2015年03月

十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが、約2年間にわたって編集されていた書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が完成しました。

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一昨年、光太郎制作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建立から60周年を迎えたのを機に、地元の観光ボランティアの皆さんが、像の創られた背景などを改めて知ろうという取り組みの中から生まれたものです。

昨年逝去された光太郎の令甥にして高村光太郎記念会理事長であられた高村規氏、当会顧問にしてこの世界の第一人者・北川太一先生、さらに昭和28年(1953)、像の設置工事の現場監督をされた元青森県技師・小山義孝氏の聞き書きなど、貴重な証言が収められています。高村氏、北川先生へのインタビューは一昨年。当方も同道しました。

当方、たまたま会の皆さんの知遇を得、制作に協力させていただきました。5分の2ほどは当方の執筆、あとは全体の校閲などもやらせていただき、結局、「監修」ということで奥付に名前を載せていただいております。

B5判388ページ、画像をふんだんに使っているため、全ページコート紙の贅沢な造りです。

目次は以下の通り。

発刊に寄せて 北川太一氏
まえがき 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会会長 小笠原哲男氏
乙女の像ものがたり

資料編
 「乙女の像」概説
 北川太一氏インタビュー
 高村規氏インタビュー
 小山義孝氏インタビュー
 記念色紙 写真と解説
 石版 写真と解説
 講演記録「乙女の像誕生秘話」 十和田市教育長 米田省三氏
 寄稿「十和田湖と『乙女の像』を巡る人々」 ATV青森テレビアナウンサー 川口浩一氏
 記録 第19回レモン忌
 活動記録 乙女の像・ろまんヒストリー発信事業について

あとがき

「乙女の像ものがたり」は、小学生向けに書きました。光太郎の伝記を兼ね、史実を元にしたフィクションです。細かく云うと、この時この人はここにはいなかったはずだとか、いろいろあるのですが、あくまで「ものがたり」ということで勘弁して下さい。

「資料編」は一般向けの内容です。「「乙女の像」概説」という部分を当方が書き下ろしました。また、昨秋、十和田湖畔に開館した観光交流施設「ぷらっと」館内展示説明パネルのために書いたものも転載されています。

その他の記事も、これでもかとてんこ盛りで、非常に充実した内容となっています。

先週にはボランティアの会の皆さんが、十和田市長を表敬訪問、完成の報告をされ、その様子が地元で報道されました。

こちらは『東欧日報』さんの記事。

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さらにローカルテレビ局でも地域のニュースとして紹介されました。

市長さんはことのほか完成を喜んでいらしたそうです。

発行部数はそれなりに多いのですが、地元の学校さんなどに寄贈の分が多く、販売にまわされるのは少ないそうです。好評となり、増刷されることを期待します。

ボランティアの会さんの連絡先は以下の通り。直接お問い合わせ下さい。

十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会
 〒034-0303 青森県十和田市法量字前川原86-15 tel/fax 0176-72-2642

チラシ画像も載せておきます。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月31日

平成23年(2011)の今日、岩手県奥州市の黒壁ガラス館で開催されていた「奥州市郷土先人顕彰事業 企画展 文学の先達と奥州市」が閉幕しました。

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過日もちらっとご紹介した同市の人首(ひとかべ)文庫さん所蔵の資料などから、奥州市にかかわるものが展示されました。

奥州市出身の詩人・佐伯郁郎の関係で、佐伯宛の光太郎書簡、色紙等も並びました。他には井上靖、谷崎潤一郎、山本有三、巽聖歌、萩原朔太郎、井伏鱒二、室生犀星、堀口大学、林芙美子、川端康成、小川未明、西条八十、北原白秋、野口雨情らの自筆資料、宮澤賢治、宮靜枝、川端の初恋の相手・伊藤初代らに関する資料など、これまたてんこ盛りでした。

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まずは新聞報道から。 

<高野山>大法会の詳細発表

毎日新聞2015年3月16日(月)

 高野山真言宗・総本山金剛峯寺(和歌山県高野町)は16日、寺の境内で開く開創1200年記念大法会(だいほうえ)(4月2日~5月21日)の詳細な日程を発表した。金堂(総本堂)の本尊薬師如来(高村光雲作)が初めて開帳される他、さまざまな法会(儀式)や催しが連日執り行われる。

 初日は172年ぶりに再建された中門の落慶式典があり、金剛峯寺の中西啓寶(けいほう)座主による加持の後、大相撲の白鵬関ら3横綱による土俵入りがある。その後、金堂で薬師如来の開帳と僧約400人による読経などがある。

 期間中は他宗派による法会もあり、5月19日には天台宗(総本山・比叡山延暦寺=大津市)が初めて高野山で法会を営む。また、境内の資料館「高野山霊宝館」では連日、国宝や重文を特別展示する。

 金剛峯寺は期間中延べ20万~30万人の参拝を見込んでいる。高野山は平安時代の僧、弘法大師空海が真言密教の道場として開いた。【上鶴弘志、入江直樹】
 

4月2日から高野山開創1200年記念大法会 和歌山

産経新聞2015年3月18日(水)

 高野町の高野山真言宗総本山・金剛峯寺は、4月2日から5月21日までの開創1200年記念大法会の内容を発表した。初日は開白法会のほか、約170年ぶりに再建された壇上伽藍中門の落慶法要が営まれ、大相撲の白鵬ら3横綱の奉納土俵入りがある。期間中、壇上伽藍大塔に大日如来などを3D映像で投影する「高野山1200年の光-南無大師遍照金剛-」、秘仏の特別開帳なども予定されている。

 開創1200年記念大法会は、弘仁7(816)年に弘法大師・空海が高野山に密教の道場を開いて1200年目を迎えたことを記念して開催。4月11日には阪神大震災や東日本大震災の犠牲者を追悼する災害物故者追悼法会、5月19日には開山以来初めてとなる天台宗総本山・比叡山延暦寺の僧による「慶讃法会」が営まれる。

 壇上伽藍大塔への3D映像の投影は、同12~17日午後7時20分と同8時10分に声明と合わせて行われ、境内は幻想的な雰囲気に包まれる。

 秘仏の公開は、これまで開帳された記録が残っていない高野山の総本堂、金堂の本尊・薬師如来(高村光雲作)や金剛峯寺・持仏間の弘法大師坐像が特別開帳される。霊宝館では、運慶作「八大童子像」(国宝)をはじめ、空海が中国・唐から投げて高野山に飛来したとの伝承が残る「飛行三鈷杵」(重要文化財)など高野山三大秘宝、快慶作「孔雀明王像」(同)などが展示される。詳細は金剛峯寺公式ウェブサイト(http://www.koyasan.or.jp)。


というわけで、弘法大師空海による開山から1200年を迎える世界遺産・高野山金剛峯寺さんで、いろいろと記念行事が行われます。

その中で、金堂に納められている光雲作の薬師如来像が初めてご開帳されるとのことです。

現在の金堂は昭和7年(1932)の再建、同9年(1934)落慶。その際に、昭和元年(1926)の火災で焼失してしまった開創当初から格蔵されていた秘仏本尊7尊を光雲が復刻したのですが、これまで一度もご開帳されたことがないそうです。

初日は4月2日。この日は大相撲の横綱・白鵬の土俵入り奉納なども行われるそうです。

奇しくも光太郎の命日・第59回連翹忌の当日です。同じく4月2日は、以前にご紹介した東京芝増上寺の宝物展示室にて、徳川二代将軍・秀忠の「台徳院殿霊廟」模型の公開も始まります。

こういうことを「仏縁」というのかな、と思っています。000


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月30日

平成3年(1991)の今日、文彩社から、中村傳三郎著 『明治の彫塑 「像ヲ作ル術」以後』が刊行されました。

光雲・光太郎親子、碌山荻原守衛などについての論考です。

先週、福島の地方紙、『福島民友』さんに載った記事です。 

和合亮一さん、言葉の“力”伝える 詩集に込めた思い紹介

福島民友新聞 3月23日(月)

 いわき市の草野心平記念文学館は21、22の両日、同館内で詩人の和合亮一さん=福島市在住=を講師に招いた講演会、ワークショップを開き、市民らに詩や言葉の“力”を伝えた。同館は定期的に和合さんを招き、詩に関わるワークショップなどを開催している。
 「和合亮一とめぐる詩の世界」と題して開かれた今回の催しでは、21日は講演会、22日は参加者に詩の書き方や読み方を伝えるワークショップを開いた。講演会では、高村光太郎や宮沢賢治などの詩を紹介した上で、震災直後に被災地・福島からツイッターで発信した「詩の礫(つぶて)」などの詩集に込めた思いなどを話し、困難の中で心を支えた言葉、詩の力を紹介した。


このブログにたび たびご登場いただいている和合亮一さんに関してです。先週まで「平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎 往復書簡にみる交友」を開催していたいわき市立草野心平記念文学館さんでのイベントで、光太郎にふれてくださったとのこと。

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ありがとうございます。

ところで、先日のこのブログでやはり和合さんがらみでご紹介した、吉永小百合さんの朗読CDが発売になりました。題して「第二楽章 福島への思い」。

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和合さんをはじめ、佐藤紫華子さん、若松丈太郎さんといった福島の詩人、そして和合さんのご指導による「詩の寺子屋」の子供達の詩を、吉永小百合さんが朗読なさっています。BGMは藤原道山さん、遠藤千晶さん、村澤丈児さん。

ボーナストラック的に、お三方のインストゥルメンタル演奏「空遙か~新相馬節によせて」と、郡山第五中学校合唱部さんの演奏「絆」が収められています。

直接光太郎に関わるわけではありませんが、ご紹介しておきます。

ちなみに吉永小百合さんは、光太郎と同じ3月13日がお誕生日です。これも何かの縁ですね。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月29日

平成15年(2003)の今日、愛媛県新居浜市の広瀬公園に、光雲作の原型を使った広瀬宰平銅像が除幕されました。

広瀬宰平は明治期の住友財閥の実業家。新居浜の別子銅山の経営に力を注ぎました。光雲が原型を作った皇居前広場の楠木正成像の銅は、別子銅山のものが献納され、そうした縁から、明治31年(1898)に建てられた広瀬の銅像の原型も、光雲が手がけました。

オリジナルは戦時中の金属供出により失われましたが、光雲作の原型が東京芸術大学に残っており、それを元に2代目の広瀬像が鋳造されたというわけです。

東京の大田区、品川区の地域情報誌で『月刊おとなりさん』という雑誌が刊行されています。そちらの今月号(3月号)で、智恵子が特集されていました。題して「特集 智恵子愛と芸術の生涯」。ただし、今月号ではありますが、最新号は4月号がもう出ています。定価は257円。お買い得です。

このところ、このブログで紹介すべきネタがたくさんあり、1日1ネタとしても半月先まで書くことが決まっています。「俺が教えたあのネタがまだ書かれていないけどどうなってるんだ?」という方がいらっしゃるような気がしますが、順次ご紹介しますのでご寛恕の程。この雑誌も少し前に入手していたのですが、若干紹介が遅れました。

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なぜ大田区・品川区の地域情報誌で智恵子の特集なのかというと、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院が品川にあったからです。

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現在はマンションが建ち並ぶ一角となっていますが、跡地には光太郎詩「レモン哀歌」を刻んだ碑が建っています。

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そんなこんなも含め、智恵子の生涯や故郷・二本松のレポートなどで、14ページ。オールカラーで美しくまとまっています。目新しい内容が書かれているわけではありませんが、一般向けにはこれで十分だろうという感じです。

先ほども書きましたが、このところ、このブログで紹介すべきネタが、あとからあとからたくさん出て、嬉しい悲鳴です。先月のNHKさんの教養番組「歴史秘話ヒストリア」が火をつけたかな、と感じていますが、どうなのでしょうか。


【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月28日

昭和55年(1980)の今日、アトリアム銀座・ラ・ポーラ主催の総合企画展「光太郎と智恵子―その愛」の一環として、ブリヂストン美術館政策の映画「高村光太郎」(昭和28年=1953)の上映と、女優・五大路子さんの光太郎詩朗読が行われました。

「総合企画展」ということで、1週間の期間中、造形作品、詩稿、資料の展示の他、歌曲コンサート、彫刻家の故・高田博厚氏と北川太一先生のトークショーなどが行われました。

昨日は、光太郎詩のモデルになった方に、お話を伺うため、東京練馬に行っておりました。

盛岡出身の彫刻家・深沢竜一氏。大正14年生まれのおん年90歳になられます。ご両親はともに画家の深沢省三・紅子夫妻。やはりともに光太郎と深く関わった方々です。

光太郎顕彰のお仲間である女優の渡辺えりさんにご連絡があり、渡辺さんがぜひお話を聴きたいということになって、当方にもお声がけ下さいました。そういうわけで昨日は渡辺えりさんご夫妻、それから渡辺さんの演劇塾の生徒さん10名ほどと、大人数でお邪魔しました。

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手前が深沢氏です。

お伺いした光太郎に関わる氏の体験を、時系列に沿ってご紹介します。

まずは昭和18年(1943)10月、いわゆる学徒出陣が始まりました。氏は当時、東京美術学校彫刻科に在籍されており、同じ彫刻科の先輩3人と、出陣前に駒込林町の光太郎アトリエを訪ねて話を聴こう、ということになったそうです。4人は彫刻家・舟越保武のアトリエに出入りしていた仲間だったとのこと。

そして訪問が実現、光太郎は10月18日に次の詩を書き、同月26日の『毎日新聞』に掲載されました。


   四人の学生007 (2)

けふ訪ねてきたのは四人の学生。
見しらぬ彫刻科の若い生徒。
非常措置の実施によつて学窓から
いち早く入営するといふ美の雛鳥。
彼等はいふ、
「さとりがひらけたやうに
はつきり心がきまりました。」
私はいふ、
「どんなときにも精神の均衡を失はず、007
打てば響いて
当面する二つなき道に身を挺するこそ
美を創る者の本領、
美と義とを心に鍛へる者の姿だ。」
四人の学生のうしろに
いま剣をとつて起つ無数の学徒がゐる。
君、召させたまふ時、
顧みなくて赴くは臣(おみ)の誇りである。
まことに千載にして一遇の世に生き
若き力として名乗り得る者は幸である。
四人の学生は多くを語らないが
眉宇すでに美しい。
「先生もどうかお元気で、」と
この見しらぬ美の雛鳥らは帰つていつた。
学徒出陣は日本深奥の決意を示す。
聖業成りたまふの気
氤氳として天に漲るを覚える。

さらに昭和19年(1944)に刊行された詩集『記録』に収められた際、つぎの前書きが付されました。

昭和十八年十月十八日作。此月一般学生徴兵猶予の停止及び理工科系学生の入営延期、理工科系統学校の整備拡充、法文科系統大学専門学校の統合整理等の「教育に関する戦時非常措置方策」が決定せられ、情報局から発表せられた。此発表は一時全国の学徒に異常な衝撃を与へたが、忽ち青年は一切の宿心を超えて凛然たる決意を示した。

光太郎は、六日後には「全学徒起つ」という詩も作りました。

この後、深沢氏は海軍に配属され、三重、横須賀、旅順と、点々と配属が変わり、終戦時には体当たり自爆兵器「海龍」の基地にいらしたそうですが、幸い、特攻での出撃には至らなかったということです。

終戦後、モンゴルから引き揚げてきたご両親と合流、郷里岩手に帰られ、雫石で開墾、牧畜を始めたそうです。昭和39年(1964)までこちらにお住まいだったとのこと。そして花巻郊外太田村での山小屋生活をしていた光太郎と再会されたのが昭和22年(1947)。その後、10回ほど光太郎の山小屋を訪れ、自作の彫刻などを見せ、教えを請うたそうです。光太郎には彫刻と絵画の違いなどを教え込まれたとのこと。絵画は平面をいかに立体的に見せるかに腐心するもの、彫刻は逆に丸いものを丸く作っては駄目で、実物にある奥行きを押しつぶす必要があるといった話でした。

ご両親は盛岡に開校した岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)の教授となり、たびたび光太郎を招いて講演をしてもらっていました。昭和25年(1950)1月、やはり美術工芸学校に来校した流れで、光太郎を雫石の自宅に招き、もてなしたそうです。光太郎、牛乳をたくさん飲めたのをことのほか喜びました。

此間中は盛岡で随分しやべらされました。その代わり御馳走にもなり、お酒もいただき、西山村の深沢さんの小屋では二日間に好きな牛乳を一升ものみました。
(佐藤隆房宛書簡より)

この辺りの経緯は、『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)、『啄木 賢治 光太郎 -201人の証言-』(同51年=1976)といった書籍に断片的に掲載されていますが、実際にお話を聴くのとではやはりニュアンスも違います。

その時に光太郎が書いた書が、深沢家に残っています。

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宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。画像等を含め、初めて実物を見ました。

賢治といえば、深沢氏、幼い頃に生前の宮澤賢治にもお会いになったそうです。賢治の年譜と照合してみると、どうやら昭和6年(1931)、賢治の歿する2年前です。当時吉祥寺にお住まいだった父君を訪ねてきたそうです。父君は童話雑誌『赤い鳥』に関係されており、さらにお隣には、童話集『注文の多い料理店』の装丁と挿絵を手がけた菊池武雄が住んでいたそうで、その関係だろうとのことでした。

当方、なんだかんだで生前の光太郎を知る方は30名ほど存じていますが、生前の賢治を知る方にお会いしたのは初めてです。

貴重な機会を設けて下さった深沢様、渡辺えりさんには深く感謝申し上げます。

渡辺さん、来週の第59回連翹忌にご参加くださり、深沢様についてのお話をご披露下さるとのことです。


【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日

昭和39年(1964)の今日、光太郎の実弟・豊周が、鋳金の分野で重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定されました。

   あどけない話


 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。000
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ、
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。

詩集『智恵子抄』にも収められ、あまりに有名な光太郎詩の一つ、「あどけない話」です。

東日本大震災に伴う原発事故以来、福島の復興へのキーワードとして、この詩に繰り返されている「ほんとの空」の語が広く使われています。

英訳すれば「true sky」、カタカナで書けば「トゥルースカイ」……という名前の競走馬がいます。以前にもこのブログでご紹介しました。馬名は父の「ディープスカイ」と、「詩集「智恵子抄」に出てくるフレーズより」ということで登録されています。

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当方、競馬はよく知らないのですが、以前にご紹介した後、名前が名前だけに、気になって戦績をチェックし続けていました。その間、中央競馬から地方競馬に移り、昨年11月、12月頃に立て続けに2着が続き、初勝利間近かと思っていましたが、その後ふるわず、やきもきしていました。

すると、一昨日、浦和競馬場で行われた第10レース「幸手のマスコット「さっちゃん」賞C1六」で、みごと1着でゴールイン! 2着ハルノメザメ(これもすごい名前ですが……)に頭の差だったそうです。18戦目にして、初の1着でした。ちなみに賞金は120万円だそうです。

今後もさらにがんばってほしいものです。

ところで「競馬」というと、山本コウタローさんの往年の名曲「走れコウタロー」をリアルタイムで知っているのは一定以上の年代ですね。ちなみに昭和35年(1960)生まれの競走馬で「コウタロー」という競走馬が実在しました。


【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月26日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校の卒業式に出席、来賓挨拶をしました。

以下、当時の校長・浅沼政規の筆録です。

 もう春です。きょうはみなさんのめでたい修業式、卒業式だというので、小屋からでてきました。シジュウカラが喜んで鳴いていました。卒業のみなさんをお祝いしているようにきこえました。ほんとうにきょうはよい天気です。みなさんも晴れやかです。年寄りもうれしくて、お祝いを申しあげます。
 みなさんはよく勉強して、修業、卒業されたことをお喜びいたします。三カ年も休まない人もあるといいますが、それはずいぶん体の丈夫な人でしょう。体を丈夫にすることは大切なことです。僕も小さいときは弱かったんです。当時は外国から入ってきた体操がありました。
 大切なことは努力することです。なるほどこれは大切です。努力なくてはなにもできませんからね。それから正直であることですね。嘘をついても、結局わかるし、またひとつ嘘をいうと、次々と嘘が積まれていきます。世の中は嘘によって暗くなり、正直によって明るくなります。
 アメリカの初代大統領のワシントンは、幼いとき、父が大切にしていたサクラの木を切ってしまいました。あとで正直に父に謝りました。正直な心の持ち主であったので、大統領という栄えある仕事もできたと思います。
 それから争いをしないことも大切です。そんな人はきっとよい世の中を作る人だと思います。
 みなさん、きょうはほんとうにうれしそうですね。僕もうれしさでいっぱいです。おめでとうございます。

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こちらは別の日ですが、山口小学校の児童を前に話をする光太郎です。

昨日の『日本経済新聞』さんの文化面掲載の記事に、光太郎の名がちらっと出ました。

北海道文教大学教授にして、昨年まで北海道文学館理事長を務められた神谷忠孝氏によるもので、「北海道文学ここにあり」と題するものです。サブタイトルが「小林多喜二や石川啄木ら、ゆかりある作家・作品を紹介」となっています。

北海道出身の作家の作品、もしくは北海道に題を採った文学作品を「北海道文学」と定義し、北海道文学館での企画展、昨年増補版が刊行された『北海道文学大事典』の編集などを通し、その豊かさが語られています。

また、北海道は文芸同人誌の刊行が盛んであることにも言及されています。「雪深く極寒の北国は人を屋内にとじ込める。ドストエフスキーやトルストイを生んだロシアと同じく、北海道の気候は物語を紡ぐ想像力を養うのかもしれない。」とのこと。なるほど、太宰治や寺山修司を生んだ青森、石川啄木や宮澤賢治を生んだ岩手も同じかもしれません。

さて、神谷氏の挙げる「北海道文学」に関わる人名は、以下の通り。

国木田独歩、有島武郎、小林多喜二、寺山修司、知里幸恵、池沢夏樹、吉増剛造、円城塔、渡辺一史、山田航、石川啄木、寒川光太郎、そして高村光太郎。

北海道に理想郷を見てやってきた作家は多い。(略)詩人の高村光太郎、函館などで新聞記者として暮らした石川啄木も有名だ。

光太郎が北海道に渡ったのは、欧米留学から帰って2年経った、明治44年(1911)。経営していた日本初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を畳み、札幌郊外の月寒で酪農のかたわら、芸術作品の創作を夢見てのことでした。しかし具体的な考えはなく、行き当たりばったりの計画だったため、たちまち頓挫し、引き返していますが。くわしくはこちら

その体験を元に作ったのが、詩「声」です。

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止せ、止せ
みじんこ生活の都会が何だ
ピアノの鍵盤に腰かけた様な騒音と
固まりついたパレツト面の様な混濁と
その中で泥水を飲みながら
朝と晩に追はれて
高ぶつた神経に顫へながらも
レツテルを貼つた武具に身を固めて
道を行くその態(ざま)は何だ
平原に来い
牛が居る
馬が居る
貴様一人や二人の生活には有り余る命の糧(かて)が地面から湧いて出る
透きとほつた空気の味を食べてみろ
そして静かに人間の生活といふものを考へろ001
すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い

そんな隠退主義に耳をかすな
牛が居て、馬が居たら、どうするのだ
用心しろ
絵に画いた牛や馬は綺麗だが
生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ
命の糧は地面からばかり出るのぢやない
都会の路傍に堆(うづたか)く積んであるのを見ろ
そして人間の生活といふものを考へる前に
まづぢと翫味(ぐわんみ)しようと試みろ

自然に向へ
人間を思ふよりも生きたものを先に思へ
自己の大国に主たれ
悪に背(そむ)け

汝を生んだのは都会だ
都会が離れられると思ふか
人間は人間の為したことを尊重しろ
自然よりも人工に意味ある事を知れ
悪に面せよ

PARADIS ARTIFICIEL!

馬鹿
自ら害(そこな)ふものよ

馬鹿
自ら卑しむるものよ


画像は昔の絵葉書、農商務省月寒種羊場。光太郎が訪れた明治末よりは新しいものですが。


その後も光太郎は、北海道在住の詩人、更級源蔵と親しくなり、たびたび北海道移住の夢を語ります。戦後の花巻郊外太田村での独居生活も、この夢に通じるところがあるのでしょう。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月25日

大正14年(1925)の今日、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記ではヴエルハアランまたはヹルハアラン)の詩集 『天上の炎』を翻訳、新しき村出版部から刊行しました。

画像は扉です。当方、カバーなししか持っていないもので。

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少し前にご紹介しました書籍が刊行され、届きましたのでレポートします。 

少女は本を読んで大人になる

2015/3/12 クラブヒルサイド+スティルウォーター編 現代企画室発行 定価1500円+税

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序文から
 人は本を読んで未知の世界を知る。
 新しい経験への扉を開く、かつて読んだ本、
 読みそこなってしまった本、いつかは読みたい本。
 少女が大人になる過程で読んでほしい十冊の古典的名作を、
 さまざまに人生を切りひらいてきた
 十人の女性たちと共に読んだ読書会の記録。

目次
 アンネ・フランク著 『アンネの日記』を読む 小林エリカ(マンガ家・作家)
 L・M・モンゴメリ著 『赤毛のアン』を読む 森本千絵(コミュニケーションディレクター)
 フランソワーズ・サガン著 『悲しみよ こんにちは』を読む 阿川佐和子(作家、エッセイスト)
 エミリー・ブロンテ著 『嵐が丘』を読む 鴻巣友季子(翻訳家)
 尾崎翠著 『第七官界彷徨』を読む 角田光代(小説家)
 林芙美子著 『放浪記』を読む 湯山玲子(著述家・ディレクター)
 高村光太郎著 『智恵子抄』を読む 末盛千枝子(編集者)
 エーヴ・キュリー著 『キュリー夫人伝』を読む 中村桂子(生命誌研究者)
 石牟礼道子著 『苦海浄土』を読む 竹下景子(俳優)
 伊丹十三著 『女たちよ』を読む 平松洋子(エッセイスト)
 読書会とサンドウィッチ


東京・代官山クラブヒルサイドにて、一昨年の5月からおよそ1年、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

編集者で絵本作家の末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」は、2013年12月に開催され、当方も拝聴しました。

彫刻家の舟越保武の長女として生まれ、光太郎に「千枝子」という名を付けて貰い、それに対する複雑な思い、それをようやく素直に受け入れられるようになったこと、光太郎智恵子の愛の形などなどで、26ページです。光太郎詩「レモン哀歌」からインスピレーションを得て作られたレモンの皮入りサンドウィッチのレシピ付きです。

amazonなどで購入可能です。ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月24日000

昭和22年(1947)の今日、総合花巻病院長佐藤隆房に宛てた葉書に、俳句をしたためました。

坐りだこ囲炉裏に痛し稗の飯

硬い床であぐらをかき続けると、くるぶしなどに出来るのが「すわりだこ」です。

詩や短歌に比べると、あまり数は多くありませんが、光太郎は折にふれ、俳句も詠みました。確認できているものは、生涯でおよそ150句ほどです。

テレビ放映に関してです。

復興支援ドキュメント 未来への教科書 ~For Our Children~ 第93回 東日本大震災から4年〜新しい物語のはじまり

BS12(トゥエルビ)
 3月24日(火) 18:00 ~ 19:00  3月28日(土) 27:00 ~ 28:00  3月30日(月) 18:30 ~ 19:30

地域のキーパーソンの言葉をそのまま届け、大震災を乗り越え、立ち上がろうとする東北の人々の力強い姿を広くお伝えします。言葉から浮かび上がる真実を発信していきます。

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東日本大震災から4年の月日が経とうとしている。現在被災地では、復旧・復興と共にある変化が起ころうとしているという。今回の特別編では劇団ユニット・ラビッツ 代表の佐藤茂紀さんとNPO法人東北開墾 代表理事の高橋博之さんをゲストとしお迎えし、過去の映像を振り返りながら、今被災地で紡ぎだされようとしている「新しい物語」について、それぞれの観点から語って頂いた。

劇団ユニット・ラビッツ 代表 佐藤 茂紀さん
第22回、第60回、第75回に登場して頂いた佐藤茂紀さん。
福島県立光南高校の佐藤教諭は演劇活動を通じて「被災後の福島」を伝えてきた。震災当時、高校生たちと作った「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」は日本各地で上演され、福島の高校生たちの現状と葛藤を広く伝えることになった。現在も演劇部の顧問を務めながら、自分たちで立ち上げた劇団から福島の今を伝え続けている。


NPO法人東北開墾 代表理事 高橋 博之さん
第74回に登場して頂いた高橋博之さん。
東北の生産者と消費者を物語でつなぐ食べ物つき月刊誌「東北食べる通信」編集長の高橋さんは、日本の地方の活気を取り戻すためには現代版の「参覲交代」を行う必要があるという。「東北食べる通信」が成し遂げようとしていること、地方再生についてのお話を伺う。



この番組は、同一の内容が4~5回放映されます。第93回は、最初の放映が3月17日でした。そして、おおむね最初の放映の後、公式サイトに内容がアップされるので、こういう内容だったと知り、3月21日の2回目の放映を視聴しました。

このブログで以前にご紹介した、光太郎詩「あどけない話」をモチーフにした、福島郡山にある、あさか開成高校さんの演劇「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」に触れられています。続編の「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか? 第二章 ばらあら、ばらあ」は、やはり福島の矢吹町にある光南高校演劇部さんにより上演されています。

過去にもこの番組で取り上げられた(当方、以前のオンエアは見逃していました)、両校で演劇部顧問を務め、ご自身も劇団を主宰されている佐藤茂紀さんがご出演。メインはご自身の劇団の新作に関してでしたが、あさか開成高校さんの演劇「この青空は、ほんとの空ってことでいいですか?」も大きく取り上げられました。

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その他、もうお一方のゲスト、NPO法人東北開墾 代表理事 高橋 博之さんのお話も含め、震災から4年という今の段階での被災地、そして日本全体への提言など、興味深い内容でした。

上記の通り、あと3回、放映されます。ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月23日

大正12年(1923)の今日、『読売新聞』に智恵子の評論「現代日本の文学に対するアマチユアの注文と感想」が掲載されました。

現在、智恵子執筆の評論は5篇程度しか確認できていません。そのうちの一篇で、光太郎の影響も見て取れるものです。

こんな一節もあります。

 健全な土台に立ち、芸術の正しい伝統を根とした、玲瓏とした魂から迸る、叡智と偉大な自由性と官能の天然な豊饒さに充ちた、がつしりとした文学を求めてゐる。われわれの魂に光りと愛と希望を与へ、みづからめざめしめるものを。ドストエフスキー、ホイツトマン、ヹルハアランその他、第一線に立つ飽く事を知らない真への探求者達が、この世へ贈つたやうな真と愛とを我が国の文学にも望む事を迂遠な事とは考へない。

新刊情報です。

未来を拓く 学校の力 地域と学校の心触れ合う教育活動

2015/1/31 全国連合退職校長会編 東洋出版社刊 定価 2,400円+税

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版元サイトより

全国より選りすぐられた特色ある学校の教育活動を紹介する。地域と学校の教育力のすばらしさを改めて感じられる。

第1章 郷土の偉人・歴史・文化に学ぶ008
第2章 地域の特色を生かした教育活動
第3章 災害からの学びと復興・防災教育
第4章 当面する教育課題への取組
第5章 世界とつながる・世界に羽ばたく


このブログで何度かご紹介してきた、東京都荒川区の第一日暮里小学校さんの事例が報告されています。同校は光太郎の母校です。昨秋には、日本学校図書館学会研究推進校研究発表会が開催され、公開授業の一つで光太郎が取り上げられました。

ご執筆は、同校前校長の天野英幸氏。「バトンを繋ぐ」と題し、学校図書館の活用により、6年生の総合的な学習の時間に於ける、先輩・光太郎についての調べ学習や、全校生徒による光太郎詩の群読などについて述べられています。

感心したのは、単なる調べ学習に終わるのでなく、「先輩の優れた生き様に学び、後輩に伝えようと「光太郎のバトンを渡そう」という学習活動」にしていること。そして、「この学習を通して、子どもたちが豊かな感受性と言語能力を磨くと共に、「自分も第一日暮里小学校の先輩になる」ことを強く意識できるようになることが大きな成果となっている。」とのことです。

右の画像は、同校の学校案内パンフレットです。下の方に、「校訓」ということで、光太郎の言葉「正直親切」が載っています。

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元々は、昭和26年(1951)、花巻郊外太田村の山口分教場が小学校に昇格した際に校訓として贈った言葉ですが、同校もこれを校訓とし、正門前にはこの書を刻んだ碑も建っています。

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こちらは『未来を拓く 学校の力 地域と学校の心触れ合う教育活動』掲載の画像です。

『東京新聞』さんには書評が出ました。 

地域の歴史、震災から学ぶ防災など 全国の特色ある教育活動を本に

 全国連合退職校長会(戸張敦雄会長)は設立五十年を記念して、全国各地の特色ある学校の教育活動をまとめた本「未来を拓(ひら)く 学校の力」(東洋館出版社)を発行した。
 全連退は全国都道府県にある退職校長会の連合体で、国の教育振興や研究支援、関連する出版事業を行っている。学校の力は「郷土の偉人・歴史・文化に学ぶ」「地域の特色を生かした教育活動」「災害からの学びと復興・防災教育」など五章からなり、退職校長会推薦の全国小中学校、高校の優れた約五十事例を写真付きで紹介している。
 うち、創立百二十九年の東京都荒川区立第一日暮里小学校は、卒業生の彫刻家で詩人の高村光太郎について、六年生が毎年、彫刻や詩、文献などから生き方を調べ、学び、後輩に伝えるリポートを作成している。
 東日本大震災被災地の岩手県釜石市立小・中学校は、「子どもの安全」をキーワードに、津波に備えることが当たり前という文化をつくり、学校、保護者、地域が何をしなければならないかを考え、実践継承する防災教育に取り組む。
 全連退・出版事業委員長の木山高美さんは「地域と学校の心触れ合う教育実践から郷土に誇りと愛着心を養う学校の力を読み取ってほしい」と話す。A5判、二百十四ページ。二千四百円(税別)。一般書店で扱っている。(沢田一朗)
2015年3月18日


智恵子の母校、福島二本松の油井小学校さんでは、当方、一昨年昨年と特別授業にお邪魔しましたが、智恵子顕彰に取り組まれています。また、5月15日の花巻光太郎祭では、山口小学校の後身・太田小学校さんや、同じく太田中学校の後身・西南中学校さんの児童生徒の皆さんが、詩の朗読や合唱、合奏で花を添えてくれています。
 
このように、小さな頃から自然と顕彰活動に取り組むことで、子供たちに自然と光太郎智恵子への敬愛の念が育ってゆくのではないでしょうか。
 
今後も継続的に取り組んでいっていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月22日

平成16年(2004)の今日、二玄社から小池邦夫編 『芸術家・文士の絵手紙』が刊行されました。

光太郎の絵手紙も三通紹介されています。

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明治40年(1907)、留学先のロンドンで、同じくロンドン在住の画家・南薫造に宛てたもの、そして戦後、花巻郊外太田村の山小屋から、甥の高村規、姪の高村珊子に送ったものです。

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ふきのとうを描いたものは、4月6日付け。岩手ではこの時期に雪の下から出てくるのですね。

当方自宅兼事務所のある房総では、とっくにふきのとうが出ています。近々採集してきて、愚妻に天ぷらにしてもらうつもりでおります。

昨日の『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」で、智恵子に触れて下さいました。 

あぶくま抄(3月20日)

 二本松市の地酒の瓶に「純米酒」の文字が躍る。や009や細めだが凜[りん]とした文字に、作者の面影が、ほの見える。同市名誉市民で文化勲章受章者の日本画家、故大山忠作氏が描いた。
 30年以上前、還暦の安達太良登山に挑んだ際、幼なじみの酒蔵関係者の頼みを快く引き受けた。「父にとって安達太良山は故郷の象徴。いつも感慨深く眺めていた」。長女で女優の彼女は語る。父の古里に美術館を造る話が持ち上がったころ、彼女は初めて安達太良山に登った。高村智恵子と父が愛した「ほんとの空」に魅せられた。
 震災と原発事故が、愛する空を曇らせた。「復興に役立ちたい」。彼女は、大山氏ら名前に「山」が付く日本画の大家5人の作品展を父の美術館で開く。市内に泊まり込み毎日、解説を買って出た。市の観光大使として県内外で風評払拭[ふっしょく]に奔走する。胸に「福が満開、福のしま。」のバッジが輝く。父の古里を今、自分の古里と思う。
 今夏の松竹創業120周年特別公演で久々の舞台に立つ。艶[あで]やかな舞踊と家族の絆を描く名作だ。県内でも上演する。二本松の仲間は応援計画を立てる。「ほんとの友」の心は純米酒のように優しく、そして温かい。


なぜかお名前が出ていませんが、「彼女」は、女優の一色采子さんです。「名前に「山」が付く日本画の大家5人の作品展」は、一昨年、二本松駅前の大山忠作美術館さんで開催された「五星山」展。関連行事として、昭和51年(1976)に北條秀司作の舞台「智恵子抄」で智恵子を演じられた有馬稲子さんと一色さんのトークショーがありました。当方、その折に一色さんの知遇を得まして、昨年の第58回連翹忌にお招きしましたところ、こころよくご参加下さいました。今年の第59回連翹忌にもお申し込みを戴いております。右の画像は、一色さんにいただいた一筆箋。安達太良山を描いた父君の絵があしらわれています。

「松竹創業120周年特別公演」については、調べてみましたがよくわかりません。ご本人に訊いてみます。

「純米酒」は、二本松の酒蔵、檜物屋酒造店さんで製造販売されている「千功成 純米酒」という銘柄のものです。

3.11が過ぎ、その前後は新聞やテレビ等、特集をいろいろ組んでいましたが、それも一段落という感があります。ところが、3.11が過ぎても被災地の被災はまだ続いています。光太郎がらみの地では、宮城女川で、今日、石巻線の女川駅が再開されるなど、復興も徐々に進んではいます。しかし、まだまだ途上です。

日本中が「純米酒のように優しく、そして温かい」「「ほんとの友」の心」で、被災地支援を続けてほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月21日

明治36年(1903)の今日、日記「彫塑雑記」を書き始めました。

光太郎数え21歳、東京美術学校在学中のものです。7月7日までと、翌年3月31日~5月2日まで、断続的に書かれています。

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書き出しは以下の通り。

○疑問、疑問、是れ人世の声なるか。人生れて心あり。疑無きを得ざるなり。已に凝つて此を解かんとす。

青年の煩悶がよく表されています。写真でロダンの作品を初めて見た衝撃なども述べられています。

ロダン作「詩」なる裸体像を写真に依つて見るを得たりしが今に至りて忘るゝ能はず。巨匠なるかな。

光太郎はおそらくその生涯にわたって日記を書いていたはずですが、戦前、戦中のものは、実家の蔵にあったこの一冊を除いて現存が確認できていません。そのほとんどは昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろとも灰になったと推定されています。

先々週の『東京新聞』さんに、以下の記事、というか連載コラムが掲載されました。時折このブログにご登場願っている坂本富江様から、切り抜きを戴きました。『東京新聞』さんも、毎日、サイトで新着記事をチェックしているのですが、このコラムはweb上にアップされていないようで、存じませんでした。 

手紙 書き方味わい方  卒業祝い 背中をポンと押す 中川越

 「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」(『道程』より)
 春、卒業、入学、入社を迎える人たちに、これほどふさわしい応援の言葉はないだろう。勇気と誇りを持って、美しい未来を切り拓いてほしいものである。
 この有名な詩句を書いたのは、いうまでもなく詩人、彫刻家として名高い、高村光太郎である。
 では、彼は実際に、卒業を迎えた若者に、どのようなエールを送っていたのか。調べてみたところ、次の手紙が見つかった。
 光太郎四十三歳のとき、二十四歳の東京美術学校彫刻科を卒業する学生に宛てた手紙だ。二人は、やはり彫刻家として活躍した双方の父親を介して、親交があった。
 「山本稚彦君 啓、まず卒業を御祝いします」
 いきなり冒頭から祝意を伝え、光太郎らしい清冽(せいれつ)な率直さを示している。
 その後、卒業制作展で山本稚彦の作品を見たこと、そして、「愉快」だったという感想を述べ、次の励ましの言葉をさしはさんだ。
 「何しろ一切これからの事です。これから大変面白いと思います」
 さらに手紙の締めくくりの部分では、このように輝かしい未来を予見した。
 「私はあなたの多幸な前途が約束されている事を信じます」
 もちろん、無責任な観測は相手のためにならない。将来の成功を信じるためには、それなりの根拠が必要だ。しかし、少しでもその可能性があるなら、それを信じて、まだ道の引かれていない世界にこわごわと踏み出そうとしている人たちの背中を、明るくポンと押してあげることが大切だ。
 困難を先取りして、健闘を促すより、きっと効果的に違いない。
 光太郎のこの卒業祝いの手紙のお陰(かげ)だけではないだろうが、山本稚彦青年は、その後、日展の常連となり、日展の特選を三回連続で受賞するなどしてから、日展の審査員、評議員などを務め、日本美術界の重鎮として活躍した。

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筆者の中川越(なかがわ・えつ)氏は「生活手紙文化研究家」だそうです。

取り上げられている手紙は、大正15年(1926)3月26日付で、文中にある通り、のちに彫刻家として有名になる山本稚彦(わかひこ)に宛てた長文のものです。稚彦の父は山本瑞雲。光雲の高弟の一人です。

あらためて手紙の全文を読み返してみましたが、なるほど、若き彫刻家の卵に対する的確なエールに溢れています。中川氏、おそらく紙幅の都合で割愛されたのでしょうが、「美術学校に入学したといふ事は美術に向つて決定的の運命を持つに至つたといふ事にはなりません。学校を如何に卒業したかといふ事がはじめてその方向を決定せしめるやうに思ひます。」という一節には、首肯せざるをえませんでした。

卒業シーズンです。ネット上のいろいろな方のブログや、学校さんのサイト等で、校長先生などが光太郎の作品を引いて、卒業式の式辞をなさったという記述を多く見かけます。ありがたいかぎりです。

人生への応援歌となるような光太郎の作品。それを「青臭い」と言ってしまえば、それまでかも知れません。しかし、それはそれである意味、王道なのだと思います。

光太郎は、敬愛するロマン・ロランをこう評しました。

あまり明白すぎて人にまぶしがられてゐる太陽、あまり確かすぎて人に古臭がられてゐる大空、それを彼は敢然として書く。真理に対する良心の火を彼ほど命にかけて護持する者は偉大である。
(『ロマン・ロラン六十回の誕辰に』 大正15年=1926)

そっくりそのまま、光太郎自身にもあてはまりますね。

私事になりますが、娘が大学を卒業して、家に戻って参りました。話を聞く限りでは、それなりに充実した学生生活だったようで、一安心しております。さすがに実の娘に面と向かって光太郎の言葉を引いてのエールなど、照れくさくて言えませんが、当方の背中を見せることで、娘の背中を押してやりたいと思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月20日無題

昭和19年(1944)の今日、龍星閣から詩集『記録』を刊行しました。

序文から。

 「記録」といふ題名は澤田氏(注・龍星閣社主)が撰び、私が同意したものである。むろん全記録の意味ではない。いはば大東亜戦争の進展に即して起つた一箇の人間の抑へがたい感動の記録といふ方がいいかもしれない。もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐない詩がたくさんある。さういふ生活内面に関する詩は現下の発表機関の絶えて要求しないところであるから、それも当然である。物資労力共に不足の時無理な事は決して為たくない。この詩集とても果して必ず出版せられるかどうかは測りがたい。それほど戦はいま烈しいのである。二年前の大詔奉戴の日を思ひ、今このやうに詩集など編んでゐられることのありがたさを身にしみて感ずる。戦局甚だ重大、あの時の決意を更に強く更に新たにしてただ前進するのみである。

「もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐない詩」は、翌年の空襲で全て灰になってしまいました。そちらの方を読んでみたかったと思っています。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

教え子と音楽CD制作 元英語教諭平賀さん 「深い愛情」印象的に(3/17)

 花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さん(83)は、教え子と音楽CD「DEEP LOVE」を共同制作した。歌曲集「英語で歌う日本の歌」と、心に残る詩を読み上げた「日本語・英語朗読」の2枚組み。101歳を迎えた義母幸子さんの長寿祝い、亡き妻郁子さんの十三回忌追善供養とも銘打ち、師弟愛や家族愛、夫婦愛などさまざまな「深い愛情」が印象的な作品になっている。
 平賀さんは、花巻北や盛岡一など県内高校の英語教師として、1992年まで勤務。学校を訪れる外国人客に日本文化を伝えようと、在職中から歌詞の英訳に取り組んできた。難しいとされる宮沢賢治の「精神歌」など多くの作品の翻訳に取り組み、原詩とは一味違った魅力を引き出してきた。私家版訳詩集「日本の名曲 英訳」シリーズも作っている。
 今作は英詩に加え、花巻北高時代の平賀さんに指導を受けた花巻出身で元高校長熊谷司郎さん(69)=神奈川県海老名市=が編曲協力し、メロディーにバーチャル(仮想)歌手の声を重ねている。平賀さんが翻訳時に単語選択を工夫したこともあり、機械音声とは思えないほど滑らかな節回しが実現している。
 朗読編には、平賀さんが思い入れを持つサミュエル・ウルマンの「青春とは」、高村光太郎の「松庵寺」など4詩を収録。英詩は日本語に、日本語詩は英語に訳され、熊谷さんによる音楽を背景に、雰囲気よく仕上がっている。
 「熊谷さんも私も楽しんで作っているから、健康にもいい。打ち込めるものがあるのは幸せ。命ある限り続けたい」と笑顔を見せる平賀さん。今回の歌曲集は英訳CD4作目になるが「第4集にして、やっとこつが分かってきた。好きなことを続けるのは、人生のエネルギーになる。これからもどんどん制作したい」と創作意欲を語っている。

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「松庵寺」は昭和20年(1945)の作。おそらく戦後になって初めて智恵子が謳われた詩です。昭和22年(1947)に刊行された白玉書房版の『智恵子抄』に収められました。

  松庵寺
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奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは花巻の中心街、双葉町にある寺院です。

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岩手在住時代の光太郎が、ほぼ毎年、10月の光雲・智恵子の命日の法要を、ここで行ってもらっていました。

そこで、松庵寺さんには、昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」を、光太郎と親交の深かった佐藤隆房の揮毫によって碑にしたものが建てられました。

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また、今回の記事で紹介されている平賀氏の英訳「松庵寺」を刻んだ詩碑も建っています。

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朗読はこちらのサイトで聴けます。009


ところで松庵寺さんでは、毎年4月2日の午後、花巻としての連翹忌が行われています。今年も市の『広報はなまき』に案内が出ました。

これも毎年ですが、午前中には光太郎が7年間暮らしていた旧太田村の山小屋(高村山荘)で「詩碑前祭」があります。

ともに花巻の㈶高村光太郎記念会さんの主催です。

当方、東京日比谷松本楼での連翹忌を取り仕切っている立場上、こちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月19日

昭和25年(1950)の今日、花巻農学校跡地に建てられた宮澤賢治の「早春」詩碑除幕式に参加しました。

以前にも書きましたが、同じ年に花巻温泉に建てられた光太郎の「金田一国士頌」詩碑と同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。

新刊です。以前にもご紹介しましたが、入手しましたので改めて。 

近代文学草稿・原稿研究事典

日本近代文学館編/編集委員:安藤宏・栗原敦・紅野謙介・十重田裕一・中島国彦・宗像和重
八木書店発行  定価12,000円+税   A5判・上製本・カバー装 383+20頁

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第一部が「総論」ということで、「初学者が原稿を前にしてどのように研究を始めるのか、またどのような点に注意して研究を進めるか、対象となる原稿はどこに行けば見ることができるのか、などについての解説編」(序文より)、第二部が「近代文学史上の主だった作家の原稿を使った研究の具体例」(同)となっています。

第二部で、光太郎も4ページにわたって紹介されています。執筆は群馬県立女子大学教授、杉本優氏。

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基本的に光太郎は、自分の手元に自作の詩を書いた原稿用紙を一括して保存していました。散文や短歌などについてはそういうことはして居らず、詩だけです。さらに、最初に雑誌等に発表した後、単行詩集などに再録する際に詩句の訂正を行うことがしばしばあり、その変遷がきちんと記録されています(全てではありませんが)。この一事をとっても、詩というものが、光太郎の内部で並々ならぬ位置を占めていたことが窺えます。ただし、発表された全ての詩の草稿が残っているかというと、そうでもありませんが。

まず大正5年(1916)作の「わが家」から昭和20年(1945)4月作の「琉球決戦」まで。「琉球決戦」を書き終えた後、駒込林町のアトリエが空襲で全焼しますが、その際には詩稿をまとめて防空壕に投げ入れ、焼失を免れました。アトリエ隣家の植木屋さんが見つけて戦後もそれを保管してくれており、昭和29年(1954)になって、再び光太郎の手元に戻りました。

続いて昭和20年(1945)5月の花巻疎開から歿するまでのもの。これはずっと光太郎の手元にありました。

この2種は、昭和42年(1967)に二玄社から『高村光太郎全詩稿』として一篇ごとに写真版と北川太一先生の詳細な解説を付け、上下二分冊で刊行されています。

それ以外に、出版社に送られた浄書稿も残っています。特に近年発見された詩集『道程』(大正3年=1914)所収の10篇38枚は、『道程』版元の編集者・内藤鋠策旧蔵とされています。

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また、昭和22年(1947)、雑誌『展望』に発表された20篇から成る連作詩「暗愚小伝」も、出版社に送った浄書稿が残っており、それについては平成18年(2006)、やはり二玄社から『詩稿「暗愚小伝」』ということで、全ページの写真版、北川太一先生の詳細な解説付きで刊行されています。

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『近代文学草稿・原稿研究事典』では、このあたりについての解説、原稿用紙の種類、初出形から最終形への変化などについて述べられています。

ただ、あくまで「事典」で、光太郎の項も4ページしかありませんので、概略に留まっています。杉本氏にはこれをさらに長く、一冊の研究書にでもしていただきたいものです。

それにしても、改めて光太郎の草稿が載った上記の書籍類を見てみますと、その時々の光太郎の息づかいまで聞こえてきそうな気がし、これは活字では感じられないものです。こういういわば原典にあたるのも、大切なことですね。

さて、『近代文学草稿・原稿研究事典』。定価12,000円+税と、少し高めですが、版元の八木書店さんに直接出向いて購入すると、1割引です。店舗は神田神保町古書街、三省堂ビルさんの近くです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月18日

昭和7年(1932)の今日、文京区向丘の曹洞宗金龍山大圓寺で、光雲を囲む座談会が行われました。

大圓寺は光雲に依頼してたくさんの仏像を作ってもらった寺院です。いずれ行ってみようと思っています。

出席者は光雲の他、光雲高弟の山本瑞雲、大圓寺の住職・服部太元、講釈師・大島伯鶴、天台宗の僧侶で書家の豊道慶中、陸軍中将・堀内文次郎、海軍中将・小笠原長生。

これを機に、小笠原と光雲は意気投合し、同じ海軍の東郷平八郎元帥を光雲に引き合わせたりします。

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こちらは同じ年の9月、東郷邸にて。左から服部太元、光雲、東郷平八郎、小笠原長生です。

光太郎の父・光雲がらみの展覧会情報です。 

三の丸尚蔵館 第68回展覧会 鳥の楽園-多彩,多様な美の表現

会 場 : 宮内庁三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-1 皇居東御苑内
 期 : 平成27年3月21日(土・祝)~6月21日(日)
               前期:3月21日(土・祝)~4月19日(日)
               中期:4月25日(土)~5月17日(日)
               後期:5月23日(土)~6月21日(日)
休館日 : 毎週月・金曜日,展示替の期間 但し,5月4日(月・祝)は開館
 
 :  4月14日(火)まで 午前9時~午後4時15分
               4月15日(水)から会期終了まで 午前9時~午後4時45分
入館料 : 無料 

概  要
本展では,当館が所蔵する19世紀から現代までの作品を中心に,国内だけでなく,海外のものも含めて,鳥を主題とした作品の数々を紹介いたします。
美しい宝石のような羽を持つ鳥や力強く空を自由に舞い飛ぶ鳥の姿に,古くから人々はあこがれて吉祥の意を見いだし,その姿を描き,形作って,身近に飾ってきました。長寿の鳥とされたツルは,慶事の折には必ず登場します。また,神聖で高貴な鳥であるクジャクは,花鳥画の主要な画題の一つとして描かれ,近代にもその伝統は引き継がれました。そして,家禽かきんとして人の生活と密接に結びついてきたニワトリは,古代中国の伝説に基づく諫鼓鶏かんこどりのように泰平の図として表される一方,作家たちが実際にニワトリを飼って観察し写生することで,躍動感あふれる作品が生み出されました。この他,身近な小禽や水鳥,外来種のインコ,現代では絶滅が危惧されているライチョウなど様々な鳥の,多彩な表現をお楽しみください。
美術の世界に棲すむ鳥の楽園へようこそ。


三の丸尚蔵館の概要
三の丸尚蔵館は,皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類が平成元年6月,国に寄贈されたのを機に,これら美術品を環境の整った施設で大切に保存・管理するとともに,調査・研究を行い,併せて一般にも展示公開することを目的として,平成4年9月に皇居東御苑内に建設され,翌年11月3日に開館しました。
なお,平成8年10月に故秩父宮妃のご遺贈品,平成13年4月に香淳皇后のご遺品,平成17年10月に故高松宮妃のご遺贈品,さらに平成26年3月には三笠宮家のご寄贈品が加わり,現在約9,800点の美術品類を収蔵しています。

出品目録によれば、光雲作の木彫が2点、いずれも中期(4月25日(土)~5月17日(日))に展示されます。

明治22年(1889)作の「矮鶏(ちゃぼ)置物」と、大正13年(1924)作の「松樹鷹置物」です。

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「矮鶏置物」は、はじめ明治22年(1899)のパリ万博に出品予定で製作されました。ところが、その前に、光雲の意思とは関係なく、美術協会の展覧会に出品する羽目になり、さらにそれを見た明治天皇が是非欲しい、ということでお買い上げになったものです。

このあたりの事情は、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に詳しく述べられています。

ネット上の「青空文庫」さんで読めますので、リンクを貼っておきます。



「松樹鷹置物」は、一昨年、京都国立近代美術館で開催された「皇室の名品-近代日本美術の粋-」展にも出品されたもので、こちらも光雲木彫の最高峰の一つです。

他にも石川光明橋本雅邦、海野勝珉、竹内栖鳳、堂本印象らの逸品が展示されます。お見逃しなく。


余談になりますが、現在、ある地方の市立美術館で、収蔵品展的な企画展が開催されていて、主な出品物作者に光雲があげられています。ところが、チラシの写真を見た限り、木彫を元にブロンズで鋳造した複製です。それを「光雲作」として出品するのはどうかと思いますね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月17日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、村の診療所医師・山田林一の診察を受けました。

前々日から熱っぽかったということで、近くの分教場の教師だった佐藤勝治が連れてきてくれました。山田医師は結核による発熱を抑える薬・ピラミドンを置いていきました。医師が診れば明らかなのですが、光太郎はかたくなに結核であることを否定し続けていました。

一昨日のスポーツ紙『デーリースポーツ』さんに、以下の記事が載りました。

コロムビア・ローズ三代そろい踏み

 日本コロムビアの所属歌手が一堂に会するコンサート「コロムビア大行進2015」が14日、東京・中野サンプラザで開かれ、初代(82)、二代目(70)、三代目(32)とコロムビア・ローズが三代そろい踏みした。3人が同じステージに立つのは12年10月の日本歌手協会主催の「秋の歌謡フェスティバル」以来約2年半ぶり。

 ステージでは、初代が「どうせひろった恋だもの」、二代目が「智恵子抄」とそれぞれの代表曲をソロで歌唱し、その後、三代そろって「東京のバスガール」を歌唱。三代目コロムビア・ローズ野村美奈は「名前を継がせていただいた先輩方とご一緒できて、緊張しながら歌わせていただきました」と振り返っていた。

 この日はコロムビア所属歌手の舟木一夫(70)、都はるみ(67)、八代亜紀(64)、大川栄策(66)、細川たかし(64)ら43組の歌手が出演。それぞれのヒット曲や故・美空ひばりさんら先輩歌手の名曲を歌唱し、最後は出演者全員で、故・島倉千代子さんの「人生いろいろ」を大合唱した。

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二代目コロムビア・ローズさん。記事にもある通り、代表曲が「智恵子抄」です。昭和39年(1964)のヒット曲で、智恵子の故郷・二本松市安達地区では今も子供達にも歌い継がれています。おそらく防災無線の時報でも流れていたと思います。

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「智恵子抄」のヒットで、その後リリースされた「二十四の瞳」のB面には、「智恵子のふるさと」という歌も収められました。観光客誘致に貢献したということで、作詞の丘灯至夫さん(二本松に近い小野町の出身で、同町に記念館があります)、作曲の戸塚三博さんともども、当時の二本松市長から感謝状を受けています。

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現在はアメリカ在住ということで、時折帰国なさってこうしたコンサートやテレビの歌謡番組などにご出演なさっています。下記は平成24年11月にテレビ東京系で放映された「木曜8時のコンサート~名曲!にっぽんの歌」。

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三代目ローズさん も、二代目のヒット曲ということで、この曲をカバー、平成17年(2005)にリリースの「異国の華」のカップリングになっています。

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ときおりコンサート等で歌われているようですが、この手のコンサートでは、事前に曲目が発表されることがまれなので、なかなかご紹介できずにいます。

追記・三代目ローズさんは平成27年(2015)、クラウンに移籍され、野村未奈に改名されたそうです。さらに平成29年(2017)、野村未菜と改名されたとのことです。

「智恵子抄」、これからも歌い継がれていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月16日

平成7年(1995)の今日、芳賀書店から『芸術夢紀行シリーズ① 高村光太郎 智恵子抄アルバム』が刊行されました。

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北川太一先生の的確な解説、カメラマンだった故・高村規氏の美しいイメージ写真、そして資料画像の豊富さでは他の追随を許しません。渡辺えりさん(4月2日、第59回連翹忌にご参加下さるそうです)の玉稿も掲載されています。ビジュアル的に光太郎・智恵子の生涯をたどりたい方にはお薦めです。

青森在住の彫刻家・田村進氏から、書籍を戴きました。008

『日本美術家事典2015』。版元サイトにも載っている序文によれば、「現在制作活動を行っている日本の美術家(日本画・洋画・彫刻・工芸・書)の個々の歩みを一冊にまとめることに主眼をおいて企画された事典」とのことで、平成元年(1989)に創刊、以後、増補改訂が続けられ、今年のものは第26号になるそうです。

B5版、600ページ超の大判大冊で、「現代作家篇」と「物故作家篇」から成り、前者が中心です。「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸」「書」の5分野で、作家名を項目とし、おそらく数千名が紹介されているようです。

「彫刻」の部では、扉ページに田村氏の作品「光太郎山居」の石膏原型が使われています。一昨年から制作にかかられ、このほど、ブロンズ鋳造が完成したと、御手紙にはありました。戦後、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居生活を送っていた頃の光太郎肖像です。


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田村氏の紹介が載ったページは、全体像も掲載されています。

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昨夏発行された美術雑誌『花美術館』にも紹介がありました。昨秋には、当方、このためのレリーフ習作を戴いてしまいました。4月2日の第59回連翹忌にて展示し、皆様にお見せするつもりでおります。

『日本美術家事典2015』、「物故作家篇」も掲載されており、光太郎、光雲、豊周(智恵子はありません)も項目になっていますし、光太郎と同時代、または次の世代で交流のあった作家も網羅されており、ありがたい書物です。版元サイトから購入可能ですし、公共図書館等に置かれるでしょう。ぜひお手にとっていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月15日

昭和29年(1954)の今日、雑誌『美術街』第121号に、光太郎の実弟・豊周執筆の評論「无型と実在」が掲載されました。

无型(むけい)は鋳金家であった豊周が中心となり、大正15年(1926)に結成された工芸作家の同人の会です。

東京新宿に昨秋開館した中村屋サロン美術館さんで、今週から下記のテーマ展示が始まっています。 

テーマ展示 柳敬助

会 期 : 2015年3月11日(水)~5月31日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室1・2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
入館料 : 200円  ※通常展示と合わせた入館料です。

明治末から大正、昭和初期にかけて、新宿中村屋には多くの芸術家・文化人たちが集いました。
「中村屋サロン」と呼ばれるその集まりには、彫刻家の荻原守衛(碌山)や高村光太郎、画家の中村彝などがいましたが、その中でキラリと光るデッサン力を持っていた画家が柳敬助でした。
本展示ではこの柳敬助に焦点を当て、初期から晩年にかけての油彩画やデッサン約20点をご紹介いたします。写実でありながら創造性に溢れた、柳の作品の魅力をぜひお楽しみください。

【同時開催】 通常展示 中村屋サロン

ギャラリートーク
当館学芸員による、テーマ展示「柳 敬助」のギャラリートークを下記の通り開催いたします。
なお、館内が大変狭いため、事前申込み制とさせていただきます(定員15名。先着順)。ご応募お待ちしております。
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基本情報
日 時 2015年4月11日(土)14:00~ 約50分    5月  9日(土)14:00~ 約50分
場 所 中村屋サロン美術館費用無料(要入館)

参加ご希望の方は、メールまたはお電話にてご応募ください。
メールでご応募の方は、メールの件名を「ギャラリートーク」とし、
①氏名②電話番号③参加人数(2名まで)④参加希望日をご入力のうえ、ご送信ください。
当館職員よりメールまたはお電話にて受付と詳細のご連絡をいたします。
※お申込は先着順とさせていただきます

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柳は東京美術学校西洋画科に学んだ画家です。ニューヨークに留学の経験があり、彼の地で荻原守衛、光太郎と相知ることになり、帰国後も彼等との交流が続きました。

妻の八重は日本女子大学校卒。同じく小橋三四子とともに、光太郎に智恵子を紹介する労を執りました。そんな縁で、光太郎とは夫婦ぐるみの付き合いが続きます。

しかし、大正12年(1923)、42歳の若さで早世。同じ年に日本橋三越で開かれた遺作回顧展は、初日に関東大震災が起こり、展示された作品は焼失してしまいました。したがって、現存する作品は多くありません。

そんな中でも、信州安曇野の碌山美術館さんでは、柳の作品がまとまった数、収蔵、展示されています。今回の中村屋さんでは、碌山さんの収蔵作品の他、約20点が並んでいます。

また、通常展示も開催中で、そちらには光太郎の油絵「自画像」が展示されているはずです。

ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月14日

大正11年(1922)の今日、詩人・歌人の正富汪洋に、自身の略年譜を書き送りました。

○生年月 明治十六年三月 ○東京美術学校彫刻科卒業、明治三十六年 ○明治三十九年二月アメリカに行き、四十年英国に渡り四十一年巴里に移り、四十二年夏帰国 ○詩集「道程」は大正三年出版

おそらく正富が主宰していた雑誌『新進詩人』のためのものと推定されますが、掲載誌が確認できていません。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

昨日は、東京町田の西山美術館さんに行って参りました。先日の八木重吉記念館さん同様、町田に娘が住んでいる関係です。ロダンの作品がかなりあるということで、行ってみました。

こちらは実業家の西山由之氏が、自宅敷地内に開設された私設美術館です。

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コレクションは3本柱で、「ロダン」、「ユトリロ」、そして「銘石」です。

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まずは通り沿いにドーンと大きな門。ご自宅の門と兼用のようで、表札もかかっていました。

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ここから町田特有の急な坂をさらに車で上がっていき、ご自宅の脇に美術館があります。

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入り口にはなぜか黄金色の「考える人」。

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さらに銘石。ロビーにも。

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ここでの「銘石」は、アメジストなどの水晶系の大きなものという感じで、「パワーストーン」と謳っており、どれも直接手で触れられるようになっていました。

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5階建ての1階はロビー、受付、そしてショップです。入館料1,200円でしたが、JAFの会員証提示で900円に割引でした。最初に、「こちらに該当する方は割引がございます」と見せられた紙にJAF会員に関しても書いてあり、「あ、会員証持ってます」ということに。非常に親切だなと思いました。さらに小さな水晶の欠片を2粒いただけます。「お財布に入れておくと金運アップになりますよ」とのこと(笑)。

2階、3階にロダンの作品が展示されているということで、階段を上がって2階に。すると、最初に眼に入った彫刻は、意外なことにロダンではなく荻原守衛の「女」でした。

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さらに驚いたことに、キャプションによれば、守衛を援助していた新宿中村屋の相馬家にあったものだそうです。戦時中の疎開などの関係で、この地に残されたとのこと。したがって、守衛と親交のあった山本安曇の鋳造です。

そこから先には、様々なロダン作品と「銘石」が。ロダン作品はブロンズが中心でしたが、大理石やデッサンもありました。

有名なところでは、「鼻の潰れた男」、「青銅時代」、「バルザックの頭部」など。

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4、5階はユトリロの展示でした。こちらは撮影禁止と言うことで画像はありませんが、油彩、水彩など数十点が並んでいました。

壁に貼られている年譜を見て、初めて知りましたが、ユトリロは光太郎と同じ明治16年(1883)の生まれでした(生まれといえば、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。存命なら満133歳になります)。

光太郎がユトリロに言及したのは、今のところ昭和15年(1940)に書かれた評論「上野の現代洋画彫刻」の中で一度だけですが、好意的に紹介しています。表記は「ユトリヨ」となっています。

ドガの画いた灰色の間仕切、マネの生きて濡れてゐる絵具、ルソオのたのしい調和、ユトリヨのエナメル色の空。これらを昔のルウブル紙幣のやうに笑ふものは必ず芸術から復習をうけるだらう。

なるほど、という感じですね。
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さて、西山美術館さん。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月13日

昭和35年(1960)の今日、『光太郎資料』が創刊されました。

当会顧問にして、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生による手作りの冊子です。筑摩書房から刊行された最初の『高村光太郎全集』の補遺と訂正から始まりましたが、不定期刊行で平成5年(1993)までの間に第36集まで出され、さまざまな資料が掲載されました。

光太郎の誕生日に合わせ、この日の創刊となったと思われます。

その名跡をお譲りいただき、当方が37集以降を3年前から刊行しています。

新刊、というより復刊書籍の情報です。 

人権からみた文学の世界【大正篇】

2015/2/6 ゴマブックス   川端俊英著   定価1,200円+税

森鴎外「雁」、夏目漱石「こゝろ」、宮本百合子「貧しき人々の群」……。
大正期につむぎだされた名作のなかから人権に関わる問題に着目し、その時代の断面を検証。
現代を生きる私たちの自己点検にもつながる問いを投げかける良書。著者の慧眼が光る解説も味わい深い。無題

目次
まえがき――大正期と高村光太郎
第一章 森鴎外「雁」の世界
第二章 夏目漱石「こゝろ」の世界
第三章 宮本百合子「貧しき人々の群」の世界
第四章 吉田絃二郎「清作の妻」の世界
第五章 岩野泡鳴「部落の娘」の世界
第六章 永井荷風「花火」の世界
第七章 芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界
第八章 秋田雨雀「骸骨の舞跳」の世界
あとがき
大正期略年表

というわけで、光太郎を含め、9人の文学者の作品から、大正時代の人権意識にスポットを当てた論考です。光太郎は「まえがき」で扱われていますが、他の作家と違い、ある特定の作品を取り上げての論ではなく、「道程」や「牛」、「ぼろぼろな駝鳥」といった複数の詩からのアプローチなので、そうなっているという感じです。そして光太郎論を枕に、「大正」という時代の光芒を追う展開です。

白樺派の人道主義、プロレタリヤ文学対ファシズム、ドメスティックな問題、同和問題などからの観点で、非常に読みごたえがあります。

もともとは平成10年(1998)に、部落問題研究所から刊行されたもので、版元をゴマブックスさんに移し、さらにオンデマンド(注文を受けてから印刷、製本するシステム)での復刊です。といっても、注文して翌日には届きます。ただ、造本としてはどうしてもペーパーバックになるようです。変にかさばらない、価格が安いという点では、ハードカバーより良いと思います。

ゴマブックスさん、前身のごま書房時代には新書版の「ごまブックス」が売りだったと記憶していますが、最近は電子書籍系に力を入れているようで、その延長でオンデマンドも手がけているように感じます。

今後、こういう形がどんどん広がっていきそうな気がします。特にこういう埋もれた名著的なものは、大手の出版社がどんどん版権を手に入れ、復刊させていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月12日008

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、編集者・野末亀治に宛てて葉書を書きました。

 小包を又々頂戴、オレンヂをたくさんありがたく存じました。その中にヅボンを発見、これ又大いに役立ちますので大喜びです。今冬は厳寒が続きましたので先年いただいた台湾のキヨウとかいふ獣の毛皮をチヤンチヤンコの下に着るやうにしましたら大変凌ぎ易く感じました。
 小生今冬は栄養状態去年よりもよろしく、雪を冒して温泉にも二三度まゐりました。
 御礼まで。

「台湾のキヨウとかいふ獣」は、おそらく鹿の一種の「キョン」です。光太郎は他にも村人に貰ったカモシカの毛皮などを愛用していました。

猟銃でも持たせれば、マタギのようですね(笑)。とても日本を代表する彫刻家・詩人には見えません(笑)。

3.11が巡ってきました。

新聞やテレビでは、少し前から東日本大震災がらみの特集などを組んで下さっていますし、イベントなどもいろいろあって、いいことだと思います。記憶を風化させないというのはもちろん、未だに避難生活を強いられている皆さんがたくさんいたりする現状に目をつぶるわけにはいきませんから。


新聞各紙の報道をご紹介します。  

<「福島」復興考えるシンポ>「地域ごとの被害を見て」 立命大で280人参加

毎日新聞京都版 3月9日

 東京電力福島第1原発事故に関連したシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」が8日、立命館大朱雀キャンパスホール(京都市中京区)で開かれ、放射能汚染被害を受けた福島県での農業復興や被災者支援の取り組みが報告された。復興支援の拠点施設「福島大学うつくしまふくしま未来支援センター」と福島大の主催で約280人が参加した。

 元NHKアナウンサーで、現在はNPO法人「8bitNews」を設立し、インターネットなどを使って福島のニュースを発信するジャーナリストの堀潤さんが講演した。

 「『今も苦しんでいる福島』と語った際、その福島は何を指すのか」とまず問題提起。「本州で岩手県に次いで広い福島県は、(原発がある)海側の浜通りから、山側の会津地方まで、放射能被害の程度が違う。地域ごとに細かく見ず、ひとくくりに福島を捉えてしまうと、支援を届ける場所が曖昧になる恐れがある」と警鐘を鳴らした。 

福島の現実と課題「現地で知って」 震災4年、京都でシンポ

京都新聞 3月9日

 東日本大震災から4年を迎えるのを前に、福島県の現状を考えるシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」が8日、京都市中京区の立命館大朱雀キャンパスであった。復興への取り組みが進む一方で、現在になって表面化した問題を大学教授や被災者が講演し、「課題解決のために、多くの人に現地を訪れてほしい」と市民に呼び掛けた。

 被災地の状況を全国に発信する取り組みの一環で、福島大などが主催した。東京や大阪に続いて京都でも開かれ、約280人が参加した。シンポでは、東京電力福島第1原発事故による県内の放射線量や影響を受けている生産物の出荷状況などを、福島大の教授が説明した。

 本多環特任教授は、家族と別れたり親がストレスを抱えたりして家庭環境などが変化した子どもは、自分の存在意義について悩み、自信をなくしていると指摘。震災から4年近くが経過して体力の低下が明らかになっているとし、「医療面のケアなど、これまでは対症療法にとどまっていたが、教育や福祉の専門家を交えた複合的な支援が必要だ」と訴えた。

 福島市にある松島屋旅館のおかみ高橋美奈子さん(47)は、関西の旅行業者から客に対して責任を持てないため福島行きの商品をつくれないと言われたことを紹介。「原発の汚染水問題などが起きる度に、企画や復興にむけた計画が覆えされる課題はある。現地を見てもらうために自分たちにできることを考えていきたい」と力を込めた。 

大震災から4年…実情伝え 福島大が京都でシンポジウム

福島民友 3月9日

 
 福島大うつくしまふくしま未来支援センターは8日、京都市の立命館大で京都シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」を開いた。300人以上の聴衆を前に、同大の研究者らが震災、原発事故から間もなく丸4年となる本県の実情を伝えた。

   2013(平成25)年に東京、昨年は大阪でシンポジウムを開いており、今回が3回目。元NHKアナウンサーでジャーナリストの堀潤さんが基調講演した後、同センターの大瀬健嗣特任准教授が本県の放射性物質汚染の現状などについて、小山良太副センター長が本県農業の放射性物質対策などについて、本多環特任教授が子ども支援について報告した。「震災・原発事故からの福島の闘い」と題し、開沼博特任研究員をコーディネーターにパネルディスカッションも行った。


明るいニュースも報じられています。昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念し、文学碑が建てられ、今も女川光太郎祭を毎年開催している宮城県女川町から。 

<JR石巻線>復興の象徴また一つ 女川駅の新駅舎公開

毎日新聞 3月5日

 東日本大震災の津波で流失した宮城県女川(おながわ)町のJR石巻線女川駅の新駅舎が5日、報道陣に公開された。町のシンボルのウミネコが羽ばたく姿をイメージした大屋根が特徴。かさ上げなどの再建が進む町中心部の核となる。  
 
 旧駅は沿岸にあったが、新駅は約200メートル内陸に移設し、敷地も7~9メートルかさ上げした。ホームから真っすぐ先に海が見渡せ、駅舎を起点に海岸に向けて駅前広場やプロムナード(遊歩道)、商店街などを整備する復興計画が本格化する。

21日に開業し、石巻線浦宿駅までの2.3キロ区間の運行が再開、4年ぶりに石巻、仙台方面と鉄路でつながる。町はこの日を「新生女川のまちびらき」と位置づけ、記念式典で復興をアピールする。

3階建ての駅舎は、海外でも活躍する建築家、坂茂(ばん・しげる)さんが設計。温泉施設「ゆぽっぽ」を併設した。3階の展望台からは町を一望できる。


女川の新たな玄関口、新駅舎は水鳥の羽ばたきイメージ

産経新聞 3月6日

 東日本大震災の津波で被災し、不通となっているJR石巻線の浦宿-女川間(約2・3キロ)運転再開に先駆け、駅舎が流されるなど甚大な被害を受けたJR女川駅(女川町)の新駅舎が5日、報道陣に公開された。同区間は21日に運転が再開される予定。

公開された新駅舎は2月20日に完成。世界的建築家の坂茂(ばん・しげる)氏が設計した。屋根が木造の鉄骨3階建てで、延べ床面積は約900平方メートル。屋根は曲線を描き、水鳥が翼を広げて羽ばたく姿を重ねたという。1階は駅事務所や待合所、2階は町営の温泉施設になっている。

この日は女川駅からの列車の試運転も実施。2両編成の列車が女川駅から浦宿駅の手前まで、報道陣を乗せて2往復した。駅は震災前より200メートル内陸へ移転したため、一部ルートを変更。運転手や乗務員は、信号などの設備や新しいルートの確認を行った。

21日は午前6時12分の始発から運転再開。震災前と同じく1日に上下22本の列車が運行する。町営温泉施設は22日からオープンする。

JR石巻線は、美里町の小牛田(こごた)駅から女川駅を結ぶ全14駅約44・7キロ。平成23年3月の震災で全線不通となったが、同年4月から25年3月にかけ、浦宿まで段階的に復旧していた。浦宿-女川間は線路や、女川駅の駅舎が流されるなど甚大な被害を受け、同駅の移転やかさ上げのために再開が遅れていた。

女川町町民課町民生活係の小山幸宏主査は「駅は新しい女川町の玄関口になる。運転再開を皮切りに町を活気づけ、復興の一翼を担ってくれれば」と期待を込めた。


 しかし、素直に喜べない部分もあるようです。女川光太郎祭会場となっており、女川光太郎の会事務局長で、あの日、津波に呑まれた故・貝(佐々木)廣さんの奥様のお店、佐々木釣具店が入っている仮設商店街・きぼうのかね商店街に関する報道です。

(東日本大震災4年)仮設商店街、悩む移転

朝日新聞 3月9日

 4年前に津波被害を受けた東北沿岸の各地で、地元を元気づけてきた仮設商店街の商店主たちに「2度目の移転」の決断が近づいている。新たなまちなみにあわせた「本設」の商店街づくりの構想もあるが、東日本大震災を機に人口減と高齢化は加速。廃業を考える人は少なくない。

 ■細る客足、家賃増も壁
 宮城県女川町の中心部では、津波で全壊したJR女川駅が21日に新しくでき、12月には駅前に新商店街が完成する予定だ。構想では、幅15メートルの遊歩道が海岸にかけて延び、両側にスーパー、薬局のほか、ダイビングショップやギター工房など27店が並ぶ。

 商店街を運営する「女川みらい創造」によると、「半数は町の外から客を呼び込める店」だ。近江弘一専務は「観光客が趣味に没頭し、ゆったりと過ごせるように考えた」と話す。

 1・5キロ西の高台には、被災した商店が移った「きぼうのかね商店街」がある。50店が入る平屋建ての長屋は3年前、県立高校の敷地に建てられた。震災直後、相次いで完成した仮設住宅の近くにできたが、仮設に住む人は減り始め、早ければ2年後に閉鎖される見通しだ。

 ここから新商店街に移ると決めた店は九つ。別の場所で再建をめざす店もあるが、およそ10店は廃業が取りざたされ、移転に二の足を踏む店主が多い。

 一角で理容店を営む深堀浩一さん(71)は「年齢を考えれば難しいね」。ここで営業を終えるつもりだ。震災後、町の人口は3割減り、なじみ客の足も遠のいた。仮設商店街には国の復興予算や寄付があてられ、月2万円の共益費と光熱費で済むが、新商店街に移れば家賃もかさむ。


むずかしいところです……。

きぼうのかね商店街といえば、先頃来日された、英国のウィリアム王子も訪問なさいました。

ウィリアム王子、女川の「希望の鐘」鳴らし離日

産経新聞 3月1日008

 来日中の英国のウィリアム王子は1日、東日本大震災の被災地、宮城県石巻市を訪問後、女川町に入った。100人以上が出迎え、獅子舞踊りや太鼓を鳴らして歓迎した。
 王子はがれきの中から見つかった「希望の鐘」を鳴らし、復興のために開設した商店街の人々とも言葉を交わした。
 王子は日本での全日程を終えて1日夕、次の訪問先の中国へ向かった。

英王子「私も大切な母亡くした」石巻など訪問

河北新報 3月2日

 来日中の英国のウィリアム王子(32)は1日午前、東日本大震災で甚大な被害が出た石巻市と宮城県女川町を訪れ、被災状況を視察し、住民らと交流した。
石巻市では、社屋が津波にのまれながらも手書きの壁新聞を発行した石巻日日新聞の施設を訪れ、記者や津波で3人の子どもを亡くした木工作家の遠藤伸一さん(46)、綾子さん(46)夫妻と面会した。
王子は真剣な表情で夫妻の話に耳を傾け、「私も大切な母を亡くした。思い出してつらい時にはきょうのことを思い出します」と語り掛けた。伸一さんが涙ぐんだ際には、王子が腕をさすり、「あなたは立派な父親だ」と励ました。007
石巻湾を一望できる日和山公園では、亀山紘市長が震災時の様子を説明。王子は犠牲者を悼んで献花し、黙とうをささげた。石巻小の児童2人から折り鶴を手渡されると、「息子のお土産にします」と話した。
女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」では、地元住民が獅子舞や太鼓の演奏などで歓迎。王子は店舗を巡って商店主らと触れ合ったほか、がれきの中から見つかって商店街の象徴となっている「希望の鐘」を3回突き鳴らした。

 
右が「希望の鐘」です。この鐘の音が、すべての被災者の皆さんの心の中に、鳴り響くことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月11日

大正9年(1920)の今日、福島に帰省していた智恵子が東京駒込林町のアトリエに戻りました。

3月12日付けで光太郎が友人の作家・田村松魚に送った葉書に以下の記述があります。

智慧子は大層健康になつて肥つて昨夕帰つて来ました。丁度時候があたゝかなのでよかつたとおもひます。
しばらく田舎に居た人を見ると東京の生活の神経的に慌れて濁つてゐる事を感じさせられます。やはり国民の生気は田舎にあるかも知れませんね。
(略)
ちゑ子からあなたにも妙子さんにもよろしく


「智慧子」「ちゑ子」は原文の通り。「慌れて」もそうです。書簡や日記だと、意外に光太郎の表記はいい加減です。

智恵子歿後の昭和15年(1940)に書かれた「智恵子の半生」によれば、智恵子は結婚後も1年のうち3、4ヶ月は実家に帰っていることもあったそうで「東京には空が無いといつて歎いた」といいます。それが詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」につながります。

昨日は都内に出かけておりました。

メインの目的は、4月末にリニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館関連でした。

新しい記念館内に、イメージ映像と朗読の音声で光太郎の詩を紹介するコーナーが設置されます。そのための朗読の収録が、昨日、水道橋の高速録音スタジオさんで行われました。

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朗読を担当されたのは、ベテラン声優の堀内賢雄さん。洋画の吹き替えで、ブラッド・ピッドの声などを担当されています。アニメでもご活躍で、一昨日は「クレヨンしんちゃん」の収録だったそうです。記念館の朗読コーナーでは、光太郎詩4篇を流すとのことで、その朗読をしていただきました。4篇は、「道程」、「レモン哀歌」、「雪白く積めり」、「メトロポオル」です。

収録にかかる前に打ち合わせをしました。その中で堀内さんがおっしゃっていたのですが、記念館で流れる光太郎の詩の朗読をなさるということを、「声優冥利に尽きる」ということで、声優仲間から非常にうらやましがられたそうです。しかし、ある意味、ものすごいプレッシャーでもあるとのことでした。なるほど、そういうものかと思いました。

さて、収録。まずは「道程」。ただし、詩集『道程』に収録され、よく知られている短い形ではなく、雑誌『美の廃墟』での発表形、すなわち102行ある大作です。これ1篇で8分を超えました。渋い落ち着きのある、しかし張りのあるバリトンの声で、素晴らしい朗読でした。よくある「さあ、感動しなさい」と言わんばかりに感情移入丸出しの妙な抑揚をつけた朗読ではなく、あくまで淡々と、しかし内に込めたエネルギーを感じさせるものでした。

比較的短い残り3篇の収録も続けて行われましたが、こちらも1篇ごとに詩の内容をよく勘案されて調子を変え、テンポも変え、しかし感動の押し売りではない、これまた素晴らしい朗読でした。サブ(副調整室)で聴いているスタッフさんたちや、当方など、1篇終わるごとに、感嘆のため息でした。

レモン哀歌」、「雪白く積めり」は以前のこのブログでご紹介しています。左記リンクでご覧下さい。「メトロポオル」のみ、このブログ内にありませんでしたので、下記に全文を載せます。画像は詩の舞台、花巻郊外旧太田村にある光太郎が暮らした山小屋です。

   メトロポオル
004

智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。

岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、003
転変かぎりない世代の起伏。
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑ひ、
山林孤棲と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。


どうもボキャブラリーが貧困で、うまく堀内さんの至芸を言葉で表せません。ぜひ、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際にお聴き下さい。

堀内さんの朗読もそうでしたが、スタッフの皆さんの仕事ぶりにも感心しきりでした。「最高のものを作ろう」という気概といいますか、とにかく妥協を許しません。ベテラン堀内さんの朗読にも、ばしばしダメ出しが出ましたし、収録後に行った映像部分の打ち合わせでも、よりよくするためにはどうしたらいいかと、侃々諤々の議論でした。たとえばイメージ映像に載せて、詩が画面に映し出されるのだそうですが、そのフォント(字体)をどうするか一つとっても、「ビジュアル的に考えてこれがいい」「いや、これは無難すぎて面白くない」「これは癖がありすぎだろう」「詩の内容を考えるとこれでしょう」といった具合に。プロというものはこういうものだな、と感じました。

繰り返しますが、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際に視聴なさってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月10日

昭和26年(1951)の今日、岩手県立盛岡美術工芸学校の第一回卒業式のために祝辞を書きました。

昭和23年(1948)、盛岡に県立美術工芸学校が開校しました。初代校長は、美術史家・美術評論家の森口多里が務め、教員には画家の深沢省三・紅子夫妻、彫刻家の舟越保武、堀江赳らがいました。その後、ことあるごとに光太郎は同校を訪れ、生徒に講話をしたり、祝辞や祝電を寄せたりしました。

県立美術工芸学校は、その後、盛岡短期大学美術工芸科を経て、岩手大学特設美術科に移行、現在に至ります。

JR東日本さんが中心となって、県、地元自治体などと連携して展開する観光キャンペーン「ふくしまデスティネーションキャンペーン」(ふくしまDC)が、来月から始まります。キャッチフレーズは、「福が満開、福のしま。」だそうです。

公式サイトを詳しく見てみると、智恵子の故郷・二本松の紹介に、「智恵子」や、お約束の「ほんとの空」の語がちりばめられています。

「観光情報」内でも「智恵子」や「高村光太郎」、「ほんとの空」の語で検索すると、「智恵子抄探訪コース」、「安達太良山」など、いろいろとヒットします。

3.11が近づき、このところ、テレビや新聞では、また震災関連の特集が組まれています。復興の遅れや、避難生活を強いられている人々の苦しみといった点がクローズアップされ、それはそれで問題提起としては必要だと思います。

しかし、そうした負の部分だけでなく、こうした前向きな復興支援ももっともっと取り上げていただきたいものですね。

二本松市の広報紙、『広報にほんまつ』の今月号でも、ふくしまDCが取り上げられています。「おもてなしの心で観光客の皆さまをお出迎えしましょう」という呼びかけがなされています。市のゆるキャラ・菊松くんが智恵子生家の前で清掃活動(笑)。「観光地を中心に、市内全域を清掃活動できれいに保ちましょう。」だそうです。

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3月29日に開催されるオープニングイベント「にほんまつ・魅力発信・フェスティバル2015」の告知もありました。

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以前にご紹介した、ほんとの空を守るPR隊・二本松少年隊がここでお披露目だそうです。


くどいようですが、もうすぐ3.11。震災から4年です。みんなの力で、福島を、そして東北全体を盛り上げていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月9日007

昭和37年(1962)の今日、NHKラジオ第2放送で「青年図書館 高村光太郎」が放送されました。

「青年図書館」は30分番組で、近代の文学者を一人ずつ取り上げるものでした。解説は国文学者の吉田精一、この回のゲストは佐藤春夫でした。

右の画像は放送台本です。B4版ザラ紙二つ折り35ページで、ガリ版刷りです。

昨年から連翹忌にご参加いただいている詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』第79号をいただきました。ありがたく拝受いたしました。

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今回で最終回だそうですが、宮尾様のエッセイ「断片的私見『智恵子抄』とその周辺(五)」が6ページ。『智恵子抄』からインスパイアされた小説、舞台芸術、映画・ドラマ、音楽などでの二次創作の紹介、光太郎智恵子略年譜に見る二人の生の軌跡、オリジナルの『智恵子抄』(昭和16年=1941)のあとに刊行されたさまざまな『智恵子抄』の紹介などの内容です。

他の記事や詩作品等も興味深く拝読しました。中でも柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」は特に興味深いものがありました。現在の『青い花』は第四次ということですが、第一次は昭和9年(1934)の刊行で、今官一を編集発行人とし、太宰治、壇一雄、そして中原中也を含む十数名が参加していたそうです。

中也は同じ年に、光太郎に題字を書いて貰い、第一詩集『山羊の歌』を刊行しています。柏木氏の記事の中には、岩手県奥州市の人首文庫(ひとかべぶんこ)さんに所収されている中也がらみの資料についての紹介があり、「ほう」と思いました。やはり昭和9年(1934)、「胡桃の会」というサークルの会合で書かれた署名帖に、中也の名があったというのです。

人首文庫さんは、詩人の佐伯郁郎の生家に作られた史料館です。佐伯は内務省警保局図書課に勤務し、戦時中は情報局情報官として図書の検閲等に当たっていました。10年以上前になりますが、こちらに光太郎から佐伯宛の全集未収録の書簡が5通、さらに詩稿も収蔵されていることを知り、コピーを戴きました。『青い花』の記述がその人首文庫さん収蔵の資料の紹介だったので、「ほう」と思った次第です。

以下、憶測に過ぎませんが、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)刊行などの陰に、佐伯の尽力があったのではないかと、当方は考えています。

『智恵子抄』には詩や短歌の他に、書き下ろしではありませんが散文も三篇収められています。そのうち昭和15年(1940)の『婦人公論』に載った「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)には、以下の記述があります。

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

大君=天皇と、一人の女性を同列に並べたこの表現、当時の社会状況を考えると、読みようによっては不敬のそしりを免れないものです。

当方には、この文言が検閲をすり抜け、雑誌や詩集に掲載された陰に、光太郎を敬愛していた佐伯の影がちらついて見えるのですが、どうでしょうか。

人首文庫さん、行こう行こうと思いつつ、まだ足を運んだことがありません。『青い花』での柏木氏も「岩手の山村にある「文庫」には、戦前の文学活動を物語る”宝物”がまだ眠っている気がする。」と記されています。改めて、折を見て行ってみようと思いました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月8日008

昭和2年(1927)の今日、光太郎が装幀、題字を担当したロマン・ロラン著、市谷佳義訳 『マハトマ・ガンヂ』 が刊行されました。

右は扉の画像です。

版元の叢文閣は、この前後、ロマン・ロランがらみの書籍をたくさん出版し、装幀や題字を光太郎に依頼しています。片山敏彦訳の戯曲『愛と死の戯れ』、『時は来たらん』、高田博厚訳『ベートォヹン』、『ヘンデル』、尾崎喜八訳の戯曲『花の復活祭』。

智恵子はまだそれなりに健康で、光太郎も円熟期、精力的に仕事をこなしていた時期です。

このブログで何度かご紹介した、兵庫県人権啓発協会さん作成の「ほんとの空」というドラマ。各地の自治体さんや学校さんなどで上映が行われたり、テレビの地方局さんでオンエアされたりしています。光太郎の詩「あどけない話」にからめ、福島の原発事故による風評差別などを扱ったものもです。

何とか観たいものだと思っていましたが、制作元の兵庫県人権啓発協会さんでは個人向けの貸し出しを行って居らず、市販されているものの価格が80,000円+税と、ちょっと手が出ません。

そう思っていたところ、個人向けの貸し出しを行っている団体を見つけました。公益財団法人 人権教育啓発推進センターさんです。こちらの人権ライブラリーでは、人権に関する図書・ビデオ・DVD・展示パネルや地方公共団体さんが作成した啓発資料などを収集し、幅広く提供してくださっており、利用者登録を行い、借りたい資料の申請をすれば、無料で借りられます。往復の送料は自己負担ですが、自宅に郵送してもらうことも可能です。

そこで、郵送していただき、念願の「ほんとの空」DVDを借り、視聴しました。

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劇中に光太郎の名がしっかり使われていました。そして、非常に考えさせられる内容でした。これまでにも当ブログでご紹介する中で、あらすじは把握していましたが、やはり百聞は一見にしかず、ですね。

メインは東日本大震災に伴う原発事故によるいわれなき風評被害ですが、その他にも高齢者に対する偏見、外国人や障害者、同和地区に対する差別、ネット上の無責任な書き込み、そしていじめまで、36分の中にてんこ盛りです。それでいて、それぞれ「あるある」と感じさせるリアリティーがあります。

白石美帆さん演じる主人公の主婦が、無意識に、または意識しつつもいろいろと言い訳を考えながら、人権侵害に当たる行為をしてしまいます。そのツケが回り回って倍返し的なところもあり、その悲惨さが教訓となります。人を呪わば穴二つ、です。

さらに感心したのは、原発の風評被害やいじめは別として、偏見を受ける側にも原因がある的な描き方もなされている点です。たとえば主人公がパート勤務をしているスーパーのレジで、後に行列が出来ているにもかかわらず、ポイントカードを探すのに手間取り、周りに対する配慮のない老人、主人公の住むマンションの通路で大音量でしゃべるタイ人夫婦。だからといって、そうした人々に対する差別や偏見が許されるわけではないのですが、
主人公はそれぞれカチンときたり、言いしれぬ恐怖を感じたりしていました。この描き方には非常にリアリティーがありました。

A4判15ページからなる「活用ガイド」という冊子も付いており、コピーして使えるようになっています。やはり自治体さんの学習会や、学校の授業での活用を前提にしているのでしょう。学校での学習指導案や、視聴後に書き込みをするワークシートのフォーマットも収められていて、これは便利です。

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そういうわけで、さらに多くの自治体さんや学校さんで、どんどん活用していただきたいものです。もちろん個人の方も、です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月7日007

大正2年(1913)の今日、雑誌『趣味』第7年第2号が発行されました。

扉に光太郎の描いたカット「カフエ ライオン」が使われ、さらに短詩「カフエにて」4篇、「カフエライオンにて」2篇が収められています。

カフェー・ライオンは、明治44年(1911)、銀座尾張町に開かれたビアホールです。美人女給が和服にエプロンという揃いの衣裳で給仕するのが売りでした。また、ビールが一定量売れると、店内のライオン像が吠える仕組みになっていたそうです。

昨年までビヤホールライオン銀座五丁目店として営業を続けていましたが、現在はビルの建て替え工事中。来年初夏にリニューアルオープン予定だそうです。

先月末に、花巻市さんのサイトで、市議会に於ける市長演述がアップされました。

長いので全文は引用しませんが、郊外太田地区の高村光太郎記念館に関する発言もありましたので、そこのみ引用させていただきます。

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルについては、平成26年度当初予算に予算計上しておりましたが、市民の意見を十分に反映するために、説明会を開催するとともに、市民の皆様から意見をお聞きするよう指示いたしました。
宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルは、事業の進捗に若干の遅れが生じておりますが、宮沢賢治記念館は本年4月に、高村光太郎記念館はゴールデンウィーク前後にそれぞれリニューアルオープンする予定となっております。


昭和41年(1969)、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)敷地内に建てられた最初の記念館は、施設の老朽化が進み、閉鎖。一昨年の5月、それまで花巻市の歴史民俗資料館だった建物を新たに高村光太郎記念館とし、花巻市営として再スタートしました。ただし、あくまで仮オープンということで、とりあえずのものでした。それが今年の「ゴールデンウィーク前後」にグランドオープンする予定だそうです。

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初代記念館


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現在の記念館


というわけで、現在はリニューアル工事中ですが、上記画像でいうと、手前の建物のみでの展示だったものを、奥のもう一棟も使用することとなり、展示面積は2倍程になります。常設展示以外にも、企画展示を行うスペースも設定されています。展示内容もほぼ固まっています。

そこで、㈶花巻高村光太郎記念会事務局の方が、昨日、当方自宅兼事務所にお見えになり、いろいろと打ち合わせをしました。当方、館内に掲示される説明パネル、展示品のキャプション等の一部を執筆することとなり、早速作成にかかっています。

また、来週には館内の映像や音声で光太郎詩を紹介する「朗読コーナー」の録音のため、東京水道橋に出向いてきます。朗読を担当なさるのは、ベテランの男性声優さんだそうです。楽しみです。


グランドオープンとなりましたら、ぜひぜひ、008ぜひぜひ、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月6日

平成元年(1989)の今日、PHP研究所から、日野多香子著『冬よ ぼくに来い いちずに美をもとめつづけた高村光太郎』が刊行されました。

「PHP愛と希望のノンフィクション」というジュブナイル(年少者向けの刊行物)シリーズの一冊です。

幼少期からその死までの、光太郎の生涯をわかりやすくまとめたものです。

昨日の『岩手日報』さんの「論説」です。いわゆる社説のようなものでしょうか。

釜石がW杯会場に 日本開催の意義を象徴

 ラグビーの2019年ワールドカップ(W杯)日本大会の開催12会場の一つに釜石市が選ばれた。16年のいわて国体とともに、国内外に本県の今を発信する好機としたい。

 ラグビーW杯は4年に一度の開催。世界的にはサッカーW杯や五輪、パラリンピックに次ぐスポーツの大イベントと位置付けられている。開催年に当たる今年は9月から10月にかけて、第8回となるイングランド大会が行われる。

 これまでは欧州やニュージーランド、オーストラリア、南アフリカなどのラグビー伝統国のみで開催され、日本大会はアジア初。サッカーなどに比べ国内の注目度は決して高いとは言えず、集客など運営面での不安は拭えない。

 会場地として12カ所程度を目安としてきた日本大会組織委に対し、大会運営を委託される「W杯リミテッド」が10程度を望んだのも、財政面のリスク回避が背景だ。

 それでも12に落ち着いたのは、リスクより日本開催の意義を重んじたからだろう。その象徴的存在が釜石だ。

 花園ラグビー場がある大阪府東大阪市が日本ラグビーの「西の聖地」なら、既に大卒選手が主流だった1980年代、高卒選手を主力に鍛え上げながら日本選手権で7連覇した新日鉄釜石(当時)の地元釜石は「東の聖地」。その誇りは全県民が共有する。

 開催地には15自治体が立候補。釜石は、競技場新設を予定する唯一の候補地だった。

 仮称「釜石鵜住居復興スタジアム」の建設予定地は津波で被災した釜石東中、鵜住居小跡地周辺。東日本大震災の津波で、地区防災センターの避難者を含め多数の市民が犠牲になった地域だ。

 同市では依然、2千人以上が仮設住宅で暮らす。「被災者の感情に配慮すべき」という声も聞こえる中、野田武則市長は昨夏の誘致表明で、財源に一定の見通しが立ったことなどを背景に「地域の宝となるのであれば、多少の非難はあっても開催する意義がある」と決意を語った。

 スタジアム予定地には、かさ上げ用の土砂がうずたかく積まれる。1月中旬、現地を視察したW杯リミテッド幹部は「非常に心を動かされた」と語った。葛藤を超えて誘致に動いた釜石市民の思いが通じた瞬間だろう。

 復興はラグビーにも似る。15人が塊となり、ひたすら前を目指す姿は釜石ラグビーの真骨頂であり、高村光太郎が「沈深牛の如し」と表現した県民性にも重なる。

 約29億円とされる施設建設費をはじめ、実現までに課題は多いが、W杯を運営する側も労苦を共にする覚悟で決めたからこその会場決定に違いない。その総意を励みに、ひたすら前を目指したい。


そこで光太郎を使うか、という感じですが、なかなか上手いですね。『岩手日報』さんは一面コラムの「風土計」でしばしば光太郎の名を上げて下さっています。2013年4月2日昨年の11月13日今年もすでに1月13日に。

「沈深牛の如し」というのは、昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された詩「岩手の人」の一節です。

  岩手の人007

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。


花巻市の花巻北高校さんの校庭に、高田博厚作の光太郎胸像が立っています(埼玉の東松山にも同型の胸像があります)。

台座に嵌め込まれたプレートには、こ008の「岩手の人」の一節が刻まれています。

この詩は、一説には当時の岩手県知事、国分謙吉をモデルにしたとも言われています。「沈深牛の如し」は光太郎自身にも当てはまるような気がしますが。

さて、ラグビーW杯、釜石での開催決定。東日本大震災からの復興支援となるのであれば、非常にいいことだと思います。また、松尾雄治選手がいた頃の新日鐵釜石の黄金時代を知る身には、感慨深いものがあります。ラグビーは高校の体育の授業でやった程度ですが、あの頃は、普段着に横縞の009ラガーシャツの襟を立てて着るのが結構流行っていました。松任谷由実さんの名曲「ノーサイド」とともに、青春時代を想い出します(笑)。

釜石といえば、光太郎は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』連載の紀行文「三陸廻り」で、船を使って釜石にも立ち寄っています。それを記念して、釜石にも光太郎の文学碑が建てられました。平成7年(1995)のことです。

写真は建立間もない頃に当方が撮ったものです。碑文は「三陸廻り」の釜石の項から抜粋したもので、光太郎署名だけ自筆拡大、他は活字です。

当方、東日本大震災後、釜石には足を運んでいませんが、この碑は健在でしょうか。同じ三陸の女川の光太郎文学碑は無惨に倒壊四基中の二基は津波によって流失してしまいました。

機会があったら、ぜひまたこの碑を見に行きたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月5日

昭和16年(1941)の今日、東和音楽出版社から『新国民楽譜 歩くうた』が刊行されました。

前年発表された、光太郎作詞、飯田信夫作曲、徳山璉の歌唱による国民歌謡「歩くうた」の楽譜です。

オフィシャルな楽譜は前年12月にNHKさんの前身、日本放送協会から『国民歌謡第七十六輯』として刊行されていますが、比較的ヒットしたためでしょうか、こうした後追いの出版もなされました。

左が『新国民楽譜』、右がオフィシャルな『国民歌謡 第七十六輯』です。

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去る1日の日曜日、光太郎の名がちらりと出た新聞記事が2本ありましたのでご紹介します。

まずは『朝日新聞』さんの神奈川版。

神奈川)97歳の女性画家、9年ぶり油絵展 30点展示

97歳の現役画家・井上寛子さん=6c2092aa横浜市神奈川区=の9年ぶりの油絵展「色彩を求めて97年」が同市中区の洋館、山手234番館で開催中だ。一昨年の横浜美術協会展で朝日新聞社賞を受けるなど90歳を超えても精力的に制作する井上さん。ここ10年ほどの作品約30点を展示している。

 井上さんは東京生まれ。23歳で文部省美術展(現・日展)に入選する。絵画の師の紹介で詩人高村光太郎を訪ねたり、同じ学校に娘が通う彫刻家北村西望宅に遊びに行ったり、芸術と触れあう青春を送った。

 1943年に結婚した夫の故・信道さんは横浜駅西口地下街入り口の女性像など各地に作品が残る彫刻家。出産直前に横浜大空襲にあい、戦後は一時病床にふせるなど多難な時期もあったが、夫や長女の大野静子さんともども精力的に展覧会を開いてきた。

 「印象派の絵を見て日本とは違うと思った。光は物理的、生理的、心理的と三つに分けて考えられる。その研究に時間をかけて絵をやり抜いた」と振り返る。

 「絵を続けられるか、続けられないか、ひとつの岐路。たやすいことはいえない」と心境を語りながらも「気に入った構図に色彩がうまくはまった時はうれしい」と笑った。

 3日まで。井上さん夫妻の作品はインターネット(http://www.kanagawarc.org/inoue/)で見られる。(2015年3月1日 山本真男)

井上寛子さんという方、『高村光太郎全集』にはお名前が見えませんが、井上さんの年譜によれば、昭和16年(1941)に、「高村光太郎氏より詩と絵画の精神を学ぶ」とあります。

97歳にして個展の開催、頭が下がります。ただ、既に閉幕しており、残念です。


次いで『読売新聞』さんの読書面。書評です。 

記者が選ぶ 時代(とき)を刻んだ貌(かお) 田沼武能著

 勤労動員で生き抜く術(すべ)を学んだ中学時代。東京大空襲では下町を逃げまどう。生活の場で戦争の悲惨さを知った田沼武能(86)は、人間の生き様を表現する世界に導かれた。1949年、名取洋之助や木村伊兵衛ら錚々(そうそう)たる写真家たちが所蔵する写真通信社に入社。木村に師事し人脈も得る。文化、芸術誌とも嘱託契約を結び、撮影依頼を次々と受けた。59年からはフリーの写真家に。師匠木村は田沼に「おれのマネをしていてもダメだ」と忠告した。
 孫のような若手写真家に見せる、昭和を創りあげた大家240人の諭すような表情が見事だ。高村光太郎、永井荷風ら教科書でおなじみの顔もいることに驚く。当時貴重だった電話で仕事を取り付け、個人著作権のネガを蓄積してきたフリーランスの秘蔵写真集。(クレヴィス、3000円)


田沼氏は評にある通り、木村伊兵衛門下の写真家。したがって、昨夏逝去された光太郎の令甥、故・高村規氏の兄弟子にあたります。そういうわけで、髙村規氏のご葬儀では、弔辞を述べられました。

一昨年、銀座のノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催された個展「アトリエの16人」では、やはり光太郎のスナップも出展されていました。

さて、『時代を刻んだ貌』という書籍、版元サイトにリンクを張っておきますのでご覧下さい。表紙は佐藤春夫ですね。サムネイルが数葉出ますが、黒柳徹子さんや梅原龍三郎などで、残念ながら光太郎は出ません。


井上寛子さんにしても、田沼武能氏にしても、生前の光太郎を知る皆さん、まだまだ頑張っていただきたいものです。詳細は未定ですが、今月下旬にやはりそうした生前の光太郎を知る方にお会いし、お話を聴く予定です。レポートをお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】  3月4日

昭和29年(1954)の今日、20数年ぶりに自作の木彫「魴鮄(ほうぼう)」を手に取りました。

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当日の日記から。

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

この「魴鮄」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展などに出品されたりもしました。

その後、買い手がついたようで光太郎の手許を離れましたが、昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」と奇跡的に再会を果たしたのが61年前の今日でした。

持ち込んだ宮崎丈二は光太郎と交流のあった詩人。昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

    蘭と魴鮄
000
花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましい)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

先程、1泊2日の行程を終え、仙台から帰って参りました。仙台にある大学に通っている息子の、学生寮から一般のアパートへの引っ越しのために行きましたが、せっかく仙台まで足を伸ばしたので、今朝方、美術館を観て参りました。若林区にある福島美術館さんです。以前に一度だけ、当方のブログにてご紹介いたしました。

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上記はいただいてきた館のパンフレットです。こちらにある通り、光雲作の木彫が2点、所蔵されています。

1点はチベット仏教学者で僧侶の河口慧海に関わるものだそうです。慧海は大阪堺の出身ですが、東京の本郷弥生町や根津など、高村家の近くに住んでいたこともあり、光雲や光太郎と交流がありました。下の画像で、左が光雲、右が慧海です。

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で、福島美術館さん所蔵の慧海ゆかりの光雲木彫がこちら。

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ただし、今日観に行ったところ、こちらは007展示されていませんでした。

もう1点、「落ちない観音様」。神棚に飾られていたそうですが、あの東日本大震災でも神棚から落ちなかったということで、館の方ではそこを売りにしています。もう受験シーズンもそろそろ終わりですが、御利益があるのでは?

そちらは展示されていました。そこで、レポートを兼ねてご紹介いたします。

福島美術館さんは、地下鉄南北線の愛宕橋駅からほど近い、住宅街にあります。

美術館には見えない建物ですね。それもそのはず、元は身体障害者の総合福祉施設、ライフセンターという今でいうカルチャーセンターだそうで、現在も運営母体は社会福祉法人共生福祉会さんです。このあたりの経緯も館のブログに記述があります。

ちなみに「福島」は共生福祉会の創設者、福島禎蔵の名から。

新春吉例「めでた掛け-35年目の迎春-」という企画展が終了したばかりで、常設展のみ。入館料は何と100円でした。良心的というか何というか……。頭が下がります。

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常設展のみということで、確かに狭いスペースでしたが、福島禎蔵、そして先代と先々代のコレクションの中から逸品が並んでいました。

やはり仙台。伊達家ゆかりの品々、和時計、歌川国芳などの絵、そして福島禎三がNHKさんとも関わっていたとのことで「ラヂオ」。

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そして、「仏像」のコーナーに「落ちない観音様」が鎮座ましましていらっしゃいました。想像していたより小さな仏様でした。

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キャプションによると、震災の時まで光雲作であることに気づいて居らず、礼拝の対象として神棚に置かれていたそうです。

先程も書きましたが、もう受験シーズンもそろそろ終わりですけれど、御利益があるのでは? 受験生の皆さん、ぜひ拝観を(笑)。

追記 同館、平成30年(2018)をもって無期限休館となってしまいました。

館の裏手には、ある意味仙台のシンボル、広瀬川。

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陽気がよければ川原でのんびりするのもいいかと思います。ただ、今朝は寒く、早々に引き上げました。昨日は晴れていながら小雪が舞っていました。強風に山の雪が飛ばされてくる風花(かざはな)だと思いますが。既にタンポポやオオイヌノフグリが咲いて、梅は散り始めている房総の住民にはきつい寒さでした。

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ところで、昨日のブログに書いた町田の八木重吉記念館さんにしてもそうですが、こうした施設の館が頑張っている姿には頭が下がります。こういう灯を消してはいけないと思います。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月3日

昭和30年(1955)の今日、吸入器を購入しました。

宿痾の肺結核が進行し、病床に臥すことが多く、光太郎の余命、あと1年と1ヶ月という時期です。それでも食事は自炊、調子のいい時には原稿や書を書いていました。

昨日は、東京町田市の八木重吉記念館さんに行って参りました。

この春、町田にある大学を卒業する娘が、本格的に茶道をやっておりまして、昨日は卒業記念の茶会がありました。「卒業生の親は来るものだ」というので、そちらは愚妻に参会してもらい、当方は同じ市内の八木重吉記念館さんに行っていた次第です。

八木重吉は明治31年(1898)、南多摩郡堺村(現・町田市相原町)に生まれました。その生家の築百年以上という土蔵が記念館になっています。

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八木は教員生活のかたわら、第一詩集『秋の瞳』を大正13年(1924)に刊行、佐藤惣之助主宰の『詩之家』同人となり、その関係で同誌に関係していた草野心平の知遇を得ました。第二詩集『貧しき信徒』は昭和3年(1928)刊行ですが、そちらの上梓を待たず、数え29歳で夭折しました。

生前に光太郎と八木が会ったことはないようですが、おそらく佐藤や心平経由で光太郎は八木の詩業にふれ、高い評価をしました。007

八木重吉氏の今は遺著になる詩集「貧しき信徒」を拝受。よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も創造いたされます。
「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」 昭和3年(1928)8月『野菊』第六巻第八号

その後、未亡人登美子が八木の原稿を守り抜き、こちらは光太郎の協力も得、遺稿の刊行に力を注ぎました。戦後になって、登美子は歌人の吉野秀雄と再婚、夫婦で光太郎との交流が続きました。

さて、八木重吉記念館。

町田街道沿いの駐車スペースに車を駐め、ちょっとした坂を上がっていく形になりますが、まず坂の下に標柱がありました。署名を見なくとも、一見してそれと判る、草野心平の筆跡です。「詩人八木重吉生家 詩碑 墓地」とあります。

視線を上げると八木の詩008碑。代表作の一つ、「素朴な琴」が記されています。

    素朴な琴

 このあかるさのなかへ
 ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美しさに耐へかねて
 琴はしずかに鳴りいだすだらう


坂を上がると、先述の蔵が見えてきますが、その手前には八木の銅像も。

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八木の兄のお孫さんにあたられるご婦人が出てこられ、鍵を開けて下さり、館内へ。2階建ての土蔵の内部が改装され、八木の詩稿、著書、油絵、書簡、古写真、さらには八木の教員免許や辞令、没後の新聞記事などのコピーといったものまで、所狭しと展示されていました。

撮影禁止ということで、残念ながら画像がありませんが、光太郎の草稿「八木重吉詩集序」(昭和19年=1944)2枚のコピーもありました。ただ、原本は行方不明だそうです。

また、先述の心平による標柱の元となった書、心平の色紙もありました。

まさしく手作りの素朴な文学館、という感じで、これはこれでいいものだと思いました。

町田というと、大都市のイメージもありますが、ここは町田のはずれで、もう少し経って、陽春の頃になると、もっといい感じだろうなと思いました。昨日はかなり雨も強かったので、その点が残念でした。

さて、見学には電話での予約が必要です。詳しくは公式サイトをご参照下さい。


当方、今日、明日は仙台に行って参ります。昨日は娘の関係で町田でしたが、今度は息子の関係です。やはり大学の学生寮にいるのですが、そちらを出て一般のアパートに移るというので、引っ越し及び家具等の買い出しです。

せっかくですので、町田の八木重吉記念館さんもそうでしたが、こういう機会でもないとなかなか足の向かない施設に立ち寄ろうと考えています。詳細は帰ってから。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月2日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『北方風物』表紙のための素描「早春の木の芽」をペン書きで清書しました。

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この絵は4月10日発行の『北方風物』第1巻第4号の表紙を飾りました。前月におそらく鉛筆でスケッチしたものをペン書きにしています。そこで日付は二月十五日となっています。

当日の日記から。

午后、木の枝の写生ペン画。「北方風物」へやるもの、葉書よりやや小にかく。

年2007回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その43集、原稿が仕上がり、印刷に廻しました。

以前にもご紹介しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、当会顧問にして高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて7冊目の刊行ということになります。

毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。

「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。

今回は「造形作家として(五) 十和田湖畔の裸婦群像」と題し、最晩年の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)にかかわるものを紹介しています。


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光太郎回想・訪問記 「高村光太郎氏とアトリエと袴と」 高山辰夫」 / 「高村光太郎氏のこと」 近藤憲二
大正期の光太郎回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(下)その2  『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第七回 安達(福島)
光太郎や智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書の画像と共に、その地の概要、光太郎や智恵子・光雲との関わりなどを紹介しています。

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音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(三)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。

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高村光太郎初出索引(七) は行(一)


4月2日の第59回連翹忌の席上でご参会の皆様には無料で配布いたします。また、当会名簿にお名前のある方で、連翹忌当日ご欠席の方には後ほど郵送いたします。

ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。

併せて連翹忌の参加者も募っております。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月1日

平成元年(1989)の今日、NTT東北岩手支社より、50度数テレホンカード「小屋の入り口に安らぐ高村光太郎」が発行されました。

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花巻郊外太田村の山小屋での光太郎と、当時の筆跡「人は野をおもひ山をおもふ 光」が印刷されています。

携帯電話の普及により、めっきり見かけなくなったテレホンカードですが、当方、光太郎智恵子、光雲がらみのテレカを50枚程持っています。ネットオークションなどで見かけると、ついつい買ってしまいます(笑)。

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