昨日は三越百貨店日本橋本店さんに行っておりました。主目的は、渡辺えりさんご出演の舞台「三婆」の拝見。特に光太郎智恵子らと関わる内容ではないのですが、渡辺さんからの「観に来なさい」圧が凄く、さらに、妻が「チケット取って!」。どうも当方と共にえりさんご出演のテレビ番組をいろいろ観ているうちに、あろうことか(笑)渡辺さんのファンになってしまったようです。
ちなみに「三婆」には水谷八重子さんもご出演。水谷さんのお母さまの初代・水谷八重子さんは、光太郎とと面識があり、昭和32年(1957)から何度か舞台「智恵子抄」で智恵子役を演じられました。
そんなわけで、昨日は夫婦で三越劇場さんへ。
当方は昨秋の一色采子さん、松村雄基さんによる「朗読劇 智恵子抄」以来でした。こちらは初代・水谷八重子さんが演じられたもののリメイクでした。
その際にも参拝したのですが、三越さんの屋上には、オーナー三井家の守護神たる三囲(みめぐり)神社さん。こちらには光太郎の父・光雲作の「活動大黒天」が納められています。
ところが、これ以前にも三越さんがらみの大黒天像が、光雲によって制作されていました。
先述の常務取締役・藤村喜七の勤続50周年の祝にと、店員一同名義で贈られた大黒天像が、やはり光雲作だったというのです。ただし、こちらは木彫ではなく、何と光雲の木彫原形から鋳造された純金製。何とも豪華です。さらに附属の厨子は、藤村がいつもその前に座していた旧店舗の大黒柱の部材を使って制作されたとのこと。
『光雲懐古談』では、「活動大黒天」が先で、「黄金の大黒天」が後、となっています。そこで当方もそれを信用していたのですが、最近、例によって国会図書館さんのデジタルデータリニューアルにともない、自宅兼事務所でPR誌『三越』や同じく『みつこしタイムス』などを拝見することが出来るようになった結果、『光雲懐古談』の記述が誤りであることがわかりました。「黄金の大黒天」は明治43年(1910)4月3日、藤村の勤続50周年の祝の席上で進呈されていたのです。
生涯に彫って彫って彫りまくった光雲ですので、細かな制作年代まで記憶していないものも多かったのでしょう。さらにそれを云うなら、『光雲懐古談』では藤村の名も「嘉七」と誤記しています。正しくは「喜七」です。
三越さんと光雲の大黒天、ということになると、もう1点、昭和5年(1930)の『三越』誌上で「おお」という記事を見つけました。記事、というより広告ですが、以下のものです。
恵比寿と大黒のセットでの「世直し福神」。光太郎実弟にして光雲三男、後に鋳金の人間国宝となる豊周の鋳造で、大量生産されたようです。
「あ、これ、髙村家にあるやつだ」と思いました。昨年、光太郎実家の旧光雲邸に隣接する安田楠雄邸で開催された「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」に出品され、拝見して参りました。この時点では当方も(髙村家現当主の達氏も)来歴等を存じませんで、「あれはこれだったのか」という感じです。ただ、意外と最近、髙村家に戻ってきたものだそうですが。
ネットオークションにも類似のものがよく出ています。これそのものなのならいいのですが、悪質な場合は、そのものから型を採って複製したものもあるようで(そうなると鋳造がぼやけます)、注意が必要です。安田邸で拝見した髙村家のものは鋳造の具合がいい感じで、豊周の手になるもので間違いなさそうでした。
箱の画像もありましたので、この箱のついた良さげなものが廉価でネットオークションに出たら、入札しようと思います。
ところで、藤村に贈られた「黄金の大黒天」は、現存するのかしないのか、そのあたりが不明です。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。
【折々のことば・光太郎】
近年ますます其の魅力に誘惑されて、日本の自刻木版のますますよくなつて行つて広く世間の人の間に鑑賞せられるやうになる事を望んでやまないものであり、又今後機会ある毎に紹介と推奨とに努めて、世間の人が此の芸術に強い興味を持つやうになる事に少しでも力を致したいと思つてゐるのです。
川西英雄は版画家。光太郎も版画にかなり高い興味を持っていました。
ちなみに「三婆」には水谷八重子さんもご出演。水谷さんのお母さまの初代・水谷八重子さんは、光太郎とと面識があり、昭和32年(1957)から何度か舞台「智恵子抄」で智恵子役を演じられました。
そんなわけで、昨日は夫婦で三越劇場さんへ。
当方は昨秋の一色采子さん、松村雄基さんによる「朗読劇 智恵子抄」以来でした。こちらは初代・水谷八重子さんが演じられたもののリメイクでした。
その際にも参拝したのですが、三越さんの屋上には、オーナー三井家の守護神たる三囲(みめぐり)神社さん。こちらには光太郎の父・光雲作の「活動大黒天」が納められています。
残念ながら通常非公開で、当方も現物は拝見したことがありません。
この活動大黒天像については、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記述があります。初出は大正5年(1916)の雑誌『建築工芸叢誌』第15号ですが。それによると、伝説の名工・左甚五郎作と伝えられる大黒天像が三井家に在るという話が巷間に伝えられていて(古典落語「三井の大黒」など)、明治期には既に左甚五郎の実在に疑念をいだいていた光雲が三越の専務取締役・日比翁助に問い合わせ、日比は三越の生き字引と云われていた常務取締役の藤村喜七にも話を聞き、結局、そういったものは無い、とのことでした。それを機に、じゃあ、ちゃんとした大黒天像を店に祀ろう、ということになり、光雲に制作が依頼されたというのです。
それがどうやら大正元年(1912)。この年11月に発行された三越さんのPR誌『三越』に「美術工芸品の部には高村光雲氏が子年に因み今年の刀始めに彫(きざ)んだ大黒天の像が鑿の匂ひ床(ゆかし)く場中に異彩を放ち」という記述があり、この像のことと思われます。三囲神社さんの由来記的な看板にも大正元年(1912)作である由、書かれています。
そして大正12年(1923)の関東大震災で店が全焼した際にも、この像はたまたま金庫に保管されていて、焼失を免れたそうです。焼け跡の灰の中から無傷で現れた「活動大黒天」は店員達を勇気づけ、その後の三越復興のシンボルとなったとのこと。
この活動大黒天像については、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記述があります。初出は大正5年(1916)の雑誌『建築工芸叢誌』第15号ですが。それによると、伝説の名工・左甚五郎作と伝えられる大黒天像が三井家に在るという話が巷間に伝えられていて(古典落語「三井の大黒」など)、明治期には既に左甚五郎の実在に疑念をいだいていた光雲が三越の専務取締役・日比翁助に問い合わせ、日比は三越の生き字引と云われていた常務取締役の藤村喜七にも話を聞き、結局、そういったものは無い、とのことでした。それを機に、じゃあ、ちゃんとした大黒天像を店に祀ろう、ということになり、光雲に制作が依頼されたというのです。
それがどうやら大正元年(1912)。この年11月に発行された三越さんのPR誌『三越』に「美術工芸品の部には高村光雲氏が子年に因み今年の刀始めに彫(きざ)んだ大黒天の像が鑿の匂ひ床(ゆかし)く場中に異彩を放ち」という記述があり、この像のことと思われます。三囲神社さんの由来記的な看板にも大正元年(1912)作である由、書かれています。
そして大正12年(1923)の関東大震災で店が全焼した際にも、この像はたまたま金庫に保管されていて、焼失を免れたそうです。焼け跡の灰の中から無傷で現れた「活動大黒天」は店員達を勇気づけ、その後の三越復興のシンボルとなったとのこと。
先述の常務取締役・藤村喜七の勤続50周年の祝にと、店員一同名義で贈られた大黒天像が、やはり光雲作だったというのです。ただし、こちらは木彫ではなく、何と光雲の木彫原形から鋳造された純金製。何とも豪華です。さらに附属の厨子は、藤村がいつもその前に座していた旧店舗の大黒柱の部材を使って制作されたとのこと。
『光雲懐古談』では、「活動大黒天」が先で、「黄金の大黒天」が後、となっています。そこで当方もそれを信用していたのですが、最近、例によって国会図書館さんのデジタルデータリニューアルにともない、自宅兼事務所でPR誌『三越』や同じく『みつこしタイムス』などを拝見することが出来るようになった結果、『光雲懐古談』の記述が誤りであることがわかりました。「黄金の大黒天」は明治43年(1910)4月3日、藤村の勤続50周年の祝の席上で進呈されていたのです。
生涯に彫って彫って彫りまくった光雲ですので、細かな制作年代まで記憶していないものも多かったのでしょう。さらにそれを云うなら、『光雲懐古談』では藤村の名も「嘉七」と誤記しています。正しくは「喜七」です。
三越さんと光雲の大黒天、ということになると、もう1点、昭和5年(1930)の『三越』誌上で「おお」という記事を見つけました。記事、というより広告ですが、以下のものです。
恵比寿と大黒のセットでの「世直し福神」。光太郎実弟にして光雲三男、後に鋳金の人間国宝となる豊周の鋳造で、大量生産されたようです。
「あ、これ、髙村家にあるやつだ」と思いました。昨年、光太郎実家の旧光雲邸に隣接する安田楠雄邸で開催された「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」に出品され、拝見して参りました。この時点では当方も(髙村家現当主の達氏も)来歴等を存じませんで、「あれはこれだったのか」という感じです。ただ、意外と最近、髙村家に戻ってきたものだそうですが。
ネットオークションにも類似のものがよく出ています。これそのものなのならいいのですが、悪質な場合は、そのものから型を採って複製したものもあるようで(そうなると鋳造がぼやけます)、注意が必要です。安田邸で拝見した髙村家のものは鋳造の具合がいい感じで、豊周の手になるもので間違いなさそうでした。
箱の画像もありましたので、この箱のついた良さげなものが廉価でネットオークションに出たら、入札しようと思います。
ところで、藤村に贈られた「黄金の大黒天」は、現存するのかしないのか、そのあたりが不明です。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。
【折々のことば・光太郎】
近年ますます其の魅力に誘惑されて、日本の自刻木版のますますよくなつて行つて広く世間の人の間に鑑賞せられるやうになる事を望んでやまないものであり、又今後機会ある毎に紹介と推奨とに努めて、世間の人が此の芸術に強い興味を持つやうになる事に少しでも力を致したいと思つてゐるのです。
大正14年(1925)1月28日 川西英雄宛書簡より 光太郎43歳
川西英雄は版画家。光太郎も版画にかなり高い興味を持っていました。