地方紙二紙に載った記事、まずは『岩手日日』さん。
見どころや偉人学ぶ 新入社員研修会 観光協【花巻】
花巻観光協会が主催する2023年度新入社員研修会は11日、花巻市内で開かれた。市内の3事業所に入社した新入社員が観光地や名所を巡りながら、花巻の魅力と偉人に学びを深めた。
研修会は、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などに対応できる人材の育成を狙いに17年度から開催。同日は宿泊施設に勤務する19人が参加し、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師を務めた。
参加者は宮沢賢治記念館や花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などをバスで回った。高橋会長が各施設で概要や見どころを説明し、昼食ではわんこそばも味わった。
このうち宮沢賢治記念館では同市出身の童話作家で詩人の宮沢賢治の生涯や同記念館の南斜花壇などについて学習した。参加者はメモを取りながら特徴、見どころに理解を深めていた。
研修会は17、24日にも実施。高橋会長は「観光名所の位置を把握することが大切。観光客に花巻の魅力を伝えられる人材に育ってほしい」と願っていた。
毎年行われているようで、昨年は報道されたのかされなかったのか気がつきませんでしたが、一昨年にはやはりこの時期に記事が出ていました。
新人さんたち、花巻を盛り上げるために、よろしくお願いします。
続いて『上毛新聞』さん。
歴史トリビア|ワカサギのルーツ
上州赤城山は、光太郎にとってのソウルマウンテン。留学前の明治37年(1904)には5~6月と、7~8月にかけての2回、赤城の猪谷旅館に滞在し、それぞれ、親友の水野葉舟、与謝野鉄幹ら新詩社の面々と過ごしています。留学からの帰朝後にもすぐ赤城山に登っています。
昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っていますし、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。
明治37年(1904)の滞在中に書かれたスケッチ帖は、光太郎歿後の昭和31年(1956)になって、「智恵子抄」版元の龍星閣から『赤城画帖』として刊行されました。原本は水野葉舟が保管していたのですが、その後、詩人の風間光作の手に渡り、さらに風間からやはり詩人の西山勇太郎に。その後行方不明です。
平成12年(2000)、風間が原本から1枚抜き出して額装していたものが売りに出て、驚いたことがありました。
どこかからひょっこり原本が出て来ないか、と思っております。また最近、ひょっこり若き日の光太郎木彫習作が出てきましたので。その件はのちほどご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
ごぶさたをしてゐるうちに私もかはりました。変るのが当り前でせうね
銚子犬吠埼で智恵子と愛を確かめ、さらに岸田劉生、木村荘八、斎藤与里、萬鉄五郎らと、反文展の美術団体「ヒユウザン会」(のち「フユウザン会」)を立ち上げました。明治42年(1909)の留学からの帰国以来続いていたデカダン生活もそろそろ終わりを告げます。
毎年行われているようで、昨年は報道されたのかされなかったのか気がつきませんでしたが、一昨年にはやはりこの時期に記事が出ていました。
新人さんたち、花巻を盛り上げるために、よろしくお願いします。
続いて『上毛新聞』さん。
季節ごとに装いを変えながら、悠々たる裾野を広げる赤城山。穏やかな外観と異なり、山頂に立ち込める霧は、シラカバ林とカルデラ湖の幻想的な世界を演出する。かつては文人墨客が喧噪(けんそう)を避けて滞在し、昭和中期以降はレジャー人気に火がついて年間100万人以上が訪れる観光地となった。現在も都心からの近さと豊かな自然を背景に、多彩な魅力を放っている。
富士見村(現前橋市)の村誌続編によると、古くから信仰の対象として、馬草や薪(まき)を取りに行く身近な里山として、住民に親しまれてきた。山頂付近に人が定住し始めたのは明治以降。桐生方面から新潟県へ「赤城越え」をする旅客に部屋を貸した青木、猪谷両旅館が草分けとされる。
当時は大沼周辺に高い木が少なく、草原が広がっていた。放牧された牛や馬が草をはむ牧歌的な風景が文化人の心をつかみ、志賀直哉や与謝野鉄幹・晶子夫妻、高村光太郎らが訪れて創作活動にふけった。志賀らが立ち上げた文芸誌「白樺」は、赤城のシラカバに由来するという。
大正以降は冬スポーツの舞台としても注目を浴びる。冬季五輪で日本人初のメダリストとなった猪谷千春さんの父親で、日本スキー界の先駆者と言われる六合雄さんがこの地でスキーを始め、1927(昭和2)年ごろにスキー場が完成。2年後にジャンプの国際大会が開かれると、県内外からスキーヤーが集まるようになった。
戦後、バスの運行が麓で止まり、台風で道路が寸断されるなど苦しい時期が続いた。しかし、高度成長期の1950年代になると一転してインフラ整備が進む。バス道路が山頂まで延長され、東武鉄道による開発で地蔵岳にロープウエー、鳥居峠にケーブルカーが相次いで開通した。
戦後、バスの運行が麓で止まり、台風で道路が寸断されるなど苦しい時期が続いた。しかし、高度成長期の1950年代になると一転してインフラ整備が進む。バス道路が山頂まで延長され、東武鉄道による開発で地蔵岳にロープウエー、鳥居峠にケーブルカーが相次いで開通した。
スキーやスケートなど、冬の誘客の目玉はワカサギ釣りに取って代わったが、山岳随筆「日本百名山」(深田久弥著、1964年出版)の一つに取り上げられ、全山踏破を目指す登山客からの人気は根強い。観光ガイドを担うNPO県自然保護連盟の棚橋弘事務局長は「中高年客を中心に、九州の旅行会社からの相談もある」と話す。
入り込み客は最盛期の半数ほどに減ったが、人を引きつける雄大な自然は変わらない。
赤城山観光連盟会長で、青木旅館6代目館主の青木泰孝さん(73)は「時代に合ったやり方で、赤城の魅力を伝えていきたい」とほほ笑む。
歴史トリビア|ワカサギのルーツ
マス養殖のえさで放流
大沼は氷上ワカサギ釣りのメッカとされる。冬は都内からも多くの太公望が訪れ、ゆったりと駆け引きを楽しんでいる。貴重な観光資源へと発展したワカサギの歴史は、青木旅館四代目の源作が1918(大正7)年に始めたマスの養殖までさかのぼる。
県の委嘱を受けてマスのふ化や養殖を行っていた青木一族が、餌として放流したのが霞ケ浦から仕入れたワカサギだった。次第に一部の愛好者が山頂まで雪道を歩いて登り、泊まり込みで穴釣りに熱中するようになったという。
釣りを誘客につなげようと力を入れ始めたのは、平成に入ってからだ。国の補助を取り付けて、99年にワカサギのふ化場を完成させ効率的に稚魚を増やした。諏訪湖や西網走など徐々に卵の仕入れ先も増やし、現在でも2億6000万匹をふ化させている。
上州赤城山は、光太郎にとってのソウルマウンテン。留学前の明治37年(1904)には5~6月と、7~8月にかけての2回、赤城の猪谷旅館に滞在し、それぞれ、親友の水野葉舟、与謝野鉄幹ら新詩社の面々と過ごしています。留学からの帰朝後にもすぐ赤城山に登っています。
昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っていますし、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。
明治37年(1904)の滞在中に書かれたスケッチ帖は、光太郎歿後の昭和31年(1956)になって、「智恵子抄」版元の龍星閣から『赤城画帖』として刊行されました。原本は水野葉舟が保管していたのですが、その後、詩人の風間光作の手に渡り、さらに風間からやはり詩人の西山勇太郎に。その後行方不明です。
平成12年(2000)、風間が原本から1枚抜き出して額装していたものが売りに出て、驚いたことがありました。
どこかからひょっこり原本が出て来ないか、と思っております。また最近、ひょっこり若き日の光太郎木彫習作が出てきましたので。その件はのちほどご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
ごぶさたをしてゐるうちに私もかはりました。変るのが当り前でせうね
大正元年(1912)9月17日 北原白秋宛書簡より 光太郎30歳
銚子犬吠埼で智恵子と愛を確かめ、さらに岸田劉生、木村荘八、斎藤与里、萬鉄五郎らと、反文展の美術団体「ヒユウザン会」(のち「フユウザン会」)を立ち上げました。明治42年(1909)の留学からの帰国以来続いていたデカダン生活もそろそろ終わりを告げます。