昨日の『奄美新聞』さん記事から。

「日本復帰学習会」スタート 語り部招き、町内全小開催へ

【徳之島】奄美群島日本復帰70周年にちなんだ伊仙町教育委員会の「奄美群島日本復帰学習会」が23日、伊仙小学校(佐々木久志校長)の5、6年生65人を皮切りに始まった。戦前戦中生まれの語り部2氏を派遣。児童たちは、同校(当時国民学校)の元教頭で校歌作詞者でもある「奄美日本復帰の父」泉芳朗氏=同町面縄出身=の人柄や功績、祖国分離下の厳しい生活などの体験談に触れた。
 復帰70周年を記念して1時限(45分間)ずつ設定した。群島民20万人余の署名活動や断食祈願による無血民族運動など、諸先輩らの思いを次世代につなぐ持続可能な社会とまちづくり、さらに、郷土教育の充実による「郷土に誇り、愛する豊かな心の育成」が目的。各校区の語り部を中心に、町立全小学校(8校)に派遣開催する。
 伊仙小での語り部には、卒業生で同校にも通算10年間勤務した元教職員で現在、町文化財保護審議会会長の義岡明雄さん(85)=伊仙=と、同じく元教職員で現在塾講師の福清千美子さん(78)=面縄=の2人が協力。
 義岡さんは、太平洋戦争末期(小学生当時)に沖縄戦での米軍艦砲射撃の爆発音や空振も感じた恐怖、若者ら特攻隊の出撃の背景、終戦・祖国分離下でサツマイモを主食としたつらい体験談の数々も語った。
 大先輩(伊仙尋常小高等科卒)でもある泉氏については、東京で高村光太郎らと詩人として活躍中に体調を崩し失意の中に帰郷し、母校伊仙小の代用教員に就いた1年後、秀逸ぶりから教頭に抜てきされたことや、神之嶺小校長、県視学を経て奄美群島日本復帰協議会議長として先頭に立った断食祈願(5日間)の敢行なども分かりやすく解説。
 その上で、児童たちには「芳朗先生は貧しい中で一生懸命に勉強をした。芳朗先生のように人に優しく平和を愛する人になってほしい」ともアピールした。
 福清さんも終戦・祖国分離下だった幼少期の思い出などを自作の絵巻物で紹介しつつ、「ロシアとウクライナの戦争が続いているが、奄美群島の日本復帰運動では血を流した人は1人もいない。人に優しく、自分の考えをしっかりと伝え実行する人に」と呼び掛けた。
 児童の宝永友樹愛さん(6年生)は「自分たちが〝日本人〟に戻れたのは泉芳朗先生のおかげと思った。今の自分たちは恵まれていることも分かった。偉大な先人に学び、人に感謝して人を愛し、優しくすることを心掛けたい」と話した。
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奄美群島の日本本土復帰は昭和28年(1953)12月25日。今年はちょうど70周年だそうで、「奄美群島日本復帰70周年記念式典及び記念祝賀会」なども計画されているようです。それに先立ち、徳之島の大島郡伊仙町の小学校で歴史的背景を学ぶ取り組みが為されたとのこと。同町出身で、初代名瀬市長も務め、本土復帰に骨折った泉芳朗の事績なども取り上げられたそうです。

泉については、このブログで昨年にも取り上げましたが、その時点では、当方、泉と光太郎の関わりをあまり存じませんでした。筑摩書房『高村光太郎全集』には、泉の名は一度しか出てこないためで、それも昭和27年12月14日の光太郎日記に「田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長」とあるだけだったためです。「俺美」は「奄美」の誤記です。

ところが、よくよく調べてみると、かなり深い関わりがあったことが分かりまして、汗顔の至りでした。

002きっかけは、過日、千葉県立東部図書館さんに行った折、たまたま眼にした『新装版 泉芳朗詩集』(平成25年=2013 紀伊國屋書店)。ぱらぱらめくってみると、見なれた光太郎の筆跡が眼に飛び込んできました。泉が主宰していた雑誌『自由』の表紙画像です。右は同誌の昭和29年(1954)新年号。春秋社さんから刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)から採りました。

この題字が光太郎の筆になるものであることは存じていましたが、この雑誌が泉の主宰だったことは存じませんでした。『高村光太郎 造型』の解題を見ますと、ちゃんと泉の名が記され、先の日記にあった昭和27年(1952)12月14日の訪問が、この題字揮毫に関わるであろうということも記述されていました。


そこでいろいろ調べたところ、遡って昭和13年(1938)には光太郎も出席した座談会で、泉が司会を務めていたことも見落としていたのにも気付きました。

雑誌『詩生活』(これも泉の主宰でした)の第6巻第1号に掲載された「詩と文学・戦時座談会」という長い座談会で、会場は都内大塚の山海楼、光太郎、泉以外の出席者は昇曙夢(泉と同郷のロシア文学者)、川路柳虹、宇野浩二でした。昭和47年(1972)、文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第三集に全文が掲載されています(筑摩書房『高村光太郎全集』は、これに限らず座談会は総て割愛)。

前年には日中戦争も始まっており、かなり時局に即した内容です。途中途中につけられた小見出しをいくつか拾うと、以下の通り。「事変が生んだ作品について」「戦争文学のありかたについて」「戦争文学のカテゴリー」「体験と戦争文学」「素材を如何に取り上げるか」「外国の戦争文学・詩」「火野葦平と「兵隊」物」「国民文学と世界文学」「事変と日本文学の新動向」「文学の世界的交流」「若き世代の人々に望むもの」……。

言い訳をさせていただけるなら(言い訳していいわけないだろ、とか突っ込まないで下さい(笑))、泉、戦前には本名の「泉芳朗」ではなく、「泉与史朗」と名乗っていた時期もあり、この座談の際のクレジットも「泉与史朗」でした。

泉と親しかった詩人の田村昌由(『詩生活』の編集に携わっていて、おそらく座談の筆録に当たったと思われます)が、のちにこの座談会について語っています。出典は日本詩人クラブ発行の『詩界』121号(昭和48年=1973)。明らかな誤字は正して引用します。

 この座談会は、実は高村先生のあとあとによからぬ結果をもたらすきっかけをつくった、と私はずうっと思っているのですが。といいますのは先生は当時、智恵子夫人の病中であることと、もうひとつはあたまをもちあげてきた戦争亡霊がいやで、どこの座談会へも出られなかった。みんなことわっておられたのです。ところが「詩生活」の座談会へ出られた。雑誌が出ると早速「中央公論」から「かねがねお願いしてあったわけですが……どうかこんどは……」といった具合で、せめたてられて、ことわりきれず、こまってしまった、とあとで先生からおききしました。先生の戦時社会詩文学活動〈このんでされたのではない、私たちは先生の応接間にうかがっているとき、たずねてきた人の注文をことわられるのに何度かぶつかった〉はこの座談会がきっかけで十四年の春頃から、だんだんとのめりこんでいくのです。
(略)
 十月十八日が座談会ですが、智恵子夫人がなくなられたのは十月五日です。雑誌には口絵写真がのっていて若い私たちはうしろの方にかしこまっていますが、私は、夫人がなくなられてまもないのに座談会へ出られた、そのことをいまでも申訳なく思っています。


なるほど、この後、同様の座談会に光太郎が引っぱり出されることが多くなります。翌昭和14年(1939)には雑誌『知性』で「芸術と生活を語る」と題し、岸田国士、豊島与志雄と。この際がおそらく岸田と初対面でしたが、岸田は翌昭和15年(1940)、大政翼賛会が発足すると文化部長に就任し、光太郎を翼賛会の中央協力会議議員に強く推薦し、光太郎もそれを引き受けます。

まぁ、それ以前から翼賛詩的なものを書いていた光太郎ですが、この座談を契機に戦争協力へとなだれ込むことになったと言っても過言ではありませんね。その際の司会をしていたのが泉であった、というわけです。

また、「泉与史朗」名義で調べてみると、昭和16年(1941)刊行の海野秋芳の詩集『北の村落』には、光太郎と泉、両名の「序」が並べられていたり、同年の『現代日本年刊詩集 昭和十六年版』にも光太郎と泉の翼賛詩が共に掲載されていたりしました。そして戦後の『自由』。泉と光太郎の結びつき、かなり深かったわけですね。

そうこうしているところに、昨日の『奄美新聞』さんの記事。驚きました。

戦後、光太郎は戦争協力を恥じて花巻郊外旧太田村のボロ屋に7年間の蟄居生活を送り、泉は郷里・奄美群島の本土復帰に尽力。立場や事績は異なれど、共通する魂があったのではないかと思われます。

以前も書きましたが、奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

とにかく書いたから約束のやうに送ります 背の文字は少し書きいぢけたから 別にかいた方のを入れていたゞきたい 裏は画も考へたけれどそれよりはとおもつてシイルを考案した 扉其他の字のまづいのは素より君が覚悟の上だから為方がない 今いそぐ為め用事のみ


大正8年(1919)4月27日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎37歳

内藤は光太郎第一詩集『道程』版元の抒情詩社社主。内容的に書籍の装幀にかかわるものと推測されますが、この時期に該当する光太郎装幀の書籍が見あたりません。ボツになったのか、当該書籍の出版が頓挫したのか、それとも未だ知られざるこの時期の光太郎装幀の書籍が存在するのか……。謎です。