光太郎の父・光雲の「老猿」が出品されている、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。アート系テレビ番組でも随分取り上げられたり、新聞各紙の文化面等にも紹介記事がたくさん載ったりするなど、かなり注目度が高かったようです。SNS上にも観覧された方々の「高村光雲の「老猿」すげぇ」といった投稿が相次いでいます(光雲と光太郎を混同する人も多く、「高村光太郎の「老猿」すげぇ」的な投稿も目立ちますが……)。
『読売新聞』さん、4月12日(水)の記事。
明治以降の絵画、彫刻、工芸で重文指定を受けた作品は68件。そのうち高橋由一の「鮭(さけ)」、岸田劉生が愛(まな)娘を描いた「麗子微笑」など51点を会場に集めた。
本展のうたい文句は「『問題作』が『傑作』になるまで」。それを象徴する作品の一つが、萬(よろず)鉄五郎の「裸体美人」だ。悠然と草原に横たわる裸婦は、アカデミズムの写実的な美女とは言いがたい。それ故、東京美術学校の卒業制作だった本作は発表当時、19人中16番目と低評価だった。しかし、近代絵画のポスト印象派やフォービスム(野獣派)の造形表現をいち早く吸収した先駆的な作品として、後に評価が覆り、2000年に重文になった。
会場にある重文の指定年表も興味深い。1983~98年の16年間、近代の美術工芸品の重文指定は皆無なのだ。本展担当の大谷省吾副館長は「西洋美術の潮流をいかに巧みに取り込んだかが重視された。それに見合った作品が出そろったとみなされたのではないか」と推測する。 その中断期に国内で近代美術館の開館が相次ぎ、学会が設立されると、近代美術の研究が進み、西洋の尺度がよりどころだった評価方法が多様化していった。日本的な主題と西洋画の技法の融合を試みた黒田清輝の「湖畔」(99年指定)、迫真性という西洋彫刻の概念と伝統的な木彫の性格を併せ持った高村光雲の「老猿」(同)が好例だろう。
岸田や日本画家の速見御舟は重文指定作があるが、同年代で「エコール・ド・パリ」を代表する画家、藤田嗣治はない。本展に不在の未指定作品や作家にも目を向けると、日本の近代美術の価値観は現在進行形で変化する、より生々しいものだと感じられる。
5月14日まで。展示替えあり。
4月25日(火)、『朝日新聞』さん。
評価基準の揺れ動きに注目
高橋由一の「鮭(さけ)」(1877年ごろ)に、高村光雲の「老猿」(93年)、黒田清輝の「湖畔」(97年)、岸田劉生「麗子微笑」(1921年)。展示替えが多く一度に見られる点数は40点程度だが、教科書でもおなじみの作品が次々に現れ、目が吸い寄せられる。
主催関係者の話し合いで重要文化財(重文)だけの展覧会の案が出たとき、同館の大谷省吾・副館長は懐疑的だったという。開館70周年を記念し、開館2年前の1950年施行の文化財保護法に基づく重文の展覧会という企画だが、そもそも貴重な重文作品を貸してもらえるのか、のんきな名品展になってしまわないのか、という思いだった。
しかし出品50点以上のめどが立ち、文献を読み、どの作品がいつ重文に指定されたかの年表を作ったことで、「文化財指定の歴史を俯瞰(ふかん)することで、違う景色が見える」と意義を見いだせるようになった。「重文だから素晴らしいのではなく、なぜ重文に指定されたのかという視点です」
第1弾は日本画
確かに、会場に掲示されている年表は興味深い。近代美術が最初に重文に指定されたのは、保護法施行5年後の55年の4件で、56年は2件。狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草の日本画が2点ずつで、明治期に流入した西洋画に対抗する表現を模索した表現者たちだ。
しばらく間を置き、67年~72年に一挙に約20点が指定されたが、これは68年の明治100年を記念した面がありそうだという。ここで「鮭」「麗子微笑」が指定される一方、超有名な「湖畔」や「老猿」はない。
大谷さんは「西洋美術的な価値観が優先されたのではないか」と指摘する。洋画なら伝統的な西洋絵画や印象派、彫刻ならロダンに学んだような表現であり、和風の「湖畔」や仏像彫刻の伝統をひき、置物とも連なるような「老猿」は避けられたのだろう。
美術館増で急増
そして83年から98年には近代美術が一件も指定されない長き空白が訪れる。大谷さんは「当初の評価基準では、まずはこれぐらいと考えたのか」と推測。一方、99年から指定が急に増えるのは、各地で近代美術館が整備され、美術館制度を巡る論考などが充実したことで評価の基準が変わっていった可能性があるという。
こうして「湖畔」と「老猿」は99年に、フォービスムを思わせる萬(よろず)鉄五郎「裸体美人」(1912年)が2000年に、工芸では初代宮川香山「褐釉蟹(かつゆうかに)貼付台付鉢」(1881年)が02年に指定されている。
評価基準という意味では「永仁の壺(つぼ)事件」も忘れがたい。鎌倉時代の古瀬戸の傑作として1959年に重文に指定された壺が、実はもっと新しいとされ、61年に指定が解除された事件だ。美術品の評価について考えさせる例だが、今展では触れられていない。
黒田清輝「舞妓(まいこ)」(1893年)など、借りられなかった重要作もあるが、展覧会のもう一つの狙いを、大谷さんはこう語った。「今は近世以前の美術や現代美術に人気があり、日本の近代美術への関心が薄くなっている。これを機にその魅力を知ってもらえれば」
▽5月14日まで、東京・竹橋の東京国立近代美術館。
今回の展覧会を通し、両紙とも指摘していますが、重文に指定の評価基準がどうだったかという点が見直されたのは大きかったと思います。
会場内に展示されている「年表」はこんな感じです。
「老猿」は、昭和42年(1967)に指定候補に挙がりながら、「保留」。その年には荻原守衛の絶作「女」(明治43年)が指定されました。やはりその後の日本近代彫刻の大きな潮流であるロダニズムを色濃く持つ「女」の指定は妥当ですが、「そうでない」という理由で「老猿」の指定が見送られたのは興味深いところです。
評価基準ということを問題にすれば、もう1点。大谷省吾副館長は立場上、明言できないと思うのですが、現在指定されている68件の内訳ということも問題視されるべきかと存じます。はっきり言えば「絵画偏重」。68件中、工芸は9点のみ、彫刻にいたってはわずか6点しか指定されていません。残り53件が絵画です。
彫刻に関しては、「老猿」のような木彫は別ですが、ブロンズに鋳造されている作品だと、同じ作品が複数存在し、指定しにくいという面はあるでしょう。そこで、「女」や、同じ守衛の「北条虎吉像」は石膏原型が指定されています。版画が一件も指定されていないのも同じ理由なのでしょうか。棟方志功やら川瀬巴水やらの作品は他の指定作と比較しても決して遜色はないように感じるのですが。
それにしても、8割方絵画が占めているという現状はいかがなものかと思われます。苦言を呈せば「なぜこれが重文?」、もっと言えば「誰? この作者」という絵画も指定されています。あくまで当方の主観ですが。
言ってしまえば「美術」というカテゴリーの中に、肉筆絵画が上位に位置し、版画や彫刻、工芸を下とするヒエラルキーというか、カーストというか、そういうものの存在を感じずには居られません。
今後の議論を待ちたいところです。
ちなみに平成11年(1999)、「老猿」が指定された際の新聞記事のスクラップが出てきましたので載せておきます。
ここでも「湖畔」が先で画像入り、「老猿」は後ですね。
さて、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。最初に書きました通り、明日までです。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
私は一体ナマハンジヤクな微笑が大嫌ひです。微笑は大ていの場合ゴマカシを意味してゐます。現今社会の老人株の微笑は到底たまらないものです。(惚れた同士の微笑と非常な大人物の微笑とを除いては。)
交流のあった作家・田村松魚が日暮里に骨董店を開き、その屋号が「微笑堂」。そこでその開店通知に対しての返信でしょう。
田村の妻・俊子は智恵子の親友でしたが、この時期に松魚と別れ、2年後に新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ってしまいます。
『読売新聞』さん、4月12日(水)の記事。
全出品作が重要文化財という豪華な展覧会「重要文化財の秘密」が、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開かれている。ただの名品展ではなく、日本近代美術の評価の変遷に迫る内容だ。
明治以降の絵画、彫刻、工芸で重文指定を受けた作品は68件。そのうち高橋由一の「鮭(さけ)」、岸田劉生が愛(まな)娘を描いた「麗子微笑」など51点を会場に集めた。
本展のうたい文句は「『問題作』が『傑作』になるまで」。それを象徴する作品の一つが、萬(よろず)鉄五郎の「裸体美人」だ。悠然と草原に横たわる裸婦は、アカデミズムの写実的な美女とは言いがたい。それ故、東京美術学校の卒業制作だった本作は発表当時、19人中16番目と低評価だった。しかし、近代絵画のポスト印象派やフォービスム(野獣派)の造形表現をいち早く吸収した先駆的な作品として、後に評価が覆り、2000年に重文になった。
会場にある重文の指定年表も興味深い。1983~98年の16年間、近代の美術工芸品の重文指定は皆無なのだ。本展担当の大谷省吾副館長は「西洋美術の潮流をいかに巧みに取り込んだかが重視された。それに見合った作品が出そろったとみなされたのではないか」と推測する。 その中断期に国内で近代美術館の開館が相次ぎ、学会が設立されると、近代美術の研究が進み、西洋の尺度がよりどころだった評価方法が多様化していった。日本的な主題と西洋画の技法の融合を試みた黒田清輝の「湖畔」(99年指定)、迫真性という西洋彫刻の概念と伝統的な木彫の性格を併せ持った高村光雲の「老猿」(同)が好例だろう。
岸田や日本画家の速見御舟は重文指定作があるが、同年代で「エコール・ド・パリ」を代表する画家、藤田嗣治はない。本展に不在の未指定作品や作家にも目を向けると、日本の近代美術の価値観は現在進行形で変化する、より生々しいものだと感じられる。
5月14日まで。展示替えあり。
4月25日(火)、『朝日新聞』さん。
「『問題作』が『傑作』になるまで」「史上初、ぜんぶ重要文化財」。こんな惹句(じゃっく)を掲げる東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密」展がにぎわっている。明治以降の重文68件中51点を紹介する展覧会は、多くの観客動員を期しつつ、美術品評価の不思議に迫ろうとする試みでもある。
評価基準の揺れ動きに注目
高橋由一の「鮭(さけ)」(1877年ごろ)に、高村光雲の「老猿」(93年)、黒田清輝の「湖畔」(97年)、岸田劉生「麗子微笑」(1921年)。展示替えが多く一度に見られる点数は40点程度だが、教科書でもおなじみの作品が次々に現れ、目が吸い寄せられる。
主催関係者の話し合いで重要文化財(重文)だけの展覧会の案が出たとき、同館の大谷省吾・副館長は懐疑的だったという。開館70周年を記念し、開館2年前の1950年施行の文化財保護法に基づく重文の展覧会という企画だが、そもそも貴重な重文作品を貸してもらえるのか、のんきな名品展になってしまわないのか、という思いだった。
しかし出品50点以上のめどが立ち、文献を読み、どの作品がいつ重文に指定されたかの年表を作ったことで、「文化財指定の歴史を俯瞰(ふかん)することで、違う景色が見える」と意義を見いだせるようになった。「重文だから素晴らしいのではなく、なぜ重文に指定されたのかという視点です」
第1弾は日本画
確かに、会場に掲示されている年表は興味深い。近代美術が最初に重文に指定されたのは、保護法施行5年後の55年の4件で、56年は2件。狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草の日本画が2点ずつで、明治期に流入した西洋画に対抗する表現を模索した表現者たちだ。
しばらく間を置き、67年~72年に一挙に約20点が指定されたが、これは68年の明治100年を記念した面がありそうだという。ここで「鮭」「麗子微笑」が指定される一方、超有名な「湖畔」や「老猿」はない。
大谷さんは「西洋美術的な価値観が優先されたのではないか」と指摘する。洋画なら伝統的な西洋絵画や印象派、彫刻ならロダンに学んだような表現であり、和風の「湖畔」や仏像彫刻の伝統をひき、置物とも連なるような「老猿」は避けられたのだろう。
美術館増で急増
そして83年から98年には近代美術が一件も指定されない長き空白が訪れる。大谷さんは「当初の評価基準では、まずはこれぐらいと考えたのか」と推測。一方、99年から指定が急に増えるのは、各地で近代美術館が整備され、美術館制度を巡る論考などが充実したことで評価の基準が変わっていった可能性があるという。
こうして「湖畔」と「老猿」は99年に、フォービスムを思わせる萬(よろず)鉄五郎「裸体美人」(1912年)が2000年に、工芸では初代宮川香山「褐釉蟹(かつゆうかに)貼付台付鉢」(1881年)が02年に指定されている。
評価基準という意味では「永仁の壺(つぼ)事件」も忘れがたい。鎌倉時代の古瀬戸の傑作として1959年に重文に指定された壺が、実はもっと新しいとされ、61年に指定が解除された事件だ。美術品の評価について考えさせる例だが、今展では触れられていない。
黒田清輝「舞妓(まいこ)」(1893年)など、借りられなかった重要作もあるが、展覧会のもう一つの狙いを、大谷さんはこう語った。「今は近世以前の美術や現代美術に人気があり、日本の近代美術への関心が薄くなっている。これを機にその魅力を知ってもらえれば」
▽5月14日まで、東京・竹橋の東京国立近代美術館。
今回の展覧会を通し、両紙とも指摘していますが、重文に指定の評価基準がどうだったかという点が見直されたのは大きかったと思います。
会場内に展示されている「年表」はこんな感じです。
「老猿」は、昭和42年(1967)に指定候補に挙がりながら、「保留」。その年には荻原守衛の絶作「女」(明治43年)が指定されました。やはりその後の日本近代彫刻の大きな潮流であるロダニズムを色濃く持つ「女」の指定は妥当ですが、「そうでない」という理由で「老猿」の指定が見送られたのは興味深いところです。
評価基準ということを問題にすれば、もう1点。大谷省吾副館長は立場上、明言できないと思うのですが、現在指定されている68件の内訳ということも問題視されるべきかと存じます。はっきり言えば「絵画偏重」。68件中、工芸は9点のみ、彫刻にいたってはわずか6点しか指定されていません。残り53件が絵画です。
彫刻に関しては、「老猿」のような木彫は別ですが、ブロンズに鋳造されている作品だと、同じ作品が複数存在し、指定しにくいという面はあるでしょう。そこで、「女」や、同じ守衛の「北条虎吉像」は石膏原型が指定されています。版画が一件も指定されていないのも同じ理由なのでしょうか。棟方志功やら川瀬巴水やらの作品は他の指定作と比較しても決して遜色はないように感じるのですが。
それにしても、8割方絵画が占めているという現状はいかがなものかと思われます。苦言を呈せば「なぜこれが重文?」、もっと言えば「誰? この作者」という絵画も指定されています。あくまで当方の主観ですが。
言ってしまえば「美術」というカテゴリーの中に、肉筆絵画が上位に位置し、版画や彫刻、工芸を下とするヒエラルキーというか、カーストというか、そういうものの存在を感じずには居られません。
今後の議論を待ちたいところです。
ちなみに平成11年(1999)、「老猿」が指定された際の新聞記事のスクラップが出てきましたので載せておきます。
ここでも「湖畔」が先で画像入り、「老猿」は後ですね。
さて、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。最初に書きました通り、明日までです。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
私は一体ナマハンジヤクな微笑が大嫌ひです。微笑は大ていの場合ゴマカシを意味してゐます。現今社会の老人株の微笑は到底たまらないものです。(惚れた同士の微笑と非常な大人物の微笑とを除いては。)
大正5年(1916)8月8日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳
交流のあった作家・田村松魚が日暮里に骨董店を開き、その屋号が「微笑堂」。そこでその開店通知に対しての返信でしょう。
田村の妻・俊子は智恵子の親友でしたが、この時期に松魚と別れ、2年後に新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ってしまいます。