2014年04月

福島二本松からイベント情報です。

第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程

後 援 : 二本松市他
期 日 : 2014年5月18日(日) 午後2時~
会 場 : 二本松市コンサートホール 二本松市亀谷1-5-1
料 金 : 前売2,000円 当日2,500円 
 込 : 熊谷さん 0243-23-6743
出 演 : 菅原美智子(ラジオ福島アナウンサー) 宮川菊佳(ギタリスト)
      河田富士雄(ナレーター)
 
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5月20日が智恵子の誕生日ですが、それを記念してのイベントです(一昨年も同様のイベントがありました)。「今年、平成26年(2014)は、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です」と、当方がさんざん騒いだためか、それらの記念事業という冠をつけて下さいました。
 
ギターの宮川さんは、連翹忌や女川光太郎祭のご常連。継続して光太郎智恵子関連のイベントに取り組まれていて、頭の下がる思いです。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月30日

昭和22年(1947)の今日、雑誌『農民芸術』に散文「玄米四合の問題」が掲載されました。
 
「玄米四合」というのは、光太郎もその発見の場に立ち会った宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。そこに表された賢治の精神を評価しつつ、光太郎はその度を過ぎたストイックな面には同意しませんでした。
 
私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも必ず肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」の問題は重大である。
 
そして、こんなことも。
 
私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の体格を数代に亘つて改善したい。
 
戦後間もない時期、精神論ではなく合理的、科学的に考えていた光太郎に敬意を表します。
 
しかし、「メタボ」や「ダイエット」の語が氾濫するこの国の現状を見たら、賢治や光太郎はどう思ふのでしょうか……。

注文していた雑誌が届きました。『新潮45』3月号。
 
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一昨日のブログでふれたノンフィクション作家の大野芳氏の「《歴史発掘》ヨーロッパを席巻した幻の女優「マダム花子」」が掲載されています。
 
全14ページで、ロダンや光太郎と縁のあった日本人女優・花子の伝記です。短いながら、最近の調査でわかったことなども盛り込まれています。
 
3月号ですので、もう店頭には並んでいませんが、新潮社さんのサイト、Amazon、雑誌のオンライン書店・Fujisan.comなどで入手可能です。
 
『東京新聞』さんの連載と併せ、単行本化を希望します。
 
単行本といえば、昨秋、講談社さんのコミック誌『月刊アフタヌーン』で連載が始まった清家雪子さんの漫画「月に吠えらんねえ」の単行本第1巻が発売され、こちらも入手しました。
 
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講談社さんサイトより。
 
実在した詩人の自伝ではなく、萩原朔太郎や北原白秋らの作品から受けた印象から作者像をイメージした、全く新しい、いわば真の二次創作ともいえる手法で創作された、詩人と近代日本の物語。
⟨(シカク:詩歌句)街。そこは近代日本ぽくも幻想の、詩人たちが住まう架空の街。
そこには萩原朔太郎、北原白秋、三好達治、室生犀星、与謝野晶子、斎藤茂吉、若山牧水、高浜虚子、石川啄木、立原道造、中原中也、高村光太郎、正岡子規らの作品からイメージされたキャラクターたちが、創作者としての欲望と人間としての幸せに人生を引き裂かれながら、絶望と歓喜に身を震わせ、賞賛され、阻害され、罪を犯し、詩作にまい進する。

『秒速5センチメートル』『まじめな時間』で高い評価を得た清家雪子の、これまでのイメージを一新し、一線を踏み越えた、狂気と知性と業の物語!
 
シュールです。萩原朔太郎をモデルとした主人公・「朔くん」を中心に話が進みますが、朔太郎の詩そのままに(それ以上に)幻想的な世界です。光太郎と智恵子をモデルにした「コタローくん」「チエコさん」も登場します。
 
こちらは新刊書店に並んでいます。ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月29日

平成10年(1998)の今日、ジャパンイメージコミュニケーションズからVHSビデオ「日本詩人アルバム 詩季彩人⑩ 高村光太郎・竹久夢二」が発売されました。
 
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いわゆるヒーリング系のもので、非常に健康的です(笑)。
 
ジャケット解説文から。
 
 日本が生んだ言葉の精鋭達、詩人。その世界の一端に静かに触れてみる。
 美しい日本の風景にのせておくる一編の詩は、あなたに忘れていた何かを思い出させてくれるでしょう。人間故の苦しみ、喜び、悲しみ、憤り、歓喜、悲哀、そして慈しみと癒し。「詩季彩人」は、喧噪を離れ、静かに詩人達の言葉のリズムに心をゆだねる時間を提供します。
 
やはりAmazonさんなどで入手可能です。もっとも、みなさんそろそろVHSビデオのプレーヤーもほとんど使わなくなっているのではないかとは思いますが……。

ご存知上野の東京国立博物館さん。
 
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企画展や特別展というわけではないのですが、現在、光雲・光太郎父子の作品が同時に展示されています。
 
場所は本館18室。同館は収蔵品数も厖大なため、展示の入れ替えも頻繁にやっています。展示は適当に並べるわけでなく、部屋ごとにコンセプトを明らかにし、関連のある作品をまとめる形をとっています。
 
で、現在、本館18室では「近代の美術」ということで、33件の作品が並んでいます。以下、同館サイトから。
 
近代の美術
本館 18室  2014年4月15日(火) ~ 2014年5月25日(日)
明治・大正の絵画や彫刻、工芸を中心に展示します。明治5年(1872)の文部省博覧会を創立・開館のときとする当館は、万国博覧会への出品作や帝室技芸員の作品、岡倉天心が在籍していた関係から日本美術院の作家の代表作など、日本美術の近代化を考える上で重要な意味を持つ作品を数多く所蔵しています。これら所蔵品から明治、大正、そして昭和の戦前にかけた日本近代の美術を紹介します。
 
光雲作品は重要文化財の木彫「老猿」(明治26年=1893)。光太郎作品はブロンズの「老人の首」(大14=1925)です。
 
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他にも上村松園「焔」、黒田清輝「読書」、土田麦僊「大原女」など、近代美術の至宝が目白押し。同館のブログでは「日本の近代美術の全貌を見ることができる部屋」と書かれています。
 
当方、連休谷間の明後日あたり、三井記念美術館「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」と併せて観に行こうと思っています。
 
みなさんもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月28日

大正15年(1926)の今日、日本橋柳屋ソーダ・ファウンテンで、来日したフランスの小説家、シャルル・ヴィルドラック夫妻の歓迎会に出席しました。
 
ヴィルドラックはロマン・ロランと親しく、この時期光太郎は片山敏彦らと「ロマン・ロラン友の会」を結成しており、同会主催で行われました。
 
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後列左から二人め光太郎、片山敏彦、右端尾崎喜八
前列左から2人め倉田百三、ヴィルドラック夫妻、高田博厚

板橋区在住の坂本富江さまから情報を頂きました。
 
『東京新聞』さんにノンフィクション作家・大野芳さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」という連載があるとのことで、切り抜きも送って下さいました。
 
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だいぶ前のこのブログでご紹介しましたが、「ハナコ」とは明治末から大正にかけ、欧州各地で日本人一座を率いて公演を続け、各地で絶賛された日本人女優です。
 
明治元年(1868)、岐阜県の生まれ。本名・000太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年(1906)、ロダンの目にとまり、彫刻作品のモデルを務めます。
 
花子とロダンとの交流は、大正6年(1917)のロダン死去まで続き、ロダンが作った花子の彫刻は数十点。大正10年(1921)、花子はそのうち2点を入手し帰国、岐阜に帰ります。
 
ロダンと関わった数少ない日本人の一人というわけで、昭和2年(1927)、光太郎が岐阜の花子を訪問。この時の様子は同じ年、光太郎が刊行した評伝『ロダン』に描かれています。
 
昭和20年(1945)、花子、死去。やがて人々から忘れ去られていきます。
 
大野さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」、ドナルド・キーンさんによる花子遺族の訪問を軸に描かれていますが、光太郎と花子の交流についても触れられています。連載の6回目にあたる4/22には、光太郎から花子宛の書簡の写真が掲載されていました。
 
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さて、ネットでいろいろ調べてみたところ、大野さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」は系列の『中日新聞』さんでも連載されているようですし、新潮社さんから刊行されている雑誌『新潮45』の4月号に大野さんの同名の記事が載っています(早速注文しました)。
 
「花子」といえば朝ドラの「花子とアン」での村岡花子さんが旬ですが、もう一人の「花子」にも注目していただきたいものです。ちなみに余談になりますが、「花子とアン」、当方の住む千葉県香取市でもロケが行われています。 吉高由里子さん演じるヒロインの花子が、初恋の相手の帝大生に別れを告げるシーンや、花子のお父さん役の伊原剛志さんが社会主義伝道をしているシーンなど。
 
さて、記事を送って下さった坂本富江さんは、智恵子も所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの会員です。来月には第110回太平洋展が開催され、坂本さんは智恵子の故郷・二本松に近い三春の滝桜の絵を出品なさるとのこと。
 
会場は六本木の国立新美術館、会期は5/14(水)~26(月)です。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】4月27日

明治24年(1891)の今日、光雲が東京美術学校から「楠正成銅像」模型主任を命ぜられました。
 
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新刊です。といっても、2ヶ月程経っていますが……。 

詩的思考のめざめ

2014年2月20日 阿部公彦著 東京大学出版会刊行 定価2,500円+税
 
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内容紹介
名前をつける,数え上げる,恥じる,などの切り口から日常に詩のタネを探してみよう.萩原朔太郎,伊藤比呂美,谷川俊太郎といった教科書の詩人のここを読んでみよう.詩的な声に耳を澄ませば,私たちと世界の関係がちがったふうに見えてくる.言葉の感性を磨くレッスン.

主要目次
はじめに――詩の「香り」にだまされないために
I 日常に詩は“起きている”――生活篇
第1章 名前をつける――阿久悠「ペッパー警部」,金子光晴「おっとせい」,川崎洋「海」,梶井基次郎「檸檬」ほか
第2章 声が聞こえてくる――宮沢賢治「なめとこ山の熊」,大江健三郎『洪水はわが魂に及び』,宗左近「来歴」
第3章 言葉をならべる――新川和江「土へのオード」,西脇順三郎『失われた時』,石垣りん「くらし」
第4章 黙る――高村光太郎「牛」
第5章 恥じる――荒川洋治『詩とことば』,山之口貘「牛とまじない」,高橋睦郎「この家は」
II 書かれた詩はどのようにふるまうか――実践編
第6章 品詞が動く――萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」
第7章 身だしなみが変わる――伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」
第8章 私がいない――西脇順三郎「眼」
第9章 型から始まる――田原「夢の中の木」ほか
第10章 世界に尋ねる――谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか
読書案内
おわりに――詩の出口を見つける
 
著者の阿部氏は東大文学部准教授。「東大」というブランドをありがたがるわけではありませんが、なかなかおもしろい論考集です。
 
上記目次で目立つようにしましたが、光太郎詩「牛」が扱われています。章の題が「黙る」。これはどういうことでしょうか。実際に引用してみます。
 
人は大きい声を出すことで、強く言おうとする。しかし、より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある。「牛」という作品はその境地を目指したものと思えます。牛が体現しているような黙ることの強さを、詩の中に何とか表そうとしている。
 
「牛」という詩は、大正2年(1913)の作。光太郎の詩の中では有名な部類に入りますので、、ご存知の方も多いのではないでしょうか。全部で115行もある長大な詩です。で、115行、「牛はのろのろと歩く」に始まり、最終行の「牛は平凡な大地を歩く」まで、とにかく農耕用の牛の描写に徹しています。
 
   

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く000
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない005
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く

何処までも歩く
自然を信じ切つて

自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ003
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも

十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける

牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。
 
いわば、声高な作者の主義主張は語られていません。しかし、それがかえって効果をもたらしています。愚鈍にゆっくりと歩み続ける牛の姿に、光太郎の姿がオーバーラップします。当方、阿部氏はそうした点を「より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある」と解釈しているのだと読み取りました。
 
是非お買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月26日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋周辺で、野草をスケッチしました。
 
太田村時代、スケッチはこの日に限らずよくやっていたのですが、とりあえず「今日」のできごとということで……。
 
こうしたスケッチは後に昭和41年(1966)、中央公論美術出版から『山のスケッチ』として刊行されました。
 
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東京渋谷の東急百貨店本店で、昨日から下記のイベントが始まりました。

秀作彫刻展

 場 : 東急百貨店渋谷本店 8階 美術ギャラリー  渋谷区道玄坂2-24-1
 期 : 20144月24日(木)~30日(水)
 間 : 10時~19時 最終日は17時閉場
 
木のぬくもりを十分に活かした木彫やブロンズ像などを一堂に集め、展示販売いたします。
 
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展覧会、というより展示即売会です。
 
上記画像にあるとおり、光雲の木彫「阿倍仲麻呂」が出品されています。税込み864万円……。光雲の真作であれば、このくらいの値段はつきます。ただ、何をもって真作とするか、というと微妙な問題をはらみます。
 
光雲には弟子が多数いました。山崎朝雲、米原雲海など、のちに大成し、有名になった弟子もたくさんいましたし、無名のまま終わった弟子はそれ以上に多かったと思われます。
 
ちょっと変わった所では、昭和11年(1936)に猟奇的な殺人事件をおこして世間の耳目を集めた、かの阿部定のヒモだった女衒・秋葉正義も一時期ではありますが、光雲の元で木彫を学んでいたとのこと。
 
そうした無名の弟子はなかなか生活が苦しく、その援助のため、ほとんど弟子が作った作品の仕上げだけを光雲が行い、「光雲」のクレジットを入れてやったこともあるというのです。そうすることによって、市場価格が上がる仕組みです。もちろん、光雲がその上乗せ分をピンハネしていたわけではなく、弟子の実入りにしてやっていたわけです。
 
そうした弟子の手がほとんど入っていない作品の場合、「高村」でなく「高邨」と銘を入れたらしいという説もあります。
 
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といっても、光雲生前には、作品の値段もそれほどではなかったようです。光太郎の回想によれば、光雲は「1日の手間賃がいくら、この作品は何日かかったからいくら」という計算で価格を決め、それもたいした値段をつけなかったといいます。曰く「俺にゃ、そう高く取る度胸はねえ」と、江戸っ子の職人の気概を終生持ち続けたとのこと。
 
ところが、客との間に入る商人がマージンを高く取ることがあったそうで、光雲歿後にはそうした美術商が何軒かつぶれたという話も残っています。
 
さて、864万円……。泉下の光雲は苦笑しているのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月25日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外湯口村(現・花巻市)の円万寺を来訪、一緒に奉納の神楽を見物しました。
 
当時、円万寺には、チベットで修行した経験を持つ僧・多田等観が疎開していて、親密に交流しており、光太郎の暮らす太田村山口の山小屋から5㎞以上ありましたが、ときおり行き来していました。
 
円万寺は小高い山の上にあり、登っていくのは大変です。光太郎もこの日の日記に「観音山正面の石段をのぼる。くたびれる。」と記しています。
 
ただ、それだけにここから見るながめは絶景です。下記は花巻市観光協会さんのページから拝借しました。
 

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一昨日、信州安曇野碌山美術館さんで開催された第104回碌山忌に行って参りましたが、その前に立ち寄った所があります。
 
同じ安曇野市にある臼井吉見文学館さん。
 
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臼井吉見は編集者、作家。やはり安曇野の生まれです。
 
昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊、編集長に就きます。
 
『展望』には、発刊の年に詩「雪白く積めり」が掲載された他、翌昭和22年(1947)には20篇からなる連作詩「暗愚小伝」が載るなど、光太郎作品がたびたび掲載されました。
 
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「暗愚小伝」は、ある意味、光太郎のターニングポイントになった作品群です。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
「暗愚小伝」の載った号に記された「編輯後記」で、臼井はこう書いています。
 
 つづいて二回の戦火に遭ひ、遠く岩手の山奥にみづからの手でしつらへた住ひに孤坐する高村光太郎氏が、想を構へること二年間、稿成つて珠玉二十篇を寄せられたことは感謝にたへない。歌ふところは孤独な老詩人の生涯の精神史であり、題して暗愚小伝といふ。電燈のつかない山小屋の榾火のあかりで鏤骨の推敲を重ねられた夜々をおもひ感慨なきを得ない。この詩人の数多い詩業のなかで本篇の占める特異な位置と意味については贅言するに及ぶまい。
 
掲載誌の編輯後記ということもあり、ここでは褒めています。しかし、これは言わば「建前」。昭和48年(1973)に有精堂から刊行された「日本文学研究資料叢書 高村光太郎・宮沢賢治」所収の「高村光太郎論」では、「本音」が出ています。
 
詩稿を手にして、ぼくはいたく失望したことをいまでも覚えている。これをかきあげないかぎり、一行も他の文章はかけないとまで言われ、骨にきざむ思いで苦心されたものであっただけに、いたましい思いなしには読み通せないものであった。そこには詩のリズムは消え失せて、説明ふうの言葉だけが並んでいたといっても過言ではなかった。
 
編集者というもの、なかなか一筋縄で000はいかないものです。
 
さらに臼井は、昭和39年(1964)から、実に10年かけて長編大河小説『安曇野』全五巻を書きました。新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、荻原守衛、井口喜源治ら、安曇野に生きる人々の群像が描かれています。
 
第二部では守衛との絡みで光太郎も登場します。
 
さて、安曇野市臼井吉見文学館さん。
 
その『安曇野』の原稿をはじめ、臼井の遺品や著書、蔵書、揮毫、書簡などが展示されています。平日ということもあり、他に入場者もなく、学芸員の方が細かく説明して下さいました。ありがたいかぎりでした。
 
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光太郎の原稿や、臼井宛の書簡の類はないかと期待していたのですが、そういうものはないとのこと。その点は少し残念でした。
 
安曇野方面には、他にも光太郎とゆかりのあった人物に関わる文学館、美術館のたぐいがたくさんあります。これからも、毎年、碌山忌にはお邪魔すると思いますので、そうした施設を毎年少しずつ制覇していきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月24日

平成9年(1997)の今日、NHK総合テレビで放映された「夢用絵の具」で、智恵子が扱われました。
 
サブタイトルは「ふたつの緑 高村智恵子」。003
 
この番組は毎回一つの「色」を軸に、その色と関わりの深い一人の人物をからめて描くというコンセプトの45分番組でした。平成8年(1996)の11月に単発で、その後、同9年の4月から翌年3月まで1年間、毎週木曜日の夜に放映されました。
 
MCは堺正章さん、大島さと子さん、テーマソングは辛島みどりさん。智恵子の回のゲストは浅野ゆう子さんでした。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる光太郎の評論、「緑色の太陽」に触発され、画家への道を目指す智恵子。しかし太平洋画会では、師・中村不折に人体を描くのに緑の多用は避けるべき、とたしなめられます。
 
絵画制作に絶望後、心を病んだ智恵子が作り始めた紙絵。そこにも鮮やかな緑が……。
 
平成10年(1998)には、好評だった回の内容をまとめた『夢用絵の具 心を染めた色の物語』(中村結美/夢用絵の具プロジェクト著、駿台曜曜社)が刊行されました。

昨日、信州は安曇野に行って参りました。光太郎の朋友・荻原守衛(碌山)の忌日・碌山忌だったためです。
 
会場は安曇野市の碌山美術館さん。
 
昨年は雪だったことを思い出し、ヒヤヒヤしながらハンドルを握りましたが、今年は大丈夫でした。ただし、夕方にはやはり寒いと感じましたし、帰りの道中、八王子付近では土砂降りの雨に見舞われました。
 
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先週の福島同様、まだ桜の花が残っていました。ヤマブキや連翹も花盛り。
 
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こちらは館の庭にある光太郎の詩碑ですが、右上に連翹が写っているのがおわかりでしょうか。以前は気がつきませんでしたが、光太郎詩碑があるから連翹を植えて下さっていたとしたら、ありがたいことです。
 
午後3時頃、碌山美術館さんに到着。所館長、学芸員の武井氏、それから今年の連翹忌にご参加下さった五十嵐理事といった顔なじみの方々にお出迎えいただきました。
 
まずは碌山館で、今年1月と2月にテレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられた絶作の「」をはじめ、1年ぶりに守衛の彫刻の数々を拝見しました。
 
第一展示棟では、光太郎ブロンズ。昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」でお借りした「腕」、「園田孝吉胸像」、それから「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」、「手」、さらに新しく購入した「倉田雲平胸像」。
 
第二展示棟では、企画展「小品彫刻の魅力ー動きの表現-」が昨日から始まり、ここにも光太郎の「裸婦坐像」が展示されていました。他には橋本平八、戸張孤雁など。
 
下の画像は館で販売しているポストカードです。
 
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午後4時、例年通り車に分乗して、守衛の墓参。現地で荻原家当主の義重氏から興味深いお話を色々うかがえました。守衛の墓標は画塾・不同舎の先輩、中村不折の筆になるものですが、「故荻原守衛君之墓」と書かれた揮毫から、遺族が違和感を感じて「君」の字を除いたとのこと。その「君」の字だけ、荻原家に伝わっていたそうです。他にも荻原家が改宗して、戒名も変わった話など。
 
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墓参の後、再び館に戻り、午後5時から学芸員の武井氏による研究発表会。
 
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明治41年(1908)、欧米留学から帰る途中で立ち寄ったイタリア、ギリシャ、エジプトでの足取りと、その時に描かれたスケッチブックに関する考察でした。帰国時の守衛の足取りはまだ不明な点が多いそうです。ただ、スケッチブックにはギリシャのアクロポリスやエジプトのピラミッドも描かれているとのこと。
 
ちなみに光太郎は翌年帰国しましたが、ほとんど船中無一文だったため、寄港地のどこにも上陸しなかったそうです。
 
後述する「碌山を偲ぶ会」の席上でも、参会者の方からお話が出ましたが、守衛は日本郵船の因幡丸で明治41年(1908)の3月13日に日本に着いたらしいとのこと。
 
当方、一昨年、高村光太郎研究会の研究発表で、やはり欧米留学時の光太郎の船旅について発表した関係で、そうした船を巡る話は興味深いものがありました。
 
午後6時15分。館内のコテージふうの施設、グズベリーハウスにて、「碌山を偲ぶ会」。昨年に引き続き、お邪魔しました。
 
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はじめに光太郎の詩「荻原守衛」(上記の詩碑に刻まれています)を参会者全員で朗読。光太郎にふれていただき、ありがたいかぎりでした。
 
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その後は会食しつつ、いろいろな方のお話を聞いたり、当方もスピーチをしたり、ヤマハの文化財級のオルガン伴奏で「ふるさと」をみんなで歌ったりと愉しい時間を過ごしました。
 
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午後8時過ぎ、散会。一路、千葉の自宅に帰りました。
 
碌山忌、今年で104回目だそうです。ということは、まだ58回の連翹忌と違い、もう守衛本人を知っている方はいらっしゃいません(連翹忌でも光太郎本人を知っている方はだいぶ少なくなりましたが)。それでも地元・安曇野の方々を中心に、守衛の魂を受け継いでいこうという気概が感じられます。末永く続けていって欲しいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月23日

平成20年(2008)の今日、故・小沢昭一さんのCD「昭一爺さんの唄う童謡・唱歌」がリリースされました。
 
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光太郎作詞、飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩く歌」が入っています。
 
以下、小沢さんが亡くなった一昨年のこのブログからコピペです。
 
この歌が作られたのは昭和15年(1940)、オリジナルのレコードとしては「侍ニツポン」「隣組」なども歌った徳山璉(たまき)によるものなどがビクターから発売され、ヒットしました。
 
また、曲と曲の合間には、小沢さんの語りによるそれぞれの曲の解説など。「歩くうた」に関しては「しつこい歌」とおっしゃっています。たしかに、全部で4番まであり、その中で「あるけ」という単語がなんと48回も出てきます。
 
しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、このCDでは1,2番のみが歌われています。
 
光太郎自身、しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、後に詩集『をぢさんの詩』に収録した際、歌としての3番をカットしています。

テレビ放映情報です。

にほんごであそぼ

NHKEテレ 2014年4月28日(月)  6時35分~6時45分 
      再放送 2014年4月28日(月)  17時15分~17時25分 
 
コミュニケーション能力や自己表現する感性を育てる番組。今回は、痩蛙まけるな一茶是に有(小林一茶)、「ドンタッポ」、 「道程」、 うた/マーチング・マーチ、やまなし。
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけけることができます。今回は、痩蛙まけるな一茶是に有(小林一茶)、歌舞伎/「ドンタッポ」、はい!ここで名文/僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる「道程」高村光太郎、うた/マーチング・マーチ、やまなし。
 
中村勘九郎,中村いてう,中村仲助,小錦八十吉,おおたか静流 ほか
 
この番組オリジナルの坂本龍一さん作曲「道程」が使われると思います。しつこいようですが今年、平成26年(2014)年は「道程」100周年。100年経っても色あせず、幼い世代にも語りかけているのですね。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月22日

大正10年(1921)の今日、叢文閣からエリザベット・ゴッホ著、光太郎訳『回想のゴツホ』が刊行されました。
 
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エリザベット・ゴッホは画家のフィンセント・ファン・ゴッホの妹です。内容的には題名の通り、ゴッホの評伝が根幹です。
 
光太郎の翻訳になるこの書籍、元々はカバーが附いた状態で発行されましたが、現在、なかなかカバー付きのものに出会えません。当方が持っているのも裸本です(上記画像)。
 
たまにカバー付きが古書市場に出ても、カバーが大きく破損しているものが多いのです。カバーはこんな感じの筈。色合いはよくわかりません。
 
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完品を安く手に入れたいものです。当方、古書の場合、状態にはそれほどこだわりませんが、光太郎本人の著作は、できるだけ光太郎が手に取った状態に近いものであるにこしたことはありません。

繰り返し書いていますが、今年、平成26年(2014)年は、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。
 
100年前というと大正3年(1914)。
 
「道程」に関しては、2月9日に今知られている詩型の原型となる長大な詩を執筆、それが3月5日に雑誌『美の廃墟』に発表され、10月25日には詩集『道程』が出版されています。この時点でオリジナルの102行あった「道程」はわずか9行に圧縮されました。
 
光太郎智恵子の結婚披露は12月22日。上野精養軒で行われました。ただし、事実婚の状態はその前からだったようですし、披露後も入籍はせず、事実婚の状態が続きました。入籍は実に昭和8年(1933)8月23日。これは、統合失調症が昂進した智恵子の身分保障―光太郎にもしものことがあった時の財産分与―のためと言われています。
 
というわけで、今年は光太郎智恵子にとって重要な節目の出来事が2件、100周年です。そんなわけで、当方、「100周年」という語には敏感な今日この頃です。
 
それでは、それ以外に今年「100周年」を迎える(迎えた)出来事というと……。
 
夏目漱石「こころ」発表
昨日から『朝日新聞』さんで、漱石の「こころ」が復刻連載されています。昨日は大きく特集記事も組まれました。
 
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ちょうど100年前の昨日から、『朝日新聞』紙上に「こころ」の連載が始まったとのことです。
 
ちなみに光太郎は漱石にかみついたこともあります。
 
宝塚歌劇初演
やはり大正3年、阪急電鉄の小林一三の発案により、宝塚新温泉の余興として、少女たちによる歌劇の初演が行われたそうです。今月初めにはいろいろと記念イベントもあり、報道されていました。
 
昨年、福島二本松の大山忠作美術館で、日本画家、故・大山忠作の「智恵子に扮する有馬稲子像」に関し、トークショーをなさった有馬稲子さん。今年の連翹忌のご案内を差し上げたのですが、宝塚100周年のイベントご出席のため、連翹忌は無理、と、直接お電話を頂きました。有馬さんも元タカラジェンヌです。
 
ちなみに小林一三は、光太郎と縁の深い与謝野夫妻の援助者としても有名です。数年前、小林のコレクションの中から、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を記した屏風絵2枚が出てきて、驚きました。
 
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東京駅開業
こちらも大正3年の竣工で、いろいろと記念事業が進行中です。話題性としては手強い相手です(笑)。
 
 
第一次世界大戦勃発
負の記憶として、これも外せない「100周年」です。
 
 
そう考えると、ほんとうにいろいろあった大正3年、1914年ですが、もっともっと、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年が話題になってほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月21日

平成12年(2000)の今日、「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集が発行されました。
 
「20世紀デザイン切手」シリーズ、20世紀末の平成11年(1999)から翌年にかけ、全17集が発行されました。やはり20世紀のクロニクル的な記念切手です。
 
第9集は「「杉原千畝副領事がビザ発給」から」の副題で、昭和15年(1940)~同20年(1945)までの出来事を扱っています。
 
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光太郎も80円切手になりました。<高村光太郎が詩集「道程」で第1回芸術院賞>という題です。
 
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大正3年(1914)の初版刊行でなく、この時期の出来事として扱うか? と首をかしげましたが、まあよしとしましょう。光太郎肖像が使われている唯一の切手ですので。
 
切手になっていない台紙というか余白というか、シート右下には智恵子の紙絵があしらわれています。詩集『智恵子抄』の刊行が昭和16年(1941)だったためです。
 
ちなみに大正3年(1914)前後を扱った第3集はやはり東京駅開業や第一次世界大戦をモチーフにしています。

昨日書きました三井記念美術館さんの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」同様、光雲の木彫作品が並ぶ企画展です。 会場は東京藝術大学大学美術館さん。
 
全国3ヶ所の巡回で、すでに1館目の仙台市博物館さんは終了。当方は先月、そちらを観て参りました。 

東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

 催 : 東京藝術大学 法隆寺 朝日新聞社
 期 : 2014/4/26[土]~6/22[日]
 間 : 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 館 : 月曜日(4/28、5/5は開館)、5/7[水]
 金 : 一般前売り¥1,300(当日¥1,500)、大学・高校生前売り¥800(当日¥1,000)
 
推古天皇15年(607年)、聖徳太子によって建立された日本を代表する古刹・法隆寺。その法隆寺の至宝を総合的に紹介する大規模な展覧会が、約20年ぶりに東京で開催される。  本展では、除災や国家安穏を祈って造られた金堂の毘沙門天、吉祥天(いずれも国宝)をはじめ、奈良・飛鳥時代以降の優れた彫刻や絵画、色鮮やかな染織品を含む工芸など仏教美術の粋を出陳。また、法隆寺所蔵の文化財保護と継承に携わってきた東京美術学校(現・東京藝術大学)の活動や、法隆寺を主題に制作された近代の絵画・彫刻なども展示される。
法隆寺で聖徳太子の教えとともに守られてきた、約70件の名品たちとじっくり向き合えるまたとない機会を、ぜひお見逃しなく。
 
 
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飛鳥時代からの仏像などの数々の寺宝に混じって、光雲の木彫「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)、「佐伯定胤像」(昭和5年=1930)が展示されます。これは東京美術学校と法隆寺が密接な関係にあったことが背景になっています。
 
さらに新潟展ということで、新潟県立美術館にて2014年7無題月5日(土)~8月17日(日)に巡回されます。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月20日

昭和18年(1943)の今日、龍星閣から『随筆某月某日』が刊行されました。
 
同名の題で『知性』、『歴程』、『東京帝国大学新聞』、『改造』など、あちこちの雑誌等に発表した随筆その他を集めたものです。
 
智恵子に関する内容のものも含まれ、『智恵子抄』を補完するという意味合いもある一冊です。

東京日本橋の三井記念美術館さんで、光雲の木彫作品が展示される企画展が、今日から始まります。 

超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―

会期 : 2014年4月19日(土)~7月13日(日)
主催 : 三井記念美術館 朝日新聞社
協力 : 清水三年坂美術館
時間 : 10:00~17:00 金曜日は19:00まで
 : 一般1,300円 大学、高校生800円 中学生以下無料
 
近年、美術雑誌・テレビ番組などで頻繁に取り上げられるようになった明治の工芸。 中でも、超絶技巧による、精緻極まりない作品が注目を集めています。しかしながら、 それらの多くが海外輸出用の商品であったため、これまで日本国内でその全貌を目ににする機会は、ほとんどありませんでした。
本展では、村田理如(まさゆき)氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品のうち、並河靖之(なみかわやすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)らの金工、柴田是真(しばたぜしん)・白山松哉(しらやましょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひぎょくざん)・安藤緑山(あんどうろくざん)らの牙彫をはじめ、驚くべき技巧がこらされた薩摩や印籠、近年海外から買い戻された刺繍絵画など、選りすぐりの約160点を初めて一堂に展観いたします。
 
質・量ともに世界一の呼び声が高い、村田コレクション秘蔵の名品が三井記念美術館に勢ぞろいします。
 
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出品目録によれば、光雲の木彫作品が2点並びます。「法師狸」(制作年不詳)と「西王母」(昭和6年=1931)。 
 
他にも七宝や金工、牙彫、自在置物などで、明治期を代表する名工の作品がずらっと並ぶようです。東京美術学校の関係で光雲や光太郎と縁のあった作家の作も含まれます。石川光明、海野勝珉など。
 
これはぜひ観なければ、と思います。
 
また、以下の通り関連イベントも開かれます。 
 
 
トークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」
出演: 井浦 新氏(俳優、クリエーター)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
日時: 5月10日(土) 14:30~16:00
 
対談 「村田コレクションの来し方、行く末」
出演: 村田理如氏(清水三年坂美術館館長)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
日時: 6月7日(土) 14:00~15:30
 
NHKさんの「日曜美術館」でおなじみ、井浦新さんもご登場です。
 
さらにこの企画展、以下の日程で全国巡回です。
 
佐野美術館(静岡県三島市) 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)  2015年2月末~4月下旬
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月19日

昭和56年(1981)の今日、山梨県北巨摩郡長坂町(現・北杜市)に、清春芸術村が開村しました。
 
「清春白樺美術館」を中核とする施設で、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が大正年間に建設しようとして、その夢を果たせなかった幻の「白樺美術館」を実現させようと作られたものです。
 
基本設計は建築家の谷口吉郎。「十和田湖畔の裸婦群像」台座や周辺の設計にも関わった人物です。
 
清春白樺美術館では、現在3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの1点「樟」を所蔵しています。

東北の地方紙からごく最近の報道を三つご紹介します。
 
まずは福島。昨日のこのブログに書いたモンデン・モモさんの復興支援コンサートについて。 

本県支援へコンサート 「モンデンモモ」さんが歌声披露

 東日本大震災からの復興を後押しする「福モモ・復興支援コンサート」は16日、福島市で開かれ、二本松市にゆかりのあるシンガー・ソングライターのモンデンモモさんが美しい歌声を披露した。福島中央ロータリークラブ(RC、坂本和司会長)の主催。
 震災と原発事故で傷ついた心を癒してほしいと企画。モンデンモモさんは、花見山への思いを込めて作った「花見山伝説」などを歌い、会場からは大きな拍手が湧いていた。
 「智恵子抄」の朗読なども披露、美しい音楽が聴衆を元気づけた。
(2014年4月17日 福島民友トピックス)
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つづいては岩手・花巻から。
 
『岩手日日新聞』さんの記事で、先週のこのブログに書いた、花巻高村光太郎記念館の改修についてです。 

展示空間充実へ 高村光太郎記念館

 花巻市は、同市太田の高村光太郎記念館の改修説明会を15日夜に太田振興センターで開いた。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした地域に建つ顕彰施設の充実を図る目的。参加者からは、宮沢賢治との関わりをはじめ、光太郎が暮らした周辺の自然環境を含めた整備に期待する声も寄せられ、市は2014年度に計画する改修事業や運営に生かしていく。

 説明会には、地元住民を中心に27人が参加。冒頭、財団法人高村記念会が運営していた高村記念館の老朽化などを踏まえ、光太郎が7年間過ごした小屋「高村山荘」の近くにあった旧花巻歴史民俗資料館を活用し、13年5月にプレオープンした経緯を説明後、現段階での展示設計案を提示した。

 それによると、想定する来場者を▽光太郎に初めて接する初心者▽有名な詩や彫刻を知る中間層▽光太郎や作品を深く知る上級者―の三つのタイプに分類。改修に際しては、中間層の来場促進を中心に、同時に上級者の満足感を満たせる展示空間を目指す。

 具体的には、現在の展示室に当たる入館してすぐのスペースを第1展示室として主に初級者向けにブロンズ像などを中心に展示。奥の収蔵庫は主に中間層・上級者向けに文芸や書画を中心に花巻や賢治との関わりなどテーマ別に六つほどのゾーンを設ける。さらに上級者が繰り返し来館するよう企画展示室と収蔵室も備える。

 展示スペースは現在からほぼ倍増する見込みで、代表的な彫刻作品「手」のレプリカに直接触れられるようにしたり、紹介映像を上映したりすることも検討している。また展示室内に休憩室を設けるほか、トイレも改修する。駐車場や屋外トイレも改修する計画。

 参加者からは、賢治との深い関わりや妻智恵子の紹介コーナーの充実、「休憩室で図書が閲覧できたら」「周辺に花を植えて散策できるように」といった提案、宮沢賢治記念館からの誘導や専門家の質問に対応できる学芸員の配置を求める声、「光太郎が生活した周囲の自然環境、あの場所で何をやり、後世に何を残したかを大事にしてほしい」といった意見もあった。

 細川祥生涯学習部長は「貴重な意見、参考になる考え方を聞くことができ、環境を含めた整備の大切さが分かった。今回の改修にとどまらず、将来につながる運営に生かしたい」と話した。

 市は、市民の意見を市生涯学習交流課で23日まで随時受け付け、設計に反映させる考え。収蔵庫など影響の少ない部分から着手し、冬場は休館にして本格的な工事を進める予定だ。
 
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最後に青森・十和田から。 

十和田湖観光遊覧船、営業再開 今年から1社体制

 十和田湖の観光遊覧船が16日、今シーズンの営業を始めた。昨年までは十和田観光電鉄(本社・青森県十和田市)と十和田湖観光汽船(同・青森市)の2社が運航していたが、十和田湖観光汽船が昨年12月に破産したことから、今年は十鉄1社での運航となる。
 遊覧船の運航再開は、十和田湖の春の観光シーズン幕開けでもある。この日は青森県や十和田市、秋田県小坂町、地元観光関係者など約40人が集まり、遊覧船「第三八甲田」の船上で運航開始セレモニーが行われた。
 十鉄の白石鉄右ェ門社長は「東日本大震災から3年が過ぎたが、十和田湖への観光客は戻ってきていない」とした上で、「今月20日には、休屋地区に環境省の新ビジターセンターがオープンするなど、国も整備に取り組んでいる。十和田神社の門前町を復活させようという地元有志の動きもある。みなさんの力を借りて、活性化していきたい」とあいさつ。細越満小坂町長も「十和田湖は全国一、美しい湖で、国が掲げる海外からの観光客誘致策の有力な場所だ。国、青森・秋田両県、十和田市、小坂町が一致して振興を図っていきたい」と話した。
 震災前まで十和田湖の遊覧船は毎年20万人前後の利用があったが、震災後は13~15万人と低迷し、観光汽船の破産にもつながった。白石社長は「採算ベースも考えると10万人は確保したい」と話し、今後は「湖上観月」や「湖上ビール」などのイベント船も企画する。
 一方、遊覧船を十和田湖を観光の柱とする十和田市は今年3月、観光汽船が休屋桟橋近くに所有していた遊覧船ターミナル(現在は閉鎖中)を5250万円で取得した。休屋地区の一等地にあり、「空き家のままでは十和田湖のイメージダウンになる」(小山田久・十和田市長)との判断からだ。
 市は、秋の紅葉シーズンを迎える9月末までには、観光案内や休憩スペース、高村光太郎など十和田湖ゆかりの著名人の展示コーナーを設置する予定。5~6千万円とも見込まれる改修費を6月議会に計上する。
 十和田湖遊覧船は休屋発着で御倉・中山半島をめぐる約50分の1コースのみ。小学生720円、中学生以上1440円。4月中は、午前9時45分から午後2時45分までの間の6便でスタート。5月からは1日15便となり、紅葉シーズンには最大17便まで増便される。昨年まであった子ノ口・休屋間は、団体の事前予約があった場合のみの臨時便となる。

2月のこのブログに書いた、遊覧船ターミナルを市が取得という内容も本決まりになったようです。
 
花巻の高村光太郎記念館、十和田の展示スペースともに、当方、企画の依頼を受けております。ご意見等ございましたらお聞かせ下さい。
 
こうしたプロジェクトを通じ、もっともっと東北が元気になっていってほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月18日000
 
平成21年(2009)の今日、映画「おっぱいバレー」が封切られました。
 
同年刊行された水野宗徳さんの同名の小説(泰文堂リンダブックス)が原作です。
 
綾瀬はるかさん演じる男子バレー部顧問の中学校教師が奮闘する物語。光太郎の「道程」が重要なモチーフとして使われています。
 
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」――高村光太郎『道程』より 恩師から教えられた“道”。今度は私が、私の生徒達に伝えたい。
 
VAPさんからDVDが販売中です。

昨日は福島市に行って参りました。
 
福島駅前の福島ビューホテルさんにて、光太郎の詩に曲を附けて歌っているシャンソン歌手、モンデン・モモさんの「福★モモ プロジェクト 復興支援コンサート ~”花見山”と”智恵子抄”を福島の皆様方へ~」があり、そちらを聴きに行って参りました。
 
そちらが午後4時開演だったので、少し早めに福島市に入り、花見山公園に行ってみました。ここは、元々は阿部さんという農家の方が、さまざまな花を植えていた個人の山で、「花を見せてほしい」という要望が強くなって開放するようになったという、ちょっと変わった経緯のある公園です。近年は旅番組等でも取り上げられ、この季節、人気のスポットになりました。
 
平日だからそれほど混んでいないだろう、とたかをくくっていたら、とんでもありませんでした。まず現地まで車で行けません。案内に従って、2㎞ほど離れた阿武隈川沿いにある親水公園に駐車、そこからシャトルバスです。着いてみると、県外ナンバーの大型観光バスがずらっと30台以上。そういえば、途中の磐越道や東北道でやけにバスが多かったと思ったら、行き先はここだったのです。
 
あまり時間がなかったので、ざっと歩いただけになってしまいましたが、それにしても、花、花、花。

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関東では盛りを過ぎた桜や連翹が満開でした。さらに木瓜(ぼけ)や桃、木蓮、菜の花なども。あらためてゆっくり行ってみようと思いました。
 
さて、駅前に戻り、モモさんのコンサート。
 
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いつものように砂原嘉博さんのピアノ伴奏に乗せて、お家芸のシャンソン、それから「花」にまつわる歌の数々などを披露されました。
 
モモさんオリジナルの「花見山伝説」という歌も。これは以前に花見山を訪れ、二代目園主の阿部一郎さん(昨年逝去されたそうです)との出会いから生まれた歌だそうです。
 
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さらに光太郎がらみの「樹下の二人」「道程~冬が来た」も演奏されました。
 
それから、モモさんのニューアルバム「土地 人 伝説」がリリースされ、そちらもゲットしてきました。
 
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モモさんの活動拠点、出雲や福島に関わる歌、光太郎智恵子、平塚らいてうや宮澤賢治へのオマージュなどで構成されています。お買い求めはこちらから。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月17日000

昭和2年(1927)の今日、光太郎による書き下ろし評伝『ロダン』が刊行されました。
 
版元はアルス。北原白秋の弟・鉄雄が創立した出版社です。モノクロですが、図版も豊富に使われ、当時としては豪華な作りです。翌年には同じアルスからペーパーバックの普及版も刊行されています。
 
「ロダンの一生に於ける悲しい記憶の一つである。」として、昨日ご紹介したカミーユ・クローデルに触れている箇所もあります。

今週土曜日(4/19)、地上波テレビ東京系の「美の巨人たち」にて、カミーユ・クローデルがメインで扱われます。 

美の巨人たち カミーユ・クローデル『ワルツ』

地上波テレビ東京系 2014年4月19日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2014年5月14日(水) 22時54分~23時24分
 
番組内容
今日の作品はカミーユ・クローデル作『ワルツ』。高さ45cm程のブロンズ像、男女がワルツを踊る姿は躍動感に溢れています。ところが、どこか危うく不安定。なぜ倒れそうな程に傾いているのか?師であり愛人であったロダンへの想い、そして苦悩…そこには彼女の葛藤と決意が込められていました。また作品誕生にまつわる偉大な音楽家とは?困難な時代を生きた女性彫刻家カミーユ、作品に込められた情愛、プライド、悲しみに迫ります。
 
ナレーター 小林薫
 
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以前にも書きましたが、カミーユは、光太郎が敬無題愛していたロダンの弟子にして愛人です。
 
それなりに才能に恵まれていながら、偉大なる師の蔭で、「しょせんはロダンの猿真似」と酷評され、ロダンにも捨てられ、最期は精神病院で寂しく歿するという、何やら智恵子を彷彿とさせられる生涯でした。
 
今回扱われる「ワルツ」という作品も、そういう背景抜きには語れない作品のようです。地上波テレ東系が受信できない地域の方、BS放送で来月オンエアされます。ぜひご覧下さい。
 
もう一人、ロダンの弟子といえば、光太郎の親友だった荻原守衛(カミーユほど長い間、直接に指導を受けたわけではありませんが)。
 
来週火曜日(4/22)は守衛の命日・碌山忌です。信州安曇野の碌山美術館にて、碌山忌の集いが開かれます。
 
詳細は以下の通り。

碌山忌(104回忌)

2014年4月22日(火)

会場:碌山美術館(入場無料)
 ミュージアムトーク 10時30分 14時30分
 碌山忌コンサート(館庭) 13時30分~15時30分
 墓参  16時~
 研究発表会 17時~17時45分 杜江館2階
 「イタリア・エジプト日記と旅スケッチの考察」同館学芸員・武井敏氏
 碌山を偲ぶ会  18時15分~ グズベリーハウス
 
碌山忌記念講演会 2014年4月27日(日) 13時30分~15時
「日本彫刻史上の橋本平八」 毛利伊知郎氏(三重県立美術館長) 杜江館2階
 
昨年の碌山忌は、何と雪でした。まさか今年は大丈夫だとは思いますが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月16日000

平成11年(1999)の今日、文化庁特別会議室において平成11年第4回文化財保護審議会が開催され、光雲の木彫「老猿」を重要文化財に指定する旨の答申がなされました。
 
この年は近代の作品の指定が多く、同時に指定されたのは、黒田清輝の油絵「湖畔」、土田麦僊の日本画「絹本著色湯女図」、同じく村上華岳で「絹本著色日高河清姫図」などでした。
 
そういえば、今年の2月に「美の巨人たち」で取り上げられた守衛の「」(石膏原型)も昭和42年(1967)に重要文化財に指定されています。
 
いずれ光太郎の彫刻もそうした指定を受けて欲しいものです。

新潮社さんで発行している『波』というPR誌があります。
 
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現在発売中の4月号から、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんの連載「父と母の娘」がスタートしています。
 
以前にも書きましたが、末盛さんは光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女です。「千枝子」というお名前は、光太郎が名付け親とのこと。今年の花巻光太郎祭(5/15(木))では末盛さんを講師に招き、記念講演をしていただくそうです。
 
「父と母の娘」、第1回はその光太郎による命名、そして偉大な芸術家に名前を付けてもらってのプレッシャーなどについてのお話が書かれています。そうしたお話は、昨年の12月に代官山のクラブヒルサイドさんで開催された「読書会 少女は本を読んで大人になる」でお聴きしましたが、非常に興味深い内容です。
 
『波』、他にも津村節子さんの連載「時のなごり」等も載っています。今月号は「震災から三年」。夫の故・吉村昭さんともども三陸の田野畑村と縁の深い津村さんですが、近著『三陸の海』に関わる内容となっています。
 
ぜひお買い求めを。
 
ところで末盛さんのお父様、故・舟越保武氏関連の展覧会が、今週末から東京オペラシティーアートギャラリーで開催されます。
 
同館サイトから。

[特別展示]舟越保武:長崎26殉教者 未発表デッサン

舟越保武(1912-2002)は、清新な造形のなかに深い精神性をたたえた数々の作品によって、日本の近代彫刻史に大きな足跡を残しました。作風の重大な転機は戦後まもなく、長男の急死を契機にカトリックの洗礼を受けたことでした。その8年後の1958(昭和33)年《長崎26殉教者記念像》の制作に着手、完成までに4年半を費やし、後年「作家生命を賭けるつもり」だったと述べる この作品によって、第5回高村光太郎賞を受賞。以後、島原の乱の舞台・原城跡で着想を得た《原の城》やハンセン病患者の救済に命を捧げた《ダミアン神父》をはじめ、キリスト教信仰やキリシタンの受難をテーマにした数々の名作を制作します。
 
そうした観点から、《長崎26殉教者記念像》は舟越芸術の原点と呼べる重要な作品といえるでしょう。
 
《長崎26殉教者記念像》のためのデッサンは98点を数えます。粘土でつくった聖フランシスコ吉(きち)像の顔に舟越は敬虔なクリスチャンだった父の面影を見たそうですが、《長崎26殉教者記念像》は舟越の父への贖罪と再生の記念碑というべき作品に違いありません。
 
主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団
協賛:日本生命保険相互会社
 
会場:ギャラリー3&4(東京オペラシティ アートギャラリー 4F)
期間:2014.4.19[土]─ 6.29[日]
開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)

休館日:月曜日(ただし、4月28日、5月5日は開館)
特別展示入場料:200円
 
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「長崎26殉教者」 高村光太郎賞記念作品集『天極をさす』より
 
こちらもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月15日

明治44年(1911)の今日、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を、僅か1年で閉じました。
 
昨年の今日のブログでは、琅玕洞開店について書きました。日本初の画廊ともいわれ、光太郎も気合いを入れて開いたのですが、現実は厳しく、ちょうど1年で閉店です。
 
詳しくはこちら

もう一日福島ネタで。
 
昨日、BSフジさん放映の「旅するハイビジョン 全国百線鉄道の旅 第85回「北へ向う大幹線 東北本線」を見ました。公式サイトなどの番組説明に光太郎智恵子の名があったので期待していたところ、期待に違わず約3分間にわたって取り上げられました。
 
二本松市の智恵子生家、智恵子記念館、さらにその裏手の智恵子の杜公園にある「樹下の二人」の詩碑など。けたたましいレポーターのタレントなどは登場せず、落ち着いたナレーションで淡々と風景を紹介する作りに、かえって好感が持てました。この番組はオンエアされたものが順次DVD化、発売されていますので、そちらにも期待したいものです。
 
さて、この一帯で開催されるイベントに関し、いろいろと報道されています。 

第10回智恵子生誕祭 好きです智恵子青空ウォーク~桜章~ 桜満開の空の下 智恵子ゆかりの地を歩く―参加者募集

20日(日)午前9時半(午前9時受付)・二本松市智恵子純愛通り記念碑前発(着も)。約5キロを歩く。定員50人(先着順)。昼食は各自持参。参加費は1000円、学生500円(智恵子記念館入館料、保険代含む。麦茶、プレゼント付き)。智恵子のまち夢クラブ熊谷さん0243・23・6743。
(『読売新聞』福島版) 
 
智恵子青空ウォークに関しては、『福島民報』さんのサイトでもPDFで紹介されています。
 
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さらに別件で一つ。 

“二本松の桜の名所”巡る 臨時バス「春さがし号」発車

 ふくしまプレDCに合わせ、内容を充実させた、二本松市内の桜の名所などを巡回する臨時バス「二本松春さがし号」は1日、運行をスタートした。5月16日までは毎日、5月17日から6月29日までの土、日曜日の約3カ月間、1日8本のバスを運行し、春の観光シーズンを迎えた同市内を巡る。
 今年は、プレDCに合わせ、これまでの「春らんまん号」を改称、運行期間を延長するなどした。
 コースはJR二本松駅前を出発点に本町から亀谷坂露伴亭、智恵子の生家を経て、霞ケ城公園や大隣寺を巡って駅前に戻る。料金は、大人(中学生以上)が170~500円、子どもは90~250円。1日フリー乗車券は、大人(同)500円、子ども250円(乳幼児無料)。1日フリー乗車券の提示で、同市の大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割り引きされる。
 このほかは、10日から5月6日まで実施する第4回城下町すたんぷラリーにも参加している。
 同駅前で1日行われた出発式では、半沢典明福島交通二本松営業所長が「市街地活性化の一助となるよう安全運行に努めたい」とあいさつ。引き続き、半沢所長と安斎文彦二本松観光協会長、高野正幸二本松駅長がテープカットした。問い合わせは福島交通二本松営業所(電話0243・23・0123)か二本松観光協会(電話0243・55・5095)へ。
(『福島民友』)
 
「ふくしまプレDC」とは、来年、平成27年4月から6月に開催する「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のプレキャンペーンとして、今年4月から6月まで「福が満開、福のしま。」として展開されている福島県観光キャンペーンだそうです。
 
これから春爛漫の福島。ぜひ訪れて、光太郎智恵子に思いを馳せてください。
 
ちなみに当方、明後日は福島市に行って参ります。シャンソン歌手、モンデン・モモさんのコンサートです。千葉では盛りを過ぎてしまった桜がまだ見られそうで、期待しています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月14日

昭和47年(1972)の今日、光太郎と智恵子の出会いをお膳立てした、日本女子大学校での智恵子の先輩、柳八重(旧姓・橋本)が歿しました。
 
八重の夫は洋画家の柳敬助。敬助は荻原守衛や光太郎と親しく、留学からの帰朝後に荒れた生活をしていた光太郎を心配していたといいます。

昨日夕刻にNHK総合で放映された「特集 小さな旅「山の歌」」を拝見しました。昨秋放映された「シリーズ山の歌 秋 ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」を含む「小さな旅」の総集編でした。
 
安達太良山の項では、昨秋の放映でも使われていた光太郎・智恵子のエピソードがカットされずに使われていました。その後は安達太良山で訓練中の地元・安達高校山岳部女子部員の話でした。
 
今日の夕刻には、BSフジさんで「旅するハイビジョン 全国百線鉄道の旅 第85回「北へ向う大幹線 東北本線」の放映があります。また銚子に出かける用事があるので、リアルタイムでは見られませんが、録画予約をしておきました。番組説明には高村光太郎の詩で有名な安達太良山」の語がありましたので、期待しています。
 
ところで過日、二本松市出身の日本画家、故・大山忠作氏のご息女、大山采子さん(女優・一色采子さん)からお手紙を頂きました。4/2の第58回連翹忌にご出席下さった御礼状をお送りしたのに対してのご返信でした。
 
その中に、俳句が一句。曰く、
 
連翹忌 亡父(ちち)知る婦人(ひと)の 細き杖
 
連翹忌には、光太郎の甥にあたる高村規氏をはじめ、大山忠作氏をご存知の方がいらしたようで、その中の杖をつかれた老婦人を詠まれたようです。
 
ちなみに市販の気の利いた歳時記には、「連翹忌」が春の季語として登録されています。
 
「おそまつ」とありますが、いやいやどうして、毛筆の流れるような筆跡で、内容的にも感動しました。
 
さらに大山さん、お父さまの描かれた、安達太良山をあしらった一筆箋(30枚組)を同封してくださいました。大切に使わせていただきます。

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さて、過日の『福島民報』さんに、安達太良山の麓、国道4号線沿いの「道の駅安達智恵子の里」に関するニュースが載りましたので、ご紹介します。  

万燈桜幻想的な姿 来月6日まで

福島民報 4月11日(金)9時45分配信
 福島県二本松市の道の駅「安達」智恵子の里下り線内にある万燈(まんとう)桜のライトアップが10日、始まった。5月6日まで、幻想的な夜桜が浮かび上がる。
 道の駅開所一周年記念イベント「万燈桜まつり」に合わせて企画した。初日は点灯式が行われ、道の駅を運営する二本松市振興公社長の新野洋市長がスイッチを入れた。毎日午後6時から午前零時まで明かりがともる。
 万燈桜は樹齢270年で高さ約15メートルの一本桜。花は咲き始めの状態だという。
 桜まつりは4月末まで。期間中の土・日曜日に二本松市産のコメや風船アート作品のプレゼントなどがある。
 問い合わせは道の駅 電話0243(24)9200へ。
 
他にも二本松周辺には桜の名所がたくさんあります。霞ヶ城、安達ヶ原公園、岳温泉の桜坂などなど。智恵子生家・智恵子記念館と併せて足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月13日

大正13年(1924)の今日、『読売新聞』に詩「春駒」が掲載されました。
 
  春駒
 005
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、003
ただ一心に草を喰ふ。

かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。
 
当方の住む千葉県香取市のお隣、成田市の三里塚にかつてあった、皇室の御料牧場を訪れて書かれた詩です。この近くに光太郎の親友で作家の水野葉舟が移り住んでいました。
 
画像は三里塚に建つ「春駒」詩碑です。

福島市在住の詩人、伊武トーマさんからの情報提供です。   
 
まずは先月末のニュース。

飯舘の支援継続誓う 東京で児童、感謝の歌声

 東京電力福島第1原発事故で大きな被害を受けた飯舘村を支援する団体・個人の有志による「飯舘村を支援する集い―陽はまた昇る」は22日、東京・神田で開かれ、までいライフをスローガンに復興を目指す同村へのさらなる支援を誓った。
 発起人を代表して飯舘村までい大使の佐川旭さんがあいさつした後、菅野典雄村長が「原発事故から何を学び次の世代にバトンタッチするか。それは成熟社会の中での成長、暮らし方を考えるべきということ」と述べ、これまでの支援に感謝した。出席者を代表し赤坂憲雄学習院大教授、田中俊一原子力規制委員長らがあいさつした。
 集いには、同村の草野、飯樋、臼石の3小学校の4~6年生の児童も出席し、同村の子どもたちのために作られた曲「ときよめぐれ(までいのロンド)」を元気よく歌った。最後には出席者全員で村民歌「夢大らかに」を合唱し、心を一つにした。
(2014年3月23日 福島民友トピックス)
 
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伊武さん、原発事故で全村避難の続く飯舘村の復興支援のため、「ときよめぐれ(までいのロンド)」という歌を作詞されたとのこと。作曲は山根明季子さん。

 
昨年、福島市で演奏された際の記事がこちら。 

明るい未来歌う MFJ音楽祭 追悼と平安祈る

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故からの復興を願う音楽が鳴り響いた。10日に福島市音楽堂で開かれたミュージック・フロム・ジャパンの「2013年音楽祭・福島」。被災者に寄り添い、本県の明るい未来を祈る楽曲が次々と披露され、県民を励ました。
 飯舘村の小学生が歌った「ときよめぐれ(までいのロンド)」は、村民が1日も早く村に帰れるように-との思いが込められている。〈未来の子よ はばたけ〉。福島市の詩人伊武トーマさんによる前向きな歌詞が子どもたちの明るい歌声に乗り、会場を温かく包んだ。
 舞台に立った臼石小4年の細杉利樹君は「飯舘のことを忘れないでほしいとの気持ちで歌った」と話した。草野小4年の佐藤由美さんは「たくさんの人に聴いてもらい、うれしい」と涙を浮かべた。
 福島市出身の詩人長田弘さん、郡山市出身の作曲家湯浅譲二さんが作った「おやすみなさい」も感動を呼んだ。犠牲者の追悼と平安の祈りが詰まった曲で、会場に駆け付けた2人にはひときわ大きな拍手が送られた。
 他に、俳人黛まどかさん作句、嶋津武仁さん(福島大教授)作曲の「飯舘の四季・四句」、詩人若松丈太郎さん(南相馬市)作詞、佐々木冬彦さん作曲の「ひとであるあかしとして」などが演奏された。
 飯舘村から福島市に避難している看護師相良久美子さん(51)は「村の子どもたちが元気に頑張っている様子が伝わってきて、感動した」と話していた。
 音楽祭に先立ち、村の小学生を対象とした雅楽のワークショップが開かれた。
(『福島民報』  2013/02/11 12:27 )
 
一昨年になりますが、何と、ニューヨークでも演奏されたそうです。

飯舘村の子どもたちに歌を NYのコンサートで初披露

 日本の現代音楽普及に努める団体「ミュージック・フロム・ジャパン」(理事長・三浦尚之福島学院大教授)のコンサートが19日、前夜に引き続きニューヨーク市内のホールで開かれ、東京電力福島第1原発事故で全村が避難生活を余儀なくされている福島県飯舘村の子どもたちのために作られた歌が初めて披露された。
 「ときよめぐれ(までいのロンド)」(伊武トーマ作詞・山根明季子作曲)で、ニューヨーク育英学園合唱団の児童約25人が、自分たちで考えた振り付けも交えピアノの伴奏で歌った。子どもたちに悲しみを乗り越え、羽ばたいていくよう呼び掛ける内容。
2012/02/20 11:30   【共同通信】
 
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「までい」とは、NHKキャスター大越健介さんのブログによれば、以下の通りです。
 
4月末に訪れた飯舘村の村長室は、「までい」という聞き慣れない言葉であふれていた。机に積み重ねられた書類の中に、壁に張られたポスターの中に。
「までい」とは、福島県のこのあたりの方言だそうだ。菅野典雄村長は、「漢字で書くと、『真手い』という字があたるのかなあ」と語る。真心をもって手で大事にくるむような気持ち、くらいの意味だという。
飯舘村は、「までい」な村づくりを合言葉にしてきた。人の絆を大事にし、ゆったりした田舎暮らしを楽しむ村にしようと。しかし、その取り組みが軌道に乗りかけた時、原発事故によって村の暮らしは大きく捻じ曲げられた。
 
その「までい」を盛り込んで作られた伊武さん作詞の「ときよめぐれ(までいのロンド)」。歌詞は以下の通りです。

 
前を向いて 歩いてゆこう000
道に花が 咲いている
にぎりしめた こぶしをひらき
めぐれめぐれ ときよめぐれ
てのひらの 花よ咲け
ふるさとの道に

顔を上げて 立ち止まってみよう
空に鳥が 飛んでいる
このかなしみを ときはなち
めぐれめぐれ ときよめぐれ
未来の子よ はばたけ
ほんとうの空に

手に手をとって 輪になって踊ろう
あなたがいる わたしがいる
いのちのリズム きざんで
めぐれめぐれ ときよめぐれ
名もなき花よ ひらけ
までいの里に
 
ある意味お約束ですが、光太郎の詩「あどけない話」中の「ほんとの空(ほんとうの空)」の語が使われています。
 
音楽や詩、こうしたものは一種無用のものかもしれません。無くても生きていけるものですから。しかし、こうして人々の心に訴えかけ、復興支援に一役かっています。ほんとかどうかよくわかりませんが、「歌う」の語源は「訴える」の古語「訴ふ」だという話を聞いたこともあります。
 
今後とも、歌を通し、詩を通じての復興支援、続けていっていただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月12日

明治25年(1892)の今日、東京日本橋の「綱島亀吉」から、錦絵「楠公銅像之図」が発行されました。
 
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光雲が制作主任となり、東京美術学校総出で皇居前広場に作られた楠木正成の銅像です。竣工は明治26年(1893)。つまりこの錦絵、正式な像の完成除幕より早く発行されています。気の短い江戸っ子気質の表れでしょうか。
 
人々の服装が何ともレトロでいい感じですね。当方、額に入れて書斎のインテリアにしています。

先日、また音楽関連の用事で銚子に行って参りました。目的地は小畑町の銚子市民センター。公民館的な施設です。ここは、大正元年(1912)に、光太郎と智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼にほど近く、せっかくですので用件が終わった後、犬吠埼まで足を伸ばしました。ま、このブログのためのネタ稼ぎです(笑)。
 
光太郎智恵子がしばらく滞在した宿は「暁鶏館」。経営は変わりましたが、今も残っています。
 
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ただ、ひらがなで「ぎょうけい館」と改称しています。しかし正面玄関には昔ながらの漢字のロゴ。
 
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公式サイトの他、「ゆこゆこネット」「近畿日本ツーリスト」など、あちこちの観光サイトで、やはり光太郎智恵子ゆかりの宿として紹介されています。
 
戦前の絵葉書がこちら。
 
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宿の目の前には太平洋の荒波が押し寄せています。
 
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中央がぎょうけい館。右手の大きな建物は別のホテルでしたが、廃業してしまいました。東日本大震災以降、観光客が減少した影響です。
 
ぎょうけい館前の波打ち際には、こんな遺構が残っています。
 
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この石組みは、生け簀の跡です。昔はここに魚を泳がせておき、宿泊客に供したとのこと。現在は使用されていません。
 
振り返れば犬吠埼灯台。
 
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ぎょうけい館からは、徒歩5分ぐらいでしょうか。
 
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灯台入り口手前の丘の上には、光太郎と親しかった佐藤春夫の詩碑があります。
 
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光太郎智恵子がここを訪れた前年、佐藤は与謝野鉄幹らと犬吠を訪れ、「犬吠埼旅情のうた」という詩を作りました。その一節が刻まれています。
 
佐藤と光太郎が親しくなるのはもう少し後なので、光太郎は鉄幹あたりから犬吠の魅力を教えてもらったのではないでしょうか。
 
ぎょうけい館は灯台の南。灯台を挟んで反対の北側は君ヶ浜。光太郎智恵子はこの浜も歩いています。
 
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逆にぎょうけい館から南下していくと、光太郎の詩「犬吠の太郎」に登場する太郎こと阿部清助の墓もあります。
 
銚子も震災の影響を受け、低迷しています。春の観光シーズンです。ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月11日

明治40年(1907)の今日、智恵子が日本女子大学校家政学部を卒業しました。
 
4月のこの時期に卒業式というのはちょっと変わっているな、と思いました。下記は平成23年(2011)、群馬県立土屋文明記念文学館での企画展「『智恵子抄』という詩集」の図録から拝借しました。智恵子卒業写真です。
 
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この後も智恵子は郷里に帰らず、東京にとどまって油絵を続けます。知人を頼って色々な先輩芸術家を紹介してもらったりし、そうした中で明治44年(1911)に、光太郎と知り合うことになるのです。犬吠行きはその翌年でした。
 
2016/3/13追記 上記写真、中央に広岡浅子が写っていました。

都立高校教諭の野末明氏が主宰する「高村光太000郎研究会」という会があります。機関誌的に雑誌『高村光太郎研究』を発行しています。
 
過日、その35集が刊行されました。
 
目次は以下の通り。
 
高村光太郎・最後の年 1月(1) 北川 太一
高村光太郎考――直哉と光太郎 大島 龍彦
光太郎遺珠⑨ 平成二十六年  小山 弘明
高村光太郎没後年譜・未来事項 大島 裕子
高村光太郎文献目録      野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介   野末  明
 
論考二本、読み応えがあります。
 
それから当方の連載「光太郎遺珠」。新しく見つけた『高村光太郎全集』未収録の文筆作品等を紹介しています。内容細目は、脱稿した際のブログに書きました。
 
頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月10日
 
昭和20年(1945)の今日、駒込林町のアトリエを、渡辺正治氏が訪れました。
 
氏は女優・渡辺えりさんのお父さまで、今もご健在です。
 
戦時中に15歳で山形から上京、現・武蔵野市にあった中島飛行機の工場で働いていたそうです。
 
工場の先輩に、光太郎と手紙のやりとりをしていたという人がいて、都心方面の空襲のひどさから光太郎の身を案じ、光太郎の元に渡辺氏を遣わしたとのこと。
 
この際には光太郎もアトリエも無事で、氏は光太郎から署名入りの『道程 再訂版』をもらったそうです。
 
ところがその3日後の空襲でアトリエは炎上してしまいました。
 
戦後になっても氏と光太郎の交流は続き、そうした縁で渡辺えりさんも光太郎ファンに。画像は渡辺さん作の、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」のパンフレットです。

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福島は安達太良山関連のテレビ放映情報です。 

特集 小さな旅「山の歌」

2014/04/12(土)15:05~16:00 【NHK総合1・福島】
 
各地の山を訪ね、雄大な景色と峰に思いを寄せる人々の姿を見つめる「小さな旅・山の歌」総集編。花の名山、北海道の夕張岳。神戸の背後にそびえ、近代登山のはじまりとされる兵庫県の六甲山地。山小屋に物資を運ぶ歩荷(ぼっか)の思いに触れる秋の尾瀬。智恵子抄の「ほんとの空」の舞台、福島県の安達太良山。滝雲がりょう線を覆う新潟県の越後駒ヶ岳など、多彩な山々の映像美と、山人たちが織りなす物語をつづります。
 
出演者 語り 国井雅比古,山田敦子
 
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昨秋放映された「シリーズ山の歌 秋 ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」を含む総集編のようです。
 
光太郎・智恵子の話を枕に、澄み切った青い「ほんとの空」と、安達太良山を訪れたり、そこで働いたりしている人々の横顔。美しいだけでないこの国の現状が凝縮されていました。
 

旅するハイビジョン 全国百線鉄道の旅 第85回「北へ向う大幹線 東北本線」

2014/04/13(日)15:00~16:00 【BSフジ・181】
 
首都・東京と岩手県盛岡を結ぶ全長575.7kmの東北本線。北の玄関口・上野駅からは寝台特急が出発、旅情をかきたてます。大宮、宇都宮と北関東の都市を結びつつも日光、そして那須高原へと東京の奥座敷、観光地への移動手段でもあります。高村光太郎の詩で有名な安達太良山や、吾妻山、蔵王連峰を眺めながら福島を南北に抜け、桜の名所で有名な白石川堤では毎年春、桜の花に染められた景色の中を列車が走ります。
 
ナレーター 八木早希
 
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番組説明の中で光太郎の名が出ていますので、少しは紹介されると思います。
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月9日

明治45年(1912)の今日、京都府立図書館で開催され、光太郎も賛助出品していた津田青楓作品展が閉幕しました。
 
津田青楓は京都在住の洋画家。光太郎は留学先のパリで津田と相知り、帰国後もしばらくは交流が続きました。

 
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このブログでたびたびご紹介してきた、宮城県女川町の「いのちの石碑」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトに関するドキュメントです。
 
 
当方、文字情報をいろいろと見てきましたし、過日は東京表参道山陽堂ギャラリーさんで行われた「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」のトークイベントを拝聴して参りましたが、映像で観るのはまた違うものでした。
 
「千年後のいのちのために」と、頑張る中学生達の姿には、素直に感動させられました。プロジェクトが始まった頃にはまだまだ子供っぽい顔つきだった彼らが、一基めの石碑を完成させる頃にはたくましい顔立ちになっていきます。若い世代のこうした姿を見ると、この国もまだまだ捨てたものではないな、と感じます。
 
BS放送、CS放送でも再放映されます。ご覧になっていない方、ぜひ。
BS日テレ        2014年4月13日(日) 11:00~11:30
CS日テレNEWS24  2014年4月13日(日) 18:30~19:00
 
映像もいいのですが、やはり実際に見てみたいものです。今年も8月9日には女川光太郎祭があるはずですが、その前に、智恵子のふるさと、福島は二本松で活動されている「智恵子のまち夢くらぶ」さんが、6月に研修旅行で女川に行かれるそうで、同道させてもらおうかと思つています。皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月8日

明治34年(1901)の今日、東京美術学校校友会倶楽部で、「彫塑会第二回展覧会」が開幕しました。 
 
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光太郎は石膏レリーフ「003仙」と「まぼろし」を出品しています。どちらも残念ながら現存が確認できておりません。

「まぼろし」については、光太郎自身、のちにこう語っています。
 
その頃初めて泥をいぢくり出し、例へば坊さんが月を見上げて感慨に耽つてゐるところや女の浴衣が釘にぶら下つてをるといふ妖気の漂ふ鏡花式みたやうなものを無闇に作つたが、それが当時の彫塑会では新しかつた。後にかういふことが間違つた新しい彫刻運動のもとになつたりした。
(「美術学校時代」昭和17年=1942 『知性』)
 
光太郎自身が後に否定する「文学的な彫刻」というわけです。

上の画像、『彫塑生面』は、この展覧会の図録的な冊子です。「仙」「まぼろし」の画像はここから取りました。
 

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂き、花巻の財団法人高村記念会・高橋卓也さんにもお願いしました。
 
昨年の高村光太郎記念館のプレオープンについて、さらに今年度のさらなる改修計画等についてのお話を頂きました。
 
地元岩手の地方紙、『岩手日日』さんにも記念館改修についての記事が出ています。 

本格オープンに向け改修 高村光太郎記念館(4/05)

 花巻市は、同市太田に2013年5月にプレオープンした高村光太郎記念館の改修を14年度、計画している。晩年を花巻で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する唯一の施設として展示内容の充実を図る狙い。15日夜に地元で市民説明会を開き、意見を設計に反映させる。
 同記念館は、光太郎が7年間過ごした小屋「高村山荘」を挟んだ東方の旧花巻歴史民俗資料館を活用した。財団法人高村記念会が運営していた高村記念館の老朽化などに伴い、生誕130年に合わせて昨春、暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向けて、併設する収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を今年度に進める計画。
 改修案では、入館してすぐのスペースを第1展示室としてブロンズ像などを自然との関わりの中で展示。奥の収蔵庫は、作品の劣化を防ぐため左側を第2展示室にして文芸や書画を中心に光太郎の人生と関連付けて紹介。右側は企画展室と、常設展の入れ替え資料などを保管する収蔵室とする計画。
 今年度当初予算に同記念館改修と周辺施設改修として駐車場の舗装やトイレ、遊歩道の改修を合わせ約1億7500万円を計上。市民の意見を取りまとめて設計後、夏ごろをめどに工事着手し、12月から来年3月までは休館にして本格的な改修工事を進めたい考え。
 旧記念館は冬季休館したが、新記念館は通年開館し、初年度入館者数は1万2688人。うち昨年12~3月の冬季4カ月間は1245人だった。温泉客や市内の観光施設を巡る「あったかいなはん花巻号」での立ち寄りが多いという。
 市では、15日午後6時30分から太田振興センターで市民説明会を開いて住民の意見を聞くほか、17~23日(土日除く)には市役所本庁舎市生涯学習交流課でも随時受け付ける。
 
また、市の広報紙『広報はなまき』でも。 

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館 より充実した施設を目指して

  昨年5月、高村山荘近くに新たに市の施設としてプレオープンした高村光太郎記念館。晩年を花巻で過ごした高村光太郎を顕彰し、彫刻家や詩人などとして活躍した功績を広く紹介するため、日本に唯一の高村光太郎の記念館として市内外から多くの方が訪れる施設を目指しています。改修の設計に当たっては、関係者の意見を伺いながら進めてきましたが、さらに市民の皆さんの意見を伺い、設計に反映させたいと考えています。
 今回の改修では、来館者の利便向上のため新たに休憩室を設けるほか、トイレの改修やバリアフリーにも配慮します。また作品保護の観点から収蔵室を備え、展示室は次のように考えています。
▽光太郎の根底にある自然賛歌、自然との共生の姿勢を、光太郎のブロンズ像作品を自然と融和させる演出により表現する『展示室1』
▽光太郎の歩み、苦悩、思想などを背景に生み出された作品の紹介を通して人間・高村光太郎と作品を紹介する『展示室2』
 展示室2は、次の六つのゾーンに分けて展示します。
①東京からみちのく花巻へ②地上のメトロポール(「文化の中心地」の意)を求めて③書の深淵④岩手の人⑤賢治を生みき 我を招きき⑥光太郎六つの面
▽常設展だけでは伝えきれない光太郎を伝える『企画展示室』
ご意見をお聞かせ下さい
■市民説明会
 市民の皆さんの意見を伺い設計に反映させるため、市民説明会を開催します。お気軽に参加下さい・
●高村光太郎記念館改修説明会
【日時】4月15日(火)、午後6時30分
【会場】太田振興センター大広間
■市民の意見をお聞きする期間
 市民説明会に参加できなかった方のために、次のとおり意見を伺います。お気軽にお越しください。
【日時】4月17日(木)~23日(水)、午前9時~正午、午後1時~5時(土日を除く)
【会場】高村光太郎記念館改修について 市役所本庁舎2階生涯学習交流課
 
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花巻市では、今年1月の選挙で新市長が誕生し、それに伴って市の組織等が改編されたりしました。市の事業についてもずいぶん風通しがよくなったようです。詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。
 
なお、高村記念会高橋様からは、5月15日(木)の高村祭についても情報のご提供がありました。今年は記念講演で、光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女、末盛千枝子さんにいらしていただくとのこと。

末盛さんは昨冬、東京代官山のクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」で講師を務められ、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は光太郎が名付け親とのこと。また興味深いお話が聴けるものと思います。こちらも詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月7日000

平成4年(1992)の今日、大阪市立美術館で「天理秘蔵名品展」が開幕しました。
 
天理大学附属天理図書館、同天理参考館の収蔵品が300点余り展示され、「近代作家の原稿」のコーナーに光太郎の詩「カフエ、ライオンにて」の草稿が並びました。
 
この詩は大正2年(1913)3月、雑誌『趣味』に掲載され、翌年刊行の詩集『道程』にも収録されました。
 
カフェ・ライオンは現在も続く銀座のビヤホール・ライオンの前身です。 
 
 
 

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂きました。
 
その中のお一人、詩人の間島康子さんから、文芸誌『群系』の昨年12月に刊行された第32号をいただきました。
 
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間島様の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」11ページが掲載されています。
 
「好い時代」とは、佐藤春夫が『わが龍之介像』で使った言葉。大正時代(広い意味で明治末を含む)を指します。文芸界全体でも、光太郎自身も、たしかに大正時代は充実していた時期です。
 
その「好い時代」の光太郎を追った論考で、失礼ながら、非常に感心いたしました。
 
『群系』さんホームページはこちら間島様の論考もウェブ上で閲覧できます。ぜひお読み下さい。
 
それから、連翹忌にはご欠席でしたが、イラストレーターの河合美穂さんから、事前にご丁寧にご欠席のご連絡をいただきました。河合さんは今年1月に、個展「線とわたし」を開催され、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品も展示されました。
 
その「梅酒」をポストカードにしたものをいただいてしまいました。ありがたいかぎりです。
 
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あたたかい絵ですね。しかし、もったいなくて使えません(笑)。
  
連翹忌、そして光太郎智恵子を通じて人の輪が広がっています。素晴らしいことだと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月6日

昭和56年(1981)の今日、銀座和光ホールで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。
 
その当日、『日本農業新聞』さんに以下のコラムが載りました。
 
【四季】 (2014/4/2)
 
 公園や街角の植え込みで、レンギョウの花が満開だ。2週間ほど前、雨露から身を守るかのように、少しうつむき加減にぽつりぽつりと咲き出したが、あっという間に爆発したように黄一色になった▼彫刻家で詩人の高村光太郎が58年前の今日亡くなった。今が盛りのレンギョウの花の時期であり、生前好んだ花であったことから、命日を連翹(れんぎょう)忌と呼んでいる。そのレンギョウも、光太郎との思い出深いみちのくで咲くのももうすぐだ▼光太郎の詩集『道程』はあまりにも有名だ。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。その発表から今年で100年。ふるさとの福島をこよなく愛した智恵子と結婚したのもこの年。「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」。ふと今が重なる▼光太郎は宮沢賢治の天性をつとに見いだし、賢治の死後、全集発刊などに尽力した。その縁もあって戦中から戦後の7年間、岩手県花巻市に疎開し、山小屋で独り暮らした。岩手県は第二のふるさとのようなもの▼四季折々、自然と共に生きた。『山の春』は、村人との温かい交流、豊かな山の恵みに生かされることへの感謝を描いた。大震災から4回目の東北の春。「道」はどのくらいできたか、光太郎は気にしているだろう。
 
連翹忌、そして「道程」100周年、光太郎智恵子結婚100周年にもふれてくださり、ありがたいかぎりです。
 
それにしても、東北ではこれから連翹の花盛りなのですね。自宅兼事務所のある千葉では満開です。
 
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自宅兼事務所の庭の連翹は、連翹忌持参のために剪ったので淋しくなってしまいましたが……。
 
「大震災から4回目の東北の春。「道」はどのくらいできたか、光太郎は気にしているだろう。」……まさにその通りだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月5日000

昭和29年(1954)の今日、編者に光太郎の名を冠した『毎日ライブラリー 日本の詩歌』が刊行されました。
 
この年1月の『毎日新聞』に連載された光太郎の評論「日本詩歌の特質」を巻頭に置き、その他、「日本の詩歌の系譜」(吉田精一)、「現代詩概観」(三好達治)、「近代短歌」(木俣修)、「近代俳句」(加藤楸邨)から成ります。
 
光太郎が編者となっていますが、実務は毎日新聞社図書編集部でした。

一昨日、4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催しましたが、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。

岩手)高村光太郎の命日 花巻で住民らがしのぶ

 彫刻家で詩人の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で「詩碑前祭」があり、地元の児童らが光太郎の詩を朗読した。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。その後東京に戻り、56年に死去。翌年から地元の住民らが毎年、山荘で集まりを持っている。
 この日は山荘近くにある詩碑の前に住民ら約70人が集まった。詩碑には、山荘での生活をうたった「雪白く積めり」が刻まれており、住民はこの詩など8編を朗読し、故人をしのんだ。
(朝日新聞)
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“先生”の教え心に 高村光太郎命日に詩碑前祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた詩碑前祭と連翹忌(れんぎょうき)法要が2日、59回忌に当たる今年も花巻市内で行われ、参加者が花巻ゆかりの偉人をしのんだ。

 詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。

 照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。

 詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。

 光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。

 上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
(岩手日日新聞)
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連翹忌法要にファンら集う

 連翹忌法要は、光太郎の顕彰活動を続けている花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)が毎年開催。光太郎が花巻で暮らしていた際に妻・智恵子や父母の法要を行った同市双葉町の松庵寺で営まれ、約40人が参列し焼香した。

 小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。

 献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。

 法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
(岩手日日新聞)
 
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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月4日

明治45年(1912)の今日、「光雲還暦記念胸像」の贈呈式が行われました。
 
「光雲還暦記念胸像」。光雲の弟子たち000が発願し、海外留学から帰ってきた光太郎に依頼しました。多分に光太郎の腕試し的な意味合いが強かったようです。
 
それに対し光太郎は見事に応えました。
 
おそらく同じ時期におそらく習作として造った「光雲の首」は現存しており、昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されましたが、「還暦記念胸像」自体は残念ながら現存が確認できておりません。
 
時折、この二つの彫刻を混同している記述があり、困っています。
 
写真は贈呈式の模様。右が光雲、左は光雲の妻にして光太郎の母・わかです。
 

昨日は光太郎の58回目の命日。東京日比谷松本楼様に於きまして、第58回連翹忌を開催いたしました。
 
と、その前に、当方は駒込染井霊園の高村家のお墓にお参りをしました。染井はソメイヨシノの名前の由来となった地だけに、霊園内の桜も見事でした。
 
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さて、5時30分、第58回連翹忌を開会しました。今年も昨年を上回る76名ものご参加を頂きました。
 
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はじめに、光太郎、そして今日までの一年間に亡くなられた関係者の皆様に対して黙祷を捧げました。続いて、永らく連翹忌の運営をされてきた、高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問の北川太一先生のご挨拶。さらに、光太郎の令甥にあたられる高村光太郎記念会理事長・高村規様のご発声により、献杯。
 
その後はビュッフェ形式で料理を堪能していただき、並行してスピーチやアトラクション演奏。
 
まず、日本画家の故・大山忠作氏ご息女にして女優の大山采子さん(芸名・一色采子さん)にスピーチをお願いしました。大山さん、他にご用がおありのところ、駆けつけてくださり、途中までのご参加でした。
 
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昨年、二本松の大山忠作美術館で開催された「五星山」展についてお話下さいました。
 
連翹忌ということで、鮮やかな黄色のお召し物。さすがです。なぜかシャンソン歌手・モンデンモモさんとのツーショット。
 
続いて、吉川久子様によるフルート演奏。吉川様は昨年、横浜で「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」という演奏会を開かれました。今回はそのダイジェスト版をお願いしました。
 
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伴奏は海老原真二さん、三浦肇さん。
 
演奏だけでなく、朗読、さらに光太郎智恵子に対する思いのトークも入り、皆さん、聴き入っていました。
 
その後、時間の許す限り、いろいろな方にスピーチをいただきました。
 
昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関係で、愛知碧南市藤井達吉現代美術館長・木本文平様。
 
昨秋、同館で記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさった、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏。
 
美術館つながりで、信州安曇野碌山美術館・五十嵐久雄理事。
 
昨秋、光太郎も関わる「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催された山梨県立文学館長・三枝昻之氏。
 
光太郎と交流のあった詩人、野澤一関連の書籍『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』を編集なされた坂脇秀治様。
 
与謝野晶子研究の第一人者、逸見久美先生。逸見先生は、昨年の連翹忌にご参加の予定でしたが、その当日に急遽御入院。その後、恢復なされ、一年越しのご参加でした。
 
さらに花巻高村記念会の高橋卓也氏、光太郎の血縁・山端通和様加寿子様御夫妻、詩人の間島康子様、福島二本松智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん、同じく福島川内村草野心平記念館長・晒名昇氏……。
 
スピーチの中に、いろいろ新しい情報もあり、追ってご紹介します。
 
本当はもっとたくさんの方にスピーチを頂きたかったのですが、そうもいかず、残念でした。
 
また、荷物運び、資料の袋詰め、受付、物品販売等で、たくさんの方々にお手伝いいただき、非常に助かりました。
 
泉下の光太郎も、きっと喜んでくれたことと思います。
 
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また、昨日は花巻松庵寺でも花巻としての連翹忌が開催されています。そちらも情報が入り次第、ご紹介します。
 
とにもかくにも、皆様、ありがとうございました。003
 
来年以降も連翹忌の集いは続けられるだけ続けます。新たな方々のご参加もお待ちしております。よろしくお願い申し上げます。
 
また、当会名簿に記載されている方で、昨日ご欠席の方には、配付資料を後ほど郵送します。お待ち下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月3日

昭和59年(1984)の今日、近藤富枝著『愛 一通の手紙 炎の作家15人の愛の書簡集』が刊行されました。
 
版元は主婦の友社。「高村光太郎と妻・智恵子――芸術家の妻の幸と不幸」で光太郎智恵子にふれています。

昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】では、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことを書きました。というわけで、今日は光太郎の命日です。光太郎の故郷、東京では日比谷松本楼様で「第58回連翹忌」、戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手・花巻の松庵寺様でも、花巻としての連翹忌の集いが開催されます。
 
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全国の光太郎ファンの皆様、特に今日は、光太郎に思いを馳せていただきたく存じます。
 
日比谷松本楼様での第58回連翹忌については、明日以降、詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月2日
昭和32年(1957)の今日、光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエで第1回連翹忌が開催されました。
 
「連翹忌」の名付け親は、光太郎と親しかった000佐藤春夫、草野心平といった顔ぶれと思われます。昭和31年7月に脱稿した佐藤春夫の『小説高村光太郎像』は、次の一節で終わります。
 
 智恵子のものをもしレモン忌と呼ぶならば光太郎のそれは連翹忌といふべきでもあらうか。二つとも共通にあざやかにすがすがしい黄色なのも一奇である。
 思ふにかの仙女とこの詩人とは、今ころ素中にあつて固く相抱いてゐるであらう。わたくしはこの間、彼等がしばらく同類としてそこに住んでゐた工房の墟を訪れてみたが、そこには壮年の頃の面顔を持つて晩年の口調で語る光太郎を見ただけで智恵子は終に見られなかつた。
 おそらく九十九里の朝あけか、安達原二本松の梢、阿多多羅山や阿武隈川のほとり、往年、光太郎が智恵子の生家を智恵子と並んで見たあたり遠い世の松風の薄みどりに吹かれ漂ふ夕雲の色がレモンにも連翹にも似たものを見出したならばそれが相抱く素中の光太郎智恵子なのであらう。それとも上高地徳本峠の山ふところの桂の木の霜葉の荘厳なもののそよぎのなかにかくれてゐるのでもあらうか。
 
その佐藤も列席して、光太郎が息を引き取った中野のアトリエで、第1回の連翹忌が開催されました。
 
出席者は以下の通り。
 
高村豊周 高村君江 高村規 高村珊子 高村武次 高村美津枝 宮崎春子 宮崎丈二 竹間吾勝 奥平英雄 岡本圭三 小坂圭二 細田藤明 桑原住雄 伊藤信吉 佐藤春夫 草野心平 今泉篤男 関覚二郎 大気寿郎 土井一正 井上達三 海老沢利彦 庫田叕 本郷新 尾崎喜八 尾崎実子 難波田龍起 吉田千代 松下英麿 谷口吉郎 長谷川亮輔 椛澤佳乃子 菊池一雄 黛節子 松方三郎 伊東忠雄 中原綾子 土方定一 知念栄喜 小林梅 北川太一 藤島宇内 中西富江 川口師孝 大柴正彦 沼本効子
 
この中で、58回連翹忌に参加されるのは、光太郎の令甥・高村規氏と、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のお二人だけです。おそらく他の方々はほとんど鬼籍に入られていると思われます。ただ、その方々の縁者の皆さんのご参加もあり、そういう意味では第1回の連翹忌の魂は連綿と受け継がれています。
 
さて、第58回連翹忌、つつがなく、そして盛会の中に執り行えることを念じつつ……。

ひさびさにテレビ放映情報です。

NNNドキュメント'14 3・11大震災 シリーズ 千年後のあなたへ 15歳…いのちの石碑

地上波日本テレビ系  2014年4月6日(日)25:20~25:50=4/7(月)午前1:20~1:50
BS日テレ      2014年4月13日(日) 11:00~11:30
CS日テレNEWS24 2014年4月13日(日) 18:30~19:00
 
 千年後の命を守りたい…「地震がきたらこの石碑よりも上に逃げてください」と刻まれた“命の石碑”が津波の最大到達地点に建った。建てたのは宮城県女川町の中学生だ。今後、女川の21の浜のそれぞれの最大到達地点に21基建てる計画だ。必要な資金も自分たちで集めよう。修学旅行先や、企業へ出向いて募金を呼びかけた。1千万円を超える資金を彼らは集めきった。一基目の石碑にこう刻んだ。「夢だけは 壊せなかった 大震災」。
 
ナレーター 沢城みゆき
制作  宮城テレビ
 
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このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」に関するドキュメントです。
 
 
同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。
 
明日は第58回連翹忌。高村光太郎、58回目の命日です。その直前にこの番組放送の情報を得、かつて毎年のようにご参加下さっていた女川光太郎の会事務局長だった故・貝(佐々木)廣氏――高村光太郎文学碑の建立に奔走され、2011年3.11の津波にてご逝去――のお導きかと思っております。
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月1日

明治45年(1912)の今日、早稲田文学社主催装飾美術展覧会に、塑像「紫朝の首」を出品しました。
 
「紫朝」は盲目の新内語り、柳家紫朝。残念ながらこの彫刻はおそらく現存が確認できていません。
 
ちなみにこの展覧会には、智恵子も油絵を出品しています。

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