だけは、無料会員向けのコンテンツでも検索で引っかかり、こういう記事が載ったんだ、ということはわかるようになっています。

今回の記事に関しても、16日の当日に、東北での版に載ったことがわかったので、午前中に仙台に住んでいる息子に「東北限定の記事が載ってて読みたいから、今日の『朝日新聞』、コンビニで買っておいてくれ」とメールしたところ、「うぃ」と返信が来ました。

ところが、父親に似て抜け作の息子でして、夜、不安になって再度「買ってくれたか?」とメールすると、案の定「ごめん、忘れてた」……。時計を見ると午後10時を廻っています。経験上、だいたいその時間になると、コンビニさんもその日の新聞は撤去してしまうので、「しょうがねえなあ、じゃあ、いいよ」と返信。まあ、その週末に大学の部活動の大きな試合を控えていて、それどころじゃないのだろう、と、いうことで諦めました。

すると、先週、『朝日新聞』北上支局長さんから、その日の紙面が届きました。支局長さんには、先月の花巻高村祭の折に当方が講演をしたので取材を受け、知遇を得ていました。

読んでびっくり、当方も紹介されていました。高村祭での講演や取材の際に語ったことが載った形です。

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記事を書かれたのが支局長さんでした。感謝、感謝。

この記事を読んで、高村山荘、高村光太郎記念館に行ってみようかな、と思う方がいらっしゃれば、嬉しい限りです。本当に、一人でも多くの方にお出かけいただきたいと思っておりますので。

他にも高村祭での取材の際に、「何か岩手がらみのネタはありませんか」と問われたので、最近見つけた『花巻新報』(戦後発行されていた花巻の地方紙)に関するネタを提供しておきました。そのうちに記事になるかも知れません。期待しております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月28日

明治45年(1912)の今日、駒込林町に新築なったアトリエ建築費用の決算がなされました。

光太郎の母・わか(通称・とよ)の書き残した『朔画室建築費扣』という半紙を綴じて作った冊子が遺っており、細かな出納が記録されています。例えば、「一金六十円 水道工事壱式 西山商会内払」「一金壱円八拾五銭 下駄箱壱個」など。
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その最後に以下の記述があります。

六月二十八日迄合計
惣〆金弐千弐百九十七円七十八銭五リ也

「五リ」は「五リン(五厘)」の誤記でしょう。総額2,297円78銭5厘。ちなみに当会顧問・北川太一先生が電卓で計算されたところ、数字が微妙に合わないとのことですが、そのままとします。

諸説ありますが、安く見積もれば明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると919万1,140円。また、諸説あるうち、高く見積もると明治末の1円=現在の10,000円という説もあり、そう考えれば2,297万7,850円となります。ちなみに大正3年(1914)刊行の詩集『道程』は定価1円でした。

この時期の光太郎はコータローならぬプータローですから(せっかく開いた我が国初の画廊「琅玕洞」は、赤字続きで譲渡)、この莫大な金額、全額、光雲が出しています。とんでもないスネかじりですね。

それを言い出せば、詩集『道程』の出版費用も光雲から出ています。

そういう光太郎にある意味反感を抱いた室生犀星の回想が残っており、笑えます。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

大瀬川歴史探訪講座 高橋愛子さん、光太郎を語る(6/24)

「気さくなおじいさん」
 花巻市石鳥谷町の大瀬川活性化会議が主催する第35回大瀬川歴史探訪講座は23日、「高村光太郎と大瀬川の芸術」をテーマに大瀬川振興センターで開かれた。花巻で疎開生活を送った詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と交流した高橋愛子さん(83)=同市太田出身、同市石鳥谷町大瀬川在住=から思い出話を聴き、地区住民ら約30人が偉人の暮らしぶりや人柄に思いをはせた。
 高橋さんの実家は、東京から疎開してきた光太郎が同市太田山口(旧太田村山口)を訪れた最初の晩に泊まった場所。当時16歳だったという高橋さんは「背が高く、ひげもじゃで、よれよれのリュックサックを背負って、この人は本当に偉い人なのかなと思うような格好をして来た。脱いだ靴を見たら34センチぐらいあって、びっくりした」と驚きの連続だった光太郎との出会いを振り返った。
 村人の建てた簡素な山荘で7年間暮らした光太郎は、何でも知っている先生として慕われ、講話や学校への寄付を行い、運動会やクリスマスといった行事に参加するなど、地域にすっかり溶け込んでいたと回顧。「光太郎が学校に来ると、生徒たちはみんな駆け寄って手をつないだ。子供にとっては先生でなく、ただのそこらへんのおじいさんという感じ。本当に気さくだった」と偲んだ。
 参加者は興味深げに聴き入り、「妻の智恵子について話を聞いたことはなかったか」「美食家だったといわれているが」「何で7年も山口にいたのか」などと質問。高橋さんは「夏に光太郎が風邪を引いて山荘で休んでいた時に『寂しくないですか』などと聴いたら『ちっとも寂しくない。智恵さんがいる』と言っていた。亡くなっていた智恵子さんをすごく愛していたんだと思う」「外国でおいしい物を食べていた人だった。畑ではオクラやセロリなど山口では珍しかった西洋野菜を植えていた」「母は、光太郎は戦争に賛成した詩を書いた責任を感じて山口に来たんだべ、と言っていた」などと答えた。
 リニューアルした高村光太郎記念館に行って感動し、当時について聞いてみたいと思って参加した菅原房子さん(61)=大瀬川=は「記念館の内容と愛子さんの話が結び付き、なるほどと思った」と目を輝かせていた。

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高橋愛子さん。花巻郊外太田村に住んでいた頃の光太郎をよくご存じの方です。今年2月にオンエアされたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」にもご出演なさっていました。

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お父さんの雅郎さんは、光太郎がいた頃の太田村村長さん。ただし、戦時に外地に行っていて、帰国した時にはすでに光太郎が太田村に住んでいました。その後、村長に就任したというわけです。

お母さんのアサヨさんも、何くれとなく光太郎の世話をやいてくれました。そして愛子さんご自身も、光太郎の元にいろいろと届け物をしたりで、光太郎の日記にお名前が頻出しますし、詩「山の少女」(昭和24年=1949)のモデルとも言われています。そしてお二人とも、昭和41年(1966)、かつての太田村に建った高村記念館の受付を永らくなさっていました。

今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館の受付で、下記のリーフレットを無料配布しています。題して「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」。

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A3判の用紙両面印刷で、4つ折りになっています。地元スタッフの方々が愛子さんへの聞き書きをまとめたもの。「サンタの衣装づくり」「西洋野菜」「日時計」などなど、中にはこれまで活字になったことがなかったのではないかと思われる、実に貴重な証言が満載です。

花巻高村光太郎記念会の事務局長氏と電話でお話をした際、愛子さんのお話にもなりました。記事にある地域の講座も、このリーフレットができたことで、これを見ながらお話をすれば楽だ、ということで、実現したとのことでした。

他にも、今秋をめどに、旧太田村の皆さんによる光太郎証言をまとめる計画が進んでいます。またお手伝いさせていただくことになりまして、いいものができるよう、頑張りたいと思っております。

来月には、旧太田村の皆さんで作る「太田地区振興会」の方々約40名が、十和田湖にいらっしゃるそうで、当方も現地で合流することにいたしました。やはり生前の光太郎をご存じの振興会の佐藤会長は、二本松で開催されている智恵子命日の集い「レモン忌」にもいらしています。逆に今年は「レモン忌」主催の「智恵子の里レモン会」の皆さんが、5月の「高村祭」に大挙していらして下さいました。

今度は十和田の観光ボランティアの会の皆さんとの交流ということです。こうした地域同市の草の根の交流、ネットワーク作りというのも、非常に重要なことだと思います。さらにいろいろな分野で輪を広げ、強固なものにし、光太郎智恵子の業績を後世に伝えていきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月27日

昭和19年(1944)の今日、『朝日新聞』に詩「婦女子凜烈たり」が掲載されました。


    婦女子凜烈たり003

戦略軍機は揣摩を絶し、
統帥の府厳として大局を握る。
サイパン島一円の戦、
敵これに万の犠牲を傾け来たる。
上陸の敵を邀(むか)へて婦女少年も力を協(あは)せ、
海陸未曾有の真相を呈するに至る。
しかもアメリカ海軍の運命がいま
大挙してここに集る。
連合艦隊の一部百錬の力を出動し、
撃滅の気すでに海に溢(あふ)る。
国民の胸黙すれどもをどり、
国民の血平かなれども白熱し、
補給はひきうけたと
二十四時間が唸りを立てる。
いまつくる此の部品があすは戦ふ。
あそこで撃つ。
いま、いま、いま、
いまを措いて行動の実質はない。
あの要衝で婦女子もまた決然たる
その凜烈の様相が眼に見える。

昭和19年(1944)、勤労動員などで、婦女子までもが駆り出された戦時の世相がよく表されています。近くて遠いどこかの独裁国家では、今も同じようにミサイルの製造などを行っているのでしょうか。我が国がもう一度、いや、永遠に、こういう状況に戻らないことを祈ります。

あそこで撃つ。/いま、いま、いま、」は、現代の婦女子代表・なでしこジャパンのシュートだけにしてほしいものです。

余談になりますが、なでしこジャパン主将の宮間あや選手は、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた豊海村(現・九十九里町)に隣接する大網白里町(現・大網白里市)の出身です。

明日は女子ワールドカップ準々決勝。「あの要衝(カナダ)で、婦女子もまた決然たる/その凜烈の様相が眼に見える。」という状況になってほしいものです。

昨日は横浜みなとみらいホールに行って、フルート奏者・吉川久子さんのコンサート「こころに残る美しい日本のうた 東北、その豊穣の大地に遊ぶ」を聴いて参りました。

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「心に残る美しい日本のうた」と冠してのコンサートは今回で10回目だそうです。10回を経るうちに東日本大震災が起こり、東北を中心に茨城、千葉など被災地への復興支援の目的が加わって、宮沢賢治、野口雨情などからのインスパイアが取り入れられるようになりました。一昨年は、「智恵子抄の世界に遊ぶ」というサブタイトルで、当方、今年と同じみなとみらいホールで拝聴して参りました。

それがご縁となり、昨年4月2日の第58回連翹忌で演奏をお願いし、花を添えていただきました。

今回は「東北、その豊穣の大地に遊ぶ」というサブタイトル。てっきり、東北全般への讃歌というコンセプトで、直接、光太郎智恵子と関わるわけではなさそうだと思いこんでいましたが、あにはからんや、プログラムの最初は、吉川さんご自身のMCによれば、智恵子へのオマージュとしての選曲だそうでした。

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その後、野口雨情(被災地・北茨城出身)の曲、休憩を挟んで後半は賢治の世界を中心に、伴奏のキーボード・海老原真二さん、パーカッション・三浦肇さんともども、素晴らしい演奏が披露されました。

こちらは終演後の吉川さん。

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さて、少し前に、名古屋在住の作曲家・野村朗氏からご連絡がありました。野村氏は「連作歌曲 智恵子抄」など、光太郎智恵子の世界を独唱歌曲で表現されています。

で、その内容は、吉川さんとのコラボで、10月に名古屋で演奏会を開きたいので、そのための協力要請でした。氏を中心に「智恵子抄実行委員会」という組織を立ち上げ、できれば1回限りでなく、光太郎智恵子ゆかりの地での開催なども視野に入れていらっしゃるとのこと。素晴らしい取り組みと存じ、快諾いたしました。

実は野村氏と吉川さんのコラボは、一昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が全国を巡回した際、愛知展会場の碧南市藤井達吉現代美術館さんでの関連行事として行う方向で動いたのですが、残念ながら双方のスケジュールが合わずに断念した経緯があります。それが2年越しで実現です。

また近くなりましたら詳しくご紹介しますが、早速、昨日のコンサートにはチラシが間に合って、配布されました。

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他にも「智恵子抄」の世界を音楽や朗読などで表現されている皆さんで、他の方とのコラボに抵抗のない方、ご賛同下さって、その後の開催に力を貸していただければと存じます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月26日

昭和4年(1929)の今日、新宿中村屋において智恵子も出席した『青鞜』同人の「思ひ出の会」が開催されました。

平塚らいてうが中心となって、我が国初の女性だけによる雑誌『青鞜』が創刊されたのは、明治44年(1911)。創刊号の表紙は智恵子が手がけました。終刊は大正5年(1916)。その旧同人などが集まっての同窓会でした。

翌日の『朝日新聞』にはその模様が報じられ、写真も載りました。

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智恵子も写っているのですが、野上弥生子の陰になっており、顔の右側の輪郭だけで、目鼻立ちが不明です。非常に残念。2年後には心の病が顕在化、悲劇的な末路へと進む運命を暗示しているように見える、というと考えすぎでしょうか。

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このブログにて毎年ご紹介しています明治古典会さん主催の七夕古書大入札会。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。

その目録が届きました。

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出品目録は少し前に、ネット上にアップされましたが、全体をざっと見るには紙媒体の方がはるかに便利です。


直接、光太郎に関連する出品物は3点。

目玉は大正3年(1914)の詩集『道程』。何と、カバー付きです。

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詩集『道程』、元々大正3年(1914)の時点では、自費出版で200部しか作られず、しかも文語自由詩全盛の時代を突き抜けた口語自由詩が大半だったこともあり、売れ行きはさっぱりでした。真偽の程は不確かですが、光太郎が友人知己に贈ったものを除き、実際に売れたのは7冊だけだったという話もあります。残本はくり返し奥付を換えて販売されましたが、その売れ行きも芳しくなかったようです。

カバーが無くなってしまったものは、時折市場に出ます。当方も持っています。しかし、今回のものはカバーがちゃんと付いています。カバー付きが市場に出るのはおそらく戦後数回目。非常に珍しいものです。

7/3追記 下見展観を見に行かれた花巻高村光太郎記念会事務局の方から連絡を頂きました。カバーは復刻版のものだそうです。

まあ、珍しさということで言えば、昨年、秀明大学飛翔祭「宮沢賢治展 新発見自筆資料と「春と修羅」ブロンズ本」展に出品された、同大学長・川島幸希氏所蔵の特装本にはかないませんが、コンディションも良く、署名も入っており、逸品と言って差し支えありません。入札最低価格が60万円。おそらくここから跳ね上がるでしょう。

他に、光太郎自筆の小色紙。昭和2年(1927)作の短歌「やせこけしかの母の手をとりもちてこの世の底は見るべかりけり」が書かれています。大正14年(1925)に亡くなった母・わかを偲ぶものです。入札最低価格は40万円。

さらにエミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記では「ヹルハアラン」)の詩集『天上の炎』。光太郎の訳で、大正14年(1925)に刊行されたものです。見返しに「私は未来の熱望をもつ」というヴェルハーレンの言葉を光太郎が記しています。同じく20万円。

この2点は以前から東京の古書店が在庫として持っていたものです。

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それから、光太郎が題字を揮毫した中原中也詩集『山羊の歌』が3冊も出品されます。それぞれ函付きで20~30万円の入札最低価格が設定されています。


「一般下見展観」といって、出品物を実際に手に取れる機会があります。7月3日(金)午前10時〜午後6時、7月4日(土)午前10時〜午後4時の2日間。場所は東京神田の東京古書会館さんです。

美術館や文学館などの展覧会と違い、出品物を実際に手にとって観ることが出来るという、ある意味とんでもないことをやっています(撮影は不可)。全体の目玉として、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」草稿・賢治写真・名刺・書簡・『春と修羅』がセットで入札最低価格350万円、芥川龍之介の自筆ノートが同じく700万円、竹久夢二のスケッチ帖・自作スクラップブック他がやはりセットで500万円。こういったものも手に取れてしまうわけです。ある意味恐ろしいですね。

古書市をご存じない方にはカルチャーショックだと思います。話の種にも、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月25日

平成16年(2004)の今日、山梨県立文学館で開催されていた企画展 「画文交響 ―明治末期から大正中期へ―」が閉幕しました。

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「パンの会」から「ヒュウザン会」「生活社」「草土社」、雑誌に即して言えば『明星』『早稲田文学』『方寸』『三田文学』『青鞜』『白樺』。文学と美術の接点を追った企画展でした。

となると光太郎は外せません。光太郎関連の資料も多数展示されました。

智恵子と同じ太平洋画会(現・太平洋美術会)、さらに高村光太郎研究会に所属され、3年前に『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』という書籍を出版された坂本富江さんから、情報の提供をいただきました。

近々、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の増補改訂版を刊行されるそうで、そのために訪れた静岡は沼津でのお話です。

概要をわかりやすくするために、坂本さんから戴いた地方紙『沼津朝日』さんの記事を引用します。今月9日の記事です。記事中の明らかな誤り(年号など)は訂正しました。

沼津に足跡残す高村智恵子 ゆかりの大熊家の所在知りませんか 智恵子が描いた一枚の絵 エッセイストがモデルの木を探す

 高村光太郎の詩集『智恵子抄』でも知られる光太郎の妻、高村智恵子と沼津とのゆかりを調べている人がいる。エッセイストの坂本富江さん(東京都板橋区)で、智恵子が寄留した白銀町の大熊家についての情報提供を呼び掛けている。

 高村智恵子(一八八六~一九三八)は、福島県安達郡油井村(現二本松市)の長沼家に生まれた。福島高等女学校を経て日本女子大学校に入学し、洋画家の道に進む。一九一一年に光太郎に出会い、一四年に結婚。その後、精神的な不調を経験し、三八年に病没した。四一年、『智恵子抄』刊行。
 画家としても活躍した智恵子は多くの作品を手掛けたが、現存している油絵は三点しかないという。そのうちの一つで清春白樺美術館(山梨県北杜市)が所蔵している「樟(くす)」は、沼津市内で描かれた。
 高等女学校時代の智恵子には大熊ヤスという親友がいた。ヤスの家は父の転勤により転居を繰り返していたが、現在の沼津市内の白銀町に家を構えていたことがあった。智恵子が沼津を訪れたのは、この縁によるもので、一九〇六年には智恵子とヤスの二人で富士登山をしている。
 その後、ヤスは沼津中学校(現沼津東高)の教員をしていた上野直記と結婚。ヤスは夫の転勤により一九一三年に朝鮮半島に渡ったが、ヤスの母と特別な信頼関係があった智恵子は、ヤスの転居後も白銀町の大熊家をたびたび訪れていて、「樟」は、この間に描かれた。
 山梨県韮崎市出身の坂本さんは、小学生の頃から詩に興味があり、『智恵子抄』や『道程』といった高村光太郎の作品群に親しんでいた。
 そこから智恵子に強い関心を抱くようになり、地元近くの清春白樺美術館で「樟」を見たのがきっかけとなり、智恵子ゆかりの地を訪ねてスケッチや文章などの創作を続けた。それらをまとめてエッセイ集『スケッチで訪ねる「智恵子抄」の旅』を出版したところ、好評のため商業出版された。
 今回、同書の増補改訂版の出版が予定されていて、坂本さんは準備を進めている。その中でも特に力を入れているのが、「樟」のモデルとなった木の特定だ。
 モデルについては、二説がある。一つは、大熊家の近くにあった沼津尋常小学校(現一小)の校庭の木で、校庭の北端にある道喜塚周辺の木であるというもの。もう一つの説は、大熊家の庭にあった木。
 大熊家は戦後しばらく白銀町にあったものの、転居してしまったため、その正確な場所は不明。坂本さんは、この大熊家の位置に関する情報と、ヤスが嫁いだ上野家の消息に関する情報を集めている。
 心当たりのある方は市歴史民俗資料館(電話九三二 - 六二六六)まで。
 
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問題の絵はこちらです。

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記事にあるとおり、山梨県の清春白樺美術館さんで展示されています(常に、というわけではないようですが)。

沼津のこの木は、当方も以前から気になっていて、現地調査に行こうと思いながらなかなか機会がなかったのですが、坂本さんは都合6回も沼津に行かれたそうです。その結果、沼津第一小学校さんや沼津市歴史民俗資料館さんなどのご協力で、問題の木は沼津第一小さんの敷地内に健在の木、ということがほぼ確定したとお便りを戴きました。

詳細は、近々刊行されるという、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の増補改訂版にて紹介されるはずですので、期待したいと思います。

その他、沼津の大熊家、上野家などについての情報をお持ちの方は、記事にあるとおり、歴史民俗資料館さん、または当方までご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月24日

平成4年(1992)の今日、東芝EMIから朗読CD「音楽のある星に生きて」シリーズの「空」と「大地」がリリースされました。

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それぞれ、ヒーリング系のBGMにのせて、古今の名詩が朗読されています。

「空」は、詩人の工藤直子さんの選、壇ふみさんの朗読で、光太郎詩「青空」(昭和3年=1928)が収められています。

「大地」の選は作家の立松和平さん、朗読は森本レオさん。収められている光太郎詩は「案内」(昭和24年=1949)です。

ついでに同じラインナップで「森」が前月に出ています。選・工藤直子さん、朗読、真行寺君枝さん、光太郎詩は「新緑の頃」(昭和15年=1940)です。

今日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。

太平洋戦争末期であった昭和20年(1945)、3月から始まった住民を巻き込んでの沖縄戦で、組織的な戦闘が終結したのが6月23日。それが由来です。

この戦闘による犠牲者は日米英あわせて約20万人。他の局地戦と異なり、戦闘に巻き込まれたり、集団自決をしたりで、多数の民間人が犠牲になっています。

さて、昨日の沖縄の地方紙『沖縄タイムス』に掲載された一面コラムです。

大弦小弦

2015年6月22日

名護市の私設博物館「民俗資料博物館」が1945年の新聞、365日分を展示している。沖縄戦の記録として、館長の眞嘉比朝政さん(78)が8年かけて集めた
▼新聞は全て本土から。壕で発行された沖縄新報は5月25日で途絶え、戦火でほぼ失われたからだ。眞嘉比さんは「沖縄以外の新聞社の記事で沖縄戦が分かるのは皮肉」と言う
▼色あせた新聞を手に取ると、本土の視点が分かる。沖縄本島に米軍が上陸した直後の4月3日。朝日新聞は高村光太郎の詩「琉球決戦」を掲載した。「琉球やまことに日本の頸(けい)動脈」「琉球を守れ、琉球に於(おい)て勝て」と、抗戦を訴える
▼軍部は負け戦を重々承知だった。敗北が迫った6月15日、毎日新聞は鈴木貫太郎首相の会見を報じる。「私は沖縄を天王山としていない」「あまり沖縄のみを強調して国民の意志を弱めることは好まぬ」と手のひらを返した
▼組織的戦闘が終わった26日。北海道新聞の社説は「沖縄の戦いによって稼いだ『時』はわが本土の防衛態勢を強化せしめ」と、捨て石作戦の性格を露骨に書いた。結局、「本土決戦」はなかった
▼沖縄は昭和天皇の「メッセージ」で米国に差し出され、日本復帰後も基地を背負い続ける。原点である慰霊の日が巡ってくる。70年。かくも長く終わらない不正義を、誰が想像できただろうか。(阿部岳)

016引用されている「琉球決戦」、手許の資料によれば『朝日新聞』への発表は4月2日。『沖縄タイムス』さんでは3日となっていますが、東京版でない版で、1日遅れの掲載という可能性が考えられます。

全文はこうです。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。017
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が神機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末裔熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。


戦後の今だから言えるのかも知れませんが、何をか言わんや、の感がぬぐえません。「全日本の全日本人よ、琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、起つて琉球に血液を送れ。」。そんな余裕がどこにあったというのでしょうか。

戦艦「大和」による沖縄特攻が行われたのはこの詩が発表された5日後の4月7日。なるほど、「起つて琉球に血液を送れ」の実行かも知れません。しかし、米軍に制空権を奪われ、航空機部隊の援護もない中での鈍重な艦艇の出撃など、失敗に終わるのは目に見えています。それでも実行したのは「玉砕」の二文字の持つ魔力、とでもいいましょうか、「生きて虜囚の辱を受けず」の精神でしょうか。上層部はそれでいいのかも知れませんが、巻き添えにされる下々の兵卒はたまったものではありません。

そして沖縄でも多数の民間人犠牲者。どこが「吾が神機の到来なり」だったのでしょうか。


こうした愚にもつかない空虚な戦争協力詩を乱発し、多くの前途有為な若者に「命を捧げよ」と鼓舞し続けたことを恥じ、かつ反省し、戦後の光太郎は岩手の不自由な山中に「自己流謫(じこるたく)」の毎日を送る決断をしました。「流謫」は「流刑」に同じ。公的に戦犯として処されることのなかった光太郎は、自分で自分を罰することにしたわけです。

しかし、沖縄戦の実態などは、GHQによる報道管制などの影響もあり、戦後になっても一般国民には余り知らされませんでした。昭和25年(1950)には有名な石野径一郎の小説『ひめゆりの塔』が刊行されましたが、光太郎、これを読んだ形跡がありません。もし読んでいたら、自作の「琉球決戦」と併せ、どのような感想を持ったか、興味深いところです。


ところで、今日行われる沖縄全戦没者追悼式に、集団的自衛権とやらの濫用を目論み、普天間基地移設問題では知事を門前払いにしたあの人も出席するのですね。「弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、/猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。」という国にするのが目標としか思えないのですが。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月23日

昭和48年(1973)の今日、岩波書店から三田博雄著 『山の思想史』 が刊行されました。

当方も寄稿させていただいた山岳雑誌『岳人』さんに連載されたものに加筆修正し、「岩波新書」の一冊として刊行。北村透谷、志賀重昂、木暮理太郎ら、山を愛した近代知識人を取り上げています。

光太郎の項では、青年期に訪れた赤城山と上高地、智恵子の故郷・福島の安達太良山、そして戦後の花巻郊外の太田村での山居について紹介しています。

一昨日、東京池袋で「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」、さらにリブロ池袋本店内のぽえむ・ぱろうるに行った後、JRから地下鉄に乗り換える都合もありまして、巣鴨にも立ち寄りました。

上京した際には複数の用件を済ませるのを基本としており、さらにこのブログのためのネタ拾いという意味合いもあります。

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こちらがかの有名なとげ抜き地蔵・高岩寺さん。巣鴨といえば、「おばあちゃんの原宿」ですが、目的地はこちらではなく、高岩寺さんを横目に中山道(国道17号)を北上、右手の路地を入っていった西巣鴨4丁目にある妙行寺さんというお寺です。こちらの境内に、光雲作の観音像が露座で鎮座なさっているという事だけは知っておりまして、行ってみようと思った次第です。

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めざす妙行寺さんのすぐ近くを、都電荒川線が走っていました。あとで地図を見たところ、巣鴨駅で下りて歩くより、地下鉄三田線の西巣鴨駅、または大塚駅から都電に乗り換え、新庚申塚という駅で下りればすぐでした。巣鴨という地名だけを頼りに、巣鴨駅の近くだろうと、あまり調べもせず行ったので失敗しました。巣鴨駅からはけっこうありました。

さて、妙行寺さん。100㍍ほどのところを国道17号が走っているにもかかわらず、境内は静かな雰囲気でした。本堂やら仏塔やら、いい風情でした。

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目的の光雲作の観音像もすぐに見つかりました。

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光雲作の特徴をよく顕し、優美なお姿です。今年3月に拝観して参りました、紅葉の季節にはライトアップもされる京都・知恩院さんの観音像と相通じる雰囲気です。

しかし、台座の石柱に「うなぎ供養塔」の文字。「なんじゃ、そりゃ?」です。

観音像を含むこの塔が、東京うなぎ蒲焼商組合などの発願で建立されたものでした。細かな場所もそうでしたが、どういう像があるのかもろくに調べずに行ったので、存じませんでした。

台座の側面には、加盟店の名がずらり。

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背面には「原型者 高村光雲先生  鋳造者 渡辺008長男先生  昭和三十五年五月二十日建立」の文字。光雲が歿したのは昭和9年(1934)ですから、歿後かなり経ってから鋳造されたものということになります。そういうケースも少なくないので、この点はあまり意外ではありません。

鋳造者は渡辺長男(おさお)となっています。「あれっ」と思いました。渡辺は日本橋の麒麟などの彫刻を造った彫刻家です。彫刻制作だけでなく、鋳造も手がけていたのか、と思いました。

帰ってから調べてみると、渡辺の義父は岡崎雪声。岡崎は鋳金家で、やはり光雲がらみの楠公銅像や、やはり日本橋の麒麟などの鋳造に携わっています。娘婿の渡辺もそうした関係で鋳造の技術を身につけていたのかも知れません。

しかし、渡辺の没年は昭和27年(1952)。妙行寺さんの「うなぎ供養塔」の建立は昭和35年(1960)。像の鋳造だけは先に行われていたということでしょうか。

目指す観音像を拝観し終え、境内をぶらつきました。すると、こんなものが。

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「四谷怪談お岩様の寺」という碑です。

これも存じませんでしたが、妙行寺さんにはお岩さんの墓があるとのことで、驚きました。歌舞伎などで「四谷怪談」を上演する際には、関係者が必ずお岩さんの墓参りをするという話は聞いたことがありましたが、それがまさかここだとは……。てっきりお岩さんの墓も四谷近辺にあるとばかり思っていました。

やはり帰ってから調べたところ、妙行寺さん、元は四谷の隣の信濃町にあって、明治になってから巣鴨に移転したとのこと。それなら納得です。

光雲作の観音像、うなぎだけでなく、お岩さんの魂も供養していただきたいものです。


この手の光雲が原型を手がけた仏像のたぐいは、都内のあちこちの寺院で見ることが出来ます。浅草寺の沙竭羅龍王像などもその一つ。また折を見て他の寺院の像を拝観し、レポートしたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月22日

明治43年(1910)の今日、智恵子が旧制米沢中学の生徒・鈴木謙二郎に宛てて葉書を書きました。

実はねからだがあまり思はしくなかつたのであれから今迄房州に行て居りましたのです 昨夕帰て御はがきを拝見しました さうでしたか けふは廿二日 もう退院なすつたかとも存じますが如何です 其後の御経過はお宜しいですか 其中都合して病院ならば御伺したいと思ますが女は不自由で困ります、まァ折角御摂養して御全快の程祈上ます

鈴木は智恵子の七歳年下。明治40年(1907)、智恵子が父と弟と共に、福島県北部の原釜海岸にあった金波館という旅館での潮湯治(海水浴をそう呼んでいました)逗留中に知り合い、以後、姉弟のように文通をするようになりました。この書簡の「実はね」という書き出しも姉のような雰囲気ですね。

智恵子から鈴木宛の書簡は17通確認されています。智恵子の書簡は70通ほどしか見つかっていません(まだまだどこかに眠っていそうですが)ので、そのうちの17通というのは、かなりのパーセントです。

鈴木はこの時、東京帝大病院の耳鼻科病棟に入院していたとのこと。

昨日、池袋の東京芸術劇場に「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」を観に行った足で、同じ池袋の大型書店「リブロ池袋本店」さんに行きました。

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同店は7月20日(月)をもって閉店だそうで、前身の西武ブックセンターが昭和50年(1975)に開店して以来の40年の歴史に幕が閉じられます。以前は西武百貨店池袋店の中にあり、その一角に「ぽえむ・ぱろうる」という詩の本のコーナーがあって、学生時代には時折足を運んでいました。「ああ、そういうコーナー、あったなあ」とご記憶の方も多いのではないでしょうか。

当方、光太郎関連では、思潮社さんから昭和55年(1980)に刊行された『現代詩文庫 1018 高村光太郎』をここで購入した記憶があります。他に当時興味を持っていた故・吉野弘氏、故・川崎洋氏、谷川俊太郎氏の詩集なども。

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「ぽえむ・ぱろうる」は、西武ブックセンターからリブロさんへの移行に伴い、平成18年(2006)にいったんなくなりました。それがこのたび、リブロさんの閉店を受け、ひと月限りの復活となっています。

少し前に自宅兼事務所に届いた練馬の古書店『石神井書林』さんの目録にその旨の記述があって知りました。同店は詩関係の古書が専門です。

調べてみると、今月9日の『朝日新聞』さんの読書面にも記事が載ったらしいのですが、見落としていました。

 閉店が決まった東京・池袋のリブロ本店2階に、詩の本の専門店「ぽえむ・ぱろうる」が9年ぶりに復活しました。7月20日までの期間限定。サイン入り詩集やリトルプレスが平台に置かれ、壁棚には1968年以降の『現代詩手帖(てちょう)』(思潮社)のバックナンバーがずらり。大岡信さんや谷川俊太郎さんらの直筆原稿も展示されています。
 静かな熱気に包まれるなか、谷川さんが43歳の頃に刊行された『定義』(同)が目に留まりました。帯には「詩の曖昧(あいまい)さを突破(つきやぶ)った実験詩集」の一節。詩とは何かを問い続けた詩人は40年後、初の書き下ろし詩集を発表しました。次の面で書評を掲載しています。

商品のラインナップは昔のまま、とは行きませんが、記事にあるとおり、思潮社さんの『現代詩手帖』のバックナンバーがずらりと並んでいたり、懐かしさで胸がいっぱいになりました。

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また、石神井書林さんの商品(古書)も並んでいました。光太郎と仲の良かった木下杢太郎の詩集など、食指が動いたのですが、財布の中身が心許なく、断念。

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さらに帰ってから調べてみると、来週には谷川俊太郎氏のサイン会もあるとのこと。谷川氏、先週はNHKさんの「あさイチ」にもご出演されるなど、御年83歳にしてまだまだお元気ですね。


詩を愛するみなさん、ぜひ足をお運びください。007


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月21日

平成7年(1995)の今日、J-POPバンド・ヤプーズのCDアルバム「HYS」がリリースされました。

ヴォーカルは女優としても活躍されていた戸川純さん。

光太郎の詩「山麓の二人」からのインスパイアで「あたしもうぢき駄目になる」という曲が収められています。智恵子視点の歌詞です。

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会場は池袋駅西口の東京芸術劇場。昨秋開催された、書家の金子大蔵氏の個展「近代詩文書の可能性をを探る(高村光太郎の詩を書く)」と同じ場所でした。

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展示のメインは東京精神科病院協会加盟の病院で治療を受けられている方々を中心とする公募作品です。

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今日は午後1時からギャラリートークということで、全員ではありませんが、出品者の方が自作の解説などをしたりなさっていました。006

漫画家の吾妻ひでお氏も作品(漫画の生原稿、オブジェ)を出品、トークにもご参加。氏はアルコール中毒での治療経験があるそうです。

会場の一角に、「特集展示 高村智恵子」。

紙絵の複製20数点、智恵子の自筆書簡2通、智恵子と光太郎の文筆作品の掲載誌、詩碑の拓本や光太郎肉筆揮毫などが並んでいました。

紙絵の複製は写真家だった故・高村規撮影の写真をもとに作られたもので、複製でありながらかなり立体感が感じられるものです。

光太郎の散文「智恵子の切抜絵」(昭和14年=1939)や、ほとんど唯一、智恵子紙絵の制作現場を見た姪で看護師の長沼(のち宮崎)春子の回想などが抜粋されてパネルになっており、来場の皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

パネルといえば、この展覧会のために書き下ろされた当会顧問北川太一先生の玉稿「智恵子の場合」も。図録にも収録されています。


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こちらが智恵子書簡。

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上は大正2年(1913)、光太郎との上高地婚前旅行のため、二本松の実家に滞在費用を無心する書簡です。封筒が実家の長沼酒店の文字入りというのを初めて知りました。

下は翌大正4年(1915)、前年暮れの上野精養軒での結婚披露の後、二人をとりもった柳敬助夫人八重に送った披露宴参加の礼状です。

だいぶ前に北川先生のお宅で拝見したことがありますが、やはり感慨深いものがあります。流麗な筆跡、保存状態も良く、100年以上経過しているとは思えません。

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こちらは光太郎智恵子の文筆作品などの掲載誌。

さらに図録(1500円)です。

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現代の皆さんの作品と併せ、人間の「表現」に対する欲求のありかた、みたいなことを考えさせられる展覧会でした。

外界に向かって、何かを表現せずには居られないのが人間だと思います。それが造形芸術の形を取ったり、文筆作品の形を取ったり、はたまた音楽でそれが表現されたり、または身体を使ってのパフォーマンス、そう考えるとスポーツもそういう面があるかも知れません。

そうした行為を通し、自己表現、さらには自分の中でバランスを取ることにもつながるのではないか、などと思いながらこの展覧会を拝見しました。


会期は短くて残念ですが、明日(6/21・日曜日)まで。明日も13:00~ギャラリートークが催されます。入場は無料。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月20日

昭和57年(1982)の今日、桜楓社から潟沼誠二著 『高村光太郎におけるアメリカ』 が刊行されました。

明治39年(1906)から3年余り、光太郎はア007 (2)メリカ、イギリス、フランスに留学しました。さらにその最後の頃にはスイス経由でイタリア旅行も。

その中で、一番長く滞在していたのはアメリカ・ニューヨークです。

光太郎の留学というと、パリでの体験が大きく取り上げられますが、やはり一番長く滞在していたアメリカでの体験も見過ごせない、ということで書かれたのが本書です。

表紙はアメリカの観光案内でよく使われるマウント・ラッシュモアの巨大彫刻。ワシントン、リンカーン、ジェファーソン、ルーズベルトという4人の大統領の肖像です。この作者のガットソン・ボーグラムに光太郎は師事しました。

山形からの情報です。 
今年度で8回目の開催となる山形大学恒例の高校生朗読コンクールの 出場者を募集します。今年は、詩人で彫刻家であった高村光太郎の作品を取り上げます。 予選課題文は、福島二本松出身の妻智恵子との思い出を詩と散文で綴った『智恵子抄』から選びました。例年通り、今年も多くの東北地方の高校生の皆様の応募をお待ちしております。

【高校生朗読コンクール概要】
◆予選応募要項
・応募資格:東北6県(青森・秋田・岩手・宮城・山形・福島)在住の高校生、または各県内の高校に在学中の高校生
 ※高等専門学校生は1年生から3年生までとします。
  同一高校からの応募人数制限は設けません。
・予選課題:高村光太郎『智恵子抄』所収「智恵子の半生」の部分
       (新潮文庫版(平成15年改版)『智恵子抄』133~135頁)
・応募締切:平成27年6月30日(火)(当日必着)
詳細はこちら

◆本選概要
・日  時:平成27年9月13日(日)13:00~17:00(時刻は予定)
・会  場:山形市中央公民館多目的ホール
      (〒990-0042 山形市七日町一丁目2番39号 アズ七日町6階)
・課  題:高村光太郎氏の著書から、予選通過者それぞれに異なる部分を審査委員会が指定します。
※群読劇「ビルマの竪琴」と同時開催

(お問合せ)
山形大学エンロールメント・マネジメント部社会連携課  (TEL)023-628-4016

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今年で8回目を迎える「山形大学高校生朗読コンクール」。平成23年(2011)からは、東日本大震災を受け、参加資格を東北6県の高校生に広げて実施しています。

今年、初めて光太郎の作品が課題に選ばれましたが、過去7回の課題は以下の通り。

第1回 (平成20年=2008)~第3回(同22年=2010) 藤沢周平
第4回 (同23年=2011)              井上ひさし
第5回 (同24年=2012)~第7回(同26年=2014)    宮澤賢治

山形出身の藤沢周平、井上ひさしと来て、やはり東日本大震災との関連もあってのことでしょう、ここ3年間は宮澤賢治が取り上げられていました。そして光太郎。光太郎も3年くらい取り上げ続けていただきたいと思います(笑)。


こういう活動を通し、若い世代に光太郎智恵子の世界を深く知ってほしいものです。

9月の本選は一般公開されます。また近くなりましたらご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月19日

昭和27年(1952)の今日、青森八甲田山麓の酸ヶ湯温泉に一泊しました。

15日に花巻郊外太田村を発ち、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のための下見に十和田湖を訪れた流れです。

当日の日記から。

六月十九日 木
晴、 休屋より車にて青森道を走り、酸か湯につく、 入浴、植物園見物、(中略) 酸か湯の大湯めづらし、

酸ヶ湯温泉は大浴場「ヒバ千人風呂」で有名。「大湯めづらし」はそれを指しているのでしょう。「植物園」は今も続く東北大学植物園八甲田山分園です。

次の日は青森市に下り、県庁で津島文治青森県知事(太宰治の実兄)と対面、さらに浅虫温泉に宿泊しました。

当方、酸ヶ湯に宿泊したことはありませんが、昨年、3回十和田に行ったうちの2回、立ち寄りました。

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先月、花巻高村祭の後で現地調査に訪れた奥州市の人首文庫さんから、『高村光太郎全集』等未収録の書簡など、お願いしていた数々の資料コピーが届きました。ありがたや。

その中に、光太郎が写っている写真があったということで、こちらのコピーも含まれていました。クリックで拡大します。

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光太郎は中央やや右の方にいます。これがい007 (2)つどこで撮られたものかというと、昭和25年(1950)1月18日、盛岡にあった菊屋旅館です。

では、何の集まりかというと、その名も「豚の頭を食う会」。記録が残っています。長くなりますが引用します。

まずは昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』という書籍の一節です。したがって文中「現在」とあるのは昭和51年の時点です。

 昭和二十五年一月十八日の夕方、菊屋旅館で「豚の頭を食う会」が開かれた。メーン・ゲストはもちろん高村光太郎。これに、“南部の殿さま”南部利英夫妻や盛岡市長、盛岡警察署長、美校(注・岩手県立美術工芸学校)の教授・助教授陣ら約三十人が加わり、豪華な中国料理に舌つづみをうった。
 発起人は深沢省三と堀江赳、それに現在「オームラ洋裁学校」を経営している大村次信の三人だった。この三人が桜山のおでん屋で酒を飲みながら話をまとめ、大村が後日、直接山口に出向いて光太郎を誘った。費用は会費とカンパでまかない、コック長は大村の遠縁で、戦前彼と同じく満州国の「協和会」で一等通訳をしていた浜田敏夫がつとめた。菊屋旅館の台所は数日前から、前述の君子(注・菊屋旅館女将)以下、お手伝いさんたちが仕込みで大騒ぎしていた。
 光太郎は五日前の十三日、盛岡に出て来、教員を対象にした美校の美術講座や「盛岡宮沢賢治の会」の講演会、少年刑務所での講演など多忙なスケジュールをこなしていた。「深沢牧場」を訪問したのはこの翌日になる。
 例えば新聞社でも、夜食にカツドンを食う記者がいれば、同僚から「ほう」という声がもれた時代だ。大村の命名になるこの「豚の頭を食う会」は、翌日の朝刊を写真入りの記事で飾った。その十九日付の地元紙――
<この会は翁(注・光太郎)の日ごろの持論である「日本人の食生活はあやまっている、肉を大いに食うべし、しかも従来日本人の多くはうまい所ばかり食べて臓物や尾など栄養価の高いものを食べていない、豚の頭や牛のシッポを食べなければならない」というのを早速実践に移そうということで計画された>
 この日の献立を挙げておこう。大村ら発起人が出席者に配ったものだが「高度成長」を遂げた二十五年後の今日でも、ちょっとわれわれ庶民の口には入りそうもない。それほど豪華だ。
 <前菜(蒸し肉ほか三種)炒菜(イリ豚肉ほか三種)炸菜(豚の上ロースの天ぷらほか三種) フカのヒレの煮物 コイの丸揚げ 山イモのアメ煮 リンゴの甘煮 豚の白肉の寄せなべ 肉の団子のアンかけ 鶏肉の白玉子とじ アヒルの蒸し焼き カニ玉子 玉子とじ汁 もち米の甘い八目飯 ほかに天津包子>
 どうですか? 実際は「豚の頭」などどこにもない。単にユーモラスな名称以上のものではなかったわけだが、大村も「当日高村さんは席につくなり、ほう、大変なごちそうだねと感心し、次いで、どこに豚の頭が入っているのと聞いた」と笑う。それにしても、光太郎に栄養補給してあげようという大村ら発起人の気持ちはともかく、これだけのものを食べていながら、光太郎が<日本人の食生活はあやまっている>などと記者に語ったのが事実だとすれば、実にいい気なものだといわざるをえない。まだ朝鮮戦争による特需景気もなく、日本人は食べたくても食べられなかった時代だ。


続いて昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』(先頃、花巻の高村光太郎記念会より復刊されました)。

 盛岡美校の深沢さんに堀江さん、その友人の大村さん高橋さんの四人が、桜山前のおでんや「多美子」に休んだとき、かわったうまいものの話などが出ました。
 「高村先生を招いて豚の頭を食う会を開こうではないか。」との話がで、皆大賛成です。先生は、頭だの尻尾だの内臓だのに一番栄養があると常々話をしているから、先生に上げみんなも試食しようというわけで、会を開くことにしました。幹事に大村次信さんが当り、日時は美校での講演会の夜、会場は絵が好きで深沢さんと親しくしている菊池正美さんの旅館菊屋にしました。
 次信さんは、今度の会は豚の頭の料理なのだからその通(つう)の人でないとうまい料理が作れそうもないので適材を物色しましたところ、盛中出身の一等通訳で、中国に長くいた浜田年雄さんがその通だというのでそれに頼み、然るべき方々に案内状を出し、又電話をかけました。
 講演会のあとで案内を受けた人々が会場菊屋に集まりました。
 先生は豚の料理を前にして
「日本人は体が小さい。食生活をかえなくては大人(だいじん)になれない。体も心もです。トルストイも一つは大地が育んでいるが一つは食べ物がうんでいる。栄養をうんと摂ることが必要だ。」
 豚の頭の料理を皆で一緒に食べましたが、いろいろの味があり、食べつけない一同は何とも批評ができませんでしたが、先生は蛇の話熊の話動物の叡智など面白く語り、かなり酒もまわって来ました。大いに飲み大気焔になるのもあります。益々まわって来た先生は南の方に向かい両手を畳について
「高山彦久郎ここにあり、はるかに皇居を拝す。」
 と大声をあげ、巨体を前に伏しました。団十郎の声色を真似たのでしょう。酔余の余興ではありましたが、座は粛然と成りました。(大村次信氏談)


同じ大村氏を情報ソースとしながら、微妙に異なるところがありますが、まあ大筋は一致しています。要するに光太郎を囲んでの食事会です。

ちなみに次の日に訪れたという「深沢牧場」は雫石の深沢省三・紅子夫妻の住まい。今年3月に、女優の渡辺えりさんとともに、子息・竜一氏にお話を伺って参りました


当時、盛岡在住だった詩人の佐伯郁郎も「豚の頭を食う会」に出席。そこで、人首文庫さんに上記の写真が残っていたというわけです。人首文庫さんによれば佐伯は最後列の右端です。同じく人首文庫さん情報では、光太郎の左前にいるのは作家の鈴木彦次郎だそうです。

写真には40名弱が写っていますが、当方、顔でわかるのは深沢省三(最後列左端)、深沢紅子(光太郎の右後)、菊池君子(前列左から五人目)ぐらいです。岩手県立美術工芸学校の関係者が多いようです。

他に、大村次信、舟越保武、堀江赳、森口多里、佐々木一郎、南部利英、菊池政美といった面々がいるはずなのですが、どれだかわかりません。また、それ以外には名前すら不明です。

写真を見て、これは「うちのじいちゃんだ」というような方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。

ところで、昨年、盛岡てがみ館さんで開催された企画展「高村光太郎と岩手の人」で、「豚の頭を食う会」の献立が展示されました。『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』に記述があるもので、ガリ版刷りです。これを見た時には、よくぞこういうものを遺しておいてくれた、と、涙が出そうになりました。

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ちなみに発起人の一人、大村次信が経営していたという「オームラ洋裁学校」は「オームラ洋裁教室」と名を変え、存続しているようです。ところが会場の「菊屋旅館」が、ネットではヒットしません。こちらも改名されて、このホテルじゃないか、と推理できるところはあるのですが、はっきりしません。そのあたりご存じの方もご連絡いただければ幸いです。

追記 「菊屋旅館」は現在の「北ホテル」さんと判明しました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月18日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で日本文学報国会の発会式が開催されました。

「報告会」ではありません。「報国会」です。「七生報国」の「報国」です。定款第三条によれば、

本会ハ全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想ヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス

という団体です。

当時の『日本学芸新聞』の報道。

  一堂に会す全日本の文学者 皇道文化創造へ邁進 日本文学報国会力強き第一声

 全日本の文学者を打つて一丸となし、愛国尽忠の至誠烈々として、その総力を集結する「社団法人日本文学報国会」の発会式は六月十八日午後一時から日比谷公会堂に於いて挙行された。
 この日、全国から馳せ参じた三千有余の文学者はもとより、友好団体たる少国民文協、音協出版、文協、都下大学文化学生等参加。甲賀三郎氏(総務部長)司会の下に下村宏氏座長となり、久米正雄常務理事が会務を報告し、会長に徳富猪一郎を推挙、つづいて八部会の各代表の華々しい宣誓に移り――菊池寛(小説部会代表)、太田水穂(短歌部会代表)、河上徹太郎(評論随筆部会代表)、深川正一郎(俳句部会代表)、茅野蕭々(外国文学部会代表)、橋本進吉(国文学部会代表)、尾崎喜八(詩部会代表)、武者小路実篤(劇文学部会代表)――東條翼賛会総裁、谷情報局総裁、文部大臣橋田邦彦氏の祝辞があり、最後に吉川英治氏の提唱で「文学者報道班員に対する感謝決議」を行つたが、この誠に文壇未曾有の盛事に、際会して、全日本文学者の意気凛々として満堂を圧する観があつた。

光太郎は詩部会長でしたが、代表として宣誓を行ったのは尾崎喜八でした。尾崎は光太郎の詩「地理の書」を朗読しています。

新刊です。 
2015/4/30  わたなべじゅんこ著 邑書林発行 定価2,000円+税  わたなべじゅんこ著

版元サイトより
 「出会うために歩くのか 歩くから出会うのか」  竹久夢二から寺山修司まで、みんなみんな俳人だった!
主に、俳句以外で名を成した方々の俳人としての姿を追いかける事で、 俳句って何なんだろう? という根本の問に迫ります。

 登場の人々は 竹久夢二  中村吉右衛門  永田青嵐  富田木歩  寺田寅彦  久米正雄
 内田百閒 野田別天楼  室生犀星  高村光太郎  津田青楓  矢野勘治  三木露風  
 瀧井孝作  寺山修司

 特に青嵐、木歩、寅彦あたりでは、関東大震災と俳句について語られていて、胸に迫るものがあります。 多くの方の手に届けたい一冊、宜しくお願いします。 装は、石原ユキオさんの描き下ろしです。

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著者のわたなべさんは俳人。関西の大学で非常勤講師をされるかたわら、『神戸新聞』さんの読者文芸欄で俳句の選者を務められているそうです。

余談になりますが、『神戸新聞』さんは一面コラム「正平調」でよく光太郎に言及して下さっています。

閑話休題。

本書で取り上げられている人々は、版元サイトにあるとおり、専門の俳人ではありません。しかし、それぞれに独自の境地を開いた人々。まずはそういった面々の俳句を論じて一冊にまとめていることに敬意を表します。

この手の伝統文化系は、それ専門の人物でないとなかなか取り上げない傾向を感じています。いい例が光太郎の短歌や俳句で、それなりに数も遺され、いい作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での光太郎特集というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。以前にも書きましたが、いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥の匂いがぷんぷん漂っており、いけません。

そうした意味で、俳句専門の方が専業俳人以外の人々をまとめて論じていらっしゃる姿勢に好感を覚えました。

さて、光太郎の章。主に『高村光太郎全集』第19巻(補遺1)に掲載されている句を中心に、23ページにわたって展開されています。寺田寅彦とならび、もっとも多いページ数を費やして下さっていて、ありがたいかぎりです。他の人物で、9ページしかない章もあります。長さが第一ではありませんが。

長さだけでなく、その内容も秀逸。やはり専門の俳人の方が読むと違った視点になるのだな、と思いました。具体的には、光太郎の句の時期による変遷。

そもそも光太郎の文筆作品の中で、手製の回覧雑誌や、東京美術学校の校友会誌を除き、初めて公のメディアに掲載されたのが、俳句です。明治33年(1900)の『読売新聞』、角田竹冷選「俳句はがき便」に、以下の二句が載りました。

武者一騎大童なり野路の梅
自転車を下りて尿すや朧月

同じ年には『ホトトギス』にも句が掲載されています。ただ、その後、光太郎は与謝野夫妻の新詩社に身を投じ、俳句より短歌に傾倒するようになります。しかし、公にされない句作も続けていました。

わたなべさん、この時期の句は生硬なものとして、あまり評価していません。わたなべさんが転機とするのは、明治39年(1906)からの欧米留学。その終盤の同42年(1909)、旅行先のイタリアから画家の津田青楓にあてて書かれた書簡に、多数の俳句がしたためられています。

例えば、

寺に入れば石の寒さや春の雨
春雨やダンテが曾て住みし家
ドナテロの騎馬像青し春の風

こうした一連の句を、わたなべさんは高く評価しています。

曰く、

……どうしたことか。日本での初期作品よりずっとずっと俳句らしいではないか。頭の中でこねくり回していたのがウソのように、すっきりとした句風である。

それにしても、この句風の変化はいったいどうなのだろう。外国にいるから、一人旅であるから、だから自分の思いに素直になるのか。奇を衒うのをやめるのか。いや、初めて見るものが多くて、あっさりとした作風で仕上がってしまうのか。日本で作られたものと比べてこのイタリアでの句群はわかりやすい。情景も描ける。これは何だと考える必要を感じない。もともと美術家である光太郎の眼は見る力には恵まれていただろう。だから見たものを言語化するときに、どういうバイアスを掛けるのか、そこが言語作家としての腕ということになる。日本的なものに囲まれていたとき(つまり日本にいた頃)には悶々としていた言葉が、こうもオープンに、明るく、そして優しく(易しく)出てきたのは、日本文化という重しがとれたせいなのか。

慧眼ですね。やはり俳句専門の方が読むと、的確に表して下さいます。

ただ、一つ残念なのが、どうも勘違いをされたようで、『高村光太郎全集』第11巻を参照されていないこと。わたなべさんが参照された第19巻は補遺巻です。それでも現在確認できている光太郎の俳句の約半数は掲載されていますが、残り半数は第11巻におさめられています。

そこで、老婆心ながら、出版社気付で第11巻の当該部分、さらに第19巻刊行(平成8年=1996)以降に見つかった句が載ったものなどをコピーして送付しました。改めて光太郎の句について論じてくださる場合があるとしたら、参照していただきたいものです。

ともあれ、良い本です。ぜひお買い求めを。


竹久夢二へのオマージュとなっている装幀もなかなか素晴らしいと思います。手がけられた石橋ユキオ商店さんのブログがこちら


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月17日

昭和12年(1937)の今日、九十九里浜に暮らす智恵子の母・センに宛てて現金書留を送りました。

同封書簡の一節です。

昨今はうつとうしいお天気ですがお変りありませんか、小生はまだ何となく疲れがあつてとうとう今月は病院へ行かずにお会計を為替で送りました。チヱ子も時候のため興奮状態の様子で心配してゐます

翌年に歿する統合失調症の智恵子は南品川のゼームス坂病院に入院中。この年はじめには姪の春子が付き添い看護にあたるようになり、だいぶ落ち着いたそうです。ところが夏になると狂躁状態になるのが常で、この年のこの時期は前年から始めていた紙絵制作も途絶えていたそうです。

光太郎やセンが見舞いに行くと、さらに興奮状態が昂進、光太郎の足が遠のきました。世のジェンダー論者はこうした点から光太郎鬼畜説を唱えていますが、余人にはうかがい知れぬ深い苦悩があったのは間違いないと思います……。

一昨日からの流れがありますので、光雲ネタをもう一日続けます。

富山からの企画展情報です。 

チューリップテレビ開局25周年記念 超絶技巧! 明治工芸の粋

会 期 : 2015年6月26日(金曜)~8月16日(日曜)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
主 催 : 明治工芸の粋実行委員会(富山県水墨美術館・チューリップテレビ)
休館日 : 月曜日(ただし、7月20日は開館)、7月21日(火曜)
  : 午前 9時30分から午後5時まで(入室は午後4時30分まで)
観覧料 : [前売り]一般のみ800円 [当日]一般1,000円 大学生700円 高校生以下無料
関連行事 : 日本美術応援団(山下裕二団長・本展監修者)のメンバーによるトークショー
       会場 富山県水墨美術館映像ホール 定員 120名 日時未定

 鋭い観察眼から生まれた本物と見まがうほどのリアリティ、文様をミリ単位で刻み、彩色し、装飾を施す繊細な手仕事。明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会にも出品され海外の人々を驚嘆させました。しかし、その多くは外国の収集家や美術館に買い上げられたため、日本で目にする機会にはほとんど恵まれませんでした。
 その知られざる存在となりつつあった明治の工芸の魅力を伝えるべく、長年をかけて今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが村田理如(むらたまさゆき)氏です。本展では、村田氏の収集による清水三年坂美術館(京都)の所蔵品から選りすぐりの逸品を一堂に紹介します。並河靖之(なみかわやすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)らの金工、柴田是真(しばたぜしん)・白山松哉(しらやましょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひぎょくざん)・安藤緑山(あんどうろくざん)の木彫・牙彫をはじめ、京薩摩の焼きものや印籠、刺繍絵画など、多彩なジャンルにわたる約160点の優品をとおして、明治の匠たちが魂をこめた、精密で華麗な「超絶技巧」の世界をお楽しみください。

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昨年の東京三井記念美術館さんから始まり、これまで静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さんを巡回した展覧会です。

これまでと同じく、光雲の木彫「西王母」「法師狸」が並ぶとのこと。

他にも七宝、金工、自在置物、薩摩焼、象牙彫刻、漆工、刀装具などの逸品が目白押しです。


ちなみに会場の富山県水墨美術館さんは、平成15年(2003)には「高村光太郎と智恵子の世界」展を開催して下さいましたし、光太郎のブロンズ「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)、「裸婦坐像」(大正6年=1917頃)を所蔵しています。


お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月16日

昭和28年(1953)の今日、東京中野の料亭ほととぎすで、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型完成の報告会に出席しました。

像の制作のため、「十和田国立公園功労者顕彰会」という組織が結成され、光太郎のバックアップがなされました。そのメンバーに対しての報告会で、青森からは副知事の横山武夫が上京し、他に佐藤春夫夫妻、土方定一、藤島宇内、草野心平、小坂圭二、谷口吉郎が参加しました。

この時、光太郎が行った報告のためのメモ書きが現存しています。

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昨日に続き、光雲ネタで。

一昨日、富山の地方紙『北日本新聞』さんに載った記事です

日蓮像の完成を祈願し鋳造火入れ式 高岡・古城製作所が受注

 高岡市野村の古城製作所(大野政治社長)は、石川県七尾市の日蓮宗実相寺に建立される開祖・日蓮の銅像を受注した。13日、高岡市福岡町土屋の工場で、鋳造火入れ式が行われ、建立を計画した千葉県市川市の日蓮宗大本山、法華経寺の新井日湛貫首や大野社長らが無事な完成を祈った。9月に建立、開眼予定で、来年4月に奉納される。
 法華経寺は1260(文応元)年創建の日蓮が最初に開いた寺として知られる。実相寺は、145代の新井貫首が生まれ育った寺。今回は、2021年に日蓮の生誕800年を控え、来年は実相寺31代で新井貫首の祖父の50回忌となることから、12年に法華経寺に建立した日蓮像と同型の製作を古城製作所に依頼した。
 建立するのは、近代彫刻界の大家、高村光雲による日蓮像の原型を使った高さ約4メートルの銅像。台座を含めると約8メートルにもなる。火入れ式では僧侶2人が木剣を打ち、祈禱する中、職人が溶かした銅を鋳型の湯口に注いだ。
 大野社長は「立派な銅像に仕上げ、高岡銅器をアピールしたい」と話した。


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石川県の実相寺さんという寺院に、光雲が原型を作った日蓮像が建立されるという内容です。

この像は、鎌倉の長勝寺さんにあるものと同型で、他にも各地に建立されています。

静岡県富士市の妙祥寺さんにあることは、以前から存じておりましたが、千葉県市川市の中山法華経寺さんにも奉納されていたと、今回の記事で初めて知りました。そちらは今回と同じ高岡の古城製作所さんの鋳造だそうで、ホームページを見て驚いたのですが、同社の取扱商品のラインナップに今回の像が入っています。他の寺院、あるいは個人でも注文されたのかも知れません。

古城さんでは45㌢のミニチュア版も作っているとのことで、これには少し笑いました。泉下の光雲も苦笑しているのではないでしょうか。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月15日

昭和44年(1969)の今日、求龍堂から高村光太郎記念会編、『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。

「高村光太郎賞」は、昭和32年(1957)、筑摩書房から最初の『高村光太郎全集』の刊行が始まった直後、実弟の豊周から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業にあてたいという意向が出され、始まったものです。

その規定を抜粋します。

一、故高村光太郎を記念し、造型及び詩の二部門に高村光太郎賞を設定する。
一、授賞対象となる作品は、主として、造型部門に於いては発表作品、詩部門に於いては詩集とする。
一、本賞設定当初の選考委員は、
 造型=今泉篤男、木内克、菊池一雄、高田博厚、谷口吉郎、土方定一、本郷新
 詩=伊藤信吉、尾崎喜八、亀井勝一郎、金子光晴、草野心平
 とする。

賞金は十万円。同一部門で複数の授賞が出た場合には折半、そして、永続的に行うのではなく、10回で終わる、とも定められました。

副賞として、光太郎が短句「いくら廻されても針は天極をさす」と刻んだ木の盆を、豊周がブロンズに鋳造した賞牌が贈られました。

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『天極をさす』の書名はここから採りました。

ところで、数年前にこの賞牌がネットオークションに出品され、ある意味、少し残念でした。出所もわかっています。

第一回の授賞式は昭和33年(1958)、最終第10回は同42年(1967)。10年間で造型部門17名、詩部門15名が授賞
しました。内訳は以下の通り。

造型部門は、柳原義達、豊福知徳、佐藤忠良、向井良吉、白井晟一、舟越保武、堀内正和、西大由、吾妻兼治郎、水井康夫、細川宗英、大谷文男、黒川紀章、一色邦彦、篠田守男、建畠覚造、加守田章二。

詩部門が、会田綱雄、草野天平、山之口貘、岡崎清一郎、山本太郎、手塚富雄、田中冬二、高橋元吉、田村隆一、金井直、山崎栄治、中桐雅夫、生野幸吉、中村稔、富士川英郎。

これらの人々の略歴を調べると、多くは「高村光太郎賞授賞」と記されています。また、造型部門の受賞者及び選考委員により、「連翹会展」が6回開かれました。

『天極をさす』は、高村光太郎賞の完了を記念して、上記受賞者及び選考委員、そして高村豊周の作品(造型系は写真)を掲載した大判の書籍です。

その後、箱根彫刻の森美術館さんで、具象彫刻を対象とした「高村光太郎大賞」が始まりましたが、どうも趣旨が違う、ということで、3回で終了しました。

仙台に本社を置く東北の地方紙、『河北新報』さん。一昨日の一面コラムで光雲を取り上げて下さいました。

河北春秋

 組織「イスラム国」によるイラクやシリアの古代遺跡の破壊が続く。約3千年前のアッシリア帝国のニムルド遺跡、約2千年前に栄えたハトラ遺跡。世界遺産のあるパルミラも制圧したと伝えられる。なんとも残念▼と思ったら、日本でも明治維新のころ、文化遺産が災難に遭っていた。理由の一つは、新政府による「神仏分離令」だ。廃仏毀釈(きしゃく)運動が進み、結果として寺院や仏像、仏具などの売却、廃棄につながった。仏師の高村光雲が焼却寸前の観音像を買い取った、という逸話もある▼そして、明治6(1873)年の「廃城令」。お城は封建時代の遺物と見なされた。多くが破壊され、維持コストがかかると売り払われた。太平洋戦争を経て、天守が創建当時のまま残ったのは、12城だけだ▼その一つ、弘前城のある弘前市が言い出しっぺとなり、「現存十二天守同盟」なるものを結成する。兵庫・姫路や松山など11市と協力し、情報発信や外国人観光客誘致などを進めるそうだ。松江城(松江市)の国宝内定や城巡りブームもあって、大いに盛り上がるだろう▼存続の危機があった事実や背景も、伝えられるといいと思う。先達の価値観は、時の為政者によってすっかりひっくり返されることもある。いまだからこそ、考えてみては。(2015.6.12)

イスラミック・ステートによる文化財破壊のニュースから、明治初頭の廃仏毀釈へと話が進み、光雲のエピソードが紹介されています。先日放映されたNHKEテレさんの「日曜美術館 命を込める 彫刻家・高村光雲」の中でも少し扱われていたエピソードで、元ネタは昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』です。

神仏分離の政策は、王政復古となった慶応年間からすでに太政官布告の形で進められました。仏教の排斥を企図したものではなかったにも関わらず、各地で拡大解釈がなされ、エスカレート。廃藩置県前、中部地方のある藩では、藩主の菩提寺を含め、領内全ての寺院が破壊され、何と現在でも仏式の葬儀を行う家庭がほとんど無いということです。

『光雲懐古談』に記されたエピソードは、光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺という寺院境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになりました。請け負ったのは「下金屋」という金属のリサイクル業者。像に施されている箔の金を、焼却した後で取り出すというわけです。

今にも火をかけられる、という話が町の人から師匠・東雲の処にも007 (2)たらされましたが、あいにく師匠は留守。そこで、以前からそれらの観音像を手本とするため足繁く通っていた光雲が、現場に飛びます。業者と交渉の結果、特に出来がいいと目星をつけていた五体、それもすでに解体されていたものの部材を集めて、譲って貰いました。業者は足もとを見てふっかけてきたそうですが、後から駆け付けた師匠が支払いました。

そのうちの一体を、光雲は自分の守り本尊として師匠から買い取り、終生、手元に置いていたとのこと。江戸時代の仏師・松雲元慶の作で、右の画像の観音像です。現在も高村家に遺っているはずです。確かに光雲の作に通じる柔和なお姿ですね。

『光雲懐古談』のこのくだり、「青空文庫」さんで公開中ですので、ご覧下さい。四つの章に分かれていますが、ひとつながりです。



たかだか150年ほど前、我が国でもこうした乱暴な文化財破壊が行われていたわけで、イスラミック・ステートの暴挙も笑えません。

もっとも、『河北新報』さんの「河北春秋」(少し前には保守系の泡沫政党の議員が、別の日の「河北春秋」にお門違いの非難を開陳していて、笑えました)の最後に有るとおり、さらに近い過去である70年前の苦い経験も無視し、先人の守ってきた金科玉条を破壊しようとする為政者の支配する国ですから……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月14日

昭和23年(1948)の今日、散文「一刻を争ふ」を書き始めました。

稿了は翌日。翌月の雑誌『婦人之友』に掲載され、のち「季節のきびしさ」と解題の上、詩文集『智恵子抄その後』に収められました。

すでに2年余りを過ごした花巻郊外太田村の山小屋で、自然の営みの力に驚嘆させられることを綴っています。

今月7日の『毎日新聞』さんに、光太郎の名が。光太郎がメインではなく、親友の荻原守衛に関する内容で、東京大学名誉教授、姜尚中氏のコラムです。 

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熊本出身の姜氏、かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」に出演されていた頃、番組収録で信州安曇野の碌山美術館を訪れ、熊本と信州のつながりを実感されたそうです。

曰く、

つたのからまる教会風の碌山美術館には、高村光太郎と並び称される彫刻家・荻原守衛の作品が展示されているが、その守衛が夏目漱石の熱烈な愛読者であり、その号、碌山は、阿蘇を舞台にした漱石の『二百十日』の主人公のひとり、「碌さん」にちなんだらしいということが分かったのだ。

守衛の号は「碌山」。その由来は知られているようで意外と知られていない気がしますが、夏目漱石の短編小説「二百十日」(明治39年=1906)から採られています。守衛が漱石のファンだったためです。「二百十日」の登場人物の一人が「碌さん」。「碌さん」→「碌山」というわけです。

漱石は、明治29年(1896)、それまでの任地だった「坊ちゃん」の舞台、伊予松山から姜氏の故郷・熊本の旧制五高に赴任、同33年(1900)の英国留学に出るまでを過ごします。この地で中根鏡子と結婚しています。

「二百十日」は、熊本時代に同僚と阿蘇登山を試み、嵐にあって断念した経験を元に書かれました。主要登場人物は二人。「文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与える」べきだと豪語する「圭さん」。「坊ちゃん」を彷彿させられます。その威勢のいい言葉にうなずきながらも、逡巡し、それでも一生懸命生きようとする「碌さん」。

姜氏は、守衛が「圭さん」でなく「碌さん」に共感を覚えていることに注目し、次のように語っています。

「圭山」ではなく、「碌山」なのも、迷い、悩みながらも、「朋友を一人谷底から救い出す位の事は出来る」とつぶやく碌さんに、守衛が自分自身の姿を重ね合わせていたからではないか。迷いと思慕の情にあふれる「デスペア」や「女」、さらに毅然(きぜん)とした風格の「文覚」や「坑夫」などの代表作には、そうした守衛の弱さと強さが表れているように思えてならない。

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そしてご自分の中にも「碌さん」的な部分を見いだし、次のように結んでいます。

漱石や碌山とは比べようもないほど卑小だが、私の中にも碌さんに近いものがあるように思えることがある。そう思えば思うほど、熊本と長野はしっかりとした一本の糸で結ばれているようにみえる。

さながら「坊ちゃん」のように、某大学の学長職を投げ打って飛び出した氏は、「圭さん」に近いような気もするのですが……。


さて、光太郎。以前に書きましたが、文展(文部省美術展覧会)の評を巡って、漱石に噛みつきました。同様に、恩師・森鷗外にも喧嘩を売ったり(ただし、「文句があるならちょっと来い」と呼びつけられると、しおしおっとなってしまいましたが)と、「権威」というものにはとにかく逆らっていた光太郎。「圭さん」に近いような気がします。

歴史に「たら・れば」は禁物とよく言いますが、守衛と光太郎、名コンビとしての二人三脚が続いていたら、と思います。かえすがえすも守衛の早逝(明治43年=1910)が惜しまれます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月13日

平成10年(1998)の今日、短歌新聞社から大悟法利雄著『文壇詩壇歌壇の巨星たち』が刊行されました。

大悟法利雄は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山007牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

同書には、「高村光太郎 父光雲をいたわる神々しい姿」という章があります。おそらく昭和3年(1928)の光雲の喜寿祝賀会での光太郎一家、戦前の駒込林町のアトリエの様子、戦後、中野のアトリエに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り終えた光太郎を訪ねた際の回想などが記されています。

当方刊行の『光太郎資料』第37集に引用させていただきました。ご入用の方は、こちらまで。

昨日のこのブログで、岡山の地方紙『山陽新聞』さんの一面コラムをご紹介しましたが、同じ『山陽新聞』さんの一昨日の紙面には、こんな記事が載りました。岡山出身の日本画家・小野竹喬(ちっきょう)の子息に関してです。 

小野竹喬長男の戦時中日記を発見

 笠岡市出身の日本画家小野竹喬(1889~1979年)が後継者として期待した長男・春男は43年、太平洋戦争で戦死した。26歳だった。この春男が召集までの1年半、つづった日記が、9日までに京都市の実家で見つかり研究者らを驚かせている。芸術論から婚約者への恋心まで記され、これまで知られていなかった青年画家の実像が読み取れるからだ。
 調査した笠岡市立竹喬美術館(同市六番町)によると、春男直筆の文字資料が確認されるのは初めてという。
 戦後70年を機に春男作品の展示準備を進める同美術館に、遺族から日記発見の一報が入ったのは今年5月のこと。
 日記からは芸術論について、特に強い思いがあったことが分かる。
 「セザンヌをおし進めるとしても、そこに融合せしめなければならぬものがある。それは我々が東洋画に…鉄斎、大雅、法隆寺に感得するものを」。42年5月28日付には、フランスの画家セザンヌや文人画家富岡鉄斎らの名を挙げ、東西芸術の融合に並々ならぬ意欲を示した。
 春男は京都市出身。40年に同市立絵画専門学校(現同市立芸術大)を卒業後、41年5月の第6回京都市美術展で入選。美術雑誌にも名前が挙がる新鋭日本画家だったが、43年12月に戦死する。人物像はこれまで、わずかな作品のほか、近くに住んでいた作家水上勉や絵専の同級生の思い出などから想像するほかなかった。
 日記は1冊で、41年1月から42年7月の陸軍入隊直前まで約120ページ。41年1月3日に「我が形式を見出さねばならない」と、偉大な父を超えようと独自の芸術を目指す決意を記す一方、「今日で三日目。描かれた葉一枚がまだ満足なものではないのだ」(41年9月13日)、「この絵にかゝってから三ケ月目。再び自然を見た時。何んと俺の絵は概念的なのだらう。自然はもっともっと微妙に美くしい」(同年11月16日)など、日々の制作の苦悩を書き残している。
 最後の日付は42年7月3日。婚約者の名を記し「お前との交渉の半年が、君に対する俺の恋情を確固たるものにした。…たしかに愛するといふことは豊かにしてくれる」。まるで予感していたかのように、わずか6日後、召集令状が届き、帰らぬ人となった。
 同時に見つかった「書技帳 昭和十四年」と書かれたノートには、ニーチェ、ルソーら思想家やルノワール、セザンヌ、高村光太郎ら芸術家の言葉、またベートーベン、ワーグナーらの曲名も挙げられ、読書や音楽鑑賞など教養の広さもうかがえる。
 調査にあたった徳山亜希子学芸員は「理想と現実のギャップに悩みながら新しい日本画を求めて模索する青年の素顔が浮かび上がってきた。令状1枚で本人はもちろん家族の希望も断ち切る戦争のむごさも伝わる」と話している。
■春男の死、竹喬芸術にも影響 笠岡市立竹喬美術館の上薗四郎館長の話
 春男の死は父である竹喬にも大きな影響を与えた。戦死の報を受けた竹喬は、『これから二人分の仕事をする』と誓っている。戦後、よく描いた夕焼けや空に春男の魂を感じているような文章があり、息子の死が竹喬芸術をより深めたともいえる。
 ◇
 日記、ノートは作品とともに7月18日から9月6日まで、竹喬美術館の特別陳列「画学生小野春男と父竹喬」で公開される。初日と8月8日はギャラリーコンサートもある。問い合わせは同美術館(0865-63-3967)。


心いたむ記事です。当方の父親の実家近くに、戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんという美術館があります。そちらを想起しました。小野春男はもはや学生ではなかったようですが、前途有為な若者であったという点では同じですね。

今年は戦後70年にあたります。『毎日新聞』さんの連載「数字は証言する データで見る太平洋戦争」によれば、あの戦争での日本人戦死者は約230万人(異論もあり)とのこと。

一人一人の死の裏側に、こうしたドラマがあったわけですが、「永遠のナントカ」などと、それを美談に仕立て、何らの反省も行わないようでは、亡くなっていった人々も浮かばれないのでは、と思います。

小野春男がノートに書き記していた光太郎の言葉というのがどんなものなのか、記事では不明です。芸術論的なものからの抜粋で、小野が画家としてそれを心の支えにしていたというのなら、まだ救われますが、戦時中に大量に書き殴った空虚な戦争詩や散文だったとしたら、やりきれません。

昨日のブログで書いた、「もう一つの大地が私の内側に自転する 」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態が長く続かなかった、というのは、ここにつながります。昭和16年(1941)に『智恵子抄』を上梓した後、詩の世界で智恵子が謳われることはもはやなくなり(戦後まで)、光太郎は全身全霊を空虚な戦争賛美の作品に傾けていきます。

小野がそれをどんな想いで書き記していたのかにいたっては、もはや確かめるすべはありません。そう考えると、このノート、見てみたいような、見るのが恐ろしいような、そんな気分です。

笠岡市竹喬美術館の企画展は以下の通りです。 

平成27年度展覧会 画学生 小野春男と父 竹喬

期 日 : 平成27年7月18日(土曜日)~9月6日(日曜日)
会 場 : 笠岡市竹喬美術館 県笠岡市6番町1-17
時 間 : 9時30分~17時
休館日 : 毎週月曜日(ただし祝日にあたる7月20日は開館し、翌21日は休館します)
入館料 : 一般500円 高校生300円 市外小中学生150円

関連行事:
ギャラリーコンサート
いずれの回も、入場整理券(一般500円、竹喬美術館友の会会員は無料)を竹喬美術館にて6月より配布しますので、事前にお買い求めの上ご来場下さい。入場整理券で当日18時からに限り展覧会もご覧いただけます。
 ◇ソプラノ村上彩子「平和祈念 父・竹喬 息子・春男の目指した道」 平成27年7月18日(土曜日)18時30分開演
 ◇ソプラノ村上彩子「小野春男・葛原守 戦没学生蘇る70年の時」 平成27年8月8日(土曜日)18時30分開演
ギャラリートーク
 7月25日(土曜日)・8月23日(日曜日) 13時30分~14時30分 聴講無料(入館料が必要)、予約不要


こういう若者がまた現れるであろう方向に、この国は再び向かいつつあります。それでいいのでしょうか?


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月12日007

平成23年(2011)の今日、大阪府池田市の逸翁美術館で開催されていた企画展「与謝野晶子と小林一三」が閉幕しました。

小林一三は実業家。阪急電鉄や宝塚劇場などの創業者です。

与謝野鉄幹・晶子夫妻の援助者としても知られ、小林の元には夫妻の書などが大量に遺されました。

その中に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌をしたためた屏風絵が2点あって、この企画展に出品されました。光太郎の絵画としては新発見の物で、非常に驚きました。

晶子の書簡の中に「小林市三氏の画まことによく出来申候(高村氏の筆)」という一節があり、これを指していると考えられます。

ただし、2点とも屏風には仕立てられて居らず、マクリの状態で保存されています。明治44年(1911)の作品です。

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当方の住む関東地方も、今週初めに梅雨入りいたしました。当方自宅兼事務所の紫陽花です。

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もともと梅の実が熟する頃、というわけで「梅雨」の時が当てられたものです。「梅」といえば「智恵子抄」に収められた「梅酒」。「智恵子抄」の中で、この詩が一番好き、という方も多いようです。

  梅酒
 
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、007
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。

画像は以前にいただいた、イラストレーター・河合美穂さんの作品です。


「梅酒」を今日の『山陽新聞』さんの一面コラムで取り上げて下さいました。

滴一滴

店頭に青梅が出回っている。梅酒づくりの季節である。梅干しは難しくて…という人でも手軽にできることからファンは多い。工夫次第でわが家だけの味が楽しめるのも魅力だ▼氷砂糖の代わりに蜂蜜や黒糖を使ってもいい。無色透明の焼酎ではなく、香りのいいブランデーやウイスキーを入れるという人もいる。青梅の時季は短いが、黄色く熟した梅を使っても独特の風味に仕上がるという▼高村光太郎の詩「梅酒」を思い出す。<死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、いま琥(こ)珀(はく)の杯に凝って玉のようだ>(「智恵子抄」から)▼精神を病む前の最愛の妻が、この世に遺(のこ)していった。早春の夜更けの寒い時に召し上がってくださいと。その梅酒を光太郎は台所の片隅に見つけ、ひとり、しずかにしずかに飲む。その味わいは<狂瀾(きょうらん)怒(ど)濤(とう)の世界の叫もこの一瞬を犯しがたい>▼生涯のほぼ半分を結核と闘った俳人・石田波郷には、こんな作品がある。<わが死後へわが飲む梅酒遺したし>。呼吸をするのも苦しかった没年の作という▼きょうは「入梅」。立春から数えて135日目に当たり、青梅の収穫もピークを迎える。梅酒は法律に基づいて自宅でつくり、自ら楽しむことができる身近なお酒だ。甘酸っぱいその味は、時に人生の深い一滴も含んでいる。


「梅酒」が書かれたのは昭和15年(1940)。前年にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。日中戦争は既に泥沼化し、日独伊三国同盟が締結され、翌年には太平洋戦争が始まる、そんな時期です。

そういう世相が「狂瀾怒涛の世界の叫」と表されています。しかし、それも智恵子の遺した梅酒を静かに味わう感懐には無縁、と謳っています。

かなり前の作品ですが、昭和7年(1932)の詩「もう一つの自転するもの」でも、同じような内容を謳っています。

  もう一つの自転するもの008

春の雨に半分ぬれた朝の新聞が
すこし重たく手にのつて
この世の字劃をずたずたにしてゐる

世界の鉄と火薬とそのうしろの巨大なものとが
もう一度やみ難い方向に向いてゆくのを
すこし油のにじんだ活字が教へる
とどめ得ない大地の運行
べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく
もう一つの大地が私の内側に自転する


画像は岩手県奥州市の人首文庫さんからいただいた、掲載誌『文学表現』に送られた草稿のコピーです。

しかし、「もう一つの大地が私の内側に自転する 」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態は長く続きませんでした。

その結果、どうなって行くのか、以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月11日

昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で開催されていた「高村光太郎の芸術」展が閉幕しました。

光太郎展としてはかなり早い段階のものです。

新刊です。 

大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣

2015/5/25 奥田万里著 幻戯書房 定価2,000円+税

帯文から

荷風『断腸亭日乗』に記され、杢太郎の詩に詠まれ、晶子がその死を悼んだ男とは?

志賀直哉 吉井勇 北原白秋 小山内薫 高村光太郎 尾竹紅吉 平塚雷鳥 大杉栄 堺利彦 長谷川潔 関根正二 太田黒元雄 ポール・クローデルら文士ばかりでなく、芸術家や社会主義者も集った西洋料理店&カフェ「鴻乃巣」の店主・駒蔵のディレッタントとしての生涯を追った書下ろしノンフィクション。

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「メイゾン鴻乃巣」とは、明治43年(1910)、日本橋小網町に開店した西洋料理店です。のちに日本橋通一丁目、さらに京橋に移転、大正末まで「文化の発信基地」的な役割を担いました。光太郎、北原白秋、木下杢太郎らの芸術運動「パンの会」の会場として使われています。ただし、「パンの会」は案内状まで発送して大々的に行う「大会」と、通常の会の二通りがあり、「メイゾン鴻乃巣」では「大会」は開催されなかったようです(実はこのあたり、同書には勘違いがあって、少し残念です)。

本書はその店主・奥田駒蔵の生涯を追ったノンフィクションです。著者の奥田万里氏は、駒蔵の孫・恵二氏夫人。万里氏から見れば、駒蔵は義祖父ということになります。駒蔵は大正14年(1925)、満43歳で早逝しており、奥田家でも孫の代になるとその業績等、全くといっていいほど不明だったようです。本書は、その駒蔵の生涯を、ご親戚への聞き取りや当時の文献調査などにより、明らかにした労作です。

元は平成20年(2008)、かまくら春秋社からエッセイ集として刊行された『祖父駒蔵と「メイゾン鴻之巣」』。そちらをベースに加筆修正されています。

先月はじめごろ、当会顧問の北川太一先生から、その元版を入手してくれという指示があり、調べてみたところ、月末には新版が刊行されるという情報を得、さっそく北川先生の分と当方の分、2冊予約し、2週間ほど前に届きました。

帯文に光太郎の名がありますが、光太郎もメイゾン鴻之巣によく足を運んでおり、その作品中に登場します。

 飯田町の長田秀雄氏の家の近くの西洋料理店を思ひ出す。ヴエニス風な外梯子のかかつてゐた、船のやうにぐらぐら動く二階で北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇等の諸氏に初めて会つたのだと思ふ。何だか普通の人と違つてゐるので面白かつた。此人達の才気横溢にはびつくりした。負けない気になつて、自分も馬鹿にえらがつたり、大言壮語したり、牛飲馬食したり、通がつたり、青春の精神薄弱さを遺憾なくさらけ出したものだ。真剣と驕飾とが矛盾しつつ合体してゐた。自己解放の一つの形式だつたのだと思ふ。掘留の三州屋の二階。永代橋の橋際の二階。鳥料理都川の女将。浅草のヨカロー。小舟町の鴻乃巣。詩集「思ひ出」。雑誌「方寸」。十二階。
(「パンの会の頃」 昭和2年=1927)

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあつた三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集つたものである。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

奥田さんといふ奇人の創めた小網町河岸のカフエ「鴻の巣」は梁山泊の観があつたし、下町の明治初年情調ある小さな西洋料理店(例へば掘留の三州屋)などを探し出して喜んだりした。
(「あの頃――白秋の印象と思ひ出――」 昭和18年=1943)

相変らず金に困り、困るからなほ飲んだ。鴻乃巣だの、三州屋だの、「空にまつかな雲のいろ」だのといつても、私のは文学的なデカダンではなくて、ほんとに生活そのものが一歩一歩ぐれてゆくやうで、足もとが危険であり、精神が血を吐く思ひであつた。
(「父との関係」 昭和29年=1954)

以上四篇はエッセイですが、詩では連作詩「暗愚小伝」中の「デカダン」(昭和22年=1947)に、当時を回想しての

鎧橋の「鴻の巣」でリキユウルをなめながら
私はどこ吹く風かと酔つてゐる。
酔つてゐるやうにのんでいる。


との一節があります。

すぐに思い出したのは以上ですが、精査すればもっとあるかもしれません。

また、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、同店の名物の一つが、ロシアから輸入したというサモワールだったそうです。

その記述を読んで、当方のアンテナが発動しました。「『道程』時代の詩にサモワールが出てきたは004ず」と。調べてみると、明治44年(1911)に書かれた「或日の午後」という詩でした。

     或日の午後

 珈琲(カフエ)は苦く、
 其の味はひ人を笑ふに似たり。

 シヨコラアは甘(あま)く、
 其のかをり世を投げたるが如し。

 ふと眼にうかぶ、
 馬場孤蝶の凄惨なる皮肉の眼(まな)ざし。

 サモワアルの湯気は悲しく、さびしく、完(まつた)くして、
 小さんの白き歯の色を思はしむ。

 此の日つくづく、
 流浪猶太人(ル・ジユイフ・エラン)の痛苦をしのべば――
016
 心しみじみ、
 春はいまだ都の屋根に光らず――

 珈琲(カフエ)は苦く、
 シヨコラアは甘し、
 
 倦怠は神経を愛撫す、
 或る日の午後。


雑誌『スバル』に発表された詩です。残念ながら詩集『道程』には採られませんでした。画像は『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』から採らせていただきました。絵画もたしなんだ奥田駒蔵自筆のメイゾン鴻乃巣店内です。サモワールも描かれています。

明治末にサモワールがどの程度普及していたのかよくわかりませんが、「メイゾン鴻乃巣」名物と云われるということは、かなり珍しかったのではないのでしょうか。そうすると、この詩の舞台も「メイゾン鴻乃巣」のように思われます。

これも『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知りましたが、鴻乃巣のサモワールにはこんなエピソードもあります。

やはり明治44年(1911)の雑誌『白樺』の編集後記に、こんな記述があるそうです。

同人の九里四郎は丁度仏蘭西に絵の研究に行つた。お名残の展覧会が琅玕洞で十日斗り開かれてゐた。十七日の日曜日には九里が御ひいきのメーゾン鴻の巣が九里の為めに「雷のやうにピカピカ光るサモワール」を持ち出して御客様に御茶をすゝめた。当日は主人自ら出張してめざましく働いてゐた。

「琅玕洞」は前年に光太郎が神田淡路町に開いた我が国初の画廊です。ただし、この時点では琅玕洞の経営は光太郎の手を離れています。ただ、譲渡後も琅玕洞で自分の個展を開こうとしたり(結局実現せず)しているため、時折足は運んでいたようです。


サモワールがらみでもう一件、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで興味深く思ったことがありました。

佐渡島に住んでいた歌人の渡辺湖畔との関わりです。湖畔は共通の知人であった与謝野夫妻を通じ、大正9年(1920)、駒蔵にサモワール購入の斡旋を頼んだというのです。

「ここで湖畔が出てくるか!」と思いました。湖畔はのち、大正15年(1926)に、光太郎の木彫「蟬」を購入している人物です。その縁で、令甥に当たる和一郎氏ご夫妻は、時折連翹忌にご参加くださっています。


他にもいろいろと、光太郎と奥田駒蔵の関わりがあります。

光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるった、「メイゾン鴻乃巣」のメニューの存在が、大正2年(1913)9月21日の『東京日日新聞』に紹介されています。これはぜひ見てみたいのですが、現存が確認できていません。当時の雑誌などに口絵の形で載ったものでも……と思って探し続けていますが、いまだに見つかりません。

また、これも、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、大正10年(1921)の新詩社房州旅行に、光太郎智恵子ともども、駒蔵も参加していたそうです。この旅行に関しては、この頃から智恵子の言動が少し異様だったという深尾須磨子の回想が残っています。また、伊上凡骨も此の旅行に参加しています。


とりあえず、光太郎に関わる部分のみを紹介しましたが、全体に非常に面白い内容でした。奥田駒蔵という人物のある意味自由奔放な、しかし世のため人のためといった部分を忘れない生き方、その周辺に集まった人々の人間模様などなど。

さらに、著者の奥田万里氏の調査の過程。当方も光太郎智恵子について、聞き取りやら文献調査やらで同じような経験をしているので、「あるある」と、共感しながら読ませていただきました。ただし、光太郎智恵子については当会顧問の北川太一先生はじめ、先哲の方々の偉大な業績があって、当方はその落ち穂拾い程度ですが、奥田氏の場合、ほぼゼロからのスタート。頭が下がりました。

そして、全編に義祖父・駒蔵へのリスペクトの念が満ち溢れていることにも感心しました。


やはり人を論ずる場合、その人に対するリスペクトが感じられなければ、読んでいて鼻持ちなりません。逆に言えば、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」と言いたくなります。

余談になりますが、ある大手老舗出版社が出しているPR誌の今月号に、「智恵子抄」に関するエッセイが載っています。筆者は辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。「○○は、現在××と△△からしか出版されていない」、いやいや「□□と◇◇からもちゃんと出版されているよ、マイナーな出版社のラインナップだけど」と云う感じです。

「解釈」の部分は主観なので、その人の勝手かも知れませんが、客観的な事実の部分までテキトーに書いて、そしてこの方のお家芸(少し前には、光太郎智恵子を取り上げたあるテレビ番組についても、見当外れの罵詈雑言を某新聞の地方版に発表しているようです)ですが、とにかく揚げ足取りや「批判」をしなければ気が済まない、みたいな。その辛口ぶりがかえって新鮮でもてはやされているようですけれど、「それではあなたの仕事が数十年後まで残りますか?」と問いたくなりますね。

むろん、論じる対象に対し、妄信的、狂信的にすべて賞賛すべきとはいいませんが、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」です。反面教師とするために論じるというのであれば別かもしれませんが、この人の書き方は揶揄や軽侮が先に立っていて、批判するために批判しているようにしか読めません。

当方、その筆者のセンセイにリスペクトを感じませんので、これ以上は論じません。


閑話休題、リスペクトの念に溢れた『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』、ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月10日

昭和22年(1947)の今日、日本読書組合から、『宮澤賢治文庫 第三冊』が刊行されました。

第二回配本で、「春と修羅 第二集」。宮澤清六と光太郎の共編、光太郎は装幀、題字と「おぼえ書き」の執筆もしています。

当方手持ちの全6巻は、現在、花巻の高村光太郎記念館にて展示中です。

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現在、武蔵野美術大学美術館さんで開催中の「近代日本彫刻展」の図録が届きました。

先月末、観に行ってきたのですが、その際は図録がまだできていないということで、郵送していただくよう手続きをしておいたものです。表紙は光太郎の木彫「白文鳥」。

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英国のヘンリー・ムーア・インスティテュートとの共同開催で、今年1月から4月までは英国リーズでの開催でした。そこで、半分は英文です。しかし、邦訳も付いているので助かりました。

英国の研究者3名による対談が、非常に興味深く感じられました。3名は、ヘンリー・ムーア・インスティテュート館長のリサ・ルファーブル氏、同館学芸員のソフィー・ライケス氏、そしてロンドン大学教授のエドワード・アーリントン氏。

目から鱗だったのが、西洋諸国には今回出品されているような、動物をモチーフにした小品の彫刻が存在しない、というくだりでした。あちらでは「彫刻」というと偉人などの肖像や人体が基本。動物彫刻もあるにはあっても、ライオンなどの比較的大きな物ばかりだというのです。

ちなみに今回の出品作は、以下の通り。

・「手」 高村光太郎 大正7年(1918) 頃 ブロンズ、木彫(台座部分)
・「白文鳥」 高村光太郎 昭和6年(1931)頃 木彫
・「冬眠」 佐藤朝山  昭和3年(1928) 木彫
・「石に就て」 橋本平八 昭和3年(1928) 木彫/「石に就て」 の原型となった石
・「干物(めざし)」「静物(干物)」「静物(カタクチイワシ)」「静物(豆)」
 「静物(骸)」  横田七郎 昭和3年(1928)~同4年(1929) 木彫
・「蘭者待 模刻」 森川杜園 明治7年(1873) 木彫

さらに英国展では、以下が出品されていました。

・「海老」 水谷鉄也 大正15年(1926) 木彫
・「海幸」 宮本理三郎 制作年不明 木彫

このうち、題名でわかりにくい佐藤朝山の「冬眠」がガマガエル、横田七郎の「静物(骸)」は小鳥の死骸、森川杜園の「蘭奢待 模刻」は正倉院収蔵の香木、宮本理三郎の「海幸」は魚の干物です。

西洋では、こうしたものが彫刻のモチーフになることがない、日本人は「自然」全体からモチーフを採っている、というわけです。


また、唯一、人体をモチーフにした光太郎のブロンズの「手」も、台座の木彫部分とのコラボレーションに、非常に特異なものを感じているようです。


曰く、007

この台は作品の奥深くまで伸びており、作品を直立させています。しかし、手を取り去って台座自身を見てみると、思いがけず素晴らしいものを目にします。(略)台座はそれ自体彫刻なのです。(略)この台は生長する、生きているもののように思われ、木の枝や根あるいは幹に似ています。そして、この有機的な木の土台からブロンズの手が生えているように思えるのです。(ヘンリー・ムーア・インスティテュート学芸員ソフィー・ライケス氏)

図録には、ブロンズ部分を取り去った台座のみの写真も掲載されています。

当方、この状態の実物はまだ見たことがありませんが、いずれそういう機会もあるかと期待はしています。


それから、日本人研究者による論考3本も、なかなかに読みごたえがありました。小平市立平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏の「展示作品の作家について:歴史背景と経歴」、武蔵野美術大学彫刻科教授の黒川弘毅氏による「媒体と素材:リアリズムについての考えの差異」、大分大学教育福祉学部教授の田中修二氏で「日本彫刻への視点:1910年代~1930年代における彫刻家の社会的背景」。


さらに、英国人研究者の論考2本からも彼我の彫刻に対する認識の違いが見て取れます。一例を挙げれば、西洋では「共箱」という概念もないということ。今回、武蔵野美術大学美術館さんでの展示では、光太郎の「白文鳥」の共箱が並んでいましたが、意味もなく並べてあったのではなかったわけです。


その他、近代日本の彫刻史についても随所で触れられ、光雲や荻原守衛などについても記述があります。展示作品以外の図版も豊富。お買い得です。

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武蔵野美術大学美術館さんでの展示は8月16日まで。ただし、「手」が2つ並ぶのは今月20日までです。ぜひ足をお運びいただき、図録もご購入ください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月9日

昭和47年(1972)の今日、この月2日に亡くなった、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝・豊周に、追善のため従四位銀杯一個が贈られました。

先月30日、東京は中野区にある、中西利一郎004氏のお宅にお邪魔して参りました。

氏のお父様は、水彩画家の故・中西利雄氏。小磯良平、猪熊弦一郎らと新制作協会を結成しました。同会は昭和11年(1936)、文部省による美術団体統合に異を唱える若き画家達によって結成された団体。後に佐藤忠良、舟越保武らの彫刻家も同人として加わりました。光太郎自身は加わりませんでしたが、近い位置にいた美術家の団体といえます。

右は2年ほど前に見つけたのですが、同会の機関誌的な雑誌『新制作派』の第5号。昭和15年(1940)の発行です。この中に『高村光太郎全集』未収録の「彫刻について」という短い文章が掲載されています。

そして表紙は中西利雄氏の絵です。

その中西利雄氏は、昭和23年(1948)、数え49歳で早世。その直前に竣工していたアトリエは、使われずじまいだったそうです。

その後、せっかくのアトリエを使わないでおくのももったいないということで、貸しアトリエとして使用。昭和26年(1951)頃には、彫刻家のイサム・ノグチが借りています。ノグチはその頃、昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんと結婚していました。ただし、ノグチ夫妻はここに居住はしていなかったそうです。

その後、昭和27年(1952)の秋から、昭和31年(1956)4月2日まで(途中、一時的に岩手に帰ったり、赤坂山王病院に入院したりした時期もありますが)、花巻郊外太田村から出てきた光太郎がここに居住。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。

裸婦像完成後は再び太田村に帰るつもりでいた光太郎ですが、健康状態がそれを許しませんでした。昭和28年(1953)に一時的に太田村に帰ったものの、また上京、以後、太田村には戻れませんでした。

さらに、光太郎歿後約1年、ここで最初の『高村光太郎全集』の編集が行われました。中心になったのは、当会顧問・北川太一先生、そして草野心平。そして当会の運営する連翹忌の第1回(昭和32年=1957)も、ここで行われています。

さて、中西家アトリエ訪問。当方、外から拝見したことは以前にもあったのですが、中に入れていただいたのは初めてでした。当主の利一郎氏が時折連翹忌にご参加下さっていて、「見にいらっしゃい」的なことをおっしゃってくださっていたのですが、中々機会がありませんでした。

利一郎氏、ひさしぶりに今年の連翹忌にご参加下さり、さらに連翹忌ご常連で、智恵子の学んだ太平洋画会会員の坂本富江さんを交え、今回の訪問が実現しました。

坂本さんとJR中野駅で待ち合わせ、記憶を頼りに歩くこと約10分で到着。

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上記3枚は裏からの眺めです。

表に回るとこうです。住宅密集地なので、超広角レンズでも使わないと全体像はうまく撮影できません。

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訪いを告げ、敷地に入れていただきました。

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瀟洒な建物ですが、もう築70年ほどになりますから、やはり傷みが見られます。

そしていよいよ内部へ。

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故・髙村規氏撮影の光太郎の遺影が出迎えてくれました。

こちらは『高村光太郎全集』に掲載されているアトリエ内部の図面です。

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基本的にはこの通りのままでした。ただし、光太郎が使っていた彫刻の道具類、家具類、身の回りの物などはほとんど残っていません。また、やはり超広角レンズでもなければ全体像は撮れません。

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このあたりに制作中の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が立っていました。

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窓は北向き。造形作家のアトリエでは基本です。

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ここに光太郎が起居し、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り、そして最期の時を迎えたかと思うと、「感慨深い」どころではありませんでした。やはりその場所の空気に触れることで、見えてくるものがあります。何が見えたかというと、うまく言葉で表せませんが。

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その後、当時の写真、光太郎が遺した中西利雄夫人宛の書簡、夫人に託した買い物メモなどを拝見しました。いずれも活字になったものやコピー、画像等は拝見したことがありますが、実物は初めてでした。また、光太郎が当時中学生の利一郎氏にくれたお年玉ののし袋――原稿用紙を折りたたんで作り「のし」と書いたもの――には、思わず笑いました。

というわけで、有意義な訪問でした。

しかし、中西家としては、いろいろ課題もあります。やはり築70年ほどで傷みの目立つこの建物を、今後どうするかという問題。あくまで中西利雄のアトリエであって、光太郎のアトリエというわけではないということもありますし。

花巻郊外旧太田村の山小屋は、中尊寺金色堂のように套屋で覆って保存されています。また、福島二本松の智恵子の生家は、大規模補修復元工事を入れました。そうなると、個人の力では不可能ですね。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月8日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤家で、水彩画「牡丹」を描きました。

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後に花巻病院長・佐藤隆房に送られたこの絵は、現存が確認されている中で、日本画を除いて最大の水彩画です。他にも同様の作品がこの時期に描かれましたが、他は8月10日の花巻空襲の際に焼けてしまいました。

現在、この絵は花巻高村光太郎記念館で開催中の企画展「山居七年」で展示中です。

昨日は急遽、東京上野に行って参りました。東京都美術館さんで開催中の、「第103回 日本水彩展」観覧のためです。

光雲の令孫、光太郎の令甥にあたる藤岡光彦氏からご案内をいただきました。氏は光太郎の実弟にして藤岡家に養子に行った故・藤岡孟彦氏の子息。ほぼ毎年、連翹忌にご参加下さっています。

氏は趣味として水彩画に取り組まれていて、このたび、「第103回日本水彩展」入選を果たされ、東京都美術館さんにて展示ということで、招待券を戴いてしまいました。調べてみると、同展は日本水彩画会さんの主催。この会は大正2年(1913)、光太郎と親交のあった石井柏亭や南薫造らの創設した団体でした。「これは行かなきゃなるまい」と思い、行ってきた次第です。今月9日までの会期です。

東京はまだ梅雨入り前、さわやかな天気でした。それに誘われてか、上野の山は多くの人出でした。

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会場は地下でした。案内の矢印を頼りに進むと「日本水彩展」のポスターが。「おお、あそこか」と思って近づくと、隣のポスターは「大調和展」。驚きました。同展は光太郎と親交の深かった武者小路実篤の肝いりで始まったもので、昭和2年(1927)の第一回展、翌年の第二回展に光太郎が彫刻を出品しています。実は現代まで続いているというのを存じませんでした。汗顔の至りです。

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さて、「日本水彩展」。入り口近くに出品者名簿(一人一人の展示場所が書かれています)が貼ってあり、有り難い配慮でした。申し訳ありませんが、この手の公募展は出品点数が多く、全部をじっくり見る余裕がありません。

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藤岡氏のお名前を見つけ、一目散に第16室に向かいます。

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こちらが第16室。氏の作品は、事前に薔薇の絵だと聞いておりましたので、すぐに解りました。

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素晴らしい!

こういう言い方は失礼かも知れませんが、氏は御年90に近いはずなのですが、それを感じさせない若々しい感性に脱帽です。やはり芸術一家高村家のDNAがなせる業でしょうか。

ちなみに氏のお父様、故・藤岡孟彦氏はこちら。

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比較的面長の風貌は、実兄・光太郎とよく似ています。

旧制一高から東大農学部に学び、植物学を修められました。そのころ、明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

三重高等農林学校講師、兵庫県農業試験場などを経て、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。鯉淵学園では、十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した光太郎が、昭和27年(1952)に講演を行っています。この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。

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孟彦は帰京直前の光太郎を花巻郊外太田村に訪ねています。その際に、東京に戻るなら、自分の学校で講演をしてくれるよう依頼したようです。

さて、子息光彦氏の作品を拝観後、東京都美術館さんをあとにしました。企画展「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」が開催中ですが、混んでいそうなのでやめました。「大調和展」も、パーテーションの隙間からちらっと拝見したのみでした。

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そして、近くの東京国立博物館さんへ。

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先週放映された「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」を観て、また藤岡氏のお爺さま、光雲の「老猿」を観たくなったので、上野に来たついでもあり、観て参りました。

約一年ぶりに拝見しましたが、何度観てもいいものです。

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やはり「日曜美術館」の影響でしょうか。「老猿」の周りには黒山の人だかりでした。同じ展示室内の光太郎作の「老人の首」はあまり足を止める人もなく……(涙)。

ところで、「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」。今夜8時から、NHKEテレさんで再放送です。ご覧になっていない方、いや、先週ご覧になった方も、もう一度ぜひどうぞ。

こちらでは特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」が開催中ですが、何と3時間待ちだそうで、やはり断念。その代わりと言っては何ですが、「上野に来たついでだ」と思い、やはり光雲の手になる「西郷隆盛像」も観て参りました。

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考えてみると、西郷さんをちゃんと観るのも久しぶりでした。

というわけで、有意義な上野散策でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエで花巻郊外太田村山口の駿河重次郎に葉書を書きました。

椎茸たくさん送つて下さつてありがたく存じます、東京は毎日雨がふつて居ます、 山の小屋も雨がさかんにもつて居るだらうと思つて居ます、 彫刻の仕事も今型どりを終りかけてゐます、とりあへず御礼まで、

駿河は光太郎が暮らした山小屋周辺の土地を提供してくれた人物で、農作業についても光太郎に懇切丁寧に教えてくれました。光太郎と年も近く、山口地区では最も光太郎が親しく交わった一人でした。めったに他人を呼び捨てにしない光太郎が、親しみを込めて「重次郎」と呼び捨てにしていたそうです。

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こちらは翌年秋、十和田湖畔の裸婦群像完成後、一時的に太田村に帰った時の駿河家でのショットです。

ところで、先日、上記葉書が書かれた光太郎の終焉の地・中野のアトリエを訪問して参りました。明日はそちらをレポートします。

昨年の第58回連翹忌で演奏をしていただき、会に花を添えて下さったフルート奏者の吉川久子さん。連翹忌で演奏をお願いしたのは、一昨年、「心に残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートをなさったのがご縁でした。

さて、直接、光太郎智恵子にからむわけではないようですが、近々、吉川さんが下記のコンサートをなさいます。

心に残る美しい日本のうた 東北、その豊穣の大地に遊ぶ

期 日 : 2015年6月25日(木)
時 間 : 開場13時  開演13時30分
会 場 : 横浜みなとみらいホール・小ホール 横浜市西区みなとみらい2-3-6
料 金 : 全席自由 2,500円
主 催 : 心に残る美しい日本の曲を残す会
出 演 : 吉川久子(フルート) 海老原真二(キーボード) 三浦肇(パーカッション)

東北大震災から丸4年が経過しました。被災地はいまだに復興途上にあり、多くの人々が仮設住宅で暮らしています。原発事故のあった福島では、いまだに故郷に戻る見通しさえ叶わない人々がいます。復興が順調に進み、故郷に人々の笑顔と賑わいが戻る日が一日も早く来ることを、願わずにはいられません。
震災以降、コンサートでは宮沢賢治、智恵子抄、野口雨情と、被災地に馴染み深い人物像を通して、東北の豊かさを童謡や抒情歌に託して紹介してきました。
第10回を数える今年の記念コンサートは、「東北、その豊穣の大地に遊ぶ」と題して、岩手、宮城、福島に残る童謡、民謡、民話などにスポットをあて、東北の大地のぬくもりと、心やさしい人々の魅力を伝えていきます。
本年も横浜在住のフルート奏者・吉川久子が、ご来場の皆さんと岩手、宮城、福島に届けとばかりに、復興への想いを一つにします。
ご来場を心からお待ちしています。

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直接、光太郎智恵子に関わるコンサートではないようですが、東北への想い、ということで、東北に縁の深い光太郎智恵子を偲びつつ聴きたいと思います。


実は先月23日、やはり直接光太郎智恵子にからまない吉川さんのコンサートを聴いて参りました。場所は当方生活圏近くの千葉県印旛郡栄町にある千葉県立房総のむら

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千葉県立房総のむらは、「参加体験型博物館」と位置づけられているユニークな施設です。竜角寺古墳群という大規模な古墳群の中に建ち、自然公園的な面もあります。また、江戸時代の街並みが復元され(モデルは当方の住む香取市の旧市街)、それぞれの建物で、そば打ちや伝統工芸品などの制作といった、さまざまな体験学習ができるようになっています。ここではよくテレビ番組などのロケも行われています。

また、復元だけでなく、実際の文化財の建造物も移築保存されています。愛知の明治村のような感じです。

そのうちの一つが、旧学習院初等科正堂。明治32年(1899)の建築で、国の重要文化財です。元は東京尾張町にあったものが移築されています。ここがコンサート会場でした。

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学習院ということは、光太郎もその同人だった白樺派の主要メンバー、志賀直哉、有島兄弟、武者小路実篤らが学んだ場所です。そう思って観ると、感慨深いものがありました。

室内も実にいい感じです。

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面積を考える時、我々柔道経験者は「試合場が何面取れる」と考えます(笑)。試合場一面は、昔は50畳でした。現在はルールが改正され、40.5畳ないしは32畳です。ここは優に2面、間を開けなければ3面取れます。

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この机兼椅子は、当時の物ではないのでしょうが、雰囲気にはぴったりです。
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ステージです。柱も見事な造作です。

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窓や扉も大きく、重厚感に溢れていました。

建物だけでなく、もちろん吉川さんの演奏も素晴らしいものでした。

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さすがに、最近もセルビア大使館や秋篠宮ご夫妻を前に演奏なさったり、JR鎌倉駅の発着メロディー(電子音でないのは非常に珍しいそうです)も手がけられたりなさってている実力派です。


25日の「東北、その豊穣の大地に遊ぶ」も期待しております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月6日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山口分教場校庭で、花巻賢治子供の会の演劇公演を観ました。

賢治の教え子だった照井謹二郎の作った児童劇団で、前年に続き2度目の太田村公演。光太郎の慰問が大きな目的でした。

この日の演目は「カイロ団長」「小兎(英語劇)」「どんぐりと山猫」でした。

コンサート情報です。 
日 時 : 2015年6月19日(金) 18:30開演(18:00開場)
会 場 : 渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール
主 催 : 二期会日本歌曲研究会
後 援 : 公益財団法人東京二期会

料 金 : 全席自由 ¥3,500
   
構成・制作:宮本哲朗   制作補佐:山本富美
 
出演:
(ソプラノ)  安陪恵美子、飯塚千尋、内田もと海、木内弘子、 久保太麻子、黒川京子、小池芳子、福成紀美子、 前澤悦子、前中榮子、山本富美、和澤康代 
(メゾソプラノ) 清水邦子
(バリトン) 馬場眞二
(ピアノ) 東井美佳、朴 令鈴、森 裕子 

演奏曲目:
 山田耕筰 からたちの花
 中田喜直 桐の花/たんぽぽ/悲しくなったときは/「四季の歌」より 春の歌/秋の歌/
      冬の歌 
 清水 脩 「智恵子抄」より あなたはだんだんきれいになる/あどけない話
 高田三郎 くちなし
 別宮貞雄 「二つのロンデル」 雨と風/さくら横ちょう
 武満 徹  翼/死んだ男の残したものは
 早川史郎 れんげ畑/ウイスキーボンボン/おやすみなさい
 木下牧子 ほんとにきれい/月の角笛/竹とんぼ/「愛する歌」より
                                                              誰かがちいさなベルをおす/さびしいカシの木 
 前田佳世子 夜はやさしい/遠いひと
 朝岡真木子 さくらよ/花のなみだ/「おとうさんの子もり歌」より うちのねこ
[委嘱作品]
 組曲「あなたへ」 星乃ミミナ 詩・朝岡真木子 曲
                                                      1.あこがれ 2.あなたへ 3.夢 とおく 4.優しさの力 

ご予約・お問合せ:二期会チケットセンター 受付電話 03-3796-1831 FAX 03-3796-4710
受付時間:平日10:00~18:00/土曜10:00~15:00/日・祝休業
チケット取扱:東京文化会館チケットサービス 03-5685-0650

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4月にあった二期会歌曲研究会さんのコンサートでも、清水脩作曲の「歌曲集「智恵子抄」」から同じ曲の演奏がありました。出演者もかぶっているようで、同じ方の演奏なのかも知れません。

音楽を通して光太郎智恵子の世界を表現、そして広めて下さるのもありがたいことです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月5日

昭和2年(1927)の今日、新潮社から『昭和詩選』が刊行されました。

川路柳虹の外遊を援助する意味で、佐藤惣之助、福田正夫、白鳥省吾、室生犀星、千家元麿、百田宗治、萩原朔太郎の七名が発起、広く詩壇に呼び掛けて作品を募りました。

光太郎もこれに応え、「偉大なるもの」「ミシエル・オオクレエルを読む」を提供しました。

当会顧問、北川太一先生から情報のご提供を戴きました。 

第5回 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い

主  催 : 社団法人東京精神科病院協会
会  期 : 平成27年6月17日(水)~6月21日(日) 10時~19時(最終日は17時まで)
会  場 : 東京芸術劇場 ギャラリー1  東京都豊島区西池袋1-8-1

心のアート展 ―新たな使命としての芸術・文化活動―
 〈社団法人〉東京精神科病院協会では、平成20年度より芸術展「心のアート展」を企画、平成21年度からは「心のアート展実行委員会」という専門委員会を設け、作品の募集、発掘、審査、ディスカッション、展示準備、展覧会運営、展覧会カタログの作成、広報などの展覧会活動をおこなっている。
 展覧会のメインは公募作品展示。協会会員の66病院に呼びかけ作品を公募し、それを審査員長・加賀乙彦(小説家、精神科医)、審査員・立川昭二(北里大学名誉教授、医学医療史)、仙波恒雄(日本精神科病院協会名誉会長)、齋藤章二(斎藤病院理事長・院長)、安彦講平(〈造形教室〉主宰)の5名の審査員が、一作一作、真摯に向き合い、心ゆさぶられ、熱意を込めて審査。「声なき声、呟き、ため息、独り言、そして魂の叫び」を表現した多様な世界を展示、紹介している。

特集展示 高村智恵子
近代日本を代表する彫刻家・詩人、高村光太郎の妻、高村智恵子(1886-1938)の紙絵復刻、関連資料を展示・紹介します。49才で「ゼームス坂病院」に入院した智恵子は、寝食を忘れるほど紙絵の制作に取り組み、千をこえる作品を遺しました。潤沢で豊穣な芸術家の魂の表現をご覧下さい。

ギャラリートーク(20.21日 13:00~)
「病む」とは何か、「表現」とは何か、「生きる」とは何か。実作品を前に作者や関係者の方々に、作品解説や制作の背景について語っていただきます。参加自由。

座談会(20日 16:00~)
審査員やゲストを交え、表現活動やアートの持つ力、意味、可能性について語り合いましょう。参加自由。

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 というわけで、智恵子の紙絵の複製、関連資料(どういったものか不明です。すみません)の展示があります。

社団法人東京精神科病院協会さんの主催ということで、通常の美術展とはまた違った切り口で智恵子紙絵の紹介が為されるのではないかと期待しております。

ぜひ足をお運び下さい。


6/12追記 智恵子書簡(実物)も展示されるそうです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月4日

昭和16年(1941)の今日、『読売新聞』に「芸術局の創設 文学で貫く民の声・四銃士の肚決る」という記事が掲載されました。

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「四銃士」とは光太郎、菊池寛、尾崎士郎、山本有三。記事本文では「翼賛四銃士」となっており、タイトルもこれを受けてのものです。

この月16日から20日にかけ、大政翼賛会第一回中央協力会議が開催され、四名とも出席。これに先立つ3日に築地の料亭錦水で発言内容等の打ち合わせを四名が行ったというのが記事の趣旨です。

光太郎の談話も掲載されています。

日本の芸術といへば外国人はすぐに浮世絵とか三味線といつたものを連想する、珍しいもの、変つたものだけが日本の芸術だと思つてゐる、これだから日本の国威が外国に宣揚されないのです、もつと日本芸術の本当の厚みとか深さといふものを彼等に知らせて精神的な圧力を加へてやりたい、このために日本芸術による国威を海外に示したいものだ

時に太平洋戦争開戦前夜。智恵子を失った「おそろしい空虚」(連作詩「暗愚小伝」 昭和22年=1947)を埋めるように、積極的に社会と関わろうとしていた光太郎。その社会がとんでもない方向に進んでいったのは、大きな悲劇でした。

競馬関連のネタを2つ。

先週の『日刊スポーツ』さんに以下の記事が載りました。 

祭りが生んだ名騎手田辺/福島県二本松市

 ちょうちんと芸術センスが、名ジョッキーを生んだ-。変幻自在な騎乗で知られる競馬騎手田辺裕信(31)は福島県の古き城下町、二本松市出身。家族、友人を訪ねていくと、同市独特の歴史と文化に秘密が隠されていた。

 田辺と記者は実は二本松一中の同級生だ。中3の秋「田辺が競馬学校に受かった!」と学校中が大騒ぎになったのを今でも覚えている。あれから約16年。現在、全国リーディング9位(5月17日現在)。騎乗依頼もひっきりなしに来ると聞く。トップジョッキーとなった田辺のルーツを探るため、まずは二本松駅近くにある実家のご両親を訪ねた。まず出てきたのは「祭り」の話だった。

 父敏勝さん(60) とにかくお祭りが大好きで。太鼓を買ってあげて、小さい頃からたたいていたから半端じゃなく上手なのよ。

 祭りとは、江戸時代から約350年続く郷土行事「二本松提灯祭り」のこと。市内7町の太鼓台に約300個のちょうちんが飾られ、秋の夜空を照らす幻想的な祭りだ。「タンタ、タンタ、タンタタン」のリズムを打つ「しゃぎり」というはやしが特徴。各町に代々伝わる無数の祭りばやしも聞き応えがある。毎年10月4、5、6日前後に行われ、外に出た人たちも故郷に帰ってくる一大イベントだ。男の子なら、幼い頃からちょうちんで彩られた太鼓台に乗るのを夢見る。通常、小3から祭りに参加し、太鼓をたたくことができるが、田辺は我慢しきれずその前に、自ら太鼓台を作ってしまったという。

 母夏江さん(59) 乳母車を改造して太鼓を乗せて「ミニ太鼓台」をつくるわけ。最初は段ボールにちょうちんの絵を描いて付けていたけど、次は木材でやぐらを作ったり。どんどんグレードアップしていって。

 この手作り太鼓台で一緒に遊んでいた小、中の同級生加藤大史さんに聞くと「確かにあいつは学年で(太鼓をたたくのが)一番うまかった。センスがあった」と教えてくれた。中3の秋、競馬学校の1次試験日は祭りの翌日の10月7日だった。誰もが認める「祭り大好き男」は、祭りへの参加をやめ、試験勉強に集中した。「提灯祭り」は二本松の男が、仕事、家庭を犠牲にしても命をかけて守るもの。祭りにかけていたエネルギーをそのまま競馬にぶつけたからこそ、今の成功につながったんじゃないだろうか。

 「こんなのも残してあるのよ」と夏江さんが見せてくれたのが小学校の図工の時間に作った「提灯祭り」をモチーフにした箱。箱を開けると、ちょうちんが付いた「スギナリ」が飛び出す仕組みで、太鼓台を細部まで紙と絵で表現してある。小学生が作ったとは思えない高いクオリティーに正直びっくりした。

 敏勝さん あいつは、絵も上手で、小学生の時に祭りの絵を描いて、賞を取ったこともあった。海外に出品されて戻ってこないんだけど。見ている人が細かく描いてある、すごい絵だったよ。

 田辺の祖父勝利さんは大工だったという。手先の器用さはそこから受け継いだのか。思えば、二本松は芸術の町でもある。明治時代から大正時代にかけ、当時女では珍しい画家を目指し上京した高村智恵子。昭和にかけ日展で活躍した木彫家橋本高昇。現在では日本画家の大山忠作。多くの芸術家を輩出してきた。音楽でも、伝説のパンクロッカー遠藤ミチロウがいる。城下町で坂が多く、絵になる風景がたくさんある。精緻な調度が魅力の二本松箪笥(たんす)を売る家具ストリートもある。

 私も芸術の学校に進んだし、二本松市の知り合いには音楽、文筆、写真、デザインと文化系の道を進んでいる人が確かに多い。前に田辺に競馬で心がけていることを聞いた時、「人と同じことしちゃダメ。やっぱり目立たないと」と話していた。後輩の競馬記者柏山自夢にいわせれば田辺は「型にとらわれない騎乗をする『美浦の魔術師』」だそうだ。祭りで培われたリズム感。風土の影響を受けた自由な精神。二本松の土地が知らずと、変幻自在のジョッキーを生んだと納得して故郷を後にした。【高場泉穂】

 ◆二本松市 福島県中通り地区にある元二本松藩の城下町。05年に安達、岩代、東和町と合併。総面積は344・60平方キロメートル。人口5万7376人。(15年5月1日現在)主な特産は日本酒、和菓子。主な出身有名人に歴史学者の朝河貫一、「智恵子抄」で知られる高村智恵子、ミュージシャンの遠藤ミチロウら。

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智恵子と同じ二本松出身で、こういう方がご活躍なさっているとは存じませんでした。

競馬界で活躍、と言えば以前にもご紹介した、「智恵子抄」から名を取った競走馬「トゥルースカイ」。今年3月には初勝利を収めました。初勝利の次のレースは7着と振るわなかったのですが、先月あった2回のレース、5月1日の「サンライズ賞」で1着、先週の「稲荷山特別」でも2着と、また好成績でした。

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田辺騎手、トゥルースカイ、ともに今後とも、さらに飛躍してほしいものです。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月3日

平成11年(1999)の今日、草の根出版会から小松健一著『母と子でみる A8 詩人を旅する』が刊行されました。

著者の小松氏はフォトジャーナリスト。

「自己を罰した奥羽の山小屋」の項で、二本松、そして花巻での光太郎智恵子を紹介しています。

その他、宮沢賢治、石川啄木、萩原朔太郎、与謝野晶子、佐藤春夫、中原中也、北原白秋など、光太郎と縁の深かった詩人達も取り上げられています。

福島は二本松、智恵子生家・智恵子記念館からの情報です。

まず概略を説明する代わりに地元紙『福島民友』さんの記事を。

「智恵子の生家」限定公開 二本松市合併10周年記念

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子を育んだ二本松市油井の「智恵子の生家」で、智恵子の部屋を含む非公開の2階部分が6月6日から限定公開される。大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」や、同市の合併10周年を記念し、公開する。
  智恵子の部屋は収納と一体になった急な階段を上った所にある。大通りに面し、低い天井が当時をしのばせる。また、今回は別の急な階段を上った場所の杜氏(とうじ)などの部屋も新たに公開される。
  限定公開日はDCや夏休み、二本松の菊人形の期間中、冬期間の計47日間。土、日曜日と祝日で、時間は午前11時~午後0時30分、午後1時30分~同3時。入館料は一般410円、高校生以下200円。
  問い合わせは市智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。

  智恵子の生家限定公開日
 【6月】6、7、13、14、20、21、27、28日
 【7月】18、19、20、25、26日
 【8月】1、2、8、9、15、16、22、23日
 【10月】10、11、12、17、18、24、25、31日
 【11月】1、3、7、8、14、15、21、22、23日
 【2月】6、7、11、13、14、20、21、27、28日


通常、立ち入りの出来ない生家二階の智恵子の部屋に入ることができます。また、隣接する智恵子記念館では智恵子紙絵の実物の展示も。

二本松市さんのサイトから。 

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。
また、奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物も期間限定で展示します。この機会に是非ご覧ください。

ふくしまデスティネーションキャンペーン期間(平成27年6月)
 6月の土曜日、日曜日
夏休みシーズン(平成27年7月~8月)
 7月の土曜日、日曜日、祝日
  ※4日(土曜日)、5日(日曜日)、11日(土曜日)、12日(日曜日)は公開しません。
 8月の土曜日、日曜日、祝日
  ※29日(土曜日)、30日(日曜日)は公開しません。
秋の観光シーズン(平成27年10月~11月)
 10月の土曜日、日曜日、祝日
  ※3日(土曜日)、4日(日曜日)は公開しません。
 11月の土曜日、日曜日、祝日
  ※28日(土曜日)、29日(日曜日)は公開しません。
冬季期間(平成28年2月)
 2月の土曜日、日曜日、祝日

公開時間 午前の部 11時00分~12時30分  午後の部 13時30分~15時00分

入館料金  一般410円 ※20名以上の団体は360円  
      高校生以下200円 ※20名以上の団体は150円
休  館  日 水曜日(祝日の場合は、その翌日)

来館者の方へのお願い
 建物内では、必ず係員の指示に従ってください。
 混雑状況により、入場を制限させていただくことがあります。
 明治期の建物のため、窮屈であったり急な箇所がありますので、十分にご注意ください。
 

智恵子の「紙絵」公開期間(予定)

奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物を展示します。
 平成27年6月4日(木曜日)~6月30日(火曜日)
 平成27年10月8日(木曜日)~11月24日(火曜日)

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「場所」のもつ空気感というものは、大事なものです。数十年の時を経ていても、かつて光太郎や智恵子が居たその「場所」に身を置くことで感じられること、新たに見えてくるものもあります。

のちほどレポートしますが、つい先日は、光太郎終焉の場所、中野の中西家アトリエにお邪魔して参りました。中に入れていただいたのは初めてで、感慨ひとしおでした。

今度は智恵子の部屋で、思いを馳せてこようと思っています。皆さんもぜひどうぞ。

それから、隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物の公開。こちらは例年、5月のGWと秋の菊人形期間に合わせて行っていますが、今年は「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のからみで、6月と10月だそうです。

複製や画像では感じられない、実物のもつ存在感、迫力といったものを味わってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月2日

昭和48年(1973)の今日、文治堂書店から高村豊周遺稿歌集『清虚集』が刊行されました。

豊周は光太郎の実弟。鋳金の道に進み、いわゆる人間国宝に認無題定されました。

実兄・光太郎同様、文才にも恵まれ、特に短歌は独自の境地を開き、昭和39年(1964)には皇室の歌会始の召人を務めたり、生前には3冊の歌集を刊行したりもしました。

この『清虚集』は、1年前のこの日に亡くなった豊周の遺稿歌集です。解説は盟友とも言える間柄だった草野心平が書きました。

昨日の「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」を受けて、光雲彫刻作品が見られる機会をご紹介します。 

まずは光雲が教授を務めていた東京美術学校と縁の深い法隆寺での展観です。既に始まって久しいのですが、今月いっぱい開催されています。

平成二十七年度春季法隆寺秘宝展 ―至宝の世界―

場  所 : 法隆寺大宝蔵殿 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1
期  間 : 2015年3月20日(金)~6月30日(火) (無休)
時  間 : 午前9時~午後4時
料  金 : 一般(中学生以上)500円  小学生250円

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公式サイトより
平成13年春、聖徳太子1380年御聖諱を記念して、毎年、春と秋に特別公開「法隆寺秘宝展」を開催させていただくこととなり、本年で15回目となりました。 
今回は飛鳥・奈良時代の至宝をはじめとして、法隆寺において展開された信仰とともに伝存した数々の宝物に加え、大正十年(1921)の聖徳太子1300年御忌法要に際して、制作奉納された中村不折筆の西園院客殿の襖絵や、東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授でもあった高村光雲をはじめとする彫刻家によって刻まれた行道面なども、展示させていただきました。
ゆっくりとご鑑賞いただければと存じます。

光雲作品は大正10年(1921)作「行動面 綱引」。伎楽・舞楽系のものかと思いますが、すみません、よくわかりません。同じ種類の「行動面」は、光雲以外に門下の錚々たるメンバーが手がけています。米原雲海、平櫛田中、山崎朝雲、加藤景雲、山本瑞雲などなど。


続いて昨日の「日曜美術館」でも詳しく取り上げられていた重要文化財の「老猿」。東京国立博物館の所蔵ですが、明日から蔵出しです。光太郎のブロンズ「老人の首」も並びます。 

近代の美術

場  所 : 東京国立博物館 本館 18室  東京都台東区上野公園13-9
期  間 : 2015年6月2日(火)~7月12日(日) (月曜休館)
時  間 : 9:30~17:00
料  金 : 一般620円、大学生410円

公式サイトより
明治・大正の絵画や彫刻、工芸を中心に展示します。明治5年(1872)の文部省博覧会を創立・開館のときとする当館は、万国博覧会への出品作や帝室技芸 員の作品、岡倉天心が在籍していた関係から日本美術院の作家の代表作など、日本美術の近代化を考える上で重要な意味を持つ作品を数多く所蔵しています。こ れらによって明治、大正、そして昭和の戦前にかけての日本近代の美術を概観します。
日本画は、水鳥など水景をとらえた作品や梅雨の季節に因んだものを展示します。洋画は、明治期における日本の風景をとりあげた作品を中心にご覧いただきます。彫刻は写実表現の際立つ高村光雲の老猿とともに、個人の内面感情まで表現された光雲の子光太郎の老人の首などを展示します。工芸は、明治26年(1893)にアメリカで開催されたシカゴ・コロンブス世界博覧会に出品された作品を中心に、明治時代後半における工芸の諸相をご覧いただきます。

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館のサイトでは7月12日(日)までとなっていますが、「日曜美術館」では8月23日(日)までとなっていました。とりあえず7月12日でいったん区切られ、やはり人気のある作品なので、その後も「老猿」は続けて展示されるということでしょうか。


さらに、こちらも昨日の「日曜美術館」でも詳しく取り上げられていた、高野山金剛峯寺金堂の秘仏・薬師如来。春の御開帳は先月21日で終わりましたが、秋の御開帳があります。

高野山金堂御本尊特別開帳

場  所 : 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町高野山132
期  間 : 2015年10月4日(日)~11月1日(日)

838年に「高野山の総本堂」として建立され、開創当時は「講堂」と呼ばれていました。現在の金堂は、度重なる火災に見舞われ、7度目に再建されたもので昭和9年に完成したものです。内部には仏師・高村光雲氏により作られた御本尊・薬師如来がおまつりされています。

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こちらはまた近くなりましたら詳しくご紹介します。


現存する光雲作品は数が多く、その他にもぽつりぽつりと各地で展示されています。先月まで奈良でもそういった機会があったのですが、詳細が不明なものはなかなか紹介しにくいところです。電話で問い合わせても要領を得ない場合があります。そこで、主催者の皆さん、ネット等にはできるだけ詳しく情報を載せていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月1日

大正2年(1913)の今日、雑誌『詩歌』第3巻第6号に詩「人類の泉」を発表しました。

智恵子への愛を高らかに謳う、『智恵子抄』前期の傑作の一つです。


人類の泉

世界がわかわかしい緑になつて007
青い雨がまた降つて来ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらはれとなつて
いつも私を堪らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乗り超え私を脱(のが)れて
づんづんと私を作つてゆくのです
いま死んで いま生まれるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の萠え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の静寂をたもつて
ぢつと坐つてゐました
自然と涙が流れ
抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本当に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり残酷に人間の孤独を味つて来たのです
おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私の生(いのち)を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは007 (2)
ただあなたです
私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です
私の正しさは草木の正しさです
ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
あなたは海水の流動する力を持つてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
私は今生きてゐる社会で
もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私はこの孤独を悲しまなくなりました
此は自然であり 又必然であるのですから
そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら――
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息(きそく)に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生まれたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある

ただし、よく読むと、すでに後の大いなる悲劇――智恵子の統合失調症の発症――につながる要因が見て取れます。

「私は今生きてゐる社会で/もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました/もう共に手を取る友達はありません/ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです/私はこの孤独を悲しまなくなりました/此は自然であり 又必然であるのですから/そしてこの孤独に満足さへしようとするのです」

のちに光太郎自身、こうした生活を「智恵子と私とただ二人で/人に知られぬ生活を戦ひつつ/都会のまんなかに蟄居した。」 (「美に生きる」 昭和22年=1947)と語っています。光太郎にとってはそれでよくても、智恵子にとってどうだったのでしょうか。

また、終末部分、光太郎は「あなたは私の為めに生まれたのだ」とは謳っていますが、「私はあなたの為めに生まれたのだ」とは謳いません。あくまで「私」が中心なのです。

まぁ、こういったことは後になってから言えることですが。

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