昨日のこのブログ、国会図書館さんで調べた『婦人之友』の記事について触れましたので、ついでにそのあたりをもう少し。

先月の調査の際に見つけたのですが、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)の記事です。タイトルが「変つた形のエプロン二種」。「恵美子」という署名で書かれており、同誌の記者が執筆したもののようですが、「二種」のうちの一つが、なんと智恵子デザイン、製作のエプロンです。

 高村光太郎氏の御宅に伺つたとき、手を拭きながら出ていらしつた夫人が、ほんとうに面白い前掛をかけてゐらつしやいました。何だかわからない厚地の渋い茶色に印度更紗を取り合せてある、めづらしい形ちのものでした。早速拝借して来たのがこの写真のものです。
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 布地(きれぢ)はお酒をしぼる時に使つた袋なのです。色も厚さも丁度ズツクのやうで、これに古代更紗でふちが取つてあるのです。エプロンの中央には随分大きなポケツトがついて居ります。このポケツトは大変役にたつので、お炊事の時に一寸ふきんをはさんでおいたり、お仕事の時は、鋏や絲など失(なく)しやすいものを入れておいたりすることが出来ます。而もその形が如何にも大まかなので、よく全体の調和を保つてゐるのです。
 何でも有り合せの布(きれ)を利用して、うまく配合させると、中々面白いものになります。夫人がもう一つ見せて下すつたのは形は同じで、キヤラコの地に、水色の四角な輪を散つてゐる麻布(あさぎれ)を取り合せてありました。大変すゞしさうに見えました。雑ぱくな仕事着よりずつと趣味が豊かで上品なかんじがいたします。一寸したお客様の時なら着たまゝで出てもさしつかへはないでせう。
 作り方は左の図をごらんになればすぐわかります。これは頸(くび)にかける紐が輪になつてゐますが、髪が崩れる恐れがありますから、紐の中央を裁(き)つてホツク止めにするか、紐の一方の端だけはなしておいてこれにスナツプをつけ、胸の三角形の所にとめ合せるやうに工夫したらよいでせう。着物の場合、袂(たもと)は左右についてゐるひもでしつかり結ぶと大丈夫となります。
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 赤ちやんのあるお母様にまたこのエプロンは大変便利ではありませんか。哺乳の度(たび)に、いちいち取り外さなくてもよいのですから。
 全体の巾(はば)や長さは着る方の身体によつて適当にして頂きます。たゞ御参考までに大体の出来上り寸法をかき入れてみました。


原文は総ルビですが、分かりにくいと思われるもの以外は外しました。あきらかな誤字は正してあります。

何だか現代でも売っていそうなデザインですね。大正末といえば、まだ婦人は和装が中心だったのではないかと思われ、家事の際にはエプロンより割烹着的なものが多かったのではないでしょうか。その時代にこのエプロン、斬新だったかもしれません。

素材が「お酒をしぼる時に使つた袋」ということで、智恵子は福島の実家・長沼酒造から持ち帰ったのではないでしょうか。となると、麻や絹ではなく、コットンでしょう。もう一つの同型のものはキャラコと書かれていて、これも綿布の一種ですね。

ところで、型紙の図。単位が記されていませんが、尺貫法で書かれているようです。たて「247」は247㌢=2㍍47㌢では長すぎますね(笑)。といって、247㍉=24.7㌢では赤ちゃんのよだれかけです(笑)。「247」は2尺4寸5分=約74.2㌢でしょう。そこで、全て㍉に換算してみました。
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紐の長さは書いてありませんが、適当に、ということでしょう。まぁ、体型によっても変わるでしょうし(笑)。

それにしても、写真は智恵子が使っていたものを借りてきて撮影したそうで、「おお」という感じでした。これを装着した状態の智恵子の写真が載っていれば、なおよかったのですが……。

ところで、エプロンというと家事のイメージ。「智恵子」「家事」といえば、1ヶ月位前でしょうか、有名なフェミニズム系のセンセイ(昔よくテレビでジェンダー論を吠えていた女性の方です)が「光太郎は炊事掃除洗濯を全部智恵子に押し付けた」的な発言をなさっていました(そのセンセイ、昔から「智恵子抄」を眼の敵にされているのですが)。しかし、「ちょっと待てよ」です。

たしかに光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)には、次の一節があります。

彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であつた。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓してしまふ。さういふ日々もかなり重なり、結局やつぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くといふやうな事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が食はれる事になるのであつた。

しかし、同じ文章には

私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。

とあり、「炊事掃除洗濯を全部智恵子に押し付けた」とは言えますまい。

また、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居近所の住民の目撃証言で、光太郎が買い物カゴを下げて歩いているのはよく見かけたが、智恵子の買い物姿は見たことがない、といったものもあります。「やつぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず」と云いつつも、かなり分担は為されていたのではないかと思われ、やはり「炊事掃除洗濯を全部智恵子に押し付けた」は言い過ぎのような気がします。

ま、この辺りを論じ始めるときりがありませんし、いずれにしても当人達にしか分からない、いわば真相は「闇の中」なのですが……。

さて、「智恵子のエプロン」。型紙を御参考に、この方面で腕に覚えのある方、ぜひ作ってみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京はあのやうな始末故ちゑさんも今暫くそちらにて静養の方よろしきかと存候間何分御願申上候

大正12年(1923)10月6日 長沼セン宛書簡より 光太郎41歳

東京はあのやうな始末」は、この年9月1日の関東大震災に関わります。光太郎アトリエ兼住居は無事でしたが。智恵子は震災当日も実家に帰っていまして、もう少しそちらに置いてくれという依頼です。