5月29日、午後1時半。与謝野晶子ゆかりの堺市覚応寺にて、晶子命日の集い・第32回白桜忌が開催されました。




昨年も書きましたが、やはり寺院での開催と言うことで、本格的な読経があったりと、仏教色の強い催しですが、地元の方々による献歌などやコーラスなどもあり、堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。われらが光太郎に関しては、東京出身とはいえ、東京都民に「おらが光太郎」という意識はほとんどないと思います。
後半は与謝野夫妻の研究者・逸見久美先生のご講演、「想い出すままに……与謝野晶子・寛の研究より」でした。失礼ながら、先生は大正時代のお生まれですが、まだまだエネルギッシュにご活躍なさっています。勉誠出版さんで編刊されている『鉄幹晶子全集』は、本文篇は完結したものの、まだ続くそうです。

しかし、その先生がお若い頃には、与謝野晶子を研究対象にするなど、いかがなものかという空気があったそうです。まるで安藤緑山の牙彫などの明治工芸のようだな、と感じました。さらにそれより昔、それこそ『みだれ髪』のころには破廉恥極まりないといった評もされていたわけで、そう考えると、時代と共に評価が変わって行くのだなと実感させられました。光太郎智恵子の世界は、この後、どのように評価されて行くのでしょうか。
やはり周辺人物との関わりの中での光太郎像といった点にも、もっと目を向けなければ、と思うので、与謝野夫妻にももう少し目を向けようと思いました。
終了後、楽屋(?)で逸見先生にご挨拶、先月の連翹忌にご参加下さった御礼を申し上げ、来年もご参加下さるお約束を取り付けました。その後、高村光太郎研究会の西浦基氏にまた車を出していただき、南海線の堺東駅まで送っていただいて、帰路につきました。非常に有意義な大阪行きでした。
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月31日
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋の畑にキュウリの種を蒔きました。

















































「御風と高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。






































刊行された『高村光太郎山居七年』という書籍の復刻版も刊行しています。









当日は当方手持ちの
















。生家は材木商や茶の輸出も手がけていたそうです。「丈二」という名は、父・清兵衛が、尊敬する合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンからとったとのこと。大正時代に中央大学、専修大学などに通いましたがともに中退。岸田劉生らの草土社に参加し、まず画家として名をなしました。





そうではない佳品もたくさん存在するのです。今回の三井記念美術館さんの展覧会を観ればよくわかると思います。ぜひ足をお運び下さい。
18室の入り口近くに「老人の首」がありました。同じ型から作ったものは、昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも並んでいたのですが、こちらの方が古い鋳造のようです。





