昨日は都内に出ておりました。
まずはよく行く国立国会図書館さん。例によって調べものです。
昨年12月の、同館デジタルデータリニューアルに伴い、閲覧できる件数が飛躍的に増え、自宅兼事務所のPCでも見られるデータからも続々、これまで知られていなかった光太郎文筆作品等を見つけ続けています。が、「館内限定」ということで、同館まで足を運ばないと見られないデータも多く、先月も調査に赴きましたが、今月も行って参りました。
その結果、書籍の短評、それからアンケート回答で『高村光太郎全集』未収録のものを発見しました。来年4月発行の雑誌『高村光太郎研究』内の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
ただ、昨日はその方面の調査より、別件の調べものがメインでした。雑誌『婦人之友』に関してです。同誌、今年で創刊120年を迎える我が国婦人雑誌の最古参の一つ。過日も新刊書店の店頭で立ち読みして参りましたが、森まゆみ氏らによる創刊120周年キャンペーン的な連載も為されています。
同誌、光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が始めたもので、光太郎は明治期の創刊間もない頃から亡くなる直前まで、断続的に寄稿を続けました。雑誌としての光太郎寄稿数の多さはおそらく十指(ことによると五指)に入るのではと思われます。また、その数だけでなく、寄稿していた期間の長さも特異です。下記は当方作成の資料から。
その羽仁夫妻が創設し、これまた健在、都下東久留米市の自由学園さんの出身で、『婦人之友』にも関係していた盛岡出身の吉田幾世。自由学園さんの精神を引き継ぐ新制の「向中野学園高校」を昭和23年(1948)に創立(前身は昭和8年=1933創立の私塾的な「盛岡友の会生活学校」)しました。こちらは「盛岡生活学校」「向中野学園高等学校」そして「盛岡スコーレ高等学校」と名を改め、やはり現在も続いています。
吉田は光太郎と交流があり、盛岡生活学校時代に、生徒たちを花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に引率していったりしましたし、光太郎も同校の卒業式に参列したり、カリキュラムについてさまざまなアドバイスをしたりしていました。そのため、同校には光太郎関連の書や写真等が残っているそうです。下の画像は昭和31年(1956)刊行の『日本文学アルバム高村光太郎』(筑摩書房)から。光太郎、ウハウハですね(笑)。
そこで今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、花巻市の主催で吉田や盛岡生活学校と光太郎の交流をメインとした企画展示を行うとのこと。当方、そのための事前調査で、花巻市の職員の方々などと共に今月末に同校へ伺うことになりました。
そのため、『婦人之友』の調査です。同誌には光太郎の寄稿以外にも、吉田その他による複数の光太郎訪問記や、光太郎の消息の紹介などがたくさん載っており、それらは国会図書館さんまで行かないと閲覧できないため、足を運んだ次第です。ごっそりコピーを取ってきました。今後、精査し、今秋の展示に生かしたいと存じます。
調査終了後、同館最寄りの永田町駅から東京メトロ半蔵門線で2駅、表参道駅で下車。北青山に向かいました。絵画の個展の拝見です。
描かれたのは加藤真夢さん。やはり光太郎や吉田と交流の深かった画家・深沢省三、紅子夫妻の令孫です。また、お父さまの竜一氏は光太郎の後輩で詩「四人の学生」(昭和18年=1943)のモデル。お母さまのトシ様との新婚時代、現在の雫石町にお住まいで、昭和25年(1950)にはそちらに光太郎が逗留したこともありました。そして真夢さんご自身も自由学園さんの卒業生です。
会場はギャラリーコンセプト21さん。
お隣は青山セントグレース大聖堂さん。
ちょうど御夫妻で在廊なさっていて、いろいろお話をさせていただきました。御夫妻、それからお母さま、息子さんと、4名様で今年の第67回連翹忌の集いにご参加して下さいました。
油彩、水彩で花を描かれた作品が中心。
その色彩の鮮やかさに眼を奪われました。
お祖父さま、お祖母さまが手がけられていたような、挿画等の作品の載った子供向けの書籍も展示されていました。
それから、先述の国会図書館での『婦人之友』調査で、お祖母様と吉田、さらに羽仁夫妻の令嬢・説子らによる座談会の記事「新しき農村工芸を語る」(昭和26年=1951)もコピーを取ってきました。この中で光太郎も話題に上がっています。
「そういうことでしたら、吉田の関係で公開するに差し支えのないものがお宅にありましたら、お貸しいただけますか」と、お願いして参りました。
というわけで、来月初めには盛岡での調査の報告も載せさせていただきます。ちなみに花巻高村光太郎記念さんでは、今秋の吉田がらみの展示以前に、光太郎が太田村で残したスケッチに関わる展示をされるそうです。来週末からと聞いていますがまだ詳細が発表されていません。わかりましたら改めてご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
そのうち自由学園の建物を拝見させて頂きにまゐりたいと思つております。
龍田はこの当時の『婦人之友』編集長。のち三上姓となりますが、やはり戦後まで光太郎との交流が続きます。
「自由学園の建物」は、おそらくフランク・ロイド・ライト設計の「明日館(みょうにちかん)」と思われます。光太郎、建築にも造詣が深く、自身で建築設計も行っていました。
先述の『婦人之友』記事中に、翌大正13年(1924)、羽仁もと子によるもので、光太郎が同校を訪れたことが記されているものもありました。
まずはよく行く国立国会図書館さん。例によって調べものです。
昨年12月の、同館デジタルデータリニューアルに伴い、閲覧できる件数が飛躍的に増え、自宅兼事務所のPCでも見られるデータからも続々、これまで知られていなかった光太郎文筆作品等を見つけ続けています。が、「館内限定」ということで、同館まで足を運ばないと見られないデータも多く、先月も調査に赴きましたが、今月も行って参りました。
その結果、書籍の短評、それからアンケート回答で『高村光太郎全集』未収録のものを発見しました。来年4月発行の雑誌『高村光太郎研究』内の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
ただ、昨日はその方面の調査より、別件の調べものがメインでした。雑誌『婦人之友』に関してです。同誌、今年で創刊120年を迎える我が国婦人雑誌の最古参の一つ。過日も新刊書店の店頭で立ち読みして参りましたが、森まゆみ氏らによる創刊120周年キャンペーン的な連載も為されています。
同誌、光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が始めたもので、光太郎は明治期の創刊間もない頃から亡くなる直前まで、断続的に寄稿を続けました。雑誌としての光太郎寄稿数の多さはおそらく十指(ことによると五指)に入るのではと思われます。また、その数だけでなく、寄稿していた期間の長さも特異です。下記は当方作成の資料から。
その羽仁夫妻が創設し、これまた健在、都下東久留米市の自由学園さんの出身で、『婦人之友』にも関係していた盛岡出身の吉田幾世。自由学園さんの精神を引き継ぐ新制の「向中野学園高校」を昭和23年(1948)に創立(前身は昭和8年=1933創立の私塾的な「盛岡友の会生活学校」)しました。こちらは「盛岡生活学校」「向中野学園高等学校」そして「盛岡スコーレ高等学校」と名を改め、やはり現在も続いています。
吉田は光太郎と交流があり、盛岡生活学校時代に、生徒たちを花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に引率していったりしましたし、光太郎も同校の卒業式に参列したり、カリキュラムについてさまざまなアドバイスをしたりしていました。そのため、同校には光太郎関連の書や写真等が残っているそうです。下の画像は昭和31年(1956)刊行の『日本文学アルバム高村光太郎』(筑摩書房)から。光太郎、ウハウハですね(笑)。
そこで今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、花巻市の主催で吉田や盛岡生活学校と光太郎の交流をメインとした企画展示を行うとのこと。当方、そのための事前調査で、花巻市の職員の方々などと共に今月末に同校へ伺うことになりました。
そのため、『婦人之友』の調査です。同誌には光太郎の寄稿以外にも、吉田その他による複数の光太郎訪問記や、光太郎の消息の紹介などがたくさん載っており、それらは国会図書館さんまで行かないと閲覧できないため、足を運んだ次第です。ごっそりコピーを取ってきました。今後、精査し、今秋の展示に生かしたいと存じます。
調査終了後、同館最寄りの永田町駅から東京メトロ半蔵門線で2駅、表参道駅で下車。北青山に向かいました。絵画の個展の拝見です。
描かれたのは加藤真夢さん。やはり光太郎や吉田と交流の深かった画家・深沢省三、紅子夫妻の令孫です。また、お父さまの竜一氏は光太郎の後輩で詩「四人の学生」(昭和18年=1943)のモデル。お母さまのトシ様との新婚時代、現在の雫石町にお住まいで、昭和25年(1950)にはそちらに光太郎が逗留したこともありました。そして真夢さんご自身も自由学園さんの卒業生です。
会場はギャラリーコンセプト21さん。
お隣は青山セントグレース大聖堂さん。
ちょうど御夫妻で在廊なさっていて、いろいろお話をさせていただきました。御夫妻、それからお母さま、息子さんと、4名様で今年の第67回連翹忌の集いにご参加して下さいました。
油彩、水彩で花を描かれた作品が中心。
その色彩の鮮やかさに眼を奪われました。
お祖父さま、お祖母さまが手がけられていたような、挿画等の作品の載った子供向けの書籍も展示されていました。
さらに真夢様、吉田幾世をよく御存じだそうで、驚きました。お祖父様が岩手大学に奉職なさっていた頃、さらに退官なさって上京、練馬に居を移されてからもたびたびお宅でお会いになったそうです。吉田の著書『忘れ得ぬ人々』には、深沢家を訪れたエピソードも書かれていましたので、考えてみれば不思議はないのですが。ちなみに同書には、光太郎の項も設けられています。
それから、先述の国会図書館での『婦人之友』調査で、お祖母様と吉田、さらに羽仁夫妻の令嬢・説子らによる座談会の記事「新しき農村工芸を語る」(昭和26年=1951)もコピーを取ってきました。この中で光太郎も話題に上がっています。
「そういうことでしたら、吉田の関係で公開するに差し支えのないものがお宅にありましたら、お貸しいただけますか」と、お願いして参りました。
というわけで、来月初めには盛岡での調査の報告も載せさせていただきます。ちなみに花巻高村光太郎記念さんでは、今秋の吉田がらみの展示以前に、光太郎が太田村で残したスケッチに関わる展示をされるそうです。来週末からと聞いていますがまだ詳細が発表されていません。わかりましたら改めてご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
そのうち自由学園の建物を拝見させて頂きにまゐりたいと思つております。
大正12年(1923)3月10日 龍田秀吉宛書簡より 光太郎41歳
龍田はこの当時の『婦人之友』編集長。のち三上姓となりますが、やはり戦後まで光太郎との交流が続きます。
「自由学園の建物」は、おそらくフランク・ロイド・ライト設計の「明日館(みょうにちかん)」と思われます。光太郎、建築にも造詣が深く、自身で建築設計も行っていました。
先述の『婦人之友』記事中に、翌大正13年(1924)、羽仁もと子によるもので、光太郎が同校を訪れたことが記されているものもありました。