2014年11月

最近のいただきもの、2回目です。
 
青森市ご在住の彫刻家・田村進氏から、なんと、彫刻をいただいてしまいました。
 
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一昨年の作品で、「レリーフ習作・巨星光太郎」。光太郎の肖像彫刻です。
 
大きさは38㌢×28㌢、材質はブロンズで、ずしりと重たいものです。材料費だけでも何万円とか……。恐縮です。
 
昨年の連翹忌にて、画像を大きく拡大したものをパネルに入れ、会場内に展示いたしました。もとは昭和24年(1949)10月、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた写真家の濱谷浩が撮影した下記の写真をモチーフにしています。
 
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光太郎、数え67歳です。
 
美術雑誌『花美術館』の昨年4月号に、この彫刻が大きく紹介されています。
 
そちらから引用させていただきます。
 
類稀なる一人の芸術家には、そこへ至る道筋が神の計らいの如く予(あらかじ)め用意されているのではないだろうか。然るべき時に、出会うべくして出会う人物、その作品と書物、諸々の事象までもが綿密に配線された”芸術の糸”で硬く結ばれ、やがて自己世界の確立と昇華の時を得る。田村氏と光太郎の出会いはまさに”神のはからい”のそれであった。本作は、光太郎との強い縁(えにし)で結ばれた魂の軌跡が深く刻まれ、敬慕なる純正の輝きが奥深い世界から煌めきを放っている。本作は、光太郎の芸術と人となりを再び掘り起こし、心に刻み続けてきた崇敬の念、この心震わす繊細な表現に、光太郎と初めて出会った氏の心の昂(たかま)り、感慨が我々の胸奥にも甦るかのようだ。光太郎は七十三才のまま氏が年長になる程に長年温めてきた氏の計らいが見事成就し、実に味わい深い。これも神の計らいやも知れぬ。
 
田村氏は昭和28年(1953)10月21日の、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の除幕式にご参加、さらにその2日後に青森の野脇中学校で行われ、光太郎も演壇に立った文芸講演会で光太郎の講演を聴かれたそうです。
 
さらに田村氏は、光太郎の、レリーフではない胸像も制作されています。題して「冷暖自知光太郎山居」。こちらも完成し、鋳造にまわされたとのこと。
 
さて、レリーフ。こんな立派なものを私するのは申し訳ありません。広く皆様に観ていただきたく存じます。そこで、来年4月2日の連翹忌では展示するつもりですし、御依頼があれば貸し出し等も行いたいと思います。こちらまでご一報下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月30日
 
昭和51年(1976)の今日、瑠璃書房から奥平英雄著『晩年の高村光太郎』が刊行されました。
 
奥平は東京国立博物館に勤務していた美術史家。十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため上京した中野のアトリエに足繁く通い、晩年の光太郎に親炙しました。その回想録です。
 
元は昭和32年(1957)に二玄社から刊行されましたものですが、復刊。限定140部、二重函、天金の特装本も刊行されました。
 
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特装本には付録として、カセットテープがついています。こちらは昭和28年(1953)12月の録音。奥平と光太郎の対談です。「彫刻と人生」のタイトルで、翌年1月、ラジオの文化放送でオンエアされました。光太郎の肉声が聴ける貴重な資料です。

全国の皆様から、いろいろと光太郎智恵子がらみの品々をいただいております。三回に分けてご紹介します。
 
まずは、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』という書籍をお書きになった、板橋区職員の坂本富江さんから、少し前に『都政新報』の10月17日号をいただきました。
 
以前にも玉稿の載った『都政新報』をいただきました。東京の自治体専門紙だそうです。
 
さて、今回のものは以下の通り。やはり坂本さんの玉稿が紙面を飾っていました。
 
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名文ですので引用させていただきます。決して手抜きではありません(笑)。  

人生はいつも始発駅 福島で自作の紙芝居を実演 いたばし観光センター 坂本富江

紙芝居を作るきっかけ
 
 人生には思いもかけない転機が訪れるものである。 
 自作の紙芝居を福島で演じることになった。多少の絵心は持ち合わせているが、まさか偉大な人の一生を紙芝居にするとは……。初めての挑戦である。
 事のきっかけは、昨年の10月に講演をさせていただいた福島県二本松市での高村智恵子をしのぶ第19回「レモン忌」であった。そこに列席されていた智恵子の母校、二本松市立油井小学校の伊藤雅裕校長先生の一言だ。
 「あの本の中の絵の感じで、小学校4年生が先輩・高村智恵子さんの生涯を理解できるような紙芝居か絵本があるといいんですが……」
 あの本とは、2年前に出版した自著『スケッチで訪ねる智恵子抄の旅』である。
 私の人生、こういう時、不思議と高村光太郎の詩『道程』が頭を出すのである。
 僕の前に道はない
 僕の後に道はできる
 
 そして一世を風靡した「今でしょ!」が不安を払拭させ、紙芝居作成という未知への挑戦が始まったのである。
 私は長いこと保育園に勤務していたので、紙芝居は教材として活用させていただいた。けれど、作るという知識・知恵とも全く乏しかったので、まずは本物の紙芝居を研究しながら、絵と文章を同時進行させることにした。
 未来を築く小学生へのメッセージとして、何が良いだろうか。一般的に語られている智恵子論ではなく、自著でもこだわったように、時々を精いっぱい生き抜いた輝きの姿や志を貫いた強固な精神、人間性あふれるエピソード等、人が人として生きていく根源の有り様を智恵子の生涯を通して書いた。
 明治―大正―昭和の時代背景や風俗などぶつかる壁も多く、その都度、図書館に駆け込む日々でもあった。私の故郷、山梨が舞台であったNHKの朝ドラ『花子とアン』は時代背景が重なり、とても参考になった。
 4月から作業を始め、9月中旬で一応のめどが附き、友人たちの助けを借りて、原画と文章のコピーを台紙に貼る作業が終了した。34枚の大作を前に、皆で「万歳!」と爆笑の渦であった。
 昨年の秋、登山経験のない私が、もがきながら登った安達太良山の山頂に立った時の心地と同じ爽やかさであった。
 
次はどんな挑戦が待っているか
 
 待ちに待った福島入りは快晴の9月。新幹線が郡山を過ぎ、本宮に差し掛かる頃には安達太良山の上に青く澄んだ「ほんとの空」がまるで両手を広げて迎えてくれているようだった。隣席のおばあちゃんが「土地が喜んでいるんだよ」。この言葉に勇気をもらった。
 初日は地元二本松市の「智恵子のまち夢くらぶ」主催の智恵子純愛通り記念碑第6回建立祭で紙芝居を実演した。周囲は収穫期を迎える黄金の田んぼが広がり、コスモスが風に揺れる大自然の中であった。
 2日目、いよいよ油井小学校の4年生の総合学習授業に参加した。創立141年の歴史を誇るかのように、「始学の松」、しだれ桜、プラタナスの巨樹が空に高くそびえながら迎えてくれた。
 さて、私は二つの宝物を持参した。一つははるか昔、小学4年の時、私が書いた書道。二つ目は、小学3年の5月にやはり自分で作った新聞。何と「青空新聞」と命名されている。
 この宝物が生徒さん達との距離をぐーんと縮めてくれ、元4年生は年を忘れて紙芝居を読むことが出来たのである。大切に保管してくれた両親(健在)に感謝。また、後日、長時間じっと見てくれた生徒さんたち一人ひとりからのお手紙が届き、感動である。
 このような貴重な体験へ導いて下さった伊藤校長先生、智恵子のまち夢くらぶ代表の熊谷健一氏、紙芝居制作に快く協力してくれた友人達や職場の仲間にも感謝いっぱいである。
 紙芝居は小学校に寄贈した。「本校の宝物にします」と伊藤校長先生がおっしゃってくれた。
 今年は『道程』の詩が世に出て100年。光太郎、智恵子が結婚して100年。来月11月26日にはNHKの特別企画で、この2人が放映されるとのこと、大いに楽しみである。
 私にとって人生はいつも始発駅。さて、今度はどんな挑戦が待っているか今からワクワクである。
 
 
素晴らしい文章ですね。
 
ちなみに坂本さん、「多少の絵心は持ち合わせているが」とありますが、多少どころではなく、智恵子と同じ太平洋画会(現・太平洋美術会)に所属され、100号の油絵を描かれています。
 
こうした活動を通し、若い世代が光太郎智恵子の世界にどんどん興味を持って欲しいものです。坂本さんもそういうことを考えられての「挑戦」でしょう。ありがたいことです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月29日
 
昭和27年(1952)の今日、夕食に浅草米久の牛鍋を食べました。
 
米久さんは、浅草で今も続く牛鍋屋の老舗。大正11年(1922)に光太郎は「米久の晩餐」という詩を書いて、絶賛しました。嵐山光三郎氏の『文士の料理店(レストラン)』 (新潮文庫)などに詳細が書かれています。
 
十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手太田村から上京したのがこの年の10月。その米久さんを久しぶりに訪れました。
 
しかし、前日には同じ米久さんの新宿支店で牛鍋を食べています。数え70歳にしてのこの健啖ぶり、ある意味尊敬に値します(笑)。

先週22日の土曜日、長野県白馬村を震源に起こった最大震度6弱の長野県北部地震。負傷された方が出たり、建造物の倒壊があったりと、心が痛みますが、亡くなった方がいなかったというのが何よりでした。
 
昨日の『信濃毎日』さんの報道です。

善光寺の仁王像が破損 「吽形」衣の先端折れる

 長野市の善光寺で26日までに、仁王門にある仁王像の一部が壊れているのが見つかった。県北部で22日夜に起きた地震の影響とみられ、善光寺は今後、修復する。
 仁王像は、向かって左側が口を開けた「阿形(あぎょう)」、右側が口を閉じた「吽形(うんぎょう)」。善光寺事務局によると、壊れていたのは吽形がまとう細長い衣「天衣(てんね)」の先端部分。寄せ木造りの接ぎ目付近で折れ、長さ1メートルほどの天衣の先端部分が地面に落ちた。
 現在の仁王門は1918(大正7)年に再建されたもので、仁王像はそれに合わせて造られた。彫刻家の高村光雲(1852〜1934年)と、弟子の米原雲海(1869〜1925年)の合作。文化財には指定されていない。
 
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大事にはいたらずに済んだようでよかったと思います。この像は一丈六尺、5メートル近い像ですので、倒れれば山門自体も大破したでしょうし、人が下敷きにでもなったら、ひとたまりもありません。
 
ちなみにこちらが開眼当時のお姿。古絵葉書です。
 
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足もとのこの部分が、バッキリいってしまったようですね。
 
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まずは被災した方々の支援でしょうが、そのあたりが落ち着いたら、きちんとした修復が為されることを望みます。
 
しかし、記事を読んで気になったのは、最後の「文化財には指定されていない。」の一言。
 
たしかにその通りです。というか、光雲の代表作の一つ、「老猿」は国の重要文化財に指定されていますが、それ以外にあまたある、光雲作の仏像、銅像などの類で文化財指定がされているものはほとんどないのではないかと思います。有名な「西郷隆盛像」や「楠正成像」ですらそうです。光雲作に限らず、近代の仏像、銅像で文化財指定を受けているものは、やはりほとんどありません。
 
まだ「新しい」という感覚なのかも知れません。しかし今年は元号に換算すれば明治147年、大正103年、昭和89年です。そろそろ近代の作品も、どんどん文化財指定対象として考えていい時期ではないのでしょうか。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月28日
 
昭和24年(1949)の今日、山形市美術ホールで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展覧会」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち山形の真壁仁に預けられたものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはそれらが保管されている図書館さん等の情報をお持ちの方は、こちらまでお知らせ願えれば幸いです。

昨日は港区麻布十番に行って参りました。
 
詳細がよくわからなかったので、事前にご紹介しませんでしたが、以下の展覧会が開催中です。

装幀画展Ⅱ~文学とアートの出逢い~

会 期 : 2014年11月19日(水)~11月30日(日)
会 場 : パレットギャラリー 港区麻布十番2-9-4
時 間 : 11:00~19:00
 
本の装幀は、文学を彩る美術として、古くから多くの人に愛され続けています。
23人の作家が自由に好きな本を選び、その装幀画を描いていただきました。
展示では、原画とともに装幀カバーに仕立てた文庫本を展示します。
個性あふれる作品と文学とのコラボレーションを楽しんでいただけたら幸いです。
 
 
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というわけで、オリジナルの装幀(ブックデザイン)の展覧会です。
 
出典作家・作品は上記画像にも載せましたが、文字にします。その方がネット検索にひっかかりますので。
 
石居麻耶  パパ・ユーアクレイジー(ウィリアム・サローヤン・訳伊丹十三)
岩淵華林  この闇と光(服部まゆみ)
宇野亜喜良 悪魔の辞典(ピアス/西川正身・編訳)000
大竹彩奈  氷点(三浦綾子)
大谷郁代  猫を抱いて象と泳ぐ(小川洋子)
蟹江杏   杏っ子(室生犀星)
財田翔悟  魍魎の匣(京極夏彦)
新藤杏子  春と修羅(宮澤賢治)
高橋千裕  失楽園(ジョン・ミルトン)
田嶋健太郎    智恵子抄(高村光太郎)
立木美江  山月記(中島敦)
中西静香  小さいおうち(中島京子)
中原亜梨沙    金子みすゞ詩集(金子みすゞ)
名古屋剛志    サヨナライツカ(辻仁成)
成田朱希  偽偽満州(岩井志麻子)
新倉佳奈子    草迷宮(泉鏡花)
野村直子  第七官界彷徨(尾崎翠)
深瀬優子  お縫い子テルミー(栗田有起)
まちゅまゆ 鏡の中の鏡(ミヒャエル・エンデ)
宮本順子  宮澤賢治童話集(宮澤賢治)
桃田有加里   供述によるとペレイラは……(アントニオタブッキ)
山科理絵  カイン"自分の弱さに悩む君へ"(中島義道)
山城有未  ZOO1(乙一)
 
 
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芸大日本画科ご出身の、田嶋健太郎氏という方が「智恵子抄」を出展なさっています。ありがたや。
 
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「智恵子抄」というと、大正浪漫ふうの縞の着物に日傘、手にはレモン、といったところがお約束ですが、そういう固定観念にとらわれていないところが、かえっていいと思いました。
 
他の出展作家の皆さんも、それぞれに力のこもった作品です。一人一点、というところで、妥協がないような気がしました。上記リストにある通り、古今東西の作品からのインスパイアとなっている点も良いと思います。
 
いつも同じようなことを書いていますが、数十年後、「高村光太郎? 誰、それ?」、「『智恵子抄』? 知らないなぁ……」ということにならないことを祈ります。
 
今週末まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月27日
 
昭和7年(1932)の今日、東京美術学校講堂で「黒田清輝胸像」が除幕されました。
 
光太郎肖像彫刻、一つの頂点です。
 
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しかし、この年、智恵子が自殺未遂。その後、完全に夢幻界の住人となり、光太郎もその対応に追われ、しばらくは彫刻も非常に寡作の時期が続くことになります。

地方紙で光太郎智恵子関連、3件ヒットしています。
 

復興願い演奏会 郡山

福島民報 11月24日(月)9時14分配信
 
 ふくしま再生プロジェクトの会(代表・田母神顯二郎=けんじろう=明治大文学部教授)主催のイベント「ふくしま、ひとしずくの物語~再生への祈りを込めて」は23日、福島県郡山市のビッグアイ・市民交流プラザで開かれた。
 同会は、朗読やコンサートを通して被災者らに癒やしと憩いの場を提供。県外でチャリティーイベントを実施し、福島の現状を伝える活動を続けている。
 今回は、第一部で世界的口笛奏者の柴田晶子さんとメジャーデビューしているピアニスト松田光弘さん、本県出身で仮設住宅への慰問などを続けているバイオリニスト山本智美さんの3人によるミニ・コンサートを開催した。第二部では智恵子抄の朗読と、10月に東京都で実施したイベントの際に、県民に向けて寄せられた応援メッセージの紹介などが行われた。
 市内の仮設住宅の住民らも含め参加した約70人は、心に染みるコンサートの音色や朗読に静かに聞き入っていた。
 
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また、同じ『福島民報』さんでは、当方が成田空港まで見送りに行った、智恵子のまち夢くらぶさんパリ研修についても報道されました。 

智恵子ファンがフランスへ

福島民報11月25日(火)10時24分配信
 
 福島県二本松市の市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」は発会10周年を記念し、8日間の日程でフランス・パリを視察した。
 高村智恵子生誕の地・二本松で、智恵子と彫刻家・詩人で夫の光太郎の遺徳を顕彰している。今回は光太郎留学の地を一目見ようと視察を企画した。エッフェル塔やパリ滞在中に暮らしていた住宅、美術館などを訪れた。
 代表の熊谷健一さんは「町じゅうが博物館のようで、パリの人は日常的に文化芸術に触れている。私たちも見習いたい」と夢を語っていた。
 
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こういうこともニュースになるんですねぇ。
 
 
最後に「報道」というわけではないのですが、『神戸新聞』さんの一面コラムです。

正平調 2014・11・21

パラパラ漫画、である。ノートや教科書の隅に小さな絵を描いて、めくっていくと絵が動く。国語や算数の授業が、さらに高校の物理も大学の経済学も、図工の時間と化した覚えが、ないとは言わない◆このパラパラ漫画を使ったアニメ作品で今、引っ張りだこなのがお笑いタレントの鉄拳さんだ。NHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」に出てきたアニメと言えば、思い浮かぶ方も多いだろう◆インタビューを読むと、手書きにこだわり、1分間のアニメを作るのにおよそ360枚を描くという。1作品で最低2千枚というから、これは職人技の手仕事である◆その鉄拳さんのアニメが、きょうからJR西日本の駅や車内の画面で流れる。忘年会シーズンを前に、転落事故防止キャンペーンに一役買うそうだ。この冬はディズニーの新作宣伝も手がける多忙ぶりで、お笑いの方は休業中とか◆手仕事のイメージから、勝手に工房のような仕事場を想像してみる。例えば、高村光太郎の詩集「をぢさんの詩」にあるような。「冬日さす南の窓に坐(ざ)して蝉(せみ)を彫る/時処をわすれ時代をわすれ人をわすれ呼吸をわすれる」(「蝉を彫る」より)◆呼吸をわすれた作家の周りを、ゆったり時間が流れる。作品に、見る人がふと立ち止まる一こまを刻むために。パラパラ漫画の奥深さよ。
 
鉄拳さんと光太郎を結びつけるという発想は当方にはありませんでした(笑)。
 
引用されている詩「蝉を彫る」は昭和15年(1940)の作。すでに智恵子亡く、孤独なアトリエでの一コマです。
 
    蝉を彫る
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冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。
乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は
およそ生きの身のいやしさを絶ち、
物をくふ口すらその所在を知らない。
蝉は天平机(てんぴやうづくゑ)の一角に這ふ。
わたくしは羽を見る。
もろく薄く透明な天のかけら、
この蟲類の持つ霊気の翼は
ゆるやかになだれて追らず、
黒と緑に装ふ甲冑をほのかに包む。
わたくしの刻む檜の肌から
木の香たかく立つて部屋に満ちる。
時処をわすれ時代をわすれ
人をわすれ呼吸をわすれる。
この四畳半と呼びなす仕事揚が
天の何処かに浮いてるやうだ。
 
画像は昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」千葉展のポスターです。
 
ところで『神戸新聞』さんの「正平調」では、たび たび光太郎に触れて下さっています。お書きになっている方が光太郎ファンなのでしょうか?
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月26日
 
昭和46年(1971)の今日、新橋演舞場で開催されていた「新派十一月公演」が千秋楽を迎えました。
 
昼の部で、北條秀司脚本、初代水谷八重子さん主演の「智恵子抄」が演目に入っていました。
 
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東京駒場の日本近代文学館さんでのイベントです。

日本近代文学館リーディングライブ2014

日 時 : 2014年11月29日(土) 12:00~
会 場 : 日本近代文学館 東京都目黒区駒場4-3-55
主 催 : プチプラージュ
後 援 : 一般社団法人 日本朗読検定協会
料 金 : 無料
司 会 : 武田あさひ
 
プログラム
 第一部 12:10~12:55 小学生の詩&読み聞かせママグループ
  ・10名の小学生による詩の朗読(谷川俊太郎さんの詩、または自作)
  ・加藤啓子・栗岡まゆみ・黒澤真由美・武田美香・羽田みどり・シュナック千賀子
    「生まれたよ ぼく」「ともだち」「ありがとう」 谷川俊太郎
  ・明瀬亜希子「くまとやまねこ」湯本香樹実
  ・佐川紘子 「狼だんなとろば」外国の昔話
  ・小杉美智子・大久保幸枝・森本雅子 「あらしのよるに」木村裕一

第二部 13:00~16:00 大人の朗読会
  田中康彦・仁林結晶  「サンタクロースはいるんだ」
 フランシス・ファーセラス・チャーチ/大久保ゆう訳
  葉月のりこ  「冬の日、防衛庁にて」 江國香織
  曳地政久・武田あさひ  「羅生門」 芥川龍之介
  宇田川智恵 「海のいのち」 立松和平
  田名網節子  「竹取物語」 川端康成(現代語)
  石橋玲  「ロボットのお仕事」 石橋俊一
  三枝洋子  「雪おんな」 小泉八雲
  阿部早苗  「夢十夜 第一夜」 夏目漱石
  日下昭子  「海辺の王さま」 日下昭子
  坂口亜矢子・森順子・前田裕己  「藪の中」 芥川龍之介
  加藤純恵  「コトコト、ホクホク」 宮島英紀
  北里利恵  「デューク」 江國香織
  駒田早苗  「野菊の墓」 伊藤左千夫
  角田のぶひこ  「帰ってきた先生」 角田のぶひこ
  柿原智恵子  「詩集オンディーヌより【追放】」 吉原幸子
  三上裕恵  「山からの贈物」 高村光太郎
  丸山眞宙  「小さな幸せ物語より【タイムマシン】 」川上健一
  溝呂木さゆり  「ほうすけのひよこ」 谷川俊太郎
  鈴木惠子  「草之丞の話」 江國香織
  野尻陽子  「じいさん・ばあさんの愛し方」 三好春樹
 
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というわけで、朗読のイベントです。
 
光太郎晩年の詩「山からの贈物」がプログラムに入っています。ありがたや。
 
こちらは昭和24年の雑誌『婦人之友』に掲載されたもので、詩集『典型』にも採られています。
 
   山からの贈物
 
 山にありあまる季節のものを
 遠く都の人におくりたいが
 おくらうとすると何もない。
 山に居てこそ取りたての芋コもいいし003
 栗もいいし茸もいいが、
 今では都になんでもあつて
 金がものいふだけだといふ。
 それではいつそ
 旧盆過ぎて穂立をそろへた萱の穂の
 あの美しい銀の波にうちわたる
 今朝の山の朝風を
 この封筒に一杯入れよう。
 香料よりもいい匂の初秋の山の朝風を。
 
なるほど、いい詩ですね。
 
朗読も静かなブームのようです。いろいろな方がいろいろなイベントで光太郎作品を取り上げて下さっています。今後もそういう傾向が続いてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月25日
 
昭和25年(1950)の今日、光太郎が暮らしていた花巻郊外太田村の村役場落成式が行われ、列席しました。
 
光太郎は祝辞を述べた他、「大地麗」と書いた書を、役場に贈りました。「だいちうるわし」と読みます。
 
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昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』に、この書に関するエピソードが載っており、抜粋します。
 
 いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
 村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ、お前に行ってもらうことだな。うまく引受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上るほど喜びました。
 大きな筆と鳥の子の大紙が要るとのことで、村長さんは早速盛岡に行き、一番大きな筆と鳥の子の大紙二枚とを買ってきて、それを妻君に届けさせました。
 四、五日して、先生から「書きあがった。」との報せがあったので、アサヨさんは早速いただきにいきました。
「大地麗  高村光太郎 印」と書かれてあります。
 落成式が間近いので、大急ぎで表装し、庁舎階上の会議室正面に掲げました。
 落成式の当日、地元有志多数参集の中へ、小屋からは五粁もある役場ですが、喜んで列席、村人のため素晴らしい祝辞を述べました。会衆は稗貫郡全部から集まって三百人ぐらいあり、非常な盛会で、先生も愉快だったと見えて、ほろほろと酔い、来賓がバスで立ったあと、暮色せまる中を酔歩悠々小屋への道を辿られた。
 
この書は現在、花巻市太田の高村光太郎記念館で見ることができます。光太郎自身、この書が気に入ったようで、次の詩に謳っています。
 
    大地うるはし
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 村役場の五十畳敷に
 新築祝いの額を書く。
 「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
 書いてみると急にあたりの山林が、
 刈つたあとの萱原が、
 まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
 遠い和賀仙人の山山が
 目をさまして起き上がる。
 半分晴れた天上から
 今日は初雪の粉粉が
 あそびあそびじやれてくる。
 冬のはじめの寒くてどこか暖い
 大地のぬくもりがたそがれる。
 大地麗(だいちうるはし)を書いた私の最低音部(バス)に
 世界が音程を合わせるのだ。
 大地無境界と書ける日は
 烏有先生の世であるか、
 筆を投げてわたくしは考へる。

 
明治23年(1890)から同25年(1892)にかけ、数え八歳から十歳の光太郎が通った小学校です。母校ということで、いろいろと光太郎顕彰の取り組みもしていただいています。
 
同校で、以下の通り、研究発表会が行われます。 

日本学校図書館学会研究推進校研究発表会

平成26年11月28日(金)13時45分授業開始(受付開始 13時15分)
研究主題
  自らの考えを深め、確かで豊かに表現できる児童の育成
                     ~学校図書館を計画的に利用しその機能の活用を通して~
 
13:45~14:30 公開授業
1年1組 国語 としょかんへいこう 
  学校図書館で発見したことを文章に書き 発表し合う
2年1組 生活 うごけ!わたしのおもちゃ
  資料を読んで動くおもちゃ作りに生かす
3年1組 算数 重さをはかろう      
  重さの表し方を知り 資料を基に学習課題を見付ける
4年1組 国語 新美南吉の世界へ     
  新美南吉の作品を味わい読書会を開く
5年1組 社会 自動車をつくる工業    
  課題解決に必要な情報を収集し選択して活用する
6年1組 総合 先輩「高村光太郎」に学ぶ 
  詩や作品を通して生き方を知り 新たな課題をつくる
6年2組 体育 病気の予防        
  喫煙に関する資料を基に自分の考えをまとめる
 
14:50~15:40 研究発表
15:40~16:45 対談 絵本のちから 
  絵本作家 なかえよしを氏 絵本コーディネータ― 東條知美氏
 
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というわけで、6年生の総合的な学習の時間で、「先輩「高村光太郎」に学ぶ」の公開授業があります。
 
同校では、以前から総合的な学習の時間に光太郎について調べるということをなさっています。当方も資料の提供をさせていただきました。
 
今年6月の学校便り「正直親切」から。
 
 一日小でこそできる学びがあります。6年生が、今、総合的な学習の時間に取り組んでいる、本校の伝統となっている学習「光太郎のバトンをつなぐ」。本校の卒業生である高村光太郎について調べ、詩を通してその生き方を知り、これからの自らの過ごし方を考える機会にします。これから卒業までの時間を使って、「自分流高村光太郎集」を作成し、本校図書館にその作品を残します。今までの卒業生の作品が並ぶ光太郎文庫は本校の大きな財産です。
 子供たちと一緒にたくさんの詩を味わう中で、短い詩「あたり前」と光太郎氏が岩手県の小学生に残した言葉であり、本校の校訓となっている「正直 親切」に表された氏の生き方に改めて深い感動を覚えました。
 
あたり前
あたり前の事でも僕は言ふ
あたり前の事でも僕はする
あたり前でない事でも僕は言ふ
あたり前でない事でも僕はする
 
 人があたり前と考えるかどうかではなく、自分で考えてみて正しいかどうかを問い、「自分の心で、私は行動するぞ!」と宣言した光太郎。外見や周りの評価に惑わされることなく、本当に正しいことは何なのかを自分で考え、自分の心に正直に生きる姿がたった四行の詩の中に詰まっています。本校の校訓である「正直 親切」は、まさに光太郎氏の生き方そのものを表しているのです。
 「自分に正直であれ 人には親切であれ」高村光太郎氏の言葉が、本校の子供たちのこれからの人生の道しるべになってくれることを願います。
 
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ありがたいことです。
 
また、智恵子の母校、二本松市の油井小学校さんでは、智恵子について学ぶ取り組みをいろいろと行って下さっています。特にこうした地元での学校教育を通し、光太郎智恵子の名を語り継いでいくことは非常に大切なことだと思います。
 
さて、第一日暮里小の研究発表会。一般の方は参観するのは難しいかも知れませんが、教育関係の方、お申し込みを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月24日
 
昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋に、ランプを設置しました。
 
前日の日記から。
 
夕方、戸来恭三さんランプを持つてきてくれる、院長さんのたのみの由、石油一瓶針金も持参、贈与の由、夜ランプをつける
 
 
そして24日の日記。
 
朝雨、後快晴、小春日和  午前ランプの自在カギツクリ、
 
「高村山荘」として今も遺されている山小屋にあるこれでしょうか。
 
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昭和24年の2月に、村人が電線を引く工事をしてやるまで、3年余りランプの生活でした。

昨日は、東京・護国寺にて開催された第59回高村光太郎研究会に参加して参りました。
 
最近では年に一回行われるもので、毎回、お二方の発表が行われ、昨日は名古屋高村光太郎談話会の大島裕子氏、鶴見大学短期大学部教授・山田吉郎氏のご発表でした。
 
 
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大島氏は「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」と題してのご発表。
 
「N-女史に」というのは、光太郎智恵子結婚前の明治45年(1912)に書かれた詩で、のち、「人に」と改題され、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることになる詩です。
 
冒頭部分は以下の通りです。000
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
従来、この詩の書かれた時期に、智恵子は郷里で縁談がもちあがっており、それに対する抗議として光太郎がこの詩を書いたという解釈が為されていました。
 
しかし、大島氏の調査では、その縁談の相手とされていた人物が、どうもそうではないらしいとのこと。智恵子との結婚話は実際に家同士の口約束的なものがあったらしいのですが、それはもっと前の話だったのではないか、ということです。
 
今後のさらなる精査に期待します。
 
山田氏のご発表は、ご専門でもある短歌について。特に、若山牧水の主宰で始まった雑誌『創作』第1巻第5号(明治43年)に載った自選歌についてでした。
 
 
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当時の歌壇の傾向を踏まえての光太郎の歌風の特徴、歌人達の人間関係等にも触れ、興味深い内容でした。
 
光太郎は元々与謝野夫妻の新詩社に籍を置き、『明星』での活動がその文学的活動の出発点といってよいと思います。しかし、専門の歌人としての道を進まなかったためか、いったいに、光太郎の短歌については、あまり注目されていません。現代においてもあまた刊行されている短歌雑誌で、光太郎の短歌を特集するということが皆無に近い状態です。この点、書道関係の雑誌で光太郎の書がくりかえし特集されているのと好対照です。
 
はっきり言うと、歌壇の閉鎖性がその一因ではないのでしょうか。現代の短歌雑誌で過去の歌人の特集が組まれる場合も、その雑誌のルーツをたどるとその歌人の弟子筋に行き当たり、他の系統の歌人は黙殺、ということが行われているようで、実にくだらないと思います。伝統芸能的な分野になってくると、どうしてもそうなるのでしょうか。
 
そうした垣根を越え、もっともっと光太郎短歌に注目が集まっていいと思います。
 
 
昨日は、会の顧問・北川太一先生もご参加下さり、いろいろと貴重なご意見、新しい情報のご提供を賜りました。
 
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北川先生のお話がじかに聴ける機会は滅多になく、貴重な機会です。しかし参加者があまり多くなく、残念です。この会のさらなる発展も切に望みます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月23日
 
大正13年(1924)の今日、詩「清廉」を書きました。002
 
それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
そそり立つ岸壁のががんと大きい
山巓の気をひとつ吸ひ込んで
ひゆうとまき起る谷の旋風に乗り
三千里外
都の秋の桜落葉に身をひそめて
からからと鋪道に音(ね)を立て
触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ
 
愛憐の霧を吹きはらひ
情念の微風を断ち割り
裏にぬけ
右に出て
ひるがへりまた決然として疾走する

その行手には人影もない
孤独に酔ひ、孤独に巣くひ001
茯苓(ふくりやう)を噛んで
人間界に唾を吐く
 
ああ御(ぎよ)しがたい清廉の爪は
地平の果から来る戍亥(いぬゐ)の風に研がれ
みずから肉身をやぶり
血をしたたらし
湧きあがる地中の泉を日毎あびて
更に銀いろの雫を光らすのである
あまりにも人情にまみれた時
機会を蹂躙し
好適を弾き
たちまち身を虚空にかくして
世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
身を養ふのは太洋の藍碧(らんぺき)
又一瞬にたちかへる
あの山巓の気
 
 
光太郎には「猛獣篇」という連作詩があります。教科書にも載った有名な「ぼろぼろな駝鳥」もその一篇です。他に
様々な「猛獣」をモチーフに、荒ぶる魂を表出した連作です。
 
光太郎生前に単行詩集としてまとめられる事はなかったのですが、没後、昭和37年(1962)に、草野心平が鉄筆を握り、ガリ版刷りで刊行されました。
 
この「清廉」はその第一作、発表当時「猛獣篇」のサブタイトルが付けられたのは「清廉」が最初です。
 
モチーフは妖怪「かまいたち」。上記画像はWikipediaさんから拝借しました。なにかの弾みに皮膚に裂傷ができる現象を、昔の人はこの妖怪のしわざだと考えていました。Wikipediaさんによれば、科学的には真空の渦がその原因と言われていたものの、ごく最近はどうもそうではないらしいといわれているようで、結局、これだという結論が出ていないようです。やっぱり妖怪の仕業かもしれません(笑)。
 
ちなみに当方、3歳か4歳の時、当時住んでいた東京都の多摩川の堤防でごろごろ転がり落ちて遊んでいたら、右足をかまいたちにやられました。40年以上経った現在でも、傷跡が残っています。本当にすぱっと皮膚が裂け、しかし血は一滴も出ず、それでいて物凄く痛く、泣きながら家まで走った記憶があります。Wikipediaさんでは「痛みはない」と書いてあるのですが……。今もって不思議です。
 
閑話休題。光太郎にとってはこうした妖怪も「猛獣」だったわけですね。「駝鳥」も一般には「猛獣」とは言えません。そう考えると、荒ぶる魂を持つ獣であれば「猛獣」だという理論です。それを言い出すと、「鯰」や「龍」、果てはもはや生物ですらない「潜水艦」まで「猛獣」の範疇に入っています(どの詩を連作詩「猛獣篇」の一篇と判定するかにもよるのですが)。
 
光太郎の内面世界も、なかなか掴みきれません。

石川は金沢の室生犀星記念館でのイベント(講座)の情報です。

『我が愛する詩人の伝記』を読む 第2回『高村光太郎』

期 日 : 2014年11月29日(土)  
時 間 : 午前10時~11時
会 場 : 室生犀星記念館 石川県金沢市千日町3-22
講 師 : 上田正行氏(同館館長)
 
※お電話でお申し込みください(室生犀星記念館:076-245-1108) 入館料が必要です。
 
 
『我が愛する詩人の伝記』は、昭和33年(1958)に雑誌無題『婦人公論』に連載され、同年単行本化された室生犀星の著書です。詩人としての犀星が間近に見た詩人達の、「伝記」というより「印象記」「回想」に近いものです。
 
取り上げられたのは12人。『婦人公論』掲載順に、北原白秋、光太郎、萩原朔太郎、釈迢空(折口信夫)、佐藤惣之助、島崎藤村、堀辰雄、立原道造、津村信夫、山村暮鳥、百田宗治、千家元麿です。
 
貴重な回想を含み、さらに犀星自身、そう書いているように「詩人の伝記を書いてゐるが、どうもすぐ自分のことを書いてしまふ」というわけで、犀星本人の人間像も浮き彫りになっている一冊です。
 
したがって、この書自体が研究の対象となることも多く、今回の講座でもそういうわけで取り上げるのだと思われます。ちなみに全6回の予定だそうで、白秋を扱った初回の講座は先月終了。今後、光太郎、朔太郎、釈迢空、立原道造と佐藤惣之助、藤村と千家元麿というラインナップになっています。
 
ちなみに今回の講座とは関係ないとは思うのですが、『我000が愛する詩人の伝記にみる室生犀星』(葉山修平著 龍書房 平成12年=2000)という書籍も刊行されています。
 
さて、『我が愛する詩人の伝記』の中で、光太郎がどう描かれているか、少し紹介しておきます。中心になっているのは、青年期の回想です。
 
犀星は光太郎より6つ年下の明治22年(1889)の生まれ。中央の詩壇にデビューするのも大正に入ってからと、光太郎のそれより後のことです。そこで、すでに名声を得ている先輩に対するやっかみのような、シニカルな見方が垣間見えます。
 
千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。
 
また、そのアトリエをおとなったものの、実に三回にわたり、智恵子に追い返されたエピソードも語られています。
その時の智恵子を「夫には忠実でほかの者にはくそくらへといふ目附」と評しています。ちなみにまだこの時点では犀星と光太郎はお互い相知らぬ時期だったそうです。
 
しかし、何も光太郎智恵子をけちょんけちょんにけなしている訳ではありません。
 
光太郎の死は巨星墜つといふことばどほりのものを、私に感じさせた。巨星墜つといふばかばかしいことばが、やはりかれの場合ふさはしく、それだけ私は依然距たりをおぼえてゐたのだ。
 
ここだけ取り上げても伝わりにくいのですが、「距たり」といっても、「敬遠」とか「拒絶」ではなく、「脱帽」に近い感覚です。
 
このほかの部分にも、光太郎に対する敬愛の情がしっかり伝わってきます。また、遺された光太郎から犀星宛の書簡を見ると、光太郎の母が亡くなった際には犀星から心のこもった手紙が来たことや、逆に犀星の母(義母)の逝去に際しても、光太郎は衷心から哀悼の意を表しています。
 
先に挙げたシニカルな見方も、犀星が自らを偽悪家として韜晦する一面を見せているように思われます。そうした部分が、この書物自体、研究の対象として重要視されている一因でしょう。
 
『我が愛する詩人の伝記』、光太郎の回の最後はこんなふうに終わっています。
 
智恵子さん曰く、四十何年か前に見た人がまたいやなことを書いてゐるわね、なんてしつこい厭な奴!
 
 
さて、犀星記念館の講座。お近くの方、ぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月22日
 
昭和2年(1927)の今日、詩人の尾崎喜八に絵葉書を送りました。
 
この時期の光太郎は、自作の彫刻を写真に撮り、絵葉001書にして使っています。この葉書もそうで、この時開催されていた大調和展覧会に出品していた塑像「某夫人の像」をプリントしています。
 
「某夫人」=智恵子です。文面は以下の通り。
 
 この間の夜は急用があつたので失敬しました。二三日前 大調和展へも来られたといふ事を千家君にききましたが その日も遅く行つたので会へないで残念でした。
 此の彫刻は誰も本当には認めませんが自分では信用してゐます。多くの芽を持つてゐると思ひます。
 
光太郎はこの他にも智恵子像を作っていますが、それらすべて、現存が確認できていません。ほとんど昭和20年(1945)の空襲で燃えてしまったと推定されています。
 
どこかからひょっこり出てこないかと期待しているのですが……。
 

福島は郡山からイベント情報です。 
 
日 時 : 2014年11月23日(日) 開場13時30分 開演14時(17時終演予定)
場 所 : 郡山市民交流プラザ 大会議室 ビックアイ7階(郡山駅前)
       郡山市駅前二丁目11-1
演 目 : 口笛、バイオリン、ピアノの演奏、朗読
      東京から福島へのメッセージ紹介
      ふくしまをめぐる話など
  : バイオリニスト 山本智美さん 
       (福島県出身、埼玉県で「森の音楽アトリエ」開設)
      口笛奏者 柴田晶子さん (国際口笛コンクール優勝)
      ピアニスト 松田光弘さん (Real Rockでメジャーデビュー)
  : skyasu39@ybb.ne.jp 、090-8782-2774 (鈴木)  

主 催 : ふくしま再生プロジェクトの会     
 合 : ふくしま再生プロジェクトの会 鈴木
 込 : skyasu39@ybb.ne.jp  090-8782-2774
 
この会は、福島と東北の役に立ちたいという思いをもった人と福島の人たちの心と心をつなげる憩いの催しです。

当日の主な内容は、バイオリニスト山本智美さん、口笛奏者柴田晶子さん、ピアニスト松田光弘さんの音楽コンサートと「ふくしまへおくる言葉」や詩の朗読です。

アットホームな雰囲気の中で、「心のふるさと」としての東北を感じるひと時になればと思います。

「ふくしま、ひとしずくの物語」は、10月にも東京で開催し、「ふくしまのために何かしたい」という気持ちで集まっていただいた皆様の「ふくしまへの想い」もお届けします。

当日は、参加無料でございますので、みなさまお誘い合わせの上、いらしてくださいませ。(お席の用意がございますので、なるべく事前に申込みを下さいませ)
 
 
先月、東京・豪徳寺で開催されたイベントの福島公演のようです。
 
当方、今年は11回、福島県に足を運びました。特に川内村相馬などの浜通り地区の復興はまだまだです。ハード面での支援は、我々個人には難しい部分がありますが、こうしたソフト面での支援は可能です。足を運ぶだけでも支援となります。ぜひ、足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月21日

平成21年(2009)の今日、千葉県松戸市戸定歴史館で「千葉大学園芸学部創立100周年記念特別展 庭園の記憶 ―与謝野晶子の「松戸の丘」と園芸学校の絵画―」が開幕しました。
 
現在の千葉大学園芸学部(千葉県松戸市松戸)は、明000治42年(1909)に設立された千葉県立園芸専門学校がその前身で、与謝野晶子が大正11年(1922)と同13年(1924)に同校を訪れ、雑誌『明星』(第二期)に「松戸の丘」と題する50首の短歌を発表したりしています。
 
また、明治45年(1912)に就任した第二代校長・赤星朝暉は光太郎のご近所さんで、昭和11年(1936)には、光太郎が作った赤星の像が、同校に設置されました。残念ながら戦時供出で現存せず、現在は、光太郎とも交流のあった彫刻家・武石弘三郎が作り、新潟県立加茂農林高校に建てられた像の原型を使った2代目の像が残っています。
 
図録には、市の学芸員・田中典子氏による「赤星先生像をめぐって」が掲載されています。

新聞記事からご紹介します。 

原付ナンバープレートに乙女の像

 十和田市は5日、合併10周年を記念した原動機付き自転車のオリジナルナンバープレートに、十和田湖と湖畔を象徴する乙女の像の図案を決定したと発表した。
 制作者は大阪府のグラフィックデザイナー塩﨑榮一さん。全国から応募があった31件の中から、同市の特色や魅力が端的に表現された図柄として審査会で選ばれた。
 ナンバープレートは、十和田市の魅力を目に見える形で訴える狙いもある。高村光太郎作の乙女の像は建立から60年が経過してなお、誘客に課題を抱える十和田湖観光のPR役に“就任”。市税務課は「新たなナンバープレートで十和田をアピールしてほしい」と期待を込める。
 新ナンバープレートの交付開始は2015年2月2日の予定。問い合わせは十和田市役所税務課=電話0176(51)6765=へ。
『デーリー東北』 2014/11/05
 
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調べてみると、全国的には300ほどの自治体が原付の「ご当地」ナンバーを導入しています。ただし、かなりの割合で、奇妙な「ゆるキャラ」が採用されています。それを付けて走るのも恥ずかしいんじゃないの? と思います。
 
その点、十和田市さんのものはなかなかいい図案ですね。泉下の光太郎は苦笑しているような気がしますが。
 
ちなみに当方の住む千葉県香取市は、地元の偉人・伊能忠敬のデザインです。地元民にしかわからないのでは……と思いますが、地元への愛着を深める、という意味ではいいのかもしれません。
 
近くの佐倉市では漫画家、モンキー・パンチさんが市内在住ということで、ルパン三世の図柄。これはズルい、という気がしますね(笑)。
 
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さて、新聞がらみでもう一件。  

風土計(2014/11/13)

 「威信の青空」。そう呼ぶのがぴったりの中国・北京の数日間だった。アジア太平洋経済協力会議(APEC)の期間中、北京の空は見事に晴れた
▼中国では微小粒子状物質「PM2・5」による大気汚染が深刻。気象当局は、北京は8~11日に重度から中度の大気汚染に見舞われると予報していた。大事な国際会議の空が暗い霧に覆われてはメンツにかかわる
▼このために当局が取った手段がすごかった。工場の操業停止や交通規制はまだ序の口。中国メディアによると、花火や露天のバーベキューを禁止。周辺の農家では食事や暖を取るために薪や石炭を燃やすことさえ禁じた
▼アジアの大国の威信をかけた青空の演出には恐れ入る。その効果だろうか。日本との間にかかっていた深い霧もとれて、2年半ぶりの首脳会談が実現した。2人の表情は晴れやかとはいかなかったが、まずは良しとしよう
▼とはいえ、これはつかの間の青空。高村光太郎の「智恵子抄」風に言えば「ほんとの空が見たいといふ」が隣国国民の思いではないか。両国関係が改善すれば、大気汚染を防ぐ日本の技術協力もさらに進んでいくだろう
光太郎の随筆「触覚の世界」に「彫刻家の触覚は霧を破ろうとする」とある。一番幼稚で根源的な感覚ゆえに触覚は本質をつかむ。政治家にもほしい。
『岩手日報』 2014/11/13
 
『岩手日報』さんの1面コラムです。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手の地方紙ということで、時折、光太郎にふれて下さいます。ありがたいことです。
 
もう一件。今月8日の『毎日新聞』さんの社会面コラム「季語刻々」でも、光太郎にふれて下さっています。
 
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「ほんとの空」が広がる智恵子の故郷の山、安達太良山や、十和田ではもう雪が積もったそうです。当方の住む南関東でも初冬の気配が漂って参りました。
 
当方、光太郎と違って、冬の寒さは苦手で000す。「冬は僕の餌食だ」ではなく「僕は冬の餌食だ」状態なのですが、「冬来たりなば春遠からじ」と思いつつ、頑張ります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月20日
 
昭和25年(1950)の今日、龍星閣から詩文集『智恵子抄その後』が刊行されました。
 
昨日もご紹介した「元素智恵子」や「裸形」を含む連作詩「智恵子抄その後」を根幹に、戦後に作られた他の智恵子に関する詩篇、散文などを収めています。
 
 

このところ、新刊紹介ということで記事を書いています。一昨日は池川玲子『ヌードと愛国』(講談社現代新書)、昨日は清家雪子『月に吠えらんねえ(2)』(講談社アフタヌーンKC)と、講談社さんの書籍が続き、今日も講談社さんのものです。
 
別に当方、講談社さんには何の義理もありませんし(笑)、講談社さんも光太郎に何の義理もないのでしょう。たまたまなのだと思います。  
富岡幸一郎選 高村光太郎他著 2014/11/10 講談社(講談社文芸文庫) 定価1,400円+税
 
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版元サイトより
 
妻に先立たれた夫の日々は、悲しみの海だ。
男性作家の悲しみは、文学となり、その言葉は人生の一場面として心に深く沁み込んでいく。
例えば藤枝静男の「悲しいだけ」のように……。
高村光太郎・有島武郎・葉山嘉樹・横光利一・原民喜・清岡卓行・三浦哲郎・江藤淳など、静謐な文学の極致を九人の作家が描いた、妻への別れの言葉。
 
目次
 元素智恵子  高村光太郎
 裸形  高村光太郎
 智恵子の半生  高村光太郎

 小さき者へ  有島武郎
 出しようのない手紙  葉山嘉樹
 春は馬車に乗って  横光利一
 死のなかの風景  原民喜
 朝の悲しみ  清岡卓行
 にきび  三浦哲郎
 悲しいだけ  藤枝静男
 妻と私  江藤淳

 
というわけで、光太郎の詩が二篇、散文が一篇選ばれています。巻頭に挙げていただいているのがありがたいところです。
 
「元素智恵子」、「裸形」ともに、昭和24年(1949)に作られた六篇から成る連作詩「智恵子抄その後」の中の一篇です。「智恵子の半生」は昭和15年(1940)の雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年刊行された詩集『智恵子抄』に改題のうえ、収められたエッセイです。
 
したがって、目新しいものではないのですが、他の作家がどのように妻の死と向き合っているのか、合わせて読むことでまた違ったとらえ方が出来るのではないかと思います。
 
個人的には江藤淳「妻と私」に感動しました。実はそれ以外の作品は未読です(昔、読んだ作品はありますが)。なかなか重たいテーマの作品集なので、読むのが辛い部分がありまして……。
 
ともかくも、ご紹介しておきます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月19日
 
大正11年(1922)の今日、田村松魚とともに、光雲の懐古談を聞き始めました。
 
この談話は翌月まで続き、昭和4年(1929)、萬里閣書房から『光雲懐古談』が刊行され、その前半の「昔ばなし」としてまとめられました。筆録は田村です。光雲が語ったのは自己の半生、同時代の美術界の様相などです。
 
『光雲懐古談』に収められた田村の言。
 
此の「光雲翁昔ばなし」は大正十一年十一月十九日(日曜日)の夜から始め出し、爾来毎日曜の夜毎に続き、今日に及んでゐる。先生のお話を聴いてゐるものは高村光太郎氏と私との両人限りで静かな空気をこわすといけない故、絶対に他の人を立ち入らせなかつた。最初の第一回は光太郎氏宅他は今日まで先生のお宅でされつゝある。
 
ただ、以前にも書きましたが、昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍に収められている光雲談話と重なる部分があり、精査が必要です。
 
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本日も新刊紹介です。

月に吠えらんねえ(2)

清家雪子著 2014/10/23 講談社(アフタヌーンKC) 定価740円+税
 
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版元サイトから
□(シカク:詩歌句)街。そこは近代日本ぽくも幻想の、詩人たちが住まう架空の街。実在した詩人の自伝ではなく、萩原朔太郎や北原白秋らの作品から受けた印象をキャラクターとして創作された、詩人たちと近代日本の業と罪と狂気の物語。衝撃的な内容で話題の1巻に続き、近代日本の闇へ踏み込む第2巻登場!
 
帯文から
朔太郎、白秋、犀星らの作品から詩人キャラをクリエイト! 厖大な資料を下敷きに妄想全開、前から後から縦横無尽にやらかした、一線を越えた詩人漫画!
 
 
昨年10月に、講談社さんの『月刊アフタヌーン』で連載が始まり、今年4月に単行本の第1巻が刊行された話題作(先月発行された詩誌『詩と思想』10月号でも大きく紹介されました)の2巻目です。
 
主人公の「朔(萩原朔太郎)」を中心に、「白さん(北原白秋)」「ミヨシくん(三好達治)」「ミッチーくん(立原道造)」「チューヤくん(中原中也)」「犀(室生犀星)」などが紡ぎ出す幻想世界の物語です。
 
第六話「1945」では、第一巻にも出てきた白皙の「コタローくん」と「機動戦士ガンダム」のガンタンクのような「チエコさん」が再登場。突如起こった空襲のために「チエコさん」は大破してしまいます。しかし、この回で、「チエコさん」は「コタローくん」が作ったラジコンだと言うことが判明。実際の「智恵子さん」はもはや死んでいることも。
 
大破して回線がショートた「チエコさん」が、まるで戦時中のラジオのようにエンドレスでつぶやき続けるのは、「コタローくん」の詩。現実の光太郎としては昭和18年(1943)に書いた「戦に徹す」です。
 

いざといふ時気のそろふのは007
日のみ子を上(かみ)にいただくわれらがともの
幾千年来かはる事なき血のしるしだ。
いま米英の大軍を敵として東亜に戦ふ。
かの元寇の国難は物の数ならず、
まさに国つ初めの戦このかた
再び来りて三たびは敢えて来らざらん
八紘(あめのした)を清め祓ふの戦だ。
この戦を戦ふ時、
われらがとも一人(いちにん)と雖も悉く戦ひ、
悉く戦の場に立ち、
悉く戦の心にきはまり、
悉く日常坐臥の生活を戦に捧げざるはない。
国民の眼(まなこ)戦の一点に集まり、
国民の思ひ戦を焦点としてめぐる。
(略)
世界を奪はんとしてのぼせ上るは米英にして、
世界を清めんとするはわれらである。
この戦のいづれに神のみこころありや。
明々白々、われら断じて信ずる。
米英破る。008
世界健康の美かならず成る。
われらの手によつてかならず成る。
 
 
「コタローくん」はバグッた「チエコさん」を叩き壊します。すると、次の瞬間、なぜか海上に浮かんでいる「コタローくん」。やはりバックに彼の詩が。やはり現実の光太郎の作品としては、昭和22年(1947)に書かれた連作詩「暗愚小伝」の構想段階で書かれた「わが詩をよみて人死に就けり」です。
 
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 
やがて「コタローくん」の前に現れる「チエコ」。こちらはラジコンの「チエコさん」ではなく、生身。ただし、もはやこの世の者ではない、幻です。
 
幻の「チエコ」のセリフが、以下の通りです。

ねえコタロー015
私と同じね
狂うしかなかったのね
片田舎でひっそり暮らしていたお姫様が…
突然目覚め
膨張した
身の丈に合わない自我を
小っちゃな無垢な体に抱えきれず
ぱあんと弾けてしまったのね
 
 
ともに「壊れ」てしまった智恵子と光太郎が、よく表現されています。
 
ところで、現実の光太郎はがっしりした体躯なのに、「コタローくん」は、なよっとした青びょうたんのような風貌です。第一巻の段階では、この理由が分かりませんでしたが、どうやら白皙の「コタローくん」は、「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」という戦時中の光太郎の痛々しい自我を象徴しているのではないかと気がつきました。ものすごい伏線ですね。
 
ちなみに「必死の時」という詩は以下の通り。昭和16年(1941)の作品です。画像は詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)から採りました。
 
 必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、012
 その時こころ洋洋としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。
 
 人は死をいそがねど
 死は前方から迫る。
 死を滅すの道ただ必死あるのみ。
 必死は絶体絶命にして
 そこに生死を絶つ。
 必死は狡知の醜をふみにじつて
 素朴にして当然なる大道をひらく。
 天体は必死の理によって分秒をたがえず、
 窓前の茶の花は葉かげに白く、
 卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
 天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
 安きを偸むものにまどひあり、
 死を免れんとするものに虚勢あり。013
 一切を必死に委(ゐ)するもの、
 一切を現有に於て見ざるもの、
 一歩は一歩をすてて
 つひに無窮にいたるもの、
 かくの如きもの大なり。
 生れて必死の世にあふはよきかな、
 人その鍛錬によつて死に勝ち、
 人その極限の日常によつてまことに生く。
 未練を捨てよ、
 おもはくを恥ぢよ、
 皮肉と駄々をやめよ。
 そはすべて閑日月なり。
 われら現実の歴史に呼吸するもの、
 今必死のときにあひて、
 生死の区区たる我慾に生きんや。
 心空しきもの満ち、
 思い専らなるもの精緻なり。
 必死の境に美はあまねく、
 烈々として芳しきもの、
 しずもりて光をたたふるもの
 その境にただよふ。
 
 ああ必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、
 その時こころ洋々としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。
 
この詩について、光太郎自身、「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」と書いているのです。

ちなみに「書いた」は、時期的に考えて「制作した」という意味ではなく「人から頼まれて「書」として揮毫した」という意味だと思われます。実際、そういうことがありました。
 
そうした事情も知らないヘイトスピーチ大好きな幼稚な右翼が、「格調高い名詩」などと絶賛しています。もっと勉強しろよと言いたくなりますね。
 
 
さて、「月に吠えらんねえ」。一巻ともども、ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月18日
 
昭和27年(1952)の今日、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝となった豊周の初めての個展が、日本橋三越で開幕しました。

本日も新刊紹介です。 
池川玲子著 2014/10/20 講談社(講談社現代新書) 定価800円+税
 
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版元サイトから
 
一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解く。推理のポイントは時代と作り手の動機。時系列に並べたヌードから浮かび上がってくる歴史とは? ヌードで読み解く近現代史。
 
 歴史とはそもそもミステリーと相性の良いものだと思います(もしくは、ミステリーそのものと言えるかもしれません)が、本書は、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解くことで、知られざる近現代史が浮かび上がってくる、いっそう贅沢なミステリー仕立ての歴史読みものとなっています。
 著者の池川玲子さんの専門は、日本近現代女性史。ヌードをめぐる芸術作品、美術史と女性学が交錯することで、いままで気にも留めなかった歴史の一部分がこんなにも面白くクローズアップされるのか、と原稿をいただくたびに実感し、それは嬉しい驚きの連続でした。
 本書は、一九〇〇~一九七〇年代の七体のヌードの謎をめぐる全七章の構成になっていますが、たとえば第二章では、竹久夢二が描いた「夢二式美人」がなぜ脱ぐことになったのか、というミステリーの背景として、第一次世界大戦が挙げられています(それがなぜかはぜひ本書をお読みください)。
 とりわけ、私が思わず、池川さんに、「先生! これ、スクープ・ヌードなんじゃないですか!?」と詰め寄り、鼻息を荒くしてしまったのは、第三章の「そして海女もいなくなった」です(実際に、かつて、池川さんのもとには、某通信社の記者さんから取材の申し込みがあったとか)。本章では、現存する日本映画最古のヌードが発掘されているだけでなく、なんと、それは、真珠湾攻撃のほんの数年前、日本の国際観光局が「日本宣伝映画」をつくるにあたり、よりによってハリウッドからもたらされたシナリオに端を発する、いわくつきのヌードだったという事情も詳しく述べられています(「海女もいなくなった」の意味など、ぜひ本書で)。
 第七章の「七〇年代パルコの『手ブラ』ポスター」では、あまりにも意外な事物のポスターまでもがパルコの「手ブラ」に追従した事実が、図版とともに紹介されており、驚きのあまり苦笑いしてしまうことになるでしょう(それが何のポスターかは、本書でお確かめください)。
 ……と、やはり全七章すべてが極上ミステリーのため、ネタバレを避けて紹介文も思わせぶりな内容とならざるをえません。刊行前に読んだ社内の人間からも大好評の本書、ここはぜひ、ご自分のお手に取ってお楽しみくださいませ。(編集担当:IM)
 
第一章 デッサン館の秘密 智恵子の「リアルすぎるヌード」伝説
第二章 Yの悲劇 「夢二式美人」はなぜ脱いだのか?
第三章 そして海女もいなくなった 日本宣伝映画に仕組まれたヌード
第四章 男には向かない?職業 満洲移民プロパガンダ映画と「乳房」
第五章 ミニスカどころじゃないポリス 占領と婦人警察官のヌード
第六章 智恵子少々 冷戦下の反米民族主義ヌード
第七章 資本の国のアリス 七〇年代パルコの「手ブラ」ポスター
 
こちらでは、著者の池川さんによるこの書籍に関してのエッセイも読めます。
 
タイトルに「愛国」という語が入っていますが、ヘイトスピーチ大好きの幼稚な右翼の常套句、「大東亜戦争は侵略戦争ではなかったのだ」的な馬鹿げた内容ではありません(そういう内容を期待して買わないで下さい)。逆に芸術表現としてのヌードが、しばしば反体制の表象として使われることに注目し、逆説的に「愛国」の語が使われています。
 
 
第一章では、光太郎と邂逅する前の智恵子の、太平洋画会研究所で描いたデッサンをメインに取り上げています。
 
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これはおそらく明治40年(1907)、智恵子22歳頃に描かれたものです。智恵子と同じ太平洋画会の事務監督兼助教授だった福岡県大牟田市の佐々貴義雄の遺品から、もう1枚の石膏デッサンとともに、平成11年(1999)に見つかりました。
 
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『ヌードと愛国』の第一章では、やはり太平洋画会に通っていた水木伸一の回想にからめ、智恵子を論じています。
 
さらに、当時の黒田清輝の白馬会と、明治美術会の流れをくむ中村不折の太平洋画会との対比……「白馬会-官-新派-外光派-ラファエル・コランの流れ」、「太平洋画会-民-旧派-写実重視-ジャン・ポール・ローランスの流れ」といったところまで考察が進みます。
 
そこに「歴史画」の問題、モデルの問題、そして警察による「風俗取り締まり」による裸体画の「特別室」行きなどといった問題までも盛り込まれ、非常に読みごたえのある章でした。
 
 
さらに第六章「智恵子少々」(もちろん「智恵子抄」のパロディーです)。
 
こちらのメインは昭和40年(1965)の武智鉄次監督の日活映画「黒い雪」。同年、わいせつ図画の公然陳列の容疑で起訴された(判決は無罪)作品です。背景には日米安保体制下のベトナム戦争拡大への危機感、基地問題があります。
 
武智は、昭和32年に観世寿夫と組んで新作能「智恵子抄」を作りました。その際の智恵子のイメージが、この「黒い雪」に投影されていることが、シナリオのト書きから読み取れる、というのです。ただし、それと判らない程度のインスパイアであり、そこで章の題名「智恵子少々」というわけです。
 
この章での論は、その他、光太郎と智恵子の結婚生活や、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)、「智恵子抄」受容の歴史などにも及んでいます。
 
感心したのは、昭和32年(1957)の『婦人公論』に載った「座談会三人の智恵子」というかなりマニアックな記事まで参照していること。こちらは武智が司会を務め、それぞれ舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた水谷八重子、原節子、新珠三千代が参加した座談会の記録です。
 
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過日、『日本経済新聞』さんに書評が載りました。
 
長沼智恵子が描いたリアルなデッサン、服を脱いだ竹久夢二の美人画、わいせつ罪に問われた武智鉄二の映画、大胆に露出したパルコのポスター。女性史を専門とする著者が1900年代~70年代に世に現れたヌードを時代状況と照らしながら時系列で読み解く。どんな「裸」も重い日本を背負っているとわかる異色の近現代史論考だ。
 
ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月17日
 
昭和27年(1952)の今日、新しくオープンした中央公論社画廊で「高村光太郎小品展」が開幕しました。
 
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光太郎生前最初の、そして最後の彫刻個展です。
 
大正年代にはアメリカでの個展を構想し、その費用の捻出のため、彫刻頒布会を作った光太郎ですが、その計画はあえなく頓挫。以後、彫刻の個展の構想はありませんでした。
 
この展覧会にしても、光太郎自身はあまり乗り気ではなく、『高村光太郎選集』全六巻を刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味合いが強かったといいます。
 
しかし、さらにこの後の最晩年には、彫刻でなく書の個展を開くことを考えていました。
 
光太郎、つくづく大いなる矛盾を抱えた人物です。

芸術の秋、文化の秋、ということで、このところ光太郎に関連するイベントが盛りだくさんです。このブログ、それらの紹介と、足を運んでのレポートで、かなりネタを稼がせていただきました。今月に限っても、まだ三つ四つ、把握しているイベントがあるのですが、一旦そちらから離れます。
 
予定では今日から4回、新刊書籍をご紹介します。イベントの記事と比べると、速報性の意味であまり重要でないかなと思い、後回しにしていましたが、いつまでも紹介しないと「新刊」と言えなくなりますし、「こういう本が出ているのに気づいていないのか」と思われるのも癪ですので。

山に遊ぶ 山を思う

正津勉著  2014/9/30 茗渓堂  定価 1,800円+税
 
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著者の正津氏は詩人。山岳愛好家でもあります。その正津氏がこの十年ほどの間に歩いた全国の山々の紀行です。基本、白山書房刊行の雑誌『山の本』に「山の声」の題で連載されていたものに加筆訂正を加えたものだそうです。
 
単なる山岳紀行ではなく、それぞれの山と縁の深い文学者のエピソード、作品を紹介しながらというスタイルです。
 
さて、光太郎。
 
第12章の「詩人逍遥 赤城山――萩原朔太郎・高村光太郎」で扱われています。
 
光太郎は赤城山を非常に愛し、生涯に何度も訪れています。明治37年(1904)には、5月から6月にかけてと、7月から8月にかけての2回、計40日ほどを赤城に過ごしており、あとから合流した与謝野鉄幹ら新詩社同人のガイド役も買って出ています。また、昭和4年(1929)にも、草野心平らを引き連れて登っています。この時同行した詩人の岡本潤の回想に拠れば、光太郎は下駄履きで登っていったとのこと。ちなみに前橋駅で落ち合った朔太郎は登らなかったそうです。
 
こうしたエピソードや、赤城山に関わる光太郎の短歌などが紹介されています。
 
他にも宮澤賢治、更科源蔵、川路柳虹、竹内てるよ、大町桂月、尾崎喜八、風間光作、真壁仁といった、光太郎と縁の深い文学者のエピソードが盛りだくさんです。
 
先頃、『日刊ゲンダイ』さんに書評が載りました。
 
 北は北海道の離島に位置する利尻山から、南は薩摩半島の南端の開聞岳まで、日本全国30カ所の山々を歩いた詩人による山岳紀行。スポーツとしての登山ではなく、都会の喧騒から離れることで俗世間の煩わしさを忘れ、自然の中で心を豊かに遊ばせる山行きの楽しさを感じさせてくれる。
  特筆すべきなのは、それぞれの山にちなんだ詩歌や言葉など、先人の文学をあらかじめ下調べした上で山に向かっている点。たとえば、津軽富士と呼ばれる岩木山の章では、太宰治の「津軽」や河東碧梧桐の「三千里」、今官一の「岩木山」などの一節が紹介されているほか、地元詩人の方言詩などにも触れていく。
  群馬県の赤城山の章では、萩原朔太郎の「月に吠える」「蝶を夢む」「青猫」や、高村光太郎の「明星」、さらに草野心平や金子光晴の名も登場。自らの山行きを悠久の時を超えた先人の言葉と重ね合わせながら、より深く楽しんでいる姿が何とも味わい深い。

 
「高村光太郎の「明星」」には「おいおい!」と思いましたが、よく書けています。
 
ちなみに著者の正津氏には、他にも光太郎にふれたご著書がありますので、紹介しておきます。

人はなぜ山を詠うのか001

平成16年 アーツアンドクラフツ 定価2,000円+税  版元サイトはこちら
 
こちらも山と文学者の関わりについて述べたもの。第一章が「私は山だ……高村光太郎」。こちらでは上高地、安達太良山、磐梯山、そして花巻郊外太田村の山口山といった、光太郎が足を運んだり、作品でふれたりした山を追っています。

小説尾形亀之助 窮死詩人伝

平成19年(2007) 河出書房新社 定価2,200円+税   000版元サイトはこちら
 
光太郎と交流のあったマイナー詩人・尾形亀之助の評伝です。光太郎も登場します。帯には光太郎の亀之助評も。

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合わせてお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月16日
 
昭和20年(1945)の今日、光太郎の住む花巻郊外太田村の山小屋を、編集者の鎌田敬止が訪れました。
 
鎌田は岩波書店を振り出しに、北原白秋の弟・鉄雄が経営していたアルス、平凡社など、光太郎とも縁のある出版社を渡り歩き、昭和14年(1939)には八雲書林を創立しました。八雲書林は、戦時中に他の出版社と統合して青磁社となり、この時は青磁社の所属でした。さらに同24年(1949)頃に白玉書房を設立。休業中の龍星閣に代わって、『智恵子抄』を復刊しました。

福島から展覧会情報です。 

藝大に学んだ巨匠たち──東京藝術大学大学美術館所蔵作品を中心に

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会 期 : 2014年11月15日(土曜日)~12月14日(日曜日)
 場 : いわき市立美術館 2階企画展示室
休館日 : 月曜日(11月24日は開館、翌25日は休館)
 間 : 午前9時30分から午後5時(入場は午後4時30分まで)
 催 : いわき市立美術館、東京藝術大学美術学部、東京藝術大学大学美術館
後 援 : 福島県
 金 :
 一般 1,000円(800円) 高・高専・大生 500円(400円) 小・中生 300円(240円)
      ※( )内は20名以上の団体割引料金
    観覧料が無料になる場合
       1 いわき市在住の65歳以上の方
       2 身体障がい者手帳、療育手帳、精神障がい者保険福祉手帳のいずれかをお持ちの方
       3 市内の小・中・高・専修・高専生(ただし、土曜日と日曜日のみ)
                     (注)身分を証明する手帳等をご提示下さい。
また、平日に「いわき市内の小・中・高・専修・高専生」が、学校の教育活動の一環として利用する場合も、企画展・常設展が無料になります。
 
会期中の催し
1) 記念講演会1
  「藝大コレクションを語る」
   日時 平成26年11月16日(日)14:00~15:00
  会場 3階セミナー室
   講師 古田亮(東京藝術大学大学美術館准教授)
   参加費 無料
 
2)記念講演会2
  「横山大観と東京美術学校」
  日時 平成26年11月23日(日)14:00~15:00
  会場 3階セミナー室
  講師 小泉晋弥(茨城大学教授)
  参加費 無料
 
3)記念講演会3(都合により中止となりました。ご了承ください。)
   「藝大コレクションと私」
  日時 平成26年11月24日(月)14:00~15:00
  会場 3階セミナー室
   講師 田口安男(東京藝術大学名誉教授、いわき市立美術館名誉館長)
  参加費 無料
     
4)アーティスト・トーク1
  日時 平成26年12月7日(日)14:00~15:00
  会場 企画展示室
  講師 中村一美(藝大大学院油画修了、多摩美術大学教授)
  参加費 企画展入場券半券が必要
 
5)アーティスト・トーク2 
  日時 平成26年12月14日(日)14:00~15:00
  会場 企画展示室
  講師 山本伸樹(藝大大学院壁画修了、美術家)
  参加費 企画展入場券半券が必要
 
【同時開催】
1.藝大Am+いわき   高校生クロッキーワークショップの作品展示 
  会場:美術館1階ロビー(入場無料)
2.藝大Am+いわき   いわきから藝大へ 明日の巨匠たち 
  会場:いわきアリオス(入場無料)
 
東京藝術大学は、前身の東京美術学校と東京音楽学校が明治20年に設立され、その後昭和24年の学制改革による両校統合により現在に至っていますが、我が国最初の官立の総合的な芸術教育と研究の専門機関として発足以来、数多くの優れた人材を育成し、近現代の美術と音楽の動向に大きな影響を及ぼしてきました。

またこの間、教育研究資料として国宝、重文を含む古美術、楽器、絵画・彫刻・工芸品、建築・デザイン図面など約28,500件の芸術資料の収集を通して、日本の近現代美術の調査研究において欠くことのできない国内有数の質と量を誇るコレクションを形成し、今日、極めて高い評価を得ています。

本展は、この素晴らしい藝大コレクションのなかから、東京美術学校(東京藝術大学)が輩出してきた明治・大正・昭和初期を代表する作家たちの教官・学生時代に制作した貴重な絵画や彫刻作品をとりあげ、さらに同時代性をもった戦後の良質な美術作品といわきの美術を収集方針に掲げる当館コレクションを一部加え、戦後美術の動向に多大な影響を与えてきた藝大関連作家と、当地の美術界に大きな足跡を残してきた藝大に学んだいわきの作家たちの作品を紹介します。

本展が、明治期に設立されて以降、常に中央及び地方の美術界に主導的な人材、作家を送り続けてきた教育研究機関としての藝大の果たしてきた役割を再考する機会となることを期待するとともに、若き日の巨匠たちが制作した貴重な逸品の数々を、ご高覧いただきたいと思います。
 
主な出品作家 : 高橋由一、横山大観、下村観山、菱田春草、黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、青木繁、佐伯祐三、高村光太郎、小磯良平、杉山寧、高山辰雄、加山又造、平山郁夫、浜田知明、駒井哲郎、杉全直、山口長男
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というわけで、今日から開催です。展示される光太郎の作品は「獅子吼」。明治35年(1902)の作で、東京美術学校の卒業制作として作ったものです。
 
モチーフは日蓮。経巻を投げ捨て、憤然として立つ姿を表しているそうです。
 
ネット上に出品目録が出ていないのですが、チラシを見ると、その他、高橋由一の「鮭」(重要文化財)、横山大観の「村童観猿翁」、長沼守敬の「老夫」など、名品がもりだくさんです。
 
お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月15日
 
昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエで、作家の高見順と対談「わが生涯」を行いました。
 
翌31年(1956)1月には雑誌『文芸』に、さらに光太郎没後の同32年(1957)には、中央公論社刊『対談原題文壇史』に掲載されました。『高村光太郎全集』第11巻にも収録されています。

3件ご紹介します

アートシーン 中村屋サロン美術館開館記念特別展 中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた― 

NHKEテレ 2014年11月16日(日)  9:時45分~10時00000
                     
 再放送20時45分~21時00分
 
司会 井浦新,伊東敏恵
 
今回のメインは、多くの芸術家たちが集った中村屋サロンの展覧会。明治の終わり、パン屋として開業した新宿のレストランに、彫刻家の荻原守衛や高村光太郎、画家の中村彝など、若き才能が集い、切磋琢磨(せっさたくま)しながら数々の傑作を生み出しました。そのほかにも話題の展覧会をピックアップ。お楽しみに。
 
「日曜美術館」とセットの15分間番組です。過日レポートした新宿中村屋サロン美術館開館記念特別展がメインで扱われます。16日(日)、朝と夜、2回放送です。 

五木寛之「風のCafe」1周年記念スペシャル ゲスト:渡辺えり

BSフジ 2014年 11月15日(土)17:30~18:30
 
番組ホスト 五木寛之(作家)
番組アシスタント 冴木彩乃(出版プロデューサー)
ゲスト 渡辺えり(劇作家・演出家・女優) 
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 今回のゲストは、渡辺えり。そして、“もう一度聞きたい、あの話”をまじえての60分スペシャル!これまでCafeを訪れた各界の著名人、13人のゲストの名言を再びお届けする。
 五木から演劇界きっての歌唱力の持ち主と称賛される渡辺えりは、五木が作詞した歌を2曲もつ。その一つ「昼の花火」の歌詞は還暦を前にした渡辺にとって、今あらためて読むと泣きそうになるという。その歌詞のもつ意味は?
 戦時中、高村光太郎に心酔した父により、家に飾ってあった光太郎の写真をずっと自分の祖父だと思って育った渡辺。いじめられっ子だった小学校時代。そこから自信を持てるようになったきっかけ、そして山形から上京することになった理由の一つ、ジュリーこと沢田研二への憧れについて語る。
 そして、五木と渡辺のいくつもの接点。その一つが池袋の「舞台芸術学院」でのすれ違い。さらに、「ゲゲゲのげ」岸田國士賞受賞のきっかけをつくった「唐十郎」とのこと。唐は当時無名の渡辺の初期作品を候補作と間違えて読み、その実力を看破したという。また、美輪明宏にこの授賞式の衣装を買ってもらった話や、同時受賞した野田秀樹などの不思議な縁を話す。
 劇団「3○○」や演劇活動のかたわら、テレビにも出演。庶民的で可笑しなキャラクターを演じ人気を博している“国民的女優渡辺えり”。しかし、映像で見るイメージとは違い、劇作家渡辺えりの描く芝居はシュールなものだ。そのギャップが違いすぎて、お客さんが戸惑い理解されない、という悩みも打ち明ける。今度の舞台「天使猫」は東日本大震災の後、はじめて書き下ろした作品だ。被災地に思いを馳せ、復興未だ叶わぬ現地でもテントで上演される。そのきっかけは、共演する宇梶剛士と地元の人たちの「ここでやりたい、やってくれ」という言葉だった。
 渡辺えりは様々な顔をみせる。プロデューサー、脚本家、作家、評論家、タレント、そして俳優・・・あらゆる役割をこなす渡辺えりを、五木は「百姓」という言葉で例える。「百姓」という言葉には、元々「様々な職業」という意味があるのだ。五木は彼女に100歳までの舞台を期待する!
 
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11月1日に放映されたものの再放送です。「父の戦争体験と詩人・高村光太郎」ということで、お父様と光太郎のつながりについてのお話があります。
 
現在、全国ツアー中の、宮澤賢治を主人公とした舞台「天使猫」についてのお話も。
 
1日の本放送を見逃した方、どうぞ。 

土曜スペシャル「秋の東北 激走1200km“滝&紅葉スポット”制覇旅2」 

テレビ東京 2014年11月15日(土)  18時30分~20時54分

東北ぐるり1200km “滝&紅葉”めぐり旅2

錦秋に染まる日本列島…
そこで今回は、東北にある滝をめぐって「滝と紅葉」をカメラにおさめ、紅葉写真のベストショットを競い合う!
 
盛岡をスタートし岩手・青森県をめぐるチームと秋田県をめぐるチームに分かれ目指すは青森・弘前城!3日間の移動距離は2チーム合わせて1200km!

 落差100メートル・東北屈指の大きさを誇る安の滝、海に落ちるマニア垂涎の珍しい滝、弥勒菩薩を祀ったソーメン滝、青森を代表する景勝地・奥入瀬渓流が誇る銚子大滝など東北地方の名瀑をめぐる。道中では、田沢湖、十和田湖などの紅葉スポットに、絶品ご当地料理をはじめ今が旬の秋の味覚を味わい、さらに紅葉を愛でながら浸かる絶景の露天風呂なども堪能!

 果たして、紅葉写真のベストショットに選ばれるのはどっちのチームなのか!?  錦秋に染まる名瀑をご覧あれ!
 
【出演者】  金山一彦、マルシア、福井仁美、金子昇、秋野暢子、相沢まき
 
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十和田湖ということで、乙女の像がぜひ写ってほしいものです。
 
 
ところで、以前にも書きましたがもう一度。
 
NHKさんの教養番組「歴史秘話ヒストリア」で、今月26日に「ふたりの時よ 永遠に  愛の詩集「智恵子抄」」というサブタイトルで、光太郎智恵子がメインの回がある予定でした。しかし、さきごろ、台風の緊急報道があった影響で放送がずれ込み、さらに12月は真珠湾攻撃や忠臣蔵など、旬の内容を扱うそうでずらせず、延期になりました。「愛の詩集」ならバレンタインデー、とのことで、来年2月11日(再放送は18日)のオンエアだそうです。
 
 
11/15追記
こういう情報を書いたその日、しかもこの記事を書いている最中、TBSさんの朝の情報番組「いっぷく!」で過日ご紹介した「あだたら恋カレー」や「おっ!PAIぷり~ん」が取り上げられていたとのこと。事前に情報を得られず見逃しました。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月14日
昭和5年(1930)の今日、光太郎の木彫「栄螺」が出品された、大阪の高島屋長堀店で開催されていた「木耀会木彫展覧会」が閉幕しました。
 
木彫「栄螺」。即売会を兼ねたこの展覧会で買い手が付き、以後、行方が判らなくなっていましたが、平成15年(2003)、70余年を経て再び世に出て来ました。
 
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現在は愛知県小牧市のメナード美術館さんに所蔵されています。

昨日、文京区大塚の「第59回高村光太郎研究会」をご紹介しましたが、同じ日に別の学会が開催されす。 

第8回 明星研究会 シンポジウム 巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎

<主催> 明星研究会 <世話人> 平出洸
<後援> 文化学院・毎日新聞社・国際啄木学会・堺市

<協賛> 与謝野晶子倶楽部・与謝野晶子文芸館
 
 明治から昭和初期に至る近代と呼ばれた時代、日本はフランスから詩・小説、絵画・彫刻を中心に多くの刺戟を受けてきました。首都パリにはフランスに憧れる芸術家・文学者が集まり、ひとつのコミュニティを作ってもいます。
 今回は、明治年間にパリを訪れたこうした人々のうち、小説「ふらんす物語」で知られる永井荷風、ロダンに私淑した高村光太郎、そして与謝野寛・晶子夫妻に焦点を当ててみます。20世紀初頭のパリが彼らの価値観をどう揺さぶり、何を発見させ、ときに挫折感を味わわせたか。そして帰国後の彼らはそれぞれの体験を消化しつつ、どういった進展を見せて行くか。
 パリとの邂逅は、日本人にとって今なお魅了される新鮮なテーマです。多くの皆さまのご参加を期待しております。
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●日時● 2014年11月22(土)14時00分~16時30分 (13時30分開場)
●場所● 日比谷コンベンションホール注・前年までと会場が変わりました)
    (千代田区日比谷公園1番4号【旧・都立日比谷図書館】)
●会費● 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)
●定員●200人
●内容●
    Ⅰ 14:00  開会挨拶  西川恵(毎日新聞社客員編集委員)
    Ⅱ 14:05 ~14:50
      第1部 対談「寛と晶子の歩いたパリ」
        永岡健右(日本大学講師) 米川千嘉子(歌人)
    Ⅲ 14:50 ~15:05 休憩
    Ⅳ 15:05 ~16:25
      第2部 鼎談「パリの果実は甘かったか?~晶子・荷風・光太郎」
        今橋映子(東京大学教授) 内藤明(歌人・早稲田大学教授)
        松平盟子(歌人)
    Ⅴ 16:25 閉会挨拶 平出 洸(平出修研究会主宰)
                    総合司会:古川玲子
●申し込み●「明星研究会」事務局あて。
 ネット上での受付は11月21日(金)まで(先着順)。
 宛先メールアドレスはapply(at)myojo-k.net です。
 申し込みの送信をされる際には、
  (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
  (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
  (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
  (二)ご家族同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
●終了後懇親会●4,000円(場所は当日お知らせいたします)

 
要項にあるお名前のうち、「世話人」の平出 洸氏は『明001星』に拠った歌人、平出修の令孫。
 
第2部の鼎談の東京大学教授・今橋映子氏には『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があります。この中に、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項があり、第1章が「乖離の様相―高村光太郎」となっています。だいぶ前ですが、読んでみて「ほう」と思つた記憶があります。
 
体が二つあれば参加したいのですが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月13日
 
大正元年(1912)の今日、『読売新聞』に連載中の『西洋画所見』の中で、夏目漱石に噛みつきました

来週末、文京区大塚にて、「第59回高村光太郎研究会」が開催されます。

第59回高村光太郎研究会

日 時 : 2014年11月22日(土)
時 間 : 午後2時~5時  11/13追記 
場 所 : アカデミー音羽3階学習室A 文京区大塚5-40-15
       東京メトロ有楽町線護国寺駅徒歩2分
 
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参加費  500円
 
<研究発表>
「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」 大島裕子氏(名古屋・高村光太郎談話会
「高村光太郎と雑誌『創作』-自選短歌作品を中心に-」山田吉郎氏(鶴見大学短期大学部教授)
 
研究発表会後、懇親会あり
 
この会、元々は昭和38年に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」に端を発します。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏。
 
ほぼ毎年、この世界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。しかし、そのわりに、参加者が少なく、淋しい限りです。
 
当方、昨年は同じ日に愛知碧南で開催されていた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏のご講演を聴きに行き、欠席しました。今年は参加します。
 
事前の参加申し込み等必要ありません。直接会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。
 
研究会に入会せず、発表のみ聴くことも可能です。会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
ご質問等あれば、はこちらまで。000
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月12日
 
平成12年(2000)の今日、静岡アートギャラリーで開催されていた「高村光太郎の書 智恵子の紙絵展」が閉幕しました。
 
光太郎作品は54点。彫刻は2点のみで、あとは書簡、草稿、色紙、掛け軸などの肉筆もの、そして装幀や題字を手がけた書籍など、「書」にこだわった珍しい展覧会でした。
 
智恵子作品は52点。書簡1通と油絵「ヒヤシンス」の他、紙絵の実物が50点並びました。

佐賀県唐津からの情報です。
 
ネットで調査中、まず、朗読のイベントを見つけました。 
夜がだんだんと長くなってきました。素敵なシャンデリアの下で、ゆったり朗読を聞きませんか?

特別展「四神の書」の出品作品に書かれている詩や、唐津ゆかりの作家・北方謙三氏著「望郷の道」などを
NHK佐賀放送局の武藤友樹アナウンサーと野方美郷キャスターに朗読していただきます。

【 と き 】   平成26年11月15日(土曜日)
【 ところ 】  
唐津市近代図書館(佐賀県唐津市新興町23番地(JR唐津駅南口すぐ)
【 時 間 】  午後6時30分開演 (午後6時15分開場)
【 出 演 】  NHK佐賀放送局 武藤友樹アナウンサー/野方美郷キャスター
【 内 容 】  
  第1部 企画展「四神の書」コラボ朗読
    ・山村慕鳥 詩 「風景-純銀もざいく(いちめんのなのはな)」
    
高村光太郎 詩「金秤」
    ・川端文学集燦文集「雪国」より
    ・萩原朔太郎 詩「竹」
  第2部 私の好きな詩
    ・吉野 弘「祝婚歌」 「夕焼け」
  第3部 唐津ゆかりの作家から
    ・北方 謙三「望郷の道」下から
【 入場料 】  入場料は無料ですが、事前の申し込みが必要です。
【 申し込み方法 】
 近代図書館までお電話(0955-72-3467)もしくは近代図書館3階事務室までお問い合わせください。
  ご家族は連名で申し込みができます。対象は小学生以上です。
【 主 催 】   NHK佐賀放送局・唐津市近代図書館
【 問い合わせ 】  唐津市近代図書館 電話 0955-72-3467
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少し前に、このイベントの情報を見つけたとき、最初は単に朗読のイベントと思っていました。「金秤」(「きんばかり」と読みます)、明治44年の『スバル』に発表され、詩集『道程』にも載った詩ですが、光太郎の詩の中ではマイナーなものです。何でこんなマイナーな詩を……と思っていました。
 
で、よく読んでみると、「特別展「四神の書」の出品作品に書かれている詩や」とあるので、その展覧会を検索してみました。 

比田井天来門下四書家の足跡を辿る 四神の書-上田桑鳩・手島右卿・金子鴎亭・桑原翠邦

期 間  2014年10月18日(土)~11月23日(日)
場 所  唐津市近代図書館 美術ホール
時 間  午前10時-午後6時 ※ 入場は午後5時30分まで
主 催  唐津市近代図書館・四神の書展実行委員会
 
上田桑鳩(1899-1968/兵庫県出身)・手島右卿(1901-1987/高知県出身)金子鴎亭(1906-2001/北海道出身)、桑原翠邦(1906-1995/北海道出身)は、いずれも現代書の父と称される比田井天来(1872-1939/長野県出身)のもとで古典の書を中心に幅広く学び、独自の境地を切り拓きました。

桑鳩は斬新な書の美を追求した前衛書を、右卿は造形性と象徴性を結晶させた象書を、鴎亭は現代にふさわしい書を探求した近代詩文書を、翠邦は古典の書法を踏まえた漢字をと、各ジャンルにおいて名作を残し、一家を成しています。
 
本展では、それぞれの書風を、「鮮烈の桑鳩」「清新の右卿」「躍動の鴎亭」「品格の翠邦」と位置づけ、代表作や臨書により、豊かな個性の源泉や書風の変遷、それぞれの歩みを辿ります。

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「金子鴎亭」の名前が、当方のアンテナに引っかかりました。「この人は、光太郎の詩をモチーフにしている作品を書いている書家だったな」と。
 
さらに、「そういえば、あの本に紹介されていたような……」と、書架から引っぱり出したのがこちら。
 
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石川九楊氏著『書とはどういう芸術か 筆蝕の美学』、平成6年(1994)、中央公論社(中公新書)。
 
光太郎の書について言及されているので購入したものですが、光太郎の詩をモチーフにした金子氏の書についても紹介されていたような……。ありました。
 
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ずばり、「金秤」。ただし、石川氏は否定的に紹介しています。
 
調べてみると、この書は昭和51年(1976)の毎日書道展出品作でした。そして、他の方のブログで、これが今回の「四神の書」に出品されていることもわかりました。
 
というわけで、「シャンデリア朗読会」で「金秤」なのですね。
 
ところで、「四神の書」。全国巡回で、今年5月から6月には釧路市立美術館、8月から先月まで愛知の文化フォーラム春日井ですでに開催されていました。その時点でこの「金秤」出品の情報を得られて居らず、紹介出来ませんでした。当方の情報収集力も、まだまだです。
 
で、現在開催中の佐賀唐津展も、先月からということで、関連行事のいくつかは終了してしまいました。まだ今後開催されるものだけでもご紹介しておきます。
 
●「書の話を聞こう!」-地元書家によるトーク
11月16日(日) 力武宇山氏(佐賀県書作家協会顧問)
テーマ:「四神の書」がめざしたもの
午後2時から(30分程度) ※ 申し込みは不要ですが、当日の入場券が必要です。
●ギャラリートーク
11月22日(土)・23日(日)
各日午後2時から(30分程度) ※ 申し込みは不要ですが、当日の入場券が必要です。
●高校生による「書道パフォーマンス」
佐賀県立唐津東高等学校・佐賀県立唐津西高等学校の書道部生徒による合同パフォーマンスです。どなたでも自由にご覧いただけます。
日時:11月15日(土) 午後3時から(30分程度)
場所:近代図書館前の広場のステージ
 
さらに来月から来年2月にかけ、広島の安芸市立書道美術館に巡回だそうです。近くなりましたらまたご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月11日
 
平成17年(2005)の今日、テレビ東京系「開運! なんでも鑑定団」で、光雲の彫刻「朝日に虎」が鑑定されました。
 
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依頼人は、タレントの山口もえさん。
 
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鑑定金額は……
 
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350万円。本物でした。ただし、表面のひび割れを補修したやり方がよくなく、マイナスの評価。それでも350万です。
 
ここで、光雲の令孫、故・髙村規氏がご登場。背景には光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が写っています。
 
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規氏、何度か髙村家がらみの出品物の際に、この番組に出演されていました。そのため、今年8月のご葬儀の際には「テレビ東京 開運!なんでも鑑定団」として供花がなされていました。
 
ちなみに、これがこの番組で光雲作の本物が出てきた最初の例でした。その後、「衣通姫」が出てきた回もありました。
 
ところで、なぜ山口さんが光雲の木彫を持っているかというと、彼女の実家が翠雲堂さんという浅草の老舗仏具店だからでした。

昨日は、千葉県の八千代市、秀明大学飛翔祭「宮沢賢治展 新発見自筆資料と「春と修羅」ブロンズ本」に行って参りました。
 
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稀覯本コレクターでもある同大学学長・川島幸希氏の集めた貴重資料が惜しげもなく並んでいました。また、ありがたいことに写真撮影可でした。
 
大きな教室を3つ使い、第一室には、宮澤賢治関連。今年9月に報じられた盛岡高等農林学校の同級生だった成瀬金太郎に送ったはがきや在学中のスナップ写真、背表紙に詩集と記されたことが不満で、自らブロンズの粉で文字を消したという『春と修羅』、自筆署名入りの『注文の多い料理店』、などなど。
 
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賢治作品の載った書籍、初出雑誌なども。
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左は文圃堂版『宮沢賢治全集』。昭和9年(1934)から翌年にかけての刊行で、全三巻。光太郎も編者に名を連ね、装幀、題字、装画も光太郎が手がけています。
 
その内容見本に書いた光太郎の「宮澤賢治に就いて」の書き出しは以下の通りです。
 
 宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて来てみると、日本の文学家の中で、彼ほど独逸語で謂ふ所の「詩人(デヒテル)」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一巻を読み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの詩稿を目にし、又その日常の行蔵を耳にすると、その詩篇の由来する所が遙かに遠く深い事を痛感する。
(略)
彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。
 
 最も早い時期に賢治を世に紹介した文章の一つです。
 
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こちらは草野心平が編集・刊行していた雑誌『銅鑼』(昭和2年=1927)。賢治の「イーハトヴの氷霧」が掲載されています。光太郎の作品も。三者の絆を示す象徴的な一冊ですね。
 
第二室は賢治ゆかりの文学者の著書など。当方としてはこちらの方に興味をそそられていました。
 
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光太郎の『道程』私家版。天・地・前、三方の小口に金押しが施されています。さらに遊び紙がたくさん入っており、そこに上の画像の「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る 光」、「道程 高村光太郎」×2の3箇所の識語署名。桐箱が附いており、箱書きは佐藤春夫だそうです。
 
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たまたまこれを見ている時に、川島学長が会場にいらしていて、ガラスケースから出して下さり、展示で開かれている以外のページも見せて下さいました。
 
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説明される川島氏。青いジャケットの方です。
 
通常の『道程』も並んでいました。ただし、カバー附きです。カバー附きは3~4冊残っているかいないか、というものですし(当方もカバーなしは持っていますが)、しかもそのカバーも非常に状態がよいもので、「現存する中で最も状態のよい一冊」というキャプションも大げさではありません。
 
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その他、光太郎とも関連するもの。
 
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萩原朔太郎『月に吠える』。与謝野晶子宛署名入り。
 
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草野心平『第百階級』。光太郎が序文を書いています。
 
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中原中也『山羊の歌』。光太郎が装幀、題字を手がけました。何冊か並んでいて、三好達治宛署名入りもありました。
 
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午後一時からは、賢治の実弟で、賢治作品の紹介に尽力した清六の令孫・宮澤和樹氏の講演、「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。二百人近く聴衆が集まったのではないでしょうか。
 
 
親族という立場からの賢治ということで、非常に分かりやすく、また、興味深いお話でした。特にありがたかったのは、光太郎についてかなり言及して下さったことです。
 
たしかに賢治作品には他に類例が無く、一種独特の世界を形成していますが、賢治ファンの中には、とにかく賢治一本槍で、その周辺には眼を向けない方が多いように感じます。ところが昨日の和樹氏は、そうした世界を広めるために光太郎が果たした役割は非常にありがたかった的なお話をなさり、こちらとしてもありがいかぎりでした。
 

以前にも書きましたが、逆に光太郎が「雨ニモマケズ」を改変したという、いわれのない都市伝説的な記述(それもエラい宗教学者のセンセイが展開しています。あちこちから「光太郎は無実だ」と批判が出ているのに耳を貸そうとしません。「老害」の典型例ですね(笑))も見かけます。そういうことはありませんので、よろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月10日
 
昭和19年(1944)の今日、小山書店から「天平彫刻」が刊行されました。
 
光太郎を含む16人の共著で、光太郎は「天平彫刻の技法について」を執筆しています。
 
編集に当たった美術史家、奥平英雄の回想『忘れ得ぬ人々』(平成5年=1993、瑠璃書房)によれば、
 
このとき製本所から小山書店に届けられたのはごく一部(部数は不詳)で、大半は十一月二十四日の空襲で製本所に在庫のまま灰燼に帰してしまった。マリアナ基地を飛び立ったB29約七十機が東京を初爆撃、神田錦町、鎌倉町一帯を爆撃した際、製本所も災害を被ったからである。こうして苦心の末出来上
った『天平彫刻』も少数を残したまま烏有に帰したのである。したがって僅かに残った初版本は幻の書ともいうべき稀覯本となった。

とあります。

確かにサイト「日本の古本屋」等で調べても、昭和23年(1948)と同29年(1954)の復刻はヒットしますが、19年の初版は登録されていません。
 
しかし、実際のところ、「幻の書」と呼べるかどうか、と感じています。というのは、当方、三回、この本を手にしたからです。
 
まず、カバーなしの状態で購入しました。その後、カバー附きが売りに出ていたのでそれも購入(左下の画像)。カバーなしは神奈川近代文学館さんに寄贈しました。さらにその後、たまたま訪れた名古屋の古書店でも初版を見かけ、手にとってみました。また、国会図書館さんにも所蔵があるようです。
 
どうにも判断が付きかねるところです。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。
 

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昨日は福島の双葉郡川内村にて行われた草野心平忌日の集い、第4回天山・心平の会「かえる忌」に行って参りました。
 
開会が午後3時ということで、いわき市の上小川地区にある、心平の生家とお墓に寄り道をしました。
 
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その後、川内村へ。途中の峠道、それから川内村でも紅葉が実に見事でした。
 
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天山・心平の会の井出氏のごあいさつ、遠藤川内村長の音頭で献杯。
 
前かわうち草野心平記念館長・晒名昇氏、歴程同人・伊武トーマ氏、それから当方も講話。当方は故・高村規氏
の葬儀についてレポートせよとの指令でしたので、その件と、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんから頂いた、十和田湖畔の裸婦像除幕式の動画に心平が写っていたので、そちらを披露しました。
 
その後は懇親会。
 
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参加者お一人ずつスピーチをなさいました。洋行帰りのモンデンモモさん、いわき賢治の会の小野氏などなど。遠くからご参会の方も多く、それぞれに川内村を愛する心が伝わってきました。
 
「かえる忌」、末永く続いてほしいものです。
 
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月9日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を、佐久間晟・すゑ子夫妻が訪問しました。
 
佐久間氏は、仙台市ご在住。警察にお勤めのかたわら、前田夕暮門下の歌人でもあり、その後、宮城県歌人協会の会長も務められました。すゑ子夫人も歌人。お二人とも歌誌「地中海」同人です。
 
当方、ご夫妻と知遇を得、山小屋訪問についての貴重なお話を伺い、光太郎と一緒に撮った写真、光太郎からのハガキのコピーを戴きました。
 
その聞き書きは平成19年(2007)、高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究(28)』に掲載していただきました。ご入用の方、コピーでよろしければこちらまで。

福島は二本松からローカルニュースです。

二本松・東和にご当地グルメ「あだたら恋カレー」誕生

 二本松市の道の駅ふくしま東和は2000日、同市東和地区の新たなご当地グルメ「あだたら恋カレー」のお披露目会を開き、同日から販売を開始した。
 「あだたら恋カレー」は、詩集「智恵子抄」で知られる同市出身の高村智恵子・光太郎夫妻の結婚100周年などにちなみ考案。安達太良山の形をかたどったご飯に二本松産の野菜をふんだんに使い、智恵子抄をもじった洋風七味「智恵こしょう」を振り掛けた味もスパイスも「濃い」カレーに仕上げた。1杯680円(税込み)。
 お披露目会は1、2の両日、道の駅ふくしま東和で開かれた収穫祭に合わせて行われた。本県で活動しているお笑いコンビ「ぺんぎんナッツ」の司会で無料試食会が開かれ、来場者が新グルメを堪能した。
 このほか収穫祭では、新米試食体験や青空フリーマーケット、こども広場などが開かれ、大勢の来場者でにぎわった。
 
福島民友新聞 11月3日(月)
 
 
このニュースでほっこりさせていただきました。
 
同じ二本松にある道の駅「安達」智恵子の里さんでは、安達太良山の「乳首山」という別称から商品化された「おっ!PAIぷりーん」を販売していますが、どちらも二本松名物となってほしいものです。
 
愚妻曰く「レトルトはないの?」。 なるほど、千葉県我孫子市の「白樺派のカレー」のように、ぜひ開発してほしいものですね。
 
十和田からもほっこりするニュースが入っていますが、のちほどご紹介します。
 
ところで二本松といえば菊人形が開催中。今日の地上波フジテレビさんで、菊人形が取り上げられます。といっても、5分間番組ですが(笑)。 

ふくしまてくてく

地上波フジテレビ 2014年11月8日(土)  11時40分~11時45分
 
元気いっぱい魅力あふれる福島の地元の人々だけが知る楽しみ方を伝授します。毎週、地元の名産や街を紹介し、それにまつわる方への取材を交えて放送。ガイドブックには載らない“通"の福島歩き。あなたも、明日、出かけてみませんか?
 
魅力あふれる福島をぶらり散歩。二本松市のランドマーク「霞ヶ城公園」を散策。城内のマニアックな楽しみ方のほか、名物の菊人形も紹介します!
 
出演 宮澤智(フジテレビアナウンサー)
 
放送終了後、次回の放送までの間に、インターネットに動画としてアップロードされるようです。ぜひご覧下さい。光太郎智恵子の人形、会場の霞ヶ城にある光太郎詩碑や智恵子の藤棚なども紹介していただきたいものです。
 
当方、今日は同じ福島の川内村で行われる、草野心平忌日の集い、「第4回天山・心平の会「かえる忌」」に参加して参ります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月8日
 
大正3年(1914)の今日、日光に2泊3日の写生旅行に出かけました。
 
平成12年(2000)、この時描かれた油絵が発見され、大きく報道されました。
 
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ちょうど100年前です。

一昨日、中野鷺ノ宮で、「語り同人《じゃがいも》001」主宰の麦人氏による「一人語り『智恵子とゐふ女』」に行く前、午前中から国立国会図書館に行っておりました。
 
調べ物が主目的でしたが、現在、企画展示「あの人の直筆」が開催されていますので、まずそちらを拝観しました。
 
会場が新館一階とのことで、いつものように本館2階の入り口から入り、新館へ。階段で一階に下りました。しかし、会場に繋がるはずの通路が「関係者以外他通行禁止」になっていました。職員の方に訊いたところ、一度、二階の新館出口を出ないと会場に入れないとのことでした。
 
考えて見れば、企画展示だけ見に来る方のためにそうしているのでしょう。通常の利用で館内に入るには、入館証が必要で、最初に入館証を発行してもらうには面倒な手続きが必要になりますので。
 
下記は簡易図録。A5判15頁で、ありがたいことに無料でした(入場も無料です)。ネットで公開されているよりも詳細な出品目録ももらえます。
 
さて、会場へ。
 
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最初に特別展示ということで、細川ガラシャの書簡。下記は図録から採りましたが、現在は別の書簡が並んでいます。
 
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その後、おおむね時代順にいろいろな「直筆」が展示されていました。事前の告知で目玉として紹介されていた坂本龍馬や中岡晋太郎、高杉晋作などの前には結構人だかりができていました。
 
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時間があればじっくり観たのですが、あくまで調べ物がメインですので、ほとんど横目で見ながら、事前の告知で、光太郎の名があった、ほぼ最後の「署名」コーナーへ。
 
光太郎の「署名」は、昭和17年(1942)刊行の詩集『大いなる日に』でした。見返しに「美は力なり 高村光太郎 昭和十七年七月」と毛筆で識語署名。落款も押してあります。
 
署名として同館が集めたものではなく、たまたま所蔵しているものに署名が入っている、という感じのようです。実際、展示品の多くが、他の通常の所蔵品同様の扱いで、館内のPCを使ってデジタルデータとして見られます。そうなると、真贋の鑑定はどうなっているのかと少し心配になりましたが、大きなお世話でしょうか。
 

その後、主目的の調べ物。000
 
光太郎作品の集成-『高村光太郎全集』に漏れている作品の発掘が、当方の研究のメインです。一昨日は、新聞記事の中で、短い談話を二つ見つけて参りました。いずれ公にします。
 
一つは戦時中のもので、ヘイトスピーチ大好きな右翼(一昨日も議事堂周辺でマイクを持って演説していました。足を止める人もいませんでしたが)が泣いて喜びそうな内容です。こうした「負の遺産」もなかったことにせず、正しく集成せねばなりません。
 
また、当方の刊行している冊子『光太郎資料』執筆のための情報収集も行って参りました。こちらも主に戦時中で、光太郎の詩の中には、数は少ないのですが、歌曲の歌詞として作られたものがあり、それらがどのような経緯で作曲され、公にされたかといった部分が十分に解明されていません。こちらも「負の遺産」的な側面が強いのですが、そのあたりに光を当てることも重要だと考えています。
 
今、調べているのは昭和16年(1941)に作られた「新穀感謝の歌」。信時潔の作曲で独唱歌曲や合唱曲になったり、能の二世観世喜之が謡曲として節附をしたりしています。そのあたりの事情もだいぶわかってきました。こちらもいずれ公にします。
 
さて、企画展示「あの人の直筆」。今月18日までです。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月7日
 
大正14年(1925)の今日、宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)で、光雲の代作「青沼彦治銅像」の落成式が行われました。
 
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像自体は戦時中の金属供出で現存しません。現在は台座と、除幕当時の石の銘板、戦後新たに作られたレリーフが残っています。
 
高さ八尺。これほどの大作は光太郎にしては稀有で、この後、これに近いサイズで作られたのは、四半世紀を経た戦後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」です。

昨日も上京して参りました。まず午前中から国会000図書館へ。開催中の「国立国会図書館平成26年度企画展示 あの人の直筆」を拝観、さらにいろいろと調べ物をして参りました(明日、レポートします)。
 
夕方から中野の鷺ノ宮にて、「語り同人《じゃがいも》」主宰の麦人氏による「一人語り『智恵子とゐふ女』 」を観せていただきました。
 
会場は西武新宿線鷺ノ宮駅近くの「じゃがいも村」。30席ほどのアングラスペースでした。看板に気づかず、一度、前を通り過ぎてしまいました(笑)。狭い空間で、舞台と客席の距離も非常に近く、一体感のある作りでした。
 
午後4時開演。いったん、客席を含め全ての照明が暗転し、再び点いた時には舞台中央、踏み台に腰かけた麦人氏。丸眼鏡をかけ、襟なしのバンドカラーシャツに半纏、晩年の花巻郊外太田村時代の光太郎を意識したであろういでたちです。
 
「亡き人に」をはじめ、次々と光太郎詩を語られていきます。台本を手に読むわけではないので、「朗読」というわけではなく、舞台上を大きく動き回りもされないので、「芝居」とも言えず、「語り」と分類するしかない、一風変わったジャンルでした。
 
 
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扱われた詩は、『智恵子抄』、『智恵子抄その後』を中心におよそ20篇。全篇、台本を見ずほぼ正確に語られ、感心しました。合間に状況を説明するため、やはり光太郎の散文「智恵子の半生」や「智恵子の切抜絵」、「九十九里浜の初夏」などから、こちらは換骨奪胎ですが、それでも長い語りが入りました。詩にしても説明の部分にしても、まるで光太郎自身が語っているような雰囲気が醸し出されていました。
 
当方、今までに、女性による「智恵子抄」の朗読は何度も聴いてきましたが、男性の、しかもこの年代(麦人氏は古稀)の方の「智恵子抄」を聴くのは初めてでした。女性の澄んだ美しい声による朗読もいいものですが、ある意味無骨な麦人氏の「語り」も、実にリアルに感じました。客席で、当方の前に座られていた女性客、お二人ばかりはハンカチで涙を拭いながら聴かれていました。
 
こちらの公演、9日(日)までです。この種のものとしてはロングランですね。まだ空席があるかも知れません。麦人氏サイトに申し込み方等が記載されていますので、ご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月6日
 
明治30年(1897)の今日、光雲が古社寺保存会委員に任ぜられました。

当方の住む関東南部は秋たけなわ。紅葉もこれから見頃です。
 
しかし、北東北はもう冬支度が始まっていることと思います。
 
そういうわけで、岩手花巻の高村光太郎記念館・高村山荘と、青森十和田湖の観光交流センター(愛称「ぷらっと」)が、今月いっぱいで冬期閉鎖に入ります。
 
この冬、花巻や十和田にお越しの皆様、ご注意願います。
 
花巻の記念館の方は、冬期というより、グランドオープンのための改修工事という事情ですが、やはり秋の観光シーズンを終え、冬期をねらったという側面もあるのでしょう。
 
以下、同館サイトからのコピペです。

高村光太郎記念館 リニューアル工事に伴う閉館について

高村光太郎記念館は、光太郎生誕130 年に当たる平成25 年の5 月15 日に旧花巻歴史民俗資料館を活用して暫定的に開館しました。
 
また、平成25 年度に行われた展示設計に基づき、同館では本年度、旧資料庫を含めた建物全体を改修し、より魅力的な展示とするためリニューアルすることとしています。
 
平成26 年12 月1 日より平成27 年4 月中旬まで、記念館は閉館します。      
 
本年12 月より工事を行う予定です。資料等の入れ替えのための期間を含め、本年12月1 日より来年4 月中旬(予定)までの間、高村光太郎記念館は臨時閉館いたします。

大変ご不便をお掛けしますが、ご理解のほどよろしくお願いします。なお、隣接する高村山荘も同期間、冬季閉鎖いたします。
 
閉館中は、まなび学園(生涯学園都市会館)において資料の展示を行います。  
 
高村光太郎記念館の閉館中、まなび学園において同館収蔵資料の一部を展示します。
 
会期は本年12 月上旬からを予定しておりますが、内容や期間など、詳しいことは決まり次第お知らせします。
 
 
来春にはグランドオープンということで、改修計画が進んでいます。より一層充実した施設となることを願ってやみません。
 
 
また、先月、十和田湖畔にオープンした十和田市観光交流センター「ぷらっと」も、11月30日をもって、冬期閉鎖に入ります。
 
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再オープンはやはり来春4月と聞いていますが、こちらはネット上に日時の情報が見つかりません。上記は『広報とわだ』の今月号、オープンの記事です。
 
それぞれ情報が入りましたら、またお知らせします。
 
ちなみに十和田湖といえば、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで、十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)の建立60周年にあたり、記念誌的な書籍の刊行を進めています(当方も一部執筆させていただきました)。同会のサイトで、昨日、その話題がアップされています。ご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月5日
 
昭和27年(1952)の今日、龍星閣『智恵子抄』特装版の製本が完了しました。
 
『智恵子抄』特装版。十和田湖畔の裸婦像制作のため光太郎が帰京した記念、ということで刊行されました。
 
外函のラベルによれば、「最上羊皮丸革朱赤染表装・紺染布函入」、「限定貳百冊」、「但限定貳百冊印刷之内百七十冊製本、参十冊廃棄」、「昭和二十七年十一月五日製本出来」だそうです。
 
こちらが外函。
 
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ぱかっと開けると中函が出てきます。
 
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さらにそれを開けると本体。マトリョーシカ状態です(笑)。
 
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表紙に羊の皮を使っているそうです。昔、この手の皮装本が流行った時期がありました。
 
ところが、奥付を見ると「九月三十日発行」となっています。
 
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一般に、奥付の発行日と、実際に刊行された日が一致しないことは往々にしてありますが、1ヶ月以上もずれているとは、少し不思議です。
 
通常、図書館等のデータは、奥付の日付を公式な発行日とします。しかし、この場合、外函には「十一月五日製本」と明記されています。何だかなー、という感じですね。
 
ちなみに龍星閣さんでは、昭和34年(1959)4月10日には、「皇太子殿下(現・今上天皇)ご成婚記念」で、『智恵子抄』の「紅白版」なるものも出しています。表紙に紅白の布を使っている、というだけですが(笑)。

千葉県八千代市からのイベント情報です。 

「宮沢賢治展 新発見自筆資料と「春と修羅」ブロンズ本」

日 時 : 2014年11月8日(土)10:00~17:00・9日(日)10:00~17:00
場 所 : 秀明大学 1201・1202・1205教室 千葉県八千代市大学町1-1
 
詩や童話を中心に、数々の名作を世に残した日本近代文学を代表する作家、宮沢賢治。
今回の展覧会では、たくさんの人々に愛されている賢治の自筆書簡をはじめ、貴重な初出資料を一般公開します。詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』が刊行されて90年。この展覧会を通して賢治の世界観に触れ、賢治の魅力を感じてください。
会場には喫茶コーナーやグッズ販売もございます。
 
主な展示品
・宮沢賢治新発見自筆資料
・宮沢賢治新発見スナップ写真
・『春と修羅』ブロンズ本/『注文の多い料理店』署名本
・宮沢賢治生前初出雑誌
・「雨ニモマケズ」棟方志功自刻版画
・宮沢賢治とゆかりの詩人・歌人の稀覯本
  石川啄木『一握の砂』尾崎行雄宛署名本 高村光太郎『道程』特装本 
  萩原朔太郎『月に吠える』無削除版 草野心平『第百階級』著者校正本 
  中原中也『山羊の歌』三好達治宛署名本 など
 
関連行事
 講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」 宮澤和樹氏(林風舎代表取締役)
 11月9日(日) 13:00~14:00
 
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秀明大学さんの学園祭・「飛翔祭」中のイベントです。
 
学長の川島幸希氏は、稀覯本コレクターとして有名な方で、当方も購読している『日本古書通信』というマニアックな雑誌に「懐かしき古本屋への讃歌」という連載をお持ちです。以前は同誌で「私がこだわった初版本」という連載もされていました。
 
目玉は賢治の新出資料です。今年9月にその発見が報じられています。
 
 作家で詩人の宮沢賢治(1896~1933年)が友人に宛てた書簡などの未発表資料11点が見つかった。古書収集家の川島幸希秀明大学長が24日発表した。大妻女子大の杉浦静教授は「賢治が宗教に傾倒するなど大きな転機を迎えた1918年前後の消息を示す貴重な資料」と話している。
 発見されたのは、盛岡高等農林学校の同級生だった成瀬金太郎氏に16~20年にかけて送ったはがきや在学中のスナップ写真など。昨年、東京都内の古書店で入手した。
 19年9月21日付のはがきでは、南洋ポナペ島(現ミクロネシア連邦ポンペイ島)在住の成瀬氏に、半紙刷50枚の宗教童話の頒布を依頼。法華経に傾倒し始めた当時の信仰心の強さが読み取れる。
 一方、18年4月18日付の封筒には「(同封の絵はがきを)途中デヌスムモノガアッタラヒドイメニアワセテヤリマシャウ」と記し、「聖人君子のイメージが強い賢治の、おちゃめな一面ががうかがえる」(杉浦教授)。
 このほか、背表紙を自ら塗りつぶしたとみられる「春と修羅」の単行本も発見された。同書を「心象スケッチ」と称した賢治は、背表紙に詩集と記されたことが不満で、ブロンズの粉で文字を消したと別の友人に伝えていた。発見された本は書名や著者名まで粉が塗られ、川島学長は「それだけ否定したい気持ちが強かったのでは」としている。
 資料は11月8、9日に秀明大学(千葉県八千代市)で開かれる宮沢賢治展で一般公開される。(2014/09/24-20:00 時事ドットコム)
 
おまけで(笑)、光太郎や草野心平ら、賢治ゆかりの文学者の稀覯本が展示されます。光太郎は『道程』の特装本。おそらく、先にご紹介した『日本古書通信』の、一昨年4月号で、川島氏が紹介なさっていた、光太郎の識語署名三カ所、三方金、桐箱入(箱書・佐藤春夫)の小数部作られた私家版? だと思われます。
 
心平の『第百階級』(昭和3年=1928)は光太郎が序文を書いていますし、中也の『山羊の歌』(昭和9年=1934)は光太郎の装幀、題字揮毫です。
 
賢治の弟で、光太郎・心平ともども、賢治作品を後世に伝える大きな役割を果たした故・宮澤清六氏の令孫に当たる和樹氏のご講演も貴重な機会です。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月4日
 
昭和30年(1955)の今日、筑摩書房版『宮澤賢治全集』の装幀を終えました。
 
先述の『山羊の歌』など、文学史に残るさまざまな書物の装幀を手がけた光太郎の、最後の装幀作品です。
 
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詳細な指示書も残っています。
 
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「賢さ」は岩手の方言で「賢さん」。光太郎の、岩手で足かけ8年暮らした体験が生きています。ちなみに表紙に「空押し」という技法で陰刻されています。
 
刊行は翌昭和31年(1956)4月25日から32年(1957)にかけて。光太郎没後のことです。巻数の漢数字は、「六」まで光太郎が書いておきましたが、同全集、全十一巻です。では、「七」以降はどうしたのか、というと、草野心平が光太郎の筆跡を真似て書きました。
 
この一事をとっても、光太郎、心平、賢治、三人の深い絆が見て取れますね。

 
新宿駅の東口を出て、すぐ、新装なった新宿中村屋ビルの3階です。
 
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中村屋さんと縁の深かった荻原守衛の関係で、「中000村屋サロン」が形成され、光太郎もこの場所に足繁く通っていたと思うと、感慨ひとしおでした。
 
その守衛や光太郎をはじめ、「中村屋サロン」の芸術家たちの作品が約50点、展示されていました。
 
光太郎の作品は、事前に展示の目玉の一つとして宣伝されていた油絵の「自画像」、それからブロンズの「手」、さらに同じくブロンズの「裸婦坐像」も並んでいました。
 
「裸婦坐像」が出ているのは存じませんで、ちょっと驚きました。信州安曇野の碌山美術館さんで持っているもので、昨年亡くなった鋳金の人間国宝にして、光太郎の実弟・豊周の弟子、故・齋藤明氏の鋳造になるものです。したがって、非常に美しく鋳造されています(全国にいくつかあるこの「裸婦坐像」、残念ながらあまりよい鋳造ではないものも展示されています)。
 
ちなみに碌山美術館さんでは、このほど光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)の小型試作を購入されたそうです。同館ではもともと同じ像の中型試作を所蔵されていますが、今度は小型。さらに展示が充実しますね。
 

閑話休題。出品目録を見ると、他にも碌山美術館さん所蔵のものが全体の3分の1ぐらいを占めており、全面的にご協力なさっているのがよく判りました。
 
図録にも同館学芸員の武井敏氏の執筆した箇所がありました。
 
 
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守衛の彫刻は2点。石膏原型が重要文化財に指定されている代表作「女」、そして守衛パリ留学時代の作品「坑夫」。
 
「坑夫」は、光太郎とも縁の深い作品です。明治40年(1907)、当時ロンドンに居住していた光太郎が、パリの守衛の元に行った際、まだ粘土の状態だったこの「坑夫」を観て感心し、ぜひ石膏に取って日本に持ち帰るよう進言しました。
 
また、碌山美術館に隣接する穂高東中学校さんの前庭に、この「坑夫」が立っていますが、その題字は昭和30年(1955)に光太郎が揮毫しています。
 
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その他、「中村屋サロン」のメンバーだった柳敬助、中原悌二郎、戸張孤雁、会津八一、中村彝、斎藤与里、中村不折など、光太郎智恵子ともいろいろな縁のある作家の作品がずらり。中村屋さん所蔵のものにも優品が多いなと感じました。
 
帰りがけに、図録と、グッズを購入しました。
 
油絵「自画像」のポストカード。
 
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やはり「自画像」、それから「坑夫」も入った4枚組のしおり。
 
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さらにB1階の直営店ボンナさんで、和菓子の「自慢詰合わせ」。
 
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「碌山」というクルミを使ったまんじゅうがありますが、守衛の号の「碌山」から採った名でしょう。当方、子供の頃はそんな事も知らずに食べていました(笑)。
 
会期は来年2月15日(日)までです。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月3日006
 
昭和18年(1943)の今日、武蔵書房から年少者のための詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。
 
単行書としては、光太郎唯一のジュブナイルです。初版と重版は武蔵書房、第三版は同じ紙型を使って、太陽出版社に書肆が替わっています。
 
今日閉幕する「ヨコハマトリエンナーレ2014」で展示されていた『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)同様、戦時中ということで、ある意味読むに堪えない残念な作品も多い、いわば「負の遺産」です。

この詩集こそが光太郎詩の真骨頂、大和魂の顕現、皇国臣民よ刮目して見よ、とありがたがる愚か者が21世紀の現在でもいまだにいて非常に困るのですが(笑)。



新宿中村屋サロン美術館の開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」をレポートしようと思いましたが、明日にします。開催間近のイベントの情報を先に書きます。 

第4回天山・心平の会「かえる忌」

主 催 : 天山・心平の会
日 時 : 2014年11月8日(土) 午後3時より6時まで
場 所 : 福島県双葉郡川内村上川内町分211 小松屋旅館 「蕎麦酒房天山」
会 費 : 2,500円 (食事付)
連絡先 : 天山・心平の会代表 井出茂 0240-38-2033
 
2,008年7月12日から8月31日まで川内村阿武隈民芸館で開催された「高村規写真展-草野心平没後20年記念」をご記憶の方も多いと思います。その写真家で高村光太郎記念会理事長の高村規(ただし)さんが、今年8月13日に心不全のため81歳で死去されました。
第4回「かえる忌」では、高村規さんを偲んで、光太郎・智恵子と宮沢賢治・草野心平を語る会にしたいと思います。講話は、連翹忌運営委員会代表小山弘明氏、前かわうち草野心平記念館長晒名昇氏、歴程の詩人伊武トーマ氏を予定しています。
万障繰り合わせてお集まり下さいますよう、ご案内申し上げます。
 
なお、11月9日(日)、いわき市上小川・常慶寺の草野心平墓参、心平生家で開催される第21回「心平を語る会」(無限夢想の会主催)に参加出来れば幸いです。
 
東京方面から参加の方へ 小松屋旅館1泊の方は各自予約願います。電話番号は連絡先と同じ。
JR東京駅発10:00東北新幹線やまびこ133号 郡山駅着11:19 郡山駅西口出口発川内村行バス11:35 川内村阿武隈民芸館入口着13:00
 
11月9日(日)川内村発自家用車相乗り9:00 常慶寺墓参11:10 心平生家の第21回「心平を語る会」参加11:30~13:30 JR常磐線いわき駅始発14:16特急スーパーひたち号 上野駅着16:36


 
光太郎と親交の深かった詩人、草野心平を偲ぶ「かえる忌」です。場所はモリアオガエルが縁で、心平が愛した川内村。当方、一昨年昨年と参加させていただきました。昨年は講演もおおせつかり、「高村光太郎と草野心平の交流」という題でお話しさせていただきました。
 
昨年の様子は、その後BS朝日さんで放映された「にほん風景物語 福島 川内村・いわき小川郷 ~詩人・草野心平が詠んだ日本の原風景~」で、その模様が紹介されました。
 
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今年は、講演というほどではありませんが、講話ということで、20分ぐらい話せ、と指示が出ました。しゃべってきます。
 
川内村は福島第一原発に近く、まだまだ復興途上の区域です。訪れるだけでも復興支援です。興味のある方、足をお運び下さい。
 
ところでテレビというと、昨日は珍しく、2つの番組で光太郎が少しずつ紹介されました。
 
 
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ゲストの渡辺えりさんが、生前の光太郎と交流があったお父様・正治氏のエピソードを披露されました。
 
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戦時中、武蔵野の中島飛行機の工場に動員されていた正治氏が、空襲による死の恐怖を、光太郎の詩をそらんじることで克服したというお話。残念ながら時間の都合でしょうか、実際に駒込林町のアトリエに会いに行ったお話、山形での講演会でのお話などはありませんでした。
 
 
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今年1月の同じ番組でも扱って下さいましたが、やはり光太郎の「あどけない話」を使って下さいました。
 
ありがたいことです。
 
安達太良山といえば、今日発行の『読売新聞』さんの日曜版に、安達太良山、智恵子の生家がドーンと紹介されています。購読されていない方も、コンビニ等で購入出来ますのでぜひお買い求め下さい。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月2日
 
大正元年(1912)の今日、日本橋三州屋で催された画家、石井柏亭帰国歓迎会に出席しました。

昨日は上京して参りました。
 
目的は二つ。
 
 
先に伺ったのは中村屋さんなのですが、こちらは会期が長いので、後ほどレポートいたします。金子大蔵氏の書の展覧会は明後日までということで、こちらを先にレポートいたします。
 
会場は東京芸術劇場5階のギャラリー1。池袋駅の西口を出てすぐです。
 
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昨日から開始ということで、関係者とおぼしき人も多く、後に詳述しますが、金子氏ご本人もいらっしゃいました。
 
会場に入ってまずドーンと、「道程」。高さは天井まで、横幅は10㍍ではきかないでしょう。
 
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骨太の光太郎の詩句に呼応する、力強い書です。まずこれで圧倒されました。
 
その後も約40点、光太郎の詩句をモチーフにした書が並んでいます。
 
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題材は様々な詩から採られており、詩の全文を書いたものもあれば、一言だけを取り出したものもあり、大幅もあれば、色紙大の小品もあり、バリエーションに富んでいます。
 
モチーフに使われている詩は、最初は「道程」でしたが、その他は「鐵を愛す」、「花のひらくやうに」、「最低にして最高の道」、「火星が出てゐる」など、むしろ光太郎詩の中ではあまり有名でないものがほとんどでした。「あどけない話」、「レモン哀歌」、「ぼろぼろな駝鳥」などのメジャーどころはありません。
 
ミュージシャンのベストアルバム的な選び方でなく、あまり知られていない詩でも、いい言葉はいい、と、そういう採択の仕方に好感が持てました。
 
図録から画像を拝借します。やはり力強い筆致のものが多いのですが、逆に薄い墨で流れるように書かれたものも。それぞれに詩句の内容を意識して、いろいろ書き分けられているようです。
 
観ている方々の中から、「これ、ほしいな」という声が聞こえました。
 
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ひととおり観たあと、金子氏とお話しさせ001ていただきました。長身のイケメンでした(笑)。
 
昔から光太郎詩が好きだったとのこと、光太郎詩を題材にすればいくらでも書ける、的なことをおっしゃっていました。光太郎の詩句には、ご自分が年齢を重ねることで(といっても氏は昭和48年(1973)のお生まれなので、まだ40代はじめですが)、解釈が変わってくるとも。
 
やはり光太郎作品は、いろいろな分野の表現者の表現意欲を刺激するのだな、と、改めて感じました。
 
ちなみにこの書展、『毎日新聞』さんで取り上げられ、「書の可能性を探ろうとするさまざまな試みに書人の真摯(しんし)な思いが感じられるだろう。」との評でした。
 
非常に残念なのですが、会期は明後日までです。もっと長期間にして、多くの皆さんに観ていただきたいのですが……。
 
入場は無料。図録は700円也、です。
 
ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月1日
 
昭和25年(1950)の今日、山形の料亭野々村で開催された山形新聞社主催の美術講演会で、「日本に於ける美の源泉」と題して講演を行いました。
 
翌日は山形市教育会館美術ホールで講演しています。
 
昨日もご紹介した女優の渡辺えりさんのお父様、渡辺正治氏は、このどちらかの講演を、交際中だったえりさんのお母様と一緒に聴きたくて、鼻の手術で入院中だったお母様の病室に窓から忍び込み、無理矢理連れ出し、顔に包帯を巻いた寝間着姿のお母様と並んで聴かれたそうです。

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