2012年10月

今日は和歌山県の田辺市立美術館に行000って参りました。9/17、9/27のブログで御紹介しました企画展「詩人たちの絵画」展を観るためです。ついでに獲れたて海鮮のお寿司を食べ、南紀白浜温泉にもゆっくり浸かって参りましたが、そちらはあくまでついでです。念のため(笑)。 
 
会期は11/4(日)までということで、本当はもう少し早く行ってレポートし、宣伝しようと思っていたのですが、いろいろ都合が付かず今日になってしまいました。
 
いい意味で、シンプルな企画展でした。時折、特に大資本を背景に持つ私設の美術館等で出くわすのですが、「これでもか、これでもか」という出品点数の多さで、見終わって食傷気味になるような企画展があります。ところが田辺の企画展は良い意味で、非常にすっきりしていたな、という感じです。
 
学芸員の三谷氏曰く「金がたりない、人手がたりない、時間も足りない、で、この程度しかできないんです」とのことでしたが、いやいやどうして、押さえるべきところはきちんと押さえ、落ちついてゆったりと観られる企画展でした。
 
光太郎の作品は油絵と素描が二点ずつ、そして彫刻の「手」。いずれも初めて見るものではありませんでしたが、何度見てもいいものです。特に油絵二点は以前にも見ているはずですし、手持ちの資料で画像としてはよく見ているはずなのに、改めて見ると「ああ、こんな感じだったんだ」と思いました。やはり画像ではわからない筆致がよくわかったりとか、あたりまえですが実物大で見るとまた違って見えたりとか、新たな発見でした。
 
「詩人たち」ということで、他にも10人の作品が展示されています。下の画像は図録の裏表紙に印刷された出品作家の肖像写真。左上から片山敏彦、立原道造、難波田龍起、村山槐多、木下杢太郎、光太郎、西脇順三郎、小熊秀雄、佐藤春夫、中川一政、富永太郎です。

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このうち半分以上は光太郎とも縁の深かった人で、実は当方、そういう人々の作品を実物で見るのはほとんど初めてで、ある意味、光太郎作品より興味深いものでした。
 
再び三谷氏曰く、11人に絞らざるを得なかったということですが、手を広げすぎでごちゃごちゃになるよりずっとよかったと思います。しかし、「誰々がラインナップに入っていないのはけしからん」などという声もあったそうです。そんな話を伺いながら「それなら、すぐには無理でも何年後かにまたやったらいいじゃないですか」と申し上げたところ、既にそのおつもりでいるとのこと。佐藤春夫のお膝元、和歌山ということで、「文学関係にも強い美術館」というコンセプトでやっていきたいそうです。頼もしい限りです。
 
田辺市立美術館、和歌山県下では唯一の市立美術館だそうです。いろいろ大変だとは思いますが、頑張って欲しいものです。というと失礼ですね。頑張っているので、それを継続して欲しい、というべきですか。
 
さて、「詩人たちの絵画」、11/4(日)までです。お近くの方、是非足をお運び下さい。また、お近くでなくとも、実は羽田から隣町の南紀白浜空港まではわずか1時間のフライトです。当方、今日も日帰りでした。東日本の方もぜひお越しください。

昨日、群馬県立土000屋文明記念文学館の企画展「忘れた秋-おもいでは永遠に 岸田衿子展」を見て参りました。
 
岸田さんといえば、詩誌「櫂」の主要メンバーの一人でした。「櫂」は昭和28年(1953)の創刊。岸田さん以外の主要メンバーに、茨木のり子、川崎洋、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘などがいました。そうそうたるメンバーですね。岸田衿子展では当然、この人々との交流なども扱われていました。それから、「櫂」同人ではなかったようですが、岸田さんとつながりのあった詩人ということで、石垣りん、田村隆一、工藤直子などに関する資料も。
 
岸田さんにしてもそうですが、このそうそうたるメンバー、大半は亡くなってしまいました(谷川俊太郎さんなどはまだお元気で、11月3日の文化の日には岸田衿子展の関連行事でご講演をなさるそうですが)。
 
「この世代の詩人の皆さんがみんな亡くなってしまったら、どうなるんだろう」と、展示を見ながら思いました。当方は若い頃、この世代の人々が次々新作を発表するのを見て、尊敬のまなざしで見ていたものですから、そう思うわけです。
 
みなさん、大正後半から昭和一桁の生まれです。口語自由詩を確立した光太郎や萩原朔太郎、そして同世代の北原白秋らとは半世紀ほどの差異ですね。その中間ぐらいの世代が明治末に近い頃の生まれの草野心平、宮澤賢治、中原中也といったあたりでしょうか。
 
光太郎世代の詩は、『中央公論』『文藝春秋』『週刊朝日』など一般向けの総合雑誌にも掲載されました。心平世代、岸田さん世代もそうでしょう。しかし、現代、一般向け雑誌で詩人の詩作品を目にする機会はほとんど無いように思います。
 
何も「昔の一般向け雑誌は、詩を載せるほど高尚だった」とか「現代の詩人はだめだ」とかいうつもりはありません。それは世の中における「詩人の立ち位置」の問題だと思います。
 
昔は詩人と社会との距離がかなり近いところにあったように思います。だから、詩の世界で名をなした人は一般にも知られていました。まあ、戦時中にはそれが悪い方に利用されてしまった部分もありますが。ところが現代はどうもそうではないような気がします。
 
はっきり言えば、現代の詩人たちがどういう詩を書いているのか、もっと厳しく言えば、現代、どういう詩人がいるのか、そういったこともあまり知られていないような気がします。それは詩人の皆さんだけの責任ではないのでしょうし、世の中の好みや各種メディアの多様化などとも無関係ではないのでしょう。
 
これから先、「詩」というものが世の中でどのように受け入れられていくのか、そういったことを考えさせられた展覧会でした。

今日は高崎市にある群馬県立土屋文明記念文学館に行って参りました。

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同館では現在、企画展「忘れた秋-おもいでは永遠(とわ)に 岸田衿子展」が開催中です。

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岸田衿子さん。昭和4年(1929)の生まれ。昨年、亡くなりました。一般にはあまりなじみのないお名前かも知れませんが、詩人です。女優の岸田今日子さんのお姉さん、といった方がわかりやすいかもしれませんね(今日子さんも平成18年に亡くなりました)。しかし、意外といえば意外なところで我々の身近な所にその足跡が残っています。一例を挙げれば、アニメ「フランダースの犬」「アルプスの少女ハイジ」などの主題歌は岸田さんの作詞です。
 
光太郎とは直接の関わりはないと思います。ただ、岸田さんのお父さんが、劇作家の岸田国士(明23=1890~昭29=1954)。戦前から戦時中、大政翼賛会の文化部長を務めていました。この岸田国士の勧めで、光太郎は中央協力会議議員、そして大政翼賛会文化部詩部会長を引き受けます。
 
戦後の光太郎の連作詩、「暗愚小伝」中の「協力会議」に、次の一節があります。
 
 協力会議といふものができて001
 民意を上通するといふ
 かねて尊敬してゐた人が来て
 或夜国情の非をつぶさに語り、
 私に委員になれといふ。
 だしぬけを驚いてゐる世代でない。
 民意が上通できるなら、
 上通したいことは山ほどある。
 結局私は委員になつた。
 
この「かねて尊敬してゐた人」が岸田国士です。
 
そういうわけで、もしかしたら衿子さん、今日子さんの姉妹も光太郎に会っているかも知れませんが、そういう記録は確認できていません。
 
さて、なぜその岸田衿子さんの展覧会に行ったかというと、今回の企画のチーフの学芸員が連翹忌に御参加いただいている佐藤浩美さん(光太郎に関する御著書もあります)だからという単純な理由でした(招待券もいただきましたし)。それから同館に最近、こちらで把握していない書簡が収蔵されたので、それを見に行くついでもありました。
 
しかし、やはり「いいな」と思いました。展示自体が凝った展示だったこともありましたし、岸田さんの世界も「いいな」でした。
 
今年に入ってからも、4月の「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」、9月には「東と西の出会い 生誕125年 バーナード・リーチ展」と、光太郎と直接関わるわけでもない展覧会に足を運びました。他にもブログには書きませんでしたが、「古代アンデス展」やら、ぶらりと根津の竹久夢二美術館に立ち寄ったりもしています。やはり、こういう経験で世界が拡がる気がしますね。
 
ところで、今回思つたのは、「詩人」の位置づけです。その辺についてはまた明日。

先日、地域の新刊書店によった際、偶然見かけてこんな本を買いました。ムック(雑誌と書籍の中間という位置づけ)です。 

2012/10/23  Town Mook        定価: 750円(税込)

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上の表紙画像にもある東京駅の赤煉瓦駅舎、先頃改修が終わり、ほぼ100周年(開業記念式典は大正3年=1914の12月18日。その4日後に上野精養軒で光太郎智恵子の結婚披露宴が行われています)ということで、テレビなどでよく紹介されています。さらに今年は元号に換算してみると、1912年が大正元年ですから、大正101年にあたります。そんなわけで、大正時代、ちょっとしたブームですね。
 
光太郎、智恵子も生きた大正時代。やはり時代の流れの中での位置づけというのも重要なことだと思います。そう思い、価格も手ごろだったので購入しました。実は通販サイトで似たような本を少し前に見つけていたのですが、価格が高めで二の足を踏みました。こちらは750円でお買い得だったな、という感じです。
 
光太郎に関しては、白樺派を扱った項に名前が出てきますし、集合写真に写っています。智恵子に関しては表紙のデザインをした『青鞜』が紹介されています。ただし智恵子の名が出てこないのが残念ですが。
 
その他、やはり同時代ということで、二人と関わった人々がたくさん紹介されています。また、当時の町並みの写真や絵図、現在も残る当時の建築物の写真など、興味深い内容でした。
 
「ほう」と思ったのは、大正12年(1923)の関東大震災の「東京市火災延焼状況」という古地図。隅田川両岸は壊滅的な状況で、西岸は下谷あたりまで燃えていますが、光太郎のアトリエのあった駒込林町は無事だったというのが視覚的によくわかりました。ちなみに震災当日、智恵子は二本松に帰省中。光太郎は被災者のためにアトリエを解放したという話も伝わっています。
 
さて、これから百年ほど経って、平成はどのように評価、紹介されるのでしょうか。

インターネット通販サイトの「amazon」さん。光太郎関連で新刊書籍がないかどうか、ときおりチェックしています。
 
昨日見て驚いたのは、電子書籍として光太郎作品がずらっと並んでいることです。
 
ラインナップは以下の通り。
 
ヒウザン会とパンの会/詩について語らず —編集子への手紙—/珈琲店より/自分と詩との関係/能の彫刻美/九代目団十郎の首/(私はさきごろ)/智恵子の半生/人の首/回想録/顔/ミケランジェロの彫刻写真に題す/智恵子の紙絵/緑色の太陽/啄木と賢治/小刀の味/木彫ウソを作った時/蝉の美と造型/山の雪/装幀について/美の日本的源泉 /山の秋/黄山谷について/自作肖像漫談 /山の春/開墾/書について/美術学校時代/智恵子抄/気仙沼/触覚の世界
 
これは来月からamazonさんで販売される電子書籍端末「Kindle Paperwhite」のためのものです。
 
ちなみに楽天さんで販売されている電子000書籍端末「コボタッチ」でも同じラインナップが出てきます。
 
また、どちらにも光雲の懐古談が入っています。どうも大本(おおもと)は以前からある電子図書館、青空文庫さんのようです。
 
結局、そういうラインナップしか用意できないのであれば、わざわざ端末を買う理由はあまりないように思われますが、今後、どうなっていくのか注目してみたいものです。
 
今朝の朝日新聞さんにも記事が載っていましたが、こうした電子書籍、いろいろと話題になっています。アメリカでは「kindle」が2007年に発売され、電子書籍普及の起爆剤となったといわれていて、それが日本にも上陸、大手通販サイトの「amazon」さんの顧客が取り込めそうだとか……。
 
日本ではまだまだ電子書籍は普及していないようです。朝日の記事にのった調査では「既に電子書籍を読んでいる」が5%、「近い将来読んでみたい」が30%、しかし、「読んでみたくない」が56%いるとのことです。
 
この「読んでみたくない」が、「電子」という言葉に拒絶反応を起こす人たちなのか、それとも電子媒体だろうが昔ながらの紙の印刷だろうが、読書ということをしない人たちなのか、よくわかりません。
 
まあ、どれだけ電子媒体が進んでも紙の本が無くなることはないでしょうし、その普及が読書離れに多少なりとも歯止めをかける結果になるのであれば、いいことだと思います。ただし、何でもかんでも電子でなければ時代遅れだ、という風潮にはなってほしくないものですね。逆に利便性を全く考慮せず、単に情趣の面から「本は紙でなきゃならん。電子ナントカなんて邪道じゃ!」という頭の固さでも困ると思います。

大正8年(1919)9月15日、長野県は善光寺さんで、明治24年(1891)の大火で焼失した仁王像に代わる新しく作られた仁王像の開眼供養が行われました。
 
阿形・吽形、ともに高さ一丈六尺、いわゆる「丈六」です。現在の単位に直せば4.84848485 メートル。ただ、実際にはもう少し高いようです。あまりに巨大すぎて、東京から長野までの運搬のため、特別に無蓋貨車をあつらえたという話も伝わっています。材は木曾檜だそうです。この仁王像の作者が、光雲と米原雲海です。
 
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同じ仁王門の、仁王像の裏側にも光雲・雲海合作の三宝荒神、三面大黒天が据えられています。こちらは一回り小さいものですが、それでも七尺五寸(2.27272727 メートル)です。
 
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ちなみに上の画像はすべて大正8年(1919)の開眼供養記念の絵葉書です。
 
これら四体の像は、今も善光寺を訪れる善男善女を迎えてくれています。当方も昨年の暮、家族旅行で立ち寄りました。ブロンズの銅像とはまた違う、木の温かみが感じられるものです。
 
お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください。

001昨日のブログで、島根県立石見美術館の「東京芸大美術館所蔵 日本近代美術の名品展 森鷗外と米原雲海を中心に」を御紹介しました。
 
鷗外については、来月オープンの鷗外記念館を訪れてから、まとめてレポートします。今日はもう一方の米原雲海に関して、簡単に紹介しましょう。
 
雲海は明治2年(1869)、島根・安来の生まれ。長じて大工をしていたのですが、彫刻の道を志し、故郷に妻子を残し(それを隠して)光雲の門をたたきます。それが明治23年のことです。大工として基礎がしっかり出来ていたために、めきめきと頭角を現し、後に文展(文部省美術展覧会)などにも出品、高い評価を受けるようになります。
 
インターネットサイト「青空文庫」さんで、「光雲懐古談」が公開されています。その中の「谷中時代の弟子のこと」に詳細が載っています。
 
明治末、光太郎は留学から帰り、文展などの評を新聞などに発表するようになります。その中では、幼少期から接していた雲海に対しても、歯に衣着せぬ評を与えています(けちょんけちょんにけなしているわけではないのですが)。光太郎は少年時代、米原に木彫を教わったのですが……。
 
ロダンによって西洋近代彫刻への眼を開かれ、日本との目もくらむばかりの格差に打ちのめされていた光太郎にとって、古い仏師の伝統の延長線上にある光雲系の彫刻は、様式にこだわりすぎているように見えたようです。
 
左上の画像は、雲海作「盲人川を渡る」。明治32年(1899)の作、翌年のパリ万博での銀賞受賞作です。ただし光雲の名で出品されました。平成7年3月発行『芸術新潮』第46巻第3号「【特集】日本人が見捨てた明治の美 「置物」彫刻の逆襲」から画像を拝借しました。
 
雲海は大正14年(1925)、数え57歳で没しています。少々早い死です。その少し前、大正8年には光雲との合作で、大きな注文仕事をこなしています(当方、昨年の暮れに見て参りました)。
 
明日はその辺を。

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企画展:鷗外と雲海ゆかり、近代美術の代表作100点--来月26日まで益田・グラントワで /島根

毎日新聞 10月23日(火)16時38分配信

津和野出身の文豪、森鷗外(1862-1922)と、安来出身の彫刻家、米原雲海(1869-1925)にゆかりある作品を集めた「東京芸大美術館所蔵 日本近代美術の名品展」が、益田市有明町のグラントワ・県立石見美術館で開かれている。鷗外の生誕150年を記念し、2人が同時期に教壇に立った東京美術学校の後身、東京芸術大が所蔵する作品を集めた。
 
鷗外は留学先のドイツでヨーロッパの絵画を学ぶ日本の洋画家たちと接点を持ち、その後も交流を続けた。東京美術学校では美術解剖学を教えるなど日本の近代美術とかかわりが深い。雲海は高村光雲に師事し、優れた技量で木彫界に革命を起こしたとされる。
石見美術館の柱の一つが鷗外であり、木彫家の澄川喜一グラントワセンター長が東京芸大学長を務め、同大美術館設立にも尽力したことから企画展が実現した。

会場には、鷗外と交流のあった画家や、雲海ゆかりの彫刻家らの作品が並ぶ。国重要文化財の洋画2点や黒田清輝、横山大観らの作品を含む日本近代美術の代表作、雲海や光雲、光雲の息子で詩人として知られる高村光太郎らの彫刻など、展示作品は約100点に及ぶ。第2会場には、県出身者が在学時に制作した作品も並ぶ。
11月26日まで。薩摩雅登教授による記念講演会(11月4日)など関連イベントも開かれる。グラントワ(0856・31・1860)。
 
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今年は森鷗外生誕150年ということで、来月には千駄木に記念館が新しくオープンするなど、各地でイベント等があります。生誕地・島根でもこういう企画があるのですね。光雲や光太郎の作も出るとのこと。近くの地域の方、行かれてみてはいかがでしょうか。
 
鷗外と光太郎もなかなか面白い関わりがいろいろありますので、いずれこのブログで紹介します。
 
一方の米原雲海、上記記事にもあるとおり、光雲の弟子の一人です。ただし、故郷・出雲である程度修行を積んでからの入門で、生え抜きの光雲門下ではありませんでした。当然、光太郎とも関わりがあります。明日はそのあたりを書いてみようかと思っています。

『光太郎資料』38集を片付け000たと思ったら、もうすぐ39集の編集を始めました。これが自分の勉強にもなっています。
 
『光太郎資料』、メインは筑摩書房の『高村光太郎全集』で未収録だった作品群「光太郎遺珠」をテーマ別に再構築することです。37集では欧米留学関連、38集では新詩社・『スバル』・パンの会・『白樺』をまとめ、39集では造形作家としての光太郎に関わる作品をまとめようと思っています。
 
「光太郎遺珠」、現在は高村光太郎研究会で年刊刊行の雑誌『高村光太郎研究』に連載させていただいておりますが、どうしても「紙幅の都合」があります。自分一人で大量のページを占めるわけにもいかず、いきおい、図版等は絶対に必要なものを除いて割愛せざるを得ません。それでもかなりのページ数を費やしてしまい、他に削れるのは作品解題の部分だけです。ところが、それを言い訳に、調査が不十分なまま解題を書いていたな、と反省しています。
 
改めて個人編集の『光太郎資料』に載せるに際し、こういう所が不十分だったという点が目につき、調べてみるといろいろなことがわかります。そういう点で、自分の勉強にもなるというわけです。
 
例えば、明治 43年(1910)に光太郎は神田淡路町に日本初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を開きましたが、翌明治44年(1911)に書かれた葉書には、パリにも出店する計画がある旨を記しています。「光太郎遺珠」の段階では、ろくすっぽ調べもせず、解題に「巴里云々は他の書簡等にはその記述が見えず、そうした腹案があったことが初めて確認された。」と書きました。ところが、よくよく調べてみると、この葉書の書かれた年の『読売新聞』にちゃんと同じことが書いてありました。赤面ものですね。
 
「短く書かなければいけない」ということは「調べなくてよい」と同義語ではありませんね。個人編集の『光太郎資料』では、ページ数も気にする必要がありませんから、言い訳もできません。しっかり調べて書きたいと思っています。

BS朝日で本日放送された「若大将のゆうゆう散歩 「千駄木(前半)」」。録画しておきました。今、このブログを書きながら見ています。地上波で今月初めにオンエアがあったのですがうっかり見落とし、BSでの再放送があって助かりました。

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加山雄三さん、冒頭部分で千駄木駅から団子坂を上られました。「森鷗外、高村光太郎、川端康成、夏目漱石ら文豪が暮らした街」と紹介されました。嬉しいですね。こういうところで名前が出なくなってしまわないようにしたいものです。
 
その他、伝統の飴細工のお店や、人情味あふれる商店街などが紹介されています。
 
ところで、千駄木界隈が取り上げられると、「下町」として紹介されます。たしかに不忍通りや今回加山さんが歩いたよみせ通りなど坂の下は「下町」の風情です。しかし、団子坂の上などは「山の手」と言えるはず。結論。千駄木は山の手と下町の混在した街である。どうでしょう? ところで「山の手」の区域も、気取った雰囲気ではなく、そこがこの街のいいところだと思います。
 
明日は「若大将のゆうゆう散歩 「千駄木(後半)」」。17:25からのオンエアです。また、明後日はBS11で、「日本ほのぼの散歩 東京・谷根千」(20:00~)。是非ご覧下さい。
 
 
それから週末にはこんな番組もありますね。福島安達太良山が取り上げられます。 

にっぽん百名山 グッと来る!東北の山たびへ

NHKBSプレミアム 2012年10月27日(土) 19時30分~21時00分

番組内容
秋の東北の山は魅力がいっぱい。山の達人が登山のほか、紅葉の絶景、山麓の祭り、温泉、パワースポット、スイーツなどを楽しむ。福島の安達太良山を田部井淳子と華恵が女子会ハイキング、八甲田の紅葉をほっしゃん。が堪能。津軽の岩木山では、お山参詣を風間トオルが体感する。みなみらんぼうの心に染みる山歩き、w-inds.が沢登りに挑戦。思わず出かけたくなるグッとくる!山旅の魅力が満載。

司会 内藤剛志、中田有紀

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ぜひご覧下さい。

今日、10月21日は、昭和18年(1943)、神宮外苑で学徒出陣の壮行式があった日だそうです。昭和アーカイブス的な番組などで映像を御覧になった方もいらっしゃると思います。
 
そういうわけで、昨日の朝日新聞土曜版の連載「うたの旅人」では、信時潔(のぶとききよし)作曲の「海ゆかば」が扱われました。
 
ある程度の年代以上の方は「ああ、あの曲か」と思い当たられるでしょう。その壮行式の際にも、それからラジオの大本営発表-山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(昭和18年)、アッツ島守備隊の全員玉砕(同)などの悲劇的な報道のバックには必ず使われたとのことです。
 
信時は童謡「一番星みつけた」などの作曲者でもありますが、戦時中は「海ゆかば」のような軍歌、戦時歌謡も作っていました。当方が刊行している冊子『光太郎資料』に「音楽・レコードと光太郎」という項があり、いずれそこで詳細を記しますが、その中には光太郎作詞のものもあります。
 
一つは昭和16年(1941)作、「新穀感謝の歌」。宮中で行われていた新嘗祭に関わるものです。
 
   新穀感謝の歌
 
 あらたふと
 あきのみのりの初穂をば
 すめらみことのみそなはし
 とほつみおやに神神に
 たてまつる日よいまは来ぬ
 (二番以降略)

もう一曲は昭和17年(1942)作、「われら文化を」。これは岩波書店の歌として作曲されたものですが、世相を反映した歌詞になっています。
 
  われら文化を
 
 あめのした 宇(いへ)と為す
 かのいにしへの みことのり
 われら文化を つちかふともがら、
 はしきやし世に たけく生きむ。
 (二番以降略)
 
ちなみにこの曲は平成20年(2008)、財団法人日本伝統文化振興財団から発行されたCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」に収録されています。「新穀感謝の歌」は収録されていません。どうも発表当時もレコードにならなかったようです。もし「新穀感謝の歌」のレコードについてご存知の方がいらっしゃいましたら御一報下さい。

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光太郎も信時も、そして個人ではなく企業としての岩波書店も、そしてその他ほとんど全ての人々が、否応なしに戦時体制の歯車として組み込まれていったのです。
 
と、書くと、「いやそうではない。光太郎は衷心から鬼畜米英の覆滅を願い、赤心から大君のためにその命を捧げ奉る覚悟であったのだ」という論者がいます。はたしてそうなのでしょうか……。

「一枚物」ということで、昨日は「第二回中央協力会議要旨」を紹介しました。
 
今日の一枚物は、まずこれです。

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昭和16年(1941)10月31日、牛込の城西仏教会館で開催された「文芸講演と詩朗読の会」のプログラムです。

やはりB4判の二つ折り一枚、両面印刷です。新潟を拠点に活動し、光太郎も寄稿した雑誌『詩と詩人』を刊行していた若い詩人のグループ「詩と詩人社」主催です。講演の部のトップバッターが光太郎です。残念ながらこの時の講演の内容は今のところ見つかっていませんが、どこかからひょっこり出てくることを期待しています。
 
ついでにもう一つ。

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紙ではなく木の板に印刷された物で、裏に金具がついており、壁掛けのようになっています(最初からそういう形だったのかどうかは不明ですが)。大きさは縦約18.5㌢、横約14㌢。これが何なのかというと、明治39年(1906)、留学のため渡米した光太郎がバンクーバーからモントリオールまで乗ったカナディアン・パシフィック・ラインの大陸横断鉄道のものです。正確な年代がわかりませんが、おそらく光太郎もこんな感じの列車に乗ったのだと思われます。
 
とりあえず今日はこの辺で。

「一枚物(いちまいもの)」。古書籍商の業界用語で、無綴で書籍の形になっていないもの-主に印刷物-を指します。「刷り物」という場合もあります。8/22のブログで紹介した三陸汽船の運賃表などもこの類です。広い意味では絵葉書や古地図などもこのカデゴリーに入ります。
 
面白い出物がないかと、こういうものにも目を光らせているのですが、最近、こんなものを手に入れました。二つ折りのB4判ザラ紙6枚(全12ページ)をホチキスで留めてあり冊子の形になっているので、正確には「一枚物」ではありませんが、まあ似たようなものです。

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タイトルは「第二囘中央協力會議開催要旨」です。「中央協力会議」とは昭和15年(1940)に近衛文麿らが中心となり結成された大政翼賛会の中に置かれた下情上通を目的とした機関です。大政翼賛会内に地方組織として道府県・六大都市・郡・市区町村に各支部が置かれ、各段階の支部にそれぞれ協力会議が付置されて、さらに地方代表、各界代表による「中央協力会議」が持たれたわけです。
 
 光太郎は劇作家・岸田国士のすすめで中央協力会議議員となり、昭和15年の臨時協力会議に出席。この時はその時限りと考えていたようですが、翌16年の第一回、第二回の会議にも出席しています(17年の第三回以降は委員を辞退)。
 
そして今回手に入れたのが、第二回中央協力会議の開催要項です。会場は丸の内の大政翼賛会本部。下の画像は9ページ目。会議の日程です。日付を注意して御覧下さい。

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おわかりでしょうか。まさに太平洋戦争開戦の日、昭和16年12月8日なのです。翌昭和17年の『中央公論』に載った光太郎の散文「十二月八日の記」によれば、そのため会議の開始は午後に延期と決定、待たされている間に開戦を告げる天皇の詔勅が放送され、要項には5日目まで書かれている会議は1日で打ち切りになったそうです。
 
まさに歴史的な日、光太郎も手にしていたであろう要項がこれです。歴史の重みを感じます。中央協力会議に関しては、議事録や事前に配られたであろう議案などは国会図書館に収められていますし、古書市場にも出ますが(ただしむちゃくちゃ高い値段です)、かえってこういう要項は珍しいと思います。
 
他にもちょっと変わった一枚物をいろいろ手に入れていますので、明日以降、少しまとめて紹介しましょう。

昨日と本日、生活圏内の公共図書館に行ってきました。
 
当方、国会図書館さんや日本近代文学館さんなどにもよく足を運びますが、手に入れたい資料・情報によって、生活圏内の公共図書館も利用します。
 
明治大正、昭和前半といった古い資料、新しいものでも一般には流通しないようなものであれば、国会図書館等に行き、比較的新しく、そう珍しいものでなければ生活圏内で済ますといったところです。
 
昨日今日は、部分的に光太郎智恵子にふれられている書籍を閲覧、コピーしてきました。事前にそういう書籍があるという情報を得ていたものとして、以下の通りです。
 
・『畸人巡礼怪人礼讃:忘れられた日本人2』ad9f933e-s
  佐野眞一著 毎日新聞社 平成22年……「甘粕夫人と高村智恵子」

・『漱石全集』第16巻 岩波書店 平成7年……「太平洋画会」

・『コミュニティ成田』第74号 成田市市長公室広報課 平成15年
  ……「ふるさと発掘 葉舟の残像」

・『美は脊椎にあり 画家・白石隆一の生涯』小池平和著 本の森
  平成9年……「戦後の模索と高村山荘訪問」

・『富士正晴作品集』第2巻 岩波書店
  昭和63年……「高村光太郎の思い出」

・『夢追い俳句紀行』 大高翔著 日本放送出版協会 平成16年
  ……「雲の峰智恵子の山河ありにけり 高村智恵子 福島・二本松」
 
これらは部分的に光太郎智恵子にふれられているということを知りつつ、購入していませんでした。ほんとは購入すればよいのでしょうが、無限に資産があるわけでもないもので……。そういった場合に、図書館の存在はありがたいわけです。必要部分だけコピーが可能ですので。しかし、それ以外の部分を無視してしまうというのも、著者の方々には申し訳ない気もしますが……。
 
また、一般の図書館の強みとしては、開架であること。国会図書館等はほとんどの蔵書が書庫にしまわれており、申請して出して貰う方式です。これだと目的の書籍がはっきりしている場合にはかまいませんが、そうでない場合に、なかなか掘り出し物に出会えません。
 
今回、開架の棚をながめながら、掘り出し物も見つけました。
 
・『森鷗外の手紙』 山崎国紀著 大修館書店 平成11年……「大正時代の手紙 27高村光太郎あて」
・『豪華客船の文化史』 野間恒著 NTT出版 平成5年……こちらは光太郎に関する記述はありませんが、光太郎が乗った船について詳しく記されています。
 
開架式だと、書籍を手に取ってぱらぱらめくり、中身が見られるというのが良い点です。
 
それにしても、昨日今日で別々の図書館に行きましたが、どちらも平日にもかかわらず結構にぎわっているのが嬉しいかぎりです。少し前、某出版社の新聞広告で「ヒトは、本を読まねばサルである。」というコピーを目にしました。障害を持つ方々に対する配慮が欠けているんじゃないかな、とも思いましたが、そうでない人々にとってはまったくその通りだと思います。「文化国家日本」であるべきですね。
 
さて、秋の夜長、取ってきたコピーで「読書」にいそしもうと思います。

連翹忌に御参加頂いている練馬在住の豊岡史朗氏から詩誌『虹』三冊頂きました。ありがたいことです。
 
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平成22年(2010)11月刊行の第1号、同23年(2011)8月刊行の第2号、そして今年8月刊行の第3号です。各号に〈高村光太郎論〉の総題のもとに氏の論考が掲載されています。「光太郎とヒューマニズム」(第1号)、「詩集『智恵子抄』」(第2号)、「戦争期-満州事変から敗戦まで」(第3号)。それぞれ25ページ前後の比較的長いもので、素晴らしいお仕事です。木戸多美子さんの時にも触れましたが、やはり詩を書かれる方の読み取りというのは、我々凡愚の見落としてしまうようなところまで感覚が行き届いています。お馴染みの光太郎作品でも、「このように読めるのか」と感心させられました。
 
「自分もこんなものを書いているぞ」という方、情報をお寄せ下さい。このサイト、光太郎智恵子を敬愛する全ての人々のネットワークターミナルとしたいと思っておりますので。
 

別件ですが、もう1件、テレビ放映の情報、やはり千駄木がらみです。 

日本ほのぼの散歩「東京・谷根千」

 BS11 2012年10月24日(水) 20時00分~20時54分
 
東京の中心地に近く“山の手"の一角でありながら、今なお下町としての風情を残す“谷根千"の愛称で親しまれている谷中・根津・千駄木。藤吉久美子がほのぼの散歩します。

『街並み』『風景』『食』を楽しみながら近所をちょっと散歩をしているような気分を味わいませんか? この番組では場所(四季)ごとに歴史に沿った史跡・名所巡や名宿や温泉などをご紹介します。

出演者  藤吉久美子

ぜひ御覧下さい。

BS朝日の番組「百年名家」を見て、千駄木の光太郎アトリエが空襲で焼け落ちた時のエピソードを思い出しましたので紹介します。
 
6/25のブログで紹介した『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載された元日本詩人クラブ会長の寺田弘氏による「証言」です。

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 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って。これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやっていたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうに立ち止まったのが、印象的でしたね。
 
それに対する爆笑問題のお二人のコメント。
 
田中 自分の家が燃えているのに。
太田 きれいだねって。
田中 なかなかね、そんなこと言えないじゃないですか。
太田 これは言えないよ。言えないっていうか、ちょっと狂気ですよね。なんでもそうやって芸術家
っていうのはさ。表現者っていう職業はどんなことでもそうやってとらえますよね。ああこれはきれい だとかなんだとかって言ってる場合じゃねえんだ、馬鹿野郎ってことですよね。
田中 まあ、どうなんですかね。思い出の家とか、本当はもっとすごい思いをしてるんでしょうけど。空襲ですもんね。でもそんなときに、そこで、こう言ってしまうという。
太田 言ってしまうというか、本気で感じちゃうところに問題があるんですよ。やっぱりこういう表現者ってどこか異常ですからね。だから普通の生活はできないですよね、こういう人たちは。特にこの 時代の文壇の人たちってのはみんなそうでしょうけどね。
 
当方、焼け落ちるアトリエを見つめる光太郎の姿に、芥川龍之介作「地獄変」の主人公、絵師・良秀の姿が重なります。

ところで『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』、売れているのでしょうか? 当方の「証言」も掲載されているので気に掛かります。少し前、近所の書店では新刊コーナーに1冊置いてありましたし、高速バスのターミナルがあるので時々立ち寄る浜松町の書店では平積みになっていましたが。

さて、千駄木。予想通り「若大将のゆうゆう散歩 千駄木(後半)」も再放送されるようです。 

若大将のゆうゆう散歩 「千駄木(後半)」

BS朝日  2012年10月23日(火) 17時25分~18時00分
 
今日は昨日にひき続き文京区「千駄木」をお散歩 ▽日本では数少ないレースドール作家の繊細な技 ▽伝統技術でつくる木製風呂桶の父娘職人

番組概要
さあ、若大将と一緒に街に出ませんか?散歩の楽しみ方、お勧めコースをお茶の間に紹介するこの番組。好奇心旺盛な加山さんは永遠の少年。目をキラキラ輝かせながら、街の息づかい、人とのふれあいを体験します。

出演者    加山雄三、生稲晃子、佐分千恵(テレビ朝日アナウンサー)

ぜひ御覧下さい。

福岡に行っている間に録画予約をしておいたテレビ放映を見ました。
 
BS朝日の「百年名家 東京 根津・千駄木~文豪の愛」です。最初に今年11月にオープンする森鷗外記念館の前でのロケ。その後、根津・千駄木は文豪が多く暮らした街だということで、漱石の旧居跡の碑や、宮本百合子旧宅跡の案内板にまじり、光太郎アトリエ跡や青鞜社発祥の地の案内板が映りました。
 
その後はこの一角に残る古い邸宅、店舗からのレポート。メインは若い頃の光太郎が暮らし、後に光太郎の弟、豊周が跡を継いで現在に至る高村家の隣に建つ旧安田楠雄邸でした。大正浪漫あふれる室内の造作、調度に感心いたしました。こちらは公益財団法人・日本ナショナルトラストに寄贈され、一般公開されています。来月に鷗外記念館がオープンしたら併せて行ってみようと思いました。
 
それにしても、指呼の距離にあった光太郎のアトリエは戦災で炎上してしまったのに、こちらは無事だったというのが何よりです(お隣の高村家も無事でした)。
 
東京という街、むろん大都会ですが、実は下手な地方都市よりずっと緑が多い街です。この千駄木近辺などもそうです。数十年前、光太郎や智恵子がここを歩いていたことに思いをはせながら散策してみませんか?
 
そうそう、こんな番組も放送されます。 

2012年10月22日(月) 17時25分~18時00分
 
今日は文京区「千駄木」をお散歩 ▽懐かしいあめ細工の実演販売に加山さん感激! ▽人情味あふれる商店街散策

番組概要
さあ、若大将と一緒に街に出ませんか?散歩の楽しみ方、お勧めコースをお茶の間に紹介するこの番組。好奇心旺盛な加山さんは永遠の少年。目をキラキラ輝かせながら、街の息づかい、人とのふれあいを体験します。

出演者 加山雄三、生稲晃子、佐分千恵(テレビ朝日アナウンサー)


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地上波で今月初めにオンエアがあったのですが、気がつきませんでした。BSでの再放送です。「千駄木(後半)」も放映してほしいものです。

アクセス数5,000件を突破しました。ありがとうございます。
 
福岡から帰ってきました。今回の福岡行きは、玄海椿さんの一人芝居「智恵子抄」が目的でした。
 
玄海さんは、劇団ひまわり福岡アクターズスクールの講師を務めるかたわら、ご自身で「椿演劇塾」を主宰、後進の育成にも力を入れられています。もちろんご自身の舞台も。九州を拠点に「舞台人生37年」だそうで、平成12年に独立、ご自分で脚本を書いた一人芝居が約20本。「智恵子抄」はそのうちの一つだそうです。
 
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今回の公演は「グラン・ジュテ」と銘打ったツアーの2日目。これは玄海さんのお嬢さんの平田愛咲(あずさ)さんとのジョイントです。
 
愛咲さんはミュージカル女優という分類になるのでしょうか。東京の東宝ミュージカルアカデミーのご出身で、本年、ハンガリーで行われた「第1回シルヴェスター・リーヴァイ国際ミュージカル歌唱コンクール」でグランプリを獲得された他、はいだしょうこさんとのWキャストで松平健さん主演のミュージカル「王様と私」などにご出演なさっています。

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愛咲さんのステージは、そういうわけでミュージカルの劇中歌が中心。それだけでなく、お仲間の堀江慎也さんをゲストに、デュエットやタップダンスなども織り交ぜたステージでした。
 
「グラン・ジュテ」としては、今月7日の福岡ふくふくホールを皮切りに、昨日の福岡ロックハリウッドビル・Eternity(ダイニングバーです)、今日は大分、さらに長崎、東京、また福岡、そして熊本と続くとのことです。
 
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玄海さんの部は、20作品あるというレパートリーの中からいろいろやられるそうで、「智恵子抄」は7日と昨日だけだそうです。他には「坂本龍馬が愛した女」「唐人お吉」などなど。
 
玄海さん演じる智恵子。光太郎と知り合った頃から、結婚、その後の貧窮生活、絵画への絶望、実家の破産を経て、夢幻界を彷徨う姿、そしてその終焉までを情念たっぷりに表現されていました。ほんとに「情念」という言葉がぴったりで、「女はコワい」と思いました。細かなエピソードなどもよく調べられていて感心させられましたし、智恵子の魂の叫びは「さもありなん」という感じでした。それでも光太郎智恵子をおとしめるものではなく、そうならざるをえなかった二人、といった点はしっかりと踏まえられていたように思います。
 
終演後、お弟子さん達と一緒に、会場のEternityさんでの打ち上げに参加させていただきました。皆さん、心から演劇を愛されている方ばかりでした。連翹忌にもお誘いしましたし、機会があれば東京や東北でも「智恵子抄」を演じてみたいそうです。自分の所のイベントで呼んでみよう、という方がいらっしゃいましたらお声がけ下さい。仲介いたします。
 
いつも書いていますが、こういう分野でも光太郎智恵子をどんどん扱っていただくのはありがたいことです。また、劇団ひまわりさんで使っている子供達のテキストに「あどけない話」が昔からずっと載っているとのこと。これもありがたいことです。明治大正昭和の初めに、峻烈な「生」の試みに挑んだ光太郎智恵子の世界、いつまでも語り継がれてほしいものですから。

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今朝、成田を飛び立ち、九州は福岡、博多区中洲に来ています。

玄海椿さんという、こちらを拠点に演劇をなさっている方の一人芝居「智恵子抄」を見て参りました。

詳しくは帰ってからレポートいたします。

テレビ放映の情報です。気がつくのが遅れ、紹介が遅くなってしまいました。 

百年名家 「東京 根津・千駄木~文豪の愛したお屋敷町~」

 BS朝日1 2012年10月14日(日) 12時00分~12時55分 の放送内容
 
「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、親しまれる谷中、根津、千駄木地区。夏目漱石や森鴎外などが居を構え、文豪たちに愛された閑静なお屋敷町を八嶋さんと本上さんが巡ります。

番組内容

最初に訪れたのは千駄木の洋館。ステンドグラスには、当時の社会情勢を反映した戦闘機と戦艦が描かれている。また、女中さんの呼び出し装置など様々な工夫も。そんな邸宅の収納を整理していると意外なものを発見。次に向かったのは、大正8年建築の大邸宅。在来建築技術と西洋技術を融合して建てられた。戦時中の空襲にも焼け残ったこの家にあったのは、なんと防空壕。その入口は、何とも意外な場所に隠されていた。最後に、根津の料理店を訪ねる。文化庁指定登録有形文化財の店内中央には、なんと築百年を超える土蔵が残されていた。新旧の混ざり合った贅沢な空間で、大都会に息づく歴史の重さに心を打たれる二人だった。

番組概要

百年名家~築100年の家を訪ねる旅~▽築100年以上の家屋を訪ね、そこに暮らす家族や街の様子を紹介。今も息づく伝統的な家と生活を守り続ける人々に触れ、生きるヒントや豊かな生活を送るための知恵を探します

出演者

八嶋智人、本上まなみ
 
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この番組、昨年、震災直前に当方の住まう香取市でロケを行い、追加で震災後の惨状を交えて放送されました。それ以来、親しみを感じている番組です。
 
今回の注目は、番組内容の中にある「大正8年建築の大邸宅」。旧安田楠雄邸というところで、安田財閥に関わります。この家、通称「155番地」=高村家(光太郎実家)のお隣です。そんなわけで、平成21年にはここで「となりの高村さん展」という一風変わった展覧会が開かれました。
 
今回も高村家に関して触れられることを期待します。
 
★第一部『愛ガ咲ク コンサート』
 第二部『智恵子抄』(高村光太郎への愛を一生貫き、罵り、叫び、崩れていった、女の半世)

を観に行って参ります。
 
そこで、「百年名家」は録画予約して出かけます。

嵐のように現れて、嵐のように去っていきました。宇宙人。
 
その名は「モンデン・モモ」。そういう名前なので「何人ですか?」と訊かれるそうです。すると、自分で「宇宙人です」と答えるそうです。
 
その実態は、東京芸術大学声楽科出身のシャンソン歌手です。ちなみに「モンデン」は本名で、漢字で「門田」だそうです。
 
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オフィシャルページ http://www.momoly.net/TOP.html
 
正統派のシャンソン以外にも、桐朋学園芸術短期大学で講師をなさったり、他にも子供達とのミュージカルとか、いろいろと手を広げてらっしゃいます。
 
その中の一つが、光太郎の『智恵子抄』などの詩にご自分で曲をつけて歌われること。これまでにその系統では3枚のCDをリリースされています。
 
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2枚目のCD 「モモの智恵子抄」2005年 北川太一先生が推薦文を寄せられています。
 
当方とは、10年くらいのつきあいになるでしょうか。1枚目のCDを出された頃ネットで購入し、ライヴのお誘いを受けて足を運んだりしているうちに、いろいろお手伝いをさせていただくようになりました。3年前には楽譜集も出版され、そちらの編集や解説、一部の曲では合唱編曲を当方が行ったりもしました。
 
いろいろな方が光太郎の詩に曲をつけた作品を発表されていますが、モモさんの曲の特徴としては、メロディーラインの美しさです。やはり、バックボーンにシャンソンがあるせいでしょう。
 
さて、モモさん。来月、「智恵子抄」系を織り込んだコンサートツアーを企画なさっていて、その打ち合わせに見えられました。成田の音楽機材業者に用事がおありだということで、ついでに香取までいらしていただきました。
 
11/16(金) 18:00~ 二本松御苑さん(パーティー/イベントホール)での「レディースコンサート」が皮切りです。こちらは「智恵子抄」はメインではなく、シャンソンが中心だそうです。
 
翌11/17(土)には、やはり福島の川内村にある旅館、小松屋さんで、囲炉裏を囲みながらのライヴ。

川内村は、原発事故で一躍有名になってしまった村ですが、光太郎を敬愛してやまなかった詩人・草野心平ゆかりの地です。毎年7月には心平を偲ぶ「天山祭り」というイベントが開かれています。この日は光太郎、草野心平、そして二人と関わりの深い宮澤賢治をからめるそうです。
 
そして移動日をはさんで、11/19(月)には原宿のアコスタディオさんで「モモの智恵子抄2012 智恵子飛ぶ」。モノドラマ形式でがっつりやるそうです。
 
当方、サポートスタッフとして帯同します。興味のある方、上記リンクのモモさんのオフィシャルページまたはブログから連絡を取ってみてください。

先週末に『光太郎資料』第38集を発送い000たしましたところ、お礼状やらメール、お電話やらたくさんいただいております。ありがとうございます。こちらが勝手に送りつけているものに対し、かえって恐縮しております。
 
光太郎作詞の国民歌謡「歩くうた」に関してレポートを載せたところ、「子供の頃、歩きながら歌っていた歌で、光太郎作詞とは知らなかったので、驚きだ」というようなお話もありました。
 
中には37集を含めて追加でご用命いただいたり、執筆依頼なども舞い込んできたりしました。なにやらいわゆる「釣り」=フィッシング詐欺のようで気が引けるのですが、せっかくのお声がけですので応えさせていただきます。
 
その他、光太郎智恵子光雲に関わるイベントや企画展、出版等のご予定がございましたら、出来る限り協力させていただきますのでお声がけください。
 
明日はそういった件で当方自宅兼事務所に「宇宙人」がお見えになります。詳細は明日以降のブログにて。

一昨日のブログで光太郎の最後の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる 花巻」が載った『作家画家の温泉だより ポケット四季の温泉旅行』 を紹介しましたので、今日も温泉ネタで。
 
これも以前のブログで紹介しました温泉系テレビ放送を観ました。
 
今日の午前2時からオンエアの山崎まゆみの混浴秘湯めぐり Part2(CS362 旅チャンネル)と、先週、再放送があったCS309 フジテレビNEXTのもっと温泉に行こう! 花巻編。どちらもCS放送なのですが、無料放送の日でしたので、普通に観ることが出来ました。
 
「山崎まゆみの……」の方は、昭和27年(1952)6月、十和田湖を訪れた光太郎が足をのばした青森の酸ヶ湯温泉でした。ネットで見た番組紹介では「十和田湖の美しさを交え……」とあったのに十和田湖は映りませんでした。それでも素朴な湯治場の雰囲気を残す宿の様子が実によいと思いました。おそらく光太郎が立ち寄った際の建物が現存しているようです。
 
もう一方の「もっと温泉に……」。こち001らは花巻で暮らしていた頃の光太郎が何度か訪れた花巻温泉と西鉛温泉でした。酸ヶ湯と違い近代的な建物のホテルからのレポートでしたが、光太郎が揮毫した宮澤賢治の「雨ニモマケズ」碑や、その他花巻の風景もけっこう紹介されていました。
 
それにしても驚きました。最近の旅番組では「※撮影のためバスタオルを着用しています」というテロップが出るのが普通ですが、「もっと温泉に行こう!」ではそれが出ません。スタッフがサボっているわけではなく、そのテロップを出す必要がないということです。ネットの公式サイトでは「番組ならではの“本物の入浴シーン”も見逃す事が出来ない!」と書かれています。いろいろ自主規制的な部分がやかましい昨今のテレビですが、今時こんな番組があったのか! というのが正直な感想です。だから深夜のオンエアなのかと変に納得しました。
 
当方、この秋もあちこちに出かけます。行った先で立ち寄り湯を探してつかってこようと思いました。番組の中で山崎まゆみさんもおっしゃっていましたが、そういうところでの地元の方々との触れ合いが一つの魅力だと思います。

当方が編集、刊行しております冊子、『光太郎資料』の第38集。連翹忌の名簿に名前のある方、全国の光太郎智恵子光雲に関係しそうな文学館、美術館、図書館等への発送を完了しました。
 
9/5のブログでも御紹介しましたが、元々は北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期で刊行されていたもので、その名跡をお譲り頂き、当方が編集、刊行しております。題字は北川先生の時代のものをスキャンして使っています。
 
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刊行といっても、殆ど手作業です。原稿の作成はパソコン(北川先生の時代はワープロが導入された最後の頃を除き、鉄筆にガリ版だったので、雲泥の差だとは思いますが)。印刷は4月に刊行した第37集はパソコンのプリンタでプリントアウトしましたが、インクの消費量とそれに要する時間が膨大で、今回は印刷のみ地元の印刷業者に頼みました。丁合(ちょうあい…… 印刷された用紙を一冊になるようページ順に集める作業)と綴じ込みは自宅での手作業です。したがって、乱丁、落丁があるかも知れません。不良品はお取り替えいたします。
 
大正末から昭和初年、草野心平が刊行し光太郎も時々寄稿した伝説の詩誌『銅鑼』などもガリ版刷りでした。また、昭和37年、光太郎の七回忌に合わせてやはり草野心平が刊行した光太郎詩集『猛獣篇』もガリ版刷り(草野の覚書によれば逆に丁合や製本は業者に頼んだようですが)。光太郎に関しては豪華な製本よりこうした手作業が伝統です。
 
内容的には以下の通りです。

 「光太郎遺珠」から
別に高村光太郎研究会刊行の『高村光太郎研究』に年1回連載させていただいている「光太郎遺珠」。『高村光太郎全集』補遺作品集ですが、見つかったものから順にどんどん採録しているので内容的にはバラバラです。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介するものです。今回は「新詩社・『スバル』・パンの会・そして『白樺』」と題し、後々まで続いたそれらに関わった人々-与謝野夫妻、水野葉舟、伊上凡骨、木村荘太、森鷗外、武者小路実篤、木下利玄他-に関わるものを集めました。
 
 光太郎回想・訪問記
同時代の人の眼から見た光太郎、ということで集成しようと思っています。今回はパンの会の頃の光太郎が登場する木村荘太の自伝的小説「魔の宴」から。
 
 光雲談話筆記集成
大正から昭和初期にかけ、光太郎の父、光雲がさまざまな書籍、新聞等に幕末から明治初年の懐古談を発表しています。それらも集成していこうと考えています。今回は『漫談 江戸は過ぎる』(昭和4年 萬里閣書房)より「歳の市の話」。
 
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行
光太郎関連の資料を収集する中で、光太郎や智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書が少なからず手に入っています。それらの画像と共に、その地の概要、光太郎や智恵子・光雲との関わりなどを紹介していきます。今回は十和田湖とその周辺。ただ、失敗したな、と思ったのですが、十和田湖周辺は昔の絵葉書と現在で、あまり変わっていないようです。
 
 音楽・レコードに見る光太郎
光太郎が歌曲として作詞した詩、光太郎の詩に曲を付けた楽曲、光太郎・智恵子を題材とした音楽などを紹介します。第37集と今回で、光太郎作詞、飯田信夫作曲の国民歌謡「歩くうた」(昭和16年=1941)を取り上げました。DTMソフトで入力した楽譜も掲載しています。
 
 高村光太郎初出索引(二)
光太郎の文筆作品、装幀、絵画、題字等について、初出(と思われる)掲載誌を五十音順にソートし、索引の形にしました。第37集であ行、今回はか行。
 
手許にまだ残部があります。欲しいという方はご連絡ください。送料のみ(クロネコメール便で80円)頂く形でお分けいたします。

追記 クロネコメール便はサービス終了、クロネコDM便に移行し、送料160円となりました。

最近入手した資料を紹介します。こういうものもあるんだ、という参考にして下さい。 

作家画家の温泉だより ポケット四季の温泉旅行

昭和31年(1956)9月15日 自由国民社発行
 
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光太郎没年の秋に刊行されたものです。おそらく、同じ年4月20日に同じ自由国民社から刊行された『旅行の手帳26 作家・画家の温泉だより/百人百湯』と同一の内容と思われます。
 
四十八人の文学者や芸術家が日本各地の温泉を紹介するもので、光太郎が「ここで浮かれ台で泊まる 花巻」で花巻周辺の温泉地を担当しています。『高村光太郎全集』によれば、歿する一月半前の2月25日に語った内容の談話筆記で、談話筆記としては最後のものです。
 
紹介されているのは志戸平温泉、大沢温泉、鉛温泉、西鉛温泉、花巻温泉、台温泉-まとめて花巻温泉郷。日記や書簡によれば、花巻で暮らした7年の間に、光太郎はたびたびこれらの温泉に逗留しました。老境に入り、結核も病んでいた光太郎にとって、これらの山の出湯(いでゆ)は何よりの妙薬だったのかも知れません。
 
さて、『作家画家の温泉だより ポケット四季の温泉旅行』。光太郎の花巻以外にも、中山義秀の裏磐梯、榊山潤で岳温泉、鹿島孝二が塩原、野田宇太郎による川原湯、市川為雄筆の草津、渋沢秀雄が小湧谷、中谷健一は水上など、光太郎智恵子も訪れた温泉レポートが満載です。
 
何だか温泉に行きたくなってきました(笑)。

昨日、10月5日は智恵子の命日、レモンの日でした。
 
智恵子が亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日。没後74年ということになりますか。
 
下の画像は智恵子の死亡記事と、死亡広告です。

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これを読むと、葬儀は8日に行われたことがわかります。その葬儀の日を謳った光太郎の詩。
 

   荒涼たる帰宅001
 
 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。
 
残された詩稿によれば、智恵子没後3年近く経った昭和16年6月11日の作。雑誌等に発表された形跡がなく、おそらくこの年8月20日刊行の『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されます。
 
愛する者の死を謳い、詩集『智恵子抄』刊行。それで一区切りと考えたのでしょうか、以後、詩の中に智恵子が謳われることがなくなり、空虚な戦争詩の乱発の時期になります。再び智恵子が詩の中に登場するのは戦後になってからでした。
 
ひとまずレモンの日関連、これで終わります。

今日、10月5日は智恵子の命日、レモンの日です。
 
思い立って、駒込染井霊園の高村家のお墓に行って参りました。今年の連翹忌(4月2日、光太郎の命日)以来ですので半年ぶりです。
 
着いたのは午(ひる)近くでしたが、すでに同じようにお参りされた方がいらっしゃったようでした。花やお線香、そしてお約束のレモンが供えてありました。自分もお線香とレモンをお供えして参りました。
 
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光太郎智恵子ゆかりの方でしょうか。それとも当方のような光太郎智恵子ファンでしょうか。はたまた最近は「墓参ラー」といって著名人のお墓参りを趣味にしている方も多いと聞きます。そういう方でしょうか。
 
いずれにせよ、誰もお参りに来ない、という状況にはなってほしくないものです。光太郎智恵子が世の中から忘れ去られてしまったら、そういうことも起こりえます。そうならないように、二人の業績などを語り継ぐ役割をしっかり果たしたいと、改めて思いました。

明日、10月5日は智恵子の命日。「レモンの日」と名付けられています。
 
「レモン」とは、智恵子の臨終を謳った光太郎詩「レモン哀歌」からの命名です。
 
    レモン哀歌                                     
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 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズ色の香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう
 
昭和6年(1931)頃から統合失調症の症状が顕在化してきた智恵子は、九十九里浜での療養を経て、昭和10年(1935)から南品川のゼームス坂病院に入院しました。有名な紙絵はこのゼームス坂病院での制作です。
 
亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日午後9時20分。直接の死因は粟粒性肺結核。数え年53の早すぎる死でした。
 
智恵子の生涯や、光太郎との愛の形については、いろいろな人がいろいろなアプローチで論じています。それは決して肯定的な論調ばかりではありません。たとえば「レモン哀歌」にしても実際に作ったのは2月。終わり2行の「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」というのはフィクションです。雑誌『新女苑』の4月号に載るということで、桜を持ち出してきているわけです。こういう点などをことさらにあげつらい、光太郎の愛は虚構だ、と決めつける論もあります。また、この臨終の場面が「お涙ちょうだいのクサい芝居みたいだ」とこき下ろされることもあります。
 
しかし、どうでしょう。二人の生涯を俯瞰した時、それを「虚構」「クサい芝居」で片付けていいものでしょうか。それではいけない、というのが正直な感想です。といって、逆に「たぐいまれなる崇高な純愛のドラマ」と、諸手を挙げて肯定するのもどうかと思います。
 
結論。公正な眼で、二人の残したいろいろな事物を視野に入れながら捉えることが重要。そのためにもまだまだ埋もれている光太郎智恵子の遺珠を探し続けていきたいと思っております。
 
昨日見せていただいた神奈川近代文学館所蔵の上田静栄あて書簡の中にも、智恵子三回忌にからんで「まる二年たつたといふのにまだ智恵子を身近にばかり感じてゐます」という一文がありました。シニカルな論者はこういうのも光太郎のポーズだと決めつけるのでしょうが……。

今日は横浜の神奈川近代文学館さんに行って参りました。
 
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こちらも国会図書館さんや駒場の日本近代文学館さん同様、収蔵資料が閲覧でき、よく利用させてもらっています。特筆すべきは書簡や草稿などの肉筆ものが充実していること。それも、どんどん新しいものが増え続けていることです。こうしたものは寄贈による場合が多いようで、館から届くメールニュースに毎回のように「寄贈資料」としていろいろ紹介されています。
 
こうしたものを寄贈なさる方々、非常に素晴らしいと思います。売れば売ったでかなりの値がつくものもあり、結局、古書市場に出回っているものは売られたものです。それはそれで入手したいという需要に応える上で大切なのでしょうが、我々個人にとっては、なかなか手が出ません。はっきり言えば、わけのわからない人に買われてしまって、日の目を見ずに死蔵されてしまうということも少なからずあります。
 
その点、こういうちゃんとした公的機関に寄贈されていれば、我々も眼にすることができ、非常にありがたいわけです。
 
いつも一言多いのがこのブログですが、公的機関でも、収蔵資料の状況を外部に発信しなかったりと、死蔵に近い状態にしているところもあり、困ったものだと思うこともしばしばです。
 
さて、今日は詩人の上田静栄に宛てた書簡などを拝見してきました。最近同館に所蔵されたものです。上田には「海に投げた花」(昭和15年=1940)という詩集があり、序文を光太郎が書いています(その草稿も見せていただきました)。つい最近、このブログで誤植についていろいろ書きましたが、上田宛の書簡の中でも誤植の件が話題になっていました。また、智恵子に関する内容も含まれており、興味深いものでした。いずれ「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介するつもりです。

当方の住まう千葉県香取市では夏と秋に「佐原の大祭」が行われております。夏祭りに関しては7/4、7/14のブログで御紹介しました
 
来週末、10/12(金)、13(土)、14(日)の3日間、今度は秋祭りが行われます。

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夏祭りについて書いた時に御紹介しましたが、巨大な人形をいただいた山車(だし)が引き回される祭礼で、江戸時代から続くものです。その山車を飾る彫刻に、光雲と交流のあった彫刻家、石川光明の家系が関わっています。また、人形の中には、光雲がその技を激賞したという三代目・安本亀八作の「活人形」も。
 
横浜では光雲の手がけた神輿(みこし)がねり歩くというニュースがありましたが、佐原の山車には残念ながら高村系の彫刻は入っていません。それでも石川系の彫刻も負けず劣らず巧妙精緻なもの。
 
ぜひお越しください。

昨日のブログで引用した光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。続きを載せます。
 
 中には、夫婦の間で、いつもそんなに争ひや波瀾が起つてゐるやうでは何にも仕事ができなくて困るだらう、とお考へになる方があるかも知れません。しかし、与謝野先生御夫婦は、あの多勢のお子さんの上に、人一倍沢山の仕事を世に出してゐらつしやる。それでお子さんに対しての心遣ひなども実によく行き届いてゐて、あれでいけなければ子供の方がよくないのだと思ふくらゐです。或人はいひます。与謝野さんたちくらゐの体格と健康とを持つてゐれば、あの盛んな生活力も精神力も不思議ではないと。けれども私はそれを逆にほんたうに強い精神力が、あの若々しい健康を保つてゐるのだといひます。その證拠には、以前の晶子さんは随分弱々しい病身な人でしたから。大概の夫婦は五十の声を聞くとすつかり、もう年寄りぶつて、ほんとの茶のみ友達になつて納つてしまふのが普通です。さういふ東洋風な淡白さ、例へば大雅堂の夫婦のやうに、主人が旅から帰つて自分の奥さんをすつかり忘れてしまつて、改まつて挨拶したといふやうなのも勿論面白いと思ひますが、生涯を通じて夫婦の愛に対する情熱、その魂の情熱を失はないといふことは、何かといへば早くから老い込み勝ちな日本の人々に、殊に望みたいと思ひます。
 
逸見久美先生のご講演にもありましたが、とかく与謝野夫婦にはいろいろとゴシップ的な文章が残されています。しかし、近い立ち位置から見た光太郎のこの文章、夫妻の姿をよく捉えていると思います。

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さて、このところ与謝野夫妻がらみの光太郎新資料をいくつか見つけています(逸見先生の御著書に助けられました)。それらは「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介し続けています。どんなものがあるかというと……
 
・光太郎画、晶子短歌揮毫の屏風絵2点(明治44年=1911)
・寛書簡に記された光太郎短歌3首(大正8年=1919)
・光太郎も連名の第二期『明星』発刊案内(大正10年=1921) 
・光太郎から晶子への書簡(大正13年=1924)
・光太郎、与謝野夫妻他連名の木版師伊上凡骨遺作展案内(昭和9年=1934)
 
などです。
 
また、つい最近になって、国立情報学研究所さんのデータベースで、明治39年(1906)に刊行された晶子作品を含む歌集の装幀が光太郎であると登録されていることを知りました。こちらで把握していないもので、鋭意調査中です。もし本当なら、光太郎が装幀を手がけたもののうち、最も古いものということになります。ただ、出版の経緯等、いろいろ問題のある書籍でして、調査が難航しそうです。
 
いずれまとまりましたらご報告いたします。

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