しばらくこの系列、ご紹介しないでいたら溜まってしまいました。2回に分けてご紹介いたします。
まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん。8月9日(金)に行われた第28回女川光太郎祭について報じて下さいました。系列の『石巻かほく』さんでは既報ですが、同じ記事ではありませんでした。
まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん。8月9日(金)に行われた第28回女川光太郎祭について報じて下さいました。系列の『石巻かほく』さんでは既報ですが、同じ記事ではありませんでした。
高村光太郎しのび詩を朗読 戦前に訪れた女川で祭り
戦前に宮城県女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ光太郎祭が、同町のまちなか交流館であり、県内外から約60人が参加した。
「女川・光太郎の会」が主催。朗読の部では、光太郎が女川漁港の様子を記した紀行文や詩集「道程」などの詩を、女川小の児童ら15人が読み上げた。
朗読に先立つ講演では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が光太郎の晩年の姿を紹介。終戦直後から7年にわたって花巻市の山荘に暮らした光太郎の心理を解説した。
小山代表は一連の戦争を賛美する詩を書き連ねたことに罪の償いの思いがあったと説明し「(あえて)不自由な山奥を選んだ。彫刻家の自負もあったが、行いへの反省から一度も彫刻を作らなかった」と述べた。
当方の講演についても的確にご紹介下さり、ありがたいがきりです。
続いて、『日本経済新聞』さん。終戦の日の掲載でした。
引用されている詩はずばり「十二月八日」という詩です。毎年、12月8日になるとこの詩を引っ張り出してドヤ顔をする愚か者が者がいて閉口しています(笑)。逆に、明治松の留学から帰朝直後に書かれた、日本社会の旧態依然を批判する「根付の国」(明治43年=1910)をして「非国民の妄言」などと言う輩が今もいて、開いた口がふさがりませんでした(笑)。そういうやつばらこそ無言館さんに行って欲しいものです。
お次は『朝日新聞』さん。先月ご紹介した喜国雅彦氏著『今宵は誰と -小説の中の女たち-』が書評欄で取り上げられています。
続いて、『日本経済新聞』さん。終戦の日の掲載でした。
「8.15」の落とし穴 悲しみの前には熱狂があった
8月は「戦争」がメディアにあふれる季節である。いわゆる「8月ジャーナリズム」だが、あの惨禍と過ちを記憶する記号として、やはり「8.15」の意味は大きい。令和の時代にも、決してゆるがせにはできぬ日付だ。
もっとも、そこには落とし穴もある。この日付だけで戦争を振り返ると、軍部や政治家が暴走して続けた戦争に、多くの日本人が「巻き込まれた」という被害者イメージが強まるのである。
前線での玉砕と餓死。本土空襲。沖縄戦。原爆投下。人々は戦争に疲れ果て、食糧を求め、死におびえた……。太平洋戦争末期は、たしかに国民は過酷な運命に従うほかなかっただろう。
しかし、前史を忘れてはいけない。別ののぞき窓から戦争を眺めるとき、相貌は大きく異なるのだ。たとえば、37年に日中戦争が起きた当時はどうだっただろう。
北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突したのは7月7日。戦火は上海にも移り、本格的な戦争が始まった。政府は8月15日に「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」声明を出す。暴虐な中国を懲らしめるという意味だ。のちの敗戦の8年前の「8.15」である。
このときの世論の沸騰ぶりはただならぬものだった。
「もはや躊躇(ちゅうちょ)する猶予なしに徹底的にガンとやってもらうことです」「徹底的に支那軍を膺懲の要あり」「この際、行くところまで行ってもらわぬと困る」「皇軍の精鋭よ、徹底的に東亜の禍根を一掃せられよ」
文芸春秋社が発行していた雑誌「話」の同年10月号の記事「日支事変に際し政府に望む」に並んだ読者の声である。「膺懲」という言葉が世に躍り、さかんに国民大会
が開かれ、戦勝の報が届くたびに提灯行列が街を埋めた。
が開かれ、戦勝の報が届くたびに提灯行列が街を埋めた。
文化人も積極的に戦争に加わっている。例を挙げれば林芙美子の従軍記「戦線」は、歌い上げるような戦争礼賛ぶりだ。かつての「放浪記」の作家は時局に大いに感じ入って従軍し、中国の国民政府が逃れていた新首都、漢口への「一番乗り」をやってのけた。
「戦線は美しい」と芙美子は称揚する。敵兵を「堂々たる一刀のもとに」斬り殺す場面にも「こんなことは少しも残酷なことだとは思いません」とつづる。従軍は朝日新聞社が全面的にバックアップ、芙美子は帰国するや講演に飛び回った。大ベストセラーになった「戦線」は戦後、封印された。
庶民も文化人も、熱に浮かされていたといえばそれまでだが、なんと熱狂しやすい国民性だろう。もちろん、それをあおったメディアの責任もきわめて大きい。前線と銃後それぞれの、おびただしい数の「美談」が紹介され、人々は物語に酔ったのである。
この当時は戦時体制下とはいえ、物資はまだ十分に出回り、大衆娯楽も息づいていた。
「街には『露営の歌』だの『上海だより』だの軍歌調の歌謡がながれていたが、同時に『忘れちゃイヤよ』だの、『とんがらかっちゃダメよ』だのという歌も決してすたれたわけではなかった」。安岡章太郎は「僕の昭和史」でこう回想している。
実際に、漢口が陥落した38年秋の雑誌をひもといてみても、消費を楽しむムードは消えていない。旅行雑誌「旅」の同年11月号には「旅は満州へ」「台湾へ」と読者をいざなう広告が載り、洋酒「ジョニー・オーカー」や「さくらフヰルム」が宣伝に努めている。
こんな日常のなかで、戦争は泥沼化していった。戦争とはある日突然始まるのではなく、日常と重なりつつ進んでいくものだということがわかる。行きづまりを打開しようと日本は対米英戦に突入し、またも世間は大いに留飲を下げるのである。
「この日世界の歴史あらたまる。/アングロサクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる」。開戦を知り、高村光太郎が残した詩だ。ほとんどの国民が大本営発表に浮き立ち、勝った勝ったと興奮した。
そして、やがて迎えた「8.15」。こちらののぞき窓から眺める戦争は、ただただ悲しい。「暴支膺懲」の熱狂から8年、無一物となった日本人はようやく正気に戻るのである。熱狂の代償の大きさを思わざるを得ない。
当時も、冷静な人はいた。日中戦争勃発時の外務省東亜局長、石射猪太郎は「暴支膺懲」声明について、「独りよがりの声明。日本人以外には誰も尤(もっと)もと云ふものはあるまい」と日記に書きとめた。近衛文麿首相を指していわく「彼は日本をどこへ持つて行くと云ふのか。アキレ果てた非常時首相だ。彼はダメダ」。
熱狂と歓呼は、しかし、そういう思いを押し流していった。さまざまなのぞき窓から歴史を眺めることで、教訓を深く胸に刻まなければならない。
引用されている詩はずばり「十二月八日」という詩です。毎年、12月8日になるとこの詩を引っ張り出してドヤ顔をする愚か者が者がいて閉口しています(笑)。逆に、明治松の留学から帰朝直後に書かれた、日本社会の旧態依然を批判する「根付の国」(明治43年=1910)をして「非国民の妄言」などと言う輩が今もいて、開いた口がふさがりませんでした(笑)。そういうやつばらこそ無言館さんに行って欲しいものです。
お次は『朝日新聞』さん。先月ご紹介した喜国雅彦氏著『今宵は誰と -小説の中の女たち-』が書評欄で取り上げられています。
(コミック)『今宵は誰と 小説の中の女たち』 喜国雅彦〈著〉 「妙にそそる」ヒロインが誘う読書
登場人物が実在の本について語る“書評マンガ”とでも呼ぶべきジャンルがある。その主人公たちは基本的に読書家だ。しかし、本作の主人公の場合はちょっと違う。
転勤で引っ越した日の夜、先住者が残していった文庫本を暇つぶしに読み始める。「小説なんて読むのは何年ぶりだっただろう」という非読書家の彼が、そこから読書にハマるのだ。その運命の一冊は、安部公房『砂の女』。シュールなストーリーもさることながら、「妙にそそる」ヒロインが彼を虜(とりこ)にしたのだった。
以降、川端康成『眠れる美女』、三島由紀夫『潮騒』、ツルゲーネフ『はつ恋』、S・キング『ミザリー』など内外の名作を読(よ)み漁(あさ)る。共通点は印象的な女性が登場すること。彼女らが読後の夢にも登場し、もうひとつの物語を描き出す。その妄想力は、フェティッシュな男女関係描写に長(た)けた作者ならでは。主人公が居酒屋で出会った本好きの女との関係も絶妙だ。
「これは……エロ小説じゃないか!!」といった主人公のピュアな感想、身もフタもないツッコミに苦笑する一方、太宰治『女生徒』をツイッターになぞらえるなど鋭い分析も。権威や世評に囚(とら)われない偏愛的読書ガイドである。