2012年08月

昨日、俳優・内藤武敏さんの訃報にからめて昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」に触れました。
 
昨年、群馬県立土屋文明記念館の企画展「智恵子抄という詩集」の関連行事での上映を観たことも書きましたが、この松竹の「智恵子抄」、もちろん、光太郎・智恵子を描いた作品だから観たかったのですが、もう一つ、どうしても観たかった理由があります。それは、ロケ地の問題です。
 
下の画像は、この映画のパンフレットからスキャンしました(パンフレットはかなり前に入手しました)。この写真を見て、「これ、佐原じゃん」と思ったのです。

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「佐原」は当方の住む街です(平成の大合併で「香取市」となってしまいましたが)。以前のブログにも書きましたが、旧市街では江戸期から戦前の商家建築が多数残り、平成8年、関東で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
 
そのおかげで最近は観光客も多く、さらに、テレビや映画などの撮影がよく行われています。平成9年(1997)の役所広司さん主演、今村昌平監督の映画「うなぎ」で、一気にメジャーになりました。旅番組的なもので紹介されることもよくありますし、古い町並みを使って、映画やドラマ、CMのロケ地になることが多いのです。つい4,5日前も、おせんべいのCM撮影が行われていました。その他にも、当方、犬の散歩中にロケの現場に行き会わせたことが数回あります。果てはAKB48のプロモーションビデオまで佐原で撮影されています。
 
特によくロケが行われるのが、旧市街中心を流れる小野川べり。古い商家や、江戸時代に作られた石積みの船着き場などがたくさん残り、いい感じです。下の画像をご覧下さい。

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昨日、撮影したものです。どうでしょう、上の「智恵子抄」の画像と似ていると思いませんか?
 
しかし、「智恵子抄」パンフレットのキャプションでは、「遂に探し当てた千葉県佐倉市」となっています。この部分、「佐倉市」ではなく「佐原市」の誤りなのではないかと思います。
 
「佐原」と「佐倉」、字面も発音も似ていますし、地理的にも比較的近いので、よく間違われます。どちらも古い街であるというのも共通しており、よけいに間違われやすい原因になっています。佐倉にもところどころ江戸時代の古い町並みが残っています。いろいろな方のブログなどで「『佐原』と『佐倉』って紛らわしい」という記述も見かけます。
 
そこで、「佐原」と「佐倉」、お互いライバル意識を持っている部分があります。そう言うと、佐倉の人は、
佐倉は由緒正しい城下町だ。佐原はしょせん商都じゃないか。一緒にするな!
と言います。それに対し佐原の人は、
てやんでぇ、こっちは伊能忠敬(ちゅうけい)先生のお膝元だ。そっちにゃ歴史上の有名人がいねえだろうが。
と反論します(ちなみに佐原の住民は伊能忠敬を「ただたか」と呼ばず、「ちゅうけい」と呼びます)。
すると、佐倉の住民は
何言ってんだ、こっちにはミスタージャイアンツ・長嶋茂雄がいるぞ!
と反駁してきます。すると、
ミスターは歴史上の人物じゃねえ!
……くだらない論争ですが、地元では真剣です(笑)。
 
だから、というわけではありませんが、上の画像は、川べりの石積みの感じ、柳並木の風情、どう見ても佐原です。それを確かめたくて松竹「智恵子抄」、ずっと観たいと思っていました。
 
昨年、実際に観てみても、結局よくわかりませんでした。DVD等であれば当該シーンで一時停止して詳しく観られるのですが、ノンストップで見ただけでは確証を見つけられませんでした。しかし、自分ではこれは「佐原」だ、と確信しています。
 
ただ、佐原がロケ地として有名になったのは昭和60年(1985)のNHK銀河テレビ小説「たけしくん、ハイ」(ビートたけし氏の少年時代を描いた作品)の頃から。その前はロケ地として使われていたという話はほとんど聞きません。しかし、古いところでは昭和9年にすでに松竹映画「利根の朝霧」が撮影されています。同じ松竹ですし、でも、30年以上経っているし……
 
「佐原」か「佐倉」か、確実な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご一報いただければ幸いです。
 
と、たった今、テレビ東京さんのCMで、明日の「出没!アド街ック天国」のCMが流れました。光太郎の実家である千駄木の光雲、豊周旧宅が写ったような気がしました。「駒込」を扱うそうです。 

出没!アド街ック天国~駒込~

 テレビ東京 2012年9月1日(土) 21時00分~21時54分 の放送内容

街を徹底的に紹介する地域密着系都市型エンタテイメント!お馴染みの街から「えっ、こんな街あったの?」という意外な街まで、あらゆる街に出没する情報バラエティ番組です。

番組内容
今回のアド街は、「駒込」に出没します。 名勝「六義園」を擁し、緑に彩られた山の手の街。 閑静な住宅街と昔ながらの人情商店街、2つの顔をあわせ持っています。 知る人ぞ知る名店や、職人の技が光る銘品に出会える老舗も…。 この秋は、情緒ある風景、山の手らしさに触れる散策に出かけましょう!

出演者
司会者 愛川欽也、大江麻理子(テレビ東京アナウンサー)
レギュラー出演者 峰竜太、薬丸裕英、山田五郎
ゲスト モト冬樹、山口もえ、勝俣州和


ぜひご覧下さい

俳優の内藤武敏さんの訃報が報じられました。亡くなったのは21日、既に近親の方々で葬儀が行われたとの事ですが、昨日になって報道されました。
 
内藤さんといえば、存在感のある渋い脇役でしたが、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」にも出演なさいました。配役は智恵子終焉の場所、ゼームス坂病院の院長でした。やはり渋い演技だったと記憶しています。ちなみに光太郎役は故・丹波哲郎さん、智恵子役は岩下志麻さん。他に石井柏亭が平幹二朗さん、光太郎の弟・豊周を中山仁さん、犬吠の太郎には故・石立鉄男さん、椿英介(=柳敬助)で故・岡田英次さん、その妻和子(=柳八重)が故・南田洋子さん、といったキャストです(「故」の字が多いのが残念です)。

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画像は映画パンフレットから採らせていただきました。
 
当方、松竹の「智恵子抄」は昨年、初めて視ました。
 
「智恵子抄」の映画は2回作られており、最初は昭和32年(1957)、東宝で原節子さんと故・山村聰さんの主演でした。こちらはビデオテープが発売されており、持っています。しかし、松竹の「智恵子抄」はビデオ、DVD等が発売されておらす、視たことがありませんでした。数年前にWOWOWで放映されたのですが、未だに加入していません。これを機に加入しよう、と妻に提案したのですが一蹴されました。
 
そんなこんなで、是非視たいと思っていたところ、チャンスが訪れました。
 
昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で企画展「智恵子抄という詩集」が開催され、当方、お手伝いをさせていただきました。こうした企画展では、会期中の土日などに「関連行事」といって、講演会やパネルディスカッション、ミニコンサートなどを行うことが多くなっています。そこで、それをどうするかという話になった時に、迷わず「松竹の映画「智恵子抄」を上映しましょう!」と提案しました。都内にこの手の古い映画フィルムの貸し出しを行っている会社があり、松竹の「智恵子抄」もラインナップに入っているのを知っていましたので。結局その提案が通り、初めて松竹の「智恵子抄」を視る事ができました。一種の役得ですね(笑)
 
岩下志麻さんの鬼気迫る演技が印象に残りましたが、沢田院長役の内藤さんの渋い演技も記憶に残っています。
 
ご冥福をお祈りいたします。

昨夜、ブログで紹介したNHKEテ000レの「Rの法則 いま伝えたい私たちの思い~宮城県女川町から~」を視ました。
 
直接、光太郎に関わる話はなかったように思いますが、光太郎碑が立っていた港の周辺の画像が流れました。番組のコンセプトとしては、被災地に暮らす中高生の思いを伝えるということでした。ゲストに歌手の平原綾香さん、仙台で活動している同じく歌手のRakeさんを迎え、「震災後、心に響いた歌」ということで平原さんの代表作「jupiter」などがライヴで演奏されました。

音楽というもの、人の生活を豊かにする上で非常に重要なものだと思います。
 
西洋音楽はキリスト教の影響で発展しました。神学的にいえば、神が創造した全世界は素晴らしい調和(ハルモニア)によって造られており、その調和の根本原理を「ムジカ=音楽」と呼んで、音楽を通して神によって造られた世界を詳しく知る手がかりを得られる、という考え方があったのです。
 
ちなみに数学も同じ。調和(ハルモニア)の追究のためのものだったそうです。
 
当方、キリスト教徒ではないので、神がどうこうと言われると引いてしまいますが(ちなみに光太郎もそうだったそうです)、調和(ハルモニア)の追究という意味での音楽の素晴らしさは日々実感しています。
 
科学的にどこまで実証されているのかよくわかりませんが、乳牛や鶏、はては醸造酒や発酵食品などに音楽を聴かせるとよい、という試みもよく聞きますね。当方の地元、千葉県香取市では「ビートルズの曲を聴かせたカステラ」なるものが売られています。テレビ東京系のタウンガイド番組「出没!アド街ック天国」で、「薬丸印の新名物」に認定されています。
 
さて、光太郎と音楽。いずれまたいろいろ書こうと思っていますが(深入りすればそれだけで1年位ブログが書けそうな気がしています)、昭和28年(1953)に書かれた(談話筆記なので正確には「語られた」)「ラジオと私」というエッセイから。
 
 やはり山の中で、まだ手許にラジオのないときに、バツハの「ブランデンブルグ協奏曲」を幻聴で聴いたことがある。ちようど谷の底の方から聞えてくるもんだから、私はとりわけバツハが好きでもあるし、あとで谷底の家へ行つて、そのレコードをもう一度聴かせて貰いたいと頼みに行つたら、そんなものはないというので驚いた。考えてみれば、月に一度花巻の町に出かけて行つて聴かせて貰つていたのが再生されて聞えたものだと気がついた。そんなとき、音楽は人間に非常に必要なものだということをしみじみ感じた。
 
その通りだと思います。被災地の皆さんも、そうでない人も日々の疲れを癒したりするために、音楽に触れる機会をたくさん持ってほしいものです。

昨日のブログで、バーナード・リーチと秩父宮妃勢津子殿下について書きました。
 
秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関して面白いエピソードがあるので、紹介します。 
 
   或る日(昭和三年九月二十八日)
 180px-Prince_and_Princess_Chichibu_Wedding
 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。
 
第四連など、宮家のご成婚を謳うには、かなり直截な表現が含まれているのに驚かされます。
 
第三連の「むづかしい儀式と荘厳とが/あの二人を日ねもす悩ますさうだが、」が暗示になってはいるのですが、詩の中に宮家のことであるということは具体的には書かれていません。
 
「昭和三年九月二十八日」は、ご成婚の日付です。ただし、この部分は昭和28年に完結した中央公論社版『高村光太郎選集』に収められた時に附されました。
 
さて、昭和25年、詩人で編集者だった池田克己がどこかでこの詩を見つけ、雑誌『サンデー毎日』に再録したい旨、光太郎に申し入れます。それに対する返信が残っていますので紹介します。
 
おたより感謝、その後いかがかと案じて居りましたが御元気恢復の御様子で大安心です、御申越の「サンデー毎日」への転載といふことは一向差支ありませんが、「或日」といふ詩を小生思ひ出しません、どんな詩だつたのか、確に小生の詩なのか、不安な気もします。間違だつたら滑稽ですから一応おたしかめ下さい、
御健康をいのります、

(書簡3181 昭和25年7月26日 池田克己宛 『光太郎遺珠』①所収)
 
光太郎、自分の書いた詩を忘れています。まあ、20年以上経っていますし、題名があまり特徴的ではないので、ある意味、仕方がないかも知れません。
 
さて、三ヶ月程経ち、「或る日」が掲載された『サンデー毎日』が光太郎の手元に届きます。「中秋特別号」ということで、巻頭カラーページには光太郎、北原白秋、佐藤春夫、室生犀星、萩原朔太郎等の詩に、東郷青児、足立源一郎ら当代きっての画家による挿絵。豪華な造りです。光太郎のページは、宮本三郎という画家が担当しました。

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これを受け取っての池田への返信も残っています。
 
文字届きました由 安心しました。 サンデー毎日も掲載誌が届きました。
ところがあの詩は秩父宮の結婚の時にその事を書いたものなので、宮本さんの馬上花嫁ではひどく平凡になり、あの詩の味噌がなくなり、思はず吹き出しました。尤も秩父宮といふ事は書いてないので無理もないと思ひました。
(書簡3183 昭和25年10月21日 池田克己宛 『光太郎遺珠』①所収)
 
文学作品は、作者の手を一度離れたら、その解釈は受け取る側に委ねられるものとも言えますので、こうした勘違いも仕方がないでしょう。だいだい、はっきり宮家のことだと書かなかった光太郎が悪い(笑)。そこで、この後刊行が始まる『高村光太郎選集』で「昭和三年九月二十八日」とわざわざ書き込んだのでしょう。
 
この『サンデー毎日』が出た時、妃殿下はもちろん、宮様もまだご存命でした。もしこれを御覧になり、さらにご自分達を謳った詩だとご存知だったら、苦笑なさったことでしょう。そんな想像をすると、笑えます。
 
蛇足ですが、先程「文学作品は、作者の手を一度離れたら、その解釈は受け取る側に委ねられるものとも言えます」と書きました。しかし、時折、「文学博士」の肩書を持っているような偉いセンセイが、いくらなんでもそりゃないだろう、というような頓珍漢な解釈を書いている論文などを眼にします。そうなると「苦笑」どころではなく情けなくなりますし、その勘違いがまかり通ってしまうと、それは一種の犯罪に匹敵すると思います。
 
自分はそう言うものを書かないように、と自戒を込めて。
 
別件ですが、本日夜19:55~NHKEテレ(旧教育テレビ)でオンエアのRの法則という番組で、女川が扱われます。8/13のこのブログで紹介した仮説商店街「きぼうのかね」からの中継もあるようです。24時からは同じEテレで再放送もあります。 

Rの法則「いま伝えたい私たちの思い~宮城県女川町から~」

2012年8月28日(火) 18時55分~19時55分
2012年8月28日(火) 24時00分~25時00分(再)
 
宮城県女川町から「被災地に暮らす中高生の思いを伝える」をコンセプトに、震災後に“心に響いた歌&”私の一大ニュース”を紹介。出演:山口達也、Rake、平原綾香
番組内容
東日本大震災で大きな被害に遭った宮城県女川町から、1時間にわたって中継。「被災地に暮らす中高生の思いを伝える」をコンセプトに、地元の高校生が主体となり、“震災後、心に響いた歌”“震災後、私の一大ニュース”をリサーチして紹介。また、この春にオープンした、仮設商店街から、町の現状と魅力を発信してもらう。

ぜひご覧下さい。

昨日のブログで、バーナード・リーチの写真を載せるため、彼の『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年)を引っ張り出しました。

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ついでに光太郎に関する記述がある部分を読み返してみましたところ、ちょっと面白いエピソードがあったので紹介します。

 私の最初の日本人の友、高村光太郎が今私の心に甦って来る。私はいまでも、初めの頃の彼の手紙をいくらか持っている。
 (中略)
 最近一九七三年にもなって、彼についてある事柄が起こった。それは私が、秩父宮妃殿下の催された小さな親しい茶席に招待された時のことである。妃殿下自身も陶器をお造りになり、芸術の後継者であられた。わずか八人が出席しており、ある一刻、私にだけお話しをされた。たまたま、私の古い友人の高村の詩がお好きであると言われた。私は驚いて、妃殿下の方を向いて言った。「高村はわれわれが二人とも学生であった頃のロンドンでの私の初めての友人です。私はご存知のように日本語は読めませんが、数行が心に浮かんで来ます。
 
  秩父おろしの寒い風
  こんころりんと吹いて来い
 
妃殿下は驚いて私の方を向かれた。こんなに驚いた人を私は知らない。一度だけ私の記憶が正確だったのだ。そして、何と奇妙なことに高村は、妃殿下の土地-秩父-の名を使ったのである。

 まず「秩父宮」は昭和天皇の弟君、秩父宮雍仁親王。社会活動としてスポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれ、秩父宮ラグビー場にその宮号を遺しています。国民の人気も高かったのですが、昭和28年、50歳の若さで急逝。その際、光太郎は「悲しみは光と化す」(『高村光太郎全集』第6巻)という散文を書いて哀悼の意を表しています。 
 
 勢津子妃殿下は平成7年、85歳までご存命でした(会津藩主松平容保の孫だったそうで、これは当方、存じませんでした)。
 
「秩父おろしの寒い風/こんころりんと吹いて来い」は、リーチ来日中の大正元年、『白樺』に発表された詩「狂者の詩」の一節。正確には「秩父おろしの寒い風/山からこんころりんと吹いて来い」で、この詩の中でリフレインされています。
 
 話の流れからすると、妃殿下はリーチと光太郎の関係をご存じなかったのではないかと思います。光太郎歿して17年。二人の間に秩父おろしの風のようにさっと吹いた光太郎の思い出。いい話だな、と思いました。
 
 これも妃殿下がご存知だったかどうか不明ですが、秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関しても面白いエピソードがあるので、明日、紹介します。 

昨日、高島屋でのバーナード・リーチ展についてお知らせしましたので、光太郎の書いた文章の中から、リーチに関する記述を紹介します。
 
まず、昭和8年に『工芸』という雑誌に発表された「二十六年前」という散文から。
 
ロンドンの名物のひどい濃霧になやませれてゐる時だつたから、むろん冬の事である。多分一九〇七年の十一月頃だつたらう。「ロンドン スクウル オブ アアト」のスワン教授の教室で素描に熱中してゐた私は、性来の無口と孤独癖とから、あまり他の生徒等との交渉を好まなかつたにも拘らず、その学校に於けるたつた一人の日本人の学生であつたところの私に何らかの興味を持つてゐるらしい幾人かの同級生のある事に気がついてゐた。休み時間に私がトルストイの「芸術とは何ぞや」を読んでゐると、後ろからそれをのぞきこんで、「君は彼をどう思ふ」など質問する者もゐた。(中略)或日その背の高い痩せた生徒がたうとう思ひ切つたやうに私に向つて口を切つた。「君はなぜ日本風な素描を描かないのか。」私は即座に返事した。「ヨオロツパの美術家が感ずるものを理解したいと思つて私はヨオロツパに来た。私は今此所で日本画を描かうと思つてゐない。それはずつとあとの事だ。」「なるほど、さうか。私は日本人が此所でどんな素描を描くかと思つて大きな興味を持つてゐたが、実は君の描くものが更に日本風でないので理解に苦しんだ。」私は此の背の高い、鼻の高い、眼のやさしい善良な生徒と、此日以来友達になつた。此がバアナアド リイチだつた。
 
いわゆるジャポニスムの流行はピークを過ぎた時期ですが、リーチは個人的に日本に惹かれていました。昭和26年に『中央公論』に発表された「青春の日」から。
 
リーチが僕のところにやつて来た時、たまたま僕がマンドリンをその頃習つていたので、それをいじつていた。何の気もなく、日本の民謡の「一つとや」をやつたら、リーチはそのメロデイをおれは知つていると言う。いや、これは日本の唄で、君が知るわけはないと言うと、リーチは香港で生れ、小さい時分に京都にも来たことがあるそうで、そのころに聞いたことが分つた。そんなことで、だんだん日本に熱を上げて、どうしても日本へ一度行くと言う。事実、リーチは間もなくそれを実行した
 
そしてリーチは日本で陶芸と出逢い、独自の境地を作り出します。やはり光太郎の「リーチ的詩魂」(昭和28年・『毎日新聞』)から。
 
リーチは焼物を日本で勉強したので、東洋の美はリーチの細胞にまでなつているが、その細胞にはまたリーチの血脈である西洋の美がみなぎつていて、東洋人ではちよつと出せない質がそこにある。器の把手などの面白い扱いはなどはリーチ自身も無意識だろうが、これは確に西洋の美だ。東洋と西洋とはリーチの中にひとりでにとけている。それがまことに愉快である。
 
これこそが国際交流、という気がします。

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バーナード・リーチ 『東と西を超えて 自伝的回想』
バーナード・リーチ著 福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年 より
 
このところ、中韓との領土問題や、シリアでの日本人ジャーナリストの殉職など、国際的な事件が頻発しています。こういう時こそ、国境を超えて東と西の融合を図った先人の業績に思いを馳せるべきではないかと思います。そういうことが「歴史に学ぶ」ということなのではないのでしょうか。

今朝の『朝日新聞』さんを広げて知りました。 

東と西の出会い 生誕125年バーナード・リーチ展

会期情報000
東京・日本橋高島屋:2012年8月29日~9月10日
横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

バーナード・リーチは、イギリスの陶芸家です。元々、香港の生まれで、幼い頃には京都に暮らしていたこともありました。明治41年、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、日本熱が高まって来日します。その後、たびたび来日、長期の滞在もあり、白樺派の面々、富本憲吉、浜田庄司らと親しく交わり、陶磁器の作成に独自の境地を展開しました。光太郎との交流も後々まで続いています。
 
さて、今回の展覧会では光太郎と直接関わる出品物があるかどうかわかりませんが、関東で開催中に1度行ってみようと思っています。

面白いサイトを見つけたのでご紹介します。 

本が好き!は、書評でつながる読書コミュニティです。書評を通じて、趣味嗜好の合う人 や思いもよらない素敵な本と出会えます。書評を書くとポイントが貯まり、出版社や著者 から今話題の本がもらえる「献本」に応募できます。(サイト紹介文より)
 
「amazon」などでも「ブックレビュー」のコーナーがありますが、あまり充実していません。その点、このサイトでは書評が満載。もちろん未読の書籍についての参考になるでしょうし、既読にものに関しては「他の人はこの本をこういう風に読んでいるんだ」ということがわかります。ご覧あれ。
 
このブログで紹介した近刊では、北川太一先生の「光太郎智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで」などが取り上げられています。

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「読書離れ」が叫ばれて久しいのですが、それではいけないと思います。人間と他の動物との違いの一つに知的好奇心、知的向上心の有無があると思います。「読書」はそれを充たしてくれる一つの手段ですね。「学而時習之、不亦説乎。」です。
 
当方、光太郎関連以外に、歴史書小説や推理小説をよく読みます。あちこち出かけることが多いので、その移動の車中で読むことが多いのです(1泊2日の行程なら文庫本を3冊くらい持って行きます)。これから読書の秋。「灯火親しむの候」という美しい言葉があります。ぜひ皆さんも読書に親しみましょう! できればこのブログで紹介している書籍を読んでいただければ幸いです。

気がつけば8月も下旬。しかし厳しい残暑が続いています。
 
来月行われる光太郎智恵子関連イベントの情報がいくつか入っていますので、ご紹介します。 

智恵子講座’12 第4回 9月16日(日)

 以前にもご紹介しました福島・二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催です。会場は二本松市市民交流センター。 「芸術精神期を中心に」と題し、講師は木戸多美子さん(詩人)。
 
ちなみに9/16は敬老の日を含む3連休の中日です。ついでに周辺観光も如何でしょうか。 

今年4月に大阪で行われた朗読系の公演が東京でおこなわれます。会場は渋谷・パルコ劇場。
 
こちらも詳細は上記のリンクをご参照下さい。

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このところ、光太郎と船に関する内容で攻めていますので、今回も最近入手した船がらみの資料を紹介します。
 
昭和6年(1931)に、岩手日報社から発行された「岩手縣全圖昭和六年版」の附録、「省線外乗車船賃金表」です。

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東北本線、岩手軽便線(宮沢賢治の代表作の一つ『銀河鉄道の夜』のモデルともいわれています)など、鉄道の運賃、営業キロ数などが記載されています。

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鉄道だけでなく、気仙沼~宮古間の三陸汽船(宮古航路)についても表が載っています。昭和6年(1931)といえば、まさしく光太郎が「三陸廻り」の旅をした年。しかもこの宮古航路に乗っているのです。面白いものが手に入ったと喜んでいます。
 
宮古航路における光太郎。まずは東華丸という船で約8時間かけて気仙沼から釜石へ。営業キロ数140.2㎞、料金は特等3円29銭、並なら2円19銭。ついで釜石から宮古へ、また約8時間、第2三陸丸という船に乗ります。営業キロ数104.5㎞、料金は特等2円54銭、並なら1円69銭。おそらく光太郎は特等には乗っていないと思われます。
 
同じ「省線外乗車船賃金表」によれば東京仙台間の東北本線が乗車賃一等8円56銭、急行料金一等2円。当時の物価としては豆腐1丁40銭、カレーライス10銭、ビール大瓶35銭。
 
手元にある書籍で、昭和5年(1930)発行の四六判上製函付のアンソロジー『日本現代詩選』が1円70銭、昭和8年(1933)発行の新潮文庫『大正詩選』が35銭。

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こういうのも調べてみると面白いものです。

昨日、十和田湖の遊覧船の会社が破産というニュースを紹介しました。
 
すると、青森の地方紙「デーリー東北」さんに以下のコラム(朝日新聞さんでいえば「天声人語」欄にあたる部分でしょう)が載りました。 

天鐘(2012/08/20掲載)

詩人で評論家の大町桂月が初めて青森県を訪れたのは1908(明治41)年8月下旬のこと。五戸町出身の鳥谷部春汀の誘いがきっかけ。14日間滞在し、地元の人々の案内で十和田湖などを探訪した▼湖上遊覧も楽しみ、神秘の湖の美しさに息をのむ。旅を終え、桂月は春汀が編集長を務める雑誌「太陽」に紀行文「奥羽一周忌記」を寄せた。それが十和田湖を世に知らしめ、後の国立公園の指定に道を開くことになる▼彫刻家で詩人の高村光太郎も湖上遊覧で十和田湖に魅せられた人物。52(昭和27)年、国立公園指定15周年を記念する像の制作を依頼され、詩人で小説家の佐藤春夫とともに現地を訪れた▼光太郎は湖上遊覧の後、「裸婦像でいいか」と周囲に漏らす。湖面に映る自らの姿をヒントに、向かい合う2人の女性像の構想を固めた。そして翌年完成したのが、十和田湖のシンボル、乙女の像だ▼エンジン付きの遊覧船が十和田湖に進水したのは、ちょうど100年前の8月。以来、修学旅行生や海外からの旅行客を乗せ、絶景を味わう役割を果たしてきた。しかし、近年は観光客の激減に見舞われている▼先日、遊覧船を運航する2社のうち1社が経営破綻し、民事再生法の適用を申請した。営業を続けながら再建を目指すという。特定の企業の問題にとどまらず、十和田湖が直面する課題が凝縮されているのではないか。時代に合った魅力ある観光はどうあるべきかが問われている。
 
「時代に合った魅力ある観光」、その通りですね。最近はわざわざ船に乗ろう、という人は少ないのではないでしょうか。当方も、子供が小さかった頃は各地の観光地でよく船に乗りましたが、一番最近船に乗ったのは? と訊かれると正確にいついつ、と答えられません。おそらく、数年前に千葉の富津から横須賀の久里浜までフェリーに乗ったのが最後と思われますが、何年前だったか、はっきりしません。十和田湖に行った時も(一人旅でしたが)「遊覧船? 高いからパス」という感覚でした。
 
交通機関としての船は、航空機や鉄道にスピードの点で勝負になりません。しかし、時間に余裕がある旅であれば、船を使うのも一興かと思います。こういうスピード時代だからこそ、かえってそれに逆行するのも面白いのではないでしょうか。最近、光太郎の船旅についていろいろ調べているもので、特にそう感じます。
 
以下、昭和6年に書かれた光太郎の「三陸廻り」の一節です。
 
私は今でも船のある処は時間の許す限り船に乗る。船と海との魅力は遼遠な時空の故郷にあこがれる私の生物的本能かも知れない。曾て海からはひ上つて来た私の祖先の血のささやきかも知れない。船の魅力は又闇をわけて進む夜の航海に極まる。其は魂をゆする。
 
今度十和田湖に行く機会があったら、船に乗ってみようと思っています。
 
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昭和三十年代と思われる絵葉書のセットの袋に印刷されていた十和田湖周辺地図です。
 

つい3日前のブログに芹洋子さんのCDがらみで十和田湖のことを書いたばかりですが、十和田湖に関して残念なニュースが入っています。 

十和田湖観光汽船が倒産 「原発事故の風評被害が深刻」

 青森・秋田両県にまたがる十和田湖で遊覧船を運航する十和田湖観光汽船(本社・青森市)が17日、民事再生手続きの開始を青森地裁に申請し、倒産した。同社は「原発事故の風評被害で修学旅行生らが来なくなった。乗客数は事故前の7割までしか戻らず、収益回復が見込めない」と説明している。
 同社によると、震災後、外国人旅行者と修学旅行生が激減。乗客は2010年度の約10万人から11年度に約6万5千人に減り、12年度も回復していない。
 負債総額は約5億7千万円。今後も遊覧船事業を続けながら、従業員42人も解雇せずに再建を目指すとしている。青森県や金融機関に十和田湖の観光振興策などの支援を求めている。
 同社は3月、原発事故の風評被害だとして昨年4月~今年2月の減収分の全額4200万円の賠償を東京電力に求めたが、5月に昨年3~5月の外国人旅行客の減少分として75万円が払われただけだったという。
朝日新聞デジタル  2012年8月17日19時16分
 
まったくこんなところにも震災や原発事故の影響か、と、正直なさけなくなります。
 
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画像はひと昔前のテレホンカードです。光太郎作の乙女の像と遊覧船が写っています。
 
当該の会社は遊覧船の運航は続けるそうですし、十和田湖では二社が遊覧船を運航していたということですので、残る一社にも頑張ってほしいものです。しかし、頑張るといっても人が来ないことにはどうしようもありません。
 
当方、4月来、4回東北に行きました。まだまだ震災や原発事故の爪痕が残っています。その現状を風化させず、日本全体の問題として捉えるためにも、ぜひ東北を訪れてほしいと思います。現地の様子を見るだけで、一つの復興支援になると思います。

昨日、光太郎が留学から帰国する際に乗った日本郵船の阿波丸の絵葉書を紹介しました。
 
ついでに同じ店から同時に購入した古い絵はがきを紹介しましょう。
 
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東京・上野の写真です。人力車が走っているところがすごいですね。左の建物が、大正3年(1914)に光太郎・智恵子が結婚披露宴を行った精養軒です。現在も老舗の西洋料理店として健在ですね。
 
ちなみに一見カラー写真に見えますが、「手彩色」といって、モノクロの写真に手作業で着色してあります。
 
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もう一枚、昭和3年(1928)、有名な詩「ぼろぼろな駝鳥」に歌われた上野動物園の駝鳥です。といっても、この個体を見て作られたのかどうかは不明ですが。こちらは手彩色ではなく、ちゃんとしたカラー写真です。したがって比較的新しいものかと思いますが、それでも「東京市発行」となっていますし、横書きで右から左に「(鳥駝)うてだ」と歴史的仮名遣いになっています。戦前のものでしょう。
 
以前のブログにも書きましたが、光太郎・智恵子ゆかりの地などの古い絵葉書を結構入手しました。二人が見たであろう風景に近い時代のもの、というわけで、それなりに貴重な資料だと思っています。

最近入手した昔の絵葉書です。

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恐らく明治、大正の頃のものでしょう。写っているのは日本郵船の「阿波丸」という船です。戦時中に米軍潜水艦に撃沈された有名な「阿波丸事件」の「阿波丸」とは別の船です。

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この船が何なのかというと、明治42年(1909)、光太郎が欧米留学から帰る時に乗った船なのです。留学の最終滞在地はパリでしたが、そちらから一旦ロンドンに渡り、阿波丸に乗り込みました。下船場所は神戸。光太郎の父・光雲が迎えに来ており、神戸からの汽車の中で、光太郎を中心に銅像を制作する会社を興す計画が語られましたが、光太郎は取り合いませんでした。
 
ところで、少し前に昭和17年(1942)の『海運報国』という雑誌に載った「海の思出」という少し長い光太郎の随筆を見つけました。今まで知られていなかった文章です。この中で、幼少年期の海の思い出-小学校の遠足で見た品川の海、14歳頃に一人旅で訪れた江の島、16歳で富士山頂から見た太平洋-、欧米留学で乗った船の思い出が語られています。
 
どうも今まで知られていた文章には載っていなかったと思われる事実がかなり語られており、現在、鋭意調査中です。秋に高村光太郎研究会という会合があるのですが、そこで発表を頼まれており、この件で発表するつもりで居ります。
 
そのためついこの前も国会図書館に調査に行きましたし、この絵はがきも購入しました。
 
後ほど調査した内容はこのブログでも紹介しましょう。

閲覧数が3,000を超えました。ありがとうございます。

最近入手したCDをもう一枚紹介します。

芹洋子「出会いを求めて -十和田湖へ-」

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平成8年(1996)のリリースです。懐かしい8㌢CDですね。歌は「四季の歌」の芹洋子さん。
 
一番の歌詞に「愛する人との 出逢いを求めて/ああ 十和田湖の 湖畔の乙女に/ああ その人に 逢える日祈りたい」というフレーズがあります。
 
ジャケットに「十和田国立公園60周年」の文字も。例の光太郎作の裸婦像が国立公園指定15周年記念行事の一環でした。
 
裸婦像、今も十和田湖のシンボルとして愛されているようです。昨年にはテレビ東京さん系「美の巨人たち」で扱われました。

女川、花巻、二本松などのように、十和田でも光太郎がらみのイベントなどが定期的に開かれるといいと思います。

新しい資料ではありませんが、最近入手したものを紹介します。 

「横笛物語 第三巻」福原一笛 CDアルバム 定価2381円+税

  
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横笛奏者、福原一笛さんのCDです。
 
「智恵子と空」「霞ヶ城幻想曲」という曲が収録されています。流行りの言葉で言えば智恵子へのオマージュといったところでしょうか。平成8年(1996)のライブ録音だそうです。
 
福原さんのHPを拝見しましたが、人間国宝の横笛奏者、故・寶山左衛門(たから・やまざえもん)氏に師事なさったとのこと。
 
寶氏のCD「笛のこころ」は以前から持っており、そちらにも「智恵子と空」が収録されています。
 
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「霞ヶ城幻想曲」の方は、福原さんの作曲で、笛以外にシタール、タブラが使われており、不思議な感覚の曲です。ちなみに「霞ヶ城」は二本松霞ヶ城、智恵子の故郷にある城ですね。
 
こういったものも、誰かが気をつけて情報や現物の収集をしておかないとなりません。少し前に、戦時中の光太郎作詞の歌曲について、SPレコードやら楽譜やら、当時出たものをいろいろ調べていたのですが、たかだか数十年前の話なのに難航しました。
 
現代のものでもまだまだ当方の知らないものがいろいろあるようです。こんなものもある、という情報をお待ちしております。

神田の古書店、八木書店様より少し前に送られてきた講演会の案内です。光太郎がメインではありませんが、ご紹介します。 

晶子没後70年記念出版『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念公演 与謝野夫妻の評伝を書き終えて -収集した二五〇〇通の書簡と全集・全釈編纂から-

講師 逸見久美氏
日時 平成24年9月29日(土) 15:00~
会場 東京堂書店神田神保町店6階 東京堂ホール
入場無料

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光太郎と親交のあった与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻研究の第一人者であらせられる逸見氏のご講演です。氏の編まれた『与謝野寛晶子書簡集成』には光太郎の名が散見され、「光太郎遺珠」編集に際して大いに参考にさせていただきました。
 
今月末に八木書店様の出版部から『新版 与謝野寛晶子評伝昭和篇』という氏の新著が刊行されるので、その関連と思われます。
 
講演会自体はまだ先なのですが、「先着80名」だそうですので、早めにご紹介いたします。
 
ここ数年、与謝野夫妻と光太郎がらみでの新資料をいくつか見つけていますので、当方も聴きに行ってみようと思っております。

あまり光太郎と関係ないかも知れませんが、yahoo!のテレビ番組検索で1件ヒットしましたのでご紹介します。 

GRACE of JAPAN~自然の中の神々【文豪の町 根津神社・白山神社】

BSジャパン 2012年8月16日(木) 21時00分~21時54分
 
日本全国の約8万の神社の中から、その季節、全国で最も美しいとされる神社と周りに広がる美しく神秘的な風景を、静かな感動とともにお楽しみいただけます。
 
東京の東側、文京区の鎮座するお宮「根津神社」「白山神社」の2つのお宮。古き良き下町情緒を残す街並み、迷路のように細い路地が入り組み昔の面影を今だに残す町。この地域は多くの文豪が愛した文化香る町として知られています。森鴎外、夏目漱石、高村光太郎、与謝野鉄幹、石川啄木、川端康成など日本を代表する文豪たちが住み、その文豪たちの小説にもたびたび登場する「根津神社」「白山神社」をご紹介します。
 
◆ナビゲーター 堤真一
 
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女川レポートの最終回です。
 
8月10日(金)、石巻の宿を出て、再び女川に向かいました。佐々木(貝)廣さんの御霊前に焼香と、女川港の現状を観るためです。
 
前日の女川・光太郎祭参加の際に、女川港も通りましたが、今日はバスを止め、歩きました。

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一面、更地のようになっていますが、かつてはここが繁華街でした。そうといわれなければとても信じられないと思います。横倒しになったビルが三棟、そのままになっているのが名残です。今さらながらに津波の膨大な力に驚きました。

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4基あった光太郎碑のうち、2基だけはかろうじて残っています。メインの大きな碑は仰向けに倒れています。公園だったこの一帯は地盤が1㍍以上沈下したということで、満潮時には海水が周りを覆い、近づけません。おそらく文学碑としては日本最大、といわれていただけに、かえって動かそうにも簡単には動かせないようです。

メインの碑の真下にあった短歌「海にして……」を活字で刻んだ小さい碑は無くなっています。

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詩「霧の中の決意」を刻んだ碑は、ほぼ元の通り残っていました。

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それとセットになっていた詩「よしきり鮫」を刻んだ碑も行方不明とのこと。北川先生曰く、「よしきり鮫だけに、海へ帰ったんでしょう」。
 
前日の光太郎祭の中で、女川町長・須田善明氏があらたに公園を作り、そこに今ある碑を設置し直す予定とおっしゃっていました。震災の爪痕を風化させないためにも、そうしてほしいものです。横倒しになったビルのうち、元の交番だった建物も残すという話が持ち上がっているようです。地元の人々にとっては、辛い記憶の残るモニュメントとなると思いますが、やはりこういうことも大事なことだと思います。

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その後、仮設商店街に行きました。仮設住宅は当方の住まう千葉県香取市にも作られましたが、仮設商店街というのは初めてでした。

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港の周辺は壊滅状態でしたが、仮設住宅や仮設商店街には人々のエネルギーが溢れ、改めて人間の素晴らしさを感じました。しかし、そこにいる人々は皆、多かれ少なかれ痛手を負っているわけで、でも、そこから立ち直り、進んでいこうとなさっているわけです。
 
我々一般庶民に出来ることは小さなことだと思いますが、被災地のためにできること、やらなければいけないこと、もう一度考えてみたいと思います。
 
話は変わりますが、今日は国会図書館に行ってきました。地下鉄丸ノ内線の国会議事堂前駅で降り、議事堂の裏を通って図書館に向かいつつ、議事堂の中で政争に明け暮れているセンセイ達を思い、腹が立ちました。もっと他にやるべき事があるんじゃないの? と。
 
おそらく一年後にまた女川を訪れることになると思います。一年後の女川がどうなっているのか、無論、復興していて欲しいと願っています。
 
以上、女川レポートを終わります。

8月9日、宮城県の女川町で行われました第21回女川・光太郎祭。北川太一先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の方々・北斗会さんで手配して下さいまして、石巻グランドホテルさんに宿泊致しました。
 
夕食の際にはサプライズが用意してありました。北川先生の米寿の御祝。これまでも北斗会の皆さんは、北川先生の還暦、古希、喜寿などの御祝いを企画なさってきており、北川先生が最近はあまり外に出られないということもあって、今回、それを兼ねることにしたそうです。教え子の皆さんも、教え子とは言う条、年かさの方はもう70代。北川先生とは60年以上のおつきあいです。それほどの長いおつきあいがあるというのも素晴らしいことですね。

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女川・光太郎の会の皆様、本宮寛子氏、ギタリストの宮川菊佳氏も交え、楽しい一時となりました。
 
翌朝、早くに目が覚めてしまいまして、石巻の街を散策してみました。石巻は昭和6年、光太郎が紀行文「三陸廻り」の連載第一回を記した地です。やはりあちこちに震災の爪痕がまだ残っています。

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ビートたけしさん、木村拓哉さんが出演されていたトヨタのReBORNキャンペーンCMに使われた石ノ森萬画館。石巻出身の漫画家、石ノ森章太郎さんの記念館です。いまだ休館中でした。

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歩道橋には何やら青いプレートが。

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近づいてみると、この高さまで津波が来たという標識でした。

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橋の欄干もひん曲がっています。

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しかし、さすがに震災からもうすぐ1年半。復興は進んでいるようです。ReBORNのCMでは辺り一帯が廃墟でゴーストタウンのようになっているのかな、と思いましたが、そんなことはなく、街には普通の生活が見られました。もっとも、もともとの石巻の姿をよく知りませんし、1年半経って、瓦礫の撤去が進んだために却って被害の後がよく分からないのかも知れません。人々の生活にしても、旅人の自分には見えない所での苦労はまだまだたくさんあることと思います。
 
朝食後、再びバスで女川に向かいました。かつて光太郎碑が建っていた港の辺りを見に行くのがメインです。そのあたりはまた明日。

8月9日、宮城県の女川町で行われました第21回女川・光太郎祭に参加して参りまして、昨夜、帰宅いたしました。今日から数回、レポートさせていただきます。
 
朝7時、池袋駅前からマイクロバスに乗り込み、いざ出発。今回は北川太一先生が久々に参加なさるということで、先生が高校で教鞭を執ってらした頃の教え子の皆さんの会である北斗会の方々のお世話になりました。バスも北斗会で手配して下さいました。北川先生は奥様、息子さんとご一緒に仙台まで新幹線。宿泊予定の石巻グランドホテルで合流しました。
 
一路、女川へ。光太郎祭自体は午後1時開始でしたが、我々は3時からの第二部に参加致しました。
 
会場は町立野球場に作られた仮設住宅敷地内の坂本龍一マルシェ。坂本さんが資金を提供して作られた巨大テントです。

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女川町長・須田善明氏のご挨拶の後、北川先生のご講演。演題は「かさねて最後の詩「生命の大河」について」。北川先生、以前は毎年女川・光太郎祭でご講演をされていましたが、ここ数年は体調の問題もあり、ご欠席なさっていました。しかし、かつての光太郎祭を中心となって運営されていた佐々木(貝)廣氏が昨年の大震災で津波に呑まれて亡くなり、女川を訪れてご焼香したいというご希望で、今回のご講演が実現しました。

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内容は、先生のご盟友・故吉本隆明氏、ヴァレリー、サルトル等の言と光太郎の詩をからめ、震災、原発問題にゆれる社会への提言といったものでした。

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その後、オペラ歌手の本宮寛子さんの歌。本宮さん、以前のブログにも書きましたが、平成3年に女川で開かれた詩碑除幕記念のオペラ「智恵子抄」上演以来、女川のご常連です。

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4時過ぎに閉会となり、またマイクロバスで石巻へ。明日は石巻での様子をレポートいたします。

女川港のかつて繁華街だったあたりを訪れました。

横倒しになったビルが三棟、光太郎碑も仰向けになっています。

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しかし、高台に上がれば、仮設住宅や仮設店舗には人々のエネルギーが溢れています。人間って、素晴らしいものですね。

明日以降、撮影した画像を交え、詳しくレポートいたします。


今日は宮城県女川町での第21回光太郎祭に来ています。

今しがた終わりました。これから石巻グランドホテルに向かいます。北川太一先生、女川光太郎の会の皆さんと懇親会です。

詳しくは帰ってからレポートいたします。

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yahoo!のニュース検索で1件、ヒットがありましたのでご紹介します。光雲の代表作の一つ、有名な「老猿」に関してです。
 
画像は平成14年に開催された展覧会のチラシです。「老猿」が大きく載っているので使わせていただきます。 
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にほんご鹿沼市:高村光雲「老猿」生んだトチノキで「木彫りのまち」PRへ 第1弾、26日に国立博物館見学ツアー /栃木

 ◇若手林業者ら乗り出す
日本近代彫刻の重鎮・高村光雲(1852~1934)の代表作「老猿」の素材が、鹿沼市産のトチノキだったことに、同市の若手林業者のグループ「森のなかま」(福田勝美代表)が着目。「木彫のまち鹿沼」のPRに乗り出した。26日には第1弾として東京国立博物館に展示されている「老猿」見学ツアーを計画。国の重要文化財である作品を味方につけ、イメージアップに努める。【浅見茂晴】
木工業が盛んな同市には、鹿沼産材の使用拡大を目指し、森林組合や製材所、建具店など木工関係者でつくる鹿沼地区木材需要拡大協議会がある。「森のなかま」は協議会の企画を実行するグループで、チェーンソーアーティストによる松尾芭蕉像をまちの駅「新・鹿沼宿」に設置した。
また、彫刻屋台や木版画の「川上澄生美術館」もあることから、森のなかまでは「木のまち、木工のまち鹿沼」に続く第三のキャッチコピーとして「木彫のまち」を考案した。
高村は東京生まれ。仏師の弟子として木彫を学び、同時に西洋の写実主義を取り入れて、新しい時代を切りひらいた。「老猿」のほか東京・上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠公像などで知られる。
「老猿」(高さ90・9センチ)は1893(明治26)年のシカゴ万博出品のため制作。大ワシとの格闘直後の気迫あふれる姿を描写した。材料のトチノキは、鹿沼に来て買い付けた。その際のエピソードを「栃の木で老猿を彫ったはなし」に書き残している。同市の上粕尾地区にあった、幹の直径が約2メートルの大木を切り出したという。その後、切り株から新たな芽が出て、現在は3代目と伝えられる木が、幹の周囲約3メートルにまで成長している。
現地は林道の終点から徒歩約30分上った斜面にあり、雑草が生い茂っている。整備が必要な状態だ。「森のなかま」は11月、現地確認に訪れる予定で、このトチノキをそのシンボルの一つと位置づけ、イメージアップを図っていくと同時に木彫に関するエピソードの掘り起こし作業も進める。代表の福田さんは「老猿に使われた木にあやかって、いろいろな方法でPRし、木工業の発展に寄与したい」と話している。
見学日程は26日、市民を対象に定員25人を募集する。8月10日までに申し込む。問い合わせは、協議会事務局(電話0289・62・5171)。

毎日新聞 8月7日朝刊

光雲、この「老猿」の制作には非常に苦労したそうです。彫刻そのものに関してもそうでしたし、ニュースで取り上げられている材料の買い付けも予想外の出来事が重なったため苦労しています。また、ちょうどこの時期に長女(光太郎にとっては姉)さくが急逝するという悲しい出来事もありました。
 
そのあたりは光雲自身の回想録『光雲懐古談』(昭和4年)に詳しく書かれています。サイト「青空文庫」に掲載されていますので、リンクを貼ります。
 
それにしても100年以上前に一度伐採された栃の木がまた芽を吹いて生き延びている、というのもすごいですね。
 
花巻や二本松、女川、そして今回の鹿沼など、光太郎・智恵子・光雲ゆかりの地は全国にたくさんあります。それぞれの地域で町おこしに活用してほしいものですね。そういうことが顕彰活動にもつながりますから。
 
明日は宮城県女川光太郎祭に行って参ります。

昨日8月6日は広島原爆の日でした。001
 
そこで、昨日のブログでは光太郎が原爆に言及した文章を一篇、紹介しました。
 
昭和24年3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文が書いた広島での被爆体験記、『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。
 
その後、調べてみましたところ、小倉宛の書簡で『絶後の記録』に触れたものがいくつか見つかりましたので、関連する部分のみ抜粋して紹介します。
 
書簡三〇九一 昭和23年(1948)10月2日(『高村光太郎全集』別巻)
 「原爆手記」は期待されます。
 
書簡一五〇八 昭和23年(1948)12月10日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中で読みました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持ちがよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感懐には十二分に共鳴を感じます。またきつと読み返すでせう。これは記録としても貴重な文献です。厚く御礼申上げます。
 
書簡一五一二 昭和23年(1948)12月15日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 今夜何度目かの「絶後の記録」繙読を終つたところです。感無量です。村の人たちに御紹介してゐます。せめて英訳でもつくられて、世界の人々に読んでもらつたらいゝと思ひます。
 
ここまでが初版の『絶後の記録』に関する内容でしょう。光太郎、若い詩人達から詩集などを贈られると律儀に返礼を書いていますが、ここまで手放しで礼賛している例は非常に珍しいことです。
 
 
書簡三〇九三 昭和24年(1949)1月5日(『高村光太郎全集』別巻)
 おてがみをよんで感動しました。
 「ノオモア」の為にあの著書を役立てられやうとするお心はよく分かります。小生も一冊でも多く人が読むやうにと念じ、又機会ある毎に人にすすめようと思つてゐます。実際にあの本を読んだら戦争をはじめる気は無くなるでせう。人類は今後大規模の戦争を極限まで避けるやうになる事と考へます。
 
この時期におそらく海外輸出版の企図を伝えられたのでないかと推測されます。
 
書簡二八八六 昭和24年(1949)1月27日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
 「絶後の記録」再版分をまたお送り下され忝なく存じました。貴下の誓願がだんだん成就してゆくやうに思はれます。この再版分は山口小学校に寄附しましたから此処のみんなにひろく読まれるでせう。御恵贈を感謝いたします。
 
書簡二八九六 昭和24年(1949)2月20日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
 早速今晩書きましたので、明日発行所宛でお送りいたします。其後多くの人が読むやうで喜んでゐます。外国の人々も読めるやうになりさうなお話で尚更よろこびます。まつたくこの本はあらゆる人によんでもらひたいと思ひます。
 
これが海外輸出版の序文を書いたことに関わるのでしょう。
 
 
書簡三〇九四 昭和24年(1949)3月29日(『高村光太郎全集』別巻)
 中央社から再版が届きまして、感謝しました。これには海外輸出版とあるのでアメリカに居る邦人に読めるのはいいと思ひました。英語露語の版も出てアメリカやロシヤの人達にもよめるやうになれば尚いいのだと思はれます。ヒロシマが観光客立寄地になるやうですがただの遺跡見物に終らせたくありません。
 
そして光太郎の序が載った海外輸出版が届いた、というわけですね。
 
小倉本人に宛てたものではありませんが、宮澤賢治の父・政次郎に宛てた書簡では、このように語っています。もともと小倉は宮澤賢治の研究者で、その関連で光太郎や政次郎と面識があった人物です。
 
書簡一五五四 昭和24年(1949)3月18日(『高村光太郎全集』第十五巻)
 小倉豊文氏の「絶後の記録」が大変ひろく読まれるやうでよろこんで居ります。同氏の悲願がかなへられるやうにとおもひ居ります。
 
今年はオリンピックイヤーということで、昨日のニュースでは原爆の日の扱いが例年より少なかったように感じました。もちろん、ロンドンでの日本人選手の目をみはる活躍を報じることも大切でしょうが、やはり、日本人として、この日を風化させてはならないと思います。

今日は8月6日、広島原爆の日です。
 
光太郎が原爆に言及した文章を一篇思い出しましたので、紹介します。
 
昭和24年(1949)3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文著『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。また、その後中央公論社から覆刻された文庫版等にも掲載されています。画像は文庫版です。

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これもあまり長いものではありませんので全文を紹介しましょう。
 
豆ランプの光の下で小倉豊文氏の「絶後の記録」を読みをはつて私は何だか頭の中がきな臭いやうになり、自分がこんな静かな山の中の小屋に住んでゐるのをむしろ夢幻のやうにさへ感じた。翌日の夜また読みかへし、その後また読みなほして、しんから此の実感のあふれた記事の真相に心をゆすぶられた。甚だ素朴な書き方で氏自身の体験が端からつぎつぎと記録されてゆくうちに、此の火薬庫の爆発かと思つたものが、世界に於ける前代未聞の原子爆弾の爆裂である事がわかつて来る物凄さはまつたく私を戦慄させた。所謂原子爆弾症に仆れた夫人の事に筆が及ぶと殆と卒読に堪へない思がした。此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。此の記録を読んだらどんな政治家でも軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであらう。今後せめて所謂冷たい戦争程度だけで戦争は終るやうになつてくれなければ此の沢山の日本人は犬死にになる。此本を読んで世界の人々に考へてもらひたい。
   一九四九年二月
 
戦時中には国民を鼓舞する戦争詩を書きまくっていた光太郎にとって、広島の惨状を記録したこの書は、ある意味峻烈な刃となって突きつけられたものです。
 
こうしたものを読むだにつけ、自らの戦争責任への反省の意は強くなったと思われます。
 
本当に地球上から戦争というものが無くなる日が来てほしいものです。

ロンドンでは「熱い夏」が繰り広げられていますが、日本では「暑い夏」ですね。
 
光太郎は生涯冬をこよなく愛した詩人でした。詩「冬が来た」(大正2年)では、「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と謳っています。
 
逆に夏は大の苦手だと、いろいろな文章などで語っています。
 
下の画像は当方が持っている葉書です。昭和24年(1949)9月、花巻の山小屋から詩人で編集者でもあった八森虎太郎に宛てたもの。八森は北海道の札幌青磁社に勤務していました。

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おてがみと小包と忝くいただきました。中々乏しい品をお送り下され恐縮至極です。
今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。今は恢復しましたが、用心して静養してゐます。
秋冷の候がくれば相変らず元気になることと思つてそれを待つてゐます。
そのため諸方に御無沙汰を重ねてゐます。

「四度高熱を発し」はおそらく今でいう熱中症だったと思われます。
 
今と違って冷房もなかった時代でしたが、逆に今のように地球温暖化などと騒がれることもなかった時代でした。それでも光太郎は夏の暑さを大の苦手としていました。
 
当方、光太郎と違い、どちらかというと寒さの方が苦手です。しかし、このところの暑さには閉口しています。特に昼間の暑さは尋常ではありませんね。といって、冷房に長時間当たるのもあまり好きではありませんし、節電ということもありますので、ほとんど冷房なしで頑張っています。ただ、暦の上ではもうすぐ立秋。朝夕は少ししのぎやすくなってきたかなという感じです。
 
朝、四時頃からヒグラシやホトトギス、カラスが鳴き始めます。この時間帯は過ごしやすい。しかし、六時頃になってミンミンゼミが鳴き始めると同時に暑くなり始め、今(午後三時)、アブラゼミが鳴いている時間帯は炎熱地獄です。
 
みなさんもくれぐれも体調にお気をつけ下さい。

またオリンピック関連に戻ります。「またか」と思われるかも知れませんが、四年に一度のことですのでご寛恕の程。
 
『高村光太郎全集』の頁を繰っていて、光太郎がオリンピックに言及した箇所をまた発見しましたので、紹介します。
 
2篇あり、どちらも少し前に紹介した座談「新女性美の創造」と同じく、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックに関係するものです。
 
まず、第二十巻に掲載されている「「美の祭典」を観る」という散文。座談「新女性美の創造」を紹介した時にも書きましたが、「美の祭典」はベルリンオリンピックの記録映画です。日本での公開は4年後の昭和15年。のんびりした話ですね。もっとも、純粋な記録映画ではなく、後から選手にもう一度演技してもらっての撮影、今で言う「やらせ」が多用されているとのことで、クランクアウトまでに時間がかかったようです。
 
初出は昭和15年12月1日発行の『科学知識』第20巻第12号。かなり畑違いの雑誌ですが、光太郎、本当にいろいろな分野の雑誌に寄稿しています。そのあたりについても後ほど書いてみようと思っています。
 
長い文章ではありませんので全文を紹介しましょう。「いかにも彫刻家」という視点が窺えます。
 
「美の祭典」の全体に叙情性の濃厚なのを認めた。闘争のスリルよりも均衡の美を求める努力と意志が著しい。体操と飛込とに一番多く時間を与へてゐるのでもわかる。
 編輯に於ける全体的構成の雄大なことと、撮影途上の細かい注意とは相変らず見のがし難い。常に個々の競技そのものよりも、その競技のうしろにある力と美とを表現しようとしてゐるし、又馬の蹄の先とか、日本女性の足の指とか、各国人の表情の相違とか、雲と帆、雲と人とか、さういふ数々の挿話のおもしろさを長からず短からず取り入れてゐる緻密さがある。
 体操の美には殊に感心した。人体の力の比例均衡を存分に満喫して満足した。無理のない運動の流暢さが如何に鍛錬された力の賜であるかを見た。女学生の集団体操の撮影の順序には微笑した。
 最後の飛込の天と水と人体との感覚は圧巻である。尚ほ水泳の葉室君の顔がこの上もなく美しくて嬉しかつた。
 
「葉室君」は葉室鐵夫。005子200㍍平泳ぎの金メダリストです。

女子200㍍平泳ぎの金メダリストは前畑選手ですから、アベック優勝だったのですね。

もう一篇、その前畑選手の名前が、昭和30年(1955)、光太郎最晩年の日記の巻末余白に記されたメモ書きに現れます(『高村光太郎全集』第十三巻)。
 
ベルリンオリムピツクで前畑秀子が二百米平泳で優勝したのは一九三六年。(浅草のカフエでその放送をきいたので年代おぼえの為書抜)
 
なぜ突然この時期に前畑選手の名前が出て来るのか不思議でしたが、8月5日~14日にかけての日記に、断続的に「夜日米水泳をラジオできく」といった記述があるので、その関係で思い出したのだと思います。
 
例の「前畑がんばれ!」を光太郎は浅草のカフェで聞いていたのですね。この時、智恵子はその終焉の地となった品川のゼームス坂病院で、有名な紙絵の制作にかかっていました。
 
ざっと調べた限りでは、光太郎とオリンピックの関連はこんなところでした。ロンドン五輪も後半戦に突入。会期中にまた何か見つけたら紹介したいと思います。

さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」。ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。
 
私は二十五、六歳のころ、ニューヨークのある美術研究所の教室で一人の米国人と喧嘩したことがある。彼は実に猛烈な力を揮つて一気に私を慴伏せしめようとした。級友をまはりに見物させて堂々とかかつて来たが、私に腕を握られることを嫌つて、いはゆるメリケンを濫発し、又は逆に私の上半身を抱きすくめようとした。その勢は実に圧倒的であつたが、恐らく彼はボクシングも、レスリングも妙手ではなかつたと見えて、幾度か私のやうなものにも投げつけられた。最後の力を出しきるまで彼は頑強に立上つて向かつて来たが、最後には彼は急に弱くなつた。私がうろおぼえの怪しげな逆手を取つた時、つひに「お前の勝だ」といつた。そして握手した。それ以後彼は現金なほど教室で威張らなくなり私の彫刻にいたづらもしなくなつた。
 
ここまでは、先の二篇とほぼ同じです。しかし、この後、話が意外な方向に進みます。
 
米国人は最大の力をまづ正面に出すのが好きである。いくらやられても出す。最後の力を出しきるまでははでに出す。その代り弱る時は急に弱くなる。米国人に対してはどんなことがあつても、その最後の力を出しきらせるまでやらなければならない。とても駄目だと思ふに至るまでこちらが頑ばると最後に急にへこたれる。
 
やはり戦時中ということで、対米戦争の方に話が進むのです。この文章の題名は「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」(昭和19年7月 『高村光太郎全集』第二十巻)。題名だけでも痛々しいと思います。
 
もはや日本軍はマリアナ沖海戦にも負け、サイパン島を失い、敗色は誰の目にも明らかな時期、さらにはこのころから大本営発表に「特攻」の文字が目立つようになります。

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光太郎も題名に「神性」の語を使っていますが、日本全体「今に神風が吹く」という神頼みの状態でした。そして翌昭和20年(1945)には「米国人に対してはどんなことがあつても、その最後の力を出しきらせるまでや」った結果の、広島、長崎への原爆投下。そして敗戦……。
 
来週には広島、長崎の原爆の日、再来週には終戦記念日です。いずれ光太郎と戦争とのからみを載せたいと思っています。

閲覧数が2,500を超えました。有り難うございます。
 
さて、光太郎自身が異種格闘技戦を行ったという事件。時は明治39年か40年、所はニューヨークの美術学校であるアメリカン・アート・スチューデント・リーグ。対戦相手は同じ学校に通う米国人の若者です。ここからは、光太郎自身の言葉を引用しましょう。
 
クラスの仲間で級長のような仕事をしている男が、僕の作りかけの彫刻に悪戯をして、粘土の腕を逆につけておいたりしてからかうので、ある日、その男の腕を逆に締め上げて降参させたことなどある。そしたら、当時は日露戦争の後で日本の柔道が評判になつていた頃だから、タツク(高村の愛称)は柔道をやるというので、クラスの連中が面白がつて、レスリングをやつたことのある学生と、教室を片づけて試合をやらせようとした。僕は柔道など大してやつたわけではないけれど、仕方がないのでその男と試合をして、どうにか勝つた。僕はアメリカに渡る前に、サンドー体操で鍛えて筋肉も発達していたから、負けるものかという気だつたのである。それから、皆余り僕に悪戯をしないようになつたのは有難かつた。
(「青春の日」昭和26年 『高村光太郎全集』第十巻)
 
高村 (前略)それから夜学へ通つてたけれども、向うの生徒の茶目つてないんですね。みんなモデル写生をやつて、帰りに布で包んでね、明日の晩また来るまで、そうやつとくんですよ。それが開けてみるとね、首がうしろ向きになつてたりする。誰かがいたずらして、知らん顔してるんですよ。みんなの顔見ると、黙つているんだけど、マネージャーがいるんです、そいつがどうも怪しいから、とうとう白状させちやつてね。そうしたら、みんなが仕事台を方附ちやつて、まん中へ広場をこさえちやつて、そこで二人でやれつて言うんですよ。

高見 日米対抗競技ですね(笑声)

高村 向こうはボクシングでやる。こつちは柔道。柔道なんか全然知らないんですよ。そうすると、ぼく
の手がちよつとさわると、ビリビリッてふるえて、手をひつこめるんですよ。

高見 強いと思つて、向うじや恐れたんでしよう。

高村 グッとひつぱると、向うは退くでしよう。ドーンと突くとね、思いきり、ぶつ倒れちやう。そうして二つ
三つ逆手か何かで押えちやうとね、とても大袈裟に参るんです。とうとうしまいにはいたずらしなくなつた、うん。
(対談「わが生涯」昭和三十年 『高村光太郎全集』第十一巻)
 
微妙にディテールの違いがありますが、大筋は同じですね。光太郎、見事に米国学生から、怪しげなサブミッション(関節技)でギブアップを取っています。
 
その秘訣は光太郎自身も語って001いる「サンドー体操」。「サンドー」というのはドイツ人ボディビルダーのユージン・サンドウ。明治30年代に鉄アレイを使っての筋肉トレーニングを考案、これがボディビルの祖となったそうです。「シャーロック・ホームズ」のシリーズで人気を博したコナン・ドイルもこれにはまったとのこと。日本にも伝わっていたのですね。
 
ちなみに、光太郎は身長180㌢以上、当時の日本人としては規格外の体格でした。手足も異常に大きく、手の大きさに関しては色々な人が印象に残っていると語っていますし、足も光太郎自身曰く「13文半」=約32㌢。この体格があって、さらに筋肉も鍛えていたからこその勝利ですね。
 
さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。明日はその辺を。

ロンドンでは熱い闘いが繰り広げられています。いろいろな競技がありますが、当方、一応黒帯を持っている関係で、特に柔道を興味深く見ています。以前から言われていることですが、国内の試合とは全く異なるといっても過言ではなく、正直、戸惑う部分もあります。松本薫選手以外金を取れないというのも、ある意味仕方がないのかなと思います。それにしても、連日遅くまで見ているので昼間眠くて仕方ありません。
 
さて、柔道。光太郎とも無関係ではありません。
 
光太郎と親交のあった歌人、大悟法利雄氏の回想『文壇詩壇歌壇の巨星たち』という書籍があります。平成10年(1998)6月、短歌新聞社さんの発行です。元は平成2年(1990)~4年(1992)、『短歌現代』という雑誌に連載されたものですが、この中に「高村光太郎」の項があります(今年4月に当方が作成した冊子『光太郎資料37』に掲載させていただきました)。

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この中に以下の記述があります。
 
光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。
 
この時の座談が実現されていれば、とても面白いものになっただろうと、残念に思います。ちなみにこの当時、東京オリンピックの前ですから、まだ日本武道館は造られていませんので、柔道全日本選手権は旧両国国技館で開催されていました。
 
「前田光世」は講道館黎明期の柔道家。光太郎より一足早く柔道使節団の一員として渡米しています(前田、明治37年(1904) 光太郎、明治39年(1906))。親日家でもあったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスで柔道の試合を披露したりもしています。それ以外にも、滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。
 
ちなみにその後、前田はブラジルにも渡り、柔道の種をまきました。今回のロンドン五輪にもブラジル選手がけっこう出場していますが、こういった背景があるのです。また、前田の教えを受けた現地人が作り出したのが有名なグレーシー柔術です。
 
光太郎自身の語った内容としては、『高村光太郎全集』第11巻に掲載されている高見順との対談「わが生涯」に以下の部分があります。これは昭和30年(1955)に行われた対談です。
 
高見 日露戦争の直後ですな。
高村 あくる年くらい。あの時に日本人の柔道家で、何んていつたかな、四段の人が興行して歩いた
んです。アメリカをね。あの時は日本人に好意を持つてた時で、その前は排日があつたんです、サンフランシスコだのでね。あの時はルーズベルトの言う事を聞いたというので、日本人に好意を持つてた。ぼくが歩いているとね、なんとかつていう日本人の柔道家とまちがえるんです。なんとかつて名前を呼んだり、ハロー、ジヤツプなんて言うんですよ。
 
ここでは光太郎、柔道家の名前を006ど忘れしているようですが、「四段の人」という点から、おそらく前田光世のことだと思われます。講道館四天王の一人、富田常次郎や佐竹信四郎という可能性もありますが。
 
「ルーズベルトの言う事を聞いた」というのは、彼の斡旋でポーツマス条約が締結された事を指しています。
 
さて、前田の活躍でアメリカでも「日本の柔道は凄い」という認識が広まります。すると、現代でもそう思われている部分があるようですが「日本人はみんな柔道ができる」との勘違いが生じていたようで、光太郎自身が異種格闘技戦を行う、という事件が起こります(史実です!)。その辺りは明日のこのブログで。

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