大正末のヒユウザン会(のちフユウザン会)などで光太郎と親しかった、岸田劉生の大規模な展覧会です。
没後90年記念 岸田劉生展
期 日 : [前期]2019年8月31日~9月23日、[後期]2019年9月25日~10月20日
時 間 : 10:00~18:00(金~20:00)
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
料 金 : 一般 1100円 / 高校・大学生 900円 / 中学生以下無料
休 館 日 : 月(9月16日、9月23日、10月14日は開館)、9月17日、9月24日
日本近代絵画史上に輝く天才画家。満を持して登場!
画家・岸田劉生(1891-1929)は、日本の近代美術の歴史において最も独創的な絵画の道を歩んだ孤高の存在です。明治の先覚者・岸田吟香を父として東京・銀座に生まれ、父の死後はキリスト教会の牧師を志しますが、独学で水彩画を制作するなかで、画家になることを勧められ、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に油彩画を学びます。そして、雑誌『白樺』が紹介する「後期印象派」の画家たち(ゴッホ、ゴーギャン、マティスら)を知り、大きな衝撃を受けます。1912年には、斎藤与里、高村光太郎、萬鐡五郎らとともにヒユウザン会を結成、強烈な色彩と筆致による油彩画を発表します。しかし、画家としての自己の道を探究するために、徹底した細密描写による写実表現を突きつめ、その先にミケランジェロやデューラーら西洋古典絵画を発見、独創的な画風を確立します。1915年には、木村荘八、椿貞雄らとともに草土社を結成、若い画家たちに圧倒的な影響を与えました。また、最愛の娘・麗子の誕生を契機に、自己のなかの究極の写実による油彩画を志します。その後は、素描や水彩画、日本画にも真剣に取り組み、再び油彩画に「新しい道」を探究しはじめた1929年、満洲旅行から帰国直後に体調を崩して、山口県の徳山において客死しました。享年38歳でした。
本展では、岸田劉生の絵画の道において、道標となる作品を選び、会期中150点以上の作品を基本的に制作年代順に展示することで、その変転を繰り返した人生の歩みとともに、岸田劉生の芸術を顕彰しようとするものです。このたび没後90年を迎えて、一堂に名品が揃います。この機会をどうぞご堪能ください。
*会期中、一部展示替えがあります(前期=8/31~9/23、後期=9/25~10/20)。
光太郎の岸田評。
まずは岸田生前のそれから。
芸術の品は何にも換へがたい貴重なものであるが此を口で言ひ現はす事は到底出来ない。如何に真摯に、巧妙に、奥深さうに、物ありげであつても、又如何に厭味なく淡々としてゐても、眩い程光彩陸離としてゐても、此第一根源は偽はれない。作家の真生活は悉く作品に暴露せられて、精々明々毫髪も蔽はずである。手段となつた舂簸篩揀は此所で何の役にも立たぬ。もう此稿を終らねばならなくなつたが、今述べた品といふものを本当に知りたかつたら今年の二科会へ足を運んで、岸田劉生氏の作画をよく見られるのが捷径だと思ふ。(「芸術雑話」より 大正6年=1917)
岸田君の芸術には不思議な権威が備はつてゐる。此の権威が自然と見る人に伝はつて来て、文句無しに其人を感動せしめる。いきなり打つ。眼に見てゐるものは画であるが、心に感じて来るものは普通画を見た時の心理以上のものである。こつちに少しでもつまらない厭な心持の浮いた時には、正視するのが心に疚しく感じられる。何だか澄んだ光つた眼がこつちを見てゐるやうな気のする画だ。その画を見ると動揺してゐる心がぴたりと沈黙させられる。烈々としたものを受ける。静かだけれども動いてゐる。しかも恐ろしい静寂が湧いて来る。(「岸田君の芸術の事」より 大正10年=1921)
そして、昭和4年(1929)の劉生の死に際して。
岸田劉生の死ほど最近私の心を痛打したものは無い。(略)岸田劉生を親しく知る者は天才といふ言葉を信じないわけにゆかなかつた。生れつき常人以上に優秀な人間があるといふ事を打消す事が出来なかつた。どんな詭弁を用ゐようともその事実があまり明瞭であり過ぎたからである。(「岸田兄の死を悼む」より 昭和5年=1930)
さらにその没後しばらく経ってからは……。
草土社時代以後の岸田氏の画業は実にめざましいものであつて、描写力をこれほど本格的に油絵具に持たしめ得た画家は日本に曾て類例が無かつた。日本の油画はあの厳密世界を通つたので稍倚りかかる脊梁を得たといつていゝ。(「寸言――岸田劉生十周忌回顧展覧会――」より 昭和13年=1938)
岸田劉生は黒田清輝以後、日本の画界で最も意味ふかい仕事をした天賦ゆたかな画家であつたが、その創立した草土社の運動は一見時代錯誤のやうな外貌を備へて神がかり式な古典的油絵を日本で猛烈に唱道した。此の運動の真意義を大局的に観察すると、結局従来の日本に於ける油絵への懐疑、油絵そのものの根帯の探求、油絵といふもの本来の意味と伝統との真摯な検討といふ重大な契機を持つてゐたのであつて、岸田劉生はまるで駆け足のやうな速さで西欧の古典の種々相を身を以て経験し、油絵具の描写力とそれにつながる造型的要素の機能とを試み、翻つて東洋的画趣と油画との関係に思を潜めるに至つた時、まだ壮年の齢をも越えぬ年で急死した。(「素材と造型」より 昭和15年=1940)
これほど光太郎が絶賛した画家は、他にはあまりいないように思われます。
それから、評ではなく個人的な感懐ですが、こちらも。
今夜は本当に悲しい。寝耳に水だ。昭和四年十二月二十日、朝の新聞で、岸田劉生の危篤の報道を読み、程経て既に彼が午前零時半に死んだのだといふ事を知つた。つい此間、ブルデルの死を聞いて遺憾やる方無い思をしたが、その「死」がこんなにつけつけと物凄く吾等の身近の天才の上にまで侵入して来ようとはまさか思ひも寄らなかつた。(略)今夜「読売」に頼まれて此一文を書かうとしても、唯徒らに取りとめもなくさまざまの思ひが湧き起るのみだ。(「岸田劉生の死」より 昭和4年=1929)
画像は大正8年(1919)、雑誌『白樺』十周年記念の会で撮影されたもの。後列右端が光太郎、二人置いて劉生です。
光太郎をしてここまで言わしめた劉生の展覧会、ぜひ足をお運び下さい。
光太郎の岸田評。
まずは岸田生前のそれから。
芸術の品は何にも換へがたい貴重なものであるが此を口で言ひ現はす事は到底出来ない。如何に真摯に、巧妙に、奥深さうに、物ありげであつても、又如何に厭味なく淡々としてゐても、眩い程光彩陸離としてゐても、此第一根源は偽はれない。作家の真生活は悉く作品に暴露せられて、精々明々毫髪も蔽はずである。手段となつた舂簸篩揀は此所で何の役にも立たぬ。もう此稿を終らねばならなくなつたが、今述べた品といふものを本当に知りたかつたら今年の二科会へ足を運んで、岸田劉生氏の作画をよく見られるのが捷径だと思ふ。(「芸術雑話」より 大正6年=1917)
岸田君の芸術には不思議な権威が備はつてゐる。此の権威が自然と見る人に伝はつて来て、文句無しに其人を感動せしめる。いきなり打つ。眼に見てゐるものは画であるが、心に感じて来るものは普通画を見た時の心理以上のものである。こつちに少しでもつまらない厭な心持の浮いた時には、正視するのが心に疚しく感じられる。何だか澄んだ光つた眼がこつちを見てゐるやうな気のする画だ。その画を見ると動揺してゐる心がぴたりと沈黙させられる。烈々としたものを受ける。静かだけれども動いてゐる。しかも恐ろしい静寂が湧いて来る。(「岸田君の芸術の事」より 大正10年=1921)
そして、昭和4年(1929)の劉生の死に際して。
岸田劉生の死ほど最近私の心を痛打したものは無い。(略)岸田劉生を親しく知る者は天才といふ言葉を信じないわけにゆかなかつた。生れつき常人以上に優秀な人間があるといふ事を打消す事が出来なかつた。どんな詭弁を用ゐようともその事実があまり明瞭であり過ぎたからである。(「岸田兄の死を悼む」より 昭和5年=1930)
さらにその没後しばらく経ってからは……。
草土社時代以後の岸田氏の画業は実にめざましいものであつて、描写力をこれほど本格的に油絵具に持たしめ得た画家は日本に曾て類例が無かつた。日本の油画はあの厳密世界を通つたので稍倚りかかる脊梁を得たといつていゝ。(「寸言――岸田劉生十周忌回顧展覧会――」より 昭和13年=1938)
岸田劉生は黒田清輝以後、日本の画界で最も意味ふかい仕事をした天賦ゆたかな画家であつたが、その創立した草土社の運動は一見時代錯誤のやうな外貌を備へて神がかり式な古典的油絵を日本で猛烈に唱道した。此の運動の真意義を大局的に観察すると、結局従来の日本に於ける油絵への懐疑、油絵そのものの根帯の探求、油絵といふもの本来の意味と伝統との真摯な検討といふ重大な契機を持つてゐたのであつて、岸田劉生はまるで駆け足のやうな速さで西欧の古典の種々相を身を以て経験し、油絵具の描写力とそれにつながる造型的要素の機能とを試み、翻つて東洋的画趣と油画との関係に思を潜めるに至つた時、まだ壮年の齢をも越えぬ年で急死した。(「素材と造型」より 昭和15年=1940)
これほど光太郎が絶賛した画家は、他にはあまりいないように思われます。
それから、評ではなく個人的な感懐ですが、こちらも。
今夜は本当に悲しい。寝耳に水だ。昭和四年十二月二十日、朝の新聞で、岸田劉生の危篤の報道を読み、程経て既に彼が午前零時半に死んだのだといふ事を知つた。つい此間、ブルデルの死を聞いて遺憾やる方無い思をしたが、その「死」がこんなにつけつけと物凄く吾等の身近の天才の上にまで侵入して来ようとはまさか思ひも寄らなかつた。(略)今夜「読売」に頼まれて此一文を書かうとしても、唯徒らに取りとめもなくさまざまの思ひが湧き起るのみだ。(「岸田劉生の死」より 昭和4年=1929)
画像は大正8年(1919)、雑誌『白樺』十周年記念の会で撮影されたもの。後列右端が光太郎、二人置いて劉生です。
光太郎をしてここまで言わしめた劉生の展覧会、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
山に春がきて、ぼくの住んでいた小屋の前で、チーチクチーチクと鳴いた鳥の声が、こうして東京のアトリエにいながらも、聞えてくるような気がする。きせきれい、せぐろ、こま、るり、うそ、やまがら、やまばと、ひばり、それからほおじろだ。
対談「春をつげるバツケ」より 昭和31年(1956) 光太郎74歳
没する三ヶ月前、活字になったものとしては最後の対談です。かなうことなら帰りたかった、花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしを偲んでいます。