一昨日の高村光太郎記念館リニューアルオープンのため、岩手花巻に行きましたが、オープン前日に花巻入りし、鉛温泉藤三旅館さんに宿泊いたしました。豊沢川の渓流沿い、花巻南温泉峡の奥の方です。
昨年1月に泊めていただいた時以来、2度目の逗留でした。
少し前にも書きましたが、光太郎もこの鉛温泉藤三旅館さんに泊まっています。確認できている限りでは、昭和23年(1948)に3回、それぞれ一泊しています。同24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記執筆をサボっていることがあるので確認できませんが、もしかするとその間にも泊まっているかもしれません(旅館ではその頃の宿帳は保存していないとのこと)。
その当時の建物もまだ健在。前回は、宿泊前に下調べを十分にして行かず、光太郎がどの部屋に泊まったのかわかりませんでしたが、今回はちゃんと調べてから行きました。
二度目に訪れた昭和23年(1948)5月11日の日記に、以下の記述があります。
午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。
また、三度目の宿泊となった同月18日の日記では、
二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。
とあり、確認できている3回とも、3階の31号室に泊まったことが分かりました。ちなみに「電車」は花巻電鉄です。
当方の部屋は、同じ3階の85号室。だいぶ番号が離れているので、昔と部屋番号が変わってしまっているのかも、と思いましたが、部屋に備え付けの館内案内を見てみると、ちゃんと「31号室」があり、早速行ってみました。
当方の部屋は後から建て増しされた棟のようで、光太郎の泊まった31号室は古い棟の角部屋でした。渡り廊下的な場所からこういう風に見えます。
さらに、帰ってからネットの公式サイトで調べてみると、「寛ぎのゆったり部屋」ということで紹介されていました。
ちなみに20号室という部屋は、田宮虎彦が泊まって小説「銀心中」を執筆したということで、「文人ゆかりの部屋」と紹介されています。
それよりは光太郎が泊まった部屋を前面に押し出すべきだと思うのですが、どうも藤三旅館さんではそのことをご存じないようです。
機会があったら、ぜひこの31号室を予約しようと思います。ただ、このタイプの部屋は、通常、1名での宿泊は受け付けていないようです。どなたかご一緒しませんか(笑)。
前回泊まった時も書きましたが、料理は美味しく、それでいて料金はリーズナブルでした。
それから、深さ約130㌢の「白猿の湯」をはじめ、光太郎も誉めた温泉もやはりグッドでした。1泊で3回入ってきました。当方の好きながっつり熱い湯もあったのが嬉しいところでした。
ちなみに「白猿の湯」については、光太郎日記では以下の通り。昭和23年(1948)4月26日のものです。
ちなみに「白猿の湯」については、光太郎日記では以下の通り。昭和23年(1948)4月26日のものです。
昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。
(略)
朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。
館内あちこちのレトロな雰囲気もいい感じです。
翌朝、高村光太郎記念館リニューアルオープンに向かう前に、宿の周辺を散歩しました。市街地ではないため、昭和20年代の光太郎がいた頃の雰囲気がまだよく残っているように感じました。
このあたりも春を迎え、いろいろな花が咲き誇っていました。関東では盛りを過ぎた桜、連翹、さらにカタクリやふきのとう。
特にカタクリ(すぐ上の画像)が普通に道端に咲いているのは、初めて見たように思いました。
さらに迎えに来ていただいた㈶花巻高村光太郎記念会事務局長さんの車の中からは、やはり道端にミズバショウが咲いているのも見えました。
ちなみに高村光太郎記念館、そして光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺も、花々が咲き乱れていました。
山荘は、隣接する便所「月光殿」の鞘堂を改築中です。
右の画像は、記念館前のコブシの花です。
この地域、これから1年中でもっともいい季節となります。ぜひ足をお運び下さい。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月30日
昭和22年(1947)の今日、雑誌『農民芸術』に、宮澤賢治がらみの散文「玄米四合の問題」を発表しました。
賢治の「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」に触れ、次のように述べています。
私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。
(略)
私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の体格を数代に亘って改善したい。消極的健康から積極的健康に日本人を転換させたい。食生活の合理化を実行して此の結核国から結核を駆逐したい。精神力涵養に不可欠な身体力の培養に十全の力をそそぎたい。
賢治を殺し、智恵子を奪い、そして今また、自らの身を冒す結核への憎しみが見て取れます。