4月22日(土)は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の113回目の忌日「碌山忌」で、信州安曇野の碌山美術館さんにお邪魔しておりましたした。

途中で昼食を摂りながらなどでしたが、中央高速が激混みで、千葉の自宅兼事務所から5時間以上かかりました。
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コロナ禍のため中止されていた記念講演会は昨年から復活したものの、昨年はまだコロナ禍前に行われていたコンサートや偲ぶ会などは行われませんでした。今年はそれらも復活。コロナ禍前の形が完全復活しました。
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昨年、クラウドファンディングにより補修された、昭和33年(1958)竣工の本館的な碌山館。
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補修といっても、あからさまに直しました、というのが見えず、自然な感じでした。しかし、中に入ると、壁などが実にきれいになっていて、おお、という感じでした。
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ちなみに以前にもご紹介していますが、こちらの入り口裏側の壁には光太郎の名も刻まれています。開館前に亡くなった光太郎ですが、準備段階でいろいろアドバイスをしたりということがあったためです。
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第1展示棟では、常設展示で光太郎ブロンズも数点、第2展示棟では、柳敬助展。
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柳は守衛、光太郎、共通の友人の画家で、明治44年(1911)には妻の八重ともども、光太郎に智恵子を紹介する労を執ってもくれました。

休憩室的なグズベリーハウス。こちらも補修が入っていました。
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令和2年(2020)に発売された守衛絶作「女」のミニチュア
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コロナ禍前に当方が寄贈した切手系。
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午後1時半、近くの研成ホールにて、東京藝術大学教授の布施英利氏による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」。ちなみにこちらでは平成28年(2016)に当方も講演をさせていただきました。
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布施氏、美術解剖学がご専門ということで、守衛の遺したスケッチ・デッサンや「女」などを検証。実に正確に描かれたり作られたりしている部分と、かなりのデフォルメが為されている部分とがある、といったお話で、非常に興味深く拝聴いたしました。
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特に「女」。
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何らの不自然さも感じられず、純粋な写実と思い込んでおりましたが、実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。それを感じさせない守衛の技倆には舌を巻かされます。同様のことはミケランジェロやロダンの彫刻にもよくある話なのですが、「女」もそうだったのかと、目からウロコでした。

さらに、遺されたデッサンによると、「女」の最初の構想は、腕を斜め上に伸ばしているポーズだったのではないかといった考察も。

その後、車で移動して午後4時から守衛の墓参。
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例年、お坊様には午前中に来ていただいて読経してもらうそうですが、今年は一般の墓参の時に。

また美術館さんに帰り、この日最後の行事、「偲ぶ会」の準備。その頃にはとっぷり日も暮れ、寒くなって参りまして、会場のグズベリーハウスの薪ストーブに火が入りました。
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午後6時、開会。参加者全員で光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を群読。その後、懇親会的な。
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過日、当会主催で執り行いました第67回連翹忌の集い同様、4年ぶりということで、皆さん、またこうして集まれたことを心から喜んでいるという風でした。もちろん当方もですが。来年以降も継続して行われ続けてほしいものです。

以上、信州安曇野レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

早くお帰りになつて下すつた方が 其はうれしいに極つてますけれども 御都合があるのもかまはず 無理にお帰りになつては却て私が すまない気がします 私はほんとに安らかな心持ちであなたを遠くおもひ抱いて居りますから


大正2年(1913)1月28日(推定) 長沼智恵子宛書簡より 光太郎31歳

現存が確認できている、結婚前に書かれた智恵子宛唯一の書簡から。全文はこちら

智恵子は新潟の旗野家に長逗留していました。吉田東伍ゆかりの旗野家の長女・ヤヱ(八重)は日本女子大学校で智恵子と同級、妹のスミ(澄/澄子)も女子大学校卒でした。