最近のいただきもの、2回目です。
青森市ご在住の彫刻家・田村進氏から、なんと、彫刻をいただいてしまいました。
一昨年の作品で、「レリーフ習作・巨星光太郎」。光太郎の肖像彫刻です。
大きさは38㌢×28㌢、材質はブロンズで、ずしりと重たいものです。材料費だけでも何万円とか……。恐縮です。
昨年の連翹忌にて、画像を大きく拡大したものをパネルに入れ、会場内に展示いたしました。もとは昭和24年(1949)10月、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた写真家の濱谷浩が撮影した下記の写真をモチーフにしています。
光太郎、数え67歳です。
美術雑誌『花美術館』の昨年4月号に、この彫刻が大きく紹介されています。
そちらから引用させていただきます。
類稀なる一人の芸術家には、そこへ至る道筋が神の計らいの如く予(あらかじ)め用意されているのではないだろうか。然るべき時に、出会うべくして出会う人物、その作品と書物、諸々の事象までもが綿密に配線された”芸術の糸”で硬く結ばれ、やがて自己世界の確立と昇華の時を得る。田村氏と光太郎の出会いはまさに”神のはからい”のそれであった。本作は、光太郎との強い縁(えにし)で結ばれた魂の軌跡が深く刻まれ、敬慕なる純正の輝きが奥深い世界から煌めきを放っている。本作は、光太郎の芸術と人となりを再び掘り起こし、心に刻み続けてきた崇敬の念、この心震わす繊細な表現に、光太郎と初めて出会った氏の心の昂(たかま)り、感慨が我々の胸奥にも甦るかのようだ。光太郎は七十三才のまま氏が年長になる程に長年温めてきた氏の計らいが見事成就し、実に味わい深い。これも神の計らいやも知れぬ。
田村氏は昭和28年(1953)10月21日の、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の除幕式にご参加、さらにその2日後に青森の野脇中学校で行われ、光太郎も演壇に立った文芸講演会で光太郎の講演を聴かれたそうです。
さらに田村氏は、光太郎の、レリーフではない胸像も制作されています。題して「冷暖自知光太郎山居」。こちらも完成し、鋳造にまわされたとのこと。
さて、レリーフ。こんな立派なものを私するのは申し訳ありません。広く皆様に観ていただきたく存じます。そこで、来年4月2日の連翹忌では展示するつもりですし、御依頼があれば貸し出し等も行いたいと思います。こちらまでご一報下さい。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月30日
昭和51年(1976)の今日、瑠璃書房から奥平英雄著『晩年の高村光太郎』が刊行されました。
奥平は東京国立博物館に勤務していた美術史家。十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため上京した中野のアトリエに足繁く通い、晩年の光太郎に親炙しました。その回想録です。
元は昭和32年(1957)に二玄社から刊行されましたものですが、復刊。限定140部、二重函、天金の特装本も刊行されました。
特装本には付録として、カセットテープがついています。こちらは昭和28年(1953)12月の録音。奥平と光太郎の対談です。「彫刻と人生」のタイトルで、翌年1月、ラジオの文化放送でオンエアされました。光太郎の肉声が聴ける貴重な資料です。