4月24日(月)、『毎日新聞』さんの滋賀県版に載った記事。
一度行ってみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいるのですが、滋賀県米原市にある「醒井木彫美術館」さん。東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に教えを受け、光太郎とも関わりのあった森大造の作品が多く納められています。
森と光太郎の関わり、その一。
昭和15年(1940)1月に、数え58歳だった光太郎を講師に招き、東京美術学校倶楽部において座談会が催されまして、その際の司会役が森でした。主催は森がリーダーだった九元社、他の出席者は明治33年(1900)生まれの森と同世代の彫刻家たちなど。この模様は雑誌『九元』第2巻第1号(昭和15年=1940 3月20日)に全文が掲載されています。
こうした出席者多数の座談会筆録は、元々『高村光太郎全集』には採録されて居らず、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』第6巻(昭和52年=1977)に集成されていますが、この座談はそちらにも洩れていたため、当方編集の「光太郎遺珠⑨」(雑誌『高村光太郎研究(35)』平成26年=2014)に全文を掲載しました。国会図書館さん、日本近代文学館さん等で閲覧可です。
森と光太郎の関わり、その二。
光太郎最晩年の昭和30年(1955)、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺に、木彫の観音像を作って納めて欲しいという依頼がありました。地元では光太郎が承諾する前から趣意書的なものを作成しています。
しかしもはや光太郎にそんな余力は残って居らず、結局、森が光太郎の代わりに観音像を制作しました。想像ですが、光太郎実弟の豊周あたりを通じて、森に依頼が行ったのだと思われます。
当方、問題の観音像を平成27年(2015)に拝見。この際は堂の扉を開けていただいて拝ませていただきました。
それから、先月、花巻に行った際にも、「『毎日』さんに森の名が出たっけな」というわけで、久しぶりに拝観に行ってみました。
昌観寺さん、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)と同じ太田地区ですが、歩いて行くにはちょっと遠いかな、という場所です。
境内左手の森の中に観音堂。
扉の格子の隙間から観音像が拝めます。
かたわらには、これも森の手になる木彫。観音像寄進の発願主・八重樫甚作という人物を彫ったものだそうです。
どちらもいいお顔をしていますね。
ちなみに『毎日新聞』さんに紹介されていた兎の木彫はこちら。
面の取り方など、光太郎テイストも感じられます。
というわけで、醒井木彫美術館さん、ますます行ってみたくなりました。皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
夏には一体弱いのですが、今年は尚更暑さにまけて中夏以後殆と半分病人の様な状態で毎日仕事にかかつて居ますので人に会ふのが大変苦しいのです。見た処さうでも無いのですが暑さを堪へて居る辛さが想像以上なのです。仕事をするのでやツと持ちこたへて居ます。そのうち夜にでも参上します。早く涼しくなればいい。
夏の暑さを大の苦手としていたのは若い頃からだったのですね。
<名品手鑑Ⅱ(めいひんてかがみ2)> 滋賀の博物館・美術館探訪/62 醒井木彫美術館 森大造の多彩な作品群 今にも跳ねそうな「卯」 仏像、干支にちなむ動物信楽焼のレリーフまで/滋賀
醒井木彫(さめがいもくちょう)美術館のそもそもの発端は、木彫の里出身の森大造(もりたいぞう)(1900~88)の遺作を里帰りして故郷に納める倉庫を探していたことに始まりました。木彫の里は醒井から3キロさかのぼった川筋に、田畑もなく山にかかわる暮らしをした、江戸末期より宮大工に始まる木彫が今日にも伝わるところです。たまたま醒井在住の岩嵜家が、倉庫ではなく木彫の里の現役・物故作家の作品も一緒に森大造の遺作と一般公開する美術館に、という展開が現実になりました。美術館正面の扉は、木彫の里現役作家による天女のレリーフ像でにぎわいます。
世界の彫刻史はギリシャの代理石像と近世記念碑に見るブロンズ像の流れが主流で、木彫は天災人災で保存が難しく、幸い日本には仏像の形で寺院に多く残されました。木彫の里では、寺院建築の内外を飾る彫刻と仏壇の内陣に見る精緻な伝承の紋様を彫り続け、高村光雲(たかむらこううん)や平櫛田中(ひらくしでんちゅう)に見る人形師系列のリアルな作風を踏襲しています。
森大造はその流れをくみつつ創意を重ね、個性豊かな一刀彫りの表現による、多彩なモチーフの作品を制作しました。大別すると、祈りの造形である仏像、必ずしも古仏の再現ではなく図象学に基礎を置く昭和の仏像を、微笑薬師やにっこり地蔵など親しい仏像を心がけました。また日本独特の文化を探り、俳句に見る人間模様の造形、芭蕉(ばしょう)、一茶(いっさ)、蕪村(ぶそん)、特に奥の細道と題した美術館にある馬上の芭蕉像は定評の作品でした。一方で究極の動と静を窮めた能彫を、竹生島・小鍛冶・石橋・松風など極彩色のものも多く制作しました。
最後に木彫を超えて、素材は多岐にわたり、展覧会制作による空間構成を意図した造形です。美術館裏にあるセメントの「楯(たて)」は、戦争中の制作で醒井小学校の国旗掲揚塔に設置されたものでした。なお、彦根城内金亀公園には井伊直弼(いいなおすけ)像、彦根駅前には初代藩主の井伊直政(いいなおまさ)の馬上像、また米原市役所の屋外に見る壁面には信楽焼の陶によるレリーフの家族像が残ります。他に、醒井駅前には霊山三蔵(りょうせんさんぞう)像と居醒(いさめ)の清水には日本武尊(やまとたけるのみこと)の像も。木彫だけでなく造形家の顔も見ることができる作品群です。
ここでは生活の場にみる動物、今年は干支(えと)の卯(う)年にあたり兎(うさぎ)を掲載しました。ただの兎ですが単純なものほど想をねる作業の繰り返しで、ふくよかでうずくまったポーズの次の瞬間はどこに跳ぶのか、静かな中に動きのある親しい作品です。来年の辰(たつ)は、唯一実在の動物ではなく雲から湧き上がった形になりました。
森大造発想の原点は日常生活にあり、夜寝ている時と健康を害して臥(ふ)せている時以外は彫刻が頭から離れず、正に彫刻することしか能のない、大は屋外に見る銅像から小は白檀(びゃくだん)の切れ端で女性と子供の装身具までと、一貫した彫刻人生でした。材木屋さんが建築材にならず誰も使わない木材を運び込むと、その中に何かを発想して彫り出すことを楽しみました。神代檜(じんだいひのき)というボソボソの木材で霊山三蔵を、美術館にもレリーフ状の彫刻が二、三収まりました。
動きも音もなく、昨今のテレビや動画にみるにぎやかで騒々しい趣向から遠く離れて、清流のほとりにある静謐(せいひつ)を極めたたたずまい。そこに、名もなくお金もなくひたすら木を彫り続けた大造さんの作品に囲まれて、こよない平和な時を過ごすことができる空間になりました。
一度行ってみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいるのですが、滋賀県米原市にある「醒井木彫美術館」さん。東京美術学校彫刻科で光太郎の父・光雲に教えを受け、光太郎とも関わりのあった森大造の作品が多く納められています。
森と光太郎の関わり、その一。
昭和15年(1940)1月に、数え58歳だった光太郎を講師に招き、東京美術学校倶楽部において座談会が催されまして、その際の司会役が森でした。主催は森がリーダーだった九元社、他の出席者は明治33年(1900)生まれの森と同世代の彫刻家たちなど。この模様は雑誌『九元』第2巻第1号(昭和15年=1940 3月20日)に全文が掲載されています。
こうした出席者多数の座談会筆録は、元々『高村光太郎全集』には採録されて居らず、文治堂書店さん刊行の『高村光太郎資料』第6巻(昭和52年=1977)に集成されていますが、この座談はそちらにも洩れていたため、当方編集の「光太郎遺珠⑨」(雑誌『高村光太郎研究(35)』平成26年=2014)に全文を掲載しました。国会図書館さん、日本近代文学館さん等で閲覧可です。
森と光太郎の関わり、その二。
光太郎最晩年の昭和30年(1955)、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の昌歓寺に、木彫の観音像を作って納めて欲しいという依頼がありました。地元では光太郎が承諾する前から趣意書的なものを作成しています。
しかしもはや光太郎にそんな余力は残って居らず、結局、森が光太郎の代わりに観音像を制作しました。想像ですが、光太郎実弟の豊周あたりを通じて、森に依頼が行ったのだと思われます。
当方、問題の観音像を平成27年(2015)に拝見。この際は堂の扉を開けていただいて拝ませていただきました。
それから、先月、花巻に行った際にも、「『毎日』さんに森の名が出たっけな」というわけで、久しぶりに拝観に行ってみました。
昌観寺さん、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)と同じ太田地区ですが、歩いて行くにはちょっと遠いかな、という場所です。
境内左手の森の中に観音堂。
扉の格子の隙間から観音像が拝めます。
かたわらには、これも森の手になる木彫。観音像寄進の発願主・八重樫甚作という人物を彫ったものだそうです。
どちらもいいお顔をしていますね。
ちなみに『毎日新聞』さんに紹介されていた兎の木彫はこちら。
面の取り方など、光太郎テイストも感じられます。
というわけで、醒井木彫美術館さん、ますます行ってみたくなりました。皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
夏には一体弱いのですが、今年は尚更暑さにまけて中夏以後殆と半分病人の様な状態で毎日仕事にかかつて居ますので人に会ふのが大変苦しいのです。見た処さうでも無いのですが暑さを堪へて居る辛さが想像以上なのです。仕事をするのでやツと持ちこたへて居ます。そのうち夜にでも参上します。早く涼しくなればいい。
大正5年(1916)8月25日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳
夏の暑さを大の苦手としていたのは若い頃からだったのですね。