まずは地方紙『福島民友』さん、昨日の一面コラム。
この写真、『青鞜』の明治45年1月号に掲載されました。同じ号には新年会のレポートも載りました。智恵子に関わる部分はこちらに抜粋してあります。
ところで最近、この時代の智恵子評で、これまでの光太郎智恵子関連書籍に載っていなかったと思われるものを見つけました。上記写真右端の小磯俊子が書いたものと思われます。智恵子だけでなく、らいてう、荒木郁子、尾竹紅吉らについても述べられていて、「青鞜の女」という題にまとめられています。掲載誌は『女子文壇』第8巻第10号、大正元年(1912)10月号です。
智恵子に関する部分はこの通り。
夢から出て夢を通り夢に入る。さう云つた様な永沼さんといふ人。
永沼智恵子――かう書いて私は永から手を出さうか智から手をつけて見様(みやう)か迷つて仕舞ふ様なまぼろしの女、其の人の話をじつと聞いて居ると、何処からどう声が出てどう通つてどう耳に流れ込むのか判然しない様な調子で話されてぶつつり、かと思ふとぼうつと尾が切れて仕舞ふ。暗い時に、人の居ない処で、かう云ふ声でかう云ふ調子で話しかけられたら、気の弱い女はふるへ上るかもしれない。
綿をまるめてぶつつけたやうに、フワリとぶつかつて後(のち)は、ヒトダマの消える様に消える永沼さんと云ふ人は、すべての人をうつゝにおびき出す魔女の様だ。
無気味で手の出しにくひ小さい目と、植木鉢をさかさまにして、その上に石をのせたのをかぶつて居る様な髪の後形(うしろかたち)とが、自身の性格の、いつはりなきあらはれぢやあるまいか。
夏の真昼になまぬるいサイダーを歯の奥でかみしめる時、其の目とその髪型とを思ひ出さずには居られない。
語尾がはっきりしないしゃべり方だったけれど、それが不思議な魅力でもあったという智恵子の特徴がよく表されていますね。
既にお気づきと思いますが、智恵子の旧姓「長沼」が「永沼」と誤記されています。そのため、これまでに刊行された光太郎智恵子関連書籍に洩れていたのではないかと思われます。もっとも、よくよく探せば何処かには引用されていたかもしれません。どうも当方、この世界に入って最初の頃に読んだ文献は細かいところまで覚えていないきらいがありまして……。「これ、この本のここに載ってるよ」というのがありましたら御教示いただけると幸いです。
ところでこの文章、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、発見しました。正攻法ではなく搦め手からの発見です。ひねこびた性格の当方ですので、「昔から誤記や誤植はあったはず」と、光太郎智恵子の名、考えられる誤植のパターンで検索をかけた中で、「永沼智恵子」と入れてみたら見事にこれがヒットしたのです。
実は他にもありまして、「高村智恵子」ではなく「高村智慧子」で検索してみたところ、驚くべき発見もありました。大正12年(1923)6月1日発行の『女性日本人』第4巻第6号です。
この号には「女性の好む男と男性の好む女のタイプ」というアンケートが掲載され、生田花世ら12名が回答を寄せていますが、智恵子のこの文章はそれに回答できなかった詫びで、巻末の「おたより」欄に別途掲載されています。たったこれだけの短いものですが、智恵子の遺した文章は絶対数が少ないので、これだけでも大きな発見といえます。
ちなみに智恵子は前年11月の同誌第3巻第9号に「哀憐な美しさを見ます」「芝居好きの婦人と読書好きの婦人と」の2本のアンケート回答を寄せていて、そちらは既刊の光太郎智恵子文献に掲載されています。ただ、これも当該号の目次欄では片方が「高村智慧子」と誤植されていました。
過日もお伝えしましたが、これまで広く紹介されていなかった智恵子写真や智恵子装幀の書籍などを見つけることもでき、ここにきて新たな智恵子の姿がまた見えてきたような気がします。
さて、「智恵子生誕祭」、さまざまなコンテンツが用意されています。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
「アルス」昨夜拝見。大変きれいに出来ました。お喜びを申上げます。「ランスの本寺」の訳文の文章の拙いのに心を痛めてゐます。ロダンに済まない気がしてなりません。どうかして其の償ひをしたい気がしてゐます。あゝ済まない、済まない。あの美しい文章がこんなになるとは何といふ事だらう。 あんまり字句に忠実すぎて却て堅くなり過ぎました。自分の馬鹿。
「アルス」は白秋が出していた雑誌で、この月に創刊されました。光太郎はロダンの翻訳「ランスの本寺」を寄稿していますが、それが納得行かなかったようで……。
その後の『アルス』に載せ続けた訳などを集成し、翌年には訳書『ロダンの言葉』が刊行されます。
編集日記 智恵子の生誕祭
「我(わ)が長沼智恵子などは、男をも凌(しの)ぐ新しさを持って、花のやうな未来を楽しんでゐる」。油井村(現二本松市)出身の画家高村智恵子は独身時代の1912年、大手新聞で「最も新しい女画家」と紹介された▼この評判に、夫の芸術家高村光太郎は後年、妻は無口で非社交的だったと「智恵子回想」で当惑気味に記した。ただ、この年26歳の智恵子は女性雑誌「青鞜(せいとう)」の表紙を描き、東京・上野の絵画展に出展するなど、充実した活動を送っていたのは確かだ▼その後、彼女は貧しい結婚生活の中で病を重くし、画家として世に出ることはなかった。今も広く知られるのは詩集「智恵子抄」のヒロイン、詩集を著した光太郎の妻として。そう考えるとやるせない▼智恵子の誕生日5月20日に合わせ二本松市の智恵子の生家と記念館で「生誕祭」が開かれている。そこで26歳の智恵子と出会える。青鞜の新年会の集合写真の真ん中で、彼女は編集長の平塚らいてうらを従えるように存在感を発揮している▼今や「女流」の言葉は消え、県内でも若手アーティストたちが個性を発揮する。そんな「花のような未来」を切り開いた一人が智恵子だった。写真の彼女を見ると、その思いが強くなる。
「大手新聞」は『読売新聞』。明治45年6月5日に連載「新しい女」の第17回として、以下の文章が載りました。
△最も新しい女画家 日本の洋画界は日に日に新しい方へ新しい方へと進んで行く、印象派、後期印象派――未来派はまだ現はれないが、ホイツスラアはもうズツト古くなつて、ゴオホやゴオガンが、そこらこゝらに大胆な色彩と運筆とを競つてゐる。然し、それは男だけで、女には吉田ふじを、吉田ゆき子など油を溶くもののあるはあるが、皆忠実な『写す人』に過ぎない、この中にあつて我が長沼智恵子などは、男をも凌ぐ新しさを持つて、花のやうな未来を楽しんでゐる
△郊外の新屋 府下高田村雑司ヶ谷七百十九、鬼子母神境内の墓地を過(よぎ)つて埃の白い街道を左へ郊外の閒(しづ)かさを飽迄も吸つた新築の家、夫(それ)は六畳と四畳半と丈の、小さくて明くて、サツパリとしてそれ自らが画室の様だ、こゝに妹と二人で住んでゐる、室の一隅には露西亜更紗の三尺四方ばかりの上にプリミチブな泥人形やハリコ人形などが赤く青く白く黒く黄いろく散らかしてあり、床の間には古い印度瓶へ自分でエヂプト風の図案(デツサン)を描き、それに挿した芍薬の花が、もう萎れている、その傍にはやゝ大きな額縁が二つ、自由な意匠の小さな壺が三つ四つ、窓の前の卓子(テーブル)にはグラス函入の絹鞠が光り、その下の机には巻紙に何やら細かく書きかけてある、絵の具箱、カンバス――このほかには箪笥もなく鏡台も見えない、かうした周囲を背景にして、素袷の襟を搔きあはせつゝ赤白の碁盤縞の布をかけたチヤブ台の前に坐つた二十四歳の、新しい女の芸術家を、まづ想像して見たまへ
△女子大学出 女史の故郷は岩代国二本松、家は酒商、同胞(きようだい)は八人、三十六年に上京し女子大学校附属の高等女学校を卒業後すぐ同大学の家政科に進んだ、コクメイな家政科の学課が気分に合はなかつかことは言ふまでもないが、父は父として愛する娘を『女』にすることを誤まるまいとした。然し金はありあまるほどなので、四十二年に卒業して後は好きな画を描いて過すことを拒みはしなかつた。それで太平洋画会へ入つたが、辺り近所でモデルと首つ曳きでコツコツとやつてゐるのを見るとバカらしくてたまらない、四五十人の間にあつて女史のカンバスにだけはいつも自分の『心もち』が表はれた、然しその自由な形、自由な筆は、決して近ごろの流行に始まつたのではない、子どもの時、好んで土蔵の壁や石板へ『へのへのもへじ』や『てんぐ』を書いたものだが、其罪のないプリミチブな処こそ今もなほ尊く思はれるといふ
△ケチな芸術に非ず 『好きなのは、やはりゴオガンのです』話す時、その声は消えるやうに低くなる、『この頃描きましたのは――』と立つて壁によせかけた小さな板を裏返して『ぢきこの近くなのです』、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といひ草の葉といひ、女とは思はれぬほどつよくそして快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思ひだしたので、そのことをいふと『えゝセザンヌもほんとにようございますわね』と子どもらしく口を開いて目をほそめた、好んで行くのは浅草の池の辺(ほとり)あの活動写真の小舎(こや)などの毒毒しい色彩がたまらないさうな、けれども売らなければ食へないといふのではない、そんなケチな芸術ではない、また世の中に知られようとも思はない、自分の芸術は自分のための芸術なのである、それで展覧会へも出品したことはなかつた、この春はじめて太平洋画会へ出品したが、『紙雛』の一枚は、すぐ売れてしまつた、美術界には盲はゐない、然し自分では『ホンノ小さな板ツぺらなのですの、』と嬉しいとも何んとも思はないらしかつた、やがて手づから台所へ行つて運んだ茶盆の上には赤と青との太い線を引いた茶碗と土瓶とが午後の光に浮かぶやうにのせられてあつた
全体のトーンとしては、好意的ですね。『青鞜』の面々に対しては非難囂々だったこの当時、珍しい評です。ところどころ史実と異なるところがあるのですが。
また、『福島民友』さんにある「青鞜の新年会の集合写真」はこちら。
場所は大森の富士川という料亭。中央が智恵子、右から小磯俊子、平塚らいてう、保持研、左端が荒木郁子。なるほど、『福島民友』さんにあるように「真ん中で、彼女は編集長の平塚らいてうらを従えるように存在感を発揮してい」ますね(笑)。当方の考えとしては、こうした会合に智恵子が顔を出すことが稀だったので、そのため特別待遇で最前列中央に据えられたのではないかと思うのですが。
「大手新聞」は『読売新聞』。明治45年6月5日に連載「新しい女」の第17回として、以下の文章が載りました。
△最も新しい女画家 日本の洋画界は日に日に新しい方へ新しい方へと進んで行く、印象派、後期印象派――未来派はまだ現はれないが、ホイツスラアはもうズツト古くなつて、ゴオホやゴオガンが、そこらこゝらに大胆な色彩と運筆とを競つてゐる。然し、それは男だけで、女には吉田ふじを、吉田ゆき子など油を溶くもののあるはあるが、皆忠実な『写す人』に過ぎない、この中にあつて我が長沼智恵子などは、男をも凌ぐ新しさを持つて、花のやうな未来を楽しんでゐる
△郊外の新屋 府下高田村雑司ヶ谷七百十九、鬼子母神境内の墓地を過(よぎ)つて埃の白い街道を左へ郊外の閒(しづ)かさを飽迄も吸つた新築の家、夫(それ)は六畳と四畳半と丈の、小さくて明くて、サツパリとしてそれ自らが画室の様だ、こゝに妹と二人で住んでゐる、室の一隅には露西亜更紗の三尺四方ばかりの上にプリミチブな泥人形やハリコ人形などが赤く青く白く黒く黄いろく散らかしてあり、床の間には古い印度瓶へ自分でエヂプト風の図案(デツサン)を描き、それに挿した芍薬の花が、もう萎れている、その傍にはやゝ大きな額縁が二つ、自由な意匠の小さな壺が三つ四つ、窓の前の卓子(テーブル)にはグラス函入の絹鞠が光り、その下の机には巻紙に何やら細かく書きかけてある、絵の具箱、カンバス――このほかには箪笥もなく鏡台も見えない、かうした周囲を背景にして、素袷の襟を搔きあはせつゝ赤白の碁盤縞の布をかけたチヤブ台の前に坐つた二十四歳の、新しい女の芸術家を、まづ想像して見たまへ
△女子大学出 女史の故郷は岩代国二本松、家は酒商、同胞(きようだい)は八人、三十六年に上京し女子大学校附属の高等女学校を卒業後すぐ同大学の家政科に進んだ、コクメイな家政科の学課が気分に合はなかつかことは言ふまでもないが、父は父として愛する娘を『女』にすることを誤まるまいとした。然し金はありあまるほどなので、四十二年に卒業して後は好きな画を描いて過すことを拒みはしなかつた。それで太平洋画会へ入つたが、辺り近所でモデルと首つ曳きでコツコツとやつてゐるのを見るとバカらしくてたまらない、四五十人の間にあつて女史のカンバスにだけはいつも自分の『心もち』が表はれた、然しその自由な形、自由な筆は、決して近ごろの流行に始まつたのではない、子どもの時、好んで土蔵の壁や石板へ『へのへのもへじ』や『てんぐ』を書いたものだが、其罪のないプリミチブな処こそ今もなほ尊く思はれるといふ
△ケチな芸術に非ず 『好きなのは、やはりゴオガンのです』話す時、その声は消えるやうに低くなる、『この頃描きましたのは――』と立つて壁によせかけた小さな板を裏返して『ぢきこの近くなのです』、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といひ草の葉といひ、女とは思はれぬほどつよくそして快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思ひだしたので、そのことをいふと『えゝセザンヌもほんとにようございますわね』と子どもらしく口を開いて目をほそめた、好んで行くのは浅草の池の辺(ほとり)あの活動写真の小舎(こや)などの毒毒しい色彩がたまらないさうな、けれども売らなければ食へないといふのではない、そんなケチな芸術ではない、また世の中に知られようとも思はない、自分の芸術は自分のための芸術なのである、それで展覧会へも出品したことはなかつた、この春はじめて太平洋画会へ出品したが、『紙雛』の一枚は、すぐ売れてしまつた、美術界には盲はゐない、然し自分では『ホンノ小さな板ツぺらなのですの、』と嬉しいとも何んとも思はないらしかつた、やがて手づから台所へ行つて運んだ茶盆の上には赤と青との太い線を引いた茶碗と土瓶とが午後の光に浮かぶやうにのせられてあつた
全体のトーンとしては、好意的ですね。『青鞜』の面々に対しては非難囂々だったこの当時、珍しい評です。ところどころ史実と異なるところがあるのですが。
また、『福島民友』さんにある「青鞜の新年会の集合写真」はこちら。
場所は大森の富士川という料亭。中央が智恵子、右から小磯俊子、平塚らいてう、保持研、左端が荒木郁子。なるほど、『福島民友』さんにあるように「真ん中で、彼女は編集長の平塚らいてうらを従えるように存在感を発揮してい」ますね(笑)。当方の考えとしては、こうした会合に智恵子が顔を出すことが稀だったので、そのため特別待遇で最前列中央に据えられたのではないかと思うのですが。
この写真、『青鞜』の明治45年1月号に掲載されました。同じ号には新年会のレポートも載りました。智恵子に関わる部分はこちらに抜粋してあります。
ところで最近、この時代の智恵子評で、これまでの光太郎智恵子関連書籍に載っていなかったと思われるものを見つけました。上記写真右端の小磯俊子が書いたものと思われます。智恵子だけでなく、らいてう、荒木郁子、尾竹紅吉らについても述べられていて、「青鞜の女」という題にまとめられています。掲載誌は『女子文壇』第8巻第10号、大正元年(1912)10月号です。
智恵子に関する部分はこの通り。
夢から出て夢を通り夢に入る。さう云つた様な永沼さんといふ人。
永沼智恵子――かう書いて私は永から手を出さうか智から手をつけて見様(みやう)か迷つて仕舞ふ様なまぼろしの女、其の人の話をじつと聞いて居ると、何処からどう声が出てどう通つてどう耳に流れ込むのか判然しない様な調子で話されてぶつつり、かと思ふとぼうつと尾が切れて仕舞ふ。暗い時に、人の居ない処で、かう云ふ声でかう云ふ調子で話しかけられたら、気の弱い女はふるへ上るかもしれない。
綿をまるめてぶつつけたやうに、フワリとぶつかつて後(のち)は、ヒトダマの消える様に消える永沼さんと云ふ人は、すべての人をうつゝにおびき出す魔女の様だ。
無気味で手の出しにくひ小さい目と、植木鉢をさかさまにして、その上に石をのせたのをかぶつて居る様な髪の後形(うしろかたち)とが、自身の性格の、いつはりなきあらはれぢやあるまいか。
夏の真昼になまぬるいサイダーを歯の奥でかみしめる時、其の目とその髪型とを思ひ出さずには居られない。
語尾がはっきりしないしゃべり方だったけれど、それが不思議な魅力でもあったという智恵子の特徴がよく表されていますね。
既にお気づきと思いますが、智恵子の旧姓「長沼」が「永沼」と誤記されています。そのため、これまでに刊行された光太郎智恵子関連書籍に洩れていたのではないかと思われます。もっとも、よくよく探せば何処かには引用されていたかもしれません。どうも当方、この世界に入って最初の頃に読んだ文献は細かいところまで覚えていないきらいがありまして……。「これ、この本のここに載ってるよ」というのがありましたら御教示いただけると幸いです。
ところでこの文章、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルに伴い、発見しました。正攻法ではなく搦め手からの発見です。ひねこびた性格の当方ですので、「昔から誤記や誤植はあったはず」と、光太郎智恵子の名、考えられる誤植のパターンで検索をかけた中で、「永沼智恵子」と入れてみたら見事にこれがヒットしたのです。
実は他にもありまして、「高村智恵子」ではなく「高村智慧子」で検索してみたところ、驚くべき発見もありました。大正12年(1923)6月1日発行の『女性日本人』第4巻第6号です。
この号には「女性の好む男と男性の好む女のタイプ」というアンケートが掲載され、生田花世ら12名が回答を寄せていますが、智恵子のこの文章はそれに回答できなかった詫びで、巻末の「おたより」欄に別途掲載されています。たったこれだけの短いものですが、智恵子の遺した文章は絶対数が少ないので、これだけでも大きな発見といえます。
ちなみに智恵子は前年11月の同誌第3巻第9号に「哀憐な美しさを見ます」「芝居好きの婦人と読書好きの婦人と」の2本のアンケート回答を寄せていて、そちらは既刊の光太郎智恵子文献に掲載されています。ただ、これも当該号の目次欄では片方が「高村智慧子」と誤植されていました。
過日もお伝えしましたが、これまで広く紹介されていなかった智恵子写真や智恵子装幀の書籍などを見つけることもでき、ここにきて新たな智恵子の姿がまた見えてきたような気がします。
さて、「智恵子生誕祭」、さまざまなコンテンツが用意されています。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
「アルス」昨夜拝見。大変きれいに出来ました。お喜びを申上げます。「ランスの本寺」の訳文の文章の拙いのに心を痛めてゐます。ロダンに済まない気がしてなりません。どうかして其の償ひをしたい気がしてゐます。あゝ済まない、済まない。あの美しい文章がこんなになるとは何といふ事だらう。 あんまり字句に忠実すぎて却て堅くなり過ぎました。自分の馬鹿。
大正4年(1915)4月5日 北原白秋宛書簡より 光太郎33歳
「アルス」は白秋が出していた雑誌で、この月に創刊されました。光太郎はロダンの翻訳「ランスの本寺」を寄稿していますが、それが納得行かなかったようで……。
その後の『アルス』に載せ続けた訳などを集成し、翌年には訳書『ロダンの言葉』が刊行されます。