まずは染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会。サブタイトルに光太郎詩の題名を持ってきて下さいました。

志村ふくみ・志村洋子 作品展示販売会「五月のウナ電」

東京展示
 期 日 : 2023年4月21日(金)~4月23日(日)
 会 場 : 銀座大黒屋ギャラリー 東京都中央区銀座5-7-6 銀座大黒屋ビル6・7階
 時 間 : 11:00~18:00(最終日のみ16:30まで)
京都展示
 期 日 : 2023年5月19日(金)~5月21日(日)
 会 場 : ものがら 京都市左京区岡崎円勝寺140番地 ポルト・ド・岡崎1階
 時 間 : 11:00~18:00(最終日のみ16:30まで)

京都・ものがら/銀座・大黒屋ギャラリーにて志村ふくみ・志村洋子 作品展示販売会を行います。皆さまのお越しを心よりお待ちしています。

〈出品:着物、帯、ショール、掛け軸、額装、コラージュパネル 等〉

忘れられない思い出があります。東日本大震災が起こってからは、連日のように原発のニュースが流されていました。そんなある日、母はケンタウルス星から「ウナ電」が届いたと言って「五月のウナ電」という高村光太郎の詩を読んでくれました。昔の電報はカタカナで内容が印刷してあるので、文章は読みづらいのですが、そこに書かれている言葉に目を見張りました。光太郎の死から70年近く経った現在、「五月のウナ電」は私たちに向けた緊急の警告である事を実感致します。警告文は人間以外の万物に宛てられたものです。人間に希望を見出せなかった光太郎の真意に寄り添いながら、作品の数々をお目に掛けたいと思います。今回の展覧会は着物や帯だけでなく、高村光太郎の「五月のウナ電」の言葉をお届けしたいと思っています。皆様のお越しを心よりお待ちしています。
志村ふくみ   志村洋子  (文責)
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「五月のウナ電」(昭和7年=1932)、全文はこちら。平成27年(2015)に、ふくみ氏が文化勲章を受章なさった時の記事で、全文を引用しました。

その際にもご紹介したふくみ氏のエッセイ集『白夜に紡ぐ』(平成21年=2009)から。

 いつの頃か、私はどこかの雑誌にのっていたこの詩につよく心ひかれて、ノートに写していた。そしていつかどんな形かで、この詩を自分の手で飾りたい、と思っていた。十数年経ったこの頃またまた読みかえし、思い切って和紙を貼ったパネルに筆でカタカナを書いてみた。全くぶっつけ本番に。そしたら文字が踊るようで、ゼンマイはうずまくし、ウソヒメやホホジロがうたい出すし、トチノキは蠟燭をたてるし、人間なんかにかまわずにみんながうたい出した。私はうれしくなって、ところどころの隙間に小さな裂をチョンチョン貼ってこの詩を飾った。

ここに語られているのが、まさに上記の画像(今回の展示のフライヤー的に使われています)のものなのではないかと思われます。

ふくみ氏、その後、当会顧問であらせられた故・北川太一先生を紹介され、この詩の背景等を教わったことも書かれています。

今回の展示では、これそのものの販売はないのでしょうが、もし複製でもあれば、ぜひ入手したいものです。

当方、こちらの会期中である4月22日(土)、信州安曇野の碌山美術館さんでの「碌山忌」に参列します。当日は彼の地に宿泊し、翌日の帰りがけ、通り道ですので覗いてみようと思っております。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛を偲ぶ「碌山忌」。詳細は以下の通り。

第113回碌山忌

2023年4月22日(土)
 10:00~/13:00~ミュージアム・トーク
 10:30~12:00 コンサート
 13:30~15:00 記念講演会 於:研成ホール
 「荻原守衛の彫刻を解剖する」 布施英利氏(東京芸術大学美術学部芸術学科教授)
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください♪
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こちらもご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

ちなみに同館、夏には光太郎展を開催して下さいます。詳細はまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

別封でお送りいたしました 裏絵のはエヂプトの瓦の模様です 詩のやうなものは大変乱暴なものですから、もし下らないと思つたら止して下さい 詩の月旦のやうな事が僕に出来るものですか。とても駄目です。あれは外の人に願ひます

大正元年(1912)10月中旬 内藤鋠策宛書簡より 光太郎30歳

裏絵」は、内藤主宰の雑誌『抒情詩』のためのもの。この年11月の第1巻第2号に掲載されました。
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この頃、この手のカットなどにエジプト風のモチーフが多用されています。この時点では既に没していた守衛が、かつて留学中にエジプト芸術の魅力について光太郎にレクチャーしていました。そこからの流れなのでしょうか。

詩のやうなもの」は、同じ号に載った「夜」「或問」の二篇です。「月旦」=「論評」。確かに光太郎、この時期には同時代の詩人の作品をあれこれ論ずることはほとんどしていません。