昨日に引き続き、新聞各紙から。特に東北の地方紙です。
まずは『山形新聞』さんの社説。
光太郎関連の写真のうち、重要なものを撮っている土門拳。
左は確認できているものとしては唯一、光太郎が木彫作品を彫っているところ。昭和15年(1940)のカットです。右は現物が失われてしまった塑像「黄瀛の首」。同じ彫刻の写真は何点か残っていますが、土門撮影のものがもっともよく撮れています。
また、昭和27年(1952)には、土門が写真を撮り、光太郎、志賀直哉、高見順らが解説を書いた『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』という大判の写真集が美術出版社から刊行されています。
その前年、土門は花巻郊外太田村に逼塞していた光太郎の元を訪れ、その暮らしぶりをパパラッチ(笑)。土門の写真を賞めていたものの、自分が写真に撮られることは好まなかった光太郎は、閉口したようです。くわしくはこちら。
続いて、『福島民報』さん。
一昨年から同社の主催で開催されている「ふくしま ほんとの空プログラム」。さまざまな体験活動が用意されていて、たくましい子供の育成につながりそうです。この後も、9月14日(土)に「猪苗代湖の水をきれいにしよう<日帰り>」、9月21日(土)~23日(月・祝)が「田舎は最高!体験交流しよう<2泊3日>」、10月27日(日)で「希望の桜をみんなで植えよう!<日帰り>」といったプログラムが用意されています。智恵子が愛した「ほんとの空」の下、見聞を広めて欲しいものです。
最後は『石巻かほく』さん。
光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」の活動、海外にも広まってほしいものです。
まずは『山形新聞』さんの社説。
土門拳生誕110年 今に生きる「鬼の仕事」
酒田市出身の写真家土門拳は今年、生誕110年を迎えた。戦後にリアリズム写真を提唱し、数多くのテーマに取り組んで膨大な作品を残した。日本人の心を探求し、妥協を許さぬ姿勢から「写真の鬼」とも呼ばれる。節目の年に人物や業績を見直し、酒田から発信したい。
同市の土門拳記念館では生誕110年に合わせた企画展「鬼が撮った日本」を9月23日まで開催している。生誕100年の際に土門を取り上げた「別冊太陽」(平凡社)の内容に沿って生涯をたどるものだ。土門の写真作品121点、絵18点、書18点を紹介している。
写真集「風貌」からは作家の志賀直哉や三島由紀夫、版画家棟方志功ら著名人の肖像写真を展示。土門は撮りたい相手の資料を集めて徹底的に人物像に迫り、撮影現場では詩人高村光太郎が「土門拳のレンズは人や物の底まであばく」と評した執念で撮り続けた。洋画家梅原龍三郎は怒って籐(とう)椅子をアトリエの床にたたきつけたというエピソードが残る。
「筑豊のこどもたち」は福岡県の閉山した炭鉱を取材し、ざら紙に印刷した100円の廉価な写真集。窮状を社会に訴えて反響を呼び、ベストセラーになった。収録した「母のない姉妹」「弁当を持ってこない子」などを展示している。
後遺症に苦しむ被爆者たちを取材した写真集「ヒロシマ」からは「胎児で被爆した少年梶山健二君の死」「十三年寝たきりの人」など。生々しい写真は衝撃を与えたが、悲劇を繰り返さないようにと進んでカメラの前に立つ被爆者に、土門は何度も目頭を熱くしながらシャッターを切ったという。
土門は「日本中の仏像という仏像を撮れば、日本の歴史も、文化も、そして日本人をも理解できると考えたのである」(「仏像巡拝」)と書いている。ライフワークとなった「古寺巡礼」をはじめ日本の伝統美に挑み、大きな業績を残した。企画展では「永遠を生きる仏像」「古寺巡礼の名建築」「室生寺にはじまり、室生寺におわる」といったタイトルごとに見応えのある写真が並ぶ。
写真家として駆け出しの時代の仕事にも触れることができる。早稲田大政治経済学部の卒業アルバムは、学生たちに溶け込んで私生活をリアルに深く楽しく描写した。お茶の水女子大の前身である東京女子高等師範学校文科の卒業アルバムも手掛け、こちらも展示した。
土門拳は1909(明治42)年、現在の酒田市相生町で生まれた。幼い頃に一家で東京に移り住み、57(昭和32)年、約40年ぶりに酒田山王祭りの取材で故郷を訪れた。74年には酒田市の名誉市民第1号に。土門は自身の全作品を郷里に贈りたいと語り、記念館は一人の作家をテーマにした世界でも珍しい写真専門の美術館として83年に開館した。
土門は写真技術と強靱(きょうじん)な精神力、行動力で独自の世界を切り開き、脳出血の病に襲われても撮影を続けた。映像技術が進化した今でも作品の価値が損なわれることはない。レンズを通して現実を直視し、より正しい方向に向けようとした姿勢は、混迷する現代にこそ求められているのではないか。業績を多くの人に知らせる努力を続けたい。
(2019/08/19付)
光太郎関連の写真のうち、重要なものを撮っている土門拳。
左は確認できているものとしては唯一、光太郎が木彫作品を彫っているところ。昭和15年(1940)のカットです。右は現物が失われてしまった塑像「黄瀛の首」。同じ彫刻の写真は何点か残っていますが、土門撮影のものがもっともよく撮れています。
また、昭和27年(1952)には、土門が写真を撮り、光太郎、志賀直哉、高見順らが解説を書いた『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』という大判の写真集が美術出版社から刊行されています。
その前年、土門は花巻郊外太田村に逼塞していた光太郎の元を訪れ、その暮らしぶりをパパラッチ(笑)。土門の写真を賞めていたものの、自分が写真に撮られることは好まなかった光太郎は、閉口したようです。くわしくはこちら。
続いて、『福島民報』さん。
安達太良登山楽しむ ほんとの空プログラム
自然の中で子どもたちの好奇心や探究心を育む、福島民報社の「ふくしま ほんとの空プログラム」安達太良山トレッキングは十八日、二本松市の安達太良山で開かれた。
県内各地から二十五人が参加した。安達太良マウンテンガイドネットワークの案内で夏の登山を楽しんだ。一行はロープウエーで八合目の山頂駅に移動し、薬師岳を登り山頂を目指した。
登山道ではさまざまな木々や草花、青い空と雄大な安達太良連峰の景色を眺めた。好天に恵まれ、山頂では猪苗代湖や磐梯山を望みながらおにぎりや弁当を食べた。下山後にガイドネットワーク代表の加藤正広さんが「秋や冬など他の季節も楽しめるので、また安達太良山に来てほしい」と参加者に呼び掛けた。
一昨年から同社の主催で開催されている「ふくしま ほんとの空プログラム」。さまざまな体験活動が用意されていて、たくましい子供の育成につながりそうです。この後も、9月14日(土)に「猪苗代湖の水をきれいにしよう<日帰り>」、9月21日(土)~23日(月・祝)が「田舎は最高!体験交流しよう<2泊3日>」、10月27日(日)で「希望の桜をみんなで植えよう!<日帰り>」といったプログラムが用意されています。智恵子が愛した「ほんとの空」の下、見聞を広めて欲しいものです。
最後は『石巻かほく』さん。
被災地でJICA研修 3カ国の海図作製者が安全対策学ぶ 石巻、女川
独立行政法人国際協力機構(JICA)の外国人研修員が20日、東日本大震災の被災地石巻市と女川町を訪問した。JICAと海上保安庁が主催する海図作製研修の一環。インドネシア、ミャンマー、タイから来日した6人が震災の被害と復興状況を確認し、災害対策などに理解を深めた。
石巻市内では、甚大な被害を受けた南浜地区を訪問。災害伝承施設「南浜つなぐ館」の敷地で、石巻観光ボランティア協会の語り部から、震災前と直後の南浜地区の様子を写真で確認したほか、被災状況や復興の進捗(しんちょく)状況の説明を受けた。南浜を襲った津波が高さ約7メートルを示す看板に、驚く研修員もいた。
女川町では、魚市場や町内各地の「いのちの石碑」などを見学したほか、JR女川駅前の商店街で語り部の話に耳を傾けた。
研修員は全員、母国の海図作製機関で働いている。インドネシア人のイクサン・デヤスマラさん(25)は「母国もスマトラ沖地震などで津波の被害を受けている。帰国後、災害時も安全に航行できる海図を作製したい」と話した。
同じインドネシア人のエディチオ・ドゥイ・クルニアワンさん(31)も「実際に来て津波の高さ、災害の大きさに驚いた。帰国後は避難訓練や、海の近くの住人への防災教育などをしていきたい」と語った。
研修員は、6月に来日。別府港(大分県)での港湾測量実習、駿河湾(静岡県)での洋上実習などを経て、12月に帰国する。
光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」の活動、海外にも広まってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
僕ら、文学はどういうわけだかどうしても書きたくなるんだね。
対談「芸術よもやま話」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳
亡くなる前年、対談相手は当会の祖・草野心平でした。「文学」は「文学者」という意味でしょう。心平はこの発言に対し、「それは宿命ですね。(笑声)しょうがない。(笑声)」と返しています。まったくそうなのでしょう。