昨日は智恵子の故郷・福島二本松に行っておりました。

智恵子生家/智恵子記念館さんを会場に、市の主催として昨日まで「高村智恵子生誕祭」が約1ヶ月間開催されており、さらに昨日は地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶさん主催による「智恵子を偲ぶ鎮魂の集い」も行われるということで、参上した次第です。

千葉の自宅兼事務所から愛車を駆って、片道3時間ちょっと。9時過ぎに到着しました。
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光太郎令甥の故・髙村規氏揮毫の「智恵子純愛通り」碑前で、「智恵子を偲ぶ鎮魂の集い」開会式。智恵子生家/智恵子記念館とさらに周辺の智恵子ゆかりの場所等を巡り、さらに光太郎詩碑の前で参加者が朗読をする、という内容です。似たような内容では以前も行われていましたが、今年から「智恵子を偲ぶ鎮魂の集い」と名付けたとのこと。参加者十数名でした。
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さっそく、碑のすぐ近くの智恵子生家、智恵子記念館へ。
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平常は非公開にしている生家二階部分の公開、昨日が最終日でした(また秋には実施されるはずですが)。
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何度も訪れているので、「また来ましたよ」と胸の内で智恵子の御霊にごあいさつ。
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一階部分では、これも昨日最終日だった「上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験」コーナー。
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道の駅「安達」智恵子の里内の二本松和紙伝承館さんの方がインストラクターで、和紙を切り貼りしてうちわを作れるそうで。こちらのうちわ一本、お土産に戴いてしまいました。

その後、車両3台に分乗して、附近のゆかりの場所巡り。

智恵子の母校、油井小学校さん。
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樹木のうち何本かは智恵子在学中(明治26年=1893~明治34年=1901)当時からあったそうで。

ちなみに以前に見つけて購入した明治末~大正初めの様式の古絵葉書。写っている松が上の画像の松です。
油井小学校
JR東北本線安達駅。一昨年除幕された、故・橋本堅太郎氏遺作の智恵子像「今 ここから」。
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一帯は現在、大規模区画整理中で、それが終わると像の正面、視線の先に安達太良山が望めるように設計されているそうです。

智恵子の実家・長沼家の菩提寺である満福寺さん内の長沼家墓所。
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酒造業を興した智恵子の祖父母、さらに発展させた両親、長沼酒造を嗣いで、しかし破産に導いてしまった弟・啓助、そして福島高等女学校在学中に夭折した末妹・チヨの墓石が並んでいます。花立てのうちの一基には「高村ちゑ」の名。智恵子の寄進です。
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ゆかりの地としてラストに生家裏手の鞍石山。光太郎詩「樹下の二人」詩碑が建っています。この詩碑も建立40周年だそうで。どうも元々光太郎の生誕100周年記念という意味合いもあって建てられたのではないでしょうか。

その詩碑の前で、参加なさった皆さんによる光太郎詩の朗読。
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さらに去る4月2日(日)の連翹忌の日に、二本松の「さつき山公園」というところであったイベントで光太郎智恵子がらみの「本当の空を忘れないで」という歌を披露されたユニット風信子(ヒヤシンス)さんのヴォーカリスト・村上有理香氏は、朗読に加えて「本当の空を忘れないで」をア・カペラで歌って下さいました。素晴らしい!
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ちなみにこの場所から見えた安達太良山頂とほんとの空。まだ雪が残っていました。昨日は山開きでしたが、麓から山頂が見えるということは、まずまずの天候だったようです。

最後は生家近くのかねすい智恵子の湯さんで昼食をいただき散会。その後、当方は引き続き現地調査を行い(国立国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い「むむむっ」という情報を得まして――ただし、ガセネタで、空振りでしたが(笑))、帰途に就きました。

地元紙『福島民報』さん、『福島民友』さんともに取材に来られていまして、いずれ報道が為されると存じます。ネットで拝読できる状況になれば、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】003

今年は世界の一隅に行はれてゐた殺戮がとにかく中止となつただけでも本当に心安らかな気持でゆかれるやうになりました どうかしても少し人間同士が了解し合ひ相愛し合つて 汚い私我を棄てゝ大きな宇宙の一つの精神に奉仕しつゝ生活してゆけるやうになりたいものと考へてゐます 少しでも其の為めになるやうに微少の自分も力を尽してゆきたいと念じてゐます 光りかゞやくものを人間の間に生みたいものとおもひます


大正7年(1918)12月25日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

世界の一隅に行はれてゐた殺戮」は、第一次世界大戦です。「も少し人間同士が了解し合ひ相愛し合つて 汚い私我を棄てゝ大きな宇宙の一つの精神に奉仕しつゝ生活してゆけるやうになりたい」、昨日、帰りがけの車中でウクライナ大統領ゼレンスキー氏の広島訪問の中継を見つつ、同じようなことを考えました。

しかしこう言っていた光太郎、約20年後の第二次世界大戦の際には、がっつり戦争に加担することになります。「光りかゞやくものを人間の間に生みたい」じゃなかったのか! です。